忙中閑あるかな? 黄紺の日々


トルコのこと、キプロスのこと、こんなことを主に、日々思うこと。ときどき、韓国のこと 日本のことも混じるかも? 仕事に忙しくっても、頭のなかは、トルコのこと、キプロスのこと考えてる。 頭のなかは、いたって長閑。それが、、、、、、

黄紺、なのさ。


2019年 3月 31日(日)午後 7時 12分

 今日は二部制の日。午前中にトークショーに行き、午後はコンサートという一日でした。まず、午前中は、蔦屋書店枚方市駅前店であった「落語ときもの」というトークショー。1週間ほど前に、くまざわあかねさんのツイッターで見つけたもの。ただ、そのときには申込みの要が記されてなかったものですから、ぶらりと出かけたのですが、京阪枚方市駅に着く直前に、くまざわさんのツイッターで時間確認をしたところ、申込みの要が書かれていて、愕然。慌てて電話を、枚方市駅から入れました。事情を言ったところ受け付けていただけたのですが、入れるかは保障できないとの回答。ここまで来て、あっさりと帰るわけにもいかず、会場まで行くと、なんてことはありません、電話をしたことは伝わってはいなかったのですが、経緯を話すと、係の方はあっさりと入れて下さいました。ということで、そのトークショーについて書くことができます。で、くまざわさんの対談相手は、笑福亭生喬師だったのです。この二人の対談だったからこそ、最初、くまざわさんのツイッターを見たときに飛び付いたのでした。主催が、蔦屋書店と和装関係の出版者とのコラボだったもので、当然、生喬の使う高座衣装について、実物を見せながらのトークになりました。コーディネーターはくまざわさんなわけですから、こういった着物から帯、小物に至るまでの生喬のこだわりを知り抜いた上でのプロデュース。生喬は生喬で、そのニーズに十二分過ぎるくらいのトークでした。着物柄のコンセプトが「昭和」であったり、紋にタカラヅカを思わせるスミレがアレンジされていたり、そういった生喬の遊び心が楽しいものになりました。最後は、くまざわさんが、自身が好んで使っている帯を、パワーポイントを使っての紹介でお開きになりました。黄紺には、縁のない和装のお話したが、落語に関わるお二人の和装へのこだわりを楽しく聴けて、大正解。客席には、和装のおばさま方が詰めかけたトークショーでしたが、韓国で洋食屋さんに入る勇気を発揮すれば、十分大丈夫でした。
 枚方を出ると、そのまま淀屋橋に向かい、いつものように歩いて、シンフォニーホールに向かいました。移動時間は大丈夫と思っていたのですが、京阪電車を途中下車をして、軽く買い物をしたからでしょうか、昼食は、シンフォニーホール近くで慌てて摂ることになりました。今日は日曜日ということで、マチネーで関西フィルハーモニーの定期演奏会がありました。今日も、ブルックナーが出るということで、オケのコンサートに足を運ぶことになりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番 イ長調 K.219 “トルコ風”」「ブルックナー:交響曲第9番(ノヴァーク版)」。なお、指揮は飯守泰次郎、ヴァイオリン独奏はヴェロニカ・エーベルレでした。前説で明かされた飯守泰次郎の年齢は79歳とか。そりゃ、新国立劇場から手を引くはねと思って聴いていて、その目で見たからかもしれないのですが、飯守さんの歩様は、かなりおぼつかない。かなりの爺さんのもの。それに反して、ヴェロニカさんは、まだ20代のヴァイオリニスト。歳の差コンビのモーツァルトは、お出かけが午前中だったもので、いい気持ちになり聴いてしまいました。ヴェロニカさんのヴァイオリン、いくら大ホールでの演奏とは言うものの、線が細いかな。モーツァルトはともかくも、ブルックナーは長丁場ですから、飯守さんの体力は大丈夫だろうかなどと気にしながら、飯守さんの出を待っていると、確かに歩様が爺さんになっている。やはり不安が増してきました。でも、指揮ぶりは、年齢を感じさせなかったなぁ。特に2楽章のスケルツォは、最近聴いた9番では、抜けた迫力でした。その若々しい指揮ぶりに、今日の関西フィルは鳴ってました。パワーを感じさせるものがありました。ですから、うまく合ったのですね。毎年1作品、ブルックナーのシンフォニーを手掛けてきた成果ってやつでしょう。ただ、1楽章と3楽章は、あと少しの細やかな音の変化があると、大味感が残るということもなかったでしょう。飯守のブルックナーということで、ブルックナー好きの人たちが、正に大向こうに陣取っていたようで、その方角から、まことに的確なブラヴォーの声。いいもの聴いたという印象があるときに、こういった大向こうの声って、必然的に高揚感が、より高まるものですね。で、客席に向かい一礼をして、引き上げる飯守さんの歩様は爺さんに戻っていました。


2019年 3月 30日(土)午後 9時 8分

 今日は、ロームシアター京都のパークプラザ3階共通ロビーを使って行われたトークショーに行ってまいりました。半年ほど前に1度行ったことのある頗るグレードの高いイベント。今日は、「“いま”を考えるトークシリーズ Vol.8 障害と芸術の関係をめぐって」と題されたものでした。ゲストとして招かれたのは、長津結一郎(九州大学大学院芸術工学研究院助教)さんと村川拓也(演出家)さんのお二人でした。長津さんは、研究者の立場から、障害者の芸術活動への参画、これを「社会包摂」を呼んでおられましたが、その現実、あり方、社会の変化などについての発言。一方、村川さんは芝居の演出家。実際、ご自分の作品「Zeitgeber」のさわりを見せて、障害者の出てくる芝居を作った経緯などをお話されました。ただ、このお二人のお話の結び付き方が解らない黄紺。村川さんの芝居作りは、着想が、とってもそそられるもの。村川さんの友人で、ヘルパーを仕事とされている方が、日々介護をしている姿を、そのまま舞台上で見せるというもの。その介護される人は、首から下が、ほとんど動かないという障害を持っている人。その役を、会場に客として来ている女性の中から選び、実際、舞台上で介護されるというもの。もちろん仕事として、日々の勤務は9時間あり、舞台上では、その内のピックアップして、約1時間にしたもの。舞台上で介護に当たる人は、日々の動作そのままにすればいいのですが、演出家としては、少なくとも1時間にまとめ、舞台で見せるためのものを作るという作業を行っているというもの。こないな芝居を、素材として提示されたわけですが、村川さん自身は、障害者を舞台にあげてはいませんし、障害者が演じると言っても、ヘルパーに身を預けるだけという役割で、「社会包摂」ではなく、障害者の姿をリアルに舞台上に現出させただけなわけで、どうも、お二人の話が交わらないまま。もちろん、そういったことは承知で、長津さんは、村川さんをトークのお相手に選ばれたということでした。村川さん自身も、自分がここにいるわけを尋ねてられましたし、質疑応答に中でも、この点を正すものも出てきて、主催者側や長津さんからも、お話がありましたが、黄紺には接点、クロスする部分が見えないままで終わりました。3番手の目として、主催者の目、即ち、芸術を市民に提供する劇場側の目も話題にしたそうでありながら、話題には成りきらずということもあり、黄紺には消化不良がつのってしまいました。終わって外に出ると、また雨降り。止みかけては降りを繰り返す雨が、この頃、続きます。そないな帰り道、高校時代の友人宅に寄り、小1時間のお喋り。呆気なく1日が過ぎてしまいました。


2019年 3月 29日(金)午後 11時 45分

 今日も、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「R.シュトラウス」と題して、(チェロ)藤森亮一、(ピアノ)多川響子のお二人のコンサートがありました。そのプログラムは、次のようなものでした。「F.メンデルスゾーン:無言歌 作品109 (1845)」「R.シューマン:幻想小曲集 作品73 (1849)」「R.シュトラウス:ロマンス ヘ長調 (1883)」「R.シュトラウス:チェロソナタ ヘ長調 作品6 (1883)」。R.シュトラウスのチェロ・ソナタがメーンという珍しいプログラム。R.シュトラウス・イヤーだからでしょうか、20歳にもなってないR.シュトラウスの作品が取り上げられました。まず、この作品がプログラムに並んでいるのすら、寡聞ながら黄紺は知りませんし、これ出すのだったら、同時期に作曲されたヴァイオリン協奏曲が世に出てもいいものと突っ込みたくなる黄紺なのです。あまりおもしろくない曲というのが、黄紺が持っていた印象の曲。やっぱ習作なんて、そないな目で見ていました。そして、今日聴いてみて、総体としては、その印象のまま。ただ、第2楽章だけは、ピアノとのバランスは良くないなとは思いながら、変化があり、楽しめそうとは思いました。幾度も聴ける曲ではないので、そういった印象を熟成させていく機会って、ま、ないでしょうね。R.シュトラウスのソナタはやむを得ないのは折り込み済み。そこんところを補ってくれたのは、シューマンでした。生き生きとした藤森さんのチェロは期待通りのうえ、多川さんのピアノが良かった。前日の強靭なタッチが業を仕掛けたブラームスと違い、傍らを、一陣の風が吹き抜け、人の髪や服を巻き上げるかのような雰囲気を作る風のよう。デュオは、こういってくれないとといった感じで、それが、一番顕著に感じることができたのが、シューマンだったというわけです。元々はクラリネット用の曲だそうですが、違和感なしで聴くことができたのも幸いしたのかな。前回、藤森さんのチェロはただ者ではないとの印象を持ったものですから、今回も飛びついたのでしたが、やはりクリアな音、レガートがきれいなど、やはり、今日もそうでした。京都出身の方なようなんで、こうやって聴くことができるのかな? だったら、今後も期待大です。新たな機会を待ってもいいみたいですね。


2019年 3月 29日(金)午前 6時 43分

 昨日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。昨夜は、「夢」と題して、(クラリネット)ディルク・アルトマン、(ピアノ)岡本麻子のデュオの演奏を聴くことができました。ディルク・アルトマンさんは、ルードヴィヒ・チェンバー・プレイヤーズ・シュトゥットガルトのメンバー。同アンサンブルは、今まで、2度、そのコンサートを聴いたことがあるのですが、なかでも、この方のクラリネット演奏は印象に残るものだったため、この機会を逸してはということで行ってまいりました。その演奏曲目は、次のようなものでした。「C.ドビュッシー:クラリネットとピアノのための狂詩曲 (1909)」「J.ケージ(arr. by M.Ucki) Dream (1948)」「O.メシアン:幼子イエスに注ぐ20のまなざし より “喜びの聖霊の眼差し” (1944)」「J.ブラームス:クラリネットソナタ 第2番 変ホ長調 op.120-2 (1894)」。メシアンだけがピアノソロ。ですから、演奏会は、その前とその後に仕切られたって感じ。その中で、黄紺的にはドビュッシーが一番。もちろん演奏がという点で。アルトマンさんは、曰くがあるのでしょうか、この曲は、ピアノの弦の部分に楽譜を置かれ、客席に背を向けての演奏。そして、やおら体を反転させ、立ち位置も岡本さんの横に移し始まったのがケージ。本来、ヴィオラ用の曲だったものをクラリネットに移し替えたものだそうです。ドビュッシーのくぐもった曲想に対し、快活で明るい曲。でも、プログラムを知らなければ、間違いなくケージの曲とは判りませんでした。そして、ブラームスの前に、岡本さんの超絶技巧のメシアン。思いっきり強いタッチの持ち主、唖然とするほどの強靭さです。突き指をするんじゃないとまでの不安。ピアノを聴いてて、初めて、そないなことを考えてしまいました。10分程の長さでしたが、このあとのブラームスに障りが出るのではと、スタミナって意味ですが、そないなことを考えてしまいました。オシャレだったのは、気分転換を図るためでしょうか、丁度、噺家さんが、前の出番の人と、あまりに芸風が違うときに、マクラで、自分の空気にしていくように、アルトマンさんは、クールダウンをする如く、また、客席に背を向けて、ドビュッシーの一節を吹かれ、やおら、客席に対面されると、ブラームスを始められました。めっちゃグーな演出。期待のブラームスは、少々テンポを速めに取ったもの。ただ、いただけなかったのは、懸念されたピアノの引きずり。ドビュッシーのときなどは、その気配すらなかったのですが、だから引きずったと言わざるをえないのですが、ここでも、メシアンのタッチに近い強靭なタッチで弾かれたものですから、ちょっとクラリネットのじゃまをしちゃいましたね。そんなで、若干、ブラームスに乗りきれなかったのですが、おもしろいプログラム構成だったことは間違いない事実。また、ルードヴィヒ・チェンバー・プレイヤーズ・シュトゥットガルトは日本ツアーをされるでしょうから、そのときには、白井圭さんだけではなく、アルトマンさんもコンサート開いて欲しいな。待ってますよ。


2019年 3月 28日(木)午前 6時 15分

 昨日は落語を聴く日。昨日は、幾つかそそられる落語会が揃った日でしたが、その中からツギハギ荘であった「サクッと 吉の丞 12サクッ~桂吉の丞の落語を聴く会」を選びました。吉の丞の全くの一人会です。その吉の丞が3席。ネタは、次のようなものでした。「試し酒」「素人浄瑠璃」「一文笛」。いずれも、トリネタとなるものが3つ並びました。「試し酒」は、以前、この会で聴いたことのあるもの。塩鯛からもらったと言ってました。独演会の二番手で出ることがあり、なかでも兄弟子の吉弥の会に出ることが多く、吉弥の持ってないネタ(現在吉弥は持っているそう)をというけとでもらったネタと言ってました。黄紺は、お酒の噺ができる吉の丞だからこそのネタと思っていたのですが、もらうきっかけは、えらく目先のことだったのですね。前回聴いたときに比べて、余裕を感じるお喋り。ちょっと突っ張るような口ぶりだったのが消えてましたものね。気に入ったのは、久蔵と旦さん方2人とのお喋り。久蔵の無邪気さを、すんなり受け取ることができました。これが、しっかりしていると、下げがスカッと決まります。「素人浄瑠璃」は、「寝床」の 終盤をカットしたもの。昨日がネタ下ろし。南光からもらったのかな。旦さんが、ちょっと若いけれど、会心の運び。ちょっと早口、でも、その方が、脊髄反射的な素直、いや駄々をこねるような感情表現には、プラスに働いていたように思いました。久七の報告、聴き慣れているのに、吉の丞の口演に新鮮な印象を持ってしまったのは、1つ1つの報告が、速めの、でも同じテンポで畳み掛ける、そういった調子のいいところがあるからでしょうね。ネタ下ろしなのに、えらく完成度の高いもの。「寝床」名演集への仲間入りです。10分ほどの休憩を置いて、「一文笛」が出ました。吉の丞で聴いたことあったかなぁ。答えは最後まで出ずじまいでしたが、噺の雰囲気として感じたのは、明治のレトロな雰囲気&鬱屈した空気からはちょっ離れていて、明るい空気というのが特徴。その辺は、歳の功が作用していくのかもしれませんね。かなり満足度高しの会、この3つが並び、クォリティーが高いお喋りなものですから、そら上がります。


2019年 3月 26日(火)午後 10時 41分

 今日は映画を観る日。シネヌーヴォで、スペイン・アルゼンチン映画「家へ帰ろう」を観てまいりました。予め判っていたのは、爺さんのロードムービーであること、そのルートは判らないにしても、起点がアルゼンチンで、終点はポーランドであること。そういったルートであるから、恐らく旅をする爺さんはユダヤ人であろうと想像していました。もちろん当たりだったのですが、映画が始まってしばらくは、それが判らないように作ってありました。ロードムービーなので、エピソードが連なるオムニバス形式になります。その個々のエピソードのおもしろさ、そして、それらを貫くテーマらしきものを感じさせることができるかで、ロードムービーの勝負は決まってくると考えています。ま、誰が言っても、そうなるでしょうが。そのエピソードは、次の4つに分かれていました。エピソードの数としては、どうでしょうか、少ないなの印象ですが、、、。①発端、主人公の爺さんがポーランドに向かうきっかけ②飛行機内&マドリッド市内(音楽雑誌を読む若者とホテルの女、マドリッド在住の娘)③パリ東駅~ベルリン(イディシュ語もスペイン語も話せるドイツ人女性)④ワルシャワに向かう列車内&ワルシャワの病院&ウッチ(病院の看護師&○○)。①で、爺さんは、老人ホームに入ること、そして傷めている(後にユダヤ人迫害が原因らしいと判明)右足の切断が既定の事実として、娘たちや孫たちとの別れのシーンから始まるのだけれど、爺さんは、それを嫌がり、人生の最後に成し遂げねばならないと考えていることを実行に移します。②では、ホテルの自室に盗人が入り、持ち金を失った爺さんが、絶縁状態にあった娘に会い、金銭的援助を受けるところ。娘との関係が、いまいち判らず、娘の態度を掴みにくいところがありました。③のパリ東駅で、爺さんは、インフォメーションに行き、ドイツを通らないでポーランドに行ける方法を尋ねるのだけれど、実現性が乏しいので、係官も周りの人たちも笑ってしまうなか、何か事情があるのかと声を掛けたのが、ドイツ人女性。ドイツ人と判り、驚きたじろぐ爺さん。この女性の、寄り添うとか気には掛けるが、それに留め、爺さんの言うことを否定しないスタンスが、このエピソードのいいところ。その辺りが解ったのか、別れのところでは心を開いたかなという感じで、このエピソードは終わります。結局、ドイツ抜きはありえないので、③の最後は、ベルリン乗り換えのシーンだったと、勝手に決めつけています。でも、ベルリン中央駅でも東駅でもなかったような。ま、ロケは無理でしょうからね。ワルシャワに向かう列車内で、ナチス時代の思い出との混乱が起こり、昏倒する爺さん。その看護に当たった女性に、ウッチまでの同行を求め、それに応えてもらったのが④。そのウッチの目的地、それは、かつて爺さんが住んでいたところ。会いに行ったのは、爺さんらユダヤ人の追放が起こり、そのあとに住むようになった父親の下で働いていた職人の息子。爺さんと同年代の息子は、逃亡してきた若き日の爺さんを匿い、そのおかげで、爺さんは生きることができた、そういった関係の男を、人生の最後に訪ねようとしていたというわけでした。総体的に言うと、やっぱりエピソードに欠けるっていうことが、気になりました。もう1組は出してほしかったな。あまりにあっさりとポーランドに来てしまったなの印象を持ってしまいましたからね。


2019年 3月 25日(月)午後 11時 36分

 今日は講談を聴く日。毎月定例の月「第260回旭堂南海の何回続く会?」(千日亭)に行ってまいりました。今日読まれたのは「釈迦御一代記(参)~提婆達多とはナニモノか~」でした。今日は、前回に続き、釈迦の10大直弟子か、弟子になっていった経緯が読まれました。既に2人については終わってましたから、その続きです。その中には、釈迦が出家した直後に生まれた実子や、釈迦国の王位継承予定者、それに、高名な修行者も含まれていました。その7人目までは、しっかりと聴けてたのですが、今日はそこまで。提婆達多の名前は出てはきていたのですが、肝心の釈迦とは出逢う前に居眠りしてしまってたのですが、最後に、それは次回と、南海さんは言われたので、ちょっとホッとしたかな。そして、この物語は、次回が最終回になるそうです。


2019年 3月 24日(日)午後 7時 1分

 久しぶりに、お出かけしなかった一日。記録を調べてみると、昨日まで33日間連続、お出かけ日となっていました。せっかく休日を増やそうとしていたのですが、やはり京阪電車の定期券を持ってしまうと、ついつい出かけてしまいます。そんなで、久しぶりに家の近くを、午前と午後に1回ずつのウォーキングが復活させることができました。そないなことをしていると、お出かけなしでも、実に時間が経つのが、早く感じてしまいます。真冬と違い、陽が長くなっているにも拘わらずにです。でも、陽が長くなった分、午後のウォーキングを、ゆっくりと組むことができて助かります。でも、今日は、ゆっくりした分、夕方、外に出ると寒くて、、、。


2019年 3月 23日(土)午後 6時 32分

 今日は二部制の日。午前中は、京都文化博物館で講演を聴き、午後は、京都シネマで映画を観てまいりました。京都で、しかも、行き先はご近所同士ということで、とっても効率のいい動きになりました。まず、午前中の講演会ですが、こちらは、今、同博物館で開かれてい特別展「北野天満宮 信仰と名宝 ―天神さんの源流―」の関連イベントとして開かれたもので、「北野天満宮のアーカイブズ」という題で、京都大学名誉教授の藤井讓治氏のお話を伺うことができました。これは、黄紺には難しいお話でした。現在、残っている宝物や文献史料の分類、その中でも後者が、如何に現代まで伝えられてきたのかが、大きなテーマだったように思います。特に、明治に入って行われた廃仏毀釈により、それらが、実際散逸したのが、戻ってきた道筋などは、どこかで、残そう、固めようの意思が働いたのではと思えるほどのことでした。ただ、それらの史料が残ってきた経緯が話される中で、北野社の運営の実際も知ることができたのが、黄紺のような者には、一番の収穫だったのかなと思います。専門的に追及しておられる方たちに加えて、黄紺のような人は、そんなに僅かではなかったと思いますから、もう少し、浅いお話が用意されたらありがたかったのですが、この調整が、恐らく、企画する立場になると、なかなか難しいのでしょうね。
 京都文化博物館を出て、軽く昼食を摂り、京都シネマへ。こちらでは、アイスランド映画「たちあがる女」を観てまいりました。先日来、2度、同シネマに足を運んでいる内に、興味を持った映画の1つでした。しばらく映画鑑賞をご無沙汰していたのですが、一旦行き出すと、こういった数珠繋ぎ的に映画館に足を運んでしまいます。今年の力ンヌ国際映画祭・批評家週間の劇作家作曲家協会賞受賞とか、2019年アカデミー賞アイスランド代表作品といった肩書きを持った映画です。フェミニズムと環境問題、それに、国境を越えた養子縁組、これらが絡んだ映画ということで、期待を持ち映画館に足を運びました。会場は、「老若女女」という状態で、男性は僅か。でも、男はおっさんだけだったのが、ちょっと心強かったかな。主人公の女性は、コーラス指導者にして、環境破壊に実力を持ち闘う行動派。その実力行使が、アーチェリーを使ったり、鋸で鉄線を切ったりとアナログな手法を採っているのが、主人公を通じての監督のこだわりでしょう。主人公の中では、それを含めて、心性の部分で、見事に統一性を見せているのが、最大の魅力。コーラスの指導という点も、その統一性を表す一つでしょうし、外国(具体的にはウクライナの戦争孤児)から養子を迎える心性も、見事に統一性を作り出しています。出自について触れるシーンがありました。彼女は、「○○ヴィク家」の出となっていました。ご丁寧に「ヴァイキング」の正当な名を引く女性となっていました。自らの大地と社会を産業化から守るのは、血のなせる業、この地に住む者としての必然的な帰結とでも言おうとしているようでした。もう一つ解らなかったのが、養子縁組が決まったところで、再度、大勝負を挑むかのように、破壊活動を開始するところでした。でも、考えてみると、母となる自分を、新たに子どもとなる者に見せよう、そして、次は育児に向かおうとしたのかもしれないなと思いました。終盤、彼女の思惑が破綻したかと見えたところで、痛快と言っていいのか、ちょっと難しいところですが、大逆転が用意されていました。「いとこらしき者」になった男性も、「ヴァイキング」の血を引く共生感を持ったのでしょうね。大逆転用意で、すんなり終わるのかと思っていましたが、最後のウクライナの場面は、皮肉なものを用意しましたね。誰か知り合いで観た人がいれば、この終わり方を始め、主人公の生き方など、意見交換してみたくなる作品です。


2019年 3月 22日(金)午後 11時 34分

 今日は講談を聴く日。千日亭であった「南湖の会 ~赤穂義士外伝特集~」に行ってまいりました。この1週間で3回の講談会に行く予定ですが、今日は、その2回目となります。その番組は、次のようなものでした。「那須与一」「豊志賀の死」「赤穂義士外伝/天野屋利兵衛」。会場に入ると、馬場光陽の音源が流されていました。幕内で、修羅場読みの一番との評価のある講釈師さんだそうです。黄紺は、そのお名前も知らなかったものですから、来歴など、南湖さんに教えていただきました。黄紺の耳にも、修羅場が名調子であることが判るものでした。南湖さんの口演は、今日は、ポピュラーなネタが並びました。でも、誰しもが持ちネタにしてそうな「那須与一」を、南湖さんの口演で聴くのは、初めてじゃないかなぁ。随分と前に口演したままで、「今またやってみたくなりました」と言われていました。「扇の的」の話をするときに、玉虫前が持ったから、この話ができたようなもので、「おっさんが持ってたら、おっさんを射てまえになったはず」には、会場、大爆笑。こうした発想が入ると、聴き慣れたネタも新鮮です。「豊志賀の死」も、南湖さんの口演では初めてのはず。上方では、南華さんだけかと思っていました。最近、怪談に凝っている南湖さんが、新たに仕入れたネタかもしれません。これを機に、「真景累ヶ淵」の他の話も口演して欲しいものです。そして、今日の「赤穂義士」は「天野屋利兵衛」でした。黄紺は、この有名なネタを、あまり好きではないため、このネタかと思ったとき、ちょっとがっかりしたものです。やはり、拷問の場面を強調した構成になるものですから、黄紺的には聴くに耐えない、そないな感じになってしまうのです。ところが、南湖さんの口演は、その辺りに目配りをしたもので、「天野屋利兵衛」を、初めてまともに聴けると思いました。天野屋利兵衛の侍のような気質が説かれ、禁制品を発注するときの光景が、丁寧に描かれた上で、取り調べ、拷問のシーンに入って行ったからでしょうね。 そして、最後は、討ち入り場面の修羅場読みで締まる読み物になっていました。


2019年 3月 22日(金)午前 7時 53分

 昨日は、大阪ステーションシネマで、ロイヤル・オペラのライブビューイングを観る日。昨日までの1週間、「スペードの女王」(ステファン・ヘアハイム演出)の上映が行われていたのです。京都でも上映があるのですが、上映開始が早朝で、しかも、京阪電車の定期券がある身には、電車代を考えると安上がりなため、梅田まで出かけてきました。いつも、メトロポリタンのライブビューイングを一緒に観ている福井在住の友人は、今回は、東京で観るとか言ってましたから、昨日は一人で行くことになりました。そのキャストなどをメモっておきます。(ゲルマン)セルゲイ・ポリャコフ、(リーザ)エヴァ・マリア・ウェストブロック、(エレツキー公爵)ウラディーミル・ストヤノフ、(伯爵夫人)フェシリティ・パーマー、そして、指揮はアントニオ・パッパーノでした。プーシキンの原作をオペラ化した、このチャイコフスキーの作品、ロシア語ということもあり、ドイツでも上演が稀れで、黄紺も、これが出るからと、頑張ってブラウンシュヴァイクに行ったことがあるというもの。おかげで、生ギネス・ジョーンズを聴けるという恩恵を受けた記憶もある記念すべき作品。もちろん、こうした形であっても、日本で観るのは初めてというものでした。この公演、当初は、ゲルマンをアントネンコが歌うことになっていたのですね。事前に撮ったインタビュー映像や練習風景は、アントネンコが映っていましたから、キャンセルは直前だったようです。ロンドンの冬の寒さが原因と、MCの女性は言ってました。まず、このプロダクションは、なかなかおもしろい試みをしています。チャイコフスキーを、舞台に登場させたのです。しかも、ほぼずっと。エレツキー公爵との二役でということです。そして、ゲルマンの恋の行方を描くとともに、チャイコフスキーの苦悩をも描くという構造になっていました。そないなこともあり、開演前に、専門家を呼び、MCの人とが、チャイコフスキーについて、特に「スペードの女王」が作曲された時期のチャイコフスキーについて、お話がありました。当然、チャイコフスキーのセクシュアリティについての言及があり、同時代には、オスカー・ワイルドが同性愛者として裁判にかけられる時代ですから、チャイコフスキーの苦悩も推し量れます。チャイコフスキーは結婚をしていたようですから、話がややこしい。その辺に、リーザをゲルマンに取られてしまうエレツキー公爵と似ているということで、この新しいプロダクションでの試みとなったのかなと思っています。それと、チャイコフスキーは、本曲の作曲家なわけですから、そういった立場からの指示を出したりしていたのですが、ただ、チャイコフスキーにまつわるエピソードは限られているわけですから、同じモチーフが繰り返し使われたりするものですから、飽きが来てしまったってのが、正直なところ。チャイコフスキーは、コレラ菌の入った水を、敢えて自ら飲み自死したというエピソードや、これは、恐らく最終幕の博打場面に入る直前に歌われる戯れ歌(男は枝を伸ばしているだけで女という小鳥は群がるというもの)からのヒントではないかと思われる鳥かごを、チャイコフスキーのアイテムとして、頻繁に登場させたり(性的嗜好が囚われの身というメタファーか?)といった具合でした。同性愛嗜好を表す動きも、度々使われましたが、イエテル気味の一方で、黄紺的拍手だったのは、エカテリーナ2世を、半裸体のおっさん、それも、マッチョ系のおっさんにしていたのは、やられてみると納得だったのですが、突如、おっさんが現れたときは、やられたという印象を持てました。チャイコフスキーの物語でもあるとするため、装置は、全幕、チャイコフスキーの自室、そして、ピアノが常時置かれており、そこで使っている楽譜が、いろいろと使い回しをする小道具になっていました。歌手は、やはり、圧倒的にエヴァ・マリア・ウェストブロックが抜き出た存在。この人のインタビューが、開幕前に流れたのを観て、びっくり。体躯も立派で、ベビーフェイスの顔立ちというのが、今まで舞台姿を映像で観てきた印象でしたが、最初流れたときは、誰だか判らないほど、小じんまりとした普通のおばさん。あまりに華のないお姿に、ただただ驚いたのですが、いざ、オペラが流れると、いつものお姿に、もう1度、びっくりさせられました。声と立ち姿に魅力のあるエヴァ・マリア・ウェストブロック以外の歌手陣は、チャイコフスキー物語が前面に出るものですから、エヴァ・マリア・ウェストブロックほどには存在感を発揮できず、ちょっと影が薄かったな。パッパーノは、いつに変わらない彫りの深い演奏、インターヴァルでのピアノを弾きながらの楽曲解説は、いつものように名調子でした。今や、このライブビューイングの楽しみになっています。終演予定が午後10時45分ということで、最後の幕が終わると、慌てて時計を見ました。幸い予定通りだったので、事なきを得ましたが、それでも、家に着いたら、既に日が替わっておりました。


2019年 3月 20日(水)午後 10時 50分

 今日は、珍しく二部制の日。最初は、夜の講談会だけを予定していたところ、昼間に素敵なコンサートがあることを知り、あとから放り込んだのでした。そのコンサートとは、兵庫県立芸文センターであった「ワンコイン・コンサート/秋元孝介 ~ロシアの風を奏でるピアノ」でした。秋元孝介さんは、今、話題の葵トリオのメンバー。それを知らないで、カフェモンタージュであった幣隆太朗さんのコンサートで、ピアノを担当された秋元さんのピアノを聴き、その巧みな演奏に驚き、そこで初めて、ネットで調べて葵トリオの一員だと知り、その旨を、びわ湖ホールで中野振一郎さんのコンサートを聴きに行ったとき会った知り合いに話すと、今日のコンサートを教えられ、急遽、チケットを手配したというわけです。で、今日のコンサートのプログラムは、次のようなものでした。「ラフマニノフ:前奏曲嬰ハ短調“鐘” op.3-2」「チャイコフスキー:四季 op.38bより”は“6月『舟歌』”9月『狩りの歌』“”10月『秋の歌』“」「ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 op.36(1913年初版)」。初めて「ワンコイン・コンサート」なるものに行きましたが、人間の欲望は大きいですね。秋元さんが、いかに地元出身とはいえ、2回公演で、大ホールが満杯にこそなりませんが、大入り。「ワンコイン」の効果は絶大です。コンサート自体は、秋元さんが、曲の合間にお喋りを入れながらの進行。コンサートの演目としてありそうで、あまりないラフマニノフで、チャイコフスキーを挟むプログラム。やはり、きらびやかな音に圧倒されるピアノ・ソナタが圧巻。冒頭の「鐘」の力強いタッチも、なかなか聴かせてくれましたし、「四季」の静かな2曲では、柔らかなタッチから出る優しい音楽と、多彩な音を紡いでくれました。1つだけ気になったのは、大ホールだったからでしょうね、ペダルの踏み込みが深く、音が濁ることが、度々あったことかな。帰りがけには、このコンサートを、びわ湖ホールで教えていただいたご夫婦にも遭遇。ちょっとしたお喋りをして、西宮を辞去することになりました。
 芸文センターを出ると、梅田経由で天満橋へ移動。ちょっとしたミニウォーキングのつもりで、梅田からは扇町公園を抜けて歩いての移動。そして、夜は、天満橋駅近くの双馬ビルの一室を使い、隔月で開かれている「南華の会」に行ってまいりました。今日は、今後の会の案内を手短に話されると、すぐにネタへ。それは「赤穂義士伝~堀部家の娘~」。3月は、刃傷のあった月ということで、赤穂義士関連月になるということで取り上げたとのお話が、冒頭でありました。今月に入ってから、そういったことから、「高田馬場」を何度か読んだとも言われていました。今日は、その「高田馬場」を読むのではなく、その後、即ち、安兵衛と堀部の娘との結婚からが、主たる読み物。でも、安兵衛の来歴を外すわけにはいかないということで、安兵衛が読まれるときには、必ずと言っていいくらい出る言い方、「生涯に3度仇討ちをした男」から始まりました。すると、新発田時代の仇討ちのみならず、やはり、本題のネタ振りも兼ねて、読む予定ではない「高田馬場」を振り替えざるをえなくなりました。そのおさらいは、やはり時間を要しますね。ですから、結婚話も、はしょりながらという感じで、細かく読むと、結婚に至るまでには、幾つかハードルがあるのですが、わりと、あっさりと乗り越える話になっちゃいました。そのあとが、黄紺的には新しい物語。3度目の仇討ち、即ち、吉良邸への討ち入りで、安兵衛が亡くなったあとの物語が、黄紺には初めてでした。弥兵衛の娘にして、安兵衛の妻の物語です。出家をします。そして、広島藩に預かりになっている浅野内匠頭の弟浅野大学の復権に努めるという展開でした。直訴をしたりするのですが、それが、どのような結末になったか、この肝心なところで、今日の昼夜を通じて、唯一の居眠りが発生。結末が判らないのです。さすがに、決まりが悪く、南華さんにお尋ねするのは諦めました。次回には、東京でもらってこられた「牡丹灯籠」が聴けそうですよ。


2019年 3月 20日(水)午前 5時 4分

 昨日は落語を聴く日。昨日は、わりとそそられる会の並んだ日でしたが、黄紺は、動楽亭の「小鯛の落語漬け~桂小鯛落語勉強会」を選択。その番組は、次のようなものでした。弥太郎「阿弥陀池」、小鯛「尻餅」、花丸「厩火事」、(中入り)、小鯛「錦の袈裟」。開場後間なしに、会場に着いたところ、直前に見慣れた落語ファン氏がおられたのですが、黄紺を見ると、「今日は少ないぃ」と一言。やはり、いい会が揃ったのが影響したみたい。最終的には、普段よりは若干少なめ程度には入っていました。前座役は、久しぶりに遭遇の弥太郎。年期明けの頃は、よく前座にお声がかかっていたのですが、最近はみかけなかった顔。「阿弥陀池」は、師匠吉弥の薫陶よろしくって感じで、吉弥テイストの詰まったテキスト、身ぶりが、徹底されていて好演。「心猫」から始まるボケを、なかなか終わらせないのに、好事家からも大きな笑いが上がっていました。一気の立て弁も稽古の成果が詰まったもので好演でした。ゲスト枠は、これまた若手の会のゲスト役では、ほとんど見たことのない花丸。花丸の「厩火事」は初遭遇だったのですが、これが良かった。近年、ざこば以来、上方でも「厩火事」を手掛ける噺家さんが急増していますが、その中で、群を抜いた出来栄えと看ました。なぜかと言うと、あまりにテキストを省き過ぎて、登場人物の内、特に兄貴と駆け込んで来る女房のキャラが薄っぺらくなってきているのに、花丸の口演を聴いて気がつきました。花丸の口演は、この2人のキャラに深みがあるのです。女房の亭主を含めた3人の人間関係に深みがあり、そのため、兄貴が掛ける声にリアリティーが、しっかりと現れてきていると思えました。この口演は、いい口演が居並ぶかなでも、近来稀にみるハイレベルなものと思いますし、花丸が、今まで以上の高いステージに上がったような気がしてしまいました。そして、主役の小鯛は、最近、あまり持ちネタにされることの少ないネタを披露してくれました。季節ものの「尻餅」がネタ下ろしのようでしたが、どうやら、冬の間に仕上がらなかったようで、季節外れでの初披露となりました。どこやらの会でネタ下ろしを目論見ながら、もらった師匠との間で稽古日の調整が不調に終わったと言ってたのは、この「尻餅」かもしれません。恐らくネタ下ろしということで、もらったテキストそのままやったのでしょうね、序盤は古風な印象を持ってしまいました。寝床に入った夫婦の会話なんて、省いてしまっていいかもしれませんね。ところが、いよいよ家に入って、亭主が小技を見せる辺りで、居眠り。またも、いいところで記憶が途絶えています。「錦の袈裟」は、今やレアもの。帰り際、お見送りをする小鯛に、ネタの名を尋ねて帰る人がいたほど。黄紺も、この前、誰で聴いたのでしょう、しん吉かな? それ以外で持ちネタにしている噺家さんを思い出せないほどです。ですから、噺が始まって、ネタが判るまで、ほんの僅かでしたが、間が開いてしまったほどでした。黄紺世代には、どうしても、円三の好演が頭に入っていて、あのテンポの良さにしびれたものですが、小鯛は後追いできそうないい感じだと思い聴いていたら、喜ぃ公が袈裟を借りに行く辺りで、ここでも居眠り。結局、この噺の山場、喜ぃ公が袈裟の褌を披露するところは、居眠り最中になってしまいました。小鯛が主役なのに、しかも、耳にする機会の少ない噺のところで、居眠りって、どうしようもありません。振り返ってみると、全体的に、かなりクォリティの高い会であったことは事実です。でも、居眠り。もう、まともに、人の話を聴くことが無理になってきているのかもしれませんね。


2019年 3月 18日(月)午後 10時 52分

 今日は、フェニックスホールで音楽を聴く日。今夜は、関西弦楽四重奏団(ヴァイオリン:林 七奈、田村安祐美、ヴィオラ:小峰航一、チェロ:上森祥平)の「べートーヴェン:弦楽四重奏曲 全曲ツィクルス 第5回」がありました。カフェモンタージュでの全曲ツィクルスは、2回ほど抜けましたが、今ツィクルスは、皆勤できそうです。今夜演奏されたのは、「弦楽四重奏曲 第2番 ト長調 op.18-2」「第13番 変ロ長調 op.130/“大フーガ”op.133」でした。前半に作品16から1曲。後半に、後期傑作群から1曲という組み合わせですが、この13番が、なかなか大変。なんせ、最初に終楽章、即ち「大フーガ」があり、書き直された終楽章ありということで、カフェモンタージュでのツィクルスの際は、確か現行の終楽章を弾いたあとに、別枠で「大フーガ」を演奏されたのですが、今日は、原型に戻るということで、終楽章として「大フーガ」を演奏して、アンコール扱いのような形で、現行の終楽章を演奏するというスタイルを採られました。確かに、このスタイルで聴くと、とんでもなくお尻でっかちな印象は否めません。恐らく、そのあたりが嫌われ、書き直しが求められ、ベートーヴェンも受け入れたのでしょう。でも、この13番は、長大ではない楽章が5つ連なったあとに、終楽章が来るということで、重厚な「大フーガ」はありかなと、こうやって聴いてみると思えました。また、終楽章の前が、「カヴァティーナ」と名が付けられている、とっても美しい緩叙楽章を受けるならば、このくらいの重厚さがあってこそ、いいバランスになるのではと思いました。こうした「大フーガ」を抱える13番に対して、2番の、何と長閑なことか。初期の爽やかさを代弁するかのような、快活で明るさを備えた演奏は、今回のツィクルスの白眉かもと思える演奏でした。そして、そのノリで入っちゃったかなと思える13番だったため、4楽章までが、「ちょっと軽くない?」と自問するほどでした。、「カヴァティーナ」も、その延長線にあったようで、うだるような音のうねりまでは行ってなかったなぁ。ところが「大フーガ」に入ると、明らかなるギアチェンジ。上森さんのチェロが基軸となり、様々な角度から、音が流れ込んでくると言えばいいでしょうか。今日は、13番については、いつものように、小峰さんがお喋りをされましたが、それだけではなく、最後のシメの挨拶は、珍しく林さんがされました。いよいよ、あと1回となりました。


2019年 3月 17日(日)午後 7時 16分

 今日は、京都で音楽を聴く日。京都コンサートホールであった「京都市交響楽団 第632回定期演奏会」に行ってまいりました。この春、待望のコンサートの1つで、広上淳一指揮で、「マーラー:交響曲第7番ホ短調“夜の歌”」が出たからです。耽美的という言葉で表すと、最もマーラー的と言える7番のシンフォニーですが、一般受けをしないからか、なかなかライブでは遭遇できない代物。そんなですから、黄紺的には外すことのできないコンサートでした。今日は、この1曲だけというコンサート。入口で「休憩はございません」と、まことに日本らしいメッセージが伝えられ、しかも、定刻より5分遅らせて、楽団員が舞台に登場。それでも遅れてくる人が、結構な数いましたから、わけ分かりません。広上さんは、開演前のトークで、「演奏するのは2回目」「前回はアマチュアのオケ」と言われていました。この人のキャリアでそうならば、ご本人が7番には関心がないか、聴く方が関心がないかでしょうが、やはり後者なんでしょうね。黄紺も、生で聴くのは、数年前に、同じ京都市交響楽団で出たときに聴いたくらいじゃないかなぁ。大規模な3番の方が、聴く機会が多いのが現状ですから、いかに聴く機会が少ないかということです。で、まず始まってすぐに感じたのは、先日のびわ湖の「ジークフリート」のときに比べると、今日は音が出ていると思ったのが1つ。そして、時間が経つにつれて、正直、退屈になっていきました。もちろん最終楽章は、勢いに惑わされてしまうので除外しますが、その前までが退屈だったのです。単調に過ぎました。上に耽美的と書いたのですが、そういったコンセプトで音楽作りがされていると、この単調さがたまらないのだけど、大枠が違ったというところでしょうか。以前、京響で3番(大野和士指揮)で聴いたときも、こんなだったと、余計なことを思い出してしまいました。終演後は、今日も、昨日と同じコースをウォーキング。ファラフェルのお店だけは寄らないというコース。ちょうど雨上がりの肌寒いなかのウォーキングとなりました。


2019年 3月 16日(土)午後 7時 12分

 今日は、京都府立京都学歴彩館で行われた「府民協働連続講座」に行ってまいりました。テーマは、”「鴨川運河」と「深草」の魅力を探る“というもの。講演は3本用意されており、次のようなものでした。「琵琶湖疎水”鴨川運河“の魅力」(京都市立伏見工業高校教諭 森本浩行氏)「運河と煉瓦」(岸和田市教育委員会郷土文化室文化財担当長&関西煉瓦流通研究室長 山岡邦章氏)「藤森神社の祭礼について」(郷土史家坂田満氏)。同じ琵琶湖疎水でありながら、脚光を浴びる機会の少ない鴨川運河が、今日の主たるテーマ。京阪本線の傍らを流れていて(現在は暗渠)、美しい桜並木があったため、京阪電車のCMにも使われたことのある鴨川運河、その成立と景観、その維持とともに、多くの人たちにアピールをされている「鴨川運河会議」の主催で開かれたもの。この講座も、そのアピールの一環としての活動。「伏見」「深草」といった地域を、南北に貫通するということで、そういった地域のアピールに繋がるというも含まれているのでしょうが、近代の貴重な産業遺産を遺し、後世に伝えていこうという強い意思を感じる講演会となりました。黄紺にとっても生まれ育った地域として、大いに関心があるところ。会場到着直前に後ろから声を掛けられたので振り返ると、弟でした。いつぞやに次いで、またまた弟と並んで、お話を聴くことになりました。会場には、京都上下水道局所蔵の古写真が展示されていたので、開演前に眺めていると、黄紺兄弟が生まれ育った家が写っているではありませんか。大正年間の写真でしたが、その姿のままの家に住んでいたので、もう嬉しかったなぁ、こないなところで、瞼の奥に残っている懐かしい家を見ることができるなんて、しかも、兄弟揃っている場で見ることができるとは、驚きでした。言うまでもなく、即座にスマホで写真に撮りました。そないなことがあったため、ちょっと興奮気味、居眠りする間なんてありませんでした。特におもしろかったというか、意表を突かれたから興味津々になったと言えばいいでしょうか、それは煉瓦のお話。鴨川運河には、わざわざ岸和田煉瓦が使われているのです。今でも、鴨川運河の側道の一部に、その煉瓦が残っていますが、講師の方からすると、「信じられない」と言われるほど、大事なものが、何気に踏まれ続けているそうです。文化財的価値の高いものだそうです。京都でも煉瓦製作が行われていたにも拘わらず、わざわざ岸和田から運んだのは、それだけ、岸和田煉瓦の品質が高いからだそうです。西日本の重要な軍施設の多くが岸和田煉瓦を使っていることなどから、それは明らかだとか。鴨川運河に使われたわけとして、軍絡みなのかは実証はできないそうですが、琵琶湖疎水に使われた流れで使われた可能性があるということでした。大阪~京都~大津と繋がる重要性を、煉瓦の使用からも言えるようでした。この鴨川運河と並ぶテーマが藤森神社だったのですが、こちらのお話は、神社自体が、また、祭礼の一部として行われている駆け馬や御輿、福神などが、いつ頃から史料に現れてくるかというお話。史料を読むお話は、黄紺的には苦手。史料への現れ方を、どのように評価すべきかということに至っては、どのようにお聴きしていいのか、かなり戸惑ってしまいました。だけど、かなり規模の大きな祭礼です。しかも京都で。また、近くに稲荷大社があるなか、そして、氏子の居住地域に謎が残る問題など、判らないことだらけです。そのため、このお話は、黄紺には消化することができなかったなぁ、無理もないところです。終了後は、自転車で帰る弟と別れ、黄紺は、ウォーキングがてら、京阪三条駅まで歩いて帰途に。途中、出町柳駅近くを通るということで思い出したのが、先日、武庫川女子大学に行ったとき、トルコ友だちから教えてもらったイスラエル料理店。ファラフェルを食べることができる店が京都にあると聞いて、目が飛び出しそうになるほど驚いたお店。スマホのおかげで、簡単に見つかりました。出町柳駅を僅かに北に行ったところにありました。ファラフェル・サンドが850円也、思わず「ピサッ」という韓国語が口を突きました。ドイツでだと、3.50ユーロで食べれます。時間が中途半端だったので、端から食べるつもりがなかったところへ、更に、意気消沈となりました。


2019年 3月 15日(金)午後 9時 4分

 今日もインド映画を観る日。今日は、「第14回大阪アジアン映画祭」で上映されている「ブルブルは歌える」を観てまいりました。この間、アジアン映画祭が開かれるということを、すっかり失念していたところ、先日、奈良での巡検に行ったときに、元同僚に指摘され、慌てて映画情報を集めるとともに、自分のスケジュールと照らし合わせた結果、今日の1本だけを観ることにしたのでした。久しぶりに、インド映画でエンターテインメント映画ではないものを観ました。舞台は、映画では判らなかったのですが、映画祭の公式HPによると、アッサムだそうです。終盤に、1度だけ、町を歩く風景が映りますが、あとは、全面、田園風景の中にある小村での出来事が追われていきます。主役は、幼なじみのブルブル、シュム、ボニーは仲よし3人組。最初は、女の子と行動をともにする男子シュムの物語なのかなぁと思って観ていくことになりました。思春期を迎えた3人の友情なんてのが、テーマとして描かれるのかと思っていたのですが、その人間関係は、ずっと続いていきます。その一方で、家人や村人たちの因習的な空気も描かれていきます。 ハンディカメラで追ったり、暗めのトーンとか、かなり映像に新鮮なものがありますし、アッサムの農村の雰囲気がよく伝わってきます。役者さんたちの自然なふるまいが、更に、その雰囲気を高めていっているように思えました。そういった推移を見せていた映画の進行が、ガラリと変わるのは、女の子二人が、恋人と落ち合うというので、シュムが見張りを頼まれていたにも拘わらず、その役を果たせず、4人の男女が、それを疎ましく思う男子らに袋叩きに遭ってしまったことが公になってしまったことでした。暴行を加えた男子が、また、落ち合っていた男2人も問題にされることなく、女の子二人が、学校の査問の対象となり、ついには退学処分となります。人生を閉ざされたと悲観してか、ボニーは自死を選び、ブルブルが残されてしまいます。ここで、ようやく、映画の題名の意味するところが判りました。英語による原題「Bulbul can sing」そのままの訳ですが、ブルブルの生きていく道を表しているということでしょう。シュムは、3人の思い出として、画像処理をした画像を、残された2人の宝物にすることで、友情を誓い、ボニーの死を目の当たりにしたからでしょうね、因習に捕らわれた言葉しか発してなかった母親が、ブルブルに、ラストで素敵な言葉を送ります。大人になっていくブルブルに、大きな試練であると同時に、大きな財産を手に入れることになり、「歌える」のでしょう、、、いや歌っていって欲しいということかな。同時に、母親が、ブルブルに向き合っている姿が印象に残りました。これは、ブルブルのもう1つの財産になりますね。この映画を観ていて、まだ、こういった映画を作らねばならないのかと思うと、鬱屈たる気持ちに捕らわれる一方で、まだまだ、いやいや、まだまだ、、、続けねばならないことを再認識させられました。リマ・ダス監督の名前を覚えておくことにしましょう。ちなみに、女性だそうです。


2019年 3月 14日(木)午後 11時 17分

 今日は、京都シネマで映画を観る日。インド映画「バジュランギおじさんと、小さな迷子」を観てまいりました。話は、いたって判りやすい、正に、この点ではインド映画の王道を行ってます。パキスタン人母子が、インドからパキスタンに戻る際に、偶発的なことから離ればなれになり、6歳の子どもが、インドに取り残されてしまうというのが、物語の発端。その子どもと、偶然出会った男が、バジュランギと呼ばれている男。この男は、いたって信心深いヒンドゥー教徒。解りやすくするためか、ヒンドゥー教について詳しい習慣を解ってないものだから、そのように思うのかもしれませんが、信仰から来る熱心な菜食主義者として描かれています。パキスタンからの迷子は、当然、イスラームの生活に慣れているため、その男とは違った関心を見せたことから、要するに、嬉々として肉食を好むということで、対比をクリアにしてありましたが、篤信の男からすると、大変な衝撃。でも、子どもを親元に返してやりたくて、奔走した結果、非公式に国境を越える業者を見つけ、子どもを託すのですが、その業者が悪徳で、幼児売買で金儲けを企む輩だと、これも、偶然知るところとなり、もう他人に託すことはできないと考えた男は、自らが送り届けることを決意、ここからがロードムービーとなっていきます。違法な越境をするときには、パキスタン側の警備係に助けられる一方、スパイと決めつけ追いかける警察官、モスクは万民に開放されていると匿ってくれるホジャ、最初はスパイと睨みスクープ狙いで追及していたが、男の本心を知ることで行動を共にするようになるジャーナリストといった人たちとの出逢い、そして、ようやくカシミールのある村が故郷と判り、送り届けようとする直前に、スパイと見なして追及してきた男たちに捕まりと、ラストに向かい盛り上がっていきました。この主人公の男と子どもの出逢い以後、子どもの出身地が判りにくいのは、子どもが6歳であるばかりか、口がきけないというハンデを持っているとの設定のため。従って、パキスタン入国後も、暇がかかるように、また、なかなか故郷が判明しない要因になっています。印パ紛争を背景に、しかも、迷子になった子どもの故郷がカシミールという、かなりわざとらしい設定ですが、政治的課題を、こういったエンターテインメントの世界で描いた初めての映画なのかな。黄紺にとっては、間違いなく初めてとなりました。かつて、マニラトナム監督が、「ボンベイ」で、インド内部の宗教的対立を、エンターテインメント映画として、初めて扱い衝撃を与えたことが思い出されます。マニラトナム監督作品は、他にも観たことがあり、政治的課題を扱っていたと記憶していますが、彼の場合は、インド主義という言葉で表されるように、宗教的対立も、インド国民として括ることで無意味なものとの信念から作られていますし、そのインドにはパキスタンをも含めた考え方を採り、そういった観点から国家間の対立も意味のないものとの説き方があり、印パ紛争が描かれたとしても、同時に限界も露呈するものだったと認識していたのですが、このカビール・カーン監督作品が、その限界を越す作品になったように看ました。印パ両国を異なる国家として認識し、宗教や政治面での違い、場合によっては対立があったとしても、人が人を助け、それも子どもを親元に送り届けるという、人としての行為を遮るものはないはず、これを阻止するならば国家としての誇りを損なう(取り調べ警官の言葉)、、、そういった考え方は、ネットを通じて、両国民の感動を生んでいきます。ラストシーン、主人公の男は、パキスタンからインドに戻る国境検問所を越えます。そこには、両国の境を表す柵が川を挟み続きます。男を送り出すのに集まるパキスタンの民衆、それをを迎えるインドの民衆が、柵を挟んで対峙します。明確に異なる国家を意識させ、と同時に、人として通じ会う光景を作り出していました。形式上は、パキスタンが密入国された形になるため、スパイ容疑で追いかけるという汚れ役が回ってきています。その汚れ役が回ってきた替わりに、上に書いた取り調べ警官のいい台詞が回ってくるという仕掛けになっていますし、それとバランスを取るように、国境越えを多額の金で請け負いながら、人身売買をする悪徳業者をインド側に作っています。しかし、これも美味しい役回りで、この悪徳業者がいるために、男が自分で子どもを送り届ける決意をするようになるのです。うまい具合に、印パ両国のバランスも図る脚本になっています。また、この脚本のうまいのは、主人公の男は、人の良い男ではあるのですが、この展開の中で、確実に、人として成長し、大きくなっていく姿を見せて行き、また、篤信家で、神の前で真っ正直に生きねばならないと信じる姿が、人を説得する力ともなっていますし、同時に異教へのリスペクトも持つ男として描かれているのも、説得力のあるところです。この主人公の男を演じたのはサルマン・カーン。黄紺も、以前にも映画でお目にかかっているのですが、彼の出演映画一覧を見ても思い出せません。でも、1度ならず、観ています。若く見えますが、もう50歳を超えているのですね。対する子どもが可愛い。喋れないという役柄ですから、表情一つでの演技に魅せられました。インド映画史や現代インド政治史を、きっちり押さえているわけではないので、いい加減なことは言えませんから、こういった言い方にしておきます。この映画は、黄紺にとっては、インド映画史上に残る画期的な作品だった、こんな具合です。


2019年 3月 13日(水)午後 9時 45分

 今日は、武庫川女子大学の「2018年度 トルコ文化研究センター研究会 第2回」に、トルコ友だちと連れもって行ってまいりました。今日のテーマは、「13世紀のシルクロードから中国へ伝来した建築」ということで、フィールドは直接的にはトルコではなかったのですが、ジャーミーについて、黄紺の知らないお話を伺えるのではと思い、行くことにしました。講師は、東京大学生産技術研究所協力研究員の包慕萍さんでした。このお話、13世紀というのがミソ。モンゴル人が、ユーラシア大陸を席巻して、それまでの勢力図をリセットしてしまった時代。ですから、それまでにはなかった東西の人とものが往き来をした時代と言い替えることができます。そういったなか、建築分野でも、東にはなかったやり方、様式が、西から入ってきたばかりか、今までなかった技術を持ったイスラーム職人が、東へとやって来た時代となったわけです。そういった流れのなか、イスラーム教が、中国の奥深く伝わるようになったというわけで、イスラーム教が伝われば、祈りの場としてモスクが、中国各所に出来上がるというわけで、前半は、今に残る中国のモスクの画像を見せていただけたのですが、この一番肝心なところで、かなりの寝不足だった黄紺は、居眠りが出てしまいました。後半は、西域と呼ばれた地域に残るモスク、及び、地域整備の現状がレポートされました。天山山脈の南側では、モスクの一面、中庭に面した一面の壁がないという特徴を持っているというお話は、とっても新鮮なものがありました。もちろん気候のなせるところです。また、地域の環境や伝統を省みない整備を、やんわりと批判的におもしろいお話を聞かせていただけました。ウルムチかどこかに、サンマルコ広場はないわね、会場が緩んだ瞬間でした。そんなで、素敵なお話を、和やかに、一般人にも解りやすくお話をしていただけ、至極満足度の高い講演だったと思いました。毎年、この時期のお楽しみとなった、この研究会、今年は、この1回だけとなります。講演会の前後、トルコ友だちと食事をしたり、お茶をして、久しぶりにたっぷりとトルコ話ができたのも、嬉しい一日でした。


2019年 3月 12日(火)午後 10時 1分

 今日は、無料コンサートを聴く日。関西アーバン銀行が心斎橋店で開いている「アーバンイブニングコンサート」に行ってまいりました。前回初めて行き、なかなか好印象を持ったコンサート。残念ながら、同銀行が合併することが絡んでるのでしょうね、今回が最終回ということで、このコンサートに関わってきた日本センチュリー交響楽団の選りすぐりの顔が揃いました。そのメンバーとは、次の方々です。(ヴァイオリン)松浦奈々、関晴水、(ヴィオラ)飯田隆、(チェロ)北口大輔、渡邉弾楽。そして、演奏されたのは、「シューベルト:弦楽五重奏曲 ハ長調 D.956」「J.S.バッハ:G線上のアリア」(アンコール)でした。シューベルトの弦楽五重奏曲は、モーツァルトらのそれと違い、チェロが2本入るということから、厚めの音を期待していたのですが、やはり、会場の関係でしょうね、全体的に薄い感じでスタート。でも、そういった音に、自分の耳が合ってくるということは、よくあること。今日は、それに時間がかかったということは、自分の耳が合ってきたというよりか、それだけ演奏がスパークしていったことの証拠かもしれません。第1ヴァイオリンを弾かれた松浦さんの音などは、後半の方が、明らかに勢いというものを感じましたものね。息の長い音楽が流れるというシューベルトらしさを持つこの曲で、今日聴いていて、なかなか大変だと思ったのは、和声を付ける役割を、あまり持たない第2チェロ。日本センチュリーの顔でもある北口さんのチェロは、弾むようなリズミカルな演奏が、黄紺は気に入っている方なのですが、今日は第1チェロ。リズムを間断なく刻んでいるのは、そんなですから、最初は北口さんかなと思ったのでしたが、実際、その役割を担われていたのは渡邉さんの方。今日一番印象に残ってしまいました。そんなで、会場の音響環境には邪魔されたかなというコンサートでしたが、4楽章に向かい、徐々に上昇していった演奏に、気分は満開。今日は、ラストコンサートということもあり、前回と同じ時間に会場に着いたのですが、もう、かなりの席が埋まっていたのには驚かされたのですが、ま、それだけ多くの人たちに名残を惜しまれるコンサートのラスト2回だけでしたが、黄紺も参加させていただきました。感謝です。


2019年 3月 11日(月)午後 10時 55分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「コラールとフーガ」と題して、松本和将さんのピアノ演奏会が開かれました。そのプログラムは、次のようなものでした。「W.A.モーツァルト:ピアノソナタ 第8番 イ短調 K.310」「J.ブラームス:6つのピアノ小品 op.118 全曲」「C.フランク:前奏曲、コラールとフーガ」。なかなか、いい感じのプログラム。ただ、黄紺的には、モーツァルトとブラームスについては、お気に入りの演奏というのがあり、それに、感性が縛られてしまっている傾向があります。モーツァルトならピリス、ブラームスならポゴレリッチという具合で、名演奏中の名演奏だと思っているというか、耳が、完全に、それらの演奏が絶対化されてしまっているのです。今日の松本さんの演奏だと、モーツァルトに軽さが物足りなかったり、左手が頑張り過ぎていると思ってしまいますし、ブラームスでは、不思議な間が生む抒情性に物足りなさを感じてしまってました。その点、フランクのピアノ曲には、そういった自分的絶対基準がない分、かなり自由に受けとることができたように思いました。そもそも、松本さんがフランスものを演奏されること自体、ピンと来ないところもあり、序盤の音の煌めきに、正直、やっぱり、この人、フランスものを弾く人じゃないわと、一旦は思ったのですが、この曲の持つダイナミズムやパワーとなると、見事な技を聴かせていただけました。もう、これで、普段、黄紺が、あまり聴こうとしないラヴェルを5月に演奏予定との告知を知り、聴いてみたくなったのですが、残念、黄紺は、ポーランドに居る日にちでした。だいたい、黄紺が日本にいないと、そそられるコンサートが、カフェモンタージュでありますね。


2019年 3月 10日(日)午後 6時 32分

 今日は映画を観る日。ブルク7梅田で行われている「中国映画祭2019」で上映されている「駐在巡査 宝音」を観てまいりました。この映画の舞台は、内モンゴルのウラド族居住地域。当然、伝統的な生活の仕方は遊牧なわけですから、この地域が、担当となっている警察官の管轄地域は広大なもの。そういった警察官の1人宝音(ボヤン)の活動を描いたもの。砂砂漠というよりは岩石砂漠を、バイクを駆使して巡回に回る宝音。各所に配備された井戸を目印に巡回に回り、住民たちの居住地を把握している。井戸に落ちた人を助けたり、親探しに来た女性が泊まるところがないと言えば、自宅に止めてやって、親探しの労も執る。町に行くついでに石の鑑定を頼まれ、評価が低いと自腹を切り、石の鑑定を頼んだ男を喜ばしてやる。鉱石採掘場では、働きにやって来る男たちのの身分証を作るのも、彼の仕事。そういった活動で、見えてくるのは、治安の維持という本来の仕事だけではなく、正に土地の人の生活まるごとに関わる人情味溢れる姿が浮かび上がってきます。そういった長閑な風景の中で、都会から来た女性が殺されるという殺人事件が起こり、その捜査の進展、逮捕に、宝音が関わる姿が後半になっていきます。この後半の展開に、実は、宝音の日々の活動を追う半ばまでの中で、仕込みがされているのが、この映画のちょっとしたミソかな。宝音が、そういった岩石砂漠の中を管轄地域にしていると言っても、あくまでも人民警察官として、管轄地域が広いだけ、だからこそ看られる特異な光景を描くもので、殺人事件の犯人特定にはDNA鑑定が登場しますし、通報一本で、必要な警察官が動いてきますから、制度から態勢まで特異なという描き方をしていないという点は、要注意かなと思います。ですから、人民警察官は、「こういった僻地でも、その地域に順応した活動をしてるんだぞ」という、よいしょ映画、プロパガンダ映画にも見えなくもありません。宝音がボーナスをもらったり、 表彰の対象になったり、テレビ取材を受けたりするエピソードもあります。ですから、そういった意味にも取れなくはないのですが、取材から帰るテレビ局のスタッフに、宝音が、興味本位で取材したり、また、普通のことなのに持ち上げられることを拒むメールを送るシーンが用意されていましたから、穿った見方は、この際、慎むことにしましょう。そういったことはともかくも、やはり風景がたまりませんね。ウラド族の伝統的な祭祀や結婚式なども観ることができたのは嬉しかったな。それだけを観るだけでも、大きな価値はあるというものでした。


2019年 3月 9日(土)午後 6時 47分

 今日は、2019年度 京都学講座「京の伝統と先端ーみやこが育んだ“モノ”と“技”ー」開講記念講座として行われたシンポジウム「京をめぐる物語の舞台としての宇治-“響け!ユーフォニアム”をまじえて-」に行ってまいりました。まず、講演を、小説家の武田綾乃さんがされたあと、武田さんの同志社大学文学部時代の指導教授の河野道房さんと佛教大学 歴史学部教授八木透さんが加わり、トークセッションに移るという構成でした。「京をめぐる物語の舞台としての宇治」などという標題が付いていたものですから、すっかり勘違い。「源氏物語」だの「平家物語」を始めとした古典からスタートして、古今の宇治を舞台にした作品を紹介してもらえるものと、勝手に決めつけていました。「武田綾乃」という方を、どのような人なんてことを調べもせず、また、「響け!ユーフォニアム」と書かれても、何かなどは解るわけもなく、会場入りをして、何やら様子が、ちょっと違う。こういった講演会などは、爺婆が会場を埋め尽くすものと思い込んでいる黄紺の目に、男女を問わず、若い人たちの姿が入ってきたのです。「土曜日だから」「文学好きな若い人も来てるんだ」、こないな考え方をして、黄紺的に不自然さに蓋をしてしまいました。ところが、講演に立たれた武田さんは26歳、大学生時代から小説家、中央画面にパワーポイントから映し出された画像は、アニメの画像から取られたもの。そして、お話が始まると、「響け!ユーフォニアム」というのは、武田さんご自身の作品で、漫画化、アニメ化までされたヒット作のようだということが判ってきました。要するに、その作品が、武田さんの出身地である宇治が舞台になっているということから、武田さんの作品ゆえに「聖地」化された、宇治の名所、その中には、「源氏物語」のために名所化されたところも含まれていますが、そういった名所紹介が、講演の核心部分となってました。でも、京都在住の黄紺にとっては、紹介された箇所は、改めて紹介されるまでもないところばかり、ということは、完全に外れと思い、このイベントは、新年度開催予定の京都市の開く講座の客寄せ的色彩だっただけに、見事に滑ったなと思い、帰途に着きました。所用があり、弟の家に寄ったところ、姪っ子が来てたので、半分焼け気味に、行ってきたシンポジウムの話をしたところ、黄紺の考え方が間違いだったことが、あっさりと判明してしまいました。姪っ子は、「響け!ユーフォニアム」を知ってましたし、しかも、アニメが地上波で放送されたのを観てたとまで言ってました。更に、アニメ化したアニメの会社が、とっても有名なところで、東京なんかからも「聖地巡礼」をするために、宇治にやって来る、そんなことまで、教えてくれました。とにかく、びっくりでした。そんな大変な人の話を聴いて、そのことの大きさの欠片も解ってなかったのです。会場に来ていた若い人たちは、正に神のごとき作家さんを目当て来られていたことが、初めて理解できましたし、「宇治の名所教え」は「聖地巡礼」のポイントを、著作との関連話として説かれていたのでした。知らないにしても程がありました。だけど、会場にいた大勢の爺婆は解ってたのでしょうか、京都市は、正に旬のスペシャルなゲストを呼んでいるのに、間延びしながら、このイベントを理解している者がいるってこと、解ってんのかな。


2019年 3月 8日(金)午後 9時 43分

 今日は映画を観る日。京都シネマで、韓国映画「金子文子と朴烈」を観てまいりました。主役2人の描き方、及び、イ・ジュンイク監督作品(「王の男」「空と風と星の詩人 尹東柱の生涯」)だということが、足を向ける要因になりました。映画終了後、真っ先に感じたのは、実在の人物の伝記めいた作品は難しいなということ。観る者各自、その人物に持つイメージってものがあるでしょうから、どうしても齟齬をきたすというもの。ですから、実在の人物をモデルとしたとしても、それは、エンターテイメントの1つの作品だと割りきることなのでしょう。歴史的事実なんてものも、解釈は、様々あるでしょうし、また、朴烈の場合は、この映画で語られなかった人生もあるわけですから、あくまでも、大逆事件に問われた、その定められた時空間での生きざまを映画化して観ていかねばならないのでしょうね。朴烈の描き方ですが、イデオロギーとしてはアナーキスト、爆弾闘争を企図しながら、それが実行に移される前に、関東大震災が起こり投獄されてしまう。震災後の朝鮮人に対する公安の取り締まるに遭うわけです。そのあと、獄中の朝鮮人の中から抽出を受け(活動歴から)、大逆事件をでっち上げられる一方、朴烈側も、それを利用して、意見表明の場を得ようとしていくということで、大逆事件を裁く大審院へと向かっていく、、、これが、主たる筋立てになるかと思います。朴烈は、根っからのアナーキストという感じで、その来歴、要するに活動家と成長していく姿は描かれませんでしたが、日本人の金子文子がなぜという要素が大きいということで、彼女の来歴に触れられる挿話が入ってきます。構成として、小憎らしいと思ったのは、それを終盤に持ってきている点。オープニング間なしに、あっさりと意気投合してしまうため、なんか居心地が悪いのを引きずらせたまま、終盤まで引っ張るのが、小憎らしいというわけです。文子の明るいキャラとの対比も考えさせられます。そして、この映画、徹底してヒールに描いているのが、朝鮮人虐殺を指示し、また、大逆事件をでっち上げていく水野男爵。マンガチックとも見えるヒールです。それに対して、その周辺にいる日本人に、多少の差はあるのですが、それぞれに躊躇いを留保しています。閣議に加わる閣僚たちの優柔不断さや、検察官の示す優しさ、獄官の金子文子の半生への共鳴、、、皆が、様々な形で躊躇いを見せます。その中に天皇まで含めていました。朴烈の「民衆が狙いではない」でしたか、正確ではないかもしれないですが、日本の民衆を敵視することはダメという考え方に通じる描き方でした。大審院裁判長に金主珍や、大臣の1人だったかなぁ、趙博といった、在日の著名人が出てたり、それがおもしろいことに、日本語ができるからでしょうが、日本人役をしていたりで、黄紺は、一人でにんまりしてたのですが、ほぼ韓国の役者さんたちの出演でしたから、日本語を話さねばならないことが多く、大変だったでしょうが、日本人役の役者さんは、きれいな日本語を、朝鮮人役の役者さんは、韓国語訛りの日本語を話すという、細かな演出にも目が行ってしまいました。総合的に映画としてどうかと言われたとき、黄紺的には、先ほど書いた日本人の扱いがおもしろいなとは思ったのですが、何で、韓国で大ヒットしたのかが、いまいちピンと来ない映画でした。


2019年 3月 7日(木)午後 9時 57分

 先日、昔の同僚から、「3月7日(木)10:10 JR桜井線巻向駅集合。邪馬台国候補地の纒向遺跡、箸墓古墳、大神神社など巡見」というメールをいただき、うまく空いていたので、参加することにいたしました。毎年、この時期に行われているのですが、黄紺は、この時期に、ドイツに行っていることが多く、なかなか参加できてなかった交流会です。昨日とは違い、肌寒く、しかも、雨模様のお天気のなか、歩きました。実際に歩いたコースは、次のようなもの。JR桜井線巻向駅→纒向古墳群→纒向遺跡辻地区大型建物群跡→纒向遺跡展望台→相撲神社→箸墓古墳→ホケノ山古墳→昼食&大神神社→JR桜井線三輪駅。三輪山の麓の扇状地にできた桜井市纒向地区の古墳群の見て歩きです。古墳の中には、私有地内にあるものや、陵墓指定を受けているため立入禁止になってたりするものもあり、周囲を歩いたもの、遠目からしか眺めることができないものもあったのですが、さすが奈良です。ちょっともっこりしているところは古墳です。扇状地ですから、山際に近づけば坂になっており、坂を登り後ろを振り返ると、一挙に視界が開け、この地域に宮跡が多く出てくるのが、納得できました。扇状地を作った川は、やがて大和川に収束していくようで、となると、この地域も水運に恵まれ栄えたことだろうと推測することができました。三輪山、大神神社は、「三輪」の謠蹟であるため、以前から計画しては挫折をしていたところ。それが、こないにあっさりと実現してみると、もっとさっさと行っておくべきだったと、反省しきりでした。昼食は、三輪に来たということで、当地の名産品「三輪そうめん」に。まだまだ寒いですから、メニューには「にゅうめん」となっていました。ただ、それだけでは、おなかが寂しかろうということで、黄紺も含めて、皆さん、柿葉寿司を注文。まるごと、奈良を食べることになりました。そして、毎回同様、午後の早い内に解散。参加者の中に、母親の介護を、ずっと続けている人がいるからなのです。寒い外気から逃れ、暖かな電車の中に入ると、すっかり睡魔に襲われてしまいました。お勉強いっぱいできました。そして、何よりも懐かしい方々に会えたのが良かった、です。いい1日でした。


2019年 3月 6日(水)午後 7時 8分

 今日は、いずみホールで音楽を聴く日。マチネであった「大阪交響楽団第33回 いずみホール定期演奏会」に行ってまいりました。「古き佳きウィーンの薫り~モーツアルトとシューベルト~」と題されたこのコンサート、珍しいことに、モーツァルトのコンサート・アリアが幾つか出るというプログラムに惹かれて行ってまいりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「モーツァルト:歌劇“フィガロの結婚”序曲」「モーツァルト:演奏会用アリア“大いなる魂と高貴な心は:K.578」「モーツァルト:演奏会用アリア“誰が知っているでしょう、私の愛しい人の苦しみを”K.582」「モーツァルト:6つのドイツ舞曲 K.567より第1番 変ロ長調、第2番 変ホ長調」「モーツァルト:演奏会用アリア“アルカンドロよ、わたしはそれを告白する~わたしは知らぬ、どこからやってくるのか“K.294」「シューベルト:交響曲第8(9)番 ハ長調 D944 ”グレイト“」。前半のモーツァルトが、自分的注目の的。でも、フィガロの序曲を入れても、時間にして、僅か30分といった短いもの。コンサート・アリアと言っても、それぞれは短いもの。オペラ用に作り、省いてしまったものや、私的な関係のある人に捧げたものとか、その成立の由来は様々。歌唱は、関西二期会の熊谷綾乃さん。プレトークで、今日の指揮者寺岡清高さんが、「以前、定演で魔笛を出したときに、パパゲーナをしていただいた」と言われていたため、期待が、一挙に萎んでしまってたのですが、実際、聴いてみて、黄紺の直感は当たりでした。パパゲーナ歌いをソリストに起用はダメでしょうと、突っ込みたくなります。ウィーンでパパゲーナ歌ってきたというなら、話は別でしょうが。声に安定感というものを感じることができなかったのです。そして、もう1つ、クレーム。ドイツ舞曲は、時間の水増しに使ったのでしょうが、あまりにも、この2曲では短すぎです。とまあ、前半については、めったに出ないものを生で聴いたぞ、その事実だけが残ったってことでしょうか。それに対して、後半のシューベルトが良かった。1楽章から4楽章まで、同じトーンで突っ走った、その爽快感は、確実に残り、寺岡さんの最後の指揮が華を飾ったと思ったのですが、欲を言えば走りっぱなしだったなという点。例えば、3楽章なんかで、一服するような音楽もありだし、そこでなくても、くつろぐ間というものがあっても良かったのかなと思ってしまいました。演奏後、ちょっとしたお別れセレモニー。今日は、コンマスの席には森下さんが座られたため、次席になる、その横に座られていた林七奈さんから、花束が手渡されました。大阪交響楽団のユニークなプログラミングの立役者でしたから、黄紺的にも残念感が残ります。


2019年 3月 5日(火)午後 10時 54分

 今日は落語を聴く日。落語会や講談会に、粒の揃った日だったもので、ちょっと迷ったのですが、まだ行ってなかったツギハギ荘での「ラクゴ大発生」という会に行ってまいりました。桂米輝が、持ちネタを総ざらいするかのようにして連続的に開いている会ですが、初めて行くことにしたのでした。全く一人で切り盛りしている会ですが、今日出したのは、次の3つのネタでした。「擬宝珠」「ちよちよ」「照れ地蔵」。「擬宝珠」は、以前、同じ米輝の口演に遭遇したことがあったのですが、居眠りをしてしまい、実質的には初めて聴くということになりました。持ちネタにしている喬太郎や優々の口演も聴いたことはありませんから、このネタ自体を聴いたのが、実質的に初めてとなりました。序盤は「崇徳院」「千両みかん」と同じくで若旦那が病床に臥せり、そのわけを聞き出すというもの。それが、このネタでは擬宝珠を舐めたいとなります。更に、「擬宝珠」は、「宝珠」の「擬」なるものとなることから、「宝珠」を舐めるという展開になったいきます。米輝の口演は、その新作同様といった、一種独特の雰囲気を持ちますが、このネタも、見事に、その雰囲気に属するもの。ちょっと薄ら気色の悪さがありますね。好むと好まざるに拘わらず、立派な個性と言えるのですが、広範な指示を得られるかとは、また別の問題ですね。「ちよちよ」も変な幽霊の噺。「変」なのは、「ちよ」の付く名前を持つ幽霊ばかりが、次から次へと出てくるというもの。薄らですら、気色は悪くはないのですが、何となく居心地の悪さが支配するのは、なぜなんでしょうね。ただ、今日は、下げに入ろうかという終盤に居眠り。今日は、ここだけだったのですが、僅かの間に朦朧としてしまいました。「照れ地蔵」が、今日のネタ下ろし。婆さんの語る昔話という形式。鯉八を意識したのでしょうか。ところが、この昔話が、徐々にハチャメチャになっていきます。昔話風な語り、即ち、照れ地蔵の謂れを語っていたのですが、いつしか、それが「あるもの」を指していることが判ってくるという展開に。しかも、謂れは、そこにくると吹っ飛んでました。あとから考えると、不思議なおもしろさのある構造になっている噺。前半の謂れとは関係なく、今度は形状などから、ものが何たるかに移り、謂れ話が忘れ去られているという構造です。この構造を使って、違った噺、できないかなぁ、、、そんなことを考えてしまいました。米輝、マクラで言うには、「今までで最高の入り」だそうですが、その内実は、おっさん天国。噺のテイストからして、なんとなく納得してしまいました。


2019年 3月 5日(火)午前 0時 19分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。最近、カフェモンタージュが過密な日程でコンサートを開いているものですから、足が向く機会も増えています。今夜は、「レントラーとエコセーズ ― シューベルト ピアノ作品全曲シリーズvol.14―」と題したコンサート。ピアノの佐藤卓史さんが、こちらで続けられているコンサートです。あまり、日程に合わなくて行けてなかったのですが、今日は、久しぶりに、このシリーズを聴くことができました。そのプログラムは、次のようなものでした。「F.シューベルト:12のワルツ、17のレントラーと9つのエコセーズ D145 作品18」「6つのレントラー D970」「2つのレントラー D980C(佐藤卓史による補筆完成版)」「8つのエコセーズ D977」「6つのエコセーズ D421」。シューベルトのピアノ曲演奏会と言っても、このプログラムはマニアックです。昔、「ドイツ舞曲」と名の付く曲を聴いたことがありますが、それが、こういった一連の曲を指す別の言い方だそうで、曲と曲の間の佐藤さんのお喋りで判ったのですが、楽譜出版社が、シューベルトの意図かどうかは定かではないのですが、そのような名称で出版したからだそうです。これも、佐藤さんのお喋りの中で出てきたことですが、当時は、一旦、出版されてしまうと、自筆原稿は処分されたそうで、シューベルトの意思が反映されているかは検証できないとか。曲自体は、短いので4小節なんてのが、次から次へと演奏されました。いわゆる機会音楽ってのは、たわいなく楽しい、ちょっといい気分になり、うとっと来てしまってました。ま、こういった曲だと起こりえます。今日の居眠りは、いい気分にさせた音楽のせいです、今日ばかりは、間違いなく。次回は、連弾曲を予定していると言われていました。お相手は誰なのと思いつつ、こちらも、さほど接する機会が多いとは言えないものですから、期待が高まります。


2019年 3月 3日(日)午後 6時 11分

 今日は落語を聴く日。今日は日曜日ということで、午後の時間帯にあった「染左つれづれ噺の会 Vol.4」(千日亭)に行ってまいりました。染左の会は、入門以後、かなりマークしてきた黄紺ですが、最近は、日程が合わなくて、ちょっとご無沙汰気味でした。この千日亭での会も、リニューアルされてからは、初めてとなるはずです。その番組は、次のようなものでした。秀都「桃太郎」、染左「鶴満寺」、呂竹「書割盗人」、(中入り)、染左「猿後家」。今日は不調。落語会での不調が続きました。一昨日は夜が、あまり眠れなくて、昨日のオペラを心配したのですが、大事に至らなかった替わりが今日でした。昨夜は、一昨日の夜の反動で、しっかりと睡眠が取れていたのに、不思議なことが起こってしまいました。助演のお二人は、遭遇機会の少ない噺家さん。特に、呂竹の遭遇機会は、とってもレアになっています。前座役を任せられていた時期は、頻繁に聴く機会はあったのですが、、、。その呂竹の高座と、染左の「鶴満寺」の後半で居眠りが出てしまいました。「鶴満寺」も、持ちネタにする噺家さんが少なく、染左かしん吉でしか、最近、聴いてないような噺なのに、途中からダメでした。権助に酒を呑ます辺りからですから、終盤に入っていたのですがね。秀都は師匠文都テイスト満開の「桃太郎」でした。黄紺は、文都のくすぐりって、意外性が乏しく、杓子定規的な感じがしてしまい、あざといなと思ってしまうため、師匠からきっちり受け継いでるなの印象を受けると、引いてしまいます。昔の子どもの様子は省かれ、早速、突っ込む子どもへの読み聴かせが始まりました。中入りがあったおかげで、「猿後家」は、しっかりと聴くことができました。噺への入口はスムーズさに欠けた口演でしたが、太平が出てきて、更にべんちゃらの立て弁に入ると、快調、快調。「猿沢池」の箇所が出てくるのを、今か今かと待つことができました。ありえないような人物を話したり、太平を見つめるお店の人たちの眼差しが優しいですね。きっと、お店の人たち、お家はんのこと、好きなんだろうな、そないなことを感じさせられた口演でした。春の日射しで始まるネタですが、噺全体に、春の長閑さがありました。グッジョブです、染左。終演後、外に出てすぐのところで、インスタ映えするのか、外国の女性がカメラを構え、また、ポーズをとる男性がいました。こんなところがインスタ映え?と思わず、男性が立っていたビルの壁を見ると、韓国でおなじみの「羽が2枚」、描かれていました。日本で、あれ見たの、初めてでした。


2019年 3月 2日(土)午後 11時 1分

 今日はオペラを観る日。びわ湖ホールプロデュースオペラ 「ニーベルングの指環第2日『ジークフリート』」に行ってまいりました。4年計画の「指環」の上演。その3年目になります。去年の「ワルキューレ」を観るかどうかで迷ったのですが、日本で「指環」全曲を観る機会は、そうはないと判断、演出(ミヒャエル・ハンペ)が古いのに閉口していたのですが、最後まで進もうとしています。本日の上演のキャストなどを記しておきます。(ジークフリート)クリスティアン・フランツ、(ミーメ)トルステン・ホフマン、(さすらい人)青山貴、(アルベリヒ)町英和、(ファフナー)伊藤貴之、(エルダ)竹本節子、(ブリュンヒルデ)池田香織、(森の小鳥)吉川日奈子。それに、沼尻竜典指揮の京都市交響楽団がオケピットに入りました。この「指環」の演出に慣れてきたのか、今日は、ここまでの2作ほどには、反発を感じなかったと言えばいいでしょうか。1つには、今までのような、オットー・シェンクのプロダクション似というところが消えたからでしょうか。これまでのように、CGを使うことも定着したようで、前面にスクリーンを貼り、そこに画像や映像を映すということが、今回も多用されました。冒頭などは、ドローンを使ったような映像で、森の上空から森に分け入り、ミーメの家を特定したり、ファフナーの棲む洞窟内に入り、指環を大写しにしたり、当然、火の山は、このスクリーンに映し出されました。1幕や3幕では、ホリゾントにも映像や画像が登場。1幕では、最初は装置かと思っていたら、突然動いたため、映像と判明。こないなことになると、大蛇が出ました。「動かし方が判らない」と、今日も、福井から来ていた高校時代の友人も首をかしげるほど、大がかりなもの。それが、のたうち回るように、バタンバタンと動くものですから、やはり徹底的にこだわるということに、美学を感じてしまいました。装置は、ここまで同様、テキストに添った具体的なもの。今どき、新制作で、こないなものを作るかとは思うのですが、これは、2年前から言ってることでした。歌手陣は、粒が揃いました。中でも、黄紺が一番と思ったのは、さすらい人。昨年までは、青山さんの裏のヴォータンばかり聴いてきましたから、とっても悔やまれてしまいました。会場でも、声援を1番受けたのは、この人でした。威厳とかではなく、慈しみや温もりを感じる、そういったキャラの声質が聴かせました。それに次ぐのは、ジークフリート。3幕では、さすがにスタミナ切れだったのでしょうね、僅かずつ、声が上ずるようになってしまってましたが、2幕までは、いいジークフリート引っ張ってきてくれたと、知り合いに言いまくっていました。ミーメも悪くはないのですが、ジークフリートに比べると、声の強さ、張りが違うので、1幕の掛け合いはともかくも、鍛冶場の場面で、ジークフリートの刀打ちに対抗する、ミーメの毒薬作りのバランスが崩れてしまいました。がっかりだったのはブリュンヒルデ。黄紺の嫌うキーキー声と言えばいいでしょうか、やだやだと思ったら、長丁場で、初めてうとっと来てしまってました。来年の「黄昏」では、避けねばなりません。5時間の長丁場、だけど、ちょっとした夢の時間ですね、こうして、日曜日の午後、ワーグナーを楽しむというのは。今日は、福井からの友人だけではなく、もう1人の高校時代の友人も来ていましたし、元職場の同僚2人とも一緒になりました。内1人は、家族総出で来られていました。なんか、これだけでも、いつもと違い、かなり華やいだ雰囲気を味わうことができました。ワーグナー効果の1つかもしれません。


2019年 3月 1日(金)午後 11時 12分

 今日も、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「ヴァイオリンソナタ」と題して、(ヴァイオリン)西江辰郎、(ピアノ)岡田将のお二人のコンサートがありました。西江さんは、新日フィルのコンサートマスターの1人。初めて、その演奏を聴けることになりました。プログラムは、次のようなものでした。「G.フォーレ:ヴァイオリンソナタ第1番 イ長調 op.13」「D.ショスタコーヴィチ:ヴァイオリンソナタ op.134」。フォーレは、コンサートで、よく取り上げられる作品ですが、ショスタコーヴィチは珍しいんじゃないかなぁ。少なくとも、黄紺は、生で聴くのが初めて。珍しいのは、聴く機会だけではなく、この曲の終楽章の終盤に、まずピアノに、次いでヴァイオリンに、ソナタなのにカデンツァが入ります。ソナタにカデンツァなどという考え方が、端からない黄紺は、今日のコンサートの冒頭、いつものように行われたオーナー氏による前説で、初めて、そういった認識を持つことができました。ショスタコーヴィチ、なかなかアイデアマンです。がつがつくる野性味たっぷりだったり、おもしろい音の飛躍が繰り返されたりと、かなりそそられてしまいました。考えてみると、音のうねりとか流れが魅力のフォーレとは好対照のプログラミング。そのフォーレから始まったのですが、序盤は、えらく線が細いという印象を与えられました、西江さんのヴァイオリンに。でも、耳に慣れると心地よさが増していきました。黄紺は、結膜炎になっている両目の違和感を悩まされ、落ち着かない状態での観賞となりました。西江さんと岡田さんのコンビは、ミニ全国ツアーの途中のようですよね。その1つとして、今日のコンサートが生まれたようでした。


2019年 2月 28日(木)午後 10時 44分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「ベートーヴェン&ブリテン」と題して、(チェロ)上森祥平、(ピアノ)岸本雅美といったお二人のコンサートがありました。そのプログラムは、次のようなものでした。「B.ブリテン:チェロソナタ ハ長調 作品65」「L.v.ベートーヴェン:チェロソナタ 第4番 ハ長調 作品102-1」。ベートーヴェンの方は、有名曲の1つですが、ブリテンは、恐らく生で初めて聴いたのじゃないかな。ブリテンは、いろいろなことができる作曲家ですので、この曲も、とってもおもしろい仕組みになっています。次には、何が現れるか、それを待ち構えるだけでも興趣が尽きない曲です。なかでも、ピチカートの多用が著しく、2楽章などは、全面ピチカート。それに合わさるピアノも、工夫がされており、また、非常に高度なテクニック、緊張感の漂う演奏に魅せられました。また、チェロは、いろんな色合いの音色を求められます。正に、チェリストの腕の見せ所といった感じがぷんぷんしてくるのが伝わってきます。上森さんも、きっと気合いが入ったのでしょう。カフェモンタージュでの上森さんのベストプレーの1つに数えられるものだったのではないでしょうか。後半に回ったベートーヴェンも、その緊張が持続され、こちらも見事な演奏。いつもの鳴り方とは違うものを感じさせる、一段と素晴らしい音色に、こちらもいいもの聴いたぞの気分になりました。来年はベートーヴェン・イヤーだと、終演後、オーナー氏が言われていました。ひょっとしたら、上森さんで、チェロ・ソナタ全曲を企画されているのかなと、勝手に思ってしまいました。


2019年 2月 27日(水)午後 11時 9分

 今日は、落語+αを楽しむ日。動楽亭であった「ひよこの音楽隊」に行ってまいりました。同期の2人の噺家、二葉と米輝が、落語と音楽などを披露する会です。前回は行けなかったので、今回が初めてとなります。その番組は、次のようなものでした。米輝「からあげ3年」、二葉「仔猫」、(中入り)、出囃子①(太鼓:二葉、笛&鉦:米輝、三味線:豊田公美子)「鍛冶屋」「鞍馬その1」「鞍馬その2」「長崎さわぎ」、出囃子②(太鼓:二葉、三味線:米輝&豊田公美子)「菖蒲浴衣」「連獅子」「中の舞」、リクエストアワー(太鼓:二葉、米輝、豊田公美子)、はめもの(二葉、米輝、豊田公美子)「伊勢音頭」「吹け川 」、寄席の踊り(ダルマッシュ、唄&三味線:米輝)「深川」。前半が落語、後半が、豊田さんがメーンになったお囃子編といった構成。落語は、2席ともに期待に応えてくれたもの。米輝の新作ものを、久しぶりに聴くことができました。もちろん、今日のネタは、初遭遇だし、その名前も記憶に留まっていないものでした。大工修行に入る男、毎日、からあげばかりを作らせられ、食べさせられる。そのわけが、3ヶ月経って判るのだが、そこが、米輝らしい、おかしなところ。こういった新作は、順調に増えているようですが、古典のネタ数はどうなんでしょうか。端正な噺ができるだけに気になります。二葉は、少し前にネタ下ろしをしたという情報を得ていて、まだ聴けてなかった「仔猫」に遭遇できるとは、自分に運の強さを感じます。やっぱり、この人、上手い。口演回数も増えていることでしょうから、口になじんできていることもあるでしょうが、小さな緩急の使い分けに天性のものを感じてしまいます。なかでも、「急」の部分が、実にスムーズに言葉が流れます。流したいところが、実に自然に流れていきます。息が長いのかなぁと思ったりしました。だから、流すことができるのかなと思ってみたからです。さすが、「ふんどしを洗っておいた」という挿話は省きましたが、あとは、伝承されてきているテキスト通り。二葉の口演を聴いていると、「落語は男の言葉で伝わってきている」という言説を見直さねばならないのかと思ってしまいました。後半は、よく「お囃子紹介」で行われるパターン。新鮮だったのは、豊田さんのお喋りを聞けたこと、米輝の三味線を聴けたこと(音楽の万能選手ですね)、ダブルマッシュの踊りが「戸板返し」だったこと、この会用に作られた唄(作詞:米輝&豊田、作曲:米輝)を聴けたこと、これだけ聴ければ、十二分です。そうそう、二葉のギターも聴けました。


2019年 2月 26日(火)午後 10時 32分

 今日は、久しぶりに落語を聴く日。守口文化センターであった「第69回 とびっきり寄席」に行ってまいりました。FM-HANAKOで流す番組の収録も兼ねている落語会です。その番組は、次のようなものでした。団治郎「看板のピン」、雀五郎「くやみ」、佐ん吉「仔猫」、ちょうば「風邪うどん」。久しぶりの落語会だったのに、今日は不調。またしても、居眠りが発生しました。昼間の気温上昇から、一転して、夕方から急降下。寒いところから、ちょっと温度が高めの室内に入り、いい気持ちになってしまったようです。雀五郎がほぼ全滅。佐ん吉が終盤、おなべに話をしていくところからがダメで、ちょうばは、序盤の酔っぱらいを省きましたから、ちょうど半ばになる博打場が抜けてしまいました。正に、今日のようなな夜を描いたかのようなネタだったのですが、、、。そんなで、ブランクのあった落語会が、惨めな結果に終わりました。そんななかの収穫。ジュリーがドタキャン騒ぎのあった翌日、繁昌亭に行き、それを知らない噺家さんに、散々いじられた話は、ジュリー自身がコンサートで語りネタ化していることが流布しているので、黄紺も知っていましたが、当日、ある噺家さんが、いじったあと、最前列に座っているジュリーに本人に対し、「そう言えば、おたくジュリーに似たはりますな」と言ったそうです。これは、前説でのお話。その辺では元気だったのに、ダメだったですね。


2019年 2月 25日(月)午後 10時 58分

 今日は講談を聴く日。毎月恒例の「第259回旭堂南海の何回続く会?~入門卅年記念? 東西二人会」に行ってまいりました。「東西二人会」の南海さんのお相手は神田春陽さんです。その番組は、次のようなものでした。南海「釈迦十大弟子(其の二)~舎利佛・目連の最期からラゴラ誕生~」、鱗林「太閤記」、南海「釈迦十大弟子(其の二)2」、春陽「吉良精忠録~花見の付人~」。ちょっと変則的な番組となりました。そもそも、春陽さんを迎えるというのは、「東西交流会」で、春陽さんが、南鱗さんから稽古をつけてもらう日だということで企画されたようなのですが、その春陽さんが、何らの都合で、大阪入りするのが遅れ、だからと言って、来阪目的が稽古ですから、後回しにするわけにはいかず、結果的に、この会に入られるのが遅くなるということで、鱗林さんに穴埋めを依頼されたようです。南海さんも、春陽さんの口演時間を考えて、今日のネタの準備をされていたでしょうからね。黄紺的には、その鱗林さんの口演で、エアポケットに入ったかのように居眠り。「太閤記」の冒頭部分を読まれたと思うのですが、全く自信がないほどの居眠りをしてしまいました。主役南海さんは、「仏陀の生涯」の2回目。出家をして修行を続け、悟りを開き、祇園精舎が寄進によりできるまでを読まれたあと、10大弟子に入られました。2番弟子の目連までが終わると、実子ラゴラの出家、放蕩、改心まで進みました。トリは、上記のわけありで、南海さんの会なのに春陽さんとなりました。東京で聴いたときには、えらく地味に見えたのですが、東京を離れたからでしょうか、ご陽気で噺家さんの雰囲気を持たれた、軽い印象を与えていました。ネタは、存在すら知らなかったもの。「赤穂義士」の「外伝」なのでしょうか、「吉良精忠録」(字は合っているのか不安です)なんて、初めて聴きました。主役は2人の侍+1人の侍(上杉の家老)で、話は、刀の鞘当てでケンカをする侍が、仲裁に入った侍ともども、最後には、それぞれを武士の鑑と讃え、最終的に上杉の家臣に抱えられ、その後、吉良の警備に当たるというもの。「赤穂義士」の物語に入っているとしても、旭堂にはなさそうな、いかにも東京のネタって印象を持ってしまいましたが、、、。ところで、今日は暖かで、昼間などは汗ばんでしまいました。大阪までのお出かけも、上着は薄いジャージを、しかもカバンに入れてのもの。もう、春が、そこまで来ています。嬉しいな。


2019年 2月 24日(日)午後 10時 50分

 今日は映画を観る日。最近、映画を観てなかったところ、先日、かつての同僚から電話が入り、推薦を受けた映画というものが出てきたということで、今日、それを観る時間を作ったということです。京都での上映もあったのですが、レイトショーということもあり、幸い、京阪電車の定期券もあったことから、シネマート心斎橋で観ることにしました。その映画は、韓国映画「バーニング 劇場版」。黄紺の読まない村上春樹の作品を、イ・チャンドン監督が映画化したものです。電話が入るまでに、既に、この映画の存在は知っていたのですが、村上作品だということで、記憶から消していたものでしたが、電話をもらってから、ちょっとだけ調べてみると、イ・チャンドン監督作品だと知り、観る気が増したということです。イ・チャンドン監督というのは、名作「ペパーミント・キャンディー」「オアシス」の監督だったのに気づいたからでした。でも、「バーニング」は、今までの作品とは、全くテイストの異なるもの。カンヌ映画祭で部門賞を取ったという情報からして、ある程度は予想はしていたのですが、テーマ性があり、最大公約数的に、テーマについては一致できても、細部を詰めていくと、頭が痛くなる、これが、黄紺的カンヌ受賞作品のイメージです。どうやら、こういったことを扱おうとしているらしい、でも、よく判らん、平たく言えば、こういった言い方になるかと思います。で、そのテーマらしきと思えたのは、「農村の都市化」「都市と農村」と言った二項対立的なものと看ました。主として3人の男女が出てきます。主役が、農村(パジュ/坡州、コヤン/高陽)の後継ぎで作家志望の青年、それに、幼なじみの女、その女がアフリカから連れ帰って来たカンナム(江南)の高級住宅に住む裕福な男。このカンナムの男は、職業とか資金源とかは、一切描かれておらず、ただ裕福なことだけは判る描き方になっています。農村が都市化される、言い換えれば、都市により農村が侵食されていく、でも、農村からは、都市により、どのように侵食されていっているのかが見えていない、それを表すのに、カンナムの男の収入源などを判らなくしていると看ることができます。農村からの視点で、都市の裕福さの全体像が見えていないことを、そのような形で表しているのです。都市化を象徴するかのように、様々なエピソードが挿入されていきます。カンナムの男は作家志望の男に、「ビニールハウスを燃やすとすっきりするんですよ」「昨日も燃やしてきました」、でも、農村の男が、村にあるビニールハウスを探しても、燃えたビニールハウスは見つかりません。都市の男がウソをついていると考えるより、農村の男には、燃えたビニールハウスが見えていないようです。女は、アフリカに行っている間に、飼い猫の飼育を、作家志望の男に頼みますが、男には、猫の姿が見えていません。作家志望の男は、幼ななじみの女を好きになり、カンナムの男がどこかにやってしまったと考え、カンナムのマンションでストーカー行為を繰り返します。女が姿を消すと、作家志望の男は、女を探し回ります。カンナムの男も気にはする素振りは見せはしますが、他の女性と出かけて行きます。農村の男には、侵食されている姿が、しっかりと見えていないようです。農村の男は、女のことでエスカレートしていき、そこからラストへと向かっていきます。ラストはテレビ版とは違うそうです。女が消えるということで、ミステリータッチだということも言えますが、黄紺的には、難解なシーンの連続で、ミステリーだとか言ってる場合ではありませんでした。映画のチラシには、「消えた女はどこに」なんてコピーが踊り、ミステリー映画だと思わせる際どいものがありましたが、その手の映画では、基本的にないですね。消えた女、、、黄紺的には、端からいたのかなと思ってしまってますが、いかがなものでしょうか。こないな映画ですから、観た者同士で、勝手な議論ができるというおもしろさがあるとは思うのですが、ただ、自分の意見をまとめることができるか、いや、その前に、自分の意見をかき集めることができるほど、イマジネーションが働かないのじゃないかという懸念が先立ってしまいますね。


2019年 2月 23日(土)午後 10時 14分

 今日は、メトロポリタン歌劇場のライブビューイングを観る日。この1週間は、チレアの名作「アドリアーナ・ルクヴルール」が上演されています。新演出(デイヴィッド・マクヴィカー)ということもあり、豪華キャストのプロダクションです。これは見逃すわけにはいきません。そのキャストは、次のようなものでした。(アドリアーナ・ルクヴルール)アンナ・ネトレプコ、(マウリツィオ)ピョートル・ベチョワ、(ブイヨン公妃)アニータ・ラチヴェリシュヴリ、(ミショネ)アンブロージョ・マエストリ。舞台上には、一貫して、骨組みから装飾を付けたものまで、必要性に応じて変化はするのですが、アドリアーナ・ルクヴルールの生きた「舞台」が設えられていました。先日観た「椿姫」の「ベッド」に相当する、このオペラの主人公を象徴するオブジェが設えられていたと言えばいいでしょう。1幕では、芝居にかかろうかという舞台裏、楽屋といった装置が加わり、2幕は、逢い引きの現場ですから、それを表す装置が加わりますが、骨組みの舞台は、背後に控えています。3幕は、装飾を施された晴れの舞台が現れ、バレエ、そして、アドリアーナのフェードラの独白台詞が語られる場となるといった具合です。4&5幕などは、「舞台」は要らないようですが、置かれたままだということは、やはりオブジェとして考えるのが至当だと思いました。最近のデイヴィッド・マクヴィカーのプロダクションと言えば、時代考証に忠実に装置を組み立てるというスタンスに立つものを観てきた目には、ちょっと意外であると同時に、以前の才走ったプロダクションを想起させるものを観た思いがしました。そういった装置は、必然的に、2人の女性の対立に焦点化され、マウリツィオは、その間で楽しんでいる、かなり遊び人的雰囲気が出てきており、広範囲を見通した演出家の鋭敏な目を感じないわけにはいきませんでした。今日も、福井から来ていた高校時代の友人も、このマウリツィオの扱いについては、同じようなことを言ってましたから、このプロダクションの特徴と言ってもいいかもしれません。その一方で、すっかり影が薄くなってしまったのがミショネ。もうミショネにまで、気が回る余裕がなくなるほど、他の人物に焦点化されていたと思います。そんなですから、必然的に、マウリツィオのいたらなさとか、遊び人的体質のような顔が見えてしまいました。歌手陣は申し分がなかったのですが、マエストリのミショネが重くて。せつなさを抱えるような人物には、およそ見えないキャラになっていました。ましてや、序盤のジャナンドレア・ノセダの指揮も重く、今日の舞台で、難と言えばそこだったろうと思います。でも、これだけの歌手を揃えたのですから、DVD化しておいて欲しいものです。終了後は、いつものように、友人と昼を食べ、お茶をして、それから、黄紺は、アーバンウォーキングをしてからの帰宅。あっさりと一日が終わってしまいました。


2019年 2月 22日(金)午後 11時 24分

 今日は講談を聴く日。千日亭であった「南湖の会~赤穂義士外伝特集~」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。「雷電と八角」「太閤記より 間違いの婚礼」「赤穂義士外伝・忠義の刀鍛冶」「賤ヶ岳の戦い/大岩山合戦」。今日は二度寝ができず、不安を抱えながら会場入り。その不安が、「雷電と八角」の終盤に出てしまい、2つ目の口演に至っては、ネタすら判らない事態に。幸い、南湖さんのツイッターにネタが書かれていたので、判った次第です。「雷電と八角」は、若手の講釈師さんの口演に接する機会が激減した状況のなかでは、遭遇機会が減るのは道理。旭堂特有の「金玉を洗う」という、ちょっとお下品な表現も、久しぶりに聴いたと思います。谷風の人物としての大きさと、雷電の剛腕ぶりが伝わる佳作です。「間違いの婚礼」はポピュラーなネタですが、南湖さんのツイッターによると、ネタ下ろしだそうです。それだけに居眠りが惜しい、、、。「忠義の刀鍛冶」も人気作品で、よく出るのじゃないかな。通常は「忠僕直助」という題での口演になります。貧しい義士岡嶋八十右衛門が、大野九郎兵衛から刀のことで辱しめを受けたのを聞いた下僕直助が、その恨みを晴らすべく、岡嶋家を飛び出し、刀工となり、立派な刀を作り、岡嶋八十右衛門に献上し、大野九郎兵衛を見返すというもの。「赤穂義士外伝」の中でも名作中の名作。南湖さんは、大野九郎兵衛が岡嶋八十右衛門を物笑いの種にした理由を入れ、その反対に、直助が岡嶋八十右衛門に刀を献上したあとの挿話を省いていました。この最後の省かれた挿話が入って完成形なんでしょうね。鬼気迫る直助という演出もあるところ、南湖さんの口演は、あまり重くならないように気を配った口演。そんなのを含めて、ちょっと、今まで聴いてきたものとは、テイストの異なるものでした。最後は、いつものように「修羅場読み」。終わって外に出ると、道頓堀は大変な賑わい。外国語ばかりが飛び交っていました。それをすり抜けながら歩いて淀屋橋へ向かいました。


2019年 2月 21日(木)午後 11時 24分

 今日は浪曲を聴く日。天王寺のスペース9であった「第12回 浪曲いろは文庫」に行ってまいりました。隔月に開かれている、黄紺的優先度の高い会です。その番組は、次のようなものでした。五月一秀「書損の軸」、真山隼人「西村権四郎」、五月一秀「楠公桜井の訣別」、全員「付録:浪曲Q&A」。なお、曲師は盟友沢村さくらさんでした。毎回、交代で2席を披露することになっているこの会、今日は、一秀さんが担当。「書損の軸」は「赤穂義士」もの。一秀さんは、口演頻度は高いと言われていましたが、黄紺の遭遇は初めて。講談でも聴いたことのないもので、大石内蔵助もの。安く買い入れた絵画、解るものが見ると、何と狩野元信の作。ただ、落款がないということで、値打ちが出ないため、著名人に賛を書いてもらうと値打ちが上がると教えられ、大石に頼む。大石は、茶屋遊びをしていたときで、頼む方も渋るが、著名人だということで頼むのだが、書いたあと、大石からミスったので他人に見せるなと言われのだが、その実は、誤って本音を勘ぐられる詩を書いてしまったための物言いとなります。それが、広島藩に引き取られていた浅野所縁の者に渡り、討ち入りの意思が、間接的にせよ伝わるという筋立てでした。講談に、この話があるのでしょうね。でなきゃ、浪曲に入らないと思うので、そう思ってしまってますが、でも、この筋立てで、講談になるかなぁと思ってしまいました。大石が、あまりにボンクラ過ぎます。「楠公桜井の訣別」は芦川淳平作品だそうです。「青葉繁れる桜井の、、、」の歌で知られる物語を浪曲化したものです。戦前ならいざ知らず、戦後に、こないな作品を浪曲化するかなぁと思う新作です。朝敵足利尊氏に立ち向かう楠木一族。戦の知識のない公家により、必死の戦いとなる湊川の合戦に臨む道行での挿話となります。しかし、浪曲には、時々、「今どき」とは思えない作品が登場します。伝承芸として聴くしかないですね。隼人くんのネタは、「名月松阪城」として出ることの多いもの。講談でも遭遇頻度の高いネタ。講談でも、浪曲でも、「若松城」で口演される方がおられます。正直、聴き飽きるくらいに聴いたネタです。そのネタを、「隼人くんまでがやらなくても、、、」と思うと、急激に睡魔が襲ってきました。ここだけ、居眠りをしてしまいました。隼人くん、1席だったのにね。「Q&A」は「声」について。いつもながら、この「Q&A」は難しい。ほとんど理解できなかった黄紺です。


2019年 2月 20日(水)午後 10時 57分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「幻想ソナタ」と題して、久末航さんのピアノ演奏会がありました。そのプログラムは、次のようなものでした。「F.メンデルスゾーン:幻想曲 嬰ヘ短調 作品28 "Sonate ecossaise"」「L.v.ベートーヴェン:ピアノソナタ 第14番 嬰ハ短調 作品27-2 "Moonlight"」「L.v.ベートーヴェン:ピアノソナタ 第23番 ヘ短調 作品57 "Appassionata"」。こちらのコンサートとしては珍しく、ベタな名曲が並んだためか、それとも、地元の若き名手の登場だったからでしょうか、随分と前に「予定数終了」となっていたコンサート。黄紺は、昨年だったかの石上さんとのデュオでの溌剌とした名演が忘れられず、予約開始早々に申込んでありました。先日のびわ湖でのコンチェルトでは、超絶技巧を見せる一方で、荒削りな音も聴かれ、賛否半ばになったところ。もちろん黄紺の中でのことですが。で、今日のコンサート、やはり超絶技巧は太鼓判であることを見せつけてくれたのは確かです。特にメンデルスゾーンが、今日一番の演奏と看ました。右手、アルペジオの見せる変化が素晴らしく、もうツボにはまったかのように聴き惚れてしまいました。僅か1秒程の間に、クレッシェンドもディクレッシェンドがあり、テンポの揺らしまで入っていました。僅かずつ前のめりになると、弾き手、聴き手双方に高揚感が躍動します。このノリが相互作用したのが、石上さんとの名演だったのを思い出しました。ところが、「月光」になり、緩徐楽章が出てくると、かなりマイナス点。聴き慣れた曲だけに、余計に、こちらのノリが悪くなる。3楽章のプレストになり、飛ばされてもなぁと、、、やっぱ、緩徐楽章は年季なんでしょうか。となると、「熱情」の方には、こちらの熱情が入らなくなりました。メンデルスゾーンで感じたデリカシーを、なぜ、ベートーヴェンでは感じられなかったのでしょうか。なかなかムズいところです。


2019年 2月 19日(火)午後 6時 59分

 今日は美術館に行く日。狙っていた落語会があったのですが、狙いの特別展の終了が近づいているため、確実に行ける今日を選び、落語会をボツにしてしまいました。その特別展というのは、京都国立近代美術館の「世紀末ウィーンのグラフィック~デザインそして生活の刷新にむけて~」というもの。どうも、ドイツ通いをし出してから、それまで、ほぼ関心の向かなかった19~20世紀ものに、目が向くようになってしまってます。腰の不安がある黄紺は、ほとんど、日本では美術館&博物館通いは控えているのですが、今日は特別ということです。そう言えば、この前、日本で行った美術館も今日と同じところ。特別展は「バウハウス」でしたから、似通った時期のものを外せないと感じてしまっている黄紺です。世紀末ウィーンと言えば、この方を外せないということで、クリムトからスタート。ウィーン分離派という名で括ることのできる芸術家集団として取り上げられており、彼らの機関誌やら作品の展示。黄紺の知るのは、クリムト以外ではエゴン・シーレだけ。総じて、作品が小さく、クリムトにいたっては、習作としての観にくいデッサンが数点と、かなり寂しい。確かに、クリムトでなくても、クリムト・タッチの作品も、わりかし並んでいました。それらの作品群の中に、1つのコーナーが与えられていたのが版画、中でもジャポニズムを受け、木版画の復権ということで、そのコーナーで重きをなしていました。既成の様式から自由で、また、生活領域での活用も、このグループの目指すところだったようで、家具などの調度品、宣伝媒体としてのポスターになると、急に親近感を覚えたのですが、その製作年代を見ると、もう1910年代となっていました。キュービズム、ダダイズムなど、前衛的な作家の出現の時期でもあると思うと、なんか、同時代に活躍したカールマンを思い出してしまいました。音楽の世界では、ドビュッシーやラヴェルのようなフランス音楽、果ては、アルバン・ベルクの時代に入っています。ツェムリンスキーやR.シュトラウスとは言わないまでも、なんか作風を見てみると、カールマンを思い出したというわけです。勝手な思いなしに過ぎないでしょうが。特別展のあとは、常設展も観ることができるということで、そちらにも足を運んでみました。所蔵品を変更しながら展示しているようですが、黄紺的一番は上野伊三郎。彼のモダン建築の業績を展示していたのですが、その中に、京都のスター食堂と東洋亭が入っていたのに、びっくり。時系列に記された業績に身近な建築物が組み込まれている年代を見て、また、びっくり。特に東洋亭は、しっかりと記憶に残っています。思わぬところに、収穫がありました。自分的には、特別展がイマイチの満足度だっただけに、きっちりと埋め合わせをしてくれました。


2019年 2月 18日(月)午後 7時 29分

 今日は、久しぶりにお出かけなしの一日。この1週間、次の数日も、お出かけが続く予定なので、束の間の休日です。ですから、午前と午後のウォーキングは、いつもよりはたっぷり目に。今日は、この時期にしては暖かな日だったもので、長めに歩いていると、ジャンパーの前を開けねばなりませんでした。でも、もう少しの我慢で、春です。陽も長くなったので、夕方、ウォーキングの途中、通りかかった公園で、ゆっくりと読書をすることもできるようになりました。休日は、そういった自然の変化も、肌で感じることができます。ただ、ちょっと歩き過ぎると、腰に不安が出てくるのが痛いところです。


