忙中閑あるかな? 黄紺の日々


トルコのこと、キプロスのこと、こんなことを主に、日々思うこと。ときどき、韓国のこと、 日本のことも混じるかも? 仕事に忙しくっても、頭のなかは、トルコのこと、キプロスのこと考えてる。 頭のなかは、いたって長閑。それが、、、、、、
黄紺、なのさ。



2016年 10月 8日(日)午後 9時 43分

 今日は二部制の日。昼間に浪曲を聴いて、夕方からは映画を観る日でした。まず、浪曲は、毎月恒例の「第280回一心寺門前浪曲寄席 10月公演」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。天中軒涼月(沢村さくら)「ああ、横綱玉の海」、春野冨美代(藤初雪)「梶川大力の粗忽」、五月一秀(沢村さくら)「小湊情話」、松浦四郎若(虹友美)「仙台の鬼夫婦」。今日は、またぞろ浪曲を聴きながら居眠り。1勝3敗で、まともに聴けたのは、トリの四郎若師だけという寂しさ。涼月さんの「玉の海」って聴いたことがないはずだったのに、無念なことになりました。ここで言う玉の海は、盲腸で亡くなったと言われているあの玉の海です。涼月さんによると、実際は、盲腸の手術は成功し、退院間近に、脚にできていた血栓が肺に飛び、それが原因だったとか。そないなお話を、マクラでされたものですから、俄然興味が湧いたのですが、角界に入るまでの前半が終わろうかというところで、ダウンしてしまいました。「梶川大力」は、わりと好きなネタ。台本がいいですからね。あの浅野内匠頭が刃傷に至ったとき、背後から止めた男です。このネタは、ときの老中が、曽我兄弟の物語を引き合いに出し、梶川を諌める物語になっています。そういった絡め手の筋立てがお気に入りなのですが、これまたダウン。最悪のダウンは、一秀さんの高座。一秀さんのネタも、聴いた記憶が残ってないだけに、どうしようもありません。幸い、四郎若師のところで、完全復帰。このネタは、奈々福さんが、よく出すネタなので、ポピュラーなネタかと思っていたところ、四郎若さんのお話だと、上方では、長谷川公子さんが、時々出されていたくらいと言われていました。かけ碁に興じる夫を諌めるために、剣術で打ちのめし、夫を剣術修業に出す話です。実は、恩返しという話が背後に隠されている痛快なネタです。女性の奈々福さんの口演に比べると、その痛快さが減じてしまうのは、致し方ないことですね。四郎若師、カンペを使っての口演に、申し開きをされていましたが、それで、新たなネタ開発に役立つなら、どんと大歓迎です。
 一心寺南会所を出ると、歩いて心斎橋シネマートへ移動。狙いの韓国映画「オペレーション・クロマイト」を観てまいりました。仁川上陸作戦を取り上げていること、そして、こういった映画にはお似合いの俳優イ・ジョンジェが出ているというのが、そそられた要因でした。ですが、途中から、そないに意気込んで観るほどではないことが判ってきて、頑張って二部制にするほどでなかったの結論を出しました。イ・ジョンジェを含めて8人のスパイが、仁川上陸作戦に先立ち、金日成統治下地域に潜入し、上陸作戦実行のための工作をするという物語です。ただ、その指令が、途中から判らなくなるのです。機雷配置の記された海図を取りに潜入したはずが、それが失敗に終わったあと、何をしようとしてるのか、今、どこにいて、人民軍は追いかけているはずだけど、どないな追求の仕方をしているのか、その辺りが判らなくなってしまい、映画の進行に困惑してしまいました。ですから、系統だった活動という感じもしませんし、国連軍との動きに連動しているのか、そのあたりも、よく掴めないでいると、終盤に入ると、直結しているような描き方になっていき、ここでも、また困惑です。総じて、そんなですから、送り込まれた8人のスパイと、それを撃退しようとする人民軍との争いという感じになってしまい、単なるスパイ映画、それも、あまりしっかりとした脚本とは言えないスパイ映画を観ている気分になってきて、外れ感が高まっていきました。ま、何から何まで当たりなんてことは、そうざらにあるわけではありませんから、チョイスした自分に八つ当たりするしかないですね。


2016年 10月 7日(土)午後 11時 15分

 今日は、ピッコロシアター文化セミナーで、春野恵子さんの講演を聴きに行ってまいりました。久しぶりに、尼崎方面に行くということで、ミニウォーキングも兼ねて、JR尼崎駅から歩いてピッコロシアターへ。でも、ちょっとだけ寄り道。近松記念館に行ってからピッコロシアターへ向かうことに。近松のお墓が、広済寺にあるということで、隣接する公園内に造られたミニ博物館、それが近松記念館でした。民間の施設で、地元の方が管理に当たられているという博物館。その管理に来られていた方に解説までしていただきました。そこから歩いて15分ほどで、ピッコロシアター。で、お目当ての講演は、題して「浪曲の魅力再発進!~世界を駆けるROKYOKU ROCK YOU~」というもの。聞き手は、元NHKエグゼクティブアナウンサーの村上信夫でした。恵子さんのお話は、何度か聴いていることもあり、初めてでない部分は僅かでしたが、それは想定内のこと。何か新しい情報は飛び出してこないか、最近の活動はどうかと、そないなことを聴きたくて行ったようなところです。「電波少年」のときの話がわりと詳しく聴けたのは、確かに収穫でしたが、演芸聴き歩きの話は、もうちょっと聴きたかったし、春野百合子との出逢い、思い入れも聴きたいところでした。そう言えば、あまり師匠の話を聴いてないことに気がつきました。ロック浪曲のことを聴けたのは、逆に収穫。浪曲は、いかんせんネタ数が少ないですから、足繁く浪曲会には通うべからずとしているため、密な情報に欠ける傾向がありますから、これは嬉しいところでした。途中、一風亭初月さんを呼び込んで、浪曲の解説まで入りました。対談相手は、恵子さんの指名だとか。これはいいですね。話が噛み合います。ということで、「ネタのたね」で見つけた好企画、十分に楽しませていただきました。
 ところで、今日から、今シーズンより新装なったベルリン国立歌劇場の狙いのチケットが発売となりました。時差の関係で、売り出し時間が、ピッコロからの帰りの時間に当たるというので、スマホを使い取りにかかったのですが、うっかり夏時間だということを失念していて、発売開始から遅れてのアクセス。なんと、600人待ちの表示。5秒ごとに更新なんていう表示が出ているのに、5秒ごとに画面が動かないから、これは書いてあることを理解し損ねていると勘違いしていたんですが、なんと、小さく出ている待ち人数が30秒弱ごとに動いているのに気づき、少しはずれているのですが、間違いなく更新していることを知り、待つこと1時間ほどで、ようやくアクセスできました。そして、かなり売れてはいましたが、バレンボイムの振る「ドイツ・レクイエム」のコンサートのチケットが取れました。この冬の大目玉ができました。


2016年 10月 7日(土)午前 6時 26分

 昨日も、シネヌーヴォで映画を観る日。「香港・マカオインディペント映画祭」の1つとして上映されている「香港傑作短編集」を観てまいりました。3本の短編映画が上映されたのですが、それらは、「九月二十八日・晴れ」「表象および意志としての雨」「遺棄」でした。3本は、全く別作品で、立て続けに3本連続上映されただけで、連関性はないものの、いずれも、遠い近いは別にして、2014年の反政府デモ、即ち雨傘運動と関連があると言えます。「九月二十八日・晴れ」は、老人用介護施設に、間もなく入ろうという父親を、娘が訪ねて来るところから始まります。娘は、雨傘運動のデモの合間に、父親と会う約束を果たすためにやってきたのでした。校長として生きてきた父親は、私人として父親らしいことをしてきたというわけではないこともあり、元気なところで将来の身の振り方を実践に移そうというわけです。社会人として生きてきた生き方を最後まで全うしようとしているように見えました。2人とも、雨傘運動に強い関心を持ち、娘は行動にも移しているわけですが、大状況を変えようかというデモの最中に、極めて個人的な父親と会うということをしているところに、古くて新しいテーマが見えてきますね。大状況と小状況の住み分けが行われているのです。父親の生き方を重ねていくのも、その住み分けの相似形を見せようということなのかもしれません。懐かしいテーマの映画を、今の香港の生々しい現実の中で見せてもらうことができました。「表象および意志としての雨」は、セミドキュメンタリーって言えばいいのでしょうか。フィクションなのか、フィクションだったら、どこまでが、ノンフィクションなのか、そないな境界があるのかないのか、あれば、どこに線引きをするのかが、観ている者をして混乱させる映画です。雨傘運動、一方で政府支援デモが組織されるなか、天候までが、政府機関により管理されているのではないかと、調査にあたる人たちを追いかけるというのが、この映画の進行となっています。その中で、そういった気候や天文を操作していると目される建造物のマークが始まります。ここまでは、大丈夫だったのですが、、、。この映画の結末部で、なぜか居眠り。前に座っていたお姉さんか、黄紺の膝に椅子をぶつけたために覚醒したときは、次の「遺棄」が始まっていました。とっても気になる結末が判らずじまいとは、悲しすぎます。「遺棄」も序盤が吹っ飛んでしまったため、筋立てを追えるか不安だったのですが、幸い、大丈夫でした。しかし、この映画はしんどい。雨傘運動のようなことが起こる根本原因は、香港で進む格差、貧困に苦しむ人たちの増大が背景にあるのでしょうが、その様子を、とってもリアルに描いていました。1人の男が自殺をします。シングル・ファーザーだったために、子どもの落ち着き先を決めねばなりません。この映画では、過去に遡り、父親が死に至る過程をフラッシュバックをさせつつ、一方で、残された息子の行方を追いかけていきます。自分の生活でいっぱいなのでしょうか、人のしんどさはイメージできない人たち、職務を全うしてはいても、おざなりな対応しかできない人たち、そのくせ、個人に埋没したかのように、他人に対するイマジネーションの欠ける人たちなどなど、何も政治だけが悪いのでなく、 人が他者に関心を払わず、自分の周辺のみを見続ける、過去の父親の行動、残された息子の周りは、そういった人たちが溢れています。辛うじて救いは、父親の職場の人ぐらいかな。僅かの救いを見せるのは、福祉事務所の女性の気づきと、息子を預かった叔父が、いなくなった息子を探すときの後悔ぐらいです。最後の晩餐となる父子の食事の場面は、あまりに 悲しく、息子が最後に発する言葉もそうです。絶望しか、行き着く先はないと思わせる映画です。人に見せたい映画ですね。重たいが、いい映画を観たと思える映画です。それにつけても、「傑作選」の名におじないいいものを集めたものだと思った3本でした。


2016年 10月 6日(金)午前 5時 52分

 昨日は二部制の日。昼間に、文楽劇場で公演記録観賞会に行き、夕方からは映画を観る日でした。まず、公演記録観賞会ですが、昨日は文楽。「曽根崎心中~生玉社前の段、天満屋の段、天神森の段~」が上映されました。2002年7月の公演で、極めつけという顔ぶれが揃った公演。徳兵衛が先代玉男、お初が簑助、天満屋の段が住太夫&錦糸のコンビというもの。簑助さんのお初が、今の簑助さんと違い、動きが大きく、ちょっとくさめに映るほど、瑞々しい。決して美声とは言えないと思っていた住太夫さんが、この声を聴くと、とんでもないと思ってしまうほど、伸びと艶があります。更に、気に入ったのは、錦糸の三味線。住太夫さんとのコンビで、幾度となく聴いてきた三味線なのに、これほど、澄んだきれいな音色は、ついぞ聴いたことのないもの。そして、天神森の段の太夫さんとして出てこられた咲太夫さんと千歳太夫さんの若々しい声も素晴らしいものがありました。最後の心中の場面はドキドキしてしまいました。そうはない経験です。いや~、いいものはいい、ホント、いいものを見せていただけました。
 文楽劇場を出ると、千日前のネットカフェで、短い時間調整。それから、ミニウォーキングを兼ねて、九条まで歩いて移動。シネヌーヴォでの「香港・マカオ インディペント映画祭」の1つとして上映されているマカオ映画「マカオの恋の物語」を観てまいりました。この映画は、6人の監督によるオムニバス映画。それぞれの映画には、連関性はなく、繋ぎとして、2人の男の対話が映るのですが、話の内容が抽象的過ぎて、よく解らずでしたから、あってもなかっても良さそうと、勝手に決めつけています。各映画は、題名に付けられているように男女の恋。それをテーマに、6つの短編映画が並んだと考えれば足るでしょう。「百年の孤独」は、同名の本を仲立ちにした高校生の淡い恋の思い出。通いそうでない恋が、実は通い合っていたというところでしょうか。「ジュヌ」は、恋をしたことのない女が、幼いときに恋心を持った男と再会し、更に、お誘いを受けていながら、どうしていいのか解らないという、ちょっと今どきのキャラにはない女の物語。「ソファ」は変な話。同棲している男女の家に、大きなソフアが入るまでを描いたもの。車に積んで、ソフアを持ち帰るときに起こった変な出来事が描かれます。ソフアが2人の愛のシンボルみたいに見えてきました。「ケーキ」も変な話。ガードマンをする男は、本土の地方から出てきた男。見るからに、融通のきかなさうな男なのですが、ちょっと柄に似合わなく、ケーキをよく食べる。それだけの映画かもしれません。最後に、「ケーキはあまり好きじゃない」「卵アレルギーがある」と、変なことを言い出すので、あれれと思っていると、ケーキを食べる訳が判ったところで、映画はおしまい。「感電」、これと最後の映画が、かなり変というか、難解というか、何もないかもしれないしと、そういった感じで、頭を捻ってしまいました。宇宙人っぽい女が、屋上に横たわっているところから、話は始まります。それを見つけた男は、屋上の一角にあるベランダに、その女を匿います。最後は、「ずっと匿まっておくのもなんだし」というテロップが出て終わるのですが、その女が姿を消すきっかけになるテレビとの対話が、黄紺には解らなかったところ。おちゃらけ的な会話で進みながら、映画の目指すところが解らないという情けないことになってしまいました。最後の物語は、英語の題名しか思い出せません。「Frozen World」です。幼い子ども時代の初恋の思い出を映像化しようとしたもの。リアリティを、敢えて飛ばそうとしているのか、非現実的な行動と思えるものが、ヴィジュアル化されている不思議の作品です。冒頭部と終結部に、「幼い頃の思い出は、現実と想像が混じり合っている」というナレーションが入ります。黄紺は、このナレーションを映像化したのかなの気分です。で、6つの作品で、何か共通のメッセージがあるのか、黄紺的には「ノー」だと思っています。途中から、黄紺的に「変な」という映画になってきますので、「もういいかな」と思ってしまいながら観ることになってしまいました。


2016年 10月 4日(水)午後 11時 26分

 今日は落語を聴く日。初めてスペース9での落語会に行くことにしました。今夜は、こちらで、「出丸・文華・雀太の月3落語会」がありました。東梅田教会で行われたときに、1度おじゃまをしていますから、今日で2回目となります。その番組は、次のようなものでした。染八「浮世床」、桂出丸「ふぐ鍋」、桂文華「厩火事」、桂雀太「百人坊主」。 今日は、前半がダメでした。染八は「浮世床」で「仕方ないかぁ」と思ったのがいけなかったのかな。主役の3人との結び付きなんてところで、染八との接点がイメージできなかったために、そのように思ってしまったのでしょう。なじみのないところでは、まず「浮世床」からというのが、実直なチョイスですが、染八では随分と聴いてしまっているのが、玉にキズです。出丸は、動楽亭昼席との掛け持ち。とっても効率的な移動。お客の中に1人だけ、同じコースを取られた方がおられました。マメな方がおられます。でも、もう「ふぐ鍋」が出る季節になったのですね。つい先日まで、「青菜」に次ぐ「青菜」でしたのにね。でも、初っぱなの「ふぐ鍋」は、半ばまでも持ちませんでした。文華の「厩火事」は、初めてだと思います。文華は、どんなネタを出しても、楽しませる術を心得ています。こういった色合いの明確なネタは、過剰にならないように配慮。そういった心得事にぬかりはありません。この文華の「厩火事」以上に期待を大きく持っていたのが、雀太の「百人坊主」。とにかく出ないのです。展開がおもしろい噺なのに、噺家に不人気なのか、単に長いからなのか、雀太以外で持ちネタにしているのは、塩鯛、出丸、それ以外では、思いつかないのです。東京では、伊勢参りでは遠いのか、「大山詣り」となり、まだ演じ手はいると思っているのですが、、、。黄紺が聴いた一之輔の池袋演芸場での真打ち披露公演のネタは、「大山詣り」でしたしね。雀太の口演は、もう10年ほど前でしょうか、1度聴いたことがあります。噺の展開がおもしろいですから、あまり雀太テイストを煮詰めるようなことをしてないのが、センスの良さだなぁと思いつつも、何やしら物足りなさが残ったのは、なぜなんでしょうか。雀太にしては、えらく平板な語り口との印象が残ったからかも知れません。源太を懲らしめる場面、源太が仕返しをする場面といった山場の緊迫感に問題があったのかもと思ったりしています。ただ、長い噺なので、熟成するために、そう幾度となき掛けにくいのが、この噺のキツいところですね。


2016年 10月 4日(水)午前 6時 51分

 昨日は二部制の日。午後に繁昌亭の昼席に行き、夜は講談を聴きに行ってまいりました。実は、繁昌亭の昼席に行くと、賢く、自宅に直行するとしていたのですが、最近になり、南斗くんの講談会の案内をもらい、そこで、黄紺が、まだ遭遇経験のない新しいプロレス講談を出すということを知り、どうしても外せない気になってしまったのでした。で、まず繁昌亭昼席ですが、昨日は、志ん輔が出るということでのチョイスでした。こういった風に、目玉になる噺家さんをきっかけにして、昼席を覗いていこうというのが、最近の黄紺のスタンスになっています。その番組は、次のようなものでした。小鯛「平林」、三幸「幸せの行方」、楽珍「島ちゅぬ唄」、豊来家一輝「太神楽」、鉄瓶「時うどん」、梅団治「佐々木裁き」、(中入り)、笑丸「宿替え」、志ん輔「紙入れ」、喜味家たまご「三味線放談」、雀三郎「素人浄瑠璃」。小鯛は、微妙なところで、まだ前座扱い。この金曜日の小鯛の代演が咲之輔で、2つ目が福丸なんて番組になっています。正に、小鯛を含めて、この3人は同期ですから、微妙な線引きがされていることが判ります。そないなキャリアですし、実績もある小鯛の前座は、もうご馳走ものでした。三幸が出てくると、ちょっとした物言いから、噺家でありそうで、そうじゃない喋りをするものですから、随分と雰囲気が変わります。おまけに、録音したものとの掛け合いなんて噺をするものですから、かなり目が点になるような口演ながら、昨日の客席は、よくついていっていたと思います。でも、息子に、彼女を薦める父親が、なぜ焼き芋屋なのか、その必然性が不明なままでした。楽珍も自作の噺。前にも1度聴いたことのある徳之島方言を駆使した作品。中学校で習った島唄の内容が、学校で教えるには相応しくないというのが可笑しい。徳之島弁の「色事根問」とともに、楽珍スペシャルです。鉄瓶の登場で、ようやく通常の昼席に戻ったのはいいのですが、刺激的な噺から普通に戻ると、昨日は、この鉄瓶と梅団治で居眠り。前の晩の睡眠状態で、ここまでもったことが、逆に不思議な感じ。やっぱ、三幸と楽珍の高座は刺激が強かったということでしょう。ただ、鉄瓶はまだしも、梅団治の「佐々木裁き」は、彼の襲名披露でのネタ。そのとき以来の遭遇だけに、残念としか言いようがありません。でも、居眠りという点では、昨日は8勝2敗と、かなり優秀。なんせ、中入り明けには、狙いの志ん輔登場が控えていたため、それが刺激を与えてくれていたものと思われます。笑丸の普通の落語は、実に久しぶり。でも、これが普通じゃない。奇声を、度々発するものですから、もう、これを落語と看るのはよそうの気分。不快感すら通り抜けていたのが良かったのか、完全覚醒で、志ん輔の登場を迎えることができました。志ん輔は、ひょっとしたらとは思っていたのですが、当たりました。繁昌亭初登場でした。志ん輔にしてそうなのかと思ったのですが、序盤は、落ち着かないのか、座布団の上で、何度も腰を浮かしていました。ネタは、嬉しい「紙入れ」。新吉を引っ張り込んだおかみさんが、その新吉に迫るところで、肩を揺らす仕草にはやられてしまいました。発する言葉では、さほど色をつけず、こないな手があったとは、です。もう、それを見れただけで、この昼席に行って正解でした。そして、トリは雀三郎。見台が出なかったものですから、「素人浄瑠璃」に焦点を絞ったら、あっさり正解と判明。今年は、雀三郎のこのネタを聴く機会が多いように思います。旦さんが、ごねてしまい、荒れるところのエネルギーがすごいです。70歳を前にして、このパワーを見せます、聴かせます。色物2人も良かったしと、昼席に満足。志ん輔のおかげで、その昼席に行けたのに、感謝です。
 繁昌亭を出ると、昨日は、扇町のネットカフェで時間調整。そして、ミニウォーキングを兼ねて、船場センタービルまで移動。こちらの船場寄席であった「南斗講談拳」に向かいました。その番組は、次のようなものでした。南斗「ブルドーザー・ブロディ物語」、福丸「金明竹」、南斗「加藤孫六 馬の出世」。以前、この会で入っていたゲストと南斗くんの「トーク」はなくなっていました。福丸&南斗って、どないな反応が起こるのかを観たかったのですが、外されてしまいました。昨日の狙いは「ブロディ物語」。南斗くんは、自作のプロレス講談を、幾つか発表していますが、その中の最新作だと思われ、狙いを定めたのでした。ただ、今までの新作ものを聴いて、題材選びの着想はいいのだけど、物語構成には、あまり満足できていないのです。おもしろそうな題材を選んでいると思います。本人もそう思っているはずですが、そのおもしろさを伝えるには、構成が、稚窟と言わざるをえないのです。ブルドーザー・ブロディだったら、黄紺でも知っているほど、日本で大旋風を巻き起こしたレスラーです。まず、そこんとこを再現して欲しかったな。黄紺は、事実なのかどうかは知らないのですが、南斗くんは、スタン・ハンセンとの交流を語っていました。でも、それはプライベートだけ。リング上での活躍は、ここでも、なんもなしでは、何で、このレスラーを取り上げるのか、その一番の根本が伝わらないのです。ブロディの死を語るときにも、リング上での強さ、荒々しさがあって、その意外性のある死が浮かび上がるのじゃないかな。それだけではなく、レスラーになるまでのキャリアからして、レスラーであるブルドーザー・ブロディの印象が入り込んでないと、全然おもしろくないと思うのですが。今までの新作の中でも、これが、一番の駄作かもしれませんね。「加藤孫六」の方は、「太閤記」からの抜き読み。秀吉の家来として名をはせる加藤孫六が、藤吉郎時代の秀吉に取り立てられところに、最後は連なる物語です。あまり聴いた記憶がないということは、さほどおもしろくないということかと思っていたら、やっぱりそうでした。ゲスト枠は福丸。昨今、幕内で大人気の「金明竹」に、またしても遭遇してしまいました。そう思うと、ダメですね。夜の居眠りは、福丸の口演の後半に出てしまいました。それにつけても、3席というのは物足りなさが残ってしまいます。


2016年 10月 2日(月)午後 11時 28分

 今日は、ツギハギ荘であった「あかねの部屋 ノッキンオン・師匠ズ・ドア」に行ってまいりました。落語作家のくまざわあかねさんが、毎回、ゲスト(今までは落語家・講釈師)を迎え、お二人のトークと、ゲストの1席が聴けるというもの。ゲストの人選が良く、とってもそそられる会なのですが、不思議と、黄紺の行けない日に設定されることが多く、今まで、花丸がゲストに迎えられたときだけ、おじゃまをしたことがあるというものでした。今回のゲスト吉の丞は、栄えある第1回のゲスト。くまざわさんに言わせると、「最初だったためペース配分が解らなかった」ということで、聴きたいことの半分ほどしか進まなかったということで、今日の第2回目が生まれたということで、最優先で行ってまいりました。吉の丞は、いろいろと聴くことが、きっと多かったのでしょうね。始まってから判ったのは、前回は入門するまでのお話だったようです。そのため、今日は、入門後、主に修業期間のお話となりました。例によって、中味は、その場にいた者だけが知ることができる特権的なもの。メモることはできません。トークのあとの1席は「餅屋問答」。以前に聴いたのと比べると、最近の吉の丞の口演で、よく看られる挿し込みが、ふんだんに入ってました。ときとして、過剰な感じすらするほどの挿し込みでした。次回のゲストは歌之助だとか。これまた、そそられるゲストなのですが、既に、黄紺が冬のオペラ紀行に旅立ったあとに開催されるようで、これでもかと言うほど、黄紺のスケジュールを外してくれる会です。


2016年 10月 1日(日)午後 9時 42分

 今日は、昼前に息子の家に行き、その足で大阪へ。百年長屋であった「真山隼人浪曲フルマラソン」の第2部「浪曲の小部屋その10」に行ってまいりました。1日で7席の口演を3部に分けての公演、黄紺は、体力に合わせて、第2部だけにおじゃまをしました。1つには、浪曲は、あまり詰めて聴くと、容易くネタがかぶってしまいますので、自分の体力に合わせるのが、頃加減かなと判断したこともあります。もちろん、隼人くんが7席ということは、曲師の沢村さくらさんも、それら7席全てにお付き合いされますから、こちらも体力勝負となってきたはずですが、黄紺の行った第2部の番組は、次のようなものでした。隼人(沢村さくら)「かんざし」「二人そば」「勧進帳」。ネタ下ろしとネタ下ろしに近いものをかけるのが、普段の「浪曲の小部屋」の主旨。「かんざし」は、この会で、1度かけたことのあるネタということでしたが、もう夏も終わっているのに、怪談調のネタ。言い交わした女が、家の都合で、その約束を反古にして、嫁いで行くのを前にして、男が女に贈ったかんざしには恨みが込められたのか、そのかんざしを持つ者に災いが降りかかるというもの。事故に遇ったり、躓いて骨折をしたりという災いなのが、何となく、聴いていて頼りない感じがしました。だからでしょうか、隼人くんが、演じ手のいないネタを掘り起こしたもの。「二人そば」は、ネタ出しなしで、今日に備えて、隼人くんの創作。「落語家さんにやっていただいたらいいネタ」と前置きをして、終わった途端、客席に、その同意を求める言葉をかけていました。ただ、肝心の中身は、すっかり居眠りで解っていないのが悲しいところ。「勧進帳」は、「真山のネタを基に作り直した」と言っていましたから、歌謡浪曲のネタを、自身で普通の浪曲仕様に作り替えたそうで、「おもしろい作業」とは言っていましたが、なかなか大変な作業。ネタの掘り起こし、新作、改作(それも歌謡浪曲から)、これらって、半端じゃできない作業です。テキストができても、そのあとに待っているのが、節付けなどという作業。ネタも、ですから、どんどんと増やしています。最近は、落語家さんとの交流も生まれ、活動の場を拡げているのも嬉しいことですね。「勧進帳」は、さすが講談ではないため、勧進帳を読み上げる場面はありませんでしたが、コンパクトに、安宅越えの物語をまとめたものになっていました。テキストには現れなかったのですが、富樫は感づいている風情。能のように、あとから富樫が酒樽を持って追いかけて来るとは、さすがしていませんでした。


2016年 9月 30日(土)午後 11時 11分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「ルクー室内楽全作品」演奏会の1つ。(チェロ)上森祥平、(ピアノ)多川響子で、「G.ルクー:チェロソナタ ヘ長調」1曲が演奏されました。若干19歳の作品とか。でも、24歳で亡くなったルクーにとっては、亡くなる僅か5年前の作品になってしまいます。なんて、濃厚な作品なのでしょう。フランクの弟子筋に当たるそうですが、この作品に限って言うと、ドイツ系の初期のシェーンブルクやツェムリンスキーに繋がりそうな印象。それを、チェロ1本で出してしまってました。ピアノの方は、濃密なチェロの奏でる音楽を支えるというよりか、際立つ対称点にあるかのような音を出しています。ですから、余計に、チェロの音が迫ってきます。そのピアノの切れが、頗るいい演奏だったために、チェロの濃密さが瑞々しさを増していたように思えます。上森さんのチェロは、初っぱなにくすんだというか、音が抜けないというか、そんなのを聴くと、やっぱ、上森さんのチェロは、この空間ではきついかと思ってしまったのですが、それは束の間のこと。多川さんの切れのある音に触発されたかのように、瞬く間に快調な音に変身。バイブレーションも流れに沿うように決まってくると、あとは、聴く者としては、音楽に身を委ねるだけ。カフェモンタージュで聴いた演奏会の中でも、今後、長く記憶に留まる演奏の1つになったことを請け合います。で、やはり元に戻って、ルクーの早逝は、返す返す惜しい話です。「ルクー室内楽全作品」の次回は、またしても、黄紺が、冬のオペラ紀行に旅立ったあとに予定されています。あまり聴く機会のないルクー作品だけに、ついてないこと、限りなしです。


2016年 9月 29日(金)午後 10時 47分

 今日は、動楽亭で講談を聴く日。今夜は「南湖の会 ~赤穂義士伝~」が、こちらでありました。その番組は、次のようなものでした。「鍋島騒動」「ジャズの天才 ローランド・カーク伝」「赤穂義士伝~神崎与五郎~」「さじ加減」。今日は、真ん中の2つで居眠り。両端は助かりました。「鍋島騒動」を、まともに聴けたのは、久しぶりのことですが、聴いてみると、あまり前進してないことを確認してしまいました。恨みをかう発端となる盲目の男を、碁の入れ違いから殺害。殺された男の母親が、異変に気づき、恨みを残し、いや、恨みを晴らすことを猫に託して自害、その血をなめる猫、果たして、その猫が巨大化して、即ち化け猫化して動き出す、ま、そないなお約束の道筋でした。新作「ジャズの天才、、、」は、思いがけないもの。開場されると、3世代ほど前の新橋辺りで聴こえてきそうな音楽が流れていたのが、この講談のための準備、雰囲気作りだったようです。南湖さんが、ジャズに詳しいと知らなかったため、チラシを見るまでは、そういった意味のあるBGMとすら思えなかった黄紺でした。そんなで、興趣が生まれたのですが、結果は残念なことになってしまいました。「赤穂義士伝」は、赤穂城明け渡しにつき、分配金の問題から話が始まったはずと思っていたら、いつの間にか、神崎与五郎の物語へ。そのわけすら定かでないほど、早々の居眠りでした。そして、ここで、短い休憩。「もう1つはおなじみのもの」ということで、南湖さんでも、もう随分と聴いている「さじ加減」でした。ただ、以前に聴いた南湖さんの口演と違い、えらくたくさん挿し込みが入っていました。街角にローソンがあったり、猫のたまが笑福亭になりかけたりと、いろいろとやってくれます。そんなで、今日は、2勝2敗というところでした。昨日より、ちょっとだけ勝率が上がりました。


2016年 9月 28日(木)午後 10時 30分

 今日は落語を聴く日。今夜は、北御堂津村別院であった「いつつぼし~美味しい落語、お届けします。」に行ってまいりました。北御堂で落語会に行くなんて、何年ぶりでしょうか。南御堂を含めても、そのあたりが、全く見当がつかないほどの久しぶりです。そして、福丸が音頭を取っているらしい「いつつぼし」という名のユニットの開く落語会に行くのは、全くの初めてのことになります。優々の落語は、動楽亭の昼席で聴くくらいの機会しかない黄紺にとって、あとの3人は、それぞれの勉強会には出かけることのある噺家さんたち。その中で、今日の狙いは紫の「鰻の幇間」。もう夏は終わっただろうという時候に、まだ聴いてなかった紫の口演に触れられるのは、やはりついているのでしょう。それを含めて、この会の番組は、次のようなものでした。全員「オープニング・美味しいトーク」、福丸「月並丁稚」、華紋「打飼盗人」、優々「鷺とり」、紫「鰻の幇間」。「オープニング」での話は、この会の会場問題。一定してないことについてでした。今後は、今日の北御堂と繁昌亭を交互に使うそうです。そして、気になっていたことが明らかになりました。確か、この会は5人でスタートしたはずだったと思っていたのですが、今は4人。そのわけは、至極簡単でした。抜けた噺家さんを聞いたら、呆気なく解決です。太遊が、その抜けた噺家さん。彼は、大分に拠点を移しましたからね。そんなで、すっきりしたところで、開演。ここまでは、今日は、何ら問題がなかったのですが、福丸の高座になり、落ち着いた喋りを聴いていると、明らかに危険信号が出始め、ついに、後半、あと3分どころで居眠り。ですから、丁稚が思い出すために、お尻をつねってもらう山場は、記憶には残りませんでした。次の華紋&優々は完落ち状態。今日も、出てしまいました。昨夜は、睡眠時間は、十分に取れていたのですが、ダメでした。優々が、普段は省いてしまう、後半の「えらいやっちゃ」の部分を省かない口演をしてくれていたのですが、ごく一部しか、頭に残っていません。今日は、昨日よりましだったのは、お目当ての紫の高座は、ばっちりだったということです。マクラで、幇間というものを、現代の職業で似かよったものを探すと、グルメリポーターになると、タレント時代の経験話をしてくれました。今日は、かなり秋らしい感じに入った日だったのですが、紫が扇子をあおぎ出すと、夏の暑さがよみがえってきました。ちょっと上目遣いで、嫌そうに太陽を見る目をされると、紫のぽちゃ顔に、汗がてかついていました。扇子の使い方も、ちょっとぞんざいにしているのが良くて、暑くて、集中力が落ちている風情。幇間は、かなり粗い口ぶりですから、野幇間の雰囲気を出そうとしているのは判るのですが、一方で、花街で働く人間のシャレっけみたいなものも欲しいですね。一方の騙す男ですが、こちらも、幇間が旦那にしようと思う風情も出してもらわないとダメなところです。軽い服装ながら、そういった風情がないと、この噺のテキストに合わないはずです。たかろうとする男に、たかりがいがありそうと思わせるものがないと、この噺は成立しないはずですからね。後半のバラシは、同じペースで進んでしまったかな。今日の紫の口演で、一番残念に思ったのは、ここだったかもしれません。いろいろと、勝手放題のことを書いてしまいましたが、結構、ここまで、このネタを喋る機会を持ってきたのじゃないかなぁ。いわゆる身体表現としての落語という観点から看ると、かなり入念な仕込みが行われており、それは、口演を重ねながら作り上げてきたなと思えるもので、練り上げを感じさせるものでした。もう、この時候ですから、今年は、聴く機会はないでしょうが、来年以降、夏になると、紫のこのネタを追いかけてみたくなりました。きっと、進化を見せているはずだと思ってしまうからです。


2016年 9月 27日(水)午後 10時 52分

 今日は、千日亭で講談を聴く日。今夜は、定例の「第242回旭堂南海の何回続く会?~太閤記」がありました。今夜は、「太閤記・姉川決戦(三)~遠藤・安養寺の忠節~」という副題が付いていました。だが、今日も、またしてもダメでした。いつも、千日亭に行くときは、天満橋から歩いて行くのですが、直で行くと、疲労で寝てしまうので、必ずネットカフェで休息を取ってから行くのですが、今日は、そのネットカフェで、既に居眠り。これで、目が覚めたのではなく、まだ眠り足りないままで、お時間になってしまったので、端からきついと思っていたら、思っていた通りに。せっかく快復気味だったのが、もとの黙阿弥です。


2016年 9月 26日(火)午後 11時 31分

 今日は、繁昌亭で落語を聴く日。繁昌亭が、昨夜の乙夜寄席から続いてしまいました。今夜の繁昌亭では、「月刊笑福亭たま 2017年9月号」が開かれました。ネタを見て、程よく間引きをしながら覗いている笑福亭たまの会です。その番組は、次のようなものでした。智丸「天狗刺し」、天使「十枚目」、全員「客席参加型トーク」、たま「兵庫船」「包丁」、(中入り)、三風「目指せ、ちょっと岳よ」、たま「新作ショート落語」「最後の晩餐」。開演前に、たまが幕前に出てきて、アンケートの回収。今日は、今まで2度行われてきた「寄席経営」について語り合う「トーク」を設けているための措置。その「トーク」用に、元繁昌亭スタッフだった天使と智丸を喚ぶという布陣での番組編成。智丸は、変わった噺を持っています。仁智一門会では、「有馬小便」を聴かせてくれましたし、今日は「天狗刺し」でした。最近でこそ、このネタを手がける若手の噺家さんが出てきていますが、かつては珍品の1つだったもの。でも、出てきたと言っても、持ちネタにしている噺家さんは少ないですが。「商売根問」風の序盤がアホげだけれど、落語的だし、それだけで引力を持っているところに、アホが、ホントに鞍馬へ出かけるものだから、更に引力が増していきます。そないに考えると、もっと演じ手が増えてもいいなと思ってしまいます。智丸は、こういった肩肘はらないお気楽な噺が合ってるのかなぁ。噺の力だけではない智丸の魅力で、笑いが生まれていたと思えました。天使は、「皿屋敷のスピンオフものです」と言って、ネタに突入。お菊さんに、十枚目の皿を持って行くと、幸運に恵まれるという俗説から、お菊詣が増えてくるというもの。時代設定を現代にしたため、お菊さんとの時代ギャップがおもしろくなるように作られているのも魅力。天使は、どんどんと、新しい着想が開花しているという印象。新作にも、その能力が高いことを証明してくれたかのような作品です。たまは、早くから手がけ、その新演出で注目した「兵庫船」から。問答を、半ばで切り上げたのは、時間のためか、それとも、たま流改変なのか、たまの「兵庫船」が久しぶりだったために、忘れてしまってました。「兵庫船」が終わると、一旦、幕内へと引き上げると、そこから、お囃子は「正札付」。次なる「包丁」が、円生得意ネタだったためのオマージュなのか。たまは、こういったことを、時々やって楽しんでいます。ならば、「包丁」の出所は、円生の音源ということになるのでしょうか。マクラでは、東京ネタと上方ネタの交流話をしてくれました。この「包丁」は東京ネタだと思われがちだけど、元来は上方ネタだと言われてますからね。このネタって、わりかしドタバタな噺なわけですから、たまのおもしろ落語にはお似合いのものだろうと思っていたのですが、そういった意味で、期待通りの口演だったと思います。がさつに、居直って行く、すると、下げが決まりますものね。ゲスト枠は、できちゃったの盟友三風。三風的には、最近、客席参加型落語より、この「ちょっと岳」と「農と言える日本」が鉄板化してきているような印象を持ってきています。大阪のおばちゃんと登山というミスマッチに、若い大学生が絡めたのが、この噺の成功の基。三風の非凡なところですね。最後は、この会に合わせた新作発表。「最後の晩餐」は、できちゃったで出したことのあるものの手直し版だと断ってから、ネタへ。ところが、今日は、この最後に来て、居眠りが発生。予感すらなく、眠ってしまってました。たまの新作発表で居眠りとは、前代未聞。重症化の一途です。相変わらず、入りが凄い。今日は、動楽亭のりょうばの会と二分して、この入りは凄いものがあります。


2016年 9月 26日(火)午前 6時 47分

 昨日は二部制の日。しかも、夜の二部制にしました。まず、映画を観たあと、久しぶりに、時間的に程よい繁昌亭夜席(乙夜夜席)に回りました。まず、居眠り続きの映画ですが、昨夜は、テアトル梅田で、スウェーデン&ノルウェー&デンマーク合作映画「サーミの血」を観てまいりました。ラップランドに住むサーミ人を扱った珍しい映画ということでのチョイスでした。居眠りしないか不安だった映画、でも、昨日は大丈夫、居眠りはしなかったのですが、開演30分ほど前に、急にお腹に異変が発生。幸い、映画館で、一旦、購入していた座席の変更に応じていただき、こちらも、不安を和やらげることができ、なんとか最後まで慌てることなく、観ることができました。映画の冒頭とラストに、1人の老婆が出てきます。長年会ってなかった妹の葬式の場面です。冒頭の方では、その葬式への列席に渋る老婆の姿が印象付けられ、その胸の内を観るかのように、この老婆の若かりし頃のエピソードが語られるのが、この映画の本体です。かなり、強烈なサーミ人に対する差別が描かれます。それは、対人的な関係性を規定する言葉であったり行為として現れてきます。それだけではなく、公的なサービス、見方にも、強烈に現れてきていました。サーミ人の子どもばかりを集めた学校では、スウェーデン語を強制する教育がなされ、上級学校への進学する道すら閉ざされています。サーミ人の標本集めをするシーンも描かれていました。顔の部位の長さを計測したり、裸の写真を撮ったりというところです。アイヌに対して、こういったことが、かつて行われていたなんてことを聴いたことがあるのですが、この映画では再現してくれていました。そして、標本収集をしたサーミ人の資料から、サーミ人は、スウェーデンの文化になじまないものとされ、市民の間に残る差別感情を扇ぐことになっていきます。そういった状況からの脱出を試みようとしては、差別や困難に遭遇するのが、老婆の若かりし頃の姿。一方で、彼女の中にある、サーミ人としての自分を消すことが賢明との気持ちが強まっていきます。しかし、同時に、消そうとしても、サーミ人であることに気づくスウェーデン人の姿も描かれていきます。上級学校に進んだのでしょう、彼女は教師としての人生を送ったようです。上級学校に入るための金を無心するために故郷に戻ったのを最後に、彼女は、全く故郷には戻っていなかったようです。その彼女が、妹の葬式に参列するために、初めて故郷に戻ったのが、冒頭のシーンであり、その続編として、ラストシーンが用意されていることになります。ラップランドの景色が素敵です。疾走したり、トナカイゴケを食べる放牧されているトナカイ。そないな風景が、近代主義にはそぐわないのでしょうね。それに気づくのに、人は大きな代償を払わねばならなかったということなのでしょう。対峙する人生を送ったこの映画の姉妹が、それを示してくれています。
 映画が終わると、歩いて繁昌亭へ移動。なかなか好メンバーが揃った今夜の乙夜夜席、番組は、次のようなものでした。二葉「道具屋」、染吉「禍は下」、雀五郎「素人浄瑠璃」。二葉は、初登場の乙夜夜席では「子ほめ」、そして、次は「道具屋」と、きっちりと前座ネタを追いかけています。ところが、その口演が、ちょっとだけ怪しいところが出てしまい、苦笑いをしての口演。でも、そないなことになっても、客席の二葉を見る目は暖かい。最後の笛のところで、客が値段を尋ねると、まさか買ってもらえると思ってない体で、びっくりする売り手。これやったの、二葉が初めてかも。思わぬ演出に、会場は大爆笑でした。染吉は、考えてきたマクラを喋りながら、噛む。でも、それをギャグにする余裕。そんなことを含めて、えらく落ち着いている。動楽亭の自分の勉強会ですら、緊張気味にマクラを喋る染吉を見てきているもので、そないな姿を見るだけで嬉しくなったのですが、勉強会を続けてきた成果が、こういった形で現れたなと思ってしまいました。ネタは、東京では「権助魚」といい、寄席では定番のもの。でも、上方では演じ手が少ない。米朝系の噺ながら、直系の人でも演じる噺家さんは稀れというもの。他門では、春若と染吉くらいかも。落語らしいネタなので、もっと演じ手が増えてもいいのにと思っています。そのらしさが通じて行くと、本妻さんが、定吉が持って帰って来た袴をくしゃくしゃにしただけで笑いが起こります。青白く筋を立てる本妻さんが、染吉に合っていることもあるのでしょうね。いいネタを持ったものです。染吉が下りたのが10時15分、映画も含めて、ここまでしゃっきりともちました。居眠りを続けてきた黄紺でしたが、夜も遅くなったこともあり、ついに雀五郎の高座で、力尽きてしまいました。完落ちではなかったので、特に半ば以後、とっても受けていたのは、しっかりと記憶に留まってはいるのですが、鑑賞に耐える体力は残ってなかったようで、そこまでが精一杯でした。ネタは、「寝床」の後半がカットされたものでした。帰りは、乙夜寄席の帰りとしては珍しく、その日の内に帰ることができました。公演時間がほぼ1時間だったからでしょう。その日の内に帰れれば、もっと乙夜寄席に足は向いてしまいますね。


2016年 9月 24日(日)午後 10時 40分

 今日は、映画のハシゴをするつもりだった日。でも、京阪電車の著しい遅延のため、1本を諦め、夜に観るつもりにしていた映画だけを観ることになりました。それにしても、最近の京阪電車は遅延続き。今日は、どういった事情かは不明なのですが、「線路内に人が立ち入った」からと、構内放送で説明がありましたが。でも、調べてみると、観ることが叶わなかった映画は、来週にも続映されるようなので、ホッとしました。そないに言うほどの思い入れがあるわけではないのですが、、、。で、今日観ることができたのは、シネヌーヴォでのアメリカ・リベリア合作映画「リベリアの白い血」。合作であっても、アメリカ映画を、映画館で観るのは、20年以上なかったことです。この映画は、移民を扱った映画ということでのチョイスでした。ヨーロッパの移民や難民をテーマにした映画は、さほど目新しいことがない時代ですが、アメリカへの移民って、あまりにも今更ながらのテーマですので、却って、黄紺の胸をくすぐったというわけでした。でも、また居眠りが発生。これで、映画は2連敗になります。予告編を入れて、1時間半の映画の内、1時間以上、眠っていたようです。夜、眠っていても、1時間おきに、目が覚めることもままあるのですが、映画だと、何とよく眠れるのでしょう。序盤、主人公の男が、リベリアのゴム農園で働く姿が映ってたのは覚えているのですが、気がつくと、舞台はニューヨークに。でも、気がついたのも一瞬で、ようやく本格的に覚醒したときには、さっぱり筋立てが判らなくなっていました。こんなことが起こっているにも拘わらず、明日も、予定は映画となっています。こんなでは、いくら良さげな映画を見つけても、全く意味がありません。


2016年 9月 23日(土)午後 10時 45分

 今日は動楽亭で落語を聴く日。今夜は、こちらで「吉の丞進学塾 vol.24」がありました。その番組は、次のようなものでした。文五郎「青菜」、吉の丞「転宅」、(中入り)、菊丸「貢ぐ女」、吉の丞「算段の平兵衞」。文五郎は、以前、出番を頼んでいたところ、骨折で出演できなかったため、再度の出番依頼だったとか。ネタは、先日の文五郎自身の会で出した「青菜」でした。前座さんのネタがかぶるのは、致し方ありません。今日は、目力が功を奏し、先日より多くの笑いを得ていたと思います。吉の丞の1つ目は、何度目かになる「転宅」。盗人ネタの得意な三喬からもらったものとか。後半に入り、盗人のアホさが明らかになりますが、この三喬テイストの「転宅」では、前半のやりとりで、盗人のキャラにアホげなところを、頑張って盛り込もうとしているところが特徴じゃないかな。冒頭の異様な唸り声で、一挙に、そないなキャラを表す濃いものが出てきますものね。 今日の吉の丞の口演では、更に、地噺風に、時事ネタを挿し込み、また、それが不自然感を呼び起こさないため、笑いを取るのに、大きく貢献。このあたりの手際が、鮮やかになってきているところに、今日一番の進化を看た気がしました。菊丸が、こういった落語会でゲスト枠で出るのは珍しい。黄紺的には、菊丸襲名後よりも、染弥時代の軽めの噺の方が合っていると思っているため、余計に遭遇機会が減っています。そんなですから、今日は、どのようなネタ選びをするのかと思っていたところ、マクラの最後に、「染丸の噺を」なんて、わざわざ断ったため、瞬間、「じゃないぞ」と思ったら、それが当たりでした。染弥時代に創った新作だったのです。実に久しぶりに聴きました。主役の若い女と、その若い彼氏の表現が、以前に比べて過剰になっていて、やはり、こういった軽さが、菊丸には合っているのにと、前から感じていたことを、結果として確認することになってしまいました。吉の丞の「算段の平兵衞」はネタ下ろし。吉の丞も、マクラの冒頭で、このことに触れていましたが、上方落語の中でも代表的な田舎の噺であると同時に、珍しいピカレスクもの。やはり、平兵衛のような人物は、都会向きではありません。平兵衛のような悪漢は、都会に住んでいたなら、もっと他の手段で、金を手に入れているはずと思ってしまうのです。ということは、農村の空気、しかも、明るい農村ではなく、木立の多い「陰」の文字が当てはまりそうな農村を、イメージしてしまいますから、そういった空気の出る口演を求めてしまいます。若かりし可朝は、粗野な口ぶりで、見事に、この噺の世界、空気を出していました。その強烈な印象が耳に残っているために、一方で、黄紺の耳は融通が効かなくなっているかもしれません。敢えて、それを承知で感想を書くと、今日の吉の丞の口演は物足りなかったのです。あまり陰のイメージが先行する農村ではなかったですね。ちょっと噺が流れすぎたのかなぁ。平兵衛の悪漢ぶりも、ちょっとおとなしめに見えるから、不思議です。死体に踊らせる場面も、リアリティに欠けてましたしね。大体、盆踊りに紛れ込む場面が、あっさりとしすぎました。そんなで、今後の進化に期待することにしましょう。お庄屋さんの件が済んだあと、直ぐに切らずに、按摩の徳の市が、それとなく、平兵衛を強請にかかるところに入ったため、これは、下げまで行くのかと、色めきたったのですが、ダメでした。「下げが差別語になるので、ここまでにします」ということでした。残念。


2016年 9月 22日(金)午後 10時 35分

 今日は落語&漫才を聴く日。ツギハギ荘であった「ねこまんま定食 追加公演」に行ってまいりました。南天と雀喜の漫才コンビ「ねこまんま」が、本職の落語と漫才を披露する会。大変な人気で、会の存在を知らなかった黄紺が、それを知ったときには、本来の会が完売したことを告知していました。幸い、同時に、その告知では、「追加公演」の開催が記されていましたので、慌てて申し込んで、セーフとなった次第です。端から、ツギハギ荘で開くと、大変なことになるのが見えてなかったのかなぁと思ってしまいました。で、その番組は、次のようなものでした。雀喜「終活のススメ」、南天「死神」、(中入り)、ねこまんま「漫才」。落語2席ということで、2人とも、たっぷりめのマクラに、長めのネタ。雀喜は、幻の兄弟子又三郎さんとの九州旅行などのお話しをしてくれました。ネタは、エンディングノートを認める夫と、それを、傍らで見る妻の会話で進みました。「客寄席熊猫」で聴いたことのあるネタ。こないに長かったっけと思ったってことは、手入れをしたのかな。南天の「死神」は初遭遇。死神に遭遇するのは幇間。こういう設定って、寡聞にして知りませんでしたが、南天のオリジナルだったのでしょうか。冒頭、主役の幇間が師匠をしくじるところから始まります。しくじって途方に暮れていると、死神が現れるというわけですが、主役の男を幇間にする必然性は感じませんでした。ですから、余計に、そういった型があるのかと思ってしまっています。あとは、流れは同じですが、下げは、男が入れ替えた男の命を表す長い蝋燭で、自分の消えかかっている蝋燭に火をうつそうとすると、死神が吹いて消してしまうというもので、死神が裏切られたからやったととれるもので、そういった意味で合理性があるのかと思いました。ま、ここは、いろいろな下げが存在するところなので、そのときおりの工夫を楽しめばいいのかなと思います。それにつけても、南天の死神がいいですね。陽のお喋りには定評のある南天ですが、こうした陰のキャラも楽しませてくれるのだったら、今まで想像だにしなかった噺の領域にも入っていけそうです。やっぱ、凄い人材です。中入りは、舞台直しと衣装替えのため。漫才用の衣装は、赤いジャケットに白いズボン、それに蝶ネクタイと、一式、漫才用の衣装が揃っていました。ネタは、彦八まつりを扱ったもの。上方落語協会非会員の南天が、好きなようにボケ易いネタと言えばネタですね。ということで、「追加公演」まで出た会は、お賑やかに終了。たまには、「ねこまんま」を看板に掲げた会、これからも開いて欲しいですね。満足感の高い会でした。


2016年 9月 21日(木)午後 11時 21分

 今日は、高津神社で落語を聴く日。今夜は、高津の富亭の方で、「出丸・文華・雀太の月3落語会」がありました。場所の定まらない会ですが、東梅田教会のときに1度行っていますので、今日で2度目のおじゃまとなりました。その番組は、次のようなものでした。弥っこ「代脈」、雀太「猫の災難」、出丸「持参金」、文華「口入屋」。今日も、居眠りに悩まされてしまいました。今日は、そこそこの睡眠時間が確保されているにも拘わらず、午前中より、やたら眠たく、それが続いてしまったという感じで、不調が続いています。「口入屋」が沈没状態で、あとの3人の口演も、終盤になると居眠りをしてしまってました。噺がつまらないとか、そないなこととは無縁で、眠いという感覚のないような居眠りと言ってもいいかもしれません。そこで、ちょっとした心覚えのためのメモだけを残しておきたいと思います。弥っこは、「代脈」に凝っているみたい。年季明けご褒美の出番が続くなか、よく遭遇する弥っこですが、先日遭遇したときも、「代脈」だったはずですが、この「代脈」が、なかなかいいのです。代脈を仕向けられた上気した気分が、とっても、よく出ているのです。それで、スカタンをするおもしろ噺にはできても、そのベースになる気分の表現まではと思うところ、それをやっちゃう弥っこの今後に期待が生まれます。雀太の「猫の災難」が、本日の最大の狙い。猫好きの人たちが集まるイベントで、猫の出てくる噺を頼まれたときに、持ちネタにしたそうです。オファーを受けたとき、ネタ選びに戸惑ったというマクラが傑作。「猫をかじる噺や、ろくな噺しかない」に、会場は大爆笑でした。ネタに入るや、「パパリコシャンシャン」というお得意のフレーズが飛び出し、一気に雀太の世界に突入しました。テキスト的には、変化があったわけではないと思うのですが、、、。これは、もちろん断言できないわけですが、やはり、聴きものは酔いっぷり。それに、酔っぱらいの勝手な物言いを被せるのが、ますます雀太ワールドを拡げていってました。出丸は、「持参金」を、あまり口演してない模様。この会では、普段、あまり口演しないネタを取り上げていることを断ってからの口演でした。マクラでは、「女性の扱いに不快感を持たれる人もおられる」ということも言ってました。それを言い出したら、笑えない噺ですが、現代の感性を、噺の中に持ち込むことには、抵抗を感じもします。廓噺に抵抗を示すのも、同様の感性なのかなぁと思ったりしました。久しぶりの口演ということが頭を占めたからか、スムーズな口演じゃないかと思ってしまいましたが、、、。但し、終盤前までですが。最近、文華の口演を聴く機会が、以前に比べて減っているので、本日2つ目の狙いだったのですが、あえない沈没でした。もう、げんなりです。


2016年 9月 20日(水)午後 11時 17分

 今日も、カフェモンタージュで、モーツァルトを聴く日。今夜は、「W.A.モーツァルト― episode 5 - Wien 1787-88 ―」と題して、次の曲が演奏されました。演奏は、昨日に続き、(ヴァイオリン)上里はな子、(ピアノ)松本和将のお二人でした。「ヴァイオリンソナタ ハ長調 K.404」「ロンド イ短調 K.511」「ヴァイオリンソナタ イ長調 K.526」「ヴァイオリンソナタ ヘ長調 K.547」。K.526はいいとして、K.404は、あっと言う間に終わってしまうレアな曲。K.547も、オーナー氏の解説だと、初心者向けの曲として書かれたものだから、K.526とは、かなり趣を異にしたもの。そうだからと言って、らしさを失わないのがモーツァルト。でも、今日のプログラムの中心はK.526であることは、間違いありません。ロマン派のヴァイオリン・ソナタを先取りしたかのような濃密な曲。それに、ピアノ曲が1つ挟まり、プログラムが組まれたのはいいのですが、コンサートでも居眠りが発生。二度寝ができていないと、開演時間の午後8時って、かなり厳しいですね。もう、お眠りする時間ですものね。そんなで、自身の不調で、気がつくと、このシリーズが終わっていました。演奏されたお二人と、オーナー氏は、また、新たなコンサートを画策されているようですので、企画の発表を、首を長くして待つことにしましょう。


2016年 9月 20日(水)午前 8時 39分

 昨日は、台風のなせる業で音楽三昧の日。朝から、なんばシネパークスで、メトロポリタンのライブビューイングを観て、夜には、カフェモンタージュのコンサートに行ってまいりました。実は、この連休を利用して、ライブビューイングを観ることにしていたのですが、台風のため、福井からやって来る高校時代の友人が躊躇うことになり、安全だろうと考えられる昨日に変更したため、それに合わせて、黄紺もスライドさせたというわけです。おかげで、行くことは叶わないかもと思っていた生寿の会と染左の会に行くことができました。で、昨日のライブビューイングは、過去の上映作品の再上映シリーズの1つでした。黄紺は、ドイツ&タイ旅行をしている間に、ライブビューイングの上映があり行けてなかったもので、友人も、都合で観てなかった「R・シュトラウス《ばらの騎士》」でした。このプロダクションは、昨シーズンのプレミアで、且つ、ロバート・カーセンのプロダクションということで、昨シーズンのライブビューイングの目玉的な上映作品だったのですが、うっかり上映日程を失念していて、旅行日程を組んでしまったのでした。ロバート・カーセンものということからでしょうか、メトロポリタンのライブビューイングからは卒業したと考えられていたルネ・フレミングが侯爵夫人を歌い、その若い恋人オクタヴィアンをエリーナ・ガランチャが歌うというものですので、朝が、まるで弱くなっているにも拘わらず、外すことができなかったのです。なお、その他の配役などを記しておくと、次のような布陣となっていました。(オックス男爵)ギュンター・グロイスベック、(ゾフィー)エリン・モーリー、(ファーニナル)マーカス・ブルック、(歌手)マシュー・ポレンザーニ、(指揮)セバスティアン・ヴァイグレ。時代設定を、第1次世界大戦期に置き、男性の主要登場人物は軍服を着用、正に崩れなんとするハプスブルク帝国と共に運命をともにする貴族たちの世界、その内実は困窮を極めているのか、オックス男爵などは、そのために、成り上がり貴族のファニナルの娘との結婚を画策しているように見えるのですが、体に染み付いた貴族根性なるものが、この物語の展開を予期しているようです。その貴族根性に、世紀末の爛れた文化が重なるかのような第3幕。そこで、オックス男爵を懲らしめるために、オクタヴィアンが練った策が実行されるのが娼婦館。ですから女装するオクタヴィアンも娼婦の姿で現れるといった大胆な光景を観ることができました。そないな装置を使ったものですから、壁に埋め込んだベッドが出てくるという仕掛けで、大きく、見場のするものが、途中から、舞台を占めてしまうからでしょうか、極上の二重唱の1つ目から、そのベッドの上で歌われ、マルシャリンとファニナルが現れても、2人は、お構いなく、ベッドで抱き合っているという演出が採られたものですから、マルシャリンとオクタヴィアンの別れが、そこで、設定されるということはありませんでした。マルシャリンとゾフィーの間で途方に暮れたオクタヴィアンの姿は、もう、そこには、微塵もありませんでした。そうなのかもしれないけど、、、黄紺的には、ちょっと寂しさが込み上げてきました。執着心や引きずるとか言った言葉で表される人間の感情表現の違いってやつでしょうか、黄紺には戸惑いが残るばかりです。オクタヴィアンとゾフィーの関係を表すのに、ベッドが使われたのは、ドルトムントで観たジャン・ダニエル・ヘルツォークのプロダクション以来。あのプロダクションで、ベッドが登場したのは、最後のデュエットの2回目だっただけで、ちょっとと突っ込んでしまったものですが、今日などは、もう、3幕が始まった段階で、娼婦館なもので、最後に至っては、もう、その光景に慣れてしまっているようで、ドルトムントでは批判的に観た場面を、すんなりと受け入れてしまってました。そういった意味で、オペラ全体の中で、マルシャリンの位置というものが軽くなり、老いの寂しさというよりか、全て引っくるめた時代の終わりという、小状況より大状況に目が行くようになってしまいました。そないなことを考えると、ロバート・カーセンの術中にはまったのかなと思っています。歌手陣は、主役4人が、素晴らしい出来栄え。ルネ・フレミングもガランチャも、このプロダクションを最後に、それぞれの役を卒業すると言ってました。ルネ・フレミングは年齢のこともあるでしょうが、ガランチャは、ズボン役自体をしないという衝撃的なことを言っていました。ということは、黄紺は、ベルリンで、ガランチャのオクタヴィアンを観ていますから、大変な財産ができてしまったことになります。ギュンター・グロイスベックは、名前は聞いていたことは事実ですが、ここまで動けるとはと、嬉しいびっくりでた。エリン・モーリーは、その名をすら知らなかったのですが、美しい声にうっとり。正に、ゾフィーむきの声でした。歌手が揃い、演出が通り一遍でないと、オペラはおもしろい。ただ、残念だったのは、なんぱシネパークスの音響設備が良くないのか、オケのような、しかも、R・シュトラウスのようなオーケストレーションには耐えかねるというものだったのが惜しまれ、指揮者の力量などを推し量るのに無理があったように思われました。それにつけても、人気の歌手、人気の演目だったからかもしれませんが、平日の朝にして、しかも再上映にも拘わらず、多くの客が詰めかけていたのには、友人ともども、目を白黒というところでした。
 オペラが終わると、友人と遅めの昼食とお茶。福井へ帰る友人と別れ、一路、京都へ。大移動ですが、仕方ありません。今夜のカフェモンタージュでは、「W.A.モーツァルト― episode 1 - Mannheim ―」と題したコンサートがありました。ヴァイオリンの上里はな子さんとピアノの松本和将さんとで続けられてきた、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ・シリーズです。今日演奏されたのは、当然、いずれもW.A.モーツァルトの作品で、以下のプログラムとなりました。「ヴァイオリンソナタ 変ホ長調 K.302」「ヴァイオリンソナタ ハ長調 K.303」「ピアノソナタ ハ長調 K.309」 「ヴァイオリンソナタ イ長調 K.305」。熟達期に差し掛かったモーツァルトの成長、変化というものを、よりクリアに知ってもらいたいとのオーナー氏の着想により、熟達期初期の作品と後期の作品を、敢えて2日連続で聴かせようとのプログラミング。いつも変わらぬ、嬉しいカフェモンタージュです。上里さんのモーツァルトは、優しい、そして美しい音色、それに、今日は、今一つのコケティッシュさが欲しいと思わせられた松本さんのピアノ。曲の合間に、声にならないアイコンタクトの、お二人の会話に、さすがに、オーナー氏は、解説が必要と判断され、演奏が終わり、控え室に、お二人が引き上げられると、「お二人はご夫婦です」と、ちょっと蛇足気味のお話し。いえいえ、蛇足とは、知っている者への言葉。そういった柔らかな雰囲気の中で聴くモーツァルトって、やっぱりいいですね。あと、もう1日、その雰囲気に浸れる嬉しさよ、です。


2016年 9月 18日(月)午後 10時 21分

 今日は、いろいろと変化ののち、わけあって二部制の日。午後に落語を聴いて、夜は映画を観る日に当てました。午後の落語は、千日亭であった「染左百席 千日快方」。毎月続いている会に行けないかと思っていたのですが、台風のおかげで行くことができました。その番組は、次のようなものでした。染左「やかん」、眞「次の御用日」、染左「しびんの花活け」、(中入り)、染左「試し酒」。休日の昼間ということで、開場前から待つ人が10人以上も。最終的にも、千日亭が満員になりました。動員力に波のある会ですが、今日は、上々の入りとなりました。染左は、上がるや否や、お詫びから。用意したプログラムを家に忘れてきたということですが、その忘れてきたことを、笑いのネタにするなんて、もう立派なベテランです。「やかん」は、東京ではありふれたネタですが、上方では、染左が早くから手がけていたもの。最近では、小鯛が、よく出すもので、染左の影が薄くなっていますが、考えたら、このネタを持っている噺家さんが思い浮かびません。根問から始まり、終盤は、講談の修羅場読み風になる変化がありますが、今日の染左は、あとの「試し酒」に、精力を注いだのか、ちょっと口演に怪しげなところが出てしまいました。ま、3席もお喋りをすれば、そないなことも出てくるのかもしれませんね。ゲスト枠は真。この夏、いろんなところで、「次の御用日」を出していたようでしたので、1度聴いてみたかったのですが、際どく季節の替わり目に聴くことができたのはいいのですが、あまりにも平板過ぎて、感想も書き辛いものがあります。「次の御用日」は、切りネタと言っていいネタです。黄紺などは、最も夏らしいネタだと思っています。やっぱ、大ネタに急がず、夏の風情を出すネタを、しっかりと勉強してから、このネタに挑んで欲しいなと思いました。急がば回れです。「しびんの花活け」は、今となっては珍品の部類でしょう。先代歌之助が亡くなってからは、生喬と染左でしか聴いた記憶はないのですから。染左は、わりかし若い頃から手がけていたのですが、実際の口演に接するのは久しぶりです。侍の位とか、難しいことを言わず、ネタがネタですから、リラックスして聴けるものにして欲しいですよね。漫画チックにデフォルメしたりで。そういった意味では、ちょっと硬かったかな。最後の「試し酒」は、染左では初もの。また、これが良かった。ちょっと染左の人に合わないかもと思ってただけに、余計に良く感じたかもしれません。酒を呑むことになる下男の名前は杢兵衛となってましたが、この杢兵衛の本性を、かなり荒っぽい人物に設定し、それを巧みに表しえたのではないかと思います。杢兵衛さん、いろいろとお喋りしながら呑みますが、2升目で酒の謂れが入り、3升目で都々逸が入るというもの。4升目は、主人2人に、軽く悪態をつき、5升目は、えづきながら、辛うじて呑み上げるというもので、塩鯛の口演に看られるような、主人2人からの呑みっぷりに関する描写だけで、1升分呑むというのは入っていませんでした。鶴志の「試し酒」のテキストは覚えていませんから、染左の口演の出所は判りませんが、ひょっとしたら、またまた、染丸からなんてこともあるのかもしれませんね。なんせ、染丸は、自身で口演しなくても、たくさんのネタを持っていると言われていますから。
 落語会が終わると、千日前のネットカフェで時間調整。そして、夜は、心斎橋シネマートで、ベトナム映画「草原に黄色い花を見つける」を観てまいりました。10歳前と後という2人の兄弟の物語と言えばいいでしょうか。テーマは、ずばり兄の恋煩い。恋をした相手は、近所に住む女の子。その女の子の家が火事になり、父親は病気、母親は、その看病にと町に出てしまったので、女の子は、兄弟の家が預かることに。女の子は、恥ずかしいのか、弟とばかり遊ぶことに。その意味が解らない兄は、弟の可愛がっていたカエルが、他所の人が、食用に持ち帰るのを黙認したり、女の子が、両親と合流するために村を去る直前に、棒切れで叩いたために、弟は歩けなくなってしまう。貧乏な家庭なため、町に連れて行って病院に入れることができないため、家で養生をする弟、それを看病する兄。そういったときに、弟が不思議なことを言い出し、その度に、徐々に快復の兆しを見せ出します。不思議なこと、それは、村に伝わる言い伝えに出てくる姫を名乗る女が現れたというのでした。弟の言うことが、満更作り事ではなさそうだと気づいた兄は、姫が残した花びらを追いかけ出し、ラストに向かっていきます。1989年という年に舞台設定、丁度、ドイモイ政策が緒についた時期ですから、ヴァナキュラーな世界が、色濃く残る時期ということになります。緑が美しい素敵なベトナムの田園風景を背景に、まるで一服のメルヘンのような物語が展開します。こんな映画、多くの人に観て欲しいなと思ったお薦め作品です。


2016年 9月 18日(月)午前 5時 32分

 台風が接近しているなか、昨日も落語を聴く日。昨日は、八聖亭であった「第8回生寿の真っ向勝負」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。弥太郎「ちりとてちん」、生寿「蛇含草」、宗助「抜け雀」、(中入り)、生寿「秋刀魚芝居」、全員「座談会」。昨日も、会場に到着すると、えらく眠い。確かに、昨日も、二度寝ができなかったのだけれど、それまでの睡眠時間が、わりと取れているのにと思ってはいたのですが、眠いのには変わりはないので、またかと思っていると、弥太郎の高座では、確かにボーッとしたままだったのですが、昨日の本体の2人の口演を聴くには、ほぼ障りは出ませんでした。但し、ほぼでしたが。弥太郎の口演では、今まで聴いてきた口演に比べると、起伏が大きくなっているのは押さえることができました。最近、遭遇機会が減っていると思っていたら、下の弥っこが年季明けをしてしまったため、仕事が、そちらにシフトしているようです。主役の生寿は、高座に上がるなり、えらくテンションが高い。大体、テンションの高めのマクラを喋る人ですが、昨日は、一層高め。自身が言うように、またしても、自分の会が台風とバッティングしたためか、ゲストに宗助を招くことができたからか、東京や奈良を巡る旅に追われていたからか、、、よく判りませんが、とにかくテンションが高い。おかげで、いつも以上の楽しいマクラを聴くことができたのかもしれません。ネタは「蛇含草」。過ぎ行く夏に、ちょっと乗り遅れたかというチョイス。今年は、8月末から、朝夕、急に気温が下がったもので、こういった夏の噺に愛おしさを感じてしまいました。願わくは、もうちょっと、気温も湿度も上げて欲しかったなという口演でした。宗助のゲストというのは珍しい。最近では、小鯛の会であったように記憶している程度です。冒頭で、ネタに関係ない傑作な小咄を披露。それから、鑑定団の話題に入っていったものですから、完全に「はてなの茶碗」だと思っていると、いきなり「東海道は、、、」ときたものですから、びっくり。もう安定感抜群の口演に、うっとりでした。中入り後に上がった生寿などは、「宗助師匠のあとに出るなんて、、、」などという言い方をしていたくらいでした。その生寿は、今度は秋の噺。「八聖亭で喋るのは最後になりそうなので、ここで喋っておきたかった噺をします」と言って始めたのが「秋刀魚芝居」。文我からもらった噺です。文我が手入れをしたのでしょうね、くすぐりに、更におなごしの物言いにと、文我テイストの詰まった噺です。芝居噺コレクターになっている、また、それがいいところの生寿の口演ですが、肝心の芝居が入ってくるところで、生寿に、もう少しドスの効いた声が出るといいのですが、、、。でも、たっぷりと、秋刀魚の臭いが出ていたと思いますよ。となると、文我テイストの詰まったおなごしの物言いが、功を奏してるのかなぁなんて考えてしまいました。最後は、3人でお喋り。宗助が喋ってくれた米朝のお酒の飲み方、お酒の相手をする弟子たち、そこに、ちょこっと挟まれた生寿による笑福亭の様子が、もう抱腹絶倒。台風の行方を気にしていると言いながら、たっぷりと聴かせてもらえました。台風のため、客席は、ちょっと寂しいものがありましたが、とってもグレードが高く、楽しい会だったと思います。外に出ると、多少は風が出ていましたが、雨は降ってなかったもので、梅田から扇町を迂回してから淀屋橋に至るコースで、1時間余りのウォーキングをしてから、帰途に着きました。


2016年 9月 16日(土)午後 11時 39分

 台風が接近するなか、かなり強い雨の降る1日、今日は二部制の日としました。午後に民博へ行き、講演を聴き、夜は、高津神社での落語会に行ってまいりました。午後の民博では、ちょっと間が開いたのですが、「みんぱくゼミナール」のある日だったのです。今日は、「多文化主義の国カナダにおける先住民文化」と題したお話がありました。お話は、同館教授の岸上伸啓さんでした。今年は、カナダ建国150年だそうで、それに合わせたものかどうかは知りませんが、ここで「先住民」として表されているものは、当然「インディアン」(現在は「ファーストネーション」と言うそうです)も含まれるわけですが、講師のフィールドがイヌイットのようで、本題としてお話されたのは、イヌイットの現状というところでした。ところが、その本題に入る前までは、きっちり聴くことができ、また、概要の多くは、何となく解っているということもあり、難なく進んで行ったのですが、、、。案の定、居眠りです。仕方なく、わりと詳しめのレジュメを用意していただけていましたので、あとから勉強し直すことになりました。相変わらずですね。
 門真市駅経由で大阪市内へ移動。時間調整には、今日は、千日前のネットカフェを利用。そして、夜は、高津神社であった「佐ん吉・鯛蔵・米輝の三日間集中落語ゼミ」の最終日に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。佐ん吉「稽古屋」、米輝「軽業」、鯛蔵「船弁慶」、(中入り)、全員「二日間で作った新作落語」。今日は、三味線の岡野鏡さんに、NHKが密着取材をしているということで、テレビカメラが入っていました。20代の三味線方が珍しいということでの取材だそうです。佐ん吉の「稽古屋」は、確か初めて聴くことだと思います。「四芸」という言葉は使わないのですが、その内容から入り、稽古屋に繋ぐという、よくある導入部。「宇治の蛍踊り」は美味しいと看てか、ちょっと濃いめにアレンジ。そして、通常の進行を辿り、いもを持ち込んだ子どものところで悪さをして、「恋は指南の外」で落とすというもの。短縮型のオーソドックスなものと言えばいいでしょうか。稽古屋の師匠に、今一つの色気が欲しいのと、歌うとき、高音域を、はっきりときれいに出せるようにというのが、今日の口演を聴いたところでの注文かな。米輝は、カメラが入っているためか、ちょっと緊張気味に、マクラにならないマクラをふってからネタへ。ネタに入ってからは、いつものお喋りになって、一安心。でも、小拍子を叩きのときの使い方をしないので、聴いている方としては、何となく居心地の悪い口演。お喋りは、落ち着きさえすれば、米輝のことですから、安定感抜群なのですが、、、。今日は、米輝の口演の後半から、居眠りが出てしまいました。今日は、昼間の講演といい、居眠りの出る妥当性が、自分で解っているだけに、あまり悔しさが湧いてこないのです。要するに、2度寝ができなかったため、絶対的な睡眠時間不足だったのです。その居眠りが、鯛蔵の高座にも持ち越され、こちらは、半寝で聴いていることができたため、うっすらと、その口演の様子に記憶が残っています。かなりメリハリの効いた口演だったということもあるのでしょうね。これは、もう1度、しっかりと聴き直さねばならない、そういった値打ちのある口演だったような、、、そないな印象を残してくれました。中入り明けは、三者三様の新作の発表会となりました。一昨日に、お題を取り、2日間で創り、それを、今日発表するというルールは判ったのですが、お題に関するルールが、最後まで判らずじまいでした。3人の出した題名を、まず記しておくことにします。佐ん吉「インタビュー秘儀」、米輝「遅刻かいな」、鯛蔵「剣を比べよう」。「インタビュー、、」 は、子どもの頃からの夢であったインタビューの仕事、でも、実際にするとなると失敗ばかり。最後は、とんでもない猟奇的な事件に巻き込まれてしまいました。「遅刻、、」は、元同級生3人は、就職後、遅刻を繰り返す。で、そのわけは、、、というだけの噺なのですが、米輝のことですから、きっちりとおかしな職業を用意していましたが、通常の米輝作品に比べると、まだ大人しいのではないかな。「剣を、、」は、他の一族との対決に備え、師匠が弟子に、異常な状況で秘技伝授について語る序盤で遊び、秘技を知る幻の兄弟子から教えられたのは、予想されたとは言え、あまりにバカバカしいもの。ちょっと劇画タッチの噺でした。珍しい佐ん吉と鯛蔵の新作を聴けましたが、ただ、新作テラーじゃない分、突飛に過ぎたり、稚拙な印象を与えるのは仕方のないこと。最近、お遊びなのか、本気なのか、よく判らないところで、新作を創ることが流行っているような印象がしてきています。この会での言い出しっぺは佐ん吉だったそうですが、そういった中から、思いがけない感性が出てくるかもしれないので、しばらく様子眺めをしていることにしましょう。


2016年 9月 15日(金)午後 11時 00分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、こちらで「第15回桂華紋勉強会~華紋式」がありました。呂好との二人会には行ったことがあるのですが、華紋一人の会は、初めておじゃまをすることになりました。その番組は、次のようなものでした。白鹿「田楽食い」、華紋「書き割り盗人」、小染「住吉駕籠」、(中入り)、華紋「噺家アイドル落語組(仮題)」。白鹿は、久しぶりの遭遇。一門ネタをマクラで始めて、掴みを取るとは、見ない内に洒落たことをするようになっていました。以前に聴いた印象で、達者なお喋りではないけれど、ちょっと朴訥さが入った物言いに愛嬌を感じ、いい感じとの記憶が残っていましたが、今日も、それを確認。「田楽食い」のような長閑な時代の雰囲気が、素で出せるような噺家さんです。また、違った様子の噺も聴いてみたくもなりました。華紋は、まず、1席目のマクラで、鳩対策をひとくさり。こういった世間話にも、きっちり展開の妙を心得ていたり、うまく下げを付けたりと、天性のものを、華紋には感じます。そういったものが、噺の展開に活用されています。ネタの読解力があり、また、それの表現力も兼ね備えている、それが華紋です。「書き割り盗人」は、呂好との会で、確かネタ下ろしをしたときに聴いたはずで、これが、2度目の遭遇となりました。白紙を壁に貼り付けたわけが、華紋オリジナル。前の住人に子どもがいて、壁に落書きを残したというものです。絵を描いてもらうときのテンポが、実に心地よいのが華紋の持ち味。すっとぼけた盗人もいいと、いいところ尽くしです。ゲスト枠は小染。小染の落語を、繁昌亭以外で聴くのは、ホントに久しぶりです。繁昌亭でも、最近聴いてなかったですから。ただ、先日の彦八祭りで、お姿を見かけてはいたのですが、随分とスリムになってました。お酒を呑み続けていて、この体型なら心配になっちゃいますね。マクラでは、その彦八祭りについて。華紋のお喋りに比べると、かなりテンポが落ちるため、体型が重なってきて、不安感が増したのですが、徐々に、小染のもっちゃり感が思い出されてきたのは良かったのですが、同時に居眠りを誘ってしまいました。「住吉駕籠」は、酔っぱらいで切り上げたというくらいの記憶しか、残念ながら残っていません。華紋の2席目は新作。さびれた商店街の活性化を図るため、地域アイドルで客寄せを考えるのですが、出てくるアイデアは、どこかで使われているものばかり。そういったなか、どこにもないとして実用化されたのが、落語のできるアイドルというわけでした。「くすぐりのアーヤ」「珍品のリナ」「人情噺の***」といった具合のアイドルでした。これはおもしろかった。華紋は、「2度とやらないと思います」と言っていましたが、ちょっともったいない作品ですね。


2016年 9月 15日(金)午前 5時 9分

 昨日は、繁昌亭で落語を聴く日。昨夜は、「桂吉坊・春風亭一之輔二人会」という人気の会がありました。前売券の売り出し時に、日本にいなかった黄紺でしたが、辛うじてチケットをゲットしていました。その番組は、次のようなものでした。生寿「狸の鯉」、吉坊「江戸荒物」、一之輔「鰻の幇間」、(中入り)、一之輔「ガマの油」、吉坊「身替り団七」。生寿は上がるや否や、「笑福亭で嫌な感じがしてるでしょう」と、見事な自虐ネタで、掴みに成功。最近は、ほぼ聴く機会がなくなった「狸の鯉」を出しました。もったいないほどの前座です。吉坊の1つ目は、既に吉坊で、複数回聴いている「江戸荒物」でした。切れのいい「江戸弁」が、吉坊の口演の持ち味。ここの切れがあると、もっちゃりした大阪弁が、よりクリアになるという効果がありましから、冒頭の「江戸弁」を聴いただけで、この口演の成功が約束されたもののようでした。昨日の白眉は、一之輔の「鰻の幇間」。家族旅行なんて、一之輔らしくなさそうな話題をマクラに使い、らしくないことを、自身で突っ込み、完全に一之輔ワールドに引き込んでから、夏の定番ネタへ。2人の出逢いまで、また、2人で鰻屋にいる時間も、極力あっさりと扱い、噺のクライマックスとなる後半を膨らますという手法。ここで、どんどんとオリジナルなくすぐりを詰め込んでいき、それが、次から次へと大当たりに当たっていきますから、ホント、笑いの耐えない口演となりました。仲居さんを肴にしたくすぐりが可笑しいですね。最後には、仲居さんらは、お誕生会まで計画していました。一之輔の2つ目は「ガマの油」。口上は、しっかりと披露したあとは、やりたい放題。英語や現代語が飛び交う後半となりました。「鰻の幇間」ともども、昨日は、差し込みばかりが際立つ一之輔の口演でした。吉坊の2つ目の「身替り団七」が、昨日のお目当ての1つ。最近は、生寿も手がけ出しているので、芝居噺だろうという予測は当たり。小佐田作品だそうで、京都府立文化芸術会館で定期的に開かれている「上方落語勉強会」の「お題の名付け親はあなた」で生まれた作品。吉朝の口演だったようです。会場で付けられた題名は「親子芝居」だそうですが、小米が「身替り団七」を勧めたそうで、吉坊は、それを使っているそうです。「団七」というのは、「夏祭浪花鑑」に出てくるあの男です。その芝居がかかるという間際に、逐電してしまった息子が、役者である父親の元に帰ってこようとするのを、芝居の途中に、団七役の役者が、その息子に役を預けて、義平次役の父親に会わせるというもの。終盤、芝居の場面が入り、芝居噺らしくなっていくのですが、それは長町裏の場面。団七が義平次を殺める場面ですが、通常、泥場と言われる場面。それを下げに使ってました。ただ、筋立てが単線的で、泥場が先にありきで作られたなぁの印象。生寿が、このネタを手に入れたようですが、そんなに頑張って、もらう必要ってあったのだろうかと思うような噺でしたが、泥場の芝居を、やっぱやりたかったのかとは思いましたが、、、。


2016年 9月 13日(水)午後 10時 52分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「生喬百席 第四十七夜」がありました。その番組は、次のようなものでした。生喬「長短」、吉坊 「狐芝居」、(中入り)、生喬「仔猫」。この会は、前座を置かない代わりに、生喬は、1席目に入る前に、長めのマクラをふり、近況報告なり、近々の予定などを話してくれます。今日は、染丸邸であった茶話会、八聖亭での自身の会の予定、師匠の思い出、間近に迫る襲名など、多岐に渡る話をしてくれました。「長短」は、最近、上方の噺家さんも、わりかし多くの方たちが手がけるようになりましたが、元来は東京ネタ。生喬は、先代の小さんの音源から、持ちネタにしたようです。プログラムに、生喬自身も書いていたのですが、「長」の人物が、台詞をゆっくり喋る方法は執らないというのが、生喬テイストで、黄紺も大賛成。単に喋り方で「長短」を出すのではなく、人柄で出そうとの工夫に拍手です。また、そうでないと、ラストのなかなか言い出せないというキャラと辻褄が合ってきませんものね。今日は、三味線が入る日だったので、それに合わせて、吉坊を喚んだなと思えたので、もちろん、勝手な推測ですが、もし当たっているなら、お囃子の入る噺、中でも芝居噺を期待していいのではと思っていたところ、大当たり。久しぶりに聴く「狐芝居」でした。吉坊では、10年ぶり、それ以上になるかもしれませんが、どこで、誰の会で聴いたかも覚えているほど、印象に残った口演だったのを思い出します。前半の茶店でのやり取りがあるため、時間の経過、麓からの距離感が感じられ、芝居小屋の出現以後が、とっても幻想的になります。口演も、麓のくだけた、遊びのある明るさから、随分と抑制されたお喋りにしていきますから、一層、幻想的になります。うまいものです。それにさして、芝居となると、吉坊お手のものですから、ますます興趣が増します。鳴り物に、虫の音が入るのがいいですね。幻の始まりと終わりを確認できる仕掛けになっています。いいもの、聴かせてもらえました。次の「仔猫」も良かった。生喬の「仔猫」は、確かネタ下ろしのときに聴いているはずです。そのときの口演の詳細は覚えてはいませんが、今日の口演は、えらく繊細。かつてのごっつい声が支配的だった口演というのが、きれいに消えています。むしろ小声で、ちょっとした人の喜怒哀楽が表され、ときにはごっつい声も入れ~のですから、とてもとても表現の幅が感じられるのです。この会は、3席しか出ませんが、それが、いずれも素敵な口演。生喬自身も、「百席」目に向け、まだまだ伸び代を見せてくれています。今日は、ゲストが吉坊だったからでしょうか、それとも、「百席」に近づいてきたからでしょうか、裏に「高津落語研究会」という強力な会があるなか、この会の最多動員記録を更新しました。


2016年 9月 13日(水)午前 6時 56分

 昨日は映画を観る日。シネリーヴル梅田で、インド映画「裁き」を観に行こうとしたのはいいのですが、さっぱりダメで、ほとんど居眠り状態。前の晩、あまり眠れてないですからね。ということで、またしても、ダメな日になってしまいました。


2016年 9月 12日(火)午前 4時 38分

 昨日は、実に久しぶりの3部制の日。午前中に、大阪ステーションシネマで、ロイヤル・オペラのライブビューイングを観て、午後は、梅田で落語会、そして、夜も、ツギハギ荘で落語会というハードな1日となりました。このようなスケジュールとなったのは、高校時代の友人が、福井から、ロイヤル・オペラのライブビューイングを、昨日観に来るということで、それに合わせて、午後の落語会も一緒に行くことになったのが基でした。まず、オペラのライブビューイングですが、昨日は「オテロ」(キース・ウォーナー演出)、しかも、ヨナス・カウフマンがタイトルロールを歌うということで、逃すわけにはいかないというわけでした。オテロ以外の配役では、デスデモナがマリア・アグレスタ、イアーゴがマルコ・ヴラトーニャという布陣でした。そして、指揮は、言うまでもなくアントニオ・パッパーノという魅力的なもの。1幕と2幕は、中幕、後幕の開閉に、若干の装置を絡ませるというシンプルなもの。3幕は、両サイドと背後に、縦の細長い板を並べて壁を作り、両サイドは固定なのに対し、背後の壁のスライドで、情景の変化、人の出入りを作るといったもので、それだけだとシンプルなのですが、舞台上に、3~4筋、横板が上下に動き、また、その内の1筋は横スライドまでするようになっていました。ベネチアからの使者登場の前には、その横スライド板に乗り、大きな獅子の作り物が出て、一旦、真ん中で止まっている間に、コーラスの人たちが、その背後に登場するという手法が取られ、コーラスの人たちが出てしまうと、獅子はスライドして引っ込むというようになっていました。4幕は、舞台左サイドに、明るく照明を浴びた寝室、右サイドには、照明を落とした中に、装置を裏返した状態で置かれ(人形立てが丸見え)、デズデモナ殺しのあとに、その右サイドの上部に、照明が当てられると、そこにも、簡易ベットらしきものが設営されていました。この装置については、終映後、友人とも話題になっていたのですが、判らずじまい。全体を通して考えてみた場合、総体としてのコンセプトらしきものが、黄紺には見えてきませんでした。歌手的には、当然ながらカウフマンが関心の的ですが、病気療養ということで、久しぶりに観ることができるというので、余計に関心度が高かったのですが、まずは、元気な姿に安心させられました。それとともに、カウフマンをもってしても、オテロという役は難敵だということなんでしょうか。インタビューの中で、カウフマンは、「オテロには3つの声が要る」と言ってましたが、その1つは、黄紺にも、容易に察しがつくのですが、それは、勝利者としての高らかな声でしょう。1幕冒頭の嵐のなか、勝利に沸くオテロの声は、いわゆる「トランペット」と言える声が求められると思うのですが、友人などは、「その声を、本当に出せるのは、モナコとドミンゴしかいないのでは」などと言ってましたが、2人しかいないかどうかは、横においても、やはり、カウフマンの声質は、そうした声にはなじまないというところです。1幕後半のデズデモナとの愛を歌うとなれば、これは、一転して、カウフマンのお得意領域。それが第2の声とすれば、第3の声は、イアーゴに踊らされ、猜疑心を募らせ不安定な心情の吐露を求められる歌唱となります。高低差のある音域を、自在に往来しなければならない大変なところ。高音に意識を持っていくと、安定感を持つはずの低音域に障るというところです。相手のデズデモナやイアーゴの歌唱とのやり取りで、自ずと歌唱にも影響が出てくるところ。だけど、カウフマンの声に、何やしらあるもどかしさは、いったい、どこから出てきていたと言えばいいのでしょうか。マリア・アグレスタは、初遭遇の歌手かと思っていたら、パリ・オペラ座のライブビューイングで観た「清教徒」に出ていました。全く記憶に残っていないということは、それだけのインパクトがなかったということなのでしょうが、今回も、また忘れてしまいそうです。ただ、カウフマンの相手役としては覚えていくということになりそうですが。マルコ・ヴラトーニャは、友人も、その名前を知りませんでした。キャリアを調べてみると、主要歌劇場で、このイヤーゴやスカルピアといった憎まれ役で活躍している由。メイクで老け顔にしてありましたが、その下の顔は、まだ、かなり若そう。新たに出てきた歌手なのかなぁと、友人と話しておりました。黄紺的には、憎まれ役として、もう少し、クサメの歌い方、動き方が望ましいと感じたのですが、おいしい役だけあり、カーテンコールでは、あとの2人同様、大変な歓呼で迎えられていました。この「オテロ」で、昨季の上演に基づくライブビューイングは終了です。そして、新たに今季のライブビューイングのラインナップが明らかになりましたが、オペラは有名曲中心のラインナップ。こちらのライブビューイングが始まったときのような斬新なプログラムが、完全に無くなってしまってます。顧客拡大路線ってところなのでしょうが、少しは捻りが欲しいですね。こんなのも、終映後の話題になっておりました。
 午後は、大阪市立総合生涯学習センター第1研修室に移ってから、初めておじゃまをすることになった「第62回 桂雀三郎一門による 梅田にぎわい亭」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。雀太「色事根問」、雀五郎「次の御用日」、雀喜「軒づけ」、雀三郎「わいの悲劇」。前回は、雀太の受賞で、会場がパンク状態だったとか。城北以来の固定ファンに、足の便が良くなり、多くの客が詰めかけたようです。高校時代の友人も、客の多さに驚いていました。また、それに見合うグレードの高い会に、友人ともども、大満足でした。雀太の「色事根問」は久しぶり。冒頭と四芸で、ちょっとしたいじりがあったくらいの可愛らしいもの。オーソドックス過ぎて、雀太目当ての人は、物足りなかったかもしれません。夏の終わりに、「次の御用日」に当たり、ちょっと幸せ気分。最も夏らしい噺と思っているものですから。序盤の丁稚の繰り返しが、雀五郎の口演の一番楽しいところ。それ以外にも、丁稚がらみが楽しいですね。一方、雀五郎の発する奇声が、ちょっと物足りないですね。聴かせどころですから、奇抜な声が出ることを求めたいと思っていました。雀喜の「軒付け」は初遭遇のはず。というか、最近は、なかなか「軒付け」自体が出ないものですから、嬉しい遭遇となりました。考えてみたら、「次の御用日」「軒付け」と続く番組が嬉しいのです。雀喜は、浄瑠璃、軒付け、そういった語句説明を、丁寧にしてからネタに入りました。確かに、浄瑠璃なんてものが、ポピュラーな芸能であった時代があるってこと自体、現在では想像だにできませんからね。でないと、軒付けなんてものが存在した土壌が判りません。雀喜の口演で、気に入ったのは、紙屑屋の天さんが、3箇所から三味線を支えてもらうくだり。真面目くさって、一々指示を与え、ときには居直ってしまう天さんが可笑しいですね。わざとらしいくすぐりに聴こえかねないところだけに、雀喜の人柄が現れたかのような、真面目くさった指示が、却って可笑しさを増幅してました。その一方で、「うなぎの茶漬け」の突っ込みには、一工夫が欲しいところ。平板に過ぎたきらいがありました。高校時代の友人は、この雀喜の口演が、一番気に入ったようでした。そして、トリは、この前の土曜日に、居眠りをしてしまった「わいの悲劇」。今日は大丈夫でした。古典芸能好きのおかしな家族の、自己主張の激しい物言いが傑作な小佐田作品です。そのテキストに応える雀三郎の浪曲、謡、歌舞伎口調が冴え渡ります。これに、お得意の浄瑠璃が入ると、もっと凄いだろうなと思ってしまいました。替わりに、日本の古典芸能の枠内に宝塚を入れたのもヒット。見事に、下げに繋げていました。このネタを、日航か全日空の機内で聴いたことがあるという思い出を、友人に伝えると、呆気にとられていました。そんなで、城北から続く「にぎわい亭」が、梅田のど真ん中で健在だったのを確認できました。それが、何よりも嬉しかったですね。
 福井に帰って行った友人と別れ、今度は、「喬介のツギハギ荘落語会」に向かうことになりました。助演なし、お囃子なしで、全く喬介だけの会です。昨日は、先程の雀三郎一門会の夜の部、たまの動楽亭での会など、人気の会が集中をしたなか、それらの影響を受けることもない入り。と言っても、キャパがキャパですから、数で言えば、しれた数なのですが、ディープな落語ファン氏たちの中から、率先して、こちらの会を選ばれた方が出ていたということになります。で、その番組は、次のようなものでした。「三人旅」「佐々木裁き」「うなぎ屋」。「三人旅」は、入門後、「犬の目」に次いで、2つ目に、師匠からつけてもらったネタだとか。そのわりには、また、喬介曰く「練習してるねんけどなぁ」、よく間違いました、かみました。でも、喬介って、野放図キャラのように見えて、とっても良く考えています。キャラ作りや間の取り方という、肝心なことを。それが滲み出ている口演なものですから、「練習」のしすぎなのじゃ、、、と思ってしまいました。「佐々木裁き」は、ネタを認めた紙をなくしてしまったから、しばしば高座にかけないと忘れてしまうそうです。そないな不安があるなら、きついけれど、もう一度、同じような紙を作れよと思ってしまったのですが、それをしないのも、喬介らしさを感じてしまいます。また、その「佐々木裁き」が、とってもいい。その中で、一のお気に入りになったのが、冒頭のお奉行ごっこの子どもたちの物言い。「ごっこ」ですから、子どもたちに芝居心を持たせているのです。それも、子どもの目線での芝居心なものですから、肝心も得心もしました。逆に、工夫のしすぎと思ったのは、お奉行さんの横に上がった四郎吉の態度。無邪気さ、怖いもの知らずを通り越して、横着さが出るとダメなんじゃないかな。でも、そないなことを論じなければならないレベルまで、喬介の口演が来ているということです。「うなぎ屋」は、先輩噺家のおもしろ話をお喋りしている中で出てきたネタだったため、まさか、そのまま突入をすると思ってなかったら、いきなり入っちゃいました。どうやら、「お二階へ」の言い方、挿し込み方のアイデアを思いついたため、やりたくなったのじゃないかな。そういったアイデアが沸き上がってくるようで、それを試したいがためというのが、喬介が、毎月、このツギハギ荘での会を続けている動機づけの1つになっていると思います。ホント、他の若手の噺家さんに言ってやりたりことですね。ただ、今日の口演は、そのアイデアがありきで、ちょっと噺全体は雑に流れました。ですから、ますます、ピンポイントでアイデアを確かめたかったと思ってしまいました。来月は、口演回数の少ない「寝床」を出すそうです。公言することで、自分にプレッシャーをかける喬介なのですが、残念ながら、その「寝床」、聴けそうにありません。きっと喬介テイストの詰まったものが飛び出てくるのかと思うと、悔しいとしか言いようがありませんが、次なる機会を待つことにしましょう。


2016年 9月 10日(日)午後 7時 47分

 今日は浪曲を聴く日。毎月恒例の「第279回一心寺門前浪曲寄席 9月公演」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。真山誠太郎(真山裕子)「番場忠太郎」、春野ココ(沢村さくら)「チュウチュウ物語」、京山幸枝若(岡本貞子・京山幸光)「千人坊主」、天中軒雲月(沢村さくら)「決戦巌流島」。「番場忠太郎」って、いかにも浪曲に相応しいネタ。昔、テレビで流れた新国劇の中継を、祖母が観ていたのを覚えています。テレビが普及していった時代の貴重なソフトだったのでしょう。でもね、今聴くと、博物館の展示品を眺めている風情と言えばいいでしょうか? 再婚後にできた子ども大事に、忠太郎を虚仮にする母親、親がいないということでヤクザものになったというテキスト、やっぱり昭和中期以前の感性です。ココさんは、お伽噺、ないしは、それっぽい噺を浪曲化されています。「チュウチュウ物語」は、ものをかじるネズミ退治に、ネズミ小僧の助けを借りるというもの。ネズミの寝蔵に忍び込むときには、モンティーパイソンばりのパントマイムを見せてくれました。ただ、この人、ハスキーな声のため、うまくマイクが拾わないと、聞き取れなくなるときがあり、今日は、そのときに、うとっと来てしまい、展開が判らなくなってしまいました。幸枝若さんの「千人坊主」は、以前出たときに居眠りをしてしまったので、今日は、いいリベンジができました。甚五郎もの、彦左衛門ものです。千人坊主を作る工夫よりか、彦左衛門と甚五郎のやり取りや、彫刻を注文する島津城主と彦左衛門とのやり取りが多いのですが、終盤になり、突如、謎の虚無僧が現れ、事態が急展開。ところが、お約束ですね、幸枝若ネタの場合、ラストは伏せるというものですが、今日最高の盛り上がりを見せました。これを、トリにしなきゃ、、、。ということは、次の「決戦巌流島」が、えらく地味だったもので。武蔵の心理だけを描いたと言えば、まとめ過ぎかな。はっきり言って、退屈だったもので、今日2回目の居眠り。ちょっと睡眠障害が途絶えた分、今日の居眠りは、黄紺に責任ありというよりは、演者さんやネタの作り、番組にあったと、敢えて言わせていただきますね。終演は、まだ3時過ぎですから、今日も、ウォーキングがてら、淀屋橋駅まで歩き、更に、京都で買い物までして帰ることにしました。


2016年 9月 9日(土)午後 8時 22分

 今日も落語を聴く日。南堀江のミローホールであった「文太噺の世界in堀江・ミロー寄席」に、久しぶりに行ってまいりました。前回おじゃましたのは、もう5年ほど前になるでしょうか。そのとき、抽選会で、お食事券が当たったことだけを、鮮明に覚えている黄紺なのです。今日の番組は、次のようなものでした。文太「開口0番」、雀喜「うなぎ屋」、文太「味噌蔵」、雀三郎「わいの悲劇」、文太「松島心中」。今日も居眠りが発生。今日は、1つには、淀屋橋駅から会場まで、ウォーキングがてら歩いて行ったことの影響も大きかったのですが、ベースには、まともな睡眠が取れていないということがあると思っています。どこかで、この居眠りの連鎖を断ちたいのですが、、、。今日の場合、まともに聴けたのは、雀喜のマクラまでと、最後の「松島心中」だけという有り様でした。雀喜がマクラで言ってたのは、幻の雀三郎門一番弟子又三郎との九州旅行。元一番弟子と現一番弟子との交流という、なかなかないものだけに、ここで目が覚めたはずだったのですが、その効果は、あまりにも呆気ないものでした。「味噌蔵」なんて東京ネタをする数少ない上方の噺家さんなのに、せっかく、それに遭遇しておきながら、みすみす機会を潰してしまいました。まだ、「わいの悲劇」の方は、近々聴けるというのが慰めになっています。「松島心中」は、東京の「品川心中」の移植噺。でも、松島に遊郭ができたのは新しいはずと思い、調べてみたところ、松島遊郭は明治初期の開設。文太の口演では、明治ではなかったように思うので、ちょっと具合が悪いのですが、この噺、どうしても、海に入水するという場面が出てきますから、品川のように、海沿いの町で、且つ遊郭があるところとなると、大阪では無理なのかもしれません。ま、そないなことは忘れて聴いていると、文太の口演がいいですね。心中なんて切羽詰まった話でありながら、持ちかけた方も、持ちかけられた方も、真剣味に満ちているような噺ではありません。でも、お染は、死なないと女がすたるなどという見栄を出さねばならないし、かつがれる金造のバカさも、一方で出さねばならないと、なかなか演者にはきつい噺ですよね。そういったニーズに、文太の口演って、よく応えてるなぁと感心の逸品。お染って、後ろから羽交い締めされるまで、ホントに飛び込むつもりだったのだろうか、まだ、助けてくれる人が現れることを期待してたのではと思わせるお染でした。1つだけ、注文を書けば、飛び込むまでの時間を、ほんの僅か延ばして欲しかったなという点。目の前に情景が浮かびかけたら、金造は突き落とされてしまってましたから。でも、今日の口演は、文太ベストの1つには、確実に入れたくなる素晴らしいものでした。「松島心中」が終わると、参加者全員に当たる抽選会。やはり、2回連続、狙いのものは当たらないものです。


2016年 9月 9日(土)午前 5時 11分

 昨日は二部制の日。午後に、文楽劇場での「公演記録観賞会」に行き、夜は、ツギハギ荘での落語会に行ってまいりました。ただ、睡眠障害は続いているので、不安なままのお出かけになり、その不安が見事に的中。午後の部は、ほぼ居眠りで通してしまいました。そんなですから、上映演目だけを記すに留めておきたいと思います。「ひらかな盛衰記~辻封印の段、神崎揚屋の段、奥座敷の段~」。僅かな時間、耳に入った記憶では、4代目越路太夫さんって、ただならぬ太夫さんですね。言わずもがなのことでしょうが。1988年11月の記録とのことでした。
 文楽劇場を出ると、昨日は、心斎橋のネットカフェで時間調整。そして、ツギハギ荘に移動。今夜は、こちらで「第3回 文五郎☆落語会~リスタートは此処から!!~」がありました。「リスタート」と記されているのは、足を骨折した文五郎、一時は、噺家人生の続行が可能なのかとも心配をされたのですが、幸い、大事には至らず、その復帰記念の会を持つことができたというわけです。年季が明け、その人柄か、前座としての声がかかる機会が多くなってきていた矢先の出来事でしたので、とっても驚かされた記憶も鮮明に残っています。そんなで、何はともあれ祝福の気持ちで、この会に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。太遊&文五郎「トーク」、文五郎「青菜」、太遊「たまげほう」、(中入り)、文五郎「怪談牛ほめ」。師文珍からは、夫婦愛の噺と教えられたという「青菜」が1席目。派手さも、能天気さもない、普通の「青菜」でしたが、テキストの可笑しさを追求したって感じで、昨今、様々な「青菜」が生まれているなか、古風な口演という印象を受けました。「たまげほう」と言えば、太遊の代表作って印象を持っているのですが、初期の作品になるのでしょうね、現在では100本の新作を持つと言ってました。太遊の知られた作品なのに、黄紺的には初遭遇。最近は、大阪にいることの少ない太遊にも拘わらず、正に、このタイミングでは聴けるかと思うと、ホントにありがたいこと。太遊は、この作品を引っ提げ、数年前には、NHK新人演芸大賞のファイナルに進出したわけですから、太遊にとっては記念的な作品のはず。実態が定かではない「だまげほう」なるものを敬ったり、崇めたり、、、結局、最後まで、実態は判らないまま、その周りで、人間が踊ります。太遊って、こないな作品を書けるんだ、しっかりと、黄紺の頭にインプットされました。文五郎の2つ目は、古典「牛ほめ」の改作もの。柱の穴に秋葉神社のお札を貼ったのは、穴隠しにはいいが、そのために魔物を、穴の中に閉じ込めてしまったというもの。本来の「牛ほめ」のフレーズを織り込みながらの進行。おもしろい着想をするなと思いながら聴いていたのですが、ここで居眠り。後半の展開が吹っ飛んでしまいました。もう、全然ダメな1日でした。文五郎は、師文珍から1ヶ月遅れの9月8日を「文五郎の日」として、今後、毎年、自分の落語会を開いていくそうです。今後、どのように成長していくのでしょうか、ちょっと変わった持ち味のある噺家さんなので、できたら見ていけたらと思っています。


2016年 9月 8日(金)午前 0時 4分

 今日も落語を聴く日。今夜は、動楽亭であった「第14回 ご近所落語会」に行ってまいりました。動楽亭のご近所に住む生寿と小鯛の二人会です。その番組は、次のようなものでした。生寿「七段目」、小鯛「狸の化け寺」、★★「***」、生寿&小鯛「井戸端会議」。睡眠障害が改善されない日々が、相変わらず続いていますが、今日は、さほどひどくはなくても、3人の噺家さんの口演で、多少には差は出ましたが、いずれの高座でも出てしまい、情けないのも相変わらず。覚えていることで、メモっておきたいことだけを書いておきます。生寿は、前の差し歯の調子がおかしく、喋りにくくてと言いながら、口演をスタート。「何度もお聴きだと思いますが、、、」「今やりたい噺をします」と言って、「七段目」へ。この会は主宰者意識があるため、鳴り物入りの噺ができるからやるんだという、生寿の心の声が聞こえてきそうです。小鯛の「狸の化け寺」は初遭遇。米朝の手がけた噺なのに、今や、ざこば組の専売のようになっている噺です。小鯛の口演は、口調にメリハリがあるので、情景がクリアに伝わってくるなの印象を与える一方、現代の明るい農村風景になってしまってました。ですから、狸が化けて出てきそう陰の風景には遠く、その辺に、この噺の持って行き方の難しさがあるように思いました。★★「***」はシークレットということですので書けないのですが、ただ、★★の口演は1時間に渡ったために、いいものを聴かせてもらえたと思う反面、すっかり、主役2人の高座が霞んでしまったことも事実でした。そのあおりを食い、「井戸端会議」で聴けるはずだった「彦八まつり裏話」を、ほぼ伺うことができなかったのは、残念なところでした。


2016年 9月 7日(木)午前 4時 57分

 昨日も落語を聴く日。昨夜は、ツギハギ荘であった「笑福亭生喬×瀧川鯉朝二人会」に行ってまいりました。鯉朝が、彦八まつりのお手伝いに、来阪しているのを捉え、おもしろい組み合わせの落語会が生まれました。その番組は、次のようなものでした。鯉朝&生喬「オープニングトーク」、生喬「トミジュリ!」、鯉朝「子は鎹」 。「トーク」では、生喬らしく、鯉朝の来歴、また、修行時代を聴き出すということに、時間が割かれました。鯉朝は、最初は柳昇に入門したところ、その柳昇が亡くなったため、一門の鯉昇門下に移ったそうです。実際の落語公演は、1席ずつ。生喬は、大晦日に行われる「カウントダウン落語会」用に作った作品を聴かせてくれました。この噺、噂には聞いてはいたのですが、実際に聴くのは初めてになると思います。男女のカップルの父親が、落語ファンというところまでは良かったのだけれど、それぞれが、コアな米朝一門、松鶴一門ファンだったため、仲違いをするのを見て、それを止めに入ったはずの母親同士が、コアな宝塚ファンだったところまでは良かったのだが、お互いに、猛烈な雪組、星組ファンだったために、またしても、仲違いが、始まっていくというもの。これは、おもしろい、傑作です。マニア向けの逸品です。それを受けて、鯉朝は新作がやり辛くなり、古典の中の古典を出してくれました。これが、なかなか渋い。前半の熊五郎の放蕩話は割愛で、上方でもおなじみの改心した熊五郎の登場から。序盤の木場に出向く話が、しっかり描かれ、物語に膨らみが生まれ、熊五郎の別れた妻子に対する情愛の深さが染み入るようになっており、鯉朝の語り口もしっとりと、なかなかの好演。「心眼」を聴いたとき、その辺に物足りなさを感じただけに、鯉朝の人情ものを見直すようになりました。噺の大枠が固められると、その気分で聴くことができます。過剰になるかと、おかみさんの情愛を薄めに描く配慮もなされるという繊細さも見せてくれました。終演後は、「生喬めし」ということで、素麺などが客にふるまわれました。ツギハギ荘は、これができるんですね。コアな落語ファンが詰めかけた素敵な会、堪能させてもらいました。


2016年 9月 5日(火)午後 11時 6分

 今日も落語を聴く日。今夜は、ひろばとそうばというざこば門下の兄弟弟子による落語会「第37回 提法寺寄席」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。ひろば&そうば「トーク」、ひろば「犬の目」、そうば「火焔太鼓」、ひろば「立ち切り線香」。韓国から帰ってきてから、ずっと寝不足が続いているのですが、その影響が、ついに、今日の落語会で出てしまいました。今日のメーンとなる、後半の2つで居眠り発生です。特に、今日2席を受け持つひろばが、1つ目に「犬の目」を出したものですから、おかしいなと思っていたら、最近ネタ下ろしをした「立ち切り」を出しました。お囃子なしの会ですが、この「立ち切り」の場合、最後の三味線だけですから、録音されたものを使えると言えば使えるのです。実際、そのようにしていました。「高津落語研究会」で出したときに聴き逃していたため、ラッキーとは思っていたのですが、もう、その時点では、気持ちだけで目を開けておれる状態ではありませんでした。そんなで、まともに聴いた落語は、「犬の目」だけという悲しい結末になりました。初っぱなの「トーク」では、毎回、前回からの3ヶ月間の近況報告をするのがお約束。今日は、直近の彦八まつりからが、大きな部分を占めてました。大変だと、巷間伝わる塩鯛ブースについて。それ以外では、そうばによる福岡グルメぐらいかな。最後に、少しだけ師ざこばの近況に触れてくれました。元気そうなので、安心しました。


2016年 9月 4日(月)午後 11時 48分

 今日は繁昌亭に行く日。今夜は、「第27回彦八まつり・あとの祭り~宴は終わってからもオモシロイ」がありました。前夜祭はなくなりましたが、この後夜祭は、繁昌亭で続いています。この2日間行われた「彦八まつり」を振り替える催しです。その番組は、次のようなものでした。遊方&生喬「挨拶」、喬若「粗忽長屋」、遊方「たとえば、こんな誕生日」、三風・遊方・生喬・三幸・喬若・三金・染八・あやめ「スライドショー」、(中入り)、三風&三幸「お茶子クィーンコンテスト優勝者&素人演芸バトル優勝者紹介」、素人演芸バトル優勝者「指芸」、雀三郎「素人浄瑠璃」、全員「残り福抽選会」。今日は、今までの「後のまつり」には看られなかった入り。ようやく、この会が根づいたような印象。随分と、招待券を持った人が並んでましたしね。コアな落語ファン氏に伺うと、協賛金を出すと、奉納落語会か、この「後のまつり」の招待券をもらえるそうで、今日、その招待券を使う人は、奉納落語会に行かなかった人だそうです。何かの事情で、奉納落語会に行けなかった人もいるようですが、この「後のまつり」のために、招待券を使わなかった人が、相当数いるようですと、その落語ファン氏は言われていました。この会の名物は、中トリを務める「スライドショー」。黄紺なども、確かに、これを目当てで行っているようなところがあります。様々な催しがありますから、黄紺などは、これで、各催しを見れば十分という感じで、毎年、噺家バンドの時間に合わせて、会場に出向くようにしているくらいです。その付け合わせに、落語が3本付いてきて、彦八まつりで優勝した素人さんも観てというのが、この会の楽しみ方だと考えています。喬若の「粗忽長屋」は2回目だと思います。舞台を大阪に移し、言葉使いを現代風な言い回しにシフトしたお喋り。これが、却ってアホげな物言いに聴こえてきますから、不思議なものです。喬若は、もっと聴かなければいけない噺家さんだと思っているのですが、なかなか遭遇機会に恵まれない黄紺です。「後のまつり」担当の遊方自身が、落語も担当するのは、「後のまつり」が始まってから2度目だそうです。その遊方は、今日が53歳の誕生日だそうで、それを記念して、誕生日ネタを出しました。誕生日に交通事故に遭い、救急車で病院に搬送中を、主なる舞台にした遊方自身の作品。黄紺のわりと好きな作品でもあります。その年の実行委員長が、毎年、この会のトリを務める習わしになっていますが、その重責を担った雀三郎がトリ。リズムに乗り快調に飛ばす雀三郎。疾走感が、旦さんの高揚感を表しているよう。何度か聴いている「素人浄瑠璃」の中でも、ベストの口演じゃないかな。思わず、先代歌之助の快演が、黄紺の瞼に蘇ったほどでした。最後は抽選会。1番違いで当り番号は、黄紺は手繰りよせることはできませんでした。最近は、当り籖から見放されています。


2016年 9月 4日(月)午前 5時 00分

 昨日も彦八まつりへ。狙いは、一昨日と同じ噺家バンド。ですから、一昨日同様、夕方から生国魂神社へ。昨日も、4つのバンドを聴くことができました。まず、りょうばとそめすけが組んだバンド、内海英華のジャズバンド、文枝のハワイアンバンド、そして、大トリはヒロポン酢ハイバンドという布陣でした。りょうば&そめすけは、そめすけのボーカルソロに、プロのギターリストとりょうばのパーカッションが加わったもの。考えたら、りょうばは、プロのドラマーだったわけですから、2人のプロのミュージシャンを従え、そめすけが歌うというもの。だけど、これが良かったですね。自分的には、今日一番の聴きものでした。内海英華のバンドは、彦八まつりでは初めてのはずですが、以前から活動が知られていたもの。そのバンドのビックアップ・メンバーが出演しました。黄紺でも、名前を知っているトロンボーンの宗清洋も出演。噺家からは、太鼓の枝女太、パーカッションの阿か枝、笛の喬若が参加。トロンボーンも吹けるはずの内海英華が、昨日は、その演奏は披露せずに、三味線だけだったのは惜しまれますが、高座でも披露する「ダイヤモンド・ヘッド」を聴けたのは、ありがたかったな。文枝らのハワイアンは、昨年聴けなかったもので、話の種として、今年は、ぜひ聴きたかったバンド。文枝以外の出演者は、菊丸(MCも)、花団治、笑丸、三幸、三金(パーカッション)。コントを歌の間に挟む演出。トリのヒロポン酢ハイは、第1回からの出場とか。福楽や、亡き染語楼も出てたはずですものね。毎年、同じような曲が歌われているようですが、これを聴くと、夏の終わりが近づきつつあるということです。ここ数年は、まだ暑さに耐えるに、あと一踏んばりと思ったものですが、今年は、ホントに涼しい。この2回間に間に合うように、韓国から戻ってきました。おかげで、韓国旅行の日程組みで、頭をひねらねばならなくなりましたが、でも、やっぱ2日間とも行って良かった~。福笑が最後に言った言葉、「来年まで生きててやぁ」、そうです、生きてにゃ、行けません。


2016年 9月 2日(土)午後 11時 38分

 昨夜遅く、自宅に着きました。仁川発の時間が遅れ、かなりきわどくなったのですが、最終1つ前の電車で、無事、京都まで戻れました。韓国旅行が、都市間の移動に、時間がかからないことから、一番、体を使うため、疲労感が残ります。期間的には、1週間も使わないのにです。今日の午前中は、体を動かすのも大儀な状態。ひょっとしたら、今日よりは9/3に疲労は、より出るかもしれませんから、今日の状態で顎を出していてはいけないかもしれません。でも、昨日帰って来たのは、今日と明日、彦八まつりがあるからなのです。夕方から始まる噺家バンドがお目当てで、それが始まる時間に合わせて、会場に向かいました。文楽劇場方向から上がって行くと、狭いスペースを使い、お囃子紹介を、染雀とシャミセニストでやってられました。出囃子のリクエストを取り、次から次へと披露されている様子を、もっともっと聴いていたかったのですが、上の方から、大きな歌声が聴こえてくるものですから、気になって仕方なく、後ろ髪を引かれる思いで、お囃子コーナーをあとにして、野外ステージに。そこでは、「噺家のど自慢大会」が行われていたのでした。三実、勢朝、三幸、佐ん吉のステージを聴くことができました。優勝は坊枝、準優勝は勢朝でした。そのあとの野外ステージで始まる噺家バンド演奏まで、時間があったので、その時間を使い、場内を一周。小染の店でチジミを買い、定番となっている文太の店でビールを買い、開演を待つことに。今夜の野外ステージは、三幸の歌、ガールズバンド、ぐんきちお囃子カントリー、まんぷくブラザーズという土曜日の定番メンバー。目新しいのは三幸。三幸は、のど自慢にも出ていたうえ、持ち時間が30分もあり、ちょっと聴き過ぎました。ガールズバンドは、二葉がギターを演奏しながらのボーカルとなってました。確か、ギターは初心者のはずです。今年も3曲。二葉のボーカルがうまくなっているのに、びっくり。今年は、去年歌わなかった「リンダ・リンダ・リンダ」を歌ってくれました。ぐんきちは、音を外すから、居心地が悪くなるのは今年もっていうところで、まんぷくブラザーズでお口直し。「わが青春の上方落語」を聴くのが、最大の楽しみ。毎回、胸が熱くなります。まんぷくブラザーズのステージが終わると、遠くから阿波踊りのお囃子が聴こえてきます。毎年、このお囃子を背にしながら、生国魂神社をあとにする習いに。今年も同様で、秋の訪れを感じさせるなか、会場を離れ、家路に着いたのでした。


2016年 8月 26日(土)午後 11時 47分

 今日は、まず昼間に息子のところに行き、夕刻からコンサートに行くというスケジュール。Dは、随分と大きくなり、会うたびに顔形が変わっていきます。ゴキブリのようにはしこく動き回っていたのが、今度は、立ち上がって動き回ろうとしていました。危なっかしくて、目が離せないやつです。そして、夕刻からは、シンフォニーホールであった大阪交響楽団の名曲コンサートに行ってまいりました。今日は、「モーツァルト・ヴァイオリン協奏曲全曲演奏シリーズVol.2」という公演。なかでも、協奏交響曲を聴けるということでのチョイスです。プログラムは、次のようなものでした。「モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲 第3番 ト長調 K.216」「モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲 第4番 ニ長調 "軍隊"K.218」「モーツァルト:ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364 」。ヴァイオリン・ソロと指揮は豊嶋泰嗣。但し、協奏交響曲では、豊嶋さんはヴィオラを担当。奥さんで、大阪交響楽団のコンサートマスターを務める林七奈さんが、ヴァイオリンを受け持ちました。この夫婦共演というのにも惹かれたこともありで、このコンサートに行くことになりました。会場で会った知り合い夫婦と、終演後話していたのですが、豊嶋さんは大きな体躯で、ヴァイオリンが小さく見えるほどですが、とっても、繊細な音楽を奏でます。今日のお気に入りは、3番の協奏曲の第2楽章。林さんのヴァイオリンは、関西弦楽四重奏団の演奏で、しばしば耳にしてきていたのですが、こうした大きな会場でのソロを聴くのは初めてのこと。いつもは、カフェモンタージュという狭い空間で聴いてきたもので、どうしても、パワー不足のように聴こえてしまいましたが、こればかりは致し方ありません。プログラム的には、ヴァイオリン協奏曲の方は、コンサートで、よく演奏されるものですから、あらためて感服するということもなかったのですが、協奏交響曲は、そういうわけにはいかないものですから、このときばかりと、全神経を、耳と目に集中して聴くことになりました。つくづく、いい曲です。ヴィオラのソロ奏者っていうのがいないからでしょうが、ホント、なかなか遭遇できない不幸を嘆かざるをえませんでした。ヴィオラの暖かな香りが漂う演奏が、見事に下支えをしてくれていました。モーツァルト3曲という構成が惹き付けたのでしょうか、土曜日ということが幸いしたのでしょうか、1日2回公演ながら、結構な入りにびっくりしました。終演後は、知り合い夫婦と、梅田方向に回り会食、更に、お茶。明朝早いお出かけにも拘わらず、音楽談義に花が咲きました。


2016年 8月 25日(金)午後 10時 36分

 今日は講談を聴く日。恒例の「南湖の会 ~赤穂義士伝~」(動楽亭)に行ってまいりました。その番組は、次のようなものとなりました。南湖「鍋島騒動」、鱗林「鼓ヶ滝」、南湖「赤穂義士伝」「鬼薊」。今日は体調不良で、全然、聴く態勢になっていませんでした。睡眠不足のうえ、暑さに負けたのか、体が重いところにさして、昨夜同様のお腹の不調。昨日は終演後でしたが、今日は開演前。それが開演直後にもずれ込み、散々な目に遭いました。旅行前に、この事態、とっても不吉な感じがしてきています。


2016年 8月 24日(木)午後 11時 54分

 今日は、旅行前最後の落語会に行く日。繁昌亭であった「月刊笑福亭たま 2017年8月号」に行ってまいりました。「月刊笑福亭たま 」は、毎月、繁昌亭で開催されていますが、たまのネタや助演者の顔ぶれを眺め、程よい間隔で覗いています。今日は、「苫ケ島」目当てでのチョイスだったのですが、番組全体は、次のようなものでした。染八「平林」、松五「餅屋問答」、たま「チリトテチン」「苫ケ島」、(中入り)、都「星野屋」、たま「新作ショート落語」「妖刀村正」。染八も、前座で、よく遭遇するようになっています。たまとは、「できちゃった」の関係で、昔からのなじみでもありますね。その「平林」が、わりとおもしろい のです。読み方を教えてもらう度に、アホ声で呼ばわる定吉に、らしさが出ていましたし、「平林」を覚えられなかったのに、変な読み方は、あっさりと覚える自分に突っ込みを入れたりと、自然な成り行きに惹き付けられました。いいセンスをしています。今日は、松五の高座で、ほぼ居眠り。序の口しか記憶に残ってないほどの熟睡をしてしまったようです。たまは、上がるなり、この間、幾つかの高座で言い続けている処世術についてのマクラ。これは、たまの人柄が現れていてか、客席の反応はヴィヴィッド。丁度、好対象の人柄を扱ったネタに入る前でしたので、格好のマクラにもなっていました。たまの「チリトテチン」は、初遭遇だったのですが、贅肉を削ぎ落とした、このネタの原点に戻ったかのような進行。それで、きっちりと笑いを取るわけですから、たまの腕としか言いようがありません。スリム化したのには、ちょっとわけもありました。知ったかぶりをする男は、途中、えずきながらも、チリトテチンを完食をするのですが、食べ終わったあと、何度かえずいたあと、腹の中のものを吹き上げてしまうという、えぐい演出が待っていました。これをするためだったのですね、そこまで、控えに控えていたのは。その構想に脱帽です。「苫ケ島」は、たまも言ってましたが、今や文我以外はたまだけですね。松之助は、もうしないでしょうからね。黄紺も、生で聴いたのは、これが初めてですし、誰かの音源で聴いたのも、古い話ですから、内容も、すっかりと忘れていた次第です。紀州公の大名行列、そして、領内での鷹狩りの様子を描いた噺になっていました。大名が実名で出てくると言えば、釈ネタと、すぐに考えてしまいますが、内容からして、そうとも思えず、かなり、黄紺の頭は混乱しています。本日のゲストは都。おかげで、久しぶりに奔放な都噺を聴けたのと、もう手がけてから、随分と長くなっているにも拘わらず、未遭遇だった「星野屋」を聴くことができました。これが、なかなかおもしろい。ちょっと漫画チックにデフォルメしたキャラが上手いのと、噺全体も、劇画タッチと言えばいいでしょうか、僅かに大仰に描くことで、おもしろ噺が出来上がっていました。これは、なかなかの口演です。「ショート落語」の新作を披露したあとは「本日の新作」。「今日は古典ばっかりだったけど、、、」と言い訳をしてから、擬古典ものの新作を披露しました。前半は、商家の蔵にある珍しい品についての丁稚2人よる噂話。後半は、その内の1つ妖刀村正を手にした丁稚が、いろんなものを切り刻んでいくというものですが、その切り方、切るものが可笑しいというハチャメチャを描くというもの。後半のハチャメチャを思いついたのが、噺を作る発端だったのでしょうが、たまのアイデアの間口の広さに驚くばかりでした。終演後、繁昌亭を出た途端、急な挿し込みが下腹に。びっくりして、引き返したのですが、繁昌亭に閉じ込められはしないかの恐怖を味わうことになりましたが、セーフ。日本を離れる前に、繁昌亭から離れられなくなると洒落にならないと、気忙しくなりましたが、セーフ。助かりました。


2016年 8月 23日(水)午後 11時 21分

 今日も落語を聴く日。旅に出る前に、落語の聴きだめをしておかねばなりません。今夜は、「高津おもいっきり落語研究会~8月全11日間興行」でしたが、自分的には、今夜で、高津の夏が終わりました。あと、確か4回予定をされているのですが、日本にいないため行けないのです。 すっかり、韓国行きの日程を考えるときに、この落語会のことを抜かしていました。で、今日の番組は、次のようなものでした。雀五郎「池田の猪飼い」、南天「へっつい盗人」、ひろば「鷺捕り」、たま「権助芝居」、全員「大喜利」。前回から1週間ほど空いての開催。その間で、一番ホッとしたのは雀五郎だったようです。体調不良で、出番以外は、ずっと楽屋で横になっていたとか。それで、判りました。1回目のトリのときに、トップの南天が引っ張ったり、雀五郎は、トリであるにも拘わらず、「青菜」を出したりしたわけがです。その替わりと言っちゃなんでしょうが、元気になった今日は、トップで「池田の猪飼い」を出しました。30分弱の口演で、たっぷり聴けたのはいいのですが、空調が、しっかりと効いてなかったため、雀五郎の口演で拡がる雪の世界も、あっさりと暑さに打ち消されてしまいました。黄紺が、空調が効いてないと思うときって、他の人たちには、かなり暑いはずなのですが、、、。南天は、短めのネタでは、間違いなく十八番と言える「へっつい盗人」。この「へっつい盗人」に出てくるアホは、かなりアブナイ系。もちろん、南天の口演の特徴ですが、最後の道具屋前でのドタバタ、全部やらないで切ってしまいます。アブナイ系のアホが、臨界点を超えるアブナさを発揮するからなのかな、、、どうなのでしょうか。これ、前から気になっているところです。ひろばの「鷺捕り」は久しぶり。以前、ひろばの口演で、終盤の「えらいやっちゃ」をしっかりと入れてくれた記憶があるため、どうしても、それを期待してしまいます。ま、時間の関係なんでしょうが、今日も期待を裏切られてしまいました。たまは、東京ネタの「権助芝居」、「一分茶番」とも言われる噺です。東京の噺家さんの口演を、しっかりと聴いていないので、たま自身が、どのようなアレンジをしているのか、その辺が判りません。今日の口演は、前半で、番頭が権助を説き伏せ、指示を与え、ま、それが仕込みになっていて、後半、権助がハチャメチャをしてしまうという、バラシになるという、とっても解りやすい構造になっていた反面、いつものたまらしいくすぐりが控え目になっていたため、正に「微笑落語」になっていました。まだまだ、夏の高津はラストまで間があるため、そのラストに向かっての盛り上がりを体感できる前に、黄紺はリタイアです。ちょっと寂しいのですが、いわゆる自業自得ですから、諦めるしかないですね。


2016年 8月 22日(火)午後 11時 50分

 今日も落語を聴く日。今夜は、四天王寺近くであった「第2回笑福亭仁智一門 光照寺落語会」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。大智「饅頭怖い」、智丸「七度狐」、智之介「住吉駕籠」、(中入り)、智六「ん廻し」、仁智「めざせ甲子園」。前回は、年季順で出番が決まっていたのですが、今回は、中入りを入れて、智之介を中トリに置くというもの。今後は、出番を、更にいじっていくそうで、企画委員に智丸が任命されたそうですから、どのような変化が出てくるか、次回の楽しみができました。前回も、ネタがヴァラエティに富んでいて、おもしろい番組でしたが、今回は、更に頑張っているなと思わせる重量級の番組に、一門会の充実を看た思いがしました。大智は、いきなり「饅頭怖い」。さすがに、「じたじた」はカットしましたが、トップでありながら、こないなネタを出せるというのは、一門での勉強会ならではです。大智の、こういったネタって、人に合ってますね。町内の若い者が、わぁーわぁー言ってるくったくのなさ、長閑な平和な雰囲気が、大智自身の人柄が現れているように感じられるからです。大智の「粗忽長屋」を聴いてみたくなりました。智丸はネタ下ろし。落研時代を含めて、鳴り物入りの噺をするのが初めてということで、本気で緊張気味。鳴り物に合わすという点では齟齬があったわけではないのですが、それに合わせる所作は、かなり不満。緊張というか、照れのようなものを感じさせられたところに、一番、鳴り物初体験ぶりが見えました。お喋りの方も縮こまった感じで、もっと弾けて欲しいところです。今日は、智之介のところで居眠り。酔っぱらいのところなど、全く記憶がないという低汰落。久しぶりに、蜘蛛駕籠となる終盤まで聴けたのに、勿体ないことをしました。智六は、上がるなり「住吉駕籠をするつもりで来た」とぼやき。先輩に対してぼやくとはと思う反面、それだけ仲が良いということなのでしょうが、それから始まるうだうだが長い。大きめのネタが、前半で続いたから、自分は師匠に繋ぐ役目だという考え方が採れないのが、智六らしいと言えば、智六らしいところ。これは、あくまでも「ん廻し」で下りたから言っています。でも、智六が「ん廻し」なんて出すと、「神泉苑、、、」のところをかまないか、詰まらないか、そないな心配をしてしまいます。スリル満点と言いたいのですが、楽しんではいられないのが智六です。結局、仁智が上がったのが、8時50分ということで、仁智は「短いネタをします」と言いながら、楽しい脱線を繰り返してくれました。時は、丁度、高校野球決勝戦前夜というタイミングも図った好チョイス。アホげな繰り返しネタのトラップに、またはまってしまいました。


2016年 8月 21日(月)午後 10時 41分

 今日は、朝から来週の韓国旅行のための情報収集。いつもの月曜日出発にしなかったために、月曜日の野壺にはまり、 頭を抱えていたところ、なんとか、それを解消する道筋を発見。やっぱり、動かなければダメです。どうしようと、頭を抱えているだけでは、前に進まないことを実感。あと、もう1日使ったら、今回用の情報収集は出来上がりそうです。あとは、台風が来ないことを祈るだけです。で、今日は落語を聴く日。守口市文化センター(エナジーホール)であった「第60回とびっきり寄席」に行ってまいりました。米朝一門の若手俊英噺家が集うということで行きたい落語会の1つでありながら、どうも、日程が噛み合わなくて困っている落語会ですが、今回はセーフでした。その番組は、次のようなものでした。弥っこ「代脈」、雀五郎「蔵丁稚」、ちょうば「稲荷車」、佐ん吉「へっつい幽霊」。またまた、前座は弥っこ。前座として、大人気です。しかも、今日は、初遭遇の「代脈」。ちょっと、下品めいた噺はむかないのじゃないかと思わせる口当たりの噺家さん。でも、そういった噺家さんが、このネタをすると、なんかお伽噺を聴いている雰囲気になりますね。そういった意味で、独特の雰囲気を持つ噺家さんと言えます。雀五郎は、ひろばのおもしろ話を、マクラでちょろっとして、早々にネタへ。騙される定吉がいいですね。騙されたと判ったときの表情は最高です。蔵の中で駄々をこねる定吉もいいんだなぁ。特徴を捉えて、決して過剰にはならないデフォルメの仕方が抜群です。これが、いいアクセントになり、噺がしまりますからね。蔵の中での芝居を真似事も、薬師寺某で、このデフォルメを出します。うまいものです。ちょうばの「稲荷車」は、初めてだったと思います。前半の車夫と乗客2人の静かな会話は、ちょうばの語り口にぴったりです。正に、2人のやり取りを聴いていると、周りの暗闇が見えてきそうです。後半は、一転して、お囃子も入り、長屋の明かりと喧騒とで、好対象の様相を見せるのですが、前半の暗さが効いてないと、明治の長屋の明かりが出ないように思っている噺です。今日は、ちょうばらしい語り口に魅せられる一方、鳴り物なしの口演だったもので、残念ながら、噺の世界全体が現れきらなかったのが惜しまれます。「へっつい幽霊」という噺、久しぶりに聴く機会を得ました。佐ん吉では、随分と前に聴いた記憶があります。佐ん吉だったら、作ボンのキャラが合うだろうなのイメージがあったのですが、作ボンは準主役ですものね、どうしても、熊はんにシフトした人物描写。だからということではないかもしれませんが、熊五郎の威勢の良さが目立った口演でした。むしろ、対比という観点では、幽霊の方がクリアになっていたように思いました。どうしても、「へっつい幽霊」となると、文之助の口演が頭にあるものですから、そのイメージに引っ張られてしまうもので、フラットな気持ちで聴けないところがあります。でも、佐ん吉の口演は、噺の流れが素敵です。ただ、もう少しのテンションの配分というか、力の配分があってもいいのかなと、贅沢なことも考えてしまいました。守口という地理的条件が業をなしているのか、このメンバーでと思う入りの会ですが、次々回からは、より広い会場に移すそうです。このメンバーなら、当然のキャパの会場のようですが、今の集客力を考えると、一抹の不安を感じてしまいました。


2016年 8月 21日(月)午前 7時 29分

 昨日は繁昌亭昼席に行く日。今週は「夏休み親子ウィーク」と銘打った興行が行われているということで、様子眺めに行ってまいりました。こうした興行が始まり、今年で3年目になるのですが、寄席の将来を考えると大事な公演かと思い、毎年、覗いてみることにしております。その大事な興行で、毎年、トリを受け持っているのが鶴笑。特別な興行ということを忘れても、トリの鶴笑の高座を観られるということでも、お宝な公演ですから外すわけにはいかないのです。その番組は、次のようなものでした。二葉「雑俳」、三四郎「YとN」、文華「落語解説」、豊来家玉之助「太神楽」、恭瓶「真田小僧」、松枝「七度狐」、(中入り)、あさ吉「つる」、三風「桃太郎」、福矢「平の陰」、鶴笑「西遊記」。「親子ウィーク」ということで、この1週間、ネタを固定している噺家さんが多かったのかなというのが、第一印象。恭瓶、松枝、あさ吉、三風、福矢といった噺家が、そのグループに入ります。三四郎は、ネタを固定していましたが、「蓮の池クリニック」的なネタですから、こちらは、「親子ウィーク」を意識したとは言いがたく、単に固定したというだけでしょう。先のグループに入る噺家さんは、子どもの出てくる噺、解りやすい噺を意識してのチョイスなのでしょう。その中で、黄紺の記憶では、松枝が、昨年に続いての中トリで、且つ、全く同じパターンで、高座を務めました。ネタが同じというだけではなく、マクラで、連続的に「怖い小咄」をするというもの。但し、ワンパターンなので、数が多すぎるなと、黄紺は思っているのですが。ネタをしない文華は、去年に続き、「落語解説」の役割を担いました。昨年は、「開口一番」で、前座をアシスタントとして伴ってのものでしたが、今年は、3番手に出てきて、「解説」をしたのですが、二葉の高座はともかくも、三四郎のネタが、ネタだったもので、3番手に移した狙いを達成できたかは疑問ですね。儲けものと思ったのは、三風の「桃太郎」。だって、普通の落語会では、聴けませんからね。たっぷりめに、子どもに関するマクラを振ってから、子どもによる講釈などを刈り込んだ「桃太郎」でした。もう1つ、嬉しかったのは、二葉の「雑俳」に当たったこと。二葉は、毎日、ネタを変えているようだったところへ、「雑俳」が出てなかったため、ひょっとしたらと思っていたところ、「雑俳」でした。最近、聴いてなかったもので、聴いてみたかったのです。そして、再確認したこと、やはり、この人、あやめ作品の継承者になって欲しいということ。毎日出ているネタの一部を眺めていて、逆に悪い予感がしていたのが鶴笑。鶴笑も、今席ではネタを変えていたようで、でも、散々聴いてきた「西遊記」が出てなかったのです。まして、日曜日に行ったものですから、「西遊記」を残している可能性が高いと思っていたら、ドンピシャ。最高傑作と思っている「あたま山」は、内海英華のリクエストで、早々と出てしまっていたので、それは諦めていたにせよ、他のネタを観てみたかったな。でも、「西遊記」が悪いわけではありません。黄紺の後ろの席の方は、次々と繰り出されるアイデア溢れる高座を観ながら、何度も「これ、凄いで」を連発されていました。「西遊記」に入るまでは、紙切りはせず、ずっと師匠の想い出話をしてくれました。今まで聴いたことのない介護の話をしてくれ、これは、とってもラッキーなことでした。


2016年 8月 19日(土)午後 11時 24分

 今日は二部制の日。午後に、講談セミナーに行き、夜は、韓国映画を観てまいりました。まず、講談セミナーですが、ドーンセンターであった「夏休み特別講談セミナー:大坂城の男たち」です。こちらは、2代目南陵所縁の方たちで作られている「上方講談*私設応援隊」が、定期的に開催されているもの。今までは、主として南海さんのお話を聴き、且つ、その講談を聴くというものだったのですが、今回は、少し趣向を変えた催しが企画されました。そのプログラムは、次のようなものでした。第1部:講演「講談の生い立ちとは」(大阪大谷大学教授高橋圭一)。第2部:南海「秀頼・幸村、薩摩行き(難波戦記)」。第3部:1部&2部を踏まえての対談。講演は、半年ほど前に、南海さんが「続く会」でやられていた「難波戦記」の変遷を、史料を使い説明されるというもの。史料を基に、史実に基づく大坂合戦を読み解くのではなく、講談の基になる実録ものの「難波戦記」が生まれてくる流れを説明されていました。南海さんの講談は、珍しいもので、秀頼、幸村一行が薩摩落ちして行く経緯が読まれ、薩摩入りしてからの物語は、あまりに荒唐無稽ということで省かれるのが常ですが、その一部を披露していただけました。荒川熊蔵の諸国巡りなんて物語が作られているそうですし、更に、実録ものに度が過ぎると、薩摩から琉球にまで、話が拡がって行くなんてのもあるなんてことが、あとの「トーク」でお話がありました。1部で、大幅な時間超過、2部の南海さんの口演も、押した分、更に、後ろへとずれ込んだのですが、ま、今日のメーンは、1部と2部ですから、文句があるわけではありませんでした。
 ドーンセンターを出ると、そそくさと心斎橋へ。軽く食事をとり、心斎橋シネマートへ。夜は、こちらで、ユ・ヘジン主演の韓国映画「LUCK-KEY/ラッキー」を観てまいりました。今週は、これで、3回目の映画となります。あとの2回は、落語会枯れ的な日に、いい映画の上映を見つけ、実際、メッケものと言える映画に遭遇でき、選択に誤りはなかったと自己満足に陥っていたのですが、今日の映画「LUCK-KEY/ラッキー」を観たいという欲求は、何はさておいてもというもの。やはり、ユ・ヘジンの魅力が、第一の牽引力だったことは、間違いありません。バラエティ番組「三食ご飯」で観たユ・ヘジンの魅力にはまった人は多いでしょうが、黄紺も、その1人なのです。ユ・ヘジンは、腕利きの殺し屋役、でも、序盤で、銭湯で石鹸を踏みつけたことから転倒し、記憶喪失になってしまいます。それを、傍らで見ていた売れない役者(イ・ジュン)が、殺し屋とは知らず、金持ちらしいということで、殺し屋に成り代わってしまうのですが、基より、殺し屋に成り代わったという認識はないのですが、忍び込んだ、その殺し屋のマンションにある監視映像や隠し部屋にあるものから、徐々に気づき出すとともに、常に監視映像に映る若い女性に関心を持ち出します。一方、ユ・ヘジンは、売れない役者が自分だと思い、彼を病院に運んだ女性の救急隊員(チョ・ユニ 、気に入っちゃいました)に助けられ、なんとか社会になじんでいこうとします。役者の仕事も入ってくるようになっていきます。その辺りで、ユ・ヘジンの記憶が蘇ります。ユ・ヘジンに成りすました役者志望の男は、監視映像に映っていた女に接近し、また、彼女の秘密を知ることから、彼女を守ろうという気持ちになるのですが、とっても危なっかしい。女を探しだそうと躍起になる悪漢たちに、危険なところへと追いたてられていきます。それに気づいたユ・ヘジンが、3人ともが消えて、その窮地から逃れようと画策し出すところからがラストです。ユ・ヘジンのアクション、超絶技巧の包丁さばき、ラブシーンまであり~ので、ユ・ヘジンを、いろんな角度から引き立てていって見せる、とっても楽しめるエンターテイメント作品。お薦めの一品です。


2016年 8月 18日(金)午後 10時 3分

 今日は映画を観る日。テアトル梅田で、フィリピン映画「ローサは密告された」を観てまいりました。日本で上映されるのが稀なフィリピン映画、黄紺的には、初めてではないはずとは思っているのですが、前に観たのは何であるのかは、皆目、覚えておりません。「ローサ、、、」の筋立ては、いたって簡単。スラム街の一角で、バッカルを営むローサ夫婦は、表向きの商売とは別に、麻薬の密売にも拘わっている。ある日、それが警察に摘発されるが、末端の警察は腐敗の限りを尽くしている。金や物を、容疑者から貪り、押収した麻薬すら横流しをしている模様。ローサ夫婦は、麻薬の売人を教えたら、釈放する、嫌なら金を用意せよという警察の要求に、金を出せるような経済状態ではないため、売人を教えるが、警察は、金額を少なくして、また釈放の条件として、金を要求する。そのため、ローサの3人の子どもが、それぞれの方法で金をかき集めてくるが、あと少し足りない。そこで、ローサ自身が、夫と子どもを残して、自身で金の算段に出ていき、それにメドがついたところで、映画は終わります。警察署内部のシーンを除くと、ほぼ全編、スラム街での撮影です。しかも、固定カメラを、あまり使わず、ハンディカメラで、俳優を追いかけるという手法を採るもんですから、やたらと臨場感があります。映画を観ていて、残るものが幾つかあります。ローサにせよ、その夫、子ども、密売人、いずれも、警察には抵抗しません。やるせなさは、確かに残るのですが、それよりも、彼らの穏やかさが際立ちます。内面にあるはずの悔しさ、腹立たしさ以前に、強く感じるのが、家族を守る気持ちが、アプリオリに先行していると感じられるからです。その気持ちが強いがため、悔しさなんて感情が霞んでしまってます。ここまでの人生、彼らが、貧しさの中で、でも、これだけは大事にしてきたものとして、家族で助け合ってきた確信を感じました。ラストシーンは、そのために必要だったのだと思います。金の工面にメドがついたローサは、空腹であることを思い出したのか、スラムの屋台で、さつま揚げの串(これ、タイのものより大粒!)を食べます。すると、目の前で、屋台の店じまいをする親子連れがいます。小さい子ども3人と夫婦、全く、ローサの家族と同じ構成です。ローサの家族も、きっと、数年前までは、こないな屋台で、かすかす生きてたんだろう、だけど、家族水入らずの楽しい時間だったのかもしれない、、、そんな風に思うと、いたたまれなくなる温もりを感じてしまいました。なかなか、素敵な映画です。ローサ役の女優さん、この映画で、カンヌの主演女優賞受賞だそうです。


2016年 8月 17日(木)午後 10時 25分

 今日は落語を聴く日。講談と浪曲でいい会があり、迷いに迷ったあげく、ともに捨てることにしました。最近、迷ったときは、両方とも捨てるという選択肢を入れることを思いつきました。恨みっこなしにした方が、諦めがつくと思い、実際に実行してみるとそうなので、いい選択肢ができたと、ちょっと自己満足。但し、この選択肢を選んだ場合、両者の間隙をぬう第3の選択肢がなければなりません。今日は、それもあったということで、ようやく決断に至ったのでした。その3つ目というのは、講談会でもなく、浪曲の会でもなく、いい落語会があったのでした。で、「喬介のツギハギ荘落語会」に行くことになりました。喬介の全くの一人会で、今までも何度かおじゃまをしたことのある会ですが、今日は、「道具屋」「青菜」「皿屋敷」という並びでの口演となりました。「道具屋」は、最初、「商売根問」かという始まり方。仕込みの段階で、うつらうつらし出したため、正確なことは判らないのですが、鉄砲が商品に入ってたのかな、これは、全くの空耳かもしれないのですが。物を売り出してから、ションベンばっかりやられてると突っ込む隣の下駄屋に、「あんたとこは、客が来てない」と突っ込み返してるのが、やけに記憶に残っています。でも、居眠りは、ここだけですが、2日続けての不調です。「青菜」に、またしても遭遇です。喬介の「青菜」は、構成に、主張が明確なため、とっても爽やかな印象が残りました。旦さんとの会話は、あくまでも、後半に向けての仕込みという感じで、要点だけを押さえて、さらりと進行。そして、その仕込みを生かして、後半に爆発させるというもの。家に入る前から暑苦しい住環境を、こってり描写するのが、正に、その序曲。境界をつけて、空気の温度まで変えてしまいます。ぶっきら坊で、ぞんざいなヨメさんの描写が秀逸、それに加えて、やたらと収まりかえる植木屋さんも、かなりキャラ作りに腐心のあとが看て取れました。これだけ、この夏、「青菜」を聴いてきても、喬介の「青菜」に魅せられましたから、かなりの出来栄えだったということになります。「皿屋敷」までに、短い中入り、そして、フリップでのお遊びが入りました。ただ、テレビを観ない黄紺には、厳しい時間です。「皿屋敷」は、お囃子なしの口演。気に入ったのは、半ばの道行のところ。鳴り物がないわけですから、お喋りだけで、夜の雰囲気を出すわけですから、いつもよりか、過剰に、いちびりながら怖がり、いちびりながら、怖がりをからかう口演となり、喬介のお喋りの上手さが、より傑出した感じでした。顔、言葉の表情に加え、息づかい、身体の動きに有機性があり、正に、身体表現としての落語を呈示してくれていたと思います。かなりの時間を稽古にかけてるのじゃないかな。序盤のおやっさんに、陰の喋りで皿屋敷の由来を、しっかりと喋らせておいた効果が、怖いおもろいに効いてきていましたね。喬介は、過剰の物言いを採っても、基本となる安定したお喋りができるという点が大きいですね。こうした優れものの口演を聴くと、もっともっとネタを増やして、いろんな噺で、未知の喬介テイスト添えの口演を聴いてみたくなります。もっともっとネタを増やすというところに、今以上に情熱を注いで欲しいものです。


2016年 8月 16日(水)午後 10時 29分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。「林家染吉10周年記念・5日間連続落語会~染吉っとんの会」最終日に行ってまいりました。これで、つごう3/5、おじゃましたことになります。今夜の番組は、次のようなものでした。二葉「上燗屋」、染吉「キューピットの弓矢」、染二「皿屋敷」、(中入り)、染吉「三枚起請」。今日は、途中で、力尽きてしまいました。昨夜、睡眠障害で悩まされ、じっくりとした睡眠をとれていなかったのです。開演前から、かなりぐったりとしていたのですが、意外と我慢が効き、最初の染吉の高座までは大丈夫だったのですが、「皿屋敷」の序盤のおやっさんの語りの後半からダメでした。中入り時も、ほとんど眠ってましたから、5日間のラストを飾る「三枚起請」は、ほぼ全滅でした。ですので、書ける範囲内でのメモを認めておきたいと思います。今日も、当然、リクエスト。「辻占茶屋」が残っていることを期待していたのですが、既に、昨日出ていました。今日は、「三枚起請」と「一文笛」が同票となり、客席の挙手での決定に。結果は、圧倒的多数で「三枚起請」になったのですが、黄紺は、この2つともを、染吉の口演で聴いていて、なかでも「一文笛」は、染吉ベストだと思っていますので、「一文笛」の方に手を挙げました。もう1つは、今日も、票が割れたようですが、恐らく正体が判らないということだったのでしょうね、染吉も、今日が2回目の口演となる「キューピット」に決まりました。台本書きを学ぶ生徒さんから献呈されたものと、染吉は言っていました。キューピットの弓矢というくらいですから、当然、恋物語。弓矢に頼って、好きな彼女を手に入れようというわけです。途中に出てくるハチャメチャなエピソードが、最後に、1つに繋がるという手法は感心したのですが、神社から出てきた神さんが、キューピットの弓矢を渡すなんて、どういう感性をしているのかと思ったり、神さんの扱いが下品だったりと、ちょっと後味の悪い作品。おもしろければいいというものじゃないですね。今回、5日間でよんだゲストだけではなく、前座にも、染吉の意思が見えていました。林家の若手2人(愛染・染八)を配し、残りの3人は、前座の人気者ばかりを集めていました。今日は二葉。2度目の遭遇となる「上燗屋」でした。雀太テイストいっぱいの「上燗屋」が、徐々に二葉のものになってきているようで、出だしの「パパリコシャンシャン」や、遊びながら豆を食べるシーンも、実に自然に流れに収まるようになっていました。これで、1つの夏が終わりました。これで、高津が終わり、韓国から帰ってくると、黄紺の夏が終わります。


2016年 8月 15日(火)午後 11時 11分

 今日は、「高津おもいっきり落語研究会~8月全11日間興行」に行く日。染吉の落語会にも行きたし、高津にも行きたしということで、交互に行くことにしたのです。月末は、高津には行けないですからね。今日の番組は、次のようなものでした。南天「青菜」、ひろば「動物園」、たま「危険な情事」、雀五郎「質屋蔵」、全員「大喜利」。南天は、昼間にあったサンケイ・ブリーゼに出演したことを、マクラで話してから、「今日は、これをやりたいんです」と言って、「青菜」を始めました。1シーズンで、同じネタが、違う演者で出た初めてのケースじゃないかな。先日、雀五郎が出していますからね。何度も聴いている南天の「青菜」ですが、植木屋さんが、家で隠し言葉の真似をするところで、ヨメさんが、押し入れに入るのですが、その押し入れには、蒲団が詰まっており、その間にヨメさんを詰め込むものですから、「奥や」と呼んでも、ヨメさんは出て来れないなんてのをやってくれました。2度目に出てきたときなどは、一緒に蒲団が出てきたものですから、蒲団を押し入れに詰め込むなんて所作を入れていました。これを思いついて、今日、やりたくなったのかな。この南天の高座が35分、また、押してしまいました。ですから、ひろばは「動物園」。会場からは、一部、「えーっ」なんて声も上がりましたが、ひろばは「南天兄さんがする前にやっておきます」と、うまいかわし方。たまは、バーテンダーから学ぶ人との接し方を、マクラでお喋り。この話は、先日の「パワーアップ落語会」の「若手トーク」で話していたことに通じるもの。散々、その話をしてから、「こないな話をするとバーテンダーをするように思われますが、、、」と、自身の新作「バーテンダー」は、今日はしないと言って喋り出したのが「ストーカー」。序盤の夫婦間における暴力の応酬が可笑しいネタで、そのハチャメチャぶりが、更に、後半に入ると、タクシーの運転手を刺したまま、車に乗せて逃走するというハチャメチャさに替わっていきますが、ずっとテンションが高いまま、最初から最後まで疾走するものですから、笑い疲れて、無感覚状態にまで持って行かれてしまいます。噺の中身も過激ですが、笑いの持続でも過激で、そういった意味で、たまらしいネタであることは間違いありません。トリの雀五郎が高座に上がったのは8時15分。その時間を言ってから、「質屋蔵をしますから、早速、ネタに入ります」と言って、マクラなしでの口演となりました。雀五郎の「質屋蔵」は、今まで2回聴いた記憶があります。歯切れのいい言葉づかいで進み、とっても判りやすく進行するのは相変わらずで、聴きごたえがあるのですが、今日は、珍しくミスが出てしまいました。序盤の旦さんの語りで、台詞を跳ばしてしまい、跳ばすと、あとで困ることに、その直後に気づき、元に戻すということがありました。雀五郎は、一番、そないなことをしなさそうな噺家さんだったもので、後戻りをするまでは気がつきませんでした。35分の口演で、8時50分に終了。それから、「大喜利」に加えて、「抽選会」もあったため、外に出て時計を見たら、9時15分となっていました。


2016年 8月 15日(火)午前 6時 58分

 今日は落語を聴く日。動楽亭であった「林家染吉10周年記念・5日間連続落語会~染吉っとんの会」の3日目に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。染八「相撲場風景」、染吉「金明竹」、花丸「三十石」、(中入り)、染吉「鬼薊」。リクエストの結果は、毎回、開演前に、染吉が私服で立ち、発表。これで、何に決まったかにより、前座もゲストも、ネタを考えなければならないので、リクエスト方式っていうのは、大変なことをしているということです。主宰者だけが、苦難を得るというシステムではないということです。今日は、「鬼薊」は、染吉の予想を外して、圧倒的支持を得たそうです。染吉は、昨日、「猫の忠信」に次ぐ票を集めた「腕喰い」を予想していたようです。もう1つの組は、票がばらけたそうで、その中の最多得票だったようですが、染吉曰く、「予想外」「染雀兄さんが言った数合わせに入る」と言ってました。これには、会場、大爆笑。「鬼薊」が入ったことで、落語を知っている客が集まったのかと思ったのですが、「金明竹」が入ったことで、また、客層が判らなくなってしまいました。そんなで、「予想外」が2つ並んだことで、染八の任務は長めの高座を務めること。ネタは、「相撲場風景」の他には、「浮世床」を用意していたとか。2つとも、染吉の持ちネタではないですからね。染吉の1つ目となった「金明竹」は、毎度書くように、最近、噺家さんの間でブームとなっていると言ってもいいというネタなのですが、染吉で聴くのは初めてじゃないかな。リズムと、心地よいテンポの「金明竹」が主流のなか、染吉の「金明竹」は、なんとなくおっとりしている。言葉遊び的部分を強調するのに比べて、定吉の抜けているのが際立つ感じ。元は、こうだったのだろうなと思わせられました。花丸は、「相撲場風景」が出たので、「幸助餅」はないだろうと、「幸助餅」というネタを好きになれない黄紺は胸を撫で下ろしていたところ、なんと、「三十石」に出逢えました。花丸の「三十石」は、かなり久しぶりです。中書島の浜での物売りや、名簿作りなどで、花丸スペシャルが飛び出します。そういったものが出ると、花丸のことですから、次に何を、それも、かなり想像を超えるものが出るのか、もうわくわく感が高まります。確実に、以前聴いたときに比べ、進化しておりました。口演は、伏見街道から枚方まで。但し、中書島の女郎さんが橋から声をかける箇所はカット。枚方も、舟唄でだけ出てきて、翌朝、八軒屋に着く描写も入れましたが、蛇足かもしれません。染吉の「鬼薊」は、待望の遭遇。法善寺の庫裡で、先日初演したときに、聴き逃したものですから、黄紺の行く日に出ればありがたいと思っていたところ、うまく遭遇できたというわけでした。これが、また、すごい口演で、残っているとは思っていなかったフルヴァージョンによる口演でした。師匠の染丸からもらったそうですが、黄紺は、染丸が持っていることすら知りませんでした。ただ、染丸という人は、自分では、高座にかけないでも、ネタを持っている人ですから、ひょっとしたらとは、ちょろっとだけは考えていたのですが、まさかまさかでした。南光らの口演では、子どもの度が過ぎたイタズラ話は詳しく、奉公先での事態は、地で伝えるだけと言っていいくらい。いきなり、10数年後に清吉が、親の家を訪ねてきて、暇乞いをするというもの。元来が、釈ネタですから、ええとこ取りをして落語化しているのでしょうが、それにしても、話の展開が早すぎ、聴いていて、しっくりと来ないというか、無理を感じていたのですが、フルヴァージョンを聴いて、抜けていた大きな穴ボコが埋まったように思えました。奉公先での悪事が、詳細に語られ、更に、10数年後に現れるのも、暇乞い目的というものではなく、親の様子を見に来て、極貧生活をしている親に、金を渡したのがきっかけとなり、その金が、鬼薊一味による押し込みにより盗まれたものと判り、それをもらった母親が、鬼薊一味だとして捕縛されたのを助けるために、自ら名のり出るために、父親のもとに、永久の別れを告げに来るというもので、暇乞いの目的がはっきりしていて、とってもすっきりしました。長講も長講、55分の長講で、よくぞ、こないなネタを、リクエスト演目の1つに入れたと、大拍手でした。染吉の口演は、奉公先での一部始終が素敵なもので、狂歌を詠む清吉、悪事を働きかける前と後で一変する番頭、更に、悪事がバレたあとの清吉の戸惑いから番頭殺しに至る、起伏に富む口演に、魅力を感じました。それに対して、余計なと言っていいかもしれないくすぐりは、やっぱ、この人、苦手なのかなぁ、省いてしまってもいいかもと思ってしまいました。この5日間で、「鬼薊」を聴ければと期待していたのが、見事、大当たり。黄紺にも、運というものがあります。


2016年 8月 13日(日)午後 10時 47分

 今日は、シネリーヴル梅田で映画を観る日。フランス・ポーランド合作映画「夜明けの祈り」を観てまいりました。なかなかしんどい映画であることを承知しながら、取り上げられることが稀なテーマということで、行ってみる気になった作品。1945年のソ連軍によるポーランド進攻は、ドイツによる占領からの解放どころか、新たなる支配の始まりでもあったというコンセプトで、数ヵ月前に観たワルシャワ蜂起を取り上げた映画でも描かれていましたが、この映画では、その際に起こったソ連兵による女子修道院侵攻、具体的には集団レイプ事件が取り上げられています。冒頭、1人の修道女が、ポーランドに滞在するフランス赤十字の病院に入ってきます。ポーランド人の病院に行くと、大変不名誉なことが漏れてしまうということで、ドイツ軍との戦いで負傷した兵士の治療にあたる外国人の病院にやって来たというわけです。ポーランド人用の病院に行けと追い出された修道女が、雪のなか、ひたすら祈る姿に動かされたマチルダという女医が、修道院を訪ねると、妊娠した修道女の健康状態を看ることになります。ここまでの発端を観て、この映画は、何をテーマにするのかが、見えていなかったのですが、徐々に、映画の展開の方向性が見えてきます。ソ連軍云々をテーマにするのではなく、修道院というカトリックの戒律の中に生きる修道女が、産み月が近づくにつれ、産むということを、当時の彼女らの思考回路で、どのように考え、また、それが、変わるなら、どのように変わるのか、その辺りを追いかけた映画ということが言えます。望まない妊娠であったにせよ、修道女として恥ずべきこととの呪縛に捕らわれている彼女らが、マチルダに、子どもの心音を聞かされると、母親の顔を見せたかと思うと、それは恥ずべきことと、頭を抱え、ひたすら神に祈ったにしても、心の底に澱として溜まっていきます。そういった「恥ずべき」ことという観念の徹底化を指示せざるをえず、また、それが任務とばかりに、1つの極に立つのが修道院長、そういったなかで、次第に、出産をする修道女が出てきます。それに対応するマチルダ、手助けすることになるユダヤ系フランス人医師により、相次ぐ出産が、無事、済ませることができるのですが、産まれた子どもの扱いで、問題が発生し、終盤へと入っていきます。実話に基づくということでしたので、終息の仕方も、そうなのかもしれませんが、その用意された終息の仕方に、出産した修道女が、全て包摂されるとつまらないなと思っていたところ、多様な生き方が用意されていて、ホッとしました。母親として生きるのを、誰も否定できませんし、過去を、全て捨て去るとして、子どもも修道院も捨てる生き方も否定できるわけはありません。黄紺などは、修道院も子どもも捨てた女に共感してしまうところがありましたが、シリアスな頭を抱える映画で、落としどころとなるものを、マチルダが呈示したことで、わりかし爽快感を感じてしまった映画でもありました。


2016年 8月 12日(土)午後 11時 10分

 今日も落語を聴く日。今夜は、動楽亭であった「林家染吉10周年記念・5日間連続落語会~染吉っとんの会」に行ってまいりました。「5日間連続」と言っても、いつものように、毎日行くというつもりをしないというのが、黄紺の習癖ですので、2~3日、おじゃまをしようかと、予定を立てているところです。その番組は、次のようなものでした。弥っこ「犬の目」、染吉「遊山船」、染雀「紙屑屋」、(中入り)、染吉「淀五郎」。染吉の2席は、2組に分けられた持ちネタから、1席ずつ、当日、客席からリクエストを取るというもの。この方式は、林家の先輩染左も、10周年のときに試みましたが、ネタはありふれたものに偏ります。ま、そんなで、全日通いつめる意思は、さらさらないということで、特別企画の公演の様子だけを眺めさしてもらえれば十分との判断なのです。弥っこが、前座の人気者になってきています。それだけで、黄紺などは、人柄がいいんだろうな、お喋りも認められてるのだろうな、灰汁の強い個性というわけではないのだろうな、、、そないなことを感じてしまいます。今日の「犬の目」は、佐ん吉にもらったのかな。アタックのくすぐりが出てきましたからね。染吉は、選ばれた2つのネタに、意外性を感じてしましたようです。「淀五郎」は、10月の独演会でも予定しているネタなもので、黄紺も驚いたのですが、黄紺が投票の書き込みをしようという段階で、もう「淀五郎」が当確だったもので、びっくりでした。「遊山船」も、染吉スペシャル的なネタではないので、なぜ、このネタが選ばれたのか解らないということは、夏の有名なネタってことでしょうね。このケースがあるので、リクエスト方式は好きじゃないのです。半ば辺りで居眠りをしてしまったので、どんな感じだったか、よく判らないのですが、前半のところで、ちょっと抜けたりしていたので、染吉自身も、このネタが選ばれるとは思ってなかったのじゃないかな。ゲスト枠は、毎日交替で、林家の先輩噺家さんが務めます。1番手の染雀は、あとから出る噺家も、精一杯の高座を務めるようにと、自身の入門のきっかけとなったネタだったので、入門10年を記念して、師匠染丸からもらった「紙屑屋」を出してくれました。言わずと知れた大ネタ。ただ、動楽亭の舞台が狭いため、舞台上を動き回るのができるのか心配しながら観ていたのですが、狭いなら狭いなりにできるものなんですね。唄がうまく、振りがしっかりしているということで、今、一番安心して、仕方噺を観ることのできる噺家は、まちがいなく染雀であることの再確認をする高座となったのですが、その染雀が、珍しく噺の順序を間違うというハプニング。紙屑よりで、拾い上げる順序を間違ったのですが、幸い、気づくのが早く、すぐに元に戻り再開しました。染吉は、マクラで、入門のきっかけは、染丸の「淀五郎」だったと言い、「淀五郎」にかける思いを披露。今まで聴いた中で、染吉ベストは「一文笛」だと思っているのですが、そういったじっくりと話して聴かせる噺の方が、滑稽噺よりは合ってるなと、勝手に思っているのですが、今日も、「淀五郎」に、やっぱ軍配が上がりますね。でも、市川團蔵が、感情を込めて怒ってみせるような言い回しでは、この人、声が上ずってしまい、減点対象ですが、逆に、慈しみを前面に出すような、尾上民蔵の諭しには説得力のある語りが、目を引きます。淀五郎にしても、内向的に、自分を攻めているときの語り口が良く、興奮して、「親方を斬る」とまで言う淀五郎になると、台詞回しにじゃまになる声の上ずりが出てきてしまいます。染雀が、兄弟子として、染吉を紹介するなかで、入門間もない頃は、マクラまで師匠に教えられねばしゃべれなかった不器用さの持ち主だったと言ってましたが、今でも、マクラで世間話をするのが苦手という不器用さがありますから、常に、かなりの緊張があるようで、それが、露な感情移入をしようとすると、その緊張が表に出てくるようです。ですから、口になじんでなじんでするまで、稽古をしなきゃならないのでしょうね。そんな染吉ですが、総体として言えば、かなり稽古を重ねたのだろうなと思えるものだったと言っていいと思います。民蔵の指示が、染吉の口演では、具体的なものとしては出なかったのですが、初めて聴く型だったことだけ、最後に記しておきたいと思います。


2016年 8月 11日(金)午後 11時 40分

 今日は、大移動を伴う二部制の日。午前中にびわ湖ホールに行き、その後、大津から大阪に大移動して、夜は、高津落語研究会に行こうというものでした。まず、びわ湖ホールでは、「沼尻竜典オペラセレクション ベッリーニ作曲 歌劇『ノルマ』 プレトーク・マチネ」というトーク・イベントがありました。これは、10月に予定されている公演に先立ち企画されたプレ・イベントです。出演されたのは、次の方々でした。沼尻 竜典(びわ湖ホール芸術監督)、岡田 暁生(京都大学教授)、基村昌代(ノルマ)、二塚直紀(ポリオーネ)、鬼一薫(アダルジーザ)、岡本佐紀子(ピアノ)、井上 建夫(司会/びわ湖ホール総括アドバイザー)。ベルカント、ベルリーニ、ノルマと、いろんな角度から入りうる話が、いきなり、マリア・カラスのノルマの歌唱から始まりました。その中から、イタリア・オペラの歌唱の特徴が伺えたのはいいのですが、いつまで、マリア・カラスに頼らなければ、「ノルマ」は語れないのかと思うと、暗澹たる気持ちになりました。ま、いつもながら岡田さんの独善性が、姿を現したわけですが、出すネタが古く、最後の質問コーナーで、「ネトレプコを、どう思いますか」の質問に、「ヴィジュアルでしょ」「トスカとスザンナを歌うって信じられない」と言ってました。ヴィジュアル云々は、主観として受け入れたとしても、後者に対しては、お薦めのマリア・カラスは、晩年、メゾのパートのカルメンを歌ったのを抜かしている、ひどい中傷です。演出に関しての質問には答えず、「歌があればいい」と、オペラという芸術の否定までしてしまう始末。それに乗り、沼尻さんが、ドイツで経験したひどい演出の具体的内容を重ねるものですから、現代のオペラを歪んで伝えることななっていました。沼尻さん自身が、リューベックで指揮したペーター・コンヴィチュニーの「アッチラ」についての感想を聴いてみたくなりました。直接的な解説というトークにならない点は評価できますが、幾つか、迷い込む祠のようなものが、岡田さんにはあり、今日は、大時代的な歌手という洞穴に迷い込むというもので、フランコ・コレルリ、シミオナートなど、そういったスーパーな歌手の値打ちは解りすぎるほど解った上で、うんざりなのです。ベルリーニのメロディの美しさを言うのに、「カスタ・ディーヴァ」を引き合いに出し、この序奏だけを、ピアノで弾いて、誰の曲か、大学生に答えさせたら、多くの学生は「ショパン」と答えたというエピソード。ここから、ショパンは、更に、ワーグナーまでが、ベルリーニに心酔していたと、俄には信じられない話が飛び出していました。そないなことですから、筋立ては、自習せよとばかりの進行で、ま、それはそれでいいのですが、ノルマとアダルジーザの関係の掘り下げは、きっちりやって欲しかったな。対立の構図だけを上げ、そこで切り上げちゃダメでしょう、ここも、端から筋立てなんかを問題にする意思なしってところですわね。恒例のオペラの一節披露は、当然、「カスタ・ディーヴァ」があり、あとは、有名なノルマとアダルジーザの二重唱、それに加えて、アダルジーザとポリオーネの二重唱が披露されました。ポリオーネを歌った二塚さんは、つい先日、「ミカド」を終えられたばかり。お疲れが残っているのか、ちょっとエヘン虫に悩まされていました。ノルマを歌った基村さんと、その二塚さんが、びわ湖ホール声楽アンサンブルの卒業生。基村さんの歌唱を聴くと、世界で、ノルマをレパートリーにしている歌手は、そうはいないと、岡田さんと沼尻さんが、口を揃えて言われていたわけが判ったように思えました。ピアニッシモで、息長くは、やはりきつい。アダルジーザは、現役メンバーの鬼一さん。華奢で、顔が小さく、正にヴィジュアル系。かなり緊張が伝わる歌唱でしたが、前に出るいい声をされていたのが、とっても印象に残りました。
 びわ湖ホールを出ると、膳所、京都駅、東福寺、七条、天満橋を経由して、ようやくミナミへ。時間があったので、今日は、千日前のネットカフェで時間調整。今夜の高津落語研究会の番組は、次のようなものでした。たま「芋俵」、雀五郎「肝つぶし」、南天「替り目」、ひろば「佐野山」、全員「大喜利」。今日は、出足は、さほどではなかったのですが、開演時間が迫るにつれ、客足が伸び、今回の最高記録を更新したようです。そうだからというわけではないでしょうが、おもしろいネタが揃う日となりました。「芋俵」は東京ネタですが、上方でも、たま以外にも、文三や遊喬の持ちネタになっています。落語らしいアホげな設定が、とにかく可笑しい。盗人に入るのに、内側からだったら簡単に鍵を開けることができると、芋俵に身を隠す盗人。そないなものを置いていく者の顔は覚えられるだろうから、簡単に足がつくやろと突っ込んでみても、これは、落語の世界の噺。終盤、予想通り、俵に手を突っ込まれ、悶絶する盗人が笑えます。いい爆笑系ネタを、たまは自分のものにしました。一転して、雰囲気の変わる「肝つぶし」、夢の中に出てきた女に恋をする男が出てきます。あまり女に縁がなかったようで、夢の話を聴かされた男の大袈裟な驚きが可笑しい。大袈裟な驚きを、雀五郎が見せるから、可笑しさは倍増します。この会に来る客は、雀五郎が緘黙系の噺家さんだと知ってますから、雀五郎が大袈裟な表現を採ると、湧き方が違います。夢物語をする男の語り、眠っている妹を見ての独白と、それぞれの人柄を伺える優れた口演。下げが、正に緊張の緩和で、空気が緩むのがいいな。南天の「替り目」は聴いているはずなのですが、かなりいじりが入り、ネタに入ってからも、「替り目」だと、なかなか特定しにくいほどでした。ベタな酒呑みのマクラも含めて、ネタに入ってるという感じ。人力に乗る部分はカット。旦那が家に帰って来るところから、「替り目」半ばのいつもの切れ目で降りるというものでした。黄紺的には、南天の口演の中では、あまりグレードの高いものとは思えませんでした。酒呑みの酔いぶりを楽しんでいるというよりは、たくさん入る差し込みに撹乱されているからでしょうか。どうしても、南天が噺の中に、にゅっと顔を出してくると言えばいいでしょうか。講釈ネタ「佐野山」を手がける上方の噺家さんも増えてきました。ひろばは、その中でも早くから取り組んでいた1人じゃないでしょうか。講談では「谷風の人情相撲」なんて題を付けて、谷風が主役ですが、舞台を上方に移すと、さすがに谷風は使えず、小野川と佐野山の物語にしてあります。南光が、それでやってますから、ひろばは南光からもらったのかなと思っていますが、当たっているでしょうか。地噺ですから、噺のじゃまにならない蘊蓄なんてのを入れていけばと思ったりするのですが、、、。「大喜利」のあとは抽選会が行われる日でした。黄紺は、1番違いで、賞品を逃しました。まだ、この会では、今のところ、外ればかりです。


2016年 8月 11日(金)午前 0時 15分

 今日は二部制の日。午後に、文楽劇場(小)で公演記録鑑賞会に行き、夜は、京都に大移動をして、久しぶりのカフェモンタージュに行くというものでした。今日の公演記録鑑賞会は、文楽で「玄奘三蔵の経取/孫悟空の仙術 五天竺~地獄の段、径山寺の段~」(1985年9月の記録)が出ました。2つの段併せて、三蔵が天竺に旅に出かけるきっかけとなる物語です。2つの段で、16年の開きがあります。「地獄の段」では、三蔵の両親が殺され、閻魔の庁で、孫悟空の支援を受け、娑婆に戻るまでを描き、「径山寺の段」では、成長した三蔵が、両親を殺した劉洪なる悪者に命を狙われるのを、孫悟空、そして、娑婆に戻り、姿を変えた両親に救われる物語となります。文楽らしい、誰が誰か、本当の姿が判らないというやり方を、予め、「地獄の段」で仕込み、それを客に見せておいて、物語は進行していきます。「径山寺の段」では、肝心の孫悟空が姿を見せず、ようやく本体を、終盤になって現すのですが、実は、仙術を用いて、この段の冒頭から、大木に変じて出ずっぱりだったというのが、愛嬌があるところです。 その孫悟空を簑助さんが使い、現勘十郎さん、当時の簑太郎さんが、悪漢の1人僧雲外を使ってられますが、当然、とってもお若い。三蔵の父を5代目文吾、母親を2代目文昇、劉洪を2代目玉幸、閻魔大王を3代目玉松、劉洪の家来李彪を現玉男の玉女、三蔵を一暢という顔ぶれでしたが、太夫さんの方は、「地獄の段」は、咲太夫&5代目富助、「径山寺の段」の切は、住太夫&4代目錦糸(但し鶴澤姓)でした。
 文楽劇場を出ると、まだ早かったため、心斎橋で時間調整をしてから、京都へ移動。今夜のカフェモンタージュでは、「牧神の午後」と題して、(フルート) 清水信貴&(ピアノ)清水真弓のお二人のコンサートがありました。著名なフルーティスト清水さんのコンサートが、カフェモンタージュで開かれるのは、初めてかと思います。そのプログラムは、次のようなものでした。「C.ドビュッシー:牧神の午後のための前奏曲(1894)」「H.デュティユー:ソナチネ(1942)」「R.ギヨー:前奏曲と終曲 (2002)」「廣瀬量平:岬のレクイエム (1975)」「C.M.ヴィドール:組曲 作品34 (1877)」。ドビュッシーは別として、普段、ほぼ聴かない作曲家の作品が並びました。ギヨーとヴィドールにいたっては、名前すら知らない作曲家です。廣瀬量平も、フルートの曲などを書いているというのは、全く黄紺の頭にはない事柄。知らない作曲家は、管楽器の曲にありがちな、この場合だとフルートのスペシャリストかもしれません。今日も、冒頭に、オーナー氏から解説をいただいたのですが、なじみのない作曲家が並んだものですから、誰のことを言われていたのか、そうは簡単に、頭に残るものではありません。「牧神の午後」は、こう言っちゃなんですが、冒頭に置かれたこと幸いに、ちょっと瀬踏みをさせてもらいました。やはり、このクラスになると、中低音域の、なかでもレガートの音色は出色で、聴き惚れてしまいました。ただ、「牧神の午後」の持つ神秘性なり、不可思議な音の動きとなると、真っ正直すぎるなの印象を受けてしまいました。廣瀬量平の曲も、写実性にシフトしたような曲だと、オーナー氏から伺っていたものの、自分の頭に絵を描くことができなかったのですが、ま、これは、黄紺の責任というところでしょうが、、、。糸口となる手の差しのべは欲しかったな。ヴィドールの曲に代表されるように、他の曲は、テクニックにシフトしたって感じで推移。タンギングしたり、外したりを繰り返したり、フルートにも運指という言葉を使うのでしょうか、超絶的な音符の並び、音の跳びも大きく、吸い口の持って行き方も大変なんてところを、堪能させていただきました。清水さんは、現在は、京都市交響楽団を退かれているそうです。今日、初めて知りました。確かに、京都市交響のウエブ・サイトで確認すると、そうなっていました。大物楽団員の名がないと、一抹の寂しさと不安が過りますね。


2016年 8月 10日(木)午前 0時 35分

 今日も落語を聴く日。今夜は、今年初めて、「高津おもいっきり落語研究会~8月全11日間興行」に行った日でした。もう夏の名物落語会となった「高津落語研究会」の特別興行、今年は、あまり行けないのではと思っています。他の会とのバッティングもありますが、月末は、韓国に行く予定にしていますから、ダメなのです。で、今日の番組は、次のようなものでした。南天「刻うどん」、ひろば「七段目」、たま「饅頭怖い」、雀五郎「青菜」、全員「大喜利」。今日は、三三、生喬らの会と重なり、集客に苦戦。11日間もあれば、皆勤を狙わないなら、他の日にも来れるんだからと、スルーされやすい境遇にあります。初日は、70人ほど集客したということですから、そういうことなのでしょう。ただ、今日は、時間の配分で、変なことになっちゃいました。1番手の南天が、30分も喋ってしまったのです。ひろばの「七段目」は、久しぶりだし、鳴り物との打ち合わせをしているでしょうから外せないところに加えて、なぜか、たまが「饅頭怖い」を持ってきたために、雀五郎は、マクラもなく「青菜」に入る事態となりました。この「青菜」、そして「大喜利」の進行も、明らかに時間を気にしてのものでしたから、上の2人の高座が混乱を生んでしまったと言わねばなりません。確か、トリだけは、4人の間で、予めネタを確認しあってるということを、誰かが言ってた記憶があるのですが、、、。その慌ただしい終盤を除けば、前の3人のネタは、正に勉強会の雰囲気です。南天、ひろばは、久しぶりのネタだったでしょうし、たまも、最近取り組みだしたネタだしと、聴く立場からすると、ラッキーだったと言えます。南天の「刻うどん」は、序盤、うどん屋に逢う前に、2人が「半分こ」の話を、延々とするのが、南天スペシャルのようで、他では聴いたことのないもの。仕込みの場面では、逆にお喋りは少なめ。バラシの場面では、同じことを繰り返すことに執着するのを、丼に漂ううどんの長さで表していました。そして、下げは、うどん屋が「5つ」とだけ言うもので、このスリムさに、南天のセンスが光ります。長かったのは、お喋りなマクラと序盤のせいでした。ひろばの「七段目」は、8月の高津では出てなかったはずですし、また、最近、ネタ出しで「七段目」って見たことがなかったもので、もう止めたのかとも思っていた一方、米左にもらうのに半年かかったという噂を聞いたことがあったもので、そう易々とは捨てないはずとも思っていたネタでした。そんなネタですが、所作は、体に染み着いているという風情なのですが、切れには、残念ながら欠けます。ダイエットも必要かもしれませんね。でも、気になっていたネタを聴けて、にんまりです。たまの「饅頭怖い」は、初めての遭遇。好きなもの、怖いものの言い合いは、たまの手で改作、長さも、程よいものになっていました。その怖いものには、「狐に騙される話」「おやっさんの怖い話(じたじた)」のいずれもが入っていたのが、嬉しいところ。「じたじた」入りの「饅頭怖い」を聴いたのは、ホント、久しぶりです。光ぁんのところも、本筋を伝える骨を残し、肉として付けられてきたくすぐりなどは、ばっさりと削ったものでした。たまらしい合理主義です。確かに、最近は省かれることの多い「じたじた」などを入れると、徒に長い噺になるので、そんなのが妥当なのかもしれませんね。雀五郎の「青菜」は、時間に追われている口演という感じで聴いちゃったのと、この夏は、あまりにも「青菜」に当たるということで、かなり流して聴いてしまいましたので、感想を書くのは控えておきます。帰りは、いつものように、淀屋橋駅までのミニウォーキング。ジャスト40分の行程でした。


2016年 8月 8日(火)午後 11時 14分

 今日も、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、雀のおやどから引っ越しをしてきた「第14回かわりべんたん~呂好・華紋落語研鑽会」がありました。この会は、過去2回だったかな、おじゃまをした記憶がありまが、今日の番組は、次のようなものでした。智丸「平林」、華紋「書割り盗人」、呂好「三人上戸」、(中入り)、呂好「おかん」、華紋「仔猫」。智丸は、この会の受付を、ずっと担当してきたそうで、その関係で出番をもらったと、マクラで披露。そう言われると、毎回、智丸がいましたね。毎度、智丸の高座を見て思うこと、もうちょっと元気にしゃべってということ。今日も、定吉は子どもなんでしょうと言いたくなってしまいました。主宰者の2人は、毎回、ネタ下ろしをするルールになっているそうです。華紋は「書割り盗人」がそうで、呂好は、ひょっとしたら、2つともネタ下ろしだったかもしれません。華紋の「書割り盗人」は、依頼主が白い紙を貼った動機で、珍しいことを言いました。前の借り主の子どもが、壁に落書きをしたからとなっていました。また、絵を描く男も、芝居の書割りをするのではなく、単に絵の上手な男になっていました。あとの「仔猫」同様、スピード感のある、実に心地よいお喋りを堪能です。「仔猫」になると、そのお喋りは、更にグレードがアップしました。華紋のキャリアでは、自身の勉強会でしか、こないな大ネタを出せないでしょうから、この会で2年前に出したがと断っての口演。黄紺は、華紋の「仔猫」を、この会で聴いた記憶がありますから、そのときだったかもしれませんが、遥かに進歩の跡を見せていました。いいリズムに、スピード感満点の口演に加えて、気持ちの乗った一つ一つの言葉、表情が、実に魅力的。「仔猫」のベストと言っても憚らないスーパーな口演だったと思います。ただならぬものを聴いているという実感は、自然と、聴いている自分の体が前のめりになっていきます。正に、この「仔猫」がそうでした。呂好は、初めて酒のネタに挑戦。難しいと思いながら、チャレンジしてみたくもあったのだが、師匠呂鶴から許しが出なかったと言っていました。要するに、呂好は、呂鶴の「三人上戸」を、ようやくもらえたということなのでしょう。「三人上戸」というネタは、「親子酒」や「首提灯」という酔っぱらいの出てくるネタのビックアップ・ネタって感じのものですから、のべつ酔っぱらいと、それに困らせられながら応対する男との対話で進みます。呂好の口演を聴いていて、一番苦戦していたのは、酔っぱらいの喋りで、間合いをずらすところじゃないかな。インテンポで進み過ぎてしまったのかなと言い換えることができます。酔い方はいい感じですから、やはりお酒のネタは難しい、ですから、時間をかけて育てて欲しいですね。お酒の噺に、なかなか若手の噺家さん、手を着けてくれませんからね。「おかん」は、公募台本の中からピックアップしたということです。眠っているものからの発掘、こういったことができるのが、公募台本の大切な功績ですね。あやめらが、こういった作業をして、実際の落語会で発表したことがありましたが、呂好のような若手の噺家さんも、それに加わってきて、また違った感性で読むと、新たな発見があるかもしれませんものね。「おかん」は、なかなかよくできた作品。特に、下げが秀逸です。難点は、テーマが、オレオレ詐欺なものですから、ほぼ全編、電話での対話になっている点でしょうか。でも、その形を崩しにくいけど、噺としてはいい噺だし、先にも書いたように、下げが秀逸、難しいなぁ。主役の2人が、キャリアを積むことで、確実に、会としてもステップアップを確認できたので、ちょっと、この会は外せませんよ。


2016年 8月 8日(火)午前 5時 47分

 昨日は台風が来た日。でも、動楽亭での落語会に行ってまいりました。台風が、最も接近する時間帯は、落語会が開かれている頃ではなかろうかと考え、早めに京都を出て、大阪入り。いつもに比べ、大阪へ向かう電車が空いているのだけが嬉しいところ。昨夜は、動楽亭では「笑福亭たまのパワーアップ落語会」がありました。以前、たまの会が繁昌亭であったとき、台風が直撃したにも拘わらず開催したという記憶があったので、中止は、全く考慮に入れないで、正解。その番組は、次のようなものでした。慶治朗「子ほめ」、治門「半分垢」、治門・慶治朗・たま「トーク」、由瓶・たま「トーク」、たま「ストーカー」、(中入り)、由瓶「杵屋幸兵衛」、たま「南京屋政談」。ちょっと間を開けて行くと、会の進め方に、マイナーチェンジがなされていました。若手の数は2人になり、冒頭に行われていた「5秒根問」が、その若手との「トーク」、及び、ゲストとの「トーク」に組み込まれていました。昨日の若手2人は、優れ者の2人。治門は、たまの会に、しばしば招かれている関係か、「トーク」や高座でも、奔放なお喋りでしたが、慶治朗は堅いままで、そつのなさが目立ちました。由瓶は、こういった「トーク」の達人です。熱く語る姿勢が、何か楽しませてくれると期待をかけさせ、その期待を裏切らないのが嬉しいところです。その由瓶の口演は、思いもよらぬ遭遇に、バンザーイでした。「杵屋幸兵衛」をネタ出ししているのは、幾度となく見かけてはいるのですが、由瓶の主宰する会には行かない黄紺なものですから、遭遇体験がなく、ずっと気になっていたネタだったからです。そもそも東京ネタですし、上方では、枝三郎が持ってるのかな、そのくらいしか思い出せないものですから、余計に気になっていたものです。なかなかおもしろいネタです。借家を借りに来た男に、長々と、自分の人生を語り出す大家。借り手は、何度となく、本筋に戻そうと突っ込みを入れるのですが、大家は、それを制して喋り続けます。借り手が匙を投げきったところで、借り手に関係あるお喋りをしていたことが明らかになるという仕掛けになっています。由瓶が、各所で、これを出していくと、ひょっとしたら、何年か後には、上方でも噺家さんの間で人気になるかもという予感がしてきました。いいネタを手にしたものです。主役のたまは、新作ものの「ストーカー」だけをネタ出ししていました。たまが言うには、10年以上出してなかったということですが、聴いた記憶があります。そないに前だったかなぁとは思いましたが、最近ということではないものですから、それだけの時間が経っているのかと驚いています。好きな男がストーカーに遇っているから、その男を守ると言って、自身がストーカー行為をするというハチャメチャ物語です。もう1つは、古典のネタ下ろしということで、大ネタ「南京屋政談」が出ました。これも東京ネタ。文我以外では、福団治が持っているのかな、ちょっと自信がないのですが。「政談」と付いているものですから、ずっと後半は、お裁きの場面があるものと思っていました。半ばで切る場合も、「このあとお裁きになります」と言って切り上げるのを聴いたことがあるものですから、すっかり、その場面が用意されているのだと思っていたのですが、元からないのだということを、今回調べてみて知りました。たまの口演も、お裁きの結果、また、その結果から生じた若旦那の勘当解除といったことが触れられて、おしまいでした。だったら、途中で切り上げることないのにと、思わず口走ってしまいました。昨日のたまの口演を聴いて、あまり若旦那のキャラというものが、残ってないことは、いいことなのか、まずいことか考えてしまいました。若旦那のダメさが描ききれないと、後半に、若旦那が見せる正義感や義侠心が際立たないように思いますので、ちょっと過剰に、若旦那のダメさを描いても許されるのではないと思うものですから、キャラの希薄さが気になったというわけです。たま的合理主義では、身投げをするときの態度、南京屋をせよと言われたときの態度で、もう十分じゃないかとの主張と看たのですが、売り歩くときの頼りなさだとか、ダメさも描いて欲しかったと、具体的には思ってしまうのです。若旦那の叔父も、若旦那の行為を信じないという態度も、過剰に描いても良かったのにと思ったのですが、それも、若旦那のダメさを描くことになる効果を生んだかもと思うのです。しかし、たまが、どんどんと新ネタに取り組む意欲に圧倒されます。このあと、「微笑落語会」で、新ネタ3つを披露しますしね、やっぱ、すごい人です。


2016年 8月 6日(日)午後 6時 33分

 今日は浪曲を聴く日。毎月恒例の「第278回一心寺門前浪曲寄席 8月公演」(一心寺南会所)に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。浪花亭友歌(沢村さくら)「太閤記~日吉と小六~」、真山隼人(沢村さくら)「ビデオ屋の暖簾」、三原佐知子(虹友美、鵜川せつ子)「羽ばたけ千羽鶴」、天光軒新月(虹友美)「信州墓参」。今月の顔ぶれを見たとき、3日間とも、佐知子師匠がトリかなと思ったら、今日だけ、新月さんがトリを取られました。でも、この番組はどうだったかな。あまりにも機械的な番組の割り振り。と言うのも、今日は、8月6日で、広島に原爆投下のあった日。その日には、「羽ばたけ千羽鶴」を出すのを、ライフワークのようにされているわけですから、そこに留意して、佐知子師匠はトリに置いて欲しいでしたね。しかも、あとに出られた新月さんは、あろうことか乃木将軍ものを出されるというトンチンカン。戦争ものと、ネタはかぶるうえに、原爆のあとに乃木将軍は、どん引きでした。これはダメやろと思ったからでしょうか、新月さんの口演は、ほぼ居眠りと、体が反応してしまいました。前2つは、若い2人が務められました。友歌さんの日吉丸ものは聴いているはずなのですが、新鮮に感じてしまいましたから、前に遭遇したときは、居眠りが出たのかもしれません。日吉丸が、蜂須賀小六に拾われ、その下で才覚を発揮する物語です。友歌さんの日吉丸は、生意気な感じがいいですね。隼人くんは、「千羽鶴」の前に「ビデオ屋」を出すとは度胸があるというか、番組作りは、演者さんが出したものを並べるだけということが、よ~く判ります。「ビデオ屋」は、隼人くんが、自分の会で初公開したときに聴いて以来となります。初めて聴いたときは、びっくりしました。高校生が、レンタルビデオ屋で、なんとかアダルトものを手に入れようとする内容だったもので、それまで持っていた隼人くんのイメージを、大転換させるもので、その後、様々な浪曲ネタにチャレンジしていく姿勢を、ここで垣間見た思いがした、記念すべきネタなのです。黄紺ですら、まだヒヨコという感じの客席ですが、びんびん響く反応に、隼人くんもしてやったりだったんじゃないかな。 この高校生物語をシリーズ化して欲しいなと思ったりしたのですが、今のところ、このテイストの新作は、あとが続いていないのが、ちょっと残念なところです。今日は、黄紺的ポピュラーなネタが並び過ぎたなの印象。この3日間で、ネタ的に、一番そそられるのは明日かなと思っているのですが、果たして、台風の直撃を逃れて、公演ができるのでしょうか?