2019年 2月 17日(日)午後 7時 37分

 今日は映画を観る日。「みんぱく映像民族誌シアター」として、「淀川文化創造館 シアターセブン」で上映された「中国雲南省大理盆地の回族」を観てまいりました。上映されたのは、次の3本の映像でした。「回族の婚礼~中国雲南省大理~」「新築祝い~雲南省回族の家屋落成式典~」「アラビア書道家~雲南省大理市南五里橋村の回族~」。なお、上映後に行われた解説は、司会が福岡正太氏(国立民族学博物館准教授)、そして、お話は横山廣子氏(国立民族学博物館名誉教授)が担当されました。映像は、ビデオテークとして公開されているものと編集が違うもののようで、民博の出しているDVDに収録されているものだそうです。入口で配布されたレジュメを見たときには、ビデオテークからのピックアップそのものかとは思ったのですが、辛うじて、そうではないにしても、収録源は同じもののようで、ビデオテークのマルチメディアを使い、アクセスはできるようですが、マルチメディアの方は、編集が細分化されていると言われていました。冒頭で、その辺りの話があったためか、気が緩んでしまったのでしょう。2本目の半ばから、居眠りしてしまい、「書道家」は、さっぱり記憶の欠片しか残ってない始末です。レジュメを見ると、ここでだけ、回族のモスク内部の様子が映っているようで、残念と思っても後の祭りです。この映像の収録の指揮を執られたのが、上映後のお話をされた横山さん。元々はペー族の調査のために大理に入られた方で、同じ地域に住む回族との関係なども調査するなかで、婚礼の場面など、映像として収録されたものに遭遇したと説明されていました。「婚礼」の映像は、イスラーム以外とは結婚できない回族の男性と、結婚のためにイスラームに改宗したペー族の女性との婚礼、及び、その前後を収録していました。ですから、似てはいても違いのある、2つの民族の文化に触れることができたのが収穫ですが、生活そのものは、かなり豊かで、世界のどこにでもありそうな現代的な営みでありながら、伝統的な習俗が生きている姿を観ることができたことが、嬉しいところでした。豊かな地域の中の豊かな家同士の婚礼だったからでしょうか、食事のふるまいや出席者への礼金など、ちょっと桁違いのものを観てしまいました。「新築祝い」も、よく似たテイストで進んでたのですが、いや、それが業を為したのかもしれませんが、居眠りに入ってしまいました。最近、好調だったのですがね。変なきっかけにはならないように、願いたいものです。


2019年 2月 16日(土)午後 7時 1分

 今日は、びわ湖ホールで音楽を聴く日。マチネーで「古楽への招待10 マリー・アントワネットが愛でたベルサイユの肖像~中野振一郎が贈る甘美なクラヴサンの世界」というコンサートがありました。中野振一郎は、昨年だったかな、豊嶋康嗣とのデュオ・コンサートで聴いたとき、この人のクラヴサン音楽を聴きたいなと思ったのですが、正に、そのニーズに応えるコンサートがこれだったのです。そのプログラムは、アンシャン・レジームのフランスを、歴史的に追いながら組み立てるという、ちょっと工夫されたもの。以下のようなものでした。①ロココな貴婦人たち~ベルサイユの肖像~「F.クープラン:恋のうぐいす、刈り入れをする人たち、優しい恋わずらい、神秘のバリケード、おしゃべり」②ベルサイユの悪魔と天使「A.フォルクレ:フォルクレ、クープラン」「F.クープラン:高慢、別名 フォルクレ」③大バッハのライバル?「L.マルシャン:組曲 ニ短調~プレリュード、アルマンド、クーラント、サラバンド、ガヴォット、シャコンヌ~」④2人のアントワネット~革命前夜の音楽~「J.ラモー:ミューズたちの語らい、メヌエット、未開人」「C.B.バルバトル:リュジャック、クールテイユ、シュザンヌ」「マリー・アントワネット:そは我が恋人、哀れなジャック」「J.デュフリ:アルマンド、ドゥ・ブロムブル、三美神、ヴィクトヮール」。このコンサート、中野さんの軽妙なお喋り、内容は曲目紹介ですが、関西人らしい柔らかなお喋りに導かれて、気がつくと、ブルボン朝の貴婦人と一緒にクラヴサン音楽を嗜んでいるという趣向。今日は、知り合いからチケットが回ってきた高校時代の友人と一緒に行ったのですが、その友人が、「何度も、中野さんのコンサートに来られた人たちがいるね」言ってましたが、正に、このお喋り付きコンサートの魅力に導かれて来られたのでしょうね。もう1人、このコンサートに知り合いが来てましたが、そのご仁などは、それにはまってると言えばいいかな。黄紺も、すっかりおもしろく、そして楽しい気分で音楽を聴くことができました。中野さんも、お喋りの中で言ってられましたが、「クラヴサン音楽は、細かく装飾音を使うのが特徴、しかも、時が経つにつれ、その装飾音が、より細かく複雑になっていく」と言ってられましたが、その特徴を生かすクラヴサンを使い、より魅力を引き出すことに努められていたことに、何よりも拍手です。クラヴサンは、タッチの違いが生きない楽器ですから、そういった楽器選びが、音楽自体に寄与するのだろうなと思いますし、その狙いが功を奏したコンサートじゃなかったかな。ですから、指先の細かで精巧な技術が要るはずです。そこに期待したコンサートであり、それを見せつけていただけたかなと思っています。正確なテンポ、それを、敢えて崩し、より雅やかになっていくロココ時代の演奏、なかでもラモーの演奏が、本日の一のお気に入りとなりました。先日のメトロポリタンのライブビューイングもそうでしたが、帰り道、今まで観ていた、聴いていた音楽を、友人と語り合うのは、なかなかいいものです。今週は、たまたまですが、そういった機会を、2回も持つことができました。それだけでも、いい1週間でした。


2019年 2月 16日(土)午前 0時 7分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「BASS ver.2」と題して、コントラバス(幣隆太朗)を中心にして、フルート(増本竜士)、ヴィオラ(クリスティアン・ナシュ)、ピアノ(秋元孝介)のアンサンブルの演奏を聴くことができました。そのプログラムは、次のようなものでした。「L.v.ベートーヴェン: ソナタ ヘ長調 Op.17 (1800) cb,pf」「?cb,pf」「テレマン:幻想曲第2番 イ短調 fl」「武満徹:ヴォイス fl」「K.ライナー: コントラバスソナタ (1958) cb,pf」。今日は、アクシデントが起こりました。チェロの方(弊さんのオケの同僚)が、急に演奏できなくなってしまったのです。そこで、関係の曲が省かれ、替わりに、弊さんが、秋元さんとともに、短めの曲を追加され、フルートの増本さんがソロで2曲を演奏されました。それが、テレマンと武満作品となっています。弊さんのコントラバスは、所属のシュトゥットガルト放響の仲間に日本人奏者を加えて、定期的にツアーをされているアンサンブルで知りました。このカフェモンタージュでは、既に1度、ソロのコンサートをされていたのですが、そのときは、スケジュールが合わず、今日が初めてとなりました。そもそもコントラバス奏者が中心になったコンサートって、他に知りませんから、今日のコンサートは、全く稀有な体験となりました。冒頭の曲はチェロ用の曲。初めて、コントラバスとピアノのデュオとなりましたから、興味が掻き立てられたのですが、左手のスパンが長い分、弾きにくいのかなと、そういったことを思わせられました。そういった思いを持ったこととは関係ないでしょうが、ピアノの秋元さんが、えらく達者な弾き方をされるのに、耳が行っちゃいました。でも、帰りの電車で気がついたのですが、秋元さんて、今をときめく葵トリオのピアノなんですね。とっても納得。上手いピアニスト見っけの気分です。弊さんは、それ以後で、技巧面でも、音色面でも、本来の姿はこれだろうと思わせるものを披露。コントラバスの魅力的な響き、十分に伝えていただけました。もう1つ、いいもの見っけは武満作品、そして、それを演奏された増本さん。急遽、ソロで登板となったわけですが、暗譜で2曲を披露。曲想的に自由度が高いと見える武満作品の奔放さ、作品自体のおもしろさを、しっかりと伝えていただけたと言えます。弊さんには悪いのですが、武満作品が、本日随一の拍手を受けていたように思いました。カフェモンタージュは、他のコンサートと違い、わりかし年齢層の低い人たちが来るというおもしろい現象を持っていますが、今日は、その傾向が一層強く出ていました。何でなのかな。何か、気になってしまいました。


2019年 2月 15日(金)午前 0時 11分

 今日は、シンフォニーホールで音楽を聴く日。今夜は、日本センチュリー交響楽団の定期演奏会がありました。今年は、R.シュトラウスのアニヴァーサリー(没後70年)ということで、在阪の4つのオケが、示し合わせて、R.シュトラウス作品を出すプログラムを組んでいますが、今日のコンサートも、その一貫と看られ、いい曲なんだけど、なかなか生で聴けない曲が出るということで、黄紺的には外せないコンサートでした。そのプログラムは、次のようなものでした。「R.シュトラウス:メタモルフォーゼン(23の独奏弦楽器のための習作) TrV 290」「R.シュトラウス:オーボエ協奏曲 ニ長調」「R.シュトラウス:歌劇“インテルメッツォ”より"4つの交響的間奏曲" 作品72, TrV 246a」。指揮は、このオケの常任指揮者の地位にある飯森範親で、オーボエは、バイエルン放送交響楽団の首席オーボエ奏者の肩書きを持つラモン・オルテガ・ケロでした。思い出せはしないのですが、「メタモルフォーゼン」だけは、以前、どこかで聴いたことのある曲なのですが、とっても耽美的で、妖しい美しさをも感じさせるとインプットされていたのですが、今日は、なかなか、そういった実感を持てず、暗くて、磨きがかかっていない玉を見るようで、くすんだままに推移。徐々に退屈になってしまいました。弦23本というのでは、ホールが広すぎるのか、、、。原因を、そこに求めたくなりました。楽器編成が、かなり違うということで、「メタモルフォーゼン」が終わると、15分間の休憩が入りました。曲が曲だけに、会場は空席が目立ったので、その機会を捉え、3階サイド席から、2階正面の空席に移動。舞台が全部見えるだけで、爽快感が出てきます。R.シュトラウス・イヤーだということで、大フィルも、定期演奏会の演奏曲目に入れている「オーボエ協奏曲」は、初めて遭遇したはずです。ヴァイオリン協奏曲のような習作グループに入るのかと思っていたら、とんでもありません、最晩年に作曲されています。ということは、戦後の作品です。「最後の4つの歌」などに比べると、かなりくたびれ感のある曲と看ました。オケの演奏などは、これだけ取り出して演奏されれば、まるで古典派の作品のようです。あまりコンサートで出ないはずです。同じ出ない曲をプログラムに入れるなら、ヴァイオリン協奏曲という手も、これだったらあるのにと、ちょっとだけ突っ込んでしまいました。ただ、そういったオケに乗っかるオーボエのメロディが、わりかしフラットで、黄紺的には、新しさを感じ、オケといいバランスがあると看ました。ですから、後ろへ引いたような演奏が採られたのでしょうか。そのスタイルが判ってくると、わりかし、すんなりと入ってきました。でも、戦後になって、こないな曲を作るとはという点が、どうしても勝ってしまいます。「オーボエ協奏曲」が終わると、再度、休憩。今度は、ソリスト用のスペースを消し、オケの一パートにピアノを出さねばなりません。そういった意味で、厄介なコンサートでした。「インテルメッツォ」から構成した4曲は、超レアだということで、指揮者の飯森さんが解説をしてからの演奏となりました。飯森さんは、元になっているオペラの解説をされました。内容を聴いていると、オペラというよりはオペレッタの雰囲気。ですから、演奏を聴いていても、夫婦喧嘩の場面なんか、実に解りやすい。おまけに、舞台がウィーンになっているため、ワルツも出てくるしと、なかなか、楽しませてくれます。聴いていると、仄かに「バラの騎士」が思い出されたりと、とってもR.シュトラウスしていました。


2019年 2月 13日(水)午後 10時 36分

 今日は、ツギハギ荘で落語を聴く日。今夜は、こちらで「喬介のツギハギ荘落語会」がありました。今月は、あまり落語会に足を運ぶ予定が入ってませんので、自分的には貴重な落語会となりました。毎度ながら、喬介一人で運営し、出番も喬介だけという落語会。その番組は、次のようなものでした。「三人旅」「借家怪談」「転宅」。毎月の開催に、スケジュールが合えば行くことにしているこの会、今日は、どうしたことでしょうか、出足が、いつもと違い、一段と早く、開演前、階段下のスペースには入れない人が出たのじゃないかな。そして、いつものように、チラシには2席と書きながら、実際には3席の口演。「三人旅」は、入門後、「犬の目」に次いで、師匠から教わった噺とか。あまり出さないネタと、喬介は言ってましたが、黄紺的には遭遇経験の多いもの。やはり、このネタのキャリアが違い、一番手慣れた感じ。今日は、今まで聴いてなかった工夫、他の噺家さんでも聴いたことのない工夫がありました。馬を勧める馬飼いを、値段交渉でからかい、馬飼いが怒ると逃げる場面で、足に豆を作っている喜ぃ公が逃げ遅れ、馬飼いに、毎度捕まり、馬飼いの言ったやり方で懲らしめられかけているとしました。懲らしめ方が可笑しいですから、これは笑いました。この会では、自分のアイデアを、いろいろと試しているようですね。そう言えば、どの噺も、テンションを高めに設定して口演に臨んでいましたから、これも、今日のお試しだったかもしれませんね。その高めに設定したテンションに、イマイチ着いていけなかったのが「借家怪談」で、着いていけなさそうで着いて行けたのが「転宅」というところと言えばいいでしょうか。ともに、師匠現松喬からもらったと思えるネタですから、松喬テイストが色濃く、喬介も、それを、どうしたものかもがいているのだと思うのですが、それが、はまっているか否か、ないしは、なじんでいるか、なじみにくそうなのかの違いが、聴く者に、異なった印象として現れているのかなと思ったりしています。そういったことが起こるので、弟子には、自分の持ちネタをしないように指導する噺家さんが出てくるということで、今日の喬介の口演を聴いていると、なるほどと思ってしまいました。短い中入りが入り、それを含めて、1時間半の会でしたが、喬介の会は、なかみが詰まっているのか、時間のわりにはたっぷり感を感じたものになりました。


2019年 2月 12日(火)午後 7時 38分

 今日は、メトロポリタンのライブビューイングを観る日。今シーズン2回目となります。今週は、新演出(マイケル・メイヤー演出)の「椿姫」が出ています。新演出ということで、キャスティングも凄いものがあり、見のがすわけにはいきませんでした。そのキャストは、次のようなものでした。(ヴィオレッタ)ディアナ・ダムラウ、(マントーヴァ伯)ホアン・ディエーゴ・フローレス、(ジョルジュ・ジェルモン)クイン・ケルシー。しかも、この度、メトロポリタンの新音楽監督に就任したヤニック・ネゼ・セガンの指揮する初プロダクションになるということで、話題性抜群だったからか、このライブビューイングに根づいた人たちが、単に「椿姫」ということででしょうか、かなりの数の人たちが映画館(Movix京都)に詰めかけました。いきなり、前奏曲で、ヴィオレッタの臨終の場面から始まります。このプロダクションは、ヴィオレッタの回想というコンセプトで出来上がっているのです。MCのアニータ・ラチヴェリシュヴィリが、開幕前に、そのように告げたので、そのようには観ていたのですが、確かに、冒頭の場面で、そのように印象付けられはしますが、それ以外ではどうかというと、、、。今日も、高校時代の友人も、福井から観に来ていたもので、その点を確かめると、気づいてなかった、この男が気づいてないということは、大半の観客は気づいてないと言えるのですが、実は、装置でおもしろい工夫がなされていました。舞台装置は、基本的には、全幕同じです。周囲は壁で囲まれ、中央に、「ヴィオレッタの生と死」を表すかのように、オブジェとして設えられたベッド、舞台左奥にはピアノ、左前には書き物机と椅子、舞台右にも、同様の書き物机と椅子。2幕だけは、上から壁の装飾を剥がし、若干デフォルメされたものが吊るされます。あとは、照明で雰囲気に変化をつけるというもの。で、工夫というのは、ベッドと左の書き物机と椅子の「装飾の様式」が違うのです。この2点を除けば、これでもかというほど、こってりとロココ様式の装飾を見せつけています。2幕の吊るしは、ロココ様式の装飾だけを剥がして吊るしてあるというもの。これが、「ヴィオレッタの思い出の世界」なのだと気づくのに、黄紺も、随分と時間がかかりました。逆に言えば、「死の床にいるヴィオレッタに残されているもの」は、ベッドと左の書き物机と椅子ということなのでしょう。複数の時間帯を、同時に舞台に現出させていたのです。それを判らせるメルクマールが、装置の様式だったということです。「回想」をコンセプトにしたプロダクションでは、DVD化されているものでしたら、ヴァレンシアの「エウゲニー・オネーギン」が思い出されます。あのプロダクションは、歳を重ねたエウゲニー・オネーギンを、ずっと舞台に出すことで、そういったコンセプトだと判らせていましたが、このメトロポリタンの新しいプロダクションは、装置の一部に、異なった様式を使うことで、そのコンセプトを視覚化しようとしたということになりますが、高校時代の友人が気づいてなかったということは、成功したと言えるかは、疑問ですね。でも、メトロポリタンのプロダクションですから、今後、話題に上がっていくことで、そういった手法が知られた上で、このプロダクションが観られていくかもしれませんね。あと、演出上の特徴的な点をピックアップしておきます。1幕と2幕の間に休憩を置いた上で、2幕冒頭に、アルフレードとくつろぐヴィオレッタを出したプロダクションは、初めて観ました。ただ、休憩を置かず、連続的に進むと、ヴィオレッタは残ってしまいますから、その動かし方にわりかし神経を使ってますから、「2人でくつろぐ」という、流れ的には「あり」のところをヴィジュアル化でき、成功かなと思いますが、1幕後に休憩取られると、休憩が早く来すぎてしまい、興趣が落ちることも確かです。2幕に、アルフレードの妹を出しました。ただ、連れてきただけで、ペーター・コンヴィチュニー版( ニュルンベルク)のように、その妹に芝居をさせることはなく、パパ・ジェルモンの話を焦点化するオブジェとしての役割でしかなく、あっさりと引き上げさせていました。その妹を、3幕にも出しました。花嫁姿で、舞台を左から右に横切りました。こちらは、黄紺的にはやりすぎに映りました。「そこまで、客は想像力は欠如してない」というのが、黄紺の感想です。しかし、これだけ、「椿姫」で話題を提供してくれたプロダクションってのは、そうはないはずです。ということは、黄紺的には「高評価」です。アイデアが豊富で、非常に想像力豊かな演出家だと思います。ウィリー・デッカーのプロダクションに替えて、メトロポリタンが新演出に踏み出すわけのようなものが、少し判った気がしました。主役3人の歌手陣にオケも言うことなしで、何拍子も揃った、素晴らしいプロダクションが誕生したと言えますね。


2019年 2月 11日(月)午後 8時 38分

 今日は、久しぶりに落語を聴く日。2月の初落語会です。兵庫県立芸文センターであった「春風亭一之輔独演会」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。きいち「道具屋」、一之輔「鈴ヶ森」「ガマの油」、(中入り)、たけ平「相撲風景」、一之輔「百川」。追加公演まで出た大人気の一之輔独演会。あまり、こうした落語会には行かないのですが、ましてや西宮まで行かねばなりませんから行こうとしないのですが、たまにはという気が起こったのですね、チケット売り出し時期に。追加公演がソワレの公演だったので、端から2公演が予定されていたのなら、午後1時開演なんてのは行かなかったのにと思っても、後の祭り、、、そんなで、家を午前10時半に出て行ってまいりました。東京から2人連れてきたことが、ごく簡単な番組表で判ったので、これだったら、そこそこの噺を2つ並べるかもという希望的観測は、見事に裏切られました。1席目で、長めのマクラをふり、客席を暖めるのは常套手段。追加公演をネタにしたり、大河ドラマに志ん生が出ていることもあり、落語家役に扮した役者たちの話と、たちまち暖まったのですが、ネタに入り、目が点になっちゃいました。「これで1席目は終わるの?」と、驚くやら突っ込むやらでしたが、さすがに、これでは降りられなかったのでしょう。配布された番組表には、中入り前に1席となっていましたが、高座を降りないで、もう1つ、ネタに入りました。と言っても、前座ネタというか、それに近いネタの2連発でしたが。おもしろいのだが、ネタが軽すぎます。たけ平は、一之輔の同期。長々と、漫談めいたマクラをふったあと、相撲ネタに入るぞの空気を出してきたので、まさかと思ったのですが、そのまさかでした。しかも、小便に立てなくなった男だけでした。いくら、じゃまにならないようにと言っても、これは怒ります。1つだけ良かったのは、笑福亭の「相撲塲風景」よりは下品ではないということが判ったことか。これだけ、軽い噺が並ぶと、腹が立つとともに、最後の1つのネタに期待が高まりました。そしたら、なんとなんと「百川」が出ました。短いマクラでしたが、そこで、「四神剣」についての一之輔流解説が入ったので、これはもう、ガッツポーズものでした。ま、こうした会で、よく出しているようではありますが、、、。田舎言葉の男が言っていることが、全く判らないところから、僅かずつだけど、言っていることが判りかけてくるようにと、工夫されたお喋りに、びっくり。そして、一貫して流れるすっとぼけた雰囲気が、素直に伝わってきます。今まで聴いた「百川」の中で、ベストじゃないかな、そう思うほど、楽しめました。帰りは、梅田に戻ってから、今日は時間がなくてウォーキングができていなかったものですから、扇町公園を迂回して淀屋橋駅まで歩くことで、その補充に当てることにしました。


2019年 2月 10日(日)午後 7時 31分

 今日も、びわ湖ホールで音楽を聴く日。今日も、マチネーのコンサートで、「びわ湖ホール名曲コンサート 華麗なるオーケストラの世界 vol.1」と題されたものに行ってまいりました。阪哲朗指揮の日本センチュリー交響楽団が、ソリストに、ピアノの久末航を迎えて行われたコンサートですが、そのプログラムは、次のようなものでした。「グリーグ:“ペールギュント”第1組曲 op.46」「チャイコフスキー:ピアノ協奏曲 第1番 変ロ長調 op.23」「ドヴォルジャーク:交響曲 第8番 ト長調 op.88」。3連休中日とは言え、会場はかなりの入り。滋賀県と京都府出身者がゲストという点が、それに貢献したのでしょうか。プログラムは、北欧&東欧もので固められるというもの。黄紺は、そういったプログラムではなく、出演者に惹かれて行くことにしたコンサートでした。カフェモンタージュで、久末さんのコンサート(2回とも石上真由子さんとのデュオ)のある1曲が、とっても気に入ったために、そのように思ったのでした。ましてや、今日は コンチェルトですからね。ところが、そのコンチェルトの冒頭、強く叩きつけるような音に、完全に引いてしまいました。ピアノのせい? 会場のせい? いやいや、細かな音は、随分と滑らかに清らかなものでしたから、タッチなんでしょうね。冒頭で、これだったものですから、ちょっと流して聴いてしまいました。アンコールには、「悲愴」の第1楽章が弾かれましたが、どのように弾きたいのかが見えないというか、それがあるのか、なんてことまで考えてしまいました。でも、超絶的な技巧の持ち主であることを、今日は確認させてもらいました。もう1人の地元人、指揮の阪さんは、これまで、確か、レーゲンスブルクで2回、京都で1回聴いたことがあるのですが、今日は、随分とイメージが変わったと言えばいいかな。ドイツでのように、歌劇中心の活動はできないからでしょうか。実際、まもなく山形交響楽団の常任に就任されるようですが、指揮ぶりが、えらく大仰になっていました。ドボルジャークの8番って、随分と久しぶりに生で聴きました。民族風音楽たっぷりで、その熱気にほざされて、吸い込まれそうになるという感じになっちゃうというのが、聴き終わったときに、よくあるシンフォニーです。今日は、熱きほとばしりは、たっぷりと見えていました。でも、引きこまれるかというと、なんか細い溝があるようで。見えてはいても、体全体で、温もりを受けきれていなかったようですが、それは、自分の責任かもしれませんね。昨夜は、眠りが浅く、何度も目が覚めたもので、体調万全でなかったことは確かですから、、、。開演が、昨日よりは1時間遅かったため、もう京都に戻ると、午後5時半を回っていました。ですから、昨日とは違い、ごく軽いウォーキングをしながら、帰途に着くことにしました。


2019年 2月 9日(土)午後 7時 34分

 今日は、びわ湖ホールで音楽を聴く日。マチネーで、「びわ湖ホール声楽アンサンブル第68回定期公演 バロック声楽作品の精華」というコンサートがありました。このホールをレジデンスとする皆さんのコンサート、なかなかスケジュールが合わず、確か、今回が2回目となるはずです。わりかし、バロック音楽を取り上げることが多いものですから、マークはしているつもりのコンサートです。今日は、本山秀毅指揮で、ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団も入ってのコンサート。そのプログラムは、次のようなものでした。「ヴィヴァルディ:グローリア ニ長調 RV.589」「J.S.バッハ:カンタータ第70番“目を覚まして祈れ、祈りて目を覚ませ“」「ヘンデル:主は言われた HWV 232」。バロックの宗教音楽をまとめて聴く機会というのは、ホントに稀れ。このアンサンブルに関わり、今日も指揮を執った本山さんが、バロック音楽を専門にされているということで、こちらの定期演奏会では、そういった音楽が、よく出ているようです。にも拘わらず、「宗教音楽」を掲げたとなると、バロックの宗教音楽を代表する音楽家の作品が、見事に並びました。寡聞にして、ヘンデルの作品を知らなかったものですさら、華やかさを持つヴィヴァルディ作品がラストかと思っていたところ、プログラムを見ると、ヘンデルがラスト。実際聴いてみると、納得。ヘンデルらしい壮重な音楽でした。そのヴィヴァルディとヘンデルに挟まれたバッハで、とっても素敵なサービスが行われました。本山さんがマイクを携帯して、このカンタータの構造を、各モチーフを演奏しながら解説をされたのです。それを伺うと、バッハは、黄紺の知る以上に、手の込んだ作曲法を用いているのですね。最後の審判の物語に怯む音楽を流す一方で、当時、誰しもが知るコラールを、トランペットで演奏させて、神の偉大さ、救いを教える、「これって、ワーグナーやん」って思ってしまいました。その解説を、たっぷりされたあとに、全曲演奏に入るという、とんでもないサービスに感謝、感謝です。演奏は、ヴィヴァルディのときは、あまり声が出ていなくて、教会のような響く会場でないと苦しいなと思っていたのですが、徐々に響きが増していくようになっていき、ほっとしました。もう、バッハからは、そないなことは、すっかり忘れ、演奏自体を楽しむことができました。アンサンブルの規模に合わせ、オケも小規模。弦楽器は、チェロは1本で、コントラバスが入っていました。あとの弦は2本ずつ。管楽器は、トランペット、オーボエ、ファゴット各1本という構成でした。


2019年 2月 8日(金)午後 7時 17分

 今日で5連休のつもり。定期券があるため、それを使ってのウォーキングや買い物、昨日に至っては、無料コンサートまで行っちゃいましたが、今日は、正真正銘の自宅待機の日。定期券さえなければ、5日間ともそうなっていたのを、ちまちました欲を出してしまったというわけでした。今日は、この間、少しずつ進めている5~6月にかけての旅行の準備も、一つのメドがついたって日と言っていいかな。未だ、旅程自体が確定しきれない要素があるため、一応の区切りという意味でです。最近、またぞろ、腰の具合が悪い方に振れているのが、ちょっとした不安材料ですが、未だ、時間はあるので、なんとかなってくれるでしょう。ということで、 明日から木戸銭を払ってのお出かけ再開です。


2019年 2月 7日(木)午後 10時 3分

 今日も休日だったのですが、夕方から、プログラムのいい無料コンサートを見つけてあったので、行ってみることにしました。場所は関西アーバン銀行心斎橋本店1階ロビーで、「アーバンイブニングコンサート」と名付けて、毎月行われているものです。今日は、日本センチュリー交響楽団メンバー3人(ヴァイオリン:高橋宗久、ヴィオラ:永松祐子、チェロ:高橋宏明)の出演で、狙いの曲「J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988(弦楽三重奏のための シトコヴェツキー編曲版)」が演奏されました。以前から、このコンサートは知っていたのですが、場所が場所だけに混みあうと、勝手に決めつけ、行ってダメなら帰るしかないかと思うと、二の足を踏んでいました。今回は、今日は休日が前提で、定期券の有効活用もあり、ダメもとで行ってみることにしました。先日の芦屋のコンサートでご一緒したY坊も、昨日になり行くことを連絡されてきたのですが、黄紺と同様の考え方で、会場に到着すると、既に来ておられたのですが、肝心の会場はがら空き。最終的には9割は埋まりましたが、黄紺らが考えていたような混み方をせず、ちょっと肩透かしを食らいました。今度からはゆっくり行けばいいと学習はしたのですが、このコンサート自体が、銀行の合併が絡むのでしょうか、次回が最終回ということでした。ところで、今日演奏された弦楽三重奏版は、一昨年の11月に、カフェモンタージュで出たときに、生で初めて聴き、大きな感動を受けました。実は、そのときも、Y坊夫妻と一緒に聴いていたのです(Y坊は覚えていない)が、通常、鍵盤楽器で弾かれるのに比べて、メロディラインが1つ増えるのを有効活用した編曲の妙が冴え、とっても印象に残った記憶があります。今日も、もちろん、それを楽しみに来て、そして、楽しませてもらえたのですが、前半は、わりとチェロが通奏低音的に使われていることも多く、その通奏低音としても、多様な用い方をされているようで、、、なんて考えながら聴いていると、徐々に、そんなことは、どうでもよくなって行ってしまいました。総体として、癒されてしまい、どうでもよくなってしまったのです。それが魅力です、ホント。これだから、この曲を狙いにして、大阪まで足を運んだのですからね。ただ、会場はアクセス抜群で、そういった意味では申し分ないのですが、残念ながら音響的にはどうだったでしょうか。高音は、素敵に響きます。でも、中低音域になると、うって変わり難物になりました。ま、ちょっとした愚痴ですが。ということで、ほぼ1時間、都会のど真ん中で、しかも、夕刻の慌ただしさを外に眺めながら、とっても癒される時間を持つことができました。


2019年 2月 6日(水)午後 10時 15分

 連休3日目。今日は、時間があるということで、昼過ぎに、家の用事で、京都市内へ。ついでに、京都文化博物館と京都観世会館に立ち寄りながらのアーバン・ウォーキング。その大まかなコースは、四条駅→四条烏丸→京都文化博物館→寺町二条→岡崎(京都観世会館を含む)→円山公園→四条駅。京都文化博物館では、北野天満宮に関する特別展に伴うイベントについての問い合わせ、京都観世会館では、今年の職分家の定期能番組表をもらいにといった、ほんのちょっとしたことをしに行っただけ。でも、それで、コースが組みやすくなりました。寒さは落ち着き、雨も降らずなのに、さほど観光客の歩いてない京都の観光地を歩いたっていうのは、久しぶりじゃないかな。春節ということで、中国からの観光客が多いかもと思っていたのですが、肩透かしを食った感じでした。このウォーキング(四条烏丸以後)で、所要1時間20分。もちろん、2箇所での立ち寄り時間込みでです。それにつけても、今年の能の番組表を見ての衝撃は、大き過ぎました。ウルトラ超稀曲の「九世戸」が、井上定期能で出ます。全曲制覇を目論んでられるなと思っている能楽師さんがシテを務められるのですが、その日は、黄紺は日本にいない、、、愕然としました。その能楽師さんが出されるときが、観能の唯一のチャンスと思っていただけに、もう動揺は計り知れないものがありました。


2019年 2月 5日(火)午後 7時 26分

 今日も予定なしという日だったので、この間、気になっていたことを確かめに行くことにしました。最近、韓国絡みのYoutuberの動画を観ることを覚えたところ、その中で取り上げられた「鶴橋」の風景が、黄紺の知るそれと、随分と異なるというのに気づき、とっても気になってしまってました。ならば、時間のあるときに、自分の目で確かめたいと思っていたわけです。動画で観る限りでは、①韓流の流行りに乗っかっている②韓国のシジャンそのもの化してきている、この2つが、黄紺の目には大きな変化と映ったのでした。そう言えば、結構な間、鶴橋を歩いてないなとも思い、それを、今日、実行に移してみたというわけです。鶴橋駅から朝鮮市場を抜け、コリアタウンに向かいました。駅前市場で、早速、①②の変化が看て取れました。②について補足をすると、韓国料理店やおかず(キムチを含む)屋は、以前から多かったのですが、その店の並ぶ密度が濃くなっています。駅前は、立地がいいからか、ずらっと並ぶ状態に。店自体が新しくなっていますし、ちょっと喋りかけたアジュマは、たまたまだったのかもしれませんが、ニューカマーかとも思ってしまいました。 それに、店で売ってるものに変化を感じました。これは、コリアタウンも、その道筋を含めて、「チジュダッカルビ」が目立ち、「ホットク」「トッポキ」という屋台定番のものが出てきていました。決定打は、「ホットドッグ」の店。変わりホットドッグが、韓国の街角で目を引きますが、店のインテリアも、それに似せてのもの。この辺りに、若い人たちの目を引くような店なんて、以前にはあったっけと思ってしまいました。アリラン食堂の近くには、韓国のしゃれたカフェもどきがあったり、伝統的タバンもあり、やはり①です。御幸通まで行くと、平日の昼間なのに、結構な人出、これにはびっくりさせられました。90%は女性じゃないかな、更に、その90%は若い女性です。男は、カップルで来ている場合が多いので、女性の付きものです。①の証拠は、あっさりと掴めました。そのなか、おっさんが歩くのは、辛いよぅ。先日の韓国の旅日記「ヨンジュ(栄州)編」で書いたと思うのですが、韓国で洋食屋に入るときに出す勇気が必要でした。御幸通、即ちコリアタウンですが、この道歩くの、ちょっとした勇気が要るようになっています。ましてや、その中で、トッポキを買うために並んだときは、恥ずかしかったぁ。若い女の子かカップルしか並んでないのですから。コリアタウンの方は、①と②が、古くからあったこの通の雰囲気と、ごちゃ混ぜになったというところでしょうか。あるYoutuber氏が、コリアタウンを見て、「新大久保とは違う、そして、②だ」と言ってましたが、とっても納得。但し、黄紺の知る新大久保は、かなり前になるので、基準になるものがあやふやかもしれませんが。黄紺の目には、地方都市のシジャンの雰囲気という意味で②だと思いました。でも、韓流ドラマや映画の影響なんでしょうね、屋台系の店に、人が群がっていました。ホットドッグ、ホットク、トッポキ、ダッカンジョン、チジュダッカルビ、あれ何て言うのだろう、ポストチップスを串に指したの、、、以前来たときには、確実に見なかった代物です。チヂミは、たくさん売ってたけどね。結局、黄紺は、駅前で「ホットク」を1つ(200円、ピサッ)、コリアタウンで「チジュトッポキ」(500円、ピサッ)を食べました。帰りは、桃谷商店街を抜けて桃谷駅へ出たのですが、桃谷商店街の寂れように、唖然。駅前商店街が苦しんでるのは、どこしもあることですが、あまりにもの姿に心が痛みました。それに引き換え、コリアタウンの賑わい。今や、在日の方たちが集住するというそのことが、経済的価値そのものになってしまってますね。家に帰ったら、まだ午後3時。この鶴橋行きを、午前中のウォーキングとみなし、午後のウォーキングは夕方から陽が落ちても続くことになりました。ま、休日のときは、毎度そうですがね。でも、陽が長くなりました。冬至から、もう1ヶ月半ほど経ったのですから、そうなんでしょうが、日が経つのが、実に早いです。


2019年 2月 4日(月)午後 6時 37分

 今日から連休に入ります。ちょいと出かけることはありますが、基本的に、木戸銭を払って、どこかにおじゃますることのない日を続けます。年末年始のときと、同じくらいのつもりです。その第1日目。定番の、午前と午後に分けたウォーキングだけを楽しむというもの。あとは自宅引きこもり生活です。今日は、それに、ちょっとだけ色を着けました。今、京阪電車の定期券があるため、午後のウォーキングを、京都市中心部ですることにしました。アーバン・ウォーキングってやつです。1つには、三条界隈で買い物もしたかったためもあったのですが、今日が月曜日であったことを失念していたために、前まで行ってカパルだということを知るハメに。で、結局、ウォーキングするためにだけ、市内に出かけたことになっちゃいました。三条通を西へ、途中から姉小路に入り新町通まで、そこから、今度は南下、七条通を出たところで東へ。京阪七条駅まで、1時間10分の行程。腰の具合が悪いものですから、このくらいがいいところですね。久しぶりに歩いた新町通。五条から七条までの間がレトロで、いいですね。漆、金箔、書、扇の専門店があったり、石を積み重ねた塀を持つ家があるかと思うと、レトロなカフェに医院、なんかタイムスリップしちゃいました。この連休を使い、街歩きを、あと2つ考えています。できるか否かは、お天気と黄紺の生活のリズムにかかっています。


2019年 2月 3日(日)午後 10時 56分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「F.メンデルスゾーン~生誕210年~」という題を付けたコンサートがありました。演奏は、ヴァイオリンが白井篤、ピアノが鈴木華重子のお二人でした。そのプログラムは、次のようなものでした。「W.A.モーツァルト:ヴァイオリンソナタ 第1番 ハ長調 K.6」「C.シューマン:ヴァイオリンとピアノのための3つのロマンス 作品22」「F.メンデルスゾーン:ヴァイオリンソナタ ヘ長調 1838遺作」。メーンのメンデルスゾーンを初め、珍しい曲が並んだプログラム。白井さんのヴァイオリンのみならず、このプログラムに惹かれて、このコンサートに行ってまいりました。まぁ、モーツァルトは子どもの時代の作品ですから、あとの2つを比べると、かなりメンデルスゾーンの演奏が気に入りました。溌剌とした1楽章で、何かが違うという感じになってしまったもので、楽章が変わると、どんな演奏が飛び出してくるのかが、楽しくて、、、。そして、それに応える、素晴らしいものだったと思いました。音に勢いがあるというか、気合いが乗っているというか、生命力を感じさせるものがありました。クララの作品は、全体的にくぐもった印象を与えることもあるのでしょうか、音自体に物足りなさを感じてしまってました。もっとムーディーな曲のはずなのに、くぐもったままじゃんという感じを、終始持ったままでした。メンデルスゾーンは、今年がアニヴァーサリーに当たるようですから、大阪のどこかのオケが、名曲「エリア」を出したりするようで、カフェモンタージュでも、室内楽の作品を出すようなことを考えていると、オーナー氏も言われていましたから、1年を通した楽しみが出てきました。5月下旬までは日本にいますから、しばらくは、カフェモンタージュ通いが続くでしょうが、その中に、メンデルスゾーンが入ってくれるといいのですが、、、。


2019年 2月 2日(土)午後 8時 10分

 今日は、「伏見連続講座」の一環として、種智院大学で行われた「伏見向島と巨椋池の歴史」という題で、宇治市歴史資料館前館長の坂本博司さんがお話された講演を聴いてまいりました。伏見区が、えらく頑張っていて、こうした伏見関連のテーマで、連続的に講演会を持ってくれています。黄紺は、相変わらず、情報に疎く、ようやく参加は3回目となりました。会場の種智院大学は、初めて行くところ。七条にあるものと思っていたら、正に、今回のテーマの地である向島にありました。近鉄向島駅から判りやすい位置にあるということもあり、黄紺は、ウォーキングがてら、中書島駅から歩いて行くことにしました。観月橋を、北から渡り、すぐ右に逸れる道が、微高地で尾根筋のようになっています。道沿いには、えらく古風な家屋が並びます。この道、ひょっとしたら「ブラタモリ」にも出てきた「文禄堤」跡かもしれないと、一人合点していましたが、当たっているのでしょうか。講演では、その堤については出てきませんでしたが、まず、地形の話になるほどと唸ってしまいました。京都盆地の東西の輪切りと南北の輪切りの、最低地が、見事に、この巨椋池で交差しておりました。これはかなわん、宇治川水系の水は、全部、ここに集まってきます。ましてや、宇治川は、巨大な貯水タンク琵琶湖の唯一の出口。すぐ下流に三川合流地を抱えていますから、桂川水系と木津川水系で水かさが増すと、逆流が起こります。大変なところです。川は、もちろん水だけではなく、土砂を運んできます。これも、源が琵琶湖ですから、その量たるやハンパではありません。川筋は、再三再四変わり、洪水に悩まされたようです。治水に悩まされ続けた川ということです。ただ、土砂が、大量に流れ込んでくるため、浅い池だったようで、それが、絶好の漁場になっていたようで、古絵図には、魚を獲る仕掛けが、池一面になされているのが判りました。この巨椋池の漁業権を持っていたのは、伏見、小倉、一口ら久御山の漁師だったそうで、それぞれの権利関係について、多くの史料が残っているそうです。いよいよ、明治に入り、近代的な技術を使い、宇治川の治水、巨椋池の干拓が、国家事業として実施されていきます。プロジェクト第1号事業が、巨椋池の干拓だったそうです。宇治川の水が巨椋池に入らなくしたりする付け替え工事、そして、オランダの干拓事業から学んだ技術を使い、干拓に着手。忠犬ハチ公の飼い主さんの弟子の方が指揮を執られたとか。これが、戦前の事業。これでも、宇治川の決壊が、戦後、起こります。そこで、切り札として出たのが、天ヶ瀬ダムの建設になるとなると、もう高度経済成長期の話です。それでも、ここ数年のゲリラ豪雨では、天ヶ瀬ダムに不安を感じるものがあるそうです。琵琶湖を水源地に持ち、京都盆地の最低地であるのは変わらないわけですしね。今、その工事が進行中だそうです。これは、壮大な物語です。旧巨椋池地域、これを、現在、西小倉と呼ぶそうですが、そこからは、今でも、「6秒間で25mプールを空にできる」モーターを稼働させ排水が行われているそうですが、このフレーズ、どこかで聞いたことあると、頭を捻ったら、あっさり判明。「ブラタモリ新潟編」で聞いたものです。鳥屋野潟の排水がそれですよね。そないな話を聴くと、種智院大学は、西小倉の真っ只中の位置なもので、帰り道は、何かが見えるわけでもないのですが、キョロキョロ、目を八方に巡らす挙動不審男になってしまってました。宇治市歴史資料館が、唯一、巨椋池についての展示があるそうなので、いつか行ってみることにします。これ、「ブラタモリ伏見&宇治編2」としてやってくんないかなぁ。あの番組、「干拓」を正面から取り上げたこと、あったっけなんて思ってしまうものですから。


2019年 2月 2日(土)午前 0時 18分

 今日は、芦屋のアマックホールであった「井上典子 無伴奏ヴィオラ・リサイタル」に行ってまいりました。会場が、阪神芦屋駅近くだということで、黄紺的には、滅多に行かないところということもあり、コンサートに行く前に、その近くに住む友人とお茶。それからの会場入りとなりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第3番 BWV1009 ハ長調」「P.ヒンデミット:ヴィオラ・ソナタ op.25-1」「西村 朗:ヴィオラ・ソナタ第2番」「P.エルソン:パヴァーヌ」「E.イザイ:チェロ・ソナタ op.28」。井上さんは、現在、新日フィルのヴィオラ首席という地位にある方。今日は、なかなか経験できないヴィオラのソロリサイタル、その中でも、定番のヒンデミットに加わったのは、チェロの無伴奏曲。黄紺も、最初、プログラムの中に、バッハとイザイが入っていることを知ったとき、勝手にヴァイオリンの無伴奏曲をヴィオラで弾かれるものと、早合点。よく見ると、ともにチェロの曲。これは、聴く前から、嬉しい付加価値の付いたプログラムに出逢えたものでした。ましてや、イザイの無伴奏チェロ曲ってと、思わず、頭の中に「?」が点ったほど、珍しいもの。ようく考えると、どこかで聴いた記憶を引っ張り出せましたが、それとて、もちろんヴィオラではないということで、おもしろいプログラムになったものです。バッハが終わったところで、演奏者自らが、プログラムの紹介をされたのですが、そのコンセプトとして、ヴィオラという楽器の魅力であるC線の活躍する曲を集めたということです。確かに、ヴィオラの出す低い音は、悩ましげでもあり、深い洞察力もあり、心の闇を表しているようでもありで、他の楽器には見られない、独特の魅力を醸し出すことは、確かなこと。そういったヴィオラの音が、なんと鳴ったことでしょう、このコンサートでは。楽器が、とてつもなくいい音を出します。また、それを引き出す技量があるということなのでしょう。アマック・ホールという小ぶりの会場に音響の特徴もあったのでしょうが、ホント、いい音が鳴りました。ヒンデミットなどでは、かなりのパワーを見せつけてくれました。今日は、ヴィオラの音に自分的革命が起きた日と言ってもいいくらい。曲目的には、黄紺的お気に入りは、ヒンデミットでした。昨日聴いたコルンゴルドと、ほぼ同時期。ということは、「ヴォツェック」とも同時期。なんと、質を異にする音楽が、同時並列的に誕生したのでしょう。とっても豊穣の時代を感じさせます。そういった中でのヒンデミットは、半音階が多用されるかと思うと、調性の維持も見せる。そのためか、緊張感がすごい。それを弾ききった奏者に拍手です。同時に超絶技巧を求められる。聴きものでした。そういった曲想と異なるバッハやイザイは、振幅を大きくとられないのが特徴と看ました。ストイックな演奏と言えばいいかな。そんなで、芦屋まで行ってきましたが、やっぱ遠い。次回は、地元の京都で開催して欲しいものです。


2019年 2月 1日(金)午前 0時 29分

 今日は、久しぶりにカフェモンタージュで、音楽を聴く日。今夜は、「E.W.コルンゴルト」と題して、(ヴァイオリン)田村安祐美、相本朋子、(ヴィオラ)小峰航一、(チェロ)佐藤禎、(ピアノ)佐竹裕介という京都市交響楽団のメンバーのコンサートがありました。演奏されたのは、「E.W.コルンゴルト:ピアノ五重奏曲 ホ長調 作品15」でした。いつものように、オーナー氏による解説からスタート。その中で印象に残ったのは、言われてみれば納得の、この曲は、「ヴォツェック」と同時期に作られたということ。20世紀最大の問題作であるとともに、最高傑作と言われるアルバン・ベルクのこの作品は、やはり、新しい社会に呼応する音楽を紡ぎ出していると、今では評価が定まっているかと思いますが、それを醸し出した十二音技法は、とんでもなく斬新で耳慣れないもの。それに対して、コルンゴルドは、オーナー氏の言葉によると、「負け組」の1人として、旧来の音楽の線上にあり、且つアメリカに渡って以後は、映画音楽に没頭したためか、クラシック音楽の世界からは弾き飛ばされ、いつしか忘れ去られていた存在。正に、その音楽は、耽美的で耽美的で、それ以外の表現が思い浮かばない。そういった音楽作りが、時代と齟齬をきたしたから、そうなったのか。同様の流れに位置するR.シュトラウスは生き残り、コルンゴルドは消えて行ったのは、どこにあったのか、音楽そのものでは、黄紺などに解るはずはありません。ホフマンスタールとの出会いが重大なのかなぁと、R.シュトラウスの場合は、そのように思っちゃいます。ライブで、この曲は、初めて聴くはず。今日は、ライブで聴くことの肝要さを思い知ったコンサート。もっと平板な曲だと決めつけていました。主旋律の受け渡しや、思いがけない第1ヴァイオリンの突っ走りが、ライブならではのクリアさを持って伝わってくるものですから、やはりコルンゴルドの曲だと認識できた次第。イメージに合ってきたと言えばいいでしょうか。中でも、第1ヴァイオリンの田村さん、絶好調。3楽章冒頭のソロは言うに及ばず、切れのある、そして、色気のある音と言えばいいのかなぁ、完全なる牽引役でした。ただ、今日は、眼鏡を持参して行くのを失念したため、やたら前の席に座ったためでしょう、全体を見渡せていたとは言えず、楽器間のバランスを把握しきれないのが弱味となる位置取りになってしまったのが惜しまれます。今日も思いました。京都在住の者って、京都市交響楽団のあることって、とってもありがたいことだなぁってこと。こうしたアンサンブルを、このような形で聴けちゃうわけですから、ホント。


2019年 1月 30日(水)午後 8時 34分

 今日も、動楽亭で落語を聴く日。今日は、昼間の会「ちょうば・佐ん吉の午後席」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。二豆「小ほめ」、小鯛「尻餅」、ちょうば「三十石」、(中入り)、二葉「打飼盗人」、佐ん吉「くっしゃみ講釈」。当初出番のあった米輝が、インフルエンザでお休み。代演は、昨夜になり小鯛と、佐ん吉のツイッターで告知がありました。結果的には、小鯛が連日となりますが、今日の会の方は主宰というわけではないということで、敢えて、この会を避けるという手は使いませんでした。でも、今日も居眠り。これで3日連続です。特に今日は、行きの電車の中で、かなり眠たくて、危ないと思っていたら、案の定でした。特に前半がダメで、小鯛にいたっては、2日連続で居眠ってしまいました。2日とも、大きめのネタを出してくれただけに、勿体なくて。後半は大丈夫かと言っても、完璧に大丈夫だったのは、二葉の口演だけ。佐ん吉の高座は、若干跳んでしまってます。ですから、二葉の口演だけ、メモっておきます。最近、ネタ下ろしをしたものを知らなかったので、中入り明けの出番だから、うまくいけば、新ネタを聴けると期待していたのですが、その期待がドンピシャでしたが、「盗人ネタをします」と言われたときは、以前からの「書割盗人」だと決めつけてしまいましたが、きっちり新ネタでした。ただ、「打飼盗人」は、わりかし意外性を感じました。二葉の得意として演じるキャラに合うかなぁと思ってしまったのです。無邪気なアホというのとは、ここで出てくる盗人は違いますものね。また、盗人自身の台詞は、あまりなく、家人の物言いで、そのキャラが浮き上がってくるという、なかなか難しいネタ。家人の厚かましさ、ちょっとナメた物言いも難しい。そう思うと、二葉は、かなりのチャレンジャーです。そないなことを思いながら振り返ると、家人のキャラ付けを、イマイチ濃くすると、盗人も、もっとクリアに見えてくるのかなと思いました。家人の落ち着いた物言いは、気に入ったのですがね。今後も、この会は続けると、佐ん吉は言ってましたし、米朝事務所も噛んだ開催のような印象も持ちましたから、20日までの昼席とは、彩りの異なる落語会を、昼間楽しめそうです。


2019年 1月 29日(火)午後 11時 29分

 今日は落語を聴く日。動楽亭であった「ご近所落語会」に行ってまいりました。動楽亭界隈に住む二人の落語家さん、生寿と小鯛の二人会です。ところが、欲がないというか、宣伝をまるでしてない。チラシを作っただけじゃないかなぁ。ネット上のどこを探しても、この会の情報が流れていない。生寿のツイッターにすら出てないものですから、自分のメモ間違いかという不安までが、最後には出てしまいました。動楽亭情報という米朝事務所のサイトを見ると、今夜は公演が入ってないことで、逆に、この会があるのではと思えた唯一の情報、これを頼りにして家を出る決意をして、動楽亭に向かいました。幸い、メモは間違いでなかったので一安心。で、番組は、次のようなものになりました。小鯛「前説」、生寿「蛇含草」、小鯛「鴻池の犬」、(中入り)、生寿&小鯛「トーク」。小鯛は「前説」の中で、師匠塩鯛の病気入院について報告をしてくれました。黄紺も気になっていた話題。繁昌亭の高座を務めているときに変が起こったということも、全然知りませんでした。今は元気にされている由、ちょっと安心しました。この会は、二人が1席ずつ務めるというもの。今日は、しっかりしたネタ2つが並びました。生寿は、季節ものをするかのような物言いをして、フェイントをかけておいての真夏ネタ。以前、生寿では、少なくとも1回は聴いているはず。あとの、「トーク」で言ってましたが、「米朝→現松喬→生寿」という流れで受け継いでいるそうです。餅を食べてしまう男に対し、それをたしなめる男、その関係が、わりかしソフトに描かれているのが特徴だなぁというのが、印象に残った口演。今まで聴いてきた口演では、そこまで腹立てるのかなぁと思うものが多く、あとで様子を見に来る心性と、バランスの悪さを感じてたものですから、今日の生寿の口演を聴いて、とっても合理性を感じてしまいました。一つには、たしなめる男の物言いに、あまり変化をつけなかったのが良かったのかな。一方の小鯛は、最近のネタ出しの中に「鴻池の犬」を見てたものですから、今日はこれだろうと思っていたら、大当たり。但し、その口演の序盤早々に居眠り発生。どうも、昨日からいけません。小鯛の口演の特徴を把握できるほどは、聴けてなかったのが現実です。「トーク」は、毎回おもろくて、楽しいもの。今日は、病気絡みで、入院経験や病気経験の話題から入りました。生寿の入院経験話には、さすが驚かされました。世間には、ホント、いろんな病気があるものです。それ以外は、その場にいた者の特権っていうところです。このあと、生寿は、タカラジェンヌになるからと、次回の開催は6月頃という告知がされて、お開きとなりました。


2019年 1月 28日(月)午後 11時 25分

 今日は講談を聴く日。今日は、毎月恒例の「第258回旭堂南海の何回続く会?~正月特別差込読物」に行ってまいりました。今日は、副題が付いているように、1回限りの特別読物。それは、題して「釈迦十大弟子物語~仏陀誕生から目蓮の弟子入~」というものでした。読物の内容が受けたのか、空席なしの大入りとなりました。でも、黄紺は、完全に居眠り。確か先月も、そうだった記憶。いい読物が、これではいけません。情けない。


2019年 1月 28日(月)午前 7時 30分

 昨日は落語を聴く日。京都ロームシアターであった、伝統の「市民寄席」に行ってまいりました。ロームシアターに、会場を移してから、2回目となります。その番組は、次のようなものでした。三度「つる」 、ちょうば「おごろもち盗人」、雀三郎「二番煎じ」、(中入り)、新治「狼講釈」、仁智「EBI」。なかなかの好メンバーの揃った番組、中でもの、トップに三度、二番手にちょうばが並んだのは、「新人グランプリ」優勝のご褒美と思われます。それに加えて、同期の仲良し大御所コンビが、トリと中トリ。仁智と、芸術祭同時受賞経験のある新治も付いてくる、まことに好メンバーが揃いました。三度の落語は久しぶり。自作ではなく、古典を持ってきました。但し、普通の「つる」ではありませんでした。アホが発する間違いに、様々な変化を入れ、最後には、床屋で「鶴は名鳥」と言った男の家まで押し寄せるというもの。盛りだくさんな仕込みがあったわりには、無理がないことに拍手。三度の、こうした着想の力は魅力的ですね。ちょうばは、京都出身ということで、地元ネタを連発して、すっかり受け入れられてしまいました。ちょうばの「おごろもち盗人」は、確か初めての遭遇なはずなんですが、存外スマートな口演に、ちょっとした驚き。盗人の腕を縛る、おいしい場面などで、泥くささが落とされてしまっていて、自分的にはもう一つという印象を持ってしまいました。雀三郎は、天下一品と言える「二番煎じ」。 番小屋の外の寒さ、そして、内側の温さ、そんなのが、びんびんと感じられるもの。番小屋に集う人たちの会話が、そういった感じにさせてくれるのでしょう。その中のヒーローは宗助はん。いろいろといじられますが、残念だったのは、この人がいじられキャラになるわけが見えてきませんでした。そんなことを考えるのは、詮索が過ぎるのでしょうか。後半は、上方一の「狼講釈」で開けました。久しぶりに新治の口演で聴きました。この人らしく、時事ネタか挿し込みとして入るのも、楽しいところ。快いテンポが極上の噺の世界を生んでいました。そして、トリは会長。マクラでは、まだまだ使える会長選挙ネタ。この反応を聴いていると、市民寄席も、随分と落語経験の浅い客になったという雰囲気。大阪の隣でありながら、地方の会場化した反応でした。それは、ネタに入ってからも同様。ネタは、黄紺的には初物。エビ道楽のエビとカニ道楽のカニが対決していくというもの。その前に、エビ&カニ絡みのくすぐりが詰まったもので、最後には水掛不動が現れ、仲裁をするというもの。鳴り物が2回入り、中身の軽さにも拘わらず、ネタの大きさを感じてしまいました。久しぶりの市民寄席は大入り。今年の年間指定席は、既に完売とか。人気の会です。
 終了後、丸太町通に出て、その辺りにあると聞くベッケライ探しに。かなり白川通寄りで、あっさり見つかりました。中に入るのは、いつかとして、黒谷さんへ。でも、あまり時間がなく、かすっただけ。というのは、夜は、元の同僚と会う約束があったのでした。約20年ぶりの再会。昔は、仕事帰りに、よく飲みに行きました。その再現で、5時間、喋り続けてしまいました。濃~い一日となりました。


2019年 1月 26日(土)午後 7時 41分

 今日は浪曲を聴く日。百年長屋であった「浪曲の小部屋」に行ってまいりました。この会は、真山隼人くんが、沢村さくらさんと二人三脚で続けられている会。スケジュールさえ合えば、最優先にしている会の1つです。今日の演目は、「大石の東下り」「柳田格之進」。マクラは、予想通り、話題は2つ。先週、食中毒になり、十三の会への出演を断念した話と、芸術祭新人賞受賞話。前者は、想像以上の凄まじさだった様子。救急車で病院に搬送されたとか。食い物は怖い、水も怖い、そして、黄紺には、今は牛乳が怖いのです。年末にひどいことになっちゃいましたから。受賞話は、隼人くんは、どこでもやらねばならなかったようで、もう喋り飽きたって感じでしたが、黄紺には、初めてだったので、もうちょっと話して欲しかったな。2つ目のネタ下ろしの前に、持ちネタを披露。講談も含めて、去年の後半、聴く機会に恵まれたもの。名作中の名作ですが、今日は、半ば前に居眠り。毎朝呑むお酒が残ってたのかな? 今朝は、ちょっと多めに呑んでしまったもので。DVDで、ダヴィッド・マクヴィカーのプロダクションの「ジュリオ・チェザーレ」を観ていると、お酒が進んでしまいました。ま、居眠りと、関係ないと思うけどね。2つ目が、1時間の長講となった、本日のネタ下ろし。「柳田格之進」が、浪曲になってるのは、隼人くんが、ここで出すことを知って、初めて知りました。華井新の台本が残っているそうです。講談&落語のオーソドックスなヴァージョンから、序盤を省いただけという台本。旦那に預けた50両を、番頭が受け取りに来て、紛失が発覚するところからで、その後の展開は、講談&落語と同じ、カットはなしというものですから、そりゃ長くなります。そうするしか、仕方ないのかもしれません。ただ、序盤を省いたため、旦那と柳田との篤い交友、旦那の柳田を敬愛する気持ち、それを碁が取り持つ、そういった事柄が稀薄になってしまいました。時間の問題がありますから、このカットはやむを得ないとは思いますが、カットされた序盤で描かれることを、その後の展開の中で補強する必要が出て来ます。それを、今日の隼人くんの口演ができたのかというと、ちょっと物足りないものを感じました。旦那と番頭のキャラが、あまり変わらなかったというのは、痛かった。また、紛失に至る日の描写もカットされたものですから、月見の宴の賑わい、そこへ、侍の来訪といったことの中での紛失をカットしてしまってあるので、番頭の疑惑がのし上がってきてました。ここでも、旦那のキャラ付けが弱かったということが、のし上がりを許してしまったように思いました。そういった風に考えてくると、演じ方で、カットした部分、それはまた、物語の大枠を表現することになるのでしょうが、そういった部分を補強することは、十分に可能かもと思えます。居なくなった柳田探しも、旦那の真摯な態度あったればこそだという印象を出すためには、店の者に金を出して探させるのは下品になりますね。そういったデリカシーの詰まったものを、浪曲という芸がカバーするのだろうか、春野百合子師は別格として、可能なんだろうかとすら、終盤の節を聴いていて、ちらっと、頭をかすめてしまいました。いずれにせよ、かなりの熟成期間の要るネタであることは、間違いありません。幸い、隼人くんが若いのが救いです。


2019年 1月 25日(金)午後 9時 10分

 今日も、お出かけなしの一日。これで、3連休となりました。明日からの1週間が、お出かけ過多になりそうなので、今日は、行きたい落語会も自重。3連休目の日に自重など、できるようになりました。黄紺なりの成長なのか、退行なのか、どちらなのでしょうか。ま、どっちでもいいかと、最近思えるようになってきました。


2019年 1月 24日(木)午後 7時 18分

 今日も、昨日同様のお出かけなしの一日。昼前と夕方という二部制のウォーキング以外は、外に出ることすらもなかった一日。先週の韓国が懐かしい。韓国は、歩き過ぎる傾向にあるため、その疲れが腰にたまっているのが辛いところ。それをだましだまししながらのウォーキング。腰には、よくないかもしれませんね。


2019年 1月 23日(水)午後 7時 14分

 今日はお出かけなしの一日。そういった日は、読書量が進みます。古典的な推理小説家4人をピックアップして、全作品を読破しようとの試みを続けていますが、4人目の読破は、お金との相談になります。古書を買い求めても、かなりのお値段がついていますからね。暖かな冬の陽射しを受け、昼間、近くの公園で読書をするのは、なかなか気持ちのいいものです。この冬は、わりかしいい陽射しに恵まれていますね、今のところ。


2019年 1月 22日(火)午後 11時 3分

 今日は落語を聴く日。動楽亭であった「第28回 生寿成熟の会」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。笑利「酒の粕」、生寿「三人旅」「うなぎ屋」、三金「幸助餅」、(中入り)、生寿「崇徳院」。今日は不調。2日連続で、二度寝ができていなかったのです。昼間は、その影響を感じてなかったのですが、時間が経つと、確実に影響が出てしまったということなのでしょう。「三人旅」の後半から「幸助餅」まで居眠りをしてしまいました。「酒の粕」と「崇徳院」だけを、まともに聴いたことになります。笑利の高座は、まことに久しぶり。きっちりと、今日の落語会仕様の喋り方で、且つ古典を出し、個性を発揮するお喋りに感服。なぜか、未だに彼のパペットに当たらないのが不思議の1つです。三金は、この会の名付け親だとか。初めて知りました。ですから、第1回目にゲスト出演しているそうです。それ以来の招請だとか。三金の「幸助餅」は、ネタ下ろしのときに聴いて以来だったのですが、完落ちでした。主役の生寿は、前回に続き、ネタ下ろしができなかったとか。何を下ろそうとしているのか気にはなるのですが、教えてもらっている噺家さんと、日程が合わないのだそうです。そういった言い訳めいた話をして、替わりに、自分としては、いじりを多く入れている噺を2つすると付け加えました。「うなぎ屋」と「崇徳院」が、その2つに該当する噺です。それらに先立つ「三人旅」にも、コメントが入りました。1つは言葉の問題。それもあり、持ちネタにする噺家さんが少ないこと。伝承芸として伝えていきたいので、頻繁にではないが口演している、そういった話でした。いい話を聴いていながら、途中でダウンです。問題は「崇徳院」。かなりいじっています。狙いは繰り返しを防ぎ、噺のスピードアップということでしょう。序盤、熊五郎に事態が伝えられるのは大旦那からで、既に大旦那は聴き出していました。確かに繰り返し封じにはなりますが、この噺のオブジェとなるべき若旦那は、全く出てきません。その後、1日目の報告や、最終日前日までの探し歩き、最終日の最初の床屋訪問も省かれます。そういったカットと、序盤のカットは、なかでも若旦那のカットは、わけが違うと思うのですが、、、。この噺の全ての源は、若旦那であり、その若旦那がへろへろになっていることなのですから、噺全体を通じて、オブジェとしての若旦那を残す、もちろん喋り手&聴き手の意識の中にですが、残しておかねばならないと思うのですが、、、。でないと、噺が浅薄になりますよね。実際、生寿の口演を聴いて、そのように感じてしまいました。一方で、「崇徳院」の繰り返しは、くどく感じるのも事実ですから、気にはなるところではあります。今日は、生寿の師匠生喬も同人の1人である「ラクゴリラ」もある日。それの影響を受けること必定と覚悟の開催。従って、座席の主設営も、それを意識してのものになっていました。


2019年 1月 21日(月)午後 6時 57分

 今日は文楽を観る日。第2部は、正月明け早々に観ていますから、今日は第1部。その番組は、次のようなものでした。「二人禿」「伽羅先代萩~竹の間の段、御殿の段、政岡忠義の段~」「壺坂観音霊験記~土佐町松原の段、沢市内より山の段~」。「二人禿」は、廓の正月風景を描いていますが、この時期に観るものではないですね。最早、正月は遠くになりにけりですから。「二人禿」からしてそうでしたが、この第1部は、ベタな演目が並びました。「伽羅先代萩」は伊達騒動を扱ったもの。まともに固有名刺を使えないため、時代を鎌倉時代に移すなんてのは、歌舞伎や文楽の常套手段。「先代」は「仙台」を表していると、プログラムを読んで、初めて知りました。幼君を守る乳母正岡が主人公。いつ毒薬を仕込んで、幼君の命が奪われるか判らない。その攻防戦物語と言えばいいかな。「竹の間の段」で軽くジャブが交わされたあと、「御殿の段」が仕込みとなる名場面と言われている「飯炊き場」がある段。幼君と我が子が空腹で飯を待つところ。正岡は、自ら飯を炊き、我が子に毒味をさせてから幼君に食べさせている。我が子に、わけの判らないものが、幼君に食べ物として差し出されたときには、自分が先に食べるように仕込みます。「政岡忠義の段」が、その実践編。頼朝から下された菓子だと言って、毒入り菓子が持ち込まれます。窮地に陥った正岡の傍らから、正岡の子どもが飛び出し、その菓子を貪り食います。悪漢の女官は、無礼と子どもを、正岡の眼前でなぶり殺しをします。顔色を買えない正岡。悪の親玉は、正岡が子どもと幼君を入れ替えたから涼しい顔ができると一人合点。凄まじい場面の続くところです。最後は、毒を提供させられたうえ口封じのため殺された医者の妻の活躍で、悪漢退治がされるという展開の大きな段になっています。うちの祖母が、昔、「先代萩」がどうのこうのと言ってましたから、浄瑠璃が一斉風靡していた時代には、誰しもが知っていた物語なんでしょうね。その物語の展開の緩急の妙が冴える名作です。主人公正岡を和生さんが遣われ、悪の親玉を、何と簑助さんでした。出番は少ないけど、重要で重厚な役柄ですものね。「政岡忠義の段」の切り場は咲太夫さんでした。第2部を観に行ったときは、確か休演されていて、門人の織太夫さんが代演されていたので、咲太夫さんが現れたときは、びっくり。幾分、ほっそりとされ、ちょっと病み上がりという雰囲気。お声は、咲太夫さんのピークを知るだけに、残念としか言いようがないですね。「壺坂観音霊験記」も、祖母が一節を口走っていたので、有名な文句を知っているというもの。観音霊験記と言えばいいかな。目の見えない沢市が、女房お里のかいがいしい世話、また願掛けを受け、最後は開眼するというもの。その前に、世話をやかす女房に悪いと思った沢市の自死と、お里の後追い自死が用意されています。こちらの奥を担当されたのは、今やエース格のお一人呂勢太夫さんに、三味線が唯一の人間国宝になってしまった清治さんでした。文楽を観に行くと、必ずと言っていいほど、知り合いに会ったり、こちらだけが知っている有名人を見かけるのですが、正月の4日には海舟氏のお元気な姿を拝見できましたしという具合なのですが、「今日は会わないなぁ」と思っていたら、春雨さんを見かけました。ですから、この1月公演は、黄紺的ジンクスは生きておりました。


2019年 1月 20日(日)午後 10時 57分

 日本に戻ってきて、あっさりと1日が過ぎてしまいました。6日間の疲れが出てしまってます。韓国では、ゆるりとしていたはずでしたが、やはり、ちょっとした緊張があったようで、ま、日常とはちょっと違う程度の緊張でしょうが、けだるさを感じた1日。いつものウォーキングも、歩き出すと、さほどではないのですが、出かけようとするには、腰が重かったですね。そんなで、お出かけなどは、考えることすらしなかった1日。思いの外、日本は寒くないですね。


2019年 1月 13日(日)午後 10時 16分

 今日は、京都コンサートホールで音楽を聴く日。今日は、こちらで、京都市交響楽団によるニューイヤーコンサート(高関健指揮)がありました。日本で、ニューイヤーコンサートと名の付いたコンサートに行くのは、初めてじゃないかな。2年ほど前から、このコンサートを狙っていながら、うまくスケジュールが合わず行けてなかったのが、今年になり実現したというわけです。そのプログラムは、オール・シュトラウス一家もの。ラインナップは、次のようなものでした。「J.シュトラウス2世:喜歌劇“くるまば草”序曲」「J.シュトラウス2世:ペルシャ行進曲op.289」「ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ・マズルカ”おしゃべりな女”op.144」「J.シュトラウス2世:歌劇”騎士パスマン”からチャルダッシュop.441 」「J.シュトラウス2世:アンネン・ポルカ op.117」「J.シュトラウス2世:ワルツ”親しい仲”op.367」「J.シュトラウス2世:ワルツ”美しく青きドナウ”op.314」(合唱:京都市少年合唱団)「J.シュトラウス2世:芸術家のカドリーユ」「J.シュトラウス2世:チック・タック・ポルカop.365」「J.シュトラウス2世:ワルツ”ウィーンの森の物語”op.325」「J.シュトラウス2世:ポルカ”ハンガリー万歳”op.332」。そして、アンコールとして、「J.シュトラウス2世:ポルカ”百発百中”」「J.シュトラウス2世:皇帝円舞曲」「J.シュトラウス1世:ラデツキー行進曲」。このプログラムは、日本らしさが出ていると同時に、ちょっと趣向を凝らしたものとも言えるもの。日本らしいというのは、定番の曲は外さないという考え方。「美しき青きドナウ」「ウィーンの森」「皇帝円舞曲」が並ぶなんて、ありえないんじゃないかなぁ。更に、「アンネン・ポルカ」に「チック・タック・ポルカ」まで入っている。贅沢というよりか、ゲップが出てきそうなラインナップです。そういった曲以外が凝っている。色彩を変えるにはもってこいのハンガリーものが、2つ挟んである。「ワルツ”親しい仲”」は、「こうもり」のスピンオフもの。オペレッタがヒットすると、この手の曲が作られたそうです。途中に、この曲が入るということで、オープニングに、同じJ.シュトラウス2世の珍品を据えるというちゃっかりしたことができました。「おしゃべりな女」は、オーボエに冗談音楽っぽいメロディが入っていたり、「芸術家のカドリーユ」は、MCも担当された高関さんの言葉で言うと、「演歌ちゃんちゃかちゃんです」となるもの。とっても上手な表現です。正に、その通りだったからです。とまあ、黄紺的には、この珍品がおもしろくて、おもしろくて。今日は、京都市交響楽団の女性の団員さんは、色ものの衣装。お二人ほど、着物を着てられました。更に、指揮の高関さんのMCが入ると、華やかで楽しいもの。よくある「美しき青きドナウ」が出ると、終わりが近づくといった流れではなく、この曲も、特別な地位を与えられずに演奏されたものですから、お約束の「ラデツキー行進曲」は、今日はないのかな、「皇帝円舞曲」なんていう重いものが、アンコールの2曲目に出たものですから、余計に、そう思ったのですが、「皇帝円舞曲」が終わり、高関さんが引き上げると、舞台後方と1階席通路に、「美しき青きドナウ」が終わったあと、一旦引き上げていた合唱団の人たちが出てきたので、やはり、最後はお約束の曲で絞めとなりました。今日は、こういったいい雰囲気をいただくことを目的に行くということで、普段は、絶対にしない舞台後方席を取っておりました。音よりは雰囲気重視なら、安いチケットでいいじゃないかという心でした。


2019年 1月 12日(土)午後 9時 53分

 今日は、京都の伏見区役所深草支所であった「第16回深草文化交流プログラム」という催しに行ってまいりました。その前半のプログラムとして用意された講演会が、お目当てだったのです。後半は、墨染交響楽団のミニコンサート。以前から気になっていた、このローカルな名前を付けたアマチュアオケも、一緒に聴けたという、黄紺的には、なかなか美味しいメニューが用意されていました。前半の講演会は、井上満郎氏(京都産業大学名誉教授、京都市歴史資料館長)による「古代深草を生きた人々~渡来人とお稲荷さん~」という魅力的なもの。入口で渡されたのは、大部な原史料を印刷したもの。まるで日本史に弱い黄紺は、これで、かなり引いてしまったのですが、講演内容は、いたって解りやすいもの。「深草」という地名の初出から、そのエリア。初出は、なんと日本書紀。明治20年作成の地図を見ると、山裾に集落が並んでいました。「ブラタモリ」で学んだ水の湧くポイントなのでしょうか。東側の山は、いかにも断層っぽいですからね。あとのエリアは、水田と畑だらけ。ここにやがて、軍が進出し、この地域は一変し、更に、高度経済成長期には、なくなった軍用地を狙い、京都市街地を唯一貫く名神高速道路ができていきます。美味しいことには、旧東海道線跡地も使えましたからね。そないなことは、大正13年の地図を見ながらのお話。ようく解りました。そこから話は、深草エリアにある稲荷社誕生話へ。これは、もう秦氏の話になりますから、渡来人の活躍した時代へと入っていきました。黄紺は、ここで、大切なことを知りました。秦氏の本拠は、太秦ではなく深草なんですね。明らかに古墳のできた時代が違い、深草の方が早かった。太秦という地名の中に秦が入っているものですから、そないなものに引っ張られてしまってました。ただ、時間の関係で、稲荷信仰が、秦氏のどのような信仰だったのかとか、深草エリアに残る秦氏の痕跡とか、太秦エリアに広がるわけとか、そもそも稲荷信仰が、これほどまでに拡大していったわけなどなど、お聞きしたいことはいっぱいでしたが、ダメだったなぁ。後半の墨染交響楽団は、年配の人たちが多いだろうということを想定して、オケの演奏に合わせて、参加者が歌うという曲を3つも用意したり、楽器紹介をしたりと、ホント、ご苦労様というところでした。名前の由来は、伏見区を中心に活動しているので、伏見区内の地名を募り、なんと墨染が1位を射止めたとか。ちなみに、2位が深草だったとか。伏見区内には、「ブラタモリ伏見編」でも紹介があったように、大名由来の仰々しい地名がたくさんあったり、銀座などという地名まであるにも拘わらず、墨染だそうです。能「墨染」の本説となった美をご存知の方たちが多くおられたとしか考えようがないチョイスです。京都に住んでると、こういったビッグな話題が身近に感じられる良さってあります。講演もそうでしたし、オケのネーミングもそうでした。


2019年 1月 11日(金)午後 7時 30分

 今週は、お出かけ時間が多かったのですが、このあたりで休みをとることで、来週の韓国旅行に備えようとしました。行ってみたい落語会があったことはあったのですが、ちょっと我慢をしました。その空けた時間を活用して、旅行準備。行き先の資料なんかの準備やプリントアウトは、既に済んでいましたから、今日は、純粋に荷造り。そないなことをしながら、この真冬に韓国に行くことを後悔しだしています。韓国の冬の半端じゃない寒さを知りながらの計画を、今になって無謀と感じ出したのです。最近、冬場に韓国に行ってなかったなぁなんて、余計なことを考えたことを後悔しているのです。そないなことを感じながら、一方で韓国行きの意欲が高まってきており、最近、やたらネットで、韓国ものを訪ね歩いています。そないなことをしていると、一日の経つのが、実に早い。気がつくと韓国にいることになりそうです。


2019年 1月 10日(木)午後 11時 51分

 今日は音楽を聴く日。シンフォニーホールであった大阪交響楽団の定期演奏会に行ってまいりました。その定期演奏会は、「ウィーン世紀末のルーツ~フックスとブラームスから始まる系譜(6)」と題されて行われたもの。そこで、大曲、マーラーの3番のシンフォニーが出たものですから、外すわけにはいかなかったのです。プログラムは、この1曲だけ。ま、90分以上かかる曲なものですから、致し方ありません。演奏者は、次のような皆さんでした。(指揮)寺岡清高、(アルト)福原寿美枝、(女声合唱)関西二期会合唱団/大阪響コーラス、(児童合唱)堺市少年少女合唱団・堺リーブズハーモニー・堺シティオペラキッズコーラス&清教学園中・高等学校合唱部。聴く機会の少ないマーラーの3番。でも、幸いに、ここ10年で、少なくとも3回目になるはずです。大野和士指揮の京都市響、大植英次指揮の大フィルと、さすがに、この曲のライヴは、きっちりと覚えています。大阪交響楽団は、京響や大フィルといった大所帯のオケではありませんから、こないな大きな曲を演奏するとなると、エキストラを多く入れねばなりませんから、アンサンブルは大丈夫だろうかと、まず気になってしまいました。でも、管楽器は、トップには、当然、大阪交響楽団の奏者が入るわけですから、アンサンブル以前に、肝心なところで、どういった演奏を見せるかはトップの仕事、アンサンブルもトップがしっかりしておればカバーは可もということで納得しながら、実際の演奏に臨むことに。で、確かにそうだったと言えるのじゃないかな。頭が、一つ抜けてるなと思ったのがフルート。案の定、寺岡さんが、一番初めに立たせたのがフルートでした。逆に、金管はしんどかったな。ロングトーンをしっかりして欲しかったり、アンサンブルと言いがたいトランペットは、活躍の場が多いだけに、苦しかったなぁ。ポストホルンは、目立つだけに、なんとかして欲しかったというのが、正直なところ。そないに、管楽器の各パートに不満は残ったのですが、この10年間で聴いた3回の3番で、満足度が一番高かったかもしれません。寺岡さんの落ち着いた指揮ぶりが、すごく安定感のある3番となっていました。総体として重力があるため、エモーショナルにならなくても、音楽が流れているのです。ただ、1楽章では、プロットの不連続が気になり、有機体になってるかなという印象でしたが、そのあとは、感じが良くて、知らない間にメロディを口にしてしまわないか、気になったほどでした。そして、良かったのが、コントラルトの歌手を引っ張り出したこと。このソロだけは、コントラルトに歌って欲しいものです。黄紺の耳には、朝比奈指揮の大フィルの3番で、ソロを歌った伊原直子の歌声が、耳にへばりついているものですから、バッタもんのコントラルトは許せないのです。正面から聴いたら、声の伸びに物足りなさを感じるかもしれないなとは思いましたが、声質ににんまりでした。


2019年 1月 9日(水)午後 11時 57分

 今日は講談を聴く日。なみはや講談協会の例会「第7回光照寺講談会」に行ってまいりました。六万体交差点近くのお寺での会ですが、その番組は、次のようなものでした。鱗林「藤井聡太物語2018」、南鱗「幸助餅」、南華「白隠禅師」、南北「柳田格之進」。今日は、出演予定だった南湖さんがインフルエンザで休演。代演が南鱗さんということで、少し変則的な番組になりました。トップは、毎回、鱗林さん。今日は、地元愛知のヒーロー藤井七段の、昨年1年を振り返る物語。時系列的に、トピックを拾ってくれましたが、黄紺も漏れ聞いている、羽生竜王との対局、師弟対局、新人王位獲得と、話題に事欠かないものですから、このシリーズ、毎年の売りになりそうです。南鱗さんは、マクラで、お得意の相撲話。ただ、相撲のマクラが出ても、相撲ネタとは限らない南鱗さんですが、今日は相撲ネタに、スムーズに移行。でも、黄紺の好きになれない「幸助餅」でした。がっくりした途端、速攻で居眠りに入ってしまいました。幸助のダメ人間ぶりが、聴くに耐えない、これが好きになれない理由です。南華さんは、ネタをツイッターで予告。全く聴いたこともないネタだったので、期待を持って口演に臨んだのですが、このネタも、あまり好みに合わないですね。子どもを身籠った未婚の女が、男に逃げられたため、その父親は老僧白隠禅師と口にしてしまうのが、話の発端。そのとばっちりを受け、半ば村八分状態になりながらも、産まれてきた子どもを、何か事情があるのだろうと育てる老僧。それを見かねたか、父親としての情に目覚めたのか、父親が名乗りを上げ、ハッピーエンドという物語。何も言わずに、降りかかった災難を甘受する心の広さを見せる老僧の姿が、話の核心なんでしょうが、ちょっと無理っぽくないのかなぁという感じで、聴いていてノリが悪くなっちゃいました。南華さん、このネタ、どこで仕入れられたのでしょうか。旭堂の講釈師さんで聴いたことのないものですから、東京の方からもらわれたのかな? そして、南北さんの「柳田格之進」が、黄紺的には待望の口演。約10年前、南湖さんが、文化庁芸術祭新人賞を、このネタで取られたとき、「南北さんからもらった」とお聞きしたものですから、いつかは、南北さんの「柳田格之進」を聴けるものと待っていました。ですが、黄紺的には、南北さんが、このネタを出されたという情報すら持てず、10年が経ちました。それに、ついに出逢えたのです。南北さんのしみじみとした語り口で、このネタを是非とも聴いてみたかった黄紺は、ネタに入るや、完全にガッツポーズをしたい気分になっちゃいました。落語の世界で聴けるさん喬師の型と、話の展開は、全く同じでしたから、今日の南北さんの口演で使われたテキストが原型なのだと、これが判ったのも、黄紺には嬉しいこと。身請けされたきぬと六兵衛との婚姻話は入らなかったのだけが、違うと言えば違うところだったでしょうか。緊張する中に緩和を導く、決して放り込むのではなく、導く巧みな技に感服でした。やっぱり10年の間、待ち続けた値打ちのある、素晴らしい口演でした。


2019年 1月 8日(火)午後 11時 47分

 今日も、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、こちらで「第31回 染吉っとんの会~林家染吉落語勉強会」がありました。その番組は、次のようなものでした。秀都「転失気」、染吉「猫定」「権助芝居」、鯛蔵「打飼盗人」、(中入り)、染吉「桜の宮」。秀都の高座に遭遇するのは、久しぶり。わりかし貴重面な印象に、師匠の文都テイストが重なるものですから、余計に堅く感じてしまいました。序盤、珍念が尋ね歩くのは1軒だけと省エネ。下げも、盃が出た途端でした。ここも省エネでした。染吉の1つ目の高座は、コンペ用に作った短縮版の口演。「猫定」は、既にネタ出しをしています。コンペは2つありますから、もう1つの候補に「権助芝居」も考えているそうで、2つを、ともに高座にかけて確認しようとの思惑です。「権助芝居」は、以前のコンペでも使ったことのあるものですが、「猫定」は、先月ネタ下ろしをしたところ。染吉は、以前のコンペで「腕喰い」を出し、高評価を得た経験の持ち主。大ネタの短縮版が、コンペでは出ないのを逆手に取った染吉の戦略が功を奏した典型例で、「猫定」は、その例に習おうという魂胆。問題は短縮のあり方。コンペでは、制限時間が9分だそうですが、今日の口演は15分かかってしまいました。 冒頭で、定が猫を持って帰ってきたのに対する女房の物言いをくどく入った時点で、とんでもないことになるという予感がしてしまってましたから、いい薬になったんじゃないでしょうか。ここを刈り込んでも、果たして9分に収まるものかなと、正直思います。「腕喰い」とはわけが違う厳しさがあると思うのですが、、、。ゲスト枠は鯛蔵。染吉の今日の初演となる「桜の宮」を、塩鯛からもらうのに、仲立ちをしてもらったお礼という要素を感じた人選と思いました。鯛蔵は、故郷の広島から帰ってきたところということで、毎年恒例の同期4人での旅行話を、マクラでしてくれました。そして、ネタは「猫の忠信」のつもりで来たところ、「猫定」が出たことで、盗人ものに変更。鯛蔵で、「打飼盗人」は、今まで2度聴いているはず。少々荒っぽめの口調を意識したテンポのいい語り口に磨きがかかっていました。なかなかの聴きものです。そして、中入りを挟んで、今日のネタ下ろし。マクラで、鯛蔵を仲立ちにして、塩鯛にお願いしたときの模様を披露。染吉にとっては、塩鯛との接点がなかったことで、かなりの緊張の中でのお願いだったようです。実際、口演に入ってから感じたのは、塩鯛テイストっていうのは、今までの染吉落語にはなかった点が散見できました。噺をおもしろく聴かせるだけではなく、おもしろく見せる、そのポイントの掴み方や、デフォルメの仕方は、染吉には、いい勉強になったんじゃないかな。いや、それを見越した上で、塩鯛の「桜の宮」をもらいに行ったってところかな。また、塩鯛に、登場人物の多い噺についても指導を、しっかり受けたことをにおわすことを、マクラで言ってたことから、その辺りも注目して聴いていたのですが、お喋りの表現の幅が広くなっていることが、仕草自体が大きくなっていることと併せて、気がつきました。終演後、言い間違いがあったと言っていましたし、また、瞬間的に言葉に詰まりかけたりしたことが幾度かありましたが、桜の宮の場面になってからの高揚感やスピード感が、今までの染吉には、なかなか見られなかったもの。1度、コンペでの口演で、異様なハイテンションなものを聴いたことがある以外では、乗りの良さでは最高の口演だったんじゃないかな。本人さんは、言い間違いが気になり、冷や汗だったかもしれないのですが、その緊張感が、聴く者には、美味しいごちそうとして、いい噺を聴けたとなったのかもしれません。これがライヴ感ってやつなのでしょうか。


2019年 1月 7日(月)午後 11時 57分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「第15回 ソメかハチか!?」という、林家染八の勉強会がありました。その番組は、次のようなものでした、新幸「平の陰」、染八「秘伝書噺家編」「ちしゃ医者」、仁智「ハードラック」、(中入り)、染八「尻餅」。新幸の「平の陰」は、竹林から伝授されたもののようです。黄紺的には初遭遇。あまりにも判りきったようなごまかしを、教え手は言うわけですから、噺全体が全うじゃない、ぎこちない雰囲気ってのが出れば正解かなと思っています。それには、聞き手の方もとぼけた男でなければならないのかなぁと思います。教え手は、それを見越した空威張りが必要なのではと思います。新幸の口演は、全体的に力が入ったままで、その辺りの緩急は、これからというところでしょうから、今後の変化が楽しみです。染八は、今日はネタ下ろしなしということで、持ちネタを披露してくれたのですが、それではということで、現松喬との会話で生まれた短い噺を付け加えました。それが「秘伝書噺家編」。行き詰まった噺家が、落語が上達するために、先輩から渡された秘伝書という設定。着想がおもしろいので、膨らませて、ネタに仕上がらないですかね。短い噺だったということで、「ちしゃ医者」を追加。これが、福笑からもらったと考えられる、思いっ切り汚いもの。ついには、これが「上方落語の真髄」という台詞まで登場しました。この台詞が福笑の口演にあったかどうかは覚えていませんが、この台詞まで、福笑からもらったとしても、染八の噺になっていたのには、正直、驚きでした。福笑テイストに満ちた噺に、違和感を感じさせなく聴かせることができるまで、腕を上げてきているということです。「蓮の池クリニック」で感じた違和感は消えてしまってました。籠を担ぐ男の表情からして、染八の気合いが出ていて、噺に入り込んでしまってる姿が、自分の噺にしていると感じさせるのでしょうね。いいもの聴かせてもらいました。もう1つは、以前から手掛けている季節限定ネタ「尻餅」。ただ、今日は、この口演の半ば前から居眠りをしてしまい、久しぶりに聴く「尻餅」を追いかけることができませんでした。季節ネタということもあるのか、この噺も、若い噺家さんが敬遠気味なため、貴重な遭遇機会だったのですが、、、。ゲストに、会長を喚べるのは、仁智ということもあるでしょうが、やはり染八がサラブレッドということもあるのかもしれません。仁智は、マクラで、会長就任以後の不幸な巡り合わせを一くさり。やはり、自然災害が負担を強いているようです。仁智自身も、ほっそりしたようで、やっぱ心労があるのかなぁと思ってしまいました。6月には、繁昌亭を休んで、改修に入るそうで、これは、発表前につき、今日の会へのリップサービスとなりました。ネタは、最近聴いてなかったので、当たったらいいのにと思っていた「ハードラック」。これはついていました。


2019年 1月 6日(日)午後 7時 27分

 今日はお出かけなしの日。朝、お酒を飲みながら、オペラのDVDを観るのが、日々の定番。今年は、春にはオペラ紀行を組んでいないため、予習としてのDVD観賞ではなく、この間、買いだめをしてあるDVDを観たり、久しぶりに観てみたいDVDを観たりの日々です。なぜかヴェルディものを、多く観る日が続いています。昨日までは、モンテカルロ歌劇場の「エルナーニ」。日本語字幕の付いた「エルナーニ」を持ってなかったもので買ったのですが、ルドヴィコ・テジエが最高の出来に、感動。まだ聴いてない大物歌手と、どこかで出逢えないものでしょうか。次いで観ているのが、「トゥット・ヴェルディ」から「運命の力」。有名作品ながら、なかなかDVDの少なかったヴェルディ作品ですが、近年、急にDVDが増えました。その1つ。普段、ドイツのプロダクションに接する機会の多い黄紺には、イタリア製の作品を勉強するのには、嬉しいシリーズです。明日からは、お出かけが続きます。そんな予定を思い浮かべながら、せわしなさを感じてしまってます。すっかり何もしない時間を過ごすのに馴染んでしまいました。


2019年 1月 5日(土)午後 7時 22分

 今日は、今年初めての演芸の日。落語と講談を、ともに楽しめる日になりました。ツギハギ荘であった「第8回落語芸術大学~新春お正月特大スペシャル!~」に行ってまいりました。旭堂南湖と笑福亭智丸という、大阪芸大出身のお二人が、更に、同窓の芸人さんをゲストに迎え開いているもので、今日は、爆裂Qを迎えることになりました。その番組は、次のようなものでした。智丸「禁酒関所」、南湖「雪の商人」、爆裂Q「ピン芸」、(中入り)、智丸・爆裂Q・南湖「三題噺」、智丸&爆裂Q&南湖「芸大双六」、(中入り)、智丸「いじわる空の旅」、南湖「祝島反原発30年」、智丸&爆裂Q&南湖「プレゼント」。3時間の長丁場を、予め言っておいての盛りだくさんな会。それだけで、正月気分に浸ることができました。ゲストの爆裂Qは、芸大では、南湖さんの2年後輩とか。3人とも、芸大落研の会長を務めた経験の持ち主だそうです。智丸のネタは、最近2つとも聴いたもの。今日は、客筋が違うだろうということでのネタのチョイスだったのでしょうが、落語会と講談会双方に足を運ぶ者には、得てしてありがちなこと。そのネタの1つ「いじわる、、、」は、「弥っこ凧の会」で出したときに、「封印」宣言をしたはず。ですから、このネタだと判ったときは、「あれ?」と思うと同時に、聴けないと思っていたネタを聴けたラッキー感が混じった複雑な気持ち。黄紺的には、アホらしい設定ばかりか、くだらない展開に惹かれているものですから、続けて欲しいというのが本音ですね。一方の南湖さんの1つ目は、初演ネタ。大人の事情で、内容については言及できないというもの。2つ目は、実に久しぶりに聴けました。蔵出しのネタというところです。祝島で、反原発に関わった人たちの思い、島内の対立を、コンパクトにまとめた短縮版の口演となりました。社会派講談を、南湖さんは、このネタを作ったあと続けられるのも、1つの方向性かなとも思ったこともありましたが、結局は、その道を採られませんでした。福島のこともあり、このネタは守っていこうと思われているのでしょうね。爆裂Qは、黄紺が詳しくないから知らなかったのでしょうが、ヒットギャグを持っているということでしたので、世間的には著名なピン芸人さんのようです。フリップを使ったお喋りを聴かせてもらえました。元々は、複数のメンバーのいた爆裂Qで、抜けたメンバーの1人に笑福亭羽光がいるそうで、黄紺的には、この人をリクエストしたい気分です。「三題噺」のお題は、「凸凹」「鏡餅」「スフィンクス」でした。智丸作品は、急造の「三題噺」にしては長編もの。手を加えて、新しい作品としても使えるのじゃなかろうかと思ってしまいました。


2019年 1月 5日(土)午前 6時 11分

 昨日は、新年の始動の日。まずは、文楽からです。昨日は、第2部の方に行ってきました。その番組は、次のようなものでした。「冥途の飛脚~淡路町の段、封印切の段、道行相合かご~」「壇浦兜軍記~阿古屋琴責の段~」。「冥途の飛脚」は梅川忠兵衛もの。「傾城恋飛脚」の同工異作ものです。冬ものが少ないからでしょうか、この2作品は、冬の定番になっています。「傾城恋飛脚」の方は「新口村の段」しか観たことがないのですが、上演頻度は、全作品中随一ではないでしょうか。昨年も出たのではなかったかな。ただ、有名な「封印切」は、「新口村の段」では観られないため、「封印切」となると、「冥土の飛脚」の方ですが、こちらはこちらで、「道行相合かご」は、逃亡中の二人を扱いますが、「新口村」に至る前までで、正に、この2つの作品で、キレイに棲み分けをしているかのようです。プログラムにも書いてあったのですが、「冥土の飛脚」の方は、根っからの悪人が出てこないという特徴があります。忠兵衛が、誰かに悪さをされて、禁断の「封印切」をしてしまうのではないため、この「冥土の飛脚」では、忠兵衛のあかんたれさが際立ちます。キワキワまて、梅川は、とんでもないことになっているのを知らないのですから、考えようによっては、とんでもないとばっちりということになります。でも健気に、忠兵衛に従って行く、ここが、この物語の核心だと思いました。この核心となる梅川の心の奥が、忠兵衛に見えてたのだろうか、いや見えていたなら、たいした男なんでしょうが、そうは見えないんだなぁ。とまあ、そないなことが、頭を巡ってたわりには、半寝で観てしまっていました。「阿古屋琴責の段」の方は、不思議な話です。源家の世になり、平家に組みした侍の討伐が始まります。景清の女であった傾城阿古屋に、景清の居場所を吐かせようとの責めが始まるのですが、2人の担当官の内1人は、拷問を主張。もう1人は、拷問では吐かないと看て、景清との馴れ初め、そして関係が深化、さぐりを入れようとします。この流れの中で、傾城として持っている技である琴、三味線、故弓を弾かせます。これが聴きもの、見ものというやつです。3つの楽器を演奏したのは、この度、咲くやこの花賞をもらった鶴澤寛太郎。主三味線(鶴澤清介)も含めて、曲弾きと言ってもいいような手が入りました。そして、人形は、その演奏と、全く同じ手を見せねばならないというのですから、凄いですね。勘十郎だけではなく、左手遣いも、足遣いも顔出し。それぞれが難役だということを、こういった形でも表していました。見せどころ、聴かせどころだけではない、テキストの逆転の着想が魅せる作品。歌舞伎も同様、客寄せに格好の作品ですし、また、実際、魅せる技に堪能いたしました。


2019年 1月 3日(木)午後 7時 6分

 今日は冬ごもり最終日。明日からお出かけ再開です。落語好きと見られる方たちのツイッターを眺めていると、年末年始も勢力的に落語会を回っておられる様子が判るのですが、黄紺は、番組も、木戸銭も、普通のもので十分と考え、冬ごもりに入っていました。その時間が、すっかり板に着いてしまい、お出かけが、生活のリズムを壊すのではないかと、不安すら覚えています。今年の3ヶ日は、元旦が暖かだったですね。でも、その日だけ、昼間から酒を飲んでいたため、ぽかぽか陽気を楽しむことができなかったのが心残り。ま、その程度の長閑で、変化のなかった時間でした。でも、街を歩いていると、明らかに車の往来が多い。正月と言えば、昔は、もっと静かだったんじゃないかと思う一方、数年前に比べると、開けている店は少なくなってるのに、皆さん、どこへお出かけなのか、不思議で。出かけない身には、余計な心配でしかありませんが、ちょっとだけ気になった正月でもありました。


2019年 1月 2日(水)午後 8時 29分

 のんびり正月2日目。何にもなしで、ごく普通の日に戻りました。2回のウォーキング、いつも、同じようなところを通っているのに、全然、飽きない。自分の体が動いているのが実感できるのが楽しくて、ウォーキングをしているので、周りの風景は二の次ってことなのでしょうね。おかげで、本を読む時間が増えています。と言っても、推理小説ばかりを読んでるだけ。でも、1920年代~1960年代くらいのものばかりを読んでると、その時期の英米の市民感覚が入ってくるのがおもしろいですね。大戦中のイギリスの統制なんか、知らなかったですからね。そうそう、そないなことを書いていて思い出したのですが、今年は、ドイツ革命100周年という節目の年なんですね。こないだ、ベルリンで、その関係の特別展を2つ観ることができました。ドイツ表現主義なんてものにも、ちょっと関心が生まれてきているので、もっと勉強しないとと思いながら、帰ってくるとなおざりになってしまってたところ、推理小説を読んでて、現代史の勉強したくなり、忘れかけていたものを思い出した次第。ま、ちーとでも好奇心を刺激されるってことは、元気な証拠かもしれませんね。


2019年 1月 1日(火)午後 8時 9分

 呆気なく、年が明け、早くも元旦の夜になっています。今日は、弟の家で、お節を食べながら、お酒を飲んで、おしまい。元旦から開けているスーパーがあったので寄ってから行くことにすると、京都では、あまりお目にかかれない秋田の酒が置いてあり、衝動買い。秋田の酒のイメージとは異なり、まったり感のある酒でしたが、これはこれで美味しくいただくことになりました。そんなで、酒を冷ますのに、今日はウォーキング。いつもより、若干長めに歩いたからか、家に戻り炬燵に入ると、早速居眠り。何とも長閑な正月です。


2018年 12月 31日(月)午後 8時 44分

 大晦日です。普段と、全く変わりのない大晦日です。買いだめをするために、狙いのスーパーに、意気込んで行ったくらいが、ちょっと違うことか。冬ごもりが続くと、いつもよりか、読書量が増えます。黄紺は、真冬であろうが、真夏であろうが、本は、家の近くの公園で読むことにしています。この頃は、もう午後5時になると暗くなりますが、その間際の時間だと、さすがに気温が下がり、今日のような気温だと、30分持たないのですが、それでも屋外にこだわっています。家が狭いからでしょうね、閉塞感の中での読書を避けたい気持ちがあるからでしょうね。そんなで、大晦日の夜は、ブルックナーとバッハのカンタータを聴きながら過ごしています。


2018年 12月 30日(日)午後 7時 32分

 今日から、年末年始の冬ごもりに入ります。慌ただしい時期、普通の落語会などがなくなってしまうからです。ついこないだまで、毎日、どこかに出かけるをポリシーにしてましたが、そこから、あっさりと抜け出た今、冬ごもりもあこがれの日々。お出かけをしなくても、呆気なく時間の過ぎていく旨味を知ったからには、冬ごもりもあこがれになってしまうのです。黄紺の冬ごもりに合わせたかのように、本格的な冬が始まっています。外に出ては体を動かしたいのですが、出たときがきつくて、なかなか億劫なものですが、ここ数年に比べて、寒さの堪え方が優しいのが、嬉しいところ。ていうか、それだけ鈍くなっただけかもしれません。そないなことを考えながら、今年も終わっていきます。


2018年 12月 29日(土)午後 7時 44分

 今日は、びわ湖ホールであった「ワーグナー作曲 『ジークフリート』プレトーク・マチネ」に行く日。来年の3月に予定されている「指環」第3作「ジークフリート」に向けてのプレイベントです。出演者は、パネラーとして、沼尻竜典(びわ湖ホール芸術監督)、岡田暁生(京都大学教授)、そして司会の藤野一夫(神戸大学教授)、演奏は、大川信之(ジークフリート役カヴァー/テノール)、高橋淳(3月3日ミーメ役/テノール)、基村昌代(ソプラノ)、岡本佐紀子(ピアノ)の皆さんでした。前半は、いつものように、岡田、沼尻のお二人のお喋り。その中で、興味を惹いたのは、ワーグナーの自然描写の巧みさ。ジークフリートのブリュンヒルデとの出逢いの場に先立つ音楽は、沼沢さんが、岡田さんの言葉を受け、ピアノを弾いてくれました。ラベルの「ダニフスとクロエ」を引き出すほどの褒めようは、岡田さん。岡田さんは、メルヘンと位置付け、最もラハトな気分で聴けるもの、沼沢さんは桃太郎だと言っていましたが、相変わらず表現のお上手な方です。「ジークフリート」の作曲の時期について、おもしろい指摘がありました。2幕と3幕の間に、「トリスタンとイゾルデ」と「マイスタージンガー」を書いたというのです。ワーグナーの専門家藤野さんに拠ると、長く見積もると12年になるそうです。それだけ開いても、音感の質が変わらなかったのは、ライトモチーフのおかげだとの指摘。至極、納得ですが、なぜ、それだけ、ワーグナーは開けたのかが気になってしまいました。抜粋曲が演奏されたあと、質問に答えるコーナーへ。これが、毎回のお楽しみ。兵庫県の芸文と違い、とっても刺激的な時間になります。今日は、ミーメに係わるところ。今回も、話題の端に上がりました。岡田さんが、「ワーグナーのアブナイところ」と言われた、ユダヤ人に対するスタンスが現れているという点です。ミーメの口ぶりとかは、ユダヤ人を戯画化した表現だそうで、ワーグナーらしいとなるようです。ですから、ワーグナーの中で、ヒールとして登場する人物は、その辺を視野に入れて把握する必要があるようですね。また、ミーメに関しては、ジークフリートの両親について、父親(ジークムント)は会っているはずもないのですが、母親(ジークリンデ)の死と、何らの関わりは可能との認識が出されていました。ミーメは、ジークフリートにより殺されるわけですから、その辺りとの連関性を詮索するのも悪くありません。更に、根本的なこととして、ワーグナーの活躍した時期、要するに、資本主義が勃興し、社会の価値観の大きな転換期であることの重要さを、パネラーの方たちは強調されていました。小鳥の扱いの話もおもしろかったなぁ。ヴォータンの差配で動いているのではとの指摘です。おもしろいのですが、この問いかけは、「神々の黄昏」のときの問題に残しておきたいものです。 ホント、刺激的です。岡田さんのステレオタイプの物言いが消え、いい感じのお話を伺えるようになってきたのも結構なことなのですが、ワーグナーの専門家の藤野さんの講釈を、ゆっくり聴いてみたいと思っているのは、黄紺だけかな。ま、それはそれとして、黄紺的には、この1年は、「ジークフリート」の当たり年。先日、ハンブルクで、クリストフ・グートのプロダクションで観てきたところへさして、このびわ湖のプロダクション、更に、その3ヶ月後には、ケムニッツでも観ることになっているとまあ、大変な当たり年なんだなぁ。「指環」の中では、最も遭遇機会が少ないはずですのにね。


2018年 12月 28日(金)午後 11時 51分

 今日は講談を聴く日。千日亭であった「南湖の会 ~赤穂義士銘々伝特集~」に行ってまいりました。日本にいるときの最優先にしている会の1つです。その番組は、次のようなものでした。南湖「今年の十大ニュース」「細川の松飾り」「蘇生の五平衛」「大石の東下り」「三方ヶ原軍記」。「十大ニュース」は、去年に続いてとか。初めて聴く黄紺は、たいがい12月は来れてなかったことを思い出し、納得。と言っても、大きな「ニュース」ではなく、全く南湖さん絡みのもの。「富士山に登った」「(講談のおかげで)いろんな所へ行った」「毎月南湖の会をやった」という程度のもの。講談界の裏話的なものが入るのを期待してしまった黄紺には、ちょっと頼りないものでした。で、1つ目は、季節限定もの。松飾りという縁起ものを買った細川の殿さんが、その年に熊本藩主になり、松飾り効果があったということで、松飾り売り捜しが始まるというもの。ポピュラーなネタです。次の「蘇生奇談」は、南湖さん初演もの。にも拘わらず、今日は、ここで居眠り。その日の山場で居眠りしてしまうことの多い黄紺です。そして、今日の「赤穂義士」ものは、数多い「赤穂義士」ものの中でも屈指の名作と言っても過言でない「東下り」。いよいよ江戸入りをする大石一行。天野屋の集めた武器も持っていることもあり、公家を騙っての旅。ところが、神奈川宿で、本物の公家に会ってしまったから、さぁ大変というお話。最後は、お定まりの討ち入りの様子の描写。修羅場読み好きの南湖さんは、ここを修羅場読みで聴かせてくれました。今年最後の聴きものとしては、これ以上ないネタに遭遇できました。感謝です。そして、最後は、ちょっとだけ「三方ヶ原」の抜き読みで、今日もお開き。黄紺にとっては、今年最後の演芸を聴く日でした。


2018年 12月 28日(金)午前 6時 58分

 昨日は落語を聴く日。ツギハギ荘であった「第51回たけくらべの会」に、久しぶりにおじゃましました。会場がツギハギ荘に移ってから、確か2回目だったと思います。その番組は、次のようなものでした。生寿「二人癖」、喬介「池田の猪買い」、(中入り)、松五「真田山」、呂好「菷屋娘」。トリの呂好だけがネタ出しなし。でも、最近、師匠の呂鶴からもらったのだと思いますが、「菷屋娘」を出しているのを見かけたものですから、トリのことだからと、これだと狙いを定めていました。結果は正解だったのですが、そうなると、なかなか魅力的な番組。中入り後は珍品が並び、その前の喬介の「猪買い」は未遭遇となると、トップで軽いネタを出す生寿以外は聴き逃すことはできないネタが並んだことになったのです。それを見越したのか、入りが悪いと聞いていたこの会が満杯の盛況。誰かが、マクラで言ってましたが、ツギハギ荘に移ってから最多だそうです。そないなネタが並んだため、生寿のところで気が緩み、早々に居眠り。いや、ここで居眠りしたからか、二度寝ができてないにも拘わらず、最後まで持ちました。最近演じ手の少なくなった「猪飼い」、先日、たまは「おもしろくないから演じ手が少ない」と言ってましたが、喬介の口演を聴いて、それは、演じ手の問題と思ってしまいました。喬介の口演のおもしろかったこと! びっくりしたのは、アホが、道を、しつこく聴くところ。自分が納得したいがため、人の迷惑を省みず、自分のことだけを考えてる、それが全身から溢れ出す、そんなアホを描けた噺家さんていたっけ、そないなこと、考えてしまいました。このキャラが徹底しています。噺を通じて、そのキャラがぶれない。この口演は、喬介名演集に入ります。会場のボルテージがマックスに達した時間帯でした。「真田山」は、文我以外では、松五しかやらないでしょう。黄紺も、以前に1度、松五で聴いたくらいで、「へっつい幽霊」に似た展開だけど、その展開の仕方を忘れてしまってました。忘れてたのですが、おもしろくない展開だとだけインプットはされていたのですが、聴いてみて、黄紺の記憶は正しかったと認識。幽霊が出てくる理由はダジャレ、それでは演じ手は出ないわなぁ。「菷屋娘」は、呂鶴と文我以外では、口演があったという記録を見た記憶がありません。確か、聴くのは、昨日が初めてのはずです。主人公の若旦那のキャラが、なかなか珍しい。学問に傾倒するあまり、世間に疎すぎるという男。でも、とってもいい人。そこは、学問を修めていますから、ことの善悪を知っている。青く、もやしっ子、でも、素直で感じやすい、なんと、呂好の人に合ったキャラなんでしょう。ここを押さえきった、これに尽きます、呂好の口演は。元々、語り口が爽やかで、しっかりした噺家さんですから、こういった人に合った噺を手に入れたのは大きいですね。若旦那と菷屋娘の出会いが、卯の日詣りに住吉大社に行く日となっていたので、祭礼と物語の展開に、何か意味があるのか調べてみましたが、判りませんでした。「卯の日詣り」と言えば、「せむし茶屋」が思い出されますが、噺との関連を考えねばならないのか、これを含めて気になっちゃいました。それはそれとして、なかなかいい会になりました。やっぱ、それなりの番組を組むことの大事さを感じたことにもなりました。有望な噺家さんのユニットであることは、端から判っているのですから、集客力を発揮するには、それなりの番組を組むことが肝要ということだと思ってしまいました。


2018年 12月 26日(水)午後 11時 21分

 今日は、千日亭で講談を聴く日。毎月恒例の「第257回旭堂南海の何回続く会?」がありました。先月は、ドイツに行ってましたから、2ヶ月ぶりとなりました。今日は、「太閤記・信長畿内制圧篇~『丹波攻防戦~光秀の苦悩~』」と題した読みものを聴くことができました。本能寺の変前夜という時期の丹波制圧に向かおうとする時期の信長を描くのですが、同時に、それは、光秀の心が、次第に離反していこうかという時期に相当。その辺りを読まれたのは判っているのですが、今日は不調。夜中の3時に、目が覚めたまま、二度寝ができずじまいで出かけたものですから、沈没してしまいました。一応、今月で、信長の畿内制圧の読みものは終わり、新年からは仏陀の生涯を読まれるとか。今までになかった読みものだけに楽しみができましたが、どうも、この会がある日は、体調が整わないで行くことが多いのがいけません。相変わらず、睡眠障害は続いている以上、ダメなサイクルと出逢う日ができてしまうのです。


2018年 12月 25日(火)午後 6時 10分

 今日は、お出かけなしの一日。もう、すっかり体に馴染んでしまいました。過ごし方も身につけたという実感。今朝は、随分と気温が下がったようですが、替わりに気温上昇もあり、昼間にウォーキングをしていると、体が火照ってきますし、近くの公園で本を読んでいても、いたって爽やか。これが続くと、苦手な冬も過ごし易いのですが、年末から、そうはいかなくなる様子ですね。今から、警戒警報発令しているところです。


2018年 12月 24日(月)午後 8時 22分

 今日も落語を聴く日。今日は、動楽亭であった.「第7回みずほのホッ。~露の瑞勉強会 」に行ってまいりました。わりかし落語会が集中するなか、一番早く開催を知った会に、ドイツから予約を入れてありました。この会は、2回目か3回目になります。その番組は、次のようなものでした。九ノ一「お公家女房」、瑞「刻うどん」、たま「バーテンダー」、(中入り)、瑞「ん廻し」「餅屋問答」。九ノ一は初遭遇。ようやく出逢えました。いろいろと修行について流れていましたので、どんなお喋りをするのか、まず、ここまで続いていることを良しとして、目の当たりにしたかったのです。すると、イメージとは、全く異なる高座に、びっくりしました。チキンハートというイメージを、どうしても持っていたからでしょうか、豊かな表情、大きくしっかりとした声、もう、これだけで、高座を務めることで自信を備えていったのかと思わせられました。師匠の導きが実を結びそう、そないな予感がしました。それだけではなく、今日の口演を聴くにつけ、新しく楽しみな噺家さん見っけの雰囲気さえ感じさせられました。瑞の1つ目は、上方では珍しい1人ヴァージョンの「刻うどん」。吉朝の流れを組む噺家さんが手がけていますが、誰からもらったのでしょうか。汁を吸う回数が多く、うどんは残ってるはずという食べ方が気になってしまいました。どうも、瑞は滑稽ネタが好きなようで、今日も、2つともそうでした。お嬢様風ルックスと、いつも違和感を感じてしまいます。もう1つの「餅屋問答」は、プログラムにネタ出しをされていたのですが、この「刻うどん」は出されていなかったため、「刻うどん」が始まると、やっぱりと、ちょっと落胆。「餅屋問答」は、米紫からもらったそうです。遠足部の盟友ですものね。「刻うどん」のように、くすぐりの仕込みとばらしという噺ではないだけ、語って聴かせる部分が多く、また、流れるような口演に、引き込まれる要素が強かったかなと思いますが、気持ち良く流れたからでしょうか、聴いていて気分が良くなってしまい、半ばで、軽く居眠りをしてしまいました。プログラムには、ネタは2つとなっていたのですが、中入り後上がった瑞は、今日は、「もう1つ、やらしていただきます」と宣言。「短い」と断ったものですから、最近、出番の前の方でできる噺をやり出し、その口慣らしなんだろうなと、勝手に決めつけていたのですが、大外れ。「ん廻し」は、瑞にとっては口演機会の多いはずのネタ。なのに、なぜ入れたのか、よく判りません。単にサービスだったんでしょうか。ゲストはたま。後輩の主宰する会に喚ばれる機会が多いですね、たまは。マクラはともかくもして、用意してきたネタは、「池田の猪飼い」「地獄八景」「バーテンダー」。それに、客席から声の上がった(このおっさんの気、理解できません)「壷算」で、客に拍手でアンケートを取り、その結果が「バーテンダー」になり、驚かされました。「バーテンダー」は、以前に聴いているのですが、内容をすっかり忘れていましたから、黄紺的には、アンケートの結果には満足。たまの口演で聴いてない「猪飼い」を狙ってはいたのですが、、、。「カケ酒」っぽい噺ですが、「カケ酒」より、酔いたんぼの酩酊度が高く、その分、ハチャメチャ度が高くなっています。客席は満杯。かなりの数、瑞の支援者がいるなの雰囲気。その割合が高くなった雰囲気。それが判ると、足が遠退くんだなぁ。満杯も嫌なので、時たま覗くことにします、今後は。