2016年 8月 6日(日)午前 4時 47分

 昨日は、びわ湖ホールでオペラを観る日。サリヴァンのオペレッタ「ミカド」(中村敬一演出)が上演されました。初演時には、大ヒットしたとはいえ、今や上演の稀れになっているオペレッタが出るということで、喜んで行ってまいりました。出演はびわ湖ホール声楽アンサンブルの皆さんで、配役は、次のようなものでした。(ミカド)松森治、(ナンキプー)二塚直紀、(ココ)迎肇聡、(プーバー)竹内直紀、(ピシュタッシュ)五島真澄、(ヤムヤム)飯嶋幸子、(ピッティシング)藤村江李奈、(ピープボー)山際きみ佳、(カティーシャ)船越亜弥、(貴族・市民)平尾 悠、溝越美詩、益田早織、吉川秋穂、川野貴之、島影聖人、増田貴寛、内山建人、宮城島康ほか。なお、オケピットには、園田隆一郎指揮の日本センチュリー交響楽団が入りました。昨日は、福井からやって来た高校時代の友人と並んで鑑賞。終始、ミュージカルに、半分は足を突っ込んだ上に、ちょっとだけ吉本が入ったオペレッタの楽しみを満悦。「ミカド」は、19世紀後半のジャポニズムを反映して、日本を舞台にした物語。でも、登場人物の名前は、中国系、いやいや、もっと南方系の名前が使われていたり、ミカドは、首切りの処刑を楽しむ癖を持っていたり、笑わなしゃ~ないというノリで、昨秋に観た「イリス」がそうであったように、果たして、ジャポニズムの時代とはいえ、いかほどの日本理解があったのか、大いなる疑問の生じる作品ではあるのですが、世界のどこかの国のお話として観れば、逆にヨーロッパ(この作品の場合はイギリス)の拙さが見えてくるというところです。物語は、身分を隠した男(実はミカドの息子)と、成り上がりで権力を手にした男(首切りをノルマにされている)に庇護されている女の恋物語ですが、それに、首切りに関する勅令が絡み、ドタバタが繰り広げられます。そういったドタバタに、昨今、世上を賑わす大臣やタレントの行状が盛り込まれたテキストが用意されていますから、ドタバタ感は、一層、盛り上がっていきます。ですから、歌手の皆さんは、歌唱だけではなく、動き、それも、コミカルな動きに、ダンスまで要求するという歌手泣かせの演出(でも、これがおもしろい)でしたから、もう大変。歌唱が歌手の本業なものですから、マイクを使わないプロダクションでは、激しい動きは控えられるのが常ですが、このプロダクションは許してくれません。こんなに歌手が動いたプロダクションってあったっけと、思わず考え込んでしまいました。黄紺的には、ケムニッツで観た「伯爵夫人マリッツァ」以来でした。こんなプロダクションができるのなら、大劇場での本公演とは別に、コミカルなオペレッタやブッフォ系の作品を専門的に上演する小屋という、日本にはない公演形態が可能なんではないかと思いました。びわ湖は、長年のオペラ公演のおかげで、兵庫の芸文同様、ホールに着いている固定客ができてますから、十分に可能なんじゃないかなと思ってしまいました。高校時代の友人などは、「ジェロルスティン大公妃殿下」など、具体名を上げて、期待を口にしてました。歌手的には、びわ湖ホール4大テノールの一角を占める二塚直紀が、抜群の声を披露。舞台に一本芯を入れる役割を果たしていました。このプロダクションは、観なければ損をします。それほど、楽しめる公演です。
 昨日は、6月の「椿姫」に次いで、珍しい方にお会いできました。一番最初の職場で一緒だった元同僚に会えたのです。息子さんが、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーだということを、「椿姫」でお会いしたときに伺ったものですから、ひょっとしたらお会いできるかもと思っていたところ、休憩時間に前を通りかかられたというわけです。お話をしていると、10月の「ノルマ」の同じプロダクションを日生劇場で観てきて、素晴らしかったと言われていましたので、また、新たな楽しみができました。文楽劇場といい、びわ湖ホールといい、このところ懐かしい方と再会できます。残念ながら、その内の1人は亡くなってしまいましたが、でも、忘れかけている記憶も、再会により蘇るということもあり、偶然のもたらす有難さを嚙み締めているところです。


2016年 8月 5日(土)午前 5時 44分

 昨日は狂言を観る日。京都府立文化芸術会館の和室で行われた五笑会の公演に、久しぶりに行って来ました。五笑会は、三笑会を引き継ぎ、この和室を使い、定期的に公演を持っています。一世代前の三笑会から起算すると、40年は、その歴史があるかと思います。昨日は、出がけに時間を間違い、夕食もとらないまま駆けつけることになりました。きついものがありましたが、開演には間に合ったのですが、その番組は、次のようなものでした。小舞「貝尽し」(増田浩紀)「蛸」(井口竜也)「福部の神」(山下守之)、狂言「仏師」(鈴木実)、間狂言「竹生島」(増田浩紀)、狂言「棒縛」(山下守之)。和室というスペース、しかも、能舞台に比べると、かなり狭いうえ、橋掛かりがないのは当たり前だが、控え室などの関係で、臨時に作る橋掛かりは、逆方向ということで、かなり勝手が違うところは、臨機応変に対処しての公演。客席の背後に位置する通路には、新千作と七五三の両巨頭が観ておられると、緊張するだろうし、その一方で嬉しいだろうなと思ってしまう公演。前回覗いたときと違い、各演目に解説が入りました。開演前と中入り明けのタイミングでした。狂言の演目については、プログラムで十分でしょうが、小舞と間語は要りますよね。舞の入った狂言や能を観たことのない人には、さすが解りかねるものです。間語は、既に5人ともに、「那須之語」は、この会で勉強済みだということで、ですから、居語も、既に勉強されているということになるわけですが、今回から趣向の変わったものを取り上げていくと言われていましたが、いきなり変化に富んだものが出ました。シテやワキとのやり取りがあるものは、重いとする習わしがありますが、この「竹生島」はワキとのやり取りがあるのです。ただ、この会では、ワキ方は出ませんから、テキストをいじって進めねばなりませんでした。更に、3品を使い竹生島自慢をしたり、仕方を含んだ小舞が入ると、なかなか重いものが出ました。黄紺も、能「竹生島」はご無沙汰をしていますから、久しぶりに、この間語も観ることがてき、昨日一番の収穫かもしれません。狂言2番は、いずれも超ポピュラーなものが出ました。「仏師」の舞台になる因幡堂は、わざわざ観に行ったことがあるほどです。「仏師」のスッパがした詐欺行為ができそうな造り、規模になっていたので、思わずにんまりとした記憶があります。「棒縛り」の方は、棒が出てくると、前列の客に当たらないか冷や汗もの。演者さんは、動きに制限がかかり、やりづらいでしょうが、仕方ありません。次回は10月です。限られた演目しか出しにくいスペースですが、今年は、能楽堂へ足を運ぶことが出てきてないものですから、その補充の気分で、また行こうかなの気になっています。


2016年 8月 4日(金)午前 6時 13分

 昨日は、文楽と韓国映画を観る日。普段は二部制を避けるのですが、昨日の文楽は第1部を観るということで、昼過ぎには終わってしまうということで、特別な日というわけではないのですが、韓国映画を付けた次第です。まず、文楽ですが、毎年、夏の公演第1部は「親子劇場」と称して、普段の公演では観ることが叶わない演目が出るということで、黄紺的には外せない公演になっています。その番組は、次のようなものでした。「金太郎の大ぐも退治」「赤い陣羽織」。「親子劇場」に、文楽の解説が入らないこともあるのですね。純粋に、2本の狂言か上演されるというもの。「金太郎」は、源頼光ものの中からの抜粋。頼光四天王の中に、坂田金時がいますから、何ら障りはないのです。大江山に向かう前の物語になっています。話は、敵方の男が異界に通じており、鬼を家来にしたり、大蜘蛛に変身もするというもの。最期は、宙乗りで逃走を図るというスペクタクルでした。「赤い陣羽織」は、木下順二原作として知られていますが、「三角帽子」の民話風翻案ものなんですね。帽子が陣羽織に変わり、権力の象徴になったということです。木下順二が、文楽にするとき、台詞を原作のものを用いるという条件を付けたそうで、全編、現代口語で上演されました。小学生でも解るかなというものですから、「金太郎」とともに、字幕なしでの上演となりました。ただ、「金太郎」は、現代口語ではないものですから、小学生には、目で追うしかないですね。「赤い陣羽織」は、陣羽織を着る者が変わることで、権力の逆転が起こるところが可笑しく、客席の反応を見ていると、小学生も解ってたようです。入りは、よくありませんが、たくさんの小学生が集う姿はいいですね。黄紺も、生き長らえて、Dを連れてこられたらなんて、つい考えてしまいました。
 文楽劇場を出ると、韓国映画を観るために心斎橋シネマートに移動。今、こちらでは、「ハートアンドハーツ コリアン・フィルムウィーク」と題して、韓国映画がまとめて上映されています。昨日は、その中からユン・ヨジョン主演の「バッカス・レディ」が出るということで、観ることにしたというわけです。しかも、そのユン・ヨジョンが、60代の売春婦ソヨンを演じるというもの。ソヨンを求めたり、ソヨンが声をかけるのは老人男性ばかり。そのとき、ソヨンのかける言葉が、「バッカスを1本いかがですか」というもの。ただ、映画の進行につれ、ソヨンの過去が、ぼんやりと浮かび上がってきます。どうやらアメリカ兵との間に子どもを設けたのですが、その子どもを手放したようだということが漏れだします。一方で、「バッカス」の持つ意味が、次第に変化を見せて来るのが判ってきます。もちろん、それは、ソヨンが意識してではなく、過去、ソヨンを通りすぎて行った男たちとの交流から、男たちが、自身の終末をソヨンに託するようになってきます。残された者たちが、ソヨンに、自身の最期を託するようになっていくのです。この映画から、韓国社会に取り残されてきた人たちが見えてきます。家族から見放されたり、家族を失った人たち、生きていくために、60代になっても売春を行う女、彼女は、空き缶拾いだけはやりたくないと売春をするのですが、元をただせば、生きていくためにアメリカ兵相手に生きてきた女です。そういった忘れ去られた女が、今、人生の終末期を、あちこちで迎えているはずです。彼女らが、今、どうしてるのだろうと、ソヨンを通して思いをはせてしまいました。ソヨンに、最期を託す男たち、また、託されるソヨンの人生って、何だったのでしょう。同じ人間に生まれ、どうして、彼女、彼らが、そうした人生を歩まねばならないのか、終末に入り、生きていくこと自体に四苦八苦する人生って、いったい何なのか、観ていて頭を抱えるばかりでした。ユン・ヨジョンの体当たり的な演技もさることながら、彼女の個性でしか表しえないシーンが数多くあったと思います。ソヨンの住む昔風の集合住宅の住人も、ソヨンを好サポート。彼らも、世の中の片隅で生きる人たち。1人はゲイを売り、1人は脚に障害を持つ男でした。韓国人男性によるフィリピン女性持て遊び的事件も包摂する幅広い演出に、奥の深さを感じるお薦め映画です。


2016年 8月 2日(水)午後 11時 3分

 今日は落語を聴く日。久しぶりの東梅田教会であった「出丸・文華・雀太の月3落語会」に行ってまいりました。東梅田教会2階ホールでは、出丸が定期的に会を開いていたのですが、かなり出丸の持ちネタを聴き尽くしたっていう感じで、最近無沙汰をしていたところ、同じ会場を使い、固定メンバーで、新たな会を開くということですので、おじゃまをすることにしました。その番組は、次のようなものでした。慶治朗「千早ふる」、雀太「青菜」、文華「向う付け」、出丸「ふたなり」。出丸の話によると、落語をする機会を、自分たちで増やそうと、しかも、今まで出す機会の少なかった噺を出していこうという趣旨で、開くことにしたという会。その説明で納得できたのが、雀太はともかくも、出丸と文華のネタ。「ふたなり」は、持っている人が少ないうえ、持っていても頻繁に出そうというネタでなし、文華の「向う付け」に至っては、文華が持っていることすら懐疑的になってしまうほどで、もちろん、文華の口演では聴いたことがないネタだったものが、同時に出たものですから、この会に足が向いたなんてことにもなりましたから、そのわけが判ったような気がしました。そういった趣旨での会ならば、これからも、要注意の会だとの認識でいなければならないと、黄紺の頭にインプットされました。慶治朗の「千早ふる」は何度目かになります。なかなかいい感じだと、黄紺にはインプットされています。1つには、言葉に、リアリティのある気持ちをこめる努力のあとがあること、オリジナルで無理のないくすぐりが入るからです。もちろん、ベースに、しっかりとしたお喋りがあるというのは言うまでもありません。雀太の「青菜」は久しぶり。それにつけても、この夏は「青菜」の当たり年です。変化技を盛り込む「青菜」も出てきていますが、雀太の「青菜」は、テキストいじりを、あまりしないで、雀太テイストのお喋りで笑いを取るという点に特徴が見えます。聴き終わってみると、旦さんの印象は、あまり残っていません。ですから、旦さんの表現を活用して、植木屋さんのキャラを印象付けるという手法ではなく、どれほど、可笑しな人物像を植木屋さんに作るかに徹した表現方法を採っているのが、雀太の「青菜」だと思います。でも、この植木屋さん、可笑しく、天真爛漫だけれど、下品な印象を与えないのが、雀太の腕なのかなぁと思ってしまいました。「向う付け」は、毎度書くことですが、アブナイ系のアホが出てきます。冒頭のおかみさんとのやり取りは、笑えないほどのものです。同じテイストでくやみに現れます。文華も、その辺が気になっているのでしょうか、テキストは変えることはないのですが、少々抑制気味に進めていってたなの印象です。実際、丁場に行ってからは、アブナイ系だということは消えてしまってました。ま、来訪者の表現で進めることになりますからね。黄紺的に、いつも気になってしまうので、どうしても、そこに気が行ってしまいます。総体として見渡したとき、文華に加齢によるものか、覇気が、以前に比べると落ちたなの印象。でも、まだ早すぎるので、夏バテでもしてたのかなと思っています。出丸は、「ふたなり」を20年ぶりくらいで出すとか。出丸の「ふたなり」は聴いた記憶がありますから、もう20年ほど前になってしまうということになります。出丸の面構えから、永遠の青年顔が消えるはずです。久しぶりだということで、ちょっとアブナイ場面もないことはなかったのですが、カミカミというわけではなく、いつもよりはスムーズなお喋りだということは、ネタの虫干しは、程よい時期にせよの教訓かもしれません。序盤の我が儘な若者2人が気に入りました。もちろん、出丸の口演が良かったということなのですが。それに対して、森の中のおやっさんと女の会話は、もうちょっと引っ張っても良かったのかなと思ってしまいました。久しぶりの口演だったからでしょうか、先を急いでしまったなの印象が残り、おいしいところですから、勿体ない感じがしてしまったのです。長めのマクラと合わせて40分の口演でした。


2016年 8月 2日(水)午前 6時 29分

 昨日は文楽を観る日。昨日は、お昼の公演、第2部を観てまいりました。「名作劇場」と題して、「源平布引滝~義賢館の段/矢橋の段/竹生島遊覧の段/九郎助住家の段 ~」が出ました。今回上演された部分というのは、源平合戦の1つの時期を切り取ったと言えばいいのでしょうか、フルヴァージョンで上演されれば、もっと拡がりのある物語かもしれないのですが、それはそれで、今回のものは、義朝亡きあとの源家の不遇の時代が扱われていました。木曽義賢から木曽義仲に移って行く時代、源家の胤を根絶やしにしていこうという動きと、源家の象徴である白旗を巡る攻防が絡んでいきます。但し、義賢は、平家よりというところからスタートして、それがバレ、最後は亡くなってしまいます。義賢が亡くなったあと、その妻葵御前は逃げ、白旗を託された小万の壮絶な最期が描かれます。斬られた小万の手は白旗を握りしめたままで、その子ども太郎が触れるまで、白旗は離れないという凄まじい話が、あとに控えています。その太郎が手塚太郎です。母親の手を葬ったということ、即ち、「手」の「塚」というわけです。手塚太郎と言えば、実盛を討つ男です。この物語には、能「実盛」の物語が盛り込まれているのです。実盛は、源家の胤根絶を果たす侍として出てきますが、源家にも同情的なスタンスも併せ持つというキャラになっています。小万の腕を斬ったのも実盛ですが、それも、白旗が平家の手に渡らないようにとの措置でしたが、そのために小万は亡くなったために、太郎からすると親の仇になるという仕掛けです。子どもの太郎に対して、能「実盛」に出てくるシーンを上げ、やがて篠原で討たれようと約して別れていくとなっています。白髪を墨で染める逸話まで引用して、再会を約します。まるで、自分の未来を見据えているという物言いがおもしろいところです。文楽らしい無茶な展開、人が簡単に死ぬ、義理が先に立つとまあ、そないなものが詰まっていますから、文楽を観たぞの気分に浸らせてもらえました。今まで、この夏休み公演は、1部と2部を続けて観ることにしていたのですが、それは、あまりにヘビーということで、今年からは2回に分けて観ることにしました。それで正解ですね、楽しみを分散できますし、この第2部が、3部公演の中で、一番長くなりますからね。


2016年 7月 31日(月)午後 10時 49分

 今日は、昨日に続き千日亭へ。但し、今日は、落語ではなく講談を聴く日でした。今夜は、毎月恒例の「第240回旭堂南海の何回続く会?~復活『太閤記続き読み』」がありました。先月で、「祐天吉松」が終わったということで、新たに「太閤記」で、今まで薄かったところを読むということでした。そこで、今日は、「姉川の合戦(壱)」と題した読み物となりました。日本史に疎い黄紺には、それが、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との戦いということが、すぐには出てこない。でも、浅井は浅井長政で、朝倉は、越前の一乗谷の領主で、信長軍に攻められ、そして滅ぼされたというくらいは判っているつもりなのですが、それも、単に、その昔、一乗谷に行ったことがあるために、そのくらいの知識があるのですが、なぜ、戦が起こったのか、信長の天下獲りの、どのタイミングで起こったのかは、全く出てこないのです。今日は、そのタイミングから始まったように思いますし、信長にとっては、なぜは、すべからく天下獲りに繋がるわけで、どういった口実があったかが問題なわけであるということの再確認だったように思います。足利義昭の保護ということが、この物語の発端だったように聴いてしまいました。義昭を立てて上洛を果たす信長、それができなかった朝倉、援軍要請に応じることをしなかったのが、朝倉攻めに繋がったのか、この辺りで居眠りが出てしまい、展開が定かではありません。そないは頼りない状態で聴いてしまった新しい読み物ですが、来月は、日本にいないため聴くことができません。大丈夫かなぁ、のっけがこんなで、、、。


2016年 7月 30日(日)午後 10時 35分

 今日も江戸落語を聴く日。千日亭であった「隅田川馬石を聴く会」に行ってまいりました。去年から始まり、今年は、無事2回目が開かれることになりました。東京から噺家さんが来られると、これでもかという江戸噺が出ることが多いのですが、まさか、この会もそうなるとは思っていなかった番組が組まれました。そのため、若干の躊躇いはあったのですが、馬石聴きたさに行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。「真景累ヶ淵『宗悦殺し』~『豊志賀』」。去年は、ゆったりと聴くことができたのですが、今日は、開演前から長蛇の列。番組効果が出たのか、馬石の名前が、この1年で、関西にも知れ渡ったのかは判りませんが、千日亭がぎっしり詰まる大盛況。おかげでクーラーの効かない席に座り、しかも、クーラーの音がやかましい席と、最悪の位置で聴くハメになってしまいました。来年からは、ギヴアップしようと、早々に決意。しかしながら、馬石の口演を、しっかりと耳に刻み付けるには、クーラーがやかましく、小声になると、とっても聴きずらくなってしまってました。でも、口演は、相変わらず芝居心の詰まったもの。豊かな表現力に支えられた緊張感漂う好演でした。それにつけても、「真景累ヶ淵」と言えば、こうも「宗悦殺し」と「豊志賀」ばかりでは、腹立たしくなってきます。おかげで、長い長い因縁噺の中に、宗悦の死と豊志賀の死が、どのように関わっていくのかが、さっぱり判りません。以前、たまが、紙芝居形式で、「真景累ヶ淵」を、全編通してくれたのを聴いたことがありますが、解説付きで聴いても、筋立てが掴めなかった、更に、その一部だけ取り上げてと思ってしまいます。「木っ端売りの三次」を聴いて、疑問に感じていたことを思い出してしまってました。


2016年 7月 29日(土)午後 10時 56分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。昨日今日と、東京の落語芸術協会の噺家さんによる落語会が、動楽亭で開かれています。それは、「第6弾 動楽亭で江戸噺~夏のお江戸の御挨拶」という会で、かなりの好メンバーが揃っているということで、全4回の公演の内、せめて1回は行きたいと思っていたほど、値打ちのあるものです。黄紺の行ったのは夜の部。その番組は、次のようなものでした。遊真「子ほめ」、夢丸「疝気の虫」、遊雀「井戸の茶碗」、(中入り)、遊馬「大工調べ」、全員「お江戸大喜利」、鯉朝「心眼」。この4公演の前座は、全て遊真が務めています。「鯉朝~遊方」繋がりってところでしょうか。ほとんど、上方の噺家さんの会で遭遇してないので、不思議な感じ。口当たりのいい噺家さんなものですから、これも不思議です。夢丸は、物販のTシャツのデザインも担当。どこの学校にもいそうないちびりのお兄ちゃん風情。小ぶりのおもしろ咄を連発してから、そのノリのまま、ネタへ。位置からして、いい進行、いい感性。長い噺では、どないなものをするのかな、気になってしまいました。遊雀は、今回のラインナップどころではなく、芸協一のお目当て。暑さでまいったかのような滑り出しから、徐々に気が乗っていったという風情の口演が、肩の力が抜けた素晴らしいものになっていきました。あとの遊馬と違い、くっきりと、これでもかとキャラの描き分けをしているわけには見えないお喋りなのに、知らず知らずの内に、登場人物のキャラが、聴く者の中に染み込んでいきます。登場人物が、全員、いい人たちばかり、それは、テキストで十分に描き分けてあるわけですから、聴いている者に、抑制したお喋りで、全てを演じ手に預けさせるような信頼を勝ち取るお喋りと言えばいいかな。満足です。中入りに入るあたりで、涙を拭っている方が、ちらほら。それだけの口演だったと思いました。遊雀と鯉朝だけがネタ出しで、他の噺家さんは、そうではなかったため、「疝気の虫」で納得だったのですが、逆に、遊馬が「大工調べ」を出したため、びっくり。「大工調べ」は、久しぶりだったために、しばらくは半信半疑のまま聴いておりました。遊馬も初めてのはずです。声が大きく、メリハリを大きくつけるという特徴を持ちます。でも、嫌みな感じがしないのは、噺が流れ、キャラ付け、その変化が、極めて合理的だからだと思いました。くさくなりかけて、ならないというところでしょうか。でも、遊雀は、何度も聴いてみたくなりますが、遊馬は、さほどの興味が向かなかったのは、洒脱さを、遊雀に感じるからでしょうね。でも、終盤の立て弁はすごいものがありました。トリの鯉朝は、なんと「心眼」。円朝作品の「心眼」が、果たして鯉朝の人に合うだろうか、いや合わないだろうと思いつつ聴きに行き、やはり、合わなかったというところでした。低い声で喋る際には、違和感を感じないのですが、中音域以上のお喋りになると、テキストの時代性を崩してしまっているように聴こえてしまってました。そのため、序盤の困りに、さほど深刻なものを感じることができず、噺の屋台骨を構築でききらない内に、噺が佳境に入ってしまってました。すると、どうしても、夢の中の物語が作り話っぽくなってしまいますしね。関西にいると、「心眼」なんて噺は、まあ聴く機会はありません。そんなで、狙いをつけたところもあったのですが、ちょっと厳しかったな。この会は、年2回行われていますが、なじみがないのか、ゆったりと聴くことができて嬉しいのですが、そうなると、続いてくれるだろうかと不安も出てきますが、とりあえず、来年2月には、開催が予定されています。


2016年 7月 28日(金)午後 11時 1分

 今日は、ツギハギ荘であった「第廿回今甦る書生節~東西書生節歌合戦」に行く日。今日は、旭堂南海&宮村群時というおなじみのお二人に加えて、東京のマグナム小林を迎えてのものとなりました。マグナム小林が、今、ちょうど繁昌亭に出演中という機会を捉えての公演と思われますが、彼も書生節をレパートリーにしていることが大きいというのは間違いありません。その番組は、次のようなものでした。【南海&群時】コロッケの唄、東雲節、一かけ節、時代節、大阪の女、【小林】出囃子集め(私のロバさん/柳昇、トンコ節/W.モアモア、さらばラバウルよ/竹三)、聴け万国の労働者(替歌/千葉市某小学科応援歌)、タップとともに(月光価千金、美しき?、東京節)、いつものネタ(擬音集など)、(中入り)、【南海&群時】タマランソング、ベアトリ姉ちゃん、大阪行進曲、【南海&群時&小林】のんき節、ハイカラ節、復興節。今日は、いつも設定されるテーマは置かれず、従って、さほど新しい曲が披露されるということもなく、但し、替歌はニュース性が命ですから、各曲ごとに用意された替歌は、旬の時事ネタを反映されてはいたのですが、南海さんがぼやいていたように、時事ネタの盛衰が激しく、ニュース性が、簡単に落ちてしまうと言われていました。ただ、テレビを観ることのない黄紺にとって、旬の時事ネタほど、縁の遠いものはなく、半分ほどは理解不能でした。周りの人は笑っているのに、解らないという状況ですが、ま、これは折り込み済みですから、我慢です。マグナム小林は大サービス。繁昌亭や東京の落語会で見たことのない書生節ネタを見せるだけではなく、いつものおなじみのネタも出すという気前の良さ。この人、元談志門下の噺家さんなんですね。南海さんの紹介で、初めて知りました。寄席の世界が、先にありきという方だったとは、考えてもいませんでした。物珍しい芸だということからでしょうね、客席におられた講談会ではおなじみの方が、大喜びされていました。繁昌亭に、定期的に来演される東京の色物さんの位置をキープされているのも、やはり支持されていることの証だと思います。なかなか新鮮なコラボだったのですが、宣伝が悪いとしか言いようがないのですが、動員力がいまひとつだったというのは残念な事実。聴きたい人は、もっといるはずと、黄紺は思うのですが、、、。


2016年 7月 27日(木)午後 11時 8分

 今日は文楽を観る日。今日は、夏休み公演の第3部を観てまいりました。第3部は、「夏祭浪花鑑~住吉鳥居前の段/釣船三婦内の段/長町裏の段」が上演されています。夏の演目として、しばしば上演されているもので、義父殺しのある「長町裏の段」は、文楽らしい過剰な表現ながら、だんじり囃子に乗った舞台は迫力満点で、どうしても引き込まれてしまいます。その舞台を務められたのは、太夫さんの方は、団七を咲甫太夫さん、義父義平次を津駒太夫さん。憎々しげな津駒太夫さんに、若々しさを出した咲甫太夫さんと、持ち味をたっぶりと示してくれましたし、人形の方は、団七を遣った勘十郎さんが圧倒的で、もはや独壇場。義父義平次は玉也さんが遣われていました。「悪者でも義父は義父」と、殺したあとには、念仏を唱える団七ですが、一旦、殺さねばと堰を切ったときの殺し方はえげつないものがあります。なぶり殺しというやつです。ま、これは、それまで、いたぶる義父に、我慢を重ねてきたのが爆発したということでしょうが、文楽の表現は、いつもながら過剰なものがあります。この第3部は、2時間の公演ですから、正に、「夏祭浪花鑑」のええとこ取りのダイジェスト版。ですから、キャラの把握とかが的を得ているのか判らない点があるのですが、3人の侠客、それぞれの持ち味がいい感じに、黄紺の目には映りました。老成した三婦、徳兵衛は、「住吉鳥居前の段」で、団七とやり合うが、手を組んだあとは、今日は出てこないのですが、「釣船三婦内の段」で、その女房お辰が出てきて、これが、やたら気っ風がいいものだから、徳兵衛の株もぐーんと上がる寸法。団七は、言うまでもなく威勢がいいし、若さがあるのがいいですね。こういった3人に対して、彼らが守る磯之丞が、この3つの段を観る限りでは困ったちゃん。ちょっとアホぼん系。琴浦も、なんで、こないな男に惚れてしまうのでしょうか。アホぼんだからかもしれません。夏公演だけが、夜の公演があるのですが、満杯にはなりませんね。この演目でですから、苦戦です。やはり、この時間帯の客席の平均年齢が低い分、動員力は落ちるようです。替わりに、外国人の姿が多いように思いました。


2016年 7月 26日(水)午後 11時 43分

 まず、昼間は、息子と、京都で待ち合わせて、家の用事。ちょっとだけ、お茶もして、黄紺は、大阪への大移動。
 大阪では、南海さんが講師を務める講座を聴きに行ってまいりました。「大阪府立大学 I-siteなんば 公開講座」の「上方芸能への誘い 講談編Ⅳ」というものです。何回かの連続講座になっていたのですが、他の日は都合が悪く、今日だけ行くことができたというわけです。今日は、後半に、南海さんが「水戸黄門」を読まれるということで、そのような、漫遊ものが、講談のジャンルを形成していく過程を、この講座のコーディネーターでもある、同大上方文化研究センター主任の西田正宏教授と南海さんの対談形式で、お話しが進められていきました。講談を成立させた軍記ものが、戦乱がなくなるとともに、他のジャンルものに、その地位を譲っていく。お家騒動もの、そういった物語で活躍する人物の伝記、なかでも剣豪もの、更に、彼らの物語を引っ張る講談の常套手段として、よく採られるのが、そういった人物を漫遊させるというもの。ちょうど、江戸時代、平和な時代が続くようになると、名所図絵のような書物の出版も出てくる社会の変化に対応しているというわけです。そないな中に、いや、そういった雰囲気を受けた代表作が「水戸黄門」だというわけです。南海さんの口演では、湊川神社にまつわる有名な抜き読みだけではなく、そのあと大坂に入った黄門さんの活躍譚も読まれるというものだったのですが、これが、落語「匙かげん」にもなっているもの。この読み物は、南湖さんが、東京の琴調さんからもらわれているので、何度か聴いているもの。もちろん、琴調さんの口演でも聴いているのですが、こちらは「大岡政談」の1つとして読まれています。それを、「水戸黄門」の抜き読みとして読まれたので、びっくり。ひょっとしたら、旭堂では、「水戸黄門」ものとして読まれていたのかもしれません。どこかで、南海さんに確かめてみなければなりません。
 講演が終わると、講談会で顔馴染みになった3人の方たちと、食事とお茶。黄紺を入れた4人は、講談とともに音楽ファンということもあり、延々と談論に花が咲き続けました。


2016年 7月 25日(火)午後 11時 00分

 今日は、出がけに、眼鏡が壊れるというトラブル。この2月にも、同じことが起こり、そのときは、隼人くんの会をドタキャンせざるをえなくなったのですが、今日は、時間にかなり余裕があったため、新しいフレームに交換してから出かけても、夜の落語会には、十分間に合いました。その落語会とは、動楽亭であった「小鯛の落語漬け~桂小鯛落語勉強会」。その番組は、次のようなものでした。文五郎「二人癖」、小鯛「遊山船」、わかば「片棒」、(中入り)、小鯛「花色木綿」「英語で話そう」。4ヶ月前に、膝を骨折した文五郎が復帰しました。落語家生命も危ぶまれた骨折だと聞いていましたから、とにかくは一安心です。ですから、文五郎の落語って、久しぶりに聴くことになったのですが、骨折前に比べて、余計な力が入らなくなって、えらくいい感じになっていました。そうなると、ちょっと古風な喋り方が個性となり、受けも良くなっていくのじゃないかな。主役の小鯛は、予定は2席、内「花色木綿」をネタ出し。でも、「遊山船」を含めて、ともに長講がなかったということで、新作ものを、最後に付け加えました。ただ、この「英語で話そう」は、小鯛作品ですが、前にも聴いたことのあるものでした。今日は、小鯛の口演で、まともに聴けたのが「花色木綿」だけ。あとの2つは、口演のどこかで居眠りが出てしまいました。特に「遊山船」の入り方が、賑やかさを出す小鯛の口演が秀逸で、これは聴きものと思っていたにも拘わらず、居眠りが出てしまいました。今日は、ちょっとウォーキング疲れが残ってしまいましたね。「英語で話そう」は、小学校に英語が導入されたことから起こる家庭内の騒動を取り上げたものですが、その騒動の中身が残っていません。唯一大丈夫だったのは「花色木綿」。全体が、陽の空気で進む口演が快適ですね。小鯛の場合は、意図的に,そういった空気を出そうとして、その空気を出せるのがすごいですね。あまりに能天気に、嘘八百を並べるアホに、「この件が済んだら出て行ってもらおう」と、大家に言わせます。大家は、自分の任務を粛々とこなしているという体です。このくすぐりは秀逸、また、それを察知した客席に大受けでした。ゲスト枠はわかば。わかばがゲストで喚ばれたというのは、他の会では遭遇体験はないのではないかな。あまり、落語を熱心にしているという雰囲気が、以前からありませんからね。何をするのだろう、でも、やはりあれだろうと思っていたら、やはり、あれでした。久しぶりに、わかばを聴いたのですが、ちょっと言葉が不明瞭なところが、何ヵ所もありました。53歳というには、早すぎますね。


2016年 7月 24日(月)午後 11時 3分

 今日は、落語と浪曲のジョイントの会へ行った日。JOY船場であった「天使・隼人のミックス演芸会『君の芸は』」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。天使&隼人「挨拶」、隼人「落語:火事息子」、天使(沢村さくら)「浪曲:壺阪霊験記」、(中入り),隼人(沢村さくら)「浪曲:大石の東下り」、天使「落語:書き割り盗人」、全員「トーク」。2人が、それぞれの本芸と、それを交換して披露する会。狭い会場は満員。隼人&さくら人気もあるでしょうが、企画の目新しさが人を集めたようです。浪曲ファンもいることはいましたが、目についたのは、コアな落語ファンの方々。「艶噺」に次いで、天使のヒット企画じゃないかな。ただ、本芸交換と言っても、百年長屋の会で、隼人くんの落語は聴いたことがあり、かなりの芸達者ぶりは判っていたのですが、問題は天使の浪曲。1ヶ月間、さくらさんの元を訪ね、稽古を重ねたということですが、1ヶ月でものになるくらいの芸ではありません。冒頭の節を聴いた段階では、声がいい、音程も大丈夫ということで、期待を持ったのですが、そこだけでした。本人も解っていたようですが、揺れる節を外さないでとることは、一朝一夕にはできないということでした。天使は、芝居をしていたのかなぁ、だからでしょうね、声が出るから、更なるチャレンジをしてもらえたらと思いました。最後の「トーク」で、隼人&さくらのお二人も、続けることに乗り気でしたから、その成果を聴かせてもらえる機会があるかもしれませんね。一方の隼人くんは、この会のために、落語の新ネタを仕入れたみたいでした。出囃子から「正札付」でしたから、これは大きめのネタをするなと思っていたところ、なんと「火事息子」でした。時々、大阪弁が出てきたり、見台を出して、場面転換に小拍子を使ったりと、ちょっとした隼人風。やっぱ、浪曲の啖呵で鍛えているだけあって、しっかりとした語り口は魅力。余芸としては、これ以上はないという代物でした。本芸になると、隼人くんの「東下り」は圧巻。このネタが、さくらさんとのコンビを成立させた記念すべき1作目だったことが、あとの「トーク」で触れられていました。また、テキストも、コンパクトに筋立てをまとめた優れもの。1つだけ、気になったのは、大石の対応策が、予め明らかにされている点。クライマックスの高揚を邪魔してしまいますね。天使の本芸は、天使で初めて聴いた「書き割り盗人」。浪曲をするときと同じような不安感を感じながらの口演に、ちょっとがっかり。「初天神」以外のネタでは、いつ、どのネタを聴いても、そのように感じてしまいます。天使って、「トーク」のときも、そうなんだなぁ。キャリアは浅くても、年齢的には、かなり上なんだから、もっと厚かましい態度でもいいのにと思ってしまいます。


2016年 7月 23日(日)午後 11時 00分

 今日は、昔の同僚との食事会。以前は、3人で集まっていたのですが、その内の1人が、この4月に亡くなってしまったために、今回からは2人になってしまいました。寂しいことですが、どうしようもありません。もう20年近く前に、高校時代の友人を亡くし、10年近く前にも、元同僚を亡くしと、こないなことが増えていき、やがては、全て消えるときがあるのでしょうが、儚い話です。幸い、昨日は、動き回るDを見てきましたから、ちーとは元気をもらえたかな。食事は、またしてもタイ料理。ビールはチャーンと、タイ尽くしの夜となりました。


2016年 7月 23日(日)午前 5時 54分

 昨日は、午後、所用があり息子のところへ行き、夜は繁昌亭に行く日でした。今夜の繁昌亭は、「染雀晴舞台 芝居噺の世界~25周年記念その2~」がありました。その番組は、次のようなものでした。おとめ「東の旅~発端~」、染雀「軽業」、文三「ちりとてちん」、染雀「昆布巻芝居」、(中入り)、遊方「戦え、サンダーマン」、染雀「中村仲蔵」。おとめはのあやめの弟子。昨日の高座を想定して、名前を付けたとか。先日、ツギハギ荘で、初舞台を踏み、昨日が2回目の高座。もちろん、繁昌亭は初めて。さろめの初舞台と比べてみると、度胸、口当たりともに、さろめに軍配が上がりますね。そのおとめの「発端」を受けて、染雀の1つ目。プログラムには、「リレー落語」と記されていました。でも、「軽業」の後半から、次の文三の高座まで、居眠り。昨日は、昼間、息子のところに行ったあたりから、体調が悪かったため、致し方がないかな。染雀の3つの演目で、注目の一番は、やはり「中村仲蔵」より「昆布巻芝居」。とにかく演じ手のいないネタ。黄紺も、今まで、随分以前に、文我で1度、当の染雀で1度聴いただけという代物。噺としては単純。食い意地のはったヤモメが、大家の家が用意している昆布巻の入った鍋の蓋を開けさせるために、「宮本武蔵」の芝居をしていくというもの。ただ、芝居のことは、よく解らないのですが、観るからに難しそうに思えるので、手を出すのを控えるのじゃないかな。文三も言ってましたが、染雀は「所作が美しい」ので、見栄を切ったりする場面の型が、黄紺が観てもきれいに見えます。冒頭の謡も上手だし、何をさせても上手いのが染雀です。それにつけても、「昆布巻芝居」は、よくできています。鍋蓋のことなど、すっかり忘れさせしまうほど、芝居が佳境に入ったところで、大家が鍋蓋で身を防ぎ、一挙に現実に引き戻されるわけですからね。一方の「中村仲蔵」はネタ下ろしのよう。舞台は東京に設定し、仲蔵と妻以外は、全て江戸弁で進行。仲蔵は、上方の出ということで大阪弁を使うということになっています。総じて、仲蔵の妻の気丈夫、献身的な姿勢に引き込まれてしまいました。次に、5段目の初日の場面の描写がいいですね。リズミカルで、それまでの仲蔵を巡るやり取りから、テンポを上げることで、仲蔵が生涯をかけた舞台であることを解らせるようにしていました。噺の中の客席が、仲蔵の所作を観て息を詰めたように、繁昌亭の空気も、緊張感がみなぎりました。染雀は、地噺風お喋りをして、その空気を切ったりしたのは、余計なサービス。そのまま、緊張感溢れる空気にしびれたいときもあります。そんなで、さすがに芝居噺は、総じて聴かせます。もう1人のゲストは遊方。自分が、色物扱いを受けたような出番の依頼を暴露。「ここで言うため黙ってた」には、大爆笑。「芝居噺の会ですから、そういった噺をします」で、「サンダーマン」に、ネタを知っている客は、またまた大爆笑。確かに、とってもいい色変わり。染雀の噺の間に入ると、逆に遊方の噺も際立つといった相乗効果が生まれていました。いや~、とってもグレードの高い会。この25周年を記念した会は、あともう1回、10月に開かれるのですが、その日に、南海さんの「続く会」が入りそうで、どうするか、開催日を知ってから、頭を悩ましているところです。ホント、罪な日にちに設定してくれたものです。


2016年 7月 22日(土)午前 5時 24分

 昨日は、昼間は、繁昌亭の昼席、夜は、昔の同僚との食事会でした。繁昌亭の昼席は、今週2回目。こないだの日曜日は、特別興行でしたので、通常の昼席としては初めてとなります。昼席は、福笑が出るときに行くことにしておくと、年に何回かは覗くことができるとして、ここ数年間続けているのですが、最近、福笑の出番が、外国にいるときに当たることが多く、その黄紺的基準で、繁昌亭昼席通いをする久しぶりの日となりました。その番組は、次のようなものでした。紋四郎「つる」、染左「兵庫船」、坊枝「ガマの油」、大森くみこ「無声映画」、米平「猫の茶碗」、新治「ちりとてちん」、(中入り)、京次郎「舞踏和妻」、学光「荒茶」、笑助「遊山船」、福笑「裏切り同窓会」。今週の前座は紋四郎。2日間、休みがあるので、こないだの日曜日に、出番が入っていたのですね。マクラなしで、終盤の繰り返しをしなければ、寸法はびったりの「つる」でした。2番手は笑助らしいのですが、昨日は、出番交替があり、笑助はトリの前となっていました。その染左は、長閑な「兵庫船」。旅ネタはいいですね。もちろん、時間の関係で、問答まででしたが、ボケ倒す男に、いちいち「こいつアホでんねん」と入れるのが、可笑しくって。皮肉屋の坊枝は、前の染左が、阪大ネタをマクラでしゃべったものですから、紋四郎もそうだとばらし、でも、誉めながらいじるという、この人ならではの物言いが楽しい。ネタは、十八番の「ガマの油」。この辺から、ベテラン陣は、団体さんが客席を占めていると知ってのネタ選びが続いたと言えると思います。米平は、時事ネタで、たっぷりマクラをふって、軽いネタを出し、彼なりの対応。でも、黄紺的には、こないに長いマクラをふった米平って、何年ぶりだろうかと思ってしまいました。こうなると、新治はこれだろうと思った通り。ドンピシャでした。時事ネタを繰り出したマクラから全開でした。学光も、この流れだったら、「荒茶」しかないって思っていたら、こちらも大当たり。たまには、外してくれないと、張り合いってものがなくなります。ましてや、自分的には、繁昌亭でしか聴けない学光にしては、「荒茶」が当たり過ぎます。ですが、前の京次郎の作った華やかな雰囲気を、敢えてぼそぼそ話でクリアしてしまうところ、いや、そういった喋り方でクリアしてしまおうとする学光のキャリアに脱帽です。笑助は、吉本の「山形住みます芸人」になってから、遭遇機会が激減してますから、繁昌亭昼席への参戦は、嬉しい凱旋です。ちょっと喋る機会が少ないのかなぁと思わせられる高座でしたが、実力は、こないなものじゃないと判っていますので、ごく小さな違和感を感じさせるものがありましたが、久しぶりの遭遇を楽しませていただきました。橋の上での喜ぃ公のはしゃぎぶりに好感、でも時間の関係で、早々に稽古屋の船がやって来てしまいました。仕方のないことですね。福笑は、いつもよりは短めのマクラ。どうしたのだろうと思ってると、「裏切り同窓会」。このネタ、長かったんですね。最近の新作も聴いてはみたい気持ちもあるのですが、過去の秀作を聴けるのも、嬉しいところ。繁昌亭で、福笑を聴くときに味わう贅沢な悩みです。前半の鬱っぽい男が、後半の同窓会に行くや、弾けてしまう、正に「裏切る」のが、めっちゃ可笑しい。おまけに、馬場ふみ子先生という婆さんを引きずる二人三脚は、傑作場面。「入院」とともに、「引きずり」の名場面と、黄紺は考えています。終演は、測ったかのように4時10分。そこから、夜の部まで時間があったので、最近、繁昌亭昼席に行ったときの定番、千林までのウォーキング。変な雲が出ていたので、雨の心配もあったのですが、幸い、セーフ。そして、夜は、1年ぶりの再会を楽しんでまいりました。


2016年 7月 20日(木)午後 10時 39分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「ガブリエル・フォーレ― 室内楽全集 vol.6 ―」と銘打たれたコンサートがあり、関西弦楽四重奏団(ヴァイオリン:林七奈&田村安祐美、ヴィオラ:小峰航一 、チェロ:上森祥平 )に、ピアノの岸本雅美が加わり、「G.フォーレ:ピアノ五重奏曲 第2番 ハ短調 op.115 (1921)」が演奏されました。今日が、「フォーレ室内楽全集」の最終回とか。まだ、フォーレ―の室内楽作品は残っているはずですが、一応区切りとか。その最終回に選ばれたのが、ピアノ五重奏曲第2番だったというわけですが、一つには、最終を、関西弦楽四重奏団にということだったのかもしれません。30分余りの曲ですから、他にも、何か小品が付くのかもと思っていたのですが、1曲だけのプログラム。とっても、個性的な曲ですから、そのようなプログラムで、納得してしまうから、不思議です。冒頭のオーナー氏の解説によると、「5つの楽器がバラバラに弾いている」「1番は、まだ、2:3なんていう組み合わせがあったのですが」と、一掴みにして言われていましたが、冒頭のヴィオラ・ソロが終わると、それぞれが手前勝手に弾かれていながら、塊としての意志があるような音楽のうねりが渦巻いていきます。3楽章だけが、異質ですが、他の3つの楽章は、多かれ少なかれ、そういった音楽の推移といったところ。ただ、塊としての意志が弱かったなぁというのが、今日の演奏を聴いた感想。昔のN響を聴いているみたいと、自分の中でしか解らない言葉で、この演奏を捉えてしまいました。総じて、ピアノの割り込み方も弱かったのも、ちょっと気になったところかな。ところが、このフォーレの曲を塊として捉え、アンサンブル作りをしていって、らしい演奏が生まれるのかというと、そうとも思えないのです。正に、バラバラに弾いていったときに化学反応が起きるときに生まれる意志なのかなぁ、そないなことを考えさせてもらった演奏だったと思います。関西弦楽四重奏団の次なるチャレンジは、カフェモンタージュのオーナー氏の言葉で記すと、「弦楽四重奏の王道」をということで、「シューマン&ブラームス」だそうです。そのプレ演奏会ということで、今日の5人で、シューマンのピアノ五重奏曲が予定されているのですが、またしても、黄紺が、日本にいないときに計画されています。ホント、またしてもです。若いときに、散々聴いた、シューマンのピアノ五重奏曲との出逢いは、運から見放されています。


2016年 7月 19日(水)午後 10時 45分

 今日は講談を聴く日。天満橋の双馬ビルであった「南華の会」に行ってまいりました。2ヶ月に1回、定期的に開かれている会ですが、去年は、ほとんど行けなかったのに対し、今年は、しっかりと外せずに行けています。その番組は、次のようなものでした。「復讐奇譚安積沼~小幡小平次~」「野狐三次~木っ端売りの三次~」。2つとも、今まで、南華さんが、この会で、続き読みをされてきたものからのもの。「安積沼」は、夏だということで、幽霊が出るということでのチョイスだったのですが、今日は、この長い幽霊話で、あえなく居眠り。このネタが出るたびに、居眠りをしてしまっているように思います。ですから、南華さんが、冒頭で、「以前のものから変えました」と言われていた箇所など、解る術を持っていないのです。「野狐三次」は久しぶり。ましてや「木っ端売り」は久しぶりです。でも、長い長い「野狐三次」の物語からすると、抜き読みでするときも、浪曲によるええとこ取りをするときも、なぜ、この箇所を取るのか、未だもって解らない黄紺なのです。「祐天吉松」でも、子どもに会う場面が、抜き読みや浪曲で取り上げられますから、同じような心性が働いているように思えてなりません。本来の話に関わるピックアップなら、話の展開に関わりが薄いところから選んでますからね。ま、子どもを出せば当たるというところなんでしょうか。「木っ端売り」が出るたびに、同じことを考えてしまいます。


2016年 7月 19日(水)午前 7時 18分

 昨日は、寝屋川市駅近くの新しいホール、アルカスホールでのコンサートに行く日。アンサンブルヴィトラという名を付けたアンサンブルのコンサートがあったのです。アンサンブルの顔ぶれは、関西の音楽界で活躍されている方が中心になっているのですが、そのメンバーは、次の方々です。(ヴァイオリン)白井篤、杉江 洋子、(ヴィオラ)金本 洋子、(チェロ)北口大輔、(ピアノ)塩見亮。次に、プログラムを記しておきます。「W.A.モーツァルト:アイネ・クライネ・ナハトムジーク ト長調 K.525」「L.V.ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第4番 変ロ長調 "街の歌" op.11」「J.ブラームス:ピアノ五重奏曲 ヘ短調 op.34」。弦楽四重奏に、ピアノが1つ入るだけで、アンサンブルの形態が、とっても増え、それを、臨機応変に使い分け、プログラムを組むというコンサート。前回は、弦楽三重奏という形も披露したと言われてましたが、今回は、ピアノ三重奏が入りました。「街の歌」という名前付きながら、演奏機会の少ない曲。ヴァイオリンをクラリネットに持ち替えての演奏もありで、でも、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲は、「大公」に比べると、演奏機会が、極端に落ち、遭遇機会もなかなかのもの。久しぶりに聴いてみると、特に第2楽章のゆったりとした長閑なメロディラインが素敵で、ちょっとした穴場的作品のように思えてしまいました。前後してしまいましたが、1曲目は、有名な「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」。ただ、プログラムに、この曲は、本来は5楽章形式の曲で、メヌエットの楽譜がなくなったと、黄紺の知らなかったことが記されており、その記述の読み方が悪かったのか、メヌエットの一部が残っているように読め、且つ、それが、演奏されるのではと思ってしまい、 ちょっと変な期待をしてしまったのですが、実際に演奏されたのは、通常、よく演奏されるものだったことで、黄紺の深読みしすぎだったことが判明。モーツァルトって、こうしたことが、時としてあるのも、興趣をそそるところなん ですね。先日の「フィガロ」も、アリアをカットするのかしないのかを、気にしながら聴けましたものね。そして、休憩を挟んで、お目当てのブラームス。有名過ぎる曲なわりに、生の演奏に接することが、なかなか叶わないのが、ひたすら、その編成にあるため、こういったコンサートでしか聴けないため、どうしても目玉になってしまいます。1つの楽章が終わるたびに、次に出てくる新たなメロディを待つわくわく感がたまりません。総じて、白井さんの繊細なヴァイオリン、明るさのある明瞭な音を出される北口さんのチェロと、自分的には初遭遇の方が、好印象を残したアンサンブル。去年は、シューマンのピアノ五重奏曲をメーンに、コンサートを持たれたそうで、アンコールでは、ドボルザークのピアノ五重奏曲の第3楽章を演奏されましたから、来年は、どうやら、フォーレやコルンゴールドではなく、名曲中の名曲と、勝手に思っているドボルザークが聴けそうです。京阪沿線で室内楽が容易く聴ける幸せです。


2016年 7月 17日(月)午後 10時 10分

 今日は、兵庫県立芸文センターで、「フィガロの結婚」の本番を観る日。本番は、日本人キャストの方を買ってありました。スザンナを歌う中村恵理を目当てにしての、日本人キャストです。キャスト全体を記しておきますと、次のようになります。(アルマヴィーヴァ伯爵)髙田智宏、(アルマヴィーヴァ伯爵夫人)並河寿美、(スザンナ)中村恵理、(フィガロ)町英和、(ケルビーノ)ベサニー・ヒックマン、(マルチェリーナ)清水華澄、(バルトロ)志村文彦、(バジリオ/ドン・クルツィオ)渡辺 大、(アントニオ)晴雅彦、(バルバリーナ)三宅理恵。先日、外国人キャストを観ていますから、両者の比較だけをメモっておきますが、外国人キャストの方は、あくまでもゲネプロという前提でのメモということで書いておくことにして、総体として、日本人キャストに軍配を上げねばなりません。一番の違いを感じたのは伯爵。やっぱ、声質がそぐわな過ぎました、外国人キャストの方は。しかも、日本人キャストの方は、キール歌劇場のアンサンブルの歌手で、何度か聴く機会があったのですが、安定感抜群、しかも、声質はばっちりとくると、これは、大きな隔たりを感じてしまいました。日本人キャストで、逆に困ったちゃんはフィガロ。福井から聴きに来ていた高校時代の友人は、4階正面で聴いていたのですが、聴こえないときもあったというほど、パワーに問題ありでした。でも、外国人キャストのフィガロも、大差はなかったと思いますから、こちらは、引き分けってところです。伯爵夫人、スザンナ、ケルビーノは、少しずつだけど、日本人キャスト寄りというのが、黄紺の感想です。期待の中村恵理は、存外、しっかりした声で、高校時代の友人などは、伯爵夫人の声質に似通っていたと言ってたほどです。手紙の二重唱を心配したほどとまで言っておりました。黄紺は、そこまでの心配はしませんでしたが、スザンナにしては強い、しっかりした声であることは確かだと思っています。伯爵夫人を歌った並河さんは、日本のトップ歌手の一人として、幾度か聴く機会がありましたが、今日が一番。こないにキレイな声を持っておられたんだと、この日一番の出来栄えとも言えると思っています。ケルビーノは、両キャスト、どっちもどっちかと思うのですが、歌唱も動きもですが、ただ一点だけ、今日のキャストに一票入れたい点がありました。それは、ちょっと舌足らずっぽいレシタティーヴォが、少年性を表しており、黄紺は、これで動けたらなぁと、ホント、残念な気持ちになりました。あと、目立ったのはマルチェリーナ。この人は良かった。動けるうえに、声にパワーがあります。高校時代の友人は、最終幕が、トラディショナル・カットで、マルチェリーナのアリアが省かれたのを恨んでいました。そんななか、友人が気に入ったのがバルバリーナ。聴いていた位置で違いがあるようで、黄紺的には並みに聴こえたのですが、遠い位置で聴いていた友人の耳の方が当たっているのかもと思っています。しかし、バルバリーナにまで、アリアらしきものを与えたモーツァルトって、やっぱすごいと、今更ながら思ってしまいます。あの短調のメロディって、一度聴くと、耳にへばり着きますものね。歌唱だけではなく、動きも大きく、今日の公演に、更に一票ですが、やはり、本番ということの水増しで考えなきゃならんのでしょうね。それにつけても、「フィガロ」ほど、何度観ても楽しいってオペラはないよな、これが、帰りの電車内で、友人と交わした、当たり前と言えば当たり前の言葉でした。


2016年 7月 16日(日)午後 8時 56分

 今日は繁昌亭昼席に行く日。今日の昼席は、「桂文枝・芸能生活50周年記念誕生日特別公演」と銘打たれた特別興行がありました。かなりの豪華メンバーが揃うということで、ちょっとミーハー気分でのチョイス。その番組は、次のようなものでした。紋四郎「金明竹」、福丸「元犬」、坊枝「刻うどん」、文福「河内音頭:六代文枝一代記」、文之助「マキシム・ド・ゼンザイ」、春之輔「死ぬなら今」、(中入り)、文枝・春之輔・松枝・きん枝・坊枝(司会)「記念口上」、松枝「うなぎ屋」、きん枝「狸賽」、文枝「富士山初登頂」。開場前の繁昌亭前には、報道陣とおぼしき人がうろうろ。この記念の会の取材に来ていたのですが、黄紺は、単に記念の会の取材とだけ思っていたのですが、それだけではなかったことが、ようやく「口上」あたりで、ちらついて来ました。文枝の言い方では、50周年を記念して何かやらないかと、吉本から言われ、「富士山に登りたい」「富士山で落語会をしたい」と言ったら、プロジェクト・チームが組まれてしまった。実際の登山には、報道陣も付いてきたそうで、富士山頂で発表するはずだった新作が、最後までできなかったので、今日、そのお披露目をするということでした。これで、ようやく、報道陣が繁昌亭に現れていたわけが判った次第です。その新作「富士山初登頂」は、妻を亡くした80歳の夫が、気持ちを取り直し、一人で頑張ることを誓うために、富士山登山をするのを、子どもたちが、ちょっとひねったサポートをするというものでした。その文枝をサポートする師匠連は、いずれも軽めの噺。その中で、めっけものは、「マキシム・ド・ゼンザイ」と「死ぬなら今」。「マキシム・ド・ゼンザイ」は、久しぶりの遭遇。文之助の出番の位置を考えて、これが出る可能性ありと期待していたところに、ドンピシャ。甘味過剰で、首筋に鳥肌が立つ思いになりながら、聴けたことの嬉しさに満足です。「死ぬなら今」は、最近、若手の誰かが手がけていたと思いますが、それまでは、春之輔と文我しかやらなかったもの。黄紺的には、このネタを聴くと、先代文我を思い出してしまいます。松枝の高座が、どんどんといい感じだなと思えるようになってきています。アホを、これだけ、軽~く描ける人っていないよなと思ってしまうのです。「うなぎ屋」の序盤、アホが水を呑まされる噺は、もう最高です。若い頃と違い、演じてやろうなんていう下心が、キレイに消えてしまってますものね。前の2人は、今週の顔ぶれと違うため、なぜという疑問がわいてしまったのですが、わけは判りません。紋四郎を、繁昌亭で見るのは初めてだと思います。前座は、無理してマクラをふらなくてもいいのに、おもしろ話を脈絡なくしてしまってました。そのためが、「金明竹」の立て弁の手前で切り上げてしまいました。福丸は「元犬」。うまく刈り込み、時間内で下げまで持って行きました。一時、消えたかのようになっていた「元犬」を取り上げる若手の噺家さんが出てきているのは、嬉しいこと。今日のように刈り込みがあると、犬の所作をしつこく追わないから、いい感じになりますね。


2016年 7月 15日(土)午後 8時 17分

 今日は、「民博ゼミナール」に行く日。日程の調べ忘れが続き、久しぶりに行ってまいりました。今日の「みんぱくゼミナール」では、南真木人(国立民族学博物館准教授)さんによる「ネパールの楽師カースト・ガンダルバの現在」という講演が行われました。今から30年余り前に、民博でネパールを取材して、それが映像資料として残され、一般にも公開されているのですが、その映像に映っているネパールと、今のネパールを比較することで、30年余りの間の変化を辿ろうということが出発点となり、その中で、1つの楽師カーストという特異なケースを取り上げ、今日のお話しをされていました。都市化、産業化、体制の変化といったことが、この30年余りの間に、ネパールにも押し寄せたようで、楽師としての職業形態、差別からの脱却など、その変化について、詳しくお話しいただいたようだったのですが、涼しい会場、体が冷えすぎない心地好さは、最近の黄紺には禁物でした。ふんだんに映像をまじえたお話しにも、今日も居眠り。終わったあと、お話しの中で出てきた映像資料などの視聴をしていても、居眠り。居眠りするには、まことに結構な環境でした。目覚ましのために、映像資料の中に、ファドの演奏が入っていましたので、それに頼ることで、ようやく覚醒したのですが、その段階では、既に閉館時間が間近に迫っておりました。明日こそは、居眠りしないように頑張ります。


2016年 7月 14日(金)午後 10時 38分

 今日は、昨日に引き続き動楽亭、但し、講談を聴く日でした。今夜は、「南湖の会」がありました。副題に「赤穂義士と怪談」と付いていましたが、その番組は、次のようなものでした。南湖「赤穂義士伝」、鱗林「間柄のお秀」、南湖「鍋島騒動」「江島屋騒動」。最近、ウォーキングに疲労がたまり、特に午前中にウォーキングをすると、午後のお出かけ前に、体を休めるために、横にならないと、その疲労が取れないということが、しばしば起こっているのですが、今日は、動楽亭に着くと、ホントにぐったり。そないなことが起こらないように、ネットカフェで休息を取っているのですが、ネットカフェにいた1時間ほどの間には、普通に元気だったのですが、動楽亭に入ったら、ダメでした。動楽亭の冷房が、いつもよりは高めに設定されていたためかなぁなんて思ったりしています。もし、それであれば、軽い熱中症かもと思ったり、、、。体が、ネットカフェで存分に水分補給をしたつもりだったにも拘わらず、やたらと水分を求めていましたしね。そんなですから、ほとんど、まともに聴けてないのです、悲しいことながら。一番ましだったのは、最後の「江島屋騒動」かな。でも、このネタは、何度も聴いているしと、うまくいきませんね。なお、「赤穂義士伝」は、刃傷を、赤穂まで知らせる早駕籠について、知らせを受けた大石の対応が読まれたのだけは覚えています。


2016年 7月 13日(木)午後 10時 44分

 今日は、高津神社ではなくて、動楽亭で落語を聴く日。「第10回 ソメかハチか!?」に行ってまいりました。若手の噺家林家染八の勉強会に、2度目のおじゃまをしてきました。その番組は、次のようなものでした。弥っこ「いらち俥」、染八「相撲場風景」、染雀「質屋芝居」、染八「七度狐」。染八本人も驚く大入り。初期の頃は、つばなれをしなかったこともあると聞きますから、この様変わりの原因は、何なのでしょうか。黄紺も、受付で見た予約者一覧表を目にして、もう、その段階で驚いていたのですが、そのままの人数が詰めかけたみたいです。さほど、コアな落語ファンが、多く詰めかけたという雰囲気ではなかったものですから、余計に驚きでした。トップは弥っこ。前座として起用される機会が、どんどんと増えている感じです。吉朝追善の会のレポートなどをマクラでふり、ネタへ。そのネタが、吉朝門下では珍しい「いらち俥」。最初観た頃は、ちょっと舌足らずっぽい喋り方で、不安が先行したのですが、それは、もう過去のこと。フラットに、様々なネタに対応できそうな印象へと変わってきています。デフォルメした「いらち俥」が目立つ昨今、十分にお喋りで聴かせてくれました。染八は、ツイッターにも書いていましたが、このところは、学校公演で各地を巡っていたということで、そこでのおもしろ話をしてくれましたが、話のなかみは、わりかし幼いのが、染八の特徴。噺に入ると、そんなのは吹っ飛ぶのですが。1つ目は「相撲場風景」。子どもを肩車する男が出てきたりして、普段の口演では省かれるものが入っている上に、それぞれのエピソードに出てくる人たちのキャラが違ったりと、なかなか細かな心配りが聴かせます。ゲストは、染八を生まれる前から知っている、ファミリーと言ってもいい染雀。今日、死刑執行が発表された男の話がマクラで聴けました。例の桂あやめ殺人未遂事件の犯人のことです。さすが、染雀は詳しい。人を介して、あやめには謝罪の気持ちを伝えたということですが、その間に立った「人」の話も耳がダンボになりました。染雀は、鳴り物、三味線(岡野鏡)の稽古も兼ねてと言い添えて、「質屋芝居」を出しました。確かに、ゲストが、これだけ、鳴り物の入る噺はしませんものね。幕内からの声は弥っこの担当。やはり、染雀の芝居噺は、きっちりしています。いや、きっちりし過ぎていて、パロディなのに、いいのかなとすら思ってしまうのは、染雀の芝居噺を聴くとき、毎度思うこと。次いで上がった染八は、「もう、これでいいでしょ」と開口一番言いましたが、主宰者がトリをとらないわけにはいきません。大井川のところで、台詞が飛んだりしましたが、こちらも、概ね良好。べちょたれ雑炊を、喜ぃ公が食べ続けるっていうのは、銀瓶の型でしたっけ? 染八の口演では、村人が現れても食べ続けていました。これは、染八オリジナルじゃないかな。染八の口演を聴いていると、台詞回しのおもしろさを追求して、それに関しては、ある程度、成果を上げてきていると思うのですが、夜道の暗さや、尼寺という空間なんかを意識させていくと、もっと、怖くておもしろい噺になっていくと思うのですが、まだ、そちらには目が向いてないように思います。それには、たっぷりと時間をかけて挑んでほしいですね。


2016年 7月 12日(水)午後 10時 55分

 今日は講談を聴く日。地下鉄「四天王寺前夕陽ヶ丘」駅近くにある光照寺であった「第1回光照寺講談会」というよりか、「なみはや講談協会」旗揚げ公演に行ってまいりました。上方講談協会を離脱された講釈師さんの新たなグループの旗揚げというわけです。その番組は、次のようなものでした。鱗林「~最年少プロ棋士~藤井聡太物語」、南海「三方ヶ原の合戦」、南鱗「幸助餅」、なみはや講談協会一同「ご挨拶」。記念すべき第一声は鱗林さんから。それが、なんと時流に乗った新作。藤井4段は、同郷の愛知県出身で、出身地の瀬戸のラジオ番組を持っているという縁での創作だとの長い講釈が付きました。でも、文化放送などから、出演依頼などがあり、うまく乗れそうな雰囲気だそうです。新作の作り方も、時系列的に並べるなどという平易なものではないところに、非凡なものを感じました。南海さんは、東西を問わず、講釈師の初めはこれからと断ってのネタ。でも、そないな単純な口演を、南海さんがするわけでもなしと思いながら聴き出すと、あっさりと居眠り。今日一番の聴きものを、呆気なく聴き逃してしまいました。トリは、初代会長南鱗さん。久しぶりに聴く講談での「幸助餅」。幸助さんが、あまりにもダメ人間なので、落語であろうが、講談であろうが、黄紺の嫌いなネタ。あまり聴きたくないなと思っていたのに、目はぱちくり。皮肉なものです。講談が基ですから、落語になると、わりかしいじっていることを発見。落語は、噺を濃くしてます、全体に。更に、演者が濃くする傾向にあることも判ったような気がして、ますます、落語の「幸助餅」に嫌気が増しました。どんどんと、ダメ人間のダメさをデフォルメして、気持ち悪いだけじゃんというところです。最後は、会友となる左南陵さんを除く、会員が揃い踏みでのご挨拶。但し、ここでも、離脱の原因となった経緯についてのお話はありませんでした。他者攻撃にならない範囲での、簡単な事情説明があっても良かったかなとも思いましたが、、、。最後は、発会記念ということで、大阪締めで、打ち上げとなりました。


2016年 7月 11日(火)午後 9時 14分

 今日は、兵庫県立芸文センターで、まもなく始まる佐渡オペラの公開リハーサルに行く日。黄紺は諦めが早いので、チケットを手に入れようとすらしてなかったので、元同僚が、余ったチケットを回してくれました。ありがたいことです。今日の公開リハーサルは、外国人キャストのもの。黄紺は、本公演では、日本人キャストのチケットを買っていますので、うまい具合に振り分けができ、元同僚に感謝です。その配役をメモっておくと、次のようになります。(アルマヴィーヴァ伯爵)ユンポン・ワン、(アルマヴィーヴァ伯爵夫人)キレボヒリ・ビーソン、(スザンナ)リディア・トイシャー、(フィガロ)ジョン・ムーア、(ケルビーノ)サンドラ・ピケス・エディ、(マルチェリーナ)ロバータ・アレクサンダー、(バルトロ)アーサー・ウッドレイ、(バジリオ/ドン・クルツィオ)チャド・シェルトン、「アントニオ)晴雅彦、(バルバリーナ)三宅理恵、(合唱)ひょうごプロデュースオペラ合唱団、(管弦楽)兵庫芸術文化センター管弦楽団、(チェンバロ)ケヴィン・マーフィー、(指揮)佐渡裕。なお、演出は、「コジ・ファン・トゥッテ」と同じデヴィッド・ニースでした。こちらのオペラ公演は、時代や場所の設定を変えないということで、演出の依頼がされているようですので、観る方も、その範囲内で、プロダクションの検証をしなければならないのですが、それにしても平板なものだったなというのが第一印象。「コジ・ファン・トゥッテ」では、そういった制限のあるなかで、こじゃれた工夫が看られ、結構楽しませてもらえたという記憶があるものですから、素っ気なさ過ぎて、同じ人によるプロダクションとは思えませんでした。こちらの公演の嬉しいところは、公演数が多い分、資金があるようで、装置が、なかなか見栄えがするという特徴があるかと思います。まず、壁が天井まであるなんて装置は、そうは観ることができません。1幕は、フィガロとスザンナの部屋になるというところで、くすんだ壁というよくある装置。ケルビーノの隠れるのはロッキング・チェア風の大柄な椅子という定番スタイル。それを観るにつけ、先月観たハーゲン劇場のプロダクションのアイデアに、今日も感服してました。2幕も、広い部屋を思わせる空間。左側壁に、埋め込みの大きな衣装棚があり、そこが、ケルビーノが隠れる場所。その真向かいに扉があり、伯爵などの出入りの位置になっているのは、「開けろ」「開けない」のやり取りの際、動きが大きくなり、いい位置取り。左奥に外が見えるベランダがあり、ケルビーノは、そこから飛び下りました。3幕は、堂々とした印象を与えるバロック式の壁。右中ほどに噴水、左手前壁前に、伯爵の仕事机を配置。大広間風になっていますから、結婚式は、そのままの場所で、ごく自然に進行。4幕の庭の場面は、左右の壁はそのまま、背後の壁を外し、ホリゾンドに図案化した木を映せるようにしていたのと、最後、伯爵夫人が姿を現すとき、曲がった橋がかかり、その橋を渡り、伯爵夫人は登場するという趣向。そないな装置のなか、歌手陣の動きとしてメモるようなことは、1つもないというのは、ちょっと寂しいのですが、その分、平板に、解りやすく進んだのじゃなかったでしょうか。歌手陣では、外国人キャストの目玉とされていた、実際、黄紺の高校時代の友人の1人などは、その目玉とされていたケイト・ロイヤル目当てに、チケットを買っていたのですが、開演前に出てきた佐渡さんの言葉によると、「来なかった」「キャンセルです」ということで、大変だったみたいで、しかも、それが3週間前になっていたことから、代演探しに苦労したようです。代演のキレボヒリ・ビーソンは、南アの黒人歌手。その旦那役の伯爵を歌ったユンポン・ワンは、台湾人歌手ですから、正に、ドイツでよく観られる光景を、日本でも観ることができたということです。しかも、キレボヒリ・ビーソンは、出産後3週間で駆けつけたということが、佐渡さんの口から明らかにされると、会場はどよめき、また、カーテン・コールでは、一番の拍手を受けていました。確かに、2幕冒頭のアリアは、その緊張ぶりの伝わる歌唱でしたが、その後は安定。そつのない代演を見つけたものだと、スタッフに拍手です。他の歌手陣も、似たレベルだったということが、そういったそつのない状況を生んだものと、黄紺は思っているのですが、1つだけはまずいと思ったキャスティングがあります。伯爵のユンポン・ワンです。きれいな声をしていることはしているのですが、どうも、威張り散らしたりする伯爵の声とは言いがたいものがありました。そんなで、黄紺的には、日本人キャストの方が、も少しの底上げが期待でき、正解だったかもと、ちょっと自己満足の気分に入りかけています。


2016年 7月 10日(月)午後 10時 20分

 今日は落語を聴く日。最近、何かとおもしろそうな企画ものの落語会を、連続的に主宰している月亭天使が開く「月曜日から艶噺 VOL.2」(Word’s cafe)に行ってまいりました。何よりも、女性噺家が艶笑落語会を主宰して、出演も女性噺家だけという落語会というところに、目のつけどころの良さみたいなものを感じ、行ってみようかの気持ちになりました。その番組は、次のようなものでした。天使「三味線漫談」「艶笑小咄集」「茶漬間男」、眞「艶笑小咄三題」。天使は、大師匠八方の娘婿に付いて、長唄を習っているとかで、思いの外、上手に三味線を弾きます。が、調子合わせが整わないまま、本番に入るものですから、唄もずれてくるしと、まだ、人前で弾くには早すぎたよう。自分でも、おかしいと気になりだしてからは、唄だけを披露してくれました。「チョンコ節」の際どい歌詞などでした。「小咄」は、どの文治か言ってはくれたのですが、メモを取らなかったものですから、何代目かは判らないままですが、とにかく文治の音源から3つと、米朝の音源から1つを出してくれたのですが、いずれもソフトな内容。1つだけ、知ってました。酒を買うために、女房が髪を売る噺です。ひょっとしたら、これが、今日一番のエロさだったかもしれません。そして、締めは「茶漬間男」。これは、今や艶笑噺という枠を抜け出るほど、普通の落語会で頻繁に出ていますね。真は、艶笑噺をたくさん残している五郎兵衛一門。今日の会のために、師匠都に稽古をつけてもらっての登場。「小咄三題」の内、前2つは、黄紺も知っているもの。「羽根付き丁稚」と「目薬」です。「目薬」は有名な噺なので、繁昌亭昼席でも出しているのじゃないかな。生々しいエロさのある噺ですが、あまりにもバカバカしいため、昼席に出しても許されるのでしょうね。「羽根付き」の方は、ちょっとした言葉遊びです。そんなで、1時間20分の公演。まだまだ照れがあり、また、ネタ自体も、ソフトなものばかりを選んでいるという印象がありました。「艶」を看板に掲げる以上は、堂々とやって欲しいな。学校の便所の片隅で、声を潜めての猥談ではなく、伝承芸能なのですから。女性の噺家さんとしての楽しみみたいなものも感じさせてもらうには、ちょっと遠かったですね。次回以後に期待しましょう。


2016年 7月 10日(月)午前 4時 24分

 昨日も浪曲を聴く日。2日連続となりました。昨日は、恒例の「第277回一心寺門前浪曲寄席 7月公演」(一心寺南会所)に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。天光軒満月(虹友美)「空海一代記」、真山一郎(真山幸美)「俵星玄蕃」、春野恵子(一風亭初月)「阿波の踊り子」、五月一秀(藤初雪)「名月松坂城」。昨日のネタは、いずれも複数回聴いているものばかりというラインナップ。浪曲は、ネタが少ないので、これで不満を言っていてはダメです。元々、そうなるのを折り込み済みで行っているからです。満月師は、珍しく「父帰る」をネタ出しをされてなかったのですが、にも拘わらず、次によく聴いているネタに遭遇です。最近、中国などで、このネタを披露されているそうです。大層な題名が付いていますが、20分もかかるかというネタで、そうだからでしょうか、最後に歌が付くことになっています。「俵星玄蕃」は「赤穂義士外伝」。討ち入りを、側面から支えたとして、よく取り上げられますが、真夏の暑さなのに、「雪がしんしんと、、、」とは、やっぱダメでしょう。夜泣き蕎麦屋に身をやつして吉良邸の動向を探っていた杉野十平次との交流が描かれます。俵星玄蕃の援助の仕方は、予め、警護団を用意しておいて、但し、任務は秘密で、そして、当日、陣太鼓を聞いて、討ち入りを悟り、吉良邸に近づかせないようにするというもの。そのために、俵星玄蕃の道場は、吉良邸の裏に位置するとなっていました。恵子さんの「阿波の踊り子」は、最近、こればかりに遭遇しているという印象。ま、季節柄、仕方ないですね。他の日も、遭遇機会の極めて多いネタが並んでいましたから、致し方ありません。そないなことより、恵子さんのお顔が、随分とスリムになっていたので、びっくりしました。ダイエット中なのかな。そして、本日のトリは、本席初トリの五月一秀さん。ここに来ての活躍ぶりからすると、むしろ遅かったくらい。でも、親友協会の、出番についての頭の柔らかさに敬意です。繁昌亭の出番作りと大違いです。ただ、ネタが「名月松坂城」。このネタって、講釈師さん、浪曲師さんを問わず、幕内で人気があるようで、よく出ます。ですから、一秀さんまでしなくていいじゃないと、突っ込みたくなりました。いろいろと、ネタが豊富な方ですからね。そう思うと、せっかくの初トリなのに、半ばで居眠りが出てしまいました。昨日は、天王寺駅から会場まで歩いただけで、なんかだるくなってしまったもので、ここまで、ある意味では、よくもったなの印象です。そないに暑くないのに、熱中症になったのかと思うところがありました。ただ、会場の冷房のおかげで、終演後は元気になっていましたが。
 一心寺南会所を出ると、歩いて千日前まで移動。よくお世話になるネットカフェで時間調整。それから、昨日も心斎橋シネマートで、1本、韓国映画を観てまいりました。昨日は、「犯人は生首に訊け」という凄い題名の付いた映画。もちろん、「反逆のノワール2017」の一環として上映されている映画です。この映画半ば過ぎまで、「バラバラ殺人事件」「肉屋」「医者」で、三題噺をホラー仕立てで作ったという雰囲気だったもので、完全に失敗感に包まれていました。肉屋の冷蔵庫に生首があるだの、それが、いつしか自宅の冷蔵庫に移っていたとか、そういった映画がお好きな人にはいいでしょうが、その手の映画を、わざわざお金を払ってまで観に行く趣味のない黄紺は、一昨日に続く失敗だったと、早々に決めてかかっていました。ところが、この映画、一昨日の映画と違い、完全な倒叙ものです。しかも、蛇足と言ってもいいような落ちまで付いていました。「倒叙もの」ですから、「見せない」ものがあったり、「立場(見方)を変える」という手法が持ち込まれます。主体が変わり、主観が変わると、物語は、全く異なった顔を見せるというあれです。そこに焦点を絞りきった作品というところでしょうか。日曜日の夕方とはいえ、前回の客足とは格段の違い。やはり、おもしろいということが伝わっているのでしょうか。内容に比例していただけに、そないなことを考えてしまいました。


2016年 7月 9日(日)午前 5時 58分

 昨日は、結果的に複雑な3部制の日となりました。当初は、午後に、文楽劇場での公演記録鑑賞会で、浪曲を聴き、夜は、 韓国映画を、1~2本観るつもりをしていたのですが、急遽、夕方に「三回忌追善 九世竹本源太夫を偲ぶ会」に行くことになりました。一昨日になり、チケットが余っているという連絡を、知人からいただき、少しスケジュールをいじることになったのでした。まず、公演記録鑑賞会の記録からです。昨日は、珍しく浪曲が取り上げられました。黄紺の知る限りでは、初めてのことで、浪曲ファンには垂涎の会でしたが、1993年12月の「師走浪曲名人会」(文楽劇場)の一部が上映されました。その番組は、次のようなものでした。富士月の栄(富士久栄)「母ちゃん死ぐのいやだ」、春野百合子(大林静子)「夫婦善哉」、廣澤駒三・松浦四郎若・京乃天姫・京山幸若・京山宗若(藤信初子・小池菊江・廣澤昌美)「(立体浪曲)水戸黄門世直し旅」。途中、10分の休憩を入れて、3本で2時間という構成でした。最後の立体浪曲はともかくも、前の2つを聴けたのは、大変な収穫となりました。富士月の栄師は、そのお名前だけは知ってはいたのですが、その口演に接するのは、映像を含めても初めて。とっても達者な技巧を駆使して、しかも、節もいいときていますから、黄紺の耳にも、そのお名前が入ってくるというものです。ネタは、現在、三原佐知子師が受け継がれている小学生の作文を基に作られたもの。結核が、まだまだ不治の病だと考えられていた時代の作品です。次の春野百合子師は、圧巻としか言いようがありません。野放図な柳吉と、そのアホぼんに惚れられた蝶子の物語。下世話でがさつな物語ながら、また、それが、びしびし伝わる節と台詞、仕種ながら、ほんのりと通う気品、これが百合子師の持ち味ですね。60台の百合子師の素晴らしい口演、こんなのが聴けるかもと思い行き、そして聴けた感激は一入です。ここまでの2つで驚いたのですが、浪曲の口演途中に、効果音が入ったり、照明を駆使するなんてことが行われていました。ですから、立体浪曲なんてのが出てきても、何ら違和感はなかったのでしょうね。立体浪曲というのは芝居仕立てになっているものを指すようです。落語の世界の鹿芝居ですね。水戸黄門を駒三師、助さんと役人を四郎若師、代官を宗若(現幸枝司)師、悪い番頭を幸若(現倖若)師、娘を、お名前すら知らなかった京乃天姫という配役で芝居が行われ、その中に、皆さん、少しずつ節をもらっているというもの。黄紺は、こんなのより、お一人ずつの普通の口演を聴きたくて、いらいら。サービスのつもりが、逆効果だと突っ込みながら聴いておりました。黄紺的にはスーパーな企画だったのですが、客足は、普段の文楽や歌舞伎のときとは大違い。久しぶりにゆったりと鑑賞できましたが、恐らくディープな浪曲ファン氏らは、こないな催しがあることを知らないんじゃないかな。
 小ホールを出ると、直ちに大ホールに移動。うまい具合に、休憩時間に入れるはずだったのですが、前半の「対談」が伸び、その末尾だけを覗くことができました。後半は、九世竹本源太夫の息子さんで、会の主宰者でもある鶴澤藤蔵さんを中心にして、「鬼一方眼三略巻」から2つの段(菊畑の段、五条橋の段)の素浄瑠璃が披露されました。藤蔵さんを含めて、出演者は、次のような方々でした。(菊畑)津駒太夫・千歳太夫・呂勢太夫・鶴澤藤蔵、(五条橋)津駒太夫・呂勢太夫・鶴澤藤蔵・鶴澤清志郎・鶴澤清馗。ただ、素浄瑠璃というのは初めてで、しかも、底本が、プログラムに入っていたのですが、黄紺の目には難しく、結局は聴いているだけだったのですが、これが、音楽的に心地よく、しかも、随分と変化があるものですから、結構、楽しめることが発見でき、黄紺的には嬉しい誤算となりました。
 文楽劇場での2つの会が終わると、知人ご夫妻とお別れして、急いで心斎橋シネマートへ。「偲ぶ会」が、終了予定時刻を、かなりオーバーしたものですから、辛うじて、上映開始時刻までに、ロビーで夕食をかっ込んだという感じでした。今、心斎橋シネマートでは、「反逆の韓国ノワール2017」と題し、韓国映画が4本固めて上映されています。その内の1本を観ることにしたのでした。昨夜観たのは、アン・ソンギ主演の「殺戮にいたる山岳」。韓国語題名は、そのものずばりで「山岳」。この映画、9割以上が、山の中のシーンで、追っかけあいが続く、しかも殺しあいが続くという映画ですので、いずれの題名も妥当なのですが、完全にB級映画。アン・ソンギ主演に惑わされました。アン・ソンギが、こないなレベルの映画に出るのかという落胆だけが残った映画でした。こないに書けば、このあとのことを書く必要もなさそうですが、心覚えに認めておくことにしたいと思います。アン・ソンギの役は、鉱山事故の生き残りで、その事故で生き残ったことに、深く傷ついているため、鉱山のあった山から離れられないで住んでおり、事故で亡くした男の娘を気遣いながらの生活を続けていたが、その亡くなった男の母親が、その山に金が取れることを発見したところから、この映画は始まります。母親が金を見つけたところに通り合わせた一人の男が、それに目をつけたところから、山中での殺しあいが始まるという仕掛けですが、その男、及び、その男が連れてきて、アン・ソンギと殺しあいを演じる集団が何者なのか、また、背後にいそうな連中が何者なのか、それらが、きっちり描かれない、どうやら、その内の1人が刑事らしいということぐらいしか描かれないため、この殺しあいを見せるためだけの映画にしかなってないというのが、つまらない最大の原因です。黄紺が、この映画で気がかりとして残ったのは、この山中のシーン、中でも、終盤に出てくる滝壺のシーンと、ほんの僅かに出てくる田舎町、これらを、どこでロケをしたのだろうという点だけ。「反逆の韓国ノワール2017」の残りの3本を観るのに、躊躇いまで生じてしまったほどの駄作です。ま、これだけ多くの韓国映画が、日本に紹介されるとなると、中には、こないなものも混じってきますわね。


2016年 7月 7日(金)午後 11時 17分

 今日は落語を聴く日。黄紺は、高津神社ではなく動楽亭を選びました。動楽亭では、「第19回ショウゴイズム~やる気の松五~」があったのですが、その番組は、次のようなものでした。松五&さん若&石松「オープニング対談」、松五「月宮殿星都」、さん若「鰻の幇間」、松五「宇治の柴舟」。今日も、また、満遍なく居眠りを発生させてしまいました。二度寝を、きっちりと出来なかったことに加えて、今日は、ウォーキングで疲れてしまいました。疲れていたのに、うまく疲労回復ができなかったってところです。ただ、冒頭の「対談」だけは、完璧に聴くことはできました。さん若はさん喬の弟子。文菊や小八、ときんらと同期だそうで、真打ち間近という位置にいる噺家さんです。この同期の噺家さんは、有望な人たちが揃い、黄紺も聴いたことのある人たちが多いのですが、なぜか、この方は遭遇していませんでした。遭遇しているにも拘わらず、失念してしまっているということはないはずと思っています。かつて、三若が、同じ名前だからと、全国ツアーをしたときに、二人会を鳥取だかで開いたとき、松五も出演したことがあるという、聞いてみるとえらく薄い縁だということが判りました。「一番喋らない噺家」と、盟友の石松は、松五を評していましたが、それを不安に思ってか、石松も、冒頭の「対談」に登場。ほとんど、石松中心に笑いを取っていました。主宰者松五は、珍しいネタを2つ並べました。ま、それに惹かれて、この落語会に行ったってところでしたが、いずれも、半ばで力尽きていますので、障りのない範囲内でメモを記しておきたいと思います。松五の「月宮殿」は、鰻の昇天に伴うもの。下げは、「ヘソの仇は長い杓で討った」というもの。この下げが定番なのでしょうね。聴く機会が少ないので、それらしいので、そうかなと思う程度です。途中で、変化技に出る「月宮殿」も聴いたことはあるのですが、松五は、そないなことはしないだろうの感触で聴きに行っているのですが、半ばで居眠りをしてちゃ、検証のしようもありません。「宇治の柴舟」の夢の中の場面、これって好きな風景です。雨上がり、増水した宇治川、それらを背景に歩く女、小走りに川に降りる船頭姿の男、、、風情があります。この一幅の絵のような風景が、目の前に拡がるかどうかが、この噺の成否だと思っているのですが、こちらも、肝心なところで、居眠りをしてしまっていました。さん若は、マクラで「幇間」の話を少し入れ、ネタに入るや、扇子で袖もとに風を送る仕種。もう、これで「鰻の幇間」です。この噺の命は、調子のいい幇間を、どれだけ軽妙に描けるかに尽きます。でも、小さなことだけど、下心を持っているので、目が座ってなきゃと思っています。そうでないと、最後まで、自分が騙されているとは気がつかないことが、変になっちゃうのかなと思うのですが。さん若の口演では、軽妙さという点では、ちょっと物足りなかったかな。あとは、検証できる前に落ちてしまってました。つばなれが厳しくなってしまっているこの会なのですが、今日は、20人ほど集まりました。ただ、開演時間が迫ってきた頃合いに、どやどやと入ってきた一団は、何者だったのでしょうね。ひょっとしたら、動員したのかなとも思ってもみたのですが、皆さんが皆さん、そうでもなさそうだしと、ちょっと不可解な集団が、数を増やしていました。


2016年 7月 6日(木)午後 10時 48分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「弦楽三重奏」 と題して、(ヴァイオリン)瀬﨑明日香、(ヴィオラ:)鈴木康浩、(チェロ)上森祥平という3人の方の演奏を聴くことができました。なかでも、狙いは鈴木さんのヴィオラ。知人から、お薦めをいただいていた方だったのですが、こうやって、カフェモンタージュで遭遇できるのも、運が強いとしか言いようがありません。そのプログラムは、次のようなものでした。「L.v.ベートーヴェン:弦楽三重奏のためのセレナーデ ニ長調 op.8」「同:弦楽三重奏曲 第4番 ハ短調 op.9-3」。機会音楽のカテゴリーに、きれいに納まる「セレナーデ」と、「弦楽四重奏曲」の先駆けとなり、且つ、シリアスな雰囲気を持つ「弦楽三重奏曲」。なかなか、好対象な曲2つを並べるというおもしろいプログラム。先に「セレナーデ」を聴いたのが良かったかな、ヴァイオリンの瀬﨑さんの持ち味が、存分に発揮され、かつてないわくわく感のある演奏。瀬﨑さんの奔放な音楽が牽引し、それは、ときには糸の切れた凧が如くで、それに、切られてはならぬとばかり、中低音域を固めるヴィオラとチェロが、絶妙のバランスでハーモニーを作り出すといった具合で、これほど、聴いていて楽しいものはないと言えるもの。正に、機会音楽には、格好のテイストを提供していました。「弦楽三重奏曲」の方も、基本的なスタンスは同じと言っていいかな。ですから、しかつめらしくて、ちょっとお堅い感じを与える4番に、ベートーヴェンが思い描いたとは違う雰囲気を与えていたかもしれないなとまで思わせられる新しさがあったんじゃないかな。そないな感じで、なかなか、3人の組み合わせがいいのでしょうね。今日は、3人のスケジュールが、京都で出逢うということで実現したものとか。もっと聴いてみたくなる3人の組み合わせでした。


2016年 7月 5日(水)午後 10時 55分

 今日は繁昌亭に行く日。今夜は、「古似士の会~生喬!幸助!落語と文楽一本勝負~」がありました。落語家の笑福亭生喬と文楽の人形遣いの吉田幸助が、ともに「小西」姓ということで実現した会。落語と文楽の深い関係があるからこそ実現する会です。その番組は、次のようなものでした。生喬&吉田幸助「対談:二人のコニシ!」、生寿「文楽紙芝居:新版歌祭文~野崎村の段~(絵:中西らつ子)」、生喬「堀川」、(中入り)、生喬&吉田幸助「文楽×落語のコラボレーション:蔵丁稚(仮名手本忠臣蔵・四段目)」。ディープな落語ファンは、押し並べて文楽通。そういった人たちに加え、文楽ファンも詰めかけ、大変な盛況。最後には、「大当たり」の声まで飛んでいました。幸助さんの奥さまが中西らつ子さんだと知らなかったのですが、それが、幕開きの「トーク」で明らかにされ、この企画も納得。また、中西さんの協力が大きな公演で、「紙芝居」の絵の提供、幸助さんが使われた定吉人形は、中西さんへの結婚指輪替わりに、幸助さんの特別注文によるものだとか。その人形の着物(丁稚の着物)は、別染めの逸品だとか。最後の「文楽×落語のコラボレーション」は、この人形を使って行われました。一人使いの人形ですから、「限界に挑戦してみる」とは、幸助さんの言。しかし、どうしようもないのが左手。一人使いでは、左手を使わないのですが、「四段目」は、判官さんの切腹の場面ですから、九寸五分を、左手から右手に持ち変えねばなりません。テキストが、そうなってますからね。そこで、使われた工夫は、そのときだけ、生寿が左手を務めるというアイデア。黒子の衣装に身を包んだ生寿、さすがに、顔は隠してはいませんでしたが、うまく左手の任を務めおおしていました。とにかく、生寿の活躍は大拍手もの。「紙芝居」もそうでしたし、「文楽×落語のコラボレーション」の開演前には、「トーザイ」をやっていました。この「蔵丁稚」での生喬の口演は、なかなかのもの。今までの口演より、定吉の自然体が進化しており、いい空気が流れ、聴いている我々を、落語の世界に吸い寄せている感じを味わうことができました。このいい気分に対し、「堀川」で居眠り。もう、坐摩の前の心中事件の記憶が、既になく、気がつくと浄瑠璃が始まっていましたから、今日の居眠りは、結構な重症でした。今日は、一人使いだったし、文楽三味線も、浄瑠璃も入るというものではありませんでしたので、生喬が言うように、文楽にシフトしたコラボという企画も可能かと思いました。それは、またの機会ということに致しましょう。


2016年 7月 5日(水)午前 1時 55分

 今日は、京都シネマで映画を観る日。イラン映画「セールスマン」です。大阪でも、現在、上映されていますが、近場の京都で観ることにしました。今日も、「も」なんですね、映画の序盤に居眠り。暑いところから、涼しいところに入り、ほっこりしちゃうとダメみたいですが、それで、筋を追うのを諦めなければならないのかと不安になったのですが、大丈夫でした。端から居眠りをしたのではなかったこと、また、覚醒が際どくセーフの範囲内で起こったからかもしれません。主人公エマッドは、教師をしながら、妻とともに演劇活動をしているのですが、集合住宅が倒壊の危険があるということで、慌てて、同様の集合住宅に引っ越しをするのですが、その新しい住居には、前の住人が置きっぱなしにしていたものが残っていたり、また、その住人が売春をしていたとの情報が入り、あまり気持ちのいいものではないところへ、ある日、家宅侵入の被害に遭います(居眠りで吹っ飛んでいる肝心なところ)。その侵入者は、妻がシャワーを浴びているところまで入ってきたということもあり、余計な疑念も生まれ、夫婦の間もギクシャク。隣近所の噂の的にもなってしまい、それが、演劇活動や、教師としての仕事にも障ったりしていきます。演劇活動では、「セールスマンの死」を上演しているのですが、その芝居のストーリーと、映画の進行がパラレルになっているかもしれないのですが、芝居の筋立てを知らないため、検証のしようがありません。やがて、侵入者が残していったトラックが消えていることから、侵入者を探る糸口が生まれます。車が要るということで、エマッドが仕事をちらつかせ、その侵入者を、誰もいなくなった元の集合住宅に呼び出すと、現れたのは、車の持ち主の婚約者の父親。というところから、ラストに入っていきます。今まで、日本で公開されてきたイラン映画とは、全くテイストの違うものに、まず驚かされます。侵入者の目的や癖となるものは、極めて不道徳なるものというのも、今のイランに似つかわしくないと思える意外性もあり、また、何が正しく、正しくないのか、それが、特に終盤にかけて、混沌としていきます。そないなことに加え、侵入者探しという本筋から派生するエピソードの挿し込みが上手く、かなり吸引力の強い映画。アカデミー賞外国語映画賞受賞をした映画だと、終わってから知りました。なるほどと思わせるものがある映画だと、黄紺には思えました。お薦めできる一品です。


2016年 7月 3日(月)午後 10時 57分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。「ダウンサイジングターボ」という、桂米輝主宰の落語会がありました。1部、2部に分けての変則開催。その番組は、次のようになりました。(1部)米輝「時うどん」、縁「本当は怖い浦島太郎」、米輝「擬宝珠」。(2部)米輝「青菜」、縁「田能久」、米輝「超巨大エスカルゴ売り」。今日は、昼間の気温上昇が激しく、ウォーキングにとっては、ちょっときつかったようで、落語会に影響が出てしまいました。昨日の昼間も、ウォーキングをしたあと、ちょっとだけ休憩をとり、所用があり、息子に会いに出かけ、そのあと、熱中症にかかったかのように、ぐったりしてしまい、1時間ほど寝込んでしまいましたが、今日は、そのぐったりする時間帯が、落語会にぶつかってしまったようでした。今年は、真夏の暑さになるのでが早すぎ、しかも、昼夜の寒暖の差が大きいため、かなり体に負担がかかってるようで、おまけに年齢が加算されてますから、一層、負担に耐えかねてる模様です。ということで、1部は、縁の途中から朦朧としだし、「擬宝珠」は狙いの噺だということで、一旦、気を取り直したのですが、長続きはしませんでした。2部の方は、間の休憩時間がプラスに作用して、しっかりと聴くことができました。2部構成というのが、黄紺には有利に作用したというところです。なので、メモれる範囲のところを、記録しておきたいと思います。米輝の「時うどん」は、あさ吉からもらったもの。師匠から、「うどんの食べ方が、良くないので、上手なあさ吉からもらえ」の指示があったと言ってました。吉朝一門は、一人ヴァージョンですから、米輝は、それを受け継いだことになります。確かに、うどんを食べているのか、茶漬けを食べているのか、よく判らない感じですから、確かに上手とは言えません。語り口のしっかりしている米輝にも、落とし穴があったのですね。なお、吉朝門下のしん吉だけは、二人ヴァージョンだそうです。そう言えばそうですね。縁は初遭遇。どう表現すればいいかなぁ、上方にはいないタイプの女性噺家さんですね。ちょっと舌足らずの甘えた声って言えばいいでしょうか。この「浦島太郎」は、自作なんでしょうか。全く情報を持っていません。竜宮城の関係者が、知恵を絞り、なんとか浦島太郎を、竜宮城から帰らせる算段をする噺とまとめていいかな。終盤があやしいので、断定的に書けないのが、悲しいところです。「擬宝珠」は、確か、枝三郎からもらったと言われているネタ。序盤は、「崇徳院」「千両みかん」と同じ。悩みを持つ若旦那、それを聞き出す使用人の流れ。このネタでは、「擬宝珠を舐めたい」というのが悩み。ここまでは、しっかりしていたのですが、、、。2部の冒頭は、季節ネタ「青菜」から。この夏は、「青菜」に大当たりです。米輝の口演の特徴はあっさり味というところか。わさびを蘇鉄になぞらえるところ、お尻の膏薬貼り、植木屋さんの自宅界隈の描写、これらが、一切、出てこないというもの。正に、「青菜」のエッセンスで押し通し、きっちり笑いの取れる口演をするのですから、米輝は只者ではありません。縁の出した「田能久」は珍しい。喜丸で聴いたあと、聴いてなかったかもしれないというのが間違いなければ、喜丸が亡くなってから13年が経っていますから、少なくとも、それだけの期間、聴く機会がなかったということになります。田舎噺ですから、「夏の医者」なんかで、手応えを感じた噺家さん、ここまで手を拡げてよと、かねてから思っていたこと。縁の口演は、落語を聴いているという感じじゃなくて、絵本の読み聞かせを聴いているといった風情でした。「超巨大エスカルゴ売り」が、本日の新作、ネタ下ろし。「変な噺ばかり作ってきた」「まともな噺にしたい」なんて、前置きをして始めたのは、えらくシリアスのスタート。罪を繰り返す男が、真人間になると、父親に誓うが、父親は信じない。やがて、孫の存在を知り、心を和らげる父親。「仕事は?」「超巨大エスカルゴ売り」となり、ここからは、やはり変な噺に。この変な噺を考え出す、これが、完全に、米輝の持ち味化してきていますね。ただ、前回の「パウダーの専門家」もそうでしたが、変な発想の展開は、途中まではいいのですが、その変な発想がおもしろければおもしろいほど、その重みを持ちかねるような展開、言い換えると失速してしまう傾向にあります。残念ながら、今日も、その類いから抜け出たとは言いがたかったな。米輝曰く、「優勝したからといって、お客さんの数が増えるわけではありません」、確かに急増はしてはいませんでしたが、前回よりは微増してましたから、ちーとは優勝効果があったかもしれません。米輝のキャリアでしたら、急ぐ必要はないんじゃないかな。


2016年 7月 3日(月)午前 6時 1分

 今日は、ロームシアターで音楽を聴く日。「ロームミュージックフェスティバル2017」と称したコンサートがあり、こちらに、カウンターテナーの藤木大地が出るということで行ってまいりました。ローム奨学生として留学経験のある音楽家が、大挙して出演するこのコンサート、藤木大地も、その奨学生の1人として出演するというわけです。そのプログラムは、次のようなものでした。「W.A.モーツァルト歌劇:《フィガロの結婚》より “恋とはどんなものかしら”、 歌劇《フィガロの結婚》より 手紙の二重唱 “そよ風によせて” 」「G.プッチーニ :歌劇《ラ・ボエーム》より “冷たき手を”、 歌劇《ラ・ボエーム》より “私の名はミミ” 」「J.オッフェンバック: 歌劇《ホフマン物語》より “森の小鳥は憧れを歌う”、歌劇《ホフマン物語》より “舟歌” 」「J.シュトラウスⅡ世 : 喜歌劇《こうもり》ハイライト、序曲 、“一人になるのね”、“客を呼ぶのが好きで”、“侯爵様、あなたのようなお方は”、“時計の二重唱”、“シャンパンの歌” 」。出演された歌手は、次の皆さんです。 田村麻子/見角悠代(ソプラノ)、藤木大地(カウンターテナー)、松原友(テノール)、それに、オペラの紹介の役割を朝岡聡が担当。オケは、三ツ橋敬子指揮の京都市交響楽団、コーラスは京響コーラス でした。顔ぶれを見れば判るように、メゾがいません。ですから、その代役を、藤木大地が担当。まさかまさかのケルビーノだけではなく、なんと、ニクラウスも、藤木大地が歌いました。黄紺は、ケルビーノを、カウンターテナーが歌った(兵庫芸文での野田秀樹のプロダクション)のと、オルロフスキをカウンターテナーが歌った(フランクフルトのクリストフ・ロイのプロダクション)のを聴いたことはありましたが、さすがに、ニクラウスを、カウンターテナーが歌ったのを聴いた人はいないでしょう。これが、このコンサートで一の話題じゃないかな。「ホフマンの舟歌」の片方のジュリエッタは、メゾが歌うということもあるものですが、藤木大地以外にはいないわけですから、ソプラノ2人で歌うという変則編成。それは、同様に、アイゼンシュタインを松原友が歌うしかないのも、変則的なものとなりました。この4人の歌手で、満足できると言えるのは藤木大地だけ。松原友は、イタリア・オペラって歌ったことがあるのかと思わせるられたロドルフォの歌い方。頭のてっぺんに抜けようかという高音がきついというのは、いただけません。ソプラノ2人はしんどかったな。あんなに、苦虫をかむほど、嫌になった「手紙の二重唱」は珍しいでしょう。ただ、アデーレは、少し改善だったかな。でも、コロラトゥーラは厳しいですね。このコンサートには、知り合いが、随分と詰めかけました。昨夜からお電話をいただいていたY氏ご夫妻には、コンサート後の食事のお誘いをいただき、また、会場では、1週間前、びわ湖ホールでご一緒したT氏ご家族と、ばったり。久しぶりにお会いする息子さんは、フィアンセとご一緒でした。


2016年 7月 2日(日)午前 7時 29分

 昨日は、びわ湖ホールで音楽を聴く日。昨日は、「諏訪内晶子&ボリス・ベレゾフスキー デュオ・リサイタル」がありました。「チャイコフスキー国際コンクールの覇者同士の夢のデュオ」なんてのが売り文句になる豪華な組み合わせ。黄紺は、基本的には、室内楽は大ホールでは聴かないということをポリシーにしているのですが、諏訪内晶子のヴァイオリンは、とっても音が出る、ピアノがベレゾフスキーだという2つの要素に惹かれ、ホントに久しぶりに、大きなホールでのデュオ・コンサートに行ってまいりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調 op.24「春」」「ヤナーチェク:ヴァイオリン・ソナタ」「プロコフィエフ:5つのメロディ」「R.シュトラウス:ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調」。一昨夜も、睡眠障害に悩まされ、また居眠りをするのではとの危惧を抱えたまま、会場入りしたのですが、今日は、99%大丈夫で、演奏をしっかりと楽しむことができました。このコンサートで印象に残ったのが、両端のソナタ。ベレゾフスキーは、生で初めて聴いたのですが、小刻みにリズムを打つ和音が、とっても魅力的。その和音を使って、僅かなフレーズの中でテンポを揺らしてくる。まるで、ヴァイオリンを追いたてるように攻めてくるって感じ。それを受け止めるヴァイオリンという構図で、この2曲が、とってもスリリング。特に、そのスリリングな演奏に魅せられたのは、「春」の第1楽章と、リヒャルト・シュトラウスの最終楽章かな。諏訪内晶子と言えば、音が出ると、黄紺の頭にはインプットされているのですが、今日、それを感じたのは、ヤナーチェック以後かな。リヒャルト・シュトラウスでは、そのパワーを特に知ることができました。しかし、リヒャルト・シュトラウスのソナタが、コンサートで、よく出るようになったものです。今日などは、トリですからね。大ホールは、さすが器が大きいということで、2階と3階は、ほとんどが空席。だったら、最初から下の階だけ、チケットを売り出してくれたらいいのにと、勝手なことを、4階席で思いながら聴いておりました。終演は、ほぼ午後4時。まだ早いということで、びわ湖ホールから大津駅まで歩き、更に、京都に着いてからも、ミニウォーキングをしてから、家路に着きました。


2016年 6月 30日(金)午後 11時 56分

 今日は、韓国映画を観る日。心斎橋シネマートで、「ラスト・プリンセス -大韓帝国最後の皇女-」を観てまいりました。ラスト・プリンセス、即ち、高宗の娘徳恵翁主を取り上げました。どんな人物なのか、黄紺は、全く知らない人物なのですが、映画の冒頭にも出たように、フィクションがかなり入った映画だったのじゃないかな。徳恵翁主が生まれたのは、韓国併合後。既に、総督府が権力をふるい、王族には、総督府の監視役のような人物が配備されているという状況。徳恵翁主には、心寄せる幼馴染みキム・ジャンハンがいたのだけれども、間を裂かれるように、まるで人質として、日本に留学させられてしまいます。しかし、その前に、日本軍の士官となったキム・ジャンハンが現れるという、いかにも、できすぎたというか、やりすぎというか、韓国映画らしい設定が入ってきます。また、そのキム・ジャンハンは、朝鮮独立を目指す地下組織の一員とは、更にできすぎた話。おまけに、上海の独立運動家との結び付きがあり、英親王李垠や徳恵翁主を、上海に亡命させようなどという話も挿入されており、ここまで来ると、かなり目が点になってはきますが、あくまでも、フィクションとして、歴史を素材にしたエンターテイメントとして観ると、かなりハラハラドキドキで、大きな山場を作っていました。この動きは失敗し、キム・ジャンハンは亡くなったのかと思わせられて、この挿話は終わり、やがて、徳恵翁主は、元対馬藩宗家当主宗武志と結婚。この2人は、のちに離婚するのですが、その離婚のわけについては、多くを語らず、徳恵翁主の望郷の念(戦後、李承晩政権は王族の帰国を拒否)が強くということからなのかなと思わせるような流れにはなっていました。この映画、徳恵翁主の生涯を、時系列的に追いかけるという、1本の柱とともに、もう1本の柱があります。日韓正常化交渉が行われている時代(具体的には1962年)に、あるマスコミに関わる男(キム・ジャンハンの後の姿、これもやり過ぎ)が、日本に渡り、徳恵翁主を探すというものです。宗武志にも面会をします。いざこざもありますが、概ね、宗武志については、英親王妃李方子同様、好意的に描かれていたのじゃないかな。やがて、精神病院で徳恵翁主は発見されます。この場面と宗武志から離れたわけについては、この映画では深入りしていません。敢えて、話を盛り込むこともしにくいのかもしれません。そして、帰国となります。かつての官女たちが、金浦空港に迎えるシーンは、この映画一番の感動的な場面です。朴政権は、旧王族を迎え入れる方向へと、舵を切っていたからですが、黒いサングラスをかけた朴正煕のそっくりさんが出てきたのには、びっくりさせられました。ようやく、安寧の地に戻りということで、この映画も終息を迎えるのですが、日韓関係の大枠は変わらないわけですから、基本枠には問題はなく、それを素材にして、奔放に脚色されたエンターテイメントとして観ると、それはそれでおもしろい映画だったのじゃないかな。ただ、エンターテイメントとして観るのではなく、これを事実と錯覚したり、一方、逆に、歴史の曲解だと声を上げるアホたんが出てくることを懸念はしました。でも、そういった映画が、普通の映画館で上映されること自体、隔世の感がします。そういった意味では、いい時代です。日韓関係も成熟したものだと思いました。徳恵翁主役の女優さん、どこかで観たぞと思っていたら、何と、「私の頭の中の消しゴム」のソン・イェジンでした。キム・ジャンハンは、「グエムル-漢江の怪物-」に出ていたパク・ヘイルだそうなのですが、黄紺的には記憶に残っていません。この映画のヒール役朝鮮総督府の朝鮮人役人を演じたユン・ジェムンが好演。常に、どこにでも現れるヒールって感じで、ちょっと過剰な出没に、時としてびっくりしてしまいました。


2016年 6月 29日(木)午後 8時 28分

 今日は、繁昌亭の昼席に行く日。今週は、「桂かい枝・笑福亭たま 第11回繁昌亭奨励賞受賞記念ウィーク」と銘打たれた興行が行われているということで行ってまいりました。特に、たまがトリをとる日ということでのチョイスです。その番組は、次のようなものでした。弥太郎「刻うどん」、二乗「写真の仇討ち」、花丸「猫の災難」、壱之輔「ぜんざい公社」、たま・かい枝・生喬・文福・花丸(司会)「記念口上」、かい枝「堪忍袋」、(中入り)、吉次「相部屋」、生喬「猫魔寺」、文福「歌謡笑」、たま「山寺瓢吉」。昨夜は眠れず、痛く感じる目のまま、繁昌亭へ。案の定、居眠り、起きていても集中力が定まらないといった具合。さすが、今日の主役の2人は外さなかったのですが、総じて不調のまま時間は経過していきました。花丸、壱之輔のところが最悪、生喬も、せっかくの「猫魔寺」にも拘わらず、集中力を欠くことになってしまいました。ですから、その3人を除いた感想をメモっておきたいと思います。弥太郎は、吉朝から伝わる一人ヴァージョン。以前聴いたときには、教えられたことをなぞってる感が強かったのですが、かなり自分のものにしてきていますが、まだまだ伸び代を感じる口演でした。一人ヴァージョンを、久しぶりに聴くと、新鮮ですね。二乗は、今席は「写真の仇討ち」と決めているのかな。いいテンポで、すごく入ってくる口演なのですが、そう思うたびに、ネタを貪欲に増やして、その技巧を、他の噺で、より多く聴かせて欲しいと思ってしまいます。「口上」は、文福が協会理事の立場で並んだわけですが、「口上」をするならば、毎回、こうした立場の噺家を入れて欲しいものです。かい枝の「堪忍袋」は、今日あたり出そうと予想していたところ、ドンぴしゃ。文三などの口演に看られる2人の興奮が最高度に盛り上がった中で始まるといったのとは、若干、雰囲気の異なるかい枝の口演。 少し引きながら、皮肉を浴びせ、倍返しをしようなどという雰囲気。これは、なかなかおもしろい趣向。そして、堪忍袋には、プライベートなエピソードを入れるというお約束の演出も入りました。なかなか考えた演出。ただ、あざとさが見え隠れはしましたが。吉次は三枝作品。同期ながら、出世をした男と、窓際にいる男との友情物語と言えばいいでしょうか。文枝の口演は聴いてないので、そういった意図で作られたのかは不明なのですが、吉次の口演では、そのように感じました。文福は、今日唯一の色物枠。色物枠になると、落語っぽいことも省いちゃうようです。そして、文福のあとに出ることになったたまは、文福エピソードで、文福の作った空気を、自らに引き寄せる努力。一方で、文福のあとに出ることができる重さを口にしていました。それから、ショート落語、ネタとなっていきましたが、ネタが「山寺瓢吉」とは、全く想定外でした。黄紺の予想では、古典なら「船弁慶」、新作なら「伝説の組長」だったのですが、まさか福笑作品を持ってくるとは、思ってもいませんでした。ただ、このネタ、人質と犯人、人質と山寺と組み合わせが変わっても、笑いの基になる素材が同じですから、徐々に笑い疲れてしまいます。にも拘わらず、ラストに向けて、口演者であるたまのテンションは上がるばかりですから、終盤、演者と聴き手に乖離が看られ、不安定感の中で落ちを迎えてしまいました。ですから、客は、満足した人がいる一方で、終盤にかけて、引いていった人がいるのじゃないかな。先端を行く場合に、ま、感じられることかなというところですね。


2016年 6月 29日(木)午前 2時 21分

 今日も、昨日に続き、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、昨日の続きで、「W.A.モーツァルト― episode 4 - Wien 1782-85 ―」と題されたコンサート。(ヴァイオリン)上里はな子と(ピアノ)松本和将ご夫婦のデュオ・コンサートでした。演奏されたモーツァルトのヴァイオリン・ソナタは、次のようになりました。「ハ長調 K.403」「イ長調 K.402」「ロ長調 K.454」「変ホ長調 K.481」。まず、稀曲2つから演奏。ともに、妻のコンスタンツェに捧げられたもので、且つ、未完成の作品ということで、演奏機会のほぼないもの。 K.403は、ケッフェル番号が400番台にも拘わらず、何やら習作っぽい。3楽章になると、急に内容が濃くなるのだけれど、それは、補筆されたもので、明らかに後期のモーツァルトの作風なため、統一体とは看にくい作品でした。K.402は、その頃に、バッハとの出会いがあったとの、オーナー氏の解説が入りましたが、2楽章はフーガ。知らないで聴いたら、およそモーツァルトの曲とは思えないものでした。K.454とK.481は、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタの中で名曲とされているもの。黄紺的には、K.454は、特になじみ深いかな。上里さんのヴァイオリン、もう少し、大きく演奏して欲しかったと思ったのは、この曲。K.481にいたっては、ちょっと時代を先に行ってるかなという曲想。その辺が、この曲を重要なものとする空気があるのかも。全体的に、中低音域のヴァイオリンが、とても安定感があり、音色がきれいというのが、2日間を通じた上里さんのヴァイオリンの印象。一方の松本さんのピアノは、昨日の軽やかさに拍手。2日連続で聴いて、昨日に軍配かな。敢えて言えばですが。2日間、モーツァルトを聴いていて、これだけ続けて、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタを生で聴くというのは、今は昔、京都会館があった頃、随分と以前になりますが、ヴォルフガング・シュナイダーハンのソロ・ライヴで、モーツァルトばかりを出したのを聴いて以来です。上里さんのヴァイオリンを聴くにつけ、シュナイダーハンのヴァイオリンって、こないないい音出てたっけというものでした。ま、かなり昔のことですから、いいかげんな記憶の話ですが。次回は、9月に、続きが予定されています。黄紺は、とりあえずは、予約をしてまいりました。


2016年 6月 28日(水)午前 6時 45分

 昨日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。昨夜は、「W.A.モーツァルト― episode 3 - Wien 1781 ―」と題した、(ヴァイオリン)上里はな子、(ピアノ)松本和将のお二人のコンサートがありました。モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏シリーズの一貫として、今回は、一昨夜から連続3夜のコンサートが行われているのですが、黄紺は、一昨夜は、南海さんの講談会があったため行けなかったので、昨日今日の2回を聴かせていただくつもりをしています。モーツァルト・マニアの高校時代の友人によると、今日のプログラムの中に、大変な稀曲が含まれているとか。とりあえずは、昨日のプログラムを記しておきます。「ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調 K.377」「ヴァイオリン・ソナタ ト長調 K.379」「ヴァイオリンソナタ 変ホ長調 K.380」。この3曲は、通常のコンサートでも、よく取り上げられる曲目。上里さんのヴァイオリンは、しっかりとした音を出すのに対し、松本さんのピアノは軽やかに弾むような音を心がけているよう。その組み合わせが、いい雰囲気のモーツァルトを作り出していました。気持ちよくまどろみながら聴かせていただくことができました。さて、今日も、この演奏を聴くことができます。2日連続のモーツァルトは、ちょっと贅沢な話です。


2016年 6月 26日(月)午後 10時 44分

 今日は講談を聴く日。毎月恒例の「第239回旭堂南海の何回続く会?」(千日亭)に行ってまいりました。今日は、この間続けられてきた「祐天吉松(結)~吉松の身の終い~」ということで、うまく日本にいることができました。簡単に、冒頭から振り返りながら、今日の大団円に向かって、その大団円が、かなり無理筋なところがあるため、時おり、南海さんのぼやきが入りながら、終局へと向かっていきました。旗本を斬った、だけど、そないな事実が表沙汰になってはと、訴えがないため、江戸ところ払いとなった吉松は甲州へ。だが、ここでも、義侠心の高い吉松は、土地の顔役とトラブル。そして、判で押したように、相手方には、窮境の仇、即ち、先の女房の父親を殺した橘金之助が現れますから、吉松も力が入るのですが、土地の顔役を殺めても、橘は逃してしまいます。ま、逃してしまうので、物語は拡がり、続いていくのですが、ここで、吉松は、新たな殺しをしてしまったこと、ところ払いにも拘わらず、江戸に入っていたということで、お縄になるのですが、江戸に連行されると、命がないということで、新しい女房のげんの父親でもある三好屋の親分、吉松縁の男、それにげんが絡み、護送中の吉松を逃します。吉松は、一旦、信濃に身を隠しているところに、恩赦がなり、吉松は、無事、江戸に戻ることは戻るのですが、、、あれっ、なんでだったっけ、吉松は島流しになってしまうのですが、この辺の経緯が思い出せません。三宅島へ流されている間に、吉松につながる男が、たまたま、橘が品川の女郎屋の主におさまっていることを知り、それを知らせに、自らも島流しの刑を受け、三宅島に渡り、更に、今度は島抜けをして、いよいよ、仇討ちの場面となります。三好屋らの見守るなか、先妻と、その子どもに仇を討たせた吉松は、自訴をして、刑場の露と消える、これが大団円でした。島流しに島抜け、島抜けをしたら、かつて、吉松が命を助けた女が出てきて助けたりと、終盤になると、これでもかというくらい、ありそうもないことが連続的に起こります。話を拡げるだけ拡げて、それらを連関づけて、終わらせねばならないため、講談には、よく起こることと言いながら、南海さんは読み進めていかれました。今回の口演は、二代目南陵の新聞連載を基に、それが、「祐天吉松」の元の姿だということ、このネタは、元来、旭堂のものということで、その型を使われましたが、このネタが、東京に入り、無理なところの改変が進んでいったようです。浪曲や、左南陵さんの抜き読みで、その一部は耳にしていたのですが、これで、ようやく全貌を知ることになりました。正に、黄紺的には、待望の続き読みだったわけで、南海さんに感謝しきりです。また、来月から、新たな続き読みが始まります。


2016年 6月 25日(日)午後 8時 15分

 今日は落語を聴く日。京都府立文化芸術会館3階和室であった「第16回 桂米二一門会@文芸会館 番外編~米二・二葉親子会」に行ってまいりました。二乗が、度重なるダブル・ブッキングのお仕置きとして、会場には来ているのだけれど、出番をもらえないため、「米二・二葉親子会」が実現したということが1つ、もう1つは、米二の新しい弟子二豆が、「トーク」にだけは出演するということで、行ってみたくなりました。その番組は、次のようなものでした。二葉「池田の猪飼い」、米二「ろくろ首」、二葉「上燗屋」、(中入り)、米二・二乗・二葉・二豆「無礼講トーク」、米二「三枚起請」。今日のお目当ては、米二には申し訳ないのですが、二豆と二葉。二葉の「猪飼い」を狙って同期の会に行くと、小梅が喋り過ぎて、できなかったようでしたので、まだ聴けていなかったのです。「夏になっているのに冬の噺をします」で汗を拭きながらのものとなりました。終盤、ちょっとあやしげになりかけたときもありましたが、30分以上かかる口演。百姓の出てくる場面も、元の姿で演じてくれるフルヴァージョンを、おかげで聴くことができました。師匠の米二が、ツイッターに書いたように、二葉の描くアホはおもしろい。次に、何をやらかすか予測不能なアホです。米二の1つ目は、あとに大ネタが控えているということで、最近では、特にざこば組の前座ネタという位置になっている「ろくろ首」。ですから、最近聴いたのは、全て若手の噺家さんだったために、米二の口演は、まとまってはいるのですが、覇気に欠けるように聴こえてしまいました。二葉の2つ目は、想定外のネタ。米二曰く、「最近、やり出しているそうですから、スリルがありますよ」。スリルの方は、結果的に「猪飼い」にあり、こちらはありませんでしたが、酒のマクラを振りだしたので、正直、びっくりしました。そして、どのネタにするのだろうかと考えても、全く思いつかない。それほど意外だったのだと思います。すると、「パパリコシャンシャン」で始まったものですから、呆気なく判明。雀太からもらったのでしょう。遊びながら豆を食べたり、やりたい放題の技が入り込んでいますが、二葉は、とっても健闘。この人、何でもできそうという感じになっちゃいました。「無礼講トーク」は、先日のグランプリのファイナル、そして、それよりか多かったのは、二豆に関するもの。ま、それが聞きたさばかりに行ったわけですから、満足。最後は、米二の大ネタで締め。「ろくろ首」もそうでしたが、「三枚起請」も、なんか老成しちゃったみたい。お喋りの感じは変わらないのですが、前へ前へと出てくる感じが、以前の迫力がなくなってきてるみたい。まだ、老け込む年齢でもないのに。後ろの方で聴いた影響かもしれないのですが、終始、そないな印象を持ちながら聴いておりました。日曜日の昼間ということだけではないでしょうが、大入り。長年、地元の京都で培ってきたものが、こういった形で現れているのだと思います。演者としてだけではなく、レッスン・プロとしても、いい弟子を育ててきた、それが、また、新たな1人を招き入れたのだと、黄紺は思っています。楽しみが1枚増え、米二一門は、我が世の春です。


2016年 6月 25日(日)午前 0時 14分

 今日は音楽三昧の日。午後はオペラ、夜はリートを聴くというもの。まず、午後は、びわ湖ホールであったパレルモ・マッシモ劇場の引っ越し公演、ヴェルディの「椿姫」を観てまいりました。デジレ・ランカトーレ、レオ・ヌッチというスター歌手が出演するというビッグな公演。マリオ・ポンティッジャのプロダクションでした。このプロダクション、あまりにもオーソドックス。ドイツ帰りの黄紺にとっては、あまりに時代がかったもので、かなり抵抗を感じてしまいました。イタリアって、そないに保守的でもないだろうしと思いつつも、会場で合流した知人と一緒に来られた奥様は、ローマで歌劇体験をお持ちですので、思わず伺ってみました。「ローマでも、こんなでしたか?」、答えは真逆でした。マッシモって、そないな土地柄なのか、海外公演は無難なものを持って出るのか、その辺は確かめようがないのですが、明日の大阪での「トスカ」には、福井から、またぞろ高校時代の友人が観に行くことになっていますので、今度会ったときに確かめてみます。1つだけ、黄紺の目を引いたのは、第2幕第2場のラスト、正中に、パパジェルモンとヴィオレッタが向かいあって、幕となりました。お互いの努力を、暗黙の中で確認しあうという風情でしたが、ここで、2人が確認しあっちゃ、ダメなんじゃないかなぁ。ここで、心底見えたりになっては、ヴィオレッタが可哀想過ぎます。第3幕の手紙の意味合いも薄れてしまいますし、もっと早く、2人がヴィオレッタのもとへ駆けつけないと、あまりにも無慈悲になってしまいますものね。ま、そんなですから、早い内に、演出上での興味は尽きていました。しかし、この公演、そないな興味が尽きても、ありあまる興趣を掻き立てる要素が存在してました。あまりにも歌手が良すぎました。ヴィオレッタのデジレ・ランカトーレは、期待の歌手でしたし、また、その期待に応える見事な声、歌唱でした。更に驚きは、パパジェルモンのレオ・ヌッチ。いくら最高のヴェルディ・バリトンといえども、70歳を超えれば、声の衰えなどもあろうしと、若干割り引いて聴かねばならないだろうと考えて、この公演に臨んだのでしたが、とんでもございません。わりかし、ドイツで、同じ声質の著名な歌手を聴いてきていますが、今日のレオ・ヌッチは、もう1つ、ステップアップしてました。ホント、素晴らしい歌唱を聴かせてくれました。主役3人の内2人にまで、超弩級の歌唱を見せられてしまうと、普通の歌唱では、逆にみすぼらしくなってしまいます。正に、アルフレードを歌った今日のアントニオ・ポーリが、それ。おまけに、歌唱に波があっては、ますますみすぼらしくなってしまいます。オケ(フランチェスコ・イヴァン・チャンパ指揮)も同様で、覇気に欠けていました。2人の歌唱には、似つかわしくないものだなぁと思いながら、聴くハメに。ということで、もう2人に尽きます。歌手がみすぼらしくても、プロダクションがしっかりしておれば、オペラは、まだ鑑賞に耐えるが、その逆は、まあ、ないだろうなんて考えていた黄紺なんですが、ここまで秀でた歌手が歌うと、逆も成り立つのだということを教えてもらえました。この公演は、記憶に、確実に残るものとなるでしょうね。
 びわ湖ホールを出ると、知人家族の車に乗せてもらい、京都まで戻り、夜は、カフェモンタージュでのコンサートに行ってまいりました。黄紺のいなかった間に、カフェモンタージュでは、「ウィーン音楽祭」と称し、ウィーン縁の作曲家の作品を連続的に演奏するコンサートが行われ、しかも、その大半が終わり、終盤に、これから、少しだけ参加しようというのです。今日は、「A.ヴェーベルン」 と題し、(ソプラノ)太田真紀と(ピアノ) 塩見亮のお二人で、めったに聴く機会はないだろうヴェーベルンのリート・アーベントがありました。プログラムは、「歌曲 op.3、op.4、 op.12」「"道なき道"による3つの歌曲 op. 23」「ヒルデガルト・ヨーネの詩による3つの歌曲 op.25」。しかし、ヴェーベルンのリートには、なじめなかったですね。それが最大の原因だったでしょうが、3時間以上(休憩込みで)のオペラ公演を観たあとに、バタバタ移動し、ご飯まで食べて行くと、ダメでした。耳になじまない音楽が入ってきているのに、居眠りをしてしまいました。ですから、こないなコンサートに行ったぞということを記すに留めておきたいと思います。


2016年 6月 24日(土)午前 6時 50分

 昨日も繁昌亭に行く日。一昨日になり、急に決めました。昨夜あったのは「月刊笑福亭たま 2017年6月号」。久しぶりです。たま人気が定着したのか、ゲストに南天という強力の助っ人を入れたからなのか、恐らくは両方でしょうが、買った時点ではチケットは、ほんの僅かしか残っていないとのことでした。その番組は、次のようなものでした。大智「寄合酒」、鯛蔵「強情灸」、たま「浮世床」「死神」、(中入り)、南天「青菜」、たま「新作ショート落語」「ヤマカン刑事」。補助席も出る大入りの盛況、2階席だったのですが、猛烈に暑くて、聴いていて、喉は渇くわ、ボーっとしてくるわ、かなりきつい状態で、落語を聴くことになりました。ついに「死神」の半ばで居眠り。まだ、旅行疲れもあるところへ、あの暑さは、居眠りを誘発します。しっかりして欲しいな、繁昌亭。大智が、ちょっとの間を置いて聴いただけで、とっても良くなった感じ。マクラで、きっちりした言葉使いが苦手と言ってたのとは裏腹で、統一が取れた落語世界の言葉使いに感心。ほぼ間を置かないでのお喋りが、昨日は、次から次へと持ち寄ってくる光景となり、なかなかいい感じ。またぞろ、新しい見っけものをしたぞの実感を持てました。若い人に、ホント、有望な人が多いですね。鯛蔵は、乙夜寄席と同じマクラ。そして、ざこば組の十八番ネタと、ま、鉄板の高座を見せてくれました。たまは、マクラで、寄席経営の資料分析を展開。リピーターが生まれる条件を、数字を上げて説明され、なるほどと感心。自分の落語会の集客力を上げることばかりか、繁昌亭、ひいては落語界に向かう人を集める算段が、たまの関心になっています。そういった意味でも、たまの存在感が増してきています。そないな寄席経営を語ったあとに出したネタが「浮世床」とは可笑しい。南天の分析だと、ギャップによる可笑しさを生むというたま流戦略だとなります。高津落語研究会の盟友だけに、こういったストレートな突っ込みが、聴く者を楽しませてくれます。無筆の男が知ったかぶりをして講釈本を読むところは、よく出ますが、火箸を鼻に突っ込むところや、あと何だったっけ、ほぼ聴いたことのないところも聴かせてもらえました。「死神」は、冒頭、夫婦げんかから始まり、金に困っている光景を表す場面から入り、外に出ると、いきなり死神が現れるというもの。半ばが抜け、ラストは、自分のろうそくに火を継ぎ足すのに成功して終わるというもの。その必然性が、半ばの居眠り中に仕込まれていたなら、黄紺はキヴアップです。さて、どうだったのでしょう。ゲスト枠は南天。ネタは、夏の定番「青菜」。一昨日の歌之助に続いて、いい「青菜」を聴くことができましたが、趣は、全然違います。冒頭に、庭や座敷についての描写が入ります。たまとともに、この冒頭の描写は、南天の売り物。静謐な雰囲気の中に、植木屋さんのいちびる姿が映し出されると、植木屋さんの内面の緊張が見えてくるようです。そうだからこそ、後半のデフォルメ気味のおかみさんの言動も、可笑しさも出てくるのでしょう。もう、南天ワールド炸裂の口演でした。たまの新作は刑事もの。ヤマカンの効く男の呟きは、何かしら犯人特定につながるというもの。単なる言葉遊びと言えば、それだけだったかもしれません。骨だけを聴いたって感じで、新作発表のときの、よくある、ちょっと未熟な仕上がり具合ってところかな。ということで、帰国早々、2日連続で繁昌亭というのは、そうはないこと。嬉しい現実を噛みしめておりました。


2016年 6月 23日(金)午前 7時 26分

 昨日の朝7時過ぎに、関空に到着しました。バンコクからは、5時間かかりませんから、さすがにきつい。眠ったと思うと、朝食で起こされます。機内食をもらうとき「タイめしを」と言ったら、酢豚のようなものが出てきて、これもきつかった。朝から食べるものではありません。眠いわ、お腹はむかつくわで、帰宅。タイ滞在期間は、お酒抜きだったこともあり、お酒なしでも眠ることもできたのですが、少し引っかけた勢いで、昼寝。ここで、寝ておかないと、夜の落語会に障ります。そうなんです、早速、落語会通いに復活しました。また、格好の会のあった日でした。繁昌亭であった「笑福亭生寿入門10周年記念 生寿の真剣勝負」です。10年を経て、繁昌亭での会を開く権利を得た生寿の初の独演会があったのです。別に、これに合わせて、旅行のスケジュールを組んだわけではないのですが、偶然とはよくしたものです。その番組は、次のようなものでした。生寿「一人口上」、華紋「道具屋」、生寿「質屋芝居」 、生喬「禁酒関所」、(中入り)、揚野バンリ「お笑い曲芸」、生寿「ねずみ」。「一人口上」は、「挨拶」がてら、マクラで喋ることを、ここで、まとめて喋るというもの。ですが、最後は、「口上」らしき締めで終わりました。今日の前座役は華紋。フルヴァージョンで、違ったのは、便所の前ではなく、スタンドは、最初から寝かせてあったくらい。安定感抜群の前座です。生寿の1つ目は「質屋芝居」の方でした。ネタ下ろしの「ねずみ」が控えているなか、「質屋芝居」を出す、これが生寿らしいところ。頑張ってるというだけではなく、芝居噺が好きで、やれる場があればやりたい、やるぞが見えてくるのが嬉しいところです。あとから上がった師匠の生喬が言ってましたが、「もっとクサクやってもいい」。そうなんですね、黄紺は、淡白というよりか、小さいと感じてしまってました。繁昌亭での独演会の1つ目ということで、萎縮した部分があったのかもしれません。生喬は、師匠としての挨拶を冒頭にしてから、若くして弟子を持つ松喬一門の話を、少ししてから酒のマクラへ。何をするのかと思ったら、黄紺的には、意外な選択という感じの「禁酒関所」でした。番所に詰めている侍の変化が、デフォルメ気味なのが、落語らしい設定に見合っていて、可笑しさが増します。その辺のかげんが上手いものです。揚野バンリの色ものまで入れて、華やかさを増したところで、10年目の舞台に取っておいたという「ねずみ」を披露。満を持してのネタ下ろしだったのですが、これが良かった。特に、半ばに入るねずみ屋の主人の語りに重みがあり、噺の芯が座っていたのが大かった。ですから、甚五郎の再登場は、足早にバラシの印象。噺の構造をくっきりさせる構想力に、今までの生寿になかったものを見せてもらった感じがしました。「ねずみ」が、これだけできるなら、手を着けてなかった人情噺系にも入っていけるはずですから、益々楽しみな噺家さんと言えます。
 生寿の会が終わると、繁昌亭に、そのまま居残り。今日は、なかなか好メンバーの揃う「乙夜寄席・第十八夜」もあったのです。容易く行けるときには行く、但し無理はしない、これが「乙夜寄席」に対する、黄紺のスタンス。今夜の番組は、次のようなものでした。弥っこ「つる」、鯛蔵「荒茶」、歌之助「青菜」。米朝一門の噺家さんだけで構成された番組。黄紺は、かなり疲労を感じていたのですが、入っていくことにしたのですが、さすがに眠たくて、鯛蔵の口演の途中からが吹っ飛び、歌之助の口演では、かなり集中力を欠いてしまいました。弥っこに遭遇する機会が増えてきました。ちょっと舌足らずな印象を与える喋りっぷりながら、明晰さは欠けることはないという不思議な雰囲気を持つ弥っこですが、身体表現としての落語という観点で見てみると、まだまだ物足りなさを見せる弥っこでもありますが、時間が解決することだと思います。この人、何となく弱々しげなキャラがいい持ち味になっていく予感がしています。 鯛蔵は、延々とマクラ。客の少なかった落語会のことを話すのに、随分と時間を取ってしまい、ネタに影響が出てしまいました。なんか、何も考えないで、思いついたことを喋ってたという感じ。その話は、おもろいことはおもろいのですが、「乙夜寄席」は、なかなか時間的余裕があるわけではありません。そんなですから、「荒茶」の途中で、切り上げてしまいました。ただ、居眠り状態だった黄紺には、どこで切り上げたのかが、判らないのです。同じようなことが、歌之助でも起こってしまいました。米団治独演会で、逗子に行ったときに入った酒場の不思議な話を、延々と始めてしまいました。なんか、伝染したみたいって感じでしたが、歌之助の場合は、ネタには繋がる話ではありました。歌之助の「青菜」は、随分と久しぶりになります。植木屋はんが、知らないものを勧められる度にガッツポーズをする、そこで、何度か聴いていることを思い出しました。今や、テンポのある口演が主流といった「青菜」にあって、ゆったりとした時間の流れを大切にしようという歌之助の口演は、なかなか魅力的。そこへ、植木屋はんのガッツポーズが、いいアクセント。そして、植木屋はんが、家に帰ると、テンポを上げることで、環境の違いってのを出すという巧者ぶり。終演は11時5分前。落語会への復帰の日としては、ちょっと頑張り過ぎましたが、気持ちは爽やか。やはり、落語のある日は、そうなります。


2016年 5月 31日(水)午後 10時 56分

 今日はツギハギ荘で落語を聴く日。今日は、迷いそうな落語会があったのですが、明日から日本を離れるということで、最もあっさりとした会をチョイスした結果、ツギハギ荘となりました。今夜のツギハギ荘では、ところ替えをしてからは、初めてとなる「第47回 客寄席熊猫」がありました。雀喜の新作を聴けるということで、わりかし頑張って行っている会です。その番組は、次のようなものでした。雀喜「あてはずれ」、慶治朗「幸せをもとめて」、雀喜「ホクロの拳」。雀喜の作品は、2つとも、アニメ・ソングを基にしたもの。黄紺には、よく解らない世界。そうだからでしょうか、今日は、居眠りをしていないにも拘わらず、最初に聴いた「あてはずれ」という作品を、終わってから振り返ろうとしても、殆んど思い出せません。雀喜が、何度か、仮面ライダーの色んなシリーズに使われた歌を歌っていたことと、アニメ・ソング歌手子門真人を文字った名前の男が主人公だったくらいしか思い出せません。慶治朗は、自身2作目となる新作を披露。今日がネタ下ろしとなる作品「幸せをもとめて」を聴かせてくれました。他人の幸福な姿を見ると、それのアレルギーでくしゃみの止まらない女が主人公。医師に相談すると、幸せアレルギーと言われ、治療として、月並みな幸せ、例えば、結婚を勧められると、「結婚をしてないと不幸せと言うの」と食って掛かるという女でもあるので、医師は仮面パーティーを紹介し、名を明かさずに、自分の悲しい現実を告白しあう集まりを紹介されると、、、。冒頭の仕込みが、最後になり効いてきて、きれいなバラシになっていました。中盤、フェミニストばりの激しい口調が入ったりして、落語にあまりない硬派な展開も入りますが、仕込みとバラシのキレイなサンドイッチになった噺に、新作メーカーとしての慶治朗の可能性を感じました。25分も要する力作でした。雀喜2つ目の「ホクロの拳」は、「北斗の拳」のパロディ噺だということくらいは、黄紺にも題名で判るのですが、肝心の「北斗の拳」を知らないものですから、まことにもって気がきかない。笑いのツボを知るケンシロウが、神拳を繰り出して、笑いが死に絶えた世界に笑いを取り戻す噺とすれば、いいのでしょうか。今日の雀喜の2席は、ともに歌入りの噺でした。ツギハギ荘に、クーラーが付いたことが、ネット上で流れていますが、その恩恵を受けることができたのですが、途中からは稼働してなかったようで、クーラーのあるところでは、上着をはおる黄紺には、暑くなってしまいました。どうしたのでしょうね。せっかくのクーラーなのにね。


2016年 5月 30日(火)午後 11時 2分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。明後日の出発を前に最後の動楽亭です。明日も、落語会に行くことにしていますので、今回は、出発直前まで、落語に親しむことができます。外国にいて、何が悲しいと言って、生の落語を聴けないことほど、悲しいことはないもので、このように直前まで、落語を聴けるというのは、格段の嬉しさです。今夜の動楽亭では、「染吉っとんの会~林家染吉落語勉強会」がありました。その番組は、次のようなものでした。染吉「時うどん」、二葉「書割盗人」、染吉「稲荷俥」、(中入り)、染吉「崇徳院」。昨夜の睡眠時間が2時間というありえないことが起こり、今日は、さっぱりダメでした。行く前からダメと思ってたら、やっぱりダメでした。まともに聴けたのが、冒頭の「時うどん」だけ。二葉の高い、しかも、耳にキンキン来る声が、いい子守り歌に聴こえてしまっては、為す術なしっていうところでした。「稲荷俥」を、米朝一門でするのは、極めて珍しいはずですよね。そないなことが、頭にあってもダメでした。俥に乗った男を30歳を出たところと、導入部で言ったので、あれれと思い、頭に刺激を受けたのでも、ダメでしたから、かなり重症でした。「崇徳院」は、熊はんが迷走するところで、染吉の人にない弾け方をしていたのは、記憶に留まっています。客席に、かなり受けていました。「崇徳院」では、あまり見たことのない光景だったため、自分の居眠りを恨んだのですが、どうしようもなかったですね。今日は、天満橋から天王寺まで歩いたあと、体を休めるために入った、いつもの天王寺のネットカフェで食べたアイスが、黄紺のお腹に合わなかったようで、とんでもないことになったこともあり、かなりげんなり気分の日となってしまいました。ま、こないな日もあるかとは思いつつ、旅行前の貴重なときに、なぜの気にもなってしまいました。不運な1日でした。


2016年 5月 29日(月)午後 10時 58分

 今日は、千日亭で講談を聴く日。おなじみの「第238回旭堂南海の何回続く会?~連続講談・祐天吉松(六)」がありました。今日は、「祐天吉松~釜無磧の大出入~」と題して読まれたのですが、来月で完ということもあり、簡単に振り返りがあり、黄紺的には大助かり。吉松の先妻とその子どもの発見で身を引く形になったげんは、店の再興にと、自ら吉原に入り金を工面したのですが、まぶとして、客が引けてからげんと会っていた吉松は、嫌な客、それは旗本だったわけですが、その連中を斬ってしまったため、江戸には居られず、三好屋の親分の紹介で甲府に落ち着きます。今日は、その甲府での話。甲府で出会った病弱な母親と乳呑み子を抱える男を気の毒に思い、その男を援助したことから、その男にひどい仕打ちをしたやくざ者との対立が生じ、また、そのやくざ者が、江戸の吉原で見初めた女郎にはまぶがいるにも拘わらず、見受けすることになり、女郎が思い悩んでいると、げんが助け船を出します。吉松に手紙を書いてやり、援助を頼んだために、ここでも、吉松を巡っての対立が生まれ、両者による出入りに発展するところが、今日の山場。ここまでは、吉松が、恩を受けた先妻の父親の死に係わった橘某は出て来なかったのですが、この出入りの仲介が図られたとき、煮え湯を飲まされたと感じていた相手方のところへ、ようやく、お待ちかねの橘某が現れてきます。というところで、次回の完に向けてのレールが敷かれたところで、今日は切られました。予告チラシに拠ると、結末には2通りがあるそうで、その2通りを読むと予告がされていました。幸い、黄紺は、この結末を聴くことができます。旅行のスケジュールを組むとき、この会に障らないように配慮しましたからね。


2016年 5月 29日(月)午前 8時 49分

 昨日は、結果的に三部制の日になりました。午前と午後に、オペラを観ることになっていたのですが、福井から午後のオペラを観に来た高校時代の友人が、黄紺が、午前中に観たオペラを、今朝観てから、福井に帰る、即ち、昨夜は大阪泊まりということだったため、ならば落語会に行こうということになり、結果的に三部制になったというわけでした。まず、午前中のオペラは、ロイヤル・オペラのライブ・ビューイングでした。昨日は、モーシュ・ライザー&パトリス・コーリエのプロダクションで「蝶々夫人」が出ました。黄紺的には、知らない歌手陣による公演だったのですが、アントニオ・パッパーノの指揮という点に魅力を感じ、早朝から出かけることにしました。このプロダクション、ジャポニズムを前面に出しつつも、奔放な衣装、装置で、異文化の衝突は、何も、日本とアメリカの間でだけ起こったものではないということで、黄紺は、好意的に捉えることができましたが、日本を何も知らない、そういったプロダクションだと批判することは、十分に可能なものだということもありうるとは思っています。衣装は、確かに和洋折衷的でしたし、住居の仕切りは、セメントで固めた壁にも見えました。そうかと思うと、一切、椅子を使わなかったり凝った日本を思わせる小物を使ったりもしていました。実際には、どれ程、日本を知った上での変化なのか、 いやいや、黄紺の目からは、中途半端な知識からではないかとは思っています。で、それに目くじらを立てるかどうかで、黄紺は立てないということなのです。それは、上に書いた理由からだということです。それにつけても、具合が悪いと思ったのは、ラストです。桜吹雪にしたかったのかなぁ、その光景が中途半端にしか入ってないながら、それを作り出そうとしたために、椿のような大きめの花が、ぼたりと落ちていました。人の動きで目についたというのは、ケイト・ピンカートンを、シルエットで見せたことかな。歌手陣では、タイトル・ロールを歌ったアルバニア人歌手エルモネラ・ヤオの芝居の上手さ&歌の上手さが、目を惹きました。この人の演技に、ドラマを心得たパッパーノは指揮が重なると、それだけで絵になってました。ただ、エルモネラ・ヤオの声量は大丈夫だろうかと気にはなりましたが、こればかりは、現場にいないとダメですね。歌唱面での安定を誇ったのは、スズキを歌ったエリザベート・デショング。声質は、もうコントラルトでした。シャープレスのスコット・ヘンドリックスも、いい人を演じるのには十分な落ち着きを持った雰囲気を出していました。主役4人の中では、ちょっと見劣りがしてしまったのが、ピンカートン役のマルセロ・プエンテ。高音に不安定なところを持っているのですが、なかなかきれいな声。ただ、動きが蒼い印象を持ってしまいました。総合的に言えば、楽しめたと断言できることは確か。ならば、惜しむらくは、朝9時上映開始だけは止めて欲しいものです。いつもなら、大概は眠っている時間です。
 大阪ステーション・シネマを出て、少し梅田の地下街をうろついてから尼崎へ。その途中で、福井から来た高校時代の友人と合流。午後は、尼崎のアルカイック・ホールであった関西二期会の公演「イリス」を観てまいりました。マスカーニ作曲のこのオペラはレアものです。オペラ好きの友人は、そのレアさに惹かれ、福井からやって来ました。「カヴァレリア・ルスティカーナ」はともかくも、「友人フリッツ」すら、上演機会が稀れなのに、「イリス」に至っては、こういった機会がないと、こないなオペラがあったことすら、忘れ去っているという代物です。そういった作品ですから、今回、関西二期会が、なぜ、取り上げようとしたのかは、最後まで判らずじまいでした。とにかく、イタリア・オペラとしては、珍しく、抽象的、哲学的、観念的、要するに、難解極まらない作品でした。おまけに、黄紺の席からは、目が悪いため、字幕は見えずで、パンフレットに頼っていたのですが、その梗概を読んでも、理解は進まずといった作品でした。薄幸の娘イリスの半生を描いているのは確かなようです。盲目の父親の面倒を見ているイリスですが、拐かされ、吉原に売られていくが、拐かした女衒の京都が書いた偽手紙で、父親を捨てたと思われ、父親の憎しみを買う。京都をそそのかした好色な男大阪の欲望の対象となるイリスと、イリスの不幸は続き、ついには自害とおぼしき場面へと進んでいきます。但し、ここまでのプロセスが、イリスの夢なのか、いや、イリスにとって、夢か現かの区別がついているのかが、よく判ってないような仕組みになっているため、頭は混乱していきます。最後の場面は、更に幻想的。死んだ者の世界なのか、死に行く者の世界、はたまた、現実の世界なのか、その辺りが判らないまま進行していきます。最後は、太陽が上り、イリスの転生を讃え、終わりますから、どこかで、イリスは死んでいるはずなのですが、イリスの死をどこに持って来ているのかが不明朗なままの死でした。舞台上では、2幕の最後、父親の叱責を受け、絶望したイリスが、照明のないスペースに入ったところで、死を表しているようには見えたのですが、、、。更に、転生というのは、イリス=あやめへの転生です。舞台では、60人もの合唱が、舞台両サイドに並び、舞台上にも、内裏の官女や官吏が居並び、神々しい光に包まれ、背後のスクリーンに、あやめの画像が映し出されるといったものでした。舞台の作りを、後先になってしまいますがメモっておくと、1幕はイリスの家。東屋を示す簡易化した装置、その同じ装置を使い、2幕では、吉原の遊女の部屋にしており、舞台両脇には、金屏風が立て掛け、ジャポニズムの雰囲気。あやめへの転生というラストが待っていますから、背後のスクリーンには、常にあやめを角度を変えて映し出す趣向もありました。その画像に、時々、赤富士を交え、ここでもジャポニズムの演出がしてありましたが、この作品、ジャポニズムの権化のような作品というイメージがありますが、筋立て、コンセプト、いずれをとっても、日本的なものを感じさせるものではなく、単に、舞台を日本にしたというだけと看ました。転生といったラストにも、何も仏教的な色彩を持ち込んだ様子もなしで、これは、単に時流に乗っただけとしか思えず、また、転生と言えば、ヨーロッパでは、ダフネを想起させるのですが、それとの繋がりも見出だすこともできずで、結局、友人とも、「よく解らない作品だなぁ」ということになってしまいました。歌手陣は、大阪を歌った松本薫平(咲くやこの花賞受賞者)が抜けていました。タイトル・ロールを歌った福田祥子は、音が不安定で聴きずらいところがありました。なお、オケは、タニエーレ・アジマン指揮の大阪交響楽団でした。
 オペラが終わると、西九条経由で新今宮へ。夜は、動楽亭であった「よねきのDownsizing TURBO」の2回目に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。米輝「道具屋」、弥っこ「皿屋敷」、米輝「パウダーの専門家」。第1部から残った人たちに加わったのはいいのですが、どうも、第1部でのネタふりがあったようで、かなり戸惑った落語会。米輝は2席。「道具屋」は、前座として、様々な落語会で出してきているでしょうから、とっても安定したお喋りぶり。なぜか、パッチの下りが入っていませんでした。抜かしたのか、元々入れてなかったのかは不明です。2つ目のネタは新作。けったいな噺を考え出したものです。「パウダー」という言葉を持ち込むことで、いろんな粉に対応できるようにしてあるのがミソ。会社でうまくいかない男が先輩に相談すると、いかがわしい店を紹介され、その男が売ったパウダーの効能が紹介されていくところが、遊びどころという噺になっていました。米輝は、やっぱ不思議な噺家さんです。少ない客席でも、きっちりコアな落語ファンは来ています。弥っこの長めの噺を聴くのは初めて。「皿屋敷」は、まず、序盤のおやっさんの語りが肝要。あとは、暗いなかのハチャメチャ噺になっていきますが、ここだけは、怪談調が必要です。落ち着いた、しっかりした語りが必要だということですが、弥っこの語り口では物足りない。口先の語りになっている印象を得てしまいました。むしろ、中盤のいちびりながら怖さを楽しむような、ハチャメチャっぽい語りは楽しめたと思っています。ま、序盤は年の功かもしれませんから、大切に暖めていってもらいたいものです。ということで、遊び疲れました。寝不足ということもあったのか、昨夜は、いい睡眠が、おかげでとれました。


2016年 5月 27日(土)午後 7時 54分

 今日は動楽亭で落語を聴く日。今日の午後、こちらでは、「ハナジョ~花の女子学園~鞠輔と瑞の落語お勉強会その6」という落語会がありました。黄紺的には2度目のおじゃまとなりました。その番組は、次のようなものでした。瑞「ん廻し」、鞠輔「子ほめ」、雀五郎「鴻池の犬」、(中入り)、全員「トーク」、鞠輔「悪霊祓い」、瑞「高津の富」。今日は、いい落語会が目白押しの日だったのですが、その影響は受けてはいそうにない程よい入り。但し、ディープな落語ファンは少なかったということは、この会の固定ファンで締められていたということか。どおりで入りに影響が出てないはずです。瑞の「ん廻し」は、女子会に、また、味噌田楽に替えて、たこ焼きパーティーにとなっていました。当然、「ん廻し」にも改作が入りましたが、それは、今やお約束のことか。鞠輔は、久しぶりの遭遇だったのですが、見るからに顔と言い、体つきと言い、大きい。その答えは、あっさりと判明。「私、今、2人で舞台に上がっています」、妊娠7ヶ月だそうです。お腹の大きな女性噺家さんの高座って、ぽんぽ娘以来のはずです。従って、子どもの出てくる噺をということで、「子ほめ」でした。時間が長くならないように考えてでしょう、伊勢屋の番頭は、全く出てきませんでした。ゲストは雀五郎、これは珍しい。寡黙過ぎる雀五郎は喚びにくいのか、ゲストとしての登場は少ないですから。ましてや、「トーク」が番組に組まれている会へのゲストですから、普通はないはず。黄紺は、かえって、それにそそられて、この会をチョイスしてしまったほどでした。ネタは、ブランデー・グラスを持つクロの出てくる「鴻池の犬」でした。コアな落語ファンが集まっていると、ブランデー・グラスを回す姿だけで、ドッカーンと来るのですが、今日は、黄紺だけが笑い声を出してしまってました。解ってないのかなぁと思っていたのですが、「バテレンの酒でも、、、」のくすぐりでは、客席から反応があり、ちょっとホッとしました。鞠輔の2つ目は、初めて聴いた噺。終始、いろんな悪霊が憑き、それを、ダジャレで落としていくというもの。短い噺ですが、なかなか凝ったもの。新作なんでしょうが、どこから、鞠輔は手に入れたのでしょうか、とっても気になってしまってます。今日は、順番では、鞠輔がトリの番なそうですが、お腹の大きな鞠輔に替わり、瑞の方がトリ。そうなれば、これが出そうと、正に狙いをつけていた「高津の富」が、ドンピシャで出ました。先日の瑞の勉強会でのネタ下ろしには行けなかったものですから、希望的予測を立てていたのでした。瑞の声は高いですから、登場人物が興奮してくると、耳にキンキン来るのが辛かったですね。その一方で、序盤の空っけつのおやっさんのホラ話が、嘘っぽさを前に出さないけれど、嘘だと判る口演が、なかなかの出来栄えに拍手ものでした。ですから、あまり露の瑞が出ないようにするといいのかな。言うは易し、行うは難しというやつかもしれませんが。次回は、鞠輔に子どもが産まれてからだそうですが、鞠輔は、今年いっぱいは休むと、「子ほめ」に出てくる産婦に言わせてましたから、この会は、来年まで見ることはできないということになります。生きてるかなぁ、それが、一番初めに、頭をかすめました。


2016年 5月 26日(金)午後 11時 38分

 徐々に、日本を離れる日が近づいてきていますが、今日は、コンサートと講談会の二部制の日。まず、午後は、兵庫県立芸術文化センターで、レジデンツの管弦楽団の第96回定期演奏会に行ってまいりました。今日は、指揮に下野竜也、ハープのソリストに吉野直子を迎え、次のようなプログラムでした。「ロドリーゴ:アランフェス協奏曲」「ブルックナー:交響曲 第6番 イ長調」。「アランフェス協奏曲」は、本来はギター・ソロの曲。それを、今日は、ハープに置き換えての演奏。黄紺的には、初めて聴くことになりました。それでも、大ホールで、この曲を演奏するには、音量的に厳しいものがありますね。ま、黄紺の席が、1階の最後部ということもありましたが。そないなことに加えて、今日は、極端な寝不足の日。終始、半寝の状態で聴いてしまいました。次のブルックナーも、ちょっと似た状態。1楽章がおもしろくなかったのです。音の厳しさというものを感じず、だら~りとした演奏に聴こえてしまい、更に、特にホルンがそうでしたが、頼りない音を出してくれるものですから、退屈で、、、こうなると、2楽章に入り、緩い音楽に変わると、居眠りと、よくありません。せっかく西宮まで行き、好きなブルックナーが苦痛になってしまいました。絶不調のコンサートとなってしまいました。
 コンサートが終わると、会場で会った知人夫妻の車に乗せてもらい、大阪まで移動したのはいいのですが、出発までに時間がかかったのが痛く、とっても際どいものとなり、肝を冷やしました。やはり、限られた時間での移動は、電車に限るとの教訓を得ました。で、夜は、動楽亭であった「南湖の会 ~赤穂義士伝~」でした。毎月、動楽亭で開催されているおなじみの講談会です。今日は、南湖「渡辺綱と鬼の手」、鱗林「越ノ海勇蔵」、南湖「赤穂義士伝5」「小夜衣草紙」が読まれました。こちらも、不調。居眠りの連続でした。まともに、全部聴けたのは、冒頭の「渡辺綱」だけという低汰落。鱗林さんの口演は、ほぼ全滅。「赤穂義士」は、どの辺りの話をされたのかくらいしか判りません。「渡辺綱」は、貝塚のだんじり講談として作ったものとか。よくある頼光らの鬼退治を脚色したもの。主役は渡辺綱になっているのは、だんじりの人形に合わせたものでしょう。鱗林さんの相撲もの(寛政力士伝)は初めてだったのですが、上に書いた通りの状況。「赤穂義士」は、内匠頭の切腹からの展開。ただ、どこまで行ったかが判らないのです。南湖さんは、今月から怪談を始めると言っていました。その手始めの「小夜衣草紙」は、怪談の少ない旭堂にあっての定番ネタ。「蛤の吸い物」という題名で演じられることも、しばしばです。マブに裏切られた遊女が、凄惨な自害をしたあと、元カレの婚姻の席で祟るというもの。南湖さんの話によると、このネタは、長い物語の一部だそうです。なんか、その長い物語に手を着けそうな口ぶりだったのですが、果たして、どうされるのでしょうか。


2016年 5月 25日(木)午後 11時 38分

 今日は落語を聴く日。「第1回光照寺落語会~笑福亭仁智一門会」という落語会に行ってきました。光照寺というお寺は、地下鉄「四天王寺前夕陽ヶ丘」駅近くにあり、初めて行くことになりました。また、仁智一門会というのも、黄紺的には初めてとなります。その番組は、次のようなものでした。大智「子ほめ」、智丸「有馬小便」、智六「猫の災難」、智之介「持参金」、仁智「老女A」。大智の落語を聴くのは、まだ2回目くらい。上手なお喋りに、前に聴いたとき、こないにいい印象を持ったっけと思ってしまいました。何よりも気の乗った口演が気に入りました。テンポが良く、スピード感もありました。智六は、珍しいネタを出しました。黄紺も、この前、このネタ、誰で聴いたかは思い出せないほど、前のことです。このきちゃないネタを、3代目が持ちネタにしていたと思い出すだけで、可笑しくなってしまいます。この噺、設定が戦後だったんですね。智六は、型通り聴かせてくれたようです。最近は、こうして、若手の噺家さんが、差別化を図るため、珍品に手を着けてくれます。ま、それはそれで嬉しいのですが、、、。智六の「猫の災難」も、限られた演者さんが持ちネタにしているというもの。ただ、智六の口演は相変わらずで、台詞を覚えてないのかなぁ、ネタを繰らないで高座に上がってるのかなぁと思えるような口演。あとから上がった兄弟子に、「ホンマに呑んでます」と揶揄されていました。その智之介、初めて聴く「持参金」でした。言葉を大切に、クリアに発するように留意した口演に好感が持てました。この人、洒脱だし、もっと人気が出たっていいのにって、常々思っている黄紺です。そして、トリは総帥仁智。もう爆笑に次ぐ爆笑。マクラからボルテージは上がるばかりでした。この一門会は、実は1年前、同じ場所で計画をされていたところ、今日の会場になった本堂が、火事に遭い、2日前に中止になったという曰く付きだそうです。そのリベンジの第1回目が今日だったということだそうです。それだからでしょうか、大変な大入り。熱気もあり、とってもいい一門会だったと思います。定期的に、この会場で続けられるようですが、どうしても心配なのは智六ですね。


2016年 5月 24日(水)午後 6時 44分

 今日はシネヌーヴォで映画を観る日。柳家喬太郎主演の日本映画「スプリング、ハズ、カム」を観に行ってまいりました。広島から上京して大学に入る娘と一緒に、住宅探しをする父親の1日を追った映画という触れ込み通りの映画でした。1日が、大きく3つに分けられています。1つ目は、東京に出て仕事をしている父親の妹と、3人で食事をする場面。上京後、世話になる叔母との顔合わせという設定です。ここで、叔母の口から、父親が一人で、娘をここまで育ててきたこと、また、母親が亡くなったわけも明らかになりますが、そないな仰々しい設定ではないために、ランチを食べながらという会話。2つ目は、実際に住宅を探し回り、気に入った物件を見つけたあと、大家さんが、祖師ヶ谷大蔵の街を案内してくれる。その中で、娘が場を離れたときに、年輩2人の会話で、娘を東京に出すわけが語られます。そのパートに、蛇足的に付け加わるのが、ドラマのロケ現場で、大家さんを入れた3人に加えて、通りすがりの女性1人を加えて、疑似家族を演じる場面。この場面が難解、よく解らない。「家族は形ではない」なんてことを言ってるのかなぁなんてことを考えてしまってましたが、、、。3つ目は、祖師ヶ谷大蔵駅街角で、インド人夫婦に道を聞かれ、丁寧に教えると、その夫婦の兄弟のしているレストランで、インド人オーナー氏との会話が弾んでいきます。オーナー氏は、結婚ということで娘を手放す立場にあり、その「娘を手放す」ということから生まれる感情は、世界同じだなんて言おうとしていたようでした。そして、コーダのようにして付いたラストがありました。静かに進んできた映画でしたので、終わり方も、静かに静かに、でした。父親とハイティーンの娘の1日、それに、暫しの別れが待っているという設定で、喬太郎自身が落語を創ったら、こないな静かで、毒のない噺は、まず書かないだろうにという映画でした。たとえ「毒なし」という制約のもと、このテーマで創作しても、このようなテイストではなかったろうにと思いました。物足りない原因って、娘の個性が描けてなかったかもなというのは、黄紺の声でもありますが、娘役の女優さん、トップアイドルだと知りましたが、こないな娘がいたら、また違った人生があったかもしれませんね。なんせ、息子しかいないもので。そんなことを考えさせた素敵な女優さんでした。


2016年 5月 24日(水)午前 6時 8分

 昨日は繁昌亭昼席に行く日。今週は、「第71回文化庁芸術祭*桂文之助大賞・笑福亭鉄瓶新人賞受賞記念ウィーク」と銘打った興行が行われています。その番組は、次のようなものでした。染吉「つる」、三弥「桃太郎」、福車「代書屋」、枝曾丸「持参金」、達瓶「茶目八」、呂鶴「青菜」、(中入り)、文之助・鉄瓶・呂鶴・内海英華・達瓶(司会)「記念口上」、鉄瓶「堪忍袋」、内海英華「女道楽」、文之助「一文笛」。今週は、染吉が前座。時間に合わせて、うまく刈り込んだ「つる」を聴かせてくれました。でも、染吉なんかが前座で出ると、そないな刈り込みも適切で、最早、前座の口演ではないですね。三弥は、独特の柔らかい、和やかな雰囲気を持っています。そして、毎度のことながら、子どもの噺に味があります。今席は、前の2人がいい感じで推移したのですが、福車から地味になってしまいました。「代書屋」は、最近は、雀太の口演が耳に残っていけません。何を聴いても、地味になってしまいます。その空気が続いてしまいました。昨日は、色物が1つで、しかも、出番が、昨日だけ後ろに入ってしまってました。ですから、落語が6本も続き、正に色変わりの時間を作ることができずに、中入りまで進んでしまいました。淀んだ空気になると、どうしても眠たくなってしまいます。枝曾丸の古典は久しぶりだったのですが、、、。達瓶の出した「茶目八」って、最近、聴いたことのなかった噺。幇間ものは、完全に「太鼓腹」にシフトしてますものね。にも拘わらず、ここも半寝。ようやく、呂鶴で覚醒。マクラで、酒の小咄をふったもので、他の噺を期待したのですが、定番の「青菜」でした。呂鶴の「青菜」は、植木屋が家に帰ってからのお喋りのテンポを上げるのがいいですね。それだけで、旦さんの前では居ずまいを正している植木屋さんの姿が浮かび上がってきます。ここのところが、新しい発見でした。「口上」は、最近は、当人たちも喋るということを前提に構成されています。でも、「口上」に、師匠、ないしは代理が出ないのは寂しいとしか言いようがありません。鉄瓶落語は久しぶり。あまり聴こうとしてなかった噺家さんの1人。その間に、すっかり腕を上げていました。受賞までは妥当かどうかは、黄紺には解りませんが、いい腕を見せてくれたことは確か。堪忍袋に文句を言うときに、この人は、鶴瓶ネタを使えるのはお得。そのお得なところを除くと、とっても正攻法の口演。ちょっと他の落語会に行き、鉄瓶落語を、じっくり聴いてみたくなりました。トリの文之助が登場したのは、午後3時32分、これは、文之助に長講をさせる配慮だと思ったのですが、見事に外れ。えらく長くマクラをふるものですから、黄紺の長講の期待は、呆気なく吹っ飛びました。徐々に、マクラが盗人ネタに収斂していきますから、「おごろもち盗人」を予想したのですが、ここでも外れ。黄紺的には、2回目となる「一文笛」でした。文之助は、「一文笛」はやらないとインプットされていたところ、動楽亭昼席で、文之助が出したものですから、びっくりしたとき以来です。もう、流れるような口演で、ツボを外さない口演は、お見事です。下げに看られる「緊張と緩和」が、これだけ見事に決まると、ホント、気持ちのいいものです。入りが、もう一つですね、繁昌亭。先日の文三の記念ウィークもそうでしたし、ちょっと気になります。三風班長率いる集客班が躍起になるのも、解りかけてきました。


2016年 5月 23日(火)午前 6時 44分

 昨日も、カフェモンタージュで音楽を聴く日。昨夜は、「最後のソナタ」 と題して、松本和将さんのピアノ・ソロの演奏会がありました。そのプログラムは、次のようなものでした。「L.v.ベートーべン:ピアノソナタ第30番 ホ長調 作品109 (1820)」「同:ピアノソナタ第31番 変イ長調 作品110 (1821)」「同:ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111 (1822)」。「最後のソナタ」とは、ベートーベンの最後の3つのピアノ・ソナタということで、正に極上のプログラムが用意されたということでした。昨日も、挨拶替わりの解説をされたオーナー氏によると、ディアベリ変奏曲とミサ・ソレニムスと同じ時期に書かれた、大変な曲とともに、これまた、大変な曲を残したという意味で言われたのでしょうが、正に、ベートーベン音楽の集大成と言える一群をなす曲が、この3曲と言えましょう。音楽好きの高校時代の友人と一致したのは、ベートーベンの極地とは、晩年のピアノ・ソナタ、ミサ・ソレニムス、そして、後期の弦楽四重奏曲。ここにも、きっちりと昨日の3曲は、名を連ねました。黄紺は、3曲の中で、どれを、特に気に入っているというわけではありません。というのも、3曲は3曲とも特徴があり、そのいずれをも気に入っているということです。昨日の松本さん、この人の演奏を聴いて、音のきれいさに目を見張ったということはなく、もっと違ったところに惹かれるというのが常だったのですが、昨日は、1つに、音のきれいさ、それも、いろいろと使い分けをされるものですから、高音が、全てそうだったというわけではないのですが、敢えて、そこに焦点を絞って演奏されてるな、そして、まんまと成功していたと看ました。一方、32番の冒頭の強奏にはびっくりさせられました。カフェモンタージュのピアノが、今までで一番大きな音を出したときかもしれません。音についての記憶はともかくも、総じては武骨なベートーベン。テヌート気味に音を切るのではなく、大胆に音の切れがあるように聴いてしまうためなのか、そのように感じてしまったのかもしれません。ですから、浪々と音が流れるとかっていうベートーベンではないというのが、特徴と言えそうかな。最初に、松本さんのベートーベンを聴いたときに、最も印象に残ったのがこれで、彼オリジナルなベートーベンが、ここから生まれてると感じたところでした。これで、しばらくは、カフェモンタージュへは行くことができません。6月は、「ウィーン音楽祭」として、古典から新ウィーン楽派までのメニューが目白押しですが、日本を離れていますから、ほとんど行くことができないのです。黄紺が外国に出かけると、シリーズものが企画される傾向がありますが、もちろん偶然のこと。替わりに、たっぷりと、ドイツでオペラを観てきます。


2016年 5月 21日(日)午後 11時 25分

 今日は音楽三昧の一日。午後に、京都コンサートホールであった「京都市交響楽団 第612回定期演奏会」に行き、夜は、カフェモンタージュで室内楽を聴く日でした。まず、京都市交響楽団のコンサートでは、「ブルックナー:交響曲第5番 変ロ長調(原典版)」が、常任首席客演指揮者の高関健の指揮で演奏されました。この2ヶ月の間に、ブルックナーの5~7番のシンフォニーを聴けるという、とってもラッキーなことが起こっているのですが、今日がその1日でした。そのコンサート、ブルックナーが1曲だけ演奏されました。ブルックナーのシンフォニーの中で、最もブルックナーらしいけれど、ブルックナーに関心のない人には、最も敬遠されるのが、この5番。で、その気持ちが解るなぁという感想が、今日の演奏と言えばいいかもしれません。第1楽章で刻まれるリズムが、淡々と規則正しく刻まれるのはいいのですが、機械のスイッチを押しただけという無味乾燥なものに、ブルックナー特有の金管の合奏が被さっても、全然おもしろくない。第2楽章には、オーボエ・ソロが入り、その拍子と、他の楽器の拍子が違うというおもしろい構造になっており、これが、なんとも言えない不安定感を培い、特有の雰囲気を醸し出すのは、判りきっているほど判りきっているにも拘わらず、その不思議なパートが不思議じゃないのに、愕然。リズムの刻みは1楽章同様というところで、更にガッカリ。第4楽章の後半で、ようやく、らしい雰囲気が出てきたかな。でも、遅きに失するとは、正にこのこと。噂に違わず、京都市響は、よく鳴っていただけに、とっても残念な気持ちに捕らわれてしまいました。こういったときって、1曲だけのプログラムって、きついですよね。
 京都コンサートホールを出ると、夜まで時間があるということで、京都市の中心部に向けて、ウォーキングをすることにしました。京阪三条駅まで、ほぼ1時間。いい汗をかきました。自宅待機後、カフェモンタージュへ。今夜は、「ピアノ三重奏― シューマン&ブラームス ―」と題したコンサートの第2回目がありました。演奏者は、(ヴァイオリン) 上里はな子、(チェロ) 向井航、(ピアノ)松本和将の3人の方でした。また、プログラムは、次のようなものでした。「R.シューマン:ピアノ三重奏曲第2番 ヘ長調 作品80 (1847)」「J.ブラームス:ピアノ三重奏曲第2番 ハ長調 作品87 (1882)」。毎回、印象に残る演奏を聴かせてもらっている3人の演奏、シューマンの方は、なかなか聴けないのじゃないかな。今日は、このシューマンで、生で聴くことの大きさを思い知りました。この曲、今日の演奏のような熱い曲想を持っているとは、思っていなかった黄紺は、最初の数小節でギャフン。そういった曲になると、俄然目立ってくるのが上里さんのヴァイオリン。向井さんのチェロが、実に巧みにフォローするという構造が素敵。そないな曲想だったからでしょうか、インターヴァルの時間になると、おしゃべりを封印されたと言う向井さんが、松本さんに、「こないなコンサートじゃなければ、この2つは組み合わさないよな」、納得です。ブラームスでは、更にスパーク。以前、この3人で聴いたショスタコーヴィッチを思い出してしまいました。熱気むんむん、明日は、松本さんのソロで、ベートーベンです。


2016年 5月 20日(土)午後 11時 37分

 今日も二部制の日。午後には、久しぶりの民博ゼミナール、夜は落語というメニューでした。まず、ゼミナールですが、今日は、「心地よい暮らし(エイジング・イン・プレイス)――コミュニティをつなぐアーミッシュたちの暮らしから」と題し、鈴木七美(国立民族学博物館教授)さんのお話しがありました。アーミッシュって、興味本位でしか知らなかったものですから、一からのお勉強のつもりで聴きに行ってきました。宗教的信念、それも、再洗礼派の人たちだったことを、初めて知りました。黄紺的には、再洗礼派というセクトは、かなりプロテスタントの中でも、宗教的原理主義者というイメージを持っていましたから、それを聴いて、すんなりと彼らの生活スタイル、コミュニティ形成を納得することができました。アメリカですから、コミュニティという語句を使うのですが、再洗礼派の故郷、スイス、ま、神聖ローマ帝国になるかな、ですから、ドイツ語を使うと、ゲマインデになりますというお話しで、更に納得。コミュニティ(ゲマインデ)は、旧来の教会組織から自立をして、独自の主張を展開し、コミュニティとして自律し、オルドゥヌング(規律、これはドイツ語を使ってる)を持ち、その規律の確認、新たな規律を設けるにも、コミュニティの判断が先決であるということでしたし、信仰を確認にし、高揚する場としての「教会」は持たず、いわゆる無教会であり、コミュニティの成員の家を回り、場をつくるということを聴けば、ますます個別主義が行き届いたように見えるのですが、個人主義は否定されているということ。コミュニティの意思が、先にありきで、個人は、服装からして目立ってはいけないというほど、徹底した個性の否定を旨とする集団だそうです。また、聖書に忠実であらうとするのは、プロテスタントが押し並べて主張してくるところですが、この人たちの主張は、ここでも原理主義。ここで、 産業化の否定という考え方が出てくるというわけで、アーミッシュが好奇の目で見られたり、かつては迫害の対象になったポイントなようです。お話しの内容は多岐に渡り、なかでも彼らの教育に関して、時間が割かれたのですが、黄紺は、ここで居眠り発生。どうも、きっちり人の話を聴けなくなってきているみたいです。そないな場面もあり~のでしたが、今まで、皆目知らなかったアーミッシュについて、サワリだけでも知ることができ大収穫と、こんなでも悦に入っている黄紺でした。
 ゼミナールが終わると、民博から千日亭への大移動。ま、民博からの移動となれば、どこへ行っても、大移動になりますが。夜の千日亭では、「染左百席 千日快方」という落語会がありました。林家染左が、毎月続けている落語会。黄紺的には、優先度の高い落語会のため、厭わず大移動をしたというわけです。その番組は、次のようなものでした。染左「色事根問」、咲之輔「崇徳院」、染左「向う付け」、(中入り)、染左「堀川」。染左の「色事根問」にびっくり。噺の筋立ては崩さず、中身を現代ものに変えていました。しかも、10個にも達せず、5個で切り上げるもの。どうなんでしょうかね。「根問」ものは、古い形を残して欲しいと思うと同時に、現代仕様があってもいいと思うし、、、。両方ともやれば、いいのかな。新作にするなら、模倣品だということが判っているわけですから、1~10の言い方を作って欲しかったですね。咲之輔の「崇徳院」は、今年、10年目を記念して、繁昌亭で開いた独演会で初演したもの。ここで聴けるとは思っていませんでした。もちろん初遭遇です。意外と言うと、失礼なのですが、安定した語り口に肝心。ただ、必要以上に落ち着いていたように思いました。熊五郎は、もっと起伏が大きいほど、リアリティがあると思うのですが。そして、終盤をいじってました。相手先を見つけて、熊五郎は、若旦那のもとに帰って来るというもの。そこで、鏡が割れ下げになるというもの。初めて聴く型でしたが、蛇足っぽいなぁ。染左の2つ目は「向う付け」。こちらも、変わった型でした。喜ぃ公が十一屋に着く前に、十一屋に用意されている丁場の場面が入り、炭屋の大将とよくできたおなごしが来るというもの。「くやみ」に入れられる1つ目と2つ目のエピソードです。それが済んだところに喜ぃ公が現れ、奥に通り、隠居の遺体との対面、丁場を頼まれるとなりました。家に、一旦帰ったあと、阿倍野の斎場の場面。無筆の男と向う付けを始めるシーンになり、ここで入るのは、何人もの名前を書かされるエピソード、次いで下げに繋がるエピソードとなりました。「くやみ」のメーンになるのろけ話は出て来ませんでした。順番が入れ替わり、フルヴァージョンからの一部カットというもので、恐らく初めて聴いた型だと思います。ひょっとしたら、染左オリジナルかもしれません。帰り際に確かめようかと思ったのですが、染左が、他の客に対応していたので、聴けずじまいになりました。この「向う付け」もそうですし、次の「堀川」もそうですが、わけのわからないアホが出て来たり、無頼漢の出て来る噺、染左は、ホントに自分のものにしたと思います。このことと、マクラで、アホげなおもしろ話ができるようになったことはリンクしているように思います。登場人物の特徴をしっかりとらまえ、それを過不足なく表現するという、当たり前であって、でも、とっても難しいところが当たり前のように出てくる。染左の若い頃、弾けて欲しいなんて、よく思ったものですが、今や弾けまくってます。終盤の浄瑠璃も聴かせてくれました。「堀川」は、ここまで来ると、毎回、不思議な噺だなぁと思ってしまいます。この浄瑠璃を出したいという趣向の噺なのですが、ここに来て、無頼漢が急におとなしくなるのですからね。満足、満足で外に出ると、道頓堀の喧騒は、半端ではありませんでした。


2016年 5月 20日(土)午前 6時 39分

 昨日も二部制の日。昨日は、まず大阪歴史博物館の特別展「渡来人いずこより」を観てまいりました。腰に問題を抱える黄紺にとって、博物館は鬼門。外国では、休みを取りながら、博物館巡りはしますが、日本では久しぶりのことになります。今、「ルオー展」をやってるから行きたいのですが、こちらは止めるつもりをしているくらいです。で、歴史博物館のこの展示、「朝鮮半島のどこから」というテーマ設定に惹かれてしまいました。でも、行ってみると、ダメでした。まず、興味がわきません。展示が解りません。それでは、ダメとしか言いようがありません。日本の古墳時代の畿内を中心とした地域の遺跡からの出土品、要するに、土器、その欠片、鉄製品、その欠片、馬具、その欠片などが展示され、その形状からして、朝鮮半島にあった諸国のどこに、似た形状のものが出土しているかというのが、基本的な展示のスタンス。日本の古墳時代の知識に弱い黄紺には、とっても辛い展示。しかも、朝鮮半島に相似形があるから、渡来人がもたらしたと言われなくても、先進的な技術が、他から入ってくるわけでもなく、ましてや日本発祥のものでもないわけですから、渡来系文化などということは判っているわけなもので、それが、どの地域から来て、そして、その意味はとなれば、また別の発見があったのでしょうが、そこまで踏み込む展示でもなくであったため、冒頭に書いたような衝撃に遇ってしまったのでした。勉強不足なのかもしれませんが、、、とにかく難しかった、それだけです。
 大阪歴史博物館を出ると、軽くウォーキングをしたり、ネットカフェに入ったりしながら、時間調整。夜のコンサートを待つことになりました。そして、いずみホールへ。今夜は、こちらで「第9回大阪国際室内楽コンクール審査委員によるスペシャル・コンサート~華麗なるクインテットの世界~」があったのです。出演は、堤剛(Vc)、M.ルティエク(Cl)、クァルテット・エクセルシオの皆さんでした。なお、プログラムは、次のようなものでした。「モーツァルト:クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581(M.ルティエク×SQエクセルシオ)」「シューベルト:弦楽五重奏 ハ長調 D.956(堤剛×SQエクセルシオ)」。室内楽の名曲が2つ並びましたが、五重奏という制約から、なかなか生の演奏に遭遇できない代物。まだ、モーツァルトは、弦楽四重奏団にクラリネットの名手が絡むという構造のため、遭遇機会はましな方。だが、シューベルトはきつい。チェロがあるなかに、もう1つチェロが入るというのは、難しいのでしょうね。こないに素敵な曲が聴けない、その代表格になるかもしれません。クァルテット・エクセルシオは、このコンペの入賞経験があるということでの出演。知人からの推薦もあり、このカルテット中心のコンサートに行ってみたのですが、とっても緻密なアンサンブルを信条に活動されていると看ましたが、残念ながら、音の掴み方のシャープさという観点からすると、わりかし物足りないかな。ですから、一昔前のアンサンブルを聴いてるような雰囲気にとらわれてしまいました。それに対して、M.ルティエクのクラリネットは、明るさがあり、快活な音色、ちょっとミスマッチな組み合わせといったところか。一方、堤剛は、ホント、久しぶりに聴きました。まず、他の誰よりも音が出るというのが曲者といった感じで、バランスに苦労していたような雰囲気。考えてみたら、このコンサートは、五重奏を旨とするものだから、エクセルシオだけの演奏はなしということ。2つの五重奏曲を聴いてみて、エクセルシオだけの演奏を聴いてみたくなった次第。但し、極上のアンサンブルは聴けるでしょうが、バルタークなどは、端からきついなとは思いますが、、、。ちょっと満ち足りた音楽というわけではなかったのですが、やはり、シューベルトを聴けたありがたさは、格別なものがありました。このコンサートを教えてくれた知人に感謝です。


2016年 5月 18日(木)午後 10時 9分

 今日は、シネヌーヴォで映画を2本観る日。先日の「南インド映画祭」に行ったときに仕入れたものです。まず、1本目は、「ポーランド映画祭 in 大阪」の一環として上映されている「ワルシャワ44」でした。第2次大戦中のこの映画を観たさに、シネヌーヴォに行くことを決めたのですが、それに、2本目の映画が付いてきたというのが、今日のスケジュールとなりました。1944年のワルシャワ市民の蜂起を描いた映画ではあるのですが、蜂起そのものを、ドキュメンタリーのようにして記録するような映画ではありません。その蜂起に加わった10代も終わろうかという年代の男女の青春群像的な要素が看て取れる映画と言えばいいでしょうか。但し、ワルシャワ蜂起70周年を記念して作られた映画だけに、戦闘の経緯という事実の上に則っていますから、地域の実情や、ドイツ軍、ポーランド亡命政府、ソ連軍の動向などに呼応して、筋立ては追われていますし、戦闘場面の凄まじさは半端ではありません。事実そうだったのでしょう、酷く、残忍で、正に人間が微塵となり吹っ飛ぶ映画です。そういった中で、主人公や彼らの仲間たちが、生きるために、また、人を人として認めた上で愛し、憎しみを見せる姿を追っていきます。かなりCGを使っているようですから、戦闘による死の描写は過剰とも言える、いや、あれが現実でしょうが、かなり激しい描写となっていますし、その一方で、男女の恋心を描くのに、銃弾(これが見える)飛び交う中でのキスシーンが使われたりします。ファンタジックなシーンかと思えるような描き方にもなっていました。戦闘シーンには似つかわしくない音楽が入るところもあります。でも、音楽のおかげで、残酷なシーンも正視できたのかもしれません。映画は、戦闘シーンや処刑シーン、逃げ惑う市民のシーンが続き、その中に、主人公たちがはまっていくという流れです。ナチスの行為は無論のこと、ポーランド軍の中にあるパワハラ、ポーランド人による無抵抗のドイツ兵殺戮シーンなど、戦争の生む多くの非人間的な行為が可能な限り埋め込まれていますから、思わず目を塞ぐ場面も、再三再四あったことも事実です。ワルシャワ市民の蜂起が崩されていくなか、結末は、映画の中では触れられていません。主人公たちの行く末で、それを表そうとしたのかもしれません。正確な情報を持ち合わせていない黄紺などは、主人公たちの行く末が肝心なこととのメッセージかと思ってみたり、ドキュメンタリーではないので、そないなことは、どうでもいいという描き方かもしれないと思ってみたりしたのですが、ポーランド人が観たなら、蜂起の結末は知っているわけですから、主人公たちの動向だけで、蜂起の様相と結びつけて考えていたのでしょう。主人公2人は、最後、どうなったのでしょうね、全てを幻想と取ったり、逆に、全てを現実に取ったりと、解釈は、様々に可能なように作られていたのかもしれませんね。しかし、この映画が、劇場公開されないことに、何やしら異様なものを感じてしまっています。ま、「ポーランド映画祭」で、辛うじて観れたことをありがたく思うことにしましょう。
 次いで、日本映画「真白の恋」でした。知的障害のある女性の恋を描いた映画というのが魅力で、ポーランド映画に続いて観ることにしたのでした。なかなかいい台本で、しっかりとしたネタふり、無理のない展開、映画ならではの、非現実的な手法を使い、映画のポイントをうまく締めている、それに加えて、美しい富山の風景が見せてくれました。たまたま親戚の結婚式のあった神社に撮影に来たカメラマンのカメラで、偶然撮ってしまった自画像を見せてもらったのをきっかけにして、そのカメラマンとの交流が続いていきます。真白という名の女の子の描く淡い恋心、カメラマンの方は、富山滞在中に、いいところを案内をしてくれる女の子という感じ。このカメラマンは、スポンサー雑誌の編集者に、真白のことを教えられるまで、障害については気づかないという設定になっています。周りの人間では、東京から、辛い不倫から逃げるようにして富山に戻ってきている従姉だけが、真白の行動の実際を知っていることになっています。これだけだったらいいのですが、真白がカメラマンに貸した自転車が無灯火だったことから、真白の実兄の友人の警察官に職務質問を受けたことから、話が急展開していきます。なくなったと、真白が言っていた自転車を、見知らない男が乗っている、最近、真白が、一人で外出をするということから、真白の親、実兄らが騒ぎだし、クライマックスへと入っていきます。真白の両親、実兄らは、皆さん、善意の塊で動いていきます。ただ、この人たちの頭の中には、真白が見知らぬ男と歩いている、その男に恋心を抱いているということはありえないこと、真白には何かを仕掛ける知恵はないから、男がたぶらかしていると速断するばかり。件のカメラマンとの約束の場所に行くことを禁じられ、家でふて寝をする真白。従姉が言います。「行けないと連絡したの」、メモ用紙をなくした真白は連絡すらできていません。パニクった真白は、カメラマンが戻って来そうなところに迎えに行き、2人の路面電車内のシーンになります。ここで、映画ならではのシーンが登場します。真白が、自分の障害を口にするのです。ここのシーンは、真白に障害を感じさせません。真白が、真白を対象化した語りになっていると言えばいいでしょうか。「東京に行きたい」「それはダメだ」「私に障害があるから?」というやり取りだったと思います。カットが変わるので、男がどのように答えたのか、判らない仕掛けになっていました。やがて、実兄と警察官が2人を見つけ、真白は、無理矢理家に連れ戻されます。このままでは、誤解というか、何があったか判らずじまいで進むのかと思っていると、男がカメラマンにしてあったわけが、ここで判りました。真白の使っていたカメラに残っている写真を見て、初めて真白の持っているものを知るとともに、この間、2人が何をしていたのかが判る仕掛けとなっていました。実兄の友人もが警察官であったり、従姉の恋愛体験とパーマ屋という仕事、真白の家が自転車屋だったり、男の職業がカメラマンで、写真が物語を推進する大切なアイテムだったりと、ホント、ネタふりが上手くできた筋立てでした。真白の女優さんら、なんか感じ好くて、この映画も気に入っちゃいました。ということで、2本とも気に入ってしまい、ちょっとありえない大収穫の日となりました。


2016年 5月 17日(水)午後 10時 34分

 今日は二部制の日。海外旅行が近づいてくると、どうしても聴きだめをしたくて、二部制が増えます。今日は、午後に演芸、夜に講談というメニューでした。まず、昼間は、文楽劇場での「上方演芸特選会」でした。最近、チケットの入手が難しくなっているこの会、今回は、辛うじて手に入れることができました。その番組は、次のようなものでした。二葉「つる」、ひこーき雲「漫才」、春野恵子(一風亭初月)「阿波の踊り子」、三吾・美ユル「漫才」、(中入り)、出丸「上燗屋」、豊来家幸輝「太神楽」、天中軒雲月(虹友美)「佐倉惣五郎妻子別れ」。今回の前座は、二葉と三語の日替わりと思っていたら、三語は1日だけで、もう1日は治門となっていましたが、黄紺的にはどっちでもいいこと。やはり、二葉の出番の日を選んでしまいます。「つる」は、ネタ下ろしのときに聴いた記念のネタ。二葉は、いろんなところで出しているようです。今日は、時間の関係だからでしょうか、幾つかの箇所に分けて、少しずつカット。流れを崩さない上手な刈り込みを見せていました。二葉の描くアホは、聴くたびにおもしろくなっていってます。春野恵子は、あまり聴いてないというか、かなりあとから持ちネタにした「阿波の踊り子」。菊地まどかで、何度も聴いているため、余計に春野恵子カラーのイメージのないもの。こちらも、時間を考えて刈り込みをしていましたが、菊地まどかとは同じソースと看ました。2人の口演を比べるなんて、余計なことを考えてしまったのですが、春野恵子の方が都会的なという表現が合うように思いました。それは、阿波踊りのメロディへの乗りの違いから来るのかな。それと、八ちゃんの純朴度が、菊地まどかの方が高いように聴いたからと思います。出丸は、客席の老人度を看て取ったのか、複雑な噺は避けたのかな。黄紺的には、燗の温度による呼び名の違いの話は好きなのですが、たっぷりと酒のマクラをふってくれました。出丸の「上燗屋」を聴くと、後半を聴きたくなってしまいますね。同じようなことの繰り返しのようでありながら、微妙に変化のある出丸の「上燗屋」を聴くと、そないな気分になりました。雲月のネタは、今日も「佐倉惣五郎」。しかも、開演前に、ロビーでコアな演芸ファン氏が、今日のネタを仕入れていたため、既に「佐倉惣五郎」だと知っていたという悲しいことがありました。確かに聴きごたえはあるのですが、これだけ、このネタばかりに当たると、愚痴が口をついて出てきます。曲師は、4日とも友美さんだそうです。色物系では、三吾・美ユルと豊来家幸輝ですね。三吾・美ユル親子は、この名前があるだけで、この会に足が向きます。ネタでありながら、ネタとは思えないリアリティが可笑しくて仕方ありません。豊来家幸輝の土瓶芸は凄いです。何度観ても、声を上げてしまってます。
 文楽劇場を出ると、千日前のネットカフェで時間調整。そして、時間があるので、歩いて天満橋まで移動。双馬ビルの一室であった「南華の会」に行ってまいりました。今日の南華さんは、「大塩平八郎 ~役人不正暴き~」「大岡裁き~黒雲のお辰~」を読まれました。「大塩平八郎」は、続き読みをされているようです。今年になって、初めて行くということで、事情を解っていないのが、ちょっと寂しいところ。ただ、今日は、この「大塩平八郎」で居眠り。一昨日の睡眠不足が、まだ尾を引いているようです。しかし、「乱」絡みの話ではなく、奉行としての活躍話だったことだけは理解できています。「黒雲のお辰」は、南華さんのお得意ネタ。「大岡裁き」に属する話だということを、すっかり失念していました。聴く前に、黒雲のお辰は、なんで江戸を出ることになるのだろうと思い出そうとしても、大岡さんのお裁きを思い出せなかった黄紺です。旭堂には、白浪ものがあったっけと考えるくらいですから、このネタは貴重なもの。そして、何よりも、南華さんの口演がいいですね。この話を、全般的に明るくされるのが、逆に聴いていて、胸キュンものにさせられてしまいます。しかも、毎回、聴く度ごとに胸キュンですから、南華さんの術中にはまり込んでしまっているということなんでしょうね。次回は7月ということで、怪談を用意すると言って、会を終えられました。