2018年 12月 23日(日)午後 9時 42分

 今日は落語を聴く日。ツギハギ荘であった「サクッとフラッと 吉の丞と小鯛 」に行ってまいりました。ツギハギ荘で似た名前の会を開いているお二人の会です。似たと言っても、小鯛の、一方的なパクリなのですが、人気の落語家さん同士の会ということで、足早に予約が埋まったと聞いています。その番組は、次のようなものでした。吉の丞&小鯛「挨拶」、吉の丞「京の茶漬」、小鯛「江戸荒物」、(中入り)、小鯛「落研」、吉の丞「除夜の雪」、吉の丞&小鯛「2018年楽屋ニュース」。中入り前の2席は、いずれもネタ下ろし。ともに、短めのネタをチョイスです。というのも、最後の「楽屋ニュース」がメーンのような位置付けになってましたから。方言の話が、マクラの途中から始まったものですから、「京の茶漬」とネタは定まったとは看ましたが、吉の丞に合うのかの疑問も湧いてしまいました。でも、それは、単なる杞憂。何でもこなしてしまう吉の丞という感じでした。京言葉の徹底は、丁寧にはして欲しいとは思いましたが。一方の小鯛のネタ下ろしは、そう言えばやってなかったなと思った「江戸荒物」。とってもリズム感のある口演をする噺家さんですから、主人公の男と嫁さん、また、買い手との掛け合いが、とっても小気味良いものとなりました。ですから、逆に、最後の田舎言葉の買い手とのやり取りの可笑しさが増しました。グッジョブ、でした。小鯛の2つ目は新作でした。この主人公は、落研部員なのに彼女がいるという設定に、あれ?と思ってしまったのですが、この彼女、落研の活動を知らない、いや落語も知らないとなっていますから、結局、落研いじりの噺になっていました。以前に1度聴いた記憶がありますが、でも、後半の展開は記憶にない。手入れをしたのかな、それとも、黄紺の居眠りのせいなのか、判りません。吉の丞の2つ目は、正に季節ネタ。以前に1回聴いていますから、2回目となりました。この噺でも、しっかりとした吉の丞の喋りっぷりは、大晦日の寒さや暗さが、よく感じることができました。それに挿入される怪談めいたエピソード。人の情念が入り、除夜の鐘の功徳へと繋がります。出来た噺です。そないなことに、思いを馳せること、そこへと導いてくれる口演だったと思います。トリの「楽屋ニュース」は、おもしろい話は、どれも喋れないものということで、裏ネタなしのものとなりましたが、ちょこっと入る小ネタが可笑しいですね。ベスト1は、出されてみると、なるほどと納得させられてしまいました。吉の丞の兄貴分体質と小鯛の末っ子体質がブレンドされた、とっても楽しい会となりました。


2018年 12月 22日(土)午後 7時 35分

 今日も、引き続き、お休みの一日。うまい具合に、雨の合間をぬい、通常通り、午前午後1回ずつのウォーキング。気温が高く、冬と言っても、外に出るのが億劫にならないのが、嬉しいところ。この間、「屋根の上のヴァイオリン弾き」の映像を観ています。6月に、ポーランドで、このミュージカルを観に行くための予習も兼ねてです。ポーランドで、このミュージカルを観るのに、ちょっとした意義があるかもと思い、既に予定に組み込んだのですが、映像を観ると、あまりにアメリカっぽくて。ナンバーしかり、筋立てがと思い、一方で、このミュージカルがヒットした時期のアメリカを考えないと、理解できないのかと考えてしまいました。アメリカのユダヤ人社会も勉強したくはなりました。それと、日本でのヒットは違うはずなんでしょうが、こちらのわけは見当がつかない黄紺です。


2018年 12月 21日(金)午後 6時 51分

 今日は、1日、お出かけなしの日。今週は、こういった日が、わりかしあります。すると、不思議なもので、それに、早くも慣れてくるのですね。昨日などは、お出かけまでが、せわしなく感じられてしまいましたから、人間の慣れって、ちょっと怖くなっちゃいました。黄紺が、ずぼらなだけかもしれませんが。こうした日は、午前と午後に1回ずつのウォーキング。でも、今は、昼間が一番短い時期ですから、これまた、せわしなくていけません。替わりに、睡眠障害で、眠れないときの、夜が長いこと。昨晩が、そうだったのです。お酒まで飲んで、ようやく眠りに入れたのは、もう午前6時を過ぎていました。ようやく時差ボケが解消したかと思っていたところに、これですから、たまったものではありません。落語会などのお出かけ日でなくて、ホント、助かりました。ぼちぼち、1月の韓国旅行の準備を始めねばならないと思いつつ、5~6月のポーランド&ドイツ旅行の方に手を出しかけている黄紺です。年末年始の楽しみは、でも、まずは韓国やね。


2018年 12月 20日(木)午後 11時 32分

 今日も、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「第3回 弥っこ凧の会~桂弥っこの落語勉強会」がありました。その番組は、次のようなものでした。弥っこ「いらち俥」、新幸「つる」、弥っこ「二番煎じ」、(中入り)、新幸「狼講釈」、弥っこ「向う付け」。この会は、主宰者の弥っこが3席、ほぼ同期の噺家さんが、ゲストで2席という構成。ところが、今日は、肝心の弥っこの口演の1つ半で居眠りです。ほぼ全滅に近かったのが、狙いの「二番煎じ」ですから、始末が悪い。後半にダウンした「いらち俥」は、今の出番からして、通常の落語会でも普通に聴けるだけに、諦めというものがつきますが、「二番煎じ」は、そういうわけにはいかないネタだけに、情けない話です。しかも、序盤、夜回りに出かけている一団のわちゃわちゃ感が良く、このあとのドタバタが楽しみと思い出していたところでの居眠りだけに、我が身を信じられない状態です。「二番煎じ」はネタ出しをしていて、これはネタ下ろしではなかったようで、ネタ下ろしは、ラストの「向う付け」だったようです。また、この口演が、頗る付きのいいもの。南天や紅雀の優れものを聴いてきましたが、主人公を取り囲む空気が、えらく柔らかで和やかさがあるため、全体的にほわ~っとした仕上がりになっているのが、とっても新鮮な仕上がりでした。それに、どこかしら感じさせられた上から目線を感じさせないのも、柔らかな空気を出していたと思います。「二番煎じ」の序盤といい、この「向う付け」全体の空気というのは、弥っこ自身のキャラ、人柄が、そうさせていることは、やはり否定できませんね。一方の新幸は、2席ともに、師匠新治テイストに満ちた口演を聴かせてくれました。「つる」で、教え手のつるの謂れを語る重要なポイントで、台詞が抜けたり、後戻りをしようとしたり、それが果たせなかったりという混乱が見られたのは、あとに「狼講釈」という厄介なネタが控えていたかもしれませんが、ひょっとしたら慣れすぎたために行った所為かもしれません。終盤のオーバーアクションも、同様のことが言えるかもしれませんね。ちょっと不安や不満が残った「つる」に対して、「狼講釈」は、期待通り、いやそれ以上の口演を聴かせてもらえたという印象です。宿を所望するときの、ちょっと間の抜けたやり取りで、掴みはバッチリ。そして、聴かせどころの講釈もスムーズ。ただ、スムーズだけではダメなんですよね、ここは。特に、ネタが、どんどんと変わっていくところでの、テンポの自在の変化が要るんですよね。それには、まだ時間が要るなとは思いましたが、ま、時間が解決することなのだと思いました。久しぶりに、連日で落語を聴くことができました。やっぱ、これっていいですね。いい年の瀬に入っています。


2018年 12月 19日(水)午後 11時 8分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。久しぶりのことです。今夜は、こちらで「生喬十八種好~其ノ参」がありました。その番組は、次のようなものでした。生心「犬の目」、天使「星野屋」 、生喬「掛け取り」、(中入り)、生喬「按摩炬燵」。生心は、生喬の二番弟子。生喬のところに見習いがいるという情報は掴んでいたのですが、先月に、既に名前が出されていたそうで、今日が初舞台だそうです。あとから上がった生喬によると、落研とか、そういった落語の経験を持たずに入門してきたそうで、それを聞くと、なかなか筋は良さそうです。ま、ここまで、師匠の指導の賜物でしょうが。今後、生寿のときのように、師匠の会で、開演前の出番が与えられ研鑽をしていくそうです。生心の出番があったためか、二番手にゲストの天使が上がりました。当然のことのように、自身の初舞台がマクラで話されました。ネタは、何と「星野屋」。天使が、このネタを持っていることすら知らなかったのですが、この口演が、今まで聴いた天使ベストだと思いました。いろんなネタに守備範囲を拡げてきたように見受けてきましたが、落としどころが見つかったなの印象。なかでも、お花に濃いキャラを持ってきて、母親のキャラを薄めたのが、なかなか秀逸。母親の台詞は、台詞だけで、なかなか濃いですからね。こういった演出法を採ったのは、初めて聴いた気がします。冒頭の旦さんとお花の会話も、変にデフォルメしなくて、掴みとして、しっかりとした話ぶりに好感を持ちました。生喬は、ともに季節ネタ。「掛取り」は、「本寸法」でのものと、「タカラヅカ」を入れないことを、噺半ばで宣言したときに言い切りました。ですから、順に書くと、「狂歌」「河内音頭」「けんか」となりました。 生喬の場合は、「歌舞伎」もカットしてしまうのでしたね。やはり、圧巻は、笑福亭十八番の「けんか」の部分。生喬のごっつめの声が活きていました。そして、2つ目は、今やレアなネタとなってしまっている「按摩炬燵」。口演後に、生喬も言ってましたが、「按摩」という言葉が使いにくいのが、その要因でしょう。また、人が「炬燵」替わりになるというのも、現代の空気にはそぐわないのかもしれません。笑福亭のネタという印象がありますが、笑福亭で持ちネタにしているのは、あと鶴志しか思いつかない現状です。やはり、ネタの中心は、徳兵衛の飲みっぷり。生喬は、ごっつい声から和かな声まで、とっても表現の幅が、細かくなってきているので、もう最高の出来栄えと言えると思います。徳兵衛が飲みながら話す内容が、ほぼのろけ話というのも、可笑しいですね。「十八種好」と名付けた会は、今日がラストだそうです。この名の付いた会は、ほとんど行ってなかったかもしれません。優先度が極めて高い会のはずですから、巡り合わせが良くなかったのでしょう。来年1年は、また違った趣向の会が予定されているそうです。会の趣向が変わっても、優先度が変わるわけではありませんから、楽しみは続いていくことになります。


2018年 12月 18日(火)午後 6時 57分

 今日も大人しくしていた日。一昨夜、大爆睡をしたため、一旦は寝ついたにも拘らず、呆気なく夜中に目が覚めたため、フェネルの試合の実況中継を聴いていました。エルスン・ヤナル監督の初陣でもあったものですからね。そしたら、2点リードが守れない。結局、引き分け。よく考えてみたら、この試合、降格圏の2チームの試合でした。一方、日本でも報道があったようですが、ベシクタシュのぺぺの年俸が高く、払えないということで、契約解除。ベシクタシュのおじさん度が高まり、年々、実力が下降していってる、でも、そのおじさんにも払えない現実。エルスン・ヤナルと言い、シェノル・ギュネシュと言い、トルコの名将といえども、やってられないんじゃないかな。でも、こんなときに、エルスン・ヤナル、よく監督業を引き受けたものです。で、昼間は、2回のウォーキングだけの一日。高校時代の友人が顔を出してくれたのだけが、アクセントが付いた日となりました。


2018年 12月 17日(月)午後 7時 57分

 今日は、久しぶりにのんびりと過ごした一日。ドイツから帰ってきても、毎日、どこかへお出かけ。約1ヶ月の疲労がたまっていたのか、昨夜は大爆睡。うまいタイミングで、まる1日休養の日に当たったことになります。オペラ紀行の間行けてなかった手術後の点検に、眼科医に行っただけという日になりました。


2018年 12月 16日(日)午後 8時 17分

 今日は浪曲を聴く日。毎月定例の「第294回一心寺門前浪曲寄席 12月公演」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。五月一秀(藤初雪)「乃木将軍 伊勢参り」、真山隼人(内田薫)「俵星玄蕃」、京山幸枝若(一風亭初月)「掛川の宿」、天光軒満月(虹友美)「桃中軒雲右衛門 若き日」。満月さんには申し訳ないのですが、今日は、その他の3人が狙い。この3人が揃うと、やはり目に着いてしまいます。ところが、今日は、一秀さんの言う「沢村社長」が、岐阜でお仕事とかで、珍しい番組が出来上がりました。まず、一秀さんから。さくらさんがいないということで、初雪さんが曲師を務めるという珍しい組み合わせ。しかも、ネタは、一秀さんで、何度か聴いていて、いつもカットされる、名古屋に乃木将軍が着く前の奈良での挿話が入りました。別に名古屋の話とは関係ないので、いつも省かれるのでしょうが、奈良の宿の主人の対応が描かれます。初雪さん、三味線を変えられたのか、今まで聴いたなかで一番いい音を出されていました。隼人くんは、さくらがいないということで、最近やってなかった歌謡浪曲を出してくれました。2年半ぶりだそうです。そんなにやってなかったと知って、ラッキー度が上がりました。12月だということ、久しぶりなので、初舞台の演目をということでの、ネタのチョイス。気合いが入っていました。久しぶりということの効果を感じました。こんなのを聴くと、たまには、隼人くんの歌謡浪曲も聴きたいものです。また、歌謡浪曲版の「俵星玄蕃」の構成がいいですね、より削らねばならない歌謡浪曲効果が出たようで、贅肉が、きれいに取れて、とってもいい感じになってました。幸師若師は、鉄板ネタでした。甚五郎ものの1つで、狩野探幽まで出てきて、参勤交代で尾張の殿さんが来るというので厳戒態勢の掛川宿で、悪さをしでかすというもの。有名人が、自分の技でする悪さだから、可笑しみが増します。恵子さん付きの初月さんは、恵子の人気が出るにつれ、遭遇機会が稀れになっていたのですが、今日は聴くことができました。幸師若師の語りに合わせて、いろんな手を入れます。それを聴けたのも、今日の収穫でした。期待の3人がフル回転の素晴らしい巧みの技を見せてくれたものですから、やはり満月さんには悪いのですが、パワー負けをした黄紺はへべれけ状態で、満月さんの口演に臨むことになりました。幸い、聴き過ぎている「父帰る」「日蓮上人」ではなかったのですが、半ばでダウン。知らぬ間に、雲右衛門が出来上がってしまってました。あちゃー、です。曲師は、今度は虹友美さん。やっぱ、この人の三味線の腕は半端ないことを確認させていただきました。こうやって、色合いの異なる3人の曲師さんを聴けたのも、今日のごちそうでした。


2018年 12月 15日(土)午後 11時 7分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今日は、「L.v.ベートーヴェン」と題して、ヴァイオリンの 千々岩英一さんとピアノの上野真さんのデュオ・コンサートがありました。パリ管が入洛すると実現する千々岩さんのコンサート。今回は、上野さんにオファーを出して実現したコンサートだそうです。上野さんは、今年、豊嶋泰嗣さんとのデュオで、ベートーベンを演奏された記憶も生々しいなか、新たなビッグなデュオ・コンサートが実現したということで、会場には、本来なら舞台に立つ方の顔があったり、ヴァイオリンを手にした学生さんら詰めかけていたこともあり、いつもとは、かなり違った雰囲気の会場でした。そのプログラムは、次はようなものでした。「L.v.ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ 第7番 ハ短調 Op.30-2」「ヴァイオリンソナタ 第10番 ト長調 Op.96」。前回、上野さんの使った楽器は、発展途上のピアノフォルテを再現したもの。なかなか古風な響きは、演奏にアクセントを与えていましたが、今日は、従来通りのグランドピアノ。蓋を全開にしないで、オーナー氏お手製のつっかい棒で、ピアノの音量を抑制しての演奏。狭い会場を考えると妥当と思える操作。でも、やはり、グランドピアノは、表現力に幅をもたらします。それを意識した上野さんの演奏に感服。7番は、スリリングな音楽作りが見られ、7番のいい雰囲気に浸れました。一方の10番は、千々岩さんの息の長いレガートが絶品。それを支えるピアノも心地よい演奏。特に3楽章に魅せられました。1時間では勿体ない、そういった時間でした。それを見越したように、アンコールを3曲も用意していただいておりました。一期一会の演奏、堪能させていただきました。


2018年 12月 15日(土)午前 1時 4分

 今日は、昔の同僚と飲む会。今日は、11人が集まりました。今回は、本来なら、今年の3月末をもって退職された方の退職記念を兼ねての会となりました。黄紺は、久しぶりに外部の人たちと話すことができ、ちょっと戸惑いなんてものがありました。仕方ありませんね。


2018年 12月 14日(金)午前 0時 34分

 今日から、早速、日本での動きを再開。午前中に、メト・ライブビューイングに行く予定だったのですが、さすがに、こちらは断念。夜まで、お出かけを控えました。で、夜は、シンフォニーホールであった大阪交響楽団の定期演奏会(ユベール・スダーン指揮)へ。ヴァイオリンの郷古廉をゲストに迎え、アルバン・ベルクが出るということで行ってまいりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「モーツァルト:フリーメイソンのための葬送音楽 ハ短調 K.477」「ベルク:ヴァイオリン協奏曲 (ある天使の思い出に)」「シューベルト:交響曲 第2番 変ロ長調 D125」。「フリーメーソン」が、こういった定期演奏会で出るのは、珍しいんじゃないかな。しかも、冒頭に「葬送音楽」ってのも。ゆったりとした雰囲気を、更に引き継いだのが、次のアルバン・ベルク。ゆったりとしている音楽は、時差ボケのある今日の黄紺には厳しいものがありました。半寝の状態で聴くハメに。お目当てだけだっただけに、がっくりです。今日は、えらく空席が目立ったため、空気を変えるために、2階正面席に移動。かなりサイド席から流れてきていたようで、休憩前まで空席の目立ったエリアの様相が変わってしまいました。そこで聴いたのがシューベルト。これが、なかなか素晴らしい演奏。若々しい躍動感のあるリズムが、とっても心地よい。ユーベル・スターンの溌剌とした指揮に、とってもよく応えたオケ。いい雰囲気で練習が行われ、ぴったりと、両者の呼吸が合った、そないな演奏でした。惜しむらくは、2楽章のヴァリエーションで、ちょっとしたカンタービレが加わり、タメのようなものが入ると、もう一つ、気分が良かったのではと思いました。ユーベル・スターンは、兵庫芸文のオケを、よく振っていますので、そちらの方でも聴きに行ってみようの気になってしまったほどでした。


2018年 11月 18日(日)午後 8時 52分

 明日のオペラ紀行出発を前に、今日は、メトロポリタンのライブビューイングを観る日。今シーズンの第1回目はパスしましたが、2回目に当たる今日から、今シーズンは6回を観る予定にしています。で、今日は「サムスンとデリラ」。サン・サーンスの著名なオペラのわりには、フランスものだからでしょうか、まだ、1度もドイツでは観ていないもの。かなり以前、ニュルンベルクでパスしたのが堪えてしまっている演目です。指揮:マーク・エルダー、演出:ダルコ・トレズニヤックのほか、主要な歌手陣は、次のような充実した顔ぶれ。ブロードウェイの演出家ダルコ・トレズニヤックによる新しいプロダクションという、大きなセールスポイントがあったのですが、黄紺的には、この歌手陣にそそられたのは、間違いのないこと。(デリラ)エリーナ・ガランチャ、(サムスン)ロベルト・アラーニャ、(大祭司)ロラン・ナウリ。装置は、総体的に無機質な印象を与えるもので、1幕は宮殿前、2幕は屋内(2階へ続く大階段も装飾的でない)、3幕の前半は、石臼を回すサムスンですが、後半は、人体を縦に半分に割り、その奥が至聖所とおぼしき神殿。巨大な人体の両脇に連なる壁には、3段になり、コーラスが居並ぶ威容。そして、目を引くのは、舞台全体が半円の枠で囲まれているというもので、古代の聖書物語を描いた絵の額縁のように見えました。ルネサンス絵画に見られような、聖書物語を眺めているようで、且つ、愛とか裏切りとかが語られる人間模様が展開されていることを示唆するに、十分な装置じゃなかったでしょうか。ブロードウェイのテイストを教えてもらった、そないな感じになれたものでした。主要歌手陣は、申し分ない出来栄え。1年経てば、風貌には、その年輪が刻まれていきますが、相変わらず、ガランチャの美貌には惚れ惚れするばかりか、目力は健在。今日も、福井から来ていた高校時代の友人は、1幕における冷ややかな歌唱に、何かを感じたようでした。アラーニャは、2週間ほどすると、ベルリンで生で聴くことができます。その期待を、早くも奮い立たせる出来栄えに、悩殺されました。なんせ、黄紺的には、初の生アラーニャなものですから。ロラン・ナウリは、どこかで遭遇ありと思っていたら、友人が「サンドリヨン」だったことを教えてくれました。今日のMCは、パトリシア・ラセットだったのですが、彼女の問いかけに、はぐらかしたり、洒落っけたっぷりに応じる姿が、とっても印象に残っちゃいました。トーク的におもしろかったのは、指揮をしたマーク・エルダーも。緊張した音楽を作るかと思うと、喋りは、おとぼけが入ったりと、とっても洒脱で好感度、めっちゃアップでした。オペラ紀行出発前に、えらく印象に残るプロダクションに歌手陣に遭遇してしまったということは、今冬のオペラ紀行は、要求水準が上がりそうですね。


2018年 11月 17日(土)午後 9時 32分

 今日も、お出かけなしにした日。旅行準備ということで、あえなく時間が過ぎていった寂しい一日。時間があると、のんびりしてしまい、毎度、時間に追われてしまってます。夕刻になり、初めてウォーキングをしてなかったことに気づきました。なんか、お出かけを作った方が、張りのある時間を過ごせそうです。そうそう、今日は、オペラ紀行の日程、最終確認ということで、航空券を買った旅行社のマイページにアクセスすると、来年の韓国行きの航空券探査をしたあとが残っていて、それを見ると、ムラムラと欲動が芽生えてしまい、あっさりと韓国行きの航空券を買ってしまいました。典型的な衝動買いです。でも、まさかと思い、他の時期の航空券に比べると安いんですもの。そんなで、思わぬところで、来年の韓国行きの日程が決まってしまいました。ちゅうことは、その他の時期には、韓国行きは自粛となる。これも辛い。海外旅行を整理しかかってる身には、衝動買いの反動に、悩まされそうです。


2018年 11月 17日(土)午前 4時 27分

 昨日は、オペラ紀行を前に、その準備に追ったてられた一日。まず、元々、お世話になっていた眼科に行き、経過観察をしてもらい、旅行中に必要なお薬の処方薬をいただき、それに次いで、旅行に備えての資料作り。これが、なかなか手間のかかる仕事。でも、やっておかないと、日本を出てからが困ります。外貨の準備も、必要な仕事。幸い、円高に振れたときに、外貨購入は、終わっていましたから、数を揃えるだけでしたが、時間だけは容易く過ぎていきました。ようやく夕方間近になり、本日のウォーキングに出かけることができ、買い物も兼ねてのウォーキング。冬の迫る気候のなか、でもウォーキングをすると、体はほっこり。自分の体が動いているという実感がたまりません。何もお出かけなし、でも、慌ただしく時間の過ぎていった一日でした。


2018年 11月 15日(木)午後 11時 14分

 今日も落語を聴く日。いい落語会が揃うときは揃うもので、幾つかのそそられる会が並んだときは、木戸銭や交通費、アクセスの便利さといった落語とは無関係なところで選ぶことにしていますが、それに見合ったのが「喬介のツギハギ荘落語会」。結局、2日連続でツギハギ荘に行くことになりました。その番組は、次のようなものでした。「みかん屋」「佐々木裁き」「宿替え」。喬介の全くの一人会。冒頭のマクラで、旅話。この間、北海道と博多に行ってきたそうで、なかでも博多は、博多天神寄席に喚ばれたもの。これが、なかなかビッグな話。ビッグな噺家さんに混じって、喬介の緊張がおもしろい話でした。ネタ3席の中では、「みかん屋」がピカ一。修業期間の最後に、しかも、師匠からの稽古なしで覚えたネタとかで、そのときのことを思い出して、口演をするだけで緊張すると言ってましたが、喬介得意の可愛いアホが冴え渡り、何度も聴いていて、ほとんど通常のテキストが用いられているにも拘わらず、次なる展開に胸踊るものがありました。アホが、どういった物言いをするかが待ち遠しくなってしまうのです。ネタ的に、持ちネタにしていることすら知らず、口演が始まっても、黄紺的には意外性があり、かなり驚かされたのは「宿替え」。後半の釘打ちのところから始まったのですが、主人公の男は、「みかん屋」のアホとは、キャラ的に違い、この男はアホという範疇ではなく、粗忽者の範疇に入る男だからなのです。これは、喬介にとってはチャレンジになるぞ、「みかん屋」のアホでやっちゃうと無理が出てしまうぞという予感がしてしまったのですが、その予感が当たってしまったかなの雰囲気でした。このギャップを、喬介は、どのように埋めていくのでしょうか、今後、何度も聴いてみたくなりました。研究熱心な喬介ですから、様々な試みをしてみて、落としどころを見つけるはずですからね。もう一つの「佐々木裁き」は、喬介自身が「好きなネタ」と言ってから始めました。前半の子どもたちのお奉行ごっこが秀逸。子どもたちのリアルな言動を追求し、それを、ここまで見事に表現できるのは、 この喬介と二葉だなと思いながら聴いていました。ただ、それと比較すると、後半のお白州の場面の繰り返しが退屈だと感じてしまいます。喬介に対する過剰な期待が、そう思わせるのかもしれませんが、問答が繰り返しになるところに、何かできないのだろうかと思ってしまうのです。落語が終わると、北海道土産が、全員に当たる抽選会がありました。全員に当たるときに限り、いの一番に当たる不思議となりました。


2018年 11月 15日(木)午前 0時 6分

 今日は、ツギハギ荘で落語を聴く日。今夜は、こちらで「第56回客寄席熊猫」がありました。桂雀喜が、新作ばかりを出す会です。その番組は、次のようなものでした。雀喜「地震根問」、紋四郎「通」、雀喜「ブレンド授業」。「地震根問」は、摂津市の依頼で、落語会途中の避難訓練をしたときの口演用に作った新作。地震の避難に関しての蘊蓄を語らせる噺になっていました。摂津市は、雀喜が、自身の落語会「ジャッキー7」を、長年開いてきたところ。そのご縁だということです。紋四郎は、ホント、久しぶりの遭遇。随分と見ない間に、自信のある喋りっぷりになっていました。東京の花飛との二人会で、テーマを決めて作った新作を披露してくれました。知ったかぶりの噺です。半ばから、落語界をネタにした知ったかぶりのオンパレード。途中、志ん生の物真似まで入ったのですが、ちょっとした紋四郎の蘊蓄を聴いているという雰囲気になってしまってました。「ブレンド授業」が、本日のとれとれの新作。「ブレンド」は、教科のブレンドという意味で、自然災害で授業が欠けることが多かったからと、ブレンド授業を行うようになったというのが、噺の大枠。具体的には、保健体育の教師が、保健の授業と他の教科の授業をミックスさせながら進めるという物語になってました。マクラで話されましたが、雀喜自身の中学時代の苦い思い出が背景にあり、主役の教師を保健体育の先生にしたようです。雀喜にしでは、かなり過激な下ネタの入るもの。しかも、複数回。ですが、噺のバカバカしさは、「地震根問」を、かなり上回りました。冒頭の英語の授業で、いきなり強烈な仕込みが、バカ受けしたのが大きく、噺の進行に保険を与えたようでした。昨夜から冷え込み、ツギハギ荘の階段横で聴くのが厳しくなってきました。手術のおかげで、目が見えるようになってきましたから、何も間近で落語を聴く必要性がなくなってきているはずですよね。


2018年 11月 14日(水)午前 8時 2分

 昨日も、カフェモンタージュで音楽を聴く日。昨夜は「弦楽四重奏」と題して、一昨日の弦の出演者の方たちのカルテットの演奏を聴くことができました。即ち、次の4人の方たちです。(ヴァイオリン)漆原啓子、上里はな子、(ヴィオラ)臼木麻弥、(チェロ)大島純。そして、演奏されたのは、「J.ハイドン: 弦楽四重奏曲『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』Hob.III:50-56」。実は、この演奏会に申し込むとき、若干の躊躇いがありました。というのは、その昔、ラサール弦楽四重奏団のLPが発売されたとき、このカルテットをとっても気に入っていたので、飛び付くようにして買ったのですが、ハイドンの他の弦楽四重奏曲と、全く趣を異にする曲想で、どん引きになった記憶が、鮮明に残っているのです。ということは、この曲自体が知られておらず、ハイドン、ラサールで飛び付いた黄紺だったのですが、ラサールと言えども、この曲を、おもしろいと思えなかったということは、相当きついぞと思ったわけです。まず、緩急の変化が乏しいどころか、ないのです。ずっと「緩」のまま終始し、しかも、長い。昨日も、コンサートが終わったとき、時計を見ると、午後9時20分になっていました。もちろん、冒頭にオーナー氏による前説があったにせよ、長い。これに耐えられるか、その不安があったのですが、演奏者がいいと思い直し、申し込んだわけだったのですが、やはり、延々と続く「緩」ばかりの音楽、しかも、ハイドンはきついものがありました。後半は、半寝で聴いておりました。ま、想定内のことだったと思っています。逆によくもったなとすら思っているほど。そこまでもったのは、演奏のおかげと思います。総体の調和というよりか、内声部を抑制し、両脇にリードさせていくという手法が効を奏し、なかでも第1ヴァイオリンの漆原さんのみずみずしい音が傑出していたからです。前日のブラームスでは聴かせてもらえなかった音で、これぞ、日本を代表するヴァイオリニストの音だと思えたからです。このコンサート、2日間組まれたからか、入りは今いちでしたが、やはり、曲をご存知の方たちが、恐れをなしたことは、十分考えられると、納得させられたものでもありました。


2018年 11月 12日(月)午後 11時 46分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「ピアノ五重奏」と題して、(ピアノ)松本和将、(ヴァイオリン)漆原啓子、上里はな子、(ヴィオラ)臼木麻弥、(チェロ)大島純という5人の方のアンサンブルの演奏で、「J.ブラームス:ピアノ五重奏曲 ヘ短調 作品34」を聴くことができました。有名曲なのに、こういった構成の音楽は、なかなか接する機会がないということで、黄紺はもちろん、会場は、満席の盛況となりました。また、こちらに、漆原啓子さんが出演されるときは、今まで、日本にいなかったり、都合がつかなかったのですが、ようやく、初めてカフェモンタージュで聴くことができました。第1楽章の序盤、松本さんを除く、なじんだ同士の4人のはずなのに、なんか手探りをしているようで、音質が不揃いで、おやおや、、、。初めて音を合わせたはずでもないのに、こういったことって起こるのですね。丁寧に弾こうとしたあまりに、こないなことになったのか、ピアノだけが、快調に跳ばすといった風情が続いてしまいました。そんなだから、ブラームスの厚い響きにはならない。あぁ、外したのかなと思い始めた頃合いから、でもないよなが交差したような展開になっていきました。何をどう修正したら、改善が進んだのか、黄紺には解る術はありませんが、音に厚みを感じ出すようになっていきました。そりゃ、音質が揃ってくると、完全に右肩上がりですから、アンサンブルがいい感じに変わっていったということなのでしょう。音の厚みが、倍々的に膨らんだように感じることができると、あとは一気呵成に進みます。4つの楽器が手を繋ぎ、その狭間を、ピアノは駆けめぐっていました。今日は、最近、福岡から京都に戻ってきた高校時代(実は幼稚園から)の友人夫妻と並んで聴いていました。初めてです。これから、こういった機会が増えていくかもしれません。


2018年 11月 12日(月)午前 6時 15分

 昨日は、最近では珍しい二部制の日。文楽を観てから、シンフォニーホールに回り、音楽を聴く日でした。まず、文楽は、昨日は第1部。この番組が凄い。落語ファン垂涎の番組が組まれました。その番組は、次のようなものでした。「蘆屋道満大内鑑~葛の葉子別れの段、信田森二人奴の段~」「桂川連理柵~六角堂の段、帯屋の段、道行朧の桂川~」。ところが、昨日は体調不良。またしても、睡眠障害に悩まされ、二度寝がほとんどできなかったため、もう眠くて、、、。そないななか、印象に残ったことを、メモっておきます。「蘆屋道満大内鑑」は、久しぶりに出たのですが、いきなり「葛の葉子別れの段」は、味気ないですね。ここから始まっちゃうと、葛の葉姫の正体ばらしにしかならないので、ええとこ取りのやり過ぎになってしまい、せっかくのいい場面の興趣が落ちてしまいました。前回観たときは、曲書きが入ったという記憶なのですが、もし、記憶に間違いなければ、どのような流れで入ったのかが判らなくなりました。入り込むところが判らず、結局、黄紺の記憶違いかもと思い始めています。「信田森二人奴の段」は初遭遇。保名をつけ狙う悪右衞門からの攻撃を防ぐのに、狐の朋輩が奴の姿になり助勢するというもので、ちょっと付録って感じかな。「桂川連理柵」も久しぶりのような記憶。「帯屋」で居眠りに負けてしまうとは、かなり不調でしたが、長右衞門もダメ男ですね、結局。お絹さんはかばうのですが、お茶屋遊びが過ぎるのが高じて、脇が甘くなってる。だから、お半とできてしまう。今回の上演にはなかった「石部宿」のお半の行動って、子ども子どもしてると思うのですが、手を出す。おとせの婆はサディスティックですらありますが、長右衞門は隙だらけということじゃないかな。となると、お絹さんが気の毒過ぎます。ま、そないに焦点化してしまう物語だから、「帯屋」のチャリ場が効いてくるのでしょうね。今回は、そのチャリ場を呂勢太夫さんが語られ、チャリが終わったあとを、「切」として、咲太夫さんが語るという分担になっていました。結局、黄紺は、咲太夫さんのチャリ場は聴かずじまいになる可能性が出てきました。人形は、お絹を和生さん、長兄衞門を玉男さん、お半を勘十郎さんと、エースが勢揃いしました。
 文楽劇場を出たのが、午後3時15分、コンサートの開演が午後5時ということでしたので、歩いての移動。ちょうど1時間ほどで到着。いいウォーキングとなりました。昨日のシンフォニーホールでは、大阪交響楽団の「第105回 名曲コンサート イタリア・オペラの系譜」というコンサートがありました。「名曲コンサート」にしては、渋いプログラムになったのですが、歌手からしてが、テノール2人を集める構成からして、黄紺的には興趣の上がるものでした。なかでも、テノールの1人、小堀勇介(①)は注目している歌手。それに導かれてチケットを買ったというコンサートでした。あと2人の歌手は、山本康寛(②)と光岡暁恵(③)でした。そのプログラムは、全曲ロッシーニで、次の通りですが、指揮は、オペラ専科の園田隆一郎でした。「歌劇“チェネレントラ”序曲」「歌劇“セヴィリアの理髪師”より “もう逆らうのをやめろ”(①)」「歌劇“ウィリアム・テル(ギョーム・テル)”より パ・ドゥ・シス」「歌劇“ランスへの旅”より “私は出発したいのです”(③)」「歌劇“ウィリアム・テル (ギョーム・テル)”序曲」「歌劇“どろぼうかささぎ”序曲」「歌劇“オテッロ”より “ああ、なぜ私の苦しみに” (②)」「歌劇“アルミ-ダ”よりバレエ音楽」「歌劇“オテッロ”より 三重唱 “さあ来い、お前の血に復讐を”」。「ウィリアム・テル 」序曲を除けば、どこが「名曲」コンサートと言える、ベルカントのマニア向きの曲が並びました。通常の「名曲」コンサートを期待して来られた人たちは、くらくらするほど、名前すら聞いたことのない、正真正銘のベルカントの名曲が並んだコンサートです。おまけに、ベルカントの歌唱法に茫然というところでしょうか。オケの主催するコンサートですから、歌手をともわない序曲やバレエ音楽が入るのは致し方のないところ。でも考えれば、ロッシーニは、パリ音楽界を、長年に渡り牛耳るわけですから、バレエ音楽が並ぶのは、正にらしさを追求したプログラムと言えるんじゃないかな。やはり3人の中で、一番の篤い声援を受けたのは小堀さん。びわ湖での「魔笛」に続いて、山本さんとの共演でしたが、びわ湖に比べて調子の落ちた山本さんでしたから、ますます小堀さんの前に出る伸びた声に魅せられたのだと思います。でも、その小堀さんですが、今までに聴いた「ラ・チェネレントラ」「魔笛」の歌唱に比べると、前半の声が粗く、アジリタの技法も、前半は物足りなさを感じてしまいました。ラストに向かう後半は及第点以上でしたが。ただ、最後、ハイDはチャレンジすらしなかったですね。むしろ、かなり苦しかったですが、山本さんが出したかもしれません。アジリタという点で言えば、光岡さんも余裕があったとは言えるものですは、ありませんでした。でも華やかさがあり、いいですね。客の入りからして、2部に分けなきゃならないのかなぁと思いましたが、こうしたプログラムでコンサートが開催されるだけで、黄紺は大歓迎です。大阪交響楽団は、いつもながらプログラムが素敵なため、ついつい足が向いてしまいます。


2018年 11月 11日(日)午前 4時 5分

 昨日は、ロームシアターのパークプラザ3階共通ロビーで行われた「いまを考えるトークシリーズVol.5」に行ってまいりました。今年度になり5回目の開催ということですが、先日、ロームシアターからの案内を見るまでは、こないな美味しい、しかも入場無料で、こういった催しがあったことを知らず、次回のプログラムも見るにつけ、知らなかったことを悔いてしまいました。昨日のトークは、「“家族”という他者を見つめる」と題してのもの。トークをされたのは、映画監督のヤン・ヨンヒさんと劇団こまつ座代表井上麻矢さんでした。黄紺的関心は、「ディア・ピョンヤン」という刺激的な映画で、颯爽とデビューされたヤン・ヨンヒさん。それに加えて、テーマを見て、井上ひさしを父親に持つ井上さんにも、関心が向いてしまいました。どのような展開になるのか興味があったのですが、トークの主役はヤン・ヨンヒさん。元々、このトークのオファーは、ヤン・ヨンヒさんに来て、そのトークの相手に、ヤン・ヨンヒが井上さんを指名したとかで、井上さんは聞き役に終始。お互いに旧知の間柄ということで、話は盛りだくさん、進むは進むはで、最後には、マイクのスイッチが切られてしまっても続きました。となると、必然的に、ヤン・ヨンヒさんが「ディア・ピョンヤン」などの作品で追及してきたテーマ、ヤン・ヨンヒさんの家族の物語となりました。ま、黄紺が、一番期待していたことが、本人の口から直に聴けたことになります。話が、開始早々5分ほどで、いきなりスパークです。ヤン・ヨンヒさんのお兄さん2人の帰国にあたり開かれた送別会の話でした。兄3人の内、長兄を残して、2人が先に帰国。弟2人が帰国をした場合は、儒教的発想からだと、長兄の帰国はなかったはずが、その長兄も帰国に至った事情が、かなりえぐい話。その長兄の人柄、その人柄の故に、帰国後、長兄が悲惨な人生を歩むに至る話は、一層のえぐさを感じました。その彼らに対する仕送りの具体的なお話もありました。それで、姪っ子の栄養失調が治った話なんて、その品物を聴くと、笑うに笑えないところです。そういった事情が、日本にいる両親、また、ヤン・ヨンヒさん自身が知るきっかけになるのが、祖国訪問。監視を逃れて、深夜、ホテルを抜け出し、失われた時間を取り戻す兄妹。その中で、長兄が精神を病んでいることも明らかになったと言います。そういった話の中で、特に印象に残ったのが、母親の行動と、その根っこにある事情。「ディア・ピョンヤン」では、父親のキャラが強く、どうしても印象付けられてしまっていたのですが、母親の方が、より強烈に建て前で生きていった人だったことが判ったのですが、そのわけが、済州島の4・3事件に関係があると明らかにされたからでした。父親は、済州島に生まれ渡日されてきた人であるのに対し、母親は日本生まれで、42年に済州島に渡り、その4・3事件に遭遇したそうで、それにより、日本に逃げてきた人だそうで、島で起こった悲惨な様子を、目の当たりにした経験が、頑な態度の基になったと言われていました。とまあ、期待以上のお話を聴けて、大満足。貴重なお話を聴け、胸ほっこり、満腹気分で、暗闇の円山公園から高台寺方向から建仁寺界隈を抜け、宮川町の端から五条へと抜けて、帰途に着きました。このミニウォーキングも良かった。行燈の灯で眺める、この道は最高に素敵ですね。


2018年 11月 9日(金)午後 11時 5分

 今日は、千日亭で講談を聴く日。今夜は、毎月恒例の「南湖の会 ~赤穂義士銘々伝特集~」に行ってまいりました。その読み物は、次のようなものでした。「赤穂義士銘々伝~間瀬久太夫の暗殺~」「赤穂義士外伝~俵星玄蕃~」「三方ヶ原軍記」。今日は、朝から家の用事や、退院後初めて病院に行ったりで、かなり多忙だったからでしょうね、千日亭に着き、用意された座椅子に座ったとたん、ホッとしたからでしょう、やたらと眠い。そのまま、南湖さんが登場し、記憶があるのは、近々開かれる会の紹介をされたり、「恐怖を語る会」に参加して4位になった話をされたのは覚えているのですが、その後がさっぱり。「赤穂義士」の1つ目も、ほとんど終わりかけに気がついたほど。ネタも、僅かのお喋りと、南湖さんのツイッターから判断して、これだろうと考えメモっておきました。ツイッターには、「珍品」との表記。そんなのを見ると、悔しさが増します。もう一つは、有名な「俵星玄蕃」。先日、真山隼人くんの浪曲で聴いたばかりでしたので、ちょうど良い聴き比べができました。蕎麦屋は杉野十平次。序盤に、杉野が蕎麦屋を始めたときのエピソードが入ります。俵星は、杉野が赤穂浪士と知るのは討ち入り後。杉野は、俵星との話の中で、上杉への仕官話を知り、ウソの仕官話を持ち出し引き留めるのに成功します。討ち入りを知った俵星は、助勢をすると、現場で申し入れしますが、辞退されるので、単に道場に戻りますが、義士たちが泉岳寺に移動し出すと、上杉勢から義士を守る仕事で貢献するというものでした。両国橋に立ちはだかるなどという派手な動きをしないところに、話の出来栄えの良さを感じました。この南湖さんの口演が、俵星玄蕃ものでは、一番スムーズに聴けたように思います。幾種類の、しかも違ったジャンルも含めてのこととしてです。最後は、いつものように、「三方ヶ原軍記」の修羅場読みで、お開きになりました。


2018年 11月 9日(金)午前 7時 52分

 昨日は、京都コンサートホール(小)で音楽を聴く日。昨夜は、京都市交響楽団メンバーによるアンサンブル「京都ラビッシュ アンサンブル vol.15」というコンサートがありました。今年は、8人のコアメンバーに加え、同楽団から、フルートとオーボエを加え、可能なプログラムが組まれました。そのプログラムは、次のようなものでした。フランセ:八重奏曲」「ブラームス(ネックス編曲):セレナーデ第1番 ニ長調 op.11 (十重奏版)」。弦5人(コントラバスを含む)と、ホルン、ファゴット、クラリネットの3人がコアメンバー。そういった楽器の組み合わせでは、出入りをしたとしても、演奏できる曲目は限られています。ただ、全く合う曲がないわけではありません。フランセの曲などは、この曲ができるように、メンバー8人が集ったという楽器構成。ちょっとポップな感じで進むかと思うと、一転してウィーンの香りに包まれてしまったかのようなメロディに包まれてしまっています。なかなかおもしろい曲です。一方のブラームスは、当初は9重奏版で生まれた曲を、作曲家自身がオケ版に変えたあと、元の9重奏版を破棄したのを、10重奏版として復活したもの。珍しい道筋を辿っています。まだ、ブラームスが、シンフォニーというものに、手を染めてなかったものと、このアンサンブルのリーダーである神吉さんが、挨拶に立たれたとき、この曲に解説が加えられました。ただ、音楽的に、シンフォニーの香りが十二分にしました。小編成で聴くのが惜しいような響きを持つ音楽でした。10重奏となると、もうちょっとした室内オケの風情がしてしまいます。小じんまりと室内楽を聴きに行ったら、プログラムはそうじゃなかったというミスマッチ感が溢れてしまいました。フランセは室内楽、でも、ブラームスは違うやろといったところです。このアンサンブルの目指す方向性の分岐点の際に沿った2曲を聴かせてもらったコンサートとなりました。個人的に気に入ったのは、鈴木祐子さんのクラリネット。京響のクラリネットと言えば、小谷口さんがいますが、このパート、人材が豊富だということが判りました。室内楽では、初めて聴くことになったオーボエの高山郁子さん、あまり活躍をするところがなく、えらい美人だという以上のことは、判らずじまいに終わりました。アンコールは、「ブラームス:ハンガリー舞曲第5番」でしたが、ここにきて、えらく弦パートのパワーが発揮されましたが、本チャンの2曲は、そのパワーを、もう少し発揮して欲しかったな。神吉さんのコントラバスの響きに押されてしまい、全体的にはバランスが気になってしまってました。特に管楽器との間のバランスが。真ん中の席に座った方が良かったかもしれませんね。京響の楽団内アンサンブル、増殖中のようです。京都に住んで良かったと思える、大きな要素になりつつあります。


2018年 11月 7日(水)午後 6時 40分

 今日は、お出かけなしの一日。こうした日を増やしていこうという試み。ちょっと慣れてきました。午前中に軽くウォーキング、午後は、目の手術に合わせて、新しく作った眼鏡を取りに行きがてらのウォーキングで、今日はおしまいです。えらく、時間が経つのが早く感じられた一日。これも、特段のお出かけなしに慣れてきた証拠かもしれません。


2018年 11月 7日(水)午前 4時 53分

 昨日は文楽を観る日。オペラ紀行に出かける前に、11月公演を観てしまおうとの算段です。昨日は第2部を観たのですが、その番組は、次のようなものでした。「ひばり山姫捨松~中将姫雪責の段~」「女殺油地獄~徳庵堤の段、河内屋内の段、豊島屋油店の段~」。いずれも、文楽の演目としては知られたもの。中将姫ものは、能にもあり、「雲雀山」の方はそうではないのですが、「当麻」という名で演じられる方は、有名な曼陀羅物語が題材になっており、とっても仏教臭の濃いものですが、文楽で、よく上演されるのは、「雲雀山」よりも、更にとっても俗っぽい権力闘争の渦中どころか、中将姫は殺されたかと思われる流れで、扱いも、かなり俗っぽい印象を受けてしまいます。中世の能と近世の文楽の対比が判りやすくなっているような気がします。権力闘争の裏を知ってしまったため、折檻、要するに拷問を続けられる、雪の中を裸足で歩くだけでも寒々としてしまうのですが、雪中折檻へと、かなりエスカレート。おまけに、姫は、その折檻に耐えられず亡くなってしまう、、、。あらあら、主役が亡くなってしまうかと思いきや、裏が用意されていましたが、この1つの段では、物語が単線的で、黄紺的には興趣が盛り上がらない作品です。これって、前に観たときも書いたような気がします。「女殺油地獄」は、更によく出る作品です。やはり、殺しの場面のインパクトが強いのが、大きいのでしょうね。それにつけても、与兵衞は、とことんダメ人間です。自己中心的、嘘で塗り固めた人生、殺しなんてできないダメ人間かと思うと、殺しまでやっちゃう。その殺しのきっかけたるや、金。元を糺せば、遊ぶ金のための借金。先が見通せず、その場限りの辻褄逢わせしかできない人物。この男を見ていると、うんざりとしてしまうほど、これでもかとダメぶりを、近松は描いていきます。この過剰さは、文楽らしいと言えば、そうなんでしょうが、黄紺的には不快感が増すばかり。もう一つ、不快感を増す要素があります。継父徳兵衞の見せる、先代への忠義というか心酔ぶり、いや、それはいいのだけど、そこから出てくる与兵衞に対する遠慮という名の甘やかし。母親も、やはり与兵衞離れができてないんだなぁというところ。これが、形を変えながら、過剰に描かれます。プログラムを読んでいると、この作品、あまり人気がなく、明治以降、復活されたものが、現在、上演されている由。近松晩年の作品と言えども、当初は支持されなかった模様。さもありなんと思ってしまいました。描かれる内容は、基本的に変わらない、それを違った形で、幾度となくアプローチしているという印象を、黄紺は持ってしまったのですが、、、。復活され人気狂言の仲間入りしていくのは、やはり、殺しの場面の凄まじさ、これに尽きるように思ってしまいました。勘十郎、和生のお二人の息の合った殺しの場面、やっぱ、凄いものがありました。


2018年 11月 5日(月)午後 11時 30分

 今日は過密なスケジュール。朝から、給湯器が壊れたため、ガス関係の人たちが出入り。権限が分割されているため、1つの給湯器を交換するだけで、3種類の業者が入りました。それと並行して、屋根の補修の仕上げ作業が入り、もう、大にぎわい。それが終わると、元々通っていた眼科医院に、手術報告とともに経過観察をしていただき、新たな眼鏡の処方箋を書いていただき、今度は、それを持って、予め目をつけてあった眼鏡屋へ。オペラ紀行に出かける前に、新たな眼鏡に慣れておかねばなりません。オペラの舞台を、しっかりと目に刻むための必須事項です。更に、夕刻からは息子の家へ。でも、Dとともに、息子はお出かけ。待つこと30分余り、ようやく現れました。結局、そのあとにも予定を入れていたため、Dとは、あまり遊べなかったなぁ。どんどんとテンションの上がる一方だったDですが、その半ばで、出かけることに。息子の家に行くタイミングで、元同僚から、お誘いを受けていたのです。黄紺も、この間の旅行で、東欧3ヶ国力に行っていた元同僚の話を聴きたくて、息子の家に行くと会いやすい、その元同僚と会うことになっていたのでした。航空券の買い方で、ありえないミスをおかしたため、さぞや失敗続きを期待したのでしたが、わりかし全うな旅行に肩透かし。こんなだったら、もっとDと遊んでおいたのにと思っても、あとの祭り。でも、自由旅行の楽しさが伝わってきたお話を聴かせてもらえ、これはこれで楽しい時間を持つことができました。


2018年 11月 4日(日)午後 8時 9分

 今日は、11月の第1日曜日ということで、毎年の恒例、法事のある日。弟と一緒に、滋賀県へ行ってまいりました。ちょっと雨が降るのではと、気になったのですが、幸い、セーフ。そして帰り道、高校時代の友人の家へ。1時間半ほどのお喋り。手術の話、音楽の話など、お喋りは続きました。気がつくと、はや暗くなりかけていました。


2018年 11月 3日(土)午後 7時 42分

 今日は浪曲を聴く日。百年長屋であった「真山隼人の浪曲の小部屋その16~第2回忠臣蔵特集~」に行ってまいりました。沢村さくらさんの三味線に乗り、隼人くんの出したネタは、次のようなものでした。「俵星玄蕃」「三題浪曲」「名刀小狐丸」。「俵星玄蕃」はネタ出しをされていたもの。三波春夫の「俵星玄蕃」に言及したのがまくら。カラオケで歌うと8分ほどかかるのでというお話。それから、ネタ解題的なことも触れてくれました。浪曲界では、「俵星玄蕃」の内容で2通りあるということですが、浪曲界の知識が稀薄な黄紺には、もったいないお話。「俵星玄蕃」は、「赤穂義士外伝」に含まれている物語。隼人くんの口演では、吉良側から、腕を見込んで雇うという話があることを察知して、お抱えの話を捏造し、支度金を渡すことで、吉良に行くのを防ぐという物語になってました。その一方で、俵星玄蕃の持つ侍としての本性も描くというもの。それがないと、助太刀の申し入れ、辞退されたときに、両国橋で仁王立ちする姿には繋がりませんものね。黄紺的には、有名な話ながら、講談で聴いても、なぜ人気の出る物語かが、未だに解らないネタです。有名なネタであり、且つ、大きなネタという意識が強いのか、1年ふりの口演になったとか。隼人くんは、「俵星玄蕃」を、歌謡浪曲でも持ってたんじゃなかったかな。今日は、ネタを2つ披露するだけのつもりだったようですが、気が向いたのか、「三題浪曲」を放り込みました。落語の「三題噺」の浪曲版です。3つのお題は、「日本シリーズ」「ハロウィン」「トランプ」というものでしたが、冒頭、隼人くん自身が言ってましたが、政治関係は苦手と言っていたにも拘わらず、お構い無く「トランプ」と言う輩に、興醒めでした。「名刀小狐丸」は、小圓嬢師からもらったもの。初披露でした。2年ほどかけて、頼んだそうです。「名刀小狐丸」って格好のいい題が付いていますが、講談で「忠僕直助」と言われているネタです。こちらも、「赤穂義士外伝」からのもの。ということで、「忠臣蔵特集」となるわけですが、今日の口演を聴いて、「赤穂義士伝」だと判らないまま帰った人は、結構いたんじゃないかな。構成が変わっていますからね。口演の半ば過ぎても、直助は、何者かは判らなくしてあり、ずっと刀鍛冶の名匠のもとで、修業を積む直助であり、でも、やたら師匠の相槌を打ちたがったりと、ちょっと人物設定に無理を感じるものになっています。そういったやり取りがあり、相槌を打つと素晴らしい、さては、技を盗みにきたとして、手打ちになりかけて、素性を明かすという展開。ここで、確かに赤穂藩と出てくるのですが、別段、赤穂藩でなくても成り立つ話なもので、素通りしかねないと思ってしまいました。ま、浪曲は、ええとこ取りを、テキストでしなきゃならないので、一つの工夫かと思うのですが、その後の直助の格好いいところは省かれてしまってますから、どうしても不満が残ってしまいます。講談の元ネタを知らなければ、ひょっとしたら受け入れることができるかもしれませんが、知ってしまってる身としては、テキストに不満が残ってしまうのです。隼人くんの口演は、初演ということもあるのでしょう、小園嬢テイストいっぱい、というか、、、そのままでした。小園嬢師だから受け入れられる演出があるのは、隼人くんのことですから、十二分に解ってるでしょうから、これから、このネタを、どのように自分のものにしていくのか、それを追いかける楽しみが出てきました。


2018年 11月 3日(土)午前 1時 14分

 今朝、2度目のプチ入院から退院。また、普通の生活に戻ることができました。病室からは、慣れ親しんだ風景が見えただけに、普通の生活に対する憧れが出てしまってました。昼間は、家の用事でうろうろ。なぜか、せっかく退院してきた病院のお隣まで行かねばならないハメに。ちょっとちぐはぐに動いたのですが、ウォーキング替わりになりました。そして、夜はカフェモンタージュへ。今夜は、「ショーソン&サンサーンス」 と題して、おもしろいプログラムが用意されました。演奏は、(ヴァイオリン)馬渕清香、(チェロ)上森祥平、(ピアノ)多川響子という、カフェモンタージュではおなじみの皆さんでした。また、プログラムは、次の2曲でした。「C.サンサーンス :ピアノ三重奏曲 第1番 ヘ長調 作品18 (1863)」「E.ショーソン :ピアノ三重奏曲 ト短調 作品3 (1881)」。いつものように、オーナー氏が、フランス音楽のビフォー&アフターのお話をされました。普仏戦争を境として区分しようというわけです。アフターの先陣を担いフランス国民音楽協会を設立するサン・サーンスが、今日のプログラムでは、ビフォーの曲で、アフターがショーソンだという組み合わせになっているプログラムだとのことでした。ナショナリズムの旗振り役のサン・サーンスの音楽は、きら星の如く現れる19世紀後半のフランス作曲家の中では、最も保守的な色彩が濃いのですが、ピアノ三重奏曲1番は、ドイツ的重厚さとは異なる彩りを見せてくれます。それを、今日は、上森さんのチェロが煽るは煽るはで、強力な牽引役を担っていました。それに煽られたような形で、馬渕さんのヴァイオリンが輝きを増していくという展開。そのうねりに、多川さんのピアノがおいてけぼりをくらっていたかの印象が残ってしまいました。一方のショーソンは、ピアノ三重奏曲なんてのを残しているのすら知りませんでした。かなり保守的な傾向が、一般的に言って看られた時代に、およそフランス音楽とは思えない、ドイツ・ロマン派の延長線上にあるかのような重厚な響きが続きます。圧倒的に厚い音に、完全に引き込まれました。特に、チェロとヴァイオリンの重奏が素晴らしく、今度は、ピアノも重なってきました。こないな優れものが埋もれているなんて、カフェモンタージュ様々で、知ることができました。演奏者のおかげで、黄紺の頭に、しっかりと刻まれました。この組み合わせは、確かルクーでも、熱い演奏を聴かせてもらった記憶があります。オーナー氏は、この組み合わせで、新たな企画を練ってられるようなことを、ちらりと言われてましたから、その新たな出会いを楽しみにしておきたいと思います。


2018年 10月 30日(火)午前 1時 24分

 今日は、特段、お出かけのなかった日。但し、台風21号の影響で壊れた屋根の補修業者が入った日でもありました。これは、この土曜日に次いでのもの。お出かけは、毎日の定番であるウォーキングだけ。ただ、明日から2回目の手術&入院ということで、家の用事や入院準備をしていると、あっさりと時間は経過。あっさり過ぎて、オペラ紀行の準備が滞っています。退院すると、あまり時間が残っていないので、ちょっと気分は焦りが出てはいるのですが、、、。


2018年 10月 28日(日)午後 7時 35分

 今日は、ツギハギ荘で落語を聴く日。今日の午後、こちらで「サクッと吉の丞 10サクッ」がありました。吉の丞がゲストを迎えず、一人だけで、全てを仕切ってしまうという会。ただ、今日は、吉弥の下で修業中の弥壱がお手伝いに来たため、急遽、出番を与えたため、次の4席を聴くことができました。吉の丞「代書」、弥壱「犬の目」、吉の丞「披露宴(中島らも作)」、(中入り)、吉の丞「試し酒」。弥壱は、ようやく入門1年に手が届くかというキャリア。当然のように「犬の目」でしたが、ここで居眠り。偶然の休憩時間になったため、主役の吉の丞の高座は、「代書」の後半を除いて大丈夫だったということは、この時間帯がダメだったということになります。吉の丞の出した3席、いずれもが初遭遇。ひょっとしたら、全部がネタ下ろしかもしれません。「代書」は、珍しいキャラを出しました。わけのわからない男を田舎者として描いたのです。本籍は鳥取県で、現住所が大阪市、ここで気がつくべきだったのですが、3席終わったあとの、吉の丞による説明になり、ようやく判りました。小米版の「代書」だったのです。そう言えば、かなり以前に聴いた記憶があり、笑い転げたことがあります。どうやら、吉の丞も、そういった記憶で手掛けたのでしょうが、やはり、鳥取弁はネイティブに敵わないところが、今日の口演のウィークポイントじゃないでしょうか。「披露宴」は、らも作&吉朝口演もので、少なくとも1回は、吉朝は口演をしているとかで、音源が残っているので掘り起こしたと言ってました。この類いのネタは、しん吉が復活している「牛乳時代」に次いで2つ目となります。らも作品にしては、まともな笑いを追求したもので、普通の落語会で出しても、違和感なく入り込めそうに思えました。結婚する相手が組の者だと伝えてなかった花嫁、それに配慮して、花婿側が動くのだけども、最後には、ついにバレてしまうというものでした。吉の丞には、どんどんと酒ネタを増やして欲しいなと思っている黄紺にとっては、「試し酒」は待望のネタ。テキストは、明らかに塩鯛版。登場人物3人の色分けがくっきりしているのが、何よりも感じのいいところ。中でも朴訥とした九蔵さん、旦さんは、大宮さんより、酒をふるまう旦さんが気に入りました。目玉は酒の飲みっぷり。2合までは良かったんだけど、そのあとの都々逸を並べるところで、ちょっとテンポを落とせば、酔いをよりよく感じさせたでしょうし、4合からあとは、慌てなくてもいいのにと思ったように、逆にテンポが上がってしまったのが惜しまれます。でも、また、少し時間が経ってから聴いてみたいなと思わせられた出来栄えだったと思います。進化が楽しみになる口演でした。マクラも可笑しく、新鮮なネタと、内容の詰まった会でした。


2018年 10月 27日(土)午後 11時 23分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「フォーレ&ドビュッシー - 弦楽四重奏」と題して、京都市交響楽団のメンバー(ヴァイオリン:田村安祐美&中野志麻、ヴィオラ:小峰航一、チェロ:ドナルド・リッチャー)により、2つの弦楽四重奏曲が演奏されました。その2つとは、「C.ドビュッシー:弦楽四重奏曲 ト短調 Op.10 (1893)」「G.フォーレ:弦楽四重奏曲 ホ短調 Op.121 (1924)」でした。演奏順は作曲年代順。そして、黄紺的には、かなりフォーレに軍配を上げたい気分。ドビュッシーは、序盤、音質が揃わなくて、ちょっとドキドキ。その質感も悪く、立ち上がりに躓いたという印象。それが業を為したのでしょうか、ドビュッシーのちょっととろけるような音楽になったとは言えなかったような気がします。フランス的エスプリが足りないってやつです。それに対して、フォーレは、冒頭、小峰さんのソロで始まり、そして、そのヴィオラが全てを決めてくれたって感じがして、この曲特有の何層になってるかが判らないほど大きなうねりの音楽にひたることができました。今日は、朝早くから、台風21号で傷んだ自宅の屋根の補修に、業者の方が来られたため、二度寝ができず、かなり不調のまま、このコンサートに。2~3度、そのためか、首がかっくんとなり慌てました。瞬間的に落ちるという感じで、直前まで意識があるのにです。知らぬ内に臨界点に達しているということですね。ホント、体力がなくなりました。


2018年 10月 27日(土)午前 4時 14分

 昨日は、退院後初めて病院に行く日。既に、病院に紹介していただいた眼科医では、退院後、診察を受けていたのですが、病院の方は初めて。順調ということで、安心して帰宅。もう、2回目の手術も近づいてきています。帰宅後は、手術後初めて洗髪。やはり緊張します。そして、散髪に行くことに。髪が長いため、手術後、ヘアバンドをして、髪が目にかからないようにしていたため、これは、2回目の手術に備えてのもの。片目の保護メガネ(カッペ)をして行ったら、散髪屋の親父に大受け。普段、寡黙だった親父が、自分の父親の失敗談やら、おかしな友だちの奇行など、おもしろ話を聞かせてくれました。「変な格好してますが、、、」と言って入って行ったものですから、「わざわざ断らなくても、何かあったのは判ります」というのが始まりでした。親父のツボにはまったようでした。ま、そないなことが、目新しいこと。あっさりと、時間が経過してしまった1日でした。


2018年 10月 25日(木)午後 11時 59分

 今日も、兵庫県立芸術文化センターで音楽を聴く日。今夜は、「古楽の愉しみ」という肩書きの付いた「フライブルク・バロック・オーケストラ withキャロリン・サンプソン(ソプラノ)」というコンサートがありました。何度か、同ホールでの演奏会が持たれてきたアンサンブル。今回は、プログラムに、バッハのカンタータが入っているということで行ってみることにしました。そのプログラムは、次のようなものでした。「ヨハン・ベルンハルト・バッハ:管弦楽組曲 第2番 ト長調」「ヨハン・セバスチャン・バッハ:カンタータ“わが心は血にまみれ” BWV199 (※)」「ヨハン・セバスチャン・バッハ:オーボエとヴァイオリンのための協奏曲 BWV1060a」「ヨハン・セバスチャン・バッハ:結婚カンタータ“いまぞ去れ、悲しみの影よ“ BWV202(※)」。なお、(※)印は、キャロリン・サンプソンの歌唱が入るものです。前半はユニークな曲が2つ、それに対して、後半は、よく知られた曲が2つ並びました。まず、1つ目のバッハは、黄紺は聞いたことのないバッハ。調べてみると、大バッハははとこだとか。大バッハの作った同名の曲は、あまりにも有名な曲ですが、こちらは、当然のことながら初もの。そういったこともあったのでしょうか、また、管楽器が入らないからでしょうか、えらく地味な曲。というか、このオケ自体が、古楽器を使っているからでしょうね、地味の上塗りになったのですが、このオケのサウンドが、奈辺にあるかが判り、初っぱなに置くには格好の曲となりました。どこかに山が来るはずと思って聴いていたら、ずっと平野のまま終わってしまったってところでしょうか。2つ目の教会カンタータから、オーボエが入りました。この1つの楽器が入るだけで、かなり陽の要素が入った印象。かなりオケの色合いとはコントラストが強烈です。ヒースの荒野に建つ古民家の側に、熱帯性植物の花を置いたみたいと言ってもいいくらいの好対照。ソプラノのソロも入りましたが、オケに埋め込まれかのように地味。昨日聴いた「アイーダ」の歌手と比較するのは、あまり意味があるとは思えないのですが、やはりパワー不足は否めません。明るさ、華やかさのない、黄紺好みのカンタータでしたが、やはり、オケと言い、歌手と言い、会場が広すぎます。もっと狭い会場で、且つ、教会のように残響の多めのところで聴いて、初めてオケの、また歌手の真価が発揮できたのではないかな。有名なヴァイオリンとオーボエのコンチェルトも、独奏楽器2つのバランスが悪いのは、如何ともし難いところがありましたね。室内楽は、今日のような大ホールで聴くことを敬遠してきた黄紺ですが、音に満足できなくても、コストパフォーマンスを考えるのも、1つの考え方として、ちょっと考え方を修正しだした矢先に、やっぱきついか、古楽器のコンサートも、そのカテゴリーに入っちゃうなと、再修正を迫られるような印象を持ってしまったコンサートでした。


2018年 10月 25日(木)午前 7時 58分

 昨日は、兵庫県立芸術文化センターで、ヴェルディの歌劇「アイーダ」(演出:ジュリオ・チャバッティ、原演出:マウリツィオ・ディ・マッティア)を観る日。二期会や兵庫芸文センターなど、幾つかの地方の団体が共同で主催するプロダクション。時々、こういった公演を、この芸文センターで観ることができます。そのキャストなどは、次のようなものでした。指揮:アンドレア・バッティストーニ、装置デザイン:アンドレア・ミーリオ、衣裳デザイン:アンナ・ビアジョッティ、照明デザイン:パトリツィオ・マッジ、合唱指揮:佐藤宏、演出助手:菊池裕美子、舞台監督:菅原多敢弘。アイーダ:モニカ・ザネッティン、ラダメス:福井 敬、アムネリス:清水華澄、アモナズロ:上江隼人、ランフィス:妻屋秀和、国王:ジョン ハオ、巫女:針生美智子、伝令:菅野敦、合唱:二期会合唱団・ひょうごプロデュースオペラ合唱団、管弦楽:東京フィルハーモーニー交響楽団。舞台は、可動式の列柱が、左右対象で並び、それを、4幕ともに基本的な構造物とし、それに、祭壇、玉座、建物の入口部、観覧席、地下室などを、物語の進行に応じて加えていくというもので、極めてオーソドックスなもの。この公演は、何ヵ所かを回るということがあるのでしょう、そして、芸文センターのような舞台構造を想定してでしょう、装置は、全て車付きで、ゴロゴロと舞台上を移動させるものでした。衣裳も、古代エジプトの時代考証をしたものかは判らないのですが、いや、そうじゃないだろうとは思いますが、古代人らしいものを着用させていたと言えばいいでしょうか、違和感を感じずに観ることができる範囲内のものでした。ま、日本国内をツアーするプロダクションですから、仕方ないと、この辺は想定済みのこと。そういったスタイルだったもので、ラストの地下牢の場面だけが気になったのですが、なんてことはありませんでした。新たに、地下牢を想起させる装置を出しただけで、アモナリスも、舞台横から出てきて、地下牢の横で歌っていました。上下という位置関係で出すものと思っていたのは、こちらの、勝手な思い入れに過ぎませんでした。これは、今回も、福井から来ていた高校時代の友人も、同感だったようです。歌手陣は、日本のトップ歌手が並び、そこへ、アイーダ役にゲストを迎えた布陣。確かにパワーは、皆さん、十分過ぎるものを持っていたと思います。最後、拍手を一番受けていたのは、アムネリスの清水華澄。でも、黄紺たちには、評価はされませんでした。恋の三角アングルの一角としては、そこそこの歌い手さんだということは否定しませんが、王女なわけですから、アイーダとのデュエットで位負けをしていたらダメですね。福井から来た友人は、「気品が、、、」と言っておりました。一方のアイーダ。トップ中のトップというわけではありませんが、キャリアを眺めてみると、ゲストとしての価値のある歌手。ヴェローナの野外オペラで、アイーダを歌ってきた方です。黄紺は、このくらいは我慢と思っていたのですが、声の均質性に欠けるところがあり、友人は、「声がこもる」と厳しい声を吐いていました。男声では、福井敬、妻屋秀和という有名歌手を、初めて生で聴くことができました。福井さんの声は、ラダメスの声というか、イタリアものに、最後まで違和感を持ったままでした。一方の妻屋さん、やっぱ、この方、今や絶滅品種になりかけている本格的バスの貴重なお手本の声をされています。ワイマールのプロダクションでDVD化されている「指環」で聴いたお声は本物でした。こういった歌手陣よりは、インパクトが強かったのは、アンドレア・バッティストーニの指揮と、それに導かれた東京フィル。実は、このコンビが、この公演の最大の目玉と思い、この公演に臨んだ黄紺だったのですが、正に、その黄紺の期待に応えてくれました。溌剌とした、そして、何よりもオペラを楽しませてくれる、ツボを見事に心得た指揮&演奏でした。友人も、「よく鳴らすし、よく鳴ってる」と、満足だったようです。平日、しかも、週半ばの夜公演。2回の休憩を取ったものですから、終演は午後10時。まるで、ドイツで、オペラを観ているみたい。なのに、完売、満席。それなりのネームバリューのある人たちを集めた公演ならば、こういった時間設定が可能だということを示したのではないかな。自宅に着くと、ちょうど日が変わろうかという時間でしたが、こんなのが、年に何度かあると、実に楽しいのですがね。


2018年 10月 24日(水)午前 6時 15分

 昨日は、ツギハギ荘で落語を聴く日。ホントに久しぶりに、「第50回たけくらべの会」に行ってまいりました。笑福亭の若手の噺家さんの会。昨日は、繁昌亭で染吉の会もあったのですが、こちらの彩り豊かな番組にそそられてしまいました。その番組は、次のようなものでした。喬介「高宮川天狗酒盛」、松五「厩火事」、(中入り)、呂好「二階借り」、生寿「本能寺」。「高宮川」は、「東の旅」の1つですが、持ちネタにする噺家さんは、非常に少ないという代物。あとで出た松五が、「このネタをする人が少ないのが判りましたね」、そうなんです、汚いのです。喬介は、喜ぃ公を、思いっきりアブナく描いていました。普段は、アブナく描かれると、引いてしまう黄紺なのですが、喬介の口演を聴いていると、喬介自身が、また、登場人物自体が遊んでる感じがして、長閑な印象。「七度狐」で、喬介は、いつまでもべちょたれ雑炊を食べる喜ぃ公を出しますが、その雰囲気と似たものを感じてしまいました。松五の「厩火事」も、松五でなければ、流行りだなぁくらいにしか思わないほど、今、上方では、噺家さんに人気のあるネタになってますが、松五が手掛けると、意外性抜群になります。それほど、松五の人に合いそうには思えませんでした。松五のキャラかそうさせるのでしょうね。ちょっとした細やかなカップルの情愛を描く噺など、そう思ってしまいます。ただ、松五は、どんなネタも、派手さはないですが、まとめるのが上手いですから、らしくはなります。でも、それ以上の個性となると、こういった噺になると、ちょっと厳しいかも。呂好の「二階借り」は、「茶漬間男」という名でも出されることが増え、今や、噺家さんには大人気作品。「呂好よ、あなたもか」ということを、自身の会でネタ下ろしをしたときに、そないなことを書いた記憶が残っています。そして、トリは、生寿の「本能寺」。ネタ下ろしのときは聴けてないので、ようやく遭遇できたことになります。米左からもらったそうです。そう言えば、随分と以前になりますが、米左の口演でも、「本能寺」は聴いています。生寿の口演は、やっぱ、まだまだ麓から登り始めたところという感じがしてしまいました。芝居噺の中でも、ちょっとした小さめのくすぐりを放り込みながら、芝居のダイジェスト版を流すもの。いかにも難しそうな風情。生寿にしては珍しく、軽い詰まりが出たりしていました。そういった意味でも、まだこなすのに懸命といった風情。そういった噺へのチャレンジ、生寿ならではです。時間をかけて、そして、かける場を探して、上昇していって欲しいものです。「本能寺」なんてネタに手を着けようなんて噺家さんなんて、ざらにはいないのですから。


2018年 10月 22日(月)午後 11時 24分

 今日は、久しぶりに大阪に向かいました。千日亭で、月例の「第255回旭堂南海の何回続く会?~太閤記~」があったからです。今日は、「太閤記・信長畿内制圧 より『安土城築城競争』~秀吉と光秀の知恵比べ~」と題した読み物を聴くことができました。信長が、まだ岐阜城に居を構えていたときの物語。但し、「太閤記」の中でも、後に付け加えられた物語との解説が、冒頭、南海さんからお話がありました。発端は、黒田官兵衞が、長浜にいる秀吉を、岐阜に向かう途上、表敬訪問をした折り、軍師竹中半兵衞と交わした会話となってました。2人は、揃って安土の地理的位置を推し、秀吉の関心を買い、更に信長に伝わっていくという流れで、安土に築城が決まっていきます。その築城の図面を引いたのが光秀。秀吉は、光秀への対抗の気持ちから、根拠がないにも拘わらず、欠点があると言い放ち、あとで理屈合わせに奔走するというところが、話の本筋だったような気がします。「ような」というは、肝心要のところで居眠りをしてしまったのです。お出かけをしない日などを作り出したために、生活のリズムが変わってしまい、開演前からアブナイと思っていたのが、当たってしまいました。気がつくと、秀吉は、光秀に図面製作を指南した人物を探しだし、光秀の描いた図面に欠けているところを、一夜漬けで教えてもらっている、ラスト前でした。後の秀吉と光秀の対立の伏線となる物語のようです。南海さんは、珍しい読み物と言われていましたが、この物語、黄紺的には初めてではないですね。どこで、どなたで聴いたのでしょうか? ま、南海さんの口演なのかなぁとは思うのですが、、、。でも、久しぶりの大阪にしては、これではダメですね。


2018年 10月 22日(月)午前 2時 31分

 昨日は、特段、どこへも行かなかった日。お出かけは、午前と午後の1回ずつのウォーキングだけ。こういった日も作っていこう、そないな考えが芽生えてきたのです。何かする、そのためには、どこかへ行くという日々を、生活の基礎としてきた、ここ数年を改めて、何もしない、ウォーキング以外は何もしない日を作り、それに、自分を慣らしていこうという試みです。一気に、こういった日を増やすと、体に悪いと思い、少しずつ増やそうという、ま、生活の仕方の方針転換を企てています。今、いい季節だから、こうした方針転換には合ってます。いい季節だからでしょうか、近くの神社に行くと、地域フェスタが開かれていました。一方、近くの陵に行くと、台風21号による倒木が、そのまま放置されたままに、びっくり。立入禁止の札が、まだ掛かったままに、唖然。宮内庁も、まず、ここからお金使ってよと言いたくなりました。近所の人たちの大事なウォーキングのコースなんだからね。そないなことに突っ込みを入れる程度の、長閑な1日でした。


2018年 10月 20日(土)午後 7時 51分

 今日は、京都市主催の「伏見連続講座」を聴きに行く日。「明治150年」を記念しての連続講座が開かれています。黄紺的には初めて行く講座。弟と並んで聴くことになりました。今日は、「秀吉 聚楽第から伏見へ~秀吉と城下町大名屋敷~」と題して、林寛治さんのお話を聴くことができました。お話は、本能寺の変から始まり、正に、秀吉が天下人となる最終段階の様子を、年代記的にお話が進みました。おかげで、この辺りの詳細に疎い黄紺には、いいお勉強になりました。正に、この時代というのは、「伏見が日本の首都」であった時代ですから、伏見城周辺には、大名屋敷の名残と考えられる町名が、随所に残っていることは、伏見区民としては、周知の事実なわけですから、地元の利というやつで、知らなかった知識が、どんどんと染み渡っていきました。伏見城の前身となる指月城や、小椋池を貫く太閤堤の話題に話が及ぶと、隣にいた弟が「ブラタモリでやってたな」の呟き。あれ? 指月城関係は覚えていたのですが、太閤堤というのは、淀川の堤しか知らない黄紺は、????。「間違いない」と弟が言うものですから、「ブラタモリ」の動画埋め込みサイトでチェック。確かにありました。近江ちゃんが、屋根に上がっている「小さなおじさん」に心捕らわれた、あのシーンが、その「太閤堤」探しのところでした。「土木デベロッパー」と、秀吉を称したのはタモリでしたが、もう正真正銘の土建屋の大将です、秀吉は、納得しました。秀吉の基礎を教えていただいたこの講座。ありがたい限りです。今後も狙ってみようの気に、はやなっております。今日は、これだけ。あとは、ウォーキングで体をほぐした以外は、自宅でぶらぶら。たまには、こういった日もいいでしょう。


2018年 10月 20日(土)午前 5時 24分

 3泊4日の入院が終わり、昨日の午前中に帰宅。2日目が手術日だったため、この日はバタバタしましたが、あとはのんびり。時間を、すっかり持て余してしまいました。2週間後に、全く同じスケジュールが組まれています。今回は、手術中に、ちょっと異変が起こりかけたのですが、最終的には順当に推移。次回も、そうなることを願うとしましょう。帰宅後は、入院の後始末。そして、夜は、かつての職場の同僚と飲み会。この飲み会を設定してから入院をしたのですが、お酒は控えるようにの指示書が回ってきて、一時は愕然としていたのですが、退院前の診察時に、担当医に尋ねると、酩酊しないなら良しとの回答。もとより、酩酊するほど飲む勢いもありませんから、元気に飲み会に出発。場所は、京阪沿線のお気に入りのベトナム料理屋さん。心置きなく旧交を温めることができました。でも、どうしても、歳相応の話題が中心をなしてしまうというのが、悲しい現実です。


2018年 10月 15日(月)午後 11時 42分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「幻想曲」 と題して、松本和将さんのピアノの演奏会がありました。そのプログラムは、次のようなものでした。「W.A.モーツァルト:幻想曲 ハ短調 K.475」「W.A.モーツァルト:ピアノソナタ 第14番 ハ短調 K.457」「R.シューマン:幻想曲 ハ長調 作品17」。モーツァルトとシューマン、カフェモンタージュでは、あまりない組み合わせかもしれません。今まで、松本さんは、奥さんの上里さんとのデュオで、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタの演奏会を持たれてきたので、そのモーツァルト演奏にはなじみがあることはあるのですが、決して黄紺の満足するものではなかったということもあり、必然的にシューマンに期待。カフェモンタージュで、松本さんがシューマンを演奏されるのは、初めてかもしれません。そのための大きな期待と言えばいいでしょうか。そして、そういった予感通りになったかなというのが、事後の感想ですから、やはり、黄紺的には、圧倒的にシューマンに軍配。大きく大きくというスタイルが功を奏し、また、その強靭なタッチは、音楽にアクセントを、堅い芯を作り出してたようで、大変気に入っちゃいました。一方、モーツァルトも、そういったスタイルが見えてくるものですから、今回もなじめないままでした。来月は、ブラームスのピアノ五重奏を、上里さんや漆原さんらと聴かせてもらえるそうです。シューマンからして、どうしても、期待が高まってしまいます。
 ところで、明日からプチ入院です。他の病院なら、日帰りか1泊2日で行う手術なのですが、黄紺のお世話になる病院は3泊4日。初めて聞いたときは、目が点になりました。その目の手術です。両目を、2回に分けてしますから、2週間後に、もう1回入院。すっきりした目で、冬のオペラ紀行に出かける思惑の黄紺です。


2018年 10月 14日(日)午後 8時 27分

 今日は、兵庫県立芸術文化センター(小)で、室内楽を聴く日。マチネーで「ルートヴィヒ・チェンバー・プレイヤーズ・シュトゥットガルト」のコンサートがありました。以前、大阪のフェニックスホールで、このユニットのコンサートは聴いたことがありますので、2度目となります。そのときは、ヴァイオリンの白井圭の名前に惹かれて行ったのですが、そのときのコンサートで、横坂源のチェロの素晴らしさに触れ、今回は狙いが変わってしまいました。このユニットは、そういった日本のトッププレーヤーとシュトゥットガルト放送交響楽団の団員とのコラボでできたものですが、そのプログラムは、次のようなものでした。「モーツァルト:交響曲第1番 変ホ長調 K.16」「モーツァルト:コンサート・アリア“この麗しい御手と瞳のために“K.612(タルクマン編)」「モーツァルト:ロンド変ホ長調 K.371(ウッキ編)」「モーツァルト:コンサート・アリア“やさしい春がもうほほ笑んで“ K.580(ウッキ編)」「モーツァルト:ロンド ハ長調 K.373(ウッキ編)」「シューベルト:八重奏曲 ヘ長調 D803」。前半は、正にモーツァルト・マニアには垂涎のもの。交響曲1番は、1番というだけで、耳にする機会のある作品なもので、判る曲に入れても、あとは、遭遇する機会は、限りなくゼロに近いかもしれません。だいたい、コンサートアリアなんて代物が、実際のコンサートで取り上げられること自体が珍しいですからね。今日は、歌手がいませんから、このアンサンブルの中の楽器が替わりとなっての演奏ですから、こうなっては、今日の演奏スタイルは、二度とお目にかかれないことは、間違いありません。K.612はファゴットが、K.580はバセットクラリネットが、その任に当たりました。編曲も巧みだった上に、演奏が素敵なこともあり、この2曲が、今日一番の聴きものだったと、黄紺的には思っています。K.612の方は、なんとコントラバスのオブリガード付き。K.580を、クラリネットが代用に当たったのは、とっても賢明な策。モーツァルトが書いたわけではありませんが、モーツァルトの曲って、クラリネットが吹くと、いいですね。合ってるんですね。K.371は、ホルン協奏曲の断片。CDなんかで、モーツァルトのホルン協奏曲全集なんてのには、添えられることは結構あるようですが、それだけを取り上げて、コンサートで演奏されることって、まぁないんじゃないかなぁ。K.373も同様でしょう。こうして振り返ってみると、管楽器にコントラバス、ヴァイオリンという独奏を担当した楽器は、このアンサンブルに含まれているということでの曲のピックアップ、編曲ということになります。おかげで、マニア的プログラムになったようで、聴き手としては、稀有の機会を与えられたことになり、もうテンションが上がりっぱなしでした。それに対し、後半のシューベルト。このアンサンブルは、この曲を想定しての編成となっています。確かに、1本の糸で繋ぎ合ってかのような、素敵なアンサンブル。ところが、この曲、長い、長過ぎる。演奏時間は1時間でした。2楽章だったかな、ヴァリエーション形式だったら、変化を楽しむことができるのですが、そうでないと、今日は、忍耐力との勝負になってきました。すると、より精緻な演奏をされればされるほど、長過ぎることに涌き出る居心地の悪さを感じてしまった我が儘な黄紺です。今回のプログラムで、結局目立たなかったのが、第2ヴァイオリンとヴィオラ、それにチェロ。ですから、狙いの横坂源は、ホント、目立ちませんでした。これは、悲しかったなぁ。一喜一憂ってやつですね。


2018年 10月 14日(日)午前 0時 32分

 今日は、シネヌーヴォでベトナム映画を観る日。先月はインド映画特集、そして、今月はベトナム映画特集と、刺激的なラインナップが続きます。今回は、既に予定が詰まってから、この特集を知ったため、ベトナム映画を観ることができるのは今宵だけ。今日観たのは「仕立て屋 サイゴンを生きる」。これが、ベトナム映画のイメージを破る、なかなか新鮮な映画。まず素材からして目新しい。多くの舞台が、現代のファッション業界。大都会の華やかさ、なかでもファッション業界とは、もう、これだけで、自分の中のベトナム映画イメージが崩れてしまいました。ただ、捻りがあり、主人公ニュイは、1969年から2017年へとタイムスリップしてきたという設定。そう言えば、先日も、インド映画でタイムスリップものを観たところ。ところが、こちらの方は、時空間の移動により生じる矛盾などを問題にする映画ではなく、時空を超えて、未来の自分に出会い、そして、今の自分が成長していくという、筋立ては、いたって単純。伝統的なアオザイ職人の家に生まれたニュイは、母親に反抗して、現代ファッションのデザイナーになりたくて仕方ない。家業の技を継いで欲しい母親と衝突ばかりをしているある日、突然タイムスリップをして、初老の婆さんになっている自分と会うことに。でも、長く続いた伝統的な家は廃屋のよう。結局は、自分がアオザイの技を継承せず、新しいファッションの店を出したがダメだった結果が、惨憺たる状態を生んで行くことを知ります。未来の自分は、それでも維持をはり、母親の伝統の技を継いでくれ、その娘は、現代のファッション業界の花形になっている女性に助けを求めることはなく、酒浸りの日を送っているのでした。当の花形の女性の様子を見に行き、結果的に、そこで働くことになったニュイですが、60年代のファッションに通じているということで、認められては行くのですが、逆に反感も浴び、自分のできないアオザイのニューファッションのデザインをせよということで、さぁ大変。その辺りから終息に向かって行きます。お約束の大団円に向かって行くのが、実に心地よい映画。屈託なく、明るく、活気があり、しかも、娯楽性に富んだ作りに、観る者を圧倒する力を感じてしまいました。カメラワークもユニークだし、映像処理も楽しませてくれました。1969年を扱って、戦争の陰一つを感じさせない映画に、びっくりするしかありませんでした。


2018年 10月 13日(土)午前 5時 38分

 昨日は講談を聴く日。今週は、これで、講談会は2回目となりました。昨夜は、千日亭であった「南湖の会~赤穂義士銘々伝特集~」に行ってまいりました。ワッハが閉じたあと、動楽亭で続いてきた会がお引っ越しです。今夜の番組は、次のようなものでした。「赤穂義士銘々伝/岡野金右衞門」「柳生旅日記/二階傘の由来」「赤穂義士銘々伝/神崎の詫び状文」「三方ヶ原軍記」。昨日は「赤穂義士伝」より2つの抜き読みがありました。神崎与五郎ものは有名なもの。南湖さんは、入門前、感銘を受けた話だったと言われていたこともあり、わりと南湖さんの口演で聴く機会の多いネタ。討ち入りを前に江戸に下る神崎。その神崎に絡んできた土地の与太者。腹を立てた神崎は、刀を抜きかかるのだが、大事を前に問題を起こすことはできないと踏みとどまり、逆に詫び状を書き謝るという話が前段。後段は、詫び状を書いた侍が赤穂義士だったことを知った与太者が改心をして義士の墓守りとなっていく話。黄紺的には、ちょっと単純な筋立て過ぎるので、あまり好きにはなれないものです。南湖さんは、どの辺りが気に入ったのでしょうか。「岡野金右衞門」も、そこそこ出る方のネタじゃないかな。吉良邸の様子を知りたい義士の面々。金右衞門に気のある女の父親が、吉良邸の茶室普請のために絵図面を持っていることを知り、金右衞門を女に近づけさせ、それを得ようとします。まんまと得ることはでき、また、2人の間も、真剣に結婚を考えるにまで発展はしていくのだけれど、討ち入りに金右衞門が加わっていたことを知った女は自害を選ぶという、なかなかシビアな筋立て。最後は、大石がフォローをして、悲劇の様を和らげるようにはなっていますが、ちょっと後味の悪さが残ります。この「赤穂義士伝」に加えて、思いがけないネタが登場しました。まずもって「柳生旅日記」というネタを、南湖さんが持っていたこと自体を知りませんでした。柳生家3兄弟の3男坊の物語です。上2人が、病気などで亡くなったため、思いがけず、後取りにならねばならなくなった3男坊。腕を極めるため廻国の旅に。そして戻ってくるところに、ちょっとしたドラマが用意されているというもの。前後がありそうな感じがするにはするのですが、どうなんでしょうか。そして、最後は、最近の常になっている「三方ヶ原軍記」の抜き読み。「読んでるときに帰って行って下さい」と言われるのですが、それはできないですね。


2018年 10月 11日(木)午後 11時 55分

 今日は、当初、シネヌーヴォでベトナム映画を観るつもりをしていたのですが、所用ができ、映画の時間に間に合わなくなり、もう1つの候補に上げていた落語会に行くことにしました。動楽亭であった「生喬十八種好~其ノ参」です。「生喬百席」が終わったあと、そのセレクト版と言える落語会が続いているのですが、黄紺的には、模様替え後初めておじゃまをすることになりました。その番組は、次のようなものでした。生喬「前説」、弥っこ「いらちの愛宕参り」、生喬「怪談猫魔寺」 、(中入り)、生喬「雑穀八」。いつもでしたら、ゲストは中入り前に出番があるのですが、今日のゲストの弥っこは、さすがに年季を考えると、そういった出番を与えにくかったのでしょう。中入りを挟んで、生喬の出番が組まれ、おまけに「前説」が用意されていました。この「前説」やマクラで話されたのは、熊取のだんじり祭のこと、恒例となっているミュージカル出演のこと、横浜にぎわい座での花詩家タカラヅカ公演のことでした。弥っこの「いらちの愛宕参り」は初遭遇。また、自分に合ったいいネタをチョイスしたものです。いらち男は、とっても長閑で愛されるべき男、かなり抜けてるけど、愛される男、この愛される男キャラに、弥っこキャラはぴったり感があるものですから、いいネタ選んだとなるわけです。紅雀や雀太は、ちょっとアブナイ系に持っていき、笑いを作り出していきますが、弥っこは、そうじゃなく人の良さが際立つ口演なのです。ヒットです。「猫魔寺」は、この噺の本家市楼からもらったもの。生喬でも、何度か聴いているのですが、軽い、怖い、おもろいから、噺を、随分と重くした上で、怖い、おもろい噺にしてきているように思います。怪談噺を聴く、また話す村人たちの、キャラ分けをクリアにしたことで、そういったことが、より進化したのだと思います。噺自体に、厚みが加わったように感じました。「雑穀八」は、今や生喬でしか聴いてないように思います。そして、今日も思いました。持ちネタにしょうかという人は、そう簡単には出てこないだろうと。生喬も言ってましたが、前半と後半では違う噺のようです。また、大きな決意を持ってした結婚のわりには、後半の展開が安っぽいのです。それを、生喬は「落語っぽい」と言ってましたが、そういった感性を持てるからこそ、この噺を持てるのでしょうね。口演を終わったあと、このネタの解説らしきことをしてくれたのですが、師匠の先代松喬からもらったネタだそうで、下げは、師匠とディスカッションをして変えたと言ってました。夫婦喧嘩になり、側にいた魚屋が「天秤にかけることはできない」でしたか、そういった下げにしていました。ただ、夫婦の言い合いになった後があるそうで、これは、黄紺も知らなかったのですが、精進料理を使うか否かの対立がエスカレートしていくそうで、内容的に継続性があり、且つ3分程度なんで、「やってもいい」と言ってましたから、どこぞで聴けるかもしれません。だけど、黄紺的には好きにはなれない噺ですね。来年からは、模様替えして、会をリスタートさせるそうで、その内容も告知してくれました。新たな趣向を込めた会のようですので、また、新たな楽しみができました。


2018年 10月 11日(木)午前 5時 56分

 昨日は講談を聴く日。四天王寺前夕陽ヶ丘駅前近くにある光照寺であった「第6回 光照寺講談会~なみはや講談協会」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。鱗林「角屋船の由来」、南湖「江島屋騒動」、南華「山岡覚兵衞の妻」、南鱗「秀吉と易者」。昨日は、なじみのある番組となりました。定例の会は、どうしても、そういった傾向にあるのかな。「角屋船の由来」は、鱗林さんでは初めてですが、みっともない家康を描いているということで、旭堂では定番のネタと言ってもいいでしょう。鱗林さんは、光秀に追われた家康と言われていましたが、冬の陣のときの物語だったはずと思ったのは、黄紺の思い違い? 山の中を逃げ回る物語は割愛され、干鰯を積んだ船に身を隠し難を逃れる核心部分が読まれました。「江島屋騒動」は、僅かしかない旭堂の怪談ネタの1つ。南湖さんでは、数ヵ月前に聴いているのですが、後半は居眠りをした記憶が残っているという代物。南湖さんは、マクラで、安物の噺家がするようなダジャレ怪談小咄3題をしてから、ネタへ。婚礼衣装に如何物を掴まされ、その結果、結婚式で大恥をかかされた花嫁は、婚家から追い出され自害してしまう。それを恨んだ花嫁の母親の怨念が、如何物を売った江島屋に取り憑くというもの。途中から客電を落としての口演。なかなか迫力があります。南華さんは、夏ものから、一挙に冬ものとなる「赤穂義士伝」へ。「山岡覚兵衞の妻」は外伝の1つで、自身でも言われていましたが、他には持ちネタにされている講釈師さんはおられないはずのネタです。討ち入りの血判を押した山岡覚兵衞は、志半ばで突然死をとげます。妻は、山岡が身に付けていたものから、夫が討ち入りに加わるつもりだったことを知り、大石のもとを訪れ、討ち入りへの参加を求め、自害覚悟と看た大石から任務を与えられ、吉良の側女となり、吉良邸のレイアウトを調べるとなります。よくできた話ですが、任務が任務だけに、いつも、このネタの後味が悪くていけません。「秀吉と易者」も、「太閤記」の中の代表的なもの。若輩の身の2人が、お互いの顔の相を見て、仰天の将来を看て取り、将来、会う約束を交わし別れるが、秀吉の中国攻め、本能寺の変を経て、毛利との和睦というところで、再会が実現するという、なかなかスケールの大きな話です。輪島が亡くなったので、昨日は、そのお話を聴けるかもと思っていたのですが、残念ながら、マクラは、旭堂の流れについてのもの。これはこれでおもしろかったのですが、、、。


2018年 10月 10日(水)午前 6時 40分

 昨日は、午前中に一騒動。ウォーキングの途中に、スマホが無くなっているのに気がついたからです。1週間余り前にも、似たことがあったのですが、そのときは、持って出てないにも拘わらず無くしたと思いこんでしまったのですが、昨日はそうではありません。持って出たことは記憶に残っていたため慌てました。見ず知らずの人も探してくれたりしたのですが、ダメ。念のために家にも戻ってみたのですが、こちらもダメ。もう警察に行こうと腹を括りながら、自分が歩いたところで、まだ探しに歩いてない川沿いの土手に向かいました。すると、1人のおじさんが、突っ立ちながらスマホをいじっている。通りすがりにスマホを見ると、黄紺のものに似ている。通り過ぎ、しばらく歩いて振り返っても、件のおじさん、突っ立ったままスマホをいじっている。黄紺のスマホに似ているということもあったのでしょう、その姿が、スマホを拾い、持ち主探しをされているとも見えたもので、意を決して、「すみませんが、、、」と声を掛けると、一切を悟っていただけました。電話の履歴を使い、電話もしていただいていたようでした。落としたらここと思ったところで、探していただいた方、そして、最後のおじさん、いい人に助けていただき、スマホは無傷で戻ってまいりました。これで、すっかり疲れはて、お出かけまでにやっておきたかったこと、全てがぶっ飛んでしまいました。
 で、昨日は、久しぶりに落語会に行く日。そそられる会が複数あり、考えあぐねた結果、ツギハギ荘に行くことにしました。高津は、最後と言っても、?が点ったままなので、迷ったときは、木戸銭や会場の位置などという、落語会のクォリティ以外のところで判断することにしている黄紺です。昨夜のツギハギ荘では、喬介のツギハギ荘落語会」がありました。その番組は、次のようなものでした。「つる」「池田の猪飼い」「太鼓腹」。この3番では、「つる」を断絶推します。喬介らしい、いちびるアホが可愛くて、こんな人が近くにいると、世間って明るくなるだろうと思わせてくれます。て言うか、喬介の路線というのは、そういった人物が、手を変え品を変え現れてくるところの楽しさだったのですが、ネタ下ろしだった「猪飼い」や、随分と喬介の口演で聴いているはずの「太鼓腹」のテイストは、そういった感じではなかったのです。ひょっとしたら、今回のお試しどころというのが、その辺だったのじゃないかな。今まで以上にアホをデフォルメさせてやろう、その場合の客席の反応を見たかったのではないかなと思わせるものがありました。結果はどうだったのでしょうか、客席が感じたことではなく、演じ手自身の感想を聴いてみたい気がします。中入りを挟み、1人で3席喋ったあとは、余興で行った仙台のついでに足を伸ばした松島&中尊寺のお土産を景品に、抽選会が付きました。最近、抽選で当たったことのなかったのですが、昨日は、珍しく、幸先よく景品をいただくことができました。


2018年 10月 8日(月)午後 7時 20分

 今日は浪曲を聴く日。ちょっと行けてなかった「第292回一心寺門前浪曲寄席 10月公演」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。天中軒涼月(虹友美)「若き日の小村寿太郎」、真山誠太郎(真山裕子)「片割れ月」、春野美恵子(藤初雪)「南部坂」、松浦四郎若(藤初雪)「秀吉の報恩旅行」。わりかし聴き慣れたネタが並びました。ま、 浪曲はネタが少ないので、仕方ありません。今月のあと2日の番組を見ても、今日が一番だったかなというものでした。そして、今月の出番表を見て、2つのびっくりがありました。このメンバーなら、四郎若師が、3日ともにトリかもと思っていたのですが、日曜日は、なんと涼月さんがトリでした。誠太郎さんや美恵子さんではなくてです。一番キャリアのない涼月さんでしたので、これには驚かされました。2つ目のびっくりは、曲師の主力が初雪さんになっていたことです。現在、親友協会には、4人の曲師さんがおられます。虹友美さんは、浪曲だけではないので、中心に据えにくいのかな。やはり、まだ、技量的には、初雪さんはしんどい。音も物足りないですからね。3連休に、この寄席が開催となると、恵子さん付きの初月さんが出るのは厳しいですし、さくらさんの仕事が入っちゃうと、こういったことになりますから、初雪さんを育てなければならないでしょうが、やはり技量が気になります。「若き日の小村寿太郎」は、「徂徠豆腐」に筋立ては同じ。不遇な「偉人」が、庶民に食事の支援を受け、再び世に出たときに、その礼をするというもの。なぜ、小村寿太郎なんでしょうかね。講談や浪曲には、「偉人」として、乃木希典が、よく出てきます。将軍として知られた「偉人」としての乃木は解るのですが、小村って、そんなに人気のある政治家なんでしょうか。日本史に疎いものですから、そんなに思ってしまうのでしょうか。小村が政界に復帰するきっかけを、「明治20年の朝鮮での重大事件」と入ったので調べたのですが、何を指すのか判りませんでした。「片割れ月」は初ものかと思ったのですが、違いました。マクラでキリシタンものと言われて、初ものではないと悟ったのですが、筋立ては全く覚えていませんでした。ということは、居眠りしてたのでしょうね。コンパクトにまとめねばならないでしょうから、多少の無理筋は承知のうえということを考慮すると、上手い運び。正体不明の侍の墓参り、そのあとに現れた寺男は、倅をある侍に惨殺されたことがある、件の侍の紋から仇と判りあとを追う寺男、追い付いた寺男に語られた真実は無惨な妹と主君の最期、寺男も元は同じ主君に仕えていた身であったため倅の罪&惨殺のわけを知り慟哭。侍が、キリシタン取り締まりの元役人で、その妹が主君の妻でキリシタンというのは、出来すぎた設定とは言え、短い時間帯にまとめることを考えると許しましょう。お話が複線で設定されているのが、謎を生み、引き付ける力を発揮するのでしょうね。やっぱ、浪曲には、テキストが大事と思い知らされた作品です。美恵子さんは、戦列復帰後、黄紺は、その元気なお声を聴けるのが、今日の最大の楽しみにしていたこと。他の催しも考えたのですが、実は決定打が美恵子さんでした。「師匠のネタをやらせていただきます」と、簡単に言って名作「南部坂」へ。「赤穂義士伝」の中でも屈指の名作。春野では、瑤泉院は、怒ってしまって、内蔵助に会うことすらしません。後半は、寺坂ではなく、大石信清の語る討ち入りの様子という構成。美恵子さんの口演は、百合子師にそっくり。真似すぎという突っ込みも可能でしょうが、一門の他の人で、誰が百合子師テイストいっぱいの口演ってできます?と返したくなります。ですから、これも個性と看ました。「秀吉の報恩旅行」は、前回、四郎若師の口演を聴いたときもこれだったと言っても始まりません。秀吉が、小田原攻めの戻り際、故郷に立ち寄る物語です。前半で最初の妻、後半では産婆さんに会います。ちょっと滑稽味のある浪曲。四郎若師、ますますお元気です。


2018年 10月 7日(日)午後 8時 12分

 今日も、びわ湖ホールで音楽を聴く日。今日は室内楽で、フォーレ四重奏団のコンサートに行ってまいりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「フォーレ:ピアノ四重奏曲第1番 ハ短調 op.15」「シューマン:ピアノ四重奏曲 変ホ長調 op.47」「ムソルグスキー:組曲“展覧会の絵“(ピアノ四重奏版)」。この珍しい組み合わせのユニットを、今まで聴いたこともなく、噂にいいと聴いただけで行ってみました。ピアノ四重奏の常設のユニットって、レア過ぎるというのが後押ししたことは間違いありません。皆さん、ドイツのカールスルーエの大学卒(カールスルーエには音大がある)なのに、フランスの音楽家の名をユニット名にしている、こないなところにも、興味をそそられたかな。おまけに、チケットは完売。実際に聴いてみて、噂も正しいわ、完売も正しいわで、全てに納得。1本の糸で結ばれたかのような完璧なアンサンブルに、もうびっくり。フォーレも、曲想の違うシューマンも、そして、現代音楽風アレンジの入る「展覧会の絵」も、全くぶれることのない完璧なアンサンブルでした。おまけに、アンコールでは、タンゴやポップス系の音楽も、そのアンサンブルでやっちゃうのですから、すごいものでした。昨日も、「魔笛」で書いたサウンドという観点でいくと、フォーレの音の拡がりと、シューマンの持つ剛の部分を比較すると、フォーレに軍配かな。「展覧会の絵」は、彼らの先生がピアノ三重奏にアレンジしたものを基に、このユニットのピアノ奏者が、四重奏用にアレンジしたものとか。正直言って、これの替わりに、もう一つのフォーレか、ブラームスを聴かせて欲しかったですね。


2018年 10月 7日(日)午前 3時 19分

 昨日は、びわ湖ホールでオペラを観る日。「沼尻竜典オペラセレクション」として行われた「魔笛」(佐藤美晴演出)を観てまいりました。主たるキャストは次のようなものでした。(ザラストロ)伊藤貴之、(タミーノ)山本康寛、(弁者&僧侶)山下浩司、(僧侶)清水徹太郎、(夜の女王)角田祐子、(パミーナ)砂川涼子、(侍女Ⅰ)田崎尚美、(侍女Ⅱ)澤村翔子、(侍女Ⅲ)金子美香、(童子Ⅰ)盛田麻央、(童子Ⅱ)守谷由香、(童子Ⅲ)森季子、(パパゲーナ)今野沙知恵、(パパゲーノ)青山貴、(モノスタトス)小堀勇介。それに加えて、C.ヴィレッジシンガーズのコーラスに、沼尻竜典指揮の日本センチュリー交響楽団がオケピットに入りました。「魔笛」は、ドイツに行けば、いつでも観ることができるので、わざわざ行かなくてもの気持ちがあったのですが、黄紺的に目玉と考えたのが、佐藤美晴演出という点。評価の高い若い演出家ということで、そのお手並みを観たくてということでした。当初、目玉かと考えていた夜の女王の角田祐子は、シュトゥットガルトで同じ役を歌ったのを聴いて、かなり肩すかしを食らったため、黄紺的目玉からは外れてしまってました。狙いが演出だったのですが、開演前に見たプログラムで、早々に失望。装置の写真を見たときでした。実際、幕が上がり、その装置の使い方が判り、舞台転換には、その有用性は発揮するだろうけれど、ただ、それだけとしか思えませてでした。最初は、単なる壁と見えていた壁、それが装置だったのですが、実際は、その壁が、真ん中で2つに分かれており、それぞれが回転舞台になっていました。ですから、2つの回転舞台があり、1つ1つが、3等分されており、その組み合わせで壁を作り、また、その壁を合わせないでずらせることで、異なった感じの壁となるというもの。そういった壁の操作、中幕の使用で、場面転換を図っていました。確かに、簡素な舞台で、スムーズな進行に寄与していたとは思いますが、それだけとしか考えられず、むしろ、この公演は、びわ湖オリジナルなものではなく、発信は日生劇場であり、更に地方公演もありというものですから、そないなことに腐心した装置としか、黄紺には思えませんでした。ましてや、人の動きについても、才ばしったものを感じることはできなかったなか、ちょっとした工夫をメモっておきます。冒頭、序曲と並行して、幕前で行われたいたのは、パソコンをいじりながらくつろぐ姿。それが、誰なのか、黄紺には判りませんでした。そういった現代生活を描くのかと期待はしたのですが、その欠片らしいものを観ることは、他では確認できませんでした。幕が上がり、タミーノが怪物に襲われているのですが、照明が落とされたなか、コーラスの人たちが、タミーノを取り囲むという姿でした。ザラストロの神殿の警備に当たったりする役柄の人たち、モノスタートスも、掃除夫さんという衣装。ザラストロや、神殿に集う神官の衣装は、神官を思わせるものではなく、特に何かを想起させるものではないものにしていました。歌手的には粒揃いと言えば、聞こえはいいでしょうが、特段目立ったという印象を受けた人と言えば、モノスタートスを歌った期待の小堀勇介。山本康寛のタミーノが具合が悪かったわけではなかったのですが、期待度が高い分、この人のタミーノを聴いてみたかったのは事実でした。芝居もできますしね。角田祐子は、シュトゥットガルトで聴いたよりは、かなりいい出来。やはり、こないな歌唱を聴くと、日による好不調の幅というものは大きいものがあると思わざるをえないものがあります。この公演で、一に推したいのは、沼尻指揮の日本センチュリーの演奏。かつて、「リゴレット」のときも、この組み合わせでの演奏が印象に残ったのを覚えていますが、この「魔笛」に、音楽的に重しを効かせていたのが、何とも爽やかでした。沼尻は、リューベックで「アッティラ」を観たとき、総体としての音楽、簡単に言っちゃうとサウンドと言えばいいでしょうか、そのオペラに合ったサウンドを引き出すのに長けた能力を発揮したのを間近に聴いて、感心した記憶があるのですが、この「魔笛」の演奏を聴いて、リューベックで感じたことを思い出しておりました。


2018年 10月 6日(土)午前 7時 59分

 昨日は、先日同様、シネヌーヴォでインド映画を2本観る日。1本目は、タミル語映画の「キケンな誘拐」でした。これが、なかなか笑える娯楽作品。今回観てきた映画で、初めて自分の中にあるインド映画のイメージに合う作品でした。車を使って、ちょっとした軽い誘拐をして小金を稼いでいる男3人組。有名人には手を出さないと決めていたにも拘わらず、持ちかけられた大金に目がくらみ、さる大臣の息子の誘拐を手がけることに。ところが、この誘拐を利用して、身代金をせしめようと考えたのが、誘拐される大臣の息子だったために、話が複雑になっていきます。3人組と組んだり、ときには出し抜いたかと思うと、また手を組んだり。大臣は、そないなことになっているとは知らず、体面を考え、犯人が捕まらないと警察に強く訴えたために、警察が起用した警察官というのが、人殺しをしたいために警察官になったというアブナイ男。この辺りのふざけた設定が、いかにもと言えるインド映画のらしいところ。この警察官が、また、とんでもない狂暴。後半は、この狂暴な警察官と、誘拐犯たちの係争、逃亡、騙しあいと、遊び心たっぷりに、その辺りを描いてくれました。あまりにものバカバカしさに、客席からは、しばしば高笑いが上がる佳作。これでなくっちゃ、インド映画はいけません。
 2本目も、タミル語映画の「今日・昨日・明日」でした。これまた、インド映画らしさの詰まった娯楽作品。昨日は、そないな映画を2本観ることができた日となりました。この作品はタイムマシーンもの。主役の男2人の内1人は占星術師で、もう1人は、大会社の社長令嬢を恋人に持ちながら、ニートをしている頼りない男、この男が、東アジア系の顔立ちを持ったイケメン。この2人が、偶然出会ったタイムマシーンを使い、大金を手に入れたり、ニート隠しに使ったりとしているところは、何てことのない進行なのですが、彼女の父親が、地上げをするヤクザに絡まれ出してから、ヴァイオレンスな映画へと変わっていきます。土地を手に入れるために、また、警察に通告されたことを逆恨みしたヤクザとの抗争に入るのですが、この映画の筋立てで、話をうまくしたなと思えたのは、そのヤクザ男は、映画の半ばで亡くなるのですが、金儲けに走る2人は、タイムマシーンで時空間を行き来している内に、偶然、ヤクザ男が亡くならないような振舞いを、あくまでも結果的にしてしまうところ。一旦、死んだはずの狂暴な男が、また暴れ出し、結局、そのヤクザがニート男の恋人を撃ち殺すということになり、死んだ男を死んだままにするために、またタイムマシーンを使おうとするのだけれど、お約束のタイムマシーンの不調、直りかけても過去には行けても戻ってこれなくなったり、そして、ついには過去に行ったところで、タイムマシーン自体が破壊されてしまうという事態へと発展していきます。お約束とは言え、はらはらドキドキ展開に、十分楽しませていただきました。そして、最後は、これまたお約束のハッピーエンド。これまた、インド映画は、こうでなくっちゃという展開に、大満足。今日は、2本ともに堪能させてもらえました。


2018年 10月 4日(木)午後 7時 55分

 今日は、シネヌーヴォに行き、インド映画を観る日に当てていたのですが、家の用事で、早々に断念。台風の跡が生々しい我が家の後始末をしてました。先日、知り合いに教えられていた「京都市被災者住宅再建等支援制度」というものを利用することになりました。台風で出た被害を補修した場合、京都市から支援金が出る制度です。地震等の被災者のために設けられた制度を、まさか自分が利用することになるとは思ってもいませんでした。業者から提示された補修費を見て愕然としましたが、この制度を活用すれば、補修費の補填になるので、ホント、助かります。体調が良く、でも外国に行けない、そないなことになるものと、見積書を見たとき思ったものでしたが、どれだけ出るかは判りませんが、家の被害を写真で、京都市の担当者に見せると、近々、罹災証明書が送られてくるでしょうとのお話。もちろん補填費を埋め合わせるには、手の届きそうもない額ですが、幾ばくかの補填になることは間違いありません。これで、ちょっと一息です。黄紺は、教えてくれる人がいたので、こういった制度を活用することになりますが、制度自体を知らなければ、皆目、何も始まりません。知った者として、知らせる義務感のようなものを感じているのですが、どうしたら、それができるかすら判らない現状です。いざとなると、微力すぎるのを痛感しています。


2018年 10月 3日(水)午後 10時 59分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「軽さと幻想」 と題して、(ヴァイオリン) 石上真由子と(ピアノ)久末航という、お若い二人のデュオ・コンサートがありました。そのプログラムは、次のようなものでした。「R.シューマン:ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 ハ長調 作品131」「C.ドビュッシー:ヴァイオリンソナタ ト短調」「L.v.ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ 第6番 イ長調 作品30-1」。何とも変な組み合わせです。ベートーヴェンとドビュッシーが先にあり、そこに、オーナー氏の要請で、シューマンが入ったそうなのですが、そのわけ、及び、今日のお題について説明があったのですが、後方席にいた黄紺には聞こえませんでした。耳は治ったはずですから、仕方ありません。そういった中で、ベートーヴェンが、まことにもって秀逸。まるで、ミューズが舞い降りたかのような名演にうっとり。6番って、こないにいい曲だったっけとまで思ってしまいました。華やかな技巧を求められるシューマンは、懸命に弾ききってやろうの心根が見えてしまいます。ですから、余裕や垣間見ることのできる隙間を感じさせてくれません。ドビュッシーは、シューマンと違った意味で、この曲も弾ききってやろうの心根が見えてしまいました。石上さんのフランスものって、なぜか、これを感じてしまいます。若さが成せる業なのかもしれません。ベートーヴェンに入ると、ピアノもヴァイオリンも、縛りが解けたかのように、何か見えない糸に引きずられたように、素晴らしいアンサンブルが出来上がり、そうなると、個々の楽器も違って聴こえてきました。ピアノは、本日最高の煌めきを見せ、石上さんは、自分の弾くヴァイオリンの音に陶酔したかのよう。中でも、第2楽章の美しさって、そうは聴けない名演じゃないかな。1つにはプログラムの妙があったんじゃないかなぁ。カフェモンタージュで聴いた幾多のコンサートで、忘れえぬものの1つとなりました。それを、とってもお若い二人が紡ぎ出されたわけで、また、今後も、お二人のデュオを、カフェモンタージュで計画されているようですので、楽しみは久しく続くようです。やはり、長生きしなければなりません。


2018年 10月 3日(水)午前 6時 12分

 昨日は、インド映画を2本観る日。シネヌーヴォでの「インディアン・シネマ・ウィーク」での上映作品です。まず1本目は、タミル語映画「アルヴィ」でした。今回上映される映画は、先日観たときにも思ったのですが、単なる娯楽映画の枠を越え、社会問題を、優れた映像感覚で見せるという、なかなか骨太な作品が含まれていることに、インド映画の奥深さが見えてきていますが、この「アルヴィ」も、正に、そのカテゴリーにはまる作品と言っていいでしょう。題名となっている「アルヴィ」は、主人公の若い女性の名前。とってもテンポが良すぎて、何が起こっているのかが判らない前半。いや判らなくていいのだと、後半に入ると判るのですが、そのテンポに付いていけなかった黄紺は、ここで不覚にも居眠り。ただ、頭に残っているのは、アルヴィが「テロ事件」らしきことを起こし、取り調べを受けている。その映像にオーバーラップして、アルヴィの子ども時代からの成長の姿、家族との交わり映像が流れていきます。やがて、成長したアルヴィが、体の変調を見せ、そのことで、親との関係が悪化。ついには、家を出ることになる、そないな粗い伏線が流されていき、体調の変化、家を出る原因として、何となく男女関係が、観る者の頭に浮かんでくるようになっています。居眠りから、 はっと気がつくと、アルヴィは、自らの半生をさらけ出す、テレビのリアル討論番組に出演しています。アルヴィの生活をふしだらと攻撃する司会者ら。この番組の収録に、アルヴィが出演する経緯などが、結局は、居眠りでぶっ飛んでいるのですが、この中で、ついにアルヴィの体調の変化のわけが明かされます。彼女は、感染経路が判らないなか、HIVに感染していたのです。親子関係が崩れ、家を出たわけも、それで、全て、白日のもとになります。ここからの彼女の独白が素晴らしいものがあります。差別に晒されてきた自らの体験ばかりか、そういった差別を生む社会構造までも撃って行きます。身近にいる番組出演者、製作者が、身近な攻撃の対象となり、ついに手持ちの拳銃を突きつけ、自らの主張を展開したことから、テロと間違われ、警察に包囲されてしまいます。ビルの中で、拳銃を突きつけ、彼女が、一人の男にさせたことが、この映画のもう1つ、ハイライト。「一番最近泣いたことを具体的に言え」、その回答は、とても心温まるエピソード。そういった優しい心根を持った者が、簡単に差別する側に回る、それが浮き彫りにされ、この独白、また、独白させたアルヴィの心に、拳銃を突きつけられた人たちが共鳴します。投降したあと、発病していくアルヴィの姿がラストになっていきますが、この共鳴した心が描かれていきます。圧倒的な存在感を持つ映画、すごいものを観たぞの実感が厚く残る優れものの映画でした。
 引き続いて観たのは、こちらもタミル語映画「吹き渡る風に」でした。ここまで、女性の自立問題、エイズ問題と、骨太のテーマを扱ったものを観ただけに、この映画も期待したのですが、この映画には、見事に裏切られました。カシミール紛争を背景に、パキスタン側に捕らえられたインド空軍パイロットの脱出劇との要約があったため、それなりの期待を持っていたのですが、、、。ストーリー展開は、その脱出劇の狭間にと言っても、こちらの方が、圧倒的に長いのですが、その狭間に、そのパイロットと恋人のなれ初めから別離、そして再会が入っていくだけという、とても単純な構成。脱出劇も単調だし、2人の恋人たちの関係も、特段、おもしろみのあるというよりか、頼りない男、それに引きずられる女という調子で、途中で止めて帰ろうかとすら思ったほどでした。女性の職業が医者だということで、軍人との対比で、おもしろそうなエピソードが用意されているのではと思ったのも肩すかしをくらい、また、女性の兄もパイロットで、既に亡くなっているため、女性の親が、男には関心をみせないなどというエピソードは入りはすれども、それ以上の展開は見せずじまいでした。ただただ頼りない時間に終始してしまいました。監督がマニ・ラトナムということで、今回の上映になったかもしれませんが、名前だけで選ぶと、こないな駄作が入ってしまいますね。


2018年 10月 1日(月)午後 10時 59分

 今日は、フェニックスホールでのコンサートに行く日。今夜は、こちらで「関西弦楽四重奏団 ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 全曲ツィクルス 第4回」がありました。関西弦楽四重奏団は、(ヴァイオリン)林 七奈、田村安祐美、(ヴィオラ)小峰航一、(チェロ)上森祥平といった皆さんのユニット。カフェモンタージュで、すっかりおなじみになったカルテットです。今日演奏されたのは、次の3曲でした。「弦楽四重奏曲第6番変ロ長調op.18-6」「弦楽四重奏曲第3番ニ長調op.18-3」「弦楽四重奏曲第9番ハ長調“ラズモフスキー第3番“op.59-3」。12番以後の後期の作品群からは1曲も選ばれていないという珍しいプログラム編成。このカルテットは、曲により、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが交替するという特徴を持っています。切れ味のある林さんに対し、穏やかな澄んだ音色が持ち味の田村さんの使い分けも楽しめるのが、おいしいところでもあるのですが、今日は、そないな感じとは別に、なんか林さんが第1ヴァイオリンに入ると、音楽がつまらない。前半では6番がそれで、3番は躍動感があり、何やら内から突き上げてくるものを感じるといった具合。単にヴァイオリンだけではなく、他の楽器にまで伝染している雰囲気。最後の「ラズモフスキー3番」は、曲想からして、林さんのヴァイオリンの方が合っているとは思っても、6番のちょっと空回り的な具合で、楽しませてもらえるのか不安な気持ちを持ちながら席に着きました。やはり、予想通り、第1ヴァイオリンは林さん。1楽章は、6番同様、乗りきれない。2楽章は、いきなり、チェロのピチカートから始まり、楽章を通じて、このチェロのピチカートが、見事なスパイスとなります。このスパイスが見事でした。この曲を、一気にスパークさせました。カルテット全体へのカンフル剤になったような気がしました。見事なフーガが始まります。フーガですから、凸凹は許されないはず。それが決まると、4楽章は、聴いていて大興奮。素晴らしい締めくくりとなりました。室内楽のコンサートには珍しく、会場から「ブラボー」の声がかかりました。関西弦楽四重奏団は、今まで、カフェモンタージュという狭い空間で聴いてきましたから、フェニックスホールで聴くと、どうしてもパワー不足のように聴こえてしまう傾向があったのですが、それも、バッサリと切って捨てるほどのパワーを見せつけてくれました。終わり良ければ、全て良しとは、うまく言ったものですね。全曲演奏会は、あと2回あります。その内の1回があやしい、、、。どうしよう、考えどころです。


2018年 10月 1日(月)午前 0時 28分

 今日は、びわ湖ホールでマーラーを聴く予定にしていた日。びわ湖ホール側は、早々に、台風に反応。ホールの主催公演だったためもあり、土曜日に、同じプログラム、同じ出演者で、特別公演を行うという異例の措置。日曜日のチケットがあれば入れるというものだったのですが、黄紺は、コンサートに行くことになっていたので、その特別公演は断念。台風の動き、交通機関の対応によっては、今日も公演があったのですが、最近の交通機関の対応は足早なため、びわ湖ホールの対応も足早。今朝、びわ湖ホールのサイトを見ると、もう中止が発表されていました。結局、マーラーは聴けずじまい。こういった展開が、昨日の段階で読めたため、替わりに行ける落語会を探していたのですが、噺家さんの対応も、今回は早かったですね。行きたいと思う落語会は、早々と中止なり延期を発表していました。ならば、映画でおもしろそうなもの、但し、京都で観ることができるものという条件を付けて探したら、ありました、京都シネマに。しかし、その京都シネマでも、今朝、中止の告示。まさか、映画館に、これやられるとは思ってなかったもので、愕然としましたが、ここまで徹底されると、諦めるしかない日となりました。幸い、昼過ぎまでは、雨が止んでましたから、ちょっと長めのウォーキングをして、憂さ晴らし。あとは、悲しいかな、Youtube三昧の一日となりました。おかげで、目の視力が、また落ちましたね。


2018年 9月 30日(日)午前 2時 28分

 昨日は、京都アルティホールで音楽を聴く日。3回に分けて行なわれた「ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会」(ヴァイオリン:豊嶋泰嗣、ピアノ:上野 真)の第3回目の公演に行ってまいりました。演奏されたのは、第3番、第7番、第10番の3曲でした。この連続演奏会の特徴は、各回、異なった歴史的なピアノを使うという点。周知の如く、ベートーヴェンの時代は、ピアノの発展途上の時代。ですから、このコンサートで聴くことのできた音というのは、正にベートーヴェンが、演奏された曲を作った時代の音を、そのまま再現したものと言えるのです。その音が、なんとも穏やかで長閑な響きがします。それに呼応したかのように、豊嶋さんのヴァイオリンも、なんとも穏やか。なかでも10番の第2楽章のアダージョが秀逸。思わず、我が耳を疑ったほど。ベートーヴェンの曲に、今まで感じ得なかった響きを感じた気がしました。お二人の演奏に、また、歴史的な楽器の再現に努められた方に拍手です。演奏は、台風24号が接近されるなか行われました。激しく降る雨、それに対し、会場内は全くの異空間。そうした環境のなか、ベートーヴェンを聴くのも、なかなかおつなものですね。


2018年 9月 28日(金)午後 7時 53分

 今日は、友人に誘われ、プチ遠足。明日香の稲渕にある棚田を観に行って来ました。絶好の秋晴れで、緑が目に染み入る、素晴らしい景色。ちょっと足の便が悪いかと思っていたのですが、明日香村を走るかめバスで、石舞台まで行き、あとは歩き。15分も歩けば、棚田を下から見渡せるポイントに到着。逆に一番上に上がり、見渡すのも絶景。秋のこの時期を使い、その上り道に沿い、創作案山子が置かれていましたので、それを眺めながらのぶらぶら歩き。いい秋の午後になりました。木立の影を求めて、ベンチに腰掛け、棚田を眺めることができるなんて、そうはできない経験。誘ってもらい、友人に感謝。いい秋の一日を過ごすことができました。


2018年 9月 27日(木)午後 8時 46分

 今日は、朝から大忙し。来年3月に、びわ湖ホールである「ジークフリート」のチケット発売日だったのですが、友人たちのチケットを含めて、6枚ものチケットを買わねばならなかったのです。4枚押さえたところで、「枚数制限」のメッセージが出たため、ここで、一旦決済。そのため、最後の2枚は、狙いの値段のチケットは買えませんでした。指先の勝負には自信があったのですが、思いがけないないメッセージに降参でした。そして、早めの昼食をとり、病院へ。10月中旬から11月初旬にかけ、2回に分けて行う入院&手術のための準備のために空けてあった日だったのです。黄紺自身、今までも2回の外科手術、息子の1回の外科手術を経験して、インフォームド・コンセントを受けてきましたが、今日ほど、微に入り細に入りのお話を、当該の医師から受けたのは、初めての経験でした。自身の手術はともかくも、勤務医の過酷な勤務に、ちょっと動揺した日となりました。


2018年 9月 26日(水)午後 11時 59分

 今日は、ツギハギ荘で、落語と講談を聴く日。大阪芸大の同窓のお二人主宰の「第7回落語芸術大学」がありました。その番組は、次のようなものでした。南湖「エベレスト(仮題)」、智丸「腕喰い」、中山市朗(怪異作家)「怪談」、全員「鼎談」、(中入り)、南湖「大和復讐畸談(仮題)」、智丸「怪談探し(仮題)」。ゲストの中山さんの関係でしょうか、落語&講談ファンはともかくも、普段感じない雰囲気を持った人たちも混じっているという、ちょっと特異な感じの会。その中山さんの「怪談」を半ばに置いての2席ずつを、主宰のお二人が口演するというもの。しかも、中山さん絡みで、内1席は怪談をネタにしたというもの。中山さんも大阪芸大出身ということで、演者さんたちの口からは、頻繁に芸大ネタが飛び出して来たのも、今日の会の特徴でした。黄紺的には。中山さんの話には、ほぼ興味がないため、お話の半ばで居眠り。もう一つ居眠りをしたのは、智丸の「腕喰い」。だって、先日の弥っこの会で出したばかりだったものですから。そないなことだったため、今日は出るかもと思っていたところ、ドンピシャで出てしまったため、瞼が重くなってしまいました。その智丸のもう一つは、今日のための新作。怖い話も知らないし、霊感も感じない学生が、その関係のクラブの部長になってしまったため、怖い話を探し求める噺。こっくりさん辺りまでは、無理矢理作り上げた感があり、かなりつまらなかったのですが、最後の学校の怪談のパートに入ると、いきなり勢いづきました。まるで、師匠仁智に多いオムニバス落語を彷彿とさせるもの。この可笑しさ、バカバカしさが、全編を通じてのものでしたら、佳作と言えたでしょうに。一方の南湖さんは、ホント、貫禄の高座という感じ。「エベレスト」は、新作もので、南湖さんの手によるものでしょうが、南湖さんの新作もので、本格的なお話を作り上げたものとしては、最優秀作品じゃないかと思いました。エベレストに挑む男の登頂物語に、過去の登頂物語がオーバーラップさせる手法が、作品に厚みが生まれ、なかなかの秀作と看ました。もう一つが、南湖さん側の怪談もの。このネタ、東西を問わず、どの講釈師さんからも聴いたことのない物語でした。大和の百姓が無礼討ちに逢い、その意趣返しを、母が自らの命をかけて託した息子が果たすというもの。母親が、自害をしてまでも、息子に悔しさを教え、復讐の心を植え付ける箇所は、圧倒的な南湖さんの口演に、会場は息を呑むほどの緊迫感に包まれていました。このネタのマクラにも惹き付けられましたので、正に南湖さん渾身の長講だったと言えると思います。


2018年 9月 25日(火)午後 11時 25分

 今日は、シネヌーヴォで映画を観る日。この前の土曜日は、満席で入れなかった「インディアン・シネマ・ウィーク」の一環として上映されている「親友の結婚式」(ヒンディー語)を観てまいりました。今日は、無事に入れたのですが、満員に近い盛況でした。肝心の映画ですが、今まで観てきたインド映画とは、全く異なったテイストの映画。韓国映画にでもありそうな映画と言えばいいでしょうか。しっかりと歌とダンスも入っていましたが、突然始まるというインド映画特有の入り方ではなく、映画の本筋にフィットした効果的な挿入のされ方も、実に新鮮。主役は4人の若い女性。それぞれの結婚感、実際の結婚がぶつかり、緩和があり、助け合いもありといった、とってもキャピキャピ感のある仕上がりになっていました。スピーディーな展開、短なカット割り、突き抜けたテキストと、いずれをとっても、今まで観てきたインド映画にはなかったものでしたし、なかでも、性に関する言辞が、その筆頭に来る新鮮さを感じさせました。4人の女性のキャラを記しておきます。題名の「結婚」をするのは、オーストラリア在住のカップル。同棲2年にして結婚することになったことで、インドに帰国。結婚する意味も、よく見いだせないままの帰国、要するに、今のままでいいじゃないかの気持ちを捨てきれないまま、結婚することになり、帰国した途端、家族の思惑に振り回されてしまい、ついにはカップルの関係にまで及んでいくというもの。高校時代の同級生だった、あとの3人は、結婚式のために再会という設定。1人は、学歴が高く、弁護士をしており、自立した女性であるのだけれど、いざ結婚となると、親に振り回されてしまい、不自由さに困惑する一方、恋愛には不器用さを見せている。2人目は、アメリカ人と結婚し、2歳の子どもまでいるが、その結婚自体を、親が、未だに認めていない。また、子どもがいるため、子ども優先になり、夫婦間がスムーズではなさそう。3人目は、とっても活発そうで、奔放に生きてそうな印象を与える女性。親に手厚く結婚式の支援をしてもらったのだけれど、夫が、家政婦のように扱うことで、離婚をしようとしているが、余りに多額の金を、結婚式に使わせたため、親に言えなくて酒浸りになっている。こうした4人の女性の行く末、ま、どこにでもありそうな課題を抱える女性たちが、助け合ったり、ぶつかったりしながら、それぞれの課題に向き合い、乗り越えようとしていく物語でした。娯楽作品であり、且つ自立する女性を描こうというもので、そういったコンセプトに見合った、いい感じの作り方に、インディアンテイストが混じり、えらく気に入ってしまいました。


2018年 9月 24日(月)午後 8時 48分

 今日は、メトロポリタンのライブビューイングを観る日。今、昨シーズンまでの中からチョイスされた演目が、再上映されているため、見逃したものに行こうということです。ただ、その再上映は、京都ではダメで、大阪(なんばシネパークス)まで、朝の10時半までに行かねばなりません。黄紺にとっては、生活のリズムが崩れるので、なかなか厳しい時間。迷っていたところ、福井在住の高校時代の友人が、所用があり岡山に行く途中に行きたいと言い出したのが、黄紺も行こうという気にさせてくれました。ただでも、朝が早いため、睡眠時間確保が厳しくなると思っていたところ、昨晩は、夜中に目が覚めたため、最悪のコンディションで大阪に向かいました。そしたら、案の定、終始、半寝の状態で観ることになりましたが、今日上映されたのは「魔笛」(ジュリー・テイモア演出)。予告編で観たところ、凧状のパペットを巧みに使うのがおもしろく、一度観てみたいと思っていた「魔笛」でした。ただ、パペットが使われるのは、冒頭や、3人の童子、侍女、夜の女王登場場面とかに限られたものだったため、いつしかパペットは、頭から消えてしまっていました。となれば、さほど驚くようなプロダクションではありません。衣装に日本を意識したモチーフが入っていたり、装置のコンセプトが戯画化、単純化だったりということで、奇抜なアイデアがあったというわけではありませんでした。前半終わったところで、友人と、この装置、色彩って、一つ前のプロダクションに似てるということで一致。さすが、後半は、廻り舞台を活用し、雰囲気の変わったものとはなっていました。大変斬新なものを想像していただけに、そういった意味では肩透かしを食ったなの印象が残ります。タミーナ(チャールズ・カストロノヴォ)、パミーナ(ゴルダ・シュルツ)の主役二人は、若手有望株だそうです。これは、友人の話。ザラストロは、この役の歌唱のためにだけニューヨーク入りしたと紹介のあったルネ・パーペ。今、一番いいザラストロでしょう。ベルリン在住ですから、ベルリンで聴くことができます。その他、(パパゲーノ)マルクス・ヴェルバ、(夜の女王)キャスリン・ルイッカという布陣でした。


2018年 9月 23日(日)午後 9時 57分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「弦楽三重奏」 と題して、(ヴァイオリン)石上真由子、(ヴィオラ)井野邉大輔、(チェロ)金子鈴太郎の3人のアンサンブルの演奏がありました。黄紺は、午後6時の部に行ってきましたが、そのプログラムは、次のようなものでした。「E.ドホナーニ:弦楽三重奏のためのセレナーデ ハ長調 op.10 (1902)」「A.シュニトケ:弦楽三重奏曲 (1985)」。ともに、普段聴く機会があるとは考えられないもの。それが嬉しくて、カフェモンタージュに行ってしまいます。ドホナーニの曲は20世紀冒頭の作曲とか。毎度の如く、オーナー氏による解説。黄紺の頭には、ドホナーニにしては、ロマンチックな曲とインプットされています。民族的な色彩の薄いものとの認識です。でも、今日の演奏は、黄紺の認識とは真逆の方向で進んだ感があるというか、これが、ドホナーニですよと示された演奏でした。シュニトケは、どないな曲が飛び出してくるか、それが楽しみで、知らない曲だった分、突然の音楽に触れる気持ちで、カフェモンタージュに足を運んだというところがあったのですが、わりと普通と感じてしまい、ちょっと裏切られた気分。激しいリズム、理不尽な音の配列なんてのを楽しみに行った者には、逆意外性と言えばいいでしょうか、そないな印象を得てしまったのでした。これまた、オーナー氏の前説によると、アルバン・ベルク生誕100年を記念しての委嘱作品なそうですので、ちょっと期待を膨らまし過ぎたのかもしれませんね。


2018年 9月 22日(土)午後 8時 31分

 今日は映画を観る日にしていました。今、シネヌーヴォで「インディアン・フィルム・ウィーク」が開かれているからです。今日は、その中の1本「銃弾の饗宴」(ヒンディー語)を観る予定でしたが、シネヌーヴォに行ってみると、「満員です」と、あっさり言われてしまいました。「マサラ上映だから」と理由が言われましたが、黄紺には、意味不明でした。行ったついでにトイレをお借りしたので、待合所を通ると、普段、インド映画の上映では見かけない人種が並んでいました。夜の部なら大丈夫、要するに、マサラ上映でなければ大丈夫と、映画館の方は言われたのですが、待つのが嫌だったため、帰ることに。いつもシネヌーヴォに行くときは、淀屋橋駅から歩いて往復しますから、往復で、1時間半以上歩き続けると、後の腰の具合が不安なため、近くの公園で、暫しの間、読書。いずれにせよ、今日のお出かけは、九条までのウォーキングとなりました。映画は観ることはできなかったにせよ、雰囲気の違うところでウォーキングをするというのもいいものです。交通費は、定期券があるので不要だしと、、、、悪くはなかったなの一日となりました。少しやせ我慢は入っていますが。


2018年 9月 21日(金)午後 8時 35分

 今日は、繁昌亭昼席に行く日。福笑が出るときに、繁昌亭昼席を覗こうとしていたのですが、最近はさぼり気味だったのを思い出し、チケットを買ったら、そのあと、高校時代の友人と、動楽亭昼席で福笑&たまを聴きに行くことになり、結果的に、今週2回、福笑落語を聴くことになりました。その番組は、次のようなものでした。棗「大安売り」、飛梅「動物園」、米平「筍」、幸助・福助「漫才」、雀五郎「いらち俥」、あやめ「妙齢女子の微妙なところ」、(中入り)、勢朝「南京玉すだれ」、文都「鬼の面」、竹丸「平の陰」、福笑「二人癖」。今日は、行く前から、かなり諦め気味。最近落ち着いていた睡眠障害が復活で、極端に睡眠時間が少なかったのです。中入り前は、雀五郎の高座がダメで、あやめで覚醒したので、後半は大丈夫かと思ったのですが、文都以後は、それぞれの口演の内、半分くらいしか聴けませんでした。そないななか、メモっておきたいことを記しておきます。棗は、繁昌亭の舞台では初遭遇。今日も含めて、まだ、ネタは「大安売り」しか聴かせてもらえてないのが、悲しいところ。飛梅は、舞鶴在住らしいということで、このところ、全く遭遇してなかった噺家さん。そないな噺家に出逢えるのも、繁昌亭の嬉しいところ。随分と小咄をふったあと、5分もかけないで「動物園」をやっちゃいました。でも、記憶にあるお喋りよりは、遥かに達者になっていたのが、記憶に残りました。飛梅が小咄尽くしだったのに、米平も、同じスタンスの臨み方をしました。ディープな小咄でしたが、いかがなものでしょうか。最後は「筍」でしたが、その前には「試し斬り」を出してくれました。最近、あやめの口演に触れる機会が激減しているからでしょうか、遭遇すると、「妙齢女子、、、」ばかりを聴いています。そうした噺をするところでしか、あやめを聴けてないということですね。これは、ちょっと反省です。「鬼の面」を、繁昌亭昼席で聴いたのは、これが初めてでしょう。地味なので、繁昌亭昼席向きじゃないと思うのですが、、、。勢朝のあとなんで、余計に地味に感じてしまいました。雀五郎にしても、竹丸にしても、おもしろい位置に出るようになってます。それだけ、下がつかえてきているということなのでしょうか。福笑の「二人癖」って、昔は聴いたことがあるのでしょうが、最近は聴いた記憶がありません。でも、このネタを出しているのを、幾度となく見かけているので、何やら変化を入れているのかと思っていたところ、ようやく、その謎が解けました。羽織の下に仕込んだ器具で、福笑の首が落ちる、他のネタで活用されているのを見かけたことのある、あの仕掛けを、噺の後半に織り込むというものでした。「二人癖」を、時々見かけたわけも、これで判明しました。頭をどつくと、首が落ちるというものですが、それが、将棋の作戦も失敗したあとに使われる繋ぎが、居眠りのために判りません。こういうのって、悔しいですね。今日は、福笑、あやめが出る日にしては、寂しい入り。団体さんが入るか入らないで、こういったことが起こる、それらしきことを、後ろの席の好事家とおぼしき方が、お喋りになっていました。


2018年 9月 20日(木)午後 11時 42分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。「第2回弥っこ凧の会~桂弥っこの落語勉強会」に行ってまいりました。吉弥の2番弟子の弥っこの会に行くのは初めて。その番組は、次のようなものでした。弥っこ「手水廻し」、智丸「いじわる空の旅」、弥っこ「昆陽の御池」、(中入り)、智丸「腕喰い」、弥っこ「夏泥」。主役の弥っこの3席はともかく、ゲストの智丸も2席ということで、この2人でやっている勉強会のような番組。まず、弥っこは前座噺から。弥っこの「手水廻し」は初めて。誰でしたっけ、廻すときに、右手を右腰の辺りに持ってきて回転させるのは? 師匠の吉弥は、このネタを持ちネタにしてたっけ、そないなことを考えながら聴いてしまいました。智丸の1つ目は、弥っこのリクエストだとか。「1回しかやってないのですが、、、」、これは智丸の言。その1回を、黄紺は聴いていました。いつだったか考えていたら、智丸が答えを教えてくれました。米輝との新作交換会でのことでした。怪しげな旅行社が、空への招待をするのですが、車が空を飛んだりと、かなり荒唐無稽な噺。智丸曰く、「2度目にして、めでたく天に旅立ちました」、その2回ともを聴いてしまったことになりました。弥っこの取り上げた「昆陽の御池」は、今や、かなりのレアもの。「唖の釣り」という題を持っていることからも判るように、聾唖者の真似をして言い逃れをするということで、敬遠されているネタです。その場面が終盤ですから、その前で切り上げるなんて演じ方もありますが、弥っこは下げまでやってくれました。ただ、仕込みの前半、眠ってしまいました。ネタに入った途端、記憶が跳んでしまってます。久しぶりのネタだと意気込んでいると、えてして跳んでしまいます。逃げるときの打ち合わせのところで覚醒。弥っこのえらく爽やかな口演は、終盤もするりと通りすぎて行ってしまいました。中入り明け、智丸は、意外なものを持ってきました。もちろん、智丸の口演では初めての遭遇です。 聴いていて、徳平衛が結婚話を持ってきたときの若旦那の対応、有名な「人間止めなはれ」のフレーズが出てくるときの徳平衛の台詞、墓場でのやり取りなど、何となく違和感を感じたので、考えてしまいました。智丸自身は、メリハリを付けようとしているのも解るのですが、足りないのでしょうね。単調に聴こえてしまったのだと思います。この辺の呼吸は、口演を重ねるなかで身に付いていくのでしょうね。トリネタは、ちょっと軽めの「夏泥」。上方の「打飼盗人」です。弥っこは、東京の三三からもらったと言っていました。「師匠吉弥が、三三と二人会をしている縁で」と言っていました。この年数で、早くも東京の師匠からネタをもらえるとは、贅沢な話です。時間が進むにつれ、じわりじわりとクレッシェンドしていくお喋りは、三三伝来のものでしょう。噺の展開も読めていきますので、このクレッシェンドが、まことに効果的。弥っこは、いいものをもらったものです。智丸も勉強家、弥っこも勉強家、とってもいい取り合わせの二人ですね。刺激をしあって、腕を上げていって欲しいものです。


2018年 9月 19日(水)午後 10時 11分

 今日は講談を聴く日。天満橋駅近くの「双馬ビル」であった「南華の会」に行ってまいりました。今日は、「薮井玄意」の長講一席。疫癘が流行った大坂で、特効薬を配布する薮井玄意。それに対してアコギな金儲けをする大金持ち天王寺屋五平衛に、懲らしめのため、薬代として大金を請求する薮井玄意。これが裁判沙汰になり、名奉行の計らいで、天王寺屋が懲らしめられるというもののはず。「はず」と書いたのは、居眠りしてしまったのです。ただ、「薮井玄意」については、南湖さんが読まれたのを聴いているため、部分的に耳に残っていれば、おおよその話が判るという仕掛けなのです。でも、今日は失敗の巻でした。


2018年 9月 19日(水)午前 0時 22分

 今日は繁昌亭に行く日。今夜は、「第五回桂吉坊・春風亭一之輔二人会」がありました。その番組は、次のようなものでした。文五郎「牛ほめ」、吉坊「べかこ」、一之輔「へっつい幽霊」、(中入り)、一之輔「蛙茶番」、吉坊「口入屋」。この二人会で、前座が文五郎とは、どういった背景があるのか考えてしまいました。もちろん、判らないまま。嫁ネタをマクラでしたあと、文五郎の口演と言えば、ほとんどこれしか聴いたことのないという「牛ほめ」。文珍テイストの、他にはない「牛ほめ」でした。但し、普請ほめまででしたが。吉坊の1つ目は、珍品扱いしていいでしょうね、「べかこ」でした。近年では、宗助でしか聴いてないのではないかな。吉坊が、他の落語会で出していたのを見たことがありますから、別段、驚くということはありませんでした。このネタを聴くと、いつも思うのは、なぜ、こないなネタが生まれ、まがりなりにも生き残ったのかということ。今日も思ってしまいました。一之輔の「へっつい幽霊」はネタ出しをしてあったもの。東京の噺家さんで、このネタを聴くのは初めてのことです。噺の構造、流れは、全く上方のまんま。こういったことも珍しいですね。主役2人のキャラも同じですしね。気の弱い幽霊までも。黄紺が気に入ったのは、主役2人の描き方。博打打ちと勘当者という、ちょっと世間をなめたような生き方をしている2人を、一之輔は気だるそうに描きます。幽霊も、生前は、同様の生き方をしてたのでしょうね。同じカテゴリーに入るということが、よく判りました。「蛙茶番」の半ちゃんは職人、しっかりとした定職を持っている人物ですが、これも、ちょっと世間をなめたような感じの人物なのかなぁ。下世話なドタバタ噺を、生き生きと人物が行き交うことで、過不足なく描きますよ。やっぱ、一之輔が、ただ者ではないということを証明してくれた口演でした。トリは、繁昌亭のルールに則り、今回も吉坊。ネタ出しをしていた「口入屋」でした。実に丁寧な口演。米朝も、この言葉使ってたな、あの言葉も使ってたな、なんてことを思い出しながら聴けました。その一方で、この噺は、最終的には夜這いを仕掛ける噺なわけですから、どこかしら猥雑な雰囲気なんてのを求めてしまいます。夜這いのところで、ちょっとした暗さのようなものが出るだけでも、そうした雰囲気が出るのかなと思ったりします。さすがに、この二人の会は完売。えらい勢いで、チケットは売れていきましたから、黄紺は、ちょっと買いそびれただけで、2階の隅になってしまいました。ま、それだけの値打ちのある会だったことは、間違いないでしょう。


2018年 9月 17日(月)午後 10時 48分

 今日は、久しぶりにカフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「J.ブラームス」と題して、(ヴァイオリン)田村安祐美、(ヴィオラ)丸山緑、(チェロ)佐藤禎、(ピアノ)塩見亮の4人の方によるアンサンブルの演奏がありました。そのプログラムは、次のようなものでした。「R.シュトラウス:ピアノ四重奏のための小品」「J.ブラームス:ピアノ四重奏曲 第3番 ハ短調 作品60」。ピアノ四重奏という珍しい組み合わせなものですから、普段、なかなか聴けるものではないと、意気込んで行ってまいりました。塩見さんを除いて、京都市交響楽団のメンバー。メーンがブラームスということで、時間調整のような形で、存在すら知らなかったR.シュトラウスの室内楽曲を聴くことができました。習作のような印象を受けた曲でしたが、R.シュトラウスらしいとろけるようなメロディは健在。いい気分になった結果が居眠り。ブラームスも、ライブで聴くと、思いの外、きれいな曲。正に生で聴いたればこそ味わえたものでした。弦3本の、そのような味わいに、塩見さんのピアノが、ちょっと乗り遅れたかなという点が残念なところでした。


2018年 9月 16日(日)午後 11時 21分

 今日は、昨日オペラを一緒に観た高校時代の友人とともに、「動楽亭昼席」に行く日。オペラの翌日に、福笑&たまという師弟が同時に出る会があると連絡すると、その友人は飛び付いたのでした。友人も、落語フリークなのです。ただ、福井在住のため、生落語を聴く機会が少なく、この機会を捉えたというわけです。その番組は、次のようなものでした。優々「阿弥陀池」、ちょうば「京の茶漬」、たま「鼓ヶ滝」、珍念「はてなの茶碗」、(中入り)、遊喬「上燗屋」、福笑「葬儀屋さん」。優々は、前座ということで、時間を守らねばの意識が強いのでしょうね。ちょっと急ぎすぎ。テキストの省略で対応してもらわないと、せわしないせわしない。ちょうばは、マクラから絶好調。あっという間に、客席の空気が緩みました。客席の反応を聴いていて、黄紺も、いい日に来たと満足。ちょうばの「京の茶漬」は初めてではなかったのですが、大変な進化ぶりにびっくり。茶漬を食いに来た大阪の男、工夫をしながら茶漬を求めます。ジャズ、中田さん、このくすぐりは、傑作。過剰な迫り方には違いないですが、抜群のくすぐりは、そないなことを言わせませんね。たまは、高津では聴けなかった笑福亭集合のマクラ。もう、マクラから、勢いがあり、全開状態。ネタの「鼓ヶ滝」は、たまでは初めて。持っていることは、知ってはいましたが、、、。噺の本筋は外さず、それ以外はカット、替わりに自惚れの心のある西行を描きます。的を得た改変。完全に釈ネタだったことを忘れさせるほどになりました。初のたま体験に、友人は、その迫力、お喋りの勢いだけではなく、その中身のど迫力に、目を丸くしておりました。珍念は、10年以上は聴いてなかったでしょうか。以前、文華との勉強会を続けていた頃は、よく聴いたのですが。偶然の巡り合わせで、ちょうばのネタとつくマクラが傑作。今日は、「京都」がついてしまったけれど、気にしないで突入。師匠の文珍も手がける「はてなの茶碗」でした。軽~いお喋りが可笑しい珍念ですが、その軽さを、ネタに挿入して、自分らしさをアピールしていましたが、ちょっとした照れ隠しかもしれませんね。後半は、笑福亭ばかり。遊喬も、先日の笑福亭集合に絡む話をマクラでしてくれました。ネタはお酒の噺。ま、流れからして、位置からして「上燗屋」は妥当なところでしょう。そして、福笑の登場。「お酒のネタ」と言いましたから、「憧れの甲子園」かなと、勝手に決めつけているのですが、こちらも、前の「上燗屋」でボツ。マクラで、危うくお酒ネタに向かいかけて、福笑自身の告白でした。「葬儀屋さん」は、友人にとってはアンラッキー。動画が手に入りますからね。ま、それだけ、福笑の定番ネタ。おかげで、何度も聴く機会を得てきました。それだけに、 さすがの福笑も、年齢を感じるようになってきました。黄紺は、「葬儀屋さん」で、一番強く感じてしまうので、当分は避けたいなと思っているのですが、偶発的にぶち当たってしまいました。


2018年 9月 16日(日)午前 8時 29分

 昨日は、オペラを観る日。「びわ湖ホール オペラへの招待」として行われた「ドン・ジョヴァンニ」(伊香修吾演出)を観てまいりました。びわ湖ホール声楽アンサンブル所属の歌手に加えて、卒業生をゲストとして迎えた歌手陣、園田隆一郎指揮&チェンバロ 大阪交響楽団の演奏での公演でした。舞台は、正方形の板を張り巡らしたかのような装置が、左右、背後に隙間を入れることで壁として作られており、その隙間からバルコニーが現れたり、新たな出入り口になっているというもの。各幕に1回ずつ、中幕のようにして、上から吊るしで、同様の壁が下りてきたのですが、特に意味があったように思えず、舞台に変化を出したり、転換のスムーズさを図ったのかなと思います。一番大きな変化は、終盤、騎士長の石像が喋る場面と、ラストのドンジョヴァンニの館の場面。前者は、ホリゾントに石像らしき影を映すという手法。後者は複雑で、後ろに幕をはり、雰囲気を変えたドンジョヴァンニの館内を作り、騎士長がドンジョヴァンニの手を掴む姿を表します。いよいよドンジョヴァンニが地獄に引き込まれるとなると、幕は取り払われ、壁の正方形状の板が落下していきます。昨日も、福井から観に来てきた高校時代の友人は、落下したときの音が大きく、モーツァルトの音楽の邪魔になると、好意的には看ていませんでしたが、黄紺は、逆に歓迎、ここまで、ずっと、産業化以前の街、しかも、暗闇の世界を主として描いてきたプロダクションだったため、常に照明は落としていたため、地味な印象を拭えなかったものですから、このくらいのインパクトがあって、ちょうどいいバランスじゃないかと思っていました。しかも、初っぱなから気になっていた、壁の正方形紋様は、ここで使うためだったのかと、これでも納得できたからでしょうね、わりと満ち足りた気分でした。更に、おもしろいことがありました。ドンジョヴァンニが地獄に落ち、ラストの6重唱に移るところで、オケは音楽を奏でるのを止めます。すると、憔悴したドンナアンナが現れ、舞台をゆっくりと彷徨します。それに被せるように、チェンバロがドンジョヴァンニのセレナードのモチーフを柔らかく奏でます。もちろん、これは、このプロダクションのオリジナル。当然、終わった途端、友人との話題に上がりました。ドンナアンナの復讐が成り、でも憔悴したドンナアンナは、すぐにはドンオッターヴィオとの結婚には応じられないとはなる、でも、表向きはそうだろうが、果たして、ドンナアンナの内はどうなんだろうか、そないな複雑なものを表現したのかな、そないな話をしていたのですが、これは、冒頭の夜這いのエピソードと絡んでくるわけで、友人は「既遂」という言葉を使っていましたが、既遂なことは、黄紺も同感で、ただ、そのあとの騒ぎについて、このプロダクションは曖昧だったのです。いや、曖昧にしておいて、ラストで答えを出したという趣向なのかもしれないですし、また、そうだと、騎士長は、何を見てデュエッロに向かったのかです。娘の部屋から男が出てくるのを見て剣を抜いたのか、でも、ドンオッターヴィオかもしれないのですがね。ツェルリーナの絡みも判りにくかった。ドンジョヴァンニの館の中での「キャー」は、どう捉えたらいいのでしょうかね。そこは見せてくれなかったですね、このプロダクション。とまあ、女性の立ち位置が鮮明に成りにくかったと言っていいかもしれません。このプロダクションで、あと気になったのは、省略がわりかし多かったこと。時間と予算の関係かなとは思っているのですが、ちょっと寂しい感じも拭えないようなところがありました。オケピットとは別に、オケを置かないというのは、明らかに経費節減を狙っていました。その他では、ドンオッターヴィオの2つ目のアリアも省かれたりでしたので、ちょっと寂しかったですね。歌手陣は、若い人たちが多いため、パワーに凸凹があったり、また、序盤は緊張があったりで、不安定な部分もあったのですが、終盤になってくると、自力を発揮されてくる歌手の方も出てきましたが、黄紺的ピカ一はドンナアンナ。友人も、最初はツェルリーナと言ってましたが、この終盤のドンナアンナを絶賛。1回だけの出演機会ですから、ましてや、多くの人の前で、さほど多く歌った機会を持たれているわけではないはずのなか、素晴らしい技術を見せていただけました。指揮の園田隆一郎は、オペラを指揮するプロパーな方。歌手との組み合わせでは、かなりの歌唱指導をしてきたなの指揮ぶり。その一方、前半のテンポが重かったのは、ちょっといただけないなと思わせられました。


2018年 9月 15日(土)午前 9時 11分

 昨日の朝、関空に戻ってきました。関空島脱出のバスは、1台をやり過ごした程度で、あっさりと成功。ちょうど問題の橋を渡るとき、タンカーの衝突現場を見ることができました。ほとんど関空島というところなんですね、現場は。あれだったら、もうちょっとで関空島に激突して、こないな大問題にならなかったのではと思ってしまいました。巨大クレーンが破損した橋を吊り上げていました。そして、旅行の後片付けをして、昨夜から、早速、日常の生活が復活です。「高津落語研究会」に行ってまいりました。8月の「たっぷり」以来ですが、時間の流れを開演時間の暗さで知ることになりました。この2日間で、僅かに2時間しか寝てないならの落語会。眠ってしまう可能性の高いなか、でも落語会の雰囲気は、外国から戻ってきたときの一番のご馳走ですから、足が向いてしまいます。で、番組は、次のようなものでした。南天「煮売屋」、ひろば「遊山船」、たま「百川」、雀五郎「質屋蔵」、全員「大喜利」。南天は、ご近所の落語被害をマクラで報告。笑うに笑えない話ではあるのですが、そんなことが解っていても笑ってしまいます。皆さん、同じ傷みを受けたからでしょうね。南天の「煮売屋」って聴いたことあったかなぁ。喜六、清八のたわいない会話、店の親父をからかったり遊んだり、南天は、ちょっとした引いた調子、逆に前に出た調子で対応することで、逆に会話の自然性を高めます。何度聴いたか判らないほどのネタがおもしろく、聴き込んでしまいます。ひろばは、「なにわ探検クルーズ」のおもしろ話をしてから、船繋がりで「遊山船」。ひろばの「遊山船」って、初めてじゃないかな。橋の上での喜六と清八の会話までで、稽古屋の船が出てくる前で切りました。このひろばの口演時間が、一番きつかった時間帯。体が崩れ落ちないか、これが心配だったのですが、辛うじて大丈夫でした。たまは、マクラで、9月上旬に続いた笑福亭の会のレポート。黄紺はトルコにいて行けなかったため、こうした話だけでも、耳はダンボになります。ネタは、東京ものの「百川」。単なる言葉の入れ違いが、噺を構成しているので、上方に移植されても不思議ではないのでしょうが、上方の噺家さんで手がけてるのは、たまだけじゃないかな。「四神剣」という東京的空気を醸し出す祭がモチーフになっているのが、敬遠されるわけなんでしょうか。料亭の客は魚河岸の男たちで、その雰囲気は、上方には移植しにくいという点もあるのかもしれません。そういった思い込みがあるからかもしれませんが、噺の進行についていくのがしんどかったですね。別にたまのお喋りに問題を感じたわけではなく、やたら大阪の空気が流れたのに原因を感じたのでした。雀五郎の「質屋蔵」は、確か3回目、もう1回聴いているかもしれません。流れるような口演。でも、旦さんのお喋りに、待ったをかけたい気持ち。大店の旦さん、イマジネーション力が高く、冒頭のお喋りで、話が膨らんでいきます。この旦さん、大店のボスとしての位と、一方で、お喋り好きでゆる~い空気も欲しいところ。それにしては、流れすぎたという印象を持ってしまったのです。その一方、状況の変化を、1つの表情、言葉の変化で表そうとする技は巧みのもの。過剰ではない、タイミングのいいアクセントが冴えていました。落語終了後の「大喜利」の「お絵描き唄」のコーナーで使われた色紙(たまの分)が当たりました。この落語会が、次回で終わるということですので、いい記念ができたと思っています。でも、なぜ終わるのでしょうね。この会のプロデュース面はたまですから、何か考えているはずと勘ぐったりしているところです。


2018年 8月 27日(月)午後 11時 13分

 今日は講談を聴く日。8月末出発で、トルコに行こうと決断したとき、この講談会に行ってから出ようと考え、明日の出発を控え、「第253回旭堂南海の何回続く会?」(千日亭)に行ってまいりました。今日は、「太閤記続き読み・信長畿内制圧“霧深き上月城”」が読まれました。上月城という城は、播磨の一番端にあるというのが、大きなポイント。今の地理で、南海さんは説明されてましたが、その中で智頭鉄道の名が出てきましたから、播磨も、かなり北の方になるようです。時代は、中国を毛利が押さえ、東からは信長が勢力を拡張しつつある時代。2つの大勢力の境に位置しており、いずれを攻めるにしても、格好の兵站基地になりうるところ。人物的な主役は山中鹿之助。この武将は、尼子一筋に生きた人物だということが、今日の読み物で判る仕掛けになっているのですが、しかし、今日の読み物が始まった段階では、尼子は、既に毛利に滅ぼされ、尼子の殿さんは、毛利の支配下に入り、かつての部下らは四散をしてしまっているなか、尼子の再興を夢見て生き、そして死んでいきます。その山中鹿之助が明智光秀の家臣に入るところから、今日の読み物が動きます。その山中鹿之助が上月城の主になる過程、毛利勢に攻められ、信長の援軍が来る経緯は、居眠りで吹っ飛んでいます。その最後、山中鹿之助は、主君の首を持ち現れ、毛利の殿さんに会うことを求めます。主君の首と引き換えに、命請いをしているかのように見えたため、その申し出が受け入れられたように見え、毛利の殿さんがいた備中松山近くまで連れて行かれ、そこで殺されてしまいます。山中鹿之助という男は、尼子一筋だということを見抜かれた結果でした。光秀の元に入ってから、信長、秀吉の権謀術策、また、播磨の大名小名たちの思惑、それに、もちろん毛利側の動きをにらみながら、山中鹿之助が、どのように生き、戦い抜いたのか、南海さんお得意の緻密な運びのところで居眠り、今日も、また勿体ないことをしてしまいました。


2018年 8月 26日(日)午後 11時 23分

 今日も落語を聴く日。久しぶりにツギハギ荘に行ってまいりました。今夜は、こちらで、「賢者と天使と冷奴」という会がありました。月亭天使の趣向をこらした落語会、趣向にそそられ行っても、その狙いを達成できないというのが持ち味になっている天使、今日は、どういった中途半端さを見れるかをお楽しみに行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。鶴太「つる」、天使「リモコンおとん48号」、坊枝「船徳」、(中入り)、天使「紙屑屋」。今日も不調。鶴太の高座以外は、半寝で聴くハメになりました。昼間の異様な暑さのなか、汗だくになっての旅行準備で、すっかり体力を消耗したのが1つ。それと、中入り前に、すっかり違和感を感じてしまったのが、もう1つというところでしょうか。鶴太の落語は2回目。どうも、不思議な間がある口演。普通では、そうは喋らないだろうにと思うことが多々ありました。それに、今日は、真っ白になり跳ばしてしまった箇所も出てしまいました。天使の新作に、黄紺は、全くなじめませんでした。ロボットだの、防衛省やら地球防衛隊なんて出てくるテキストは、腕のない作家の書いた芝居を観ているみたいと感じてしまい、拒絶反応が出てしまいました。これは、黄紺の予断がもたらしたもので、いい噺だったと感じた方がおられたら、申し訳ないこと書いてます。こういった噺は苦手と思ったところで、体が椅子に吸い込まれていくようになってしまったものですから。黄紺は、坊枝の高座は苦手なもので、この会を躊躇した唯一の理由。でも、上方で「船徳」をする貴重な噺家さんだし、ましてや、黄紺的には初ものだしと思ったのですが、既に始まっていたお休みモードは解除されずじまいでした。天使の「紙屑屋」は、今日出すのではと思っていたネタ。秋の豊中の大きな会でネタ出ししてますし、つい先日も、東京での真との二人会でも出していましたから。ところが、出囃子にCDを使っていたため、外したかとは思ったのですが、そのCDを使い、ハメものを入れて乗りきっていました。もちろんツギハギ荘の舞台は狭いですから、それに合わせての口演。芝居口調など、うまく決まったのでしょうか、記憶から跳んでいますから、そこの場面では、居眠りしていたようです。落語が終わると、柳陰と絹ごし豆腐が振る舞われました。柳陰は初めて口にしました。みりんを入れるということは知っていましたが、かなり入れるものなんですね。ほんの僅かの量でしたが、ぐいっと一飲みする気にはならなかったですね。でも、貴重なものいただけました。でも、これから「青菜」を聴くたびに、口の中にあの甘さが拡がるのでしょうね。豆腐は、毎度のことながら、天使の実家福田商店の売り物を持ち込んだもの。こちらは、美味しかった。


2018年 8月 26日(日)午前 0時 25分

 今日も「高津おもいっきり落語研究会~8月全13日間興行」に行く日。そしてついに、今日が、この落語会の黄紺的最終日になってしまいました。あと2日残っていますが、黄紺はトルコに行っていますから。今日は、高津落語研究会の4人は、昼間、西淀川でも公演を行っていますが、最寄り駅が福だと知って、あっさりと断念。替わりに、修理に出していたスマホを取りに行っておりました。で、今日の番組は、次のようなものでした。たま「プロレス」、雀五郎「七度狐」、南天「壺算」、ひろば「肝つぶし」、全員「大喜利」。昼間、西淀川での公演を聴いてきた方もいるようで、かなりの入り。終盤に入り、客足が伸びてきたのかもしれません。その跡を確認できないのが残念です。たまは、昨日、2つもネタ下ろしをしたうえ、今日も、あまりやってないネタを、この会で出してくれました(昼間は「源平盛衰記」だったようです)。黄紺も、全く初めて聴くもの。10年ほど前に作ったと言ってました。基本的には、プロレス博物館巡りなのですが、中では、実際のプロレスも行われているというもの。連れもって歩く二人が、「プロレスは八百長?」という問答を繰り広げるところは、緻密な言葉のやり取りになっており、たまの技量が冴え渡る箇所。終盤は、実際のプロレス、だが、ふざけた名前のレスラーが出てきて、大笑い。そのレスラーに絡んで、下げが用意されていました。わりかし変化を楽しめる佳作だと思いました。お蔵入りにしないで、口演回数を増やして欲しいものです。雀五郎は、昼間は「蔵丁稚」でしたから、この人も頑張ります。今日の雀五郎は、いつものようにテンポのいいお喋りだったのですが、ずっと一貫して、微妙に前のめり気味。これが、快調さを表すときもあるのですが、今日は、逆で落ち着かなさを感じてしまいました。流れは通常通りのものでした。南天は、昼間は「代脈」。出番順は、昼夜ともに同じですから、少し軽めのネタを意識している証左だなと思っていたら、何と南天ベストに入ることを請け合う「壺算」。序盤からアホが飛ばしてくれる、なかなか優れものなのは、重々判っているので嬉しがっていると、今日は、こないなところで居眠り。今日は、行き帰りの電車のなか、両方で眠ってましたから、あまり体調がいいとは言えないまでも、南天の「壺算」で眠っていては、サイテーです。今日は、昼夜ともに、ひろばがトリ。4人の中では、ネタ数で劣るため、何度も聴いたネタに当たるのだろうと思っていました。実際、昼間は「佐野山」を出していましたから、ひろばが持っていることも知らなかった「肝つぶし」を喋り出したときには、ちょっとびっくり。恋煩いに悩む男吉まの陰気臭さを、なかなか好演。「陰」の空気感が出ると、この噺は、なかなか吸引力を発揮します。残念だったのは、下げに入るところで、急いだことかな。慌てなくてもいいのにと思った途端に終わっちゃいました。「大喜利」は、いつもの謎かけと「色」の名の折り込み作文でしたが、「色」の1つに「浅葱色」を出された方がおられ、一瞬、会場がどよめいたのが印象的でした。


2018年 8月 24日(金)午後 11時 28分

 今日は、動楽亭で講談を聴く日。「南湖の会 ~覚悟の修羅場~」に行ってまいりました。今日、南湖さんが読まれたのは、「姉川の合戦」「大徳寺焼香場」「西郷の東下り」でした。今日もダメでした。これで、一昨日の高津に続き、2日連続iです。今日は、朝から秋に受けるつもりをしていた簡単な手術に関し動いたため、生活のリズムが変わってしまったことは事実なのですが、替わりに昼寝をしてから、動楽亭に向かったのでしたが、ダメでした。もう、南湖さんのマクラが始まった段階で、目がしょぼついていましたから、なんか当然の帰結って感じでした。そこへさして、今日は、前の2つが修羅場だったため、いい感じのリズムで読まれたものですから、余計にダメになったのでしょう。久しぶりの「大徳寺焼香場」は、きっちり聴きたかったのですがね。「西郷どん」は、最近、南湖さんで聴いた記憶があるのですが、これまた思い出せません。


2018年 8月 23日(木)午後 9時 45分

 今日は、京都国立近代美術館に行く日。そそられる落語会も映画もなく困惑していたところ、見つけました、こないにいいものが隠れてるなんて、、、。京都国立近代美術館で「バウハウスへの応答」という企画展が行われています。バウハウスは、ドイツのワイワ-ルとベルリンの博物館で、その作品や理念に触れ、とっても感銘を受けました。現代の家具、調度品のデザインなんて、何から何までバウハウスに発すると言っても、全く過言ではないと思ったものですから。残念なのは、まだ、バッサウに行けてないことなのです。国立近代美術館の展示は、バウハウスの紹介も要るだろうということで、そのカリキュラムや習作、それに、指導者であったイッテンらの作品の展示があったのですが、それだけではなく、バウハウスの理念に共感したインドの芸術活動と、バウハウスで学んできた日本人の帰国後の活動が、同等のスペースが与えられ展示されていました。インドの活動とバウハウスの活動の接点というものは、黄紺には解りづらいものがありましたが、日本のそれは、それなりに解った気分になりました。なかでも、1933年制作と記された家具には、正直、びっくり。ここでもまた、戦争さえなければ、こういった方面の芸術活動も、賑やかだったろうなと思うと、鬱屈たる気になってしまいました。


2018年 8月 22日(水)午後 11時 47分

 今日も、「高津おもいっきり落語研究会~8月全13日間興行」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。雀五郎「牛ほめ」、南天「上燗屋」、ひろば「笠碁」、たま「土橋万歳」、全員「大喜利」。今日はダメでした。「牛ほめ」の終盤から居眠りが始まり、たまの高座が終わるまで、快復するときはなく、南天以後のネタが判るのが不思議なくらいです。そんなですから、ほんの僅かのメモを書くに留めておきたいと思います。「牛ほめ」は、「思いっきり」では出たこと、ありましたっけ。ポピュラーすぎるネタにも拘わらす、そないに思ってしまいます。雀五郎の口演は、序盤、アホに金儲けの方法を指南する男の応対がいいですね。単なる会話の弾みがいいだけではなく、アホを見る暖かみのある眼差しを感じることができました。ここで、うまくやると、あとの進め方が楽になりますものね。南天の「上燗屋」ってピンと来ませんでした。若い頃にやってたように思うのですが、とにかくは、最近は聴いた記憶のない代物。ただ、南天にしては、.酔っ払いの酔い方に苦戦しているように見受けたのですが、半寝での感想ですから、自分自身を信用できない始末です。ひろばの「笠碁」は、遭遇しておきたかったネタの1つ。師匠ざこばが、よく演じているということで、ひろばも受け継いだのでしょうが、ひろばのキャラと、あまり被らないものですから、余計に聴いておきたかったのですが、そうした思い入れを持ち待ちかまえていると、往々にして居眠りと正面衝突です。1点だけ強く入っているのは、主人公2人が、えらく若いなということ。再会したときには、まず、この点から確認せねばと思っています。たまの「土橋万歳」は、確かネタ下ろしで聴いて以来。たまのいじりを見てみたかったのですが、見事に外してしまいました。ただ、ラストに出てくる大和万歳のエピソードは、今回も省かれていたことは、確認できています。だったら、「土橋物語」じゃんと突っ込みたくなりますよね。「大喜利」は、今日も謎かけと「新しい漢字」。ようやく、この段になり、完全、お目覚めでした。


2018年 8月 22日(水)午前 5時 20分

 昨日は、ちょっと間の空いた「高津おもいっきり落語研究会~8月全13日間興行」。インタ-バル期間に加えて、黄紺の都合で、2回行けなかったもので、間が空いたと感じてしまいます。で、昨日の番組は、次のようになりました。南天「道具屋」、ひろば「兵庫船」、たま「ドラマチックな恋」、雀五郎「花筏」、全員「大喜利」。南天がトップとなると、普段、あまり聴けない噺を聴くことができる嬉しさがあります。遊雀が与太郎を描写するとき、「今日も飛ばしてます」と喜びながらお喋りした、あの雰囲気がちらりと垣間見える、南天のアホの描き方、気に入りました。ですが、「祝いのし」「向う付け」に出てくるアブナイ系アホではないのですが、周りの人に楽しまれていました。ひろばは、そろそろ出すのではと思っていた「兵庫船」。やっぱり、この4人の中では、手持ちのネタ数が落ちるため、ネタが読める傾向があります。何度か、聴いているのですが、忌み言葉を言わないように言われたアホが、その忌み言葉ばかりを、大声で叫ぶなんてシ-ンが入ってたのが新鮮。これには、会場、度肝を抜かれ、大爆笑でした。終盤のフカの身入れの場面はカットし、その前の問答の場面までの口演でした。たまは、朝太郎ネタを振ってから、その内容つながりで、自作へ。黄紺は、初めての遭遇になるはずです。有名なドラマの名場面を真似て、彼女に迫ろうとの試みを描いたもの。でも、黄紺が、使われた場面を、全ては知らないというのが悲しいところ。バカバカしさが、なかなか冴えてる優れもののたま作品です。雀五郎は上がるなり、たまが、マクラで喋った映画の感想を否定。緘黙系の人なのに、こういった突っ込みに長けている雀五郎です。相変わらずいいテンポの口演。2つの点で、かなり印象の濃いものに仕上がっています。1つは、口演の途中、急にプロレスの話をやり出した点。徳さんは花筏の模倣ということで、その模倣つながりを、プロレスに求めて、お喋りが始まったっていうわけです。題材はスーパーストロングマシーン。これを、わりと長めに喋り、やおら「私は何を喋ってんでしょうね」には、大爆笑。こういったお遊びをやらかすようになったのは、間違いなく高津効果と言えるのじゃないかな。もう1つは、千鳥ヶ浜の父親の年齢をくっきりさせたこと。かなり年配の人物にしていました。ここまで年齢を感じさせる演出は、雀五郎が初めてじゃないかな。そのため、「勘当じゃ」の台詞に重みが増しましたし、千鳥ヶ浜が、わりとあっさりと引き下がるのに合理性が生まれたと思いました。そして「大喜利」。いつもの「謎かけ」と「数え唄」でした。いじられたのは、やはりひろばでした。


2018年 8月 20日(月)午後 9時 13分

 今日は、Dと遊んだ日。とってもテンションの高いDは、いろいろとおしゃべりをしていました。あんなにしゃべろうとしたDを見たのは、初めてじゃないかな。ようやく、顔を覚えてくれたのかもしれませんね。


2018年 8月 19日(日)午後 11時 52分

 今日は、昔の同僚と食事会。10月に東欧に行くというので、話を聞く、何か言うことがあればと思い、おもしろそうな話ができそうだと、楽しみにして出かけてきました。そしたら、びっくり仰天の話を聞いてしまいました。大阪からブダペストに入るのに、「大阪~仁川」「仁川~モスクワ」「モスクワ~ブダペスト」の3つの航空劵を別々に買ったというのです。理由は聞き、そういった買い方をしてしまうのかと思ってはしまいましたが、こういった場合の搭乗劵って、どうして手に入れるものか、たちまち疑問が出てきました。関空では、仁川までしか搭乗劵は得られないでしょうから、それ以後は、仁川でとなると、空港で、次に乗る飛行機会社のカウンター探しをしなきゃならないでしょうから、考えただけで、ぞっとします。3つを分けて買ってますから、金額は跳ね上がってるしと、ま、常識では考えられないことをしてますから、外国での電車の待ち方、ホテルの時間外チェックインについてなど、かなりのことを伝授したつもりです。果たして、まともに行き帰ってくるのでしょうか、いじが悪いですが、ちょっとした楽しみができてしまいました。


2018年 8月 18日(土)午後 8時 15分

 今日は、とんだアクシデントに遭ってしまいました。最初の計画では、民博ゼミナールに行くつもりで家を出たところ、電車の中で、民博が、地震のため閉館中であることを知り、慌てて電車を降り、京都に帰るつもりでいたところ、昼間に落語会がないかと調べると、そそられるものがありました。民博に行くつもりをしていたため、今日の落語会としては、高津落語研究会しか頭になかったもので、これはラッキーと飛びついた次第でした。思い直して、民博のことも、地震で閉鎖したことは知っていながら、今日の催しとは別個に頭に収容されているのですから、全くたちが悪いと言わざるを得ません。で、落語会の番組は、次のようなものでした。佐ん吉「阿弥陀池」、ちょうば「皿屋敷」、佐ん吉「崇徳院」。会議室を仕切って作られた会場は、客でいっぱい。普段はそうじゃないみたいと、2人の内のいずれかが言ってましたが、やはりお盆期間中の土曜日は、集客力があったようです。だけど、黄紺は、今日も不調。3人の高座のどこかで居眠り。これだったら、民博ゼミナールに行ってもダメだったのでしょうね。民博に行くために、生活のリズムが狂ったようです。部分的に覚えている佐ん吉の明るく、巧みなテンポは得がたく、やはり、評価が高いのは当然と思える口演に居眠りをしてしまい、どこかで、ゆっくりと聴かなきゃの気分になったのに対し、ちょうばの高座は、そないなことを考えるゆとりも持てないほど、眠ってたようです。


2018年 8月 18日(土)午前 5時 23分

 昨日も浪曲を聴く日。五月一秀さんの来阪に合わせて、沢村さくらさんが企画されたようで、2日連続で、浪曲を楽しむことができます。昨夜は、百年長屋で、「曲師の会 vol.12 ~さくらの三味線教室」がありました。その内容は、次のようなものでした。まず、さくらさんから、浪曲に使う三味線についての基本情報から。三下がりが、浪曲に向いているわけも説明いただいたのですが、頭に響いてこない黄紺でしたが、そのあと、一秀さんを呼びこんで、節のいろいろを実演をしながらの解説が始まった途端、またしても、黄紺の下腹に異変が、、、。食べ物に気を付けているのですが、昨日は、読みを間違ったようです。そのため、節のいろいろを、十分に聴けなかったのは、まことに勿体ないことをしました。一秀さんは、普段はしない春野百合子節をしたり、得意としていない早節をしてみせたりと、八面六臂の活躍。もちろん、一秀流言い方で言うと、「沢村さくら社長」のプロデュース力が冴え渡っているということなのですが。おもしろかったのは、浪曲師さんの、その日の声の調子を見て、曲師は、臨機応変に弾き方を変えているという点。伸縮自在な程度のものではなく、マイナ-になるよう、軽く音を入れたりまで、 曲師さんはされているようで、これは大変な仕事であると思うとともに、後継者育成には、大変な時間が要るということでもあります。上方は現在4人。年齢的には、まだ時間はあるかもしれないのですが、育成には時間を要するとなると、今からでは早くはないですね。かなり、喉を使った一秀さんのための15分ほどの休憩が取られたあと、一秀さんの一席「富島松五郎」がありました。いわゆる「無法松の一生」として知られた物語ですが、一秀さんの故郷の物語でもあるということで、一秀さんが十八番にされているネタだということで、黄紺も、幾度となく聴いてきているネタです。一秀さんも、マクラで話されていましたが、浪曲は30分にまとめねばならないという制約があるため、このネタは、まとめるのが難しく、映画などを参考にして、かなり手を加えてきたということです。ということは、伝承されてきているテキストは満足いくものではないということになるのですが、確かに、一秀さんの口演を聴いても、筋立てに不満が残ります。黄紺ですら知る「無法松の一生」のおもしろみが見えてこないのです。時代が時代ですから、階級や身分を越えた親交が歓迎されるのは解るのですが、あくまでも、心の中の垣根は越えられず、その悔しさ、悲しさというものを、松五郎は祇園囃子に込め打つというのでは、今どきのネタではないなと思えてしまい、消化不良の感覚だけが残ってしまいます。浪曲を聴いていると、時々感じてしまう感覚です。ネタの数に限りを感じる浪曲に、結構な数で、こないなネタが棲息しています。伝承芸として継承されていかなければならないと思うと同時に、そないなネタでは、ますます一般の感性からの乖離は進みます。じゃ、そないなネタは捨てればと言っても、ネタに限りがあるため、捨てること、または、継承しても出さないなんてことは、できそうもない、これは袋小路です。そないなことを考えながら、一秀さんの口演を聴いておりました。


2018年 8月 17日(金)午前 0時 15分

 今日は浪曲を聴く日。天王寺のスペース9であった「第8回 浪曲いろは文庫」に行ってまいりました。隔月に開かれている浪曲師さん2人と曲師さんの会です。その番組は、次のようなものとなりました。真山隼人「与之助鏡」、五月一秀「六十六部陸奥修行旅」、真山隼人「越の海物語」 。なお、曲師は、全て沢村さくらさんが務められました。今日はダメな日でした。3席とも、ダウンしてしまいました。ですので、簡単なメモ書き程度のことを記しておきます。隼人くんの「与之助鏡」はネタ下ろし。なんと、京山倖若師からもらったそうで、「滑稽味のあるネタ」「幸太くんに行く前にもらいました」と言ってから始めました。京山家のネタを、隼人くんがするのは、初めてでしょう。正直者の与之助の妻が男と、与之助を殺してしまおうなどと話しているのを聞いてしまった与之助が、鏡を使い一計を案じるという展開でしたが、その顛末は居眠りのため判らずじまいです。一秀さんの「六十六部陸奥修行旅」もネタ下ろし。浪花家辰造ものに、一秀さん自身が、手を加えてのネタ下ろしだそうです。3席が終わったあとの恒例の「浪曲Q&A」でも話題になった道行のところしか記憶に残っていません。隼人くんの2つ目の「越の海物語」は、講談でよく出る、越の海の入門話ではなく、その生い立ちを描いたものだと、プログラムには書いてあります。これも、ほとんど覚えていませんから、今日のダウンの酷さが判ります。


2018年 8月 15日(水)午後 10時 35分

 今日は、京都シネマで日本のドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」を観てまいりました。久しぶりに、沖縄ものを観たのですが、なかなか骨太の作品で、今まで、あまり表に出てこなかった事象の掘り起こしが新鮮で、また、沖縄戦が遠くなってきているなか、それこそ、最後の掘り起こしのチャンスかと思える、生き証人からのたくさんの証言を引き出しており、そういった意味でも貴重な仕事を成し遂げたものと言える映画だと思います。幾つかの取材のポイントがあります。北部戦線で、少年兵を組織して、ゲリラ戦や情報戦を仕掛けた日本軍は、よく言われる住民を守らなかった軍は、それどころか、沖縄の住民を戦争に活用し、少年兵まで組織していた。また、住民を使うとなると、住民を監視、しかも、住民同士による監視体制を作り上げ、不都合な者は消す。ですから、軍は、住民を守らないどころかという部分をあぶり出すことに成功していていました。そういった活動に当たらせるために、陸軍中野学校出身者を島々に送り込み、工作に当たらせています。八重山諸島の一つ、波照間島では、中野学校の出身者が学校教員として赴任して、工作を準備。いざ、軍人の姿を現すと、マラリアの流行する石垣島へ、同島の住民を強制疎開させたため、多くの波照間島島民が亡くなっています。「戦争マラリア」という言葉を、初めて知りました。戦争が原因で、マラリアに罹患することです。また、この疎開では、疎開先で居住地区定められ、軍の監視下に置かれていたそうです。住民監視です。住民による住民監視、果ては住民殺しも取材していました。これなどは、殺戮に関与した人たちが、近年まで存命だったため、ようやく証言が出始めているようです。そういった歴史的事実とともに、近年の沖縄諸島への自衛隊配備の近似性も、最後の方で、少し触れられていました。今日はお盆、しかも、8月15日ということからでしょうか、会場はかなり混み合いました。こうしたお金を払ってでも、この映画を観ようとする人だけではなく、この映画は、より多くの人に見てもらいたい映画です。


2018年 8月 14日(火)午後 10時 6分

 今日も、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「鯛安吉日 Vol.31~桂鯛蔵落語会~」がありました。その番組は、次のようなものでした。遊真「鉄砲勇助」、鯛蔵「二階借り」、吉の丞「いたりきたり」、鯛蔵「仔猫」。遊真の落語は久しぶり。その間に、いい感じになってました。千三と言われる男がホラを吹くとき、実に楽しそうに喋ります。これはいい。そうでなくっちゃってところです。鯛蔵の1つ目はネタ出しがされていた「二階借り」。またしても、このネタをする噺家さんが出てきました。ホント、若い噺家さんに、大人気のネタになってしまってます。ネタが短めなものですから、喉の具合が本調子ではないにも拘わらず、たっぷりとマクラを振ってくれました。その中心的な話題は、仲良し同期の噺家さんとのプチ旅行。他の3人の落語会でも話題になりますし、また、いずれを聴いてもおもしろく、今や、マクラの鉄板ネタになっています。鯛蔵の1年先輩が吉の丞になります。この吉の丞のマクラも笑いの連続。その中で入院の話を聴くことができ、ようやく、気になっていたことが判り、すっきりすることができました。吉の丞の異常を知ったのはいつだったかな、動楽亭の昼席に代演が立っているのを知ったときです。今日の話では、そのときは「一刻を争う」と医者に言われていたそうで、そのときの症状を聴いて、確かにびびる内容でした。そのあとに出てきた話題がペット。自然に流れて行ったので、それが、ネタに向けての話題とは気づかず、ネタに入っても、ちょっとの間、何か判らなかったのですが、何と「いたりきたり」でした。先日の高津で、南天が出したところ。まさか、「いたりきたり」を、こんなに短期間の間に2回も聴けるなんて、というところで、いい夏の思い出ができました。南天の口演が柔だとしたら、吉の丞のそれは剛というところでしょうか。南天は、登場人物も、南天自身も、「おかしな噺だな」の空気を出していましたが、吉の丞は、「こんなけったいな噺がありまっせ」と聴かせようというスタンスの口演でした。ですから、終盤の教訓めいた下りも惹き付けましたが、こないネタは、これでいいのかとも思わせるもので、南天のスタンスと対峙したものだったのに、興味が惹かれました。鯛蔵の2つ目は「仔猫」。この夏、「仔猫」を聴いてなかったのが、ここに来て、2日連続で遭遇することになりました。となると、どうしても、昨日の福楽の口演と比較してしまいます。怪談ぽい噺の口演として唸ってしまった福楽の口演、それに対し、序盤はそうじゃないぞというスタンスなのかと思わせる鯛蔵の快活な口演、確かに、これも一理あるぞと思い、聴き始めました。店の者が噂をし出します。ここでトーンが変われば、いい感じになるのにと思い聴き続けていたのですが、、、何と、ここで居眠り。すっごく大事なことを確認しないまま、居眠りは続いてしまいました。昨晩は、いやというほど眠れたのに、なんてことなんでしょうか。


2018年 8月 14日(火)午前 6時 48分

 昨日は落語を聴く日。久しぶりに動楽亭昼席に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。りょうば「子ほめ」、ひろば「桃太郎」、文三「嬶違い」、福楽「仔猫」、(中入り)、松喬「親子酒」、仁智「源太と山根会長」。大変な入り。動楽亭昼席での大入りに遭遇というのは、ホントに久しぶり。受付の方に伺うと、お盆に加えて顔付けの影響だということでした。確かに、おもしろいメンバーが揃いましたからね、昨日は。りょうばの「子ほめ」は、何度か聴いてきましたが、かなりアホがだだけ者キャラに変質してました。おまけに、声を潰し気味だったため、だだけ度がより高くなってたんじゃないかな。年齢を増やしていく箇所を省いたりで、ショートカット気味の口演でした。ひろばは、どこかで、マクラを聴いたなと思ったら、先日の高津で聴いたところでした。何と、子どもの噺を、2つ続けてしまいました。文三は、おもしろいネタを出してくれました。昔は、時々は出ていたのですが、最近は、完全にレアものになっています。2軒続きで婚礼話。2軒ともが、世話好きの人による紹介、だけど、2軒ともが、嫁を連れてくる人が急用で来られず、代理の人が連れてくるものですから、間違いが起こっても、誰も気づかず、一晩が経ってから、間違いが判明、で、どうしただけの噺。わざとらしい間違いが、落語らしいと言えば落語らしいのですが、あまりにわざとらしいというので、廃れ気味なんでしょうか。艶笑噺集に入っているのを見たことがありますから、演じようによっては、そちらに向かうのでしょうか。文三は、マクラで、隣のお中元が来てしまったということを例え話としてしてから、ネタへ。あとから考えると、この例えが、艶笑噺だと指していたように思えてきました。ということは、「今日はソフトヴァージョンでしますよ」ということだったみたいに思えてきました。嫁をもらう男二人の描き分けが、しっかりしていて、見事に笑いのツボになっていました。文三の冴えた技ですね。中トリの福楽は、「昇太と同い年」という、うまい掴みと自己紹介をして、さっさとネタへ。福楽を聴くこと自体、最近なかったところへ、大ネタに出逢い、また、素敵な口演に、なんか、今日一番の収穫と言ってもいいかなと思っています。静かで、落ち着いた語り口、心地よい間が、噺に吸引力をもたらしていました。ちょっと怪談ぽくなる噺ですから、効果満点でした。ただ、幾箇所かに見られた急なテンションの上げ方だけは、振幅に気を着けて欲しかったなと思いました。松喬は、変形「親子酒」を出しました。「変形」というのは、時代設定は現代、父親中心で伜は最後に出てくるだけというもので、噺の骨格だけが、古典の「親子酒」で、テキストも違うものでした。松喬自身による改作なのか、誰か作家さんがいるのか、そないなことは、一切判りません。仁智は、会長選出&就任後、初めての遭遇です。マクラで、きっちり、会長選をいじってくれました。もう、このマクラだけ聴いただけでも、昨日、動楽亭に行った元を取った気分です。ネタは「兄貴と源太」の「兄貴」を、話題の人「山根会長」に置き換えただけのこと。久しぶりに、このネタも聴くことができました。


2018年 8月 12日(日)午後 11時 46分

 今日は映画を観る日。MOVIX京都で、イギリス&フランス&ベルギー映画「スターリンの葬送狂騒曲」を観てまいりました。1953年のスターリンの死後に勃発した権力闘争を描いた映画だということで、飛び付いた映画でした。後継のマレンコフの優柔不断ななか、次第に、権力闘争は、ベリヤ対その他、その他と言っても、フルシチョフがリーダーに描かれるのは、その後の展開から考えると当然で、最終的には、スターリンの葬儀をきっかけに、軍も絡んだベリヤ排除のクーデターへと進み、ベリヤが処刑、スターリンの娘はウィーンへ、事実上の追放、息子は、新指導部の管理下に置かれるところまでが描かれました。そういった人の動きや策略といったものは、史実に沿い描かれていたのでしょうが、描き方は、中でもキャラ付けが、半端じゃないブラックさ。寄席芸人が、舞台のままのキャラで、楽屋で騒ぎながら、政治を語り、粛清を語るという風精ですから、そのブラックさは半端ではありません。ま、そういったテイストの映画だという予備知識くらいは持っていたので、驚きはしませんでしたが、まるでソ連の存在すらが茶番だったというところから描かれていると言えばいいかな。当たらずも遠からずでしょう。そういったテイストを受け入れる自信を持ち、楽しめる方にはお薦めですね。黄紺は、時間の経過が飛ぶくらいでしたから、かなり楽しんだくちです。ロシアでは、上映させなかったそうですが、ソ連政府に批判的であったとしても、こないな連中に、国を操られていたかとなると、国民の愚鈍さをさらけ出されたような気分になってのことでしたら、なんとなく受け入れてもいいかの気分が起こりかねない描き方ではありますね。


2018年 8月 11日(土)午後 10時 47分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「第48回 米紫の会」がありました。その番組は、次のようなものでした。鶴太「寄合酒」、米紫「鏡屋女房」、あおば「軽業講釈」、米紫「帯久」。米紫人気に加えて、おもしろいネタが並んだからでしょうか、ましてや、今日は土曜の夜、先日の華紋&二葉の会に近い入り。また、早くから来て開場を待つ人多数という、なかなか開演前から熱気を感じさせられた会でした。考えてみれば、この会は、雀のおやど時代を含めて、あまりおじゃまをしてないものですから、こういった開演前の様子とかが、なかなか新鮮に感じられました。鶴太は、ようやく名前と顔が一致しました。もちろん、高座に接するのは初めて。大きな声、はっきりとした言葉使い、師匠から、まず、そないなことを指導されてるのでしょうね、まだ、噺を流れさせるまでには至ってはいませんが、大事なことを指導されてるという雰囲気を感じました。今度、遭遇すると変わってんだろうなの雰囲気です。ネタは、皆が悪さをして、ものを持ち寄って来るまで。そないなところで切ったため、次に上がった米紫は、冒頭、「突然終わったのでびっくりしました」と言って笑わせてから、マクラに。50回に、この会が近づいていること、本日のネタの組み合わせについてをお喋りしてから、珍品ネタに突入。初めて聴くものかと思っていたのですが、聴いてみて、初めてじゃなかったですね。下げを、どこかで聴いた記憶があります。看板を2つ使ったダジャレの噺です。「地方でやると怒られます」と、米紫はマクラで言いましたが、至極、納得です。ゲスト枠には、一門のあおば。あおばに、落語会で遭遇する機会が、吉本に行ってから激減してますから、久しぶりの遭遇になります。しかも、ゲスト枠で、更に「軽業講釈」とは、びっくりの2乗です。あおばにとっては、古典落語に、ましてや、このネタに出てくるような言葉は、ほとんど外国語でしょうから、それを考えると、かなり頑張って稽古、ネタ繰りをした跡が伺えたのが、何よりも嬉しいところ。スムーズに流れるように喋ることは、それ自体大切なことなのでしょうが、それに留まっていることは否定しがたいのですが、ちょっと派手めのネタに、目が行っているような印象があるため、そうじゃないネタの積み上げをしていって欲しいなと思いました。そうすれば、スムーズさ、流すだけじゃない、何かが身に付いて行くというものじゃないかな。そして、お目当て、米紫の「帯久」。黄紺的には、初めての遭遇です。そして、期待に違わない素晴らしい口演となりました。ネタの性格上、米紫のいつもの力いっぱいという口演ではなく、静かに落ち着いた口演でしたから、この人の実力を、ゆっくりと見届けることができたんじゃないかな。噺全体を通じて、演者である米紫の優しい目、慈しみのある眼差しのようなものが流れていました。和泉屋主従にはもちろんのこと、ヒールである帯久に対しても、そのような眼差しを向けながらのお喋りと感じられたのです。性善説の持ち主なのかなぁ、それとも、噺の中の愛すべき登場人物、君もいて、噺が成り立っているという眼差しなのかなぁ、そのあたりは、よく判らないのですが、全体を包み込む目に、黄紺は惹かれました。黄紺的には、とっても感じよく、集中して聴くことができた「帯久」でした。米紫が引っ込むまで拍手が続きましたから、会場にいた人たちは、皆さん、いろんな感じ方で満たされたんじゃないでしょうか。


2018年 8月 10日(金)午後 11時 31分

 今日は映画を観る日。シネヌーヴォで、ポーランド映画「ゆれる人魚」を観てまいりました。肉食人魚姉妹2人が、お色気クラブの人気スターになったところまでは、あっと言う間に進む手際のいい展開。しかも、ストーリー展開が歌でなされたり、インド映画のように、歌とダンスが突如始まったりと盛りだくさん。その姉妹の内1人が、バンドメンバーに恋をしたところから、姉妹の関係、周りの人たちとの関係がギクシャク、とまあ、ここまでは着いて行けてたのですが、ここで、下腹に急な差し込みが起こり、退出。一昨日の動楽亭でも同様のことが起こり、そのときも退出。何か変なものを食べたのかもしれません。そのため、人間関係が解らなくなりました。また、主役の姉妹以外にも、人魚が人間社会に混じっている ようなのですが、それを特定できなくなってしまい、結局は、周りの人たちの動きを理解できなくなってしまいました。落語なら、1席は棒に振っても、次がありますが、映画は、そういうわけにはいかないですからね。ただ幸いなことに、主役2人の人魚と、好きになった男の基本的な動きは解りました。恋をした人魚は、男の求めに応じ、手術を受け人間になります。ただ、生き続けるためには、声を失うと同時に、あることをすることを求められました。ということで、ラストへと入って行くわけですが、人魚の姿を借りて、女たちが少女から成長して行く姿を表したと言っていいでしょう。しかし、肉食人魚とは、父親殺し、王殺しといった文化人類学で出てくるモチーフに、ヒントをもらったのでしょうか。黄紺的には、そないな映画が、ポーランド生まれだということに、興味が行ってしまったのですが、どこをどう叩いたら、ポーランドで生まれるのか、頭の中は疑問符だらけです。


2018年 8月 10日(金)午前 6時 25分

 昨日も落語を聴く日。昨日は、どこに行くか、散々迷った挙げ句、「高津おもいっきり落語研究会~8月全13日間興行」に行くことにしました。ここまで、ずっと行ってたので変えようという気持ちより、続けようの気持ちが勝ってしまいました。このあと、高津の会は、ちょっと休みとなることが大きかったのかもしれません。で、その番組は、次のようなものでした。雀五郎「刻うどん」、南天「日和違い」、ひろば「佐々木裁き」、たま「紙屑屋」、全員「大喜利」。少しだけ暑さは落ち着き、ウォーキングがてら、北浜駅から歩いて会場に向かうのにも、ちょっと楽にはなったはずですが、クーラーの入った涼しい屋内に入ると、どうしてもいい気分になってしまいます。この落語会では、わりかしもってはいたのですが、昨日は、ひろばの高座で、沈没してしまいました。前日聴いたばかりのネタということもあったのでしょうか、ダメだったですね。部分的に覚えている限りでは、先日の「崇徳院」を彷彿とさせるテンションを感じたものですから、とっても悔やまれてしまいました。あとの3人の高座では、幸い元気でした。雀五郎は、季節外れの、しかし、おなじみのネタです。仕込みのところで、うどんを、少しでも多く食べようと、清八は喜六に背を向けて食べるという、福笑&たま師弟のおなじみの技を見せてくれたのが新鮮でした。それと、うどんを食べようとするとき、箸の動きを目で追わないのが気になったことくらいが、メモることかな。「日和違い」はレアもの。文我以外では、生喬がやってたっけという程度じゃないかな。そういったなか、南天が、最近持ちネタにしたことは、枝雀ネタですから、大歓迎だったところ、こないに早く、その口演に遭遇できるとは、ラッキーとしか言いようがありません。日和(天気)を知りたい男が、いろいろと言葉遊び的なやり方でからかわれるだけの噺と言えばいいでしょうか。枝雀の口演は、不思議な雰囲気の噺に仕上がり、正に枝雀ワールドそのものでしたが、南天の口演は、言葉遊びの可笑しさにするには、演者としては満足しているという感じではなさそうで、さりとて、何を目指そうとしているかが見えないものでした。やはり、大師匠の口演を意識してるなと看てしまったのですが、それは穿ったものでしょうか。たまは、ツイッターで、予め「紙屑屋」を予告、でも、あの舞台で大丈夫かと思っていたのですが、やはり、高津用にしてありました。辛うじて一回転はやってはくれましたが、中腰で歩き回る所作はカットしてました。まだ、省略したところはあると思いますが、舞台の広さに合わせて、また舞台を壊さないように考えた口演となりました。冒頭は、短くカット。早々に、紙屑選りに入りました。恋文、義太夫本、長唄本、あともう1つあったように思うのですが、、、。暴れるたびに、紙屑はバラバラになり、一からやり直すという、たまらしい派手な演出。染雀仕込みの躍りの手が、なかなかシャープで見せてくれました。黄紺的には、たまの「紙屑屋」は、初演時以来の遭遇となりました。「大喜利」の謎かけが、日を追うごとに、スピードアップしていくのがおもしろく、もう1つのお遊びも、日を増すと、アブナイものが出てくるのを楽しんでいます。


2018年 8月 8日(水)午後 11時 9分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、こちらで「桂華紋・桂二葉 ふたり会 」がありました。その番組は、次のようなものでした。華紋&二葉「ふたりでトーク」、華紋「シンデレラシンドローム」、二葉「蛸芝居」、華紋「崇徳院」、(中入り)、二葉「佐々木裁き」。「トーク」は、この会のきっかけになったラジオ番組の話が中心。番組は、華紋が二葉を誘い、この落語会は、二葉が華紋を誘いというものだそうです。2つとも逆かと思ってました。今日のネタは、お互いの持ちネタを見せ合い、お互いがリクエストしたものとか。二葉が、1つ選んだあと、止まってしまったため、華紋は新作を出すことになったそうです。ただ、この新作が、黄紺には解らない。様々な諺もムズかったのですが、くすぐりとかはもちろんですが、噺のシチュエーションからして、難解なものでした。古典が解るのに、現代風俗が解らなくなってきています。二葉の「蛸芝居」は2回目。随分と久しぶりです。高校時代の歌舞伎鑑賞会のマクラが傑作。二葉のする、こういった話は解るのですがね。冒頭の三番叟を、ちょっと振りを省いてしまったので、あれれと思ってしまったためか、少々ヒヤヒヤしながら聴くハメに。そういった意味で、 久しぶり感のある口演でした。蛸の顔をやりたかったため、このネタをやりたかったと、前回聴いたときに言ってたはずですが、あんまし蛸顔を見せてくれませんでした。明石の海へと逃げて行くところも、呆気なく切り上げてましたから、どうしたのでしょうか。旦さんは、蛸に当て身を喰らいのびるのではなく、投げ飛ばされてのびました。「黒豆3粒」を避けようとした措置でした。華紋の「崇徳院」は初めて。先日聴いたひろばの「崇徳院」が、まだ耳に残っているため、ついつい比較してしまいます。素直な、いいテンポ、高めのテンションで通したひろばの口演が、やたらと爽やかに思えてしまったのです。となると、華紋はいじりすぎ、笑わすぞの気概が見えてしまったということになります。特に熊五郎のキャラ付けにそれを感じました。おもしろくしようとして頑張れば、その分、引いてしまうというところでしょうか。 そないな印象を、華紋には持ったことはなかったと思うのですが、、、。二葉の「佐々木裁き」は、もちろん初めて。最新のネタ下ろしのはずですから、「によによチャンネル」には行ってない黄紺には、当然初遭遇となるのです。この「佐々木裁き」が、本日一番の聴きもの。なかでも、お白州に入る前の前半が素晴らしい出来栄え、ちょっと止まったりはしましたが。何がいいかと言えば、白吉だけではなく、お奉行ごっこをする子どもを含めて、どの子どもも素の雰囲気で、ホントに良かった。子どもが、ちょっと喋るだけで、客席の空気が和らぐのですから、スーパーな口演と言えばいいでしょう。それに対して、お白州になると、場の空気に、二葉の口演自体も飲み込まれ、白吉の奔放さも飲み込まれてしまいました。前半の奔放さを、この場で残すことが宿題になりました。でも、そのくらいの宿題が残らないと、そら恐ろしいってやつで、前半は、ホントに素晴らしいものでしたから。今日も、入りは凄いものがありました。華紋には悪いですが、二葉の集客力は凄いと言うしかありません。


2018年 8月 7日(火)午後 9時 44分

 今日は文楽を観る日。「夏休み文楽特別公演」の内、まだ観てなかった第1部 【親子劇場】と第2部 【名作劇場】を観てまいりました。まず、第1部の番組は、次のようなものでした。「瓜子姫とあまんじゃく」「解説 文楽ってなあに?」「増補大江山~戻り橋の段~」。次に、第2部は、次のようになっていました。「卅三間堂棟由来~平太郎住家より木遣り音頭の段~」「大塔宮曦鎧~六波羅館の段/身替り音頭の段~」。第1部は、大勢詰めかけた子どもたちに混じっての鑑賞。古典じゃないものが出ることが多いということもあり、この第1部にも行くことにしています。「瓜子姫」は木下順二作。武智鉄二が製作に関わったなんてことが、プログラムに書かれていましたから、戦後間もない時期のことでしょう。物語は民話に取材してありますが、詞章が口語体で、且つ、それに義太夫節を付けようとしたもの。成功しているかというと、黄紺的には疑問符が付いてしまいましたが、発想がいいですね。口真似をして瓜子姫をだませても、爺さま婆さま相手には失敗してしまうのが、ご愛嬌。途中、あまのじゃくは山父だと言われるということで、その挿話が入るのが、子どもに受けたのではないかな。一つ目に一本足という妖怪ですからね。文楽解説は、相子太夫さん、清丈さんコンビが消えてから、平凡になりつまらなくなってしまってます。「大江山」は、頼光四天王の一人渡辺綱の活躍譚。一条戻る橋で出逢った女は異形の者。川面に映った姿で、それが判明。その女を、街の外に連れ出し、舞を所望する綱。ここが中心ですから、これは舞踊劇ですね。そこで、両者の闘いへと移り、腕を切り落とすはずが、この山場で居眠り。どういう経緯があり切り落としがあったのかが、判らずじまいでした。次いで第2部。。「卅三間堂棟由来」は、わりかし最近も出たのじゃなかったかな。異類婚姻譚です。動物との組み合わせ話は多いのでしょうが、こちらは植物ととなります。そこに、白河法皇による卅三間堂建立話が絡んできます。ラストの木遣り唄が物悲しいとの記憶がインプットされていたのですが、肝心なところで、居眠り。こんなのばかりです。今回の上演は、和田四郎が出てくるというごちそう付きのヴァージョン。棟上げに求められる材木で儲けようと企む悪漢です。人殺しまでやってのけます。ここは、きっちりと観ることができました。レアなものだけに、してやったりの気分です。「大塔宮曦鎧」が、この夏休み公演の目玉。長らく絶えていたものの復曲というやつで、大阪では、初めての上演となるものです。後醍醐天皇と室町幕府との対立というよりか、後醍醐は、既に隠岐に流されたあとの設定ですから、後醍醐一派の掃討が行われている時期を背景にした相克と言えば、いいのでしょうね。後醍醐に連なる若宮の首を差し出せとなったとき、よく出てくる替え玉の首を差し出すという話は、文楽では、よくあるのですが、この物語は、何と二重替え玉物語で、最終的には、自らの孫の首を討って、若宮の首とするといういたたまれない展開。酷い結末は、文楽では当たり前のようにありますが、これだけはドン引きでした。おまけに、今日は最終日だということからでしょうね、その場面を担当された千歳太夫さんの声は聴けたものではなかったため、余計にドン引きとなりました。孫は討てないよ、いくらなんでも。


2018年 8月 6日(月)午後 11時 22分

 今日も、「高津おもいっきり落語研究会~8月全13日間興行」に行ってまいりました。午前中、眼医者に行き、検査薬を入れられたため、とっても見通しが悪いなかのお出かけ。今日の番組は、次のようになりました。南天「鰻屋」、ひろば「お玉牛」、たま「走り餅」、雀五郎「ねずみ」、全員「大喜利」。南天は、マクラで雀五郎いじり。この会では、トリの番の噺家さんは、幕内でネタを言っておくというルール。すると、他の噺家さんは、つかないように配慮してネタ選びをすることにしているそうですが、今日のトリに当たっている雀五郎は、そのネタ出しをしないという横綱相撲をとろうとしていると言いふらしたのです。そないなお遊びだけではなく、土用丑の日の言われについて、蘊蓄を披露してくれたりで、短い「鰻屋」が、終わってみると、30分近い高座になっていました。サービス精神旺盛です。「鰻屋」自体は、やはり喜丸からもらってるなの匂いが、ぷんぷんしました。 ひろばは、二番手の出番で「お玉牛」とは、サービス。あとから考えると、夜這いのシーンが、あまり記憶に残ってないので、軽く居眠りをしてしまったかもしれません。そないな中で書くのは憚れるのですが、ちょこっとだけ書くと、噺の展開は、軽いテンポで進むのですが、土臭い香りとか言う、田舎の空気感に物足りなさを感じてしまいました。たまは、珍しい「走り餅」。大津を出て、京都に入るまでの間、逢坂山での出来事。しゃっくりを止めるのに、前半の侍と乞食とのやり取りが伏線になっているのですね。上方落語には稀れな侍が出てくる噺。でも、その侍はしゃっくりまみれというのが、可笑しい。たまは、この「思いっきり」では、古典は珍品中心のようですね。そして、トリは、南天に伏線を張られた雀五郎。「横綱です」と言って登場しました。更に、「これで動物園でもすれば、、、」と、返しが上手い。遊んだあと、「それなりのネタを」と言って喋り出したのは「ねずみ」、納得の横綱的ネタです。雀五郎の口演の身上である快調なテンポが冴える、立派なもの。振り返ってみて、ネタの並びがいいですね。今日で、正味1時間半余りの落語の時間でしたが、たっぷり感が残ります。ここまでの5日間ともがそうだということは、いかに力のある噺家さんが揃っているかの、この上ない証拠なんでしょうね。


2018年 8月 5日(日)午後 11時 54分

 今日も、高津神社で落語を聴く日。「高津おもいっきり落語研究会~8月全13日間興行」の4日目です。その番組は、次のようなものでした。ひろば「桃太郎」、たま「お通夜」、雀五郎「野崎詣り」、南天「代書屋」、全員「大喜利」。今日も斬増。この調子で増えて行くのでしょうか。後半は、トルコ旅行と重なるため、目標達成が成るかを確認できないのですが、数値目標を出されると気になります。ひろばは、マクラで家族のこと、親戚のことを話してくれました。流れで、子どもの話が出てくるということでのマクラでした。ネタは、寝ようとしない子どもが、いきなり出てくるというものでした。たまは、初めて聴く新作。前半は、亡くなった父親を前にしたお喋り。ちょっとした「葬儀屋さん」の雰囲気。後半は、葬式当日に現れた父親の愛人を名乗る女性とのやり取り。その中でも、愛人が、父親が小椋佳好きだったということで、カラオケを使い、たまが数曲歌うという展開。会場は結婚式にも使われるということで、マイク、スピーカーが用意されているのに、目を着けたネタ選びになった模様です。25分以上もの口演だったため、あとから上がった雀五郎は、やりにくそう。そのためか、開口一番「普通の落語に戻ります」「どうしても地味になりますが、これが本来の姿です」と言ってから、ネタに入りました。確かに、派手で明るく、おまけに賑やかなたま落語に比べると、序盤は、盛り上がりに欠けますから、ホント地味に感じられてしまいましたが、堤を歩く人に喧嘩を仕掛ける辺りに来ると、ネタの強さ、雀五郎のテンポの良さが冴えてきました。雀三郎から受け継いだ「野崎詣り」ですから、口喧嘩のパターンが多く入っていますから、客席は、その物言いに、どんどんはまっていきました。今回のシリーズ初トリの南天は、「代書屋」を出しました。久しぶりに聴く南天の「代書屋」ということで身構えたのですが、ここで居眠り。前半が、かなり飛んでしまいました。新しいくすぐりが、ふんだんに放り込まれていたものですから、居眠りを恨むしかありませんね。


2018年 8月 5日(日)午前 7時 5分

 昨日は二部制の日。午前中にびわ湖ホールに行き、夜は文楽劇場というスケジュール。まず。びわ湖ホールですが、昨日は、「沼尻竜典オペラセレクション モーツァルト作曲 歌劇『魔笛』プレトーク・マチネ」があった日。10月の公演に先立ち行われたトークイベント。前半は、井上建夫 (前・びわ湖ホール館長)さんの司会で、沼尻 竜典 (びわ湖ホール芸術監督)さんと岡田暁生 (京都大学教授) さんのお話。後半は、中嶋 康子(ソプラノ)、清水徹太郎(テノール)、晴雅彦(バリトン)、松森治(バス)さんが、「魔笛」からの抜粋を、植松さやかさんのピアノ伴奏で歌われました。その曲目は、次のようなものでした。 2番:アリア「私は鳥刺し」(パパゲーノ)、3番:アリア「美しい絵姿」(タミーノ)、7番:二重唱「恋を知るほどの殿方には」(パミーナ、パパゲーノ)、15番:アリア「この清き神殿に」(ザラストロ)、21番:フィナーレ「パパパの二重唱」(パパゲーナ、パパゲーノ)。「トーク」では、沼尻さんは、この公演が、日生劇場との提携公演であることから、その辺りの話を主としてされたのに対し、いつものようにマイペースの岡田さんは、この物語を家族の物語と捉えることができるとのお話をされました。ザラストロと夜の女王は、元夫婦だとのお考えです。 その二人の娘パミーノと、恋に落ちるタミーノのキャラ付けもされ、ま、あるかなのお話でした。休憩を挟んでのミニコンサートは、びわ湖ホール声楽アンサンブルが生んだ好メンバーが揃うという贅沢なおやつとなりました。一番おもしろいのは、最後の「質問に答えて」です。休憩時間中にとったアンケートに答えるというコーナーですが、前半で触れられなかったフリーメースンとの関係について、やはり、こちらで出ました。第2幕は、フリーメースンの儀式そのものとか、あからさまにしすぎたモーツァルトは消されたいう話もあると、かなり興が乗りましたが、そないになるのが判ってんだから、最初に触れといてよと、思わず突っ込んでしまいました。モーツァルトとベートーヴェンの違いを切り口に、18世紀と19世紀のパラダイムの違いの話は、なかなか大切な話。沼尻さんは、毎回となってしまうのですが、ドイツの演出についてのお話。製作の裏に位置するところからの、指揮者との関係など、わりかしブラックなお話を聴けたんじゃないかな。
 びわ湖ホールを出ると、うだる暑さのなか、一旦、帰宅。この時間を利用して、冬のオペラ紀行用に、チケットを買いました。劇場によっては、早すぎることがなくなってきていますから、日程を確定し、飛行機を押さえたあと、時間を見つけて、チケットを買っておりました。あと1枚のチケットが揃えば、全てのオペラ&コンサートのチケットが揃いますが、そのあと1枚は、経験上、出発1ヶ月ほど前になるかもしれません。今年の春のオペラ紀行では、そんなのが5箇所ほどありましたから、この冬については、とっても楽な気分です。次は、ホテルを押さえることですが、そこまでを、トルコに出発するまでに終えておこうと考えています。で、夜の文楽は、「夏休み文楽特別公演」の内、第3部 「サマーレイトショー」です。その番組は、次のようなものでした。 「新版歌祭文~野崎村の段~」「日本振袖始~大蛇退治の段~」。昨日は、午前中からお出かけだったため、どこかで歪みが来るだろうと思っていたら、びわ湖では大丈夫だったのですが、もう大阪に向かう電車の中で居眠り。おまけに、文楽劇場までは、ウォーキングがてら歩いて行くことにしていますから、開演前にはぐったり。かなり飛び飛びの文楽鑑賞となっしまいました。「新版歌祭文」は、お染久松の物語として有名なもの。野崎村の久松の育ちの家が舞台です。久松との結婚を楽しみにしているおみつ中心に展開します。いつ観ても、せつない役柄です。お染が、久松に付いて来ていることを知り、悋気をするおみつ。でも、最後は、二人が死を覚悟していると悟ると身を引きます。結果論ですが、久作という久松育ての親が解らんになってしまいますね。最後は、お約束の連れ弾きです。野崎詣りでお馴染みの寝屋川土手の駕籠と川に浮かぶ船が、連れ弾きに乗り大坂に向かいます。やっぱ、この風景は、暑苦しい夏ではなく春の風景ですね。となると、季節外れの演目と思ったとき、はっとしました。この演目選びは、4代目春団治襲名のご祝儀かもと思ってしまったからです。ま、単なる落語ファンの妄想でしょうが。「日本振袖始」は、素戔嗚尊による八岐大蛇退治の物語です。一大スペクタクルものです。巨大な大蛇との格闘は舞踊ですね。歌舞伎にせよ、文楽にせよ、こうした表現が好きですね。すぐに文楽調になりますが、冒頭は能がかり。二胡は出るは、舞台脇前には、小鼓と笛といった囃子方まで出て奏でるという華やかなもの。大蛇に変身する岩長姫の人形は勘十郎さん、太夫さんは織太夫さんと、こちらも華やか。でも、目を醒ましておくのに懸命の黄紺でもありました。


2018年 8月 4日(土)午前 0時 4分

 今日も「高津おもいっきり落語研究会~8月全13日間興行」。これで3日連続になります。月末にはトルコに行く予定ですから、今の内に、たっぷりと、この連続落語会に行っておきたいのです。今日の番組は、次のようなものは。たま「ストーカー」、雀五郎「くやみ」、南天「いたりきたり」、ひろば「崇徳院」、全員「大喜利」。日毎に、客の入りは斬増傾向。でも、まだ40名には達していません。そんななか、わりとおもしろい番組となりました。たまは、普段あまり出さないネタ、特に程よい長さのネタを出していくつもりのようです。「ストーカー」も、以前に1度ならず聴いているのですが、久しぶり感があります。たま自身も、マクラに割く時間がなかったと言うほど、最近やってなかったみたいです。口演自体もスムーズではなかったですからね。自分の好きな男がストーカーに遭ってるのではないかと言って、その男を監視する、要するにストーカーをしてしまう女を描きます。ところが、ストーカーだと思っていた女は、その男の妻だったという落ちが付く噺。雀五郎の出した「くやみ」は、「向う付け」の一部を取り出したもの。「くやみ」の部分が取り出されたことで、これを含めた「向う付け」は、ほぼ聴かなくなってしまってますね。雀五郎で、このネタを、わりかし聴いている印象を持っています。炭屋の大将、べっぴんのおなごし、のろけを喋るまくる男の3パターンでた。今日は、いつもより長めに、べっぴんのおなごしの部分を喋ってくれたように思いました。「いたりきたり」は、あまりにも枝雀カラーが強く、没後、手がける噺家さんは稀れだったところに、南天が割って入ってくれたので、この高津で聴けるのではと期待していたもの。3日目で聴けで、もう大満足です。マクラで小咄を、幾つか振ってくれたのですが、その趣向は、先に進むにつれ、よく判らなくなっていくというもの。不思議な空気を醸し出しておいて、ネタに入ろうという思い。でないと、いきなり「いたりきたり」は無謀ですものね。そうは言っても、不思議な噺です。完全に枝雀ワールドで成立する噺だということを、再確認することになってしまいました。黄紺は、南天の口演を聴いていて、聞き手の方に満足できなかったのです。不思議な話を聞いて、納得してるのだろうか、解らないままスルーしちゃってるのだろうか、聞き手のスタンスが読みきれなかったのです。ここのところを、南天はどうしていくのでしょうね、期間を空けて、何度も聴いてみたいものです。トリのひろばは、自身のツイッターで予告した通り、「崇徳院」を出しました。1月の高津落語研究会の動楽亭編の収入で作った袴をはいての登場でした。ひろばの「崇徳院」は、以前にも聴いてはいるのですが、かなりグレードアップしていました。テンポを早めに設定。声調子も高めに設定と、基本枠からしてリニューアルしていました。それで良くなったのは熊五郎。序盤の若旦那とのやり取りで、明るく快活なキャラが、それで、すっかり出来上がりました。それに加えて、大きく演じることを心がけていたのが感じられたところにも好感が持てました。なんか、一皮むけたという印象。いろんなネタで、その雰囲気を出していって欲しいものです。「大喜利」の後半、「ジェスチャー」が傑作。ジェスチャーをしたひろばが、いろいろとやらかしてくれました。全身を使ったおかしな格好だけではなく、漢字が読めないため、お題と違うジェスチャーをやり出したのには、会場、大爆笑。「陽炎」を「腸炎」と読んじゃったんですから。


2018年 8月 3日(金)午前 7時 4分

 昨日も、「高津おもいっきり落語研究会~8月全13日間興行」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。雀五郎「道具屋」、南天「天災」、ひろば「書き割り盗人」、たま「人形買い」、全員「大喜利」。一昨日と似た入り。会場の雰囲気も、旧来の騒々しさが減り、落ち着いた雰囲気で開演を待てるようにはなっています。雀五郎の「道具屋」って聴いたことあっただろうかと、まず気になりました。聴いていても、随分と前になると思います。全体的に古風な印象を持ったのは、なぜでしょう。序盤が丁寧に喋られたからかもしれません。本屋の善さんを探す前に、いろんな店を眺めるシーンが入り、そこには、塩たい焼きなど、彦八まつりの屋台が並んでいました。雀五郎の遊び心は、センスがあって楽しめます。南天の「天災」は初めてです。南天風アレンジが、冒頭から冴えます。妻や母親を殴るのではなく、相撲の手で投げ飛ばすというもの。これは笑います。紅羅坊奈丸から話を聴くときの態度にも、南天の工夫が入ります。話が解らない、解らないからおちょくる、それを態度で表すというもの。そういった南天テイストの詰まった「天災」。今までに遭遇しなかったことを悔いてしまいました。ひろばの「書き割り盗人」も聴いたことあったかなと、ここでも、同じようなことを考えてしまいました。白紙に、実際に描いてもらうところの、2人の掛け合いのテンポが、いいんだなぁ。ただ、依頼手の応対する台詞が、ずっと同じだったのは、気になっちゃいました。たまの「人形買い」は珍品。仁鶴の持ちネタということで、その一門の噺家さんがネタ出しをされているのを見たことがあるくらいで、このネタの演じ手は思い浮かびません。お祝い返しと言っていいのか、よく判りませんが、長屋一同からお金を集め人形を買い、それを、八卦見と講釈師に見せに行くと、生業の言葉を一くさりやられてしまい、料金を請求されたしまうというもので、噺の構造が古くさいということなのでしょうね、手がけようとする噺家さんが出ないのは。そんなで、手入れをしたのかなぁと思いながら聴いていたのは、荷物持ちをしていた丁稚のお喋り。このネタの流れ、細部を覚えてないものですから、勘で書くことになるのですが、半ばにくる丁稚のお喋りに手入れをして、噺を蘇らせようとしたのかな、これは黄紺の勘でしかありませんが、、、。口演時間は、マクラで喋った繁昌亭ニュースを含めて、30分を超えるものでした。「大喜利」は、恒例の謎かけと「こんなところで落語会を」というものでした。


2018年 8月 1日(水)午後 11時 42分

 今日は落語を聴く日。今日から、すっかり8月の風物詩になった「高津おもいっきり落語研究会~8月全13日間興行」(高津宮 社務所「末広の間」)が始まりました。初日は、混みあうことが予想され、頑張って行くのもと思っていたのですが、さりとて、この落語会を差し置いてまでも行く宛てもなくということで、結局行くことにしました。その番組は、次のようなものでした。南天「遊山船」、ひろば「持参金」、たま「死神」、雀五郎「高津の富」、全員「大喜利」。今日は体調不良。昨夜、あまり眠れないなか、ちょっと多めのウォーキングをしたことが堪えたものと看られます。会場に入り、背もたれの短い席に座ると、ぐったりとできず、やたら寝転びたくなったものですから、これはまずいぞと思っていたら、やはり集中力を欠き、4人の高座ともに、満遍なく欠けるところが出てきてました。ですから、ほんの僅かのことをメモる程度にしておきましょう。南天の「遊山船」は、暑い8月の公演の開幕に相応しいもの。そして、ピカ一に上げたいほどの「遊山船」なのに、ダメでした。南天は、このネタには慣れているはずなのに、噛んだり、台詞を飛ばしたりしていたのだけは、きっちり頭に残っています。ひろばの「持参金」は珍しい。自身でも、そのように言いながらの口演。というのも、ひろばも噛んだりしたものですから、口演の中で言い訳を入れてました。たまの「死神」も、手がけ出して、さほど時間が経っていないはずなのが判っていながら、飛んでしまってます。雀五郎の「高津の富」は、黄紺的には初めてのはずです。当たったと喜ぶ人の背中をさすり、落ち着かせる人が出てきたり、オリジナルな工夫はインプットされましたから、体調のいいときに、再チャレンジすることにしましょう。振り返ってみると、初日だからでしょうか、各自のネタが素晴らしい。気合いを感じます。なのに、聴く態度がなってないこと、反省です。なお、今年の目標は、平均で60人以上、1回では135人だそうです。雀五郎曰く、「いきなりピンチです」。初日だから、詰めかける人、多数だろうと思っていたところ、完全に外してしまいました。


2018年 8月 1日(水)午前 2時 2分

 昨日は映画を観る日。テアトル梅田で、ドイツ映画「ヒトラーを欺いた黄色い星」を観てまいりました。まず、開演前に、満席になったどころか、通路にまで座り観る人が現れ、びっくり。テアトル梅田の狭い方の会場だったにしても、最近、しかも、夜の時間帯に、こないな入りの映画に遭遇したことがなかったもので、余計にびっくりでした。 昼間の上映では、広い会場を使っていますから、おそろく爺婆が、多数詰めかけているものと思われます。映画の構造としては、セミドキュメンタリーと言えばいいでしょうか。ナチスにより、ベルリンからはユダヤ人は根絶されたと発表されたにも拘わらず、そのベルリンで身を潜めて暮らしたユダヤ人の物語ですが、実際に生き延びたユダヤ人4人の証言と、その証言に基づき構成された再現ドラマが、交互に現れるという流れの映画でした。 配給制を採っていたため、身を潜めると、たちまち食糧確保に行き詰まる、匿ったら匿ったで、匿った人たちの食糧事情にも影響してくる。ユダヤ人に対する統制も半端じゃないえげつなさ。働く場所の確保、移動には常に危険が伴う、もちろん居住地の確保など、潜伏生活の困難さが描かれていきます。居住地の確保では、支援者がいることはいるのですが、逆にゲシュタボのマークに遭い、危険が増します。4人の体験を観ていて、結局、一番安穏なのは、普通のドイツ人に匿われたとき。そういったドイツ人の存在は心動かされます。一方で、ゲシュタボの手先になるユダヤ人の存在も描かれています。そういったのが、日常だったのでしょうね。こうした映画を観ていて思うのは、匿った人の中に、普通の市民もいるかと思うと、見て見ぬフリという姿勢を執りながら匿う軍人がいたり、また、反ナチの運動をする人を支援する人たちの連携が、ナチ内部にまで食い込んでいると思えるシーンも出てきたり、収容所から脱獄してきた男が、反ナチの文書を市民に送ったりと、そういった運きがあるというのが、なかなか日本のケースと違うのかなと思ったりします。いや、そういった運きがあったにも拘わらず、黄紺が知らないだけなのかもしれないのですが、、、。