2016年 5月 16日(火)午後 11時 2分

 今日は、昨日に続いて、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「生喬百席 第四十三夜」がありました。その番組は、次のようなものでした。生喬「つる」、雀五郎「寝床」、(中入り)、生喬「百年目」。昨夜は、睡眠時間を30分しかとれず、居眠り覚悟の落語会行き。最近、睡眠障害がましになったかなと思っていたやさき、とんでもないことが起こってしまいました。今日は、タカラヅカ落語会の裏話を聴ければいいやの気持ちで出かけて行きました。確かにお約束の如く、生喬は、登場すると、すぐにその話へ。「つる」も快調かと思っていると、終盤、ちょっとだけ飛んでしまいましたが、もう御の字の体調。むしろ、生喬が「唐」を飛ばしたぞなんて、聴きながら突っ込みを入れていたほど。でも、全体としては上出来。最近、口演することは少なかろうと言っても前座噺は、やりにくいはずなのにという気持ちが働いてしまいます。現に、以前、「米揚げいかき」を出したときは、カミカミになっていましたからね。ここまでは、良かったのですが、雀五郎の高座で、完落ちになってしまいました。でも、生喬の持ちネタや、ここまでのゲストが出したネタはできないというのは、大変な制約。雀五郎は、持ちネタが多いけど、何が残っているのかが気になったのですが、意外なネタが残っていたものです。そう感じながら、雀三郎テイストいっぱいの冒頭だけは覚えているのですが、あとは、全然ダメでした。この分では、お目当て「百年目」もダメかの気分になっていましたが、中入りが味方をしたようで、ほとんど大丈夫でした。ちょっと桜の季節というわけにはいかない季節に、「百年目」を持ってきました。黄紺は、奈良での一門会で聴いて以来で、生喬の口演は2回目となります。生喬の描く番頭が、どうも船場の商家の人間というよりは、侠客ぽく聴こえたため、ちょっときついなと思った記憶が残っています。時々、顔を出す生喬のごっつい声がじゃまをしてしまっていたのです。今日も、パワハラっぽい冒頭のお説教に、その物言いが顔を出すときがあり、どうしても気にはなったのですが、大川に出たとき、閉めきっていた屋形船の窓を開けると、温い空気、満開の桜が見えましたから、かなりごっつい声は控えられてはいたのだろうと思えました。ただ、番頭が船から出ると、せっかくのいい景色は見えませんでした。 桜花の下の華やいだ空気、人の賑わいも感じられなかったのは、どうしたことでしょうか。番頭が、顔がさすことを気にしながら、肌襦袢を見せたりして楽しんでる空気、その後者を出せず、前者を気にする番頭しか描けなかったからだと看ました。後半は、先ほど書いたように、若干飛んでいますので、感想を記すのは控えたいと思います。そんなで、「百年目」は、やっぱ難しい噺ですね。時間をかけて育てていって欲しいな。またの機会を楽しみにしたいと思います。「生喬百席」は、12月で最終回となるということです。いよいよ、ラストスパートです。


2016年 5月 15日(月)午後 11時 52分

 今日は、動楽亭で、ちょっと変わった落語会に行ってきました。「笑福亭たまの寄席小屋研究会 ファイナル!」というもので、寄席小屋経営について、演者と客席が一緒になって考えるという趣向の会です。一応、落語もあり、ゲストもありで、進行されました。と言っても、ゲストは、元繁昌亭スタッフの噺家の天使と智丸。この2人は、上方落語界で異彩を放つ2人でもあります。天使は、昨今、そのプロデュース力を発揮しだし、次から次へと一捻りのある落語会を企画し、智丸は智丸で、詩人としては一家を成していますから、先日の新作でも言葉遊びに徹したおもしろ作品を披露したばかりと、異能の人たまと、意見を交換するには、なかなか興味の尽きない人選でもあることから、近来にない楽しみを持って臨みました。その番組は、次のようなものとなりました。たま「挨拶」、智丸「元犬」、天使「初天神」、たま「あくびの稽古」、(中入り)、全員「寄席の経営会議トーク」、たま「ふたなり」。冒頭のたまは、前回のこの会で、客席から出された意見を披露し、コメント、回答の必要なものに答えるというもの。内容は、繁昌亭の経営や新開地にできる予定の寄席小屋との共存についてのもの。そして、出演者3人の落語。智丸の「元犬」は、なかなかセンスのあるいじりが入ったもの。しろを拾い上げてくれる男を、口入屋として、あとの仕事紹介を無理のないものにしたり、言葉遊びを入れて、従来の型ではない犬がらみのくすぐりを入れていました。天使は、マクラで、先日行われたタカラヅカ落語の裏話をしてくれました。ネタの「初天神」は、天使では初めてではないのですが、大胆なくすぐりが、大ヒットを続け、大変な進化。そういったくすぐりを振り替えると、智丸同様、この人の言葉の豊富さが目立ちました。たまの1つ目は、ネタ下ろしのときに聴いて以来の「あくびの稽古」。本来の型を、大胆に改変。骨子だけが残り、展開は、全くたまオリジナルなもの。教え手の見せる模範演技に、たまオリジナルが炸裂するのですが、あまりのバカバカしさに、会場は大爆笑に包まれました。内容的にも、ネタ下ろしのときのままじゃなかったかな。「トーク」では、客席からとったアンケートに答えるというものでしたが、予想されたこととはいえ、たまの一人喋りになってしまいました。客席からの質問で読み上げられたものは、繁昌亭の枝葉になる微小な問題に終始したとまとめればいいかな。確かに、繁昌亭昼席の場合は、客層が、寄席、落語初心者という観点から考えると、番組編成や噺の質の問題に触れても、あまり実質とは乖離していますから、今日のような微小な問題を扱うということで良かったのかもしれません。最後は、たまで「ふたなり」と、あまり出ない噺。これも、確かネタ下ろしのときに聴いて以来だと思います。そのときの記憶通り、基本的には通常の通りの口演。それに、小ぶりのくすぐりを入れたというものだったということでしょうか。月曜日の夜というのに、かなりの入り。繁昌亭の運営をテーマにするという、今まで、公開では誰もしなかった落語会ということで、人気を呼んだものということでしたが、前回はいざ知らず、新開地に開場予定の寄席の話も出ず、また、生々しい話も出ずじまいで、ちょっと肩透かしを食らったってところと言えばいいかな。


2016年 5月 14日(日)午後 11時 43分

 今日は音楽三昧の日。昼間に兵庫県立芸術文化センター、夜はカフェモンタージュに行ってまいりました。芸文センターのコンサートは、エサ・ペッカ・サロネンの率いるフィルハーモニア管弦楽団のコンサート。ピアノのソリストして、ショパン・コンクールの覇者 チョ・ソンジンを迎えるという贅沢なもの。そのプログラムは、次のようなものでした。「ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調」「マーラー:交響曲 第6番 イ短調 "悲劇的"」。非常に、時間を要するプログラム。開演時間から2時間半を過ぎてからの終演というもの。マーラーの6番に、ベートーベンの3番のコンチェルトを並べるプログラムって、そうはないでしょう。チョ・ソンジンは全力投球って感じの力強い弾き方。演奏は、思わずアンドロイドみたいだという言葉が、自分の口から出てしまいました。この曲で、既に気づいていたのですが、オケが編成のわりには音が出ていること。このあとのマーラーで、それを思い知ることになります。そのマーラーが、ホント超名演と言える素晴らしいもの。力強く、緊張感が溢れ、各楽器がドキッとさせる音を次から次へと繰り出し、それらが、見事に、サロネンの指揮のもと統率されている姿に、ホント聴き惚れるどころか、久しぶりにぞくぞくしながら聴いてしまいました。自分的には、サロネン指揮のマーラーというのは、5番のシンフォニーをCDで持っているため、そのイメージで聴き出したのですが、丸で別人でした。ガツガツくると言えば、えらくがさつな表現になりますが、表現の起伏の大きさ、奥の深さ、全体像の大きさを感じさせてくれるという凄い演奏でした。会場で落ち合った高校時代の友人も、終演後、一言目に、「これはいい演奏どころじゃない、凄い演奏だった」と言っておりました。間違いなく、黄紺の記憶に長く残る演奏であることになると思います。会場いっぱいに詰めかけた人たちも、そのように思われたものと看え、オケの人たちが引き上げても、拍手は鳴り止まず、誰もいなくなった舞台に、再度、サロネンが現れることで、ようやく納得したかのように、客席からの引き上げが起こるというものでした。黄紺にとって、このような経験は、その昔、NHKホールで聴いたヘルムート・リリンクの指揮した「マタイ受難曲」を聴いたとき以来でした。この至福の時間に居合わせることのできた有り難さを噛み締める幸せを感じました。
 西宮でのコンサートが終わると、高校時代の友人と京都へ。烏丸駅で友人と別れ、黄紺はカフェモンタージュへ。今夜は、カフェモンタージュでは、「"SPAIN"- 16、17世紀のスペイン音楽」と題するバロックギター&ビウエラ奏者竹内太郎さんのコンサートがあったのです。既に、西宮のコンサートに行くことになっていたところへ、このコンサート情報が入り、最近、時間があると、スペインのバロック・ギターを聴いている者としては外すことができず、二部制の日となってしまったのでした。なお、武内さんの使用楽器は、マスト作のバロックギター(Paris c.1770)&マルコム作のビウエラ・デ・マーノ(London 1990 / 16世紀楽器の復元モデル)でしたが、そのプログラムは、次のようなものでした。「スパニョレッタ」「ガスパル・サンス:組曲1764/65~スペイン風のパヴァーナ、イタリア風カンパネッラによる変奏、イギリス風ジーグ、フランス風無曲~」「カナリオ」「ルイス・ミラン:パヴァーヌ1536」「ルイス・デ・ナルパエス:ジョスカンの千の悲しみ、ロマネスカによるディファレンシス1538)」「ガスパル・サンス:組曲~とっても面白いスペインといろんな国のファンファーレと民謡、序奏、ナポリの竜騎兵のラッパ、女主人、フランスの別嬪さん、ラントゥルル、ナポリの娘、カタロニアの美人、ポルトガルの美人、スウェーデンの王女のファンファーレ、フランス王ルイ14世のマスコット隊のホルン~」「タランテラ」。作曲家も知らなければ、曲もほぼ知らないというコンサート。ところが、スペインのバロック・ギター音楽というのは、フランスやイタリアのバロック・ギター音楽の持つ明るさや、イギリスのそれ、バッハのリュート音楽とは違った印象を与えてくれます。落ち着きとか、余裕のなかに潜む、エキゾティズムが、心をくすぐってくれるのですが、今日の竹内さんの演奏を聴いていると、更に長閑さが付け加わりました。特に、小ぶりで、より素朴な音の出るビウエラの演奏を聴くと、より強く、そういったものを感じることができました。竹内さんのコンサートは、カフェモンタージュでは3回目。黄紺は、前回のイギリス編に次いでの参加。前回同様、楽器や楽曲の解説を交えた楽しい1時間。しばし、外の喧騒を忘れさせてもらえた素敵な時間を持つことができました。


2016年 5月 13日(土)午後 8時 7分

 今日は講談を聴く日。定期的に行われている「第8回 講談セミナー 『旭堂南海の太閤記』」(ドーンセンター)に行ってまいりました。「上方講談私設応援隊」を名乗る2代目南陵縁の方のご苦労で続いている会です。今日は、南海さんによる「講談解説」と、抜き読み「槍術指南番と藤吉郎、長短槍試合」が出ました。でも、今日は、完全に失敗。寝不足ではないはずなのに、眠たくて、ダメでした。ですので、記憶に残っているところだけ、メモっておきたいと思います。録音の進む「太閤記」は、羽柴秀吉の時代まで。天下人となった豊臣秀吉時代、更に太閤秀吉となってからの「太閤記」は割愛だそうです。戦いがおもしろくなくなるからというのが、南海さんからの回答だったのですが、四国征伐、九州征伐、小田原攻めは、大名同士の対決になってあったりで、あまりにウソっぽくなるからとか。そして、「朝鮮征伐」が、太閤秀吉となると入ってくるので、できなさそうでした。物語として、どないな話が盛り込まれたのかを知りたいのですが、やはり無理なのかなぁ。江戸時代の「太閤記」に比べて、木下藤吉郎時代を「ペテン師」として描くことが、旭堂の講談では明確になっていったそうで、一人で動くにはありえない展開を、藤吉郎に入れすぎてしまっているので、南海さんは、配下の人間を入れたりして、「ペテン師」の物語にリアリティを入れて読まれているそうです。今日の口演は、「長短槍試合」だけで、後半全部を、その口演のために当てられていたので、おかしいなと思っていたところ、わけが判りました。いつもより、ちょっとくさめに読まれていたところもあることはあったのですが、肝心なことが、今まで、黄紺には抜け落ちていたことに気づかされました。「長短槍試合」は、「ペテン師」藤吉郎の活躍のおもしろさだけで、抜き読みされているものですから、肝心なことが抜け落ちてしまったのです。このエピソードは、信長の美濃攻めの伏線となる話だったのです。序盤、南海さんが、短槍の師範となる侍について、意味深な注釈を入れられるものですから、いつもと違うなとは思っていたのですが、どうやら、その侍を美濃に通じていたようなのです。ようだと書いたのは、居眠りではっきりしないということですが、その侍が糸口になり、美濃攻め絡みのエピソードが出てきたことは、確かだと記憶しています。ま、そんなところです。


2016年 5月 12日(金)午後 11時 26分

 今日は、八聖亭で落語と講談を聴く日。初めておじゃまをする「第3回落語芸術大学」に行ってまいりました。この会は、ともに大阪芸術大学大学院出身の旭堂南湖、笑福亭智丸お二人の会です。南湖さんはともかくも、詩人智丸の高座すら知らない黄紺が、以前から狙っていた会に、3回目にして覗くことができました。その番組は、次のようなものでした。南湖&智丸「挨拶」、南湖「曲馬団の女」、智丸「佐々木裁き」、南湖「尻花火」、智丸「なぞなぞ刑事」、(中入り)、南湖&智丸「対談」。古典と新作を1つずつ口演したあと、「対談」で、各自の新作について語るという構成。南湖さんが、各所で「曲馬団の女」を出しているのは知っていたのですが、ようやく遭遇できました。恐らく、東京の琴桜さんにもらわれたものでしょう。戦死広報を見て、香典泥棒を狙った女が、戦死者の母親を見て、泥棒を断念するばかりか、騙ったはずの戦死者の婚約者として、母親に尽くしていると、戦死したはずの息子が帰って来て、本当の夫婦に収まるというもの。かつて琴桜さんで聴いたときには、いい話なんだけど、古くさいなぁと思った話が、南湖さんの口演で、現代でも使えそうな話になっていました。骨子は変えてないのですが、師匠の挿話を入れたり、くすぐりを入れたりして、活を入れたものになっていました。智丸は、とにかく顔しか知らずで、いきなり「佐々木裁き」を聴いてしまいました。こないな経験は、福丸の初っぱなに「天狗裁き」を聴いて以来だと思います。まあ、単なる巡り合わせでしょうが。梅団治にもらったものだそうです。梅団治の「佐々木裁き」って、襲名のときのネタのわりには、噛んで含めるような物言いに好感を持ってなかったのですが、智丸の口演では、そないな雰囲気は見られず、また動きも大きく、何よりも、普段の物言いからは伺えないしっかりしたお喋りで、なかなかの好演。もっとめりはりが付いていくと、楽しみな存在になっていくことと思いました。新作の部は、南湖さんは、幾度となく口演を繰り返している、変な噺。「おっぱい豆腐」の次は「尻」だという発想だそうです。しかし、「おっぱい豆腐」のような「世代」を表現しているとか、なんか共感できそうな噺なんかではなく、とにかく「変さ」だけを狙ったってところで、黄紺的には論外の作品と考えています。その考えは、今日、再度聴いても変わるものではありませんでした。智丸作品は、今日が完全ネタ下ろし。大阪府警捜査8課という架空の部署は、変な刑事ばかりが集うところ。その刑事の紹介のようなお喋りが大半を占め、終盤になり、変な刑事の一人なぞなぞ刑事と「カイトウ」刑事の対決となっていくものと、まとめればいいでしょうか。「変な」人たちのオンパレード。それを考え出す労力には敬意を表しますが、全体が、終始、「変な」人追求やダジャレ尽くしだけにしては、長~い噺で、ちょっと疲れてしまいました。「対談」は、南湖さんのキャリアが、かなり上回るために、対等な対談になりにくいというのが痛いですね。ま、智丸は新作に手を出してから、日にちが経ってないから、致し方ないと言えは、そうなのですが、聴いている方からすると、それでは楽しめないんだなぁ。


2016年 5月 12日(金)午前 2時 27分

 昨日はインド映画を観る日。GW期間中、足を運んだ「南インド映画祭」で残してあった1本を観に行ってきました。もちろん、シネヌーヴォですが、その狙いの映画は、タミル語映画「帝王カバーリ」です。1つには、スーパースターのラジニカーント主演だということなのですが、もう1つに、マレーシアのインド人絡みの筋立てになっているということを知ったからです。最近、ちょっとご無沙汰のマレーシア熱が、その情報を知ることで、黄紺の中で燃え上がってしまい、この映画祭は、自分的には、GW限定と決めていたにも拘わらず、その計画を棄てることにしました。実際、観てみると、今まで観てきたラジニカーントものとは、趣を全く異にするものでした。ラジニカーントのアクション・シーンを作り、見せるために、設定に工夫を凝らしたというのではなく、初めに映画のコンセプトがあり、ラジニカーントものだから、アクションも要るわねという趣の映画でした。ま、インドは娯楽映画大国ですから、小難しくするのではなく、正にステレオ・タイプ的に、マレーシアのインド人(タミル人が多数)の位置を描いています。植民地を支配するイギリス人地主に搾取され、彼らがいなくなると、マレー人、華人にこき使われ、インド人は、社会の底辺で暮らしてきた。ラジニカーント演じるカバーリは、イギリス人地主に、マレー人らと同じ待遇を求める先頭になったことから頭角を現し、更に町に出て顔役になり、道を踏み外した若者の更正施設などを建てたりしていたところ、地域制覇を狙うギャングとの抗争で、妻とそのお腹にいた子どもを殺されたと思ったまま、25年の服役を終えたところから、この映画はスタートとしました。映画の進行は、死んだと思っていた妻子が無事らしいとの情報に基づく妻子の物語と、かつて妻子を傷つけたギャングとの抗争の再燃という2つの流れで進んでいきます。ギャングの頭目が華人で、マレーシアの警察も、カバーリの命を狙うということで、マレーシア社会の歪みを表し、ギャングとの抗争や警察との争闘で、ラジニカーントのお待ちかねのアクションを観ることができるとなっていました。歌って踊るシーンが押さえ気味で、第一、ラジニカーント自身のダンスシーンってなかったんじゃないかな。舞台は、ほぼマレーシア。妻子探しにタイにちょこっとだけ入り、これまた妻子探しに入るチェンナイには、カバーリは、生まれて初めて入るという設定でした。クアラルンプルのツインタワービルを望むビルの屋上でのアクションなんてのは、派手好きのインド映画らしいもの。黄紺的には、マレーシアの田舎や町の風景もさることながら、南インドの田舎の風景にそそられてしまいました。ポンディシェリーなんて町が出てきました。ここへ、前から行ってみたいんだなぁ、黄紺は。だって、インドでフランス色の町って、貴重なんですから。いつものラジニカーントものを期待していくと、ほぼ外された気分になります。でも、外されついでに、インドのニューウェーヴ的映画に触れるおいしさを味わえます。それに、ラジニカーントが付いてくると思えば、お得感がありますよ。ラストシーンがどうだったか、そないなこと考えさせる映画って、ラジニカーントものにはあり得なかったことですから、それだけでも、お得感ありました。


2016年 5月 10日(水)午後 10時 59分

 今日は落語三昧の一日。昨日に続いて二部制の日となりました。午後に繁昌亭昼席、夜には、動楽亭での落語会に行ってまいりました。繁昌亭昼席のチケットを、早々に購入したために、夜の落語会が、あとから付いてきてしまったってところです。今週の繁昌亭昼席は、「桂文三 第11回繁昌亭大賞受賞記念ウィーク」と銘打たれた興行ということで、外すことができなかったのです。その番組は、次のようなものでした。阿久太「四人癖」、瓶生「牛ほめ」、文鹿「銃撃戦」、寒空はだか「漫談」、右喬「看板のピン」、銀瓶「宿題」、(中入り)、文三・銀瓶・文華・文鹿(司会)「記念口上」、文華「近日息子」、笑丸「紙屑屋」、文三「刻うどん」。阿久太は、顔を見るのも初めて。開演前、呼び込みをやってたのかな、ロビーをうろつく噺家さんがいたので、これが阿久太かなと思っていたら、当たりでした。歳がいっている噺家さんということだけ知っていたものですから、勘が働きました。芝居をやっていた人のはずで、それだからでしょうね、しっかりとした言葉使いが印象に残りました。続く瓶生も、遭遇機会のレアな噺家さん。繁昌亭以外で遭遇するのは無理かもしれません。ぼや~とした雰囲気の癒し系です。噺も、そないな感じで進行。ちょっと刺激の薄い高座に活を入れる役割は、文鹿の得意技。最近、客席との距離の取り方が気に入ってしまい、登場を楽しみにしている黄紺ですが、今日は、更に、まだ聴いてなかった「銃撃戦」まで聴けて、大満足。初期の新作に比べて、明らかに弾けている感じがします。皇族ネタなんてのを使う人になってるのですね。寒空はだかは、久しぶりの遭遇。ゆる~いキャラが、とってもいい感じです。右喬は、パターン化した噺を、マクラからネタまでやっちゃったって感じで、この人からアブナサが消えると、何にもおもしろくありません。中トリは、今週の主役文三をいじるために配置されたような銀瓶。黄紺も、その毒舌を楽しみにしていったところがありました。ネタは、銀瓶では、久しぶりの「宿題」。以前は、頻繁に遭遇していたのですが、黄紺的には久しぶりになりました。元の型より、算数の問題が1つ増えていました。ですから、4問用意されたことになります。あとの3つは、通常の型通りの問題でした。聴いてみて、3つでいいんじゃないかなと思いました。もう、笑い疲れてしまいます。「口上」は期待通りでしたが、もう1人、せめて幹部の噺家さんが出て欲しいですね。ちょっと経費節約に過ぎます。文華は「近日息子」。「近日息子」って、最近、あまり聴かなくなりましたね。若い噺家さんが持ちネタにしようとしてないからなのでしょうが、ちょっと寂しい感じ。文華の口演は、スピード感があり、流れはいい感じなのですが、どうしても声が悪く、声量に限りがあるため、笑いどころの、しょうもないこと言いの男に詰め寄る場面で、簡単に息が上がってしまう感じ。今日の口演では、最初は、大きい声を出しているのですが、途中からは、逆に声を潜めることで、怒りを表現しようとしていました。でも、これは、緊急避難という感じがして、、、。呂鶴のように、声量があるだけで、効果満点の笑いどころなのにと思ってしまいました。流れとして、さすが文華と思わせられるテンポなだけに残念なことでした。笑丸は、「紙屑屋」の短縮且つ変形版。笑丸の口演は、一人突っ込みって感じのすっとんきょうな声を入れるのが、いつものこととは言え、黄紺的にはなじめないもので、今日も聴き流してしまいました。そして、主役の文三登場ということで、晴れ舞台ということで、ネタを楽しみにしていたのですが、なんと「刻うどん」。これにはまいりました。反則もいいところ。「刻うどん」と判った途端、黄紺は睡魔に襲われ、気がつくと下げの一歩手前でした。ちょっと金返せの気分です。
 繁昌亭を出ると、夜まで時間があるということで、動楽亭まで歩いて移動。それでも、まだ時間があるということで、途中、道頓堀のネットカフェも、時間調整に活用。そして、夜の動楽亭、今夜は、「第13回ご近所落語会」という、生寿と小鯛の主宰する落語会があったのです。その番組は、次のようなものでした。生寿「タカラヅカ詣り」、小鯛「試し酒」、生寿「鹿政談」、小鯛「英語を話そう」、(中入り)、生寿&小鯛「対談:井戸端会議」。生寿は、タカラヅカ落語用の袴で登場。マクラで、たっぷり繁昌亭での「噺家宝塚ファングラブ」の話をするくらいだろうと見たのですが、とんでもありません、ネタまでタカラヅカ落語でした。月曜日に、繁昌亭で「タカラヅカ詣り」を口演したとき、歌がうまく歌えなかったので、リベンジの意味をこめての口演だったようです。おかげで、黄紺が、まだ聴いてなかった「タカラヅカ詣り」を聴くことができました。小鯛は上がるなり、「私は古典をします」と言う掴みから入りました。ネタは、師匠塩鯛の十八番「試し酒」。もちろん師匠からもらったそうですが、師匠の得意ネタをもらうことの難しさを、あとのトークで言ってました。師匠のコピーになってしまうことを避ける難しさがあるのでしょうね。黄紺などは、師匠の十八番は、弟子の誰かが継承していって欲しい、十八番と言えるネタにオリジナリティを盛り込むのは至難のこと。むしろ、伝承芸であるわけなのですから、そういったコピーネタがあってもいい、いや、もっと積極的に肯定してすらいいとも思っています。小鯛は、久蔵が呑みながら入れる都々逸だけをいじっているそうです。酒の噺を持ちネタにする若手噺家の少ないなか、果敢なチャレンジを素直に評価したいと、まず思います。ましてや、「試し酒」です。久蔵が呑む場面がメーンでしょうが、大枠は、旦那衆のちょっとした戯れ事ですから、噺全体に、落ち着きとか、品格が要ると思っています。その枠があるから、久蔵の田舎言葉、粗野な物言いの可笑しさが引き立つのだと思っています。とっても器用な小鯛は、その辺りをわきまえた口演を見せてはくれるのです、やはり小鯛の年齢がじゃまをしてしまいます。それは致し方のないところ。今日の口演を聴くにつけ、10年先、20年先の口演を聴きたくなりました。でも、生きてないだろうな。生寿の古典落語への回帰は「鹿政談」からとなりました。米平からもらったネタだそうで、今日は、このネタの最短口演を目指したそうです。ネタ本体に入るのに外せない情報2つ、即ち、「きらず」という言葉が1つ目、もう1つは、人の命が鹿よりも軽い時代の噺だということ。これだけを触れて、即、ネタでした。13分で終わったそうです。奈良出身の生寿は、人一倍、このネタへの思い入れがあるようで、いろいろと試しているようです。六兵衛さんの店の位置も、より繁華な場所に変えているとか。奈良出身者のこだわりがあります。小鯛の2つ目は新作。甥っ子、姪っ子がいるとかで、彼らを見ていて思い付いたネタのようです。テーマは小学生が学ぶ英語です。そのために、宿題で、家でも英語を使おうとなったればという噺。なんか、ありそうな設定ですね。最後のトークは、かつての南天&生喬による「夕焼け日記」を思わせるもの。ネタ解題的な話をしてくれるのが、何よりも嬉しいところ。また、この2人の会話を聴いていると、この2人が注目に値する若手噺家だということが、よ~く解ります。真摯に落語に向かう姿を美しく感じました。


2016年 5月 9日(火)午後 11時 40分

 今日は音楽三昧の一日。夜に、カフェモンタージュでのコンサートに行く予定をしていたところに、朝からメト・ライブビューイングに行くことになったのです。メト・ライブビューイングは、この1週間のどこかで行くことにはしていたのですが、オペラ好きの高校時代の友人が、福井から観に来るというので、それに合わせたというわけです。今日のメト・ライブビューイングは「イドメネオ」(ジャン・ピエール・ポネル演出)でした。指揮はジェイムズ・レヴァイン、歌手陣は、(イドメネオ)マシュー・ポレンザーニ、(イダマンテ)アリス・クート、(エレクトラ)エルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァー、(イリア)ネイディーン・シエラ、(アルバーチェ)アラン・オーピーという布陣でした。1983年の初演時と同じく、ジェームズ・レヴァインによる指揮。これが、表情豊かで、緊迫感のある音楽を作っていた、本日一の功労者。舞台は、石の壁に囲まれた大広間風スペース。正面の壁には、ネプチューンの大きな顔のレリーフ。舞台前に向かって、5段ほどの階段。イドメネオが流れ着く海辺りに使うことを想定しての装置か。オペラは、全てこのスペースで進行。歌手は、さほど激しくは動かさないのですが、とっても適切で、コンパクトな動きで、最大限の効果を狙い、それが、功を奏す優れもの。ジャン・ピエール・ポネルの名に惹き付けられただけはあります。今回は、デヴィッド・ニースが演出の指揮に当たったというアナウンスが、幕間のインタビューでありました。こういった情報は嬉しいですね。お待ちかねのネプチューンの登場は、照明効果で表すというもの。正面の壁には照明を当てないでおいて、ネプチューンの技が炸裂したり、声まで聞こえるという場面になると、舞台前面の照明を落とし、正面の壁にあるネプチューンのレリーフに照明を当てるというものでの表現でした。歌手陣は、頗る充実。若い男を専門的に演じてきたマシュー・ポレンザーニが父親役というイメージチェンジ。悩みを抱える王という難しい役柄を見事に演じました。恋に狂うエレクトラのエルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァーは、なかなかの迫力。狂う女はおいしい役柄であることは間違いないのですが、それを、きっちり演じ上げ、大変な歓呼を受けていました。イリアは、若々しいネイディーン・シエラ。まだ30歳前の有力株のようで、しっかりとした声はなかなかのものなんだけど、ちょっとお堅いなという感じ。それも、若さの証明かもしれません。インタビューで、「次はフェニーチェでルチア」と言ってました。イダマンテのアリス・クートは、バロック・オペラのズボン役のスペシャリスト。主役4人の中では、ポレンザーニと並ぶビッグネームなんだけど、声の出が物足りなかったのじゃないかな。ライブビューイングを観ていて、そのように感じる場合って、生だと、かなり物足りないはずだと思います。いずれにせよ、装置や衣装を見ていると、かなり時代を感じるものでしたが、音楽的には、申し分ない緊迫感漂う好演だったと断言できる出来栄えと看ました。
 MOVIX京都を出ると、友人と食事をしながら、しばし歓談。一旦、自宅待機ののち、夜はカフェモンタージュに。今夜は、「ガブリエル・フォーレ― 室内楽全集 vol.5 ―」のあった日。(ピアノ)岸本雅美&関西弦楽四重奏団(ヴァイオリン:田村安祐美&林七奈 、ヴィオラ:小峰航一 、チェロ:上森祥平 )の5人により「G.フォーレ:ピアノ五重奏曲 第1番 ニ短調 op.89 (1905)」が演奏されました。2番の五重奏曲や、ピアノ四重奏曲は、まだしも、演奏機会がないわけではないのでしょうが、この曲は珍しい。今日は、この1曲だけが演奏されるということで、時間的にゆとりがあるということもあり、オーナー氏の解説では、その辺りのお話しを含めて、いつもより長め。黄紺的には、この曲は、最初から、第3楽章の最後まで、ずーっと同じペースで、同じ色合いで進んで行くように聴こえてしまいます。オーナー氏は、ブルックナーの7番のシンフォニーの導入部に例えておられましたが、遠くからさざ波が起こり、それが、じわーっと近づいてきて、一旦、到着してしまうと、それからは、ずーっとさざ波に飲まれたまんまという感じで、大きいのやら小さいのやら、同じようなペースで、その波が押し寄せ続いてきます。そんなですから、一旦軌道に乗ってしまうと、延々と、その流れに身を委ねていると、どこぞやに、そのまま連れて行かれる風情のように感じてしまいました。それって、気持ちいいのです。今日のコンサートは、関西弦楽四重奏団が、カフェモンタージュでのベートーヴェン全曲演奏会終了後初のコンサートでした。冒頭のさざ波のクレッシェンドに、もう少しの時間をかけて欲しかったなくらいの祖語はありましたが、そのいい気持には、十分堪能させていただけました。2番は、7月の祇園祭の間に開かれるそうです。


2016年 5月 8日(月)午後 11時 10分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。「笑福亭たまのパワーアップ落語会」に、初めておじゃまをしました。その番組は、次のようなものでした。たま「5秒根問」、笑利「カレー屋さん(仮題)」、文五郎「漫談」、福丸「元犬」、たま「兄弟船」、(中入り)、岐代松 「火焔太鼓」、たま「包丁」。たまが、毎月、古典をネタ下ろしをするということで、今年に入ってから始めたのだったかな、そないな方針で始めた会だったものですから、関心は持っていたのですが、うまく日程が合わず、ようやく、今日、初めて行くことができました。冒頭に、笑利をアシスタントに「5秒根問」、事前に、受け付けた質問に、即座に答えるというもの。ごく日常的な質問で良かったみたいということが、笑利が読み上げた質問で判りました。次いで、後輩3人の高座。笑利は新作を出しました。これが、なかなかおもしろい作品。普通のカレー屋さんに弟子入り志願者が現れた。普通のカレー屋だけに、秘伝があるわけではないのに、探ろうとするから、チグハグな会話が続くのですが、という噺で、その種明かしが下げでされるというもの。あとのトークで知ったのですが、 笑利は、漫才の経験があり、噺家のキャリアを併せると、もう10年近いキャリアになるそうです。なんか、噺家さんのノリとは違う雰囲気があり、また、安定したお喋りができるわけが、これで判りました。文五郎は、骨折後、初めての高座。まだ、松葉杖をつき、リハビリ中の身の上。入院体験をお喋りしてくれたのですが、久しぶりの高座ということで、息が解らないみたいでした。一転して落ち着いた高座となったのは福丸。福丸では、初めて聴く「元犬」を出しました。持ち時間が少ないためのネタ選びでしょうが、前から「元犬」は持ちネタだったのかな。福丸の口演は、「しの字丁稚」で聴いた旦さんの目と同じで、ゆとりのある好人物が柱になり、しろは、その周りで遊ばせてもらってるって感じで、屈託のない噺のいい雰囲気が出ていて、好演。たまの1つ目は、久しぶりに聴いた「兄弟船」。まぐろ漁船に乗り込んだ男たちの物語です。「兄弟」というのは、男だけの世界から導き出されたエロいプロットが、この噺の随所に散りばめられているからでしょう。中ほどで、ちょっと仁智落語風になったりして、変化技も挿入されていたりして、たま作品の「上」にランクできるものじゃないかな。ベテランのゲスト枠は岐代松。岐代松が、こういった勉強会的な会のゲストとして出演するのに遭遇したのは初めてじゃないかな。そして、彼の「火焔太鼓」も、ホントに久しぶり。この前、いつ聴いたのかなんて、全く思い出せないほどの昔です。上方では、確か、文太が「火焔太鼓」を始めたのだったと思っていますが、それに次ぐ1人じゃないかな。懐かしいなぁなんて思っていると、後半に居眠り。どうして聴く気満々になっているときに限って、居眠りが出るのでしょうね。たまの本日のネタ下ろしは「包丁」でした。マクラで、このネタは、元々、上方ネタで「包丁間男」と言っていたと解説。ついでに、「紙入れ」「風呂敷」もと。「間男」ものは、上方で廃れて、東京で生き残ったなんてことになります。「二階借り(茶漬間男)」だけが、細々と生き残ってたということになりますね。そして、今や、間男ものは、噺家さんの間では大人気です。「包丁」は、上方では、文珍、文我だけじゃないかな。文太も持っているかもしれません。たまの口演では、依頼人の軽さがいいですね。噺のベースになる軽さです。ですから、間男をすることになるアホげな男は、ますます軽くなります。怒った女は、何度も、間男をする男に、平手打ちを食らわせますが、この平手打ちをされるに似つかわしい軽さが、既に用意されていますから、この下りに入ると、会場は、大爆笑となります。見事にたまの術中にはまりました。たまは、いいネタを手にしたと思える素敵な口演でした。ちょっと毛色の変わった落語会、トークのときに、たまが言ってましたが、「後輩の落語で、注意するところで注意していいのか解らない」のだそうです。今まで、ダメとされてきたことを注意した方がいいのか、それが、新しい感性かもしれないと思ってしまうと、注意ができないというわけで、たまをして、既に、より若い世代との違いを感じているということなのです。そういったお勉強も兼ねての会かと思うと、その貪欲さに頭が下がります。


2016年 5月 7日(日)午後 11時 33分

 今日は繁昌亭に行く日。今夜は、年に1度のお楽しみ「第6回 はなしか宝塚ファン倶楽部」のあった日。黄紺がドイツに行っている間に、チケットが発売され、日曜日のチケットは買えないものと思っていたところ、2階席なら買えるということで、今日行くことができました。まず、前半は普通の落語会。その番組は、次のようなものでした。天使「夫婦の花道」、松五「大安売り」、春雨「代書屋」、生喬「ヅカタツ」、(中入り)、<花詩歌グランドロマン「風と共に去りぬ」>(あやめ、春雨、生喬、染雀、三金、松五、生寿、天使、染八、米輝、入谷和女、中田まなみ はやしや香穂、真山隼人、沢村さくら、れ・みぜらぶるず)。今日明日で、前半の落語は交替出演。今日の4人は、全員宝塚落語。生喬の「ヅカタツ」は再演もので、黄紺も、これで3回目となるかな。見台は装飾に仕掛け、金ラメの衣装を、着物の下に着込んでたりと、もう場内は大爆発でした。天使の新作も、よくしたもの。大衆演劇好きの新郎と、宝塚好きの新婦の結婚披露宴などという、いかにも落語的設定が可笑しい。この人、最近、企画力で異彩を放ってきていますが、新作のアイデアも笑えます。楽しみなオバサン噺家です。松五と春雨は、古典の改作もの。「大安売り」は、失敗ばかりしている宝塚のメンバーという設定ですが、天使が、時間を使い過ぎたのを理由に、途中カット、最後もカットで下りてしまいました。「代書屋」の方は、無筆の男の住まいが宝塚だったりして、そこに絡んで行って、宝塚落語にしていました。で、準備のための長~い中入りのあと、いよいよ「風と共に去りぬ」の開演。花丸が下りたり、真山隼人&沢村さくらの浪曲コンビが入ったりと、若干の顔ぶれの異動があったのですが、基本的には固定メンバーに、リピート山中らの生演奏が入るというもの。「風と共に去りぬ」の映画は、随分と前に観たこともあり、すっかりストーリーなどというものは忘れてしまっているということで、話の展開を追うことに躍起。宝塚では、2人スカーレットという設定なんでしすね。ドイツでオペラを観ていて、時ったま遭遇する設定ですね。わりかし新しいプロダクションで見る機会の多いもの。宝塚も、その手法を採っていたということになります。2人目のスカーレットは、「心」を表していると言い、抑圧から解放された自分の本音ということでしょうか。舞台は、中幕を用意して、場面転換の工夫がしてありました。舞台への出入り口が狭いということからの工夫でしょうか。時間の短縮が急だったようですからね。そないな工夫と、今年は、歌える人だけに歌わせるというスタンスが徹底されていたようで、かなり本格的になってきたなの雰囲気を感じる一方で、音が外れていても、修正が効かない花丸や生喬の歌も聴いてみたいとも思いました。明日、もう1回、公演が予定されており、今日の分との通し券まで発売され、瞬く間に、それは完売だったほどの人気ぶり。発売日には、繁昌亭に、売り出し時間前に行列ができたなんて話も聴きました。加熱気味の会なものですから、終演後、出演者が、玄関前に勢揃いすると、たちまち、その場は撮影会に早変わり。おかげで、繁昌亭から脱出するだけで手間取ってしまいました。


2016年 5月 6日(土)午後 11時 38分

 今日は書生節を聴く日。もちろん、南海さんと群時くんのユニットによる公演です。「第19回今蘇る書生節 流浪を唄う」と題され、今回はツギハギ荘で行なわれました。これは、前回までの会場が閉鎖されたためです。で、お二人により演奏された曲目は、次のようなものでした。①じんじろげ②コロッケの唄③東雲節④東京節⑤どこまでも節⑥?(詞:松崎正/唄:鳥取春陽)⑦すたれもの(詞:野口雨情/唄:鳥取春陽)⑧ピエロの唄(詞:松崎正/唄:鳥取春陽)⑨スカラーソング(詞:神永涼月/唄:滝廉太郎)⑩馬賊の唄(詞:宮崎東矢?)⑪馬賊の唄2(詞:宮崎東矢?)⑬愛国行進曲⑭男なら。①を、この会で聴くのは初めて。②~④は、このユニットのレパートリー曲で、繁昌亭を初めとして、お座敷がかかると出す書生節の定番曲目。従って、今夜の本番となるのは⑤から。松崎正という人物が、そういった中で取り上げられたのですが、不安定な生活、若くしての心中、そういった生き方をした人の詞は、どことなく情緒的に目新しい。後半は、大陸浪人とか馬賊などと呼ばれた人を念頭に置いての曲選び。お二人の下調べは大変なもの。南海さんによる解説は、日本史の苦手な黄紺には、ちょっと難しいものでしたが、彼らが、中国大陸で暗躍と言えるかどうかは、よく解りませんが、大陸で当てようなどと考えて、海を越えた人は、多数いたようで、正に、今日のテーマにみあう人たちで、そういった世界を背景にできた曲も、多数あったようです。上方書生節協会の公演は、会場が変わっても、アングラ的コンサートの雰囲気が、ぷんぷんとしますから、黄紺などは惹き付けられてしまいます。年に1~2回だけの特別な時間です。


2016年 5月 6日(土)午前 5時 48分

 昨日も、シネヌーヴォでインド映画を観る日。昨日は、2本観る予定にしていたのですが、他の日に、ぜひ観たい映画があるのに、一昨日になって気づき、昨日は1本にすることにしました。その映画は、タミル語映画「24」でした。インド映画では、あまり観たことなのないSF映画。小型タイムマシンの開発者夫婦が、冒頭で惨殺され、辛うじて、男の子が、一人の女性に預けられ生き延びます。その男の子の名前がマニ。その殺人を行ったのは、科学者の双子の兄。タイムマシンを手に入れ一儲けをしようとしたのですが、タイムマシンは行方不明になるは、自身は瀕死の重傷を追います。26年後、偶然、タイムマシンが、マニの手に入ります。惨殺犯の叔父も昏睡状態から覚醒し、タイムマシンを探しにかかります。惨殺犯の男は、タイムマシンを手に入れて、重傷を追う前に戻り、傷を負わず、弟を殺し、タイムマシンを握ろうと考えるところから、タイムマシン争奪戦が始まっていきます。ただ、そのタイムマシンは24時間の範囲でしか動けないというのがポイントで、それ以上の移動ができるために、技術的にできそうなマニを騙して利用しようなどといった動きも入り~ので、展開はしていくのですが、結局、マニはマニで、両親が惨殺される前に戻り、両親を助けようとしますし、叔父は、正常な体に戻ろうとするなか、両者がともに26年前に戻ってしまいます。ここからがラストで、若返った叔父ら悪者組、赤ちゃんに戻ったマニ、ですが、マニの腕にタイムマシンが巻きついていたために、マニが未来からやってきたことを知った父親が、危機を察知して、自ら闘います。危機一髪、バッテリー切れが恢復、タイムマシン活用でハッピーエンドなのかなぁ、そう言っていいか、難しいですが、映画は終わりますが、、、なんか釈然としないのは、時間移動ものの常ですね。マニの育ての母親の物語がいいですね。そして、母親役の女優さん、「レモ」の母親と同じ方、芸達者でお気に入りになりました。


2016年 5月 5日(金)午前 5時 28分

 昨日はインド映画を観る日。今年のGWのお楽しみ、シネヌーヴォでの「南インド映画祭」に行ってまいりました。昨日も2本の映画を観てきました。1本目はタミル語映画「レモ」。これも、前回に続くラブコメもの。大流行なのか、ラブコメばかりに当たりますが、この映画には、ちょっとした捻りがあります。捻りと言っても、ありえない、でも、可笑しい捻りです。男性主人公が見初めた相手は、婚約も整い、結婚間近の女性、しかもドクター。男は、映画俳優志望で定職も持たず、親からせっつかれているという身の上。捻りは、その男が、映画の女装の看護婦役を手に入れ、その格好のままバスに乗っていた(とっても不自然な設定からして可笑しい)ときに、お気に入りの女性に遭遇するところ。看護婦姿だったために、その女性の紹介で、彼女の働く病院で働くことになり、友人として接近。その女装したときの名がレモというわけです。そして、その中で「親の決めた結婚なんて」という話を吹き込み、自分の結婚に疑問を持たせていくという役割を果たし、その一方でアタックをかけていくという運び。2人の仲立ちとなるアイテムに、小さな笛が使われるのが、いい感じなのですが、使い過ぎるものだから、徐々にかったるくなっていくのも事実。もちろん、お定まりのハッピーエンドですが、女の婚約者とのアクションシーンがあったり、お約束の三枚目が取り巻く中に、男の母親も、そのキャラに仲間入りしたり、病院に入院中の子どもとのエピソードが盛り込まれていたりで、ちょっと無理筋な設定をフォローしていました。
 続いて観た2本目は、初めてじゃないかな、黄紺的にはというマラヤーラム語映画「オッパム~きみと共に~」でした。ここまで、3本続けて、ラブコメものだったため、ぼちぼち飽きが来はじめていたところに、全く趣の異なる映画に遭遇できました。一言で言えば、ちょっと硬派のサスペンスものとなります。主人公は盲目の男という点がポイントで、その設定を巧みに使ったサスペンス映画と言えます。元最高裁判事の男は、身の危険を感じていたため、信頼をしていたその盲目の男に、万が一のときのために、後を託しておきます。特に、わけありげに、「娘」の行く先を案じ、その「娘」の安全と養育に、細心の注意を払っています。その危険を感じるわけは、かつて下した判決を逆恨みにした男が、その裁判の関係者を殺しているかもと思われたからなわけですが、もし、その見込みが当たっていたとしても、犯人は誰かは判っていても、どこにいるかが判らないというのが、この映画のミソになっています。やがて、元最高裁判事氏も殺されてしまうのですが、その犯行現場に、偶然足を踏み入れ、しかも逃げ切っていなかった犯人と格闘してしまうのが、その盲目の男。それをいぶかしがった警察は、犯人を追うどころか、盲目の男を容疑者扱いにして、拷問にまでかけるという、およそ21世紀の映画とは思えない展開になっていきます。この辺の展開は、かなり付いていけないのですが、これだけ、おバカに警察を扱うということは、かなりインド警察が信頼を受けていない、威張り散らしていることの反映かと思ってしまいました。この展開の中で、犯人が盲目の男の周辺にいたとしたら、おもしろいだろうなと思った、丁度そのとき、そのおもしろい設定だということを明らかにする場面が用意されており、これは、遊べる設定だとばかりにというか、それをしたいからこそ、こういった設定を考えついたのだと思えるようになりました。それからは、このおいしい設定を活用しまくります。「娘」の居場所を見つけだすための工夫や、わがもの顔に、盲目の男の周りを犯人に歩かせたり、命を狙わせたりして、遊ばれるたびに、観る者はひやひやの連続といった調子で、今まで、黄紺の観てきたインド映画とのテイストの違いは明らかでした。最早、犯人の行動は狂気に憑かれた人間のそれと思わせるスプラッターものとしての雰囲気がありました。冒頭の船のシーンが、長閑でいいですね。雨の多い熱帯性の気候を伺わせるもの、行ってみたくなりました。


2016年 5月 3日(水)午後 9時 26分

 今日は、フェニックス・ホールで音楽を聴く日。今日の午後、「オーギュスタン・デュメイ&関西フィルハーモニー管弦楽団 スプリング・スペシャルコンサート」がありました。関西フィルの音楽監督を務めるオーギュスタン・デュメイが、オケのメンバーと室内楽を演奏するコンサート。年1回のペースで開かれるコンサート、黄紺は、これで3回目となりますが、内1回は、デュメイの体調が悪いということで、代演となりましたから、実質、2回目のデュメイの室内楽となります。プログラムは、次のようなものでした。「シューベルト:弦楽四重奏曲第12番 ハ短調 D.703 "四重奏断章"(関西フィルメンバー)」「シューベルト:ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ第2番 イ短調 D.385(デュメイ、上田晴子)」「シューベルト:ピアノ五重奏曲 イ長調 D.667 "ます"(デュメイ、上田晴子、関西フィルメンバー)」。このプログラムを、初めて見たとき、これでは、時間が短いのではないかと思ったのですが、正に、その通りで、午後2時開演で、終わって会場の外に出ようかというところで、時計を見たら、まだ3時40分でした。デュメイが目玉ということで、デュメイの出ない前座役の曲目は「断章」では、あまりに短い。そこで、もうちょっと聴かせて欲しかったなということが、一番最初に言いたいこと。関西フィルのメンバーも、一方の主役だと言いはる勇気がないということなのでしょうか。シューベルトなら、たくさんカルテットを書いているのにと、何度も突っ込みたくなりました。ただ、デュメイは良かったことは間違いはありませんでした。「ソナチネ」の冒頭は、手を抜いてるんじゃないかと思うほど、気のない演奏。ポーズも曖昧だし、テヌートを効かして欲しいフレーズは、ただ音が流れているだけという状態だったのが、どこからかは思い出せないのですが、完全に変わりました。カンタービレなんて言葉で言い表せることのできるフレーズ、いやいや、デュメイって、こないな弾き方をする人だったっけと思うほど、情感豊かな音楽へと変わっていきました。「ます」は、ちょっと小型コンチェルトと言っていいほど、ヴァイオリンに頑張らせる曲ですから、雰囲気を変えたデュメイのヴァイオリンが飛ばすは飛ばすは。5楽章なんか、完全に、他の弦楽器は、その勢いに操られていました。黄紺の席は、2階右サイドだったため、やたらにコントラバスの音が耳につき、アンサンブルを壊している状況になっていて、このときばかりは、シューベルトを恨んだのですが、デュメイのヴァイオリンの勢いに、最後には引き込まれていましたから、やはり「ます」は、そういった曲だったのだとの認識を強くしてしまいました。ロビーでは、4月に、黄紺が行こうとして行けなかったゲッツ・フリードリヒ最後の「指環」に行って来られた音楽フリーク氏にばったり。せめてもの耳の保養をさせていただきました。終演が早かったので、扇町公園を迂回して淀屋橋まで歩くミニウォーキングを敢行。すると、中之島を歩いていると、今度は、ディープな演芸ファン氏と遭遇。心斎橋であった「小圓嬢&まどか親子会」の情報をいただくことができました。こちらも耳の保養がばっちり、でした。


2016年 5月 2日(火)午後 11時 5分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今年のGW期間中は、あまり落語を聴く機会がないのですが、今日は、その中の貴重な1日。今夜の動楽亭では、「月亭遊方の噺力~ ハナシノチカラ #2」がありました。遊方が、新たに始めた落語会の第2回目、前回に続いて、おじゃましました。その番組は、次のようなものでした。瑞「動物園」、遊方「世帯イマジン」、春若「井戸の茶碗」、(中入り)、春若&遊方「トークセッション」、遊方「干物箱」。瑞は、今や人気の前座。お喋りする機会が多いということは、その口演に磨きがかかる大きな要因になっているようです。以前に聴いた「動物園」に比べると、格段の上達。短い噺に、ちょっとしたドラマが生まれていました。身体表現としての落語が身に付いてきています。遊方の1つ目は新作で、今回初めて聴くネタかと思っていたら、マクラでネタについて話した途端、思い出しました。古典落語「世帯念仏」のパロディ落語でした。呑み屋で弾き語りをする男が、「イマジン」を弾きながらぼやくという噺でした。最初聴いたとき、そのアホらしい内容に、爆笑したことも、一緒に思い出しました。ゲスト枠は春若。この会は、遊方から見ての先輩噺家さんをゲストに喚ぶのが習いになっています。なかなか、これが楽しみになっている試み。だって、遊方から見ての先輩噺家さんのトークなんて、聴く機会はありませんからね。春若の「井戸の茶碗」は、初めての遭遇。志ん朝の口演を基にしていると言ってました。上方でも、「井戸の茶碗」を持ちネタにする噺家さんが増えたものです。今日の口演で、黄紺には目新しい点が1つありました。佐々木作左衛門が仏像を磨いた結果については触れないで、先に噺を進めたのです。そうすると、屑屋さん同士の会話があり、佐々木邸近くには通らないでおこうとなり、通らねば仕事にならない清兵衛は、黙って通ると決めながら、癖になっており声を出してしまい、佐々木邸に引っ張り込まれる、そこで、初めて引っ張り込んだわけ、即ち、仏像の腹から小判が出てきたわけが明らかにされるということになります。これは名案です。小判の件を明らかにしてから噺を進めるより、明らかに聴き手を引き込む力が出てきます。メチャクチャなグッドアイデアです。今日は、この試みにほだされ、グイグイと噺に引き込まれてしまいました。トークもおもしろかったなぁ。口内に唾液がたまり喋りにくいとこぼす遊方、逆に口内が乾くという春若、確かに、春若の高座には白湯が入った湯のみが置かれるのが常です。そこから、ブレスの難しさへと自然な展開。その中で、春若は、米朝、枝雀と交わした会話を紹介してくれました。米朝は、稽古をつけるときに、ブレスの位置、一息で喋るフレーズまで教えたそうです。いい話を聞けました。プロの話です。そして、トリは、遊方の古典「干物箱」でした。上方では「吹替息子」という題名で出されることもありますが、上方では、持ちネタにしている噺家さんはごく少数だと思っていますが、遊方は、以前から持ちネタにしていたのですが、今回、練り直しての再上梓ということになりました。ただ、黄紺は、遊方の口演で「干物箱」は、聴いたことがないため、奈辺をいじったのかは判りません。噺の流れは、黄紺の聴いたことのある東京の噺家さんのものとは、基本的に同じだったと思います。序盤、父親と若旦那とのやり取りが短縮されたのじゃないかなと思ったくらいでした。どこかで、東京の噺家さんの「干物箱」を聴いてみて、遊方の口演のチェックをすることにしましょう。前回の「坊主茶屋」は、正に月亭テイストいっぱいの正攻法の口演だったのですが、今日の口演は、ちょっと照れが顔を出してしまったかのような口演。新作を喋るときと同じようなハイテンションのお喋りだったため、ちょっと違和感のある口演でしたが、楽しければ良いという観点なら、若旦那のお馬鹿さが出ていて、文句のつけようはないかと思います。次回は、ネタ下ろしで「住吉駕籠」だそうです。ますます、古典への熱い思いが高まっていく感じです。


2016年 5月 1日(月)午後 11時 44分

 今日は、シネヌーヴォで映画を2本観る日。今、シネヌーヴォでは、「南インド映画祭」が行われているのです。今年のGWの黄紺的楽しみ方は、この「南インド映画祭」で、映画を何本か観ることです。全部は無理にしても、それに近い数のインド映画を観たいのですが、諸般の事情が、それを許してくれません。ま、早い話が、経済的事情ってやつが、一番大きいかな。今日は、まずテルグ語映画「スブラマニヤム買いませんか」を観ました。スブラマニヤムは、男性主人公の名前。サーイ・ダラム・セージが演じますが、ラジニカーントばりに、タイトルの出る前だったかな、「スーパースター」って付けて名前が出てました。完全なるスター主義に接しただけで、最早インド映画の世界に引き込まれたの印象が嬉しいですね。親が決めた結婚から逃げて、アメリカにいる恋人を頼ったところ、その恋人に裏切られたところに、たまたま出会った男がスブラマニヤム。2人の妹の結婚に合わせて、一緒に帰国をするのだけども、男に逃げられたと言えない女は、スブラマニヤムに替わりを頼んだところから起こるドタバタを、若干の捻りを加えながら、2人の結婚までを描きます。メチャクチャ、スピード感のある展開、CG使いまくりのダンスシーン、黄紺の知っているどのインド映画よりも進化していました。そして、嬉しいのは、ニューヨーク、ハイダラバード、そして、田舎と、ロケ地に変化が富んでいること。そうそう、グランドキャニオンを舞台にしたダンスシーンまでありました。久しぶりのインド映画の第1発目は、ラブコメでリラックス、楽しんでしまいました。
 2本目を、ロビーで待ちながら、夕食をかっこんでいると、長く会ってなかった知人が通り、びっくり。離れたところには奥さんまでおられて、こちらとも旧知の間柄だったために、思わぬところで、旧交を暖めることができました。そして、続いて観たのは、同じくテルグ語映画「ウソは結婚のはじまり?!」でした。こちらも、ラブコメもので、更に一層のドタバタものだったもので、会場には、幾度となく笑い声が響くというものでした。婚家との付き合いが鬱陶しいと、孤児との結婚を望む女性を好きになった主人公は、家族がありながら、孤児と偽って結婚。だが、妻が見つけてきた新居というのが、夫の家だったから、話がややこしくなっていく。仕方がないので、夫は、友だちに頼み、自分の身代わりになったもらい、夜になると、友だちと交替をして、妻のもとに通うことにする。一方、身代わりを頼まれた男も、結婚をすることになり、相手の女性の親が、金持ち好きだと聞き、身代わりを頼んだ男になりすますものだから、話が混乱を深めていくというところから起こるドタバタが続くという展開となります。もうバラシに入らないと無理なところに入ってきていても、かなり引っ張るところが、凄いところ。ついには、花嫁の実家同士は、やくざっぽい家で、お互いに敵対関係にあり、抗争にまで進むなんてのまで用意されているのも、おいしいネタは、とことん使っちゃおうというインド映画らしさを感じさせてもらえて、なかなかグーな展開。ウソがウソを呼ぶ、正にドタバタ喜劇でした。


2016年 4月 30日(日)午後 8時 56分

 昨日の野がけの疲労が残るなか、今日は、文楽劇場(小)で浪曲を聴く日でした。今日は、「五月一朗三回忌追善 浪曲名人会」がありました。その番組は、次のようなものでした。玉川太福(沢村さくら)「五月一朗物語」、五月一秀(沢村さくら)「隅田八景」、京山小圓嬢・五月一秀・芦川淳平「鼎談:五月一朗師を偲ぶ〜在りし日の映像とともに〜」、(中入り)、天中軒雲月(沢村さくら)「義商天野屋」、松浦四郎若(虹友美)「秀吉の報恩」。現在、五月一朗師の弟子で、唯一、現役で活動されている浪曲師一秀さん主宰による会。ゲストとして喚ばれた雲月さんと四郎若さんは、一秀さんの修行仲間とか。鼎談のゲストとして登場した小圓嬢さんは、現役最長キャリアの浪曲師としてということでした。まず、緞帳が上がる前に、一朗師の節が3分間ほど鳴ってから、司会の芦川さんが出てきて、開演に。追善興行の雰囲気が、嫌が応にも盛り上がります。初ぱなは、東京から来演の太福さん。東京の作家さんが作った「五月一朗物語」を、今までかけたことがあるということでの来演のようです。但し、全編一人でするのは初めてとか。五月一朗師の経歴を知らなかった黄紺には、打ってつけのネタ。でも、最近、来阪の増えている太福さんですが、その浪曲は、相変わらず好きになれません。会主一秀さんは、いつぞや一心寺で聴いた「隅田八景」。そのときは居眠りをしてしまい、筋立ての欠片すら記憶に留めることができなかったので、楽しみにしていたところ、今日も、一心寺のときと同じようなところで、居眠り。結局、筋立てすら判らないままに終わってしまいました。楽しみにすると、今日もダメでした。一秀さんによると、生前、一朗師は、このネタを、1~2回しかかけてないレアものだそうです。中入り前に、一朗師の映像(乃木将軍の伊勢参り)が流れ、「鼎談」に入りました。ポイントをメモっておきます。一朗師は、広沢駒蔵の弟子で駒月を長年名乗っていた。元々大阪で活躍したあと東京に移った。レコード・デビューをするときに改名。同時に天竜三郎師もデビュー&改名。広沢瓢右衛門師から「乃木将軍」「太閤記」という売りになるネタをもらった。とっても基本的なことからマニアネタまで、やはり芦川さんがよく知ってます。中入り明けは、雲月師のおなじみネタ「天野屋利兵衛」。「赤穂義士外伝」の有名なネタですが、拷問、しかも子どもの拷問が入ってきますので、黄紺は避けたくなるネタの1つなんですが、そういったネタだと、居眠りをしないんだなぁ。四郎若師の「秀吉の報恩」も、一心寺で1度聴いたことのあるネタ。一朗師からもらわれたということは、瓢右衛門師から伝わってきているというもの。「太閤記」の一節ですが、黄紺は、このネタを講談では聴いたことがないと、以前書いたことのあるものです。功なり名を遂げた秀吉が、浜松と中村を訪ねて、知己の人物に会うというもの。浜松では初婚の相手、中村では産婆に会います。ということで、やはり大きな会ということで、会場には出番はないのですが、おなじみの浪曲師さんが詰めかけ、いろいろとお世話をされていました。


2016年 4月 30日(日)午前 4時 42分

 昨日は野がけの1日。落語「景清」でおなじみの柳谷観音に行ってきました。長岡天神駅からバスに乗ったのはいいのですが、そのバスを降りてからは、40分ほど歩かねばなりませんでした。でも、それだけ歩いた値打ちというものがありました。普段入ることのできない書院に入ることができ、そこからの風景は素晴らしく、秋には再訪したくなる風景でした。定次郎は、どこでおこもりをしたのでしょうか? らしきところは判らずじまい。賽銭箱を蹴倒して、麓の小料理屋へ行きますが、そういった風情もなく、ちょっとがっくり。でも、長年行きたかった落語の舞台に行け、とっても満足な野がけでした。


2016年 4月 29日(土)午前 3時 16分

 昨日は、兵庫県立芸文センター(小)で音楽を聴く日。昨日は、マチネーで「芸術文化センター管弦楽団 室内楽シリーズ51 PAC STRINGS!(パック・ストリングス!)」のあった日。あまり聴く機会の少ない曲が出るということで、行ってまいりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「ブラームス:弦楽六重奏曲 第2番」「チャイコフスキー:フィレンツェの思い出(弦楽合奏版)」。なお、特別ゲストとして、現在フランス国立リヨン管弦楽団のコンサートマスターを務めるジェニファー・ギルバートが迎えられました。演奏された2曲は、ともに知られた曲でありながら、編成が変則的ということで、遭遇機会が稀れなもの。チャイコフスキーは、弦楽合奏版ではない、オリジナル版で聴いたことがあるのですが、ブラームスを生で聴いた記憶はありません。あったとしても、2番ではなく、1番の方だと思います。いずれも、アンサンブルの妙を楽しむ曲。どこかで、特定の楽器が飛ばし、あとの楽器がオブリガードを奏でるという時間がほとんどないというのが、この2つが並んだときの共通項か。ブラームスでは、冒頭に、僅かだけ、ヴィオラの序奏が入ります。僅かなんだけど、わりかし曲の雰囲気を導き出す重要なところ。また、1楽章には、チェロが、いいメロディを奏でてくれます。このくらいかな、楽章が目立つのは。そうなると、突っ込みたくなるのです、天の邪鬼で。若い演奏者ばかりですから、残念ながら表情に乏しさを感じてしまいました。別に、こってりと出すのがいいわけではないのですが。チャイコフスキーの方は、逆に若さを感じさせる躍動感が、この音楽には求められるでしょうし、その要望に応えるものがあったと思います。ただ、弦楽合奏の音としては、このホールで、こないな規模の弦楽合奏を聴いたことがないので、直ちに判断するのは早計かもしれないのですが、決して満足できるものではありませんでした。なお、アンコールは、「モーツァルト:喜遊曲第1番 K.136 第3楽章」でした。


2016年 4月 28日(金)午前 0時 13分

 今日は、落語会だけの二部制の日。しかも、夜だけでです。となれば、1つは、繁昌亭の「乙夜寄席」が絡んでいます。もう1つは、ツギハギ荘であった「第3回サクッと吉の丞」でした。黄紺は、2回目のおじゃまとなりました。前回まで一人会形式の落語会でしたが、今日は、ちょっとした変化。ゲストが入りました。その番組は、次のようなものでした。吉の丞「遊山船」、松波千粋(浅野美希)「上方唄」、(中入り)、吉の丞「鬼薊」。ゲストに寄席三味線の浅野さんが来られているということで、出囃子ばかりか、鳴り物入りの噺ができるということで、「遊山船」を1つ目に選びました。これが、随分といい出来。橋の上でのお喋りで、うまくリズムを変えてのお喋りが、とっても魅力的。それに加えて、ナニワ探検クルーズを思わせる船が出てたりと、オリジナルなくすぐりが入るものですから、とっても楽しく聴くことができました。同じネタを、同じ噺家さんで聴いても、プラス方向に進化していると、嬉しいというか、儲けものをした気分になれます。ゲスト枠は、寄席三味線の浅野さんが、上方唄の師範として登場。松波は、上方唄のときのお名前です。お座敷唄ということで、こういった機会でないと、容易くは聴けない代物です。披露されたもので聴いたことのあるのは、寄席の踊りとして観たことのある「桃太郎」だけでした。吉の丞の2つ目は、これもまた、鳴り物の入る「鬼薊」。この大ネタをする噺家さんは、ホントに少ない。吉の丞では、動楽亭でのネタ下ろしで聴いて以来となりました。ネタ下ろしをしたあと、落語会で出しているのを見かけたことがなかったもので、ひょっとしたらお蔵入りにでもしたのかと懸念していたのですが、単に出しにくいネタですから、出てなかっただけのようです。盗人として名を馳せる男の少年期の噺で、陰気なものですから、演じ手は少ない、だから遭遇機会に恵まれないネタとなっています。そういった陰気な内容の噺ですが、今日の吉の丞の口演は、ちょっと内容にはそぐわないもの。明るいとまではいいませんが、陰気さを消していました。そういう風に感じさせたのは、少年清吉が、思いの外屈託のないキャラとして描かれたこと、それと、清吉の悪事を告発する役割を持つ大家の物言い、告発の物言いに、矯正を待つ目があったからかもしれません。ただ、「陰」の雰囲気を残しておかないと、刑場の露と消える清吉の生涯を語るには、バランスが悪くなると思うのですが、、、。
 ツギハギ荘を出ると、繁昌亭に移動。もう9時前には、繁昌亭に着いてしまったものですから、外で待つことに。しかし、今夜は、気温が下がったものですから、ちょっと厳しいものがありました。「繁昌亭深夜落語会~乙夜寄席・第十四夜」の番組は、次のようなものでした。方気「筍」、松五「腕喰い」、ひろば「天災」。方気は初めての遭遇。吉本所属の若い噺家さんには、特有の馴れ馴れしい喋り方がありますが、方気も、正にそれ。繁昌亭では、聴き苦しいとしか思えないのですが、、、。出身地の七尾ネタを長めに喋るものですから、時間は解ってるのかと不安になったのですが、「筍」だったので一安心。松五は「腕喰い」とは、えらく渋いものを出してくれました。先日のコンペで、染吉が短縮版を聴かせてくれましたので、その短縮の仕方を確認できるチャンスと喜んだのですが、早々に居眠りをしてしまい、せっかくのチャンスを棒に振ってしまいました。今日のトリはひろば。「竹の水仙」をするのではないかと予想を立てていたのですが、松五が、笑いの少ないネタを出したものですから、それは消えたなと思っていたら、「天災」でした。一之輔のテレビを観たときの夫婦の会話のマクラ、、、あれれ、何度聴いたか判らない「天災」でした。やっぱり、トリとなると、鉄板系のネタを選ぶことになるのですね。


2016年 4月 26日(水)午後 11時 4分

 今日は繁昌亭で落語を聴く日。今夜は、「25周年その1染雀晴舞台~芝居噺の世界」がありました。林家染雀の独演会です。あまり自身の会を持たないものですから、聴きたくても、なかなか聴けない染雀の高座ということで、今日は、ツギハギ荘を諦めて、こちらを選びました。その番組は、次のようなものでした。姉様キングス(あやめ・染雀)「音曲漫才」、生喬「相撲場風景」、染雀「愛宕山」、(中入り)、あやめ「厩火事」、染雀「淀五郎」。今日の染雀は、姉様キングスの出番もあるということで、ちょっと変則的な番組。なんと、その姉様キングスがトップ。これは、化粧の関係。化粧を落とすのは、時間はさほど要らないけれど、白塗りをしてというのは、とっても時間がかかるからだそうです。ですが、連続では出ることができないということで、繋ぎを兼ねて、生喬の出番が組まれました。タカラヅカ落語会などの話をマクラでして、生喬は染雀との関係をアピール。ネタは、染雀の芝居噺&音曲噺の対局にあるものを出すという配慮の行き届いたもの。黄紺的には、久しぶりに生喬の「相撲場風景」を聴くことができましたが、内容は、唾を飛ばしながら応援をする客、小便を我慢する客の2つのエピソードだけでしたが、短くして踊りを見せてくれました。主役の染雀のネタは、2つとも染雀で聴くのは初めてというものばかり。「愛宕山」のマクラでは、テレビ小説「ちりとてちん」の話、その監修をした染丸の「愛宕山」の初口演の思い出を話してくれました。「ちりとてちん」では、ラジオから「愛宕山」が流れてきたシーンなんかが思い出されますもんね。黄紺の好きな菜種畑のシーンや、「ハシ」と「バシ」はカット。林家では、そういったカットする型が受け継がれているようですね。随分と以前に聴いた染二の口演もそうだったな、なんてことが思い出されました。染雀の感性じゃ入れるかもと期待をしていたのですが、そうではありませんでした。ただ、今日は、若旦那が小判を撒いたところで居眠り。クライマックスの一番いいところでと、居眠りの出るジンクスには叶ってはいるのですが、変なジンクスづいてしまったものです。中入り明けは、盟友あやめの出番。 あやめ世代の女性の今を活写したマクラをふったあと、なんと「厩火事」。東京ネタですが、最近は、上方の噺家さんにも大人気、持ちネタにする噺家さんが急増しています。だから、あやめまで手を着けないだろうと、勝手に思っていた節が、黄紺にはありました。女性の噺家さんも、紫、天使とやってますしね。このネタは、男性の目で描かれた女性の噺って印象を持っていたもので、あんまり女性噺家がすることは歓迎してなかったところへ、天使の口演を一昨日聴いて、「やっぱり」「厳しいな」といった感想を持ってしまってたのですが、今日のあやめの口演を聴いて、頭を抱えてしまってます。うまく男の喉元に入り込んだ女を描いてしまったのです。そういった男女関係を、はすかいから眺めていそうなあやめの顔がちらつくような口演で、あやめの古典では、間違いなくベストワンじゃないかな。これはいいものを聴いたぞの満足感で、いっぱいです。染雀の2つ目は、芝居噺の中でも、芸談をモチーフにしたもの。もちろん芝居の真似事が入りますから、芝居ができないと話になりませんが、染雀は、それをやりたくて噺家になったような人ですし、実際、芝居の真似事をさせたら、ピカ一と言っていいくらいの実力者ですから、正に打ってつけのネタ。序盤で、「忠臣蔵」など予備知識となるものを、かなり丁寧に入れていました。尾上民蔵の優しい口調がいいですね。一方で、淀五郎の短慮が、あまりに小さい人物に見えてしまうので、何らのフォローが欲しいところです。口演時間は30分を超えるもの、でも、体感時間は、もっと短いものでした。それだけ、緊張感のあるいい口演だったということだと思います。染雀は、本年中に、続きの会を、あと2回開くそうですが、そのネタを見て、大変ヘビーなものが並んでいます。これは外せないと、今日の口演を聴いて思っているところです。


2016年 4月 25日(火)午後 11時 15分

 今日は動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「小鯛の落語漬け」がありました。昨日の繁昌亭のコンペでは、ファイナリストになっている小鯛の勉強会です。その番組は、次のようなものでした。米輝「青菜」、小鯛「饅頭こわい」、宗助「蔵丁稚」、(中入り)、小鯛「牛の丸薬」。米輝は、前座として大人気。いろんな落語会で遭遇します。昨日も、動楽亭の米紫の会で、前座を務めたとか。塩鯛門下の兄弟弟子に、連日、前座に使われているわけです。ネタは、気温が上がってきたということで、早くも夏のネタ「青菜」が出ました。最近は、南天やたまのように、情景描写を冒頭に入れた「青菜」が人気のようですが、米輝は「植木屋さん、植木屋さん」でスタート。小さなテキストのいじりはあったとしても、旦さんと別れるまでは通常の流れ。大きく違うのは、家に帰って来たときの長屋の描写が、ほぼなかった点。二項対立的に、デフォルメした長屋を描くのが主流になってきているのには乗っかりませんでした。旦さんの酒の相手をしているところで、違いは十分に出ているという考えなのでしょうか。小鯛の1つ目は、ネタ出しをしていた「饅頭こわい」。多い登場人物の描き分けにこだわる雀三郎的コンセプトの口演ではなく、テンポとリズムを前面に出した口演、小鯛らしい口演と言えます。ただ、今日の目玉と思っていた高座にも拘わらず、この口演の半ばで居眠りという情けないことになりました。またしても、楽しみにしていたところでの居眠り発生に、呆れるしかありません。ゲスト枠は宗助。若手の噺家さんの落語会に宗助が出たなんて、記憶にありません。でも、小鯛の2つ目のネタが判った時点で、何とか納得。宗助にもらっただろうことが推測できるネタを出したからです。宗助は、黄紺的宗助ベストと考えている「蔵丁稚」を出したのですが、上がるなり「地獄八景」をやり出したものですから、一瞬、客席がざわつきました。宗助は、お囃子が入るところまで、喋ってから「これはやりません」「卑怯な手を使いました」で、客席はドーッときました。本人も言ってましたが、宗助は「地獄八景」を持ちネタにはしていないので、やるわけはないのです。そないなお遊びをしてからの「蔵丁稚」。何がいいのかと言うと、主役の定吉がはじけるのが、とっても魅力的なのです。「モーレツ落語会」「上新庄えきまえ寄席」と、この間、宗助に遭遇すると、久しぶりに「蔵丁稚」を聴いてみたいなと思っていたものが、まさか今日実現するとは思っていなかったもので、とってもお得感に包まれております。小鯛の2つ目は、びっくりネタでした。「今の季節にしかできないネタをします」と言われても、黄紺の頭には「牛の丸薬」は浮かびませんでした。「牛の丸薬」は春先のネタで、春爛漫となった今には合わないなんてのは、完全な言い訳で、全く思いもよらずのネタでした。というのも、地味で、ピカレスクもので、田舎が舞台で、、、なんてことだからでしょうか、噺家さんには不人気なネタというよりか、このネタの存在すら知らない噺家さんが多いネタでしょう。レアものに数えられると思います。米二、文我、宗助、生喬しか、現在、持ちネタにしている噺家さんを思い付きません。あと、米団治が持っているかもしれません。茫洋とした雰囲気、そこに人家が見えなければいけません。そういった田舎の風景の中を歩く都会の人間、こいつらがピカレスクです。あまり後味のいい噺ではありませんが、古くさい、田舎が感じられれば、いいかなとくらいにしか把握できてないものですから、それとは異なる口演に遭遇したからと言って、目くじらを立てる筋合いだとは思ってはいないのですが、小鯛の口演は、噺の展開で引っ張る、そういった口演で、相変わらず、テンポがいいもので、黄紺のイメージするものとは違ったものでした。ですが、小鯛は、なぜ、これを持ちネタにしたのでしょうね。流行りの持ちネタの差別化の1つなのでしょうね、そないなところしか、黄紺には思いつきません。今日は、「たけくらべの会」と正面衝突をしていたのですが、コアな落語ファンが、この動楽亭に、かなり詰めかけていましたから、「たけくらべの会」は、かなり苦戦したのじゃなかったかな。そないなことも気にかけながら聴いておりました。


2016年 4月 24日(月)午後 11時 20分

 今日は繁昌亭で落語を聴く日。今夜は、「上方落語若手噺家グランプリ2017 予選第四夜」がありました。このコンペは、今年で3回目となるもの。黄紺は、予選の内1回だけ覗きに行くことにしています。スケジュールの関係で、先週か今日かしか行けなかったのですが、明らかに、顔ぶれを見る限り、今日の方が激戦だと思ったために、今日を選んだのですが、その後、南海さんの会が、今日に移ってきて、大衝撃。もう手遅れということで、今月の南海さんの会は諦めるしかありません。で、繁昌亭のコンペですが、こちらは、出演者とネタは、予め発表されているのですが、出番は、会場入りして、初めて判るというシステム。直前の抽選と聞いています。それに基づく番組は、次のようなものとなりました。そうば「普請ほめ」、三実「早口言葉が邪魔をする」、べ瓶「太閤の白猿」、寅之輔「大安売り」、紫「看板の一」、二乗「癪の合薬」、(中入り)、染吉「腕喰い」、ちょうば「読書の時間」、天使「厩火事」、小留「軽業講釈」。そうばは、仕込みとバラシを半々で、うまくまとめあげてました。普段の、ちょっと気になる訛めいた語り口もなく、今日の口演は、なかなか快調でした。三実の新作が、とっても斬新。新作の語り口よりは、古典の語り口の方が安定しているので、こういったコンペには、古典の方が、三実には有利かと思っていたのですが、この新作なら心配無用。早口言葉を盛り込んだ筋立てが、とっても新鮮。ただ、無理して詰め込んだ感が残りましたが、この三実の取捨により、結果に影響が出てくるかと思わせるものはあったと思います。べ瓶が出した「太閤の白猿」は、初めて遭遇するネタ。ただ、べ瓶が、各所で出しているネタなもので、存在は知ってはいましたし、べ瓶自身、このネタで、NHKの本選まで行っているのですね。それにしては、推したいとは思えない口演でした。こういった釈ネタっぽい、語って聴かせるというネタは、それに徹しないとおもしろみは損なわれるんじゃないかな。そういった意味で中途半端な感じがしてしまいました。頑張って入れたくすぐりも、さして優れたものとは思えませんでしたし。ネタのチョイスをミスったな、ということで、優勝候補の一角が崩れたなと思ってしまいました。寅之輔は、先日の上新庄で聴いたばかりの「大安売り」。あのときに思ったように、語り口が明確なのはいいのですが、このメンバーの中に入ると、いかにも地味な口演。ちょっときついものがあります。紫が選んだネタが「看板の一」というのは、わりかし意外な印象を持ちました。「紫のつる」で聴いたとき、笑いを取りに行っているのが、露骨な感じを持ってしまい、しかも、決して上首尾とも思えなかったもので、このネタをコンペに選んだのが意外なと思ったのだと思います。今日の高座では、受けすぎたろうと思える客席の反応もあったので、ファイナリストに残るかもとは思いました。二乗は、またしても「癪の合薬」。でも、今日の「癪の合薬」は違った。もうスーパーな出来でした。リズム、テンポ、それに、展開のスピード感、いずれをとっても、頭抜けた出来と看ました。このメンバーの中で、そこまでの印象を与えるということは、とにかく凄い。この出来だったら、ファイナルで、雀太の相手ができます。染吉はクレバーなネタのチョイス。一人だけ、雰囲気の異なる「腕喰い」を選んだのが功を奏するかと思えました。それは、普段の染吉の口演っていうのが、声が、常に上ずりかげんで聴きづらいところがあるのに対し、それが、かなり落ち着いていたことがあります。前に聴いた「一文笛」の口演がそれで、そのときの口演の出来に近いものがあるとは思いました。ただ、決め言葉の「人間やめなはれ」のところで、力が入り、上ずりかげんになったのがマイナス材料になり、外れたかと思ってしまったのでしたが、、、。ちょうばは、三枝作品できました。以前に聴いたちょうばの「読書の時間」は、おっとりし過ぎていて、また、そのペースで行くなら、もうそっと変化を着けた方がいいかと思い、あまり評価をしていなかったのですが、今日は、時間制限があるため、そういった心配事は不要で、いい感じで進んでいたと思いました。有力なファイナリストと、黄紺には思えました。天使の「厩火事」は初めての遭遇。こないな噺をするようになってるんだと、声に出さないで呟いていたということは、天使の落語自体を、最近あまり聴いてないってこと。最後のインタビューで、黄紺の言いたいことを、竹林が言ってくれてました。「一皮むけた」という意味のことを言ってたのですが、噺が大きくなったって印象。表現自体が大きくなり、独自の、しかも、ちょっと変化球的なくすぐりも入るしと、なかなかやってくれるようになっています。プロデュース力のある人ですから、アイデアを豊富に沸き上がらせる力を持っているはず。いろいろと試していって欲しいなと、今日の口演を聴いて思いました。今日の「厩火事」も、まだまだ発展途上でしょう。トリの出番が当たったのは小留。「小倉船」を聴いたくらいだったのですが、今日は「軽業講釈」。何か噺に盛り込もう、差し込もうという意欲は買いたいのですが、その前に、噺をきっちりと演じるということをして欲しいなと思いました。デフォルメされた講釈の読み方、その姿勢なんかを、きっちりして欲しいなと思ったのです。そないなことで、全員の高座が終わったのですが、黄紺的順位は、「①二乗②ちょうば③紫」でした。そして、せめて、上位3人は、この中から選んで欲しいなと思ったのは、これら3人に加えて、そうば、三実、染吉でした。また、実績があり、ファイナリストの有力候補だと思っていたべ瓶の、あまりに平凡な口演にはがっかりでした。


2016年 4月 23日(日)午後 9時 3分

 今日は、西宮でのコンサートに行く日。この週末は、音楽を楽しむことになっています。今日は、兵庫県立芸文センターであったレジデンツ・オケの「第95回定期演奏会」に行ってまいりました。オケの定演に行く黄紺的基準は、プログラム、指揮者&ソリストにしています。のべつ定演に行っていると、懐が持たないということで、特に、前者を基準にしていることが多いと思っています。今日は、エルガー尽くしのプログラムに加えて、ソリストにそそられた結果のチョイスでした。まず、プログラムを記しておきますと、「ヴァイオリン協奏曲 ロ短調」「交響曲 第1番 変イ長調」というもので、ヴァイオリンは漆原朝子、指揮はジョセフ・ウォルフでした。漆原朝子が良かったですね。第2楽章は、緩叙楽章で、エルガーが後期ロマン派を標榜するに相応しい音楽が流れますので、正に聴かせどころ、聴きどころと、期待をかけていたわけでしたが、漆原朝子のヴァイオリンは、もう、完全にモードは、黄紺の期待する第2楽章。第1楽章から、これだけ表情豊かに、音符の幅一杯を使った演奏をされてしまうと、もう、ヴァイオリンの音にうっとりするしかありませんでした。この曲、長いです。そのモードが、第3楽章の終わりまで保てるのですから、ましてや、終盤に、カデンツァもどきのシーンまで用意されていますから、気を許すことなく、スタミナを持続させねばならない、大変なコンチェルトを、最後まで弾ききりました。聴きに行って、大正解でした。残念だったのは、狙いの第2楽章のオケ、特に冒頭、繊細なヴァイオリンの音を待ち構えていたときの、難とも不粋な大きな音、中でもティンパニーにうんざり。冒頭で、ちょっと気が削がれそうになったことを、恨めしく思っております。シンフォニーの方も、正に後期ロマン派真っ只中の雰囲気。第1楽章の冒頭、ティンパニーのトレモロの直後に、エルガーの有名な「威風堂々」を想起させる行進曲風のメロディが繰り返し現れてくるのが、とっても印象に残り、エルガー特有のメロディなために、余計に惹き付けられていくこの曲の中で、やはり一番うっとりしてしまうのが、第3楽章のアダージョ。後期ロマン派の作曲家は、いずれもが、アダージョで名旋律を残してくれていますが、エルガーはこれ。部厚い弦の演奏、今日のパックの音は、十分に期待に応えるもの。木管には、いい味を感じませんでしたが、弦には拍手もの。ただ、もっともっと酔わせて欲しいな。指揮者の求めていたのは、そんなじゃなかったかな。指揮者が、ライブ感覚で求めていたものは、もっと表情があったように見えたのですが、、、。プログラムに書かれているこのオケのメンバー表を見るたびに、寄せ集め集団としか見えてこないのですが、それを考えると、それなりの演奏なのかなとも思うのですが、無難に弾き終えるというのが音楽だとは思えませんから、もう一段高いステージに上がって欲しいなと、特に、後半のシンフォニーを聴いていて思いました。


2016年 4月 22日(土)午後 9時 40分

 今日は、初めて行く「モーツァルト・サロン」でのコンサートに行ってまいりました。カフェモンタージュでおなじみになった演奏者の方たちの演奏に加えて、とってもいいプログラムということで、行ってみようの気持ちが起こったのです。その演奏者の皆さんは、次の方々で、「Mujix vol.3 ~四重奏 第1番~」という表題を付けてのコンサートになりました。(ヴァイオリン)田村安祐美、(ヴィオラ)中島悦子、(チェロ)城甲実子、(ピアノ)塩見亮。また、プログラムは、次のようなものでした。「モーツァルト:ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 K.478」、「フォーレ:ピアノ四重奏曲 第1番 ハ短調 op.15」「ブラームス:ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 op.25」。いずれも、「1番」のナンバーを持つピアノ四重奏曲を集めたコンサート、そうはないだろうというものでした。このモーツァルト・サロンというスペースは、初めて行ったのですが、印象は良くないですね。広さや立地ということではなく、音響的にといった意味で。ピアノの低音が、このサロン全体を共鳴箱にしたように響くかと思うと、弦楽器は、気の毒なほど、音を吸収してしまいます。モーツァルトでは、やはり最初だったために、それが気になって仕方なく、決して慣れたわけではないのですが、ちょっとくらいはなじむのに、えらく時間を要しました。なじみ出したときに、フォーレを聴いたわけですが、こちらは、演奏にダイナミズムを感じることができたかと言うと、音響面はさておいて、物足りなさを感じてしまいました。音の大きなうねりってやつを体感したかったですね。更に、ブラームスになると、いくら音響面の物足りなさになじんだと言っても、その重厚な音楽に見合う音が出たかというと、物足りない。ピアノを除いて、ずっと遠くで演奏されているような感じですから、クレッシェンド一つをとっても、振幅の幅に欠けてきますから、音楽の表情が、えらく平板になってしまいます。これは、要注意のホールです。忘れないようにしなければなりません。


2016年 4月 22日(土)午前 0時 46分

 今日は落語を聴く日。「第389回上新庄えきまえ寄席~桂宗助の会」(春日神社集会所2階)に行ってまいりました。かなり久しぶりとなります。2年は、行ってなかったと思います。その番組は、次のようなものでした。寅之輔「大安売り」、宗助「持参金」、呂竹「道具屋」、宗助「矢橋船」、(中入り)、宗助「釜猫」。寅之輔は、ホントに久しぶり。まだ、修業中に1度聴いたくらいじゃないかな。もう9年目に入っているそうです。噺を聴いてみて、そないに使いにくい前座という感じはしなかったものですから、出番が少ないわけというのが、とっても気になってしまいました。宗助は、1つ目に「持参金」を持ってきました。「矢橋船」が旅ネタなものですから、それが1つ目かと思っていたのですが、他のネタとの関係で、こないな並びにしたものと思われます。「持参金」は、聴き慣れてくると、よほど上手な語り口、説得力のある語り口でないと、退屈になってしまう傾向にあります。同じようなことが繰り返されるからだと思います。そう言った意味では、今日は聴いちゃいました。やっぱり宗助です。呂竹がゲスト枠で出てきたのに遭遇したっていうのは、初めてじゃないかな。年数的には、もう前座というわけにはいきませんから、最近は、ほとんどその高座姿を見てなかったので、呂竹に遭遇自体が久しぶりでした。あまりネタを増やしてなさそうな呂竹ですが、これだけ久しぶりだったら、きっと新しいネタを聴けるだろう、ゲスト枠に相応しいネタを聴けるだろうと思っていたのですが、見事に裏切られました。ま、口慣れたネタでしょうから、楽しめたのは楽しめたのですが、不満が残りました。宗助の2つ目は、今日の狙いその1となる「矢橋船」。このネタは、現文之助が前座時代に、よく出していたという印象が強く、米朝一門でも、持ちネタにしている人は、ほとんど思い出せなく、あとは福笑&たま師弟で聴けるくらいだということで、楽しみにしていたということです。色問答で、宗助は、同色ものしかしませんでした。短なカットというところでしょうか。形問答と言っていいのでしょうか、それも入れてくれました。そして、ししばばエピソードが入り、終盤の侍の出てくるところと、変化のあるネタですし、途中での切りどころもあり~ので、聴き終わってみると、なぜ、このネタが、噺家さんの人気を得ないのか、不思議です。宗助の3つ目が、今日の最大の狙い「釜猫」でした。このネタ、宗助が、いろんな落語会で出していながら、実際に聴くのは、初めてとなりました。道楽ものの若旦那ものだったのですね。釜の中に隠れて、家から抜け出そうという発想が、とっても落語的で、且つ、若旦那のどうしようもなさを表しているのが気に入りました。しかも、大旦那に、簡単にバレるというのも、いきにも愚かしい若旦那です。そうした愚鈍さの強調が、釜で焼かれかねないことを導き出しますから、なかなか統一性を持ったネタです。ただ、下げを導くために、腹をこわした猫を出すというのが、どうしようもなく汚ない。そう考えると、宗助のネタ選びは、ししばばネタで括ったってところですか。今日は、ミニウォーキングを兼ねて、会場までは、土居駅から歩き、また、帰ってみました。夜、淀川を渡るのは、あまり気持ちのいいものではありませんが、片道40分ほど。程よい距離です。なんで、今まで、このルートに気がつかなかったのか、ちょっと地団駄を踏んでしまいました。


2016年 4月 20日(木)午後 7時 46分

 今日は繁昌亭昼席に行く日。今月は、「上方落語協会創立60周年記念月間」と銘打たれた興行ということで、頑張って月2回行ってみることにしたのです。その番組は、次のようなものでした。あおば「動物園」、智六「相撲場風景」、染左「二人癖」、旭堂南海・宮村群時「書生節」、雀太「替り目」、新治「鹿政談」、(中入り)、雀三郎・新治・文華・染左(司会)「口上」、文華「八五郎坊主」、ぽんぽ娘「赤ちゃん談義」、雀三郎「素人浄瑠璃」。あおばの落語を聴くのは久しぶり。かなりアレンジをして、笑いを取る努力の跡を確認できる口演。一人相撲になるのではなく、客席も相応の反応を見せていました。盛り上がった客席に、わざわざ水を注してから自分の空気に持って行こう(但し意識的かどうかは不明)としたように見えたのが智六。冒頭で、いきなり母親の亡くなったことを話し出して、静まり返る客席ってところでした。相変わらず、ユニークなキャラであることは間違いありません。ネタの進行も、なんとなくギクシャク。これも、智六らしいと言えば、智六らしい。染左の「二人癖」は久しぶりの遭遇。大根のところをラップ調にする珍念からもらったもので、黄紺は、この「二人癖」が気に入っているのです。ここんところ、染左も、かなりリズムに乗ってましたので、更に嬉しさが増しました。色物も日替り。ラッキーなことに、書生節に当たりました。今日も、時事ネタで作った替え歌を用意。頭が下がります。この記念月間は、若手の噺家さんの数が多いため、奥に出る人が出てきています。今日の番組では、雀太とぽんぽ娘がそれ。ぽんぽ娘はいつものネタですが、雀太の方は、奥の位置に対応した「替り目」を出しました。結果的に、師匠の酒のネタが消えましたが、いずれからか、酒のネタが聴けると期待していましたから、正解と言えます。人力は省き、帰宅の場面から、定番の半ばで切る口演。どんどんと、雀太が大きく見えてきます。以前から、自分なりの工夫を試みてきたものが淘汰され、雀太のなんとかと言えるネタが増えてきています。「替り目」も、間違いなくその1つでしょう。淘汰されたなかで、1つだけ気になったのは、切り上げる直前の「かかぁ、おおきに」というフレーズが、おいしいところだからでしょうね、引っ張り過ぎに感じました。以前は、こないに引っ張ってなかったと思いますが、ここだけは、淘汰どころか、ごちゃつかせてしまってました。ま、それだけ、アイデアが湧いたっていうことなのだとは思いますが。中トリは、目当ての新治。大阪ネタを振り出したので、ネタは、何に入っていくのかと思っていたら、単純に、大阪に次いで奈良の話に移るだけで、「な~んだ」となっちゃいました。五郎兵衛作の句を入れたりと、ちょっとした変化はありましたが、流れは通常のもの。新治の表情豊かな語り口を堪能することができました。口上を経て、文華の登場。文華や銀瓶という世代が、「口上」に並ぶようになっています。もう29年目ですから、その数字だけ聞くと、全然おかしくないのでしょうが、やはり上が多いため、若手に括りかねません。文華は、そのベスト・ネタ群に、確実に入れねばならない「八五郎坊主」を出してくれました。春先の噺ですから、グッドタイミングです。今日のと言えばいいのでしょうか、以前聴いたときから、随分と時間が経ったからと言えばいいのでしょうか、野放図な無茶もん、でも可愛げのある八五郎を、見事に表していたと思っていたのですが、今日の口演では、八五郎は、少しおとなしくなったというか、威勢が落ちたなの印象を持ってしまいました。文華も50歳を越してしまったわけですから、仕方がないかもしれませんね。ぽんぽ娘はこないに奥に出て、どんな高座をするのか、ちょっと恐いもの見たさって感じで期待していました。マクラでは、漫談のときに使う、出演者の名前を使った言葉遊びをしてくれました。そして、ネタは「赤ちゃん談義」。ぽんぽ娘が、子どもができてから作った新作ですが、黄紺は、このネタを、まだ聴いてなかったもので、大感謝。赤ちゃん同士の会話という、まことに長閑なもの。そして、今日の出番に、きれいに収まりました。とってもいい色変わりになったのじゃないかな。酒の目が消えたトリの雀三郎、お茶子さんが、見台を片付けてしまったため、「寝床」は当確と思うと、マクラでいきなり、「私は歌手です」なんて言い始めたものですから、それだけで当たりを確認できました。旦さんが機嫌を直すところで切り上げたので、「素人浄瑠璃」というネタになっていました。序盤の、喉の調子を確かめるところが、雀三郎らしいところ。いつもながら、楽しい口演でした。