2018年 7月 31日(火)午前 6時 48分

 昨日は、ツギハギ荘で落語を聴く日。昨夜は、「第54回客寄席パンダ」がありました。桂雀喜が、新作を発表する落語会です。その番組は、次のようなものでした。雀喜「ポイントカード2」、阿か枝「何人目(くまざわあかね作)」、雀喜「2045年(仮題)」。登場した雀喜は、まず、今、自分が学生の身分であることの特典をお喋り。中国語の語学学校に通っているのですが、そこでのクラスメートの話から、彼ら彼女らが有効活用しているポイントカードへと進み、ネタへ。どうも、ポイントカードのお世話になることが稀れな黄紺には、極めて難解というか、噺のおもしろみに着いて行けないのです。世間から隔絶された生き方をしてしまっていることを、改めて実感です。阿か枝は、自分で新作を書かないため、くまざわ作品を口演。京都の文化芸術会館で続く「お題の名付け親はあなたです」シリーズで生まれた作品だとか。主人公の分身が現れたことから起こる混乱を描こうとしているなと判ったとき、このプロットは、たまよね作品の「Myselves」じゃないかと思ったところまでは覚えているのですが、昨日は、ここで居眠り。ちょっと冷えかげんのエアコンは、いい気分になってしまいます。2つ目の高座に上がった雀喜は、マクラで、雀三郎の元一番弟子又三郎との交流の話を一くさり。この会の常連さんにはおなじみの話なのですが、それを、改めて雀喜がしたのは、新作に困ったときには、元又三郎に、3つのお題を出してもらい、三題噺の要領で、新作を作るとか。要するに、2つ目の作品は、そういった作品だということだったのです。楊貴妃、仏壇、それともう1つ出ているはずなのですが、忘れてしまいました。そうしてできたのは、今から30年ほど後の時代の噺。雀喜が80歳くらいになった頃を想定して作られたもの。雀喜を思わせる主人公の老人は、既に妻に先立たれ、一人暮らし。そこへ、野球少年のボールが飛び込んで来る。ボールを取りに来た少年を相手に、昭和を語る主人公という流れでした。雀喜とは違う世代を生きた黄紺にとって、雀喜の説く昭和も、解らないところ多数でした。致し方ないと言っても、落語を奔放に楽しめないのは、かなり哀しいところです。


2018年 7月 30日(月)午前 8時 42分

 昨日は、カフェモンタージュで、音楽を聴く日。昨夜は、「弦楽五重奏 - W.A.Mozart」と題して、次の5人の方たちのコンサートがありました。(ヴァイオリン)白井篤、横溝耕一、(ヴィオラ)中村洋乃理、金本洋子、(チェロ)北口大輔。そして、演奏されたのは、いずれもモーツァルトで、「弦楽五重奏曲 第3番 ハ長調 K.515」「弦楽五重奏曲 第4番 ト短調 K.516」。おもしろいユニットです。白井、横溝、中村の3人がNHK交響楽団、金本さんが京都市交響楽団、北口さんが日本センチュリー交響楽団と、東京組と関西組によるユニットなのです。ただ、以前、白井、金本、北口の3人が加わったユニットによるコンサートを聴いたことがありますから、そこいら辺の拡張版なのかなと、勝手に想像しています。また、チョイスされた曲目が、なんとも素敵。モーツァルトを代表する室内楽曲ながら、弦楽五重奏で、ヴィオラ2本というのが、どうしてもネックになり、有名曲なわりに、実際に生で聴く機会の少ない曲目なのです。そういった曲を、どんどん拾ってくれて、しかも、演奏者の顔ぶれにも、そそるものを用意してくれる、これがカフェモンタージュですね。演奏が始まる前に、金本さんからお話がありました。この日のヴィオラ奏者お二人の楽器が、同じ制作者に依るものとのことでした。なんか、それでインプットされてしまったのでしょうか、第2ヴァイオリンも含め、中音域を受け持つ3つの楽器が、等質で厚さを増して聴こえてしまいました。ま、それも故あることで、モーツァルトの時代は、第1ヴァイオリンが飛ばすような曲作りが為されますし、また、白井さんのヴァイオリンが、それに応えるかのように、快調な音楽を奏でるところへ、このアンサンブルでもキーパーソンになったのは北口さん。以前に1度、北口さんが加わったアンサンブルを聴いたときと同様、この人の軽く弾むリズムは、曲を左右するほどの威力と魅力を持っています。丁度、両サイドに、白井さんと北口さんが陣取られたため、余計に、お二人の音楽が引き立ち、中音域の3人の厚い支えを感じてしまったというわけでした。そういった意味で、アンサンブルとしての個性が出ていて、感じのいい演奏だったのですが、じゃ、それを好きかと問われると、若干躊躇いが生じてしまいました。軽さが勝ってしまったように聴いてしまったのです。それに気品が入れば、好き~になったのでしょうが、でもなかったというところでしょうか。


2018年 7月 28日(土)午後 9時 48分

 今日は講演を聴く日。高麗美術館と駐大阪韓国文化院の主催で行われた「第137回研究講座 ユネスコ“世界の記憶“登録記念シンポジウム『京・近江の朝鮮通信使』」に行ってまいりました。その内容は、次のようなものでした。【第一部(基調講演)】仲尾宏「ユネスコ登録への道のり」、佐々木 悦也「雨森芳洲先生と朝鮮通信使」、【第二部】パネルディスカッション(パネラー:仲尾 宏・佐々木 悦也、進行 :鄭 喜斗)、(テーマ)朝鮮通信使とは/朝鮮通信使の世界遺産登録の意義/京・近江に残された「朝鮮通信使」の足跡/今後の課題。【第三部】映像上映「朝鮮通信使と民衆」。なお、パネラーのお二人は、次のような肩書きをお持ちの方です。仲尾宏氏(高麗美術館理事・京都造形芸術大学客員教授)、佐々木 悦也氏(高月観音の里歴史民俗資料館学芸員)。朝鮮通信使が「ユネスコ“世界の記憶“」に、昨年登録されたことを受けての催し。この登録は、マグナ・カルタが登録されているのと同じものとの、解りやすい説明が、まずありました。人類の歴史に大きくあずかった、また、後生に大きく寄与するであろう歴史資料を登録することで、記憶に残していこうという試みのようです。この登録の重要なポイントは、日韓両国が、専門の学者が、合同委員会を設け、この登録に向け努力されたことというのが強調されていました。歴史認識問題では、政治的な思惑が絡み、合同委員会などは夢の世界ですから、この登録に向けた合同作業は、画期的な事業という外ないでしょう。善隣友好のモデルとして、将来的な日韓関係に寄与するとの思いが結実したのが、この登録の意義だということが、パネラーや司会の方の強いメッセージだったと思います。申し込む際には、研究者対象の催しではないかと、怖もので電話をしたのですが、実際に行ってみると、真逆のスタンスのコンセプトでの開催で、何よりも話されていることが解ったのがありがたかったのですが、一方で、お話が日本に残る痕跡は話されるのですが、韓国での痕跡は、今回も知ることができなかったのが惜しまれるところでした。この催しは、昔の烏丸車庫跡に造られた京都市北文化会館であったので、三条駅からの行き帰りを、本日のウォーキングに当てました。行きは、まだ太陽が強く暑かったのですが、鴨川縁は、まことに爽やかで、暑さに耐えることができました。帰りになると、台風の影響でしょうか、ここ2週間の猛暑では考えられない、涼しげな風が吹き、まことに気持ちのいいウォーキングができました。


2018年 7月 27日(金)午後 10時 37分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「夜のガスパール」と題して、久末航のピアノの演奏会がありました。そのプログラムは、次のようなものでした。“C.フランク:前奏曲、コラールとフーガ ロ短調」「M.ラヴェル:夜のガスパール」。久末さんは、以前、石上真由子さんとのデュオのコンサートを、同じカフェモンタージュで開かれたこともあり、聴いたことがあり、若くて溌剌とした演奏に好感を持ったため、今日のコンサートをチョイスしてみました。 ラヴェルの難曲をメーンに、同じフランスものでも、趣の異なるフランクを配置したプログラム。2曲で、1時間には足らないのですが、この2つが並ぶと重量を感じてしまいます。オーナー氏の解説によると、フランクの曲は、ロマン派初期の趣とありましたが、それは、ちょっとと言いたくはなりましたが、右手が奏でる音感は、どうしてもフランスもの。その性を蓄えた曲です。カフェモンタージュのピアノは、高音部で、弾き手の特徴が顕著に現れるなと看ているのですが、久末さんのピアノに、前回感じたきらびやかさは、今日は、あまり感じることはなく、ちょっと機械音のように感じてしまい、自分の耳に?が付いてしまったのですが、でも気になってしまったな。これは、フランクで感じたのですが、一方のラヴェルは、冒頭で決まっちゃいますね。こればかりは、ラヴェルに突っ込みたくなるほど、難しい。春から初夏にかけての陽射しが、水面をなでる煌めき、瞬間の煌めきが求められるものと、黄紺は思っています。ヤカモズではなく、少女マンガの眼差しに付けられるキラリと来るやつです。それで、聴く方の姿勢が決まっちゃいます。で、決まっちゃいました。黄紺は、微睡みながら聴くことになりました。正面から受け止めようとはしなくなったということです。やっぱ、難曲でした。


2018年 7月 27日(金)午前 5時 26分

 昨日は、動楽亭で落語を聴く日。昨日今日の2日間は、東京の落語芸術協会の噺家さんの公演があります。題して「第8弾 動楽亭で江戸噺~夏だ!4・6・4・9 江戸噺」。その中の夜の部に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。おとめ「寿限無」、遊馬「片棒」、夢丸「汲みたて」、(中入り)、全員「トーク“旅はたのし“」、鯉朝「小言念仏」、遊雀「御神酒徳利」。昼の部には、円楽の飛び入りがあったとかで、気をもたせた夜の部でしたが、こちらは、平穏に推移。出足は遅かったのですが、遊雀が、大ネタをネタ出しをしていたからでしょうか、結構な入りになっていました。この4人は、やはり芸協のスターなわけですから、足を運んだ方にも、入りが気になってしまいます。今回の4公演、前座は、全ておとめが担当。できちゃったグループと親しい鯉朝によるブッキングでしょう。遊馬は、まず、ボランティアを求められて落語をした経験から、けち兵衛さんの出てくる小咄をしだしたので、上方の「始末の極意」に相当するネタを出すのかと思ったら、「片棒」でした。ま、これも、けちな父親の噺ですが、、、。マクラの喋りっぷりが、えらくおっとりしていたため、「片棒」になじむのかと思ったのですが、わわしさがクレッシェンドしていき、聴いていて落ち着きました。夢丸は、去年と比べて、随分とイメージが変わりました。あとの「トーク」で、そうだったのですが、この人のひらめきって、めっちゃ早いですね。スピーディーな突っ込み、でもしつこさがない。普段の喋りっぷりも、とっても小気味良く、その普段のお喋りの仕方が、そのまま落語になっているという感じ。とっても頭が良さそうに見受けられたのが、1年前と大きな違いで、上方のノリのようなものを感じました。ネタは、題名しか知らないもの。稽古屋に通う男たちが、何とか稽古屋の師匠をものにしようと言い合うだけの噺と言えば、それだけにまとめることのできるものですが、そこに、夢丸キャラが被り、なかなかの好演。来年は、この人を目指して、行ってみようかな。「トーク」は、「御神酒徳利」にかけて、旅の話。というか、落語家さんは、旅をするのが仕事みたいなものですから、イコール、地方の仕事の思い出というところでした。根室日帰りって仕事があるというのには、驚かされました。鯉朝は、「六尺棒」をするつもりだったら、先に「片棒」が出てしまい、替わりに「夜の店屋もの」をしようと思ったら、子どもが客席にいたということで、「小言念仏」。こんなネタもするんだと、正直、思いました。ラジオを聴くエピソードが入るのが、上方ものに慣れている身には新鮮。そこへ、大阪ネタを、きっちり放り込めるのは、さすが鯉朝です。そして、お待ちかね「御神酒徳利」。鯉昇にもらったなんてことを、序盤で、さりげなく入れてくれました。遊雀は、笑いのポイントを、とっても心得ている人。そのポイントは、絶対に逃さず、口調、表情のデフォルメをつけることを怠りません。かなりこじつけっぽい偶然が、占いに利用される展開になっていますから、全体を通じてのとぼけた味を出す遊雀の語り口と、そのデフォルメが効いていきます。大阪からの帰り道は、東海道五十三次を織り込み、スピーディーに。もう噺は終わりだの雰囲気に、呆気ない落ち、うまく出来た噺です。このチームは、やはりスター揃いだの印象を、再確認。もう1日、行くようにすれば良かったと思っても、手遅れ。今日は、また、違った楽しみを入れてしまってます。


2018年 7月 25日(水)午後 9時 25分

 今日は、繁昌亭の昼席に行く日。今週は、「笑福亭喬介 第12回繁昌亭奨励賞受賞記念ウィーク」とした特別な週なのです。その番組は、次のようなものでした。華紋「道具屋」、ぽんぽ娘「引き出す女」、生喬「遊山船」、揚野バンリ「お笑い曲芸」、花丸「鉄砲勇助」、喬介「まんじゅう怖い」、(中入り)、喬介・松喬・梅団治・生喬・花丸(司会)「記念口上」、梅団治「天災」、たま「太鼓腹」、松喬「禁酒関所」。喬介の記念ウィークに相応しい、とってもいい顔ぶれ。受賞者の意向が反映できるということを聞いたことがありますから、この豪華さは、やはり、そういうことだと思います。華紋は出来すぎの前座。掛け軸の部分を省いたりして、時間調整も万全でした。ぽんぽ娘の二番手は、いい色変わり。出演者をネタにした「似たもの」遊びも、今日の出演者をいじってくれますから、おもしろみが増します。いい感じでここまで来たのですが、今日は、このあとがいけなかった。生喬、バンリ、花丸という素敵なラインナップのところで、居眠りをしてしまいました。生喬が、正に天神祭の今日に合わせてのネタ選びをしてくれたのですが、クーラーの冷気は、黄紺には睡眠薬替わりになってしまいました。そして、今日の主役喬介は、中トリで登場。ネタは、可能性があると思っていた「まんじゅう怖い」。時間を、かなり意識した口演で、好きなもの、嫌いなものの言い合いも短めだったのですが、今日は、ちょっと意識して早口にしていたものですから、時々噛みそうになったりと、ちょっと、いつもの喬介ではなかったな、残念。「口上」では、生喬が、おもしろいことを言いました。喬介の前の受賞者たまと喬介の間には24人がいるそうで、「24人抜きになるわけで、東京だったら大変なことになっている」。この喩えは、喬介の受賞が快挙だということを、うまく言い表していますよね。また、梅団治が、口上に並んだのは、ネタをもらっているということでだそうでした。その梅団治の高座が良かった。「受賞歴は鉄道の写真だけ」という自虐ネタから入り、3代目の下での修行時代の話がおもしろく、ネタも、びっくりの「天災」でした。梅団治が「天災」をすることすら知らなかったのですが、マクラで、自虐的にとぼけた味を出していたのが、「天災」のむちゃもんキャラに被さっていき、何を言っても笑いが起こるという状態。しかも、「天災」が、ざこばからもらったものだったため、むちゃもんぶりが著しく、笑いのボルテージが上がるばかりでした。もう笑い疲れたというところで、たまの登場。たまの高座で、爆発的なという笑いを感じなかったのは、それだけ、梅団治がボルテージを上げていたからに他ありません。たまの「太鼓腹」は初めて。いきなり、若旦那と幇間の対峙からスタート。最後まで、落語の舞台は、この2人がいるスペースで展開しました。噺の骨子は、確かに、それで十分なのですが、省かれた序盤には、幇間のらしさの描写があり、下げも、お茶屋の人との会話で成り立たせた方が、言葉が生きてくると思いました。また、針を抜くときの迎え針の喩えもカットされていました。トリの松喬は「禁酒関所」。梅団治、たまの2人が掻き回したという雰囲気のなか、松喬の高座になると、えらく落ち着いた雰囲気になりました。風格を感じさせる高座と言えば、いいでしょうか。酒の呑めない松喬の酒を呑む描写が、やたらリアルで、それが可笑しく、番小屋の侍が、軽いダジャレを交換して遊ぶなんてところに、松喬らしさが出ていました。繁昌亭の周りは、屋台でいっぱい。今日は、天神祭当日。桜宮橋は、船渡御を観るには、絶好のロケーションだからでしょうか、繁昌亭から、その桜宮橋を越えても、屋台は続いていました。黄紺は、繁昌亭昼席後の定番、千林までのウォーキングをしてから、帰途に着きました。


2018年 7月 25日(水)午前 7時 34分

 昨日は、動楽亭で落語を聴く日。昨夜は、「第32回 桂米紫・桂文鹿ふたりで200席」に行ってまいりました。船場寄席で行われていた時期も含めて、今までに行ったことのなかった落語会。その落語会の番組は、次のようなものでした。希遊「鉄砲勇助」、文鹿「ふかひれスープ」、米紫「宮戸川」、(中入り)、米紫「ろくろ首」、文鹿「後家馬子」。前座の希遊の落語は初遭遇。落語家口調になるための修行期間中というところでしょうか。文鹿は、昨日は、2つともネタ下ろし。「ふかひれスープ」は、知り合いのパキスタン人のレストランでの経験を基に作ったそうです。感覚の違いをテーマにするということを言ってからの口演だったのですが、実際は、注文した品物をただで食べるだけの噺だったため、また、下げも何もない噺だったため、あとから出た米紫に、「未完成品」と断定されていました。「後家馬子」は、文鹿も言ってましたが、現在は、文三しかやらない噺です。後家になった母親が、新しい男に夢中になり、実の娘をもないがしろにしたため、亡くなった夫の実弟が意見に来ると、居直るというだけの噺。新しい男を馬子にしてあるのは、下げを導くだけ。噺が暗いうえ、深みもない噺ですから、敬遠されるのは納得です。噺はつまらないのですが、文鹿のしっとりとした喋りっぷりは、えらく気に入ってしまいました。米紫の方は、「宮戸川」がネタ下ろし。この東京ネタ、上方の噺家さんも取り上げる人が出てきています。但し、半七お花の馴れ初めのところだけですが。思いがけない偶然が、二人を男女の仲にするわけですが、米紫の口演は、端から、この噺は、そういった展開に持ち込むぞということを、言外に匂わせての、とってもわざとらしいもの。そして、そのおもしろさに成功したと看ました。半七が叔父の家に向かうときの、お花の歩き方一つとっても、そういった視点での計算ずく。叔父夫婦の応対は、更に露骨になっていきます。そして、終わり方が傑作。二人が、体を寄せ合ったところで、楽屋から、鉦が1つ打たれると、 「お時間です」と言って下りる趣向。これは大受け、大成功でした。「ろくろ首」は、ざこば組の前座の定番ネタ。入門後3つ目のネタだったと言ってました。もちろん、米紫のキャリアになると、最近はやってないようですが、久しぶりにせよ、やはり年季の違いを見せつけました。ちょっとした間の違い、身体表現が重なると、こないにも新鮮に聴こえるのかと、感心することしきりでした。


2018年 7月 24日(火)午前 4時 11分

 昨日は繁昌亭に行く日。夜席の「桂しん吉夏の祭典’18 芸歴20周年企画第四弾~『独演会』篇」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。弥っこ「いらち俥」、しん吉「若旦ニャの恋」、佐ん吉「代脈」、しん吉「化物つかい」、(中入り)、しん吉「本能寺」。昨日は、暑すぎるなか、1時間ほどウォーキングをしてから、涼しい繁昌亭に入ったからでしょうね、半ばで居眠り。佐ん吉の高座としん吉の「化物つかい」を、しっかりと聴くことができませんでした。「化物つかい」の序盤、口入屋の場面の言い回しが、吉朝テイストだったために、いい感じで始まったぞと思っていただけに、残念。佐ん吉の方は、何度か聴いているネタなんで、残念度は、ちょっと低めです。ということで振り返ってみると、前座役の弥っこの「いらち俥」は初遭遇。ちょっと人に合わないかなと思って聴き出したのですが、やっぱ、その見方が正解かなというところ。今や、このネタは、デフォルメばやりで、それをするパワーや小細工があるかというと、弥っこは、もっと違った魅力の持ち主かと思ったのが、合わないかなと思った原因。ですから、違ったもって行き方を考えたのかなとも思ったのですが、そうでもなかったなというところでした。しん吉の1つ目は新作。ねこ派の落語家グループに名を連ねるしん吉が、ねこ派落語会用に作った新作。でも、鉄分いっぱいの仕上がりになっていました。導入部は、「崇徳院」「千両みかん」を思わせるもの。閉じこもった若旦那は、鉄ちゃんだけど、ねこ派でもありました。可愛がっていたねこを探しに行った熊五郎が、そのねこを見つけたのは踏み切り近くと、鉄分混じりになっていきました。好きなもの、得意なものを持ってるって、ホント、強いですね。そして、中入り明けが「本能寺」。黄紺は、残念ながら聴けなかったのですが、先日は、生寿がネタ下ろしと、若い噺家さんによる口演が続きます。以前には考えられなかったことですが、それこそ、芝居噺をやりたくて、また、早くから芝居噺の見参を積んだ結果、「本能寺」に至ったということですので、楽しみにしていた口演でした。しん吉は、マクラで、芝居噺を3つに分類してくれました。芝居好きな人たちが、何でも芝居にしてしまうパターン、「質屋芝居」などですね。次が、噺の途中から芝居掛かりになるパターン、「小倉船」を、しん吉は上げていました。そして、最後に来るのが、芝居を、そのまま演じるもの。この最後のグループに、「本能寺」は入るということを言ってからネタへ。ここで、これが、一番難しいぞとのコメントを入れなかったのは、しん吉の辛抱遠慮でしょうね。前2つは、お遊び的立場からの芝居掛かりなのに、と言っても、そこが難しいのでしょうが、それに対し、3つ目は芝居そのものですから、本格的になっていくのが難しいぞという所以です。2つ目に気になったのは、下げが判りにくいので、予備知識を与えるのかと思っていたところ、こちらはスルー。なもので、下げを、解りやすいものに変えるのかなと、頭で思い描くなかスタートしました。スタート早々、気になり出したのは、軽いタッチで描こうとしているなの雰囲気。2つ目までのグループのノリを感じてしまったのです。なかでも、台詞回しが気になったのですが、そのノリで推移したため、急にイナゴを翔ばす客が出てきても、違和感が涌かなかったというのが実感でした。そのあとの下げも、従来のもの。ディープな落語ファンにしか解らないそれでしたから、最後の拍手に勢いが感じられませんでした。ディープな人たちが拍手したのにつられて、何となく拍手をしているという雰囲気でした。やっぱ、下げの解説、やっておいて欲しかったなというのが、正直なところでした。


2018年 7月 23日(月)午前 6時 48分

 昨日は、午前中、Gに会いに行き、2人でお留守番。それからのお出かけ。昨日もオペラを観る日でした。昨日は、びわ湖ホール・新国立劇場提携オペラ公演「トスカ」(アントネッロ・マダウ=ディアツ演出)に行ってまいりました。その配役は、次のようなものでした。(トスカ)キャサリン・ネーグルスタッド、(カヴァラドッシ)ホルヘ・デ・レオン、(スカルピア)クラウディオ・スグーラ、(アンジェロッティ)久保田真澄、(スポレッタ)今尾 滋、(シャルローネ)大塚博章、(堂守)志村文彦、(看守)秋本 健、(羊飼い)前川依子。それに加えて、合唱が、新国立劇場合唱団とびわ湖ホール声楽アンサンブル、児童合唱が大津児童合唱団でした。また、オケピットには、ロレンツォ・ヴィオッティ指揮の東京フィルハーモニー交響楽団が入りました。新国立劇場の誇る豪華な舞台、限られた舞台でしか上演できない舞台という謳い文句はウソではなく、国内製作のオペラで、これ以上の装置を持ったプロダクションはないかもしれないと思わせられる贅沢さ。1幕の教会の場面は、テ・デウムのときには、堂内の祭壇部を後景にした広い空間を表しますが、そこに至るまでは、側廊部の礼拝堂が必要だとばかりに、その装置が前に置かれ、テ・デウムの準備に入ると、前部の装置が、左右に開かれていきました。黄紺は、思わず「卑怯」と呟いてしまいました。2幕はスカルピアの執務室。奥の間付きでした。そこに書き物机。手前の部屋は食卓用と使い分けができますから、トスカはナイフを取りやすい。豪華な印象を与えるだけではなく、合理性も併せ持つ構造になっていました。食卓用テーブルは右隅。左側には、大きめのソファが置かれていました。アクション面では、トスカによるスカルピア刺殺は、二度刺し。音楽は止めずに二度刺しでした。通常は一度刺しで、象徴的に刺殺場面を表しますが、二度刺すことで、より強い憎しみと刺殺のリアリティが出てきますが、ま、ここは議論の分かれるところ。音楽を止め、執拗に刺し続けるプロダクションもあるところです。トスカは、部屋を去る前に、スカルピアの遺体に、2本の燭台を置き、最後に、胸に何か置いたのですが、暗くて見えませんでした。一緒に観ていた高校時代の友人に確かめても、ものは判りませんでした。胸に置くなら十字架だろうとは思うのですが、、、。3幕も豪勢。サンタンジェロ城の天使像の場面が、冒頭と処刑に使われ、その間は、天使像のある位置から下部の場所にしてある。その場面のために、せり上がりが使われていました。噂通り、装置の豪華さが目立つプロダクション。「トスカ」の場合は、さほど変化のつけにくい作品ですから、オーソドックスな展開であっても、何ら不満はなく、十分すぎる満足感に浸ることができました。そういった面での満足感以上に、いい歌手が揃うと、やはり満足感はひとしおとなります。おまけに、前日に「魔彈の射手」を観ていますから、どうしても比較してしまいます。あまりにもの歌手陣の違いに茫然といったところです。「魔彈の射手」は、よくできたプロダクションだと思うと、余計に歌手陣に目が行ってしまうため、彼我の違いに茫然としてしまうのです。それだけ、この「トスカ」の主役3人が素晴らしい出来栄えだったのです。しかも、2日連続の2日目だったにも拘わらずにです。ホルヘ・デ・レオンのカバラドッシは、ベルリンで聴いたときよりは、声に厚みがあり太く感じました。友人も、「本格的なイタリア・オペラのテノール」と満足。ネーグルスタッドは、ここまで聴けてなかったことを悔いる、と同時に、ここで聴けた嬉しさで、満足。看板に偽りなしです。同じく友人は、「低い声に凄みがある」と、こちらも満足。当初、この2人には、キャリア的に劣ると思っていたクラウディオ・スグーラですが、とんでもありません。2幕は凄みがあり、聴かせてくれました。友人は、「期待の人らしい」と、その評判に裏打ちされた出来と絶賛してました。いや~、「トスカ」は、主役3人が揃うと凄い。こんないい公演なのに、入りが寂しかった。「魔彈の射手」は、8公演で入りが素晴らしいのに、こちらは、2公演で寂しい入り。関西の音楽ファンは、何を考えているのでしょうね、ホント。勿体ない。


2018年 7月 22日(日)午前 3時 46分

 昨日はオペラを観る日。兵庫芸文センターであった「佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2018 魔弾の射手(ミヒャエル・テンメ演出)」に行ってまいりました。その配役は、次のようなものでした。(オットカー侯爵)町英和、(クーノー)鹿野由之、(アガーテ)カタリーナ・ハゴピアン、(エンヒェン)マリア・ローゼンドルフスキー、(カスパー)ジョシュア・ブルーム、(マックス)クリストファー・ヴェントリス、(隠者)斉木健詞、(キリアン)清水徹太郎、(ザミエル)ペーター・ゲスナー、(合唱)ひょうごプロデュースオペラ合唱団、そして、佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団が、オケピットに入りました。総じて、なかなか装置に、お金がかかっているなの印象。さすが、8公演を、一挙にうてるまでになった、この公演の実力を示すもの。第1幕は、逆三角形の敷き舞台に、それに沿った通路が付き、木をデザイン化しつつも、素材的には丸太を立て、森に見立てるもの。第2幕は、その敷き舞台の上に、箱型の家を設え、余計なサイドのスペースを幕で消したというもの。ただ、照明が明るすぎたのが、玉にキズというところか。でも、箱型の家には屋根が付いているのが、嬉しいところ。第3幕は、第1幕の装置に、木でデザイン化した岩場を置いたもの。こういった象徴的装置すら稀にしか観ることができないオペラ公演のなか、わくわくしちゃいました。正中に、弾を作る火があり、最後には、そこからザミエルが出てきて、空中高く伸び上がる仕掛けが用意されていました。ゾンビが、たくさん出てきたり、雷鳴、雷光を思わせる効果音なども入り、仕掛けは上々でした。第4幕第1場は第2幕と同じ。同第2場は第1幕に戻りました。マックスが魔弾を撃つと、アガーテは、それを制止するため、左サイドの通路を走り出てきて撃たれるというもの。と同時に、左前に出されていた岩場の作り物にいたカスパールが崩れ落ちました。アガーテの家の照明が明るすぎた以外は、ちょっとしたメルヘン風で、時や場所を移さないでのプロダクションとすれば、最良の部類に入るものと看ました。歌手陣は、期待のヴェントリスが平均的な出来。高音に、少し声の質が落ちるのが難点かな。ただ、キャリアからして、もっと凄い歌手かなとは思っていた者からすると、さほどではないなというところか。カスパーのジョシュア・ブルームは、昨日も、福井からやってきた高校時代の友人が言ってました。「途中から、声質が変わった」と。それを受けて、黄紺は、「本当のバスって少なくなったしね」と応じました。バスらしい、重みと凄みが、途中から影が薄くなったからでした。でも、昨日の歌手陣では、ここまでが評価できるところ。女声陣が、ちょっと寂しかったのです。アガーテのカタリーナ・ハゴピアンは、友人に言わせると、序曲にも取り入れられているメロディの出てくるアリアで、「感情移入がない」「せっかくのいいアリアが、、、」となりましたし、黄紺は、「眠たくなった」と応じる始末。エンヒェンのマリア・ローゼンドルフスキーは、まだパワーはあっても、あまりきれいな声ではなかったですね。とまあ、主役の歌手陣は、男女で差が生まれてしまってました。終演後、翌日に備え、福井には戻らず、大阪に宿をとっていた友人と食事。帰る頃になると、さすがの暑さも、僅かでしたが和らいでおりました。


2018年 7月 20日(金)午後 10時 45分

 今日は、年に1回、昔の同僚が集まる日。以前は、楽しみにしていたのですが、外の世界との交渉が、ほぼなくなっている現状を思うにつけ、出かけていくのが、著しく億劫になってきています。慣れないことをしようかというときに、自分の中に作る垣根のようなものが、年々歳々、大きくなってきてしまってるのでしょうね。年嵩が増すということは、それだけで、生きる厳しさが増すということでもあると認識する日にもなってきました。


2018年 7月 19日(木)午後 9時 46分

 今日は運のない日。電車のダイヤを見間違い、1台遅い電車に乗り、人身事故に遭遇。腰に問題を抱えるにも拘わらず、長い間、電車の中で立ちんぼうで待たされてしまいました。40分ほど停車してたかな、ようやく動いたと思ったら、最寄りの駅まで行って、運転中止。とりあえず、乗客を降ろすことを優先したのですが、これは運転再開ではなく、その車両をのかしただけ。運転再開は、更に待たねばならないうえ、動いても満員で、また立ちっぱなしでは、もう腰がもつわけはないと判断。大阪に向かうこと、落語会に行くことを諦めました。今日は、動楽亭であった「第10回やじきた亭から遠くへ行きたい~上方落語協会遠足部による落語会」に行くつもりをしていたのですが諦めました。1つの間違いから起こったありえない現実。完全に意気消沈。余計に暑さを感じるようになってしまいました。


2018年 7月 19日(木)午前 6時 32分

 昨日は講談を聴く日。天満橋の双馬ビルであった「南華の会」に行ってまいりました。「女侠客奴の小萬をパキッと読むの巻」と銘打たれた講談会、マクラでの南華さんの説明によると、「奴の小萬」というネタは、小萬が侠客になるまでを描いたものしかないとのこと。そこで、侠客になってからの小萬の活躍を、南海さんが作ったそうです。そのフルヴァージョンを、昨日、南華さんが読まれたというわけです。既に、南海さん自身の口演で聴いたことがありますから、その筋立てを思い出しながら聴いておりました。三好屋に弟子入りした小萬が、米相場の人足をするわけにもいかず、炊きだしなどで、その活動に関わるなか、街に溢れる行き場のない子どもの世話をすることとなり、その名を上げていくとともに、三好屋が米相場に関わりながら、子どもたちの口に入る米が、容易く手に入りにくくなっている現実を知っていきます。米相場で儲けようとする大商人による売り惜しみを知るようになり、それを出させる工夫、女侠客としてできる活動と言えばいいのでしょうか、そういった活動で名を上げていくとともに、侠客になったため、不縁になっていた父親との関係修復が図られて行くというもの。「女」&「侠客」という点に焦点を当てた、南海さんらしい細やかな配慮が見えてくる作品です。南華さんは、今年の東西交流で、「牡丹灯籠~お札はがし」をもらわれるそうで、大阪での披露は、怪談なのに冬になりそうと言われたため、一同、笑って、お開きとなりました。


2018年 7月 18日(水)午前 0時 32分

 今日は落語を聴く日。法善寺の庫裡であった「法善寺寄席 染吉っとんの会~法善寺編」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。染吉「桃太郎」「三枚起請」「五貫裁き」。前座も入れず、全く染吉一人だけの会。しかも、「桃太郎」「五貫裁き」がネタ下ろしと、えらく頑張るのが、染吉らしいところ。「桃太郎」は、染吉には珍しく、オリジナルなくすぐりが、過不足なく、また、心地よいタイミングで入るというもの。高座に自信が持てるようになってきたのかなぁ、今まで試みようにもできなかったであろうことができるようになってきて、また、それが自信に繋がっていってるってことでしょう。マクラも、以前は、頑張ってフランクに喋ろうとしていたのが、自分も、喋りながら楽しんでるという風情が出てきてますものね。「三枚起請」も、なかなか新鮮。まず、何よりもいいのがこてる。お喋りで、手前勝手な雰囲気が伝わりました。主役の3人のキャラ付けも、なかなかおもしろい。喜六は、ちょっとアホ度を高くしたもの。もちろん、松枝のように、喜六を軸に据えるほどの高さではありません。清八が、なかなか興味深い。大概は、源兵衛寄りのキャラに持って行くのですが、染吉の場合は、喜六的キャラも入っていそうな男。意味もなく怒り出すかと思うと、芝居の真似をしてみたりで、そう思っちゃいました。仕切り役キャラというのが、源兵衛のキャラ付けの定番かと思っていたら、さほど落ち着いた男でもなさそうという感じ。ま、こてるに騙されてるわけですから、根本的にはしっかり者ではないはずですが、3人の内では、そうなってくるのですが、染吉の口演では、この男も、どこかに喜六が入ってると感じさせるのです。ですから、3人のキャラが、全体として喜六が入っているなかでの差異っていうものにしようとしているようでした。これが正解なのかもしれないな、でも描き分けが、一段と高度になってしまいそうですね。だから、清八に、芝居掛かりの喋り方を容れた? ありそうですね。誰からもらったのでしょうか。とっても、気になりました。「五貫裁き」は東京ネタ。大岡裁きの噺ですから、講釈ネタなのでしょうね。上方では、南光が持ちネタにしているくらいだと思っています。果たして、染吉は、その南光からもらったのでしょうか。お裁きものながら、お裁きの場面は短く、お裁きが何を意味していたのかをばらしていくところが、噺の本筋になっています。大家さんに力点を置いた口演。確かに、大家さんの読みの確かさ、押しの強さが、徳力屋をやり込めるのですから、したたかさを強調する必要性は解るのですが、その底にあるのは、一人の人間を更正させてやりたい優しさとか暖かさ、労りの気持ちがあってのこそのはずです。そういう観点でいくと、上にあるしたたかさや強さばかりが出ていたように思います。その替わりと言っていいのかが解らないのですが、丁々発止のやり取りがイキイキしていたのも確かです。ですから、お裁きの行方を知りたい気持ちを引き付ける力は、十分に備わっていたかなというところです。この噺が、こないな水準で聴かせてもらえるのなら、「帯久」「ねずみ穴」「さじ加減」にもチャレンジして欲しくなりました。不器用ながら、数多くのネタにチャレンジしていく中で、様々な工夫を込めながら、噺を作り上げる噺家さんになってきました。特に、今日の3つの色合いの違う噺を聴いて、強く思うようになりました。気がつくと、染吉は、遥か遠くまで来てしまってました。努力の賜物ですね、正に。


2018年 7月 17日(火)午前 5時 17分

 昨日は、シネヌーヴォで映画を観る日。ラジニカーント主演のインド映画「リンガー」を観てまいりました。ラジニカーントは、マハラジャ役の祖父と、そして孫で泥棒を生業にしている男との二役。盗人稼業に精を出していると、ある日、マハラジャの血筋の者しか、神殿の扉を開けることができないということで、探し出されて呼び戻され、そこで、祖父の偉大な業績、それは、地域一帯のために、私財を、また、マハラジャの地位を投げうってまでも、ダムを建造して、人々に尽くしたという姿。祖父の時代ですから、ヒールは、イギリス政府の役人。あくどく、情け容赦ないイギリス人が出てきました。植民地支配をするイギリス人の典型的な姿、これを、インド映画で、久しぶりに観ることができました。そして、祖父の業績を汚してはと、祖父の造ったダムを壊し、私腹を肥やそうとする悪漢を退治して去って行くというもの。前半は、孫のラジニカーントが出てきて、いよいよ故郷に戻るという辺りで、うとっと来てしまい、その間に、祖父の業績が展開する時間ギャップが起こり、えらく戸惑ってしまったのですが、そこは、解りやすいがモットーのインド映画ですから、事なきを得ました。この前、ラジニカーントものを観たのは、マレーシアのインド人という役柄だったはず。その映画から気になっていたのは、ラジニカーントが、ダンスシーンで、ほとんど動かない。カット割りで、うまく動いているかのように見せているのですが、実際はそうじゃないものですから、やはり年齢を感じざるをえないのが、一抹の寂しさを感じてしまいました。ま、最後の気球のアクションは見せていたかなで、ちょっと安心した次第。9月には、このシネヌーヴォで、インド映画の集中上映があるようですので、また楽しみができました。


2018年 7月 16日(月)午前 7時 15分

 昨日から、早速、日常の生活に復帰。動楽亭であった落語会に行ってまいりました。昨夜は、「染ちゃんの月影十番勝負!! 平成最後の七月場所」という、林家染太の主宰する落語会がありました。智之介との二人会には行ったことがあるのですが、染太が単独で主宰する会に行くのは、これが初めてとなります。その番組は、次のようなものでした。二葉「牛ほめ」、染太「禁酒関所」、三金「赤とんぼ」、(中入り)、三金×染太「デブトーーク!」、染太「夢八」。二葉の「牛ほめ」は、久しぶりに聴きました。うまいものです。やはりアホが突き抜けてるのがいい感じですが、それとコントラストがつく教え手や池田の伯父きの落ち着いた語り口も聴かせます。染太は、まずマクラで海外公園の話をいろいろ、外国の食べ物話からお酒へと移り、自然とネタへ。ショーアップを図った口演というのが染太落語なのではと思っているのですが、マクラからネタへと、「禁酒関所」というネタは、それを受け止めてくれたように思えました。マンガ化してみたり、ちょっと大仰に描いたりと、功を奏していたように思えました。その一方で、「夢八」はどうだったでしょうか。南天からもらったと思える、山羊の出てくる夢の話なんかは、そういったショーアップ落語に合うようにも思えたのですが、怪談ぽくなるところを、怖いオモロイを放棄した、単なるコメディにしてしまおうとしてしまった方針にはついていけなかったなぁ。コメディにもなってなかったかもしれませんね。そもそも、何で「夢八」を手がけようとしたのかすら、見えてこなかったというところでした。ゲスト枠は、デブサミット仲間の三金。従って、「トーク」では、デブサミットから始まったデブ談義になりました。その三金のネタは、染太がリクエストを出したのかな。三枝作品の中でも人気の高い「赤とんぼ」を出してくれました。童謡唱歌の蘊蓄が詰まった噺。歌唱が入りますから、三金にとっても、やりたくなる噺でしょう。この会の第1回目だったからでしょうか、染太の知り合いがかなり来ていたようで、大入り。逆に、ディープな落語ファンのお姿は、どなたも見かけなかったという会でした。


2018年 7月 8日(日)午後 11時 16分

 今日は、動楽亭であった、ちょっと風変わりな講談&落語会に行ってまいりました。それは、「第1回 囲碁の寄席」という、南湖さん企画の会。その番組は、次のようなものでした。第1部「囲碁の部」=特別ゲスト・山田規三生九段・星川拓海四段(囲碁のルールと楽しみ方など)、第2部「演芸の部」=南湖「原爆投下の本因坊戦」、そうば「笠碁」、南湖「柳田格之進」。会場は、出演される棋士の方たちの教室に通われていると思われる人たちでいっぱい。普段の講談会では考えられない大入りに、驚ろかされました。前半は、南湖さん親子が通われている囲碁教室の先生方が主役。囲碁のルールから始まり、九路盤対戦、但し、これには、趣向が用意されていて、対戦者は、好きなところで、一発逆転も可能となる賽子を使うことができるというもの。また、客席は、誰が優勝するかに投票ができ、賞品が当たるという企画でした。後半は、囲碁に関わる講談と落語。南湖さんの「本因坊戦」は、この日のための新作と看られます。物語は、黄紺も知る本因坊戦の物語。囲碁史に取材すると、戦国武将なども関わる読み物もできるし、なかなかの宝庫かもしれないぞ、そないなことを考えながら聴いておりました。そうばは、 まず囲碁との関わりを、マクラで喋ってくれましたが、それを聴いて、あっさりと納得。師匠ざこばの囲碁の相手をするために、囲碁を覚えたそうです。そのざこば譲りのものと考えられる「笠碁」を出したのですが、なんかイメージが違いました。裕福なご隠居さんが、年甲斐もなく意地を張り合う可笑しさ、で、長閑な、ゆったりとした時間が流れている噺だと思っていたのですが、そうばの口演はせわしなくて、、、。2人の間には上下関係があるように描かれているのにも、違和感を覚えてしまいました。そないなことだったからでしょうか、後半は居眠り。この居眠りが、南湖さんの「柳田格之進」にまで食い込んでしまいました。やっぱ、囲碁の講談となると、これかで、仕方ないですね。怪談もあるんだけどなぁ、でも、2回目があるか判らない会となると、やっぱ、これだよねで、納得でした。


2018年 7月 8日(日)午前 8時 5分

 昨日も、まだ雨が続きました。午前中は、一昨日までに比べると、降り方がましだということで、その間隙をぬい、ウォーキングに出かけました。ウォーキングをしないと、体が落ち着かなくなっています。幸い、逃げ出すような雨にならず、狙い通りにウォーキングをすることができました。そして、夕刻から、昨日も映画にお出かけ。京都シネマで上映中のノルウェー映画「ヒトラーに屈しなかった国王」を観てまいりました。大阪での上映時には観ることができなかったもの。随分と時間が経ってからの、京都での上映です。中立国ノルウェーに対するドイツ軍の侵攻受けた際の、ノルウェー側の政府、国王の動きと苦悩、ヒットラーの命を受けた在ドイツ公使の動きと苦悩を描いた映画です。ドイツ艦隊が、ノルウェー海域に侵攻するところから、映画はスタート。王室一家、政府は、オスロを退避。力でもって威嚇をしながら、ノルウェーの降伏を迫るドイツ軍、これはヒットラーの意向と見えます。それに対し、在ノルウェー公使は、 力による威嚇ではなく、外交手段でもって、ノルウェーをドイツ寄りにさせようとします。このドイツ側のスタンスの違いが、物語を単純化することを防いでいます。しかし、現実として、ドイツ軍の侵攻は進み、空爆の支援も受けた陸軍による侵攻が進むなか、退避を続ける王室と政府。ノルウェーには傀儡政権も立ち、その政権との提携で、ノルウェー掌握を目指すドイツ。軍事力で、ノルウェー掌握、国王捕縛を目指すドイツ軍に対し、王室の合意を得たうえでのノルウェー掌握に持ち込もうとする公使のせめぎあいのなか、国王と公使の会談が設定されるのが、映画のクライマックスになります。この会談で、国王が断をくだすことが、ノルウェーの民主主義を狂わせはしないかと考える国王のスタンスが素晴らしく、この期に及んでの躊躇いが、この国の民主主義を支えていってるのでしょうね。ただ、映画としては、かなり逃亡劇に割かれているのが、惜しいところでした。


2018年 7月 7日(土)午前 8時 25分

 昨日は豪雨に見舞われた日。何度も、避難勧告を知らせるため、携帯が鳴ったのですが、しかも、指定地域にも入っていたのですが、動くこともなく、幸い、大事にも至らず、夜になり映画を観に行くことになりました。鄭義信が、自身の作品を映画化した「焼肉ドラゴン」を観に行ってまいりました。関西でも、芝居の公演はあったのですが、お値段が高くて断念した作品。映画化されたおかげで観ることができました。数々の演劇賞をもらったので、評価は高いということは知ってはいても、中身は、この映画を観るまでは知りませんでした。在日の家族の物語でした。その家族に、在日の人たちが背負っている歴史が凝縮してました。戦争に動員され、片腕を失った父親。帰るに帰れなかったチェジュドの住民虐殺。母親は、朝鮮戦争で逃げてきたって言ってたかな。戦後のニューカマーという位置付けになっている母親。いじめで自死する長男、最終的に、北に行くことになる長女。新しいニューカマーの男性と韓国に移り住む次女。妻のある日本人男性と最後は結婚することになる三女。焼肉屋ドラゴンを舞台に繰り広げられる一つの家族の行く末が描かれていくと、自ずと在日の歴史になっていきます。時代は、1970年前後、高度経済成長の乱熟期。在日社会でも、多様な生き方が議論され、また、その選択肢も多く、そういった意味で、興味を掻き立てる時代であったように思います。そういった中で、父親の言う、「ここでしか生きていけない」「前を向いて生きていかなくてはならない」「明日はいい日がくるはず」的な生き方も、一つの見識でもあるのだけれど、この家族の場合は、長男の自死という悲劇を喚んでしまいます。この映画、全編、在日の視点だけで描かれています。ですから、傍らに住む日本人として、何ができるのか、できないのか、考えさせられてしまう映画だと思いました。母親役だったイ・ジョンウンがいいですね。在日のオモニ役という慣れない役柄に、僅かに戸惑いのようなものを感じさせるところが、余計に在日を感じさせます。やっぱ、3部作全部、観ておいたら良かったと、今頃思っても手遅れですね。後悔先に立たずです。この映画の同時代に生きた人ばかりでなく、この時代を知らない世代の人たちに、ぜひ観てもらいたい作品です。


2018年 7月 5日(木)午後 11時 44分

 今日は音楽を聴く日。京都コンサートホール(小)であった ラ・メリ メロ アンサンブルの演奏会に行ってまいりました。このアンサンブルは、京響メンバーとゲスト陣により構成されていますが、その顔ぶれは、次のようなものでした。[Vn]泉原隆志、直江智沙子、中野志麻、山本美帆、[Va]鈴木康浩、金本洋子、[Vc]上森祥平、福富祥子、[Cb]神吉 正。そして、演奏された曲目は、次の通りでした。「ブリテン:シンプル・シンフォニーop.4」「バルトーク:弦楽のためのディヴェルティメントSz.113」「エネスコ:弦楽八重奏曲 ハ長調op.7 (コントラバス入り九重奏)」。なかなか魅力的なプログラム。中でも、最後のエネスコは珍しい。編成自体が特殊だし、ましてや、エネスコという、決してメジャーでない作曲家ですから、聴く機会なんてものがなかったものと思われます。聴いてみると、いかにも西欧風ではないというエキゾチックなメロディラインに、独奏楽器化したヴァイオリンとヴィオが躍動します。正に泉原さんと鈴木さんの掛け合いの妙です。それに加えて、弦楽器が、同じリズムを刻むことが多く、やたら重厚な響を産んでいきます。その上を駆け巡りヴァイオリンとヴィオラというところでしょうか。このエネスコは、第1楽章で、曲の方向性を、嫌が応にも埋め込まれ、あとは身を任せるだけという感じ。ソロを受け持ったお二人、さすがでした。聴き堪え十分でした。そういったエネスコを最後に控え、プログラムは変化に富んでいます。とっても古典的で、耳に馴染みやすいブリテンが出たかと思うと、野性味を秘めたバルトークが続く。しっかりとしたアンサンブルに加えて、いいプログラミング、ホント、素敵なコンサートを体感することができました。そのほっこほっこ気分で外に出ると、往き以上の雨脚にうんざり。帰りは、多少の雨でも、三条駅まではウォーキングをして帰るつもりをしていたのですが、あの雨脚では、あっさりと断念。せっかくのいい気分に、水をさされたってやつでした。


2018年 7月 5日(木)午前 8時 35分

 昨日は、韓国旅行前最後の落語だけの会に行く日。あと1回、落語を聴く機会はあるのですが、落語だけではないということで、昨日は貴重な日。昨日は、台風直撃かもと心配をしていたのですが、うまい具合に逸れてくれました。その落語会は、ツギハギ荘であった「パンチョウ一門会~ニッポンの夏、パンチョウの夏~」。またしても、不思議な落語会を、天使が企画したということを知りながら、実際に行くことができたのは、昨日が初めて。その番組は、次のようなものでした。全員「コント」、桂笑イースト金「アリとキリギリス」、桂食パン三金「アリとキリギリス」、桂治門ブラン「ほっとけない写真」、笑福亭鶴笑トブレッド「時☆ゴジラ」、月亭グル天使「佐々木裁き」、全員「大喜利」。「パンチョウ」一門は「米朝」一門に対するネーミングだとかで、噺家さんの名前に、パン系の名前をあしらったのは、そのあとの所作だとか。きっちりとした噺ではない、くだけた楽しいものを提供する落語会ということだそうです。「コント」のあとは、おもしろい試み。師弟で、違った噺を作ろうという試みです。笑金の作品は、大学卒業を控えた2人の男の歩みが、アリとキリギリスなものというもの。でも、その後の展開は、イソップとは違うというのがミソ。笑金にとっては、初の創作となったそうで、黄紺的には、顔すら知らなかった笑金の口演の初遭遇でもありました。三金の方は、アリという名のボクサー、要するにモハメド・アリからの連想です。キリギリスの方は、キラー某がなまった名前となっていました。こちらは、名前に使っただけで、イソップを想起させるものはありませんでした。治門は、図版を使い、ちょっとおもしろ写真の紹介という高座。テレビを観なくなった黄紺は、広く世事に疎くなったため、この手の高座は、ホント、苦手になりました。何が可笑しいのかが解らないのです。鶴笑は、「笑点」用に縮めたものの試技といった高座。依頼される口演時間により伸ばせることを想定して、ネタは10分にまとめるようにしているそうですが、10分より短い依頼ということがないため、その作業にかかったようで、その出来栄えを、実際に高座にかけて測ろうということだったようです。「時☆ゴジラ」のフルヴァージョンを聴いたことがあったため、かなり厳しい作業と推測しました。天使の「佐々木裁き」は初めて。本日唯一の正統派古典。ところが、この口演は、カミカミどころか、一瞬、次が出てこないこともあり~ので、惨憺たる出来で、最後のトークでは、次回は、「佐々木裁き」をネタ出しをしてチラシを作るように、皆さんに突っ込まれていました。でも、お奉行さんは、存外良かったですよ。ネタを繰りすぎても、真っ白になることもあるようですので、原因は、よく判りません。今回も、仕込みはされてはいるのですが、それが完成されない、、、天使の落語会らしさが出ていただけではなく、鶴笑や三金という先輩噺家さんから、それを突っ込まれるという姿がありました。そういった天使らしさがネタ化している可笑しさのあった会でもありました。


2018年 7月 4日(水)午前 8時 44分

 昨日は映画を観る日。一昨日までは音楽会が続きましたが、昨日からは、巡り合わせでしょうが、映画が続いていきます。昨日は、テアトル梅田で、パレスチナ映画「ガザの美容室」を観てまいりました。舞台は、ほぼ全編、題名通り、ガザ地区にある平凡な美容室。表通りに面した窓にはカーテンが引かれ、外からは見えなくしてあります。ですから、美容室内の美容師と客、もちろん、全て女性だけで占められているわけですが、彼女らは、1人を除いて、皆さん、アチュックの状態。1人だけいるカパルのままで順番待ちをしている女性は、頑なまでに信仰を口にする女性とのキャラ付けをされていますから、あっさりと納得。美容師は2人、1人は、婚約を控えた女性の身繕いを担当、もう1人は、だらしない男との縁を切れないでいる女性です。そして、担当している女性は、かなりお高くとまる、しかし、どこかしか教養のありそうな印象を与える女性(この女優さん、どこかで観たことがあります)。カパルの女性を連れてきた女性は、下世話なことを喋り続ける女であり、婚約を控える女性の母親も、待ち合いの椅子に座っていますし、産み月の近そうな女性が、付き添いの女性とともに順番を待っています。まだ他にも客はいますが、そこで交わされる会話は、ガザ地区では日常的なもののようで、ただ、横柄な口のきき方をする者や、いらぬ話題を撒き散らして、人が嫌がるのを楽しんでかかってそうな厄介な者もいますが、非日常の世界の話が進行しているとは思えない風景です。そこへ、屋外で、銃声が響き、人の怒声が聴こえと、一瞬にして、何気ない馬鹿話も、恐怖の色が帯びていきます。外で、具体的に、何が起こっているのか、解る人が観れば解るように作ってあるのかもしれないのですが、黄紺には解らなかったのですが、何が起こっていようが、あまり美容室内には関係なく、外で騒乱が起こり、美容室が危険に晒され閉じ込められたということで十分な情勢となります。内でも、当然ながら緊迫が高まり、女たちの苛立ちから、わけもなくいさかいが起こります。そのときに発せられる台詞が素晴らしい、いや、その台詞を言わせるために、この映画が作られたのではと思わせる台詞です。「あんたたち、男たちと同じことして、何やってのよ」。この言葉も掻き消されそうなほどの緊張のなか、外の扉をたたく音がします。美容師の、離れることのできない頼りない男が傷つき、助けを求めて来たのです。女は受け入れます。が、すぐに逃げ込んだのを見つけられ、男は連れ出され、車の荷台に、男が連れていたライオン(男の暴力の象徴でしょう)、そのライオンも、男同様、ぐったりしたまま、男とともに運び去られて行きます。ここの経緯の中で、外から踏み込んだ男たちの台詞もふるっています。「女はどうでもいい、あいつだ」。女たちは危険が及び、緊張が高まっているにも拘わらず、男たちは相手にしていないということになります。運び去られて行くのがエンディングです。この何とも言えない構造の告発、お見事です。男と女が噛み合ってない、何とも言えない構造を、見事に映像化しています。でも、それに気づき、映画化する意志に希望が見える素晴らしい作品です。多くの人に観て欲しいなぁ、そう言える作品でした。


2018年 7月 3日(火)午前 7時 5分

 昨日も音楽を聴く日。これで、5日連続で、音楽を聴きに行ったことになります。そういう巡り合わせだということでしょう。昨夜は、フェニックスホールで、関西弦楽四重奏団の「ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 全曲ツィクルス 第3回」に行ってまいりました。関西弦楽四重奏団は、(ヴァイオリン)林 七奈、田村安祐美、(ヴィオラ)小峰航一、(チェロ)上森祥平のユニット。昨夜演奏されたのは、次の3曲でした。「弦楽四重奏曲第5番イ長調op.18-5」「弦楽四重奏曲第11番ヘ短調“セリオーソ“op.95」「弦楽四重奏曲第7番へ長調“ラズモフスキー第1番“op.59-1」。1曲目の5番は、立ち上がり、ちょっとバランスが悪いかなと思ったのですが、さほど時間の経たない内に、修正。お客が入ると、演奏者には、入る前と違って聴こえたのかもしれませんね。この5番で感じ出していたことが、次の「セリオーソ」で確信に変わりました。前回と、関西弦楽四重奏団のパワーが、かなり違って聴こえたのです。パワーアップしているのです。前回までの席と、同じ2階でも、サイドが逆になったのが原因かと思い、確認のために、隣の席の方に尋ねました。偶然のことですが、前2回と同じ方と隣り合わせになり、その方が、カフェモンタージュの常連さんなため、お互いに顔見知りだったからです。そしたら、とってもいい回答をしていただけました。パワーが違って聴こえるのは、フェニックスホールの改装が原因じゃないかなと言われたのです。確かに、この間、改装がなされており、昨日のコンサートというのが、再開間なしのコンサートでしたし、黄紺にとっては、再開後初めてフェニックスホールに行ったからでした。そのパワフルな音は、セリオーソで最高潮に達し、関西弦楽四重奏団のベストの演奏に数えていいのではと思える、見事なアンサンブルを披露してもらえました。ここまでの2曲の第1ヴァイオリンを務めたのが林さんで、シャープめの音楽に合う、その実力を発揮していました。最後のラズモフスキーでは、交代がなされ、第1ヴァイオリンを務めたのが田村さん。ラズモフスキー1番のデリケートな音楽には、田村さんのヴァイオリンが合いそうということで期待したのですが、第1楽章では、ちょっと神経質になったのか、えらく線の細い音になっていました。しかし、徐々に快復。やはり、これも修正の結果ということでしょうか。昨日は、プログラム的には、珍しく、後期の曲がなく、中期2曲に、作品18から1つという配置、しかも、繊細さが柱というラズモフスキーの1番を、ラストに持ってくるというプログラミング。梅雨の季節に、ヘビーな後期の作品を避けようということだっただったのでしょうね。昨日は、会場で、いろんな人と会うことができました。なかでも、驚きは昔の職場の同僚。何年ぶりになるのでしょうか。この前に会ったのも、確かコンサート会場。でも、2人とも、どのコンサートであったのかを思い出せるほどの時間ではない時間が経っていました。最初は、フェニックスの中で、次いで閉まりかけたあとは、フェニックスホールの前で、気がつけば、 小1時間立ち話をしてしまってました。文楽といい、音楽会といい、懐かしい人と会うことができる、黄紺にはありがたいスポットです。


2018年 7月 1日(日)午後 10時 44分

 今日も音楽を聴く日。カフェモンタージュに行ってきました。今夜は、「D.ショスタコーヴィチ」 と題して、ヴィオラの鈴木康浩さん、ピアノの桑生美千佳さんの演奏を聴くことができました。読売日響の大阪定期に合わせて、カフェモンタージュでコンサートが持たれたもののようです。一昨日は、直江さんの出るコンサートも聴けたしと、 読売日響様々といったところです。今日のプログラムは、次のようなものでした。「K.ペンデレツキ:カデンツァ (1983)」「D.ショスタコーヴィチ:ヴィオラソナタ 作品147 (1975)」。ヴィオラ・ソロのコンサート自体が珍しいうえ、黄紺も聴いたことのない曲が並ぶというプログラミング。やはり、そこは、ヴィオラの鈴木さんの魅力が惹き付けました。ペンデレツキはヴィオラ・ソロの曲。かなり野性味豊かな曲想に加えて、高等テクニックを求めるというもの。ペンデレツキほどではなかったですが、ショスタコーヴィチも、同様に、テクニックによる聴かせどころが用意されていましたが、ヴィオラの持つ中低音域の響きに重きを置くという魅力も兼ね備えているところが、ショスタコーヴィチらしく、既存の作曲法から新しい感性を導き出してくれていました。鈴木さんの演奏は、今まで聴いたことのある情感のこもったものというスタイルではなく、テクニカルな面をアピールしつつ、豊かな色合い、響きを大切にするというもの。そういった意味でも、やはり、この人の演奏には、いつもながら惹かれてしまいます。それに加えて、桑生さんの無機質で、機能性重視のピアノが、なんとも素敵なもので、きっちりと花を添えていたことに、目が行ってしまいました。こういった感じのコンサートも、なかなかいいものですね。


2018年 7月 1日(日)午前 6時 29分

 昨日は、びわ湖ホールでオペラを観る日。バーリ歌劇場の「イル・トロヴァトーレ」(ジョセフ・フランコニ・リー演出)の公演がありました。主たるキャストは、次の歌手陣でした。(レオノーラ)スヴェトラ・ヴァシレヴァ、(マンリーコ)フランチェスコ・メーリ、(ルーナ伯爵)アルベルト・ガザーレ、(アズチェーナ)ミリヤーナ・ニコリッチ。それに加えて、ジャンパオロ・ビサンティ指揮のバーリ歌劇場管弦楽団/合唱団の出演でした。この公演、実は問題の公演。というのも、10日ほど前に、当初、レオノーレに予定されていたバルバラ・フリットリのキャンセルが入り、鬱窟とした気分にさせられてしまったのです。今年は、ベルリンでのアンジェラ・ゲオルギューに次いで、大物歌手のキャンセルに遭遇です。この世界、キャンセルが起こりうることとして、チケットを買いますが、実際にキャンセルに遭うと、不快なことには間違いありません。従って、スヴェトラ・ヴァシレヴァは、その代演となります。名前も知らなかった歌手でしたが、つい数日前、偶然、彼女が、ラモン・ヴァルガスとルドヴィコ・テジエとともに出た「エルナーニ」がDVD化されていることを知り、未知の大物かもと思わせられたことで、ちょっとは気を鎮めて、びわ湖に向かうことができました。しかし、生で聴いてみると、この公演は、正に、フランチェスコ・メーリを聴くために行ったことが判りました。アルベルト・ガザーレやミリヤーナ・ニコリッチが悪かったわけではありません。フランチェスコ・メーリが、特に後半、圧倒的歌唱を見せ、他を、大きく引き離してしまったのです。アルベルト・ガザーレの場合は、ソロで歌うと存在感を見せるのですが、重唱になると、呆気なく霞んでしまってました。昨日も、福井から来ていた高校時代の友人も、首をかしげるばかり。ミリヤーナ・ニコリッチは、正にアズチェーナ向きの素敵な声でしたが、若すぎました。でも、今後が楽しみな逸材でしょうね。そう書いてくると、スヴェトラ・ヴァシレヴァが落ちます。ムラが大きく、声の美しさに欠けるということで、彼我の違いは大き過ぎるのじゃないかな。それに対して、メーリの素晴らしかったことと言えば、喩えようのないもの。前半は、ちょっと喉を詰めるような歌唱で、決して完璧ではなかったのですが、後半は、きっちりと修正してきました。大変なものを聴いてしまったとまで思わせるものの備わる歌唱でした。プロダクションとしては、大時代的で、今どきのものと言えるものではありません。場面転換ごとに、緞帳が下がり、軽いポーズが取られるというもの。しかし、そのようなポーズを取るに相応しいような場面転換でもなく、上からの吊るし、両サイドからスライドさせて入る書き割りが出てくる程度。小道具とて、椅子が出される程度。それに、度々ポーズが取られる。歌手陣も、さほど動かされるわけではなく、スター歌手の歌唱を聴かせることに主眼が置かれた古いスタイル。芝居をさせようというスタンスが見えてきませんでした。イタリアの演出事情、これは、友人とも言ってたのですが、南イタリアって、まだ、こんなのをやってるかもと、そんなのを判らないまま、好き勝手な憶測を飛ばしておりました。こういった引っ越し公演を観に行くにつれ、やはり大規模な装置や大胆な演出、そういったものに遭遇できるのは難しいように感じてしまいます。そう感じると、高いチケット代を支払い、観に行く値打ちってあるのか、そういった疑問を持ってしまうのです。まだ、海外に出かける体力があるわけですから、その間は、無理して国内での引っ越し公演に行く価値があるのか、コストパフォーマンスが崩れてやしないかと思ってしまいます。そういった、引っ越し公演に行く度に思うことを感じつつも、だけど、メーリの歌唱を聴けたのは、これだけは替えがたいものとして、いつまでも残ることでしょう。友人と、「今日はメーリを聴きに来たようなもの」で、あっさりと一致いたしました。
 で、実は、このあとが大変だったのです。公演の最中、びわ湖ホール辺りは、ゲリラ豪雨に見舞われていたのです。終了後すぐに、「JR線、京阪線が停まっています」と。これは驚きました。幸い、間なしに、「京阪線は運転再開をしました」と入ったため、黄紺は帰れることになったのですが、福井から来ている友人が帰れるメドは、全くないため途方に暮れ、とりあえずは、浜大津まで歩き、そこから京阪線と京都地下鉄を乗り継いで、JR京都駅を目指すことに。午後7時半頃に京都駅に着いたでしょうか。京都駅は、電車に乗れない人たちで、大混雑。案内所でも、ネット上の情報でも、午後8時半をメドに運転再開を言ってるのですが、先日の地震のときは、結局、それが延びていって、終日休止になったこともあり、運転再開を鵜呑みにはできないうえ、友人は、特殊な切符を買っていたため、運転をしていた新幹線を利用するためには、長蛇の列ができているみどりの窓口で、切符の変更手続きをしなければならないので、できれば在来線だけを使い帰りたいと言います。ので、とりあえずは、食事をしながら、8時半を待つことにしました。しかし、その時刻に戻り、案内所に行くと、再開予定だった電車は運転打ち切りが決まり、福井方向には臨時便を「出すかも」との話。出すことが確定ですらなかったもので、結局、まだ帰れる時間だということで、友人は、新幹線を使い帰るために列に並ぶということを決断して、黄紺は、ここで別れ改札を抜け、駅のコンコースに上がって行きました。すると、駅員が「湖西線、運転再開です」と叫んでいたので、行き先を尋ねると「近江舞子まで」でしたので、これはダメ。その直後、今度は「野洲行きが出ます」との放送。東海道線が不通だったのは、「京都~草津」間。野洲は、そんな草津より米原寄り。ということは、これに乗れば、福井へ行けるのです。慌てて、改札を抜け、みどりの窓口に並ぶ友人の元へ。ここには、コンコースでの案内は届いていませんでした。ちょうど、1番線に野洲行きが入り、出発間近だった電車に間に合い、友人は帰って行きました。そして、午後10時20分頃に、米原からメールが入り、「なんとか今日中に帰れます」とのことで、ようやく、この顛末に終止符が打たれました。いや~、凄いことでした。このおまけで、すっかりオペラの印象は薄れてしまいました。ホント、罪な雨です。でも、京都ですから、外国人もいっぱい。案内所で友人が尋ねている間も、案内所に助けを求める外国人の姿に、目が釘付けになりました。明日は我が身です。いえいえ、ドイツ鉄道の案内所に駆けつけた我が身を見た思いで、ちょっと胸が締め付けられました。


2018年 6月 29日(金)午後 11時 15分

 今日も音楽を聴く日。しばらく、こないな日が続きます。今夜は、久しぶりのバロックザールで、ヴェンツェル・フックス “クインテット”と名づけられた室内楽のコンサートに行ってまいりました。ベルリン・フィルの首席クラリネット奏者ヴェンツェル・フックスと4人の日本人奏者を加えてのコンサートでした。その4人の奏者とは、(ヴァイオリン)川田知子、直江智沙子、(ヴィオラ)大島 亮、(チェロ)辻本 玲。そして、演奏されたのは、「モーツァルト/クラリネット五重奏曲 イ長調 K. 581」「ブラームス/クラリネット五重奏曲 ロ短調 op.115」でした。この2つのクラリネット五重奏曲を聴けるというスーパーなプログラム、日本を代表する弦楽器奏者にヴェンツェル・フックスという組み合わせ。このコンサートのチラシを見つけたとき、その足でチケットを買いに行ったほどのコンサート。また、実際、そのコンサートが、頗る付きの素晴らしいもの。なかでも、ヴェンツェル・フックスの音色、それに付ける彩りの、何て素敵だったことでしょう。2つのクラリネット五重奏曲では、その音色からして、明らかにモーツァルト寄り。長閑さ、暖かさ、そういったものが、天然素材として、ヴェンツェル・フックスのクラリネットに備わっているものですから、弦楽器4本は、アンサンブルを保つのに勢力を注いでいましたし、それが、きれいに決まるものですから、極上のモーツァルトを聴くことができました。そのモーツァルトが良かった分、また、音色的にもモーツァルト寄りということで、ブラームスに馴染むのに時間を要したことは事実です。ブラームスの濃い色合いに、なかなか入っていかなかったのです。それに加えて、黄紺の座った位置の関係でしょうか、辻本玲のチェロが、やたら大きく聴こえ、時としては耳障りなほどにもなってきて、居心地の悪さを感じていました。ようやく、「これもブラームスだ」とばかりに、ヴェンツェル・フックスのブラームスを受け入れていけるようになってきた終盤、急に下腹に刺し込みが来そうになり、3楽章などは上の空に。今日は、居眠りの替わりに、刺し込みもどきが起こりかけ、冷や汗もの。我慢のなか、4楽章に入ると、音楽に集中できる態勢に快復。すると、このヴァリエーション形式の楽章、ここに来て、俄然、この演奏がおもしろくなった。ヴァリエーション形式変わると、楽器の主たる組み合わせも変わる。主として、クラリネットと何かであるのですが、これが、まるで競うかのように、各演奏に味が出るので、おもしろくて、、、。すっかりお腹の変調も、どこへやら。楽しませてもらえました。期待をかけて、その期待通りの演奏とくれば、これほど舞い上がることはありません。いいものを見つけたものです、我ながら。


2018年 6月 29日(木)午前 0時 2分

 今日は、久しぶりにカフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「ヴィエルヌ&フランク」と題し、(ヴァイオリン)高木和弘、田中佑子、(ヴィオラ)米田舞、(チェロ)中島紗理、(ピアノ)大野真由子の皆さんの演奏がありました。演奏されたのは、次の2曲でした。「C.フランク:ヴァイオリンソナタ イ長調 (1886)」「L.ヴィエルヌ:ピアノ五重奏曲 ハ短調 作品42 (1918)」。なお、フランクは、高木さんと大野さんのデュオでした。まず、そのフランクからスタート。先日の石上さんと金子さんのラヴェルのときの、石上さんの始まり方もそうだったのですが、何か、すごく大事に丁寧に弾こうとしているのだけども、その構えて弾こうという姿勢だけが伝わってきて、肝心の音楽は素通りをしてしまう、その感じと同じものを、このフランクでも感じてしまいました。音楽が縮んでしまってるようで、やたらスケールが小さく感じてしまうのです。音の厚さにも満足することもできなかったなぁというのが、フランクでした。ヴィエルヌは、黄紺的には知らない作曲家。カフェモンタージュでは、19世紀後半以後のフランス人作曲家を、いろいろと聴かせてもらえる嬉しさがあります。これで、1人増えたわけですが、このピアノ五重奏曲を聴いた限りでは、「珍しいものを聴かせていただいたな」で終わりそうな気がします。そのわけは、あまりにも、冒頭から終わりまで、同じ曲想で進み、しかも、弦4本が、同じリズムで重奏を続けるというもの。厚い音色に支えられ、ピアノが奔放に駆け回るという曲に、「もういいよ」の声をかけたくなりました。そういう曲だからでしょうね、プログラミングの妙で、超有名ソナタとの組み合わせとなったのかな。


2018年 6月 27日(水)午後 11時 9分

 今日は、朝から家の補修に、業者の方に入ってもらった日。これが、明後日まで続く予定。今日は、また、動楽亭で落語を聴く日でもあったので、少し早めに切り上げてもらいました。明日は、丸1日も、作業に時間を要しないと聞いたからでした。落語会の方は、「第17回桂華紋勉強会~華紋式~」でした。その番組は、次のようなものでした。弥っこ「代脈」、華紋「代書屋」、坊枝「船弁慶」、(中入り)、華紋「俗信と迷信(仮題)」。弥っこの前座ブームが、ちょっと落ち着いたかなと思っていたところだったのですが、まだ続いていました。「代脈」は、3度目くらいの遭遇です。でも、今日は、早々に、この弥っこの後半、次の華紋の口演の後半で居眠り発生。まだ、居眠り病は続いています。華紋の「代書屋」って、黄紺的には想定外だっただけに、全うに聴きたかったのですが。出だしは、わりとオーソドックスな印象を持ったのですが、それ以後は、どうなったのでしょう。坊枝の「船弁慶」は聴きたくて、まだ聴けてなかった大物。なんせ、先代文枝の直系として、一番人に合ってそうな感じがしますものね。清八の語り口に、師匠の口ぶりが見えたりしましたが、かえって、そういったものが見えたのが嬉しくなるほど、坊枝色に染まった「船弁慶」でした。基本的に、清八の喋りっぷりでの、言葉の操り方、間というのに、坊枝テイストを感じさせられました。逆に、おまつからは、派手さ、明るさを控えめにしてみたのも、坊枝テイスト。清八やおまつのキャラを抑制することで、喜六が際立つ手法、そないな感じでした。総じて、ある意味では、師匠の口演に抗った結果を見せてくれたと言ってもいいような口演に見えました。ただ、袖口に風を送る仕草が堅いのだけは、いただけません。その一方、能掛かりになり、謡に入ると、これが、なかなかしっかりしていました。聴かせてくれましたので、帳消しですね。なかなかの聴きもの。ここまで、待たせられただけのことのある、花○の口演でした。華紋は、2つ目に、あまりすることのない新作を聴かせてくれました。そんなに長くはないのですが、なかなか凝ったもの。病気見舞いに来た会社の先輩と後輩の対話。見舞い品が変わってるということから始まる俗信と迷信の区分、判ったようで判らない、でも判ったような気になる噺でした。


2018年 6月 27日(水)午前 8時 32分

 昨日は二部制の日。午前中にコンサートに行き、夜は落語を聴いてまいりました。まず、午前中のコンサートは、京都コンサートホールであった「田隅靖子館長の“おんがくア・ラ・カルト♪” 第26回“Salon de Paris~フランス近代の作曲家たち“」。お値段が安くて、おまけに弓新のヴァイオリンを聴けるということで、外すわけにはいきませんでした。そのプログラムは、次のようなものでした。「サン=サーンス:ハバネラ op.83」「フォーレ:ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調 op.13」「ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ(遺作)」。なお、ピアノは船橋美穂でした。会場は、爺婆で溢れかえっていました。ま、平日の午前中に、働き盛りの方たちが来れるわけではありませんから、想定内のこと。3ヶ月に1回のペースで、このコンサートが開かれているようです。黄紺は、初めての参加。演奏家の魅力と、プログラムの魅力に惹かれて行った黄紺でした。弓さんの演奏は、1~2年前に、カフェモンタージュで聴いて以来。やはり、広い会場で聴くと、弓さんといえども、パワーが気になってしまいます。だいたい、そういうときって、終盤に入ると、忘れてしまうことが多く、その場合は、単に、自分の耳が、広い会場に慣れてなかっただけなのですが、昨日は、最後まで気になってしまいました。ちょっと意外な印象を持ってしまいました。
 コンサートが終わると、1時間のミニウォーキング。そして、一旦、自宅待機後、大阪へ。夜は、船場寄席であった「呂好一人勉強会」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。呂好「青菜」、文鹿「俺たち暴走族」、遊喬「崇徳院」、(中入り)、呂好「茶漬間男」「閑所板」。昨日は、呂好一人ではなく、遊喬と文鹿が特別出演。開場前に並んでいると、ぶらりと文鹿が現れたので、訝しく思っていると、出番があると、冒頭に出た呂好から聴かされ、納得。遊喬ともども、出番があったわけは判りません。そして、後ろの2つが、呂好のネタ下ろしだったのですが、この2つを、この2人からもらうだろうかと思いますので、この会に、鶴志が出たのとはわけが違うところにあるように思います。でも、この2人が入ることにより、重量感のある番組が出来上がりました。そのおかげかどうかは知りませんが、大変な入り。黄紺が知るなかでは、船場寄席最高の入りだったことは、間違いありません。でも、黄紺は、昨日も居眠り三昧でした。開演前に、椅子に座っていると、なんかぐったり。体の不調というよりは、疲労でぐったりという感じでした。船場寄席に向かうのには、北浜駅から歩いただけですが、昼間、京都コンサートホールから1時間余歩いたのと、家に戻った際、翌日から家の補修業者が入るということで、ちょっとした片付けをしたことによる疲労しか考えられませんから、ま、昨日は、真夏の暑さだったこともありますが、それらがダメージを与えたとなると、随分と体力が落ちたことになります。従って、昨日の番組の中で、完全に聴くことができたのは、文鹿の高座と、呂好の口演の内、「閑所板」だけでした。逆に、一番ひどかったのは、中入りから寝続けてしまった「茶漬間男」でした。遊喬の口演を聴くのは、実に久しぶりだっただけに、特に残念な気持ちです。そういった中で、文鹿の、あっさりと自分の土俵に客を引き込む技と、一旦引き込むと、決して手放さない文鹿ワールドの展開が、強烈な魅力を放ちました。先日の遊方の会でのネタ下ろしの内、「さやわか」系のネタが不調だっただけに、昨日の口演は、見事に挽回をして見せてくれました。ネタは、飛梅から仕入れた暴走族の実態を、巧みに噺に持ち込み、50年後の暴走族の同窓会にしたのが秀逸。完全に、文鹿は、新作テラーとしての地位を、しかも、オリジナルなテイストを持った上での地位を確立したと言える高座でした。呂好は、「閑所板」をする前に、「引かれるお客さんがおられるかも」と言ってから、ネタに入りました。特段デフォルメを入れることなく、呂好風味の口演でしたが、それでも、匂うが如しでした。でも、このネタも、「茶漬間男」同様、若い噺家さんが持ちネタにすることが増えています。短いネタを手に入れ、繁昌亭の高座ででも出す気なのでしょうか。もう1つの「青菜」は、師匠の呂鶴の鉄板ネタ。弟子の呂好に、どのように伝わってるか確かめたかったのですが、早々の居眠りで、これまたダメでした。外に出ると、夕刻からの雨は降っていませんでした。これはありがたいと、いつものように、淀屋橋まで歩くことができました。


2018年 6月 26日(火)午前 5時 47分

 昨日は、千日亭で講談を聴く日。毎月恒例の「第251回旭堂南海の何回続く会?~太閤記続き読み」に、今月は行くことができました。昨日は、「太閤記~山中鹿介幸盛」というお題が付いていたのですが、その手の話は出てくることはなく、信長の入洛目前の地、逢坂山の陣内から始まり、足利義昭の退位とその後までが読まれた日でした。前半は、入洛を目前に控えた信長のもとに、二条城に籠る義昭のもとから、2人の侍が、信長に寄宿する旨を伝えに来ることから始まりました。その2人の内の1人が、後の熊本細川藩の祖になる侍だったのですが、それを含めて、ここにやって来た2人の家の来歴が、前半の主たる読み込まれたところ。その後半辺りから、軽く居眠り。そして、後半が、信長の入洛に伴う、義昭の動向。義昭は、最後、巨椋池の槙島に逃れ、そこに籠り、自害をしようかというところで、秀吉から救いの手が。死なせることによるリスクを考え、信長に進言がなされた結果、義昭は生き長らえるということでした。来月は、日程調整を間違い、この会に行けないことが判明。第5週まである月にやらかしてしまうミスを、今年もやらかしてしまいました。残念。


2018年 6月 24日(日)午後 11時 30分

 今日は浪曲を聴く日。阿倍野区民センターで、真山隼人くんが、沢村さくらさんの協力を得て続けている「観音丹治連続読み@阿倍野区民センター」に行ってまいりました。今日が5回目ということで、初めての客もいるということで、要約を、まず話してもらえたのですが、イマイチ雰囲気というか、ネタのテイストが判らないまま、本日の読み物に突入。仇討ちものということでしたが、今日の登場人物と、全体の大きな展開との連関性が判らず、困ったことになったぞと思ったのがいけなかったのでしょうか、今日も居眠り。ますます判らなくなってしまいました。実際のネタの口演は45分ほどですから、一旦、わけが判らなくなると、取り返しがつかなくなってしまいました。この会は、どうも、黄紺が行けないときを選って、日程が組まれているのじゃないかと思わせられるほど、合わないため、今度聴くときは、更に一層判らなくなってしまってる可能性大ですね。でも、とっても貴重な会ですから、立ち会うことに意味ありと、スケジュールが合いさえすれば行くことになると思います。


2018年 6月 24日(日)午前 7時 8分

 一昨夜は、睡眠障害の極みで、一睡もできないという最悪の夜。いつもだったら、お酒を睡眠剤の替わりにするのですが、昨日の朝は、一番で胃カメラ検査を受けねばならないため、その方法は封印。しかも、胃カメラ検査から家に戻ると、家の補修業者に来てもらい、見積もりを立ててもらうことになっていたため、昼寝もできずじまい。そんななか、夜の落語会にお出かけ。昨夜は、兵庫県立芸文センターでの「柳家喬太郎 独演会」に行く予定になっていたのでした。その番組は、次のようなものでした、正太郎「五目講釈」、喬太郎「ほんとのこというと」、(中入り)、小猫「動物物まね」、喬太郎「ぺたりこん」。スタミナは、小猫まででした。「ぺたりこん」は、虚ろな状態で聴くことになりました。「ほんとのこというと」と違い、全く初めて聴くネタだっただけに、残念と言っても、昨日の体調では、これでもいい方だと納得しています。「ほんとのこというと」は、生で聴いたのか、有名な噺なので、Youtubeで拾って聴いたのか、自分では記憶がないのですが、初めてではないネタ。婚約の挨拶に行った相手の男性の家で、「ほんとのこと」、即ち、家族の行状を言っていくと、相手の男性が、全て受け入れていくが、、、という展開。知られた噺だということで、ひょっとしたら、主催者側からリクエストがあったかもしれませんね。正太郎は、若手で有望株ということで、その名前は、黄紺の頭にもインプットされていたのですが、遭遇は初めて。どのようなタイプの噺家さんかすら知らなかったのですが、マクラが巧みで、挿し込みに長けているとなれば、やはり目をつけられて然るべきと思いました。ネタは、全く知らないもの。勘当された若旦那もので、その若旦那が講釈をやり出すというだけの噺。前座のいない落語会ですから、その代わりとしては、ま、頃合いのネタということでしょう。それに、小猫が付いてきたわけですから、結構な番組ということでしょうか。最近、小猫が受賞ラッシュなものだし、関西での出番も増えているので、何やら目新しいことをやり出したのかと思っていたのですが、結局、今までの積み重ねが、ここにきて、受賞という形で陽の目を見たということでしょうか。中入りとして、15分の休憩があったとしても、終演が午後9時15分は、なかなかヘビー。喬太郎が、1席目で、「新作のネタは短い」と言って、長々とマクラをふったのが、最大の原因でした。


2018年 6月 22日(金)午後 11時 18分

 今日は、動楽亭で講談を聴く日。「南湖の会~覚悟の修羅場~」に行ってまいりました。今日の南湖さんの口演は、「祝!大河ドラマ 明智光秀の奮戦 本能寺から湖水渡りまで」でした。実際は二部構成で、前半が明智光秀の物語、「本能寺の変から天王山合戦」、後半の主役は明智左馬助。光秀の家臣の物語。それが「湖水渡り」。坂本の城に逃げ帰り、そこで自害をするわけですが、敵に囲まれた左馬助が、琵琶湖に馬を繰り出し、坂本に至るというもの。今日は、前半がダメで、口演のほとんどは居眠り。どうも不調で、こないなことが頻発しています。中入りのおかげで覚醒できました。「湖水渡り」は、近江八景を読み込むという趣向が入り、そこの部分が、修羅場の掉尾を飾っています。明智絡みが終わると、最後に、「三方原戦記」の冒頭部分が、ちょっとしたサービスという感じで付きました。なお、「湖水渡り」と「三方原」は、台本を釈台に置いての口演。これが、かつての釈場の姿と、南湖さんは言っておられました。


2018年 6月 22日(金)午前 5時 4分

 昨日は浪曲を聴く日。天王寺のスペース9であった「第7回 浪曲いろは文庫」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。五月一秀「太閤記 秀吉の報恩」、真山隼人「水戸黄門 散財競争」、五月一秀「名月松坂城」、全員「浪曲Q&A」。なお、曲師は、盟友沢村さくらさんが、三番とも務められました。「秀吉の報恩」は講釈ネタ、講談会でも、時々出るもの。小田原の北条を制圧した帰り道、秀吉が、故郷に立ち寄り、かつて世話になった人たちに、感謝を伝えるというもの。浪曲にしやすいネタですね。一秀さんの口演で、以前聴いた記憶がありますから、初めてではないですね。師匠の持ちネタだったようで、口演の途中、ちょっとした思い出話なんかが入りました。それが入ると、ご馳走にありついた気分になれます。隼人くんは、予定していた「水戸黄門 金賭け道場」を始めて、まだ序盤というところで絶句。結局、出てこなかったようで、急遽、「散財競争」に切り替え。このネタも、この会で、ネタ下ろししたものですが、黄紺は初遭遇のはず。極道の若旦那が、新町のお茶屋の2階から吐き出した枇杷の種が、下を歩くご老公の口の中に入ったものだから、怒ったご老公が散財競争を挑み、若旦那を諌めるというものですから、話のプロットが、ちゃっちいというか、下品な感じがしてしまいます。おもしろければいい、程よいところで正体を現し、懲らしめることができればいいという発想の展開で、水戸黄門ものの持つ、皆の味方的、そして、天下の副将軍としての品格が損なわれています。嫌~な感じがしてしまったネタでした。一秀さんの2つ目は、またしても出たかというほど、講談、浪曲を通じてポピュラー過ぎるネタ。蒲生氏郷は、単に酒癖が悪いとだけ出てきます。ま、浪曲らしい筋立ての単純化ということでしょう。あとは、講談から贅肉を削ぎ落としたもの。こちらも、師匠のネタを継承したもの。五月一朗師の映像が残っていますから、黄紺も、ワッハの資料館で、このネタは観たことがあります。まだ、このネタが、これほどまでにポピュラーなものとは知らない頃でしたが。最後の「Q&A」は、「当て節」について。言葉は聞いたことがあったのですが、何たるかを、初めて知りました。拍手を要求するかのような技巧を尽くした節のことです。真山家の浪曲師さんが、ファルセットで息長く伸ばされる箇所がありますが、あの節です。浪曲師さんは、正に拍手をもらわんばかりに、様々な工夫をされているとか。しかも、明治時代には、考えられないほどの進化を遂げているそうです。これは、勉強になりましたし、今後の浪曲の聴き方が豊かになりそうな予感がします。


2018年 6月 20日(水)午後 11時 59分

 今日は落語を聴く日。ツギハギ荘であった「第2回 遊方×文鹿 新作トライアル」に行ってまいりました。前回はおしゃましていないので、初めてとなります。文鹿が主宰にかむ会というものに、ほとんど行ったことがないもので、新鮮な気持ちで会場に向かいました。その番組は、次のようなものでした。遊方&文鹿「新作トーク」、遊方「サプライズ」、文鹿「天覧文福一門会」、(中入り)、遊方&文鹿「新作トーク」、遊方「オチつかない男のブルース」、文鹿「さわやか成人式」。遊方は「蔵出し」と称し、過去に「できちゃった」で発表したままになっているネタを、また、文鹿は、2つともにネタ下ろしということで、人気を喚んだのか、好事家が席を埋めました。この会の特徴として、ネタに入る前に、1回ずつ「製作秘話」と題した「トーク」が設えられていて、そこで、ネタを作ったきっかけなどが話されるというのは、聴く者には、とっても嬉しい時間。「サプライズ」は、ある小学校の校長がサプライズとして、卒業式にタレントを喚んだのだが、実際に現れたのは、ちょっと演歌が歌える程度のおっさん。その対処に悩む校長と教頭の対話として、噺が進みます。「天覧文福一門会」は、本日随一の爆笑ネタ。いきなり、宮内庁から上方落語協会に電話が入るところから始まり、天皇皇后が繁昌亭で落語を聴くシーンまで、噺は続きます。2階に特設された席に着く天皇皇后、その傍らで解説するのは、新会長仁智。高座は、鹿えもんから始まる文福一門。上方落語協会ネタに通じ、文福一門の噺家さんの高座姿を知る者には、これほど笑える噺はないでしょうね。発想の勝利ですが、残念ながら、どこでも出せる噺ではありません。後半の遊方のネタは、「間の悪い男」が主人公。場所は居酒屋。タイミングを外すのは、偶然入ってくる店員。その繰り返しに笑かせられてしまいます。「成人式」は、家の事情で、公の成人式に参加できない友人を思って、その友人の家が旅館だということを活用し、友人たちが集まり、自分たちだけでの成人式を開くというものだったのですが、独自の成人式に関し、オリジナルなイメージを産み出すことができなかったのか、乱闘の真似事をしただけで終わりました。なんか、膨らまし方のイメージができていないにも拘わらず、見切り発車的に発表しちゃったなんて雰囲気の口演になってしまいました。これに先立つ「秘話」で、文鹿の「さわやか」系の新作のスタンスが語られていました。「繁昌亭昼席でできる噺」ということで、大いに納得できました。でも、時々は、毒のある「天覧、、、」のような噺も作って欲しいものです。これはこれで、文鹿らしさが出ているように思えますから。


2018年 6月 19日(火)午後 11時 56分

 今日は講談を聴く日。法善寺庫裡であった「法善寺寄席~南斗の雨ふり講談会」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。南斗「越ノ海勇蔵」「天誅組の戦い」「お楽しみコーナー」「秀吉の仕官」。「越ノ海」は、「寛政力士伝」の中でも、一際よく出るネタ。師匠柏戸に迷惑がられた小兵力士が、谷風に見いだされるというもので、小兵であることが、かなりデフォルメされているとはいえ、目立った存在だったのでしょうね。谷風は、ここでも善を代弁します。「天誅組」が、今日のお目当て。でも、今日は、ここで居眠り。でも、話の大枠は判っています。尊皇攘夷を掲げ、吉野で挙兵した天誅組の顛末を描いたもの。土佐藩を脱藩した者が中心になったとか。日本史に疎い黄紺には、初めて聞いた名前でした。最後は、幕府側に潰されていくようですが、なぜ吉野に籠ったのでしょうね。同様の存在っていたのかなど、急に、黄紺の好奇心を目覚めさせましたが、寝てしまいました。このあと、中入りを挟んで、「お楽しみコーナー」と称して、南斗くん自身が歩いた天誅組の足跡を、写真を見せながら説明してくれました。なんか、同じようなことをしたくなってしまった黄紺です。このコーナーの最後に、おまけとして、なぜかウクレレを持ち出し、好事家には懐かしいだろう「南海ホークス応援歌」を聴かせてくれました。「秀吉の仕官」は、この題名を聴いたときは、さっぱり見当がつかなかったのですが、なんてことはない、藤吉郎が、信長の草履を懐で暖めたエピソードと、柴田勝家の屋敷の宴席で、勝家を使い、集う人たちに楽しみを提供し、人気を博していくエピソードの2本で1本の読みきりにまとめたもので、これまた、読みきり講談として、よく出るものでした。まさかまさかのつばなれ、元々席数の少ない会が、満席になり、黄紺どころか、会主がびっくりしていました。皆さん、どこから湧いてこられたのでしょうか、、、解らない。


2018年 6月 19日(火)午前 8時 34分

 今日は、高槻を震源地にする大きな地震のあった日。安否確認が、なかなかできなかったDの無事を知ったときは、涙が出てしまいました。普通の1日のありがたさを噛み締めた日となりました。電車が動いたので、早々と開催を、ツイッターで告示した「笑福亭たまの裏切り落語会~初心者お断り!」(高津宮 高津の富亭)に行ってまいりました。地震のために、二度寝ができなかったために、散々な居眠りをしてしまったのですが、その番組は、次のようなものでした。りょうば「ろくろ首」、たま「子ほめ」、新幸「狼講釈」、たま「井戸の茶碗」、(中入り)、たま「お見立て」、たま&新幸「スペシャルコーナー:ギターを習おう!」。たまの「子ほめ」の序盤から、中入り前までが、ほぼ全滅状態。序盤を刈り取った「ろくろ首」のあと、たまが、「師匠に教えてもらったままにします」と言って始めた「子ほめ」、間なしにダウンしてしまいました。新幸のネタが判ってるのが、不思議なくらいです。たまの「井戸の茶碗」は、恐らくネタ下ろしだったと思いますから、まともに聴いておきたかったのにと後悔しても、後の祭。自分でコントロールできるくらいだと起きてます。それができないのです。「お見立て」も、ネタ下ろしでしょう。喜瀬川花魁は、「病気」「死んだ」「適当に墓を見せろ」の3つの指示をします。これは変化をつけてないのでしょうが、たまの口演は、えらく短く感じました。寺に行ってからのじらす時間を刈り込んだものと看られます。下げへ引っ張る時間、やっぱ、これが欲しいですね。でないと、秀逸な下げの魅力が減退してしまいますから。落語が、全部終わってから、たまもギターを持ち出し、ギターの先生新幸のギター講座。りょうばも加わるものと思っていたのですが、2人だけでした。三幸が、上新庄で行ったミニライブのときもそうでしたが、新幸のギターは、お金を取れるもの。本格的なライブ、ちょっとだけでいいから、観たいものです。


2018年 6月 18日(月)午前 0時 31分

 今日は二部制の日。トルコ友だちとランチをして、夜は、ロイヤル・オペラ・ハウスのライブビューイングを観るというもの。ランチは、中ノ島で韓国料理。黄紺が、今年は7月に韓国に行くということでのチョイス。そして、夕方までミニウォーキングをしてから、大阪ステーションシネマへ。京都で観ると、朝早くの上映になるので、大阪で観ることにしたのでした。この1週間は、「マクベス」(フィリダ・ロイド演出)が上映されています。ロイヤル・オペラ・ハウスのライブビューイングは、今シーズンはこれだけ。魅力的なラインナップでなくなってきているというのが、最大の原因です。ただ、この1週間上映のプロダクションは違います。キャストが違う、指揮者(アントニオ・パッパーノ)もすごい、演出も話題性ありというプロダクションだったものですから、外すわけにはいきません。キャストを記しておきます。(マクベス)ジェリコ・ルチッチ、(マクベス夫人)アンナ・ネトレプコ、(バンクオ)イルデブランド・ダルカンジェロ、(マクダフ)ユシフ・エイヴァゾフ。フィリダ・ロイドのプロダクションは、なかなかそそられるもの。舞台は、基本的に、三方と天井が格子模様の暗い壁で囲まれた空間、背後の壁が上がった広い空間との使い分けで、転換を図るもの。魔女の場面は、壁がありで、衣装とメイク(ターバン状の帽子、一直線に繋がった眉毛、足まであるスモッグ)、それに、暗いが顔には当たる照明で、異界の雰囲気を表し、2回目の魔女の場面で、亡霊が出るところでは、壁を上げるという具合でした。また、壁を上げたときには、金属の大きなゲージがあり、玉座になったり、殺されたマクベスを吊るしたり、戦いの本陣という具合に、多様な使われ方をしていました。物語自体が陰惨な権力闘争、血なまぐさい殺しあいが続くということからでしょうね、暗い照明にするというので一貫してはいるのですが、先の魔女の場面のように、照明の使い方が巧みで、局部に照明を当てることで、不気味さといった雰囲気を表すだけではなく、人物の内面までをもあぶり出していくような使い方もしていたように思いました。そのマクベス夫婦の内面として、権力欲に走り、玉座を掴もう、守ろうということで、残忍な行為に走る。それにより、難民化する人々を表す一方で、この夫婦の「夢」の中には、家族に囲まれた平凡な日常も描かれ、権力者の我が儘的なものも描き込もうともしていました。かなり豊かなイメージを持てる演出家のようで、また、それを、ギリOKって感じの挿し込める力量のある優れ者と看ました。主役2人は、現在最高の組み合わせ。文句の言いようがありません。ルチッチは、ベルリンで歌う(「ナブッコ」を観てまいりました)前に、これを、恐らく歌ってたんだろうなと思いながら観ていました。ネトレプコは、ベルカント的な技量を求められつつ、中後期のヴェルディを先取りするような、この難役を見事に歌いきってました。マクベス夫人の低音域を、あれだけ歌えるのは、恐るべき歌手です。バンクオにダルカンジェロは贅沢すぎます。ダルカンジェロも、ここを歌ってから、ベルリン入りして、フィリッポス2世に備えたのでしょうね。滅茶苦茶おいしいアリアをもらっているマクダフのユシフ・エイヴァゾフは、大きな拍手をもらっていましたが、黄紺的にはペケです。常に上ずりかげんの音程に違和感を持ってしまいました。そして、功労者に入れねばならないのは、当然、パッパーノ。音楽にドラマがありますものね。今回の上映が、オペラでは、今季最後ということで、来季のラインナップが紹介されていました。今季は、ベタなものばかりが並んだこともあり、今日の1つだけだったのですが、来季は、そないなことをしている場合ではありません。変化に富んだプログラム作りに拍手です。その上映スケジュールを、横目で眺めながら、海外へ出かけるスケジュールを組む必要性があると言えるもの。ワクワクしてしまうほどのものでした。


2018年 6月 17日(日)午前 6時 46分

 昨日は、夕刻から、昔の同僚と食事会。1年近く会ってなかったら、その間に、心臓のカテーテル検査を受けねばならない事態になっていました。去年は、半年会ってなかった高校時代の友人が、同じようなことから、心臓の手術を受けていたりと、油断も隙もありません。食事は、以前、人に教えられながら、まだ行ってなかった京阪沿線にあるベトナム料理店で。なかなか美味しいお店で、これは、また、誰かを誘ってこなければと思ってしまいました。


2017年 6月 15日(金)午後 11時 46分

 今日は落語を聴く日。ツギハギ荘であった「第4回 桂雀三郎ツギハゲ落語会」(夜の部)に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。弥太郎「千早ふる」、雀三郎「立ち切れ」、たま「三味線アリ」、雀三郎「遊山船」。雀のおやどがなくなってから、こちらへ、お引っ越しをしてきた会。雀三郎一門の出る「梅田にぎわい亭」が、昼夜の開催で、昼の部に客が多いということで、昼の開催でスタートしたところ、やはり、ツギハギ荘のキャパでは収容しきれず、昼夜開催に至ったようですが、この会では、昼夜ほぼ同じような入りだとか。梅田の中心街から少し離れただけで、そういった変化が出たようです。前座の弥太郎は久しぶり。昼の口演で、口が慣れたのか、逆に冒頭から噛みかげん。ちょっと落ち着きの悪い口演だと思っていたら、こちらも居眠り。突っ込みを入れている場合ではありません。雀三郎の1つ目は、なんと「立ち切れ」。これは、「立ち切れ」のネタ下ろしのとき同様で、たまの「三味線アリ」を後ろに持ってくる措置でしょう。「三味線アリ」が「立ち切れ」のスピンオフものだからということです。雀三郎の快調な口演、いよいよ、若旦那が木ノ庄にやって来たところで、あろうことか、下腹に差し込みが。ホント、急でした。ところが、「立ち切れ」のクライマックスに入りつつあるため、トイレに向かうことができません。このあと、たまが、マクラで携帯について話しましたが、正に、トイレに逃げ出せば、携帯が鳴るどころではないかもと思うと、もう耐えるしかありません。顔が向き合っていた雀三郎は、異変に気づき、喋りにくかったかもしれないなと思うと、申し訳なくて、、、。下げまで、なんとか耐えました。噺の内容は、ほぼ頭上を素通りしてましたが。きつかった。たまの高座は、マクラが長かったおかげで、マクラも、何を喋ろうとしていたのかも解りました。 噺は、小糸の呪いを持つ三味線が業をして、浮気性の男を三味線に変えていくというもので、主人公たちは、その呪いを解く鍵を求めて、三味線の使われている繁昌亭や稽古屋を経めぐるというもの。今日は、三味線はどなただったのでしょうか。お声からすると浅野さんかなと思ったのですが、このたまのネタは、三味線は大変です。お疲れさまです。雀三郎の「遊山船」が良かったな~。橋の上で喋り続けてるんですね、喜ぃ公は。清やんのお喋りを聞かないのかというと、きちっと聞いて、間の抜けた応対だけど、間は外さない、アホなりに話は聞けている、そういった意味で、喜ぃ公は、愛すべき男なんですね。前に聴いたときは、これほどとは思わなかったのですが、とってもいい「遊山船」を聴けたことで、「立ち切れ」の際の不始末は帳消しになりました。落語を解くのも、体調が肝心だということを思い知った日でした。でも、腹が立つのは、あのときだけ差し込みが起こり、あとは、全然、普通。自分の体、わけが分かりません。


2018年 6月 15日(金)午前 0時 13分

 今日は、シンフォニーホールで音楽を聴く日。今夜は、こちらで、指揮飯森範親で、日本センチュリー交響楽団の定期演奏会がありました。毎度のことながら、今日のコンサートで、ブルックナーのシンフォニーが出るということでのお出かけとなりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「ワーグナー:舞台神聖祝典劇“パルジファル“より”聖金曜日の音楽”」「ブルックナー:交響曲 第7番 ホ長調 WAB107」。ワーグナーが、こういったコンサートで出ても、「聖金曜日の音楽」は珍しいかもしれませんね。第3幕、パルジファルが、グルネマンツの元に戻ってくる前に演奏されるものですよね。金管の壮重な響き、弦楽器の穏やかな平安な響きに次いで、清新なオーボエのソロが響き、総体として成聖なる雰囲気を作り出す、ワーグナーの素敵な音楽ですが、その構成する、どの響きを取ってみても、黄紺の期待するものではありませんでした。これは、今日はきついぞと思いながら、休憩を挟んでのブルックナーを待ったのですが、頼りなかった金管は、輝き渡るとまでは言いませんが、いい音を出していましたし、弦楽器も、豊かで厚みのあると言える音を出していましたので、「ブルックナーにシフトした練習だったのでは」と、思わず突っ込んでしまいました。元来、ブルックナーを演奏するだけの数を持ってないオケですから、かなり助っ人が入っていたことでしょうし、それでも、規模の小さめの編成だったと思いますので、それを考えると、なかなかの頑張りに拍手を送らねばの気持ちです。2楽章の弦楽器の重奏は、迫力がありましたから。帰り際に、ちらりと知り合いに会ったため、今日の演奏について伺うと、黄紺同様、ワーグナーよりはブルックナーに満足されていました。


2018年 6月 13日(水)午後 11時 34分

 今日は二部制の日。昼間に、兵庫県立文化芸術センターに行き、夜はツギハギ荘に行くというものでした。まず、昼間の芸文センターでは、「佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2018関連企画」として、「“魔弾の射手“ワンコイン・プレ・レクチャー 第2回“憧憬と夢想のロマン派~ドイツオペラの幕開け“」と題して、和光大学の酒寄進一さんのお話を伺うことができました。でも、この大学の先生のお話、かなり難解。ルネサンス以後の近代の大まかな歴史が解ってないと、その先にあるお話をされたものですから、難解になってしまってました。また、大学の先生って、容易に解っているものとして、お話される傾向にありますから、「コスモポリタン」という言葉一つをとってみても、啓蒙主義という言葉とワンセットになって使われること、ましてや、ロマン主義とは、対立的に使われていることなど、一般人に解っているとの前提てお話になるのは、かなり無理があるでしょうし、更に突っ込んで、「光」や「闇」という言葉に置き換えられると、一層に理解するのが困難になっていきます。人間と自然の関係も、大きなテーマとして取り上げられ、お考えの確かなことは了解しましたが、人文主義や、科学の成立のお話なしに、このお話に入られたものですから、対象化された自然のお話をされても、また、一例として「庭園」を取り上げられても、どのようなコンテキストで出てきているのか、理解するのは無理というものでしょう。ましてや、「魔弾の射手」との連関性でお話されていることは当然なことは判ってはいても、具体的に、どの部分を捕らえてのお話なのかを言っていただかないと、なかなか理解は進まないものです。合間に、小森輝彦さんの歌唱も入る1時間半のプログラム、びわ湖は、上級編と入門編に分けて、講座を設けていますが、その分類で言うと、さしずめ上級編の講座だったのではないかな。そういった講座のニーズもあるでしょうから、内容の難易度を明示した上で、チケットを販売された方が良かったなと思ってしまいました。講演者からは、入門のつもりでお話されていたかもしれませんが、、、。
 芸文センターを出ると、若干の時間調整をしながら、西宮からツギハギ荘に移動。今日は、こちらで、「喬介のツギハギ荘落語会」がありました。2日前にぎっくり腰になり、高座に上がるのすら危なっかしい喬介でしたが、無事に3席喋ってくれました。但し、先月予告していたネタ下ろしは、体調の整うであろう来月回しになりましたが。予告をしてしまったため、気を使った喬介は、全員に手拭いを配り、お詫びの印とするという律儀さを見せてくれました。そういったなか出されたネタは、次のようなものでした。「ぜんざい公社」「天狗刺し」「饅頭怖い」。冒頭では、ぎっくり腰になったときの話。ホント、何の前触れもなく始まったようで、その後の痛々しい話は、黄紺も、危うい腰を持っていますから、他人事とは思えず、ハラハラしながら聴いてしまいました。口演しながらも、大きな声を出すと腰に響いたり、前かがみになる姿勢が取れないようでした。ネタは、いずれも喬介で聴いたことのあるもので、「ぜんざい公社」は、この会では出したことがないということでのチョイスとか。そう言えば、黄紺も、喬介の「ぜんざい公社」は久しぶりでした。師匠の味わいが強く出ているネタながら、喬介で聴くと、喬介になっているので、また聴きたくなるのですね。「饅頭怖い」も、この会では、まだ1回しか出してなかったそうです。長めのネタでは、喬介を代表するネタだと思っています。仕切る男の兄貴分口調が、喬介の口演の大きな軸を作っています。ですから、いろんなキャラの男が出てきても、噺に筋が通っているので、耳に心地好いものがあります。寝小便垂れのおやっさんの偉ぶる口調もいいですね。ですから、怖がりの男たちも引き立ちますものね。そういった意味で、かなり計算づくの口演ながら、演じてやろうという余計な顔が出てこないものですから、噺に引き込まれてしまいます。やはり、これは聴きものでした。「天狗刺し」は、この中で、最近ではよく耳にしているネタかなと思います。呑気なアホが突き抜けています。落語らしい噺だし、主人公のキャラが、そのらしさを補強してくれます。アホでいとおしくなる、そういった人間、それが、喬介の作るアホですものね。


2018年 6月 12日(火)午後 10時 31分

 今日は落語を聴く日。守口文化センター地下であった「第65回 とびっきり寄席」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。優々「牛ほめ」、雀五郎「手水廻し」、佐ん吉「嵐茶屋」、ちょうば「崇徳院」。今日も、会場に落ち着くと、眠たくて仕方がない。そこまで睡魔に負けるほどの睡眠不足ではないはずなのですが、前の2人の高座が、全くダメでした。なかでも優々の口演というのは、自分的には、動楽亭昼席くらいしか遭遇機会を持たないだけに、残念なことになりました。次の佐ん吉の口演も、半ばで少しダウンをしてしまいましたから、フルで聴けたのは、トリのちょうばだけでした。まず、佐ん吉ですが、当初は「いらち俥」を出すつもりで、会場入りしたところ、前回、雀五郎が出したことを知り、急遽、ネタを変えたとか。新しい会場になり、他の噺家さんの口演が聴こえてこない(防音がしっかりしているということ)ので、記憶に残りにくいと言ってました。新しいネタは、何と京都府立芸術文化会館で行われている「お題の名付け親はあなた」のシリーズで生まれたもの。小佐田作品なのか、くまざわ作品なのかは、残念ながら言ってくれなかったのですが、内容的には小佐田作品のような気がしています。松島の遊郭で遊んだら、何やら怪しげな雰囲気。最後の下げでは、遊んだ男は、他の人から見ると、お稲荷さんの祠の前で喋ってるとなってましたから、狐にかつがれたということなのでしょうね。居眠りのおかげで、遊郭内での怪しげな雰囲気が飛んでしまってます。擬古典的な噺ですので、佐ん吉に合ってそうな雰囲気ですので、しっかりと持ちネタにして欲しいですね。ちょうばの「崇徳院」は初遭遇。季節柄、似た始まり方をする「千両みかん」だと思い聴いていたところ、外れでした。前半の熊五郎が気に入りました。陽性で、根っからの明るさを持つキャラが、なかなか素敵です。ずっと、そのままで行けば良かったと思うのですが、ちょうばは、何かせずにはおけないのでしょうね。ちょっとアホげな男に、わざわざ見えるようにしてしまってました。明るく陽気に、本人は、一所懸命だから、行き届かない点の可笑しさがいいはずなんじゃないかな、この噺は。下手に寛美風にしちゃうものだから、せっかく前半で浸透させたキャラがもったいなく感じてしまいました。下げは、最近では、珍しくと言わねばならないかもしれないのですが、本来のものを使ってくれて、黄紺的には拍手でした。


2018年 6月 11日(月)午後 11時 28分

 今日は、ツギハギ荘であった「あかねの部屋~ノッキンオン・師匠ズドア 最終回」に行ってまいりました。くまざわあかねさんが、主として噺家さんを喚んで行うトークショー。最終回と聞いて、即座にゲストは思い浮かびました。桂南天でした。子どもの頃から入門後まで多岐に渡るお話、内容は、その場にいたものの特権です。1時間半に渡ったお二人のトークに続き一席は「替り目」でした。俥屋の出てくる序盤をカット、そして、後半もカットの短縮版でした。


2018年 6月 10日(日)午後 11時 56分

 今日は講談を聴く日。先月に続き、動楽亭であった「CD録音の会」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。鱗林「藤井聡太物語」、南湖「天王山合戦」、南鱗「善悪二筋道」、(中入り)、南海「荒川十太夫、出世の介錯」、南華「木津の勘助」。今日は、前半が、完全に沈没。南湖さんの口演などは、前説で、ネタの紹介がされてなかったら、何を出されたのかすら判らない状態。ようやく、しっかりした睡眠時間を確保できた日だったにも拘わらずにでした。また、南鱗さんが、重いネタとされている「善悪二筋道」を出されたにも拘わらず、覚醒は中入りを待たねばなりませんでした。南海さんの「荒川十太夫」は、「赤穂義士外伝」に入るのでしょうが、あまり出ないネタです。堀部安兵衛の介錯に当たった侍が、身分が低かったため、介錯直前に身分を尋ねられたとき、思わず身分を偽ってしまい、それを悔い続け、毎年、命日に供養を続けていたところ、それが、家老の目にとまり、介錯人を揃えるとき、腕があり、且つ身分の高い侍が揃わなかったため、身分は低いが腕のある侍を起用したことを思い出す。家老及び城主は、ここで、初めて急遽選ばれた荒川十太夫の心中を思い描くことができ、重い役職を与えることで、それらの労苦に応えるというもの。よくできた話で、安兵衛に対し、詐称したことで苦しむ荒川十太夫を支える妻が出色で、涙腺を刺激する、いい話です。南華さんは、1つ目が「徂徠豆腐」でしたから、今回のCDは、いずれも東京でもらってこられたネタとなりました。前にも書いたことですが、旭堂とは違う演出だということで、神田陽子師からもらわれたものですが、旭堂のものが、今回聴いても、やはり優れていると思わざるをえません。理由が幾つかあります。勘助の人柄を気に入る淀屋が描けてないことが、大きなポイントです。旭堂では、ここのところが2段階になっています。冒頭の淀屋でのやり取りと、淀屋が勘助を訪ねて行くところです。やはり、あまりにも違うステージで生きる2人です。ここまでの用意周到さが必要なんじゃないかな。ましてや、淀屋の娘が、勘助を気に入るためには、淀屋自身の胸に響かないとダメなわけで、今日の口演では、あまりにも軽薄になってしまいます。南華さんは、神田の「木津の勘助」を気に入られたのは、菓子屋の女と近所の女たちのかしましぶり、要するに、「大阪のおばちゃんぶり」だと思うのですが、そこが重点ではないと思うのですが。この話を成り立たせているのは、そこではないと思ってしまうのです。この会、前回もそうでしたが、普段の講談会の雰囲気と違うのが、なんか落ち着かないところがありました。どうしてなんでしょうね。入りも多かったですしね。


2018年 6月 10日(日)午前 2時 41分

 昨日は、病院で付き添いをして以来、Dと会いました。歯医者で一泣きするのを見ようとしたのですが、呆気なく終わり、本人はけろっとしていました。でも、また風邪気味。黄紺がポーランド&ドイツにいた間も、発熱があり、周りにいる者が悲鳴をあげていたようで、なかなか手がかかっています。夜半に、息子から、ポーランド代表のユニフォーム(背中に「レバンドフスキ」の名前入り)を着たDのいい写真が送られてきました。昨日の後半は、どこかで、時間があればと、かねてから狙っていた「ヤズディの祈り~林典子写真展」に、衣笠の「立命館大学国際平和ミュージアム」へ行ってまいりました。2014年のことだったのですね、ISの襲撃があったのは。そないなことを知らずに、カドゥキョイのチャルシュを歩いていると、いつもは、音楽系のパフォーマンスがやられているスペースに、その日は、学生さんと思えるような若い人たちが、パネルを持ち、ただ座っていました。それを取り囲む人たちが、熱心にパネルに見入っていました。黄紺は目が悪いので、しっかりと読めないので、基本タームと思った「ヤズディ」という言葉を、頭に叩き込み、ホテルに戻ったとき、それで検索をかければ、何かが判るだろうということで、とりあえずは、その場を去りました。なぜ、そのとき調べよたのかには、2つ理由がありました。1つは、パネルに見入る人たちの、厳しく、熱心な眼差し、2つ目は、彼らの持っていたパネルに写真が貼りつけてありました。新聞の写真だったと思います。家の入口とおぼしき階段に、血だまりがあり、それが下方に向かい流れているという衝撃的なものだったからです。トルコの新聞で、概要を知ることはでき、ついでに、日本ではどうかと調べようとしても、ほとんど判らなかったのにも、衝撃を受けたことを覚えています。人類の歴史で淘汰されてきたはずの原初的な暴力を前面に掲げ、勢力を伸ばすことを旨としたISに対抗するに、 更なる暴力でもって押さえ込むしかない現状そのものにプロテストする「写真展」と言えばいいでしょうか。「瞬時に、SNSを使い、画像や映像が世界を駆け回る現況のもと、フォトジャーナリズムのなすべきことをも問いかけるもの」とのコメントが、冒頭に主催者から掲げられていましたが、正に、その問いかけに応えるものと看ました。写真で撮られている人、誰かのもの、それらに関わる出来事、思い、それらが、写真の横に文章で掲示されています。イメージの拡がりは、写真を観ているだけよりは、幾倍ものものとなっていきます。これって、「アート」だなと思いました。いつぞや、 ライプチヒの某現代美術館で観た「Grenz」という題の付いた連作は、オーストリアの国境の写真を掲げ、そこに行ったときの記憶が綴られていました。ちょっとした風景に、一文を添えるだけで、その風景が自分のものとなりそうな気にさせられたものです。そのときの記憶が蘇ってきました、この展示を観て。ドイツやアメリカに逃れた人たちの思いの中に生きる故郷、ISが去ったあとの故郷の風景もあります。そういった人間の営みを破壊する暴力の告発が息づいていました。黄紺自身の体験も、イメージを拡げることに寄与します。文章のおかげでもあるのですが。トルコ国境を越えさせてくれた、クルド語の解るトルコ側警備官が出てくると、一挙にトルコ南東部の風景が瞼に浮かびます。ドイツへ越境していくため、車に缶詰状態で駆け抜けたセルビアが出てくると、ベオグラードのさる駐車場で寝起きしていた難民の姿が浮かびます。やっぱ、「アート」でした。


2018年 6月 9日(土)午前 0時 31分

 今日は狂言を観る日。久しぶりに、京都観世会館であった「市民狂言会」に行ってまいりました。入りがすごいかったのですが、プログラムを見て、納得。「250回記念」だったのです。京都市長の挨拶があるやら、文化庁の関係者が来てるやら、大賑わいでした。その番組は、次のようなものでした。「三番三」(三番三:千五郎、千歳:逸平)「福の神」(千作)「飛越」(忠三郎)「釣針」(茂)。「三番三」は、記念の会ということでのご祝儀。神が宿りますから、脇狂言に繋がります。「福の神」が、それに対応。こういった流れになると、厳粛な中にも華やかさがあると感じるものですが、今日は、ここで居眠り。やたら、場内が暑かったのも眠気を誘いました。後半は復帰。「飛越」は、傑作なアレンジが入りました。2人は、市民狂言会に行く途中という設定。新発意は、飛ぶのが嫌になるのを隠すために、「満席だから」と言って帰ろうとしたり、檀家の千三郎さんは、道行で狂言の見方を入れたりで、会場は大受け。おまけに、狂言の流れが、あまりに他愛なく意地を張り合うものですから、会場が沸きました。「釣針」は久しぶり。大勢ものは、狂言独自の会でしか、ほぼ観ることができないものですから、貴重です。アホげな内容も良く、後半は、会場がリラックスしてくるのが、よく判りました。西宮の神社に願をかける主従2人連れ。何と釣針で、お妻様とお付きの女性を釣り上げるのだけども、、、というお話です。宗彦くんが、高校生時代に、シテを務めたところ、釣針が引っ掛かったためが、宗彦くんが、アドリブを入れながら引きちぎろうとしたところ、後見に入っていた、先代千作師が、宗彦くんから釣糸を引ったくり修復をしたという思い出の曲。そのためか、今日使われた小道具の釣針は、デフォルメされた、えらく大きなものが、釣糸の先に付けてありました。シテの茂くんが、立衆の皆さんに追い込まれ、付祝言が謡われるとおしまいです。久しぶりの能楽堂の空気はいいものですね。


2018年 6月 8日(金)午前 0時 51分

 今日は、まず、今シーズン最後のメトロポリタンのライブビューイングを観る日。この1週間は、上演機会が稀な、マスネの「サンドリヨン」(ロラン・ペリー演出)が上映されています。タイトル・ロールをメゾが歌うということで、ジョイス・ディドナートに合わせて、この珍しい、しかし、とっても素敵なオペラが陽の目を見たものと推測しています。リュセット(サンドリヨン)が、王子のお屋敷に向かうために、妖精により与えられたドレスを見て判りました。このメトロポリタンの新演出という触れ込みのプロダクションは、DVDになっている、ジョイス・ディドナート主演のものと同じだということが判りました。それを裏打ちする発言が、幕間に流れたロラン・ペリーへのインタビュー。衣装も担当したロラン・ペリーは、コーラスの人が着るあるドレスを指し、「これは、今回作り替えたもの」と言ってましたから、間違いないでしょう。いずれ、DVDを引っ張り出し、確認することにしましょう。前半(リュセットが王子のもとを去るところまで)は、実に滑稽味たっぷりの演出、しかも、それが、芝居と音楽にうまく沿っているので、さすがロラン・ペリーと感心すること、しきりでした。バレエの部分は、コーラスの人たちに振付が入り、おもしろい動きをさせ楽しませてくれましたが、コーラスの人たちは、もう大変。後半は、ちょっとシリアスな味付けになり、しっかりと聴かせるアリアも堪能でさせると、マスネは、なかなか憎らしい構成を採用しています。歌手陣は、テノールがいなくて、主たる役に、メゾが3人という編成。そないな辺りが、上演頻度の落ちる要因なのでしょう。ということで、リュセット(ジョイス・ディドナート)の相手役となる王子には、ズボン役のアリス・クート。リュセットの義母にステファニー・ブライズ、その夫にして、リュセットの実父パンドルフをロラン・ナウリと、巧者を揃えてました。同歌劇場管弦楽団を振ったのはベルトラン・ド・ビリー。この指揮者のインタビューが、なかなか素晴らしく、主役二人を結びつけるポイントは、二人が、ともに抱える「孤独」だと言っていました。言いえていて妙なところです。いい歌手陣、いいプロダクションで、何一つ不満のないものでしたが、時差ぼけのまま、このライブビューイングに臨んだうえ、上演時間開始が午前10時なものですから、黄紺の鑑賞態度としては最悪。半寝状態が続き、惨憺たるものとなりました。今日も、福井から高校時代の友人がやって来ましたので、一緒に観たあとは、いつものように、食事、お茶と、くつろいだ時間を持つことができました。
 今日は二部制だったため、夜のお出かけまで、一旦、自宅待機。そして、夜は、カフェモンタージュへ。今夜は、「W.A.モーツァルト」 と題して、松本和将さんのピアノ演奏がありました。明日との2日間、モーツァルトのピアノソナタの連続演奏会があるのですが、黄紺は、明日は他の予定が入っていたため、今日だけ行くことになりました。今日演奏されたのは、「第1番 ハ長調 K.279」「第2番 ヘ長調 K.280」「第3番 変ロ長調 K.281」でした。モーツァルトのピアノソナタとしては、番号通りの最初の3曲となります。松本さんは、奥さんの上里さんと、カフェモンタージュで、ヴァイオリン・ソナタの連続演奏会を持って来られていたので、そのモーツァルト演奏には慣れていたはずですが、ヴァイオリン・ソナタとなると、どうしてもヴァイオリンの方に、耳はシフトしていたようで、始まった途端、2つのことに反応してしまいました。1つは、カフェモンタージュのピアノの音が、久しぶりのこともあったのでしょうが、違って聴こえたのです。特に中音域から高音に移行しようかという音域が違って聴こえました。うらく溌剌とした陽の方に動いた音に聴こえてしまいました。もちろん、松本さんの技のなせることだったのでしょうが、同時に、これが2つ目になるのですが、「ちょっと待てよ、黄紺が求めるモーツァルトじゃないぞ」と思ってしまったのです。音は、すぐさまに耳に慣れていきましたが、黄紺の持った違和感は、最後まで消えることはありませんでした。タッチが強すぎるのかな、基本が強く、振幅を大きく取ってなかったのかなと思ったりしています。「明日が聴けなくて残念」と思っていたのが、「ま、それでもいいか」の気分に変わってしまいました。


2018年 6月 7日(木)午前 0時 8分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「平成15年入門組落語会~四尺玉 Vol.39」がありました。この会には、久しぶりに寄せていただきました。その番組は、次のようなものでした。鯛蔵「青菜」、松五「厩火事」、(中入り)、石松「平の陰」、二乗「たちぎれ線香」。今日は、開演前にダウン。動楽亭まで歩いて行ったのが、久しぶりだったためか、もう立ち上がれないほど。おまけに眠い。またぞろ、居眠りかと不安になったのですが、実際は、ここで座椅子に体を埋めて休んだのが功を奏し、開演してからダウンをしたのは、松五の高座だけでしたから、まだましなことになりました。最近、帰国後の時差調整に時間がかかるようになってきており、原因はそれでしょうね。鯛蔵は、マクラで、この4人で、毎年行く旅行の報告。いじりの対象は、大ネタを出す二乗と、理屈好きの松五。仲のいいのが判っているだけに、心地よく笑えます。鯛蔵の「青菜」は初めてのはず。とってもオーソドックスなテキストながら、鯛蔵の口演が進むにつれ、ワクワク感が高まります。節度のある植木屋さんのはしゃぎぶりと、落ち着きのある旦さんとのバランスがいいのでしょうね。それに、旦さんと奥さんの短いやりとりが、この口演に楔を打ち込みました。植木屋さんが惹かれる上品さが、頗るあったのが大きかったですね。松五は、ふられているのに乗りきれないのが、ちょっとしんどいところ。口演はダウンしてましたから、パスです。逆に、うまく乗れるのが石松。鯛蔵のマクラを発展させてくれました。そのおとぼけが、ネタに合うのもお得なところ。石松の口演を聴いていて、上手いなぁと思ったのは、手紙を扱う手の動きと、読んでるふりをするときの目の動き。伝承芸です。そして、狙いの二乗。二乗が「立ち切れ」を出すということで、今日は客足が伸びたとか。かく言う黄紺も、その一人です。「立ち切れ」を出す噺家さんは、随分増えましたが、若手の中で、このネタで惹き付ける魅力がありそうな噺家さん、ナンバーワンかもしれませんものね。二乗は、このネタを、先日の京都の「染屋町寄席」でネタ下ろしをしているはずです。丹精な語り口は、全くもって魅力。でも、感情表現の力点が、木ノ庄に行ってからというのは致し方ないにしても、聴いていて、感情移入がしにくくなってきたのが、ここからでした。なんか、演者さんとの乖離が始まってしまったように思えてしまいました。言い換えると、演じようとする二乗が見えてきてしまったと言えばいいかもしれません。蔵住まいが決まるまで、ホントに口舌のいい二乗の語り口はスムーズ。ただ、丁稚のお喋り、番頭の慇懃な語り、ちょっとスムーズ過ぎたかもしれません。一息吸うくらいの間が入れば、言葉に、一層のリアリティが出るのにと、聴きながら思ってしまいました。やはり、「立ち切れ」は巨石です。これから、長い長い、その巨石との格闘が、二乗にも待っているのでしょうね。しかも、出す機会が限られているネタですから、余計に時間がかかることでしょうが、チャレンジし続けて行って欲しいものです。


2018年 6月 6日(水)午前 0時 11分

 予定通り、今日の昼間に帰国。早速、夜のお出かけを再開。今夜は、カフェモンタージュです。「Duo&Solo」というコンサートが、昨日今日で行われていたのですが、もちろん今日だけの参加となったのですが、主役のお二人は、カフェモンタージュではおなじみの、「ヴァイオリン)石上真由子、(チェロ)金子鈴太郎というお二人でした。そのプログラムは、次のようなものでした。「M.ラヴェル:ヴァイオリンとチェロのためのソナタ (1922)」「B.バルトーク:無伴奏ヴァイオリンソナタ Sz.117 (1944)」。ところが、不安が当たりました。帰りの飛行機のなか、ほぼ眠ってなかったのです。自宅に戻ってきてからも、後始末に終われ、出がけに30分ほどだけ、仮眠をとっただけだったものですから、ラヴェルの緩やかで、ちょっと妖しげな光を放つ音楽が、黄紺を直撃すると、バルトークの粗削りの音に見舞われたとしても、快復するどころではなかったですね。そないなこと、端から想定されながら、出かけた黄紺がバカだったということです。どうも、最近、カフェモンタージュに行けてなかったもので、ついつい申し込んだのが、無惨な結果を呼び込んでしまいました。


2018年 5月 14日(月)午後 9時 31分

 今日は、入院しているDの付き添い。朝の6時過ぎから、Dのところへ。おかげで、すっかりDのお友だちになってしまいました。一心寺が、そのため吹っ飛んでしまいましたが、思い出に残る大切な1日となりました。明日から、ポーランドに出かけるのに、心配の種を残しながらですが、週半ばには退院できるでしょう、この分だと。それが、ちょっとした安心です。


2018年 5月 13日(日)午後 8時 31分

 今日はバレエを観る日。びわ湖ホールであった英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ団の「眠れる森の美女」(ピーター・ライト振付)を観てまいりました。数年前、ニュルンベルクで観た「胡桃割り人形」に衝撃を受け、ぼちぼちとバレエを観る経験を積んでいます。びわ湖では、昨年の新国立劇場の公演に次ぐバレエとなりました。初めて観る「眠りの森の美女」、そのため、予習を怠ることなく出かけました。筋立ては、よく知られた物語ですから判ってはいたのですが、どのような膨らまし方をしたのかという点で言うと、筋立てのいじり、膨らましはなしということになります。しかし、よく膨らましたなぁと思うのは、4箇所に及ぶパーティの場面。ま、プロローグは許せます。だって、そのパーティに喚ばれなかった妖精カラボスが呪いをかけるきっかけになるわけですからね。次に許せるのが、オーロラ姫の20歳の誕生パーティ。針や刺に敏感になるパーティです。これも、次の大きな展開に必要なものでしょうが、同じようなパーティに変わりはない。次の王子の狩と言ってもパーティと変わりはないように見えます。そして、だめ押しは結婚式。童話の主人公までがダンスを披露します。これだけ似たような場面が繰り返されながら、飽きないのは、さすがチャイコフスキーです。それに煽られて、バレエを堪能してしまってました。バレエ界でバーミンガムが、どのような立ち位置にあるのかは、全く疎い黄紺なものですから、このプログラム、プロダクションを、どのように判断していいものか困っています。とってもオーソドックスな演出に、こんなのイギリスでやってんのと、怖いもの知らずで突っ込んでしまってました。装置も、プロダクションに沿ったもの。こないなオーソドックスなものだったら、DVDで観ることができるのにと思ってみても始まりません。開演前にアクシデントがありました。オケピットに指揮者が出てくる前に、舞台横から人が現れると、決まってます。主役級のキャスト変更です。オーロラ姫役がケガで降板が告げられました。ペアを組む王子役も交代。なんと、日本人ペアが主役を任されました。オーロラ姫が佐久間奈緒、王子が厚地康雄でした。そして、オケピットには、ニコレット・プレイヨン指揮のセントラル愛知交響楽団が入りました。


2018年 5月 13日(日)午前 3時 2分

 昨日はオペラを観る日。「第56回大阪国際フェスティバル2018」の一環として上演された、藤原歌劇団の公演「ラ・チェネレントラ」を観てまいりました。 (演出)フランチェスコ・ベッロット、 (演出補)ピエーラ・ラヴァージオとなってはいますが、2008年 伊ベルガモ・ドニゼッティ歌劇場のプロダクションのフル・バージョン改訂版だそうです。キャストを記しておきます。(チェネレントラ/アンジェリーナ)脇園彩、(王子ラミーロ)小堀勇介、(従者/ダンディーニ)押川浩士、(ドン・マニフィコ)谷友博、(クロリンダ)光岡暁恵、(ティズベ)米谷朋子、(アリドーロ)伊藤貴之。なお、オケは、園田隆一郎指揮の日本センチュリー交響楽団、合唱は藤原歌劇団合唱部でした。装置の仕掛けが、なかなか判らなかったのですが、ようやく後半の半ばほどになり、黄紺にも判りました。舞台全体は、何やらテーブルの上とでも考えればいいみたいで、そこに、どこかに引っ掻けたナプキン状のものが拡がり、その上に開きかけの本が置かれているというものでした。要するに、本に認められた物語の主人公たちが、テーブルの上で動き回っていると考えれば良いのだということに、ようやく気がついたのでした。そういったメルヘンチックな仕掛けを持ってはいるのですが、本から飛び出してきた主人公たちは、かなり現実的な動き。物語の中から出て来て、自由闊達に振る舞っているという風情。舞台左端に設えられた時計などは、針が、チェネレントラにより引きちぎられてましたからね。時間により縛られている束の間の幸せなら、時間の概念を潰せばいいじゃないかという、とっても能動的な動きを見せていました。確かに、この仕掛け、着想はおもしろいのですが、概ね、舞台上にはオブジェのように巨大な本があり、広い舞台で物語が推移していきますので、横幅が広すぎる舞台、それに見合う動きが用意されていたかというと、そうでもなかったもので、ちょっと退屈な場面も幾つかあったことは間違いありません。歌手陣では、圧倒的に、王子を歌った小堀勇介が抜けていました。高音が出る人なので、どこまで出すのか気になったのですが、CisかDまで行ったんじゃないかな。会場で会った知人によりますと、びわ湖で「連隊の娘」を歌った人だと教えられていたため、期待はしていたのですが、期待以上の声で、大満足。会場で会った他の知人とは、何はさておき、この素晴らしいテノールの話から始まりました。ここで聴いた高音とパワーがあれば、ヨーロッパでは引く手数多になるんじゃないかな。噂の脇園彩は、1幕の半ば以後は快調、但し、2幕に入ると、再び調子を落としという具合で、調子に波がありすぎます。調子の悪いときは、音程も不安定になっていました。ちょっとふれ込みが大きすぎたかなの印象ですが、、、。あとの皆さんでは、ダンディーニとアリドーロがイマイチというところでしたが、広いフェスティバルホールという器で、パワーを持ち合わせた皆さんだったことは間違いありません。開演前、入口で知りあいに会ったところ、当日券の一番お安い席をゲットしたなんて言うものですから、入りが気になったのですが、とんでもありません。結構な入りに、びっくり。藤原歌劇団の公演は、確か「ランスへの旅」以来ですが、この入りだったら、毎年、定期的に試みて欲しいと思いました。期待しています。


2018年 5月 11日(金)午後 11時 8分

 今日は、旅行前最後の落語会に行く日。動楽亭であった「どっかんBROTHERS vol.29」に行ってまいりました。トリイホール、高津神社で開催されていた時期も含めて、初めておしゃますることになりました。その番組は、次のようなものでした。全員「トーク」、文華「京の茶漬」、全員「トーク」、鶴笑「笑福亭つる吉:金明竹」、(中入り)、全員「トーク」、遊方「愛がとまらない」、 全員「お遊びコーナー」。初めてのおじゃまということで、変わった展開に、まず戸惑いました。3人が落語をする前に、全員が登場して、ネタについて喋ったり、うだうだとお喋りをする時間が持たれます。次の演者は、ここでマクラみたいなのを喋ってしまうので、高座に上がると、即刻ネタに入るというもの。ネタについて話があるということは嬉しいところ。文華は、師匠の話をしたり、マクラでふるお国言葉いろいろを紹介してくれましたし、遊方は、ネタを創った動機、要するに、一時、ラヴストーリーに付き物だった、「死」を扱ったと言ってました。一方、鶴笑に対しては、「つる吉とは何者?」という強い突っ込みが、遊方から出されていました。文華の「京の茶漬」は、あっさりした展開が嬉しいところ。聴き慣れたネタだから、そう思うのかもしれませんが、文華にとっては、最も多く聴いた師匠のネタから汲み取った方針かもしれません。つる吉は、初めての遭遇でした。「金明竹」はネタ下ろしだからなのか、つる吉のときは、いつもそうなのか、なんせ初めてなもので、判断がつかないのですが、鶴笑は黒子スタイルで高座に上がりました。飛び道具は、一切なし。完全に初めから終わりまで、つる吉が、純粋に落語をします。その辺りはどうなんだろう、要するに、途中、鶴笑が出てくるのかどうかを知りたかったのですが、今日の高座では、一切出てきませんでした。それを観て、確かに、つる吉には可能性があると思いました。つる吉の表情や仕種の中に、明らかに生身の人間にはないものがあるからです。その辺りを、鶴笑が、どれほど開発していけるかが、つる吉の将来を決めていくことになるなぁと思いました。遊方はラヴストーリーを目指したはずでしたが、その中に出てくる「死に至る病」は、オナラ尽くしになりました。徹底的に、仕掛けは、全てがそれだったもので、時間の経過とともに、ちょっと引き気味というか、疲れが出ていくというものでした。「お遊びコーナー」の出題者は、トップの出番になった人がなるというルールで、今日は文華が担当。「大阪24区の名称」「七福神の名称」に挑み、勝ったのは遊方でした。盛りだくさんな内容、おまけに落語は、この3人が揃えば、おもしろくないわけがありません。今まで、ご縁がなかったのが、今さらながら不思議でなりませんでした。


2018年 5月 11日(金)午前 6時 34分

 昨日は、ファーティフ・アクン監督の映画「女は二度決断する」を観る日。大阪でも上映していますが、交通費がお安く済む京都で観る(於:京都シネマ)ことができるように考えた結果、昨日になりました。ポーランド&ドイツ旅行に出発する前に行くことができる運の強さです。ファーティフ・アクンの映画を、全て観ているわけではないので、確かなことは言えないのですが、グルベッチをテーマにして、初めてドイツ人を主役にして撮った映画じゃないでしょうか。そして、テーマが、今更ながらの極右による外国人テロ。筋立ては3つに分かれています。①家族②正義③海と、それぞれにタイトルが着いています。①では、主人公の女性(ドイツです)が、トルコ人かクルド人の夫と子どもを爆殺されるのですが、警察は、見込み捜査のため、犯人に行きつかないのですが、突如、犯人が判ったで、このパートは終わります。後ほど判るのですが、犯人の父親の通報があったからで、警察の捜査の結果ではなかったということでした。②裁判の場面です。犯人を特定するには、疑わしきは罰せずの原則からは不十分と看なされ、被告は無罪になります。③国際的な極右組織の連携で、被告が無罪になったと看られることで、主人公が、証人となったギリシア人の嘘を見つけに行く場面。そして、被疑者もギリシアに滞在中であることを知り、主人公が行動を起こすところです。その行動の執り方には、意見が分かれるところでしょうが、黄紺的には、ファーティフ・アクンの描き方が意外だったことは間違いありません。その意外さと、なんで、今になり極右を素材にしたのかという点と結びつくように思えてきています。ファーティフ・アクンの怒り、もどかしさ、そういったものを感じたということは、何かに触発された結果のように思えました。何かは判りませんが。ひょっとしたら、現代にはびこるテロの本性みたいなのを描きたかったのかなとも思っています。


2018年 5月 9日(水)午後 8時 32分

 今日は、兵庫県立芸文センターで、オペラのお勉強をする日。「佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2018関連企画」として行われた「"魔弾の射手"ワンコイン・プレ・レクチャー 第1回不思議な世界現る~"魔弾の射手"」に行ってまいりました。講師は、音楽評論家の堀内修さんが務められました。主人公マックスや、ヒロインのアガーテのキャラが、とってもドイツ的だとのお話。ちょっと繰り返しが多かったとはいえ、ようく解りました、というか、しっかりと再確認をさせていただけました。メロドラマとしての狼谷の場面も、ドイツ的、そういった意味で、ロマン主義オペラの幕開けということなのでしょう。ベートーヴェン、ワーグナー、R.シュトラウスと続く、ドイツ・オペラの系譜、ぜひ、芸文のオペラでも追いかけていって欲しいものです。素敵だったのは、最後にいい質問が出たこと。いずれも演出に関わるものでしたし、堀内さんも、しっかりとした答え方をされていました、黄紺も、隠者についての質問をしようかと考えながらも、あまり突っ込んだことを伺うのは場違いかと思っていたところ、的を得た質問が出て、ニーズが奈辺にあるのかを、プロデュースする側が、ぼちぼち考えなげればならない時期に来ているなと思ったりもしました。
 芸文センターを出ると、今津経由で阪神西宮へ。昨日、京都歩きをした友人と合流。今日は、西宮郷を案内してもらいました。が、黄紺は、ぶらぶら歩きと、ちょっとした上下移動が堪え、白鹿クラシックスに行っただけで、ギヴアップ。でも、灘の酒屋と言えば、魚崎郷しか知らなかった黄紺には、ありがたい街歩きで、いい情報をもらえたので、しかも、芸文センターにも近いということで、これから、芸文センターに行く機会を利用して、あの辺りを歩けたらと思えました。でも、震災前の姿、見ておくべきでしたね。気がつくのが遅すぎました。


2018年 5月 8日(火)午後 8時 42分

 今日は、雨のなか、友人と京都を散策。「ブラタモリ」で、林田アナが登場してから歩いた東山界隈を歩いてみました。銀閣寺から吉田山が見えるアングルが不思議だったのですが、判りました。あんなコースって、随分以前に入ったときには公開されていなかった場所。でも、テレビ映りも良かったですが、あすこから見る京都、見事に吉田山がじゃまをしていました。銀閣寺に行く前に覗いた法然院は上に上がれず。落語会では入ったことがあり、いつでも入れると思っていたのですが、期間限定でしか上がれないんですね。銀閣寺後では吉田山に。ごく軽~い山ですが、黄紺にとっては、踵を傷めて以来初めてとなる高低差のあるところを歩きました。やはり、下りには神経を使うからか、随分と時間がかかってしまいました。そんなで、ちょっと涼しい京都、やたら外国人観光客が目につきましたが、思いの外、人出はましで、ホッとした、ぶらり京都の旅でした。


2018年 5月 7日(月)午後 5時 42分

 今日は、MOVIX京都で、メトロポリタン歌劇場のライブビューイングを観る日。今日は、「コジ・ファン・トゥッテ」(フェリム・マクダーモット演出)の新しいプロダクションを観ることができるということで、勇んで行ってまいりました。そのキャストは、次のようなものでした。(フィオルディリージ)アマンダ・マジェスキ、(ドラベッラ)セレーナ・マルフィ、(フェルランド)ベン・ブリス、(グリエルモ)アダム・プラヘトカ、(デスピーナ)ケリー・オハラ、(ドン・アルフォンソ)クリストファー・モルトマン。なお、指揮はデイヴィッド・ロバートソンでした。新しいプロダクションは、度肝を抜くもの。舞台を、1950年代のコニーアイランドに置くというもの。装置として、ルナパークが配置され、屋内はモーテル、大道芸人が技(剣呑み、火吹き女、大蛇使いなど)を見せ、フリークス(女装をした髭面男、小人など)が集う、そういった極めてアメリカの消費社会の権化のようなところで、物語は繰り広げられました。大道芸人やフリークスの人たちは、芸を見せたりするだけではなく、舞台転換に動くこともしばしば。一旦、舞台に出て来てからは、モーテルの場面以外は、ほぼ出ずっぱりじゃなかったかな。物語を、温かく見守るウィットネスの役割が与えられていたと看ました。この物語を、長閑な、贅沢なお遊びにしていたのかなと、あっさり片付けてしまったのですが、、、。歌手的には、主役の4人の男女は、若い歌手を起用。ま、これは常套手段ですね。ドイツの歌劇場では、アンサンブルの人たちで組むというのが、「コジ」では普通。このプロダクションが贅沢なのは、ドン・アルフォンソにクリストファー・モルトマンという大物歌手を据え、デスピーナに、ブロードウェイからケリー・オハラを喚ぶというもの。ケリー・オハラの起用は、ルネ・フレミングの出た「メリーウイドウ」以来となります。狂言回し役に、読める有名歌手を起用するという布陣ですね。ケリー・オハラに、最後にきて、ちょっとだけ踊らせてくれました。マイクを使わないオペラでは、息が上がると困るので、踊らせないという方針は、「メリーウイドウ」以来ですが、ゼロでは申し訳ないというところでしょうか。若い4人では、黄紺の目では、ドラベッラを歌ったセレーナ・マルフィが、一番安定していたのじゃないかな。今日は、眠れなかった夜の翌日だったもので、日にちの変更すら検討したほどだったのですが、ポーランド&ドイツ行きを控え、日にちに余裕がないため、決行。ダメな時間帯もあったのですが、あまりにもひどい睡眠障害だったため、自分的には許せる居眠りの範囲でした。今日の上演で、来季からヤニック・ネゼ=セガンが、音楽監督に就くことを知りました。相変わらず、情報の遅い黄紺ですが、これは、言うまでもなくジェームス・レヴァイン追放を受けてのもの。彼の対談まで流していました。フィラデルフィア管と掛け持ちですから、すごいことです。このこととともに、来季のライブビューイングのラインナップが発表されました。どうやら、今季のようなヨンチェヴァ・シフトはないようですね。ガランチャで幕開けかと思っていたのですが、ネトレプコで幕開けのようです。ヤニック・ネゼ=セガンは、ディアナ・ダムラウの歌う「椿姫」のニュープロダクションと、何と何と「カルメル会修道会の対話」を振るとか。これは楽しみ。また、生きる目標ができました。


2018年 5月 6日(日)午後 11時 4分

 今日は、動楽亭で講談を聴く日。今夜は、こちらで「CD録音の会」という講談会がありました。なみはや講談協会の皆さんが、ご自分たちの口演をCDに残していこうということで開かれたもので、黄紺などは拍手で記録に残ろうということで行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。鱗林「秀吉と易者」、南海「山内一豊と妻千代」、南華「徂徠豆腐」、(中入り)、南湖「血染めの太鼓」、南鱗「お坊主稲川」。やはり、録音で残すとなれば、概ね鉄板ネタが並んだのではないでしょうか。鱗林さんは年季明け間なしと言っても、時の人を扱った新作ものを出されるのかと思っていたのですが、やはり時の人は、時とともに色褪せるということなのでしょうか、オーソドックスな古典を読まれました。が、そこは曲者です、きっちり、地元名古屋をアピールできるネタをチョイス。登場人物も、きっちり名古屋弁を使っておりました。冒頭、全員での挨拶に立たれたときは、ネタを決めてない素振りだった南海さんでしたが、正に鉄板中の鉄板を出されました。「難波戦記」「太閤記」から抜き読みをしても、別途、録音が進んでますからね。ですから、黄紺は、「赤穂義士」あたりからの抜き読みかなと思っていたのですが、やはり、この鉄板ネタは残しておきたいですものね。南華さんは、女侠客ものかなと睨んでいたのですが、何と琴調師からもらわれたものでした。それだけ手塩にかけて育てられてきたのでしょうね。世話もの好きの南華さんにフィットするネタでもあります。東京でもらわれてきたネタの中で、一番、合っているかもしれませんものね。南湖さんは、挨拶の中で「新作をやります」と、早々に宣言。てっきり「おっぱい豆腐」かと思ってしまいましたが、最近、あまり出されてないのではと思った「旭堂南北一代記」でした。一時は、自分で作り、自分で気に入っていたとしか思えないほど、しばしば読まれていましたから、出されてみると、このネタについての熱い気持ちを、再確認しました。黄紺的には、久しぶりに聴くことになったのですが、べたなくすぐりが入るかと思うと、三風ばりの客席参加もあり~ので、結構な進化の跡を見ることができました。それにより、南湖さんも、自信を深めていったのだと思いました。南鱗さんは、好角家らしく、相撲ネタをチョイス。でも、「お坊主稲川」は、普段の会では、あまり出されない方のネタじゃないかな。黄紺も、筋立てを、すっかり忘れてしまっているほど、久しぶりの遭遇でした。ですから、ありがたいネタ選びでした。引退を控えた大坂相撲の大関綾川が、東京相撲の横綱不知火に勝てば、谷町から酒問屋を任されるということで、妻から得た相撲界の裏情報から勝つ方法、但し、褒められたものではない手を使い、勝つというもの。綾川と不知火の潔さが、ちょっと後ろめたさの残る後味の悪さを消す、ちょっと不思議なネタですね。今日は、録音現場に参加できるからなのでしょうか、それとも、数が少ないと、拍手も笑いも物足りなくなるということで、何らの動員があったのでしょうか、講談会にしては、結構な入り。ただ、この録音には、南北さんが不参加なのが残念ですね。


2018年 5月 6日(日)午前 4時 00分

 昨日は、びわ湖ホールで、2つのコンサートを聴いてまいりました。このGWを使って、「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭 2018」が開かれています。有名音楽家が集い、短めのコンサートが立て続けに開かれるというイベントです。初めて行くことにしたイベントでもあります。まず1つ目は、「歌手たちの競演」から砂川涼子のコンサート(pf.沼尻竜典)でした。最初は、他の歌手を狙っていたため、黄紺の手に入れたのは、何と最後の1枚でした。黄紺は知らなかったのですが、砂川涼子は宮古島の出身ということで、このコンサートには、「沖縄のこころ」と銘打たれ、沖縄関連の曲が、プログラムに並びました。そのプログラムは、次のようなものでした。「芭蕉布」「ばんがむり(宮古島民謡)」「なりやまあやぐ(宮古島民謡)」「てぃんさぐぬ花(沖縄民謡)」「安里屋ユンタ」「だんじゅかりゆし(沖縄民謡)」「さとうきび畑」「童神」「島唄」。最後の2曲は、同じ沖縄出身の与儀功を、特別ゲストに迎えデュエットでの歌唱となりました。やはり、沖縄の唄はいいですね。穏やかで和みがあるかと思うと、南の暑い陽射しの中の強烈なリズム、それを、こうした空間で、オペラ歌手の歌唱で聴ける、この企画に、まず拍手です。砂川涼子の声は堅いため、さほど進んで行こうとはしてなかったのですが、曲がそうさせたのか、ホールがそうさせたのか、今まで聴いてきた声質とは違うように聴けて、満足。なお、「安里屋ユンタ」は、砂川涼子が、三線の弾き語りで聴かせてくれました。歌手もピアノ伴奏も、沖縄ものを着ての演奏。40分では、あまりにも勿体ないコンサートでした。
 1つ目のコンサートが終わり、2組の知り合いと遭遇。黄紺のように、可愛く2つだけに留めず、幾つものコンサートに駆け回っていました。2つ目のコンサートまでの1時間余り、黄紺は、湖畔をぶらぶら。陽射しは良かったのですが、比良の山などは、かなり霞んでしまっていたのが惜しいところ。で、2つ目のコンサートは、「ズボン役の世界」と題された林美智子のコンサート(pf.河原忠之)。ズボン役では、日本のトップを張る林美智子が、今回のびわ湖では、最大のお目当て。昨日の日程は、それに合わせて組んだ次第。で、そのプログラムは、次のようなものでした。「モーツァルト:"フィガロの結婚"より"恋とはどんなものかしら"」「グノー:"ファウスト"より"僕の告白を彼女に告げておくれ"」「オッフェンバッハ:"ホフマン物語"より"見ろ震える弦に下で"」「J.シュトラウス:"こうもり"より"お客を呼ぶのは私の趣味で"」「R.シュトラウス:"バラの騎士"より"全てのバラの"」「同:"いつかこういう日が、、、"」「同:"夢だわ"」。登場は、まず客席から。動ける人らしい、派手な登場。MCも、全部一人でやってしまいます。それも上手いし、立ち姿は、ズボン役にびったり。今年は、運良く、先日の京都で1回、そして昨日と、半年も経たない内に2度も聴いてしまい、ラッキーとしか言いようがありません。昨日のプログラムも、ズボン役の名曲が、ずらりと並びました。おまけに、「バラの騎士」では、マルシャリン役として森谷真理、ゾフィー役として砂川涼子が特別出演という贅沢さ。森谷真理は、3月の「ワルキューレ」で歌ったジークリンデが良く、今回も、そのコンサートが聴きたかったのですが、開演時間が午前11時ということで、あっさりと断念したということもあり、ラッキーさも花○付きです。先日の京都でもそうでしたが、林美智子は、ちょっと大きめのヴァイブレーションが気にはなりましたが、それをカバーして、余りあるものを見せてくれました。


2018年 5月 4日(金)午後 11時 48分

 今日は映画を観る日。かねて狙いの韓国映画「タクシー運転手」を、MOVIX京都で観てまいりました。テーマがテーマのうえ、お気に入りの俳優2人(ソン・ガンホ、ユ・ヘジン)が出てるというのでは、外すわけはありません。1980年に起こった光州事件を取材し、世界に発信したドイツ人記者を、ソウルからタクシーに乗せ、また、空港まで送り届けたタクシー運転手を主人公に、光州事件を映画として、大きな話題となっている映画です。実話に基づいているというのも、この映画に重しを着け、公開前から話題を提供していた映画でしたが、確かに光州まで送るところから、また、金浦空港まで送り、運転手が自宅に戻るまでを辿り、話を膨らませたものと思われます。ただ、その膨らませ方、どうでしたでしょうか。どこまでが実話なのか、その由を知るわけではないのですが、なんかイマジネーションが足らないなという印象。足らないなと思ったところに、ひょっとして、実話が入ってたら、とっても失礼なことを書いたことになりますが、、、。主人公がタクシー運転手だからと、その主人公を取り囲む、光州の市民をタクシー運転手にしたり、主人公が、元来は政治には無関心だが、光州の現状を見て、変わっていったり、なかでも、送り届けたからと、一旦はソウルに戻ろうとするのだけども、光州に引き返してきたり、軍部にマークされ、ついにはカーチェイスになったりと、挿話が幾つも用意されてはいるのですが、黄紺的には、あざとい挿話、ストーリーを作り上げるために、頑張って押し込まれたと見えてしまいました。光州事件そのものってのを掘り下げてないからでしょうね。なんか、光州事件というおぞましい事件を素材に、サスペンス映画を作ろうとしたような感じの映画でした。光州事件を、映画の素材として取り上げること自体が、韓国では、頑張ったという印象を与えるでしょうから、これをエンターテイメントにしようとしたとは思いませんが、イマジネーションを膨らませるとき、その頭脳は、エンターテイメントとしての映画製作をするのと同じ部位を使った、それしか使えなかった、そないな仕上がりでした。ソン・ガンホが、ソウルからドイツ人記者を運ぶ運転手、ユ・ヘジンが光州の運転手という役回り。この役だったら、別にユ・ヘジンを使わなくてもと思う、勿体ない使い方に、黄紺の目には映ってしまいました。一方で、光州事件の再現場面は凄まじいものがありました。様々なテクニックを用いて、道庁前を再現し、軍の発砲場面を再現していました。この場面を映画に盛り込み、正面から光州事件を取り上げたということに意義があるのでしょうね。黄紺的には、光州事件を扱った映画を観るのは、「ペパーミントキャンディ」以来でした。他にはあったのでしょうか。「ペパーミントキャンディ」から20年、個人的体験として出てきた光州事件が、20年かかって正面から取り上げられた、その意味は大きいですね。韓国の民主主義の成熟の証しと言えばいいでしょうか。


2018年 5月 4日(金)午前 5時 14分

 昨日は、朝から息子の家へ。久しぶりのDは風邪気味。ちょっと熱を出していましたが、相変わらず、動き回るのが好きな男です。そして、昼からは、ちょっとしたマジェラで茨木市へ。当地のオークシアターであった「LIVE302/弦とピアノ~クァルテットの魅力―大阪交響楽団トップ奏者with崎谷明弘―」という長ったらしい看板を掲げたコンサートに行ってまいりました。先日、大阪交響楽団の定演に行ったときに知ったコンサート。最近は、在阪のいずれのオケでも、こういった室内楽のコンサートを開くようになりつつあり、黄紺的には大歓迎。この演奏会に出演されたのは、次の皆さんでした。(ヴァイオリン)里屋幸、米川さやか、(ヴィオラ)早田類、(チェロ)大谷雄一、(ピアノ)崎谷明弘。そして、プログラムは、次のようになっていました。「外山雄三:弦楽四重奏曲(2018)」「アルバン・ベルク:弦楽四重奏のための“抒情組曲”(抜粋)」「ヨハネス・ブラームス:ピアノ四重奏曲第1番 ト短調 作品25」。最後のカルテットは、米川さんが抜けての演奏。会場は、防音設備が効いた広めのスタジオという感じのところ。学校で言えば、椅子や机のない広い視聴覚室というところでしょうか。音響は大丈夫かなと思い、ダイレクトに音を浴びることのできる、ステージに近い席を取りました、自由席だったものですから。ところが、そないなことは杞憂。いい感じの音を聴くことができ、音楽自体を楽しむことができました。外山作品は世界初演とは、また、大袈裟な話。僅か5分ほどの曲。次いで、ベルクとはすごいチョイス。オケ版に移植された楽章だけが演奏されました。休憩を挟んで、メーンのブラームス。ピアノ四重奏という組み合わせ自体が設えにくいものですから、知られた曲にしては、生での遭遇機会の少ないもの。聴いてみると、組み合わせで、そういった扱いを受けざるをえないのは、あんまりという佳曲。4楽章なんて、大スパーク。ロマ的メロディなんでしょうか、激しい、激しい。ホント、メーンに据えたくなる曲です。ウェットにはならず、機能面にシフトした、なかなかの好演。高い拍手が演奏者に通じたのか、アンコール曲を用意してなかったなか、ブラームスのラストを牽き直してくれました。高い拍手、ブラボーの掛け声まで。室内楽では、なかなかない光景に遭遇しました。今まで、茨木市は、こういった催しを開いてきていたのかな。こんなの続けて欲しいな。枚方市のような頓挫だけは避けて欲しいな。アルバン・ベルクが演奏されて、あれだけ支持されたのですから。


2018年 5月 2日(水)午後 11時 51分

 今日はツギハギ荘に行く日。今日は、こちらで「第9回あかねの部屋~ノッキンオン・師匠ズ・ドア」がありました。落語作家のくまざわあかねさんが、定期的に開かれているトークショーです。今夜は。寄席の三味線方であるとともに、上方唯一と言っていい女道楽をされている内海英華さんがゲストということで、飛び付いてしまった黄紺でした。英華さんは、三味線方になる前には、講釈師(元旭堂南蝶)だったという経歴の持ち主。その辺りの変遷について、お話しが聴けるのではと、期待大なるイベントでした。そういったものも含めたお喋り。内容は、その場にいた者だけの特権。英華さんのようなキャリアのある方がお話しされると、それに応じた懐かしい芸人さんの名前や、テレビ番組が出てくるのも嬉しいところ。いつもは、トークが終わってから一席披露という構成になっているのが、今日は、英華さんの高座を聴いてから、トークが始まりました。で、このトークショーですが、次回で終了だそうです。当初より10回計画で、出演者の人選をしていたと言われていました。ということは、吉の丞の2回というのは、計画の内だったのですね。そして、10回目のゲストは、、、捻るんだろうか、正攻法で来るのだろうか、正攻法だったら、あの人だろうと思っていたところ、南天の名が告げられ、まことに正攻法だと納得。黄紺の予想も当たりました。


2018年 5月 1日(火)午後 10時 47分

 今日は動楽亭で落語を聴く日。今夜は、こちらで「GW 3K」という落語会がありました。主宰者3人の噺家さんの本名が、いずれも「K」で始まることからのネーミングとか。初めておじゃまをすることになりました。この落語会は、GW期間中に3回開かれるのですが、黄紺は、今日だけ行くことにしました。単に、あとの2日間は、他に行きたいところがあるという単純な理由で、パスすることにしたのです。で、今日の番組は、次のようなものでした。佐ん吉「つる」、そうば「近日息子」、紅雀「さかさま盗人」、佐ん吉「猫とさいころ」。3日間、交替でトリをとり、そのときは2席の出番という番組。今日のトリは佐ん吉ということで、トップも佐ん吉となりました。このトップの出番だけが、ネタ出しなし。佐ん吉は「つる」を出しましたが、もちろん久しぶり。かつては、何度も聴いた記憶がありますが、今どきの前座では、考えられない上手さ。前座時代に、ここまでできていたかは、今となっては言えませんが、ちょっとした間、抑揚、何をとっても、緩急自在っぽいやつで、いいもの聴いたって感じです。そうばのマクラが傑作。結婚の挨拶に持参した土産の話だったのですが、、、。笑うに笑えない、でも、笑わざるをえない話って、正に、この話。この話が可笑しすぎたため、ちょっとネタに入ってからが苦しかったか。あまりにも、笑いのマックスが、マクラで出てしまいました。しょうもないこと言いの男の物言いをいじっていました。でも、通常の並びの持っているリズムではなくなっていたため、おもしろさが減退。テキストとしておもしろいものを並べるだけじゃ、あの場面ってダメやと思います。通常の並びが、いいリズムを生んでいることを、まず認めないとダメなんじゃないかな。紅雀は、今日も、のっけからテンションが高い。ただ、紅雀の場合は、そうばと違い、そのテンションをネタに引きずり込む力量を持っています。ここいら辺が、経験の賜物で、そうばに比べると一日の長があります。「さかさま盗人」というネタ、ずっと気になっていながら、今日まで聴けてなかったのですが、「打飼い盗人」でした。通常のものをいじったからでしょうか、題名を変えたのは。盗人に入られた家の男が素っ裸だったり、早く匕首で突き刺せと、何度も迫ったりと、かなり派手な作りになっていました。「猫とさいころ」は、今まで聴いたことがないと思っていたのですが、実際に聴いて観ると、以前にも佐ん吉の口演で聴いたことがあることを思い出しました。それだけではなく、東京の「猫定」のプロットを使った改編噺だと思ったことも思い出しました。この移植&改編作業は、小佐田センセあたりがかんでるのかなと思い、調べてはみたのですが、判りませんでした。「猫定」は、かなり陰湿な噺と、黄紺の頭には入っているのですが、そういった部分を削ぎ、問題を博打にだけ絞ったのが「猫とさいころ」ですね。だから、解りやすいけど、噺のテイストとしては、中途半端な印象。怪談ぽくもあり、そこまでは行ききらないものを感じます。その辺に照準が合ったと言えば、いい言い方かもしれない、そういった佐ん吉の口演でしたが、それは、「つる」のような歯切れ良さはなく、そうかといって、暗さや陰りがある口演ではなかったということです。死人が踊るところや、猫が操っているのが判る辺り、もっとおどろおどろしくできないかなぁ、テキストも口演も、、、そうすると、前段との対比がクリアになり、噺にメリハリが効くと思うのですが、、、。


2018年 4月 30日(月)午後 9時 56分

 今日は、シネヌーヴォで映画を観る日。「明日はどっちだ 寺山修司」という、寺山修司を取り扱ったドキュメンタリー映画を観てまいりました。ごく普通のドキュメンタリー映画と言えば、いいでしょうか。寺山修司の作品の特徴、中でも、実際に上演された市街劇「ノック」の映像も交えながら、当時のスタッフ、役者などが、そのスタイル、目指したものを振り返っていくというのが、この映画の1つの柱。もう1つが、寺山修司の生い立ち、人生を振り返ることで、寺山修司の活動のルーツ、果ては、以後、計画していたことまでを追いかけていました。作風とか、スタンスは、芝居を観たと言っても、この映画にも、当時のスタッフとして証言していた高取英主宰の月蝕歌劇団での芝居だけなのですが、ある程度は、自分の目で確かめ、また、巷間言われていることは、黄紺の耳に入っていますから、ちょっとした復習という感じだったのですが、新鮮な情報は、彼の生い立ちでした。私生児として産まれた母親、父親は戦病死。戦後、母親は、三沢基地の米軍将校のオンリーということで、かなり厳しい子ども時代を送っているということでした。一方で、母親は、お金を貯め、寺山修司を早稲田に入れるのですから、寺山修司には、かなり屈折した母親像があったことが判りました。作風に影響しないわけがない環境だったようです。天井桟敷が渋谷にあった頃、1階が喫茶店であったことを覚えています。あの並木橋辺りは、渋谷場外があったから、よく前を通ったものでした。あすこで、母親は働き、寺山修司の傍らについていたなんて、初めて知りました。当然、寺山修司の映像も、随分と流れましたが、言葉が煌めいていますね。あの時代だからでは片付けられない、強いメッセージを感じ、思想性の高さに、あらためて感服するばかりでした、47歳での死は、あまりにも早すぎましたね。


2018年 4月 29日(日)午後 8時 28分

 今日も音楽を聴く日。3日連続で、コンサートに行くことになりました。今日は、シンフォニーホールであった関西フィルの定期演奏会。デュメイのソロで、コルンゴールドのコンチェルトが聴けるというので行ってまいりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「ミクロス・ローザ:映画"深夜の告白"組曲」「コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35(ヴァイオリン:オーギュスタン・デュメイ)」「バルトーク:管弦楽のための協奏曲 Sz.116」。なお指揮は、アドリアン・プラバーヴァでした。このコンサートのキャッチコピーに「亡命・・・終の棲家、アメリカ」とありました。おもしろい括りで、いい曲が並びました。ミクロス・ローザは聴いたことのない名前。映画音楽作曲という点で、コルンゴールドと繋がってるからということもあるでしょうが、調べてみると、「ベンハー」や「エルシド」の音楽担当だったことが判り、びっくり。純粋映画音楽が、こういったオケの定期演奏会に出るのは稀れなことなのでしょうが、コルンゴールドの前ということなのでしょう。コルンゴールドのヴァイオリン協奏曲が大人気です。今季は、在阪の3つのオケの定演で取り上げられる有り様。こういった流行り廃りってありますね。ヴァイオリンのソロの演奏会じゃ、R.シュトラウスのソナタが大人気ですものね。そのR.シュトラウスも、ヴァイオリン協奏曲を作ってんだけどなぁ。次なるブームが起こるなら、黄紺はこれだと思っているのですが、、、。ま、それよりか、コルンゴールドです。そないなことで、デュメイも弾かざるをえなくなったのかな。譜面台を置いての演奏になったあたりは、その辺の事情かなと思ってしまいました。そして、それを聴いて、つくづくいい曲だと再確認。耽美の粋を極めたメロディに、透徹した音で挑んでくれました。行って良かった、聴いて良かった、満足です。休憩を挟んで、バルトーク。オケの定演で、よく取り上げられる曲ですが、黄紺的には、以前に1回くらいは、生で聴いたかな程度のお近づきでした。アドリアン・プラバーヴァという指揮者、初遭遇でしたが、とっても丁寧に、要所を押さえる指揮ぶりに、この曲のあもしろさが、ちょっと解ったようになってしまいました。かなり、遊び心で作ってるんですね、バルトークが。だから、木管の奏者たちが大活躍。ですからでしょうね、指揮者は、まず木管の人たちを労っていました。この間、偶然なのですが、詰めてコンサートに行く機会を得ました。やっぱ、生で聴く音楽はいいですね。オペラも観たし、オケのコンサートも聴きたし、室内楽も外したくなしでは、大変です。かなり、厳しい交通整理をすればするほど、フラストレーションも溜まるというものですが、ドイツに行ってる間は、我慢、がまんです。


2018年 4月 28日(土)午後 7時 4分

 今日は、京都で音楽を聴く日。京都府立府民ホール(アルティホール)であった「二人の名演奏家と古の楽器で紡ぐ不滅の名曲~ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会①」に行ってまいりました。ヴァイオリンの豊嶋泰嗣とピアノの上野真のデュオコンサートです。今日演奏されたのは、次の3曲でした。第1番、第6番、第9番「クロイツェル」。このシリーズの大きな特徴は、使用される楽器。ヴァイオリンには変化がないのですが、古のフォルテピアノを修復して、それを、この演奏に使用するというもの。しかも、そのフォルテピアノを、毎回変えるという贅沢さ。今日は、1820年ウィーン製の伝マテーウス・アンドレアス・シュタインが使用されました。普段の演奏会では、そうは聴ける代物ではありませんから、まず、その音に慣れるのに一苦労。やっぱり、現代のピアノとは、鍵盤数が違うのはもちろんのこと、音色が均質ではないのが、なかなか慣れることができなかったですね。最初の1番は、そのための時間。9番になり、ようやく、上野さんが、その心得を持ち演奏されていることに気づくと、あとは、もう、普段と変わらなくなっていきました。そんなで、1番はともかくもで、6番には惹かれました。豊嶋さんのヴァイオリンに、春の温もりのようなものを感じ、6番って、こないなゆったり気分で聴ける曲だったのだと、今更ながら発見をしたことは、大きな収穫でした。先日、同じ曲を、郷古廉で聴きましたが、今から考えると、えらく若さが先行していたことも、同時に判りました。あのときは、6番でなく4番を気に入ったのも、その辺りのかげんかもしれません。そして、一転して、9番の緊迫感は、ホントに素晴らしかったです。緊張と緩和が、この演奏に生きていたことも、素晴らしかったと言える大きな要素。ヴァイオリンの狭間から顔を出すフォルテピアノの自己主張は、正に、上野さんが、この楽器を操りきったものでしたし、ヴァイオリンも、ふっと緩んだときに出す、そう6番で聴いた春の温もり、、、いい構造になっていました。京芸関係者が来られていたのかな、いつになく、若い人たちの姿が見えた客席。GWの開幕を飾る、素敵なコンサートに出会うことができました。


2018年 4月 28日(土)午前 8時 58分

 昨日は、シンフォニーホールで音楽を聴く日。大阪交響楽団の定期演奏会に行ってまいりました。昨日は、このオケお得意の後期ロマン派主義音楽がプログラミングされたものですから、飛び付いてしまいました。そのプログラムは、次のようなものでした。「シュレーカー:弦楽のための間奏曲 作品8」「コルンゴルト:左手のためのピアノ協奏曲 嬰ハ調 作品17(pf.クリストファー・ヒンターフーバー)」「シェーンベルク:交響詩"ペレアスとメリザンド"(シュタイン編)」。なお指揮は、このオケの常任指揮者寺岡清高でした。シュレーカーは、大阪交響楽団といえども、初めての演奏だとか。演奏されたのは、僅か5分ばかりの曲だったのですが、弦楽器が9声部に分かれているという解説が、プレトークとして、指揮者の寺岡さんからお話しがありました。ならば、R.シュトラウスばりのオーケストゥレーションかなと期待をしたのですが、全くそないなことがなく、肩透かし。でも、金管が入ってないからでしょうか、澄みわたった美しさのある曲でした。次のコルンゴールドに至っては、日本初演かもと、寺岡さんは言ってました。コルンゴールドの掘り起こしが進む中での選曲でしょうが、実際聴いてみて、一曲としての有機性ってあるのかなと思う習作っぽいもの。これも、寺岡さんのお話しで伺ったのですが、かなり無理な音の跳びがあるので、オケが合わせるのが難しいと言われていました。両手で弾くというチョイスもあるのだが、それは看板に偽りありになるので、片手でやってもらいますとのことでした。実際の指揮ぶりを見ていると、合わせるのに懸命なお姿、確かに確認させて頂きました。この曲を目指して来られた方、いるんでしょうね。黄紺の席って周りには、らしき人が揃ってたんじゃないかな。ま、超珍品を聴いたってところです。そして、シェーンベルク。このシェーンベルクの初期作品やツェムリンスキーの曲って、関西のオケって、出さないですね。なわけで、この定期演奏会に飛び付いた次第。ただ、黄紺的反省、やっぱ、モチーフのメロディを頭に入れておかなくては、聴くおもしろみが備わってこないということですね。やっぱ、聴く機会が稀れというのは、こうした弊害を生むものです。でも、熟しきった後期ロマン派の曲に触れられただけで、満足している黄紺なのですが、演奏的には、もっと厚みのある弦を聴きたかったとは思いましたが。今月は、もう一度、コルンゴールドを聴く機会がありますが、以前は、そないなことがなかっただけに、定期で取り上げられる曲にも、浮き沈みがあるのでおもしろいですね。


2018年 4月 26日(木)午後 11時 29分

 今日は、繁昌亭で落語を聴く日。そう言えば、今日は、こちらで会長選挙があったのですね。繁昌亭前で、記者団のインタビューに応える仁智新会長の姿が、テレビに流れたのかな。黄紺宅にはテレビがないので、よく判りませんが。で、夜は、「桂しん吉春の祭典’18 芸歴20周年企画第1弾~オール『鉄』」という会がありました。その番組は、次のようなものでした。しん吉「ヨほめ」「おじいちゃんのトロッコ」、元祖お囃子カントリーぐんきち「ご機嫌伺い」、(中入り)、しん吉「さくらとみずほ」。今日も、昨日の尾を引いていて、目が痛い1日だったのが、業をなしてしまいました。「トロッコ列車」が、あとで思い出そうとしても、思い出せない状態ですから、居眠りしてなかったところでも、意識は飛んでたみたい。「ヨほめ」という変な題名は、鉄(道)分いっぱいの噺。いや、今日は、弟子入り20周年を記念して、得意の鉄道落語だけを集めた会だったのです。もちろん、ぐんきちも、いつものように、鉄分いっぱいのコミックソングですから、正に鉄道尽くしの宵となりました。従って、「ヨ」は車両記号。貨物車に付いている乗務員用車両だそうですが、黄紺にはイメージがわきませんでした。その車両を、自宅の車庫に設えた人に、「牛ほめ」の要領で褒めあげ、小遣い稼ぎをしようという噺でした。梅団治の鉄道落語に、こうした古典落語のパロディ落語が幾つかあるようですが、しん吉では初めて聴きました。あと1つは、しん吉に、双子の女の子が産まれた記念落語と言えばいいでしょうか。「さくら」と「みずほ」が、その名前(実際は違うそうです)、しかも、いずれも、ブルートレインから採ってのもの。その双子ちゃんを巡る夫婦の会話は、しん吉の実生活を彷彿とさせるもの。そのとりとめないやり取りが前半。後半は、その続きながら、赤ちゃんタレントとしての応募の話に特化していきます。7月に開く「夏の祭典」では、一転して、古典をみっちり。「本能寺」を出すそうですから、早速、メモることにしました。


2018年 4月 26日(木)午前 6時 44分

 昨日は二部制の日。午後に、兵庫県立芸文センターであったコンサートに行き、夜は、ツギハギ荘で落語を聴くというもの。まず、昼間のコンサートですが、「佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2018関連企画」の一環として行われた「"魔弾の射手"ハイライトコンサート~ええとこどり!」に行ってまいりました。昨年は、このプレ企画を失念していたため、気がついたときには、チケットは完売。その失敗があったため、今年は、しっかりと押さえてありました。出演者は、次の方々でした。(アガーテ)周防彩子、(エンヒェン)中嶋康子、(カスパー)松澤政也、(マックス)二塚直紀、(ナビゲーター)ジェイソン・ブラスロフ、(ピアノとお話)伊原敏行。そして、プログラムは、このオペラの筋立てに沿い、次のように展開されました。「森を越え、野を越え(マックス)」「黙ってろ! 誰もお前の邪魔をしないように(カスパー)」「いたずら者、しっかりしてよ!(アガーテ、エンヒェン)」「どうして眠れるでしょう~まどろみは近づき(アガーテ)」「え? 何ですって! 恐ろしいこと!(アガーテ、エンヒェン、マックス)」「狼谷での魔弾鋳造」「昔、亡くなった伯母が夢を見たの(エンヒェン)」「狩人の合唱(ホルン合奏:甲南大学文化会交響楽団)」「フィナーレ:それを撃ってはダメよ!(全員)」。衣装に加え、小道具まで設えてのプレコンサート。ジングシュピールだということで、ドイツ語の響も知ってもらおうと、状況説明のナビゲーターにドイツ人を起用と、サービス満点。歌唱も、正にええとこどり。大人の事情で、合唱は無理なら、大学のオケからホルン奏者まで用意。至れり尽くせりのコンサート。歌唱面では、やはりびわ湖の卒業生のお二人がいい感じ。中島さんは、エンヒェンのイメージ通りの声でしたし、二塚さんは、今や関西オペラ界のエース的存在。ただ、マックスの声ではないのが、残念。なんせ、マックスは、ヘルデン・テノールの持ち役ですから、それだけは致し方ありませんでした。終了後は、会場で会った知人夫妻と、久しぶりのお茶。音楽話に花が咲きました。
 その後、少しだけ梅田界隈で時間調整。そして、夜の落語会に向かいました。昨夜のツギハギ荘では、「大阪新作取引所~新作落語のヤミ取引~」という、桂米輝と笑福亭智丸の二人会がありました。一風変わった新作を発表している2人が、持ちネタを交換して高座にかけるというユニークな試み、今日は、動楽亭でも、生寿の会があったのですが、西宮からの移動もあり、こちらを選んでみました。その番組は、次のようなものでした。米輝&智丸「挨拶」、米輝「寿司屋兄弟」、智丸「ダジャレ村(仮題)」、(中入り)、智丸「カフェ役者(米輝作)」、米輝「いじわる空の旅(智丸作)」、米輝&智丸「アフタートーク」。この会は、米輝から智丸を誘って生まれた会だそうです。自分の新作を、他の噺家さんに演じてもらい、その工夫を見て、その作品を成長させていこうという主旨のようで、かつて1度だけ、たまが雀喜に働きかけて、似た落語会が開かれたくらいで、例を見ない性質の会だということで、好事家の関心を惹いたようで、ディープな落語ファンが集まったのには、ちょっと驚きました。「寿司屋兄弟」は、米輝が、最初に作った新作だとか。存在は知ってましたが、初めての遭遇となった噺です。寿司屋を営む兄弟の弟の方は、大変なカレー好き。寿司屋の注文の品にもカレーをかけてしまうほど、こうした発想が米輝特有のもの。小さい頃からのカレーにまみれた生い立ちを、いろいろと洗い出すのが前半。さすがに怒った兄が、カレー禁止令を出すのだけれど、思わぬところからカレーが飛び出してくる後半へと展開していきます。智丸が、米輝の新作の特徴を、簡単にまとめて言いました。「師匠仁智の"ハードラック"と同じで大喜利的」、うまく言ったものです。1つのお題を受けて、それを、様々な角度からつついていくというわけです。このネタの場合ですと、カレーをプロットに、ありえないことを想像していくということ。「カフェ役者」だと、 「食べ物に反応して演技が変わる」というプロットから連想できることを、次から次へと集めていくのですから。古典をやらせたら、正攻法でやってのける自力のある米輝ですから、着想の可笑しさを余すところなく伝えていきます。一方の智丸は、アイデアが豊富なところに加え、この人の強みである言葉の豊かさがあり、独自のテイストを持つ智丸落語ができてきています。「ダジャレ村」は、縄文時代の石室を調査するため開けると、ダジャレ・ウイルスが蔓延してしまい、感染した人がダジャレを言い続けるというもの。そのあとの収拾の仕方が判らないのです。こないなところで、居眠りをしてしまいました。別につまらなかったわけではなく、むしろ、智丸渾身の新作って印象を持っていたのですが、何せ、前の晩、一睡もできず、朝になってから仮眠程度の睡眠しかとってなかったのが原因です。この時間帯だけで、居眠りが済んだのが不思議なくらい寝てなかった。そんなで、どこかでの遭遇に託しましょう。「いじわる空の旅」の方は、智丸曰く「1回しかやったことないんです」、それに対して、米輝の強烈な突っ込みが入りました。「捨てたネタかい」。かなり、無理のある設定の噺。これも、出番前に、智丸が米輝に囁いたとか。車が空を飛ぶ噺なんですから。しかも、その必然性ってものがない噺なのですから。ミステリーツアーに当たったと喜ぶ男。だが、集合場所に行くとやって来たのはワゴン車。それが空を飛ぶという噺なわけです。遊覧中にも、客にいじわるという名でのくすぐり満載なわけですが、わりかし小ネタの連続、却って、そんなのを続けられると可笑しさが出てくるものですね。ただ、米輝の口演にも助けられた感も強かったですがね。確かに、智丸作品は、総じて言える特徴は、小じんまりと可愛らしさを含む作品というところでしょうか。智丸のお喋りも小じんまりとしているので、余計に小じんまりとしてしまうのですが、米輝のような、振幅の大きなというか、緩急も自在に操れる口演者にかかると、また違った味わいが出てきそうな印象を持ちました。これは、逆も真なりで、「カフェ役者」の中に繰り返し出てくる、芝居の殺人シーンが可笑しくて、、、。智丸のわざとらしいちっちゃさが繰り返されるのに、すっかり魅了されてました。米輝は、あのようなお喋りをしないはずですから、このネタの演じ方の違った顔を見たのではないかな。やっぱ、異なった個性、しかも、なかなかユニークな個性を持つ2人の邂逅、続けて欲しいものです。おどおどした智丸を、兄貴分として突っ込む米輝の姿も微笑ましくて。もう、米輝世代が、後輩を引き連れる時になってきたのも、落語ファンとして嬉しかったな。ディープな落語ファンが詰めかけたのには、そんなところもあったのではないでしょうか。


2018年 4月 24日(火)午後 11時 25分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。この間、うまく日程が合わず行けてなかった「染吉っとんの会~林家染吉落語勉強会」に行ってまいりました。今日は、東京の春風亭昇々との二人会形式で行われましたが、その番組は、次のようなものでした。染吉・昇々「トーク」、染吉「大名将棋」、昇々「お見立て」、(中入り)、昇々「お面接(仮題)」、染吉「腕喰い」。昇々は、昨日、繁昌亭昼席に出たあと、動楽亭であった福丸の会に出て、そして、これに出るために、来阪したようです。ま、落語会の出番から見ると、そのように見えました。福丸と染吉は同期のお仲間ですから、存外当たっているかもしれません。やはり、その昇々は、昨日の繁昌亭昼席のときとは、随分と印象が違いました。やはり、繁昌亭での緊張感からくる尖った感じはなく、お調子もので、且つ、才走った噺家さんという印象が残りました。「お見立て」では、登場人物のキャラを掴むのが、やたら上手く、その場その場で、そのキャラを自在に伸縮していたのが印象的。ときとして、デフォルメしすぎて、くさくなるところが見受けられましたが、そんなのは、口演を重ねて淘汰されていくのでしょうね。新作もいい感じで、面接指導をする母親、意味を解らず、覚え込まされるものだから、実際の面接では、トンチンカンを言ってしまう子どもというもので、仕込みとバラシという古典的な構造を応用したものですが、トンチンカンとなる言葉遊びに、才走ったものが見え隠れするとともに、ここでも、登場人物のキャラ作りの冴えを見せてくれました。昨日では、よく判らなかった、大物ぶりを見た感じがしました。一方の染吉は、「大名将棋」がネタ下ろし。ネタ数も増え、こうした珍品も手がけるようになってきています。このネタを持っている噺家さん、誰だろうと考えたとき、黄紺の頭に浮かんだのは、定番の文我以外だと、仁鶴、小春団治、たまぐらいしか思いつかないのですが、いったい、誰からもらったのでしょうね、いや自分で掘り起こしたのかな。そんなですから、ほとんど聴く機会のないネタですが、講談では、わりかしポピュラーなネタですから、単に落語での遭遇機会が少ないということです。染吉の口演は、大名の能天気さがいいですね。ちょっとバカ殿との境界きわきわのキャラ作りが、今までの染吉には見られなかった大胆なもの。先日のコンペの予選以来、なんか一皮剥けた感じがします。ですから、ご意見番の爺も、それに対抗するだけのキャラ作りをして欲しかったな。2つ目は、当初、「質屋蔵」を出す予定だったらしいのですが、トリで上がった時点で、もう8時40分を過ぎていたことと、染吉自身が喉を傷めていたことで、変更。まだ夏にはなっていませんが、はや怪談っぽい噺を聴くことができました。このネタは、去年のコンペでファイナル進出を決めた、染吉には記念のネタ。染吉の口演では、あのとき以来になります。終盤の若旦那の語りを聴いていて、改心の深さが一層出ていて、なかなか心に染み入るいい口演。ここで、そういった深さが出ると、徳兵衛の名台詞「人間止めなはれ」の含蓄が深まります。徳兵衛の覚悟が伝わったことが判るのです。その台詞が出るときは、若干の唐突感が残ります。いや残るからこそ、若旦那の深さで納得できるという呼応の仕組みになっていると思えますので、今日の染吉の恫喝はぴったり。全てを見通した上での恫喝のように思えました。ますます腕を上げていく過程に遭遇できたという感じです。


2018年 4月 23日(月)午後 11時 11分

 今日は二部制の日。午後に繁昌亭昼席に行き、夜は、千日亭で講談を聴く日となりました。まず、昼席ですが、今週は、「林家染雀第12回繁昌亭大賞・芸術祭優秀賞W受賞記念ウィーク」と銘打たれた興行。こうした興行では、トリの噺家さんの意向を受けて、番組が組まれるなんてことを聞いたことがありますが、今週の番組は、正にそれで、染雀テイストの濃厚な番組となりました。その番組は、次のようなものでした。弥っこ「子ほめ」、昇々「初天神」、生喬「竹の水仙」、姉様キングス「音曲漫才」、三四郎「MOMO」、あやめ「妙齢女子の微妙なところ」、(中入り)、染丸・染雀・あやめ・遊方・文三(司会)「記念口上」、遊方「ちりとてちん」、文三「四人癖」、染雀「紙屑屋」。あやめに言わせると、弥っこ、昇々、三四郎という今席の若手3人までもが、染雀セレクトだとか。そう言えば、外形の似たタイプの3人が揃ったものです。昇々は、もちろん東京からで、今日だけの出演。明日からは、三四郎が2番手に上がり、三四郎の位置に染左が入り、更に一層、染雀シフトに向かいます。弥っこは、定石通り「子ほめ」。弥っこの柔らかいタッチが、このネタに合いますね。ほっこりします。昇々は、噂の噺家さん。黄紺は、初めて聴くことになりました。弥っことは、対照的なキャラのように見受けました。ちょっと尖った感じの噺家さんという印象。マクラでふった小咄もネタも、そのように感じました。これは、好き嫌いで書いているのではなく、彼のアピールの仕方の印象を書いているのです。繁昌亭の高座でのことですから、実像とは違うかもしれないのですが、、、。いかにも若いという2人のあとに、生喬が上がると、一挙に落ち着きます。「竹の水仙」とは恐れ入りました。ひょっとしたら、染雀のリクエストかな。ただ、黄紺は、生喬の口演の中では、このネタ、あまり好きではありません。くさく演じるところがあり、わざとらしさを感じてしまいました。三四郎は、今、東京にいますから、こういった繁昌亭の高座ぐらいしか聴くことができないもので、貴重な遭遇。繁昌亭チルドレンの代表格のようにインプットされている三四郎も、もう14年のキャリアだそうです。そうでしょうね、こないな奥に出ても、違和感がなくなっています。ネタは、鉄板化している三四郎の新作。「桃太郎」や、お伽噺小咄をアレンジしながらの、ちょっとしたパロディ落語ですが、不思議な外人さんを出すのが、三四郎オリジナルで、傑作なところです。あやめは、姉キンを下りて、三四郎の高座の間に噺家の姿に。大丈夫かと思っていたら、5分の余裕ができたとか。慣れとはいえ、これも、すごわざの1つです。ネタはおなじみのもの。同世代の女性の等身大の会話でした。「口上」明けは、正に、染雀の露払い的なネタのチョイスでしたが、遊方が、まさかまさかの古典を出しました。かなりデフォルメ気味ですが、遊方なら、嫌な感じがしないのは、なぜでしょうか。軽めのネタが続いてしまったために、文三の高座の後半は、今日唯一の居眠り。そして、トリの染雀。この1週間、芝居噺中心で通すのだろう、その初っぱなは、なぜか「紙屑屋」ではないかと思っていたら、ドンピシャ。「師匠のこのネタをやりたくて弟子入りしました」との前置きをしての口演。25分の高座でした。やはり、このネタを聴くためには、繁昌亭の舞台くらいの広さがないとダメですね。繁昌亭でも、「娘道成寺」の真似事をするのに、狭く感じたほどでした。芝居噺の公演をきっかけの繁昌亭大賞、その実績を披露し、客席を堪能させた渾身の高座でした。大拍手です。
 夜は、千日亭での講談会でした。二部制は避けようとしている黄紺なのですが、こちらの講談会の日程が判らず、先に、昼間の繁昌亭行きを決めてしまったために、今日の二部制が発生してしまいました。今週は、似たようなことが、もう一度起こってしまっています。で、千日亭は、今夜、「第249回旭堂南海の何回続く会?~太閤記続き読み~」がありました。毎月、日本にいるときは、最優先にしている会の1つなもので、こないなことになったというわけです。今日のお題は「信長畿内制圧(二)~浅井・朝倉家滅亡~」でしたが、残念ながら、かなりの居眠りをしてしまいました。前半は、信長の叡山攻めに焦点があっていました。浅井・朝倉家を匿ったので、叡山攻めに至るという展開で、それに伴う浅井・朝倉家攻めが読まれていたのでしょうか、気がつくと、朝倉が浅井から離れようとしていました。やっぱり、かなり居眠りしています。思い出そうとしても、辻褄が合ってこないので、これ以上書くのは止めておきます。これじゃ、二部制を採った意味がないと思ってみても、完全な手遅れです。


2018年 4月 22日(日)午後 10時 20分

 今日も、ロームシアターで音楽を聴く日。今日は二部制で音楽を聴くことになりました。まず、1つ目は、午後にあった「愛憎交々~メゾソプラノの世界」と題した、メゾソプラノ3人のコンサート。その3人の歌手とは、清水華澄(pf.越知 晴子 )、 富岡明子 (pf.東 由輝子)、林美智子 (pf.河原忠之)でしたが、黄紺のお目当ては、ズボン役がとっても似合う林美智子でした。全プログラムは、次のようなものでした。「L.ドリーブ:カディスの娘たち(林)」「ドヴォルザーク:我が母の教え給いし歌(林)」「S.ラフマニノフ:歌わないで、美しい人よ(林)」「O.レスピーギ:霧(富岡)」「A.マーラー:静な町(清水)」「G.パイジェルロ:歌劇"美しい水車小屋の娘"より"もはや私の心には感じない"(富岡)」「G.ロッシーニ:歌劇"セビリャの理髪師"より “今の歌声は” (富岡)」「H.ベルリオーズ:歌劇"ファウストの劫罰"より “燃える恋の想いに” (清水)」「G.ビゼー:歌劇"カルメン"より ハバネラ (林)」「多忠亮:宵待草(富岡)」「橋本國彦:お菓子と娘(富岡)」「山田耕筰:赤とんぼ (富岡)」「木下牧子:さびしいカシの木(清水)」「根本卓也:"猫"より"さよならという名の猫""少女エルザ""猫目石"(清水)」「武満徹:小さな空、死んだ男の残したものは、翼(林)」。前半が、外国の歌曲、オペラが並び、後半は、一転して、日本の歌が並びました。前半のピカイチは、「セビリャの理髪師」からのロジーナのアリア。富岡さんは、声量もあり、可愛さもある声で魅了しました。こういった、メゾならではのアリアを期待していたのですが、それは、ちょっと肩透かしのプログラム。耳に親しみのある曲を並べるのを旨に、プログラミングされたような気がします。その富岡さんは、日本の歌では、真逆の出来。言葉は不明瞭だし、筋肉の衰えから横隔膜が震えているような発声だしと、前半良かっただけに失望も大きいというやつです。パワー、透明感のある声質では、後半は清水さんなのでしょうが、やっぱ、歌は心ですね。いつぞや、芸文で、武光徹の曲でコンサートを持たれたときに聴けなかったのですが、今日は、3曲だけでしたが、リベンジを果たしただけでなく、頗る付きで、黄紺のハートを掴んでしまいました。もっと、いろんな曲、聴きたかったなぁ。昨日のコンサートもそうでしたが、もうちょっとじっくり聴かせてほしいものですね。
 昨日今日と続いた「ローム・ミュージック・フェスティビル」の3つ目のコンサートが、夜のお出かけ先でした。最後のコンサートは、「天才と英雄の肖像」と題したオケ(下野竜也指揮京都市響)のコンサートでした。そのプログラムは、次のようなものでした。「W.A.モーツァルト : ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466」「R.シュトラウス: 交響詩"英雄の生涯" Op.40」。モーツァルトのピアノ独奏は、かねてから、お名前だけは、しっかりと黄紺の耳にも届いていた小林愛美。楽しみにしていたのですが、黄紺の耳には、なんか単調で、、、。そう思うと、急激に睡魔に襲われてしまい、部分部分しか聴けてなかったような、、、。ところが、アンコールで弾いてくれたショパンのノクターンが、不思議な間合いを持ち進むものですから、モーツァルトの印象とは好対照。曲の違いからくるだけのものだろうか、これが、黄紺の頭に刻まれました。今後の再チェックの必要なピアニストという引き出しに入りました。「英雄の生涯」、こちらも楽しみにしていたプログラム。ライブでは、確か、この曲を聴いてないのです。オペラの深みにはまればはまるほど、R.シュトラウスものを、機会あれば聴いておきたくなっている黄紺にとって、とってもいい機会だと思えたのでした。ところが、冒頭の英雄のテーマを聴いて、インテンポで進めようとする指揮ぶりに、頭は混乱。下野さんて、そないな指揮者だったっけと思えてしまったのです。第2部に入ると、細かく木管が動いたりで、様相ががらりと変わりました。これが活になったかな、厚みのある奥の深い音楽に変わっていったように思えました。独奏ヴァイオリンを務めた泉原隆志の情熱的な音色がサポートしたかもしれませんね。やはり、大編成の音楽というものって、いいものですね。


2018年 4月 21日(土)午後 9時 39分

 今日は、ロームシアターで、音楽を聴く日。今日は、こちらのサウスホールであった「成田達輝×萩原麻未デュオコンサート」がありました。以前から、そのお名前は入っていたのですが、実際に聴くのは初めてとなったコンサート、期待の膨らんだものとなりました。そのプログラムは、次のようなものでした。.「I.アルベニス:タンゴ」「M.d.ファリャ:スペイン舞曲」「M.ラヴェル:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第2番 ト長調」「M.ラヴェル:ツィガーヌ」「C.ドビュッシー:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」「W.クロール:バンジョーとフィードル」「N.A.リムスキー=コルサコフ:熊蜂の飛行」「P.サラサーテ : カルメン幻想曲 Op.25」。ラヴェルとドビュッシーのソナタをメーンに据えたプログラム。長さにして、1時間15分ほどのコンサート。その中で秀逸だったのは、ラヴェルのソナタ。軽いタッチのえもいわれぬピアノの音は、次元を超えたかと思わせる美しさ。それに呼応し、ピアノにかぶさるヴァイオリンも、異次元に旅立っていく雰囲気。ちょっと、今まで聴いたことのない音の世界に、心震えてしまった黄紺でした。これだったら、もう1つのドビュッシーもと思ったのですが、いずれもが、近場の同じ次元に立ち、音を紡いでいました。ヴァイオリンに、特に通俗的な色合いを感じ、先ほどのラヴェルは、いったい何だったんだろうと、正直、思ってしまいました。このコンサート、ロームファウンデーションの元奨学生が集い、今の腕前を披露してくれるもの。デュオコンサートにしては広い会場、でも、チケット代が、強力なスポンサーがいるおかげで、リーズナブルなこともあるのでしょうか、どうも、普段のコンサートとは違った空気。実際、ラヴェルのソナタの1楽章が終わったところで拍手が入ったりと、これじゃ、ラヴェルとドビュッシーはきついぞというなかのコンサート、どうも、篤いものが感じられなかったのも、そういった中に、きっとあったんだろうということを感じさせるものがありました。そんなだからと、演者にとっては、ノリが悪かったのかな。最後のサラサーテなんかも、気分が乗らないのか、乗せられないのか、自分的には判らない展開。ピアノも、ラヴェルで聴いた、はっとするような音の彩りは、影を潜めてしまってたんじゃないかな。ということで、華々しい実績を誇られるお二人の実力を垣間見た思いと、やっばコンサートは水もの、一期一会だと知ったコンサートでした。


2018年 4月 21日(土)午前 0時 5分

 今日は落語を聴く日。今日は、京都に留まるか、上新庄に行くか迷った挙げ句、長堀橋に行くことにしました。今夜は、こちらのながほりブリッジビルヂング2階で、「第10回直海屋出丸の会」がありました。このあとの開催予定も発表されていたのですが、何と、今日が最終回だそうです。計10回の内、黄紺は3回行ったことになります。その最終回の番組は、次のようなものでした。あおば「阿弥陀池」、出丸「鬼の面」、伯枝「試し酒」、出丸「愛宕山」。ただ、今日は、昨夜の睡眠障害で、かなり眠い状態でのお出かけ。懸念していたことが出てしまいました。「愛宕山」がかなり厳しく、「鬼の面」と「試し酒」も、終盤に、軽い居眠りを起こしてしまいました。あおばが、こういった落語会に出てきている姿を、殆んど見てこなかったので、結構、新鮮。兄弟子様々ってところです。もちろん、その「阿弥陀池」も、聴くのは初めて。落ち着かない話ぶりが、却って、アホのいちびり具合が出ていて、おもしろい。それに加えて、オリジナルなんでしょうか、その辺りが判らないのですが、いい感じの聴いたことのないくすぐりが入っていました。いい間違いは、ご愛敬かな。出丸の1つ目では、子ども時代の懐かしい悪戯、遊びをマクラで喋ってくれました。出丸の口演では、その人にないおっとりとした、長閑な雰囲気。お節が、暗がりのなか実家に急ぐ姿が見えました。終盤に眠ってしまったのが惜しまれます。伯枝も、こういった会にゲストとして出るのが稀な噺家さん。マクラで、笑福亭ネタ、松鶴家での修業時代の話をしてくれました。もう、それで、酒の噺のマクラになってしまいます。笑福亭のおいしいところです。更に、それに、伯枝の風貌がおいしいですものね。落ち着いた、丁寧な印象を与える口演。型破りの話をしてきただけに、その繊細さが、噺自体が落ち着きました。なかなかの好演。春の噺「愛宕山」も、初夏の気温で聴くと、かなり興ざめ。出丸には、気の毒な、今日の暑さです。それに加えて、「鬼の面」とは好対照の凸凹したお喋りが、余計に暑苦しくしてしまいました。終演後、出丸自身の口からも、反省の弁が出てましたから、黄紺が居眠りをしている間も、この凸凹が続いていたようです。今日の出丸は、「鬼の面」に時間をかけたゃったのかな、ネタ繰りの時間を。この凸凹が臨場感を生む場合が、ままあるのですが、今日は、そうじゃなかったみたい。終演は午後9時頃、外に出ても、暑かったですね。帰りには、気温も下がってるだろうと思い、かばんに入れてあった薄手の上着、完全にお荷物になってしまいました。


2018年 4月 19日(木)午後 11時 42分

 今日は浪曲を聴く日。今夜は、あべのハルカス近鉄本店内にあるスペース9であった「第6回 浪曲いろは文庫」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。真山隼人「亀甲組 田村の義侠」、五月一秀「稲川江戸日記」、真山隼人「右衛門七とその妹」、全員「付録:浪曲Q&A」。なお、曲師は、お二人の盟友沢村さくらさんが務められました。 さくらさんのツイッターで知ってはいたのですが、一秀さん、この間、体調を崩しておられたようで、今月の一心寺は、代演が立ったとか。今日も、冒頭、挨拶に立たれた3人の方々の話題は、専らそのこと。一秀さんは不安を口にされていたのですが、実際の口演は、元気なときと変わらずで、ひとまずは安心。肺に弱点を持たれているようですので、やはり商売道具に不安が残っていたようです。で、通常通り、この会は進行。今日は、隼人くんが2席の番。1つ目は、来年には、連続公演を考えていると、隼人くん自身が言っている「亀甲組」から。「亀甲組」は、全19席残っているそうです。今まで、「亀甲組」は、小円嬢師などで聴いたことはあったのですが、今日のネタは、現在、どなたもやっておられないというもの。この物語は、関西鉄道の建設を請け負った亀甲組に対して、それに横やりを入れる二引組の抗争の物語。口演を聴くたびに、時代が明治になり、それまでとは形を変えた侠客ものと言えば、いいのじゃないでしょうか。今日の物語は、金策に奔走する亀甲組、それをじゃまする二引組という構造。それに、二引組による女の拐かし、それを助ける亀甲組の者、助けた女は、滋賀の金満家の娘だったことから、金策のメドが立つのだが、女を奪われた二引組の仕返し、金を守りながら、それに対抗する亀甲組という、完全に、かっこいい侠客というよりか、やくざの抗争物語です。そんなわけで、黄紺的には、好きになれないネタですね。一秀さんの「稲川」は、以前聴いたことがあるのですが、それが、浪曲だったのか、講談だったのか、はたまた落語だったのか、思い出せません。さくらさんのお話だと、東京だと、稲川でなくて梅ヶ谷でするそうです。大阪相撲の稲川が江戸で相撲をとるのだが、あまりにも強いので、全く人気が出ないで落ち込む稲川。だけど、この稲川、とっても心優しい。その優しい姿を、たまたま見てしまった新門辰五郎が、一晩にして、稲川を男にするというもの。なかなか、いい話です。一秀さんで、いろいろなネタを聴いてきましたが、一秀さんに、一番はまるネタって感じだったのじゃないかなぁ、病気のこともあるでしょうが、今日一番の拍手だったと言っていいかもしれません。隼人くんの2つ目は忠臣蔵もの。切腹を前に、大阪に残してきた母親と妹に思いをはせる矢頭右衛門七。それを気づかった茅野和助が、江戸に来ていた妹の姿を見せるというもの。大石主税を除けば最年少となることから、義士の中でも人気者ですから、右衛門七ものは幾つかあり、よく口演されますが、このテキストは、かなり無理があるのじゃないかな。講談などでは、最年少ということで、かなり思い詰めた、討ち入り原理主義者のように描かれます。その段で行くと、討ち入りのため江戸に向かう右衛門七が、母親連れ、妹(3人)連れで行くとは、びっくりですし、同行者が江戸に向かう目的を知っているというのも、もっての外です。「赤穂義士伝」の基本設定を無視してますからね。しかも、女性は通行証がないと関所を通れないからと、一旦江戸に向かった右衛門七は、大阪に引き返していながら、妹は、いつの間にか江戸入りしている。なんか支離滅裂。そないなことを考えていると、右衛門七が17歳で切腹だという点を捉え、討ち入り原理主義からすると、なんともはや「女々しい」姿に描いています。どちらに描く方が人気が高いのでしょうか。黄紺的には、講談の「思い詰めた」姿の方が、辻褄が合っているのでいいと思うのですが、、、。隼人くんの話では、浪曲にある「赤穂開城」では、右衛門七の母親は自害しているそうで、「(作者は)何も考えてないのでしょう」と言ってましたが、早い話、そうなんでしょうね。「浪曲Q&A」は「節付け」についてのお話でしたが、浪曲の楽理的なお話は、いつ聴いても難しいです。よく解らないのです。今日のお話でしたら、「節付け」の前に「節」の種類、また、それぞれの「節」と「テキスト」との調整、要するに、どのような場面に、どのような「節」が使われるものかという基本が解ってないものですから、「誰の節」を使っていると言われても、ちんぷんかんぷんってやつでした。演者さんによる「節付け」の特徴なんてものが、そないななかでは、全く解ってないのですから。だけど、難しいと言っても、そないな話をしていただけるのは、この会くらいなものですから、頑張ってついていくしか、手はないようです。


2018年 4月 18日(水)午後 8時 32分

 今日は繁昌亭昼席に行く日。今月は、番組に惹かれて、昼席に行く機会が多くなっています。今日は、東京から来演の扇辰、トリの鶴笑目当てに行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。阿久太「煮売屋」、小鯛「子ほめ」、遊喬「道具屋」、内海英華「女道楽」、そめすけ「えっ×5」、吉弥「茶の湯」、(中入り)、扇辰「一眼国」、福郎「転失気」、米紫「大安売り」、鶴笑「立体西遊記」。阿久太は、繁昌亭昼席で観るのは初めて。普段も遭遇機会はないものですから、これが貴重な機会。ちょっと荒っぽいな口調、最近では、あまり聴かない口調。却って、新鮮ですね。ただ、この人、「野辺」の部分を入れながら、見台を出さず、叩きはしない、更に、お囃子を止める指示もしないでは、勉強の必要があります。そのあとに、小鯛が上がると、あまりにも丹精なお喋りに聴こえてしまいました。歯切れが良くて、いいリズム、「子ほめ」のお手本になりそうな口演でした。それに対して、遊喬のお喋りは、おっとり型。こういった変化がおもしろいですね。ちょっとした寄席の番組の妙ってやつです。ただ、ここまでの2つのネタを見たら、「道具屋」はないやろというのが実感。前座ネタを続ける感性に疑問です。ここは、ベテラン枠なんですから、ネタに工夫が欲しいところです。そめすけは三風作品。遊喬に、こういった変化技が欲しいと、先ほど書いたのは、こういったことです。意外性のあるネタに、今日の客席は大笑いでした。吉弥は、昨日と今日だけの出演。今日は、場内にテレビドラマクルーが入っていたのですが、マクラで、自分絡みであることを、ちっちゃくアピール。ネタは、吉弥では初ものになる「茶の湯」でした。吉弥のおっとりとしたお喋りに、このネタが合っていることを、聴いていて発見しました。考えてみたら、時間を持て余したご隠居が、茶の湯を始めようというネタなわけですから、のんびり、おっとりが、噺の真骨頂になりますわね。いいもの聴かせてもらえました。今日は、鶴笑が出るということで、中入り明けは噺家さんばかりが出番。そのトップが扇辰。繁昌亭初登場かもしれません。マクラで差し入れの話なんかをしてましたが、東京の寄席で言うかなぁって感じ。ちょっとテンションも上がり気味だったので、アウェー感があるのかなの雰囲気。ネタは、繁華街両国の話から入ったもので、しばらく何をするのか判らないまま。ちょっとして、興行主が「珍しいもの」を所望することを言い出したもので、「一眼国」と判明。上方でも演じ手が少ないネタなもので、遭遇機会は稀なのですが、東京の噺家さんで聴くのは初めて。噺の構造は、上方ものと同じ。一眼国のある辺りにかかったとき、もうちょっと茫漠とした雰囲気が欲しかったなというところです。ちょっとした怪談に近い雰囲気を解きほぐしたのが福郎。穏やかな、長閑な雰囲気は良かったのですが、この位置で「転失気」を出されると、かなりむっときますね。でも、福郎の口演と、次の米紫の口演が好対照なのが、とっても可笑しい。これも、番組の妙。力いっぱいの米紫の落語は、肩がこる一方で、落語のツボを押さえるのに力が入っているので、笑いが連続的に起こります。お相撲さんの名前で遊んだり、声を工夫したり、掴みどころを心得ていますから、もう大受け。そして、鶴笑は、今日も、笑いが大爆発。客席が、こんなのがあるの、こんなにおもしろいものがあるの、初めて知って、有頂天になり笑い転げている、その雰囲気が、黄紺は大好きです。ですから、何度聴いたか判らないほど聴いている「西遊記」に当たっても、可笑しいし、満足感に浸れます。「あたま山」も観たかったけどね。


2018年 4月 17日(火)午後 7時 51分

 今日は文楽を観る日。既に、第2部は観ていますので、今日は第1部を観る日。昨日に続き、朝早くからのお出かけ。黄紺には、かなりの負担、また、睡魔との闘いが想定されるだけで、行く前からストレスが生まれますが、それを折り込み済みとして出かけた2日間でした。今日の番組は、次のようなものでした。「本朝廿四孝~桔梗原の段~」「吉田幸助改め 五代目吉田玉助 襲名披露 口上」「本朝廿四孝~景勝下駄の段、(襲名披露狂言)勘助住家の段」「義経千本桜~道行初音旅~」。「本朝廿四孝」と言えば八重垣姫と思っていたところ、今回上演されたのは、八重垣姫は、全く出てこないところ。でも、同じ物語なわけですから、基本構造は同じ。上杉と武田の抗争です。今回は、その中で、山本勘助の物語。上杉と武田が、わけあって、それぞれの息男の首を差し出さなくなったとき、お互いに身代わり探しをしていくなか、上杉に目を付けられたのが、勘助の息子横蔵。顔が似ているからということです。横蔵の弟が慈悲蔵で、実は上杉の家臣で、横蔵の首を狙い、また、母親の勘助未亡人も、その狙いに加担しているという構造。「桔梗原の段」は、領地境での両家の小競り合いを描き、話のネタふりと同時に、慈悲蔵が子捨てを行うところ。後に、慈悲蔵は、その子を殺し、替わりに横蔵の首をくれという意思表示をすることになりますから、ここにも仕込みが看られます。「景勝下駄の段」は、母親が、いじめとすら思える仕打ちを、慈悲蔵に繰り返す場面。耐える慈悲蔵。それに対して、横着な横蔵というキャラが印象付けられる一方、度が過ぎるため、これも、仕込みの臭いがぷんぷんです。慈悲蔵に、孝行が足りないというところで活用されるのが「廿四孝」の故事。それが、題名に使われているという仕掛けです。「勘助住家の段」では、仕官が叶ったと喜ばされた横蔵が、その仕官とは自害せよということだと知り、反撃を始めていきます。自ら右目を潰し、その姿では身代わりにならないだろうというわけです。となって、バラシが始まります。慈悲蔵が正体を明かし、異形の姿になった横蔵は、山本家を継ぎ、ここで、父の名を継ぎ勘助を名乗るというわけです。こうした展開は、文楽を観ていると慣れっこになっていますが、この物語で異様なのは、横蔵、慈悲蔵の母親の偉丈夫さです。正に、ゴッドかあちゃんです。横蔵に、白装束を渡し自害を迫るなんて、そないな狂言って、そうはからないよなというところでした。新玉助が、横蔵を遣うというのが、襲名披露となりました。先々代玉助の襲名時にも横蔵を遣ったということで、家の芸というところなのでしょう。幸助時代には、幾度となく観てきているはずなのですが、今日は、一段と大きく見えました。体躯の大きな方ですから、正に横蔵のようなキャラにうってつけ。いい立ち役になっていく雰囲気、いっぱいでした。新玉男さんといい、体躯の大きな立ち役は、ホント、見栄えがしますね。そして、もう1つの演目が、超人気演目の「義経千本桜」の「道行」。2、3年に1度は、確実に出るのじゃないかな。今回は、太夫さんも三味線方も、全て舞台に上がりました。歌舞伎舞踊を観ている感じになりました。そのため、太夫さんまでの距離が、従来に比べると、かなり遠くなったのはいただけませんでした。人形の方は、静が清十郎さん、忠信を勘十郎さんという手慣れたコンビ。太夫さんは、静が咲太夫さん、忠信を織太夫さんだったのですが、切語りが1人しかいないなか、咲太夫さんが、こちらの出番でびっくり。やはり体調が良くないのでしょうか。そして、今日は、ディープな落語ファン、講談ファンの方に、3人も会ってしまいました。この確率は凄いものがあります。


2018年 4月 16日(月)午後 7時 59分

 今日は、メトロポリタンのライブビューイングを観る日。この1週間上映されているのは、ロッシーニがオペラセリア「セミラーミデ」(ジョン・コプリー演出)。ロッシーニのオペラとしては重要な位置を占めるにも拘わらず、上演機会のあまりないもの。メトロポリタンでは、25年ぶりとなる上演だとか。キャストは、いずれも名手揃い。やはり、ベルカントは、技巧的に優れた歌手が揃って成り立つものとの認識を、新たにした次第です。主要キャストを記しておきましょう。(セミラーミデ)アンジェラ・ミード、(アッスール)イルダール・アブドラザコフ、(アルサーチェ)エリザベス・ドゥショング、(イドレーナ)ハヴィエル・カマレナ。なお、指揮は、メトロポリタンで、すっかりおなじみになったマウリツィオ・ベニーニということで、このベルカントの名作を、万全の布陣で製作されていました。なかなか筋立てがおもしろい。前半(所要100分)は、人物紹介がてら、セミラーミデがバビロニアの新たな王を指名する話で推移するのですが、いざセミラーミデが指名しようとすると、神の怒りと覚える混乱が生じ、前王の亡霊まで現れて、生け贄を求めるなんてことが起こるにも拘わらず、それまでに、何があり、セミラーミデは、なぜ次期の王を指名するのか、はたまた神の怒りの原因などは、全て伏せての進行となっているのが、このオペラがツボになっています。休憩時のバックステージでのインタビューで、この日のMCクリストファー・モルトマンが、アンジェラ・ミードに、事態の推移を尋ねるサービスをしてくれたので、スクリーンの前の者には判った次第でした。悪者は、セミラーミデとアッスールでした。2人は共謀して、前の王(セミラーミデの夫)を殺していたのです。ところが、セミラーミデは、新たな王にアッスールではなく、若い男(ズボン役)アルサーチェを指名するものだから、悪者2人は仲たがい。しかも、アルサーチェはセミラーミデの実子、もちろん、セミラーミデは知らないのですが、息子を新たな王にしてということは夫にしようというわけですから、神が怒るはずです。その怒りは生け贄を求め、それが成就されます。その過程で、アルサーチェは、知らないなか実母を殺めねばならないという物語が用意されていました。かなり屈折した物語です。ただ、こういった物語に相応しい歌唱だったかは、若干疑問。確かに、歌手陣は、ベルカントを歌うには立派な技巧を持っていたことは事実ですが、前半、伏せられた事実があるなら、それぞれが持つ陰りを持った歌唱が必要なのでは、、、これは、今日も、福井から観に来ていた高校時代の友人が、休憩時に突っ込んだこと。黄紺も、全くの同感。今日の文句はこれだけ。ジョン・コプリーのプロダクションは、時代を感じさせるオーソドックスなもの。2つの段階に分かれた階段、それに、サイドからスライドさせる壁や上から下りる石像、中壁、ホリゾンド前のせり上がりを組み合わせての場面転換、衣装も、古代のレリーフからヒントを得てアレンジしてあり、どこかに金をあしらった豪華なもの。総合的に言えば、時代を感じさせるとなりました。個人的に関心があったのはハヴィエル・カマレナ。この超高音の持ち主、今日も、ハイDなんのを出していたようです。感じとしては、ハイCなんてものじゃない高さでしたが、このテノールを、黄紺は、5月にベルリンで聴くことになっています。今日、このライブビューイングで聴けたおかげで、黄紺のテンションは、一気に上昇中なのです。


2018年 4月 15日(日)午後 8時 16分

 今日も落語を聴く日。ツギハギ荘であった「サクッと吉の丞 8サクッ」に行ってまいりました。全くの吉の丞の一人会。で、今日、お喋りのあったネタは、次のようなものでした。「子ほめ」「ニューヨーク旅行記」「化物使い」。まず、冒頭、博多での会のために依頼されたというPR映像の撮影。客席から、ちょっとわざとらしい拍手で参加しました。そして、ほっこりする噺として、「子ほめ」を、2、3年ぶりに口演。伊勢屋の番頭は、ちょっと出てきただけの短縮版。別にテキストが変わるわけでもないのに、聴き込んでしまいました。何でだろうと思うほど聴き込んでしまいました。やっぱ、年季ってやつなんでしょうね。一語一語に緊張があるからみたいというのが、黄紺の結論です。吉の丞は、妹さんがニューヨーク在住なので、今まで3回、ニューヨークに行ったことがあるそうです。その一部は、ツイッターでリアルタイムでレポートしているので、知ってはいたのですが、ホントさわりだけ。今日は、飛行機の話と、滞在先が、妹さんが経営するレンタルルーム(民泊)だそうですが、そちらで発生したトラブル話でした。思わず、黄紺だったらどうすればよいか、考えてしまいました。少し休憩を取って、尼崎ネタとくるみちゃんの話をマクラに、「化物使い」へ。随分と以前に、少なくとも1度は聴いているはずです。前半のおやっさんのキャラづけがいいですね。また、吉の丞の人に合った、どストライクといった口演。それが決まると、あとは噺が流れます。いいもの聴いて、気分快晴で、ウォーキングをしながら、帰途に着きました。


2018年 4月 14日(土)午後 10時 54分

 今日も落語を聴く日。谷九近くの大倫寺であった「第13回紫雲の会~むらさきのお寺でごゆるり落語会」に行ってまいりました。なかなかスケジュールが合わなくて行けなかった落語会。今日も、当初は、この会があるのを知らず、ツギハギ荘に行くつもりだったところ、開催を知り、行けてなかった分、こちらに行きたくなり、二部制を控えることにしているため、あっさりとツギハギ荘は断念しました。で、こちらの番組は、次のようなものとなりました。棗「大安売り」、紫「手紙無筆」、由瓶「井戸の茶碗」、(中入り)、紫「長短」。棗の落語を聴くのは初めて。お姿は、目立つ方なので、幾度と見かけてはいたのですが。いい声をしています。上方の女性噺家さんで、一番声が低くて太い声の持ち主じゃないかな。二葉のような高音は、噺には苦労したかもしれないですが、この声は得じゃないかな。やっぱ男仕様ですから、噺というのは。紫は、まず、1週間前にあったぴっかりの会について。女性から見ても、オーラが違うそうです。湊都のおとぼけ話も傑作。やっぱ、紫のマクラは引き込まれてしまいます。笑わされてしまいます。どうやら「手紙無筆」はネタ下ろしのよう。プログラムにも、自身で書いていましたが、正に笑福亭の噺。ひょっとしたら、今日のゲストの由瓶からもらったものかもしれません。教え手を兄貴と呼ばせ、通常の印象に比べて、登場人物の年齢差を薄くしてあるのが特徴。更に、冒頭の文のあとは、細かく区切らなかったり、そのために、やたら追伸を加えるくすぐりがなかったりと、原型とは、かなり異なったものとなっていました。もらった段階で、そのようなテキストだったのか、紫によるいじりなのかは不明です。細かく区切ると、教え手が無筆なのがバレてるじゃないかということなのかもしれませんが、そんなのは、端からバレてる噺なんだから、このテキストは荒っぽいなという印象は拭えませんでした。由瓶って、若手の噺家さんに人気があるようで、こういったゲスト枠で登場する姿を、よく見かけます。何か、紫についてのひそひそ話でもするのかと思っていると、いきなりネタの情報を入れて、事実上、マクラなしでした。由瓶の「井戸の茶碗」は初めて。持っていることは知ってはいたのですが。繰り返しを避けることを旨に、要点を、しっかりと押さえようとする組み立て。仏像の腹から小判が出たあと、すぐに清兵衛さんも見つかるしと、ムダというものが、一切ありません。ですから、口演時間は25分という、「井戸の茶碗」では、かつてない短さ。人物描写は、黄紺的には、千代田卜斎の落ち着いた語り口がいいのに対し、佐々木作左衛門は、若いのかなとは思うのだけど、年齢不祥気味。清兵衛は、落ち着きがなく、がちゃつくのは、ちょっと馴染めないものがありました。紫の2つ目は「長短」。こちらも笑福亭ネタ。鶴志からもらったものだそうです。えらいものをもらったものです。鶴志のキャラが、あまりにも濃いネタだと思ったからです。鶴志の「長短」は、随分と聴く機会があったものですから、どうしても、その口演を連想しながら、紫の口演を聴いてしまいました。やはり、あの声、あの顔だからこそ生きているテキストだなぁと思わざるをえませんでした。どうすればいいのでしょうかね。テキストをいじったり、間を変えたり、人によっては、気の長い男の台詞を、決してゆっくりめには言わないで、このネタの口演をされている噺家さんもおられますから、そういった工夫とか、いろいろな試みをしていかないと、鶴志の「長短」は素晴らしい、だから、そのまま受け継ぐ、これでは人に合わないということになってしまうと思いました。紫自身も、「難しい」と言ってましたが、えらいネタに手を着けたと思いますので、時間をかけて、様々な工夫をしていって欲しいものです。終演は、午後4時少し前。外に出ると、はや雨。天気予報だと、もう少しあとから雨だったのにと言ってみても始まりません。傘を持って出るのを忘れたため、愕然としたのですが、幸い、強い降りは初めだけ。いつものように、淀屋橋まで歩くことができました。


2018年 4月 14日(土)午前 2時 25分

 昨日は、繁昌亭昼席に行く日。奈々福、竜楽といった東京の方の出演をお目当てに行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。弥太郎「刻うどん」、松五「書割り盗人」、三若「カルシウム不足夫婦」、豊来家玉之助「太神楽」、風喬「荒茶」、枝女太「野ざらし」、(中入り)、玉川奈々福(沢村さくら)「浪曲百人一首」、竜楽「味噌豆」、たま「源平盛衰記」、春若「天狗裁き」。弥太郎は、吉朝伝来の一人ヴァージョン。これを聴くと、2人ヴァージョンのアホげな筋立ての奇抜さが素晴らしいと思ってしまいます。弥太郎は、時間を気にしたのか、かなりの早口だったため、松五の落ち着いた口演を聴くと、ちょっと安心した気分になれたのと、やたら、松五って上手いなぁと思えてしまいました。三若は、久しぶりの遭遇。東京に行ってしまった噺家さんとも会えるのも、繁昌亭のいいところです。ネタも、懐かしい鉄板ものだったのが、余計に嬉しいところでした。風喬の「荒茶」は初遭遇。「荒茶」は、噺家さんの間で人気があるようで、持ちネタにする人が増えています。風喬の口演は、講談では考えられないくだけた口調。その辺が、彼我の違いかなぁなんて考えながら聴いていました。実名が出てくるからでしょうか、客席の集中した空気が新鮮に感じられました。枝女太は、マクラで文枝一門について話してくれました。大した話ではないのですが、枝女太では聴いた記憶のない話でした。短めの噺になるなと思っていたら、「野ざらし」でした。奈々福は、月曜日から今日までの5日間の出演。すっかり繁昌亭でおなじみになってしまいました。ネタは、百人一首から恋の詩を選んで、その現代語訳を啖呵で、次いで節を付けていくというもの。才人奈々福ならではのものでした。期待の竜楽は、思いがけないものを出してくれました。まさか出るとは思ってなかったもので、大興奮。得意の7ヶ国語落語の話をマクラだけで終わるのかと思っていたところ、「味噌豆」を、その7ヶ国語を使って、実際に口演してくれました。正に、狙いを定めて行って、期待以上のものを得られたというところです。たまは、最近よく聴いている「源平盛衰記」。地噺に、繁昌亭の客は慣れてないから大丈夫かなとは思ったのですが、結局はダジャレが多いことから、逆に十分だったようで、客席に大受けでした。ただ、冒頭にショート落語もやっている関係で、全部はできませんでした。義仲追討までで切り上げました。今週のトリは春若。1週間を通じてのトリは初めてかもしれません。でも、見台が出なかったために、黄紺の頭に嫌な予感、そして、それが大当り。繁昌亭で春若に当たると聴いてきた「天狗裁き」でした。トリのときには、違うネタを聴きたかったのにと思うと、急に睡魔に襲われ、呆気なく屈してしまいました。


2018年 4月 12日(木)午後 11時 51分

 今日は文楽を観る日。4月公演の第2部を観てまいりました。その番組は、次のようなものでした。「彦山権現誓助剣~須磨浦の段、瓢簞棚の段、杉坂墓所の段、毛谷村六助住家の段」。「彦山権現誓助剣」は、比較的よく出る演目です。でも、あくまでも「毛谷村六助住家の段」であって、今回出た、前の2つの段などは、文楽劇場開設以来初めての登場とか。演目にも、演目の部分にも、偏りがあります。単におもしろいかどうかで、分かれ道があるのでしょうが、「瓢簞棚の段」などは、変な展開ですが、演出上、特異なものがあるので、頻度を上げて欲しいものです。お話は仇討ちものです。吉岡一味斎という剣術指南役が腕が立つだけに妬みをかい、このパターンって多いですが、結果的に闇討ちに遭い、その娘、孫、亡き妻が、毛谷村六助の支援を受け、仇討ちに成功するというものです。「須磨浦の段」で、娘の1人お菊が、仇京極内匠に出逢いながら、返り討ちにあってしまうのですが、難を逃れた子ども弥三松を、下郎が連れて逃げるのですが、ふがいなさを恥じて自害。また、弥三松を、更に預かった男も、「杉坂墓所の段」で殺され、それが、六助の母親の墓所の前だったために、結果的に、弥三松を、六助が保護することになって、ここで、有名な「毛谷村六助住家の段」に入ることになります。既に、「瓢簞棚の段」で、1度、仇京極内匠と手合わせをしている、吉岡一味斎のもう1人の娘お園と六助、亡き妻の出逢い、また、仇京極内匠の所在、六助の周囲で起こる、その悪行が描かれ、ついに、仇討ちに向かう人たちの素性を、お互いが認識をするという重要場面となっています。とまあ、こういった風に書くと、定番の仇討ちものという印象が残りますが、特異なのは「瓢簞棚の段」。えらい神秘的な場面が用意されています。京極内匠のアイテム(剣)とお園のアイテム(香炉)が化学反応を起こし、明智光秀の亡霊が現れてくるのです。そして、謀反をけしかけるのではなく、自重の勧めを語ったり、また、京極内匠は、自らの子どもであることを告白したりするのですが、この明智光秀、はたまた秀吉、信長なんていう武将のエピソードが、この物語に、どのように噛んでくるのかは判らずじまい。突拍子もないこととリンクしていたり、思いがけない話の飛躍は、文楽の常としても、ちょっとだけ顔を出す有名人の働きは、気にかかって仕方ありませんでした。その場面では、お園と京極内匠の対決があるのですが、その中で、京極内匠を操る人形師さんは、人形を持ったまま、瓢箪棚から飛び降りるなんて、驚きの場面がありました。プログラムを見ていると、こういった光景は、他の演目でも見られるようで、能で言えば、「風流」ってことになるのでしょうか。更に、この演目の大きな特徴が、他にもあります。お園が、文楽では珍しい女武芸者なのです。それも、「風流」の類いなのかもしれないなと思い観ておりました。なかなか観れないものを観れるというのは、とっても愉快なことです。そういった意味でも、地道な掘り起こしって、大切だってことを、よくわかりました。


2018年 4月 11日(水)午後 11時 39分

 今日は講談を聴く日。なみはや講談協会の定席「第4回光照寺講談会」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。鱗林「西郷の東下り」、南海「会津の小鉄」、南華「情けの仮名書き」、左南陵「蒲生の勇士」。ドイツから帰ってきて1週間が経ちますが、時差ボケが、まだ解消していないのですが、今日は、それに加えて、十分な睡眠が取れていないということで、かなりの危険信号。会場の席に着き待っているだけで、眠気が襲ってきていました。危ないぞの危険信号が、ガンガン鳴ってたわけですが、鱗林さんのところはセーフだったのですが、次の南海さん、南華さんのところで、ダウン。南海さんは、東京で続き読みをされている「会津の小鉄」のさわりを出されたので、番組を見たときには大喜びをしたのですが、体が付いて行きませんでした。南華さんのネタも、黄紺的には初物だっただけに、こちらも悔しい。何やら教育ママのお話だったような記憶しか残っていません。鱗林さんは、年季明けだそうで、無事、本拠の名古屋に戻られたようです。でも、偉いです、この人。毎回、この会で前座を務められて、毎回ネタを変えられるのですから。今日は、大河ドラマにあやかってか、西郷さんのエピソード。勤王と佐幕の対立が深まるなか、江戸入りをしようとする西郷隆盛と、それを阻止しようとする人たちの攻防を描いたもの。あまり聴いたことはないのですが、聴くと、別に西郷でなくても成り立つと思ってしまいます。左の師匠は、協会分裂後、遭遇したのは初めて。この会も、1度はドタキャンされてますから、ホント、待ち望んだ高座。「蒲生の勇士」とのネタ出しでしたが、通常、「名月松坂城」として演じられるもの。左の師匠の口演では、通常の口演とは違った点が2つありました。中村権四郎が蒲生氏郷の元に戻ってくるのは、氏郷が会津に国替えになって以後というもの。ですから、通常の演題が使えないというわけです。もう1つは、氏郷が投げられる直前に、自分が失念していたことを思い出すというもの。ですから、氏郷は投げられても、何も言いませんし、何のアクションも描かれません。逐電したりするのは、全て、権四郎の一人判断となっていました。この演出、いいですね。でないと、氏郷が、あまりにもアホで、我が儘の殿さんという印象しか残りませんものね。権四郎が主君を持ち上げる意思とのバランスを考えると、なかなか優れものだと思いました。そして、やはり左の師匠の口演は格好いいです。このキャラ、もっと聴きたいですね。聴ける頻度を上げて欲しいものです。