2016年 4月 19日(水)午後 11時 12分

 今日は、昼間に、先日亡くなった元同僚のお宅へ。霊前にお参りをしてまいりました。もう1人の元同僚と連れ立っておじゃまをしたのですが、ほんの5年ほど前に再会して、まさか、こないに早く別れるときがきてしまうとはと思うと、心穏やかであるはずはありません。外の世界と交わる機会が減ってきている黄紺にとっては、悲しすぎる現実でもあります。
 そして、夜は、動楽亭での落語会に向かいました。こういったときに、落語会に行けるのは、まことにありがたいことです。今夜は、「ラクゴ大福 vol.3」という同期の噺家さんの会がありました。その番組は、次のようなものでした。小梅「鉄道勇助」、三度「先生ちゃうねん」、米輝「鹿政談」、(中入り)、染八「時うどん」、二葉「書割り盗人」。大変な入り。こないな入りだと知っていたら、混み合うのが嫌いな黄紺は、避けていたのにと思ってしまいました。三度人気なのでしょうか。二葉人気なのか、それとも、他に、これだけの集客力を持っている噺家さんがいるのでしょうか。びっくりしました。おっとり喋りの小梅がトップ。前回、トリだったため、順送りでトップになったとか。梅団治作品の口演ですが、おっとり過ぎて、ちょっと聴きずらいものがありました。繁昌亭以外で、三度を聴くのは初めてのことになります。三度は、自作なんでしょうね。こういった同期の会に出るっていうのは嬉しいこと。学校をやめるという生徒に、部活動尽くしで説得するというもの。また、それを、おもしろがる生徒、そのやり取りが新鮮でした。マクラからして、送り出す笑いの質の違いを見せた三度に替わり、落語界の直球ネタで、三度の作った空気を変えたのが米輝。緩急を心得た巧みな口演。やはり、米輝は実力者を再確認することができました。ただ、今日は、肝心の「鹿」と「犬」の言い間違いが続いたのには、ハラハラさせられました。トップの小梅が30分近くも喋ったため、染八はマクラ省略でネタへ。ネタの方も、細かく刈り込んでいたかもしれません。バラシのところで、流行のデフォルメ。急ぎかげんの口演だったため、その可笑しさがあざとく聴こえないか気をもみましたが、客席は、順調に反応を見せていました。そして、トリの二葉。ネタ出しをしていなかったので、ネタ下ろしをした「池田の猪飼い」かと、希望的予想をしていたのですが、外れました。ひょっとしたら、これも、時間を考えてかもしれません。となると、小梅はペケですね。二葉の「書割り盗人」は初めてではなかったのですが、これって、南天からもらったものかな。「遠近法」のくすぐりで、そう思ったのですが、当たっているでしょうか。もう二葉の口演には慣れていますから、ずっとというわけではありませんが、今でも、二葉の姿を見ていると、どこから、あの説得力のある落語の世界の言葉が出てくるのだろうと、不思議な感覚に捕らわれてしまいます。このアンバランスが魅力になって、二葉落語を聴きに行く人が多いのでしょうね。しかし、今日は、二葉自身の勉強会に詰めかけるおっさんたちが多くやってきていたというよりは、男性も女性も若い姿を目にしました。落語初心者っぽい人たちが多いと看ましたが、いったいどういった人たちなんでしょうね。一番の不思議でした。


2016年 4月 18日(火)午後 10時 53分

 今日は動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「第21回生寿成熟の会」がありました。その番組は、次のようなものでした。白鹿「千早ふる」、生寿「兵庫船」、阿か枝「お血脈」、(中入り)、生寿「花筏」。白鹿は文鹿の弟子、年季が明けたところとか。初めての遭遇です。お姿も、初めて見ました。なかなか丁寧なお喋り。また、楽しみな人が現れました。生寿は、今日も長~いマクラ。これを楽しみに行ってるってところがあります。入門10年を過ぎたということで、繁昌亭で会を主催する権利を得て、実際に独演会を開くということの宣伝が、宣伝だけで終わらないので、生寿のマクラは聴きがいがあります。生寿の1つ目は、珍しいフレーズの入る「兵庫船」。一番最後に、生寿自身も言ってましたが、生寿の「兵庫船」には、「川尽くし」と「鼠尽くし」が入ります。生寿が修業時代、「らくご道」で、毎回、前座を務めていたときに聴いて以来です。師匠の生喬からつけてもらってるネタですから、生喬もするはずですが、生喬の口演は聴いたことがありません。その2つが入るからか、問答のところでは、小さなカットがありました。今日、久しぶりに、ボケ役の男の喋り方に、生寿が、以前よく見せていた幼児言葉風物言いが見られ、ちょっとがっくり。あの喋り方が好きじゃないものですから。生寿が喋り過ぎたと看て取った阿か枝は、短めのネタをチョイス。ゲストの深謀遠慮というやつです。そのおかげで、傑作な「お血脈」を聴くことができました。アホげなくすぐりが、次から次へと決まっていく上に、五右衛門が芝居がかりになったときの大仰さで留めを刺してくれました。近来にない秀逸なる口演と言ってもいいくらいのものに遭遇できました。生寿の2つ目はネタ下ろしと踏んでいたのですが、6月の独演会に向けて、「ねずみ」のネタ下ろしがあるため、今回はパスとか。見台なし、マクラで自身の趣味の話と来れば、「花筏」でしょう。「兵庫船」に比べて、急に年季の入った喋りっぷりに。最近、とみに落ち着きを増し、風格すら感じさせる生寿の姿になりました。松喬テイストの花筏の声援も入れ~ので、堂々とした口演に拍手です。次回は、珍品のネタ下ろしをすることを予告して終わりました。「かなり珍しい」を強調してました。いったい、何をするのでしょうか。稽古に行くと言ってましたから、ひょっとしたら、心酔する文我から、何か珍品をもらうのかもしれませんね。


2016年 4月 17日(月)午後 5時 45分

 今日は文楽を観る日。今日は第1部を観る日でした。その番組は、次のようなものでした。「寿柱立万歳」「菅原伝授手習鑑~茶筅酒の段、喧嘩の段、訴訟の段、桜丸切腹の段~」「豊竹英太夫改め 六代豊竹呂太夫襲名披露 口上」「菅原伝授手習鑑~寺入りの段、(襲名披露狂言)寺子屋の段」。「寿柱立万歳」は、家普請を萬歳が祝す祝言もの。20分足らずの短いものでした。「菅原伝授手習鑑」は、ここ数年、よく出るものですから、チケットを買うのを躊躇したほど。ですが、呂太夫襲名が付いてくるので、行くことにしました。今回は、3兄弟の嫁3人が、仲睦まじく義父の古稀を祝う準備をしている「茶筅酒の段」から。3兄弟が、各自が仕える主君への義を果たすために激突する「車曳きの段」のあとからですから、この睦まじさに、嫁女の健気な思い、また、それに暖かな目を注ぐ義父の優しさを看なければなりません。また、ここの仲睦まじさ、健気さが染み入れば染み入るほど、3兄弟の対立がクリアになっていきます。案の定、「喧嘩の段」で、松と梅が喧嘩をします。ところが、そこには、桜が入っていません。義父も、桜がいないことに、さほど神経質になってない風情です。それが、「桜丸切腹の段」の伏線です。早々と、桜は到着していて、父親との間に話は出来上がっていたというわけです。桜は、道真流刑の原因に関与した責任を取り、自害するのでした。その前の「訴訟の段」でもそうですが、松は反道真派に与していることが、強く印象付けられます。従って、道真派の父親に勘当を願い出て、父親も放逐してしまいます。その松の妻千代が、「寺入りの段」で、倅を連れ、道真の息子を匿う寺子屋に現れます。今まで、何も考えないで観ていたことが露見してしまったのですが、これって、流れ的におかしいのですね。何かの策略がある、裏があると考えながら観なければならないってことに、今ごろになって気づきました。更に、道真の息子の首の検分役に、松自身が現れますから、ますますおかしい、裏があると思わねばならないところで、いわゆる仕込みがされているということです。そして、えげつない、いかにも文楽らしいバラシが待っているという趣向と考えないといけないのですね。呂太夫さんは、切り語りではありませんから、首検分の者たちが帰って行くところまで。スタミナ的にも、ちょうどいいところでしょう。千代の再訪からが咲太夫さんの受け持ち。本来なら、「寺子屋の段」は、一人で受け持ってもいいのですが、咲太夫さんも、完全にスタミナが持たなくなっていますから、この分担は、まことにもって合理的ですが、これなどが、正に世代交代を急がねばならない現在の文楽界を象徴することではないでしょうか。咲甫太夫さんの織太夫襲名というのも、世代交代の一貫でしょうが、そんなだけだったら、駒が足りないぞというのが、今の実感です。


2016年 4月 16日(日)午後 6時 46分

 今日は千日亭で落語を聴く日。日曜日ということで、昼間に、「染左百席 千日快方」がありました。できるだけ行けるようにしている会ですが、うまく日が合わず、このところ、ちょっと無沙汰をしていました。その番組は、次のようなものでした。染左「寿限無」、石松「桜の宮」、染左「胴斬り」、(中入り)、染左「莨の火」。染左は、マクラで時候の挨拶に続いて、「志ん輔師の会があるにも拘わらず」と言ったため、会場内は大爆笑。ちょうど上のトリイホールで、その会が行われていたのです。一挙に、会場の空気を変える鉄板の一言でした。「寿限無」は定番の流れ、落ちでしたが、1つだけ珍しい箇所がありました。名前を並べていくとき、教え手が、最後の「長久命長助」を、その前の「パイポ、、、」の名前とワンセットにしてました。初めて聴く型でした。ゲスト枠は、前にも、この会に喚ばれたことのある石松。恐らく、他では聴いたことのないフレーズが入ったりしましたから、松之助伝来の「桜の宮」と思われます。細かなテキストの違いは、幾つもあったでしょうが、大きなものをメモっておきます。六部に扮した仲裁役の男が来れなくなる理由です。会った叔父が耳が遠いというのは、一切出てこないで、無理やり引っ張っていかれたので、酒を呑ませて酔いつぶそうとして、自分が酔いつぶれたとしてました。いずれにしても、噺には影響はないですね。冒頭の余興のアイデアに、首吊りと干した梅干しの2つが出てました。傑作なのは、「首吊ったらあかんがな」と言われると、「後のことは、あの世で相談」という応対が続くところ。あまりにもアホらしい応対です。台詞の稽古が始まると、やたら屁をする挿話が入ってました。これなどは、汚いということで淘汰されていったのでしょうね。そんなところかな。今年は、「桜の宮」によく当たります。それだけ、持ちネタにする噺家さんが増えたってことなのでしょう。噺家さんに人気のネタということです。染左の2つ目「胴斬り」、確か、染左がネタ下ろしをしたときに聴いたはずです。もう、随分と前のことですが。マクラで、染左は、「寄席では好まれない」ので「珍しい」ネタと言ってました。察するところ、人間が真っ二つになるからでしょうが、そのくらいのブラックさが解らないでどうすると思ってしまいますね。ありえないことを、落語だからできるというイマジネーションがないってことなのでしょう。結果的に「珍しく」なる、、、というほど、演じ手って少ないかなと思ってはしまいました。吉の丞が、このネタを出すときにも、「珍しい」なんて言い方をしていたのを思い出しました。幕内の感覚じゃ、そうなのかもしれません。流れとかは、よく聴くものでしたが、1つだけ、重要な違いがありました。通りかかった又はんは、斬られた男に、「きっちり働くこと」と念を押します。要するに、後半、又はんが仕事を世話をする伏線にしてあるのですが、それって必要ですかね。「大変なことが起こった」「友だちの手助けをしてやろう」で、十分、仕事の世話をするわけは成り立ちますから、そないに律儀な設定は堅苦しいなと思い聴いておりました。ここの変化は、他の噺家さんの口演では聴いたことがないものでしたから、ひょっとしたら、染左オリジナルないじりかもしれません。3席目は大ネタ「莨の火」のネタ下ろしでした。プログラムに、染左も書いていましたが、先代染丸の十八番ネタにも拘わらず、林家の噺家さんは手がけようとしません。他の一門で持っているのは、松枝、文三、文我が思い浮かぶくらいです。黄紺は、この噺のおもしろい点として、「謎の人物の正体を知りたい」「思いもかけない派手な遊び」「綿富の作戦の成否は如何」「思いがけない下げ」を上げたいと思います。その中で、最初の1/3が、とっても大切だと思っています。「謎の人物の輪郭」が、徐々に剥がれていくからです。「綿富に行く」ことが決まると、かなりのお大尽だと判ってくる、そこまでの、不思議な謎めいた中で、お喋りが進むにつれて、情報が与えられていくのがいいんだなぁ。のんびりとした道行、時間の概念などがないように見える中での駕籠屋と旦さんとの会話、それだけで、旦さんの風格が現れて来なければならない聴かせどころと思っています。要するに、この道行が大切だと考えているのですが、今日の口演でびっくり。駕籠に乗る前に、行き先が決まってしまったのです。どうやら染左オリジナルということだそうで、道行が長くなるということでの措置と、ご本人から伺いました。ですが、残念ながら、賛同しかねます、理由は、上に書いた通りです。染左も、初演ということで、試行錯誤なのだと思いますので、再会を期したいと思います。そんなで、なかなか考えるきっかけを与えてくれた会として、黄紺的には楽しませてもらえたありがたい会でした。


2016年 4月 15日(土)午後 11時 25分

 今日出がけに、昔の同僚が亡くなったという知らせを受け取りました。数年前、偶然、文楽劇場の前で再会して以来、交流を続けていたのですが、もう少しは大丈夫かと思っていたところへの訃報。衝撃が走りました。幸い、今日は二部制の日と、気を取り直してのお出かけ。でも、もう2度とお喋りができないかと思うと、心穏やかでおれるはずはありませんでした。とりあえずは、その二部制の記録です。昼間は、中崎町のイロリムラ プチホールであった「第2回 立川こはる落語会 キタ編」に行ってまいりました。前回は、申し込みが遅れ、気がついたときには完売だったということもあり、今回は早めの予約。それが、結果的に二部制を招いたということです。立川こはるは談春の一番弟子となる女性の噺家さん。ぴっかり、つる子らと並び、東京で注目の噺家さんということで、黄紺も、以前から高座姿を拝見したかった方です。今日の番組は、次のようなものでした。「真田小僧」「岸柳島」、(中入り)、「品川心中」。こはるは、土岐、蒲郡を経ての大阪遠征とか。その辺をマクラで喋り、「このネタで食ってきた」という「真田小僧」を、「真田」が出てくる前に切り上げる短縮版での口演。かみさんが聴きたいというと、木戸銭を求めるという、近頃、大流行の上方でも採られる下げで終わりました。この1席を聴いただけで、こはるの人気の秘密は了解できた気になりました。マクラからそうでしたが、小気味良いテンポがいいですね。声が低く、ボーイッシュな風貌は、女性噺家らしくないという印象を持ってしまいました。まず、一席目で、早くもこはる落語を気に入ってしまいました。続いて2席目、上方で「桑名船」と題して演じられているネタ。船上で、町人を手討ちにするとわめく侍、なだめようとした侍にも、その刃が向かう。上方では、そのなだめようとした侍の計略で、陸上に怒る侍を残しますが、こはるの口演では、船頭の機転となっていましたが、それでは、なだめる侍が不様になります。「岸柳島」の名の由来は、陸に侍が上がったときに、武蔵と小次郎の果たし合いの文句が入るそうなのですが、黄紺は聴いたことはありません。2席目が終わると、中入り休憩。そして、3席目は、なんと「品川心中」。マクラで、品川宿の話をし出したときも、まさかと思いながら聴いていたのですが、年を重ねた女郎の話をし出して、やっぱりとなりました。これが、ひょっとして、あやめの「立ち切り線香」以外では、初めて聴く女性噺家による廓噺です。こちらの方が、生々しい女郎の声が出てきますが、さすが、このときばかりは、こはるが女性噺家だということを意識させられました。いじらず、通常のテキストを使い、従来の型を、そのまま踏襲したお喋りなものですから、いくらこはるといえども、女性が見えてしまいました。別に、何のてらいもなく、いじりもなくで、ただ聴いているだけで、意識化に上ってしまいます。ここいら辺りが、落語の演出というものは、男性仕様になっているのだという言いふるされた言い方を思い出していました。テンポが良く、人物の描き分けも解りやすくとなればなるほど、噺にリアリティが出てくるものですから、その辺を意識させられるのでしょうね。結局、昔ながらの袋小路に入ってしまいました。難しいです、落語は。
 落語会が終わると、京都への大移動。夜は、カフェモンタージュでのコンサートに行く日でした。今夜は「G.ルクー室内楽集― vol.2  ヴァイオリンソナタ―」と題して、(ヴァイオリン)馬渕清香、(ピアノ)多川響子のお二人のデュオ・コンサートがありました。演奏されたのは、「G.ルクー:ヴァイオリンソナタ ト長調(1892)」「C.サン・サーンス:ヴァイオリンソナタ 第2番 変ホ長調 op.102(1896)」の2曲でした。ルクーとサン・サーンスを並べるというプログラミングは、第1回に続くもの。今日も、オーナー氏から、その旨お話がありましたが、19世紀末の行き詰まった音楽環境のなか、時代は変わるという感じで綺羅星の如く、逸材が排出しますが、若干24歳で亡くなったルクーも、その1人に入るのですが、そういった環境のなか、1人孤高を守り、保守的な音楽を書き続けたのが、サン・サーンスだったというわけです。ですから、この2人を並べるということは、世紀末と、よく称される時代を象徴する音楽家であり、変わり行く時代そのものを表象するということになるという仕掛けです。特に、今日のプログラムのような順序で聴くと、そのスタンスの違いが、よりクリアになり、余計にテーマのルクーが際立ってきます。うまいプログラミングです。ルクーは、聴かせてくれます。とてもじゃないですが、22歳で、こないな曲を書くってなんて、濃密な時間を生きたのかと思わせてくれます。もう第1楽章の冒頭から、染み入るメロディ・ラインに魅せられます。演奏する側からすると、いきなり待ち構えられているって感じがするのかな、丁寧に弾こうという意志が丸見え状態になってしまってました。これでは、弾いてやろうとなっちゃいますから、聴く側はくじけてしまいます。ピアノも、味気なくなってしまい、しかも、ここは左手押さえ気味に弾いてよと突っ込みが要るような状態に。意図的にだったのか、よく判らないのですが、第1楽章ではビブラートを控え気味なのが気になったりして、滑り出しは、決して上々とは言えませんでした。さすがに、第2楽章からは、落ち着いてきたぞの雰囲気が出来上がり、黄紺も、すんなりと耳を傾けるようになっていきました。だだ、前回のときには、馬渕さんのヴァイオリンのパワーはもっとあったように、また、情熱的であったように思えたのですが、そういった点ではの物足りなさを、若干感じたことは事実でした。ルクーが終わると、ちょっと腑抜け状態でしたから、クールダウンには、サン・サーンスが程よい感じになっちゃいました。かなり贅沢なクールダウンだとは思いますが、そういった意味でも、この並びって、ホント、よくしたものだと思えました。


2016年 4月 14日(金)午後 10時 52分

 今日は動楽亭で講談を聴く日。今夜は、「南湖の会 ~探偵講談と赤穂義士~」がありました。毎月定例の会です。今日は、他にもいい落語会が2つあったのですが、黄紺的には最優先の会の1つなものですから、迷わずに動楽亭に向かいました。その番組は、「天美卵」「赤穂義士 4」「探偵講談コレクション:大蛇美人」「大谷刑部」でした。どうも、今日は居眠り続き。ミニウォーキングをして、天王寺のネットカフェで休息をとってから会場入りしたのですが、ダメでした。この4日間、長めのウォーキングをして、疲れがたまっていたのかもしれません。まともに聴けたのが、冒頭の「天美卵」だけ。「大蛇美人」は完落ちといった状態でした。「天美卵」は、昨日、「できちゃった」があったので、そこで出したものと言われていました。黄紺も、実は、それを期待していましたから、ドンピシャの大当たり。「できちゃった」のメンバーで行った鳥取合宿のレポートをマクラにしてからの口演。天美卵は、鳥取名物の卵の名前です。筋立ては、その天美卵を産む鶏舎の描写。「鯛」と設定は同じで、中の様子も、どこか「鯛」を想起させるものがありました。「赤穂義士伝」は、先月が刃傷だったということで、今日は、その後始末。内匠頭の処分についてが読まれたあと、切腹、赤穂への伝令辺りが読まれたはずですが、後半はダウンでダメでした。「大谷刑部」は、関ヶ原で石田側に着き、敗勢を知り自害するまでで、南海さんの口演で、何度か聴いているもの。石田側に着くきっかけを、大谷刑部の病にあるとし、関ヶ原の合戦は、宇喜多の裏切りから形勢が変わり、、、までは記憶があるのですが。そのあとは、自害に至るところを読まれたはずですが、 ここも、後半がダメ。どうも、よくありません。楽しみにしている会なのに、です。


2016年 4月 14日(金)午前 1時 10分

 今日は二部制の日。繁昌亭で「乙夜寄席」のある日に、文楽4月公演の夜の部を合わせました。文楽が終わり、歩いて繁昌亭に移動するのに、まことに都合のいいタイムスケジュールになっていると看たからです。まず、文楽公演夜の部は、次のような番組でした。「楠昔噺~碪拍子の段、徳太夫住家の段~」「曾根崎心中~生玉社前の段、天満屋の段、天神森の段~」。「楠昔噺」は、12年ぶりに出るとか。黄紺的には、初めて観る演目です。「太平記」がベースになっている物語で、楠木正成と敵対する宇都宮公綱が義兄弟という設定。楠木正成の妻を娘とする婆と、宇都宮公綱を実子とする爺が、お互いに連れ子として結婚したとする設定になっており、戦が起こることで、その老夫婦が苦悩する姿が描かれるのですが、その描き方に、昔話の仕様が盛り込まれているという特徴を持つ演目となっています。老夫婦としては、2人の和解を目指そうとするのですが、その努力が引き金になり、対立が表面化、和解がままならぬと判ると、老夫婦は自害、当の対立する武者も本体を現すのですが、2人の死を前にしては、休戦に入り、来る戦を約して別れるというのが粗筋。「太平記」の基本的な対立の構図を、1つの家族の人間関係に閉じ込めたらこうなるという発想が持ち味っていうところでしょうか。それだけでは、発想だけで生きるなんてことになるなんてことになってしまいかねないなか、昔話の仕様が入ったのがミソになっていました。「碪拍子の段」に取っ掛かりとして使われたとだけ見ていたところ、戦の計略になっているというのは、おもしろい趣向です。対立&和解が、筋立てのポイントになっていますが、全体としては楠木正成寄りで作られています。やはり、判官贔屓ってやつなんでしょうか。「曾根崎心中」は、言うまでもない文楽の人気演目。徳兵衛は、朋輩と思っていた九平次の詐欺に遭い窮地に陥り、心中に向かうわけですが、九平次の収入源を調べるように訴えればいいのに、2人は、何を泣き寝入りしてるんだと、観ていて腹立たしくなってきてしまいました。落語の「帯久」では、奉行所は、帯久の成り上がりぶりにメスを入れる裁きになっています。急なる収入の源にメスを入れて、全貌に迫っているのに対し、この近松作品では、徳兵衛がやられっ放しになっているのが歯がゆくて、、、そないな突っ込みを入れても致し方ないのですが、つい九平次の横柄さに腹を立て、そないなことを考えながら観てしまいました。ヴィジュアル的に、また、マゾっぽくなりますが、いたぶられ、追い込まれていく人間の弱さに美を感じますし、心中という形で落ちていく男女の愛に美を感じさせます。だから、黄紺のような突っ込みは意味がないのでしょうね。ですから、あとは死ぬだけという「天神森の段」を引っ張ります。近松は、それを狙い、そして、当てたってところなんでしょう。会場で会ったコアな落語ファン氏は、「最初観たときは残酷やった」「何度も観ていると美しいね」と言われていましたが、正にそれです。黄紺も同感です。
 文楽が終わると、ミニウォーキングがてら、歩いて繁昌亭に移動。今夜の「乙夜寄席」の番組は、次のようなものでした。新幸「鉄砲勇助」、団治郎「悋気の独楽」、喬若「粗忽長屋」。新幸は、師匠の新治譲りの端正な語り口を持った噺家さんと、黄紺にはインプットされています。今日も、基本的には、その見方は間違っていないと思うのですが、今日は、慣れてきたことから起こる力の入れかげんの混乱が看られたと思いました。ネタを、懸命になっておもしろく聴かせようとするあまり、自分なりに大仰な表現を採ったりするのですが、一人はしゃぎになってたり、聴き手の対応に変化がなかったりと、かなり空回り。緩急の心得を掴んだなら、土台がしっかりしているので、おもしろくなると思うのですが、、、。ネタは、はしょりながらの木曽編と北海道編でした。団治郎は、不倫絡みの小咄を幾つも振ってからネタへ。そないに小咄をして、時間は大丈夫かと思ったくらいでした。ところが、このマクラが、客席とのヒット・アンド・アウェイではなく、ヒット・アンド・ヒットばっかという感じ。自分のペースで、自分の知っている小咄を振り続けたっていう感じだったため、団治郎自身も、客席の空気感とか、そないなものを掴めてないでしょうし、客席の方も、団治郎という噺家に馴染めないまま、ネタに入られちゃったという感じでした。ですから、団治郎は、マクラを振るにつれて、アウェー感を増幅していったってところでしたから、達者な語り口でネタを喋られても、なかなか受け入れられなかったのではないかな。その真逆が喬若。やはり、キャリアとものが違いました。客席を味方につける術を、憎いほど心得ています。そして、ネタは、喬若で聴いたことのなかった「粗忽長屋」。新作をお喋りするような口調が、とっても新鮮。そして、仕込みとバラシという構成にしたのも、このネタでは新鮮と、ちょっと変わった「粗忽長屋」でしたが、おもしろければいいという点では、上出来。久しぶりに喬若落語を聴いたのですが、今日は、今まで知らなかった喬若の顔を見たという思いに駆られました。


2016年 4月 12日(水)午後 11時 2分

 今日も動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「第1回 新世界で桂阿か枝の落語会」がありました。阿か枝の会が、繁昌亭以外の大阪市内の会場を使って行われるのは、久しぶりじゃないかな。以前は、紅雀との二人会形式での勉強会が行われていたのですが。今夜は、次のような番組で開催されました。咲之輔「片棒」、阿か枝「猿後家」、(中入り)、ひろば「天災」、阿か枝「こぶ弁慶」。咲之輔は、こういった落語会では、前座役は卒業のお年頃、ですから、ネタも前座ネタじゃないものが出ました。「片棒」って、上方では、演じ手の少ないネタ。得意ネタにしている文之助の口演を聴いて、恐れてしまうのかもしれません。咲之輔では、以前に1度聴いたことがあったので、変化を確かめてみたいと思ったのですが、半ばで、あえなく居眠り。今日は、大丈夫と思っていたのですが、咲之輔は、あまり聴こうとしていないため、体が反応してしまったのかもしれません。阿か枝の1つ目は、師匠先代文枝の十八番「猿後家」。持ちネタにしている人は、そこそこいるはずですが、遭遇は久しぶり。マクラで、明石の地元テレビで、食のレポーターをした話をしてくれたのですが、実は、これは「瘤弁慶」を想定した、遠いマクラにもなるという洒落たことをしてくれました。「誉める」ということで、もちろん「猿後家」のマクラにもなっています。このことに気がつくのは、「瘤弁慶」の半ばで、土を食べるところ。やられたぁという感覚に捕らわれるのは、心地いいものです。阿か枝の口演は、師匠を彷彿とさせるものがありますから、こういった先代文枝の得意ネタを、阿か枝で聴けるのは、まことにありがたいことです。お家はんにべんちゃらを言う男が、それを生計にタネにしているというところは、何度聴いても可笑しいものです。ゲスト枠はひろば。一之輔を追ったNHKの番組を観たひろば夫人の言葉は素敵なもの。ちょっとしたのろけを、マクラで振って、それとは真逆の「天災」に入りました。もちろん、ざこば組の得意ネタ。でも、客席を見渡せば、今日の客というのは、ひろばなら、一目で判るはずの通の方(小佐田夫妻を含む)ばかり。もうちょっと、ネタの選択を捻って欲しかったな。阿か枝の会は、今日からスタートということからのチョイスだとは思うのですが。広い野原で、隠れ場所を探す部分はカットしました。ちょっとしたカットなのに、せかせかした印象を受けてしまいました。主人公の無茶もんが、簡単に結論に近づくからでしょうね。そんなだったら、無茶もんじゃないやろという印象が生まれたからでしょう。落語って、難しいですね。テキストの刈り込みで、刈り込んじゃダメなもの刈り込んじゃうと、恐ろしいことが起こってしまいます。阿か枝の2つ目は、ネタ出しをしていた「瘤弁慶」。長いということもあるでしょうが、このネタを手がける噺家さんも少ない。前半の「宿屋町」は、昔は、代表的な前座ネタだったのですが、近年では、ほぼ廃れてしまっています。若手の噺家さんに、不人気なわけが、黄紺には解りません。その「宿屋町」のところが終わり、好きなものを尋ね合うところまでは、まだ普通の噺。その終わりのところから、この噺は、ごろっと様相を変えます。土を食べる男、人の体に宿る弁慶、その弁慶が体を乗っとり横暴を極める、一挙に落語の世界に引っ張り込まれて行きます。引きずり込むのは良かったのですが、阿か枝は、無理やり「弁慶の泣き所」という言い草を使った下げに持って行きました。急に、噺の世界に、阿か枝が飛び込んで来たようで、白けてしまいました。「猿後家」のマクラを使ったくすぐりなんかが入り、異様な展開に、タイミングのいい笑いをかませ、いい感じで来ていたのに、最後に来て、崩れてしまいました。もったいない、それに尽きます。今日は、残念ながら、入りが少なく、黄紺的には、「なんで」と大きな声を出したくなるくらいでした。明石を拠点にしていたからでしょうか、もっと認知されていると思っていたのですがね。


2016年 4月 11日(火)午後 10時 50分

 今日は動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「生喬百席 第四十二夜」がありました。その番組は、次のようなものでした。生喬「野崎詣り」、 生寿 「親子茶屋」、(中入り)、生喬「蛸芝居」。今日は、三味線が入る日ということで、ゲスト枠の生寿も、鳴り物入りの噺をしてくれました。まず、生喬は、マクラで、タイの徴兵制と彦八まつりについて喋ってくれました。ネタの「野崎詣り」は雀三郎からもらったものとか。そのため、春団治版と違い、稽古屋の連中の仕立てた屋形船が出ます。これが、なかなかよくて、野崎詣りに出る賑わいが、一挙に高まります。船に乗った2人のはしゃぎぶりが、生喬の他の落語で見られる以上の明るさ、賑やかさが出て、生喬落語ベストの中に入る逸品じゃないかな。今までにも聴いたことがあったのですが、そこまで言える仕上がりを感じたのは初めてです。生喬も、まだまだ進化をしていることの証左ってところかと思います。出来上がった感のある噺家さんだけに、とっても嬉しいことです。生寿は、繁昌亭での自身の会の宣伝をしたあと、今日のネタ選びの難しさを告白。生喬が師匠ですから、持ちネタがかぶるうえ、ここまでのゲストの出したネタを出せないということです。でも、「親子茶屋」が残ってたんですね。生寿の口演が、最近変わってきているように思っています。噺に落ち着きが出てきて、重みが加わり、少し演じてる感が消えてきているのです。がために、高座姿に風格らしきものを感じるようになっています。このキャリアで、この年齢でと思わせるものがあります。今日の「親子茶屋」でも、そういったことが確認できました。生喬の「蛸芝居」は、繁昌亭での名演が記憶に強く残っています。あれは、繁昌亭での、初めての生喬の会だったと記憶しています。それだからか、気負いや緊張があったでしょうが、それらが、全てプラスに作用した憑かれたような口演でした。しかも、そのときの鳴り物が素晴らしく、生喬の口演を、最高度に盛り上げていたと思います。あのときに比べて、今日は、笛が弱かったですが、鳴り物は、同じ生寿が担当したでしょうし、生喬の口演も、芝居の台詞がくさくなった点は、これはキャリアの成せる技で、熟練度を上げたと見えるだけで、あのときの好演を思い出させるものでした。「百席」も、クライマックスに入ってきました。次回は、「百年目」だそうで、そのあとも、大ネタが待ち構えているという雰囲気です。


2016年 4月 10日(月)午後 7時 38分

 今日は、メトロポリタンのライブビューウングを観る日。演目は「椿姫」(ヴィリー・デッカー演出)です。ソニア・ヨンチェヴァがヴィオレッタを歌うということだったもので、黄紺は、ベルリンで聴いて、がっかりしたのでやめようかとも考えていたのですが、福井から、高校時代の友人が観に来るというので、ならば行こうということで行ってまいりました。このプロダクションは、2005年に、ザルツブルクで上演され、その2年後から、メトロポリタンで上演が続くもの。ザルツブルクのプロダクションがDVD化されており、しかも、若々しいアンナ・ネトレプコとロランド・ビリャソンの組合せということで、とっても素敵な映像として残っているものです。その後、メトのライブビューウングでは、ナタリー・デセイをヴィオレッタに迎え流されたことがあるのですが、これらの顔ぶれを見ても判るように、いずれをとっても、「歌う役者」が揃っています。それだけ、登場人物の心理描写に重点を置かれたプロダクションで、装置も、円形の壁、大きな時計、左端に扉が設えられてあるだけというもの。あとは、歌手陣とコーラスの動きだけで進行するというもの。小道具として、必要に応じて、ソファが出されるだけでした。このプロダクションの特徴が、もう1つあります。最初から最後まで、本来なら、第3幕に、ちょっとだけ顔を出す医者が、ずっと舞台のどこかにいるという点です。これと時計で、ヴィオレッタの死期が迫っていることを、常に意識させています。黄紺は、かねてから、「椿姫」のポイントが、この点だと思っていました。ヴィオレッタの病、死期の近い病ということは、テキストには出てはくるのですが、華やかな社交界の描写に追われて、この点の影がうすくなる傾向にあります。多くのプロダクションが、その傾向ありと言ってもいいくらいです。でも、そこの印象が薄くなると、ヴィオレッタの命がけの恋だの、命がけの愛だのが出てきにくくなっちゃいます。近松同様、「娼婦の誠」がドラマになるわけですから、近松流では「落ちるところまで落ちる」、それは、この場合は、「死を悟った命をかけた恋」と言い替えれるはずですから、「死」を、ヴィオレッタも、観客も意識しなければならないはずなのです。ベルリンで観たソニア・ヨンチェヴァは、歌唱も動きも気に入らなかったのですが、収録技術が功を奏した結果なのかもしれませんが、いずれも及第点だったと思います。ネトレプコほどの没頭感はありませんでしたが、それは、あまりにも求め過ぎってやつで、花◎だったと思います。これは、アルフレードを歌ったマイケル・ファビアーノについても言えること。パパ・ジェルモンはトマス・ハンプソン。同じ役で、黄紺は、ミュンヘンで聴きましたが、安定感は抜群。コヴェントガーデンでの「ホフマン物語」では、若干、パワーに衰えを見せていましたが、メトロポリタンの客席の反応を見る限りでは、杞憂に終わったと思いました。久しぶりに、このプロダクションを観ましたが、つくづく感心、よくできています。「椿姫」と言えば、やはり、これと、フェニーチェのロバート・カーセンものに尽きますね。


2016年 4月 9日(日)午後 8時 14分

 今日は八聖亭で落語を聴く日。「第60回記念 生喬まるかじりの会 」がありました。黄紺的には、なかなか都合がつかず、この「まるかじりの会 」に行くのは久しぶり。いい会が重なったなかでしたが、早くから情報を掴んでたおかげで行くことができました。その番組は、次のようなものでした。弥っこ「池田の猪飼い」、生喬「お目見え」、春雨「三枚起請」、(中入り)、春雨・生喬、弥っこ「舞踊『噺家踊浮世賑2』」。今日から、70回までは、落語と踊りという構成で、この会は進めると、生喬は言ってました。その第1回目として、亡くなった春団治が得意にしていた踊りを受け継ぎ、名手と言われる春雨と、入門後始めた踊りのスジがいいとの評判の弥っこが助演として招かれました。落語が3席ということで、1席ずつが長めのネタが用意されており、落語では前座役の弥っこは「猪飼い」。ポピュラーなネタでありながら、若手の噺家さんの人気は今一つというところがあり、以前のようには聴く機会がなくなってきてるなぁと思っていたところ、もう春というところになり、遭遇することができました。ただ、長めとは言え、前座ということで、弥っこは刈り込みながらの口演。道を尋ねる場、案山子を人と間違う場などが割愛されていました。弥っこの口演を聴いていて、昔からあるくすぐりのところになると笑えるのです。何度も聴いているのに、弥っこが喋ると笑えるのです。苦虫を噛み潰したり、呆れたりする表情が伴っているからだと思います。踊り同様、ツボを見極めるのが上手い噺家さんかもしれません。生喬は、珍しい噺を出してくれました。生喬だけしかやらない、花登筐作品です。黄紺も、初めて聴いたものでした。食いべらしのために奉公に出された子どもが、奉公先でも役に立たず、奉公先の娘のお供役を務めることになったのだけれども、その娘から届けろと指示された文の届け先を間違い、その文が、駆け落ちの打ち合わせという内容だったため、その内容が家にバレ、奉公先の主人には感謝されるのだが、娘には叱られるという筋立て。「目見え」と、叱るときに使う言葉「メンメ」の駄洒落が下げになっていました。船場の商家の雰囲気は、さすが花登作品だと思ったのですが、筋立ては、もう1つか2つでしたが、6代目口演ものの新作を残そうという意欲に、生喬らしさが溢れていますし、落語ファンとしては、感謝の言葉しかありません。春雨は長めのネタで、且つ、生喬が持ちネタにしてないということで、大ネタを出してくれました。春雨の口演を聴いていて、弥っこのときとは逆のことを感じてしまいました。起請を乱発したマブの話をカットしたり、源やんが懲らしめの言葉を吐くところで鳴り物を入れたりという変化はつけてましたが、それ以外では、テキストはそのままだったのですが、今度は、昔からあるくすぐりが邪魔に感じてしまったのです。落ち着いた春雨の語り口で聴いていると、先が気になり、余計なチャチャは入れないでよ、こいつら、どうなるんだ、どう始末をつけるんだ、それを聴かせてよとなってしまうのです。これって、どう判断すればいいのでしょうね。懐が狭いというのか、ネタの強さを上手く引き出しているというのか、どっちなんでしょうね。中入り明けの踊りは、「五万石」(生喬)、「わしが想い」(弥っこ)、「河童の河太郎」(生喬)、「五段返し」(春雨)の順でした。生喬の踊りは、何度か観ているのですが、春雨は初めてじゃないかな。1日でする芝居を、3分間の踊りにまとめたものです。染雀の踊りでは観たことはあったのですが、鳴り物が大変な踊りでもあります。そして、やはりびっくりは弥っこ。黄紺の目から観ても、上手い。女方の目線やしなの作り方なんか、驚きでした。最後は、60回記念ということで、正調大阪締めで、お開きとなりました。


2016年 4月 8日(土)午後 5時 58分

 今日は浪曲を聴く日。毎月恒例としている「第274回一心寺門前浪曲寄席 4月公演」(一心寺南会所)に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。真山隼人(沢村さくら)「大高源吾 笹売りの條」、浪花亭友歌(沢村さくら)「神田松」、京山幸枝司(岡本貞子)「武蔵屋新造」、天中軒雲月(沢村さくら)「宗五郎 妻子別れ」。昨夜、あまり睡眠を取れないままのお出かけになったため、案の定、居眠りが出てしまいました。友歌さんのところで、「神田松」は、何度も聴いていると思ったら、ダメでした。ところが、次の幸枝司さんの「武蔵屋新造」は、全く知らないネタのために期待をしていたのですが、一旦陥った居眠りから回復できずに、どないなネタなのかすら判らないまま終わってしまいました。となると、残るは2つ。雲月さんの「佐倉義民伝」からの抜き読みは、初めて聴いたときには、独特の緊迫感があり、特別なネタという空気があったのですが、これも、再三再四遭遇してしまうと、その特別感も慣れに転じてしまい、ついには「またか」となってしまっています。ネタ数が少ない浪曲の宿命とは言え、今月の雲月さんのネタ3つは3つとも、その傾向にあるため、頭を抱えるしかありません。となると、黄紺的、本日の秀逸は隼人くん。ネタは、講談ではお馴染みのもの。「銘々伝」の秀作の1つには、間違いなく入る逸品。討ち入りの前日、両国橋で、偶然出会う大高源吾と宝井其角。赤穂義士一の風流人大高源吾は、宝井其角と俳句を交わし、其角から綿入りの羽織をもらい別れます。大高の句には、翌日に控えた討ち入りを臭わす言葉が織り込まれていたのですが、それが解らない其角。うっかり、羽織を渡してしまったため、羽織をいただいた武士の元に、詫びを言うとともに、大高とのやり取りを伝えると、その武士は、隠された意味合いを把握するのですが、其角は解らない。討ち入り当日、吉良邸の隣に滞在していた其角は、陣太鼓の音を聞いて、初めて悟ります。塀越しに、お互いを確認しあった大高と其角、其角は、敢えて大高に句を求め、討ち入りに勇む心を落ち着かせようとします。いい場面です。これらが、変化に富んだ節で、全部、表現されてました。テキストも素晴らしいし、節付けも素晴らしい逸品。隼人くんは、過去の名人上手の口演から引っ張り出し、自分流のいじりをしていると思うのですが、黄紺の目から見ても、種としたものの素晴らしさが浮き出てきます。その辺の経緯知りたいな。老けた感じの若者隼人くんですら、若いなという軽さを感じる口演ではあったのですが、主役2人の心の交流が、しっかりと描かれており、終盤、かなり感情移入をして聴いちゃいました。末恐ろしいと思ってしまった快演だったと思います。自分の居眠りを棚に上げるような書き方をしてしまいますが、今日は、この隼人くんの口演を聴けただけで、十分でしょうと、勝手なことを書いています。


2016年 4月 7日(金)午後 10時 24分

 今日は、守口で落語を聴く日。守口市文化センター(エナジーホール)地下和室であった「第58回とびっきり寄席」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。弥太郎「しの字丁稚」、雀五郎「桜の宮」、ちょうば「京の茶漬」、佐ん吉「花筏」。ちょうば、佐ん吉、雀五郎という固定メンバーに、前座が1人という構成が、この落語会の毎回の番組。今日は、弥太郎が前座で、最近手がけているという情報を掴んでいた「しの字丁稚」を、ラッキーにも聴くことができました。というのも、このネタはレアもの。若手では、福丸が持ちネタにしている程度。ネタでの差別化が進む、その範疇に入るものだと言えますが、弥太郎の口演は、2人の掛け合いの間合いが悪いのか、噺のおもしろみが、あまり伝わってきませんでした。ネタを繰っているように聴こえては困りものです。雀五郎は、正にタイムリーな「桜の宮」。雀五郎は、いいテンポが持ち味ですから、展開が気になるこういった噺にはもってこいじゃないかな。黄紺は、今日、曇天のなか、大阪城の桜を見てから会場入りしましたが、雀五郎の描く桜の宮の空は晴れ渡っていました。ちょうばは、かなりデフォルメした「京の茶漬」。何か食べさせろと、露骨に示すところで、常の型でも、結構オーバー表現かなと思えるのですが、更に過剰に迫っていました。隣の部屋からジャズが聴こえてきて、「おジャズけ」になったり、近所の永田さんから2円を借りて、「永田2円=永谷園」にしたりと、ちょうばにしては、突き抜けた過剰さを見せていました。ここまで徹底されると、バカバカしいと笑いが生まれますね。トリの佐ん吉は、米二と大阪場所に行ったことなどを、マクラで振ってから「花筏」へ。会話だけではなく、地の語りなどが入る、こういったネタをやらしても、語り口がしっかりしている佐ん吉の口演は聴かせます。終わったあと、黄紺の後ろに座ってられた方が、誰に言うというのではなく、「上手いなぁ」とぼそりと口にされていました。ただ、声が若いので仕方がないのですが、齢を重ねるに従って、声に落ち着きが出てきて、噺全体に厚みが出てくるだろうなとは思いました。ということは、ちょっと軽いかなという口演だったということです。やはり、この落語会は満足度が、高いですね。固定メンバー3人の実力を、改めて感じさせられるからでしょう。


2016年 4月 6日(木)午後 11時 18分

 今日は繁昌亭昼席に行く日。この4月は、 「上方落語協会創立60周年記念月間」と題して、協会所属の噺家さんが、日替わりで出演するという番組が組まれています。黄紺は、その中から2回行くことにしているのですが、今日は、東京の落語協会会長市馬が出るということでのチョイス。その番組は、次のようなものでした。呂好「平林」、瓶生「いらち俥」、三歩「神様のご臨終」、吉次「がまの油」、松五「手水廻し」、米左「佐々木裁き」、(中入り)、春之輔・米左・市馬・三歩(司会)「口上」、市馬「狸賽」、壱之輔「真田小僧」、春之輔「鰻の幇間」。全噺家が出る月間ということで、どうしても、若手の噺家の出番が多くなり、壱之輔や松五などは、普段では、考えられない奥の出番をもらった番組。松五と呂好なんて、今日の出番ほどには、キャリアが離れているわけではありません。そうだからでしょうか、小ぶりのネタが続きました。呂好の「平林」、落語の世界に慣れるには格好の口演。その高座の反応から判断すると、今日は、かなり落語初心者の客が多いと看ました。瓶生は、繁昌亭でしか遭遇できない噺家さん。「いらち俥」は、同門のべ瓶の口演が、おまりにもスーパーな勢いがあるということがインプットされていますから、元気がなさそうに感じちゃいました。ここで、ちょっとどよんだ空気を変えたのが三歩。もう、紋の取り外し自在の紋付きを示すだけで、空気が変わりました。あのパフォーマンスは、それだけの威力を持っています。そして、ネタは、あまりにもバカバカしい前半を持つ「神様のご臨終」。21世紀に入り、これだけ時間が経っても有効でした。松五は、通常の方言マクラから、寺への問い合わせを省くヴァージョンへ。なんの変哲もない「手水廻し」ですが、松五の口演って、この並びで聴くと、言葉が明瞭なことが判りました。輝き賞の評価の1つかもしれませんね。中トリは米左。その「佐々木裁き」が気に入りました。1つ1つのエピソードが節と節で区切られ、その節と節の間が、実によく流れるものですから、聴きやすく判りやすい口演に感服。中トリの位を見せつけてくれました。「口上」は、前歯のない三歩が、緊張しながら、まともな言葉使いをしようとすればするほど、ぎこちない喋りになるものですから、人気を一人占めしてしまってました。この記念月間で、唯一東京からの来演は市馬だけ。今夜、文之助との二人会があるからでしょうが、また、うまい具合に、落語協会会長が来阪したものです。市馬の「狸賽」は、上方の無理っぽいところが修正されている程度の違い。アホに胴を取らせるところです。胴が負けっぱなしだから、胴を取りたいと言えば、渡りに船という展開にしてありました。下げも同じで、「狸が衣冠束帯を着けて立ってました」という表現になっていました。「真田小僧」も、噺家さんに人気のネタですね。黄紺は、壱之輔の口演が苦手なものですから、体が反応。冒頭を聴いただけで、居眠りに入ってしまいました。今日は、師弟で、最後の出番2つを飾ることになりました。市馬が出るということからでしょうね、副会長の春之輔がトリをとるのは。ま、勝手に、そう思っています。でも、春之輔のネタは、夏の噺。これはないだろうと思ってただけに、びっくり。扇子で、袖口から風を送る仕種が、やはり、この季節にはなじまないですね。そう思って聴いていたからでしょうか、終盤にかけて、相次いで騙されたことが判ってきたときの可笑しさが爆発的に来なかったように感じました。
 実は、今日は二部制の日。繁昌亭の昼席のチケットを買ってあったところに、毎回行っている落語会の開催を知り、やむなく二部制を採った次第。時間があったので、ウォーキングを兼ねて、歩いての移動。更に、途中、千日前のネットカフェにも立ち寄り、時間調整の必要がありました。夜は、動楽亭の「染吉っとんの会~林家染吉落語勉強会」でした。その番組は、次のようなものでした。染吉「煮売屋」「阿弥陀池」、桂福丸「薬屋俥」、(中入り)、染吉「狼講釈」。ネタ出しは「煮売屋」でしたが、実際の口演は、「発端」をはしょりながら進み、「野辺」も入れてから「煮売屋」に入りました。修行時代、これを仕上げるのに8ヶ月かかったそうですが、そのわけが判ったような気がしました。尻取りのところで、うまくリズムが取れなくて、お囃子とズレができてしまうのです。そう言えば、叩きのリズムと噺のリズムが違ってましたから、かなり師匠にしぼられたことが想像されます。「阿弥陀池」で、残念ながら居眠り。染吉には珍しく、意図的にテンションを上げようとしていただけに、惜しいことをしました。ゲストは同期の福丸。ネタは、自作の擬古典もの。以前、福丸自身の会で聴いたことのあるもの。道修町の薬問屋の薬品開発をネタにしたもの。最終的に、田辺製薬がトップランナーになる仕上がりになっている噺なので、ひょっとしたら委嘱を受けたものかなと思っている噺です。正面から、田辺をよいしょしてないだけに、余計に、黄紺の勘が当たっているような気になっているものです。そして、染吉の3つ目はネタ出しなしでしたから、ネタ下ろしと思われます。最近、染八がネタ下ろしをしましたが、持ちネタにしている噺家さんの少ないネタです。レアもので差別化を図る、このネタ選びも、その範疇に入るかもしれません。ただ、後半のデタラメ講釈の部分が大変なので、かなり意欲、決断の要るネタかもしれません。前半の田舎の人たちとの会話が、とってもスムーズ。染吉は、こういった田舎シリーズをやればいいかもと思いながら聴いていました。「算段の平兵衛」「牛の丸薬」「夏の医者」「ふたなり」「田能紀」「鼓ヶ滝」、、、なんてのがあるなぁてなことを考えていたら、あっさりと主人公は逃亡を図り、いよいよ正念場の似非講釈へ。恐らく、これがオリジナルだろうというものを聴かせてくれました。新治からもらったものじゃないかな。いじるのは、これからいくらでもできますからね。ただ、講談口調に慣れるには。まだ、時間が要りますね。ネタ下ろしですから、焦る必要はありません。時間をかけて練り上げていってほしいものです。南斗くんがお手伝いに来ていましたから、きっと彼からもアドバイスがあったことでしょう。今日は、残念ながらつばなれをしない入り。先々月は、わりと入っていたのですがね、どうしたのでしょうか。


2016年 4月 5日(水)午後 10時 35分

 今日は映画を観る日。この1週間で3回目となります。今日は、テアトル梅田で、ボスニア映画「サラエボの銃声」を観てきました。とっても難解な映画で、終わったあとも、何をどのように考えていいのか、よく解っていないことは解っているという映画でした。幾つかのことが、サラエボのホテル・ヨーロッパで、同時並行に進んで行きます。時は、サラエボ事件からの100周年記念式典が行われる日のことです。ホテルで働く人たち、中でも、フロントを担当する女性従業員の動きが追われます。その母親は、ホテルのリネン室で働いているのですが、給料遅配ということで、この式典の日に合わせて、要するに、外国からの賓客やマスコミが集う日に合わせてストライキをうつリーダーを引き受けています。というのも、使用者側からのスト破りを狙った暴力行為で、それまでのリーダーが動けなくなってしまったからです。一方で、金の調達に動く社長も描かれます。ホテルの屋上では、記念の日に合わせて、サラエボ事件を振り替えるテレビ・インタビューが行われているのですが、最初の2人は、学際的に振り替えるのですが、最後の男が謎めいていて、暗殺を行ったガヴリロ・プリンツィプに心酔する大セルビア主義の主張を繰り返し、インタビューアーと激しい口論になります。ただ、その内容を、残念ながら、黄紺の知識では把握できませんでした。固有名詞が解らない、ユーゴ紛争と絡みながらの口論となるので、余計に解らないといった具合でした。また、EUを代表してスピーチを行うためにやって来ているフランス人VIPは、部屋に籠りながら演説のお稽古、だが、なかなかガヴリロ・プリンツィプの名前を正確に言えない始末。そのVIPの警護に当たる男も、何やらおかしい。1人などは、スマホを使い、怪しげなサイトにアクセスをしてるわ、ついには勤務を抜けて、トイレで薬物吸引までやっている。その間に、VIPは部屋を出て、式典会場に出かけてしまった。慌てる警護の男、そこへ、階段を降りてきたのが、ガヴリロ・プリンツィプに心酔する男というところで、銃彈が放たれます。この銃彈に、何の意味があるのか、困ってしまいました。テレビのインタビューアーは、ガヴリロ・プリンツィプのことを、「子どもだ」「夢とロマンを持った」と言い切りました。ガヴリロ・プリンツィプのように大セルビア主義を口にする男を。また、その男は、同じ言辞を持って、ユーゴ紛争時のセルビアの立場を支持していました。ガヴリロ・プリンツィプは、オーストリアのゲルマニズムに戦いながらも、大セルビア主義を掲げるという同じ論理を持っていた男であり、彼に、後世のものが希望を託すならば、それは、大セルビア主義やゲルマニズム同様の帝国主義的言辞を増幅するものであり、そないな平原に立つことなど、薬物嗜好の男に撃たれるのが相応、いやいや、出会い頭に、たまたま撃たれるが相応、それも、ホテルの経営者と労働者が、先の見えないストライキ、ストライキ破りを行っているのと、さして変わりはない、希望の見えない相克でしかない、そないなことなのかなと、勝手に言葉をいじりまわしてみました。更に、そのことを、現代のヨーロッパ政治とリンクさせようとしているのでしょうが、お手上げです。ベルリン映画祭で高評価を得た映画だそうです。しかし、難解。あっさりギヴアップした方がいいのかもしれません、こういったときは。


2016年 4月 4日(火)午後 11時 40分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「ガブリエル・フォーレ― 室内楽全集 vol.4 ―」と題して行われたコンサートで、「ヴァイオリンソナタ 第1番 イ長調 op.13 (1876)」「ヴァイオリンソナタ 第2番 ホ短調 op.108 (1917)」が演奏されました。ヴァイオリンは玉井菜採、ピアノは岸本雅美というお二人の演奏でした。黄紺的には、フォーレのヴァイオリン・ソナタと言えば、1番を思い浮かべるのですが、と言うことは、2番の方には、あまりなじみがない、いや、あまりなじめないでいたというところがあったようです。1番は、音のうねりに次ぐ音のうねりで、最後まで貫いて行ってしまうという感じ。ですから、そのうねりに、タイミング良く乗っかれば、あとは、それに身を任せると、最後まで乗せて行ってもらえるというところでしょうか。今日は、危うく乗りそびれるところでした。というのは、お名前は、以前から再三再四耳にはしていたのですが、初めて接する玉井さんのヴァイオリンの中音域に、膨らみの見られない音が耳に入ったものですから、また、岸本さんのピアノの左右のバランスは、アインザッツではそうじゃなかろうと思わせられたため、黄紺に危険信号が点ったのですが、あっさりと修正されたために、あとは、うねりに乗っからしていただきました。気持ちが良くて、ちょっとまどろむことができました。2番は、1楽章が良かったですね。同じようなリズムが繰り返されます。意識はしないでも、どうしても、意識をさせられてしまいます。そのリズムに乗り、ここでもうねりが起こり、それに引きずられていくと、かなりの緊張感が漂ってきます。スリムな玉井さんのエネルギーが、どんどんと加速され、パワーの充填ではち切れそうな緊張感が漂う、本日一番のいいところでした。ここで、かなりエネルギーが費やされたのか、2楽章以後は、ちょっと息が上がった感じ。3楽章での高音域に、1楽章ほどのパワーが充填されたら、もっと研ぎ澄まされた音が出たのにと、残念。すっかり、今日のコンサートで、今まで、黄紺的には、1番の後ろに隠れていた2番に魅せられてしまいました。感謝です。今日のコンサートが、カフェモンタージュのオープン以来、400回目となるそうです。5年で400回とは、すごい話です。こちらにも、拍手です。


2016年 4月 3日(月)午後 9時 10分

 今日は、シネヌーヴォで、映画を2本観る日。先日、アイヌの映画を観に行ったときに仕入れた映画情報。おかげで、今週は、もう1日、映画を観る日に当てています。まず、1つ目は、イタリア映画「ミラノ・スカラ座 魅惑の神殿」です。ミラノ・スカラ座の過去&現在を撮ったドキュメンタリーものです。シーズン開幕日12月7日に合わせてカウントダウンをするような始まり方、これは、何かのプロダクションのメイキングものか、ないしは、開幕に合わせた裏方の動きドキュメントかと、一瞬、期待が膨らんだのは、黄紺の早とちり。実際は、スカラ座にかんだ人たちによるスカラ座賛辞のオンパレードに、プラスα的に思い出話が入り~の、思い出画像&映像が入り~のという趣向の映画でした。この後者の画像&映像に対する期待も大きかったのですが、こちらは肩透かしでしたね。インタビューを受けていたのは、バレンボイムやリッカルド・シャイーのような音楽監督から、ドミンゴのような歌手、更に、スタッフ、ジャーナリストなどが、次から次へと出てきた中で、嬉しかったのは往年の名歌手たち。フィオレンツァ・コッソットやミレルラ・フレーニは、お顔を見ても判らなかったのですが、カバイバンスカは、歳相応にはなってはいましたが、往年の美形を窺わせる面影が、くっきりと残っていました。今日一番の収穫でしたが、この人、あまりにもしゅっとしている方ですしたから、まさか、イタリアのおばちゃん化(ホントはブルガリア人)していたのには、びっくりでした。黄紺は、スカラ座は、前に佇んだのと、地下のチケット売り場を物色したことしかないのですが、ブダペストの歌劇場を彷彿とさせる内部の姿を見て、感激。やはり、1度は行かなくっちゃの気分にしてもらっただけでも、この映画を観た値打ちってあったかなというところです。
 続いて観たのは、フランス映画「ミルピエ パリ・オペラ座に挑んだ男」。こちらも、パリ・オペラ座の芸術監督ミルピエを追ったドキュメンタリーもの。ドイツに行きだしてから関心が高まってきているバレエの振付師のドキュメンタリーということで、しかも、先の映画と、2本連続で観ることができるということで飛び付きました。寡聞ながら、黄紺は、ミルピエの名を知らなかったのですが、史上最年少で、パリ・オペラ座の芸術監督に就任した人で、このミルピエが、自ら「Clear, Loud, Bright, Forward」と名づけた作品のメイキングの様子を、振付の構想を練るところから、プレミアの舞台までを追いかけたものです。この作品全くの新作で、冒頭では、曲はできているのだが、楽譜が手元に来ていないところからスタートします。ミルピエは、自身もダンサーですから、自分だけ躍りながらメモを取るという形で、振付の構想を練っていきます。ミルピエの営業上のことか、映画製作者の判断なのかは判らないのですが、ダンサーに振付を行っていく場面は、パ・ドゥ・ドゥだけ。黄紺が観たかったのは、群舞の振付だったので、ちょっと外された感じがしないわけでもなかったのですが、でも、パ・ドゥ・ドゥの振付を観ていて判ったのは、振付をする方だけではなく、振付を受けるダンサーもいるという当たり前のこと。ありえないほど、飲み込みがいいのです。動きだけだと、振付師が、1度踊れば覚えてしまう感じで、肝心なのは動きを覚えるということではなく、振付師の意図を汲み、その表現力に磨きをかけるということなのだというが解りました。コンテンポラリー・バレエとクラシック・バレエに境を設けること自体がおかしいと言うミルピエでしたが、この映画で描かれたプレミア公演から4ヶ月後には、芸術監督の職を辞したそうです。何があったのでしょうか。あとで、調べてみることにします。


2016年 4月 2日(日)午後 10時 51分

 今日は、落語会とコンサートの二部制の日。以前から、チケットを買い求めていた落語会があったところへ、外したくないコンサートが入ったために生まれた二部制です。基本的には、慎ましやかな生活を旨にしていますので、二部制は避けているのですが、時々、意に添わないことが起こってしまいます。まず、昼間は、兵庫県立芸術文化センター中ホールであった「桃月庵白酒・春風亭一之輔 二人会」に行ってまいりました。ちょっとご無沙汰の東京の噺家さんの会です。その番組は、次のようなものでした。はまぐり「豆屋」、白酒「喧嘩長屋」、一之輔「お見立て」、(中入り)、一之輔「加賀の千代」、白酒「花見の仇討ち」。一之輔の話しだと、昨日も、2人の会が渋谷であったとかで、2日連続での2人による会だとか。人気者を絵に描いたようなエピソードです。前座ははまぐり、初遭遇です。物売りの声をマクラで振ってから、ネタに入りました。白酒は、ホール落語の定番と思えるマクラで、空気を温めてくれましたが、こないに、おもしろ話しを振るなら、前座要らないのにと思ってしまったほど、長めのマクラ。案の定、ネタは短い「喧嘩長屋」。夫婦喧嘩から始まったとき、一瞬、「堪忍袋」かなと思ってしまいました。いろんな人が、喧嘩にかんできて、喧嘩がどんどんと大きくなっていくということだけの噺。かんでくる人の中には、アメリカ人宣教師までいました。この辺が、白酒スペシャルというところなんでしょう。一之輔も長めのマクラ。マクラで、よく出される学校寄席体験でしたが、今日のマクラは、上方では聴くことのできないもの。これは、目っけもののマクラでした。そして、学校ではできない噺って感じで廓噺へ。べとべとの田舎言葉の男は、田舎言葉の可笑しさで事足りるのですが、その言葉の可笑しさに絡みながら、過剰にならない際どいところで止めることで、存在感を発揮したのが廓の男。幇間っぽく描くのも耳にしますが、そうではありませんでした。いいのが、花魁のけだるさ、我が儘の前に、それを感じさせられました。これが、上手く場の空気を出してくれました。いい感じだし、上手いなぁと思わせられました。一之輔の2つ目は、上方では、円都以後、生喬でしか聴いたことのない「加賀の千代」。東京ではレアじゃないそうですが。この噺に出てくるアホが、遊雀の描くアホのパターン。可愛くて仕方がないと、アホの相手をする男が思っているという型です。与太郎ではない東京の落語で描かれるようになったアホの型でした。愛玩動物を可愛がる眼差しが出てきます。「懐に入るか?」に代表される物言いで表されていました。トリの白酒は、正にタイムリーな花見ネタ。上方の「桜の宮」です。導入部に、花見の趣向として、首吊りはどうかというのが入るのが可笑しかった。流れは、「桜の宮」の場合と同じ。ちょっとうとうとと、いい気分になり聴いてしまっていたので、感想を書くのは控えておきます。芸文側が用意したプログラムの余白に、こちらでの落語会のラインナップが書かれていましたが、月一のペースで、落語会が開かれているのを知り、びっくり。でも、多くは東京の噺家さんの会。それが、ちょっと悲しいところ。でも、考えてみれば、こういったところが、東京の噺家さんを喚んでくれるから、彼らを聴く機会に恵まれるということですから、文句を言ってはいけません。ただ、それだけの会を開いているところでさえ、白酒は初めてだということだそうなので、やはり偏りがあるのでしょうね。知名度というところで。
 落語会が終わると、一旦、帰宅。夜は、カフェモンタージュのコンサートだったためです。カフェモンタージュでは、今夜、シューベルトの歌曲集「美しき水車屋の娘 D795」が歌われるコンサートがありました。出演は、(バリトン) ペーター・シェーネ、(ピアノ) 武田牧子・ヘルムスのお二人でした。実は、ペーター・シェーネさんを、2年前のオペラ紀行で聴いているということが判ったために、このコンサートに行こう、外したくないと思ったのでした。世の中便利になったもので、今、ネット上に、歌手や演出家のデータベースを検索できるサイトがあり、カフェモンタージュで、ペーター・シェーネさんがコンサートをされるということを知ったとき、早速に調べてみました。すると、何とゲルゼンキルヘンで観た「チュルダーシュの女王」の主役エドウィンを歌われていたのです。お名前は覚えてなかったのですが、バリトン歌手がエドウィンを歌ったということで、記憶にしっかりと残っていたため、これは一つの縁だと思い、外したくないと思ったのでした。しかしまた、大歌劇場で歌われている方ならともかくも、なんでまた、日本に、そして、カフェモンタージュへということで、カフェモンタージュのオーナー氏にも尋ねてみたところ、 大阪ドイツ文化センターからの打診があったそうです。ということで駆けつけたコンサート、ペーター・シェーネさんのお顔を見て、ゲルゼンキルヘンでのプロダクションが思い出されてきました。黄紺的には、「美しき水車屋の娘」を、ライブで聴くのはん十年ぶりとなります。黄紺の人生で聴いたベスト・コンサートと言えるものの1つですから、かなり細部まで覚えているため、どうしても、それがじゃまをしに現れてしまいます。微細に至るまで極上の繊細さを持って歌われたコンサートだったこともあり、どの「美しき水車屋の娘」を聴いても、物足りなさを感じてしまいますが、今日もそうでした。序盤で、ちょっと微妙な音のずれなどもあり、わりかし不安なスタートだったのですが、ずれは、早々に修正。でも、大味だったというのが、最後まで続いた感想。ピアノは、もっと大味でしたが。しかし、カフェモンタージュのような狭い空間で聴くリートって、閉じ込められ感があり、とっても濃密な時間を味わうことができます。歌劇場のような広い空間では、やれパワーが、やれ声質だのが気になって仕方がありませんが、その辺を気にせずに、歌の解釈なんかに没頭して聴くことができますから、これっていいよなの気分でした。


2016年 4月 1日(土)午後 11時 5分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。昼席ではなく、夜の方です。昨日から、3日連続で行われている「ねんどがわり モーレツ!落語会」の中日に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。まん我「時うどん」、雀喜「くまのプータロー」、南天「鉄砲勇助」、宗助「三年酒」、(中入り)、しん吉「ヨほめ(しん吉作)」、桂雀五郎「鴻池の犬」。昨夜、とにかくまともな睡眠がとれず苦しみぬいたため、まともに落語を聴くことができるか不安をもって臨んだのですが、自分的には許せる範囲での居眠りで済むことができ、ちょっとホッとしています。ですが、まん我の後半と宗助のほぼ全部がダメなことはダメでしたが。まん我の「時うどん」は、今となっては、滅多に聴けないでしょうし、「三年酒」なんてネタは、演じ手がほぼいないものですから、惜しいのですが、今日は、致し方ありません。トリで上がった雀五郎が、「今日はけったいなネタが揃いました」「古典が出ても原形を留めてなかったり」と言ったのが、正に正解の番組。組んでいるのは南天だそうです。前者に当たるのが、雀喜としん吉の新作。後者に当たるのが、南天の口演。「くまのプータロー」は、職探しのオムニバス落語。替わり目のところで、携帯から音楽を流すというもので、「客寄席熊猫」で2度ほど聴いたことのある雀喜テイストのほのぼの落語。「ヨほめ」は、ようやく遭遇できました。変な題名が付いているということで、しん吉お得意の鉄道落語だろうとは判っていたのですが、肝心の「ヨ」が判らないので、噺を想像することすらできなかったのですが、予備知識として、しん吉は、マクラで解説してくれました。貨物車の後尾に接続されている車掌車のことだそうです。その車掌車を、家の車庫に置いた人を訪ねて、その車掌車を誉めるというもので、構成は「牛ほめ」のパロディになっていました。鉄道のことは、黄紺には、全く解りませんが、マニアックな知識を披瀝されるのを聴くのって、なぜにまた、そこまで知らなければならないのかと感じるだけで可笑しくなってしまうものですから、梅団治や駒次らの鉄道落語を含めて、聴くのは楽しいものがあります。一方、南天の「鉄砲勇助」は、ドイツに行く前に行った太融寺の会で、ネタ下ろしをしたものですが、かなりグレードアップしたように感じました。木曾山中で、猪ではなく、熊退治をして、北海道の寒い話でホラを吹きまくるというもの。熊退治では、「森の熊さん」のフレーズを、巧みに織り込んでいきます。寒い話では、小便の凍る話は省かれるというのは、ネタ下ろしのときからでした。もう、次から次へとギャグが、速射砲のように繰り出されていきますから、客席は、笑うのが着いていけないといった状態。凄まじいパワーでした。雀五郎の「鴻池の犬」も良かったなぁ。後半に入り、鴻池家に入ったクロのでかい態度のデフォルメが傑作。手にはブランデーグラスを持っていました。犬のケンカの仲裁をするところでは、「バテレンの酒」を振る舞っていました。この演出を見るのは初めてで、ビックリするとともに、雀五郎のアイデアに大拍手です。元々、快調なテンポで噺を進める雀五郎ですから、こういったくすぐりが炸裂していくと、鬼に金棒です。そして、こうやって進化の跡を見ることができるので、落語会通いは続いていってしまいます。今日は、たまの会とバッティング、でも50人ちょいは入ったんじゃないかな。毎回、この会はそうですが、熱気を感じますね。


2016年 3月 31日(金)午後 11時 52分

 今日は、オーケストラのコンサートに行く日。シンフォニーホールであった関西フィルハーモニーの定期演奏会に行ってまいりました。ブルックナーが出たからです。そのプログラムは、次のようなものでした。「モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K.503」「ブルックナー:交響曲第7番 ホ長調」。なお、指揮は飯守泰次郎、ピアノは若林顕でした。ブルックナーとマーラーが、年に何回か、オーケストラの定期演奏会に出るたびに、足を運ぶ習慣になっている黄紺ですが、ラストの3曲の中では、一番聴きやすいのじゃないかと思っている7番と、最近遭遇していませんでした。5年ほど前に、センチュリーの定期で出たとき以来になると思います。この曲、やはり、第2楽章に、弦による重厚な合奏、しかも、とても印象に残るメロディラインがあり、とっても大きなアクセントになっています。それと対称的な第3楽章のスケルツォ、この対比がいいですね。そして、、両脇の楽章が、いかにもブルックナーという金管の強奏、ブルックナー休止による壮大な変化というもので、黄紺などは、ブルックナーに関心を持つ契機になった長大なシンフォニーです。後期ロマン派らしい情感たっぶりにのめり込ませる、そういった意気込みがあったのか、久しぶりに、唸り声を上げながらの指揮に遭遇しました。飯守泰次郎の指揮には、何度も遭遇していますが、そういった姿を見たのは、初めてだと思います。じゃ、笛を吹いて踊っていたのか、かなり踊っていたと思います。だけど、もっと濃厚なものを求めていたと看えました、黄紺には。大事なポイント、ブルックナー休止はどうだったか、これは、ちょっと物足りなかったなぁ。流れてしまったと言っていいかもしれませんね。これが決まると、もっと豊穣な音楽になるのですが、、、。残念です。ブルックナーやマーラー、ワーグナーを聴きに行くと、普通の聴衆とは違う、一種独特の雰囲気を持った方たちを見かけるものですが、昨日の映画も、その傾向だったのですが、今日の黄紺の席の周りは、正に、そういった一匹狼的な人たちばかりの指定席のようでした。大体、年配の人が多いのですが、今日は、中年、若者とヴァラエティに富んでいたのが、おもしろかったな。そういった中に、すっぽりと馴染みながら挟まっていた黄紺でした。なお、もう1つのモーツァルトは、場所が悪く、匙を投げかげんで聴いてしまいました。ピアノの蓋を開けた後ろで聴くのは、サイテーです。全然、届いて来ないし、ピアノの音が正確に伝わってきているかも怪しげですから、書くのは止めておきます。休憩時間、会場内をお散歩していると、カフェモンタージュで知り合ったコアな音楽ファン氏とお会いしたので、立ち話。その方、ベルリン・ドイツ・オペラの「指環」(ゲッツ・フリードリヒ演出)の2つ目のツィクルス(1つ目は明日から)に行ってくると言われていました。ゲッツ・フリードリヒのプロダクションのラスト公演ということで、1年前の売り出し直後に完売になった公演です。黄紺が、呆気なく涙を呑んだものです。どうして、チケットを手に入れられたかをお聞きして、つくづく、蛇の道は蛇やなぁと思ってしまいました。


2016年 3月 30日(木)午後 7時 21分

 今日は映画を観る日。一昨日までは、「つるっぱし亭」に行くつもりをしていたのですが、急遽変更、シネヌーヴォで、日本映画「kapiw(カピウ)とapappo(アパッポ) アイヌの姉妹の物語」を観ることにしました。珍しいアイヌの人を扱ったドキュメンタリー映画だということで、こちらを優先しました。映画情報も、きっちり押さえていないと、良さげな映画を見落としたり、今日のように、煽りを食って、行きたかった落語会もパスをしなければなりません。カメラが追いかけたのは、2人のアイヌ伝承芸能を継承している30代の姉妹。姉は東京在住でグラフィック・デザイナーをしながら、アイヌ文化を紹介し、妹は阿寒湖畔で、観光船などで、アイヌ文化を紹介しているという方たち。その人たちの日常風景(ここが判りにくい)から始まり、東日本大震災を契機に、姉の家族が北海道に向かい、姉妹がジョイント・コンサートするまでを追いかけます。前半のカメラワークがまずく、常にぶれながらの撮影のため、また、音の拾い方がまずく、聞き取れないときも多々あるため、かなり解りにくいのですが、北海道に入ってから、コンサートの準備に入る辺りから、映像も落ち着いてきて、そして、何よりも素晴らしいのは、釧路でのコンサート。素朴なアイヌの歌に、2人の澄んだ歌声が重なり、部類の美しさ、そして、口琴などの楽器演奏は、もう身震いしてしまいました。この2人の経歴は、コンサートの自己紹介のところで、ちょっとだけ触れられるだけ。なぜ、このような活動をするようになったかなどという問いは、誰からも発せられません。お2人の子どもの頃の映像が、幾度か差し込まれました。民族衣装を着て、躍りを踊ったりしています。また、年配のアイヌに対するインタビューも差し込まれますが、その中で、2人の「継承の仕方のスタンス」が語られるところから、観る者は類推するしかありません。いや、ひょっとしたら、製作者は、その問いかけが野暮なことから、ぶつけるのを控えたのかなとも思います。2人にとっても、あまりに自明なことであり、考える必要すらないのかもと捉えてしまいました。「自明のことをしている」「そのしていることを続ける」「普段していることを人前でするだけ」、、、この肩のこらないスタンスがいいですね。その純な心根が、彼女らの歌声に現れているように思いました。いいもの観ました、そして聴きました。


2016年 3月 29日(水)午後 11時 41分

 時差ボケのため、昼前に起床。辛うじて、眼医者の診察時間に間に合いました。今日は落語を聴く日。高津宮社務所「末広の間」であった「佐ん吉・鯛蔵・米輝の落語ゼミ」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。佐ん吉「転失気」、米輝「長短」、鯛蔵「仔猫」、全員「反省会」。今回が2回目となるこの会、初めておじゃまをしました。前回、あまり入りが良くなかったという噂を耳にしていましたが、今日も20人ほどの入り。佐ん吉や鯛蔵は、自分の会だと、もっと集客力があるのですが、一人会でないと入りが落ちるという、落語会の法則を、ここでも見てしまいました。佐ん吉は、風邪で3日間寝込んだあとの復帰戦というようなところから、マクラに入りました。声は、いかにも病み上がりというもの。「インフルエンザではありません」と言われれば言われるほど、ドキッとしていきました。そんなで、医者が出てくる噺。知ったかぶりをする医者が、やたらと珍念に向かいキレるという濃~い演出。テキストは違うが、同様の演出をしている喬太郎には許可をとっているそうです。先日、米二の会で、この「転失気」を出したところ、あとに上がった米二が、開口一番、「変えりゃいいものではない」と一喝したとか。噺家のキャラに合ってればいいのでしょうが、佐ん吉カラーとは思えないので、黄紺も米二に同調したい気分でした。米輝の「長短」も変化を楽しむ口演。米輝曰く、「普通の男」と「ぴよぴよの好きな男」ですと、この噺に出てくる2人の男を表現していました。「気の長い男」が、「ぴよぴよ」とわけのわからない言葉を口走ったり、なよなよとしたりで、通常の演出よりは、違ったキャラを入れています。これは、米輝にとっては、個性発揮のネタになりました。本日最大の収穫でした。鯛蔵は、自身の会でも披露。ホント、正攻法の「仔猫」です。今日、おもしろかったのは、冒頭、おなべが現れたとき、顔を見た店の者が断りを言うと、それが、なかなかおなべに通じず、反応が返ってこないものだから、断りの口上を何度も言わねばならないところ。その逆が、終盤、出てきます。暇を告げる番頭が、本心を語る前に、万事を察するおなべ。そこから、独白が、始まるところです。この終盤の箇所は、何も珍しい口演ではないのですが、この部分と対比する場面を、冒頭に入れたのが、実に心憎かった。おなべの「慣れ」を、この対比で、見事に表してくれましたからね。「慣れ」というものは、「時間の経過」を表しますから。個性的な口演のあとを締める鯛蔵の素晴らしい口演でしたが、一つだけ文句。鯛蔵の近々の勉強会でネタ出しをしているのですが、それが、何と「仔猫」、、、ちょっと近すぎやしないかなぁ。「反省会」では、お互いの口演に、チャチャを入れながらの軽いネタ解題的なトークをしていましたが、かつての「落語道」のような「対談」にすれば、差別化が図れるのにと、勝手に考えておりました。これで、ドイツから帰り、落語会への復帰を果たせました。外国にいて一番枯渇するのが落語ですから、これで、ようやく精神の安定を快復です。


2016年 3月 28日(火)午後 10時 56分

 今朝8時半過ぎに、関空到着で戻ってきています。一旦、荷物を置きに家に帰り、さほど休憩もせずに、普段の生活に復帰しました。夜には、再び、大阪に戻り、谷六の薬業年金会館5階和室であった「第236回旭堂南海の何回続く会?~祐天吉松(四)」に行ってまいりました。 薬業年金会館が閉鎖されますので、この会場では最後となるこの会、今日は、「道灌山の再会から江戸所払」と題して読まれました。僧侶から還俗して、三河屋の舎弟どころか、養子となり、跡目を継ぐことになった吉松は、義父三河屋の薦めで、げんという女と結婚します。げんは、気っぷが良く、真っ直ぐな女。父親を無礼討ちにした侍相手に敵討ちをしているところを、吉松に助けられたのが縁で、知らない同士ではなかった二人。吉松には、行方不明になってしまっている妻子がいることを承知の上での結婚。三河屋の親方も承知の上。そうなると、有名な親子再会譚が待つことなります。今日の副題「道灌山の再会」となるわけです。浪曲で取り上げられるのは、ここです。 今まで、親子の再会、でも、妻には会わない吉松という筋立てだけを、浪曲で知っていたのですが、ようやく枠組みを知ることができました。この再会を、吉松は、げんに話します。しかし、会えなかったことも話すと、げんは、妻子と晴れて再会できるお膳立てに動きます。妻子、義父に不義理をしたと考える吉松は、せめて、店の再建をさせてやらねば、顔を合わせられたものではないと考えているのです。そのためには、金が要る。金の工面として、げんは吉原に身を売る決意をします。三河屋の仲裁で、吉松も納得させて、げんは吉原に入ります。そうなると、今度は、吉原で持ち上がるトラブルとなるのだろうと思っていると、悪悪い旗本登場です。げん(源氏名は琴浦)をものにしようと、ムチャ者ぶりを発揮する旗本の一団が、置き屋の店先で刀を抜いたとき、その場に来ていた吉松が仲裁に入ったややこしいところで、きっちり時間切れにされてしまいました。どよめきの起こる会場。運の悪い黄紺は、この続きを聴くことができません。会場が変わる関係で、曜日移動が起こり、その煽りで、来月は行けないのです。悲しい事態です。


2016年 3月 6日(月)午前 4時 58分

 昨日もオペラを観る日。昨日は、ロイヤル・オペラのライブビューイングを観る日でした。今日が、春のオペラ紀行の出発日なものですから、こないなタイトな日程で、オペラを観ることになりました。ただ、このライブビューイングが、朝の9時上映開始、しかも、京都ではやってくれないものですから、朝の7時過ぎに家を出て、大阪に向かわねばなりませんでした。昨日の演目は「イル・トロヴァトーレ」。キャスト&スタッフは、次のようなものでした。(演出)デイヴィッド・ベッシュ、(指揮)リチャード・ファーンズ、(レオノーラ)リアンナ・ハルトゥニアン、(マンリーコ) グレゴリー・クンデ、(アズチェーナ)アニタ・ラチヴェリシュヴィリ、(ルーナ伯爵)ヴィタリー・ビリー。既に、友人が観てましたので、さわりは聞いていたのですが、年齢構成に、もう少し配慮して欲しいなというのが、まず口をついて出てしまいます。アズチェーナとマンリーコは、母と息子という関係ですが、これが、このキャストでは、完全に逆。アニタ・ラチヴェリシュヴィリは、まだ30代の前半のはず。声からして、待望のアズチェーナ役の歌手なのですが、いかんせん若い。いくら化粧で老けさせても、肌つやというものは隠せません。一方のグレゴリー・クンデが老け過ぎ。いい声をしてはいるのですが。やはり、このメンバーでは、アニタ・ラチヴェリシュヴィリが、一番のビッグネームでしょうから、彼女に合わせたキャストにしなくっちゃと、突っ込んでしまいました。主役4人は、いずれもが「狂」の文字の世話になる人ばかりというのが、このオペラ。そういった意味で、総体的に弱かったかなという印象に流れてしまいます。アニタ・ラチヴェリシュヴィリと言えども、若いお肌が邪魔をしてしまっていました。プロダクションとしての特徴は、時代設定を現代に持ってきているところ。ただ、題名に、ロマを指し示すと思われるものが入っているということで、ロマからは離れがたいとして、マンリーコ側はロマと特定できるものを用意。移動の民ということで、移動に使われるキャンピングカーがモチーフに使われていました。ルナ伯爵側は、権力、暴力が、その属性として捉えられ、配下の者は、常に戦闘服、権力に基づく暴力を表すのには、戦車が用いられていました。トーンもモノクロで統一。色は火の色だけという凝りよう。そういった殺伐とした風景の中で語られる愛は、余計に温もりを持ってきます。「狂」のところまで行く愛を表すいいアイテムが用意されたと言えばいいのではないでしょうか。最近、家で観たり聴いたりとは、ちょっと疎遠になっていた、このヴェルディの名作オペラを、こういった機会を捉えて聴くことのできた満足感は大きなものがありました。耳になじみやすいメロディが目白押しです。それが、この「狂」で表すしかない4人の心情を煽り立てるかのようです。ただ、朝早いお出掛けは、今の黄紺には厳しく、序盤が眠くて眠くて。落ち着くまで、若干の時間を要したのが、腹立たしいというか、悔しいですね。
 大阪ステーション・シネマでのライブビューイングが終わっても、まだ、12時半にもなっていませんでした。そこで、4月の文楽公演のチケットの引き取りがてら、文楽劇場までの往復と設定して、ミニウォーキングをすることにしました。昨日は、気温が高く、帰りの淀屋橋駅に着いたときには、完全に汗ばんでおりました。それが終わっても、まだ、2時過ぎということで、このまま、しばらく日本とお別れになるのが勿体ない気分になり、急遽、行かないつもりだったカフェモンタージュのコンサートに行くことにしました。幸い、昨夜のコンサートは、まだ満席にはなっていなかったので、このような奔放なことが可能となりました。昨夜は、「F.ブゾーニ」と題して、(ヴァイオリン)弓新、(ピアノ)佐藤卓史のお二人のコンサートがありました。演奏されたのは、「F.ブゾーニ:ヴァイオリンソナタ第2番 ホ短調 Op.36a (1900)」でした。弓さんは、「青山音楽賞授賞式」に入洛されたのを捉えてのコンサートだったようです。チューリッヒ在住ということですので、この授賞式に合わせて、日本に帰って来られたのかもしれません。前回は、フランス6人組のソナタ、そして、昨日はブゾーニと、とても意欲的なプログラムに取り組まれているのが、こういったところから判ります。。。。(ここでタイムオーバー)。只今から、オランダで1泊してからドイツに入ります。春のオペラ紀行への出発です。


2016年 3月 4日(土)午後 10時 8分

 今日もオペラを観る日。今日はライブです。びわ湖ホールプロデュースオペラ「ラインの黄金」に行ってまいりました。いよいよ、今年から「指環」が始まるということで、これからの4年間は、春のオペラ紀行は、この「指環」の公演のある日を外して、計画を立てることにしています。「指環」全4作は、80歳を超えるミヒャエル・ハンペのプロダクションということが、1つの心配の種ですが、こちらも生きていなければ、この稀有の体験を味わうことができません。今日のキャストを記しておきます。(ヴォータン)ロッド・ギルフリー、(ドンナー)ヴィタリ・ユシュマノフ、 (フロー)村上敏明、(ローゲ)西村 悟、(ファゾルト)デニス・ビシュニャ、(ファフナー)斉木健詞、(アルベリヒ)カルステン・メーヴェス、(ミーメ)与儀 巧、(フリッカ)小山由美、(フライア)砂川涼子、(エルダ)竹本節子、(ヴォークリンデ)小川里美、(ヴェルグンデ)小野和歌子、(フロスヒルデ)梅津貴子。そして、沼尻竜典の指揮する京都市交響楽団が、オケピットに入りました。ミヒャエル・ハンペのプロダクションは、予想通り、伝統的なもの。ただ、昨年の「オランダ人」がそうであったように、新しい映像技術を使うのがお好み。ですから、ワーグナーが作ったときに、思い描いた姿を、そういった技術を駆使して表現しているとも言えます。ま、ワーグナーの時代には、解釈を競うなどといった発想がなかったでしょうから、そのように言ってもいいのかなと思います。そのために、舞台には、2枚の半透明というか、透明度の高い幕が1枚、常に張られており(最後の場はなかったかもと友人と話しておりました)、更に、もう1枚の同様の幕の上げ下げも行われ、そこに、映像や画像を投射して、更に、舞台上の歌手の動きと重ねる工夫がなされていました。この映像や画像と、歌手の動きを重ねるという手法は、5年ほど前に、ドイツに行ったときに流行っていたもので、最新の技法の1つと言えますが、その後は、使用されているのは、黄紺的には観ておりません。現在は、カメラ自体を、舞台上に持ち込むのが流行りですから、ドイツでは淘汰されているかもしれないものです。ただ、この技法は、今日のプロダクションでは、冒頭のラインの乙女の出てくる場面は、ライン川の中のことですから、これには、見事に適合するもので、最高の効果を上げていたのではないでしょうか。地下世界への上がり下がりでは、2枚重ねで、今度は、舞台上が透けて見えないようにして、その昇り降りを表していたのも効果的だったと思います。背景も、巨大なスクリーンに、映像や画像を投射していました。もちろん、ワルハラ城も、ここに投射され、CGを使い、隠れ頭巾のときの変身場面や、城に架かる虹なんてものは、こういった技法を使えば、いとも容易く成し遂げることができるというやつです。ただ、虹の架かる場面の構図や、フライヤの姿が隠れるように金塊を積み重ねる場面などは、どこかのプロダクションで観た記憶が甦ってきました。ミヒャエル・ハンペは、その輝かしい経歴からして、むしろ、黄紺の記憶にあるプロダクションの方が、アイデアをいただいたというべきでしょうね。そないなオーソドックスな舞台を、普段観たならば、恐らく感じないかもしれない感動のようなものが、終盤、込み上げてきました。この調子だと、最後の「黄昏」のジークフリートの葬送なんて場面になると、感涙にむせんでしまうのではと思ったほどでした。1つには、こないな身近に、「指環」を観ることができる感動です。その第1歩とは言え、「指環」の第1歩かと思うだけで、何か来てしまいました。そういったときって、クラシックな演出は、逆に気持ちを高揚させてしまうものなんですね。かつては、日本でワーグナーなんてという時代があったことから考えると、隔世の感がします。それは、やはり歌手の力量、オケの力量が、いつの間にか、そういう考え方を払拭したのでしょうね。歌手陣でのピカ一は、ローゲの西村悟。いい声というだけでなく、ちょっと斜めから、事態の推移を眺めてるローゲの立ち位置が、しっかりと出てきていました。フリッカの小山由美も、なかなかの歌唱。できれば、来年の「ワルキューレ」では、ぜひ、この人でフリッカを聴いてみたいと思いました。「指環」全体の流れを変えるヴォータンとのやりとりを聴いてみたくなりました。そのヴォータンですが、ロッド・ギルフリーは、あまり大きく歓迎されたという印象は持てなかったのですが、黄紺は、このヴォータンは気に入りました。人間臭い言動を見せるヴォータンですが、そういったキャラは、十分にテキストに書かれてるじゃないか、だから、歌唱ではヴォータンの神性を表さねばならないというスタンスで歌っているように、黄紺には聴こえたので、黄紺的には花◯をつけたい歌唱でした。逆に、フライアの砂川涼子は支持をしにくいですね。とっても、声がよく出ていて、さすが日本のトップ歌手と思わせられたのですが、フライアは、抑制されたキャラでなければならないはずです。自分から、自分の道を取れない、選べない、だけど、神々の命を預かるというところから、あまり強げな態度をとれないキャラにしては、主張が強かったのではと思いました。若干の凸凹はあったことは否定できませんが、歌手陣は、総じてハイレベルで、素晴らしい緊張を生んでいました。更に、沼尻指揮の京響が素晴らしかった。沼尻は、毎度のことながら、ツボの見極めが素晴らしいため、音楽にドラマがあり、起伏に富んでいます。その指揮に応えた京響は、2時間半弾きっぱなし。現在、関西一と言われる実力を、いかんなく発揮してくれていました。


2016年 3月 3日(金)午後 11時 48分

 今日は二部制の日。朝から、メトロポリタンのライブビューイングを観て、夜には狂言を観るという日に当てました。ライブビューイングは、他の日に回すことができたのですが、高校時代の友人が、福井から観に来る日に合わせて観ることにした結果、二部制の日ができたということです。今日のライブビューイングは、グノーの「ロメオとジュリエット」。黄紺も、この6月には、ドイツで観ることが決まっていますが、この「ロメオとジュリエット」は、映像を含めて、初めて観ることになりました。今回の「ロメオとジュリエット」は、今季のメトロポリタンのプレミアというだけではなく、バートレット・シャーのプロダクション、ジャナンドレア・ノセダの指揮、そして、主役2人が、ディアナ・ダムラウとヴィットーリオ・グリゴーロという、正に旬の歌手を揃えているということで、注目の演目なのです。福井からやって来るのも納得のプロダクションだったのです。そして、正に、その2人が迫真の演技&歌唱を見せてくれ、期待を裏切らない出来栄えに圧倒されました。バートレット・シャーの用意した装置は、シェークスピア時代を踏襲するということで、装置(中世風街並み)は固定、建物に囲まれた位置となる舞台中央に広いスペースが用意され、マルクト広場になったり、教会内部になったり、結婚した2人の新床になったりと、小さな道具、布地を加えることで、変化をさせるというもの。建物には、バルコニー風の廊下、窓が設えられているため、群衆を出したり、ロメオとジュリエットの忍び会いの場面などに、有効活用されていました。このオペラのバートレット・シャーの演出の特徴は、歌手を、よく動かすこと。動かし過ぎて、歌手の息が上がり、歌唱に支障を来さないか、観ていて、そないな不安が過るほどでしたが、グリゴーロは、インタビューに応えて、「それをも含めて稽古した」と言い切り、「動きは、全て指示通り」と断言していました。その動きでは、グリゴーロを、更にダムラウが上回っていました。以前に比べてスリムにはなりましたが、デビューの頃の体型には及ばないなかの、身軽な動き、感情のこもった迫真の動きは、今更ながら、彼女が、世界のトップを張っているのは、歌唱、姿態だけではないことを示して、余りあるものでした。この2人ばかりが目立つ、ま、そういうオペラですが、脇役陣も、なかなか充実。ジュリエットの父親のロラン・ナウリ、ロメオ付きの小姓ステファーノのヴィルジニー・ヴェレーズ(またしても美人メゾ発見!)、同じく配下のマキューシオのエリオット・マドールが印象に残りました。
 MOVIX京都を出ると、友人と食事。しばらくダベったあと、西宮に、ロイヤル・オペラのライブビューイングを観に行くその友人と別れ、一人で軽くウォーキングをしたり、ネットカフェで、時間待ちをしてから、京都観世会館に向かいました。伝統の市民狂言会がありました。その番組は、次のようなものでした。「子の日」(逸平)、「子盗人」(千五郎)、「地蔵舞」(童司)、「空腕」(茂)。今日は、情けないことに、開演時間を30分間違い、その分、長く、会館入口で待つことになり、腰に不安を抱える黄紺にとっては、オペラ紀行を前に、とんでもない失態をしてしまいましたが、仕方なく、そのまま並ぶことに。久しぶりに仕出かした開演時間間違いでした。遅く間違うよりはいいかと、苦しい慰めを、自分にかけていました。今日の番組は、遭遇頻度の高いもの2つ、その逆が2つと、バランスの取れたもの。「子の日」は、茂山家だけが持っているとして知られた曲。正月限定ということ、和歌読みが解りにくいということもあるからでしょうか、なかなか出ない曲ですね。今日は、逸平くんの息慶和くんが、稚児として出演しました。お父さんに似て、天性の勘の良さのようなものを感じました。「子盗人」も出ませんね。ほとんど一人芝居って進行。盗人が、夜間、盗みに入った家で、赤子を見つけてしまい、盗みを横において、子守りをしだすという長閑な展開。冒頭、乳母(良暢)が、子どもを寝かしつけたあとから、家の人に見つかるまで、ずっーと一人芝居です。かなりの熟練が求められる大きな役柄ということで、なかなか出ないのでしょうね。正邦くんの当代千五郎襲名記念的なシテというところかもしれません。黄紺的には、この前に観たのは、確か、先代の千作師以来ですから、随分と久しぶりの遭遇となりました。後半は、比較的ポピュラーな曲が並びました。「地蔵舞」は、本日一番の笑いを喚びました。法では、行きずりの者に宿を貸してはならないとなっているのだが、頓知がおもしろいと、旅僧を泊めた家では、家の主人と酒盛りが始まります。その最後に舞われるのが地蔵舞ということです。酒を「呑む」のはご法度の僧は、「吸う」なら良かろうと、しこたま「吸い」ます。この言葉使いのバカバカしさが大受け。興が乗った主人に肴を求められ、「ならば経を読みましょうか」が、本日一番の笑いを喚びました。童司くん(旅僧)と丸石さん(主人)の息の合い方が素敵な一番でした。今日は、一人芝居系の曲が、もう1つ出ました。ちょっとした大きめの能の会では出ることの多い曲。あとは、こういった狂言だけの会のトリ的な扱いを受ける曲ですね。「子盗人」ほどは、一人芝居度は高くはありませんが、密度は、こちらの方がだいぶと高そう。型が詰まった曲と言えばいいかな。普段から、腕自慢の太郎冠者は、実は、大変な臆病者。夕刻から使いを頼まれた太郎冠者は、暗闇のなかの道行で怯えるばかり。あとをつけた主人は、木立や杭に怯える太郎冠者から、自らが貸し与えた刀を奪い帰ると、戻ってきた太郎冠者は、またまた腕自慢を始めるばかり。そこで、主人が、取って来た刀を突きつけ、太郎冠者をやっつけてしまうというもの。同世代の狂言師さんでは、黄紺的には一番かっているのが、この「空腕」のシテを務めた茂くん。彼は、スリムな体型ですから、台詞回しのみならず、とっても切れのいい動きを見せてくれるのが、嬉しいですね。なお、主人は網谷さんが務められました。