2018年 4月 10日(火)午後 11時 32分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。久しぶりであるとともに、このあと、しばらく行ける日がないということで、今日は貴重な日。今夜は、「ピアノ三重奏~シューマン&ブラームス~」と題したシリーズの3回目にして、最終回という日。ま、シューマンもブラームスも、ピアノ三重奏曲は3つしか書いていませんからね。その演奏者は、次の3人の方でした。(ヴァイオリン)上里はな子、(チェロ)向井航、(ピアノ)松本和将。また、演奏されたのは、「R.シューマン:ピアノ三重奏曲第1番 ニ短調 作品63」「J.ブラームス:ピアノ三重奏曲第3番 ハ短調 作品101」でした。2つの曲の合間、そして、終了後にお話をされたお喋り好きの向井さんは、シューマンを「難しい」と連発。テーマが、途中で切れたり、突然再生したりと、その音楽の把握が難しいというわけです。聴いている立場からすると、そないなことは解らず、1つの楽章が始まると、音楽のうねりの波が上がったり下がったり、それに身を委ねると、実に心地よい。その心地よさで、演奏の具合を計っている黄紺でしたが、今日の具合は、万全の心地よさという感じではなかったな。弾き込みが足りないのかなという感じで聴いておりました。丁寧に弾こうとしているのが見えてきたのですが、上里さんのヴァイオリンの音の厚さに感服。生の音っていいなという当たり前のことを思い出させてくれました。ちょっと弾き込み不足という印象を持ったのは、ブラームスの1楽章にまで及びました。曲の構造が、より見えやすいブラームスに至ってということは、シューマンを引きずりこんだかなという印象。この3人で聴いたショスタコーヴチの名演の溌剌さが、今日の演奏には欲しかったな。今日弾いた分、きっと、明日のノリがいいんじゃないかな。


2018年 4月 9日(月)午後 11時 12分

 今日は繁昌亭に行く日。今夜は、「第四回 上方落語 若手噺家グランプリ2018予選会 ≪予選第二夜≫」のあった日。黄紺は、年1回の、このコンペの予選に1回だけ行くことに決めています。ま、それで、その年度の様子のおおよそが判ると思っているからです。出番は、予め抽選で決められたもので、結果的に、番組は、次のようになりました。佐ん吉「稽古屋」、三幸「空みなよ」 、天使「元猫」、三河「大安売り」、二葉「上燗屋」、(中入り)、小鯛「強情灸」、染吉「鎌倉山」、咲之輔「勘定板」 、 恩狸「子ほめ」。出番の抽選の方法は、最年長者(佐ん吉)と最年少者(恩狸)がジャンケンをして、勝った方(恩狸)が、籤を先に引くかどうかを選択(最年少者から)していくというもの。佐ん吉と三幸が、発表を待つ間に語ったところによると、最後に残った籤が、出番1番と2番だったとか。この2人は、決勝進出有力者だったため、ちょっと波乱含みの籤となりました。なんせ、佐ん吉などは、最有力の優勝候補でしたものね。なお、当初エントリーをしていた智六が、急病とかで、出番を外れたため、今日は9人の争い。それぞれが、手中のネタを出したはずです。当日の体調などもあり、一発勝負は水ものと思いながら、この日の出来でもって、上位3位までに入る有力候補を、次の噺家さんと、黄紺は看ました。佐ん吉、三幸、二葉、小鯛、染吉。あとの4人は、この5人に比べて、インパクトや華が落ちると看ました。そんななか、咲之輔は、どうして「勘定板」なんて、ネタを選んだのでしょうね。今までの実績から、有力候補に入っても不思議でない噺家さん。やっぱ、この人の感性は理解が難しいですね。黄紺的候補者の中から、佐ん吉の時間オーバーが発表され、あえなく有力優勝候補が脱落。審査をした鶴二が、「(審査をする)あさ吉をマクラに使わなかったら良かったのに」と言ってましたが、その程度のオーバーだったのでしょうか。佐ん吉の口演を聴いていて、「時間オーバーになってなければ良いのに」と、黄紺ですら思っていたくらいでしたから。残る4人の取捨は、三幸のネタを斬新と看るか、二葉のネタを雀太カラーが濃すぎると看るかに、これを、今日の審査員(竹林・鶴二・あさ吉)が、審査に、どのように反映させるのかが、審査結果に、大きく影響するなと看ておりました。で、結果は、①二葉②染吉③三幸。結局、小鯛が外れてしまいましたが、小鯛が、最も正当派的口演だったからじゃないかな。正に、審査のポイントと考えていたことを、良しとして取り入れた結果となりました。それに加えて、染吉の異様にいい出来が評価されました。恐らく、今日の会場で、最も多く、染吉を聴いているかもしれない黄紺にとって、今日ほど、自らのテンションを高めて、高座に臨んだ染吉を見たことがありません。普段しない、いやできないとまで言っていいかもしれないテンションを持って臨んだ口演で、それが、権助に乗り移り、それが、噺に、見事に符合した、素晴らしい口演だったと思います。更に、それを上回った二葉。1位が二葉だと判ったときの会場のどよめきは、凄まじいものがありました。「ゴォ~」という、凄まじい歓声が上がりました。取ってもおかしくない、でも、強者相手に、二葉が評価されるのか、はたまた取らしたい、そないな感情が交差したのでしょう、繁昌亭を包んだ歓声は、なんか、スター誕生なんていう言葉で形容したいものがありました。確かに、いい出来でした。だいたい、酒の噺を、女性噺家で、しかも、長閑な我が儘を出せる噺家さんて、ざらにあるものではありません。雀太が考案したくすぐり、どれをとっても、雀太ならではの味わいいっぱいのものです。それを、自分のものにするだけでも、並大抵のことではないところへ、今まで作り上げてきたアホが、うまく生かされて、二葉テイストになってきているのが、いいですね。ファイナルで、本家との「上燗屋」対決なんてのが出たら、どうなるのでしょうかね。


2018年 4月 8日(日)午後 11時 21分

 今日も音楽を聴く日。今日は、兵庫県立芸文センターであった「郷古廉 ヴァイオリン・リサイタル」に行ってまいりました。そのプログラムは「オール・ベートーヴェン・プログラム」。4番、6番、7番、8番という4つのソナタが演奏されました。なお、ピアノは加藤洋之でした。ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを聴く機会が増えています。郷古廉も、どうやら3年計画で、全曲演奏をする模様。去年は、生憎スケジュールが合わずに行けなかったので、今回が初めて。芸文の小ホールとはいえ、ほぼ満杯にする集客力を見せたのに、まずびっくり。郷古廉は、在阪のオケの定期演奏会にソリストとして喚ばれることも珍しくないことから、かなりの知名度かと思います。今日の4曲の中で、お気に入りの順をつけると、「①4番②7番③6番と8番」となります。まず、郷古廉の音楽が、以前に聴いたときに比べ、掘りが深くなっているという印象。そして、それに加えて、ピアノの加藤洋之が、すごくいい。以前、郷古廉の演奏会を聴いたときは、誰がピアノだったか覚えてないので、別人だったかもしれないし、でなければ、黄紺の記憶からはぶっ飛んでしまってるということになりますが、とにかく、今日の演奏で良かったと思えたのは、彼のピアノを聴けたことの占める割合は、かなり高いのです。 激しさと繊細さを併せ持ち、決して、伴奏をしているのではない、ともに演奏しているのだという、強いアピールを感じた演奏でした。ときには、ピアノが攻めかけるほどの激しさをも見せてくれました。これって、ベレソワフスキーが諏訪内晶子相手に見せてくれたピアノのスタンスです。これが、強く感じられ、ただならぬ空気を醸し出していたのが、この日のハイライトとなった4番だと、黄紺は看たのでした。次に素敵だったのは、正に息の合った共奏の魅力。それに秀でていたのが7番だったというわけです。③に入れた2つの曲は、緩叙楽章に乗りきれなかったのです。カンタービレをきかしたりするウェットさが、感性として物足りないなと思ってしまったからなのです。コンサート全体を通じて、とっても引き締まった会場の雰囲気。1曲目が終わった段階で、早くも「ブラボー」の声がかかっていました。日曜日の午後、いいものに行けた満足感、ありました。次回で、このシリーズは完結するはずですから、スケジュールが合うことを願わざるをえません。


2018年 4月 7日(土)午後 9時 31分

 今日は、フェスティバルホールで音楽を聴く日。尾高忠明が常任指揮者になってから、初めてとなる大フィルの定期演奏会に行ってまいりました。ブルックナーが出るからという、毎度、生の音楽を聴きに行くときの定番の理由からです。そのプログラムは、次のようなものでした。「三善 晃:オーケストラのための"ノエシス"」「ブルックナー:交響曲 第8番 ハ短調(ハース版)」。三善晃の作品は、僅か8分。ピアノやチェレスタが入り、パーカッションにも4人が入るという、大変彩りの豊かな曲。その大編成が、僅かの時間で終わってしまったのに、唖然とするばかり。でも、お金をかけただけのことがある、なかなかおもしろい曲でした。その僅か8 分の曲のあとにも、20分の休憩が入りました。あとが、80分以上のブルックナーですからね。おかげで、2階のロビーを散策していたら、昔の同僚に会うことができました。最近、びわ湖に行くと会うことが多かったのですが、大阪のコンサートでは、ホント、久しぶりでした。そして、ブルックナー。大フィルの8番は、兵庫芸文の「ブルックナー展」以来ですから、3年ぶりくらいですね。あのときは、前の常任井上道義。今度は、新たな常任の尾高忠明。どうしても比較してしまいます。とにかく、尾高の指揮での大フィルが、よく鳴ってました。こんなにまで、弦パートに力強さを感じた大フィルって、近来なかったのではないかな。冒頭のコントラバスの音に、まず心動かされました。それに次ぐ、チェロも鳴っていたもので、今日は違うぞの予感が、早くも、この時点でしておりました。一方で、もうちょっとのデリカシーが欲しいなと思ったのも事実。流れるような、ちょっと武骨なブルックナーが出来上がりました。芸文で聴いたときの、懸命に大きく見せようとしていた演奏とは違い、かなり黄紺にフィットしたことは事実でした。こうなると、今年のラインナップに、尾高の振るエルガーが用意されていますから、これは行かざるをえなくなってきました。


2018年 4月 7日(土)午前 1時 54分

 昨日は、テアトル梅田で映画を観る日。アカデミー賞外国語映画賞受賞作品のチリ映画「ナチュラルウーマン」を観てまいりました。トランスジェンダーの役柄を、自身もトランスジェンダーの役者が演じるということで、この間、映画館に行くと、予告編を観ては行きたくなっていた作品。上映終了までに間に合いました。主人公マリーナが、一緒に暮らす初老の男が急死をしたことから起こる、差別、偏見を映像化したものと言えばいいでしょうか。亡くなった男が、病院へ搬送される際、階段から落ちたために、事件性を考える警察、でも、その捜査は、見込み捜査というやつで、偏見に満ちている。亡くなった男には、別れた妻、息子など、家族がいるのですが、主人公と父親が付き合い出したために、父親と離れてしまっていたのですが、このときとばかり、主人公を目の敵として排除しにかかります。それらに関わる、様々なエピソードを括り合わせて、この作品が出来上がっていると言えばいいでしょうか。黄紺には、そのため、この映画は、ストレート過ぎました。このようなときには、こういった言説が出てきたり、こういった差別が起こるのだという、陳列物語に見えてしまいました。様々な人権問題を素材にした映画が製作されてきましたが、そんなにも、映画としての深さを感じなくても、啓発的に、問題の所在を提示する作品というものが必要だったはずですし、実際、そうした映画の有用性はあったと思います。この映画は、黄紺の目には、そういった映画として観るなら、ただ、セクシュアリティに関わるテーマであるだけに、なかなか啓発の素材として取り上げられない傾向があるかもしれないですが、そういったジャンルでの有用性は、大いに認めるところです。年の差カップルという設定が、そもそもうまいものがあり、しかも、男の方は、主人公と出会うまでは、「普通」の結婚生活を送っており、成人した息子までいるというものですから、映画ならではのものと感心するとともに、問題の所在が解りやすくなってますものね。1つだけ、突っ込みを入れておきます。最後に歌われている「オンブラ・マイ・フ」は、セルセ(ペルシア王クセルクセス)が、見初めた女性への恋心を歌うものですが、その女性というのは、弟の恋人。それを、力まかせに奪いにいく前ぶれとなるものだけに、最後で、ちょっと腰砕けとなりました。


2018年 4月 5日(木)午後 11時 41分

 今日も、ツギハギ荘に行く日。今日は、落語だけで、「桂小鯛ひとり会~フラッと小鯛 2フラッと」という会がありました。全く、小鯛一人しかいない会。受付も、自身でしているため、もう開場時には、着物を着ていましたし、高座の横には、水や着替え用の羽織などを用意してあるというもの。その番組は、次のようなものでした。「替り目」「二日酔い(?)」「強情灸」。様々な落語会で目にする人たちで、かなりの客席が占められ、小鯛の噺を楽しみ、また応援する気持ちに満ち溢れた会。小鯛は、来週の月曜日にあるグランプリの予選を視野に入れて、そのときに口演予定の「強情灸」を、グランプリ予選仕様で、人前で出しておきたかったから、この時期に会を設定したようでした。それを最後に持って来て、ちょっとしたネタばらしのようなお喋りをし~の、ストップウォッチの操作もし~ので、「強情灸」はスタート。通常の口演と比べても、齟齬を感じさせないスムーズな運びで、10分ジャストで終了。規定時間いっぱいで終了。ストップウォッチの操作時間を差し引いて、ちょうどいい時間ですが、際どくて、ちょっと怖い気もしてしまいました。歯切れのいい口演は、さすが優勝候補の一角を占めるだけあります。本日一番の長講「替り目」は、小鯛では初めて。小鯛は、「試し酒」もやりますから、酒の噺をする若手となります、もう、それだけでグレードを上げたくなります。ただ、今日は、その成果は、冒頭だけしか聴くことができませんでした。あえなく沈没をしてしまったのです。昨日の方が、条件悪かったはずなのに、今日になって沈没とは、わけ解りません。「二日酔い(仮題)」は、小鯛の新作もの。明日がデートだということで、気持ちが昂って眠れない男が酒の助けを借りたら、当日は大変な二日酔い。それで遊園地を回ると、気持ち悪くて、、、。ついに、観覧車で爆発するという汚い噺。爆発したあとの描写に入ったとき、一番前の女性が「あっ」という、誰にもに聞こえる声を上げました。それだけ、リアルな展開だったということです。黄紺も、開演直前に、急に差し込みが起こったのが、この噺を聴いてて、また具合が悪くなり、舞台の方には半身になって、いつ抜け出してもよい態勢で聴くハメに。幸い、持ちこたえましたが、リアルすぎるのも、ときには罪なことです。黄紺は、毎年、グランプリの予選は1つだけ聴きに行くことにしていますが、今年は、ちょうど小鯛の出る日。先ほど、噺家さんのツイッター巡りをしていると、二葉も、緊急の落語会を開いて、当日に臨むようです。皆さん、気合いが入っています。当日、ベストの体調で臨まれることを希望します。決して、「二日酔い(仮題)」の主人公のような事態にだけはならないように。


2018年 4月 4日(水)午後 11時 37分

 今朝、シュトゥットガルトからフランクフルト経由で帰ってまいりました。エールフランスのストによるキャンセルという事態が起こりましたが、今回は、旅行社のお世話もあり、安心して代替便を確保でき、無事帰ってこれました。で、早速、日本での生活に復帰です。午後に軽く仮眠を取ったあと、夜は、ツギハギ荘であった「第6回落語芸術大学」に行ってまいりました。講釈師の南湖さんと落語家の智丸という、大阪芸術大学卒業のお二人の会、黄紺的には2度目のおじゃまとなりました。その番組は、次のようなものでした。米井敬人「ボードゲーム:ごいた特集」、智丸「寿限有」、南湖「団十郎と馬の足」、智丸「日本映画事始(仮題)」、南湖「ローランド・カーク伝」。米井さんは、「たまよね」の米井さん。彼も大阪芸大出身で、主宰者のお二人の間に、学生生活を送られたとか。今日は、能登地方のごく一部に伝わる「ごいた」というゲームの紹介に来られました。黄紺には難解で、参加を勧められたのですが、辞退しておりました。智丸は、新作2本。その内で、「寿限有」がおもしろかったですね。「寿限無」のスピンオフものですが、同じような作品を聴いたことがありますが、この「寿限有」の出来栄えがいいんじゃないかな。名前が良すぎて、誰も死なないというのがおかしく、歴代の寿限無一族が生きているというのが可笑しい。だから、真逆の名前を所望し、また、それに相応しい名を着けていくというもの。「日本映画」は、智丸曰く「講談のような作品」。リュミエールが開発した映画が、大阪で初めて上映されたときに、映画というものを、よく理解していなかった人たちの騒動記。ちょっした蘊蓄が入るもので、智丸は、いろんなパターンの新作を聴かせてくれます。一方の南湖さんのネタは、2つとも、既に聴いたものばかりでした。「馬の足」は、顔に傷を負ったがため、被り物役しか回ってこなくなった役者を盛り上げようというもの。確か東京でもらわれてきたネタだと思います。もう1つの人物伝は、「できちゃった」で発表されたもののはず。前に、どこかで聴いてるのですが、どういった機会だったのかを思い出せないまま。ジャズの大家らしいのですが、単に、音楽的な内容だけではなく、黒人差別問題にも踏み込んだ作品。最近の南湖さんは、以前のように、ネタ開発への貪欲さを控えており、そういった意味では、ネタの練り上がりが進んでいるのでしょうが、かつてのような猛進する姿が薄れてきているのが、寂しくもありです。今回が、この会が、ツギハギ荘に移っての初めての開催。思いの外と言うと失礼になっちゃいますが、いい入り。米井さん効果なのか、ごいた効果なのか、ちょっと会場の雰囲気まで違いました。


2018年 3月 11日(日)午後 8時 5分

 今日は狂言を観る日。京都府立文化芸術会館であった「狂言五笑会 特別公演」に行ってまいりました。茂山千五郎家に所属する5人の狂言師さんの大きな会。一世代上の「三笑会」には、何度か行ったことがあったのですが、「五笑会」の特別公演は初めてとなりました。その番組は、次のようなものでした。「神舞」(森田浩平、林大和、渡辺諭、井上敬介)、「末広かり」(果報者:茂山千作、太郎冠者:山下守之、スッパ:島田洋海)、「千鳥」(太郎冠者:井口竜也、酒屋:茂山千五郎、主人:茂山茂)、「仁王」(博打打甲:増田浩紀、博打打乙:鈴木実、参詣人:茂山あきら/網谷正美/丸石やすし/松本薫/茂山宗彦/茂山童司/茂山茂/茂山千五郎/茂山千三郎、隣の者:茂山七五三)。「末広かり」はお囃子入りということで、狂言に先立ち、素囃子が入りました。黄紺にとっては、ひょっとしたら、現千作が、家督を現千五郎に譲ってから、初めての舞台かもしれません。年齢も70を超えているはずですから、かつての正義時代の声の張りはないのは当たり前。声からして、千作の名に相応しくなりつつあります。有名な「末広かり」は、扇と傘を取り違えるというありえない話が展開されます。最後は、ご陽気に浮かれて、謡い、舞います。休憩時間に入り、ロビーでは、「今の話、取り違えたんやな?」という声に、びっくり。年配の人でも、狂言の理解が難しくなってきているのですね。ということは、客席に、結構見かける若い人たちは、とっても知的な方なんだと、こんなことで見直してしまいました。「千鳥」は、能楽の会でも遭遇できる人気曲。五笑会の皆さんには、なかなか、太郎冠者や酒屋は回ってこないでしょうから、こういった機会を捉えねばならないのでしょう。支払いの滞っている主人の使いで、新たな酒樽を求めに行かされる太郎冠者。酒屋は、金払いが悪いことが判っていますから、掛けの支払いは嫌がります。ところが、この酒屋は、お喋り好き。この辺を、新千五郎が上手く、頼もしさを感じてしまったのですが、酒屋は、太郎冠者が津島祭に行って来たことを知り、それを知りたがり、まんまと太郎冠者の奸計にはまってしまいます。解りやすくおもしろい狂言、これには、さすがに、内容を確かめる人は出ないでしょう。もっと解りやすいのが、最後の「仁王」。博打打ちがかすっけつになり、仁王に扮して、捧げ物を頂戴しようというもの。それがバレておしまいですから、これほど解りやすいものはない。そないな単純なストーリーにアクセントがつくのが、仁王に参詣する人たちが、アドリブで願い事をするから。ましてや、この会は、普段は脇役に回る人たちが主役を務めていますから、海千山千の茂山家の狂言師さんが、大挙、参詣人に出て、おもしろ可笑しいアドリブを連発してくれるものですから、会場は大爆笑。最後に、「仁王」を持ってくる意図が、ようく判りました。総じて、若い人ほど、アドリブが効くというのが、いいですね。会場は、超満員。茂山狂言会のなじみの方たちから、五笑会の関係者の方から、黄紺のような能楽&狂言ファンまで、集まりましたねぇ。プログラムを見て、今日が、五笑会初のホール公演だったのですね。ご祝儀がてらの満員御礼ではなく、ずーっとの狂言の応援をお願いしたいところです。
 そして、明日は、早朝に、春のオペラ紀行に向け出発します。オランダで1泊してからドイツに入る予定です。今回オペラ紀行は、狙いの有名歌手のキャンセルが相次ぎ、行く前から憂鬱です。おまけに、暮れに、散々いじめられたドイツ鉄道から、早くも、予約済の鉄道のキャンセルが届いています。この分だと、冬の二の舞の恐れありです。こうやって、早々にキャンセルのメールが入れば、こちらも対応する余裕があるのですが、当日では、ホント、ストレスが溜まりますからね。さあ、どうなりますか、、、。


2018年 3月 11日(日)午前 4時 00分

 昨日は、午前中より、所用で息子の家へ。Dとは、1ヶ月ちょいのご無沙汰。Dの方から近づいてきてくれるようになり、ちょっと嬉しくなりました。そして、昼過ぎに、自宅に戻り、暫時、自宅待機。夜には、カフェモンタージュでのコンサートに行ってまいりました。今夜は、「新古典主義」と題した、(ヴァイオリン)石上真由子と(ピアノ)久末航という若いお二人のコンサートがありました。そのプログラムは、次のようなものでした。「L.v.ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ 第4番 イ短調 op.23」「S.プロコフィエフ:ヴァイオリンソナタ 第2番 ニ長調 op.94bis」。このお二人のコンサートは、昨年の暮以来。そのとき、初めて聴いた久末さんの溌剌とした音楽が印象に残り、迷うことなく、昨日のコンサートに行く気になったというもの。確かに瑞々しい音色に、弾むような印象を与える感じのいいリズムという感じで、昨日も、いい感じ。一方の石上さんは、カフェモンタージュではお馴染みのヴァイオリニスト。親交のある村井祐児さんのお姿も見ることができました。ベートーヴェンの4番のソナタは、シンコペーションを多用し、独特の雰囲気を楽しめることを意識した演奏。いや、ちょっと意識しすぎたかな、もうちょっと音を出して欲しかったな。それに対して、プロコフィエフは迫力満点。でも、このプロコフィエフは、叙情性も併せ持っている。ストラビンスキー的激しさとともにです。かなり振幅の大きさが魅力なのですが、そういった振幅まで考えると、ん~と唸っちゃいます。でも、お二人の若さ溢れる演奏は良かったな~。


2018年 3月 9日(金)午後 11時 5分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。春のオペラ紀行前最後の落語会になります。今夜は、こちらで「9(急)に飛び入り寄席」という、そうば主宰の落語会がありました。直前まで出演者が確定しないという珍しい落語会。前回は、ざこばを含めて5人の出演者があったようですが、今回は4人の噺家さんの出演。その番組は、次のようなものとなりました。そうば「必殺仕分人」、団朝「ぐだぐだ」、歌之助「つまみ恋詩」、宗助「土橋萬歳」。ツイッターでの告知では、出演者は3人となっていたのですが、団朝の乱入がありました。団朝は、動楽亭の昼席に出ていて、一旦、界隈で呑んでから、真っ赤な顔をしての登場。マクラで喋るようなおもしろ話をして、大衆演劇のチケットの抽選をして下りたのですが、いい色物になってくれました。主宰者のそうばを除けば、あとの2人は、既に先月の会で、出番の告知があったとか。この会は、あまり普段出さないネタをするというのが、1つの約束事になっているとかで、そうばは、「飛び道具のような噺をします」と言ってから、そうばの新作と言えば、これしか思い浮かばないネタに。普段の生活に要るもの、要らないものを分けていくというもの。わりかし微妙なところを突いているので、新作テラーじゃないにしては、佳作に入ると思っている作品。久しぶりに聴けました。歌之助は、上がるなり「通りがかりの赤鬼さんでした」と、団朝いじりが、格好のマクラに。ネタは、そうばに次いで、新作もの。以前に1度だけ聴いたことのある「つまみ恋詩」でした。勤め先に不満のある男が酔った勢いで、「会社を辞める」「詩人になる」宣言。でも、そないなことを言ったことを覚えてないどころか、詩のなんたるかも知らず、一から勉強することに。やがて、酒のつまみをモチーフにした詩を書き出すというもので、前に聴いたときもそうでしたが、俳句に行きかけたり、つまみをモチーフにした詩に行くのも、かなり唐突感のある噺で、ちょっと頭が付いていきにくい作品ですね。宗助は上がるなり、「こう新作が続くと」とやりにくそう。何をするのかと思うと、いきなり旧いトリオ漫才のテーマ曲をやりだしたものですから、「まさか」「でも、それしかない」と、あっさりと「土橋萬歳」と判明。この1年は、「土橋萬歳」花盛りの時代になっていますが、正に正調「土橋萬歳」を聴くことができました。やっぱ、土橋の場面は、ゆったりと間合いをとったなかで、芝居掛かりにならないと、この噺を聴いた気分になれないことが、宗助の口演を聴いて、よ~く判りました。それが可能になるためには、その前のお茶屋でのやり取りでの、番頭の不器用な誠実さ、若旦那の横着さが、くっきりと出てないとダメでしょうし、更に、その前の番頭と定吉のチャリっぽいやり取りが、軽い足取りで描けてないダメでしょうし、また、更にと、どんどんと遡っていくことになっていきますが、土橋の場面を焦点化できる有機的な仕組みを組み立てておかないと、ダメってことなのでしょうね。そんなのを解らせてくれた宗助の口演。スーパーなものを、日本を発つ前に聴けました。次回は、漫才さん1組からオファーが入っているだけだそうです。


2018年 3月 8日(木)午後 9時 31分

 今日は講演を聴く日。先日に続き、「武庫川女子大学トルコ文化研究センター研究会」の講演会(甲子園会館)に行ってまいりました。黄紺がそそられた講演のテーマは、「西北インドの仏教寺院におけるストゥーパとガンダーラ彫刻 」というもの。講師は、京都大学 文化財総合研究センターの助教内記理さんでした。ところが、これが大失敗。素人の聴くものではありませんでした。京都大学が、かつてガンダーラで発掘した資料、及び、持ち帰った遺物を基に、崩れた遺跡を再構成をしている方の、その手法、成果についての報告だったのです。ですから、欠片からの再構成を報告するのが目的で、その遺跡に現れてくるガンダーラ美術の特徴などを報告する場ではなかったのです。また、提出された遺跡も、早くて2世紀後半だったかな、そういった時期なものですから、ガンダーラ美術が生成していく過程なども、ビジュアル的に、自分の目で追えるわけでもなくで、ほぼ収穫ゼロだったと言っても、過言ではありませんでした。帰りは、会場の近くにお引っ越しをした友人宅を訪問してから、京都に向かいました。そこで見せてもらった韓国のテレビ番組だけが、今日の収穫となりました。


2018年 3月 7日(水)午後 10時 27分

 今日は、テアトル梅田で映画を観る日。イギリス映画「ウイスキーと2人の花嫁」を観てまいりました。スコットランドを舞台にして、且つ、その色合いを濃くした素敵な映画でした。第2次世界大戦時、ドイツ軍の攻撃が増していくなか、舞台となったスコットランドの島にも、その影響が及び、島へのウイスキーの供給が停止し、一気に島から活気が失せてしまい、結婚を予定していた島の郵便局長の2人の娘も、結婚などという雰囲気もなくなってしまいます。そうしたときに、島の近海で船が座礁し、その船の積み荷に、大量のウイスキーがあることが判明。そこで、島民は、船が沈没する前に、ウイスキーを取り出し、島の入り江に隠し、酒盛りを始めるのですが、夜中にウイスキーを取りに行こうとした途端、日が変わり日曜日になると、安息日だということで、まる1日、取りに行くのを我慢するのが可笑しくて。スコットランドは清教徒だということで、事実はそうだったのかもしれません(この物語は実話だそうです)が、黄紺の目には戯画的に映ってしまいました。登場人物の中には、異様に頑なな禁欲を説く女性が出てきたりしますから、やっぱ、このネタで遊んでくれてるように思えてくるのです。ウイスキーを取りに行ったり、運んだり、隠したり、また、場所を移したり、その連係プレーは素晴らしく、見張りの子どもは手旗信号で知らせますし、岬に住む老人の部屋には、望遠鏡が設えられていたり、電話交換手をしている郵便局長の娘2人は盗聴のし放題で、情報は、一挙に島民に伝わる仕組みです。この組織的な動きが、とっても生真面目になっているので、余計にコミカル、且つ微笑ましく見えてきます。そういった島民の動きを抑えようというのが、民兵として、島に駐屯している男たち、やがて、連絡を受けた税官吏がやってきての捜査が始まると、ますます連係が深まり、ついに、彼らも諦め、また、民兵が本土に運ぼうとしていた荷物にもウイスキーを隠したために、結局、民兵自身に良からぬ嫌疑がかかり、島から追放となり、島民は安心して、ウイスキーにありつけ、2人の娘も結婚式をあげることができるとなります。素朴な人たちの言動に寄り添うかのような、素敵なスコットランドの音楽、衣装、調度品、島の風景、いずれをとっても、心和むものばかり。これは、観ないと、ダメですねぇ。


2018年 3月 6日(火)午後 11時 22分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、初めておじゃますることになった「第9回やじきた亭~遠くへ行きたい~上方落語協会遠足部による落語会」がありました。米紫を中心に、若い噺家さんが集う会、ようやく行くことができました。その番組は、次のようなものでした。弥太郎「ちりとてちん」、慶治朗「紙入れ」、米紫「蛸芝居」、(中入り)、全員「遠足トーク・神戸アンパンマンミュージアム」、瑞「平の陰」、染八「もう一つの日本(笑福亭福笑作)」。この落語会の主旨が、「遠足トーク」で説明されました。遠足のための資金集めだそうです。たくさんの収入があれば、遠いところまで行けるが、今のところ、近場で持ち出しとか。毎回、映像を撮り、それを紹介するのが「遠足トーク」。そして、次回のミッションを受ける人、また、ミッションを籤で決めるというもの。今回は、三味線、佐々木千華さんがミッションを担い、そのミッションというのが、神戸アンパンマンミュージアムで、アンパンマン体操を踊るというものだったそうですが、実際、ミュージアムに行くと、休館だったとかで、神戸、尼崎の街角で、千華さん、踊ってました。次回は、瑞の考えたミッションが引き当てられ、弥太郎がミッションをすることになったのですが、「奈良公園の鹿の前で落語をする」というものでした。これだけでも、観に行きたいですね。一番上が米紫で、あとは、10年未満のキャリアの短い噺家さんばかりですから、とってもゆるい雰囲気がいいですね。そういった中で、はじける人、いつもと変わらない人と分かれるのが、観ていておもしろい。前者が染八と弥太郎、後者が瑞と慶治朗といったところです。この区分けで言うと、一番意外性のあったのは弥太郎でしょう。その弥太郎がトップ。リラックスしているのが、マクラだけではなく、ネタに入ってからもそうでした。ちょっと上気したような口演で、通常よりかスピードがあり、くすぐりも、そのスピードに乗ってしまい、流れてしまったのが惜しまれました。慶治朗は、丹精な話しっぷりが魅力だと思っている噺家さんですが、「紙入れ」というネタのチョイスに、まずびっくり。人に合う合わないで言えば、合わない噺を選んでしまいました。慶治朗は、オーソドックスなネタを貯めてから、こうした遊び心満載のネタに入って欲しいですね。米紫は、この中に入ると、圧倒的に存在感があります。もう、マクラから弾けまくっていました。聴いている方もテンションが上がってたはずだったのですが、半ば過ぎで、軽く居眠り発生。昨晩、午前2時前に、目が覚めてから眠れていませんから、今日は、完全にスタミナ切れです。瑞も、人に合わない噺を選びました。実は、番組的には、一番関心があったのが、瑞の高座。どうしても笑福亭のネタのイメージが強いネタと瑞が、あまりにミスマッチだったからです。慶治朗以上に意外性が高かったということです。間の芸と言っていいようなネタですから、自分のものにするには、年数をかけて練り上げるしかないのでしょうね。その初期の口演を聴いたということを、記憶に留めておきましょう。染八の福笑作品の口演は3本目のはずです。マクラで、かなり言いたい放題が言えるのは、やはり、この人の強みになってきています。そういった野放図さを見せて、初めて福笑作品を聴かせることができるようになるのではと思います。「蓮の池クリニック」を、初めて聴いたときに感じた違和感が、かなり小さくなってきているのは、その辺から来ているのかと思ってしまいました。今日は、開演時間を間違い、入った途端、弥太郎の登場といった具合で、ゆったり気分で、会に臨めなかったのが、悔しいところ。でも、会のゆるい雰囲気が幸いして、容易く気分転換ができたのが、何よりも嬉しいところでした。


2018年 3月 5日(月)午後 8時 00分

 今日は、メトロポリタン歌劇場のライブビューイングを観る日。この1週間は、「愛の妙薬」(バートレット・シャー演出)が上映されています。主要キャストなどは、次のようなものでした。(ネモリーノ)マシュー・ポレンザーニ、(アディーナ)プレティ・イェンデ、(ドゥルカマーラ)イルデブランド・ダルカンジェロ、(ベルコーレ)ダヴィデ・ルチアーノ。このプロダクションは、以前、アディーナを、ネトレプコが歌ったときに観ているので、新鮮味はなかったのですが、歌手陣が総入れ替えですから、それを楽しみに行ってまいりました。中でも狙いはダルカンジェロ。シリアスな役を歌うダルカンジェロを観てきたものですから、こういったブッフォ系のオペラでの歌い方に注目が行ったというわけです。今日も、一緒に行った福井在住の高校時代の友人は、バスブッフォを歌えるダルカンジェロに驚いていましたが、黄紺も同じくでした。ネモリーノのマシュー・ポレンザーニは、上手かったなぁとため息が出ました。田舎者とは違うシティボーイ的雰囲気のあるマシュー・ポレンザーニが、うぶなネモリーノというのがミスマッチではなかろうかと思っていたのですが、とんでもありませんでした。ポレンザーニの芸達者ぶりに降参といったところでした。そして、もう1人の注目が、アディーナのプレティ・イェンデ。この南ア出身の黒人歌手は、メトロポリタンのライブビューイング初登場。それだけ注目の逸材ということでしょうが、愛くるしい表情といい、新しいスター歌手の登場を予感させました。オペラ終了後は、先日の「ワルキューレ」のときに会った、もう1人の高校時代の友人も加わり、オペラ談義。もう至福の時間でした。


2018年 3月 4日(日)午後 8時 46分

 今日は、繁昌亭昼席に行く日。春のオペラ紀行前の最後の繁昌亭になります。今週の昼席は、「三喬改メ七代目笑福亭松喬襲名披露公演」と銘打たれた特別なもの。その番組は、次のようなものでした。染八「刻うどん」、喬若「長短」、都「ハルちゃん」、南左衛門「三河屋幸吉」 、風喬「大安売り」、春団治「親子茶屋」、(中入り)、松喬・春団治・福笑・三歩(司会)「口上」、福笑「金策幽霊」、 三歩「神様のご臨終」、松喬「月に群雲」。染八が、今週の前座皆勤の模様。前にも、染八の「刻うどん」は聴いているのですが、やはり繁昌亭は、時間制限があるということで、筋立てを追うことに集中といった口演。しつこくないのも、いいものです。喬若は、もう最近では、繁昌亭でしか遭遇してないような、気がします。そのため、「長短」か「粗忽長屋」ばかりを聴いているようなというところです。都はあやめの代演。「口上」の司会も務めていたあやめは、今日だけ休演。替わりとはいえ、都が、この位置に出てくることはありませんから、貴重な番組。やっぱ、渦巻くような笑いを起こす都噺は、こないな位置で聴くと、周りがかすむものですから、やはり奥の人は奥で出てもらわないとダメだと、よ~く判りました。今日は、このあと、寝たり起きたりが中入りまで続いてしまいました。居眠りをしてしまったのは、南左衛門と春団治のところ。南左衛門は、こうした機会でないと聴く機会がなくなっているのが判っていながら、ダメでした。春団治も、久しぶりに、出囃子「野崎」を聴けたにも、また、ネタが「親子茶屋」だったにも拘わらず、ダメでした。昨夜の不安定な睡眠が災いしたようです。間に挟まれた風喬は、えらくテンションが高く、普段と違った感じ。やっぱ、兄弟子の襲名披露によるものでしょうか。口演は、通常のテキストに、少しずついじりを入れたものでした。「口上」は、襲名が松喬だけではないことをいじった福笑と、「もんじゅの会」に客として、入門前の松喬が来ていた思い出話をしてくれた南左衛門が、印象に残りました。福笑のネタは、夏の幽霊特集用に創ったと思われる作品。金策をする気の弱い幽霊に、金儲けの世話をする男の物語。羽織に仕掛けがしてあり、首が落ちる姿を見せてくれました。客席は、大変などよめき。いろんな手を使ってくれます。三歩は、今週、毎日、ネタを変えているようです。そんなですから、何を出すのか、気になっていたのですが、ポピュラーなものが残っていました。下げが言われると、「お~」という感嘆詞が上がりました。あの下げで、こうなるとは、いい客です、今日は。そして、松喬、盗人ネタを控えているようだったので、ひょっとしたら、最後に残したのかもと、勝手に想像していたら、大当たり。でも、まさか「月に群雲」を持ってくるとは考えていませんでした。松喬の盗人ネタは聴きたいけれど、一番聴きたいのは、これ。だって、これだけは、松喬しかやらない、松喬スペシャルの噺なんですから。まぬけな盗人だけではなく、盗んだ品物もまぬけだというのが、傑作な小佐田作品です。また、松喬のすっとぼけた口演に合っているのが、何よりもいいですね。今日は、立ち見も出る大盛況の襲名披露興行。どうやら、この盛況が、1週間続いたようですね。やはり、襲名披露は華があり、その場にいる幸せ感ってものがありました。


2018年 3月 4日(日)午前 6時 59分

 昨日は、びわ湖ホールでオペラを観る日。昨年から始まった「ニーベルングの指環」の2作目「ワルキューレ」(ミヒャエル・ハンペ演出)に行ってまいりました。歌手陣は、次のようなラインナップでした。(ジークムント)アンドリュー・リチャーズ、(フンディング)斉木健詞、(ヴォータン)ユルゲン・リン、(ジークリンデ)森谷真理、(ブリュンヒルデ)ステファニー・ミュター、(フリッカ)小山由美、(ゲルヒルデ)小林厚子、(オルトリンデ)増田のり子、(ワルトラウテ)増田弥生、(シュヴェルトライテ)高橋華子、(ヘルムヴィーゲ)佐藤路子、(ジークルーネ)小林紗季子、(グリムゲルデ)八木寿子、(ロスワイセ)福原寿美枝。それに加えて、ピットには、沼尻竜典指揮の京都市交響楽団が入りました。今回のプロダクションでは、前回の「ラインの黄金」同様、映像と舞台の動きを組み合わせて、ワーグナーの台本に忠実に描こうとする努力がなされていました。前面に透明のスクリーンを下ろしておき、そこに映像を映す。また、舞台そのものにも、映像を投射し、歌手陣の動きも、映像を動かすのにリンクさせているというもの。しかも、今回の大きな特徴は、映像を3D的に動くようになっているため、ときには俯瞰的に見ているような視点に動かしたり、前面のスクリーンの映像&画像、更に、照明を使い、忽然と歌手が現れたり、即座の場面転換に使われたりと、かなり手のこんだ手法が使われたりしていました。そのため、歌手の動きも計算ずくで、但し、動かしすぎると、映像操作が大変になるため、歌手陣の動きは控えめという特徴がありました。1幕は森の中の小屋、3幕は岬のように突き出た岩場(このインパクトはなかなか)という風景が舞台となっていたのですが、2幕がよく判らない。上からガラス窓のようなものが前面に吊るされ、舞台には大きなサークル状仕切りが置かれているだけというもの。ここまでの2作で、初めて登場した具象的ではない装置。なぜに、ここだけ、方針が変わったのか、把握しかねております。歌手陣は、総じてパワー重視で選ばれたと思う布陣。キャリア的には、ワーグナー歌いとは思えないブリュンヒルデやジークムント、ヴォータンの歌唱経験を見つけられなかったヴォータンだったりと、招聘された外国人歌手には不安があったのですが、パワーという共通点がありました。これは、大きな武器でした。そして、それは、日本人歌手陣にも言える大きな武器だったのじゃないかな。黄紺的には、ジークムントが一押し、でも、客席の最大の支持を受けていたのはジークリンデ。次いで、ブリュンヒルデでした。一方、オケは、沼尻の指揮にしては、克明な変化に乏しかったようで、ちょっと物足りないものを感じてしまってました。会場は満席。早々と完売してたようですから、正に「指環」の威力です。黄紺は、昔の同僚と並んで観ておりました。これで、3日連続、違った元同僚と会ったことになります。おかげで、帰りは、車で、自宅近くまで送ってもらえました。


2018年 3月 2日(金)午後 11時 11分

 今日は、8年前まで、同じ職場だった方々との飲み会。いつもは、7月と12月に集まっているのですが、今回は、この年度末に退職される方が出るということでの特別ヴァージョン。8人が集まりました。昔の話、今の話と、話は尽きません。あっという間の3時間、いや、それ以上。喋り倒しました。こうした時間を持てることって、やっぱ、嬉しいことですよね。


2018年 3月 1日(木)午後 7時 7分

 今日から3日間、それぞれ違った昔の同僚と会います。3日も続くのは、ホントに偶然のこと。まず、今日は、毎年、この時期に巡検をすることになっているグループなのですが、黄紺は、この時期、春のオペラ紀行に出かけているため、なかなか参加できてなかったところ、今年は、この巡検の日取りが早まり、また、黄紺のお出かけも、後ろにずれたこともあり、余裕を持って参加できたというわけです。集合場所が近鉄橿原神宮前駅ということで、これは明日香の巡検だと決めてかかって、当地に出向くと、渡された地図を見ると、明日香と反対側。橿原神宮前駅西側に広がる地域を巡るものとなりました。「益田の地堤」を見たあと、「新沢千塚古墳群」を巡るものとなりましたが、この古墳群は圧巻。全部で500ほどの円墳があるそうです。去年、韓国で行った高霊の尾根伝いに連なる古墳群、いや、それどころの数ではないものです。こないなものがあったとは、もうびっくり以外のものではありませんでした。それらの発掘結果などをまとめた「歴史に憩う橿原市博物館」が一応の終点。そこに入る前に出逢った地元の人と立ち喋りをしていると、この古墳群の整備は、近年のこととか。古墳に生えた切り株の切り口が真新しいので、そのあたりも尋ねると、今年に入ってからのものと判明。ということは、最新の整備ということ、また、数から言って、発掘調査が済んでいるとは思えませんから、真新しい考古学的成果を観る楽しさを味わえたということで、企画をしていただいた方に、とっても感謝。博物館では、館員の方だと思うのですが、付きっきりで解説をしていただけました。口やかましい質問にも答えていただけ、とっても実のあるものになりました。既に、国宝に指定されたものが出ているのですね。すごいところです。但し、管理上、当博物館に置けないということで、レプリカしか、残念ながら観ることができませんが、わけを聴いて、納得でした。博物館を出ると、再び、徒歩で橿原神宮前駅に戻り、近鉄電車で耳成駅に移動。駅から15分ちょい歩いたでしょうか、JA奈良直営の「まほろばキッチン」へ行き、お昼のバイキングで、ちょっと遅めの昼食。今回の参加者は6名。ちょうど、この6名が、今から7年前、同じ部屋で机を並べて仕事をしておりました。ひょっとしたら、今までで、一番リラックスして仕事ができた環境だったかもしれません。年齢的に、若干の凸凹はあっても、さして変わらない年齢層、価値観も似たものがあり~でということがあったからかもしれません。そんなで、いい時間を過ごすことができました。巡検で歩いた歩数は、1万5千歩を越えるもの。まあ、これくらいが程よいところですね、参加者の顔ぶれを考えると。もちろん、今日は、あまり足の具合が良くなかった黄紺にとってもです。そして、大和八木駅で、鶴橋方向に行く者、京都方向に行く者とが別れ、解散となりました、来年の再会を約束して。


2018年 2月 28日(水)午後 10時 52分

 今日は講談を聴く日。動楽亭であった「南湖の会」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。「薮井玄意」「大高源吾の?」「団十郎と馬の足」。今回から「赤穂義士と名医伝」と、「名医伝」の部分が変わりました。「名医伝」と言っても、講談ではおなじみの「薮井玄意」の物語。南湖さんによる薮井玄意は久しぶりだったもので、楽しみにしていたのですが、宋正(?)が拾われ、養育を受け、成長してのち、医術の研鑽に送り出されるのですが、そのあと、宋正は、薮井玄意との連絡を断ちます。早々に、こうしてあとの展開に影を落とす、まず序のところまでは大丈夫だったのですが、ここでダウン。次の「赤穂義士伝」は、皆目、記憶がない状態で、ショック。今日は、動楽亭に到着した段階で、かなり怪しかったですから、当然の成り行きかもしれません。ミニウォーキングの疲労がたまってしまってました。「赤穂義士伝」のあと、短い中入りが取られたことで、ようやく快復。「団十郎」は、東西交流で、東京の貞山師からもらってこられ、来月の発表会に、その成果を問われるもの。そのネタ下ろしだったそうです。旭堂には、芝居ネタはありませんから、貴重なものをもらわれてきたなとは思ったのですが、、、。芸談っぽい話かと、黄紺も期待したのですが、小ぶりの、さしておもしろいとは言えないネタです。東京からもらわれるネタだったら、ぜひ白浪ものをと思ったりするのですが、入ってこないですねぇ。結局、顔に傷を持つため、馬の足のような被り物の役しかもらえない役者が、知り合いに声をかけてもらう姿を母親に見せるという、わりかし小さな話でした。


2018年 2月 27日(火)午後 11時 48分

 今日は落語を聴く日。今日は、久しぶりに「第399回上新庄えきまえ寄席 桂三幸の三幸にしてください!~4ピース落語会」(春日神社集会所2階)に行ってまいりました。年に1~2回はおじゃまする落語会。昔は、今ほど落語会がなかったものですから、また、阪急沿線に勤めていたこともあり、おじゃまする頻度は、今よりかなり高かった会です。その番組は、次のようなものでした。りょうば「道具屋」、新幸「ちりとてちん」、あおば「秘伝書」、三幸「涙をこらえてカラオケを」、(中入り)、三幸&新幸&りょうば「アコースティックライブ」、三幸「ツトムくん(仮題)」。今日の狙いは、新幸とりょうばという2人のプロの音楽家と、三幸とあおばが、アコースティックライブをするというので、それを観たさ、聴きたさで行ってまいりました。その狙いの演奏は中入り明け、新幸と三幸、りょうばと三幸、新幸とりょうば(途中から三幸が乱入)という組み合わせで行われました。りょうばは、本職のドラムスではなく、アコースティックギターを持っての登場。新幸はギターのプロですから、当然アコースティックギターでしたが、その腕前は半端ではありません。ただ単に弾けるだけではなく、三幸が、その場で作ったメロディに呼応して、即興でギターを奏でていました。りょうばも、三幸の伴奏をしているときは、コードを弾いてただけでしたが、新幸とのセッションとなると、自在にリズムを動かすという、ドラマーならではの腕を披露。三幸の乱入がなければと思いはしたのですが、今日の主人公は三幸ですから、仕方ありません。きっと、これから、音楽家でもある噺家家として、各方面からお声が掛かるんじゃないかな。で、肝心の落語ですが、そういったライブも予定されているということで、各自、短めのネタを出してくれました。りょうばの「道具屋」は初めての遭遇。オーソドックスな口演ですが、やっぱ、この人の明るいキャラ、語り口は、何物にも替えがたいものがあるということを、このネタでも確認できました。新幸の「ちりとてちん」も初遭遇。師匠の新治テイストたっぶりの口演でしたが、端からテンションを上げすぎました 。緩急自在の新治版のテキストが、その前半で生きてなかったですね。それでも、マックスにはしてなかったようで、いよいよちりとてちんを食べる段階で、更にギアを入れ直したからか、ストレートに笑えるようになりました。やっぱ、かげんというものは難しい。あおばの高座は久しぶりです。吉本に行ったからでしょうね、営業ネタと言える小ネタを、いろいろと仕込むようになっていました。かなりくさいものがありましたが。ネタは希望を取りました。「木津の勘助」「宮戸川」「お血脈」でしたが、実際は「秘伝書」。それぞれ持ちネタでしょうが、このギャグを使うにしては、判りにくいものばかり。ここは、仕掛けの負けですね。「秘伝書」は、何度か聴いていますが、ちょっと進化。書かれている内容のいじりをしていました。さほど不自然なものを入れていたわけではないからでしょうね、すんなり入ってきていました。会主の三幸の1つ目は、カラオケ機を持って来ていたということで、歌入りの三枝作品。カラオケ好きの爺さんが亡くなり、そのお葬式はカラオケ仕様というもの。2つ目は三幸作品。犬を家で飼おうとしたところ、ぞれを聞いた父親が、犬を飼いたいと言っている娘が結婚しようとしていると勘違いしたことから起こるドタバタを描いたもの。「元犬」的発想と言える作品。犬って、こうしてみると、いろいろとイメージの膨らむ動物なんですね。それだけ、人間と近しい存在ということなのでしょう。下げを言ったあと、珍しく、三幸が、この会の会主としての難しさを吐露。そう言われると、「えきまえ寄席」の月替わりの会主は、先輩ばかり。中には、三幸からは師匠と呼ばねばならない噺家さんも含まれています。そういった噺家さんの口演に慣れた耳を持つ客席に対して、かなりプレッシャーを感じてきた10年だったようです。でも、会主の中では、唯一の新作派なわけですから、その特性を生かして、新たなチャレンジをしていっていただきたいと思いました。


2018年 2月 26日(月)午後 11時 13分

 今日は講談を聴く日。毎月定例の「第247回旭堂南海の何回続く会?」(千日亭)に行ってまいりました。今日は、「赤穂義士傳(再演)~潮田主水~」が読まれました。潮田主水は、赤穂義士潮田又之丞高教の父親。その主水を巡る仇討ち物語。重層化した物語だけにおもしろいのですが、一方で出来すぎ感のある物語。主水の下郎は、仇を持つ身。剣術指南役だった父親が、その腕を妬んだ侍に闇討ちに遭い、そのために、家は断絶。路頭に迷うところを、主水に拾われ、その下郎となっていた。ある日、主水と、束の間、別行動をとっているときに、目指す仇を見つけたのだが、返り討ちに遭い、落命してしまう。知らせを受けた主水は助太刀ができなかったことを悔い、その仇を討つ。だが、武士の習いとして、その責をとり、切腹しようとするところを、酔いたんぼの元侍に身代わりを申し出られて、命が助かり、また、身代わりになった侍、中川某も、役人の隙を見て逃げてしまう。ここからあとは、中川某の物語になっていきました。通りかかった伏見墨染で、危ないところを、その中川某が商人を助けたことから、その商人宅に居候、道場を開く支援までしてもらう。腕を見込まれた中川某の道場に習いに来る人たちが増えるなか、目立って腕のいい、だが曰くありげな少年が弟子入りする。3年が経ち、ようやく素性を明かした少年は、かつて、主水により、下郎の助太刀として討たれた侍の実子だということが判ります。主水の腕、潔さに敬愛の気持ちすら持っていた中川某は、一方で、教え子として腕を上げる少年、いや、もう青年となっていた男との間で板挟みとなったことから、中川某の執った行動は切腹というもの。全てを知り、父親の過ちを悔い、また、師と仰ぐ中川某に切腹をさせてしまったことを悔いた青年も切腹。この知らせを受けた潮田主水は出家。ここで、物語が終わると、義士潮田又之丞高教は出てこないなんてことになりますから、赤穂藩に、主水が取り立てられる短い物語が入り、今日はお開きになりました。呆気にとられるほど、うまく出来上がっています。ですから、ウソくさい臭いがぷんぷんします。南海さんによると、こんなのましな方だとか。だから、「銘々伝」は47人分あるはずなのに、一部しか陽の目をみないのですね。でも、ハチャメチャぶりも聴いてみたいと、黄紺などは思ってしまいます。


2018年 2月 25日(日)午後 9時 14分

 今日は、繁昌亭の昼席に行く日。笑子が帰って来ているのと、東京の講釈師神田阿久鯉が出ているというのが、お目当てなのですが、総じて好メンバーが揃っているというのが魅力で、そそられてしまいました。その番組は、次のようなものでした。鞠輔「兵庫船」、べ瓶「いらち俥」、仁福「手水廻し」、阿久鯉「天明白浪伝~徳次郎の生い立ち~」、吉坊「元犬、ずぼら」、文三「堪忍袋」、(中入り)、楽珍「島人の唄」、米輔「つる」、笑子「笑子ワールド」、仁智「源太と兄貴」。前座が旅ネタを出してくれると、寄席が始まる雰囲気がして、いいものです。鞠輔は、今席が、繁昌亭復帰戦のはず。洒落た問答遊びに、客席に「へぇ~」って空気が流れて、この空気を感じても、いいネタ選びに拍手です。二番手は、今席はそうばの出番だったのですが、今日はべ瓶。そうばは、いつでも聴けますが、東京に行ってしまっているべ瓶を聴く機会は減ってますから、黄紺的には正解。しかも、ネタが、得意ネタ「いらち俥」だというのが嬉しい。随分と、ご無沙汰ですものね。しかも、この「いらち俥」が進化を見せていました。俥を持ち上げるところで遊ぶのはカット。電車と衝突しそうになるところでは、ストップモーションとなり、しかも、アングルを変えて、電車の運転手アングルなんてのを入れてました。あとから上がった仁福が、「あそこまでくさくしなくても」にも一理あります。技巧に走りすぎは否めなく、前のヴァージョンでいいのではとも思ってしまいました。でも、客席には大受けでした。仁福の口演が良かったですねぇ。いつもの「あ~」「う~」がなく、聴き良かったのが大きかったのですが、それにより、いい間合いの対話が生まれたことは間違いありません。しかも、田舎の人に素の素朴さがあり、よく演じられるデフォルメいっぱいの「手水廻し」なんて、こういった口演ができないということを認めているようにすら思いました。阿久鯉は、1年ぶりの遭遇。去年は、芸協グループの動楽亭公演で聴いたはず。得意の白浪ものを出してくれました。上方にはないネタだけに嬉しいところでした。ヴィジュアル的には年齢を感じさせるようになってきていますが、声の張りは、相変わらず素晴らしいものがあります。吉坊は、短めのネタを出すと、最近「元犬」を出しているみたい。暮れから数えて、3度目の遭遇になってしまいました。文三の「堪忍袋」も、遭遇経験過多のネタ。ですが、ただでも高くするテンションが、一層上がったのが、今日の口演。今日の客席は、端から笑うぞの空気があったため、見事に、文三にマッチ。従って、またぞろテンションが上がったのじゃないかな。楽珍の肩の力を抜いたマクラがいいですねぇ。孫と遊ぶ楽しさが伝わってきました。ネタはお得意の徳之島もの、久しぶりに聴けました。米輔は、いつもながら型通りの口演。でも、いつも、こんなだったかと思うほど、お喋りに抑揚があり、感情移入を見たような気がしました。笑子は、オーストラリアから一時帰国。そのときに、1回は、その高座を観ておこうとしているので、今日の繁昌亭をチョイスしたのですが、今日の高座は、古いヴァージョンの腹話術芸だけに終わってしまいました。やっぱ、繁昌亭では、最近の活躍する姿を観るのは難しいですね。トリは仁智。「兄貴の頭」だけは避けて欲しいと願ってた願いが通じました。替わりに、仁智落語の王道ネタを聴くことができました。バカバカしい繰り返しネタの本家本元と言えるネタ。仁智が「源太ぁ~」って叫ぶだけで可笑しいですものね。今日は大入り。その中に、知り合い夫婦を発見。ご主人の方とは、もう20年ほど会ってなかったかもしれません。そんな出逢いが、繁昌亭や文楽劇場には待っています。ありがたい場所でもあります、繁昌亭は。


2018年 2月 24日(土)午後 7時 54分

 今日は、攝津市で落語を聴く日。久しぶりに「第106回ジャキー7~桂雀喜の落語会」(攝津市民文化ホール大会議室)に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。智丸「桃太郎」、雀喜「池田の猪買い」、生喬「辻占茶屋」、雀喜「終活のススメ」。この会に行くために、ちょっと長めのウォーキングが、情けない結果をもたらしました。途中で休憩を入れたら良かったのですが、それをしなかったため、とんでもない疲労がたまり、開場されるや、椅子に座り込み、ぐったり。なんとか、智丸の高座は耐えることができたのですが、雀喜の1つ目の高座が全滅状態。でも、今日は、完全覚醒ではなかったにせよ、生喬からは、筋立てを追いかけることができていますし、記憶も確かなので、一安心です。せっかく、黄紺的には行きにくい摂津市まで出かけたのですから、そないな気持ちが支えになったのかもしれません。智丸の前座に遭遇する機会が増えているようですね。今日の「桃太郎」も、彼なりの刈り込み、ソフトな刈り込み、ソフトなオリジナルのくすぐりが心地よいですね。完全居眠りのため、「猪飼い」はパスです。冬の終わりが近づいていますから、聴いておきたかったのですが、、、。生喬は、昨日に続いて、ゲスト枠で登場。会場周辺から材料を拾ってのマクラ、サービス満点です。そして、早々に客席と仲良くなる技が冴えます。急に占いの話をしだしたもので、目が点に。まさか、まさか、ゲストで出て、あの三味線との呼吸が大事な噺をするわけが、、、でも、やっちゃったのですから、びっくりでした。ひょっとしたら、雀喜のリクエストかもしれませんね。黄紺的にも、久しぶりに遭遇できた「辻占茶屋」でした。そして、雀喜の2つ目は、自らが書いた新作を配置。これは、「客寄席熊猫」で、2回聴いています。エンディングノートに、酔っぱらい機嫌の夫が、妻に突っ込まれながら、1つ1つの項目に埋めていくという筋立て。トリネタに、この新作を置いて大丈夫かなと思っていたのですが、いつもの倍入ったという客席は、とってもいい反応。「辻占茶屋」から「終活のススメ」へという、絵に描いたような色変わりするネタの配置が良かったのか、いずれも、客席は大喜び。居眠りが惜しまれます。


2018年 2月 24日(土)午前 6時 41分

 昨日は二部制の日。午後に、トルコ友だちと一緒に、講演を聴きに行き、夜は落語会と、とっても贅沢な一日になりました。まず、講演会ですが、以前にも、1度行ったことのある武庫川女子大「トルコ文化研究センター研究会」の公開講座です。昨日は、とっても気になるテーマ「ゾロアスター教と拝火神殿」で、講演を聴くことができました。講師は、帝京大学文化財研究所教授の山内和也さんでした。現在のトルコは、アケメネス朝やササン朝の領域になったことがありますから、ゾロアスター教やマニ教の痕跡があってもいいはずなのですが、それに関する報告を聴いたこともなく、また、黄紺などが知る術もなく、ずっと気になっていたテーマだったのですが、やはり、日本におられたのですね、そういった分野の研究者が。もう、この講演会の知らせを受けたとき、飛び付きました。ところが、この講演は、トルコのお話ではなく、ゾロアスター教の本体、イランのお話でした。ま、それでも、ゾロアスター教について、お話を聴くことができるのはありがたいと思い、聴き出したのですが、コンディション最悪。生活のリズムが変わったため、居眠りが大発生。遠くまで出かけるため、その上、トルコ友だちとランチをしてから、会場に赴くということで、目覚ましをかけてのお出かけは、見事に生活のリズムが崩れてしまい、ダメでした。前半のゾロアスター教の概要説明は、黄紺の浅薄な知識で知ってることが、序盤続いたのが業したようで、深奥部に入った内容は、完全にスルーでした。後半、ゾロアスター教祭壇を含む遺跡の映像を見せていただいた辺りは大丈夫だったのですが、肝心の図解などをしながら、ゾロアスター教の各遺跡の比較報告というところで、またぞろ、居眠り。そんなで、おしまいでした。
 トルコ友だちとは、甲子園口と尼崎で別れ、夜まで時間があったので、電車を海老江駅で降りウォーキング。そして、夜の会場ツギハギ荘での落語会に向かいました。こちらでは、「賢者と天使の落語会1~月亭天使落語勉強会~」がありました。その番組は、次のようなものでした。乾瓶「子ほめ」、天使「十枚目」、生喬「手水廻し」、(中入り)、生喬&天使「トーク:演技と芸」、天使「転宅」。天使が、勉強会を、八聖亭からツギハギ荘に移して、会の名前も変えて、初めての開催。生喬の言によると、「会を作っては潰してる」となりましたが、その企画力は、誰しも認めるところ。でも、完遂する運営力を発揮しないという道筋がありながら、それが、かえっておもしろいという不思議な魅力を持つ天使。その第1回の会の前座は、顔の見分けもつかない乾瓶でした。名前も言わずにネタに入りました。鶴瓶一門の噺家さんで、「子ほめ」って持ちネタにしている人っていましたっけ。力の入れ具合が安定しないのが、かえって新鮮。天使の1つ目は、「皿屋敷」のスピンオフもの(本人談)。ピッコロ劇団時代に作った台本を、落語用に作り替えたもの。10枚目の皿をなくしたとして斬られたお菊のために、10枚目の皿探しを始める男が出たことで、それが話題となり人気沸騰するお菊。以前、このネタを聴いて。初めて天使個人の会に行こうとした記念のネタです。生喬は、先代松喬の芸についての思い出話をマクラで。これが、いい話で、聴き込んでしまいました。そして、「手水廻し」をしたあとに、ネタ解題的なお話まで付けてくれました。自分の口演の解説、そして、先代が生きていたらするであろうコメントまで。そういった話だけではなく、この口演が、良かったなぁ。自ら解説を付けたくすぐりは、もろ手を上げて歓迎です。「トーク」は、芝居やミュージカルの舞台にも出ている生喬と、ピッコロ劇団出身の天使の組み合わせということでのテーマ。最後には、平田オリザや、ピッコロ時代に天使が書いたシェークスピアの台本を使い、台本の公開読み合わせも披露してくれました。ここで、かなり時間が超過したため、天使は、慌て気味に「転宅」の口演。基本的に、テキストいじりもなしの正統的口演だったのですが、「トーク」で、生喬が話題に出していた声の出し方のプレッシャーは、残念ながら、的を射ていたことを実践してしまいました。「トーク」で、泥棒の声の出し方、夜の声の出し方を、生喬が言ってたのと比べると、ちょっと頑張りすぎたんじゃないかな。最後は、時間を気にしてのバタバタ感が出ましたが、これなどが天使らしいところ。なかなかおもしろい会が取れました。優先度を上げておきましょう。


2018年 2月 23日(金)午前 0時 9分

 今日は落語を聴く日。四天王寺の近くであった「第4回笑福亭仁智一門 光照寺落語会」に行ってまいりました。今のところ、第1回から皆勤となっている会です。あくまでも、そういった成行というだけだと思いますが、この落語会を選べるような環境が続いています。その番組は、次のようなものでした。智丸「色事根問」、大智「道具屋」、智六「花色木綿」、(中入り)、智之介「胴斬り」、仁智「兄貴の頭」。智丸は、「今日は何の日」ネタで、客席を暖めてから、ネタに突入。その「色事根問」が、なかなかいい。適当に刈り込んだのは、持ち時間のためかもしれないのですが、それが、贅肉を落とした程よい姿になり、時間を気にしないときでも、これで十分といった姿。智丸のセンスの良さというところです。それに、問い手のアホのキャラ作りも良かった。ゆる~いアホで統一されていました。大智は、先輩噺家さんに、映画に連れて行ってもらった話をマクラで。落ちのある話でおもしろいマクラだったのですが、その中で、映画が解らないけど、映画を楽しむ大智が伝えられたのが、なかなかグー。徐々に、大智キャラが浸透してきているのか、そのエピソードだけで、客席が和み、ネタの導入としてはお見事。だって、同じようなキャラの男が、ネタの主人公なんですから。そう思うと、聴き慣れたネタなのに、自然と笑ってしまいます。智六は、冒頭で、前回休んだわけ、それは、活動自体をお休みしていたわけでもあるのですが、それを説明。ありうる話に、ちょっと心が曇りました。休んだからでしょうか、口演が滑らかになったような気がします。休養が効果覿面だったということでしょうから、一層の精進を願いたいものです。智之介の「胴斬り」は、初遭遇のはずです。明るい声で、楽しい雰囲気を出す智之介落語、そのいい雰囲気が、よく現れていた口演だったと思います。序盤に暗さが、もっと出れば、一層、引き立つのでしょうね。こないな口演を聴くと、「常磐寄席」がなくなった今、智之介落語を聴く機会が、ほぼこの会だけというのは、残念な気持ちになります。仁智は、風邪気味で、声の具合がイマイチだとか。 マクラで、随分と野球の話をしたために、そっち系のネタにはいるのかと思っていたら、急に頭の話に転び、あらあららと、先日聴いたばかりのハゲネタになりました。このネタもおもしろいのですが、続いてしまうと、他のネタを楽しみたいと思ってしまいますね。


2018年 2月 21日(水)午後 10時 59分

 今日は、京都シネマで映画を観る日。フランス&ベルギー映画「少女ファニーと運命の旅」を観てまいりました。ナチスものは、あとを絶たずに、次から次へと、新しい映画が日本で公開されています。この映画は、ナチス占領下のフランスでの実話に基づいた映画です。ユダヤ人の子どもたちを国外に逃がそうという支援活動をしていた人たちの活動を、映画化したものですが、その逃亡の冒頭で、不測の事態が発生したために、子どもたちに同行するはずだった女性と離れ、子どもたちだけで、国境を越えるという逃亡劇となります。その逃亡劇のリーダーに指名されたのが、ファニーという少女。ですから、一種のロードムービーと言えます。エピソードが、途中幾つか用意されています。子どもたちだけで、初めて向かう駅までの逃避行、着いても、なかなか現れない支援者、トラックの荷台に乗っての逃避行は、ナチスに見つかり監禁、ナチスの目を盗んで、地元の人に助けられたと思ったら通報されていたため、こっそりと逃避行、山中に廃屋を見つけて戦後まで待つつもりをしていたら食中毒発生、近くの村に助けを求めに行くときのファニーがすごいです、「私はユダヤ人です」と言って村人に助けを求めに行くのですから、運良く助けてはもらったもののドイツ兵の接収が始まる、金を持っていた子どもがいたので、その金で越境請負人を雇い、最後はひたすらスイスに向かい走る。途中、支援者の1人がドイツ兵に捕まり、隙を見て、ファニーに手紙を渡すシーンがあります。「国境を越えたら開けろ」が、そのとき、ファニーが聞いたことです。しかし、最後の越境請負人の車に乗るちょっと前に、ファニーは、その手紙を落としてしまいます。手紙が開いた状態で落ちていたのを、他の子どもが拾いファニーに渡します。拾った子どもは、その手紙が、どういった手紙かを知っていましたので、実は、何も書いてなかったことを、ファニーに知らせるというシーンがあります。要するに、その手紙は、ファニーに、リーダーとしての使命感、責任感、そして、どうしてもやり通すという強い意思を持たせるためのものだったということが判るという、素敵な仕掛けが用意されていました。ですから、最後、スイスに向かい、子どもたちが走るシーンでは、芝居がかってはいますが、その手紙が、子どもたちをスイスに導くような映像となっていました。なかなか素敵な映画です。子役の子どもたちが、素の演技を見せているのが、とってもリアリティに富む要素になっています。お薦め作品と言えます。


2018年 2月 20日(火)午後 11時 12分

 今日は、いずみホールで音楽を聴く日。今夜は、こちらで「藤村実穂子 リーダーアーベント」がありました。現在、日本人歌手で最も国際的な活躍をする藤村実穂子が、ピアノ伴奏に、ヴォルフラム・リーガーを迎えたコンサート。そのプログラムは、次のようなものでした。「シューベルト:ガニュメート D544/糸を紡ぐグレートヒェン D118/ギリシャの神々 D677/湖上にて D543/憩いなき愛 D138」「ワーグナー:マチルデ・ヴェーゼンドンクの詩による歌曲」 「ブラームス:セレナーデ op.106-1/日曜日 op.47-3/五月の夜 op.43-2/永遠の愛 op.43-1/私の愛は緑 op.63-5」「マーラー:フリードリヒ・リュッケルトの詩による5つの歌曲」 。元々発表されていたプログラムと比べて、マーラー2曲が、曲も変わって1曲となり、替わりにワーグナーが入ったプログラム。見事に、ドイツ歌曲の王道を行くが如きプログラム。そして、圧巻の歌唱は、外国の有名歌手のコンサートに行ったような後味の良さ。著名な歌劇場で、著名な歌手と共演してきたキャリアを見せつけてくれました。とにかく、この人、顔の前面で声を響かせていると思えるほど、声が前に出てきます。メゾなのに、ちょっと低音の響きが足りないかと思わせはするのですが、この前に出るというのは、正に世界に出ていける確実な要素なのでしょう。曲目では、黄紺的趣味も入って、後半を、より強く押したいと思いました。アンコールは、とっておきと言えそうな、マーラー(「少年の魔法の角笛」より"原初の光")とリヒャルト・シュトラウス(明日! op.27-4)。この2曲にはとろけました。やはり、一流を聴かないとダメです。今日は、そんな当たり前のことを確認させてもらった日となりました。客席も、2階の隅に、僅かに空席があるという大入り。しかも、圧倒的に女性の皆さんが占められていました。何気なく、席から立ったときに、席の背後に目をやり、びっくりしてしまいました。もちろん、老若取り揃えてというのが、また凄いものを感じました。黄紺的には、久しぶりのリートのコンサートだったもので、その光景にたじろぐとともに、とっても新鮮に感じてしまいました。


2018年 2月 20日(火)午前 2時 54分

 昨日は、メトロポリタン歌劇場の ライブビューイングを観る日。今季プレミアを迎えた「トスカ」(デイヴィッド・マクヴィカー演出)を観てまいりました。メトロポリタンは、つい3~4年前に、この「トスカ」でプレミアを迎えたばかりだったプロダクションを捨て、新たなプロダクションを発表ということでしたので、外すわけにはいきません。ましてや、デイヴィッド・マクヴィカーものですから、尚更のことでした。また、それに合わせて、主要3役が揃えられていたのが、魅力。トスカをソニア・ヨンチェヴァ、カヴァラドッシをヴィットーリオ・グリゴーロ、スカルピアをジェリコ・ルチッチが歌うという豪華なもの。と言っても、製作発表の段階では、トスカはオポライス、スカルピアはブリュン・ターフェルという顔ぶれだったのに、その2人からのキャンセルがあったときに、よくぞ、この2人が見つかったものと唸るばかりでした。それも、ヨンチェバは初役だったのですから、驚異のチャレンジと言うほかありません。初役と言えば、グリゴーロもそう。また、キャンセルと言えば、スカルピアを予定されていたブリュン・ターフェルのキャンセルで、よくぞルチッチが空いていたと言えます。黄紺的には、ヨンチェバは、ベルリンで聴いたときはひどかったもので、あまり信用が置けないのですが、この「トスカ」での歌唱を聴く限りでは、とっても立派なもの。高音の不安定さも、一切見せていませんでした。グリゴーロ、ルチッチは、もう完璧。となれば、3人揃って、見事な歌唱を披露していたと言えるでしょう。一方のデイヴィッド・マクヴィカーですが、ルチッチがインタビューで、「素晴らしい」と言いながらも、「1950年代オペラ黄金時代を思わせる」とも言っていましたが、読み替えや、時代&場所設定を変える、こういった手法が日常化しているオペラの演出からすると、真逆の手法と言えます。徹底的に歴史考証にこだわり、ましてや、このオペラの各幕の場面は、実在の、しかも、現在、その姿を往時のまま残しているところばかりですから、装置担当者は、現地に赴き、そこで描いてきたスケッチを基に、装置を作ったことが紹介されていました。但し、オペラの装置用に変更が加えられていることは、担当者自らが認めていました。2幕と3幕は、その方針で作られたとすると、あとは、アングルをどこにもってくるかだけの問題でしょうが、1幕は異なります。やはり、1幕は、ラストにテ・デウムが入りますから、実際の教会堂での人の動きと、教会のレイアウトに不自然さがないかが気になります。カヴァラドッシがキャンパスを立てる位置は、側廊に沿ったチャペル、ないしは祭壇でなければ、リアリティを失います。一方、テ・デウムが、その位置で歌われると、これまた、リアリティを失います。黄紺は、その辺に、最も心を砕いたレイアウトを見せているのが、ベルリン・ドイツ・オペラのプロダクションだと思っています。ただ、テ・デウムはラストに歌われます。ほとんどの場面は、カヴァラドッシがキャンパスを立てているところで進行するわけですから、教会堂の中心となる内陣を左奥に、それに向かう教会堂の中央部を、舞台背後に持っていくことになりますから、テ・デウムを背後で歌うことに、しかも、客席に向かわずに歌うこととなり、せっかくの大合唱のパワーが減じてしまうという難点を生んでしまっているというのが、ベルリンの装置です。実は、デイヴィッド・マクヴィカーのプロダクションは、そのベルリンの装置に似ています。ただ、原型のデザインを使いながら、大胆にいじっていたと言えるでしょう。側廊を軸にして、線対称の位置に、カヴァラドッシのいる祭壇を移し変え、背後を側廊にしたのだと思います。で、側廊ですから、外への出入口を付け、側廊を通り、テ・デウム要員が列を作り入って来て、但し、教会堂の中心部が省かれていますから、側廊から、カヴァラドッシのキャンパスのある祭壇前になだれ込み、テ・デウムが歌われる、そうすると、大合唱は客席に向かい歌うことができるといった具合で、リアリティは失われてはいますが、仮想空間として、観る者のイマジネーションを掻き立て易い構造になっていたのかと考えています。装置以外の大きな特徴は、デイヴィッド・マクヴィカーが、非常に細かな演技指導をしていると看える点です。今回も、福井からやって来た高校時代の友人と一緒に観たのですが、「芝居を観ているみたい」と言ってたほどでした。入念なテキストとスコアの読み込みに裏打ちされた細かな演技指導の存することは、間違いないところでしょう。デイヴィッド・マクヴィカーは、時間をかけて演技指導をする演出家だと、デヴォラ・ヴォイドが、かつてMCを務めたときに言ってたことを思い出しました。その演技の中で2点、記憶に留めるために、目を引いたものがあったので、メモっておきます。1つ目は、トスカがスカルピアを刺すシーン。トスカは、何と2度刺しをしました。1度目は、通常のように、抱きつこうとするスカルピアの腹に、そのあと、よろけるスカルピアの背後に回り、上から心臓を一刺ししました。まことに理にかなったことで、スカルピアが呆気なく死ぬことを、この2度刺しで見せてくれました。2つ目は、3幕でカヴァラドッシが撃たれたあと、トドメを撃とうとするのが制止されるというシーンがありました。それにより、処刑は形だけという印象を与える効果があります。これも、友人と話題になったのですが、この行為までを含めて、スカルピアが命じた「○○伯爵のときと同じように」ということなのだろうということで、意見が一致しました。オペラが終わったあと、こういった演出の詳細についてや、歌手の出来具合を話すというのは、実に楽しいことです。今シーズン幕開けのライブビューイングで取り上げられた「ノルマ」も豪華極まりないプロダクションでした。「ファウスト」や「リゴレット」などで、メトロポリタンのニュープロダクションで、時代設定を変えるものが出てきて、メトロポリタンも時代の流れには抗しがたきかなと思っていたのですが、デイヴィッド・マクヴィカーの多用により代表されるように、またぞろ、伝統回帰の様相を呈してきているようです。黄紺などは、これほど細かな演技を求めるなら、装置にも語らせるならば、もっと被らないことを語らせるという手法を求めてもいいじゃないかと思ってしまい、伝統回帰には、あまり肯定的にはなれないのですが、、、。


2018年 2月 18日(日)午後 7時 37分

 今日は、千日亭で落語を聴く日。今日は、こちらで「染左百席 千日快方」がありました。「百席」を越えてしまったようですが、会場を予約していたということで、会は続いています。その番組は、次のようなものでした。染左「延陽伯」、団治郎「七段目」、染左「死神の穴」、(中入り)、染左「軽業講釈」。今日も、ちょっと不調気味。「延陽伯」の終盤から中入り前まで、半寝状態。筋立ては追えてはいるのですが、詳細は判らないという状態でした。昨夜、午前2時半に目が覚め、体のリズムが崩れてしまったみたい。一応、二度寝はできたのですが、不十分だったようです。「延陽伯」は、風呂の場面なし、ぼてふりの八百屋は出てこずで、簡略ヴァージョン。ゲスト枠の団治郎を、こういった噺家さんの勉強会で遭遇するのは珍しいこと。理由は判りませんが。ですから、染左との縁が気になっていたところ、それは、あっさりと染左が答を出してくれました。東住吉高校繋がりだったんですね。まだ、染丸が同校に行ってた時代の生徒さんだったそうです。その団治郎が、染左の前で芝居噺を出しました。通常は、ゲストの噺家さんは、鳴り物がんがんのネタは避けるのですが、お二人の、そういった関係を知って、あっさりと納得。米団治の弟子になりますから、実は、この「七段目」はお宝なのです。若旦那が2階に上がるまでのテキストが、微妙に違ううえに、人形ぶりになるところも、定吉が上がってきて、若旦那に絡むところもと、こんなのを確認する楽しさがあるのに、半寝から八分寝に入ってしまいました。「死神の穴」は染左作。NHKの「わろてんか」の落語考証を担当する染左に「死神」の打診があったとき、通常演じられている噺は東京のものだから、ドラマに合わないからと、別途、噺を作り送ったものが、今日出された「死神の穴」。ドメスティックバイオレンスに悩む男が、女房にうまく言って、予め見つけてあった穴に突き落としたが、そこは死神の穴。死神も、その女のひどさに呆れて、穴を逃げ出してきたところに、件の男と出会い、金儲けの方法を教えるが、死神をごまかしたため、死神により穴に落とされたら、そこに女房がいたという展開だったはずです。半寝の状態ですから、正確性に欠けるとは思いますが。「手をあげる」「足蹴りを入れる」女なんてのが出てくる落語って、あまり聴きたくないよなぁと思いながら聴いていました。中入りで覚醒。久しぶりに、染左の「軽業講釈」を聴きました。入門10周年の記念の会で、このネタが出たのを、強烈に覚えています。ひょっとしたら、それ以来となる「軽業講釈」だったかもしれません。あのときは、兄弟子の染二が鳴り物に入り、思いっきり激しく鳴り物を入れたので、ようく覚えています。ま、今日は、鳴り物は団治郎ですから、そないなことはしませんでしたが、それにしたとしても、誰の口演よりも、大きめの鳴り物だったと思います。要するに、染左好みということなのでしょう。で、それが、黄紺的には気に入っています。遊んでる楽しさを感じるからです。そして、キャリアがもたらした所作なんでしょうか、扇子の使い方が、なんかお喋りをしているようで、素敵でした。


2018年 2月 18日(日)午前 3時 6分

 昨日は、「みんぱくゼミナール」に行く日。ちょっとご無沙汰でしたが、このゼミナールのスケジュールは、きっちりと把握していました。昨日は、「ヒュードロドロの系譜―この世ならざるものの出現にともなう音」と題した山中由里子(国立民族学博物館准教授)さんのお話がありました。この講演者は、一神教世界がフィールドということで、なかなか専門外のことは手を出すべきじゃないなというのが、始まってしばらくしたら見えてきてしまいました。民俗世界で、様々な「異音」が存在していることは事実であり、それに、何らの意味付けをしてきたという歴史を人間は持っています。そういった「音」を「異音」とすることになったわけに対して、小さなコメントがあっただけで、総花的な分析にすらなっていなくて、黄紺のような素人でも思い浮かぶもの。「臭い」に関しては、既に分析がなされているのですから、それからの類比的な思考すらなされてない様子。「異音」について、分析の要があると、具体的な「異音」を列挙されていましたが、その内に「梓弓」を上げられていましたが、それ1つを取っても、「梓弓」に呪術力があると考えられたのか、自然界にある不可思議な、突拍子もない「音」でもないはずの「音」が「異音」と考えられるたのかの分析が要るはずです。にも拘わらずです、そこんとこをスルーしちゃってる、わけが解りませんでした。で、実際のお話は、「神事・祭事」に現れる「異音」の分類と取材の紹介だけの講演となり、これだけの内容でおしまいでした。吉備津神社のお釜なんて、黄紺でも知ってるちゅうねんと、声に出して突っ込もうかとすら思いました。「異音と怪異」に関する学会なんてのがあるそうです。小松和彦もメンバーだと言われていました。その話の中で、「異音」について、西洋音楽にフィールドを移し、報告をした某関東の国立大の研究者のお話をされていましたが、このお話にもびっくり。ワーグナーのライトモチーフを押さえないままのお話だったもので、それにびっくり状態でした。ということで、大変な不満足の講演会。おもしろいことを取り上げるなと思った分、余計に腹立たしいものがありました。


2018年 2月 16日(金)午後 11時 22分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。これで、今週は、動楽亭に3回通ったことになります。今夜は、「第15回笑福亭生寿・桂小鯛のご近所落語会」がありました。その番組は、次のようなものでした。生寿「相撲場風景」、小鯛「花色木綿」、生寿「くっしゃみ講釈」、(中入り)、生寿&小鯛「対談:井戸端会議」。チラシには、2人が1席ずつとなっていますが、この間、ずっと、いずれかが2席するパターン。今日は、先日の自身の会に、喉の不調のまま出したという新ネタのリベンジをしたいということで、生寿が2席のお喋り。新ネタは「相撲場風景」。あまり生寿らしくないネタですが、「笑福亭に生まれたからには」ということでのネタだそうです。子どもを肩車をする人は出すのかなと思ったのですが出なくて、通常の流れでした。意識して、ちょっとは下品にしようとしとのかな、でも、人というものが邪魔をしてしまいますね。小鯛は、生喬からもらったというネタ。結果的に、今日は、「生喬トリビュート」になりました。生寿のネタ2つは、生喬からもらったものと、横で聴いていて覚えたネタだったからです。先日、染八のネタ下ろしで聴いたところでしたが、繰り返しネタに、微妙な変化が入る小鯛の口演は、さすがに年期を感じさせます。泥棒の呆れ返った居直りも、納得の居直り、怒りに思えました。生寿の2つ目は「くっしゃみ」。これが、なかなかの好演。ところどころに、生寿オリジナルの補足的台詞を放り込んだのが良かったのかなぁ。各場面に、空間的広がりを感じさせるものがありました。これは、上手に、芝居噺、芝居掛かりの噺をこなす生寿の新しい才能かもしれません。まだまだ進化途中を感じさせる口演だったと思いました。「対談」は、小鯛に言わせると、かつての「らくご道」を想起させるとか。確かに、会の構成が同じですものね。前半は、ネタの口演に詰まった経験のお披露目のしあい。後半は、ある小咄を披露するか否かで、2人の攻防。結局、次の生寿の勉強会で、生寿自身が 披露することになりましたが、この小咄が、黄紺には判らないのです。聴けば、「な~んだ」になるのかもしれませんが。


2018年 2月 15日(木)午後 11時 38分

 今日は、天王寺で浪曲を聴く日。スペース9であった「第5回 浪曲いろは文庫」に行ってまいりました。一秀、隼人、さくらの3人が、新ネタを開発していこうという意欲的な会。その番組は、次のようなものでした。五月一秀「小湊情話」、真山隼人「水戸黄門~奥州角力の巻」、五月一秀「神戸の長吉」、全員「浪曲Q&A」。曲師は、むろん、全て沢村さくらさんが担当でしたが、黄紺は、大変な不調。会場までのミニウォーキングで、右脚に大きな痛みが発生。既に、右踵に痛みがあることから、変則的な歩き方をしているため、いつかは、バランスが崩れ、どこかに不調が発生するだろうと思っていたのが、ついに現実のものとなりました。筋肉痛だと思うので、さほど悲観はしてはいないのですが、痛いのだけはどうしようもありません。だから、変な力の入り方をしたのでしょうか、会場に着くと、疲れからか、やたらと眠い。それがもろに出てしまいました。3席のいずれでも、どこかで居眠り。「神戸の長吉」は、今日も、一秀さんが言われていたように、お好きなネタのようで、出される機会が多いからいいのですが、前の2席はレアもの。勿体ないことをしてしまいました。最後の「浪曲Q&A」は、節の名称について、さくらさんを中心に説明があったあと、質問を受け付けるというコーナー。浪曲という芸能、即興性が強く、何度、こういった話を聴いても、理解できないのですが、黄紺には。今日も、解ったようで、頭に入ってないみたいです。


2018年 2月 14日(水)午後 11時 50分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「染吉っとんの会~林家染吉落語勉強会」がありました。毎月続けられている会、日本にいれば、毎回行くようにしている会の1つです。その番組は、次のようなものでした。新幸「七度狐」、染吉「ふぐ鍋」、南天「風邪うどん」、染吉「立ち切れ」。当初出演予定のたまがインフルエンザで、ドクターストップ。急遽代演として、南天が登場。動楽亭に入ってから知ることになりました。しかし、よくぞ南天が空いていました。代演として、立派に顔が立ちますものね。染吉は運の強い人です。でも、入場前に知らされた方の内、若干名は帰られたそうです。新幸は年忌明けしたところとか。これから、前座として顔を見る機会が増えていくかもしれません。ネタは、口調が、微妙に、師匠新治に似ている「七度狐」。この「七度狐」も、通常の口演とは、微妙に違うもの。川の深さを知るために石を投げるシーン、石の大きさで遊ぶのはない替わりに、石を向こう岸まで投げてしまうなんてのが入ったり、川に入ったときの掛け声は「深いか、深いか」だったりしてました。山寺では、お粥を食べるシーンは入ってませんでした。一門のカラーなんでしょうか。それとも新治テイストの1つなのでしょうか。新幸の口演は、口舌爽やかという印象は、初めて聴いたときから変わらないですね。染吉の1つ目は、林家のネタの代表作。染吉の口演は、持って回ったしつこさのないものとインプットされていましたが、テキスト的には、その通りだったと思いますが、おいしいところに来ると、染吉では、ほぼ観たことのない大げさな表現をとるようになってきていて、びっくり。これは、進化の賜物と、前向きに捉えておきたいと思いますが、やっぱ、この人、真面目なんでしょうね、べんちゃら口調が人に合わないですね。南天は、代演探しをネタにマクラでお喋り。ネタはこれしかないだろうと思っていた「風邪うどん」。どんぴしゃだったのはいいのですが、昨日同様、3人目の高座が禁物みたいで、半ば前から居眠り。南天遭遇なのに、全くもって勿体ない話です。そして、トリが、本日のネタ下ろし。この「立ち切れ」が、また通常聴くものと、微妙に違う。乞食に決まりかけるとき、着物の用意のエピソードが入らない、蔵の鍵をかけると、次は、もう100日目になっており、ここでは、手紙のエピソードは入らず、番頭の語りの中で初めて出てくる、従って、「三文貫ほど笑う」という台詞は出てこない、木之庄に向かう若旦那は人力を使う、ということは、明治の噺と明示されてしまってました、三味線が鳴り出したあと、霊前に、若旦那が一人佇むという風情ではなく、酒を酌み交わすという所作が入ってました、その中で「雪」が途切れます、その際、三味線(吉川さん)が切れる音を入れました、また、その三味線ですが、太棹でもなく、太棹みたいな音が出ていました。吉川さん、どんな三味線を使われていたのか、気になりました。染吉の口演ですが、口あたりとしては、やっぱ、この人、「ふぐ鍋」よりは合ってるなの印象。でも、木之庄に行ってからは、あまり良いとは言えなかったですね。もうちょっと時間をかけて、ここのところは、じっくりと描いて欲しかったな。一番聴く気にさせられるところ、いい感じで引っ張ってきて、あっさりと下げに向かったという印象です。来月は、日本にいないため行くことができないのですが、「幸助餅」のネタ下ろしとか。とにかく頑張る染吉です。


2018年 2月 13日(火)午後 10時 56分

 今日は、守口で落語を聴く日。幾つかいい落語会が集中した日でしたが、黄紺は、守口文化センターの地下で行われた「第63回 とびっきり寄席」を選びました。その番組は、次のようなものでした。二葉「上燗屋」、雀五郎「ちしゃ医者」、佐ん吉「厄払い」、ちょうば「はてなの茶碗」。前回から部屋が変わり、かなりゆとりができたのですが、入りは、変える必要はなかったかもというもの。前座は二葉と、ありがたいもの。その二葉のお酒に関するマクラが傑作。なかでも、ある有名人と、偶然隣り合わせた話が秀逸。これで、客席が温まったかと思ったのですが、ネタに入ると、客席はおとなしくなっちゃいました。ちょっと呆気にとられたというところかもしれません。前に聴いたときに比べて、酔いたんぼの動きに新しい工夫が入っていたのですが。雀五郎は、2日連続しての遭遇。しかも、2日続けて、その雀五郎のところでダウン。今日は、マクラとネタの冒頭しか覚えていないという、ひどい状態。佐ん吉は、ピンポイントの季節ネタを出してくれました。最初から最後まで、落語の世界が目の前に浮かぶ、素敵な口演。こういった民俗学的資料になりそうな落語って、そのため難しいと思うのですが、佐ん吉の明瞭な言葉づかい、説得力のある語り口が、その難しいところを克服してくれます。あまり演じ手が少ないネタ、そのため、あまり遭遇機会を持てない噺を、いい口演で聴け、少なくとも、これだけでも元を取ったの気分になれます。佐ん吉の「厄払い」もそうでしたが、ちょうばの「はてなの茶碗」も初遭遇。最近、珍しく、「はてなの茶碗」に当たってなかったもので、余計にありがたかったネタでした。ちょうばの口演は、流れは通常の口演と同じですが、ポイントごとに、デフォルメ気味の台詞の付け足し、所作を加えるということをしていました。冒頭の音羽の滝の場面では、それがいい感じで、油屋さんの物言いを補完していると看たのですが、茶金さんの店の場面での油屋さんの言動は過剰で、ちょっと嫌な感じ。お天子さんの台詞も茶化さない方がおもしろいと思うのですが、、、。ちょうばって、今まで、そういった過剰な表現てしてこなかった人ですのに、このネタでは方針転換ということなのでしょうか。帰り際に通る受付のテーブルに、ちょうば製作の「はてなの茶碗」が置かれていました。


2018年 2月 12日(月)午後 9時 49分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、こちらで「鯛安吉日~桂鯛蔵落語会 vol.29」がありました。その番組は、次のようなものでした。秀都「兵庫船」、鯛蔵「近日息子」、雀五郎「蔵丁稚」、鯛蔵「肝つぶし」。秀都に、連続的に遭遇。前座として重用されてるのかな。ネタも「兵庫船」と嬉しい。やはり、師匠の文都テイストを感じさせる口演が微笑ましいところ。先日の遭遇のときも、そうでした。主役の鯛蔵の1つ目の「近日息子」は初めてだったもので、今日は、これがネタ下ろしかと思ったのですが、違いました。いつもの鯛蔵の歯切れよさ、いいリズムがあるようで、なんか、僅かずつリズムが崩れる。だから、口に慣れてないのかと思い、これがネタ下ろしかと思ってしまったのですが、単に調子が上がらなかったということなのだったと思います。でも、鯛蔵では珍しいことですね、これって。ゲスト枠は雀五郎。一昨日、鯛蔵から、ここ2年間の出演者とネタ一覧が送られてきたことで、一くさりのマクラができ上がりました。その辺の嗅覚の鋭さは、雀五郎のおもしろいところ。なんせ、前回のゲストが、師匠雀三郎だったそうですから。ここを突っつく雀五郎の物言いに、会場、大爆笑。雀五郎の「蔵丁稚」は、定吉が良くて聴きものと喜んだのですが、肝心の定吉が蔵の中になったところで、居眠り発生。やっぱ、体が温もってくると、いい気持ちになってしまうようです。鯛蔵の2つ目が、既に書いたように、ネタ下ろし。大師匠のざこばの持ちネタですから、やっぱ、ざこばからもらったのかな。師匠の塩鯛はやらないはずですしね。この口演も、「近日息子」同様、細かくリズムが乱れるのが、気になりました。口に慣れてないのか? 逆に稽古のやりすぎかもしれません。最後に、「兄妹(きょうだい)」と言わねばならないところ、「親子」と言うポカをやってしまいましたが、これは、今日の口演からして、偶然ではなく必然だったと思います。とまあ、今日は、いつも見ない鯛蔵のハラハラさせられる高座に遭遇してしまう結果になりました。3連休の最終日の夜、寒い寒い日でしたが、出安かったのでしょうか、結構な入り。鯛蔵人気に、雀五郎人気が被さったというところでしょうか。


2018年 2月 11日(日)午後 10時 50分

 今日は音楽三昧の一日。午後に、びわ湖ホールでオペラを観て、夜は、カフェモンタージュで室内楽を聴くという日でした。まず、午後のオペラですが、「びわ湖ホール オペラへの招待」シリーズとして上演された「フンパーディンク:ヘンゼルとグレーテル」(栗山昌良演出)(日本語上演)でした。この公演は、毎年、この時期に、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーで上演されているもの。そのキャストは、次のようなものでした。(ヘンゼル)山際きみ佳、(グレーテル)藤村江李奈、(ペーター)宮城島 康、(ゲルトルート)益田早織、(魔女)島影聖人、(眠りの精)平尾 悠、(露の精)溝越美詩。それに加えて、大津児童合唱団と滋賀洋舞協会のバレエ、オケは、角田鋼亮指揮の大阪交響楽団でした。今回の公演の目玉と考えていたのは、栗山昌良演出、美術が妹尾河童というコンビ。休憩時間に会った知り合いに教えていただいたのですが、お二人とも健在で、栗山さんは、90歳を超えておられながら、現場に立たれたとか。プログラムには、1980年、日生劇場での初演時の装置の仕掛け図、もちろん河童さんの直筆のものが掲載されていましたが、正に古き良き時代を懐かしむには十分なものを見せていただけました。装置は、基本的には、全て吊るしで作られていることが判りましたが、それがそうとは見させないところに、お二人の技を知るところとなりました。兄妹の家も、天使の降臨する森の中も、お菓子の家も、全てが吊るしの書き割りで作られていたようです。最後、魔女が竈に押し込まれ、竈が爆発すると、お菓子の家や、その周囲にあった小屋なども吹っ飛ぶ仕掛けになっていました。そして、常に周囲には、木々が描かれており、全体として、正に童話の世界となっていました。歌手陣は、ちょっと線が細いですね。ヘンゼルはパワー不足で、2階の客席には聴こえていたでしょうか。魔女はテノールを起用。かなり声域の広い人で、それはそれでいいのですが、この役柄からして、テノールでは、黄紺的には物足りないのです。また、天使にはバレエの人たちを起用してはいたのですが、だったら、もうちょっと振付を考えて欲しいものでしだ、バレエの人が並ぶと体型的には美しいですが、、、。大フィルの1月定期で落胆させられた角田鋼亮の指揮ぶりは、なかなかのものだったと思います。あのとき気になった音楽の流れも外すことなく推移。ただ、前半で、もう少し色彩感覚が豊かだったらなと思わせられたところはありましたが。でも、こういった感じで、このくらいの規模の劇場で、大袈裟な装置を使わないで、楽しいプロダクションを定期的に提供できるとなるなら、ドイツの地方都市の劇場、ランデス・テアーター並みと言いたいのですが、でも、それに近づくようなことを、びわ湖はやってんのかなぁ、なんて考えてしまいました。1つのプロダクションを、何度も公演できるようになればいいのですが、やっぱ、それには、お抱えに近いオケとバレエが要りますか、これがきついですね。
 大津から京都に戻り、時間調整がてら、ミニウォーキングをしてから、カフェモンタージュに向かいました。今夜は、「S.ラフマニノフ」と称して、(チェロ) 藤森亮一&(ピアノ) 多川響子のお二人の演奏会がありました。演奏されたのは、 「ストラヴィンスキー(ピアティゴルスキー編曲):イタリア組曲より」「S.ラフマニノフ: チェロソナタ ト短調 作品19 (1901)」。チェリストが、こちらでは、よく演奏会を持たれますが、黄紺の記憶の限りでは、この曲が出たのは初めてかなと思っています。また、藤森さんの演奏会が、こちらで持たれるのは初めてかと思っていたのですが、それは、黄紺が行ったことがないため、記憶に残っていないことが、オーナー氏の前説で明らかになりました。黄紺的には、藤森さんのチェロを聴くのは初めて。とってもストレートに音が出てくるという印象を、その第一音から持ってしまい、えらく気に入ってしまいました。素直すぎるのかもしれません、叙情的な音を振りまいても、決して泣きまでは入らない、そんな感じかな。これを、喜んで受け入れるかどうかは、その日の聴く者の態勢によるのでしょうね。幾人かのチェリストが、カフェモンタージュに登場され、それぞれ個性を発揮されてきましたが、黄紺に合いそうなのは、藤森さんが、一番そうかもしれないなと思い聴いていました。そないな黄紺に、終演後、オーナー氏が、「今後の予定を打ち合わせています」という嬉しいお知らせ。こちらで随分出たバッハより、ショパンを聴きたいですね、藤森さんで。


2018年 2月 10日(土)午後 8時 31分

 今日は浪曲を聴く日。毎月恒例の「第284回一心寺門前浪曲寄席 2月公演」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。真山隼人(沢村さくら)「鳥羽の恋塚」、天光軒新月(虹友美)「雪の夜話」、真山誠太郎(真山裕子)「冥土の早駕籠」、京山小圓嬢(沢村さくら)「権太栗毛」。誠太郎&隼人と揃う一心寺は、初めてだそうです。その隼人くんですが、ネタの開発に対する意欲が強く、今日も、新たな会の案内をいただきました。そんなですから、まだ聴いてないネタに当たったらと、ちょっと期待していたのですが、そう思うようにはいきません。1度聴いたことのある「鳥羽の恋塚」でした。春野一門の「袈裟と盛遠」の違うヴァージョンです。この隼人版に出てくる盛遠は、えげつない男。人妻だと判っている袈裟御前に対し、思いのままにならないと、関係者の皆殺しを通告するのですから。確かに、ここまで言われると、袈裟御前の選択に必然性は出てきますね。だけど、酷い。黄紺は、「幸助餅」の幸助や、この盛遠のような、どうしようもない人物を描く作品は敬遠します。新月さんは、久しぶりの遭遇。今月の番組表を見ていると、明日は、新月さんがトリになっていました。浪曲界の序列は、黄紺には判らないところです。で、そのネタですが、場内が心地よく、隼人くんの高座の後半から危なかったのですが、新月さんの前半で居眠り突入。半ばで目覚めたのですが、もう、その段階では、筋立てを掴むことができませんでした。新月さんは、お古いが、他では聴けないネタを出されるだけに、残念です。真山誠太郎師弟が同時出演が初めてなわけが、ここで、黄紺なりに判りました。「冥土の早駕籠」は、もちろん歌謡浪曲です、で、気が付いたのです。隼人くんが、三味線伴奏の普通の浪曲をするようになったからでしょうね。4席の内2席が歌謡浪曲というのを避けたい気持ちは解りますから。「冥土の早駕籠」は萱野三平物語と言えばいいでしょうか。「早駕籠」は、殿の刃傷を赤穂に知らせに行くことを指していますが、忠孝の間で亡くなる三平を見据えて台本は作られており、その半ばに、早駕籠のエピソードが入るように設えてある優れものです。このネタは、痛ましいものですから、講談でも、あまり好きになれない箇所ですね。こうやって、歌謡浪曲が間に挟まると、寄席の色物的色彩を持ってきます。そして、トリはお目当ての小圓嬢師。昨年の後半、小圓嬢師の高座に遭遇できず、不安な気にさせられていたのですが、今年に入り、これで、2ヶ月連続で小圓嬢師を聴けています。ありがたいことです。ネタの「権太栗毛」は、聴いたことがあるようでなさそうでという微妙なところ。馬に目が効く権太という下郎が、馬市で気に入りの馬を見つけるところからスタートします。その前半場面は、馬喰との馬の売買のやり取り。ただ、あまり金をもたない権太は、馬喰たちに袋叩きにされてしまいますが、馬を買おうというわけを話すと、その勢い、気持ちが買われ、馬を売ってもらえることに。この辺の馬喰と権太のやり取りが、小圓嬢師にかかると、実に痛快。小気味のいい啖呵が決まっていきます。権太の素性は、熊谷次郎直実の下郎でした。主人が平家討伐に出かけるのに相応しい馬を探しに来ていたのでした。後半は、権太が、辛うじて熊谷次郎の出陣に間に合うというもの。この筋立て、もっと大きな物語が背後にあるのでしょうか。別に熊谷次郎でなくてもいい話ですし、このネタ自体が、とっても単純ですから、ついついそないなことを考えてしまいました。


2018年 2月 9日(金)午後 11時 23分

 今日は、久しぶりに芝居を観る日。伊丹のAI-HALLであった、名古屋の劇団「オイスターズ」の公演 「君のそれはなんだ」を観てまいりました。「オイスターズ」は、4~5年前、京都で2度観たことのある劇団。斬新な素材、深い洞察力に支えられた脚本が素敵で、とっても印象に残っていたのですが、その後、運悪く、公演に接することができなかったのですが、今回、AI-HALLでの公演に行ける日を確保でき、また、久しぶりの観劇ということで、楽しみにしていました。AI-HALLに行くのも、2~3年ぶりじゃないでしょうか。その間に、作/演出の平塚直隆は、岸田國士戯曲賞にノミネートされるという快挙まで演じていました。舞台は、巨大な平台が左前を低くして、全体的に傾いているというものだけ。最後に、平台の周りを歩くというシーン以外は、他の装置は使わず、平台の上で台詞劇が、終始展開されるというもの。その平台の上に、1人の男が上がります。「山のなか、夜、1台のタクシーが走ってます」とだけ、ナレーターが入ります。その男は、平台の上を歩きます。音響が、車の走行音を入れるだけで、客は、光景を想像していかねばなりません。この芝居の特徴は、全編、これで通されます。道端に、1人の女が、大きなトランクを持ち、そのタクシーを停めます。しばらくすると、今度は、1人の男が、大きなカバンを持ちタクシーに乗り込んできます。乗り込んだ2人は、素性や持ち物の中身について語らないため、タクシーの運転手は、彼らを幽霊と思い込みます。ところが、タクシーは事故を起こし、その結果、3人は暗い山の中を歩くことになります。そこへ、1台の車が通りかかり、その車を運転する女が、3人を乗せてくれ、世間話をするなかで、今、このようなところを運転しているわけを語り出します。タクシーの運転手とは関係性が違うから成立する会話というところです。実際、その場面では、タクシーの運転手だけは、3人に背を向けています。ただ、ここで語られる素性や持ち物の中身が、語られた通りかどうかは判らないということが臭わせられながらの語りとなっています。しかし、その車も脱輪し、今度は、4人がさ迷うことに。そこへ、日の出前から仕事で虫を取りに行くと、初めて、この山中の地理が判っていそうな男が、車を運転して通りかかります。そこで、誰を乗せて乗せないか、車に乗せられる人数に限りがあると、その男が言ったからでした。タクシーの運転手が乗せろと、強く自己主張するのに対し、他の3人は執着を見せないのですが、、最終的には、そこで、3人が乗ることになると、その3人は、平台の周りを、大きな荷物を抱えたまま、無言で歩き続けます。これは、照明が落ち、芝居が終わるまで続きます。一方、3人を乗せた男は、平台の上を歩き続けます。車を運転している体です。そこへ、タクシーの運転手が平台に上がり、しかも、今度は、大きな荷物を持っています。そして、乗せてもらうことを求めて、終演となるという流れでした。登場人物の内、素性が明らかと言える(ここをも疑うことも可能)のは、タクシーの運転手だけ。しかし、この運転手も、ラストで乗せられる側に回りますから、主客の逆転が起こっています。他の4人、中でも最初の2人は、他者による規定、自身による規定はされますが、いずれも正しいという保障は、一切ありません。持ち物も同じです。規定の軸がずらされていっていると言ってもよいのかもしれません。ものの見方、人の捉え方、そういったものに対する視点の定まらない姿を、芝居にして見せたというところなのかなと、この芝居を観ながら考えさせられました。そういった意味で、ポストモダンチックな芝居と言っていいのじゃないでしょうか。80年代の小劇場では、こうした芝居を目にしたものですが、昨今の芝居では、この劇団でしか、黄紺の視界には飛び込んでこないという感じがしています。だから、観に行きたいと思い、そして、満たされて帰途に着ける、そういった劇団ですね。


2018年 2月 8日(木)午後 10時 49分

 今日は映画を観る日。いい落語会を捨てて、ドイツ映画「はじめてのおもてなし」(シネ・リーブル梅田)を観てまいりました。裕福だけど、崩壊しかけの家族ハートマン家、妻は元教師、慈善活動に熱心、夫は現役の外科医ですが、老人特有の頑固で我が儘、そして老いに抗おうとしています。長男は仕事男、離婚して男の子を引き取っているが、子どもの教育に見向く様子がない。長女は、自分の将来を見定めることができず、いろんなことに手を出し挫折を続けている。目下のところ、父親の勧めで薬学を専攻しているが、あまり勉強に身が入っているとは言いがたい状況。そんな家族が集まったところで、突如、妻が難民(ナイジェリア人の青年)を引き取ることを宣言。そういった家族に加えて、父親の医局にいる研修医(エジプト人)や、難民センターでボランティアでドイツ語を教える女性、長女のストーカー、ナイジェリア人青年をISかとマークするポリス、近所の女性を含めて、外国人排斥に動く人たちが登場します。となれば、崩壊家族が、難民青年が入り込むことで、家族らしい姿を取り戻すというストーリーが読めてきます。でも、ナイジェリア人青年が、何かを意図して動くというわけではありません。異文化の出会いはソフトに表されています。明らかなる違いは極端にデフォルメされて表されます。歓迎パーティと称した乱痴気騒ぎでは、本当のシマウマを持ち込ませます。そんな環境の違いなんてのは、膚の色の違いと同じで、そないなことを描こうとというのではなく、夫婦のあり方など、何気なく、ナイジェリア人青年が口にする言葉をヒントに、ドイツ人が作り上げてきた考え方、生き方を、当の家族たちが口にする、いやできるような仕掛けが仕組まれています。これは、台詞には出てこないのですが、崩壊してきたのが、ドイツ人特有の考え方の帰結なら、同じ着想で修復も可能なはず、それに気づかせる触媒のような存在として、難民青年が位置付けられているのでしょう。そういった存在であることに気づくのが、難民申請却下の裁定がくだったときだったのでしょうね。彼がいなくなったらということを考えたのでしょうか、彼の痛みの重さがとんでもないということを知ったとき、自分たちの頑張らねばならない力を知ったのでしょうか。この映画のプロデューサーは、あの「善き人のためのソナタ」の製作をされた方だそうです。確かに、納得できる作品です。お薦めの一品ですね。


2018年 2月 7日(水)午後 10時 50分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「生喬百席 ~+(プラス)三夜・第百二夜」がありました。年内で、持ちネタ100席を、全て口演し終えた生喬ですが、その間に増えた持ちネタを、「生喬百席 ~+(プラス)三夜」として披露する、その第2夜に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。生喬「姉の八足」、染吉「淀五郎」、(中入り)、生喬「住吉駕籠」。自宅や屋外の寒さに比べ、とっても暖かな暖房の効いた動楽亭は、まるで天国。でも、その天国は、簡単に眠気を催させます。近況報告的な、冒頭のマクラは、しっかりと、頭に刻み込まれていますが、珍品として楽しみにしていた「姉の八足」も、後半で居眠り。筋立てすら思い出せない始末。無筆の男をからかう噺で、「八足」が「子息」にかかったダジャレだというくらいしか思い出せないのです。たっぷりと任された染吉は、独演会で出した「淀五郎」。黄紺は、夏の連続して行われた「染吉っとんの会」で聴いていますが、今日のところで印象残っているのは、芝居の台詞が、えらく本格的になっていたなということ。あとは、居眠りがひどく書くのは不適切なので止めて起きます。中入りで体調回復、「住吉駕籠」が、一番まともに聴くことができました。但し、酔っぱらいの3度目の繰り返しに入ったあと、堂島の2人組に飛んでますが。先日の「竹の水仙」で気になった表情で噺を語るというやり方、ここでも使ってました。アホな相棒には、なかなか効果的で、いい感じの笑いが生まれていたのが印象的。このネタは、長短がありますが、オムニバスになっている噺ですから、噺の転換部で気を変えるのが肝要と思っていますが、それに関しては申し分なく、それだからこそ、噺に聴きごたえが生まれていたのだと思いました。今日は、生喬も驚いていましたが、かなりの入り。当初用意されていたプログラムが足りなくなり、生寿がコピーに走るなんてことが起こってました。ゲストの染吉に、それほどの集客力があるわけでなし、違うのは珍品が出たことくらいですが、「姉の八足」にも、そんなに集客力があるとは思わないのですが、、、。


2018年 2月 6日(火)午後 11時 33分

 今日も、繁昌亭で落語を聴く日。今夜は、「東西激突落語会~第2戦~」がありました。あまり、こうした華やかな会には行かない黄紺ですが、やはり好メンバーにそそられてしまいました。その番組は、次のようなものでした。智丸「刻うどん」、こはる「初天神」、たま「源平盛衰記」、三三「元犬」、(中入り)、仁智&たま VS 三三&こはる「東西トーク合戦」、仁智「兄貴の頭」。智丸の「刻うどん」は、初めての遭遇。喜ぃ公の物言いや、仁鶴が言いそうなくすぐりが、今や新鮮で、思わず笑わされる場面が幾つか。後味のいい口演でした。こはるは、大阪で開いた落語会以来。マクラで、旬のネタを出したのですが、全部出さなかったため、あとから出たたまがフォローをしていました。ネタは、季節ものの「初天神」。家に出るまでが、上方ほど濃くない替わりに、こまっしゃくれた金ちゃんの描写が、家を出てから濃くなっていきました。飴を食べるまでが、そのため随分と長く、その飴を飲み込んだところで切りました。たまは、この会の企画をした張本人。ネタは、12月にドイツから帰って来て、3度目となる「源平盛衰記」。なんか、最近の鉄板ネタになっています。密に聴いた関係からか、マクラで喋ってくれた福車の思い出が強烈で、そちらの印象が濃く残っちゃいました。三三は、マクラでたまをいじってからネタへ。思わぬネタが出てきたのですが、その流れが、最近、どこかで聴いたものとそっくり。そうなんです、三金との二人会で、吉坊が出した「元犬」と同じだったのです。吉坊の口演を聴いたとき、耳慣れた「元犬」と違ったため、ちょっと訝しく感じたわけが、これで判りました。東京の「元犬」を出したということだったのです。但し、三三の口演の方が、犬ネタを使ったくすぐりの度合いが高かったのではないでしょうか。最近、三三を聴く機会がなかったものですから、どういったネタをかけるのかが判っていませんから、「元犬」がレアな口演なのかどうかは、判りかねるところですね。「トーク」のテーマは、「東西の楽屋」ということでしたが、話は多岐に渡り、まとめようがないものでしたが、仁智にも突っ込まれていたように、よく喋る三三というのを見れたのが、第一の成果ではないかな。そして、トリは仁智。ハゲ頭を、徹底的にネタにした、おとぼけヤクザの源太ものの1つ。源太が弟分の男と、兄貴の頭を気にして、いろいろと心をくだくというもの。ライトで、罪のない仁智落語の傑作の1つです。しかし、よく入りました。たまは、プログラムに、他の落語会はガラガラだろうと書いていましたが、あながち大口ではないかもしれません。