2016年 3月 2日(木)午後 11時 42分

 今日は落語を聴く日。春のオペラ紀行前最後の落語会です。今夜は、動楽亭であった「月亭遊方の噺力 ハナシノチカラ #1」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。染八「刻うどん」、遊方「訪問者」、松枝「莨の火」、(中入り)、 松枝×遊方「トークセッション」、遊方「坊主茶屋」。遊方が、先輩噺家を喚んで、自身は、古典のネタ下ろしをしようかという新しい落語会。その試み自体が興趣をそそるものですし、第1回のゲストが松枝と、遊方との接点というのが見えてこないということで、余計に関心を喚んだのか、かなりの入り。客席の反応を見ていると、かなりの遊方の支持者が集まった、とってもいい雰囲気の会となりました。染八は、チラシには、その名がなかったのですが、前座を、2週間ほど前に頼まれたとか。遊方が、師匠の八方より、木戸銭を高くしないように言われたために、前座を雇ったってことみたいです。その染八ですが、今まで聴いたことのないくすぐりが詰まった「刻うどん」を聴かせてくれました。誰にもらったのかな、というか染八オリジナルなものなんでしょうか。いずれにしても、誰かにもらったにせよ、借り物ではない充実した口演に、腕を、着実に上げてるなと思わせられました。遊方の1つ目は新作。「訪問者」は、黄紺初遭遇の遊方作品です。結婚記念日にやって来た空気を読めない男に困らせられる噺です。マクラからネタまで、ずっとハイテンションで走り抜ける、正に遊方落語の良さの出たものでした。もう、終盤では、客席の方がスタミナ切れという状態でした。そして、ゲスト枠の松枝。ゲストの常套としての、遊方との関わりが、マクラで語られました。意外と、遊方は、「ちりとてちん」を、松枝からもらったのだそうです。ネタは、大ネタ「莨の火」。黄紺も、久しぶりに聴くネタです。序盤の駕籠に乗っての道行がいいですね。まだ、飯の旦那とは判ってないところですが、位が要ります。ただ、船場の大旦那とは違うものが求められます。一方で、正体を明かしていないわけですから、ちょっとしたわけありの雰囲気が要ります。静かな鳴り物の上に重なる飯の旦那の語り口一つで、それを表さねばならない難しさがあります。今日の松枝の語り口は、正に、それのお手本のような素晴らしいものでした。前の遊方の口演とは真逆の雰囲気ですから、却って、このネタの並びが、項を奏したのかもしれません。松枝は、ちょっと声の調子に、いつもの元気がなかった分、小判撒きや伊八の届けるお中元のような派手な場面に、物足りなさが残りましたが、それは、贅沢な悩み。いいもの聴かせてもらった、それに尽きますね。「莨の火」が終わった段階で、8時半でしたので、「トーク」は、ちょっと短め。松鶴の稽古、「坊主茶屋」をするに当たっての八方の教えなどが話されました。そして、本日のネタ下ろしの「坊主茶屋」。米朝から、可朝、八方と伝わってきたものですが、可朝が、見事に、自分の人に遭ったネタにして、今や、月亭の噺という印象が強くなっているネタです。そのネタに、いよいよ、月亭筆頭の遊方が手を着けるということで、とっても楽しみにしていた口演でした。月亭の「坊主茶屋」の特徴を一言で書けば、「淫靡」という言葉になります。マクラから、その「淫靡」なビームを出していくというのが、可朝も八方も採ってきた手でしたが、遊方も、それを踏襲。松島や飛田の話を、マクラでたっぶりめに振ってから、ネタに入りました。進行については変化はありませんでした。髪を剃るところで、ちょっと独自のくすぐりを入れていましたが、「淫靡」なイメージを損ないかねないものもあり、ちょっと蛇足かなという印象。それがなければ、月亭の王道を行く口演でした。遊方の古典は、幾つか聴いた記憶がありますが、これほど古典らしい古典としての口演はなかったのではないかな。ということで、満足度のかなり高い、ハイレベルな会だったと思います。しばらく落語会とはお別れしなければならない我が身にとっては、まことにありがたい会となりました。


2016年 3月 1日(水)午後 8時 46分

 今日は落語を聴く日。「動楽亭昼席」に行ってまいりました。先月も行きましたので、これで、2ヶ月連続となりました。しかし、自分的には、「動楽亭昼席」は、行くところがないときの玉として持っているものですから、ちょっと行きたいところが、枯渇しているか、バッティングが過ぎるかのいずれかだと思っています。ただ、「動楽亭昼席」も、そっぽを向く番組だとどうしようという恐怖感は、常に持っておかなければならないのも事実です。今日は、安心して出かけられる番組でしたが、それは、次のようなものでした。慶治朗「桃太郎」、雀五郎「ちしゃ医者」、あさ吉「鹿政談」、よね吉「愛宕山」、(中入り)、しん吉「茶漬間男」、雀三郎「素人浄瑠璃」。旅行前のため、そのための準備をしたくて、今日は、二度寝をしないで出かけたため、行く前から持っていた睡眠不足の弊害が出てしまい、かなり虚ろな状態での鑑賞となりました。慶治朗は、オリジナルな挿し込みを入れながらの「桃太郎」。噺のじゃまにならない程よさを心得ているのがいいですね。居眠りが、それ以後は、どこかで出てしまったのですが、雀五郎のときが最悪。ネタが何かくらいしか思い出せないひどい状態でした。あさ吉のマクラは、いつも爽やか系で楽しみなのですが、今日は、かい枝らと行ったフィリピン公演のエピソードを紹介してくれました。もちろん英語落語の公演です。ネタは、この動楽亭昼席で、よく遭遇する「鹿政談」。下げに入る直前に、「斬らない」わけを抜かしたものですから、唐突な下げという印象が残ってしまいました。あさ吉と違い、何やしら毒素を潜ましているようなイメージのあるよね吉のマクラ。今日は、兄弟子あさ吉と米団治を材料に、いい人のおかしなところという括りで、可笑しい話をしてくれました。ネタは、もう春ですね、待望の「愛宕山」。よね吉の「愛宕山」は、入門まだ5年目くらいに聴いて、あまりにもの素晴らしい口演に、目を回したことのある極めつけのもの。そういったときに、居眠りが挟まりました。ただ、ボヤーッとした印象だけを書けば、なんか大仰な噺になったなというものでした。中入り明けのしん吉は、吉朝門下が、3人連続で出る番組ということに触れてから、13回忌追善興行を、一門で考えている旨、話してくれました。黄紺が、日本にいるときでしょうか、それが気がかりです。「茶漬間男」は、この位置だと、長さ、色変わりという点から、いいチョイスですね。ただ、この「茶漬間男」も、最近、噺家さんの間で、人気が急上昇です。そして、トリは、ちょっとご無沙汰の雀三郎。「私は歌手が本業」というおなじみのマクラから入ったのはいいのですが、ちょっと声をからしており、「ヨーデル食べ放題」は、さほど長くは歌いませんでした。ネタは、会の準備をチェックする旦さんのシーンから始まります。カットする人も多い部分ですが、我が道を行く旦さんのキャラがよく判り、黄紺は好きな部分です。そして、おなじみの報告の場面から、旦さんが機嫌を直すまでが喋られました。「素人浄瑠璃」と言う場合は、ここまでなんでしょうかね。入りは40人ちょいくらいだったでしょうか。先月と、入りについては、同じような感じでした。


2016年 2月 28日(火)午後 11時 8分

 今日は講談を聴く日。毎月おなじみの「第235回旭堂南海の何回続く会?~祐天吉松(三)」に行ってまいりました。長らく会場として使われてきた「薬業年金会館5階和室」で行われるのは、今日を含めて、あと2回となりました。今日の読み物は「祐天吉松~侠客吉松、我子との出合~」でした。「我子との出合」と、予定では出ていましたので、浪曲でおなじみの場面が出てくるのかと期待していたのですが、まだまだ、そこまでは行きませんでした。堅気になった吉松でしたが、昔の仲間にゆすられたことをきっかけに、家を飛び出すとともに、その昔の仲間に復讐しようとしたのですが、その相手ではなかったため、剣の腕を上げるべく教えを乞うた先生が、水戸家の剣術指南役に取り立てられたことから、それを妬む侍に意趣返しをされ、そのとばっちりを受けた吉松は、その侍を殺してしまいます。いくら正当防衛といえど、手にかけたことは事実なわけで、主人に斬られるところを救ったのが、水戸藩に関わる高位の僧侶。吉松は出家することを条件に、命を救われたことになります。で、寺の下働きとして、僧侶になった時期の吉松の行状が、主に読まれたのが今日の読み物。話は、「文七元結」のような始まり方をしました。命を絶とうとする一人の男。悪徳金貸しに遭い、娘を取られてしまい、金を返す見込みが立たないということで、命を絶とうとしていたというわけです。スリ時代の兄貴分の助けを借りながら、一方で、僧侶の身分ゆえ、殺生戒を犯さず、娘を取り戻すことに奔走する吉松の姿が、主に読まれたと言えばいいでしょうか。地域の顔役や、自分の仕える僧侶の力を頼りに、方策をさぐる吉松ですが、万策尽きたとき、還俗する決意をし、暴力的に娘を奪い取り、仕える僧侶からも、正式に還俗を認められた吉松は、復讐に来た男たちとの、派手な出入りをしているところ、地域の顔役がやって来て、この騒ぎを収めます。見込みがあると、端から見ていたこの顔役が、吉松を養子に迎えたところから、新たな挿話へと発展していく気配なのですが、今日は、吉松の義父に求められ、嫁を迎える話まで進みました。別れた妻子がいるにも拘わらず、婚姻の話が持ち上がったわけです。吉松の過去を、委細承知の上で、結婚しようという女も、できた女で、また、かつての堅気のときの妻もできた女性でした。この板挟み、、、ここですね、子どもとの再会は。と予想してみました。次回は、運良く、オペラ紀行から帰って来た日に、この南海さんの会が予定されていますから、途切れないのです。これはついています。


2016年 2月 27日(月)午後 9時 50分

 今日は落語を聴く日。今夜は、「喬介のツギハギ荘落語会」に行ってまいりました。人気の笑福亭喬介の完全一人会です。好事家が集まる会で、いろんな落語会で見かけるお顔が、客席に並ぶ会です。今夜の番組は、次のようなものでした。「狸賽」「阿弥陀池」「胴斬り」。「狸賽」の前に、最近の出来事を入れたマクラを喋ったのと、「阿弥陀池」の前に、得意の画像を使った短いお喋りを入れたくらいで、今日は、落語三昧という流れになりました。その中で「胴斬り」がネタ下ろし。「スペシャリストのいないネタ」という位置付けで、狙いを定めたようです。口演に入る前には、いつものように、口になじんでないので、聴く方が大変だなどと予防線を張ってから入るのが、喬介の定番になっていますが、未だぼろぼろにはなったことなどありませんが、自分なりのカラーを入れて、ネタを自分のものにしようという、まことに結構な心がけを持っている喬介からすると、出来上がっている前2つのネタのように行くわけもなく、これから、いろんな場所での口演を重ねて練り上げていくことになるのでしょう。「胴斬り」を「笑いの少ないネタ」と位置付けていた喬介は、笑いを盛り込もうと考えて、そのように言ったのか、猟奇的、でも落語的だから、噺の持つ強さを、笑いとかではないところで引き出そうと考えているのかは、今後のお楽しみです。前2つのネタでは、圧倒的に「狸賽」に軍配。常に、動物を愛でる気持ちがベースにあり、その上で、小さなくすぐり、これは、テキストだけではなく、表情も含めて、一貫しているのが、素敵な口演です。それに対して、「阿弥陀池」のくすぐりを、客席は、皆、知ってるから、演者の喬介自身が、気恥ずかしさを考えてながらお喋りしているという雰囲気。黄紺は、喬介の「阿弥陀池」を聴いた記憶は多くありませんから、口なれしていない噺なのかもしれませんね。それにつけても、ツキハギ荘は冷えます。階段横は、さすがに、今日は避けたのですが、後ろの方に座らないと、前方では、あまり暖房の恩恵を受けないんですね。このことを、次の冬まで覚えていられるだろうかと思うと、不安がよぎってしまいます。


2016年 2月 26日(日)午後 11時 27分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「関西弦楽四重奏団― ベートーヴェン・ツィクルス vol.9 ―」がありました。関西弦楽四重奏団(ヴァイオリン:林七奈 &田村安祐美、ヴィオラ:小峰航一、チェロ:上森祥平)が続けてこられたベートーヴェンの弦楽四重奏曲シリーズの最終回です。今日は、最後を飾るに相応しい大曲の「弦楽四重奏曲 第15番 イ短調 作品132"感謝の歌"(1825)」が演奏されました。短い第4楽章を挟んでの5楽章構成の曲ですが、前の2つの楽章と、後ろの第3楽章と第5楽章は、がらりと様相を異にする曲です。前の方は、軽やかで、甘くなんて言葉で表せばいいでしょうか、ちょうど後半に入る前の露払いの雰囲気。思いの外、明るく軽やかに推移する演奏。ただ、後半も含めて、この曲は、第1ヴァイオリンの動きが要注意の曲。ちょっとソロっぽい部分が目立つかと思うと、アンサンブルに絡め取られ、アンサンブルの一角をなしているかをかと思うと、伸びやかなソロっぽい演奏をしているという具合に、その第1ヴァイオリンの動向が絶妙な音楽を作り出します。ということで、第1ヴァイオリンの責務の大きな作品。そういった意味で、前半の第1ヴァイオリンに注目をしていたのですが、今日の林さんの第1ヴァイオリン、ちょっと弱かったなぁ。突き抜けるようなソロの欲しいときに、物足りなさを感じてしまいました。第3楽章が、今日の演奏の白眉。モルト・アダージョと記された3楽章の厚みのある音楽は、黄紺の的を正面から射てくれました。この3楽章から、林さんのヴァイオリンも、本来のシャープさが出るようになり、一安心。なんせ、第5楽章が待ってますからね。3楽章の成功は、低声部2つの頑張りが、まずベースにあったと思いますが、2本のヴァイオリンが、うまく低声部に乘っかかりました。こうなると、第5楽章になるのが、待ち遠しくて仕方なくなりました。気分をよくしていたのですが、終盤の音の厚さには、がっくり。ふ~っと、肩の力を抜くような終わり方をするものですが、端から抜けていてはいけません。ちょっと尻すぼみの終わり方で、それならそれで、緊張感を保ちつつ終わってほしかったな。これで、このツィクルスは終わり、次回は、フォーレになるそうで、また、違ったお楽しみを待つことになりました。なお、ベートーヴェンのシリーズを、大阪でも始められる由、オーナー氏からアナウンスがありました。楽しみは繰り返されるです。


2016年 2月 26日(日)午前 6時 31分

 今日はびわ湖ホール尽くしの日。まず、昼前に30分だけ行われた「『ラインの黄金』ロビーコンサート~森谷真理 ソプラノ・リサイタル~」へ。午後からのコンサートに合わせて開かれたのかは判らないのですが、来週の「ラインの黄金」に合わせての公演であることは確かです。出演されたのは、(ソプラノ)森谷真理、(ピアノ)平塚洋子のお二人で、そのプログラムは、次のようなものでした。「ロッシーニ:歌劇『セミラーミデ』より"うるわしい光が誘惑する"」「コルンゴルト:歌劇『死の都』より"私に残された幸せは"」「マスネ:歌劇『タイス』より"私を美しいと言って"(鏡のアリア)」「ヴェルディ:歌劇『イル・トロヴァトーレ』より"穏やかな夜"」「ビゼー:『カルメン』より" 何を恐れることがありましょう"」。びわ湖ホールのロビーコンサートというものに、初めて行くことになりました。レストランの横にピアノが置かれ、客は、びわ湖方向に向かい座ることになります。週末ということもあり、驚いたのは、若いお母さんたちが、乳幼児を連れて来られている風景。ほとんどの子どもが、最後まで、ほぼむずがることなくにいたのには、更にびっくりしました。中には、バギーに座り、森谷さんの声に驚いたのか、身を乗り出し固まってしまっている姿に、思わずDちゃんの姿を重ねてしまいました。プログラミングは、森谷さんに任されていたようで、まず歌いたかったのがコルンゴールドだったとか。久しぶりに、耽美の極地のアリアを聴くことができました。森谷さんは、今回の「ラインの黄金」では、フライアを歌われるようですが、その声からして、ワーグナーの中では、このくらいと思えるもの。むしろ、今日出された曲では、ロッシーニが、一番のお似合いと思いながら、聴いていました。ですから、コルンゴールドのアリアはいけても、全編、「死の都」はきついかなと思ってしまいました。アンコールは2曲、「イル・トロヴァトーレ」と「カルメン」がそれなのですが、「イル・トロヴァトーレ」は、「ラインの黄金」が終わると、そのリハーサルに入られる豊橋のオペラ公演の演目。宣伝も兼ねての歌唱となりました。地方地方で、こういった日本のトップ歌手を迎えたオペラ公演が増えていることは嬉しい限りです。ただ、ヴェルディの声に合っているかと言えば、次のアンコールであったミカエラのアリアとともに、疑問符が付いてしまいました。終わって、ロビー全体を見渡せば、満杯の入り。大津界隈では、このようなコンサートが根づいている姿を、目の当たりにした思いでした。
 「ロビーコンサート」が終わると、一旦、ホールの外に出て、昼食を摂ったり、軽くびわ湖畔のウォーキングをして時間待ち。午後は、こちらの小ホールで、「郷古簾ヴァイオリン・リサイタル」がありました。知人の薦める若いヴァイオリニストということで行ってみました。そのプログラムは、次のようなものでした。「ベートーヴェン:ヴァイリン・ソナタ 第5番 ヘ長調"春"」「J.S.バッハ:6つの無伴奏ヴァイオリン・ソナタより パルティータ 第2番 ニ短調"シャコンヌ"」「ウェーベルン:ヴァイオリンとピアノのための4つの小品」「バルトーク:ヴァイオリン・ソナタ 第1番」。なお、ピアノは加藤洋之でした。前半が古典、後半は20世紀の音楽と、くっきりと区分けの解りやすいプログラミング。前半で目を引いたのは、「春」の1楽章の展開部に入ると、かなりがつがつとしたメロディになっていくときの様子は、ちょっと荒削りだけど、若さの溢れた演奏と讃えたい一方、ちょっとステレオ・タイプ過ぎないかの印象。そのスタイルは、バルトークらしさが出るだろうとの楽しみを残してくれました。そのバルトークですが、冒頭から入るピアノが方向性を示してあまりある活躍を見せてくれます。これは、ほんの1秒もしないところで、その成果を見極めることができてしまいます。今日の演奏は、瞬間、緩んだの印象。これは、たちまちヴァイオリンに影響するもので、野性的な色合いが出にくくなってしまいました。ところが、それから、徐々に時間をかけて、建て直したなの印象。その辺りの勧の良さのようなものを感じる演奏だったと思いました。最近のコンサートって、CDを販売して、それに、ロビーでサイン会をするというサービスが付くものですから、終演後は、ロビーに人だかり。最近、よくコンサートでご一緒することになる知人ご夫妻などは、それだけではなく、出待ちまでしています。また、そういったことをしている人って、そのご夫妻だけではないということを知り、更にびっくり。楽しみ方って、人様々です。付加価値を、そこまで着ける貪欲さに、むしろ頭が下がります。


2016年 2月 24日(金)午後 11時 12分

 今日は落語と講談を聴く日。動楽亭で、今夜、「動楽亭で江戸噺~大阪第5弾」という、東京の落語芸術協会に籍を置く噺家さん、講釈師さんの会があったのです。黄紺のお目当ては神田阿久鯉ということで、全4公演の内、彼女がトリを取る公演に狙いを定めました。その番組は、次のようなものでした。二葉「牛ほめ」、圓馬「弥次郎」、夢花「恋の纏」、(中入り)、円馬&稲葉千秋「鳴り物教室」、米福「鮑のし」、阿久鯉「刀屋の巻」。2日間で4公演の最終回に寄せていただくことになりました。4公演とも、どういった縁かは知りませんが、二葉が前座を務めました。おかげで、彼女の「牛ほめ」を、久しぶりに聴くことができました。その次の円馬と夢花で、早々に居眠り。ともに、初遭遇の噺家さんだったために、勿体ないことをしてしまいました。なお、夢花のネタは新作ものです。夢花のあとで、中入りになったこと、そして、円馬&千秋夫婦による「鳴り物教室」が入ったおかげで、お目覚めです。昨夜は、とにかく寝付けなかったものですから、危ないと思っていたのが、まともに出てしまいました。「鳴り物教室」では、①東西の前座用出囃子の比較、当然、上方は「石段」②代表的な出囃子(歌丸/大漁節、春団治/野崎、阿久鯉/浅妻舟、③お囃子クイズ(串本節、会津磐梯さん、勧進帳/可楽&貞水)の順で、解説を円馬、三味線を稲葉千秋というコンビで行われました。米福も初遭遇の噺家さん。名の知れた噺家さんばかりが来られているにも拘わらず、遭遇経験がないのは、芸術協会の噺家さんだという一点に尽きます。黄紺は、東京で寄席巡りをするときは、落語協会の出番のある寄席にしか行かないものですから。その米福ですが、地味な喋りっぷりですが、マクラから伺える実直そうな人柄が滲み出る高座に好感を持ちました。東京の「鮑のし」は、上方の「祝いのし」。アブナイ系のアホが出てくる噺で、いつ聴いても引き気味になりながら聴いてしまうネタですが、東京の場合も、同様のアブナイ系噺。しかも、与太郎じゃないというのが貴重と言えば貴重。名前が甚兵衛となっているので、びっくりします。ただ、米福の地味系、でも丁寧なお喋り、表情が救いです。と言っても、アブナイものはアブナイですね。下げは、全く知らないもの。お返しに3円もらって、「それで、鯛を買って行って、1円もらう」というもので、下げまで、アブナイ系でした。お目当て阿久鯉は、「柳沢昇進録」からの抜き読み。この読み物は、上方の講釈師さんは持ちネタにしてないものですから、とってもありがたい選択。阿久鯉で、「柳沢昇進録」は、他のものを聴いたことがあるので、得意にされているのかもしれません。全部で、16の読み物が残っているそうです。本来は、柳沢吉保の出世物語なわけですが、今日、読まれたところは、吉保が、綱吉に差し出す女性を物色しているという大枠の中での物語で、柳沢が噛んでくるようになるまでの前史となるものでした。病を得て寝たきりの武士が困窮していることから、妻の連れ子が気を利かせて身売りをしようとしていることを、事前に知った当の武士が、伝来の刀を手離すことを決意したところで、ようやく表題に上がる刀屋が登場。その目利きぶりが、この抜き読みのクライマックスと言えばいいかな。あとは、その後の展開を、要約してのお喋り。それがないと、柳沢吉保に繋がりませんものね。そんなで、久方ぶりに神田阿久鯉の講談を聴くことができたのはいいのですが、しばらく見ぬ間に、随分と年齢を重ねられた風貌になってられましたが、声の張りは、以前とは変わりなくで、黄紺の知る神田阿久鯉のままでした。終演後、出演者の皆さんから、芸術協会所属の噺家さんの手拭いが撒かれるという大サービス。この「江戸噺の会」は、どうやら芸術協会の江戸噺普及活動として実施されているようですので、こないなサービスを受けることができたのだと思います。黄紺に当たった手拭いは、なんと笑福亭里光のもの。確かに、芸術協会所属の噺家さんですが、、、。まさかで、唖然としました。


2016年 2月 23日(木)午後 8時 55分

 今日は、1週間ほど前までは、落語を聴きに行く予定を立てていたのですが、所用ができて取り止め。結局は、息子と一緒に、家の用事とやらをこなすことに。春のオペラ紀行が、間近に迫ってきていますので、することをしておかねばならないってことでした。


2016年 2月 22日(水)午後 11時 43分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今日は、ちょっと風変わりな落語会がありました。「小笠原で落語会をしてきました。の会」というもので、今朝、小笠原から帰ってきたばかりという3人の若手噺家さんの会があったのです。その番組は、次のようなものでした。米輝&小留&三実 「スライドショー」、小留「小笠原玉すだれ」、三実「小笠原の唄」、(中入り)、米輝「小笠原縛り新作:島名物(仮題)」、三実「小笠原縛り落語:唐揚げ怖い」、小留「小笠原縛り落語:阿弥陀池」、米輝「小笠原縛り落語:千早ふる」、米輝&小留&三実 「抽選会」。お楽しみは、前半の「スライドショー」。未知の土地小笠原を紹介してもらえるというのを楽しみにしていて、それに、しっかりと応えるものを提供してくれました。小笠原の「スライドショー」は、主に3部に分かれていたと言えばいいでしょうか。落語会の会場探し、手つかずの自然、小笠原グルメです。いずれも新鮮なもので、もう、これだけで元を取った感じ。「玉すだれ」と「唄」は付録。後半は、米輝の短い新作を除くと、古典に、小笠原の何かを持ち込んだもの。前半の「スライドショー」が長引き、3人とも、焦り気味の口演にはなりましたが、帰りの船の中で考えたのでしょうか、それなりに楽しませてもらえたのですが、残念ながら、小留の口演の途中で、本日唯一の居眠りが発生。ここだけ、小笠原の挿し込みの詳細が、頭に残っていません。三実は、「饅頭」を「唐揚げ」に替えた、判りやすい「小笠原縛り」。でも、小笠原名物、小笠原の店舗が散りばめられており、なかなかの力作。黄紺は、この人の古典もどきを、初めて聴く機会を得ましたが、これが、なかなか正攻法のお喋り。新作を喋るときの、ちょっと不思議な存在感とは違う安定性があり、古典を中心に、こつこつとやってくれればいいのにと思ってしまいました。米輝の「千早ふる」は、歌そのものに、自分流改作、もちろん小笠原縛りの改作を見せてくれました。トリということで、完全に、タイムオーバーになってからの登場だったもので、エッセンスだけ喋ったっていう感じでした。最後の「抽選会」になり、ようやく違った雰囲気の客席のわけが判りました。身内の方たちが多数入ってられたようでした。以前、行ったことのある米輝の会では、態度の悪い落研時代の仲間がいて閉口したことがありましたが、今日は、そないなことはなかったのですが、楽屋落ち的な笑いをする客席は好まないものですから、どうも後味が良くありませんね。


2016年 2月 21日(火)午後 11時 18分

 今日も、カフェモンタージュに行く日。これで、3日連続となりました。いい企画が続いているのです。今夜は、「ヴァイオリンソナタ」 と題して、(ヴァイオリン)上里はな子、(ピアノ) 松本和将のお二人の演奏会がありました。お二人は、昨日も出演されていますから、2日連続のコンサートとなりました。昨日のコンサートの最後に話されたことによりますと、カフェモンタージュで、これから、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタの全曲演奏をされるそうです。初期の作品も網羅するということですので、日本にいれば、このコンサートを、できうる限り、見届けようの気持ちになっております。今日のプログラムは、次のようなものでしたが、今日は、1曲だけですが、シューベルトのソナタが演奏されています。「W.A.モーツァルト:ヴァイオリンソナタ 第25番 ト長調 K.301」「W.A.モーツァルト:ヴァイオリンソナタ 第24番 ハ長調 K.296」「F.シューベルト:ヴァイオリンソナタ 第1番 ニ長調 D384」「W.A.モーツァルト:ヴァイオリンソナタ 第34番 変ロ長調 K.378」。黄紺は、随分と以前に、ヴォルフガング・シュナイダーハンのリサイタルを、京都で聴きに行った記憶が残っているのですが、これが、確かモーツァルト・プロだったと記憶しているのですが、最近、モーツァルトに特化したコンサートでなければ、なかなかモーツァルトをプログラムの中に、複数入れるのすら珍しいのじゃないかな。ブラームスやフランク、バルトークといった起伏に富んだ曲を入れた方が、プログラム自体に変化が生まれるからなのでしょうね。確かに、今日のオール・モーツァルト・プログラムを聴き進むにつれ、何とも言えない恍惚感が生まれ、それがたまらないと書くと、正に、それが、遠ざけられる理由の表裏をなしていることを証明しているように思えます。上里さんのヴァイオリンを聴いていて、あのときのシュナイダーハンより音がいいなと思うけど、あのシュナイダーハンの武骨なモーツァルトも捨てがたいしなとか、松本さんのタッチって、これぞ、モーツァルト・スペシャルだなと、松本さんの手の動きが見える位置にいたものですから、そんなのを楽しんでいる内に、ヴァイオリンの音色や、ピアノの響きなどは、徐々にどうでもよくなっていきます。いよいよ恍惚状態に入っていくシグナルが点ったようです。そういった意味では、今日のプログラムに、シューベルトが入ったのは、ちょっと現実に帰るきっかけを与えてもらったようなことになりました。今後、このシリーズは、モーツァルトの珍品なども網羅していく由、今日も、松本さんからお話しがありました。これは、追いかけねばなりません。ソロ、トリオとの3本立てで、松本さんのコンサートが続いていきます。


2016年 2月 20日(月)午後 11時 18分

 今日も、カフェモンタージュに行く日。今夜は、「ピアノ三重奏― シューマン&ブラームス ―」と題して、(ヴァイオリン)上里はな子、(チェロ)向井航、(ピアノ) 松本和将の3人の方によるコンサートがありました。人気曲が並んだからでしょうか、早々に、満席の告示が出たコンサートですが、演奏されたのは、「R.シューマン:ピアノ三重奏曲第3番 ト短調 作品110 (1851)」「J.ブラームス:ピアノ三重奏曲第1番 ロ長調 作品8 (1854/1891)」の2曲でした。今日まで知らなかったのですが、今日のコンサートは、シューマンとブラームスのピアス・トリオ全曲演奏会の第1回目。ちょうど3曲ずつ、ピアノ・トリオを残しているということで、こうした企画が生まれたようで、聴かせてもらう方からすると、まことにありがたい企画。確かに、今日の2曲を組み合わせると、なかなかヘビーなプログラムだと思っていたので、ようやく、そのお話を伺って、納得できました。シューマンのピアノ・トリオは、重層的というか、独特の雰囲気を持ちます。3つの楽器が、間合いを計りながら、空中戦を演じるかと思うと、ユニゾンで、上昇&下降メロディを繰り返したりと、かなり油断できない展開をはらんでいます。スリリングさでは、ブラームスを圧倒しているように思っています。それに対して、ブラームスの音の厚さは比類を看ないもの。その強奏は迫力満点です。上里さんの出す音が、かなりのパワーを秘めていることが、前回のお三方の演奏で実証されていたため、ここは、万全の態勢。問題は、自発性に委ねられた、個性に裏打ちされた個々の楽器の彩りを、どのような音色でもって披歴するかなのですが、これが大変。曲の命の部分かもしれません。これは、もちろん、シューマンにも当てはまることのはず。その観点から言うと、ブラームスのチェロは気に入りませんでした。かなり無機質な演奏スタイルに聴こえてしまいました。シューマンでは感じなかったものを、ブラームスで感じてしまいました。パワフルにぐいぐい行っていいところは、それはそれでいいのでしょうが、それだけだと、なかなか満足を得られないのが、残念なところです。まだ、日にちは決まってないそういですが、そう遠くない日に、第2回目が設定される由。文句を言いながらも、その日を待ちこがれる黄紺でもあるのです。


2016年 2月 19日(日)午後 11時 28分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「J.ブラームス」 と題して、(チェロ)金子鈴太郎、(ピアノ)江崎萌子のお二人によるコンサートがありました。メーンは、もちろん、ブラームスの2つのチェロ・ソナタ。それに加えて、小品も演奏されたプログラムは、次のようなものでした。「チェロソナタ第1番 ホ短調 作品38」「野の寂しさ 作品86-2」「歌の調べのように 作品105-1」「サッフォー風の頌歌 作品94-4」「愛の誠 作品3-1」「FAEソナタより スケルツォ」「ラブソング 作品71-5」「チェロソナタ第2番 ヘ長調 作品99」。とってもヘビーなプログラム。ブラームスのソナタを2つとも演奏するだけではなく、2曲の間に、ブラームスの歌曲などの演奏が入るというもの。トークの上手な金子さんですから、このプログラミングについてのこだわりをお話しになるのかと思っていたのですが、違ったことはお話しになりましたが、このプログラミングには触れずじまい。オーナー氏も、演奏時間が長くなりそうだということで、今日は、手短に喋られたため、触れずじまい。結局、最後まで判らずじまい。察するに、ソナタ2曲を続けて演奏するのは、ピアノも含めて、体力のみならず、気持ちの面でもヘビーだということで、軽く、そして和やかな気分に浸れるものを置かれたのでしょう。今日は、黄紺の席の取り方がまずく、サイド気味の位置に座ってしまったために、うまくチェロとピアノが重なりあいながら、耳に入ってくるという感じがしなくて、もう1番のアインザッツで、ちょっと呆気に取られてしまいました。真っ正面で、がっちりと受け取らないといけない、正に、そういった曲のときにと思っても、後の祭り。ピアノの前に、チェロが立ちはだかるような座り位置になってしまったために、なかなかピアノの音をきっちり捉えておれたかは疑問じゃないかなと思っていますし、チェロのちょっとした音の変化も、うまく捉えてないだろうなと思いながら聴いておりました。金子さんのチェロの響きがふくよかで、いい感じ。間近な席であったため、おもしろいボーイングの技も発見。と思い、その姿を見ていて、もっと音の変化が出てもいいものなのにと、ちょっと贅沢なことを考えてしまいました。厚い音の大切さは、この曲の場合はベーシックなものなんでしょうが、勢いが先走ったかという演奏に見受けられました。金子さんは、チェロを、親にやらされていたと思っていたとき、自分で、初めてチェロの素晴らしさを知らされたのが、この2番のソナタだと言われていました。小学生が、ブラームスを聴いて、すごいと思ったことだけで、聴いていた黄紺などは、目をぱちくりするばかりでした。黄紺には、もう少し時間が必要だったものですから。で、明日も、カフェモンタージュです。


2016年 2月 18日(土)午後 11時 36分

 今日は講談を聴く日。ドーンセンター5階大会議室であった「第7回講談セミナー~南海さんの『太閤記』が始まります!」に行ってまいりました。このセミナーは、2代目南陵の孫筋に当たられる方たちが主宰されているもの。音源を残すこと、そして、一般の方々に、講談を知っていただこうという、まことに頭の下がる活動をされているものの1つです。黄紺にも勉強になるとともに、この活動の応援の意味も込めて、こうした催しには、率先して参加することにしています。今日は、南海さんにより、「太閤記1」と題して、日吉丸誕生から桶狭間の合戦までの解説と抜き読みが行われました。南海さんが抜き読みされたのは、「間違いの婚礼」「桶狭間の合戦前夜」でした。その合間に、講談としての「太閤記」に成立事情についての解説が入りました。「太閤記」の主役藤吉郎の出自からして、よく判ってないそうで、だからこそ、講釈師たちの想像力を掻き立てたようで、そのため、フィクションが入り込む余地があったようで、かつての講釈師が、色んな噺をでっち上げたようです。それと同時に、「太閤記」の登場人物のキャラ付けがなされたようで、そのキャラ着けに基づく噺ができ上がった旨お話を伺うことができたっていうのは、確かに勉強になったと思えるものがありました。
 そして、夜は、タイ料理での食事会。最近、やたらとタイ料理を食べる機会が増えました。うまいものはうまいです。その後、トルコ料理屋さんでお茶をと立ち寄ったつもりが、結局はラクを呑んでしまいました。


2016年 2月 17日(金)午後 7時 23分

 今日は繁昌亭に行く日。昼席が、「桂雀太NHK新人落語大賞受賞記念ウィーク」と銘打たれた興行だったからです。その番組は、次のようなものでした。団治郎「動物園」、福丸「しの字丁稚」、花丸「刻うどん」、岡大介「カンカラ三線」、よね吉「稽古屋」、文都「算段の平兵衛」、(中入り)、米平「立体紙芝居~西遊記~」、雀太「いらちの愛宕詣り」、文鹿「困客万来」、九雀「真田小僧」。 繁昌亭で、団治郎に遭遇するのは、初めてだと思います。若手の数が多いものですから、意外な噺家さんに、まだ繁昌亭で遭遇してないみたいです。他の日には、「狸賽」を出していたようなので、この1週間は、どちらかでいくのでしょうね。福丸は今日だけの出演。他の日は、笑助の出番。山形に行ってしまってる笑助の高座を見る機会が、ほぼなくなっていますので、この出番だけは見逃していたようです。もちろん、福丸の出番が嫌だというわけではありません。「しの字丁稚」を持ちネタにしていて、それを、わりかし出している噺家さんは福丸だけでしょう。旦さんと丁稚の知恵比べという変わった設定の噺です。やり込められる方の旦さんが可愛く見える噺です。花丸のネタにびっくり。この人、「刻うどん」をするんだという驚きです。若い頃に、ひょっとしたら聴いているのかもしれないのですが、記憶には、全く残っていません。マクラで、ちょっとだけ、宝塚好きの話を出したものですから、どこかで、宝塚風の物言いが出るかと期待をしてしまったのですが、ごく普通の展開、下げでした。花丸辺りで、徐々に和んだ空気になってきた客席を変えたのは、次の岡大介じゃないかな。楽器の説明をし、「沖縄にリスペクト」という言葉が出たところで、客席の空気が変わったように思えました。そこまで、参加を躊躇っていた人たちが、急に参加をしだしたという感じがしました。三線に合わせて歌うだけではない、何やしら、客席に響くものを、彼は残していきました。その空気を、このあとは、どんどんと暖めていきます。あまり、品よくは進めてなかったマクラからネタの序盤、そこから稽古屋の場面で、よね吉の躍りの手を観て、また空気にギアが入ったって感じを受けてしまいました。芝居噺になると、空気が変わる、それです。それを受けた文都が、色変わりのする、そして聴かせるいいネタ選びをしました。見事に、トップギアに入りました。ちょっと具の多い、従って、時間が気になる口演でしたが、ネタの持つ強みを、十分に発揮させる好演。可朝以後、「算段の平兵衛」は月亭に限ります。米平の鉄板の「西遊記」が終わると、狙いの雀太、でも、今週が、雀太の記念ウィークだと知って来ている人は、ほとんどいないみたい。でも、そういった人たちにも、とっても強く刻印をしていった口演だったのではなかったでしょうか。以前にも聴いているのですが、とんでもなく進化していました。とにかくひたすら歩く姿が素晴らしい効果を生んでいたのではないでしょうか。一途な男、懸命な男、いらちで、どうしようもない。この緊迫性のある困ったちゃんに、やたらとリアリティを付け加えてくれました。ちょっとアブナイ・ゾーンに踏み出したときがありました。そこへの寸止めが難しいところだと思います。今日も、踏み出した瞬間、客席の空気が変わってましたからね。それにしても、ヴィヴィッドないい反応を出した客席に、感服してました。最近、遅ればせながら文鹿の高座に惹かれ出している黄紺なのですが、今日は、おもしろい新作ものを聴かせてくれました。マクラで、客席との距離感を、あっさりと自分のものにした文鹿は、おもしろい空間を舞台に選びました。舞台の外でもなく、裏でもない境界の場を選びました。これは、あとに上がった九雀も指摘していた通り、黄紺も気に入ってしまいました。繁昌亭の出口を舞台にし、出演した噺家、実際には文鹿にですが、茶々を入れ、そのグレードをどんどん高めていく姿を表現するというもの。楽屋裏噺でもない、でも、繁昌亭に外、例えば、どこかの街角にすると成立しにくい噺なもので、やたらホントくさい噺に聴こえてくるという不思議、且つおもしろい噺を思いついたものです。そして、今日のトリは九雀。好ラインナップが揃った今日の番組を、きれいに締めてくれました。マクラで、ちょっと大河ドラマを出してからの「真田小僧」だったもので、黄紺は、心の中でガッツポーズ。「真田小僧」は、最近、よく出るようにはなったのですが、前半の父親と伜の場面で切り上げられるのが常。なかなか「真田」と名づけられているのがわからないままに終わってしまいます。ですから、マクラを聴いて、下げまで行ってくれることが確信できたのでした。後半の講釈噺になると、上方贔屓の「難波戦記」を知らないと、下げに辿り着けません。ということは、上方贔屓の「難波戦記」の行く末を、誰しもが知っていた時代のネタってことになり、現在では、大概が省かれる原因になっているということなのでしょう。九雀の明るく、くったくのない口演は、正に罪のない嘘がまかり通る前半のやりとりにはびったり。お花畑が咲いたかのようなご陽気な雰囲気で、下げに到達しました。ということで、今日の昼席は、まことにお得感満載となりました。好メンバーが、素敵ないいネタを選び、楽しませてくれました。総体として、このレベルまで上昇した昼席って、あまりないかもしれないですね。いい日に行ったものです。


2016年 2月 16日(木)午後 10時 27分

 今日は講談を聴く日。南左衛門一門だけになってしまった上方講談協会主催の定例会「第461回上方講談を聞く会」に行ってまいりました。場所は、今日も動楽亭となりました。これで、3日連続で、動楽亭に足を運ぶことになりました。その番組は、次のようなものでした。左門「細川の福の神」、さくら「牛盗人」、南青「伊達の御殿場」、南舟「黒田節の由来」、南鷹「井伊直虎の恋」、南左衛門「西郷隆盛」。今日も、また爆睡状態。一昨日の染吉の会同様のひどい状態。ようやく、最後の2人の高座だけを聴くことができました。聴けなかったトップのお二人、左門&さくらは、ほぼ未知の方たち。さくらさんは、南左衛門一門会などで、アマチュア講釈師として前講を務められていたので、実際には遭遇経験はない(はず?)のですが、お名前は知っていた方ですが、左門さんに至っては、お顔もお名前も初めてという方でした。年齢も60を越えられており、且つ名古屋の方でした。南左衛門一門会のチラシを見ていると、左門&さくらのお二人以外にも、「左」の字を名前にいただいた方が、あと5人もおられました。その方々の写真を拝見すると、殆どの方が、年嵩がいっておられます。どう考えても、弟子修業を積まれたとは見えず、アマチュア講釈師、セミプロ講釈師さんとしか見えません。その方たちに、旭堂の名前を出していいものかと思ってしまったのですが、ひょっとしたら、この辺りが、分裂の原因かもしれないなと、勝手推測をしたり、でも、そうでなくとも、少なくとも、分裂の結果、生じた現象だということは否定しがたいのじゃないかな。居眠りをした間に読まれたネタの内、南青くんのネタは、歌舞伎や文楽でおなじみの「伽蘿先代萩」を13分にまとめたもの(南青くんの言葉)。南舟くんのネタは、何度も聴いている定番もの。南鷹さんの高座は久しぶり。分裂のおかげで、南鷹さんは、ようやく上方講談協会の定例会の高座に上がることができるようになりました。黄紺的には、定例会の高座で、南太平洋時代には聴いてないはずなので、そういった意味では、記念すべき高座となりました。ネタは、聴いたことのないものだったので、多分、彼の作品でしょう。井伊直虎の少女時代の、許嫁亀之丞との親交、今川家の井伊家への介入により、割かれる2人の間が読まれました。南左衛門さんは、師匠譲りのネタ、あまり出ないネタを読まれました。西郷が江戸に向かうのを阻止しようとする連中との駆け引きが、主に描かれたのですが、危険を察知した西郷は、偽装夫婦を作り、無事、江戸入りをするというもの。明治の元老に庶民性を与えるネタが幾つか残っていますが、そのカテゴリーに入るものと考えられます。南左衛門さんのくさめの口演は、それはそれで貴重なので、今後は、聴く機会が減ることが想定されるだけに、それはそれで惜しいことですね。


2016年 2月 15日(水)午後 11時 30分

 今日は二部制の日。午後は、文楽劇場であった「公演記録観賞会」へ、そして、夜は、今日も動楽亭へ行ってまいりました。まず、「公演記録観賞会」ですが、今日は文楽の日で、「出世景清~小野姫道行、六条河原の段、景清牢破りの段~」「三浦大助紅梅靮-石切梶原-~星合寺梶原石切の段~」が上映されました。今日は、1時間ちょいの演目が2つ上映されました。梶原景時繋がりと言えばいいでしょうか。「出世景清」では、景清の行方を追求するため、小野姫を拷問にかけるという役割、「三浦大助」では、刀の目利きをして、刀に刻まれた「八幡」の文字を目にして、青具師六郎太夫の命を助けるという役割で出てきます。「出世景清」では、囚われた景清が、自分を罵倒する男を懲らしめるため、怪力で牢破りをするという、言わば見せ場で居眠りと、相変わらず狙いの箇所で居眠りが出てしまいました。それに先立つ「六条河原の段」では、拷問シーンが続きます。「三浦大助」では、刀の斬れ味を確かめるため、生身の人間2人を重ねて斬るなんてシーンが出てきます。刀の斬れ味の鑑定書として、そういった実験で、斬れたという保証が必要だということが、この物語の重要なプロットになっています。文楽を観ていると、頭のついていかないことが、幾つかあるのですが、これら2つも、新たに仲間入りです。「出世景清」が1985年、「三浦大助」が1986年の公演記録ですから、30年ほど前のものです。小野姫を、若かりし紋寿さんが遣われたり、「小野姫道行」を、咲太夫、津駒太夫、千歳太夫という現在のトップに位置づいている方が語られたり、若かりし頃の現玉男、和生のご両人も出ておられたりで、そういった方々のお若いときのお姿を見ることができる楽しみと、住太夫、後の9代源太夫となる織太夫さんが、切ないしは、それに相当のパートを担当されていたのも嬉しいところでした。その一方、先代の勘十郎など、黄紺も知らない名人上手の操る姿を観ることができ、この記録観賞会の重要性を思い知りました、
 文楽劇場を出ると、時間まで、千日前のネットカフェで時間待ち。そして、歩いて動楽亭まで移動。今夜の動楽亭では、「鯛安吉日 vol.25~桂鯛蔵落語会」がありました。塩鯛の2番弟子鯛蔵の勉強会です。その番組は、次のようなものでした。りょうば「胴斬り」、鯛蔵「商売根問」、しん吉「金明竹」、鯛蔵「悋気の独楽」。明るく、テンションの高いりょうばの高座は、どのネタを聴いても、聴いているこちらのテンションも上げてくれます。長めのネタを、早く聴いてみたいですね。鯛蔵の1つ目はネタ出しなし。最後に言った言葉ではネタ下ろしとか。思わず、あれっという空気が流れましたが、本人の言うことだから、そうなのでしょう。一門のちょっといい話なんかを含めて、えらく長いマクラをふったあとに、「商売根問」が出たものですから、今日は、ネタ下ろしが間に合わなかったものと決めつけてしまってました。元からある長い導入部を、しっかりなぞったあと、雀捕り、鴬捕り、がたろ捕りと続けました。鯛蔵は、とってもテンポのいい喋りができる噺家さんですから、こういった根問ものはお手のものですね。ゲスト枠は、同学年というしん吉。言われてみて、ちょっと意外な感じがしてしまいました。ひろばも同学年だそうで、へぇ~って空気が、会場を支配してしまいました。入門時期に、かなり隔たりがあるのが原因だと思うのですが、黄紺も、結構びっくりしました。しん吉も、吉朝への入門時の思い出、米朝宅での内弟子修業の思い出と、マクラはたっぷり。ネタと合わせて40分の高座となりました。ネタは、最近では、しん吉と言えば、こればかりに当たっている「金明竹」。噺家さんに、近来では大人気のネタですが、その中でも、先駆けの1人がしん吉かもしれませんね。客と客との繋ぎが曖昧になっている口演が増えているなか、そこのところを、きっちりと押さえてくれています。鯛蔵の2つ目は「悋気の独楽」。以前に、1度聴いた記憶があるのですが、定かではありません。主要登場人物の中では、誰が光るかなぁと思ったとき、おなごしかなと予想を立てたのですが、黄紺的には、ご寮人がビカイチに看えました。悋気をしつつ、お店の者の手前、位を辛うじて保つ姿勢が出ていて、感心も得心もしました。調子にのり前のめりになるおなごしを制するご寮人に、思わず拍手です。そういった自制心を持ちながらも、独楽を見せられると、悋気がめらめら燃え上がらせるものですから、とっても迫真性が高まります。とっても合理的な構成になっている「悋気の独楽」に、鯛蔵の大物ぶりが現れていました。次回からは、どうやら木戸銭を値上げするようです。客席は、不満げでしたが。


2016年 2月 14日(火)午後 11時 6分

 今日は落語を聴く日。今夜は、動楽亭であった「染吉っとんの会~林家染吉落語勉強会~」に行ってまいりました。先週の水曜日以来の落語会になりました。その番組は、次のようなものでした。染吉「隣の桜」「明石飛脚」「植木屋娘」、(中入り)、はやしや香穂「唄と三味線」、染吉「腕喰い」。今日はダメでした。中入り前が、ほぼ全滅に近い状態。記憶に残っているのは、マクラと「明石飛脚」の一部。爆睡してしまってたんじゃないかな。演者さんに申し訳ないです。今日のこの会は、カフェモンタージュの公演に行くか、散々に迷った挙げ句のチョイスだっただけに、余計に腹立たしく感じてしまっています。覚えているのは、会場にいた者だけのスペシャルなお話しと、修業時代の思い出話をしたマクラと、「明石飛脚」を、しん吉からもらったということと、その口演の一部です。中入り後に覚醒。長嶺(はやしや香穂)さんのおかげです。「唄と三味線」としての高座は、先日のご自身の会で披露されたものの一部でした。出囃子は、今日は、三喬が、この秋に、松喬を襲名するということで、亡き松喬の出囃子と、三喬の出囃子を演奏されました。エピソードとしてお話しされた、堀江での松喬一門会で、松喬が、病気休演のはずが、急遽、私服で高座に上がったときに弾いたことを上げておられました。黄紺も、その場に居合わせ、高砂丹前が鳴り出した途端の異様などよめきは、忘れられないシーンです。染吉は、今日は、4席をお喋り。その最後の「腕喰い」だけを、まともに聴くことができました。きっちりと、「林家のネタですから」と言い添えてから、ネタに入りました。そうそう、入る前には、「気持ち悪いネタです」とも言ってました。「脛かじり」という言葉からインスパイアされた、ちょっと無理っぽいネタですが、怪談仕立てになっているのがミソというネタです。勘当され、ようやく世間というものが解り、徳兵衛のところに戻ってきた若旦那、遊び癖がついているためか、正面から反省の態度を示せない、そんなのが出ればいいのですが、、、。乞食言葉を繰り返し使うというのは、そういうことなのでしょう。染吉の口演に、その辺を伺えたかというと、残念ながらと言わねばなりません。このネタで、ポイントとなりそうな言葉でありながら、どうなのかなぁと思ってしまうものがあります。婿養子の話を持ち込まれ、「バリバリ」の話を聞いてしぶる若旦那に、徳兵衛が「人間止めなはれ」と言うところです。これは、ひどい言葉です。そこまで言われるに足る言葉をはいたと、黄紺は思えないのです。徳兵衛は、放蕩三昧も含めて言っているようですが、これも、だからと言って、「バリバリ」話にしぶる人間に言っていい言葉なのかなぁと思ってしまうのですが、この言葉を聞いて、若旦那は腹が座ります。墓場で、新妻にかける言葉は、なんとまともで、いい言葉なんでしょう。となると、「人間止めなはれ」は効き目があったとなります。非人間的な言葉ながら、効く人には効いた、要するに、「方便としてのひどい」言葉として捉えたらどうでしょう? そしたら、随分とできたテキストたと思えてくるのじゃないかな。ちょっと考えさせられるこのネタを、染吉は、よりによって、4月のコンペに使うとか。刈り込むだけで大変なのに、この噺を、きっちりと掴まえているのだろうかと、ちょっと不安を覚える口演であったことは確かです。


2016年 2月 14日(火)午前 9時 51分

 昨日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。しかも、その公演が二部制というもの。「無伴奏ヴァイオリン- J.S.バッハ無伴奏作品全曲 vol.6 &7-」という表題でのコンサートが、バロック・ヴァイオリンの寺神戸亮さんの独奏で行われました。その演奏曲目は、「G.P.テレマン:無伴奏ヴァイオリンのための幻想曲集より第1番&第7番」「J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンパルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004」「無伴奏ヴァイオリンソナタ 第3番 ハ長調 BWV1005」「無伴奏ヴァイオリンパルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006」でした。寺神戸さんは、演奏が終わり次第、京都駅に向かい、東京行き最終の新幹線で帰京されるということで、アンコールはできないということで、アンコール・ピースのテレマンを冒頭に持ってくるという変則的なプログラム。平日の夜に、開演午後6時というのは、足を運ぶのには厳しいということで、前日には、オーナー氏からメールが来て、本体のバッハは、午後6時半より演奏開始とのお布令が出ていたこともあり、テレマンは、初っぱなに演奏されるに至ったということでした。それでも、テレマンは2曲演奏しても30分を超えることはないということで、テレマンが終わると、寺神戸さんによる、バッハについて、また、バッハの無伴奏ヴァイオリン曲についての解説が入りました。そんなで、進んだ2回連続のコンサート。のっけのテレマンを聴いて、正直、驚きました。聴いたことのない味わいの深いテレマンだったからです。ほぼビブラートをかけないノンビブラートの音色が、なんと表情が豊かなのでしょうか。冒頭のテレマンの、更に冒頭の数小節を聴いただけで、寺神戸さんの評価が高いのが解りました。特に緩叙楽章から始まったのが良かったのでしょうね。何やしらのオーラを感じてしまいました。急の楽章に入ると、今度は、確かなテクニックが爆発していきます。このコンサートは、黄紺的には、待たされて待たされて間に合ったもの。それが、こないな待ったカイというものを残していってくれました。カフェモンタージュで聴いた最上位のコンサートに入ることは間違いないですね。このコンサートにも、大阪から知人夫妻が馳せ参じました。この方たちは、寺神戸さんの、カフェモンタージュでのコンサートに皆勤です。そのわけが、実演に接してみて、ようく理解できた黄紺でした。寒い寒い帰り道、3人で温かなうどんを、遅い晩ご飯にして家路に着くことになりました。


2016年 2月 12日(日)午後 7時 26分

 今日も、びわ湖ホールにお出かけ。午前中に、同プロデュースオペラ「ラインの黄金」のプレトーク・マチネがあったのです。今年から始まる「ニーベルンゲンの指環」、地方劇場としては画期的な事業です。幸い近隣に住むということで、見届けようと考えています。そのため、春のオペラ紀行も、このびわ湖の公演を見届けることができるように、スケジュールを組むようにしております。その第1弾「ラインの黄金」のプレ企画が、「連隊の娘」の2日目の公演に合わせて行われたということです。不幸にも、黄紺は、昨日の「連隊の娘」のチケットを買っていたため、二度手間になりました。いつものように、前半は、沼尻竜典(びわ湖ホール芸術監督)、岡田 暁生(京都大学教授)、藤野一夫(神戸大学教授)の3氏による「トーク」。そして、後半は、びわ湖ホール声楽アンサンブルの卒業生による「ラインの黄金」の一部が歌われました。出演されたのは、(ローゲ)二塚 直紀、(アルベリヒ)西田昭広、(ヴォークリンデ)松下美奈子、(ヴェルグンデ)田中千佳子、(エルダ/フロスヒルデ)大垣加代子、(ピアノ)松園 洋二の皆さんでした。「トーク」では、沼尻さんが話しにかんでくるとおもしろくなるというのは、毎年の定番。キャストの組み方の日本的な特徴、その背景となる諸事情、びわ湖ホール特有の組み方、ドイツとの違い、そのあたりのお話を、とてもおもしろくお話しされます。肝心の「指環」「ラインの黄金」について、その特徴などを話さなければならない岡田さんは、今回も、なんか的を外しました。例年は、ステレオ・タイプな話し方しかできず、おもしろ味に欠けるきらいはあっても、そのオペラについて知らない人には、何らかの得るところのお話しをされていましたが、どうやら、頭には、ワーグナーとなるとライト・モチーフの話しをしなければならないとこびりついているみたいで、ライト・モチーフの何たるか、それが、ワーグナーのオペラの特徴だとの話しもなく、懸命に「スターウォーズ」を引き合いに出してのお話しをされていました。解る人間には解る、だけど、解らない人間にはさっぱりというお話しでした。後半の冒頭は、沼尻さんが、ピアノの方とともに、ライト・モチーフを紹介されました。これで、ようやくライト・モチーフの意味、ワーグナー音楽の特徴が判ったのじゃないかな。「質疑応答」の時間になり、ようやく今日の主旨に合うようなお話しを伺うことができました。「ラインの乙女はヴォータンの娘では?」という問いかけは、言われてみて「オーっ」と声を出しはしませんでしたが、心の中で叫んでしまいました。演出家と指揮者の関係になると、俄然、沼尻さんがスパーク、あとはお金の質問が多かったようです。新国立劇場以外では、初の「指環」全作公演だということで、注目度は高いようで、関西以外からも、ワグネリアンが、大津に馳せ参じるようで、チケット完売の予想が出ているようですが、それほどの公演の財政面での不安はないのか、口には出さなくても、皆さんが気にしていること。今日は、それとは別ということで、それを横に置いてのお話しとなりました。完走するまでは、黄紺も生きていたいと、切に思いました。


2016年 2月 12日(日)午前 4時 26分

 今日はオペラを観る日。びわ湖ホールであったドニゼッティの「連隊の娘」(フランス語上演)を観てまいりました。びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーを中心にしたキャストで、年に2回行われている公演の1つです。なかなか凝った演目が選ばれ、黄紺も、日本にいると足を運ぶことにしていますが、今回は、びっくりのチョイス。「連隊の娘」は、主役2人、なかでもテノールに、超絶的な高音が設けられているがため、知名度の高い作品ながら、上演が稀れという代物。この間、幾度となくオペラ紀行として足を運んでいるドイツで、黄紺が演目拾いをしたなかでは、未だ上演をしようとした歌劇場を見たことすらありません。ま、ベルカント・オペラには、ちょっと冷たいのではと思っているドイツだからかもしれませんが、やはり歌える歌手の問題が立ちはだかっていると看ているのですが、そのように考えられば考えるほど、今回のびわ湖ホールの公演は、英断なのか、無謀なのかを見極めたくなってしまいました。本日のキャストなどを記しておきます。(指揮)園田隆一郎、(演出・お話)中村敬一、(管弦楽)大阪交響楽団、(マリー)藤村江李奈、(トニオ)山本康寛、(侯爵夫人)本田華奈子、(スュルピス)砂場拓也、(オルテンシウス)林隆史、(農夫)増田貴寛、(伍長)内山建人、(農民・兵士)平尾悠、船越亜弥、山際きみ佳、吉川秋穂、川野貴之、島影聖人、古屋彰久。開演前に、緞帳前に現れた演出の中村さんが、今日のオペラについて解説。そういった解説付きだったもので、「ドン・キショット」のときのような捻りがあるのかと、ちょっと期待をしたのですが、ごくごく普通の展開でした。装置は単純。正面と右サイドに斜めに壁かあるとしたもの。但し、正面の壁はほぼなく、奥にスクリーンがあり、1幕でアルプスの山が、2幕ではパリの風景が映し出されています。右サイドの壁には、1幕ではマリア像があり、冒頭の合唱を教会堂内として使えるようになっていました。1幕は、そのため、全体が屋内というイメージが出来上ってしまい、それで良かったのか、ちょっと考えさせられました。2幕では、壁前に、カーテン状の幕が垂れ下げられ、お屋敷の雰囲気を出したため、壁は、その背後になり、ほぼ見えない状態になっていました。ポイントとして、1幕では、舞台左側に荷馬車が置かれていました。となると、屋外ってことになるので喜んだので、不可思議な状態になっていました。2幕では、レッスン用のピアノ(木目模様でしたが現代ピアノ)と、奥の壁左サイドに、ノタリア用の書き机が置かれていました。道具類でおかしかったのは、大砲が用意されていたこと。1幕で、マリーが侯爵夫人に連れて行かれようとしたときと、2幕で、マリーが意に添わね結婚に同意しようかというところで、ぶっぱなされれました。装置的にはそないなもので、変化技を期待していたわけではないのですが、黄紺は、風景に映像を使うことを、あまり好まないというか、あんちょこな印象を持ってしまうのです。 衣装は、考証を重ねたものとの印象。ただ、1幕のマリーの衣装を軍服にしなかったのは、酒場の女というテキストに拠ったものと思われますが、インパクトは弱いですね。フランス語版を採用したため、台詞劇になるわけですから、歌手の方たちには大変じゃなかったかなと思います。台詞と動きのタイミングとか、当然、感情表現とのバランスもあるでしょうし、、、。そういった観点では、侯爵夫人が、芝居心もあり抜群。筋立てのポイントとなる役柄だけに、このプロダクションのいいアクセントになっていました。トニーも、天然系の長閑な青年って印象を与え、いい配役。中村さんの解説では、1幕では、ハイCの9連発、2幕ではハイCisを出してくれるとの紹介があったのですが、絶体音階のない黄紺ですが、ハイCなのかなぁと思えました。2幕の一発芸的な高音の方が高いのは確認したつもりです。ただ、このテノール、ちょっと野太めの声で、トニーの声のイメージではありませんでしたが。一方のマリーは小柄の、いかにも日本人タイプの歌い手さん。声的には、一瞬、高音にいい伸びのあるものを聴かせてはもらえたのですが、それ以外は、悪くはないのですが、全般的に声の張りに物足りなさを感じました。中低音域に弱いソプラノですね。そして、問題の最高音はハイEくらいの音があるのですが、残念ながら5度くらい下げてました。スュルピスは、好青年ってタイプの歌い手さんが歌っていましたが、これは、アンサンブルからの起用ということで、致し方のないところ。声に優しさがあり、スュルピス向きの声ですが、この人、残念ながら低音に弱い。ということで、ドイツでは遭遇できていないベルカント・オペラの代表作品に、運よく遭遇できました。寒い寒い一日、襟を立てても、なお寒い帰り道、黄紺の口からは、自然と、「連隊の娘」のメロディが出てしまってました。だいたいそういったときっていうのは、オペレッタを観た帰り道なのですが、ま、このオペラも、そういったノリで観れますし、また、オペレッタ並みに、ドニゼッティは親しみ易いメロディを残してくれてますからね。こうやって、手近にオペラを観ることができるのは、何よりもありがたいことですね。


2016年 2月 10日(金)午後 10時 57分

 今日も講談を聴く日。今夜は、動楽亭であった「南湖の会 ~探偵講談と赤穂義士~」に行ってまいりました。毎月、動楽亭で行われている定番の会です。その番組は、次のようなものでした。南湖「赤穂義士 2」、鱗林「鼓ヶ滝」、南湖「探偵講談コレクション:双子の犯罪」「柳田格之進」。南湖さんは、マクラで、軽く、昨日の「東西講談会」についてレポート。南鱗さんが、大御所3人の宿を確保されるのを忘れてらした話には、びっくりでした。ネタは、まずは「赤穂義士本伝」の2回目。今日は、浅野内匠頭に先立ち、吉良斬りを考えた2人の大名について読まれました。結局、この2人は、考えただけで思いとどまるわけですが、その思いとどまるに至る過程が読まれたということです。吉良斬りに邁進する浅野内匠頭との比較で、よく読まれるところです。鱗林さんは、今日も出番をもらわれました。タレント出身らしく、挿し込みだけではなくマクラもおもしろい鱗林さんです。ネタは、鱗林さんで初めてとなる「鼓ヶ滝」。最近は、若手の噺家さんまでが手がけるようになり、とってもポピュラーなネタになってしまいました。鱗林さんの口演、直されるたびに、西行が、ちょっと騒ぎ過ぎてると思いました。プライドを傷つけられはしても、出家の身、落ち着きを装うべきと、黄紺は思うのですが。南湖さんの再登場では、息子さんの囲碁熱のマクラ、でも、このマクラは、2つ目のネタのためと判るのは、「探偵講談」が終わってから。肝心の「探偵講談」では居眠り。「双子の犯罪」の後半は、毎回、居眠りしていますから、正確な筋立ては、未だ解ってない黄紺なのです。沢辺男爵が、イギリスで結婚した女性が妊娠していると知らずに、フランスに引き上げたため、子どもの存在、しかも、それが双子だということを知らないということが、この物語のプロットになっているようだくらいが把握できている程度です。「柳田格之進」は、南湖さんが、芸術祭新人賞を取られた記念すべき読み物。落語で遭遇するものとは、だいびと違う趣向になっています。柳田の娘は出てきません。ですから、金の調達は、娘が身を売るというものではなく、家宝の刀を処分してとなります。これは、南湖さんのいじりだということが判っています。行方の判らなくなった柳田が発見されたときは、まだ仕官が叶っていません。また、柳田の許しは、訣別の囲碁をうってのちに明らかになります。碁盤を斬るというエピソードも、従って出てきません。仕官の世話を、井筒屋がして、家宝の刀の買い戻しも、井筒屋がして、大団円を迎えていきます。南湖さんは、このネタを、南北さんからもらわれたと聞いていますが、その南北さんの口演には遭遇したことがなかったのですが、それが、ついに来月出るということで色めき立ったのですが、惜しいことに、黄紺がオペラ紀行に旅立ったあとだと判り、愕然としています。元ネタになる南北さんの口演と比較をしたかったのですが、また先延ばしになってしまいました。


2016年 2月 10日(金)午前 0時 38分

 今日は講談を聴く日。今夜は、南鱗さんの会で使われる妙光寺で、ビッグな講談会がありました。「江戸の粋をたっぷり…東西講談会」です。2年ほど前に、1度あったもので、2度目はあるのかと思っていたら、開かれました。嬉しい限りです。その番組は、次のようなものでした。鱗林「細川の福の神」、南湖「天王山の戦い(序)」、琴調「出世の富籤」、南鱗「越ノ海勇蔵」、琴柳「清水次郎長~小政の生い立ち~」、(中入り)、南海「山内一豊とその妻」、貞山「柳生二蓋笠」。やはり、この会は、集客力が違います。それこそ、講談会ではおなじみの顔が、客席にずらりと並びました。期待度の高さは半端ではないこどを、如実に示す姿です。前座役は鱗林さん。この会を祝うが如く、おめでたいネタを持ってきました。毎度、鱗林さんの高座に触れるたびに、突然現れる挿し込みのセンスの良さに、びっくりさせられます。大御所が揃われているなかでも、そのセンスは冴えていました。南湖さんは、時間を考えてか、本能寺の変から天王山の合戦に至るまでを、茶々を入れ通しで進めてくれました。「できちゃった」用に作ったのかと思わせられたほどに、奔放なものでした。こういった自在な高座を見せることができる講釈師さんが上方にいることの喜びを感じながら聴いていました。大御所の1人目は琴調さんから。3人の並びは、前回と同じでした。キャリアの浅い順になるのでしょうね。「出世の富籤」は、黄紺的には初もの。筋立ては2本あります。丁稚を助ける話、それは、後に慶事に繋がっていきます。もう1つは、買った富籤が当たったにも拘わらず、金は、子どもの教育に障るとの妻の意見を入れ、当たり籤を燃やしてしまう話、それは、後の出世話に繋がっていきます。主役は貧乏侍。真摯な人物という印象を与える話が、冒頭で丁稚を助けることで印象づけられますが、当たり籤で人が変わったようになるので、子どもの教育に障るとの妻の意見に迫真性が出てきます。構成的にはうまいとは思うのですが、丁稚を助けるキャラとは、あまりに違うため、ちょっとあざとい展開のようにも思える筋書きですね。南鱗さんは、お得意の相撲話を、マクラでふってくれました。さすが相撲通、南鱗さんの話す相撲話は、いつ聴いてもおもしろいのです。ネタは、小兵相撲の元祖的な「越ノ海」でした。まあ、定番中の定番ネタです。中トリは琴柳さん。黄紺は、この会でしか、琴柳さんを聴いたことがないので、どうしても、期待度は1番になってしまいます。気になるお声の調子は、前回と比べると残念な状態。東京から聴きに来られていた方に伺うと、日により調子は違うので、気にする必要はないとのことで、ちょっと一安心。ネタは、よく知られた次郎長と小政の出会いの場面です。まだ、子どもの小政ですが、最後には、次郎長を訪ねて清水に旅立っていきます。その琴柳さんの口演が素敵で、キャラ作りがうまく、ホント、みずみずしい会話を聴かせてくれます。何よりも引き付けられるのは、絶妙の間。うまいものです。また、一段と引き付けられました。中入り明けは南海さん。もう鉄板中の鉄板ネタを出されました。時間の関係から、若干はしょりながらの口演は、致し方のないところ。献身的な妻千代の言動には美しさがあります。そして、何よりも、このネタを鉄板化しているのが、大坂弁を喋る馬。何度聴いても、笑わされてしまいます。そして、今回も、トリは貞山さんでした。放蕩のあまり勘当された柳生の家督を相続するはずだった男が、大久保彦左衛門の仲介により、勘当を解かれます。父親が真槍でもって、息子の腕を試す正念場に向かい、物語は高まっていきます。貞山さんの口演は、まことにもって格調が高い。その格調の高さゆえ、黄紺などは窮屈さを感じてしまうことがあります。戦乱の世ではない穏やかな時代の武芸者ものって、やっぱ、侍の町のネタですね。いかにも江戸の講談ってところですね。前回お開きになったとき、「次はあるのだろうか」と思ったら、今回の会が実現しました。ですから、今回は、「次回があるはず」と思っておきたいと思います。


2016年 2月 8日(水)午後 10時 39分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「生喬百席 第四十夜」がありました。徐々に100席目に近づきつつあるこの会、今夜の番組は、次のようなものでした。生喬「喧嘩長屋」、まん我「二番煎じ」、(中入り)、生喬「鴻池の犬」。マクラは、主として宣伝も兼ねての今年の計画。ミュージカルが2本入っているそうです。「噺家宝塚ファン倶楽部」効果でしょうか。文楽の吉田幸助さんとの二人会もあるそうです。音だけ辿れば、お二人は同姓同名だそうで、それが縁での二人会だとか。ネタの「喧嘩長屋」は珍しい。文太からもらったと、プログラムに書いてました。夫婦喧嘩を止めに入った大家が、徐々に夫婦を敵に回すという逆転が可笑しい噺です。喧嘩の場面を、ごっつい声で圧倒しなくなった生喬は、かなり高いステージに立っています。ゲスト枠のまん我は、この会2度目のゲスト。それが嬉しくて仕方のないまん我は、そのことを自慢も兼ねて話すときは、満面笑みがこぼれていました。ネタは、冬のネタながら、この冬は、遭遇できていなかったので喜んだのも束の間、あっさりと居眠り。何かネタで嬉しがると、居眠りを発生させるみたい。今日もそうでした。中入りを挟んで、生喬の2つ目は、師匠松喬直伝の「鴻池の犬」。今日の口演、前半の抑制されたお喋りが気に入りました。犬を飼った店は、屋号を使わず、竹内っつぁんになっていましたが、船場で信用を得ている商人の家の格、旦さんの風格を感じました。後半の犬の世界になると、人間界との差別化を図るためでしょうか、物言いを緻密にしなくなりました。それはそれで、尊重すべき見識かと思ったのですが、そのため、ごっつい声を使ってしまいました。ごっつい声を何度も使うと、表現される世界を粗野にするだけでなく、表現者を粗野な人に見えさせてしまうので、嫌なのです。なんか、いい工夫はないものでしょうか。会場は、正におっさん天国。よく言われることですが、それにしても、今日は、おっさん率が高かった。特に前方の席は、連れもて来られていた1人を除いて、全員男性、しかも、おっさんでした。それも、落語フリークが並びました。そういった意味でも、すごい会です。


2016年 2月 7日(火)午後 11時 52分

 今日は繁昌亭に行く日。夜席で、「第11回繁昌亭大賞受賞記念落語会」があったのです。他にもいい会があったのですが、こちらを優先しちゃいました。その番組は、次のようなものでした。仁智・智之介&受賞者「表彰式」、智之介「看板のピン」、たま「マイ・セルヴズ」、かい枝「三十石」、(中入り)、仁智「兄貴の頭」、文三「くっしゃみ講釈」。開演前に、不快な客が傍らに座り、その不快感を持ったままに、開演となりました。今年の協会を代表してのプレゼンテーターは、副会長の肩書きを持つ仁智。その関係で、司会と前座役は智之介。ただ、ネタは、先日の「常盤寄席」で出したもの。ひょっとしたら、あのときの口演が、今日のための予行演習だったかもしれません。奨励賞は、今年は2人出たのですが、キャリアの浅いたまが先の出番。こういったときは、古典にするのか、新作にするのか、黄紺は、古典を出すのかな(予想では「桑名船」)と思っていたら、外れました。しかも、外れたにしても、「マイ・セルヴズ」は想定だにしなかったネタでした。随分と以前に作った作品ですし、かなりぶっ飛んだネタなので、このような記念の会には出しにくかろうと思うからです。でも、そういったときに、こないなネタを出すところが、たまらしいですね。10代ごとに自分自身が現れ、1人の男の人生を見るという趣向です。下げもいいですね。かい枝の「三十石」は初めてというか、最近、かい枝の高座自体に遭遇してませんでしたから、何が出ても、同じような感じとなったと思います。中書島の浜で乗り込み、船中の場面を主として口演。例のお女中のくだりです。あとは、舟唄に入り、橋の上からの声かけを、はしょりながら喋ってくれました。ま、時間に制約があるところですから、無理からぬところです。このかい枝落語を、あとから出た文三は「ファンキー」と評しました。小咄や新作ものでは、確かにそうかなと思うのですが、「三十石」では、果たしてそうだったでしょうか、間に入れたくすぐりや挿し込みのようなものは、そのあたりのテイストを狙い、必ずしもヒットしてなかったように思いますし、本筋のところでは、立派な本格派志向と看ました。じっくり語り込み、解りやすい人物描写を心がけていたのですが、どうしても、演者が顔を出してくるようで、ちょっと悪い言い方をすれば、あざとさを感じてしまいました。仁智は、プレゼンテーターの大役だけではなく、いつものポップな新作を聴かせてくれました。「兄貴と源太」の、ハゲ言葉尽くしのネタです。冒頭で野球の話をし出したもので、また、「スタディ・ベースボール」に当たるのかと冷や汗をかいたのですが、セーフでした。ここで、仁智が、客席をヒーヒーと言わせたものですから、主役中の主役の文三は大丈夫かとすら思ったのですが、さすが文三は動じません。きっちりと奨励賞の2人を持ち上げ、丸で力をもらうかのように、今日も、師匠の話をしてから、ネタに入りました。一昨日の「崇徳院」が、あまりにもいい出来だったので、今日もと期待をしたのですが、「くっしゃみ」には外されました。振られた男が、過度のアホとして描かれ、はしゃぎ回ります。となると、危険信号。文三の声は高いものですから、聞き取れないほどキンキンと響いてしまいます。教え手となる清八(政やんではない)が落ち着き過ぎているというか、冷めた話っぷりなものですから、2人の間にコミュニケーションが成立しているようには聴こえないのです。テキストでは成立しているのでしょうが、文三を通して聴こえてくる音は噛み合っているとは聴こえないのです。これは、きつい「くっしゃみ」でした。ここまで、爆発的に反応していた感度のとってもいい客席の反応も、随分と鈍くなっていたと思います。他にネタの選びようがなかったのでしょうか。


2016年 2月 7日(火)午前 5時 37分

 昨日は、音楽を聴く日、しかも、それの二部制の日という贅沢な日となりました。朝から、メトロポリタンのライブビューイングに行き、夜は、カフェモンタージュでのコンサートに行ってまいりました。まず、メトロポリタンのライブビューイングですが、今週の金曜日まで、ヴェルディの出世作「ナブッコ」の上映が行われています。月曜日だというのに、映画館は、高齢者を中心に、大変な入り。びっくりしました。メトロポリタンのライブビューイング人気の定着もあるのでしょうが、それにしてもの入り。「ナブッコ」人気なのか、タイトルロールを歌うドミンゴ人気なのか、はたまた、今や最高のソプラノと言っても過言ではないリュドミラ・モナストゥルスカヤを知って来ているのか、その辺の判断はできませんでしたが、大入りに驚かされました。黄紺は、フランクフルトで、生リュドミラ・モナストゥルスカヤを聴いてから、その素晴らしい歌声に魅せられたというよりかは、驚かされたものですから、今季のライブビューイングの目玉と考えていたものですから、とっても楽しみにしていた公演でした。黄紺の高校時代の友人も、福井から馳せ参じたこの「ナブッコ」ですが、エライジャ・モシンスキーのプロダクションで、既にマリア・グレギーナの快演が印象に残る公演がDVD化されているものです。回転舞台を使った大がかりな装置は、階段の上り降りが大変で、御歳76歳のドミンゴや、重量級のリュドミラ・モナストゥルスカヤや、フェネーナを歌ったジェレミー・バートンには、なかなか厳しいものと思えたのですが、意外とと言えば失礼かもしれませんが、女性2人は軽やかに上り降りしていまいりました。ドミンゴは、今やバリトンの役をするようになっていますが、元々テノールなわけですから、基よりバリトンらしい声とは言えないのですが、このパートを歌い始めたときの「シモン・ボッカネグラ」のときの声に比べても、この「ナブッコ」での方が、声に張りがあるように聴こえましたから、もう超人と呼ぶしかないでしょう。そして、やはりリュドミラ・モナストゥルスカヤは圧巻の声を聴かせてくれました。思いっきり伸びる高音を、我が目で追いかけてしまったことを思い出しました。それだけではなく、低音を聴かせるソプラノの迫力は半端ではありません。そして、この人の声はパワーがあるだけではなく、強い意志を持った声というのが、何よりも魅力。「アイーダ」で、初めてメトロポリタンのライブビューイングに出たとき、MCを担当したデヴォラ・ボイトが、モナストゥルスカヤにインタビューするときの開口一番が、「強い声をしてるわねぇ」でした。この声に魅せられた黄紺は、彼女が某所に出演する情報を掴み、今までは行かなかった時期に、今年は、オペラ紀行を組んでいます。ザッカリアを歌ったディミトリ・ベロセルスキーは、バスなのに、低音が乱れていました。それに対し、フェネーナのジェレミー・バートンがいい声してました。体型が、リュドミラ・モナストゥルスカヤ似で、うまい組み合わせで、腹違いとは言え、姉妹と呼びやすいのは、細やかな心配り。イズマエーレのラッセル・トーマスは、張りのある素敵な声。でも、役柄が中途半端なため、この役には勿体ないぞと思わせられました。DVDでは、圧倒的な感動を伝えた「行け我が想いよ、黄金の翼に乗って」は、コーラスとしては珍しいアンコールを受けておりましたが、こちらではどうかなと思って観ていると、カメラが、拍手が起こるなか、指揮をするジェームズ・レヴァインを捉えた。すると、口が「Once more」と動いたかと見えると、この公演でもアンコールとなりました。サービス満点です。物語性という言葉で、ヴェルディ・オペラは特徴づけられますが、「ナブッコ」のような初期の作品は、「マクベス」のようなしっかりとした原作があるわけではないため、そういった特徴を、まだ備えていないため、筋立ては、呆気にとられるほど、都合がいいというか、はちゃめちゃな展開をしてしまいます。囚われの身のナブッコも、呆気なく解放され、ヘブライ人の神に帰依するとなり、バビロン捕囚も解かれ、かと思うと、都合の悪くなったアビガレージは亡くなり、オペラも終わるというもの。筋立てはひどくても、ヴェルディが書き残した音楽は、やたらと耳に残る、これが、ヴェルディの出世に繋がったのでしょうね。時は、あたかもリソルジメント、時代の寵児となっていきます。
 ライブビューイングを観たあと、高校時代の友人と食事、お茶をしてから、友人は、早々に福井に帰って行きましたので、夜までは自宅待機。そして、夜は、カフェモンタージュで、昨夜は、シューマンの歌曲集「詩人の恋 op.48」の演奏会がありました。演奏は、(カウンターテナー) 藤木大地と(ピアノ)松本和将のお二人でした。ウィーン国立歌劇場に、この4月にデビューが決まっている藤木さんの出演ということで、急遽開催が決まったとは言え、予約開始から24時間で、満席になった公演。カウンターテナーの藤木さんが「詩人の恋」ということで、カフェモンタージュまで行くまでは、ひょっとしたら、元のテノールの声域で歌われるのでは、いやいや、女性が「詩人の恋」を歌うこともあるのだから、カウンターテナーの声域で歌われるのだろう、そないなことを考えていましたが、やはりカウンターテナーとして歌われました。黄紺は、来月のオペラ紀行のなか、うまい具合に、今をときめくビョートル・ベチョワの「詩人の恋」を聴く機会も得ていますので、丁度いい機会と、この際、古い音源や新しい音源などを手繰り寄せてみたところ、最近の音源の共通したところは、わりかしオペラのアリアを歌うがごとく、よりドラマ性を求めた歌い方をしているなの印象を持ったことが1つと、そもそも「詩人の恋」という歌曲集の持つピアノの美しさ、巧みさに、黄紺自身が目覚めてしまいました。1曲目の「美しい五月には」のように、伴奏ピアノの美しさが際立ち、歌唱に寄り添うかと思えば、13曲目の「僕は夢の中で泣いた」に看られるのは、ピアノが、伴奏を拒絶するかのような短い和音(松本さんのピアノ、テヌートが過ぎた)でありながら、何かを訴えるような自己主張があったりと、実に変化があるなか、藤木さんの歌い方は、とっても丁寧なもの。新しめの歌い方かなとは思いながら聴いていたのですが、カウンターテナーの悲しさが出たように感じてしまいました。表情のふくよかさと言えばいいでしょうか、出そうとしても限界がある、そないな印象を持ちました。松本さんは、カフェモンタージュで聴くピアニストでは、最も自己主張を、ピアノに乗せることのできる方と看ているのですが、この演奏では、松本さん自身も、「詩人の恋」を、藤木さんと一緒に歌っちゃったって感じでした。音の美しさ、転調の妙に身を置いたって印象を持ちました。「詩人の恋」だけの演奏、全曲疾走で30分です。カフェモンタージュのコンサートでは、最短記録かもしれませんが、実に集中してしまった濃密な時間を持つことができました。このコンサートには、知人ご夫妻も来られていましたので、まだ、夕食をされていないということでしたので、一緒にイスタンブール・サライに行こうとしたら、閉まっていました。どうしたのでしょうか。


2016年 2月 5日(日)午後 9時 16分

 今日は落語を聴く日。谷七と谷八の間あたりにある妙像寺というお寺であった「じっくり文三落語会」に行ってまいりました。初めてのおじゃまとなりました。それ番組は、次のようなものでした。「十徳」「崇徳院」、(中入り)、「鍬潟」。100人を越す入場者、それを収容するには、ちょっと厳しいなか、せせこましさに耐えながらの鑑賞。ディープな落語ファンはちらほら。主宰者絡みの人たちが、多数詰めかけたと看ました。鳴り物なし、前座なし、主役の文三だけの一人会です。2席続けてお喋りをして、15分の中入りを取って、最後の1席をお喋りをするというものでした。「十徳」をするときは、文三は、必ず師匠の先代文枝のことを話します。怒られっぱなしで誉められたことのない話、根問ものの大切さを説かれた話です。「1度誉めてくれるところを見たかった」「この会に喚んだら誉めてくれたかもしれない」と話したところで、絶句。3月が命日ということで、追善の会も近づいているということも、頭にあったようで、文三は涙が溢れ、元に戻るのに時間が必要でした。全くの一人会で、100人を超える人を喚んだ姿を見せたかったのでしょう。気持ちが伝わり、場内、万雷の拍手に包まれました。「十徳」は、文三の前座時代の鉄板ネタ。終わったあとに、おもしろい話を紹介してくれました。「似た~る似た~るで、四た~る」は、先代文枝流だとか。元の姿は「似たり似たりで、四たり」だそうです。現染丸から指摘を受けたことがあるとか。そう言われれば、確かにそうですね。先代文枝は、「音がいいので」と言ってたと、文三は言ってました。思わぬところで、先代文枝の感性を知ることができ、ほくほく気分です。次の「崇徳院」が良かった。基本的な流れは同じですが、ちょっとしたスリム化を図ったり、ときには、あざとく見える文三の人物描写ですが、今日の口演は、一字一句に気が乗るというのは、正に、この口演の姿と言えるもので、最後には、うまくことが運べない熊はんを応援したい気持ちにさせられました。こちらも、噺の中に引っ張り込まれていたのですね。いや~、これは、スーパーな口演でした。繁昌亭初期に聴いた、神がかり的なざこばの口演と並ぶ、自分的「崇徳院」のベストです。3席目が、珍品と言っていいでしょう、演じ手がほとんどいませんからね、相撲ネタの「鍬潟」でした。文鹿、まん我、それに、文我しか、演じ手はいないのじゃないかな。フリークスが主人公ということで、扱いに困るという読みがあるのかもしれませんが、それ以前に、おもしろくない噺ということがあるのでしょうね。背丈が2尺2寸という男が主人公。背丈に拘わらずというか、背丈のコンプレックスがあるのか、できた女房に当たり散らす序盤。暖かく見守る甚兵衛さん、心の広い女房に見守れながら、我が儘な主人公。この辺の設定に、やはり無理があるのでしょうね、主人公への思い入れなど、起こるところではありません。またしても、おもしろくないと言っているのと同じですね。相撲部屋に行っても、甚兵衛さんのおかげで、暖かく迎えられる主人公。その辺の対象化ができない主人公に、ここでも思い入れは生まれません。どこかで、主人公に、自分を見る目に対するコメントが欲しいな。どう入れるかは、噺家さんの個性だと思うのですが、それによって、噺の質が上がるように思えます。今のままだと、ただ消えていくだけのような気がしてしまいました。終演後、お餅の当たる抽選会が付いておりました。黄紺は、今日もダメ。空っけつ期間が長すぎやしないかと思ってみても、それは、黄紺のやっかみベースの話になってしまいます。


2016年 2月 4日(土)午後 10時 19分

 今日は、真山隼人くんの会に予約をしていながら、着替えも終わり、あとは家を出るだけというところで、アクシデントが発生。よくぞ、外国にいるときでなくて良かったというもの。それに対応していると、とてもじゃないが、隼人くんの会に行けなくなってしまいました。隼人くんに、お詫びのメールを入れて、時間を遅らせてのお出かけ。今日は、当初の予定では、二部制の日だったのです。ですから、夜の部だけのお出かけとなりました。ただ、落語会とかに行くのではなく、元の同僚との食事会。黄紺も、元同僚も、昼間は、大阪市内に出かけているというので、福島のタイ料理屋さんでということにしたのですが、結果的には、黄紺は、この食事会にためにだけ、大阪まで足を運ぶことになりました。3人集まるはずだったのですが、1人はドタキャン。結局、2人で昔語りをすることになりました。大病から復帰した元同僚と、偶然にも2回連続で、しかも短期間に文楽劇場の近くで会ったため、この偶然は只者ではないということでの食事会となりました。ただただ、生きて再会できたことを、素直に喜ぶことができました。いい心持ちです。


2016年 2月 3日(金)午後 10時 54分

 今日は落語を聴く日。八聖亭であった「古典落語研鑽会 文五郎と笑利」に行ってまいりました。お二人とも、年季が明けて、さほど経っていない噺家さん。どないな噺を聴かせてもらえるのか、楽しみにして行ってきました。その番組は、次のようなものでした。文五郎&笑利「挨拶」、文五郎「鶏ほめ」、笑利「金明竹」、(中入り)、笑利「刻うどん」、文五郎「三十石」。昨日、笑利のツイッターを見ていると、予約が入ってなかった由、書かれていたのですが、実際には、ほぼ20人の入り。お二人とも、驚かれていました。前座を置かないため、前説も兼ねた「挨拶」では、修業時代の話が。お二人が経験されたことは、真逆であったということでした。まず、ネタは、文五郎が、手慣れた「牛ほめ」の酉年ヴァージョンの「鶏ほめ」から。前に1度聴いているのですが、肝心の鶏ほめのところで、居眠りしたので、肝心なところは、今日、初めての遭遇となりました。鶏のほめ言葉、どこで仕入れたのでしょうね、すごいな。笑利の1つ目は、またまた出ました、若い噺家さんに大人気の「金明竹」。あまり口演経験がないのか、滑らかなお喋りとは言えるものではありませんでした。最後の長台詞に、神経が行っていたのか、それまでのところで、テキストに、何気なく挟んでしまった言葉の処理に困ることが、しばしば。ネタの繰り方が少ないのかどうかは判りませんが、不安定な口演でした。ここまでは、よくある落語会の流れだったのですが、中入り後が支離滅裂、ひどい会になりました。まず、笑利ですが、口慣れた「刻うどん」が、スムーズに進んでいたのですが、バラシに入り、笑いが起こるはずのところで起こらなかったため、動揺、動転したのか、本人の言葉で言うと「捨てた」となりました。しっちゃかめっちゃか、落語を続けることを放棄したような口演となりました。どうも「挨拶」のところから、笑利の軽さが目立っていて、自分で、それを制御できない人柄のようです。今日、この会に行くまでは、文五郎より、笑利に期待をかけていたところがあったのですが、「挨拶」のところから、変な気分になっていたら、ついに、こないなことをやってしまいました。ちょっと重症です、この人の頭のなか。とっても、やりにくい空気のなか、高座に上がった文五郎でしたが、気を取り直して「三十石」に、とにかく入りました。修業時代、「兵庫船」をもらったあと、同じ船の噺ということで、師匠文珍から稽古をしてもらったそうです。中書島の浜から始まったこの噺、今日一番の口演と思って聴いていたところ、鳴り物が入ってはいけないところで、入ってしまいました。思わず、噺を止めて、その点を、楽屋に向かい注意するとともに、客席に事情説明をする文五郎。で、やり直すのかと思いきや、一挙に船中描写を飛ばし、舟唄に入ってしまったために、呆気なく、噺は終息に向かいました。「三十石」の切り売り販売というところでしょうか、せっかく、師匠の教えが行き届いていると思わせる口演だっただけに、何をしてくれたのかと、一撃喰らわしたい気分になりました。そんなこんなで、かなり不快な落語会となりました。


2016年 2月 2日(木)午後 11時 47分

 今日は音楽を聴く日。アンサンブルホールムラタ(京都コンサートホール小ホール)であった「デビュー30周年記念 豊嶋泰嗣&中野振一郎 デュオ・リサイタル」に行ってまいりました。大学で同期だったお二人のコンサートです。ともに、それぞれの分野で、名をはせた方のコンサートということで、狙いを定めておりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「ヴィヴァルディ:マンチェスター・ソナタ第5番 変ロ長調RV759」「ビーバー:無伴奏ヴァイオリンのためのパッサカリア ト短調」「J.S.バッハ:ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第4番 ハ短調BWV1017」「フォルクレ:クラヴサン組曲第1番 ニ短調より」「ルクレール:ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ニ長調op.5-8」。1曲ずつのソロの演奏を含め、計6曲の演奏に、アンコール曲を2曲(ルクレールとプーランク)という演奏会。中野さんの流れるような指先から繰り出される彩り鮮やかなハープシコードに、抑制した音色ながら、特にビーバーとバッハで、しみじみとした音楽を聴かせてくれた豊嶋さんのヴァイオリンの組み合わせは、派手さはないのですが、しっかりと18世紀の音楽を心に刻んでくれました。京都コンサートホールの小ホールは、室内楽用のホールとは言え、今日の組み合わせのコンサートでは、ちょっと広いかなの印象。どうしても、音が抜けてしまいます。徐々に慣れてきたとはいえ、ハープシコードという楽器は、やはりホールの広さに左右されてしまう弱い楽器ですね。ハープシコードという楽器は、タッチでは、音の強弱は出せない楽器ですから、どうしても、器に左右されてしまうということです。しかも、今日のプログラムの多くは、ストップを使い、音を抑制していましたから、余計に器に、気を取られてしまいました。会場には、音楽ファンだけではなく、顔を知っている演奏者の方たちも詰めかけていましたが、入りはイマイチ。その意味でも、器は大きかったかもしれません。


2016年 2月 1日(水)午後 8時 40分

 今日は落語を聴く日。夜の落語会で、あまりそそられるものがなかったので、今日は、「動楽亭昼席」に行くことにしました。充実した顔ぶれに、そそられたというわけです。去年は、確か1年で2回しか行かなかった動楽亭昼席に、早くも2月で2回目となっています。今日の番組は、次のようなものでした。米輝「看板のピン」、ちょうば「代書」、米二「道具屋」、吉弥「七段目」、(中入り)、出丸「酒の粕」、宗助「立ち切れ線香」。米輝を、この昼席で遭遇すると、「看板のピン」に当たる確率が高いというのが、黄紺的ジンクス。今日も、動楽亭昼席の客数当てゲームの話をマクラでしてから、ネタに入りました。ちょうばの「代書」は、ネタ下ろしのときに聴いて以来。と言っても、まだ半年ほど前に聴いたという記憶。これは、何か手入れをしているかが判るかもと期待したら、居眠りをしていました。眠いという意識のあまりないままに、居眠り突入が続きます。今日は、このあと、短めの噺が続きます。「七段目」も、芝居噺とは言え、さほど長い噺ではありませんし、「道具屋」は前座噺ただし、「酒の粕」に至っては、短い噺の代表選手。米二は、この位置だから、「道具屋」を出し、こちらとしても、米二クラスの「道具屋」を聴けて、むしろラッキーだと思っていました。出丸は、うだうだとおもしろ噺を繰り返し、「ネタをしないわけにはいきませんから」と言ってからの「酒の粕」のチョイスですから、それはそれで納得をしていたのですが、宗助のマクラを聴いていて、ようやく短めのネタが、なぜ続いたかを納得できました。まさかまさかの「立ち切れ線香」でした。宗助の「立ち切り」は、ワッハが健在な頃に、その末期に、2回、短期間に聴いた記憶があるだけですから、随分と久しぶりになります。正に米朝コピーの最右翼と言われるだけの丁寧な口演。だけど、前に聴いたときも、そうだったという記憶が残っているのですが、千朝の「立ち切り」のようには感情移入ができなかったのです。これが気になるのは、以前に、宗助の「立ち切り」を聴いたあと、ロビーで見かけた人が、号泣をしたらしく、涙でぐずぐずになっているのを見て、なんか違うよなと思ったことを、鮮明に覚えているからなのです。人物描写も丁寧だし、噺の運びも、もう少し、部分的にゆったりめに間を取った方が、情緒が高まるのにと思うところはあっても、さほど大きな問題とは思わないのですが、、、要するに、噺のオーラを感じないままに終わってしまうのです。2ヶ月ほど前だったかなぁ、噛むか噛まないか、その際どい口演を、全編で見せたにも拘わらず、黄紺は、そのときに聴いた出丸の「立ち切り」の持つ、なんか切羽詰まった思いのこもった口演に惹かれてしまいます。噺にオーラを感じてしまうのです。どうしても、わりかし短期間に、「立ち切り」を相次いで2つ聴いてしまったために、比較をしてしまいます。でも、まさかまさかの口演を聴けて、今日のチョイスは大成功です。ホント、ツキがあります。


2016年 2月 1日(水)午前 0時 8分

 今日は、カフェモンタージュのコンサートに行く日。今夜は、「関西弦楽四重奏団― ベートーヴェン・ツィクルス vol.8 ―」がありました。(ヴァイオリン)林七奈、田村安祐美、(ヴィオラ)小峰航一、(チェロ)上森祥平というおなじみのメンバーの関西弦楽四重奏団により続けられてきたベートーヴェンのシリーズも、今回を含めて、残すところ2回となってきましたが、今日は、なかなかヘビーな組み合わせ。中期の2曲が演奏されました。「弦楽四重奏曲 第11番 へ短調 作品95"セリオーソ"(1810)」「弦楽四重奏曲 第7番 ヘ長調 作品59-1"ラズモフスキー第1番"(1806)」。「ラズモフスキー」の方が、40分ほどかかるということで、「セリオーソ」が、先に演奏されました。その「セリオーソ」は、林さんが、第1ヴァイオリンを担当。4つの楽器の強奏で始まる「セリオーソ」ですが、音色の統一のようなものが、見られないままということでの進行。そのため、一体感をあまり感じないままという状態だったと言えばいいかもしれません。その逆だったのが「ラズモフスキー」。鋭敏に過ぎた林さんの第1ヴァイオリンから、田村さんに替わり、艶とか、柔らかさが先行する田村さんのヴァイオリンの音色が、他の3つの楽器を包み込んだのかもしれません。演奏会場には、2月2日に、京都コンサートホール(小)でコンサートをされる豊嶋泰嗣さんも見えておられ、コンサートの宣伝をされていきました。奥様の林さんが出ておられるということでの来場だったのでしょうが、その機会を捉えられたというところでしょうか。また、このときとばかりに、オーナー氏は、きっちりとオファーを出しておられました。それは、我々こそが望むこと。期せずして、客席から拍手が上がりました。


2016年 1月 30日(月)午後 10時 33分

 今日も落語を聴く日。今夜は、「第45回客寄席熊猫」という桂雀喜が、自作の新作ネタばかりをかける会に行ってきました。会場は、先日もおじゃましたところの、天満橋にある常盤漢方薬局ビルでした。その番組は、次のようなものでした。雀喜「雪おかま」、染八「蓮の池クリニック」、雀喜「ゲレンデ」。「雪おかま」は、子どもが、そのまま大人になったようなテイストの落語を作る雀喜からすると、異例の新作。おかまが出てきたり、下ネタが出てきたりで、聴いている方が、目をぱちくりしなければなりませんでした。スキーに行った若い男2人が、吹雪に遭い、山小屋に避難すると、夜半に、雪おかまと称する元相撲とりに襲われるという展開。それに、千本の刀を集めた弁慶のような話が絡んでくるというもの。ちょっと呆気にとられる展開となりました。もう1つの「ゲレンデ」は、「大安売り」のパロディ。「大安売り」は相撲とりが主役ですが、こちらは、桂ラッキーという噺家が主役。繁昌亭昼席に、1週間通しで出て、すべりまくるという噺です。「大安売り」にも、江戸の本場所のあとがあるように、この噺にも続きがあり、中でも学校公演のところが、大々爆笑を誘っていました。下げを言ったあと、雀喜曰く、「今日は卑怯な手を使ってしまいました」と。ゲストは、毎回、新作を手がける噺家さん。今日は、自身の作品ではないのですが、福笑が持ちネタにしている作品。元々は、募集台本で賞をもらったものですが、かなり福笑テイストに色付けされたものを、染八はもらっています。何度目かの遭遇になりましたが、毎回思うことは、やっぱ福笑の持ちネタは、福笑が口演するからおもしろいということです。福笑が、マクラを振りながら、客席との距離感を測った上で、また、福笑の個性を浸透させてから、この噺を出すから、おもしろいのであって、代わりは、そうはできるわけはないということです。これ書くのは、何度目かもしれませんね。終わって外に出ると、もう大丈夫だろうと思っていた雨が降っていたので、今日は、向かいの天満橋駅からの帰宅となりました。


2016年 1月 30日(月)午前 5時 43分

 昨日は二部制の日。それも、先日の木曜日に、南天の会に行って、初めて知った会があったため、急遽、二部制を採ることにしたというもの。昼間は、その突然知った会、そして、夜は繁昌亭に行く日となりました。まず、昼間の急遽知った会というのは、南天の会にお手伝いに来られていて、受け付けをされていたはやしや香穂(長嶺かほり)さんから渡された名刺よりか少し大きめの紙切れがきっかけ。その紙切れは、香穂さんが主宰される会の案内だったのです。寄席三味線方が主宰される会なんてものが、今までなかったものですから、幸い時間の空いているときでしたものですから飛び付きました。その会は、「寄席のおんがく」と題されたもの。 空堀商店街近くの「結音茶舗」というところで開催されました。寄席三味線の役割を紹介するというスタンスで進められたこの会、まず、第1部は「出囃子」。その中では、次の出囃子が演奏されました。もちろん、昨日は三味線だけの演奏です。「石段」「三下り羯鼓(米朝)」「ミッキーマウス(小枝)」「喜撰(談四楼)」「正札付き(円生・染丸)」「鍛冶屋(雀々)」「梅は咲いたか(福団治)」「岩見(遊方)」「ダーク(花丸)」。この中で、「喜撰」「正札付き」「鍛冶屋」はリクエストを募られたもの。いきなり「談四楼」の声に、香穂さんどころか、黄紺もびっくりしました。「岩見」「ダーク」は、手が難しいそうで、毎日、この2つを弾いて、腕ならしをしてから、仕事に臨まれるそうです。第2部は「鳴り物入りの噺」ということで、上方落語の特徴である噺に挿入されるお囃子の紹介でした。「伊勢音頭」「(愛宕山)扇蝶」「(遊山船)フケ川」「(天王寺詣り)膳」「(池田の猪飼い)雪の相方」「(皿屋敷)音取」「(稲荷俥)(地獄八景亡者戯)(貧乏花見)吾が恋」。「愛宕山」から「猪飼い」までは、四季の噺に沿ってのお囃子という洒落た構成。「吾が恋」は、「稲荷俥」に使用されたときの詞が元歌だそうで、あとの2つは、同じ曲に詞を替えたものを使うとか、全然、気づいておりませんでした。第3部は「地囃子」、色物のときに入るお囃子です。傘と紐付き毬を用意され、客が太神楽をするのに合わせての演奏。第4部は「躍りの地方」、要するに寄席の躍りに合わせての歌と三味線ということで、ここでは「かっぽれ」が演奏されました。間に、お茶の時間にもなる休憩を含めて、1時間半近い公演、三味線方で、このようなイベントを開かれたのは初めてではないかという貴重な場に立ち会えた喜びと、鳴り物については未知のことが多く、勉強させていただいた喜びで、満足度の高い公演でした。
 そして、夜は、繁昌亭での第35回長寿の会」に行ってまいりました。米朝一門の歌之助が、繁昌亭で続けている会。ちょっとご無沙汰の会、久しぶりとなります。その番組は、次のようなものでした。華紋「色事根問」、歌之助「みんなで創る新作落語(完結編):?恋詩」、歌之助&華紋「生着替え&トーク」、歌之助「蔵丁稚」、(中入り)、歌之助「不動坊」。華紋の「色事根問」は、もう何度目かになります。聴くたびに、末恐ろしいと思ってしまう口演。時間のことも考え、適当にはしょりながらのものですが、はしょり方一つで、アホのアホ度が上がるから、余計にすごいと思ってしまいました。歌之助の新作ものは、おもしろい作り方をします。素材を、客席からもらい、途中まで作り、それを発表。そして、その後の展開を、また客席から求める。今回は、これを、何度繰り返したのでしょう。一番最初の素材集めのときに来て以来ですので、何度フィードバックをしたかが、黄紺には判らないのです。このやり方は、「あがき」という名を着けて、勉強会をやっていて、「噺家入門」という噺を作ったときのものを復活したもの。昨日は、通しで発表し、題名を募るというもので、最後、出口に貼り出して発表したのですが、黄紺は、それを見ていながら、家に帰ると、その前半が思い出せないという情けないことに。噺の主人公は、バッタものを売る店の店員。上司から叱られ、それを酒を呑みながらぼやくスタイル。そのぼやきには、ひやかすばかりで、実際には買わない客に対するものもあるのだが、後半には、これが逆転をしていきます。上司に誉められて存在感を発揮出せそうなときには、辞表を出していたり、気にくわなかった客にケンカごしで接すると、逆に客に歓迎されたりというところで下げに入っていきました。華紋とのトークを挟んで、狙いの「蔵丁稚」。ところが、狙いの噺になると居眠りが出るというジンクスが、昨日も生きていました。中ほどが、すっぽりと抜けてしまいました。眠いという自覚のないまま、居眠りに入っていました。歌之助の3つ目は「不動坊」。「長寿の会」は、ネタ下ろしをする会として発足したのですが、それが、そのまま生きているのなら、この「不動坊」が、それに該当するのですが、果たして、それでいいのかは、自信がありません。そう言えば、歌之助の「不動坊」って聴いたことのないような気がしているのですが。「不動坊」を聴くのは、この冬初めてとなります。冬の代表的なネタながら、まだ聴いていなかったのです。その内に、バリバリの春の噺に遭遇するようになってしまっています。歌之助の「不動坊」は、ホントに丁寧に描いていきます。銭湯でのはしゃぎぶりが、不自然にならないように、利吉のテンションを、登場したところから、ちょっとテンションを高めに保つのは、いい工夫。一方の3人は、怒っているというよりは、お遊び気分、悪戯気分が勝手いる様子。ただ、冬の最中の話だということを出すのが遅かったのじゃないかな。でも、最後は、月明かりのなか、白い雪が、しっかりと見えましたよ。さすが、歌之助だと思わせられた瞬間でした。歌之助は、今年で20周年だそうで、それを記念してか、台湾で中国語落語をするとか。また、その様子を、次回、映像で流すそうなのですが、日にちを見て、しょんぼり。どうも、日本を離れると、気になる落語会があるようです。


2016年 1月 28日(土)午後 7時 11分

 今日は、いっぱいいい落語会のある日。経済的な問題もあり、その中から1つだけ選ぶことにしました。それは、太融寺本坊2階であった「第93回千朝落語を聴く会」です。大ネタ2つが並ぶという、千朝しかできそうもない番組が、選ぶにあたってのポイントとなりました。その番組は、次のようなものでした。りょうば「ろくろ首」、千朝「百年目」、染左「餅屋問答」、千朝「本能寺」。会場は、大変な入り。この1月には、珍しく3回も、太融寺での落語会に行きましたが、もう最高の入り。ネタもすごいものがありましたが、千朝の集客力はすごいものがあります。前座役はりょうば。元々、明るく大きな声での高座ですが、今日は、広い会場ということで、声を飛ばさないかと心配したくらいの元気良さでした。りょうばの「ろくろ首」は、既に遭遇済みで、その気の入り方をはじめ、最高の「ろくろ首」じゃないかと思っていたのですが、今日は、も一つ、この「ろくろ首」のいいところを発見しました。養子に行くアホの目線は、基本的に下から目線なのですが、勝手な自信を持っているときは、この目線が上方からに移動するのです。ちょっとした背筋の使い方で、この変化を出していたようですが、気の入る口演というものは、身体表現をも引き寄せてしまいます。千朝は「百年目」から。これで、年が明けてから、吉の丞の「天神山」に次いで、2つ目の花見の噺となりました。今年は、黄紺には、やたら早く春がやって来ています。いつものように、レトロなマクラを振ってから、ネタに入ったのですが、これまた、いつものように、噛んで含めるような千朝の口調。その間隔が、噺が進むにつれ、興が乗るのか、詰まっていくことで、微妙な高揚感を味わわせる千朝落語。今日は、全編インテンポで進めたように思います。後半に、旦さんの語りを控えているため、右肩上がり的に、噺を引っ張るとまずいからでしょうが、それだったら、川に船を繰り出しなんてところで、間隔の詰めを見せて欲しかったな。春の陽気だの、花見の華やかさのようなものが、一段とクリアになったのじゃないでしょうか。すると、旦さんの諭しというか、語りというか、後半の聴かせどころにも、一層の味わいが出たのかなと思いました。ゲスト枠の染左は、袖で千朝の「百年目」を聴けて、「涙が出てきそうになった」と、興奮気味に登場。ゲスト枠のオファーは何度目かで、「ようやく出ることができた」と言ってました。そりゃそうでしょうね、千朝の会で、この位置に喚ばれたら、そうだろうなと、染左の高揚を、黄紺も喜ぶことができました。そして、その「餅屋問答」が良かった。染左の口演で、この「餅屋問答」ほど、差し込みが入ったものは聴いたことがないのじゃないかな。それほど、1つ1つがヒットしていましたし、噺の流れのじゃまどころにか、盛り上げるのに貢献していました。芝居噺でない噺では、染左ベストじゃないかなぁ。染左で「餅屋問答」を聴いたことはあるのですが、ここまでおもしろかったっけと思っているところです。千朝の2つ目は「本能寺」。染左は、「百年目を出したら動物園でもいこかというところやのに」と言って、笑いをとっていましたが、正に、その通りなところに「本能寺」なもので、チラシを見たときにびっくりしました。染左を、ゲストに喚んだのも、芝居噺に精通している染左を、脇に置いておきたかった、ないしは鳴り物の依頼をしたのかもしれませんね。この「本能寺」、千朝が、会場の広さを考えてでしょうね、大きく大きく描こうとしているのが、痛いほど解る口演でした。胡瓜と茄子の芝居見物の小咄を振って、「立ち切り線香より残さなあかん噺やと思うてます」に、大笑い。そして、定番の「青田」という語句について説明をしてから、ネタへと入っていきました。本格的な芝居噺ということで、くさめに、デフォルメすることがなく、真正面からお喋りしてくれました。結構なお年になっている千朝ですが、年齢を考えると、身体の切れもなかなかのもの。もちろん40代の身体の切れは無理な話ですから、台詞回しと大きく描くことで、年齢分を補っていました。「百年目」と併せて、体力の限界への挑戦というつもりがあったのかもしれません。でも、最後までスタミナが続いたから大したものです。ずっと芝居を辿る噺ですが、森蘭丸が雑兵に狙われ出すと、いなごが舞台に溢れ、呆気なく下げとなります。その昔、米朝の口演で、「本能寺」を初めて聴いたとき、あまりにも突然の下げだったもので、呆気にとられてしまったおかげで、どこで聴いたかも、はっきりと覚えているという思い出のある噺でもあります、黄紺には。出口で、お見送りをする千朝は、さすがに疲れたようで、高座姿に比べると、一回り小さく見えました。


2016年 1月 27日(金)午後 11時 57分

 今日は二部制の日。朝から、英国ロイヤル・オペラ・ハウスのライブ・ビューイングを観て、夜は講談会に行くというものでした。まず、ライブ・ビューイングですが、これが、大阪ステーションシティシネマで、午前中にスタートということで大変。黄紺は、最近は、午前中のイベントは、すべからく行かないことにしているのですが、例外は、文楽とオペラ。そのような時間に出かける生活リズムじゃないものですから、結構な覚悟で臨まねばなりません。ですから、今日も、寝不足のままのお出かけとなりました。ロイヤル・オペラのライブ・ビューイングは、不幸にも、黄紺が日本にいないときに上映されることが多いものですから、逃しがたい気持ちになるため、頑張って朝起きをして出かけてまいりました。今日は、ヴィットリオ・グリゴーロがタイトルロールを歌うということで、特に逃しがたい気持ちにさせられました。その演目は「ホフマン物語」。しかも、映画「真夜中のカーボーイ」の監督ジョン・シュレシンジャーのプロダクションだということも売りになっていたのです。まず、主な配役を記しておきます。(4人の悪党)トーマス・ハンプソン、(オランピア)ソフィア・フォミーナ、(ジュリエッタ:クリスティン・ライス)、(アントニア)ソーニャ・ヨンチェヴァ、(ニクラウス)ケイト・リンジー。ジョン・シュレシンジャーのプロダクションは、1980年12月初演、今回の公演を最後に、新しいプロダクションに切り替わるそうです。さすが、古いプロダクションだけあって、装置や衣装は立派というか、重々しく、豪華なもの。クラシックという言葉がぴったりのものだけに、そろそろと、その役割を終えるのも妥当かなというものでした。映画監督として、個人の動きと同時に大勢の人たちを動かすことに慣れていたのでしょうね、そういった意味で、見ごたえがあり、今日まで生き残ってきたプロダクションだと思いました。歌手では、やはりグリゴーロを聴くためのものですね。重唱の場面などで見せるグリゴーロの声のパワーは大したもので、情熱、落胆、悲哀を、的確に表せる力は、現代のスーパースターであることを見せつけました。そのホフマンに寄り添うニクラウスのケイト・リンジーの男装はいいですね。ガランチャやソフィー・コシュには、中性的要素が残りますが、この人は、男装と言い切ることのできる立ち姿です。とっても気に入りました。最後に、ミューズとなり、今度は、テュニカ風のドレス姿を披露されたときには、ドギマギしちゃいました。正に、正真正銘のズボン役です。ただ、この人、グリゴーロと並び歌うことが多かったために目立ったのでしょうが、生で聴いたら、パワーに若干不満を抱くかもしれないなとは思いました。悪役4役を、様々な衣装を変え演じたトマス・ハンプソンは、言わずとしれた大歌手ですが、この役は、高い声があるにも拘わらず、ほんまもののバスにやって欲しいなと思う見方から言うと、ちょっと物足りなかったかな。この公演を生で聴いた方のブログには、パワー不足とも書かれていましたが、映像を観ていても、そうかもと思ってしまいました。黄紺が、ミュンヘンで聴いたときには、パワーがあるとは思わなかったのですが、不足とまでは思わなかったのですが、もうあれから5年ほど経っています。3人の女性の中ではヨンチェバに止めを指します。先程のブログにも、「高音に苦しんでいた」「体調がわるいんじゃないかな」と書かれていましたが、その感想は、黄紺が、12月にベルリンで聴いたときと、全く同じ感想。高音が不安定で聴き苦しいとさえ思ったものでした。ただ、最近のヨンチェバ人気は半端じゃありませんから、調子が悪いのだろうと思ってしまうのでしたが、今日のヨンチェバは文句なし。そそとした雰囲気は、正に、アントニアのイメージにぴったり。今日のヨンチェバを観て、ようやくメトのライブで歌う「椿姫」を観に行く気が出てきました。なお、このプロダクションは、オランピア、ジュリエット、アントニアの順で進行しました。MCの方の話では、それがオリジナル版だということでした。
 ライブ・ビューイングが終わると、夜まで、かなりの時間があるということで、夜の会場である動楽亭までは、徒歩で移動することとし、それでも有り余る時間を、千日前のネット・カフェで消費することにしました。今夜の講談会は、「南湖の会 ~探偵講談と赤穂義士~」でした。黄紺が、高い優先順位を位置付けている会の1つです。その番組は、次のようなものでした。南湖「赤穂義士本伝~発端~ 」、鱗林「臆病の一番槍」、南湖「探偵講談コレクション:双子の犯罪」「太閤記~長短槍試合~」。冒頭のマクラで、定番の小南湖くんの話となみはや講談会の発足を報告されました。ネタの1番手は、今日から始まる「赤穂義士本伝」。ホントにさわりのさわりというところでしょう。浅野内匠頭と吉良上野介の対立の発端と言っていいのかすら解らない、ちょっとした入れ違い話しの幾つかが紹介されました。歌の文句を改める進言をしたら、それが妥当すぎて、相手が気を悪くしたりで、恨みや憎しみが醸成されていく様子の初期段階(?)が描かれました。今日も、修行中の鱗林さんが出番をもらいました。今日は、ちょっと歯切れが悪かったですね。まだ、なじんでないネタなんでしょうか、それとも、ネタをくるのをおろそかにしたため? 臆病風が、急に止んだわけが、最後まで判らずじまいだったのですが、それで良かったのでしたっけ。「双子の犯罪」は第2回目。前回の復習の場面は大丈夫だったのですが、新しいところに入った辺りで、居眠りが出たようで、流れが、皆目解らなくなってました。やっぱ、午前中からのお出かけは、黄紺には鬼門ですね。「長短槍試合」はおなじみのネタ。戦略家藤吉郎の知恵が冴え渡ります。このネタを、初めて聴いたとき、槍に長短があるのを、初めて知った思い出があります。南湖さん、師匠の使っていた昭和のくすぐりも入れながらの熱演。頗る口になじんだ口演でした。


2016年 1月 26日(木)午後 11時 8分

 今日は、太融寺で落語を聴く日。今夜は、こちらで、「梅田太融寺 南天の会」がありました。その番組は、次のようなものでした。弥っこ「煮売屋」、南天「鉄砲勇助」、生喬「吉野狐」、南天「宿がえ」。弥っこは、まだ年季が明けてないそうです。そんなですから、前座としての起用が稀れだということになるようですが、奇しくも、この1月に入り、宗助の会に続いての遭遇。今まで、陰のイメージがあったのですが、今日は、なかなか明るく、今までのイメージを払拭してくれました。これなら、噺家さんとして精進していって欲しいと思えるようになりました。南天と生喬は、もう30年来の付き合い。学生時代からの盟友です。南天は、マクラで、学生時代の生喬との思い出話を、たっぷりめにお喋りしてくれました。何度か聴いた話もあれば、そうでないものもありますが、ちょっとした青春グラフィティです。こうした話を聴くと、なんか元気をもらった気持ちになれます。ネタの「鉄砲勇助」はネタ下ろし。でも、あとから上がった生喬によると、学生時代にやっていたそうです。ただ、この「鉄砲勇助」は、南天風アレンジがかなり進んだものでした。木曽山中の冒険譚は、山賊の話と猪退治の話とをブレンドし、更に、「ある日、森のなか、、、」の歌を散りばめるというもの。次いで、北海道の寒い話へと飛び、こちらは、お早うが凍る話と火事が凍る話をしてくれました。爆笑狙いのくすぐりが、連続的に炸裂する凄まじさを追求するものになっていました。ゲストの生喬も、マクラで学生時代の思い出話をして、エールを送りました。「これだったら、刻うどんにしといたら良かった」と言うほど、昔話に花を咲かせました。「吉野狐」は、ネタ出しをしているため、変えるわけにはいかず、気を取り直して、橋の上から身投げを止める場面に入りました。先日の生寿に次いでの遭遇ということで、相次いで師弟の「吉野狐」を聴く機会を得たことになります。生喬の口演を聴くと、やはり生寿はネタ下ろしということで、師匠の口演をなぞることに努めていたことが、よく判りました。これ、冒頭の場というのは、今の時期なんですね。噺の流れからして、あまり季節感を意識して聴いていませんでしたし、噺家さんの方も、強く意識してお喋りされているように捉えてなかったもので、こちらも意識しておりませんでした。ま、夜泣きそば屋が出てくるとなると、そうなのかなと思えます。ただ、そば屋の符丁を先にありきという噺で、これだと持ちネタにする噺家さんが、あまり出てこないはずとの認識を確認させてもらったくらいの印象くらいしか、あとには残り難い噺ですね。南天の2つ目は、大師匠枝雀のイメージが、強烈にオーバーラップしてくる「宿がえ」。南天の偉いところ、いや、これだからこそ、南天人気が生まれたのだと思うのですが、これだけ、強烈に枝雀イメージが重なってくる噺を、自分色に染め替えようとして、それに成功したということなのじゃないかな。前半の荷物を風呂敷に包み込む場面のテキストというのは、正に、それの典型じゃないかな。ゆるむことのない爆笑の連続が後半の新しい家に着いてからも続きますが、南天オリジナルは、寄り道の説明。荷物を担ぎながら、行ったり来たりは無理やろと思っても、笑わされてしまいます。ジャスト25分の口演。やはり、南天&生喬と2枚揃うと、今や破格の勢いとなりますね。


2016年 1月 25日(水)午後 11時 19分

 今日は、ちょっと色変わりのイベントに行ってまいりました。ツギハギ荘であった「第3回 あかねの部屋~ノッキンオン・師匠ズ・ドア」です。落語作家のくまざわあかねさんが、旬の噺家さんを喚んで、お二人のトークと、ゲストの噺家さんの落語が1席という会です。ここまでのゲストは、吉の丞と由瓶。吉の丞のときには、行ってみたくなったのですが、他にいい会があったということで断念。今回は、ゲストが花丸ということもあり、優先順序が、必然的に上がりました。1時間ちょいの予定の「トーク」は、1時間20分かかりました。能弁な花丸がぶいぶいと飛ばしたという印象。少年時代から今の花丸までを振り返るというもの。内容は、参加した者だけの特権です。中入りを挟んだあとの落語は、頭を下げたあとの開口一番で判りました。「幸助餅」でした。釈ネタですから、講談の席でも耳にしますが、黄紺は、このネタを好きになれません。だって、主人公の幸助さん、悪い人ではありませんが、あまりにも己に甘ちゃんです。なんで、こないな男の噺を聴かねばならないのだと思ってしまうのです。久しぶりに、花丸の口演で「幸助餅」を聴くと、とっても感情移入がグレードアップをしていて、それでいて、過剰ではなくとまあ、理想的なパワーアップという印象が残るのですが、その印象が濃くなればなるほど、幸助さんって、何てダメ人間なのだろうという思いがつのりました。だから、聴きたくなくなるネタなのです、このネタだけは。ほぼ、2時間ほどの会でしたが、とにかく会場が寒くて寒くて、まいりました。冷たい空気に晒された左腕などは、1時間経ったあとも、まだ冷えたままでした。


2016年 1月 24日(火)午後 11時 14分

 今日は、昼間は、所用で息子のところへ行き、そのまま大阪へ。そして、薬業年金会館5階和室であった「第234回旭堂南海の何回続く会?~祐天吉松(弐)」に行ってまいりました。元スリの吉松は、堅気になってから表具職人として働いていたところ、両替商の加賀屋の娘に見初められ、婿養子に入ったところまでが、前回のあらすじ。そうなると、スリ時代の仲間から、縁を切ったにも拘わらず、妬みから強請に遭ってしまいます。橘某という旗本崩れの男からの強請に遭った吉松は、その橘某を殺しにかかるのですが、哀しいかな腕の立つ橘某の相手ではなく、命からがら逃げ出すしかありませんでした。しかし、そうなると、橘某の仕返しに遭うのは必定と、吉松は江戸を離れ、人の紹介を受け、水戸で剣術修行に励むことになります。その間に、加賀屋はつぶれ、妻や子どもも行方知れずとなってしまいます。剣術の先生の水戸藩の江戸詰めになると、それに道々した吉松は、そのことを、そこで知り、益々と橘某への復讐心を燃やしていきます。一方、吉松の剣術の先生が、水戸藩で重用されたことから、それを妬む水戸藩の剣術指南との対立というか、一方的な恨みを買ってしまう中に、吉松も巻き込まれていきます。先生のお内儀と娘を花見に連れて行ったところ、隣で酒を呑み絡んできた侍の内1人の兄が、水戸藩の剣術指南であったことで、吉松が恨みを買い、また、吉松が連れていた犬が、剣術指南の猫を噛み殺したことを口実に、ついには、吉松を成敗にかかったところ、腕の立つ吉松が、ついには、その侍を殺めてしまうことになります。本来なら、吉松の命もこれまでとなるところ、吉松の身分の低さのわりに、極めて剣術の腕が立つことに関心を持った水戸藩所縁の僧侶が、身元引き受けになり、吉松は、寺預かりとなり、命は助けられます。最後は、この寺での奔放な修行ぶりが描かれて、今日は終わったのですが、気がつけば、橘某の行方、妻子の行方については、全く消えてしまってました。回り回って、その2点にたどり着くのでしょうが、まだまだ、そこに行くまでには紆余曲折なのでしょう。浪曲で取り上げられる「祐天吉松」は、親子の再会、でも、父親と名乗れない吉松が描かれますから、たとえ妻子の行方が判っても、簡単には、前には進まないようです。さて、どのような展開になるのでしょうか。やはり、「祐天吉松」の展開は、「野狐三次」のような複雑な展開をしていくのでしょうね。ますます楽しみになってまいりました。


2016年 1月 23日(月)午後 11時 6分

 今日は、カフェモンタージュでのコンサートに行く日。今夜は、「六人組― 前篇」と名付けられたコンサートがありました。(ヴァイオリン)弓新、(ピアノ)佐藤卓史のお二人で、「オネゲル:無伴奏ヴァイオリンソナタ」「デュレ:ソナチネ」「プーランク:ヴァイオリンソナタ」が演奏されました。「フランス六人前」というのは、簡単な音楽史を紐解けば出てくる作曲家のユニットですが、彼らの作品だけを集めたコンサートというのは、そうはないのじゃないかな。まず、いつものように、オーナー氏から、六人組についての解説。ジャン・コクトーにより作られたユニットで、デュレが、さほど時間が経たない内に抜けた話などがされました。このジャン・コクトーのプロデュースが1918年のことですから、正に、新たな文化の胎動が始まっていた時期に相当します。今日のプログラムでも、デュレは、限りなくサティに近いのですが、オネゲルとプーランクの作品は、バーバリズムという言葉で表される音楽になっていました。特に演奏機会もあると言えるプーランクの作品は、激しいリズムに圧倒され、聴いている我々の気分を高揚させる凄まじさがありました。リズムに乗って、体が躍動する弓さんのヴァイオリン、それに、ぴったりと合った佐藤さんのピアノ、迫力がありました。一方、サティ似のデュレの作品は、元来はフルートのためのものとか。息の長いヴァイオリンに、ちょっと我慢ができないところがあったかな。いずれにせよ、カフェモンタージュという狭い空間で聴いたために、バーバリズムを志向する音楽は、半端じゃない勢いを持って迫ってきたことは確かな演奏会でした。


2016年 1月 22日(日)午後 7時 36分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今日の午後、こちらで「吉の丞進学塾」がありました。その番組は、次のようなものでした。瑞「金明竹」、吉の丞「天神山」、(中入り)、雀太「代書屋」、吉の丞「坊主茶屋」。「吉の丞進学塾」は、1年ぶりの開催だそうです。週末の昼間に動楽亭で開催しようとすると、動楽亭は押さえられなかったと言っていました。確かに、今、落語会が動楽亭に集中する傾向にあります。次回からは、平日の夜開催に踏み切るそうです。今日の会は、最近の落語会のスーパー前座、スーパーゲストが顔を揃えました。人気の瑞、雀太を、2人ともを、一挙に押さえることができたのは、吉の丞の人徳かもしれませんね。その瑞は、前座で喚ばれたときの定番「金明竹」を出してくれました。相変わらず元気一杯です。今日は、猫を借りに来た人に、傘の断り口上を言うのを抜かしてしまいました。喋り慣れているネタでも、こないなことがあるのですね。吉の丞は、ゲストとして招いた雀太との思い出、もらった仕事などを、マクラで喋ってくれました。2人は同期なんですね。少しだけ早く、雀太が入門したということでした。そして、1つ目は、なんと「天神山」。1月に、もう「天神山」を聴くことになりました。確か、最初の「吉の丞進学塾」で、これを出したんじゃなかったかな。黄紺的には、初遭遇になります。わりかし早口で、噛みそうで噛まない微妙なお喋り。ちゃっちゃっと進んでいくのだけれど、へんちきの源助も胴乱の安兵衛のキャラも、しっかりと残っていきます。こういった横着者が、吉の丞のお喋りに合っているのでしょうね。もう少し陽気のいい時候に、この口演を聴けば、異なった印象を受けたのかもしれませんが、外の寒さは、聴き手の想像力を押さえつける強さを持っています。やはり、季節ネタは、季節を選ぶということを、思い知った口演でした。ゲスト枠の雀太も、アンサーマクラという感じで、吉の丞との繋がりを披露、昼なお暗いアパートの思い出は、笑えると同時に哀愁が漂います。そして、NHKの予選のときのことや、もらった賞金で散財した話をしてから、その優勝ネタ「代書屋」を出してくれました。黄紺的には、久しぶりの遭遇。雀太は、「代書屋」に限らず、ネタに、いろいろと自分的工夫を入れていきますが、このネタも、以前から工夫が入っていましたが、かなりパワーアップしていました。挿し込み、改変のバランスが、とても良くなっています。噺が生きなければ、挿し込みなどをしても意味ありませんが、その辺のバランス感覚が良く、これは、チャンピオンで文句なしだったろうと思います。佐ん吉に次いで2年連続、上方からチャンピオンが出るというのは、大人の事情からありえない中での優勝というのは、それだけ圧倒したことだろうとは思っていましたが、今日の口演を聴いて、完全に納得です。吉の丞の2つ目は、ネタ下ろしだったのでしょうね、本人は断らなかったのですが、そのように思ってしまってる「坊主茶屋」でした。冒頭、吉の丞は「アダルトな噺をします」「子どもさんはおられないのでやります」と言ってから、マクラに入りました。このネタも珍しい。文我を除くと、八方、文太、米紫くらいしか、やらないんじゃないかな。可朝が、よくやっていたネタで、可朝の口演で聴くと、いかにも場末の遊郭の雰囲気が、よく出たものでした。八方や米紫が持っているというのは、可朝繋がりということで了解をしているのですが、残していって欲しいネタだと思うのですが、使いようが難しい、廓噺にしても、かなり淫靡な雰囲気のするネタですから、そう思ってしまいます。吉の丞がやっても、淫靡さの残る噺ですが、一層、その方向を追求しても、今や喜ばれないと思いますので、どのように持って行くのがベターなのかが見えてこないということが、敬遠される原因なのでしょうね。このネタも、横着者が主人公ということで、吉の丞のお喋りには合ってるとは思うのですが、、、。先日は、「源平盛衰記」を聴きましたから、鋭意、様々なネタを取得中って印象です。若いからこそできること、その心意気がいいな。客の入りもなかなか。日曜日の昼間ということもいいように作用したでしょうが、やはり吉の丞の人気は安定しています。


2016年 1月 21日(土)午後 10時 38分

 今日は、兵庫県立芸術文化センターのコンサートに行く日。今日の午後、こちらで、「大ブルックナー展 Vol.5」というコンサートがあったのです。これは、井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団が、ブルックナーの主だったシンフォニーを連続的に演奏するもの。今日は、「井上道義:鏡の眼」と「5番のシンフォニー」が演奏されました。「5番のシンフォニー」は、7~9番同様の長大な曲であること、しかし、7~9番ほどの演奏機会がないこともあり、なかなか遭遇機会に恵まれない曲。黄紺も、生で聴いたのはいつ以来なのかすら思い出せないほど、久しぶりの遭遇になります。確かに、7~9番のシンフォニーのように、耳になじみやすいメロディが用意されているわけではないのですが、ブルックナーらしい、長い総休止、いわゆるブルックナー休止、コラールと言われる金管の強奏、パートにより異なる拍子などが詰まった最もブルックナーらしいと言ってもいいのではと思っている大曲です。黄紺は、この「大ブルックナー展」は、8番に次いで2度目。その8番は、黄紺には、あまりいい印象を残してはいませんでした。ゆったりめのテンポで、やたら、曲を大きく見せようとしながら、実が伴わない結果となっていたとの印象が残ったからでした。今日も、第1楽章の冒頭が、そのスタイルで、今回もの印象を持ち始めたのですが、今日は、そのあとが違いました。なかでも、弦楽器の強奏が頼もしく、とっても厚い音を出していたのが、前回とは異なり、金管のコラールに太刀打ちできるもので、実にスケールの大きな音楽となっていました。ただ、それに対して、いつもは賛辞を送りたくなる管楽器が、黄紺にはしっくりこなかったのが惜しまれます。2楽章に素敵なソロが待っているオーボエ、異なったリズムが並立する場面ですが、そのコントラストがクリアになりませんでしたね。頼りなかったホルンのソロ、そっけなさすぎるクラリネットのソロと、あまり歓迎できるとは言えないものだったことが惜しまれます。4楽章が終わったところでは、黄紺自身がブラボーマンに成りたかったほどの高い満足度。近くに知人ご夫妻がおられなかったら、本当に声を上げていたかもしれません。ブルックナーのライヴを聴いて、久しぶりの興奮状態となっておりました。ホールを出ると、楽屋裏で出待ちをする知人ご夫妻に付き合い、そのあと、お茶だけではなく、食事までご一緒して帰ってまいりました。素敵な音楽にお喋り、いい週末になりました。


2016年 1月 21日(土)午前 1時 35分

 今日は二部制の日。まず、文楽の第1部を観て、夜は落語会に行くというものでした。まず文楽ですが、第1部の番組は、次のようなものでした。「寿式三番叟」「奥州安達原~環の宮明御殿の段~」「本朝廿四孝~十種香の段/奥庭狐火の段~」。「三番叟」は、国立劇場創設50周年を記念してのものとか。丁度、新年早々ですから、いいタイミングです。これも、文楽に幾つかある能からのパクリもの。能の様式を踏まえていますから、翁渡りから始まります。先頭は、面箱を兼ねる千歳。ということは、下掛りからのパクリとなります。ただ、翁は面は着けるのですが、舞はなく、また、千歳の舞もありませんから、40分強の上演時間となります。ですから、三番叟中心となります。揉の段、鈴の段と進行するのは、元の形のまま。こちらは、「黒い尉どの」というテキストが残っているにも拘わらず、面を着けません。面箱を兼ねる千歳が鈴だけ渡します。ま、お賑やかな三番叟の部分は、きっちりと残し、それにはなじみにくい部分は省略といったところです。それに、賑やかなというコンセプトに合うのでしょうね、二人三番叟です。「奥州安達原」は、奥州の支配者安倍一族が源義家に滅ぼされたということで、安倍一族の兄弟が、義家に復讐を狙うというもの。安倍兄弟は、皇弟環宮を誘拐していたため、その守役平傔仗の地位が怪しくなる、その平傔仗を巡り、安倍兄弟と義家一派が駆け引き、争いを続けるというもの。安倍兄弟は身を替えていたり、平傔仗の娘2人の1人は、安倍兄弟の兄と駈け落ちをしていたり、もう1人は、義家の妻になっていたりで、筋立てが生半可でない複雑なもの。見せどころ、聴かせどころが、幾つもあります。義家が、平傔仗を叱責して、安倍兄弟の追求をせっつく場面、桂中納言則氏という公家(実は安倍兄弟の兄)が、安倍兄弟と目された男を、田舎者とあしらう場面。平傔仗の娘袖萩が落ちぶれた姿で平傔仗の前に現れ、心境を三味の音に乗せて歌って伝える場面、そして、平傔仗と袖萩の自死、桂中納言則氏が、悠然と、亡くなった平傔仗の懐から、安倍兄弟の素性が暴かれてしまいかねない文を取り去って行こうとする場面、いよいよ義家と安倍兄弟の激突かと思わせる場面と、見どころ、聴かせどころ満載、黄紺は、その筋立てを追いかけるに必死。2時間を超えるため、途中に軽い居眠りが入ってしまい、余計に必死になりました。2年前に、他の段を含めて観たはずだったのですが、すっかり筋立ては抜けていたものですからね。「本朝廿四孝」はよく出る出しもの。上杉と武田の対立を描いたもの。今回の上演は、亡くなったはずの武田勝頼が生きていたことを知る八重樫姫、でも、その勝頼に刺客が放たれたのを知った姫は、何とか、そのことを、勝頼に知らせようとする。お狐さまの力に頼るということで、姫を遣う勘十郎さんの早替わりがあり~の、狐足で飛び回る姫を操るアクロバチックな3人遣いの妙を見せてもらえました。その一方で、勝頼の身代わりになって死んだ恋人を想う濡衣の哀れ、その対立項的設定は、近松半二の得意技だとか。こちらを遣ったのが簑助さん。ホンマものの勝頼を和生さんと、すごい顔ぶれが揃いました。太夫さんの方も、今やエース格になった呂勢太夫さんに津駒太夫さんと、こちらも揃いました。とまあ、かなりたっぷり感のある第1部でした。
 文楽劇場を出ると、夜までの時間を、千日前のネットカフェでつぶし、そして、更に時間があるということで、落語会の会場である天満橋の常磐漢方薬局まで歩いて移動。今夜は、こちらで「第140回 常盤寄席~新春お囃子特集~」がありました。染太と智之介が続けている落語会です。その番組は、次のようなものでした。染太&智之介&はやしや律子「寄席囃子紹介」、智之介「秘伝書」、染太「電話の散財」「松づくし(寄席の踊り)」、智之介「算段の平兵衞」。今日は、普段は入れてない三味線が入るということで、吉崎さん(はやしや律子さん)を使い倒す番組となりました。「寄席囃子紹介」は、学校公演で慣れているようで、一番太鼓、二番太鼓、出囃子(石段、正札付、オクラホマ・ミキサ)、鳴り物入り噺(池田猪飼い、皿屋敷)が、紹介されました。吉崎さんも、お着物姿で登場されました。久しぶりに、吉崎さんの生顔を拝見できました。落語の方は、今日は、智之介が2席の番。「秘伝書」は、お得意のマジックの話から入っていきました。さほど引っ張らずにいい感じで流れていきました。もう1つが「算段の平兵衛」と大ネタを持ってきました。帰りがけ、支援者と話す智之介の口から文喬からもらったことが明かされていました。落語の中のピカレスクもので、明るい噺ではないので、ヴァナキュラーな世界での顛末にしたのでしょうね、設定を。また、人と人とのネットワークが複雑に入り乱れている都市の物語にはなじまないということなのかと、黄紺は思っています。ですから、常に平兵衛のところに戻ってくる可笑しさ、但し陰気な可笑しさだけだと、この噺は成立しにくいと思っています。そういった観点で、智之介の口演は満足できたかと言うと、残念ながらと言わざるをえないのです。前者の可笑しさだけを追求したって感じで、田舎の空気とか、テキストでは入れていたが、なかなか伝わって来なかった漆黒の闇夜は、あまり伝わってきませんでした。庄屋夫婦の会話も若すぎました。「算段の平兵衛」は、演じ手が多いというネタではありませんから、じっくりと育てて欲しいと思う次第です。ただ、長い、そして、ピカレスクものということで、喋る機会が少ないのが辛いところですね。染太の「電話の散財」は、林家の専売特許のような噺。電話や写真が出てきたりということで、染太は、大正時代と設定して話してました。放蕩ものは、若旦那ではなく親旦さんという珍しい設定。染太の描く親旦さんが可愛くて、気に入ってしまいました。染太って、いつも、ちょっとデフォルメして喋っているという印象というか、そういった方針というものを持ちながら喋ってるって感じだったのですが、ひょっとしたら、今日も、そのつもりでのお喋りだったのかもしれないのですが、聴く方としては、等身大のリアリティを見つけてしまいました。むしろ、堅物の若旦那の方にデフォルメを見たようなことになっていました。いくら堅物だとしても、ヘンコ過ぎる、ここまでのやつはいないだろうってやつです。ただ、その必要性は感じませんが。噺が終わると、高座から降りて、床に立ち、これまた、林家お得意の「松尽くし」を、狭いスペースに苦労しながらも見せてくれました。これまた、お囃子があってこそできるものでした。ホント、吉崎さん、お疲れさまでした。
 家に帰り、何気なく噺家さんのツイッターを追いかけていて、竹林のツイッターに行って、愕然。露の雅急逝と出てたのです。13日の繁昌亭で観たばかりでした。慌てて、ニュースを探してみて、間違いなく亡くなったということでした。真が発見したようなことが書かれていました。18日の「やまとなでしこ」の「トーク」で、紫の口数がえらく少なかったのは、それが関係あるのかもと、勝手に想像したりしています。享年35歳だそうです。悔しいだろうな。ご冥福を祈ります。


2016年 1月 20日(金)午前 3時 2分

 昨日は落語を聴く日。動楽亭であった「第20回生寿成熟の会」に行ってまいりました。昨日は、20回記念ということで、一門の三喬を迎えて開催されました。その番組は、次のようなものでした。文五郎「鶏ほめ」、生寿「うなぎ屋」、三喬「仏師屋盗人」、(中入り)、生寿「吉野狐」。文五郎は、前回の前座として予定されていながら、事情がありドタキャン。そのため、今回、新たに前座の出番をもらいました。明治時代の紳士のような顔つきにも、聴く立場からも、ようやく慣れてきました。顔つきには似合わない腰の低さが、アンバランスな魅力になってきています。年季が明けてから、前座を務めることが増えています。今年は酉年だからと、牛をほめずに鶏をほめたのですが、残念ながら、会場の程よい暖房が心地よく、ここで居眠りが出てしまいました。冒頭での居眠りだったものですから、これは全滅かと危惧したのですが、杞憂に終わり胸をなでおろしました。生寿は、まず、おなじみの加賀温泉山下屋でのお仕事のレポート。往きは雪とにらめっこだったようですが、帰りはスムーズだったようです。確かに、昨日は、ここ数日で、気温はましでしたものね。ネタは、久しくかけてなかったということで、季節外れの「うなぎ屋」。師匠生喬に稽古をつけてもらったときの思い出話をマクラでしてから、ネタに入りました。特段目新しいところはなかったのですが、うなぎ屋のおやっさんの指を針で突くことが入りませんでした。久しぶりだということで、抜かしてしまったのでしょうか、それとも、元々ない型が伝承されているのでしょうか。ゲスト枠は、20回記念ということで、一門の筆頭三喬。三喬と言えば盗人ネタということが売りになっていますが、それを勧めたのは雀々だということを披露してくれました。言われたときは半信半疑だったようですが、手がけ始めるとしっくりきたなんて話をしていました。初耳だったので、ちょっと耳がダンボになってました。どの盗人ネタをしてくれるのかな、「仏師屋盗人」だったらいいなと期待をかけたら、ドンぴしゃ。このネタの盗人が、一番すっとぼけている感じがして、三喬に合ってると思っているからなのです。実は、も1つ期待したネタがありました。「月に群雲」でした。黄紺的に、遭遇機会が少ないものですから。生寿の2つ目は、思いがけないという印象を持ってしまった「吉野狐」。自身のツイッターで、生寿は、「ネタ下ろしをする」と書いていたので、何を出すのか楽しみにしていました。なんとなく、生寿のことだから、20回記念などと銘打ったときには、まだ手を着けていない芝居噺とか、長講にするのではと、勝手に決めてかかっていました。出されてみると、6代目の持ちネタだし、師匠の生喬も持ちネタにしているうえ、生寿の出身地奈良にちなんでいるからと、解らないわけでもないのですが、節目の会にこれかという気持ちが残りました。生寿も、レアもの人気の潮流に乗らねばというところかもしれません。演じ手の、ホントに少ないネタです。現役では、この生喬師弟と文我師弟だけじゃないかな。黄紺も、聴く機会が少ないため、時計尽くしのところでは、聴いたことはある、だけど思い出せない状態で、見投げを助けた男がうどん屋だと判ったところで、「吉野狐」と気がついたほどでした。狐の登場っていうのか、かなり唐突で、噺の終息を、そっちへ持って行くかと戸惑いの残る話なもので、人気が出ないのかなぁなんて考えたりします。加賀温泉で、喉がからからになるまで、ネタ繰りをしてきたという生寿の口演は、とってもスムーズ。下げに繋がるため、執拗に出てくる注文の符丁を言い間違える吉野、美人の元傾城にしては、惚けたところもあると、何とも無理っぽい設定。何とか、その辺りを切り抜ける口調を、生寿は工夫していました。ちょっと可愛らし過ぎたかもしれませんが。そう言えば、婆さんもそうかもしれませんね。昨日は、足を運びたくなる落語会が重なったにも拘わらず、やはり節目の会ということで、結構な入り。「吉野狐」が終わったあと、生寿は、「記念の会の次はがた減りをするのが習い」「次回もお運びを」と釘を指す挨拶をして、お開きとなりました。


2016年 1月 18日(水)午後 11時 6分

 今日は、千日亭で落語と講談を聴く日。今夜は、こちらで「やまとなでしこ~落語と講談」がありました。旭堂小南陵と露の紫の二人会です。半年ほど前に、1度おじゃまをしていますから、2度目となる会です。紫は、先日の土曜日に、つる子との二人会で聴いたところですから、えらく紫づいてることになります。その番組は、次のようなものでした。小南陵&紫「トーク:女の一生」、紫「延陽伯」、小南陵「伊達の鬼夫婦」。冒頭の「トーク」は、どうやら、いずれか1人が、ネタを用意して、もう1人が突っ込みながらトークを展開していこうという趣向らしい。前回は、紫が社会で活躍する高齢女性をレポートするというもので、わりかし楽しめたのですが、今日はダメ。テーマが大き過ぎます。歴史の中で、女性が占めて来た地位なんてのを取り上げるのはいいのですが、ま、勝手にしろいという意味で書いてますが、やっぱ勉強してからでないとダメということで、突っ込むはずの紫に至っては、考えたこともないことなんでしょうね、ほとんど突っ込むことすらできないありさまでした。大阪市の助成をもらった公演のようで、女性に焦点を当てたレポートを入れることで申請してるのじゃないかな、ネタが続けばいいのですが、身の丈に合わないテーマ設定をされると、腹立たしくすらありました。本職の方は、2人とも実力を発揮。「延陽伯」に入る前に、紫が言ったことが、なかなか素敵。自分に花嫁が来ると言ってはしゃぐ男は、可愛くもあり、過ぎると気持ち悪くもあり、これは、女性噺家さんらしいコメント。そのスタンスに則った口演。可愛いという視点だけじゃないものがブレンドされた口演と思うだけで、時々、口演を続ける紫の顔色を伺ってしまいました。そうさせただけで、もう成功でしょう。後半は、張り切る新妻の独壇場。ぼやく男が、はしゃいだしっぺ返しを受けているようでした。「伊達の鬼夫婦」は、浪曲の奈々福が、よく出すネタです。その場合は、「仙台の鬼夫婦」という題を使っています。ま、主人公の井伊直人が、伊達藩の侍ですから、どちらでもいいでしょう。講談では、東京の講釈師さんの口演を聴いたことがあるような記憶があるのですが、旭堂では思い当たりません。筋書きは、井伊直人が、剣術指南役の地位を仰せつかりながら、博打三昧の日々を過ごす姿を悲観した伊佐子三十郎父娘が、その建て直しに一肌脱ぐというもの。伊佐子三十郎の父は、朝鮮の役で、伊達直人の父親に命を助けられた恩義があったからです。聴かせどころは、伊達直人の妻になり、叱咤激励する伊佐子三十郎の娘定が、心を鬼にして、長刀で伊達直人を、2度にわたり打ち据えるところ。40分にわたる長講、しかしながら、伊達直人のいくじがないのには腹が立ちます。こないなアホたんの相手になるのもバカらしい、そう思うと、聴いていてしら~っとしてしまいました。


2016年 1月 17日(火)午後 10時 56分

 今日は落語を聴く日。今夜は、2度目となる「法善寺寄席」(法善寺庫裡)におじゃまをしてきました。昼夜2回公演の内、夜席が「染吉っちゃんの会 ゲストとの二人会」ということでしたので覗いてみたということです。最近、スケジュールの関係で、染吉の会も福丸の会にも行けてなかったということでのチョイスでした。その番組は、次のようなものでした。染吉&福丸「トーク」、福丸「桃太郎」、染吉「町内の若い衆」、福丸「猫の災難」、(中入り)、染吉「一文笛」。冒頭の「トーク」で、染吉が、福丸をキープするのが大変と一くさり。でも、この寄席は、福丸が番頭だから実現をしたとか。福丸の「桃太郎」は、以前にも聴いた記憶があり、桃太郎と名付けたら、名前がなかった時代のはずと突っ込むのが新鮮だったことが残っている口演。子どもに、いろいろと突っ込まれるため、噺の後半が、猛烈なスピードになるのも特徴です。こういった合理的な工夫がおもしろい「桃太郎」です。「町内の若い衆」は東京ネタで、上方で、他に手がける人って、いましたっけ。染吉は、随分と以前から持ちネタにしていて、以前にも聴いたことがあるのですが、いつのことかすら思い出せないほど以前です。この口演を聴いていると、やはり年季が入っている落ち着き、ゆとりのようなものを感じ、先日のコンペのときの口演が、かなり緊張のため、上ずりかげんであったことが確認できました。口かさのない女房は可愛さの欠片もないキャラとして描かれます。それはそれで、1つの持って行き方だと思います。そして、その方針に合った口演で、今まで聴いた染吉ベストの口演じゃないかなと思って聴いておりました。福丸の2つ目は、初演のときに聴いて以来となる「猫の災難」。鶴二からもらったネタですが、初演のときは、酔い方がまだまだで、これだから、若手の噺家さんが、なかなか酒の噺に手を着けないのだと思ってしまった記憶があります。演じている福丸が丸見えって感じの口演だったのですが、やはり時間をかけて育てるということの大切さを、今日の口演を聴いて痛感しました。頑張って演じようとしていた福丸自身の姿が、随分と後退していました。噺の中の人物に同化してきた証拠かなと思いました。どこがどういう風に変わったのでしょうね。「八五郎坊主」を聴いたときにびっくりしたように、こういった無頼漢が出てくる噺に、いい口演に出逢えます。福丸のキャラに一番遠い噺に、おもしろみが出るというのが、おもしろいですね。染吉の2つ目は「一文笛」。この米朝作品が、噺家さんの間で大人気。米朝一門という枠を越え、また、ベテランとか、若手とか関係なく、人気があります。テキストと身体の動きのバランスが、とても良く、その総体を観ていると、とっても稽古をしているのだなぁと、感心することしきりでした。ただ、ちょっとした間の緩急があればなと思ったことと、兄貴の台詞が、ちょっと上ずるために、兄貴の貫禄が甘くなったりするのが惜しいなと思いました。「法善寺寄席」は、ほんと小じんまりとした会場で、我々にとっては、とっても贅沢なところです。逆に、噺家さんにとっては、どうなんでしょうか。少なくとも、染吉には、やり易い会場なのかなぁと、その口演を聴いていて思いました。


2016年 1月 16日(月)午後 9時 29分

 今日は、昼間に所用があり息子と会い、夕方から京都シネマで、グルジア映画「とうもろこしの島」を観ることにしました。大阪で上映があったとき、うまく時間を合わすことができず諦めた映画が、京都でも上映されたのを、うまく掴まえたというところです。舞台は、グルジアからアブハジアが独立を主張して武装闘争が展開されている物騒なところ。その地域で、春になると、川の流れの関係で出現する中洲でとうもろこし栽培をする老人と孫娘を、坦々と追っていきます。自然の風景が、とてもきれいで、長閑な風景がたまらないのですが、時折聞こえてくる銃声の音が不気味に響き、この映画の向かうところを予感させます。確かに、予感したことが、このあと起こります。「アブハジア語が解らない」兵士が、とうもろこし畑に倒れています。今までの長閑な風景が吹っとんでしまいそうな出来事で、このあと、この兵士を巡り、グルジアを巡る大状況が、この中洲の老人と孫娘の生活を翻弄するのかと言えば、そうでもあり、そうでもなしなのです。確かに、一騒動らしきこと、また尾も引きますが、主題はもっと壮大。やがて、時が移り、刈り入れの時を迎えます。そこで、思いもしなかったことが起こります。季節的にできる中洲は、季節的に消える宿命だということです。自然の前に為す術のない人間、つい先ほど、どうなるのかとハラハラさせられた戦闘に巻き込まれるかというあの場面が、一挙に小さく見えてしまいました。この自然の所為と、人間の戦闘との対比という視点に、腹の底をえぐられたような感じになりました。やがて、また、新しい季節が巡って来ると、できかけた中洲を求めて、新たな畑を求める男がやってきました。自然に抱かれた人間の所為は繰り返されていきます。いい終わり方です。序盤は、畑作りの場面が、延々と、台詞もほとんどなく繰り返されていくので、ちょっと居眠りも出てしまったのですが、それも、この映画にはまった証拠かなと思わせられるところがありました。グルジアから素敵な映画がやって来たものです。


2016年 1月 15日(日)午後 7時 3分

 今日も落語を聴く日。今日は、最近では珍しくなった太融寺での落語会に行ってまいりました。「第81回 宗助はんの会」があったのです。建て替え前から太融寺で続く会です。その番組は、次のようなものでした。弥っこ 「犬の目」、宗助「べかこ」、生寿「豆屋」、宗助「帯久」。弥っこの前座って、どうした加減でしょうか、ほぼ遭遇経験なしと言っていいんじゃないかな。「犬の目」は、いろんな噺家さんがいじり倒しているのですが、弥っこの「犬の目」にも新しいものがありました。診察台が歯医者のそれになっているのに、くり貫いた目玉受けを、患者に持たしたり、佐ん吉の専売特許かと思っていた洗浄液にアタックを入れたり、、、ま、吉弥のスタイルなんでしょうが、吉弥の「犬の目」なんて、長い間聴いていませんから、判定のしようがありません。宗助の1つ目は、酉年ということで鶏の出てくる噺をチョイス。時間的にも、「帯久」とのバランスが取れますから、そういった意味でも、ナイスの選択。ただ、この「べかこ」は、演じ手が少ない。米朝の持ちネタにも拘わらず、直系の噺家さんで、持ちネタにしているのは宗助だけじゃないかなぁ。他門でも、三喬が持ちネタにしているくらいじゃないでしょうか。落語になっている噺の中でも、こればかりは異色の噺です。大名の娘が落語を聴いたり、絵の中から鶏が飛び出してきたり、噺家が主人公だったりと、まあ、不思議な噺が残っているものです。ゲスト枠は、なんと入門10年目の生寿。師匠生喬に言うと、前座かと聞かれたと言ってたくらいの起用です。その辺の話や、米朝直系の噺家さんに喚ばれた笑福亭の噺家の位置付けなんてことを、マクラにして大受け。ネタは、これまた、時間を考えつつ、また、最近演じ手を見かけない「豆屋」。先代の米紫が存命中は、出てくると、このネタを聴かされたものですが、噺が単純過ぎるからでしょうか、持ちネタにする噺家さんが出てきません。生寿は、師匠の生喬が持っていますから、そちらから入ってきたのでしょうが、生寿の描く豆屋さんは、子どものような声を出すので、好きになれないものですが、今日も、それを確認することになりました。怖い人を印象付けるために、弱そうな豆屋さんにしようとしているのでしょうが、やはり「ほど」を心得て欲しいなと思ってしまいます。宗助の2つ目は、なんと「帯久」が出ました。宗助の「帯久」は、初遭遇ですから、とってもラッキーなことになりました。米朝の教えだと思うのですが、体の姿勢からして、同じ和泉屋さんにしても、10年前と10年後では変えてきます。帯久然り、お奉行さん然りです。宗助のことですから、お喋りの中での人の描き分けは万全ですが、今日は、正に身体表現としての落語の醍醐味というものを、目の当たりにした思いがしました。今日は、ただ、帯久が借金に来たとき、お酒を飲まして帰すのが、20両のときだけだったので、単に抜かしただけなのか、何らの意図ありなのかが判定できなくて困っています。「帯久」が終わると抽選会。賞品が、えらく良かったのですが、今日も当たりませんでした。ぼちぼち当たる頃かなと思っていたのは、何とかの皮算用に終わりました。


2016年 1月 14日(土)午後 8時 50分

 今日は、この冬一番の冷え込み。京都は、雪が降ったらしい。らしいというのは、目が覚めた時間には、その僅かな名残だけを見ることができたからなのです。目覚ましをかけ忘れていたので慌てました。今日は、昼間の落語会に行くつもりをしていたからです。二度寝のために呑んだお酒が効きすぎました。今日の落語会は八聖亭。最近、よく行きます。今日は、「紫のつる~西へ飛ぶ~」という落語会がありました。上方の露の紫と、東京の林家つる子の二人会です。林家つる子は、噂の美人噺家さん。東京ででも遭遇機会がなかったもので、かなり楽しみにしていた会でした。その番組は、次のようなものでした。紫&つる子「トーク」、紫「看板のピン」、つる子「星野屋」、(中入り)、つる子「浮世床」、紫「中村仲蔵」。生つる子を見るのも初めて。少し喋り出してから受けた印象というのは、小顔、低い声でした。ですから、男の出てくる噺がやりやすいという特性を持っています。「星野屋」は、上方版と流れは同じですが、お母ちゃんというのは、下げのところでしか出てこない。お花が、奥にいるお母ちゃんに声をかけるということで、お母ちゃんの存在は意識させられるのですが、全く表に出てこないという設定になっています。この設定のメリットは、お花の腹の内が露見するのを遅らせることができるという点と、旦さんの誘いへの対応が、現場にならないと判らないという点です。種明かしが贈れる分、筋立てに引き込まれる度合いが高くなると看ました。師匠正蔵は、人情噺に凝っていると言われています。その薫陶を受けたからでしょうか、腹に持つ一物は顔に出さず、表に出る言葉、表情は分りやすくの使い分けへの心配りが見えたように思えた好演でした。2つ目は「浮世床」、こちらは、男ばかりの世界。無筆の男が、無理やり「太閤記」を読むところだけが演じられました。つる子の低い声って、誰かの声に似てるなと思って聴いていたのですが、判りました。菊池まどかの声です。一方の紫は「看板のピン」から。今日は、東京弁が出てくる噺2つを出すことになりました。ただ、その東京弁が完璧ではないため、ちょっと居心地の悪い感じもしましたが、ちょっとしたご愛敬か。「看板のピン」では、家賃の金を持ち出した男が、実際は賭けたのか引っ込めたのか判らないまま、前に進むなんてこともありましたが、アホげに格好をつける男が可愛くていいですね。「中村仲蔵」は、彦六の口演なんかが、耳に残っている身からすると、しゃきっとしない口演となるのでしょうが、一人の人間の偉人伝のような噺を、おもしろおかしく聴かせるというスタンスならば、上出来やと思います。当人は大変だったでしょうが、聴く方は、別に、しかめっ面をして聴く必要はないのであって、それはちゃかしていることにはならないはずですから、紫のスタンスに同感できるのです。紫の描く仲蔵のかみさんがいいですね、この人、結婚していたら、こないな女房になったかもと思わせてくれます。それに反して、仲蔵本人が、ちょっと物足りない。本人さんは、どこまで苦しんでるの、キャパが狭いんじゃないって思わせられた仲蔵でした。そんなで、紫の課題が見えた口演のようにも思えました。今日の紫は、今まで、そうじゃなかったのにと突っ込みたくなるほど噛んでました。「仲蔵」の後半では、自分に突っ込みを入れてるほどでした。どうしたのでしょう。こんな日もあるかというところかもしれません。終演後、外に出ると、寒さはおさまるどころか、一層厳しくなっていました。更に、京都に戻ると、雪が舞っていました。この雪ってやつが、大阪と京都との違いです。


2016年 1月 14日(土)午前 1時 23分

 今日は繁昌亭三昧の日。夜席と深夜夜席に行ってまいりました。まず、夜席は、「第54回なにわ芸術祭新人賞選出 新進落語家競演会」というコンペのあった日。上方落語協会から推薦された10年ほどのキャリアを持つ噺家さんのコンペです。かなり運命を決めると言われている出番は、くじ引きで決められ、その出番に沿い、番組が出来上がっていました。今年のメンバーは、ちょうど繁昌亭ができた頃に入門した噺家さんたちで、数が多い分、そこからの選抜メンバーということで、予測不能なコンペになることが期待できるものでした。その番組は、次のようなものでした。雅「あくびの稽古」、福丸「ふぐ鍋」、染吉「禍は下から」、小鯛「やかん」、咲之輔「いらち俥」、(中入り)、生寿「秋刀魚芝居」、ぽんぽ娘「引き出しの多い女」、団姫「松山鏡」。雅は、「あくびの稽古」を、よく出しているというのは知っていたのですが、最近流行りの、しっちゃかめっちゃかな稽古遍歴などは出さず、ごくオーソドックスな展開。ただ、あくびを見せるところで、漫画チックなものを見せるというくらいの変化。福丸は、黄紺的には、意外なネタのチョイス。ちょっとアナウンサーっぽい口調になる福丸の描くべんちゃら男は、いかにも作ったという感じ。染吉の「禍は下から」は、あまり演じ手が多いとは言えないネタ。東京の「権助魚」は、噺家さんに大人気なのですが。染吉は、やはり不器用な人という印象が、この口演でも思いました。キャラ作りの緩急が甘くなってしまいます。小鯛の「やかん」は鉄板ネタと言っていいと思えるもの。こうしたコンペでは、得意ネタを持っているというのは強いですね。実にいいテンポに緩急が加わります。ここまでで、完全に一抜けたという印象を持ちました。咲之輔は、「いらち車」の方ではなく、「紙入れ」の方を出すのかと思っていたところ、外されました。もちろん、「いらち俥」は、彼にとって勝負ネタになるネタだということをは了解しているのですが、こういったコンペで高評価を得たべ瓶の二番煎じと受け取られてしまうことが見えているので、むしろ、ここまでの空気を変えることができる「紙入れ」かなと、黄紺は思ったのでした。中入り明けの好位置を確保した生寿は、芝居噺を持ってきました。なかなか考えたチョイス。それだからでしょうか、とっても落ち着いた高座。普段でも感じたことのない風格のようなものが出ていました。「秋刀魚芝居」の田舎言葉が、そのため際立ち、とってもいい出来と、黄紺の目には映りました。ぽんぽ娘は、ピンク落語を出すのかどうかが気になっていたのですが、やらなかったですね。「引き出しの多い女」では短すぎます。トリを選んだ団姫は「松山鏡」。しっかりとした語り口は、以前からの持ち味。「松山鏡」を出すなら、「一眼国」の方が、団姫の良さが出るのにと思っていたのですが、時間的に無理だったのかな。全員が終わり、審査結果が出るまで、司会の吉次と出演者全員でのトークショー。黄紺的には、小鯛と生寿の2人が抜けたかなと思って待っていたのですが、結果は、団姫が新人賞で、小鯛が奨励賞でした。団姫は、これで、繁昌亭大賞の輝き賞に次ぐ受賞です。あのときもそうだったのですが、受賞してもいい人が、他にもいるのに、彼女がさらってしまったって印象です。歴史は繰り返しました。せめて、小鯛の方が上だったら、もやもやは、遥かに小さいのですが。
 夜席が終わるのが、存外に早く、約1時間待ちで「乙夜寄席」になりました。年内に行われた乙夜寄席が、想定以上の動員をしたということで、現在、新たに3月までの番組が発表されていますが、その新年第1発目が今日になりました。1月からは金曜日開催に変わっています。その番組は、次のようなものでした。慶治朗「子ほめ」、眞「忍法医者」、三幸「500回目のウソ(仮題)」。慶治朗の「子ほめ」は、これで何度目になるのでしょうか。聴くたびに、どんな噺家になっていくのだろうという楽しみが増していきます。眞は、「大師匠が珍しい噺をたくさん持っていたので、その1つをやります」と言ってから「忍法医者」へ。確かに珍しい。聴いたことのあるものですが、以前、誰で聴いたのか思い出せないほど、レアなネタです。憑きものの噺で、憑いたものが排除されるごとに、新たな憑きものに悩まされます。この荒唐無稽さがたまりません。眞は、噺が終わると、得意のどじょう掬いを披露してくれました。三幸は、奔放なマクラに磨きがかかっています。今日は、そのマクラが客席にマッチしたようで、随分とボルテージが上がりました。他の噺家さんとは、明らかに違う感性の持ち主というのが魅力の三幸ワールドが全開してました。その流れで、ネタへ。男女の別れと、その勘違いを描いたものですが、あくまでも三幸テイストのもの。途中、三幸の熱唱が入りました。今日は、60人以上の入り。若い人たちが多いのには驚かせられました。


2016年 1月 12日(木)午後 11時 20分

 今日も、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「小鯛の落語漬け~桂小鯛落語勉強会」がありました。その番組は、次のようなものでした。りょうば「ろくろ首」、小鯛「試し酒」、雀太「胴乱の幸助」、(中入り)、小鯛「稲荷俥」「強情灸」。今日の動楽亭も、昨日同様の結構な入り。その原因を、2日ともにゲストに喚ばれた雀太に帰する声が、客席で囁かれていましたが、ま、それは、NHKでチャンピオンになった雀太をネタにした軽口と思っておきましょう。生喬も、小鯛も、それだけの集客力を、十分に持っているのですから。前座はりょうばというのも、出来すぎと言えるメンバー構成。ざこば組の前座ネタの定番「ろくろ首」を出してくれました。最近、どこかで出したのを見かけたのですが、黄紺的には、遭遇は初めてでしたが、これが素晴らしかった。今まで聴いた「ろくろ首」の最高の逸品でした。何かが乗り移ったかのような迫真の口演。気の乗った口演というものの持つリアリティを漫喫させてもらえました。小鯛は、1つ目に、ネタ出しをしていた「試し酒」を持ってきました。この師匠塩鯛の得意ネタを、確か、小鯛は、京都での一門会で、暮れにネタ下ろしをしたはずです。黄紺は、もちろん初遭遇。若手の噺家さんでは、雀太は別格として、なかなか酒の噺に取り組むことが少ないという傾向があります。ま、難しいということだからでしょうが、その中で、よりによってというネタに取り組むチャレンジ精神を買わねばなりません。何が難しいかと言って、このネタは、酔いを、段階的に変化させねばならないのです。しかも、既に5升を呑んでしまっているという制限があります。しかも、それを、表に表せないという制約までありますから、酒のネタの中でも、半端じゃないものだと、黄紺は思っています。塩鯛の口演では、顔色も変わっていっているように見えるほどの、見事な酔いっぷりを見せてくれます。いきなり、そこまでは無理として、小鯛の酔いっぷりは、なかなか様になっているのじゃないかな。ただ、それは、1升呑んだあとの変化で、これなら酒の噺はいけるじゃないという範囲の話で、では、そのあとの変化を表せたかというと、これは、今後の楽しみにするしかないと感じました。3升目を呑むときには、都々逸の文句を言いながら呑みますが、ここでは、都々逸の文句を聴かせるのが焦点ではなく、久蔵が、酒を楽しんでる、要するに「呑む」方に焦点が行ってなければならないはずですが、都々逸の文句を現代風にアレンジするなんて、余計なことをしてしまってました。そして、5升目を呑むのに、かなり苦労して呑む姿にしましたが、どうなんでしょう、塩鯛流の方がいいような気がします。10升も呑む男なわけですから、ここは、あっさりと呑むようにして、下げに合理性を設けた方が賢明なんじゃないかな。ということで、注文のようなことを書いてしまいましたが、これは、期待したいから。なんせ、大変なネタですから、時間をかけて育てていって欲しいと思います。その期待のかけがいのある噺家さんですものね。2日続きのゲストとして雀太が登場、懸念されたのは、違うネタを出してくれるかどうか。ところが、マクラで、自身の関学入試の話をしたものですから、あちゃ~と、一時はなったのですが、違いました。「粗忽長屋」じゃなかったら、これかもと、期待を込めて予想していたものが出てきて、大当たり。序盤の相対喧嘩で、その口演の前途が決まる噺です。序盤の2人は、この噺の筋立てには、一切関係がないのに、噺の正否を握るという役割を担っていると思っています。もちろん、割り木屋のおやっさんのキャラを印象付けることにもなるのですが、序盤の相対喧嘩のアホげさが出ないと、噺全体のありえなさも出ないと思っています。そういった意味で、濃いのだが、しつこさを感じさせない雀太のキャラ作りは巧いのです。今日は、「桂川連理柵」のキャスティングで混乱が見られましたが、それはご愛敬というところでしょうか。正に、NHKのチャンピオンの技を見せつけた口演と言っていいのじゃないでしょうか。トリの小鯛は、上がるなり「短いのを2つやります」と言って、やおら「稲荷俥」に入って、びっくり。その時点で、8時38分になっていましたから。まず、「稲荷俥」自体、小鯛が持っていることを知らなかったものですから、これはめっけものというところ。冒頭の情景描写で暗さが出たのはいいのですが、ただ乗りをする客の風格が、ちょっと弱いですね。年齢的に難しいかもしれませんが、それが弱かったために、産湯稲荷に近づくほどに、暗さは深まり、そして、狐と偽ることに合理性(=怖がらす合理性)が出てくるはずのところがぼやけたなの印象となりました。でも、後半はばっちり。「稲荷俥」が終わると、ジャスト9時ということで、ちょっとあせりながら「強情灸」へ。こちらは、ざこば組の定番。ちゃっちゃと進み、省くことなく下げへ。15分も要しない口演でした。今日は、会場が、かなり暑かったのですが、居眠りなしで完走。こういうときもあるのだと、そないなことを考えている自分の基準が逆さまになっていることに気づき、せっかくいい気になっていたのに、結局はがっくり。しかし、完走できて、且つ、その会のグレードが高いと、やっぱり、満足度は上がりますね。正に、この2日間の動楽亭はそうでした。


2016年 1月 11日(水)午後 10時 51分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「生喬百席 第三十九夜」がありました。優先度を高くしている会のわりには、タイミングが悪く、半年以上も、ご無沙汰をしてしまった会、今夜の番組は、次のようなものでした。生喬「時うどん」、雀太「粗忽長屋」、(中入り)、生喬「駒長」。以前は、長々と近況報告をしてから、ネタに入っていたのですが、今日は、今年いっぱいで、「百席」目を迎えるため、その後の会の持ち方を喋ったのと、新しく作る手拭いについて喋ったくらいで、早々に、東京と大阪の麺類の違いの話に入り、事実上、「時うどん」のマクラに入りました。学校公演で出すことで、テキストが精選されていったとかで、エッセンスだけが残った噺となっていました。ゲスト枠は雀太。いろんな会にゲストに喚ばれ、幕内で大人気の雀太ですが、NHKのチャンピオンになり、一層、声がかかっていきそうな勢いです。「じこしょうかいをします」と言って、修行中に経験した「交通事故体験」を話してくれたのですが、それは、ネタのマクラにきっちりとなっていました。東京ネタで、最近でこそ、南天なども手がけ出していますが、その先駆けになったのが雀太。やっぱり、すっとぼけたキャラは惹き付けるものを持っています。ただ、爆発力に物足りなさを感じてしまったのは、周りの人の反応に一工夫欲しいという余地を残したからだと思います。生喬の「駒長」は初遭遇、ようやく出逢えたというところです。元来が東京ネタですから、上方での演じ手がいないはずと思っていたら、福楽も持ちネタにしているそうですが、とにかく遭遇機会が稀なるネタ。金をせびるために、ウソの間男をでっち上げ、金を巻き上げようとした夫婦だったが、妻が裏切り、ウソから生まれた真というやつで、巻き上げるはずの男と逐電してしまうという噺。10年後に再会する話が、蛇足のような感じで、最後に付け加わります。じっくりと語りを聴かせる場面、アクセントを付けるように笑いを誘う場面と、構成からして、生喬の見きわめが冴えていて、聴かせる噺になっていました。志ん生系の噺ですので、音源を探して、生喬のいじりを、もう少し丁寧に押さえてみることにします。


2016年 1月 10日(火)午後 11時 27分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「ガブリエル・フォーレ― 室内楽全集 vol.3 ―」の日で、(ピアノ)岸本雅美、(チェロ)上森祥平で、次のようなプログラムでの演奏会がありました。「チェロソナタ 第1番 ニ短調 op.109 (1917)」「チェロソナタ 第2番 ト短調 op.117 (1921)」。よく似た印象の2曲、第2番の第2楽章の朗々たるメロディの印象が強く、若干、2番の方がポピュラリティがあるのかもしれません。ちょっとぎこちないと書けば、変な表現ですが、それを、オーナー氏は、モダンジャズの先駆けと表現されましたが、特異なリズムで始まる1番、黄紺は、そのリズムに、どれだけうまくフォルテピアノをかぶせることができるかで、全曲を楽しめるか否かが決まるとすら考えています。実は、黄紺にとっては、レアな曲ではないのですが、せっかくのコンサートに行くのだからと、Youtubeあさりをして、事前学習をしていたところ、今日の演奏者である上森さんが、ピアノの大井浩明さんとのデュオで演奏されているものを見つけたので、早速聴いてみたのですが、最後まで聴かずに止めてしまいました。1つには、あまり録音環境が良くなく、かなり、ピアノとチェロのバランスが悪く、チェロが聴きにくいということがあったからなのですが、冒頭から駆け抜けたって感じで、また、緩叙楽章も表情を読み取れず、面白みを感じなかったなんてこともありました。で、実際、生で聴いた場合は、どうなんだろう、でも、ちょっと不安だなの心持ちで、コンサートに臨みました。冒頭のピアノはきつかったなと、いきなりダメ出し。上森さんの疾走も、変わってないぞ、でも、音は出ている、、、だけど、カフェモンタージュで聴くときの上森さんのチェロ特有のハスキーな音のまま、1番は進行。ピアノとの絡み方ってのが、よく解らないまま終わったって感じでした。2番になり、件の第2楽章で、ようやく黄紺的満足に浸れるチェロの音に出逢えました。そういった音に出逢える一方で、出逢えないことが多く、他の会場で、上森さんのチェロを聴くときには出逢わない音。天井が低く、狭いスペースが作り出す特有の音かもと思っているのですが、生で、実際に耳に入ってくると、ちょっとイエテル状態になってしまうのです。2番の第1楽章までは、そうだったかなと思います。今、家で、1番をかけながら、これを書いていますが、それを聴いていると、ピアノとチェロの絡みというものは、いずれの箇所を聴いても、納得がいくようにできているなと、今更ながら、フォーレの音楽に舌を巻いていますが、今日の演奏で、それは解らないままだったってことは、やはり、なにがしかの問題があったってことなのでしょうね。懐深く、いかに溜め込んで、息を長く弾くかで、フォーレのチェロ・ソナタに対する共感が変わってくるのでしょう。疾走感だけでは寂しく、音だけの世界に陥ってしまいます。音の洪水にしてしまってはいけないはずです。そういった意味で、ホント、難しい曲だということを、再認識させられました。


2016年 1月 9日(月)午後 7時 25分

 今日は落語を聴く日。新年に入り、9日目になるにも拘わらず、落語会は、まだ2回目です。今日は、高津神社であった「文太・噺の世界in高津の富亭~"これが噂の..花の香りに包まれて"」の第2部に行ってまいりました。第1部は、午前中に開演ということでパスしました。第2部の番組は、次のようなものでした。二葉「3年2組の高田君」、天使「饅頭怖い」、ぽんぽ娘「ブスの品格」、(中入り)、眞「松竹梅」、文太「火焔太鼓」。今日の狙いは、二葉とぽんぽ娘のネタ。二葉の「高田君」はあやめ作品、それを、二葉が持ちネタにしたというので、このネタに、今一番合った演者だろうと思ったことが1つ、また、二葉サイドから見ると、この選択肢はいい線行ってると思ったことが1つで、聴いてみたかったのですが、なかなか当たらなかったのです。実際聴いてみると、高田君へのアタック方法を教えられ、2つ試して失敗し、もう、下げに繋げましたから、短縮したのかなぁ。ま、それはいいとして、この路線で行くというよりか、こういったネタもあり~ので、やはり二葉は、古典の中の天然系アホを演じるのがベストかなぉと思ってしまいました。「高田君」では、リアルに過ぎる感じがしてしまったのだと思います。一方のぽんぽ娘、ひょっとしたらとは思っていたのですが、当たりました。彼女が、「ピンク落語」と銘打って創ったネタを、普通の落語会で出すのが初めてだったのです。幾つか創り、「ピンク落語会」と看板を出した会で演じているのは知っていたので、その内容を知りたかったのです。メイド漫談で下ネタをする、そういった内容なのか、それとも、違った趣向なのか、です。答は後者と、黄紺は看ました。人によっては、前者と見る向きがあるかもしれませんが。一般の落語会での初めての口演ということで、緊張があったのか、マクラで、ピンク落語を創るに至ったわけを喋りました。真摯な内容で、ライヴの落語は、演者の生きざまが伝わるものでなければならない、その方法が、自分にはピンク落語だったという趣旨だったと思います。単語や表現に、性に関わるものが散りばめられてあるのですが、そういった放送禁止用語を並べて、それを笑うという露悪的な噺ではありませんでした。あやめ作品は、等身大の女性を、自分の年齢、境遇などを反映させながら、リアルタイムの女性を描いてきました。路線としては、それと同じものと看ました。ただ、ぽんぽ娘は、性描写を厭わずできるとして、そこに踏み込んだだけで、ぽんぽ娘の実年齢よりちょっと下の世代の男女を、リアルタイムで描き出しました。かつて、宮原昭夫の芥川賞を受賞したときの作品を読んだときに感じたときめきのようなものを感じながら、ぽんぽ娘の口演を聴いていました。聴きようによっては、現代版人情噺と言えなくもありません。彼女は、アバンギャルドな道を歩き出しているのかもしれませんね。この2人を目当てに行ったものですから、あとの2人は、ちょっと脇役になってしまいました。それぞれ、初遭遇のネタを聴くことができました。天使の「猫好き」のマクラがおもしろく、この人、こないなマクラもふれるんやと思っていると、ネタに入ってからも、だいぶと腕を上げたなの実感。なんか喋り口調に重みが出てきた感じ。時間の関係か、おやっさんの怖い噺は割愛されました。真も、年季のなせる業か、落ち着いた喋りっぷりに好感。「松竹梅」は、上方では、松五以外では聴いたことはなく、ここにも、珍品志向を見てしまいましたが、まだまだ、前で上がる機会が多い年頃ですから、いいものを手にしたと言えるでしょう。割り台詞の稽古のところで、もうちょっと遊んでもいいのじゃないかな。そして、トリは会主の文太。年が明けてから10席目とか。新年から、えらく頑張っています。定番の何でも鑑定団のマクラを振るのですが、文太は、持ちネタが多いですから、なかなかネタが判らないのが嬉しいところ。冒頭、おかみさんがぼやいていて、「火焔太鼓」と判明。最近は、上方でも、噺家さんの間で、「火焔太鼓」が人気で、演じ手が増えていますが、元祖と言える演じ手が文太。序盤で、おかみさんのわわしさが、うまくテンポに乗ればしめたもの、今日もばっちり。やっぱ、長年の勘は冴えてました。文太の「火焔太鼓」は、いつも楽しませてもらっています。今日は、高津神社のとんどまつりに合わせての開催。外では、高津の富を仕切る染左の大きな声が聞こえていました。


2016年 1月 9日(月)午前 5時 17分

 昨日は浪曲を聴く日。定例の一心寺門前浪曲寄席に行ってまいりました。1月公演は、3日間の顔ぶれを変えての公演は、毎年のことなのですが、自分的には選んだ試しがありません。今年もそうで、両脇の日に、行きたいものがあるため、好むと好まざるに拘わらず、昨日行くことになったのですが、なかなかのお気に入りメンバーで、しかもネタが良く、ラッキーなこととなりました。その番組は、次のようなものでした。真山隼人(沢村さくら)「円山応挙」、五月一秀(沢村さくら)「墨田八景」、浪花亭友歌(沢村さくら)「男の花道」、京山幸枝若(岡本貞子、京山幸光)「左甚五郎」。昨日は、幸枝若師を除いて、それぞれの演者さんでは聴いたことのないネタが並びました。最近なかったことで、開演前はわくわくしていました。隼人くんの「円山応挙」は、一連の歌謡浪曲から離れたシリーズでネタ下ろしをしたのは知っていたのですが、遭遇は初めてとなりました。筋立ては講談のそれに似てはいますが、雰囲気はかなり違います。講談では、かなり「幽霊」という語句に引っ張られ、モデルとなる薄幸の女性を、かなり惨めな境遇に置きます。打ち捨てられ、誰にも顧みられない女郎ですが、浪曲の女性は、宿の仲居で、体調を壊しても、店の人から看病を受けている、ただ、病からやつれて、その姿が幽霊のようというだけですから、陰湿さというものからは縁遠く描かれています。ですから、素材を得た応挙が、自らの腕で幽霊に仕立てたというところでしょうか。更に、幽霊画が描かれたあと、幽霊としてと考えればいいのか、その女性が、幻として、しかも、元気な美しい姿で応挙の前に現れ、応挙が、今度は美人画を描くとなります。実の親は、その美人画を見て、我が娘と知るということですから、講談のような演出は採りにくいテキストになっていました。講談の「円山応挙」を知る黄紺からすると、かなり拍子抜けです。「墨田八景」は、一秀さんのネタ下ろしでした。「墨田」と題名に着き、しかも、冒頭のテキストが、「伊勢物語」の「東下り」の一節でしたから、南華さんが持ちネタにされている梅若丸伝説を移し替えたものかと思ったのですが、そうでもありません。「墨田」から能「隅田川」を連想し、そこからインスパイアされたものと言えばいいでしょうか。梅若丸からのインスパイアとも、従って言い替えることができます。ですから、親子の別れを描いただけが繋がるのであって、あとは繋がりを見いだすことはできませんでした。ほぼ、2人の男の対話形式で進行します。1人は、何やらの事情で娘が離れて行った男、もう1人は、その娘を、最近近くで見かけたと言い、過去を水に流して、親子再会を果たしたらと誘いますが、誘われた男が拒否をすると、もう1人が、突然、金の無心をし出します。女がいる、子どももいるが、その女と別れなければならない事情ができたので、金を貸して欲しいというわけです。信用がある男と見えて、金を貸してもらい、2人が別れるところで終わります。ですから、実態が判りませんでした。黄紺だけかもしれません、何かポイントとなる言葉なりを聞き落としたのかもしれないのですが、黄紺の記憶ではそうなのです。娘のために金を借りただけなのだろうか、それとも、娘が親元を離れたことに、その男が関係があるのでしょうか、、、浪曲を聴いて、こんなに曖昧な終わり方をしたので、焦っていますが、浪曲の可能性も看た思いがしました。語り芸として考えると、今までなかったような可能性って出てくるかもしれません。大衆芸のままだと、無理ですが。「男の花道」は、骨太の講釈ネタ。落語としても、林家正雀師で聴いたことがありますが、浪曲では初めてのはずです。簡単にまとめると、中村歌右衛門と眼科医土生玄碩との友情物語と言えるもの。摘まみ食いが、浪曲の得意技なので、どのようにまとめるのかと思いきや、ほぼ全編をなぞってました。ですから、各挿話が薄くなり、全体として看ると、上げ底の薄っぺらいものになってしまったのは、致し方のないことかもしれません。更に、友歌さんの口演では、やっぱ厳しい。線が細い人がするネタではありません。いいネタだからやってみようじゃなくて、持ちネタを増やすときは、まず己を知らねばならないことを、改めて痛感しました。そして、最後の「左甚五郎」はおなじみのネタ。「天王寺の眠り猫」の前半と考えればいいのでしょうか。甚五郎が、名前を偽り厄介になっている大工の親方が彫るのに替わり、眠り猫を彫るに至るまでのお話です。滑稽な味が冴える幸枝若師の十八番ネタです。会場は大入り。正月公演だからでしょうか、好メンバーが人気を呼んだのでしょうか、雨のなか、大勢の人が詰めかけ、びっくりさせられました。


2016年 1月 7日(土)午後 11時 36分

 今日は二部制の日。午後に、文楽劇場での公演記録観賞会に行き、夜は、昨日に続き、カフェモンタージュでのコンサートに行ってまいりました。まず、公演記録観賞会ですが、今日は歌舞伎の日で、「七つ面~上の巻 星合栄景清/鎌倉頼朝館の場、下の巻 難有賀景清/江の島岩屋の場」が上映されました。平家滅亡後、その仇を討ちたい景清が、愛人阿古屋、娘人丸らとともに、ある者は姿を変え、頼朝の館を訪れ、七つ面の舞の最中に頼朝討ちを狙うのですが、結局は失敗。お縄になり投獄されたのは洞窟のなか。その洞窟からの脱出は、天岩戸のパロディになってました。まんまと脱出した景清一党は、めでたく宝船に乗り、自分たちを七福神になぞらえ、新春を寿ぐという趣向になってました。はっきり言って、おふざけが過ぎる狂言です。源氏の世など見たくないと、自身の手で、両眼をくりぬいたという景清でもあるわけですから、黄紺などは、景清ものと言えば、陰鬱な空気が支配するものと思い込んでいますから、完全に目が点になりました。序盤の面を使い分けた舞踊は、ま、阿古屋が出てきた分、芸尽くしになるとの覚悟ができていますから、許容できたのですが、もう、それでも、かなり譲った気分がありますから、それ以後の展開には呆れるしかありませんでした。冒頭、口上と称し、梶原平次景高役の岩井半四郎が言ってましたが、この狂言は、これが上演された昭和58年に復活されたものだそうです。荒唐無稽に過ぎる狂言が、なぜ復活されたのか、その辺を知りたいとは思いましたが、それとて、どうでもいいかと思ったほどの呆れ方をさせてもらいました。配役は、歌舞伎に詳しくない黄紺にも判る名役者が揃っていました。面打ち赤右衛門こと、実は景清を、昭和の名優2代目松緑、面打ちの黒佐(三保谷の四郎国時)が、その息子の辰之助(3代目松緑)、小姓嵐丸が、その息子の左近(現松緑)と、3代が揃い踏みです。阿古屋が4代目雀右衛門、江間の小四郎義時を17代目羽左衛門など、役者が揃っていました。
 文楽劇場を出ると、今日は、大阪で時間調整をしてから、京都への大移動。今夜は、今日から始まる「G.ルクー室内楽全作品」シリーズの「vol.1」として、ピアノ四重奏曲が取り上げられました。演奏されたのは、「C.サン=サーンス: ピアノ四重奏曲 変ロ長調 op.41(1875)」「G.ルクー: ピアノ四重奏曲 ロ短調(1888)」の2曲で、演奏者は、(ピアノ) 多川響子、(バイオリン)馬渕清香、 (ビオラ)岩井英樹、(チェロ) 上森祥平の4人の方々でした。ルクーの室内楽を、生で聴ける機会は少ないということでしょうか、大勢の人たちが詰めかけたコンサートになりましたが、その期待に、十分応えていただいたものだったと思います。ルクーの室内楽って、同時代ないしはそれ以後のフランス音楽の中でも、異次元のものだと思う黄紺にとっては、冒頭、失敗だったかと、正直思ってしまいました。丁寧に、各自が弾かれるのはいいのですが、それぞれが、全然絡んでくるようには聴こえてこなかったのです。やたら、上森さんのチェロだけは歌っているけど、一人だけじゃ、どうしようもない、歌っているチェロと言えど、絡まっていかず、孤高を保とうとしている、そないな感じで推移していっていました。次回は、ルクーの中では、最も知られたバイオリン・ソナタだけど、止めようかななんてことまで、頭に浮かんで来る始末。それが、変わってきたぞと思い始めたのが、2楽章の終盤、4つの楽器が、同じリズムを刻みながら強奏するところから。この辺りからのスパークは素晴らしかった、実に。ルクーに入り、各楽器に短いソロが入るようになってから、岩井さんのビオラに、一層の自己主張を求めて欲しいとは思いましたが、稀有な世界を持つルクーの音楽を楽しむことができました。もう、これで、何があっても、このシリーズを、全て追っかける気持ちが固まりました。オーナー氏の口ぶりでは、ルクーは、今日のユニットで回して行かれるようですので、却って今後の楽しみが増えたと思っているところです。


2016年 1月 6日(金)午後 11時 45分

 今日は、今年初めてカフェモンタージュで、音楽を聴く日。今夜は、「ソナタと変奏曲~ ベートーヴェン ピアノとチェロのための作品 vol.3~」と題して、チェロの金子鈴太郎、 ピアノ:の奈良田朋子というお二人によるコンサートがありました。この間続けられてきたベートーベンのチェロとピアノの作品シリーズの最終回でした。演奏されたのは、「L.v.ベートーベン:ピアノとホルンまたはチェロのためのソナタ ヘ長調 作品17」「L.v.ベートーベン:"恋を知る男たちは"の主題による7つの変奏曲 変ホ長調 WoO 46」「L.v.ベートーベン:チェロソナタ 第3番 イ長調 作品69」でした。「ホルン・ソナタ」なんてのが、ベートーベンにあるなんてのを、このコンサートのプログラムを見て、実は、初めて知ったのですが、ましてや、そのチェロ版となると、わけが解りません。一応、「ホルン・ソナタ」の方は、事前学習をしていったのですが、どうもなじめないままでした。ホルンの音の流れに、なじめないままだったのですが、チェロ版だと、ホルン版で聴いたときのような抵抗感というものがなく、時々、チェロになじみにくそうな音の跳びがあるので、ホルンからの移植版だと判るくらいで、こちらの方が、ずっとなじみやすい。金子さんのチェロは、ガット弦を使われていますが、独特の響きをも併せて楽しませていただきました。2つ目の変奏曲は、「魔笛」の中から取った主題の7つの変奏。リズムを変えたり、移調したりと巧みなものです。そして、メーンは、このシリーズのメーンともなる3番のソナタ。数あるチェロ・ソナタの中でも、ポピュラリティでは最上位にランクされるもの。ピアノの奈良田さんに、「有名曲は弾きにくい」と言って同意を求められてから、いざ出陣という感じで弾き始められました。この曲を、どのように弾くかは、冒頭、チェロが主題を呈示するところで決まると思っています。ここの弾き方とは異なる弾き方をすれば、コンセプトがバラバラということになると思っています。テヌートをかけて、ゆったりと、更にたっぷりと弾いたり、時によっては、ロストロさんのように、オーラの漂う神がかり的な弾き方で、いきなり頭を捕まえられて、音楽に引きずり込まれてしまうなんて経験のある箇所です。で、今日の金子さんはと言えば、猛烈とは言いませんが、ぐいっとのめり込むが如く弾き抜いたってところ。となると、かなり息せききった展開になりました。おまけにガット弦は、弓に引っ掛かりがいいのか、その気がなくともアクセントが付いたような音が流れますから、余計に強く、前掛かり的に音が流れるという印象が生まれてしまいました。そのチェロの音の流れに対し、奈良田さんのピアノの音色が、随分と明るくきらびやかに聴こえてきました。そんなで、新年初めてのコンサートは終了。終演後は、いつものワインとジュースに替わって、お正月らしく、甘酒と日本酒が振る舞われました。





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