2018年 2月 5日(月)午後 11時 36分

 今日は、繁昌亭で落語を聴く日。今夜は、「第12回繁昌亭大賞受賞記念落語会」という記念の会がありました。その番組は、次のようなものでした。受賞者・きん枝・染左(司会)「表彰式」、生喬「竹の水仙」、きん枝「孝行糖」、喬介(奨励賞)「饅頭怖い」、(中入り)、染丸・染雀・染左(司会)「受賞記念トーク」、染雀(大賞)「百年目」。生喬は、大賞受賞経験者としての出番。前に授賞式があったとはいえ、「竹の水仙」にびっくり。久しぶりに聴く生喬の「竹の水仙」でしたが、随分と様相が変わっていました。というか、こないな表情だけで噺を進める口演を、もちろん生喬でですが初めてのこと。よく言えば表現の幅が拡がった、 でも、悪く言えばくさくなったと言うことになっちゃいます。繁昌亭ヴァージョンなんでしょうか。きん枝はうだうだ話で、「繁昌亭いろいろ」。これが長くて、ネタはしないで下りるのかと思っていると、「孝行糖」が始まりました。喬介は、恐らくこれだろうと思っていたネタを出してくれました。池袋演芸場での「東西長講の会」でも、これだったようですからね。おやっさんの怖い話を入れるからか、序盤の好きなもの怖いものの言い合いは、わりとあっさり味。でも、喬介テイストは、きっちりと染み込ませていきます。久しぶりに聴いたおやっさんの怖い話、やっぱ入れて欲しいな、これ。怖がらせておきながら、思いっきりバカバカしいというのが、なんとも可笑しい。そして、いよいよ光太郎登場。懲らしめる側の男たちのいちびり方で、喬介テイストは最高潮。一方、光太郎は、饅頭を1個ずつ、丁寧に食べます。饅頭の特徴に合った食べ方を披露します。これはお見事。正に、受賞記念落語会に相応しい口演でした。トークでは、染丸が元気な姿で登場。言語障害が残っているので、そこは、弟子2人がフォローしながらの展開。染雀命名の際の名前候補5つを並べてくれたのは、お宝情報。染雀以外は、全部下に「丸」が付く名前でした。そして、トリの染雀は、「25周年」ということで、その「倍数」を選んだと言って、ネタに入りました。入る直前まで、今日は、芝居噺、ないしは芝居がかりになった噺をするものと決めてかかっていたものですから、「百年目」が始まっても、半信半疑。あまりにも気温の低い日に、「百年目」に、頭がなかなか着いていかず、聴くのに苦労。でも、大川に出たところで、屋形舟の障子を開けたときには、陽のまぶしさとともに、温い空気が入ってきたように思えたのですが、あっさりと外の寒さを思い出し、それに負けてしまいました。今日ほど、季節を選んで欲しいと思いながら、落語を聴いたことはないのじゃないかな。染雀の口演って、ちょっと抑揚の振れ幅が大きいのかな。そういった喋り方ですから、ときとして、大ざっぱに聴こえてしまうことがありますね。後半の、番頭を前にした語りなどで、それを痛感。そんなのを目の当たりにするにつけ思うのは、「百年目」という噺はただ者ではない難しいものということなのでしょう。


2018年 2月 4日(日)午後 9時 45分

 今日は、高津神社で落語を聴く日。日曜日ということで、午後に、こちらの高津の富亭で、「文太噺の世界 in 高津の富亭」がありました。毎月開かれている会ですが、平均すると年に1~2回おじゃましている会となります。その番組は、次のようなものでした。文太「開口0番」「七度狐」、鞠輔「鬼の面」、紫「延陽伯」、文太「十三の渡し」。「開口0番」で、先日亡くなった福車の思い出話を一くさり。フグの調理の話も出てきた途端、そのエピソードを、同じ高津の富亭で、福車自身から聴いたことを思い出しました。「ほろ酔い寄席」でのことでした。雅、仁勇と、この1年の間に、まだまだという年齢の噺家さんが3人も亡くなりました。出番は、鞠輔がトップかと思っていたのですが、旅ネタということからでしょうね、文太が上がりました。そう言えば、「七度狐」、最近、あまり聴いていません。ネタの差別化を図る若手の噺家さんが、定番すぎるネタに手を着けてないからかもしれません。ちょっとだけ「野辺」の部分を入れてから、石を放り投げました。これ、いいですね、旅の気分を作れます。あとは通常通り、但し、山道のところは短めというのも、いまや定番です。喜ぃ公が、べちょたれ雑炊をおかわりするという傑作なくすぐりが入りました。銀瓶の口演で、べちょたれ雑炊を食べ続ける喜ぃ公なんてのが出てきますが、発想の基は文太にあったんですね。そして、下げは、通常のものと違い、狐に騙されているのを見つけたお百姓が、2人を助けに行こうとすると、「大井川」の再現となるというもの。ここで、初めて、文太の口演で「七度狐」を聴くのが初めてではないことを思い出しました。鞠輔は、今日が復帰初戦だそうです。2月の繁昌亭の出番に、鞠輔の名前があったものですから、もう復帰をしていたと思っていました。産休に入る前、年明けが復帰のメドと言ってましたからね。久しぶりに聴く鞠輔、体格の成長だけではなく、噺の方も成長していました。産休中も稽古を、しっかりとしていた跡を伺うことができました。第一、鞠輔の口演で、前座ネタ以外を聴くのが初めてだったのですが、とっても心地よい台詞回しになっていたからです。以前は、口調そのものが米輔口調だったもので、ネタが「鬼の面」だと聴いたときに、不安だったのですが、杞憂に終わりました。マクラで話した子育てネタもおもしろかったしと、確かに大きくなった帰って来ました。体格では、ちょっと鞠輔に負けてしまったかもしれない紫は、遭遇機会の多い「延陽伯」でした。マクラで「嫌いな男のタイプ」をたっぷりめに。そして「延陽伯」という流れ。マクラのインパクトが強く、ちょっとネタがついていきにくいという展開になりましたが、主人公の男は、ちょっとアホ度を高めに設定しての口演で進行。新妻も、それと同じ波長の女性に見えてしまいました。これって、経験ないですね。別世界の人間というだけではなく、くだけたら、お調子者、そないな女性のように見えました。文太の2つ目は、東京の「佃祭」の移植ネタ。東京ネタが上方に移植されるのも珍しくないなか、「佃祭」を持って来ているのは、文太だけのはずです。十三の渡しを使うということで、主人公の男は能勢の妙見へ参った帰り道の出来事にしてあります。でも、これだと、渡しが混み合うわけが出てきにくいですが、他に移し替え易いスポットはなかったのでしょうか。ただ、船で送ってもらうとき、店への横付けができるっていうのは、大阪ならではですね。亡くなったと思っている家の描写、設定に工夫があります。お通夜の帳場の場面に「向こう付け」のフレーズが入ったり、遺体を引き取ってくるというエピソードが入ります。当然、遺体引き取りは、間違いなわけですから、引き取り手はアホに行かせるということになり、そこで、それなりのくすぐりが使えるともなっていました。当の本人が生きていることが判っていますが、ちょっときついくすぐりも生きてくるという欲目が見えてきます。以前に聴いたときも感じたことですが、「佃祭」の移植と考えるよりは、「佃祭」にインスパイアされた別物と考えた方がいい噺です。やはり、佃島、佃祭と固有名刺が入っちゃうと、どうしても、独特の雰囲気も入って来ますので、それを移すのは、どだい無理ですからね。


2018年 2月 4日(日)午前 4時 15分

 昨日は、京都コンサートホール(小)で音楽を聴く日です。マチネーで、昨日、こちらで「小谷口直子 室内楽演奏会Vol.2」がありました。小谷口さんは、京都市交響楽団首席クラリネット奏者の地位にある方。前回に続き、こちらのコンサートに行ってまいりました。昨日は、(Vn)杉江洋子、(Vc)上森祥平、(Pf)塩見 亮といった方々との室内楽コンサートを開かれました。そのプログラムは、次のようなものでした。「湯浅譲二:クラリネット ソリテュード」「武満徹:カトレーンII(1977)」「メシアン:時の終わりへの四重奏曲(1940)」。えらいプログラムが組まれたものです。メシアンは、クラリネット奏者なら夢見る曲、それに加えて、日本人作品を選ばれたのは、学生時代に思い出があるからということでしたが、それにしても、濃ゆいプログラムです。挨拶に立った小谷口さん曰く、「聴く方より演奏する方に回りたい」。そんなだからこそ集まったのでしょうか、満席には至りませんでしたが、それに近い入りに、びっくりでした。武満とメシアンの曲は知っていたのですが、湯浅譲二の作品は、全く未知のもの。特殊奏法に驚かされました。同時に2つの音を出すという奏法って、クラリネットにはあるのですね。クラリネットは1枚リードですから、1枚のリードの2箇所を振るわせるなんてことをやってるはずなのですが、どのようにしてするものか、想像もつきません。その曲が冒頭なものでしたから、一挙に緊張が高まりました。次の武満作品は、黄紺の持っていたイメージとは異なる演奏スタイルに、また緊張。塩見さんのピアノが、ほぼ全曲、ペダルを踏み続けられたからでした。へぇ~ってやつでした。小谷口さんのクラリネットに、もうちょっと、のびのびしたところがあったらなぁとも思ったところでもありました。そして、休憩を挟んでのメシアン。1度生で聴いてみたかった四重奏曲。「世の終わり、、、」と称されるのが、日本での常ですが、ここでは、永遠性を表すには「時の終わり、、、」が適切とのことで、そのような表記、呼称が使われていました。原題は、当然フランス語なわけですが、調べてみると「時」でしたから、逆に「世」としたわけの説明が必要なところでしょうが、それは、メシアンがナチに囚われのなか作ったというところが表されようとされたからと思われます。かなり耳障りのよろしくない曲と思っていたのですが、小谷口さんの物言いでは、「崇高な音楽」となるのですが、確かに、そういった雰囲気の仕上がりに。おかげで、催眠術のような波に晒されました。そないな虚ろな中で聴くのがベストかもしれませんね。最後の高音のヴァイオリン、杉江さんの音が気に入られたのか、小谷口さん、終わった途端、杉江さんに向けて拍手をされていました。それにつけても、おもしろいプログラム、それに詰めかけるほぼ満席の音楽ファン、いいですね。そういったいい環境のなか、素敵な午後を過ごすことができました。


2018年 2月 2日(金)午後 11時 6分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「12の幻想曲」と題して、フルートの瀬尾和紀さんの単独ライブの日でした。演奏されたのは、G.P.テレマンの「無伴奏フルートのための12の幻想曲 TWV40:2-13(1733)」でした。カフェモンタージュで、テレマンが取り上げられることは、とっても珍しいこと。でも、1時間に渡り、フルートのソロが延々と続くのは、正直きつかったですねというか、催眠術を、次から次へとかけられたみたいでした。同じようなリズムを刻まれ、単独楽器ですから、音色に変化があるわけでなしとなると、かけられた催眠術が覚めても、また、次の催眠術が待っている、その繰り返しとなってしまいました。ある程度の想定はできてはいたのですが、はまっちゃいました。がっくり、こっくりです。


2018年 2月 1日(木)午後 11時 12分

 昨日、クレジットカードについて、首をかしげるメールが入り、当初は、そのメール自体に疑問を持っていたのですが、そのメールに、発信人と黄紺にしか知りえない情報が入っていたものですから、そのメールには対応することにしたのですが、今度は、自分のクレジットカードに問題があるかもという疑問が持ち上がり、朝から、その問題で頭がいっぱい。ようやく、元々のメールが入ったわけが判明。従って、そのメールの正当性も判り安心したのですが、今度は、クレジットカードの方の後始末に忙殺。でも、その後始末をする必要がなかったことが判り、無駄な時間を使いはしたのですが、心の安寧を獲得することができたので、ようやくお出かけ気分になれました。で、今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、こちらで「ソメかハチか!? vol.12」という落語会がありました。小染と三味線の入谷和女さんの息子にして、あやめの甥となる染八の落語会です。2度目のおじゃまとなりました。その番組は、次のようなものでした。秀都「転失気」、染八「花色木綿」、鶴笑「あたま山」、染八「狼講釈」。初期のこの会は、集客力がよくなかったと言われていますが、今や、着実に集客力を上げています。染八に対する認識、それに見合う自力を着けてきた、何よりもない証拠のような気がしました。雰囲気も上々、トップは、久しぶりに遭遇の秀都。久しぶりと言える時間が、かなり受ける印象を変えてしまったように思いました。しっかりしたお喋りもそうですが、場を踏んだ自信のようなものを感じました。1つ気になったのは、小坊主が、転失気を尋ね歩くのを1軒で切り上げてしまったこと。1軒だけで、頭が混乱するなんてありえないと思うのですが、、、。時間短縮で省いたのかもしれませんが、噺の構造が崩れかねません。染八の1つ目が今日のネタ下ろし。ネタ下ろしは、福笑作品かと思っていたのですが、もう済んでいたのでしょう。マクラでは、今年に入ってからの不幸続きを披露。マクラを楽しませられるようになっているのは、やはり、こうした会を続けてきた成果でしょう。ただ、ネタの方は、出来上がってないなの印象。「裏は花色木綿」を繰り返していくバカバカしさを楽しむネタですが、それに突っ込みが入らないものですから、単純な繰り返しになっていたのが、残念。ゲスト枠は鶴笑と豪華。総じて、この会は、ゲスト陣が豪華。入門以前から、落語界に関わってきた染八の財産ですね。前半の松鶴ネタもさることながら、「あたま山」はスペシャルな作品です。前半で「あたま山」の筋立て説明をして、後半は、その筋立てのまま、パペットとマイムで進行するというアイデアが抜群。落語「あたま山」は泣く噺ではありませんが、パペット落語「あたま山」は、涙腺を刺激します。これって、何なんでしょうか。「もう、これで終わってもいいんでしょうね」が、トリで出てきた染八が、開口一番言ったこと。それだけのインパクトが、鶴笑の高座にはあったのですが、これは、染八の会ですから、そういうわけにはいきません。ネタは、染八の持ちネタでは、ベストと思っている「狼講釈」でした。ネタ下ろしのときに聴いて、黄紺の染八を見る目が変わったという記念すべきネタです。リズムやテンポがよく、聴いていて心地よいのですが、ここまできたら、田舎の雰囲気や夜の暗さ、おどろおどろしさが出るようなステップアップを、頭に入れておいて欲しいものです。そのためにも、もっとじっくりと、古典に取り組んで欲しいなと思っちゃいます。会自体を、自分カラーに染められるようになってきているのを見るにつけ、求める水準が上がっていきます。


2018年 1月 31日(水)午後 11時 54分

 今日は、ツギハギ荘で落語を聴く日。今夜は、こちらで「第51回客寄席熊猫」という桂雀喜の新作を披露する会がありました。その番組は、次のようなものでした。雀喜「死亡根問」、文鹿「尼と主婦とどっちが楽?」、雀喜「訓戒」。雀喜の今日のネタ2つは、前にも聴いたことがあるようでないような、いいかげんな記憶。1つ目の「死亡根問」は、そのタイトルに、何かうずうずしてしまいますし、2つ目の「訓戒」は、ナマハゲが出てくるという仕立てにうずうずしてしまうのです。でも、それら以外の糸口はないものですから、その糸口すらも怪しいものと言わざるをえません。「死亡根問」は、死後の世界を1対1で尋ねていくという典型的な根問の形式を踏みます。ただ、話題に上るのは突飛なものはなく、昔から言われる地獄極楽を解説するもの。根問ものにしてありますから、どうしても平板になるうえ、話題がそれですから、ますます平板な印象を与えてしまいました。「訓戒」の方は、大阪で街起こしとして、ナマハゲを導入するという設定。ナマハゲの蘊蓄が語られ、いよいよ実践に入った辺りから、ボーっとしちゃって、終わってみると、内容が、すっかりぶっ飛んでいました。寒いところから暖かな部屋に入って、自覚のないまま居眠りをしていたみたいです。雀喜の生真面目なトーンに対して、文鹿はやんちゃそのものという感じでのお喋り。このお喋りが、黄紺にとって、以前は、結構、嫌気が先走ったのですが、最近は、独特の距離感を編み出してしまうということで、とっても気になってる噺家さんの仲間入りをしてしまっています。今日は、先日の高津動楽亭版の高座で、たまが、マクラで喋った話に、真っ正面から呼応する話を披露してくれました。暴走気味のマクラ以上にテンションを上げて上げて、ネタに突入。ご自分の奥さんとその友だちの会話を基に創った新作。立て弁で、幾筋もの夫批判が展開されます。思わず、文鹿の口演に拍手です。


2018年 1月 31日(水)午前 6時 10分

 昨日は、繁昌亭で落語を聴く日。昨夜は、こちらで「さんきんときちぼう~桂三金・桂吉坊ふたり会」がありました。その番組は、次のようなものでした。三金・吉坊「挨拶」、りょうば「強情灸」、三金「新党結成」、吉坊「土橋萬歳」、(中入り)、三金・吉坊・りょうば「二番太鼓セッション」、吉坊「躍り:大津絵」、吉坊「元犬」、三金「御神酒徳利」。りょうばの「強情灸」は初遭遇。塩鯛からもらったというざこば組定番のネタ。「勢いでやれ」という指示を、きっちりと受けた口演。やたら右手を使うりょうばの高座姿は、どうしても枝雀を想起させてしまいます。三金の1つ目「新党結成」は、以前「奥野くんの選挙」と題して出していたもので、遭遇は久しぶり。デブネタ漫談のような立会演説が長いのが特徴。三金の会に行くと、この手のネタを聴かないと落ち着きません。吉坊は、中トリで大ネタ「土橋萬歳」。この半年ほどの間に、石松、たまのと来て、この吉坊で3度目となります。こないなことは、今まで経験をしたことがありません。ここまで、「萬歳」まで行かずに終わらせた2人だったもので、今日こそはと思っていたら、きっちりと、吉坊は、マクラで「萬歳」の説明をしてくれたものですから、ようやく、最後まで聴ける嬉しさが出てきました。ただ、ひどいことに、この肝心の大ネタの一部で居眠り。構えて聴くと、疲労が蓄積するのでしょうか、番頭が、若旦那の遊ぶお茶屋を訪ねて行く辺りが、皆目、記憶から抜け落ちています。ですから、その辺りを省いて書いておくと、吉坊を含めて、ここまで聴いた3人の「土橋萬歳」の土橋の場面に満足できないのです。土橋を囲む辺りの暗さ、だけど、土橋だけが、月の光のスポットライトを浴びたようになる緊迫感、そういったものに満足できないのです。芝居掛かるところですから、吉坊に期待していたのですが、満足できませんでした。台詞回し、動きに、大仰さが足りないのかな、身体の切れが足りないのかな、その辺だろうとは思うのですが、、、。夢だと判るときの、空気が緩むのがいいですね。この3人以外でも、最近では、九雀がネタ出しをしていたのを見かけたことがあります。この分だと、滅多に聴けないネタではなくなっていきそうです。この会では、主宰者2人共同で、何かをして見せるというのが慣例化しているということで、昨日は、前座にりょうばを迎えていたからでしょうか、3人で、パーカッションのセッションが行われました。吉坊が、締め太鼓で二番太鼓を打つなか、三金が大太鼓で、また、りょうばが、アフリカの何とか言う楽器でアドリブ演奏をするというもの。なかなか見事なもので、いいもの聴かせてもらえました。吉坊の2つ目は、実に意外性のある「元犬」。噺の流れは、普段聴く「元犬」と同じですが、細部では、随分と異なりました。しろと出会い、その面倒を見るのが口入屋の主人だったり、仕事が決まるまでは、わりかし元犬ネタが控えられていたり、しろの寝姿を捉えて下げを導いたりと、、、。そのため、全体的に古風な感じを受けた口演で、最近耳にする犬絡みのくすぐり続きでもないのが、わりかし気に入っちゃいました。最後は、もう1つの大ネタ「御神酒徳利」。元来上方ネタながら、持ちネタにする噺家さんが少ないので、楽しみだった口演。よく耳にする東京の噺家さんによる口演とは違うところが目についたものとなりました。徳利が水甕に沈む経緯とか、旅に出かけるきっかけ、登場人物、最後のカットあたりです。中でも、主人公の男が、2つ目の占いを成功(?)させたあと逃げてしまい、噺が終わるというもの。「今度はあの男が消えてしまった」というのが下げでした。聴いている方としては、噺が強制終了してしまったという印象。ただ、調べてみると、こうした終わり方もあるとか。三金の周りでは、文珍が持ちネタにしているので、これらの違いは、そこから来ているのかもしれません。文我が「占い八百屋」という題を使い、このネタを口演しています。元来の上方ヴァージョンでの口演かもしれません、タイトルからして、そのように想像するのですが、その型が、こうしたものになっているのかもしれません。文我の方は、確か聴いているはずなのですが、記憶の彼方に行っていますので、まだ聴いていない文珍版ともども、検証ができていません。盛りだくさんの会でした。でも、たっぷり感がある一方、さほど重量感がなかったのは、なぜなんでしょうかね。


2018年 1月 29日(月)午後 11時 45分

 今日も、千日亭で講談を聴く日。今夜は、恒例の「第246回旭堂南海の何回続く会?~年始特別読切~」がありました。今夜読まれたのは「赤穂義士銘々伝~寺坂吉右衛門~」。寺坂吉右衛門は、赤穂義士の中でも有名人の1人。彼を有名にさせているのは、赤穂義士の中で、足軽身分で討ち入りに加わったという点。そのため、大石内蔵助から切腹させるのは忍びないということで、討ち入り後、泉岳寺には同道せず、替わりに、陽成院への報告役という大役を仰せつかり、赤穂義士切腹後は、菩提を弔うのに生涯を捧げるという物語。そういった義理堅く、忠義な下男というイメージが出来上がっている寺坂の人柄を支えるものを問うかのような物語が、今日、南海さんが読まれたもの。出自からして不明、しかも、捨て子として、吉田家に拾われるという人物、従って、主人に、よく仕え、献身的に働く男として描かれていきます。ただ、家内のご法度であった、吉田家の侍女との恋愛沙汰が発覚。吉田家を、女ともども追われてしまうのですが、これは、世間体を思っての追放。吉田忠左衛門夫妻は、2人に、こっそりと金を仕込んで送り出します。その金を持ち江戸に出た吉右衛門夫妻は、八百屋を始めるのですが、生憎の火事で、多くの財産を失っていきます。ぼてふりの野菜売りに転じ、今日しも売り歩いている最中に、忠左衛門の妻に出会ったことから、吉田夫妻の窮状を知り、それに一肌脱ぐ吉右衛門。娘を吉原に売り、金を工面するのですが、間に入った女衒が、不当な金を取ろうとするので、かなり時間が経っており、ぼちぼち大団円の矛先が見えてもいいはずなのに、これでは逆行と思っていると、ここで渡った小判に問題があり、それを糸口に、吉田忠左衛門の仕官(ここで浅野に仕えることになる)、それに伴い、寺坂吉右衛門も吉田家に復帰、娘は元に戻りと、一挙に解決しました。胸を撫で下ろすことができました。今日の物語でも、貫かれているのは、寺坂吉右衛門の正直さ、律儀さ、主人への忠義、ですが、そんな寺坂であっても、恋心に勝てず、主家をしくじるというのが、実に愛嬌のある設定。一方、かなり頑固な吉田忠左衛門ですが、その緩和剤になってるのが、妻のおかじと、人物配置が巧みで、最後は討ち入りに、主従ともども加わるというキャラを、きっちりと見通していると、よくできた読み物です。南海さんは、3月まで、つなぎとして「赤穂義士銘々伝」を読んでいくつもりだと言われておりました。要するに、4月から、新たに続き読みをするぞということです。でも、つなぎがつなぎじゃない本格的な読み物として出てくるのが、いかにも南海さんらしいところです。


2018年 1月 28日(日)午後 8時 34分

 今日は講談を聴く日。千日亭であった「南華の会」に行ってまいりました。1月の末が、南華さんのお誕生日。それに合わせて、ほぼ毎年開かれている会。今年は、東京から神田陽子師を迎えての開催となりました。その番組は、次のようなものでした。染八「刻うどん」、南華「木津の勘助」、陽子「爆裂お玉」、(中入り)、勢朝「永田町商店街ナツメロ歌合戦」、南華「中山安兵衛、高田馬場」。超満員の客席。完全にと言っていいくらいのパンク状態。そこへ、空調が不安定。染八の口演時にはクーラーになっているわ、それを暖房に直しても、寒い状態からは脱出できませんでした。混雑、寒い、今の黄紺が、一番嫌がるなかでの公演となりました。混雑で、客席が落ち着かないときは、開演時間を守った方が、さっさと落ち着くはずなのに始まらないので、ちょっとイラついていると、もっとイラついていたのは、主宰者の南華さん。というのは、東京からのゲスト神田陽子師が到着してなかったため。そこで、開口0番として、南華さんが高座へ。これで、事態が判明したのですが、そのお喋りの途中に、陽子師到着。客席から見えますので、暖かな拍手が上がりました。前座は染八の落語。染八との繋がりは判らないのですが、こうした混雑したときは、よく動く染八を前座に喚んでおいて大正解。冒頭で、マクラの鉄板化している学校公演ネタで、掴みはOK。しかし、そういった噺をさせても、板に付いてきましたね、染八は。こうした講談会では、「刻うどん」は納得のネタ選び。仕込みもバラシも、うどんを食べるシーンは、誰よりも短めじゃないかな。ちょっと一番おいしいところに向かい急いでいる感じ。うどん屋をだましたことが解らない喜六が、「17文持ってたんか」と問うくすぐりは傑作。南華さんの1つ目は、東西交流事業の一環で、南華さんが陽子師からもらったもの。「木津の勘助」は、旭堂でもよく出ますが、南華さんがもらったのは、先代の山陽師が、女性の弟子用に書き換えたもの。淀屋の娘おなおに焦点を当てたものに書き換えたとの説明が、冒頭、南華さんからお話がありましたが、黄紺的には、旭堂の流れと、さほど変わったとは思えませんでした。また、神田版では、勘助は武士の血をひくとして、喋りっぷりも、それを意識したものになっていたのが、大きな違い。旭堂の勘助は、いかにも百姓というキャラのため、淀屋の娘と結婚となると、あまりにもウソ臭いということからでしょうが、そこに配慮してしまうと、おなおが惚れる意外性が減じてしまうという、ちょっと悩ましいことが起きてしまってました。これって、難しいところですね。陽子師は、ゲストとしてエールを送るということで、南華さんとの繋がり、思い出を、まずマクラで聴かせて下さいました。で、ネタは盗人の話。お茶屋で酒を呑み横になっていると、店の女が起こすつもりで入ってきて、寝ている客を見て、懐中時計を盗んだのをきっかけに、その部屋に盗人が集まって来るというもの。女も、客も、それを立ち聞きした男も盗人、、、その連中が大仕事をするネタの序となる部分と看たのですが、いかがでしょうか。そして、南華さんの2席目は、定番ネタ「中山安兵衛」。序盤で、酒呑み安兵衛を描きます。これが特徴かな。ここで時間を消費するためか、仇討ちの場面はざっくり系。仇討ちが終わっても、安兵衛のその後が入り、しごきを借りた堀部の娘との結婚話まで、ちゃっかりと入っています。しごきを渡すときには、堀部弥兵衛は出てこないという型でした。こうして振り返ってみると、南華さんの「高田馬場」って、かなり総花的な印象ですね。時間を延ばさず、高田馬場関連を、全部入れちゃえって感じだとまとめることができます。それの可否は、好き嫌い、いや、そのときの気分かもしれませんね。叔父が殺される場面も入れて欲しいと思うなら、例えば南湖さんの口演を聴けばいいのだし、全体像をおさらいしたいときには、南華さんの口演を聴けばいいのですから。こういった違いが、講釈師さんにより違いってくるから、同じネタでも、楽しめるのです。この講談会に詰めかけた人って、ディープな講談ファン、南華さんのお友だち、陽子師の贔屓の方たち、で、あとは、いったいどういった人たちなんでしょうね、久しぶりにお顔を見たディープな演芸ファンのように、久しぶりって方もおられたでしょうが、それにしても、普段の講談会では、考えられない集客力にびっくりでした。この1割でもが、毎回、天満橋である南華さんの定例会に来られたら、盛会になるでしょうし、講談界自体が盛り上がると思うのですが、、、。


2018年 1月 27日(土)午後 11時 8分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「ピエルネ&プーランク」と題して、(フルート)伊藤公一&(ピアノ)水野久美のコンサートがありました。そのプログラムは、次のようなものでした。「F.プーランク: フルートソナタ」「A.カプレ:2つの小品」「G.ピエルネ: フルートソナタ」。プーランクはともかくも、今日のメーンをはるピエルネなんて、聴いたこともない、いや、どこかのプログラムの端っこに見たようなという程度の作曲家だったのですが、オーナー氏のお話によると、ドビュッシーと同期で、パリのコンセールヴァトゥアールでは、ドビュッシーを差し置いて、首席の座にあったとか。カフェモンタージュに通うようになり、19世紀後半以後のフランス音楽に、どんどんと引きずり込まれて行っていますが、これも、その一環。歴史的に見て、この時期のフランス音楽の重要性を認識しつつも、実際に耳にする機会を作り出そうとしていないのが現実。カフェモンタージュのおかげで、ルクーや、先日のショーソンなど、今まで、あまり聴いてこなかった作曲家の隠れた名曲に遭遇し、自分の視野が拡がったような気がしていることは事実ですが、今日のプーランクの方は、聴いていることもあり、冒頭で、あっさりと耳に馴染んだのですが、ピエルネは、そうはいかなかったなぁ。確かに、この時期のフレンチ・テイストの曲なんだけど、守備範囲には、ちょっとかからなかったですね。伊藤公一さんは、長年、京都市響の首席を務めてこられた方。毎年、この時期に、カフェモンタージュへの招請が実現し、今回で4回目のコンサートになるそうですが、幸い、黄紺は、今日が3回目となります。伊藤公一というお名前は、京都市響に馴染んできた者にとっては惹かれるものがあり、足が向いてしまうのですが、ちょっと年齢のせいなんでしょうね、強めの息を吐き続けねばならない高音の持続性にムラが出てきてるなというところでした。年々歳々、こればかりは致し方ないところ。聴かせてもらっている自分自身の耳が、第一、年々歳々、いいかげんになっていってるわけですから、あくまでも、その時おりの自分の感じ方をメモったものとして、あとになって読むことにしなければなりません。自戒しつつね。


2018年 1月 26日(金)午後 8時 48分

 今日も、動楽亭で落語を聴く日。「新春特別興行 動楽亭でお昼公演 高津落語研究会」の4日目に行ってまいりました。この会は、月末まで8日間続きますが、黄紺的には、今日が最終日になります。その番組は、次のようなものでした。雀五郎「刻うどん」、南天「夢八」、ひろば「まめだ」、たま「源平盛衰記」、出演者全員「大喜利」。たまだったかな、マクラで言ってたのですが、毎日、客層が変わっています。今日は、この会の常連さんの一部が帰って来たという雰囲気。初日ほど、強烈ではないのですが、いつもの高津落語研究会の雰囲気に近いものを感じました。雀五郎は、今回のシリーズでは、意外性のないと言えば聞こえはいいのですが、4人の中では、最も平凡なネタ選びをしています。ネタ数が多いのですから、出し惜しみをしないで欲しいと、こうなったら思ってしまっています。南天は、マクラからテンション高め。パーソナル・スペースについて、とってもおもしろい話をしてくれました。何か、それと関係のあるネタでもあるのかなと思っていたら、ありませんでした。でも、「夢八」とは、サービス満点です。八兵衛の見る白昼夢に南天スペシャルがあったはずと、、、もう失念してしまってるのですね。確かに、ありました。山羊が直進して来るエピソードでした。これは、笑います。そんな記憶力ですから、確かなことは言えないのですが、首吊りを手拭いを使わないで表現していましたが、そうだったかなと思ってしまったのですか。まさか、高座に上がるとき、手拭いを忘れたということはないと思いますが。それと、八兵衛は、甚兵衛さんが話していても、途中から夢に入るなんてのを入れていた気がするのですが、、、。ひろばは、思いがけないネタ。ひろばが、「まめだ」を持っていることを知りませんでしたし、秋の噺でもあるということで、ちょっとびっくり。ただ、南天とたまの賑やかな落語の間で、「まめだ」はいい緩衝剤になり、このネタの並びは、ホント、グッジョブですね。1つだけ、気になったのは、最後、お寺の境内に、母親も出てくる口演って、初めてじゃないかな。そして、その方がいいですよね。そのシテュエーションの方がしっくりきます。たまも、南天同様、マクラから全開。公益社団法人の法的な規定などという、いかにもたまらしいマクラ。ネタは、当初、「軽業講釈」をするつもりで、鳴り物の稽古を、あとの3人&三味線方(長嶺さん)と、時間をかけて打ち合わせをしたのだが、止めることにしたと言ったら、皆に怒られた、そないな話をしてから「源平盛衰記」を始めたのですが、冒頭に書いたように、たま的に、今日の客層を見ての変更ということだったみたいですが、黄紺的には、その変更の心を掴みかねています。「源平盛衰記」は、京都の独演会で遭遇済み。あのときは、笑い過ぎて、後半のくすぐりには、疲れからか、呆れてしまってからか、笑いのパワーが落ちていましたが、今日は、そないなことはありませんでした。やはり、高津落語研究会の常連さんが、客席に、一定数含まれていたことの、何よりもない証左でしょう。そういった意味で、たまのネタの変更は、功を奏したということになるのでしやうか。最後の「大喜利」、今日のナゾかけのお題は、「しゃがれ声」「寒中見舞い」でした。


2018年 1月 25日(木)午後 8時 28分

 今日も、動楽亭で落語を聴く日。引き続き「新春特別興行 動楽亭でお昼公演 高津落語研究会」に行ってまいりました。今日は3日目となりました。その番組は、次のようなものでした。南天「鉄砲勇助」、ひろば「厩火事」、たま「鰍沢」、雀五郎「鴻池の犬」、出演者全員「大喜利」。今日は、予約ではつばなれをしてなかったため、かなり心配を、出演者の皆さんはされていましたが、実際には、30人弱が入ったのじゃなかったのかな。人数は減っても、反応のいい客席、パワーのある口演で、昨日よりは、かなり活気のある会となったことは、間違いなかったと思います。数は少なかったのですが、どこか高津のお客さんという雰囲気を感じました。南天の「鉄砲勇助」は、ネタ下ろしをして、まだ1年経ってないはずです。太融寺でのネタ下ろしのときは、おもしろいのだけど、どこか疲れる笑いというところがあったのですが、今日は、その疲れるというのが、きれいに消えていました。ダジャレが多い上に、南天オリジナルで持ち込んだくすぐりの連発が、無理なく、自然に浴びることができたからだと思います。木曽山中の話で、猪ではなく、熊を使うくすぐりが、正に、そうでした。ただ、今日は、トップの位置ですから、木曾山中も全部終わらない内に切り上げました。ひろばは、マクラで、しっかりものの奥さんの話。で、何をするのか、「替り目」かなと思っていたら「厩火事」。ひろばの「厩火事」は、初遭遇のはずです。女が口にする愚痴なのか、ノロケなのか、わからない物言いに、何か女を感じさせるものが欲しかったな。たまは、今日も長いマクラ。今日の標的は文福。話題には事欠かない噺家さんですから、何を聴いても楽しいのですが、今日の話はインパクトが最強でした。おまりにも長いマクラで、話せば話すほど、たまのテンションが上がっていくので、いったい、ネタは何を出すのか、昨日のような短めのネタなのかと思っていたら、なんとなんと「鰍沢」。このネタも、まだ1年経ってないはずですね、ネタ下ろしをしてから。黄紺は、まだ聴いてなかったもので、このタイミングで出たもので、ホント、びっくりしました。東京ネタですが、文太以外は、上方では持ちネタにしてなかっただけに貴重です。行きくれる男が紀州出身だったり、四阿に住む女が新町の出だったりと、身延山界隈に出没するには違和感がありますが、下げに宗教的用語が絡んでくるため、上方からは離れてしまいますが、こればかりは致し方ありません。筋立てには支障にないのが幸いです。たまの口演にかかると、この噺が大スペクタクルものになります。噺にかけるエネルギーが半端ではありません。ですから、雪の積もる山中での逃避行の雰囲気は、あまりないのですが、講談の修羅場同様、いやが上にも緊迫感が高まるものとなっています。更に、その途中で、「ここで止めたら怒りますよね」なんてことを言うものですから、客席はヒーヒー言わせられました。あまりにもテンションの上がったたまの煽りを受けるのが雀五郎。たまと文福をいじる物言いをして、高座に上がるなり笑いを取りましたが、そんなで収まる空気ではありませんでした。せっかくの「鴻池の犬」も影か薄くなっちゃいました。ブランデーグラスを持つクロに気づくのに、ちょっと間が空いたくらいですから、たまの高座の強烈さが判ろうというものでした。「大喜利」のナゾかけのお題、1つは、今日も雪絡みとなりました。3日連続で行っている者には、ちょっとうんざり。「雪景色」「ココア」でした。


2018年 1月 24日(水)午後 9時 19分

 今日も、動楽亭で落語を聴く日。昨日に続き、「新春特別興行 動楽亭でお昼公演 高津落語研究会」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。ひろば「みかん屋」、たま「坊ちゃんの結婚」、雀五郎「ちしゃ医者」、南天「不動坊」、出演者全員「大喜利」。今日は、昨日の約半分の入り。昨日来ていたディープな落語ファンは、ほぼ姿を消していました。ですから、通常の動楽亭の昼席っていう感じと言えばいいかな。ですから、客席の反応も、昨日のような敏感な反応ではないというのが、何となく居心地の悪さを感じさせていました。ひろばは、マクラでアルバイト経験の話をしたものですから、何をするのかと思っていたら、なんてことはない「みかん屋」でした。紙をもらいに行くところをカットしての口演。「らくだ」よりは、だいぶとリラックスした口演でした。たまは、長々と由瓶の不思議な考え方を喋り、最後の方で、「ネタが7分なもので」と、そのわけを言い添えました。昨日、このマクラを喋ってたら、大受けだったのでしょうが、今日は、ちょっと難しかったですね。「坊ちゃんの結婚」は初遭遇です。何度もネタ出しをしているのを見てはいるのですが、遭遇は初めてでした。やくざの息子が恋をして、結婚をするというもの。その中に、やくざ絡みの言葉を、くすぐりに使うというもの。筋道のある噺にはなってなくて、恋と結婚という2つのシーンに使えるギャグ連発落語と言えばいいでしょうか。雀五郎は、冒頭、入りが気になるようで、客席にリサーチをかけていました。昨日から連続で来ているのは、僅か6人だけと、8月のプレミアム公演と、かなり様相を異にしていることが判りました。そして、ネタは、師匠雀三郎テイストの強い「ちしゃ医者」でした。南天は、自身のツイッターで「不動坊」と呟いていましたので、行く前から、とっても楽しみにしていました。早くから手がけていたネタですから、以前には聴いているはずですが、最近は聴いた記憶がなかったからです。実際聴いてみると、正に楽しみにしたカイというものがありました。やはり、南天のテキストの読みの深さは素晴らしく、そして、自身で思い描いたイメージを、その思い通りに表現できる腕前に感服です。なかでも素晴らしかったのは、結婚が決まり、風呂屋に出かける辺りからの利吉の様子。「あの人だったら喜んで」という利吉の舞い上がった様子が見事。「鉄瓶を持って風呂屋に行く」「家の閂を内らから閉める」、これは、誰の口演にも出てくる定番の利吉の気持ちを表すテキストですが、これに、魂の入った動き、表情、台詞廻しができた人って、南天の口演を聴くと、いたと言えるだろうかとさえ思いました。となると、風呂屋のシーンは、もう南天の独壇場でした。これは、凄いものを聴いてしまったという余韻の残る口演。いいもの聴かせてもらいました。「大喜利」のナゾかけのお題、今日は「冬季五輪」「ヘリコプター」でした。


2018年 1月 23日(火)午後 7時 59分

 今日は、動楽亭で昼間に落語を聴く日。ここしばらく、動楽亭では「新春特別興行 動楽亭でお昼公演 高津落語研究会」がありますので、通ってみたいと考えています。今日の番組は、次のようなものでした。たま「池田の豬飼い」、雀五郎「手水廻し」、南天「火焔太鼓」、ひろば「らくだ」、出演者全員「大喜利」。今日は、かなり気温が下がり、動楽亭に入り、開演を待っていると、ほっこりとして、いい気持ち。おかげで、居眠りの連発。雀五郎の口演の後半から、かなり居眠りを連発してしまったもので、たまの口演以外は、記憶にあるところだけを、メモる程度にしておくことにします。たまの「豬飼い」は、確か2度目ですが、そないに強烈な印象が残っていなかったのですが、それから進化したのでしょうか、刈り込みが的を得ていて、スリム化したいい感じのものになっていました。たまの、そういった作業の中で、ベスト・セレクションに入ると思いました。池田への道順のスリム化に、まず目が行きます。割愛するだけではなく、紅屋が実家だったなどというナンセンスなくすぐりがヒットします。雪道にさしかかったとき出逢うのは、お百姓ではなく六太夫さんその人であったりと、割愛だけではなく、意外性まで持ち込む巧妙さ。六太夫さんの家に行ってからは、ほぼ割愛なしで進むのですが、返事のくすぐりが切られてないのが、たまのセンスが出ていて嬉しいところでした。雀五郎は慣れたネタを選んだわけですが、マクラが傑作。ひろばが、さるアイドルに、そのインタビューで誉められた言葉そのものを、スマホとメガネを出して読み上げました。お酒の噺を誉められたひろばは、「らくだ」を出す予定だったもので、雀五郎は、ハードルを上げて上げてなどということをやらかしたわけです。それに、第一、ネット上の話題を知らない客もいるでしょうからね。雀五郎の口演の後半で居眠っていながら、こないなことは、しっかりと覚えております。南天の「火焔太鼓」って、何度も聴いていますが、火焔太鼓を買い上げるのは、侍ではなく、住友さんでしたっけ? 侍の方が、女房の脅しが真に迫ってきますが、商家が買い上げると、そうはいかないのじゃないかと思っていたら、居眠り。ですから、その検証ができなかったのです。情けない、勿体ない。序盤の養子の悲哀を語る箇所は、もう南天スペシャルですね。「替り目」のシテュエーションを使ったり、抜け目のなさも天下一品です。ひろばの「らくだ」は待望の遭遇でした。以前に高津落語研究会や提法寺寄席で出したときに聴けてなかったものですから、昨日、南天のツイッターで告知があったときは、とっても喜んだのですが、剃刀を借りる前辺りまで、ほぼ記憶が飛んでしまってます。幸い、千日前の火屋までやってくれたので、完落ちではなかったのが、せめてもの救いです。なお、「大喜利」のナゾかけのお題は「仮想通貨」「大雪」でした。たまに言わせると、8日間を通じて、持ち出しになるのではと考ええていた予約数だったそうですが、60人くらいは入ったでしょうか、客層は、高津落語研究会と重なるのかな、それとも、動楽亭昼席の客層と重なるのか、見渡したところでは、まだ、よく判りませんでしたが、今日を見る限りでは、この試みは大成功ですね。


2018年 1月 22日(月)午後 11時 21分

 今日は、フェニックスホールで音楽を聴く日。今夜は、こちらで「関西弦楽四重奏団 ベートーヴェン弦楽四重奏曲 全曲ツィクルス 第2回」がありました。そのプログラムは、次のようなものでした。「弦楽四重奏曲 第4番 ハ短調 op.18-4」「弦楽四重奏曲 第8番 ホ短調 "ラズモフスキー第2番"op.59-2」「弦楽四重奏曲 第15番 イ短調 op.132」。前回よりも、客席は、かなり埋まるどころか、舞台両サイドにも客席が設けられるという例のない入り。ツィクルスにしては、山を第2回目に持ってきたというプログラムだったからでしょうか、それとも、前回の評判を耳にされた方たち詰めかけたのでしょうか。大阪・京都関係の演奏家(林 七奈、田村安祐美、小峰航一、上森祥平)で作った弦楽四重奏団とは思えぬ入りに、びっくりさせられました。第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが、曲目により入れ替わるという特徴を持つ弦楽四重奏団ですが、今日は、4番だけを田村さん、残りの2曲を林さんが受け持たれました。カフェモンタージュのツィクルスでは、15番は田村さんだったような記憶があるのですが、あまり自信がないので、誰かに確かめねばなりません。黄紺的本日の秀逸は15番。それまでは、コンパクトに上手にまとめた感が強く、もちろん、それだけでも大変なことなんでしょうが、こと15番になると、音楽が動いている、演奏家の手を離れて、生もののようにうごめいている感、なんか内で外からコントロールが効かない何かが動いている感がしちゃいました。1~2楽章で、そういった感じを持ってしまったため、それこそ、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の白眉とも言える15番の3~4楽章のお膳立てができました。とろけるような3楽章、躍動感溢れる4楽章と、ホント、堪能させていただきました。もう1つ、強く印象に残ったことがあります。それは、4番の1楽章で聴かせてもらった低音部の細かい刻みの和音付け、これが、音楽全体に弾力感を与えていたのに、小峰、上森のお二人の実力を、新たに見つけたという意味で、印象に強く残りました。会場では、次なる2回分と、天満教会でのコンサートのチケットが発売されていましたが、前回同様、長蛇の列。黄紺は、天満教会のハイドンは、日本にいないため、諦めざるを得なかったのですが、幸いなことに、ベートーヴェンのツィクルスは、引き続き行くことができます。運良く、チケットを買うことができる幸せにもあずかることができました。


2018年 1月 21日(日)午後 9時 00分

 今日は浪曲を聴く日。百年長屋であった「真山隼人の浪曲の小部屋~文芸浪曲に挑戦!~その11」に行ってまいりました。隼人くんと沢村さくらさんがタッグを組んで、ネタの発掘に挑まれている会です。その番組は、次のようなものでした。「藤十郎の恋」「楽屋噺」「高田馬場」。今日の2つのネタは、いずれも春野百合子師が得意にしていたもの。現在の春野一門の方々が受け継がれているネタでもあります。隼人くんは、もちろん、春野一門ではありませんから、出所も違えば、独自の改変を加えられたものを披露されました。「藤十郎の恋」は、百合子師と同じ出所、京山華千代師だそうですが、元は同じでも、「自分なりの工夫を加えた」と前置きをしてから始めたのですが、違いが判りませんでした。1つには、春野一門の方が口演されるものが、しっかりと頭に入ってないものですから、「違い」までは気づけないままでした。原作は菊池寛、所謂、芸術至上主義と、一言でまとめられるもので、沢村藤十郎は、近松の書き下ろした「おさん茂兵衛」の上演に当たり、意図的に、人妻と恋に陥る経験を積もうとするというもの。「地獄変」は、娘を焼き殺しますが、この物語は、人の心を裂き殺すというものです。「楽屋噺」は、隼人くんが、NHKの主催する「東西浪曲名人会」に出場することが決まる1本の電話から始まり、本番までの顛末を、節に乗せて報告するというもの。新作を披露したときも感じたことですが、ホント、人を楽しませるツボを心得、それを節に乗せるまでやっちゃう、やはり只者ではありません。「高田馬場」は、五月一秀さんからもらったものだそうで、一秀さんの師五月一朗師の持ちネタだそうです。一秀さんが、このネタを出されたのを聴いたことがないものですから、ひょっとして、盟友一秀さんから許可をもらったという意味で言われたのかもしれません。こちらは、春野一門のネタとの違いは、黄紺にも、しっかりと判りました。春野一門では、高田馬場の惨劇、仇討ち場面にシフトしたものになっていますが、今日聴いたものは、仇討ちに出かけるまでの安兵衛の人柄が、しっかりと描かれていました。堀部の娘(後に安兵衛の妻となる)からしごきをもらうエピソードは、いずれにも入りますが、今日の口演では、堀部弥兵衛まで出てきて、妻子と3人連れで、高田馬場にいるというもの。通常、弥兵衛は、正義感の塊のように描かれますから、卑怯な果たし合いを見ているだけなんてことができるキャラではないはずなのですがね。ですから、これは、春野一門の脚色に軍配ですね、さすがに。次回は、初めて「相撲ネタ」に取り組むとか。残念ながら、黄紺は、春のオペラ紀行にお出かけ中です。


2018年 1月 20日(土)午後 10時 53分

 今日は、千日亭で落語を聴く日。久しぶりに、落語会に行く日となりました。今夜は、こちらで「染左百席 千日快方~100席達成記念!たっぷり三席の会」がありました。その番組は、次のようなものでした。染左「猿後家」、喬介「火焔太鼓」、染左「淀五郎」、(中入り)、染左「天下一浮礼屑選」。「淀五郎」が100席目ということで、ネタも大きいものが並び、客の入りも過去最高とか。ただ、今日の黄紺は、情けないことに、その「淀五郎」で居眠りと、ありえないことをやらかしてしまいました。その前の喬介の高座までは、気配もなかったのですが、どうも、狙いの口演や、記念の高座で、いつもながら居眠りが発生してしまいます。「猿後家」は、染左が、何でもできるオールマイティな噺家さんになったことを示す優れものの口演。べんちゃらをする男の喋りに、タイミングよくアクセントを付けたり、軽くデフォルメを入れたり、丹精なお喋りの中にも、そうじゃないものを入れる、いわゆる緊張の緩和が生まれてるということだと思います。「猿後家」は、染左ベスト候補に入るのじゃないかな。「紙屑屋」は、正に記念の会に相応しい賑やかなネタですし、染左の持ちネタであることも知ってはいたのですが、千日亭ではやらないと、黄紺は、勝手に決めつけていました。喬介も、「ここで紙屑屋するんですって」と、高座に上がるなり口にしたネタ。千日亭の高座が狭すぎて、無理だろうと思っていたのですが、その記念の会に、染左は出しました。「義経千本桜」のパロディで見せる一回転も、「娘道成寺」のパロディで、鞠を中腰でついて回るのも、狭い舞台でやってのけました。もちろん、舞台の広さに合わせての動きだったもので、勿体なくて、、、。4月に、広いトリイホールを使い、打ち上げ公演をするそうですから、そこまで残しておいて欲しかったな。恋文、「吉兆まわし」と併せて、フルヴァージョンの口演、お見事でした。ゲスト枠は、鳴り物のことも考えての喬介なのでしょう。この会2度目になるそうですが、前回のことを、染左が紹介してくれたので、その会に行ってたことを思い出しました。風邪でぐずぐずだったのです、そのときは、喬介が。今日は、黄紺が、まだ聴いていない「火焔太鼓」を出しそうと、期待半分で予想をしていたら、ドンピシャ。ただ、このネタは、テンションが右肩上がりで、下ることのないネタなもので、その上げ方に、喬介は苦労するだろうな、早く上げすぎなければいいがという懸念も、残念ながら当たってしまいました。もっと、クレッシェンドの上げ幅を考えねばと、突っ込みながら聴くハメに。喬介のことですから、試行期間で、今日は、このテンションでやってみようで臨んだ可能性は、大いに考えられるところで、他の機会に、喬介の口演を聴けば、全く違う味付けの「火焔太鼓」を聴く可能性はあるでしょうね。100席を越えても、3月までは、この会は続けて、4月に打ち上げの会をして、大団円ということにするそうです。


2018年 1月 20日(土)午前 0時 9分

 今日は、シンフォニーホールで音楽を聴く日。今夜は、日本センチュリー交響楽団(指揮:飯森範親)の定期演奏会に行ってまいりました。1ヶ月の間に、オケの定期演奏会に3回も行くのは、初めてのことだと思います。今日は、ブルックナーのシンフォニーが出るということでのお出かけでした。そのプログラムは、次のようなものでした。「プロコフィエフ:ピアノ協奏曲 第1番 変二長調 作品10(ピアノ:アレクサンダー・ガヴリリュク)」「ブルックナー:交響曲 第4番 変ホ長調 "ロマンティック" WAB104 (1878/1880年版)」。あとのブルックナーが長いからか、せっかくのソリストを迎えながら、プロコフィエフのコンチェルトは15分ばかりの曲。でも、ソリストは、それ以上の時間をかけたくらいのエネルギーを消費したかもしれません。かなりの超絶技巧を求められるもの。また、そういった技巧を売りにしているらしいのが、本日のソリスト。技巧だけではなく、なかなか小綺麗な音を紡ぎ出しています。スピードに乗り、聴かせる音を出すのも、超絶技巧の内なのかもしれませんが、なかなか楽しませてくれました。最近は、コンチェルトのソリストが、オケを座らせたまま、アンコールをするのが定番(ドイツでも定番でした)になっていますが、今日も「ラフマニノフ:ヴォカリース op.34-4(ゾルタン・コチシュ編)」が、アンコール曲として演奏されました。次いでブルックナー。プロコフィエフのときからそうでしたが、オケの楽器の配置が目を引き付けました。もちろん、ブルックナー・シフトだと思えます。弦楽器は、左回りに記すと、第1ヴァイオリン(10人)、チェロ(6人)、ヴィオラ、第2ヴァイオリンというもの。チェロを左サイドに持ってきたのは、極めて珍しい。コントラバスは、正面一番後ろで4人。その間に、通常の木管と金管が並ぶというもの。金管の並びは、左から、ホルン(4人)、トランペット(3人)、トロンボーン(3人)、チューバ(1人)。ティンパニーは左奥斜めに配置というところで、結局、右サイドには、配置される楽器なしというものでした。金管楽器の数から判るように、ブルックナーの4番をするには、全体として、各楽器の数が少ないのです。確か、センチュリーが、以前、小泉和裕時代に、ブルックナーの7番を出したときも、こういったブルックナーにしては、規模の小さい編成での演奏だったと記憶しています。センチュリーは、元来、二菅編成でスタートしたオケですから、昔は、ブルックナーなどは出なかったのですが、今の時代、そういうわけにはいかなくなったということでしょうか、でも、助っ人の経費の問題とかで、規模を拡大できない中でのブルックナー演奏となったときの、考え抜かれた楽器配置だったのかなと思っています。コントラバス以外の弦楽器には、フル稼働をしてもらい、弦楽器の中でも大きめの音の出るコントラバスは、背後に控えさせておこうとか、様々な配慮が働いたものと推察します。そういったこともあったのか、ホント、今日の弦楽器群は、頑張ったと思います。フェスティバルホールじゃ、この編成ではきついでしょうね。やはり、シンフォニーホールを味方につけたブルックナーだったと思います。昨日のマーラー演奏に対する不満が、まだ残っている黄紺にとっては、今日のブルックナーは、なんとよくできた演奏なのでしょう。最後の4楽章に不満は残ったのは残ったのですが、昨日のマーラーと違い、総体としてまとまっているのです。何かに憑かれたように、急に音楽の作り方に変化が起こり、頑張り出すみたいなところがないだけに、安心して聴いてられる。音と音が有機的に繋がっていると聴き取れるので、総体としてまとまっているということなのです。2楽章の弦の合奏部分での音色に、何か彩りが着けばとか思うことはあっても、そこに被さってくるホルンのオブリガードや、木管とのバランスが、極めてナチュラル。その安定感に、強く惹かれました。そういった中で、4楽章というのが、ブルックナーのシンフォニーで、よく出てくるブルックナー休止と言われる長い休止が多く出てくるところ。休止の前と後とで、異なった音楽が始まるのを許容するためにあるかのような長い休止。今日の演奏は、その長い休止の重みを知るがために、休止への意識が働いているのは、よく判るのだけれど、その前後に繋がる音楽に不満が、残りました。いくらきっちりと休止をとっても、音楽の作りには、さほど変化を認められなかったのは、黄紺だけでしょうか。上質の音楽を提供してもらったのですが、会場は寂しい限り。2日公演というのは、吉とは出ていません。運営に支障をきたさないだろうかなんて、余計なことを考えてしまってました。


2018年 1月 18日(木)午後 11時 31分

 今日は、フェスティバルホールで音楽を聴く日。大阪フィルハーモニーの定期演奏会(指揮:角田鋼亮)に行ってまいりました。コルンゴールドとマーラーという黄紺好みのプログラムに惹かれて行ってきました。そのプログラムは、次のようなものでした。「コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35(ヴァイオリン:竹澤恭子)」「マーラー:交響曲第1番 ニ長調 "巨人"」。コルンゴールドのヴァイオリン協奏曲が、定期演奏会でよく出ます。今年は、在阪4オケの内3つのオケが、定期演奏会で取り上げます。取り上げない大阪交響楽団は、コルンゴールドの他の協奏曲を取り上げますから、驚きとしか言いようがありません。でも、そないなコルンゴールドの曲を追いかけたくなる気持ちがあるものですから、密かに歓迎しているばかりか、関西フィルで出るときのチケットは、早々とゲットしている黄紺なのです。竹澤恭子って、以前に聴いているはずなのですが、いつ、どこで、誰のコンチェルトを聴いたか、覚えていません。聴いていて、何か、大フィルの作る音楽よりは、大きくて、余裕があるというか、ノビノビしているというか、いい感じだったのです。願わくば。冒頭のヴァイオリン独奏のところには、今一つの音の切れが欲しかったとは思いますが、ちょっと贅沢かもしれません。一方の大フィルのコルンゴールドに対するノリが重たくて、、、。それは、指揮の角田に依るところかもしれません。「巨人」でも、派手な音の展開があるところでは、とっても見栄えがするというか、華やかな、しっかりとアクセントが強調され、これでもかと大見得を切るような音楽を作りますが、1楽章の長い序奏部や、華やかなメロディ展開と展開の狭間の繋ぎの箇所に来ると、途端に音の有機性が失われ、なんか時間繋ぎの音楽を聴かせられているみたいで、とっても退屈。そないな退屈が続いている中で、急に頑張りだすものですから、その落差に困ってしまいました。


2018年 1月 18日(木)午前 0時 16分

 今日は講談を聴く日。なみはや講談協会の定席「第3回 光照寺講談会」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。鱗林「細川福の神」、南湖「大高源吾、両国橋の出会い」、南海「祐天吉松」、南鱗「千両の富くじ」。今日は、なじみのネタというか、鉄板ネタが揃った番組となりました。ここまでの3回は、どちらかと言えば、そういった並びの番組になっているような気がしています。「細川福の神」は、鱗林さんでは初めてと思います。正月恒例の松飾りを買った細川越中守は、そのおかげか、肥後藩の藩主になったことから、松飾りを売った男を探し出し、厚遇するというもの。下卑た松飾り売りが、思わぬ大金を手にして、おかしな商売を始めたり、殿さんの前に出て戸惑ったり、滑稽味を楽しむネタになっています。こういったネタに、鱗林さんは、威力を発揮しますね。南湖さんは、やたらと「大高源吾」を出していますから、このネタも、何度目かとなりますが、討ち入りと風流という真逆の組み合わせの妙と言うのでしょうか、それがおもしろくて、話の展開に惹かれてしまいます。大高源吾の俳句の意味が理解できず、門番小屋に、其角が籠るのが可笑しいですね。南海さんは、「続く会」で読まれていた「祐天吉松」の発端部分と言えばいいかな、長い「祐天吉松」の物語の因縁となる部分が読まれました。吉松が、スリを止め、両替商の婿養子に迎えられたところ、この物語の最悪のヒーローになる橘某という、スリ時代の仲間の侍からゆすられ、その侍を殺そうとしたが、腕の違いから果たせず、逆に、昔のことを言いふらされて、妻子のもとに帰れなくなるところまで。正に、物語の根幹を読まれました。こうして、抜き読みとして、まとめられ、読み込んでいかれると、南海さんの口演に、凄味が加わってきました。南鱗さんは、左南陵さんの代演。なかなか、左南陵さんを聴くことができません。「千両の富くじ」は、いい人たちのお話。貧乏侍が、なけなしの金で、店の金をすられた丁稚を助けたり、残りの金で富くじを買ったら、それが当たったにも拘わらず、富くじを買う金で、子どもを食べさせようとしなかったことを、妻から諭され、結果的に賞金を取りに行かなかったことが、それを耳にした瓦版屋の口から世間に広まり、結果的に、加増を受け、生活にゆとりができ、また出世の糸口を掴み、時を経て、大役を受け戻って来た大坂で、かつて助けた丁稚とも再会を果たしていくというもの。「情けは人のためならず」なんて言葉が、最初と最後に出てきました。このネタ、最後に、丁稚と再会するくだりがあるのがいいですね。できすぎた話とは言え、この部分があることで、ほっこりしてしまいます。


2018年 1月 16日(火)午後 5時 56分

 今日は文楽を観る日。新春公演の第1部を観てまいりました。その番組は、次のようなものでした。「花競四季寿-万才・鷺娘-」「平家女護島-鬼界が島の段-」「八代目竹本綱太夫 五十回忌追善・豊竹咲甫太夫改め 六代目竹本織太夫襲名披露口上」「(追善/襲名披露狂言)摂州合邦辻-合邦住家の段-」。午前中に開演する公演に行くのは、この文楽と、あとほとんどないため、眠くて仕方ないまま行くと、案の定、半寝の状態で過ごすことに。以前のように、入れ替え制を採ってくれれば、こないな心配はないのですが、やっぱり不安なまま行き、その通りになっちゃいました。でも、織太夫襲名披露狂言は、覚醒できたので、最悪なことだけは免れました。「花競四季寿」は、正月の祝言もの。歌舞伎舞踊の発想を、文楽にも取り入れたようです。「平家女護島」は、俊寛僧都の物語。芸能としての原点は、能「俊寛」なのでしょうが、文楽になると変化が現れてきています。正式な赦免状には、俊寛の名はないのだけど、裏から手を回して赦免船に乗ることができるようになったというのが、まず異なります。能では、端から俊寛除外だけで進み、その後も変化なしという、いたって シンプルなもの。ところが、文楽では、成経だったかな、島の女と夫婦になっていて、この女を赦免船に乗せられないということで、俊寛が身代わりになり、島に残るとなります。結論は同じで、俊寛だけが取り残されるわけですが、ちょっと迂回して変化に出たのが文楽です。その俊寛を遣われたのが玉男さんで、島の女千鳥を、簑助さんでした。「追善&襲名披露口上」は、舞台に、咲太夫さんと新織太夫さんの2人だけ。襲名する人は喋りませんから、咲太夫さんの一人舞台でした。追善はともかくも、襲名披露は、三役から一人ずつ出られるものと思っていたものですから、ちょっとした驚きでした。「摂州合邦辻」は、文楽らしい濃い~物語です。継母が継子に恋をするという不義ものです。その継母が玉手御前、継子が俊徳丸と、文楽の人気登場人物です。玉手御前が俊徳丸を追いかけるのが凄まじいものがあります。ドン引きになってもおかしくない猛烈さです。近松の時代、大坂の庶民は、どのように観ていたのでしょうね。あまりにも過剰なので、裏がありそうと思わせられます。玉手御前が、己の命をかけた芝居をして、家の名誉を護るという、お約束のバラシが待っていました。命をかけたということは、自らの死と引き替えにということですから、玉手御前の死の場面が用意されています。これが、また、凄まじい。それに、「時(刻)の揃った女の生き血」が難病を救うという「肝つぶし」のプロットが使われますから、凄惨度は、嫌が上にも増していきました。正に、これぞ文楽でした。この凄惨な場面が、襲名披露に用意され、織太夫さんは、見事に完走。間違いなく将来のエース、頼もしい船出になりました。


2018年 1月 15日(月)午後 11時 51分

 今日は、フェニックスホールで音楽を聴く日。昨年に続いて、「辻本玲チェロ・リサイタル」に行ってまいりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「ヤナーチェク:おとぎ話」「ペンデレツキ:独奏チェロのためのディベルティメント」」「カサド:無伴奏チェロ組曲」「ショパン:序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 op.3」「ショパン:チェロソナタ ト短調 op.65」。ピアノ伴奏は須関裕子でした。おもしろいプログラムで、東欧にスペインの作曲家だけで構成。アンコールも、冒頭のヤナーチェックの曲の落ち穂拾い的な「プレスト」と、ショパンの「夜想曲 変ホ長調」と徹底したものでした。今回で、辻本玲のリサイタルは3回目になるのですが、今回が、一番落ち着いた感じというか、安定した音楽だったのじゃないかな。相変わらず、手持ちのストラディバリウスは、よく鳴り、その音を聴いただけでも、彼のリサイタルに来たかいを感じられるのですが、選曲の関係でしょうか、若さというよりか碧さのようなものを感じさせたのは、ショパンのソナタだけでした。ショパンでは、1、2楽章で、やたら煽るような感じで、落ち着きが悪かったのですが、ま、ショパンだから無理はないかと、ちょっと諦め気味。こういった勢いでぶいぶい言わしちゃうようなのが、影を潜めてたのが、全体としては良かったのでしょう。ペンデレツキとカサドは無伴奏だったのですが、その他の曲で、ピアノを担当した須関さんの演奏が、なかなか素敵。特に、ヤナーチェックの冒頭の指先の柔らかさがにじみ出たタッチが魅力的、随分と、今日のコンサートを盛り上げていたと思います。昨年は、同じフェニックスホールに満員の状態だったのですが、今日は、どうしたのでしょう。かなり寂しい入り。開演前に入口に並んだ人の多さに、ちょっとビビったのですが、その人たちが入っちゃうと、あとが続かなかったみたい。有望な若手チェリストでも、世間の認知度では、そんなものかなぁというところです。


2018年 1月 14日(日)午後 11時 29分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「E.ショーソン- 終わりのない歌-」と題して、1曲を除いて、珍しい曲が並ぶプログラムにそそられて行ってみることにしました。演奏者の皆さんは、次の方々でした。(ヴァイオリン独奏)高木和弘、(ピアノ)西村奈菜、(ヴァイオリン)田中佑子&久津那綾香、(ヴィオラ)上田晶子、(チェロ)中島紗理、(ソプラノ)越智香央里。そして、プログラムの方は、次のようなものでした。「ヴァイオリンとピアノのための詩曲(イザイ編) op.25」「ソプラノとピアノ五重奏のための"終わりなき歌" op.37」「ヴァイオリン、ピアノと弦楽四重奏のためのコンセール op.21」。「コンセール」は、「詩曲」の持つ曲想に沿ったというか、「詩曲」の方が、作品番号が大きいので、「詩曲」の方が、「コンセール」の曲想に沿ったという方が適切なのでしょうが、「終わりなき歌」は、それとは違い、シェーンベルクの初期の作品、なかでも「浄夜」を想起させる内容と音楽にびっくり。ショーソンが、見事に時代の寵児だったことを、しっかりと知らされました。なんか、ドイツ的なるものに、ふりかけとしてフランス味のする何かがかかってるのが、フランス人作曲家ショーソンの音楽って感じが、この曲を聴く限りではしました。前説で、オーナー氏も言われてましたが、ショーソンの音楽には、ワーグナーが入っている、ワーグナーの音楽の持つ官能的な要素、しっかりと入ってました。こないだは、幻の「巨人」の第2楽章、今日のショーソン、家では、2本連続「トリスタンとイゾルデ」を観てる。これぞ、鬼の攪乱? 危ないったら、ありゃしません。


2018年 1月 13日(土)午後 6時 53分

 今日は浪曲を聴く日。定番の「第283回一心寺門前浪曲寄席 新春1月公演」(一心寺南会所)に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。天中軒涼月(虹友美)「東男に京女」、真山隼人(沢村さくら)「片割れ月」、京山小圓嬢(沢村さくら)「サイコロ夫婦旅」、松浦四郎若(虹友美)「伊達松前鉄之助」。1月は、毎年、日替わりで番組が組まれています。その中で、今日をチョイスしたには、小圓嬢師が出るから。ここ数ヵ月、この一心寺への出番がなかったものですから、行っておかないとの気持ちになったところ、2月には、3日間出演されるということで、単なる取り越し苦労だったようです。風邪をひかれていたのか、ちょっとハスキーな声でしたが、勢いは、以前と変わらない元気さでした。涼月さんの「東男に京女」は、落語「たらちね」からの翻案もの。「延陽伯」からではなく「たらちね」からと言われていました。ただ、半ばから居眠り。思いっきり寒い外から中に入ると、温もりが眠気を誘ってしまいました。それが、次の隼人くんにまで延びてしまいました。「キリシタン悲話」、いや「キリシタン秘話」かもしれませんが、冒頭で「ひわ」と断ってから、ネタに入ったのだけを覚えています。でも、隼人くんには申し訳ないのですが、小圓嬢師の登場で、一気に覚醒。ネタはおなじみのもの。それだけに、変わらない調子を確認できました。博打打ちと恋女房の物語です。身投げを助けたことから知り合った2人、貫太郎とおなか。なぜ、身投げしたかは触れられません。そんなことはどうでもよく、2人の気っ風のいいやり取りだけで十分です。2人が出会って。さしたる物語がなくて、あるのは、おなかが、貫太郎の腕に刺青を掘るくらいで、おなかは病みつきます。貫太郎は、おなかを安心させるために、博打を打つという破天荒な展開。破天荒でもいいのです。ちょっと突っ張った2人の息の合った会話があれば。そないなネタです。小圓嬢師にしかできないよな、こないなネタはと思うだけで、ひたすら満足感を味わえました。四郎若師の「伊達松前鉄之助」は3度目くらいの遭遇と思います。「伊達騒動の抜き読みになります」と、冒頭で断ってから、ネタに入られたのですが、このネタ、伊達騒動のごたごたは、一切出てきません。お家乗っ取りを企む悪漢どもすら出てくるといったものでもありません。江戸詰めの伊達家の若殿を護ることになる松前鉄之助が、足軽の身分から侍に、若殿の警護&補佐役に取り立てられていく様子を描く、かなり破天荒なサクセスストーリーです。歌舞伎や文楽では「伽羅先代萩」ということになるのでしょうが、今日の口演とような内容って含まれてんのかな。痛快でおもしろいことはおもしろいのですが、、、。帰りは、いつものように、寒いなかウォーキングを兼ねて、淀屋橋まで歩きましたが、到着した頃合いには、すっかり体は暖まっていました。


2018年 1月 13日(土)午前 0時 46分

 今日は音楽を聴く日。シンフォニーホールであった「大阪交響楽団第215回 定期演奏会」に行ってまいりました。そそられる曲、演奏者が出ると、在関西のオケの定期演奏会に出かけて行くことにしている黄紺にとって、今日のコンサートは、正に前者に該当。そのそそられたプログラムというのは、次のようなものでした。「ハンス・ロット :ハムレット序曲」「ハンス・ロット:"管弦楽のための組曲 変ロ長調"からの二章」「ハンス・ロット:"管弦楽のための組曲 ホ長調"からの二章」「マーラー:交響形式による二部の音詩"巨人"(1893年ハンブルク稿:国際マーラー協会新校訂全集版)」。「ウィーン世紀末のルーツ~フックスとブラームスから始まる系譜」シリーズ第4回目というのが、このコンサートの売り。大阪交響楽団は、この手のプログラムで、東京からも聴き手を呼び寄せるなどという噂まで聞いたことのあるもの。黄紺は、そないなマニアではないのですが、マーラーには目がないもので、更に、そこに、同時代のハンス・ロットが付いてくると、外すわけにはいかなくなりました。また、このプログラムの最初の2曲には、「日本初演」というおまけまで付いています。恐らく、マニア系の音楽ファンが、多数詰めかけたでしょう。なお、指揮は、同団の常任指揮者の寺岡清高でした。その寺岡清高が、開演前トークで、珍しい曲目について解説をしてくれました。ハンス・ロットは、交響曲1番が演奏されるようになったのがきっかけで、他の曲も発掘、出版されるようになったとかで、何せ、26歳で、収容施設(精神を病んでたとか)で亡くなっていますから、ほとんど顧みてこられなかったためだということでしょう。今日、演奏された3曲は、黄紺の耳をしても、いかにも習作といった趣の曲で、ただただ珍しいものを聴かせていただいたというところでした。肝心なのはマーラーです。マーラーは、現行の交響曲第1番「巨人」が生まれる前に、交響曲という形式を踏まないで、現行曲の下地として書いたものがあるということで、現行曲を第4稿にするとしたら、第2稿に当たるのが、今日演奏された「ハンブルク稿」だそうです。現行の「巨人」で使われている音楽の基となるものが流れるのですが、現行曲のメロディラインばかりが流れているようですが、違和感のある箇所も出てきます。そういった箇所に、手が加わっていっているのでしょう。決定的に違うもは、現行曲の1楽章と2楽章の間に、もう1つ楽章が入っていました。また、それが耽美的としか表しようのないもの。冒頭に、弦によるピアニッシモのトレモロが入ると、それにかぶせて、何ともやるせなさそうなトランペットのソロが入ります。このメロディがたまらない。トランペットに次いで、クラリネットが、同じメロディを繰り返します。マーラーは、幾つもの耽美的なメロディを残しましたが、これは、正に最上位候補です。それが、無惨に削られ葬り去られるなんてと言いたくなるいい音楽。えらく耽美的なものですから、あとから、これに続く楽章で、多少くさく振られても、全然くさくない。久しぶりに、マーラーを聴いて、目がとろ~ん、胸はドキドキしてしまいました。何か、マーラーを初めて聴いたときと似た気持ちに浸っているようです。そう思って聴いていると、指揮の寺岡清高とオケが、とっても頼もしく思えてしまいました。4月には、このシリーズで、シェーンベルクとコルンゴールドが出るそうで、おかげで、俄然、行く気になってきてしまってます。


2018年 1月 12日(金)午前 4時 29分

 昨日は、ドイツも含めて、この冬一番の寒さ。あまりにも冷たい外気に震え上がりました。そのようななか、昨日のお出かけは、京都シネマで映画を観ること。迷ったあげく、こちらで観たのは、フランスのドキュメンタリー映画「新世紀、パリ・オペラ座」。パリ・オペラ座の内部に、カメラを持ち込み、オペラの製作だけではなく、経営陣の会議や打ち合わせにまで、カメラが向けられた画期的な映画です。オペラの製作では、音楽監督フィリップ・ジョーダンによる歌手に対する個別指導から、ゲネプロ、そして本番と、貴重な映像が逃れました。中には、ヨナス・カウフマンをタイトル・ロールにいただく「ファウスト」なんてのもありました。舞台監督から歌手の付き人のようにしてお世話をする人まで、多岐に渡る裏方さんたちの動きを見ることができるのは、有り難いこと。経営陣を映した映像では、戦略会議から、大統領臨席時の応対、フランス名物ストライキ対策、ドタキャンに対する対応まで、ここまで見せていいのかと、観る方がたじろぐものまでが流れました。また、ちょうど、フランスでテロがあったときに、これらの収録があったようで、その対応も入っていたり、バレエ監督にミルピエがいて、また、その辞任直前から辞任といったときの、ミルピエと総裁の電話でのやり取りなどというお宝的な映像も入っていました。その一方で、黄紺も、詳細は知らなかったオペラ座の持つ側面の紹介にも、かなりのスペースが割かれていました。1つに、次代の歌手の養成、2つ目は、子どもたちへの音楽普及活動です。前者としては、21歳の若いロシア人歌手にスポットを当て、彼の採用からあとの姿を追いかけ、後者は、子どもたちのオケ指導を追いかけていました。前者については、ドイツの歌劇場で歌手のプロフィールを読んでいると、歌劇場の付属養成機関出身などと記されていることがあったり、メトロポリタンのライブビューイングで、その存在を紹介されたことがあったので、あるということは知っていても、その実態を見ることはなかったもので、貴重な映像に遭遇できたと喜んでいます。また、後者についても、ドイツの歌劇場が、子どもたちのプログラムを、たくさん用意していることは、スケジュールを見れば、一目瞭然なので、スタンス的には、何ら驚くことではないのですが、これも、実態を伝える映像に遭遇できたこと、これは有り難いものでした。カット割りが、とっても早く、次に何を映しているのか、常にワンテンポずれながら、映像を追いかけねばならない映画でしたが、それ故、画面に吸い寄せられる効果が生まれる、優れたコンセプトで製作された映画です。オペラ・ファン、バレエ・ファン必見の映画と思います。


2018年 1月 10日(水)午後 10時 46分

 今日も落語を聴く日。今日は、今年になって初めて夜に落語を聴く日となりました。それは、動楽亭での「生喬百席 ~+(プラス)三夜・第百一夜」でした。「生喬百席」が年末で終わり、それには含まれていない持ちネタを「+(プラス)三夜」として披露する会の第1回目が今日だったというわけです。その番組は、次のようなものでした。生喬「墓供養」、由瓶 「搗屋幸兵衛 」、(中入り)、生喬「お目見得」。まず、生喬は、正月報告から。それに加えて、角座の正月公演にテレビ収録が入ったことから、自分の映像を観ること、紅葉寺に眠る落語家たちなど、話は多岐に渡るのが、この会の冒頭のマクラの持ち味。そして、1席目は、珍しいネタ「墓供養」。黄紺も、生喬以外では、先代松喬でしか聴いたことのない代物。先代福郎の持ちネタだったそうです。墓参りに来る人の名前を記帳するときのやり取りだけの噺。最後に、吃音の男が出てきて、手間取るというのが山場となりますが、あまりいい感じの噺ではありません。そないなものですから、持ちネタにする噺家がいないのでしょうね。由瓶は、この会2度目のゲストとか。生喬の持ちネタ以外を出さねばならないという制約があるため、前回に出してなかったら、これだろうと思っていたネタが出ました。「小言幸兵衛」の一部が独立したものだそうですが、「小言幸兵衛」を聴いたときに、この部分が含まれた口演は聴いたことはありません。家の借り手の申し入れを外しに外している家主幸兵衛、実は外しているのではなかったというのが、噺のミソになっているというもの。以前に聴いたときほど、由瓶のテンションが上がらなかったのは、なぜかな。なんか、最後まで、アウェー感を持ったままのお喋りだったように思えました。「お目見得」は花登筺作品。生喬が繁昌亭でネタ下ろしをしたときに聴いて以来の遭遇となりました。船場の雰囲気を伝えようというものは感じられるのですが、噺としては、さほど上質のものとは思えないなという印象は、繁昌亭で聴いたときと同じでした。食い扶持減らしのために丁稚に出た子どもが、あまり賢くなく、ヘマばかりを繰り返す姿を描くだけの噺になっています。最後に、駆け落ちを促す手紙を渡し損ねて、騒動が持ち上がり、下げへと行くわけですが、それも、さしたる山場とは言えないのが寂しいところですね。笑福亭に伝わる噺だからということで、「重ね扇」などとともに、生喬は持ちネタにしていますが、よく言われるように、演じ手のいない噺はおもしろくないと言われる範疇に入る噺と言えばいいかな。でも、伝承という意味では、持ち続けていってもらわねばなりません。その辺に労を厭わない生喬に、やっぱ拍手です。


2018年 1月 9日(火)午後 8時 28分

 今日は落語を聴く日。「喜楽にらくご~あべのハルカス寄席」(スペース9)に、初めておじゃまをしました。以前から、1度覗いてみよう、覗くなら、南海さんの出番がある日と考えていたのですが、それが、ようやく、今日になって実現しました。その番組は、次のようなものでした。【第1部】福丸「しの字丁稚」、鉄瓶「竹の水仙」、南海「違袖の音吉」、【第2部】喬若「ちりとてちん」、文鹿「奈良の男と京の女」、染左「質屋芝居」。常連さんがいるようで、早くから受付前に待機する人たちの数に、びっくり。1部で50人ほど、2部終了時に、会場を見渡せば、60人くらいは入ってたかもしれません。また、それに応えるかのように、番組がいいですね。これをきっかけに、率先して行く方の落語会に入れなければの気になってきています。福丸の子どもネタのマクラが可笑しい。緑のおじさんをしていたときの話、学校公演の生徒の反応の2つ。後者は福丸の鉄板ネタですね。子どものネタで、何をするのかと思ってたら「しの字丁稚」。福丸が、これを持ってたのを、すっかり失念してました。鉄瓶の鶴瓶ネタにも笑わせられました。師匠が鶴瓶というのは、やはり、これ一門の強みです。ネタの「竹の水仙」は、鉄瓶では初めてというか、最近、鉄瓶の高座自体聴いたことがなかったもので、初めてというのは当然。これが、なかなかいい口演。かげんがいいというか、出すぎず、引きすぎずというやつで、結果的に、リアリティが、とってもありました。受賞も、当然の結果なのかもしれませんね。南海さんは、この会では、わりかしベタなネタが多いとの認識を持っていました。ま、落語に挟まれた高座ですから致し方ないなとは思っていたもので、「違袖音吉」が出たときには、びっくりしました。なのに、今日は、この途中で居眠り。南海さんが出る日に狙いを定めていながら、その時間に居眠りとは、どうしようもありません。1部が終わると、全員退去。新たに入り直すシステム。喬若の高座も久しぶりじゃないかな。昨日、引っ越しで、あまり眠ってないとぼやきながら、やおらネタに突入。過ぎたるとまでは思いませんでしたが、ちょっと過剰気味のデフォルメ。知ったかぶりの男で、それが、激しくなります。ま、おいしいところですからね。文鹿は、マクラで、東京公演の話。公演自体より、その後、支援者と、東京巡りの話をしてくれるのですが、支援者の個人名とか出されても、さっぱりついて行けず。そないな話なのに、会場は、やたら敏感に反応。そないなものですから、文鹿は、その話を、更に続けていくので、ちょっと唖然。支援者が会場に来てたのかなぁ。それならそれで、文鹿には解ると思うのですが、、、。ネタは、文鹿の新作。文鹿は奈良出身、奥さんは京都出身。その実体験を落語化したようです。「奈良 vs 京都」は、それなりにおもしろいのですが、言い合ってる人たちのキャラが、さっぱり掴めず、困惑するだけの進行。プロットだけで噺にはなってなかったですね。染左は、マクラで芝居の話をし出したので、芝居噺かとは思ったのですが、質屋のことを言い出すまでは、まさか「質屋芝居」を出すとは思いもしませんでした。いざ始まってみると、ちょっと下座が頼りなくて、それに呼応したのか、染左の切れもいいとは言いがたく、ちょっと不完全燃焼。とまあ、パーフェクトとは言えませんでしたが、平日の昼間に、デパートの特売場の横のスペースで、こないな落語会があるっていうのは、黄紺的には夢のような世界でした。頑張って、時間を見つけて、覗くことにします。


2018年 1月 8日(月)午後 9時 42分

 今日も、シネ・リーブル梅田で映画を観る日。今日は、スペイン映画と言っていいのかな、「謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス」というドキュメンタリー映画を観てきました。ヒエロニムス・ボスが謎かどうかは知りませんが、ルネサンス期に現れた興味深い画家であることは、間違いない事実ですし、実際、マドリードやウィーンで観たヒエロニムス・ボスは、黄紺に強いインパクトを与えたことは事実ですので、この映画を逃す手はありません。ですが、実際は外れ感が大きい映画でした。世界的な著名人に、プラド美術館が所蔵する三連祭壇画「快楽の園」を見せて、この絵画の各部に描かれている不思議な描写について語らせたものを編集した映画だったのです。そういった映画だと、早々に判ったものですから、自ずと眠気が襲ってきたため、飛び飛びにしか、著名人のコメントが残っていかないものですから、更に、眠気が襲ってくるといった具合で、半ばで、映画のスタンスが変わっていたら、お手上げです。そないなことはないと思いますが。某かの解説となる映画を期待していたのが、間違いだったということになります。なお著名人の中で、黄紺にも判ったのは、オルハン・パムック、ルネ・フレミング、ウィリアム・クリスティの3人でした。


2018年 1月 7日(日)午後 11時 23分

 今日は映画を観る日。シネ・リーブル梅田で、フィンランド映画「希望のかなた」を観てまいりました。アキ・カウリスマキ監督ものですが、そんなに贔屓にしているわけではないのですが、シリア難民を取り上げた作品ということでしたので、行ってみる気になりました。この映画、2本の物語が、同時進行でスタートして、途中で、その2本が1本化されていくという構造になっています。1本はシリア難民カーリドの動き。彼の説明によると、グダニスクで身を隠した船が動き出し、フィンランドに着いてしまったと言います。冒頭は、積み荷の石炭まみれになったカーリドの姿でした。彼は警察に出頭し、難民申請をします。が、その申請が却下され、強制送還されるという朝、彼は収容所を脱出することに成功します。もう1本の主役フィンランド人のヴィクトロムの物語は、アル中の妻を見限って、自身が家を出るところからスタートします。彼は、同時に今までの仕事を精算し、それで得た金をカジノで増やし、レストラン経営に乗り出します。前の経営者から、うらぶれたレストランを3人の従業員ごと引き取ります。クセのありそうな3人なもので、この経営はうまくいくのかと訝しく見ていた頃合いに、カーリドと偶然出会います。出会い方がおかしいのです。レストランのゴミ捨て場を寝床にしているカーリドを見つけ、「どけ」「どかない」の挙げ句、1発ずつ殴り合いますが、次のシーンでは、レストランの中で、カーリドが、レストランの人たちに囲まれて、オートミールを貪り食っています。どんどんついでやる女従業員。この辺から、観ている我々の目には、無愛想そうな従業員の人柄が焙り出されていきます。また、ヴィクトロムの人柄も、絞りこまれて来ます。ヴィクトロムって、何でも受け入れる人なのです。受け入れきれなかったのが、冒頭に出てきた妻だということになります。レストランに、行政検査が入ると、皆で、かばい合い、助け合います。その庇われる中に、自然とカーリドも入ってしまってます。カーリドの偽の身分証を作るときもそうです。レストランの5人の人たち、知らない間に1つの家族のような印象すら与えるようになってしまってます。経営がうまくいかないときには、ちょっとした工夫(その中に寿司屋転身があるのですが、これは笑ける)を出しあったりします。そういった状況へ進んだおり、カーリドが、収容所で知り合ったイラク人を通じて、カーリドが生き別れになっていた妹がリトアニアの収容所にいることが判ります。会いに行くと言うカーリドですが、強制送還の身の上を知るヴィクトロムは、一言、「長く生きてるとできることを知っている」だったかな、そないな台詞を吐いて、人に頼み、妹をフィンランドに密入国をさせて、無事、妹との再会が叶います。請け負ってくれた人に、ヴィクトロムが、金を払おうとすると、請け負った男は、「こんないい姿を見て、金は取れない」と一言。カーリドは、妹に、自分と同じように、偽の身分証を作り、フィンランドに留まることを勧めますが、妹は、「私は私でいたい」「名前を偽って生きていきたくない」と言い、難民申請をしに行くことになります。明日、行くということで、1つの事件が起こります。カーリドをつけ狙っていた外国人排斥に動いている男がしたことはというところで、カーリドは、どうなるのでしょうね。曖昧な形で終わります。いや、曖昧じゃないかもしれません。アキ・カウリスマキ監督の演出は、とってもユニーク。台詞は削がれ、かなり言葉少なめ、しかも、表情を作らせない、誰を見てても、喜怒哀楽を、台詞や表情に表さない。ですから、かなり淡々と展開していきます。でも、なんとも言えない温もりが伝わってくるような気がしました。特に、レストランで働く4人がいい感じで、気に入ってしまいました。以前、アキ・カウリスマキ監督の作品を観たときには、皆目解らなかった独特の演出が、今回は、おもしろくて仕方ありませんでした。これは、人に薦めることのできる作品だと思っています。但し、この映画のテイストにはまるかどうかは、時の運のようなものだと思いますがね。


2018年 1月 6日(土)午後 9時 19分

 今日は二部制の日。午前中にびわ湖ホールに行き、夜は、カフェモンタージュに行くというものでした。びわ湖ホールでは、今日は、「びわ湖ホール プロデュースオペラ ワーグナー作曲『ワルキューレ』 プレトーク・マチネ」がありました。毎回、恒例となっているプレイベントです。話す人がなってないので、率先して行ってるわけではないのですが、無料でオペラの話が聴けるということで、足を運んでいるものです。今日、舞台に上がられたのは、次の方々でした。沼尻 竜典(指揮/びわ湖ホール芸術監督)、岡田 暁生(京都大学教授)、藤野 一夫(神戸大学教授:司会)。いつものように、岡田さん、沼尻さんのお話、二塚直紀と津國直樹のお二人による「ワルキューレ」の一部の演奏(ピアノ:岡本佐紀子)、そして、質問に答えるという形で、まとめとなりました。記憶に残った最大の点は、ワーグナーの曲の中に、隠喩として性的な表現があるということ。19世紀の人たちは、それを聴いて判るほどの教養を持ち合わせていたということでした。著名な音楽家の伝記には、「子どもに聴かせてはいけないワーグナー」というフレーズが、幾つも出てくるなんて、お話も出ておりました。ユダヤ人に対する見方、また、ナチスが惹かれた部分についても、お話が出ました。「3J」の1つとして、ワーグナーは嫌いなもの1つに上げていたようで、ナチスは、「指環」に出てくる「血の純潔性」に惹かれたようだということでした。更に、終盤は、日独のオペラの質的レベルの低下なんてお話も。これは、耳がダンボに。レパートリー・システムの問題点を浮き彫りにしていただき、とっても感謝。そのようななか、いつになく、岡田さんの話に惹かれてしまいました。今回は、ネトレプコも評価してましたしね。今日は、昔の同僚と、入口でばったり会い、奥さまそっちのけで、2人で並んで、お話を聴くなんてことになりました。文楽と言い、びわ湖と言い、知り合いに、よく会います。
 びわ湖ホールを出たあと、軽くミニウォーキングをしてから、自宅待機。夜のカフェモンタージュは、「J.S.バッハ~無伴奏チェロ組曲全曲~」と題して、金子鈴太郎さんの演奏会がありました。黄紺は、その「第1部」だけを聴きに行ってきました。プログラムは、次の2曲でした。「無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV1007」「無伴奏チェロ組曲 第4番 変ホ長調 BWV1010」。今日は、特別仕様の楽器での演奏ということで、金子さんの準備が整ってからのコンサートとなったそうで、ようやく、年初のコンサートが、暮れになってからの告知となったわけが判りました。特別仕様の内訳は、バロックボウと言われる違った弓を使うこと、4本の弦全てにガット弦を使う、チェロを支える下の金具を外し膝で抱えて弾く、そして、ピッチを変え、半音下となる415のピッチを使うというものでした。要するに、作曲者バッハの時代のチェロ演奏に近づけようとの試みでした。ヴァイオリンでも聞いたことがありますが、楽器自体は変わらず、周辺部が異なる、正に。それをやってくれたのが、このコンサートの趣旨だったようです。もう1番の冒頭から、音が、そして、演奏スタイルの違いが一目瞭然。ちょっと前説的に、金子さんがお話なさったところによると、弦や弓のたるみが違うため、強い音が出にくい。カフェモンタージュぐらいの広さならいいが、広いスペースだと、遠い席だと聴こえにくくなるそうです。確かに、理屈では、そうなるはずですね。そないなことを言われていたのですが、いざ演奏を始めると、かなりがつがつ行ってるという雰囲気が出てました。ミッシャ・マイスキーのように、流すというか、音の流れに重点を置いたスタイルとは、真逆の演奏となっていました。いずれにせよ、珍しいものを聴かせていただけました。ちょっと、年始のお年玉をいただけたってところかな。


2018年 1月 6日(土)午前 3時 52分

 昨日は、新年初めて落語を聴く日。「動楽亭昼席」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。弥っこ「狸賽」、佐ん吉「七段目」、南天「上燗屋」、雀喜「鬼の面」、(中入り)、豊来家一輝「太神楽曲芸」、米二「代書屋」。高座の脇には正月飾り、また、高座の最前面両端にはミニチュアの松飾りと、正月公演ならではの雰囲気作り。出てくる噺家さんの開口一番は、皆さん、新年の挨拶。それに加えて、正月公演だけは、連日、色物が入ります。去年も、3ヶ日明けに、動楽亭昼席に行った記憶。やはり、正月には、寄席を覗くものですね。その前座を務めたのは、今や前座バブルじゃないかと思われる弥っこ。兄弟子の弥太郎では聴いていますが、弥っこの方では、初めてとなる「狸賽」。定番の狸と狐の違いを表す小咄から。そつがないお喋りは、この「狸賽」でも発揮。安心して聴ける、これが、前座バブルを生む秘訣かも。2番手で上がった佐ん吉は、かつて、正月になると「忠臣蔵」を、テレビで流していたなんてことを話し出し、芝居噺に持って行ったのですが、佐ん吉の年齢で、そうなのかなぁなんて聴いてしまってました。佐ん吉の芝居噺は「蛸芝居」を聴いて以来かもと思っていますが、「蛸芝居」を聴いたときに持ったと同じ感想を持ってしまいました。「なんか、作ってる」という感じがしてしまうのです。登場人物を動かす目が見えてくると言い換えればいいかなぁ。佐ん吉の口演では、他のジャンルでは感じないものを感じてしまうのです。そして、昨日は、あろうことか、南天のところで居眠り。ベタ系マクラを振ってるなくらいしか、ほとんど記憶がない有り様です。でも、ここだけで済んだのを、ラッキーと思いましょう。雀喜は、マクラで、中国語落語会の宣伝を兼ねて、中国語で小咄を披露してくれたのですが、知ってる小咄だったもので、どの辺を喋っているのかが、辛うじて解るかなという代物。「動物園」と「親子酒」を、本番でするそうですが、大丈夫なんだろうかと思うほど、解らない度は高いものがありました。そして、「子どもの出てくる噺をします」と言って始めたのは、ホントに久しぶりに遭遇できた「鬼の面」。釈ネタで、講談でも、時々は出るもの。講談で聴いても、落語で聴いても、イマイチおもしろいと思わない黄紺なのですが、自分的に、あまりにも遠くなっていたネタだったため、かなり枯渇感の出ていたネタでした。で、実際、聴いてみると、やはり、あまりおもしろいと思えないという身勝手な黄紺です。昨日の雀喜は、いつもにも増して、滑舌が良くありませんでした。ま、それと、黄紺のネタの聴き方は関係ありませんが。トリの米二は、「けんげしゃ茶屋」を出してくれるものと、勝手に決めていたのですが、あっさりと外れ。「昨日も出ているのですが、私のやり方は違うので」と前置きをしてから入りました。そう言えば、年末の落語会で、「代書屋」を出していたのを思い出し、納得。「私のは違う」というのは、フルヴァージョンをするからなのです。このフルヴァージョンを聴いたのは、いつぞや、生寿がネタ下ろしをしたときに聴いて以来となります。フルヴァージョンをするときは、やはり渡航証明を書いてもらいに来る朝鮮人の男の描き方にかかっているわけですが、憎めない、無邪気な男と描くことで、そのハードルを下げてきていると思ってます。そう考えるにつけ、米二の口演に使われたテキストを「原点版」とは呼びにくいものになっている可能性もありやということで、「代書屋」のテキスト比較研究なんてのを、誰かやってくれないか、そないなことを考えてしまってました。でも、レアものを聴けて、正月から満足です。


2018年 1月 5日(金)午前 4時 53分

 昨日は文楽を観る日。去年に続き、正月4日に第2部を観てまいりました。その番組は、次のようなものでした。「南都二月堂 良弁杉由来~志賀の里の段/桜の宮物狂いの段/東大寺の段/二月堂の段~」「傾城恋飛脚~新口村の段~」。「良弁杉由来」は親子再会譚。親子の別離が、「志賀の里の段」で描かれますが、比叡颪が吹いたかと思うと、大鷲が舞い降りて来て、子どもをさらっていくというもの。大鷲に、何か意味付けがされるのかと思っていたのですが、観た中では、何も触れるところはありませんでした。ただ、目に衝撃を与えるだけでした。そして、「二月堂の段」で、東大寺の大僧正良弁となった倅との再会が描かれ、その前の「東大寺の段」が、そのネタ振りってところで、二月堂に出かけるきっかけを与えるところで、ストーリーは、文楽では、珍しい単線系、ごく単純なもなで、やたら引っ張ってくれるとの印象が残るのですが、この出し物のいいところがあります。それが「桜の宮物狂いの段」、そうなんです、「物狂い」ものなのです。文楽では、今まで観た中では初めてじゃないかな。能で言う「物狂い」が、文楽で演じられているのです。子どもを失った母親が、「笹」を持って、心乱れた姿を表します。全く能と同じ発想です。場所が桜の宮ですから、能で言えば「桜川」とそっくりとなります。ですが、こちらは、何と老女ものなのです。「老女」の「物狂い」と言えば、「卒都婆小町」と同じ設定です。文楽では、「物狂い」はレアであるにも拘わらず、そのレアな「物狂い」ものが、厚かましくも「老女」ものなのです。パクリ精神が丸裸になったと言えばいいかな。人形は、吉田和生さんの人間国宝認定記念の舞台のようで、狂女を遣われた和生さんは出ずっぱり。タイトルロールの良弁大僧正は「二月堂の段」だけが出番ですが、狂女に対置する役柄ですから、大きな役割。しかも、大僧正ですから、柄が大きなのが特徴。こういった人形を遣うと、吉田玉男さんは映えます。体躯が大きいというだけで、絶対的な優位に立てます。4月に玉助を襲名される幸助さんは、「東大寺の段」で、良弁僧正の存在を教える重要な役割を持つ雲弥坊で、お付き合いというところ。太夫さんでは、「二月堂の段」を1人で語られた千歳太夫の、元気で、一時の落ち込みなんてなかったよう。これは嬉しいことでした。一方、「傾城恋飛脚~新口村の段~」は、2~3年に1度くらいの割合で、本公演の番組を飾ります。それだけ、人気狂言と言えば、そうなのでしょうが、真冬を描いた狂言が少ないのかもしれません。所謂、「梅川忠兵衛」と言われる出し物で、「傾城恋飛脚」では、「封印切り」は出なくて、「新口村の段」だけが上演され、同工異曲の別狂言で出ます。「新口村の段」で、好きな場面があります。父親の知り合いの家にもぐり込んだ、梅川と忠兵衛は、家の中から、道行く村人を眺めながら、忠兵衛が梅川に、一人一人の人となりを教える場面です。2人の置かれている境遇、2人が感じのいいカップルということが、とってもナチュラルに判るからです。後半の親子再会は、芝居かかってるものですから、むしろ文楽に使われるデフォルメのない場面に惹かれてしまうのです。こちらは、梅川を清十郎さん、忠兵衛を勘彌さんが遣われていました。太夫さんは、前半が呂勢太夫さん、後半が文字久太夫さんでしたが、いっそのことなら、どちらかお一人で全編通して欲しかったな。せっかくの実力者、途中で交替させなくてもいいものなのにと思ったのは、黄紺だけではないでしょう。親子再会譚と死出の旅という世話もの2本が並んでしまった番組だったのですが、そないな並びになると、どちらか1本は、軍記ものが観たくなっちゃいますね。会場では、久しぶりに海舟氏とお会いできました。また、声を交わさなくても、ディープな落語ファン氏もお見かけしました。このようなことは、いつものことで、逆に、そうでないと、落ち着きが悪くなるほど、知っている方を見かけるのも、文楽鑑賞の常になっています。


2018年 1月 3日(水)午後 10時 11分

 今日は、息子のところへ行き、昼間から、正月ということで、お酒を呑んだ日。足元で、Dが動き回るのを眺めながら呑む酒は、とってもいいものです。清々しい、いいお正月です。


2018年 1月 2日(火)午後 10時 9分

 今日も映画を観る日。今日は、シネマート心斎橋で、韓国映画「ありふれた悪事」を観てきました。他にも候補作品があったのですが、 モスクワ国際映画祭《主演男優賞&最優秀アジア映画賞》受賞作という謳い文句に惹かれてのチョイスです。しかも、時代設定が、軍事政権末期となっており、あまりないものだったということも、チョイスの要因となりました。軍事政権の国家的犯罪に、知らない内に引き込まれていく平凡な刑事が、大金を掴まされ、子どもの障害を治せると、それに加担していく傍らで、30年来の知り合いの記者は、その巨悪を暴くべく動く対比が、中盤過ぎまで続いていくのですが、当然のように、記者は、国家安全企画部(悪名高い安企部ですね)の追求を受けてしまいます。身を隠すために、一晩だけ、当の刑事の下に身を寄せるのですが、刑事は、子どもの手術代欲しさで記者の隠れ場所を通報したために、記者は、安企部の拷問を受け亡くなってしまいます。そこで、ようやく自分の行為に幻滅した刑事は告発に動くのですが、相手は生易しい相手ではなく、妻子の命、自らの命も狙われ、にも拘わらず、告発の記者会見を開いても、本人が検挙され、拷問を受けるだけという有り様。この映画のスタンスで気に入ったことは、その刑事が武器を手に優位に立っても、その武器を使わせないところ。武の力ではなく、文の力で訴えようとするところ。それが記者会見という形を取らせるのですが、安企部は、武の力でしか来ないわけですから、検挙、拷問となってしまいます。軍事政権が、市民の反感を受け倒れていったことは事実なわけですから、それは覆しようがありません。ですから、市民が立ち上がる、そのエネルギーを生む、何らのきっかけとなる、それなら、フィクションとして出せるというスタンスがキープされています。そういった意味で、あってもよさそうな映画でありながら、なかったのでしょうね、韓国でも高い評価を受けたようですから。ただ、映画祭で受賞するほどのものかなとも思いました。主役の刑事の動きが、ステレオタイプなんだなぁという点です。ですから、この受賞というものは、ロシアの国内事情によるものかと、ちょっと勘ぐってしまいました。光州事件などにも向き合った映画も出ているようですから、こういった映画も生まれる素地が、韓国にあるということは、敬意を表するに値することです。そういった民主的な土壌が育まれている事実すら知らないで、韓国評をする有象無象には辟易とするものがあります。どこかの国のお話ですが、、、。


2018年 1月 1日(月)午後 10時 54分

 新年を迎え、いつもと変わらない生活を送っている黄紺は、3ヶ日にある落語会は高額、混み合うということで、あっさりと諦め、映画中心のお出かけを考えています。今日は、テアトル梅田であったフランス・セネガルなどが製作に関わった映画「わたしは、幸福(フェリシテ)」を観てまいりました。ベルリン国際映画賞銀熊賞に輝いた佳作という前評判の映画、正に、その前評判通りの優れた作品と看ました。物語の舞台は、コンゴのキンシャサ。その街中にあるライブハウスから始まります。そこをも含めたキンシャサの雑踏が凄まじい。地道に拡がる掘っ立て小屋的店が並ぶ市、雑踏、そこを主人公のフェリシテをハンディカメラが追います、正にアフリカの映画です。物語は、前半と後半に分かれていると言えばいいでしょうか。それを繋ぐ一本の柱が、フェリシテの息子の交通事故。前半は、交通事故に遭った息子の手術費用を集めるフェリシテの姿を追う中で、キンシャサに住む人たちの感情、考え方、社会の構造などが垣間見ることができるようになっています。とっても、したたかで、容易ならざる姿が浮かび上がってきます。その強ばった姿に対置するような物語が紡がれるのが後半。前半の金策が、ようやく達成でき、金を持って病院に駆けつけたら、大量出血を起こした息子の脚は切断されていた、そういったことがあったあとの物語です。フェリシテは、息子を家に連れて帰ります。それと同時に、先が見えなくなったフェリシテは、歌を歌えなくなり、夜な夜な森を彷徨するといった具合で放心状態が続きます。そこに寄り添うように、一人の男が動きます。この男、朴訥として、さしたる教養のありそうな男ではないのですが、心根の優しい、とても穏やかな男。その男との関係の中で、フェリシテの再起だけではなく、口も効かなくなっていた息子の再生の物語が紡がれていくのです。前半のちょっと殺伐とした人間関係が描かれるのに対し、とってもハートウォーミングな物語となっていました。この構成は、観る者の胸をくすぐります。監督は、セネガル系フランス人アラン・ゴミスという人だそうです。音楽が、また素敵です。アフリカの音楽が、ライブハウスで流れるかと思うと、一方で、静謐なキリスト教音楽(アルヴォ・ペルトの曲と公式HPに出ています)が流れます。後者の音楽が使われている意味を、黄紺的には掴めていませんが、対比が明確で、強く印象に残ることは確かです。元旦の夜だったからでしょうか、がら空きの映画館で、いいもの観たぞの満足感に満ち満ちた気持ちになることができました。


2018年 1月 1日(月)午前 4時 49分

 昨日は大晦日。1年の最後を、繁昌亭の昼席に行くことにしました。その番組は、次のようなものでした。なかなかの好メンバーです。団治郎「子ほめ」、吉の丞「上燗屋」、文昇「紀州」、ミヤ蝶美・蝶子「漫才」、喬若「長短」、枝三郎「十七蔵」、(中入り)、のんき「蔵丁稚」、新治「猿後家」、米紫「掛取り」、鶴笑「時ゴジラ」。団治郎の「子ほめ」は抜群の出来栄え。緩急をつけたお喋りに、バラシのところで笑いが上がっていました。吉の丞は、普段の落語会ではやらないベタなマクラを3~4発放ってから、ネタへ。上燗屋の説明に、博多の屋台を具体例として出していました。やっぱ、明るさは、その程度のイメージですよね、この噺。文昇の「紀州」は、またかという印象もあるのですが、ゆる~いお喋りが心地よく、一方で、「今日も聴ける」ことを期待してしまってます。そのあとの蝶美・蝶子のキャラとは好対象なものですから、あとから、余計に心地よさが増しました。逆に煽りを喰らったのが喬若。松坂大輔似くらいでは、自分の味方は、そうは増えなかったみたい。もっと濃いネタを選べばいいのにね。枝三郎は、ホントに久しぶりの遭遇。「600席の会」でも出してないネタをしますと言ってから始めました。「世帯を持ったら蔵が立つ」と言いながら、「くら」の付く言葉で遊ぶというネタ。喬若といい、枝三郎といい、退屈になり、途中から軽い居眠り。そういったネタであり、高座になっちゃいました。のんきは、この1週間、「蔵丁稚」で通しているみたいですね。定吉の言い訳や、蔵の中での芝居ぶりが、よく聴くテキストと微妙に違うのが嬉しいところ。のんきも、松之助の口演を継承する意味で、貴重な噺家さんですから、もっと、遭遇機会があればいいんですがね。新治の「猿後家」は初めて。このネタを持っていることすら知りませんでしたから、目っけものの高座。時間の関係でしょうね、前半は省き、お伊勢参りから帰ってきたところから。そうされてみると、前半の大切さがよく判りました。赤ら顔についての挿話や、過剰なべんちゃらの仕込みの大切さを思い知りました。米紫は、ピンポイントの季節ネタを出しました。時間の関係から、落語家尽くしと歌舞伎の2つでしたが、このネタのおもしろさは、十分に伝わりました。短くなった分、力が入り、ちょっと前のめり感じのお喋りが、雰囲気を作り上げていたと思いました。そして、最後は鶴笑。「西遊記」ばかりに当たっていたため、それ以外のネタに当たることを期待していました。ただ、「時ゴジラ」は、既に出たという情報が、ネット上に出ていたため、諦めていたのですが、当たりました。ほとんどネタ下ろしという時期に聴いて以来となりました。あまりにもアホな設定に、笑うしかないというネタです。ゴジラの様子から、うどんを食べる所作が交互で出てきますが、うどんを食べる場面になったときの、客席の湧き方は半端ではありませんでした。もう、その中にいるだけで幸せってやつです。下げのあと、緞帳は下ろさず、出演者全員が出てきて、トリの鶴笑の発声で大阪締めをして、お開きとなりました。そないな中にいると、大晦日に繁昌亭に来るのもいいものですね。


2017年 12月 30日(土)午後 11時 00分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。当然、今年最後になります。今日は、「ベルカント、幻想」と題して、 (ヴァイオリン)石上真由子、(ピアノ)久末航のお二人の演奏を聴くことができました。そのプログラムは、次のようなものでした。「L.v.ベートーヴェン:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第3番 変ホ長調 op.12-3」「F.シューベルト: ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 ハ長調 D934」。ピアノの久末航さんは、今年のミュンヘン国際コンクールで3位となった方。そういった実績をあげた人がいたのは知っていたのですが、まさか、今日のコンサートの主役の一人とは、カフェモンタージュに行くまで知らなかった黄紺。それで、了解しました。石上さんは、人気のヴァイオリニストではあるのですが、今回のコンサートの予約が、異様に早く満席になったものですから、本来なら、そこで気づくべきでしたね。お二人が、びわ湖ホールで共演されたのをかっかけに、今日のコンサートが実現したとか。別に、そういった実績のある方との先入観ができてしまってから聴いたから言うのではないですが、とにかく指の動きが柔らかい。タッチに目が行くときは、通常、手首に目が行くのですが、この人の場合は、手首もさることながら、柔らかな動きをする指に、目が釘つけになってしまいました。そこから、彩り鮮やかな音が紡ぎ出され、冒頭で、石上さんには悪いのですが、完全にピアノに目は釘つけ。そのピアノに乗り、石上さんが、実に楽しそうにヴァイオリンを弾かれます。思わず、今年の7月だったかな、びわ湖で聴いたベレゾフスキーと諏訪内晶子のスリリングなデュオを思い出してしまいました。特に、シューベルトは、攻めのピアノに、軽くかわしながら、それに乗っかるヴァイオリンの攻防が、とってもスリリングで緊張感溢れる演奏。いいもの聴いたぞの実感。今年最後のカフェモンタージュは、若い演奏者の溌剌としたコンサートに当たりました。それが嬉しいですね。来年は、正月明け早々に、新年第1弾のコンサートが待っています。


2017年 12月 30日(土)午前 4時 29分

 昨日は二部制の日。午後に、ツギハギ荘で落語を聴き、夜は、昔の同僚と呑むというものでした。まず、ツギハギ荘の落語会は、「歌之助×しん吉ふたり会」というもの。八聖亭が閉じるということで、ツギハギ荘の役割が、どんどんと増えてきています。その番組は、次のようなものでした。歌之助「ツマミ恋詩」、しん吉「掛取り」、歌之助「除夜の雪」、(中入り)、しん吉「二番煎じ」。この会は、今まで、何度か開かれていたようですが、行くのも初めてですし、存在に気づいたのも初めてでした。お二人は、1年違いで弟子入りをしたのですね。もう少し離れているのかなと思っていたのですが、よく考えると、その差に納得です。前座も何もなしで、歌之助が登場。いきなりでしたので、今年を振り返って的なマクラを長めに。そして、新作ものを始めました。聴いたことのないもの。帰り際に、ネタが貼り出されて、初めて思い出しました。時々、歌之助がネタ出しをしているときに、見かけた題名だということに。そういった風に、題名を知っていた場合、その噺を聴けば、題名を思い出すものですが、これはダメだったですね。前半は酔っぱらいの噺です。勤め先の悪態をつき、ついには酔った勢いで、勤め先に辞表、詩人になることを宣言。酔いが覚めたときには、覚えてないのだが、後の祭り。ここから、詩を学ぶ、具体的には、俳句を学ぶが、それもうまくいかないということで、ものに対するラヴレターを書いて稽古していたときに、かつて勤めていた店の常連さんに出逢い、その人が物書きであったために、弟子入りをしていくというもの。ちょっと円環的な構造で、もとに戻っていくというものでした。文化芸術会館での作品かなとは思うのですが、調べても判りませんでした。しん吉も、ちょっと長めのマクラ。最近のしん吉のマクラで、必ず入るのが、生まれたての子どもの話。そして、ネタを何にするか迷っている模様。「鉄分の濃い噺か薄い噺か」、そないな言い方をしてました。いずれにせよ、「鉄分(鉄道ネタ)」が入るのでした。「薄い」方をチョイス、それは「掛取り」でしたが、早くも、鉄道好きの掛取りが入ってくることが、ここで知れてしまいました。この「掛取り」が、全編、半寝。ですから、内容のメモだけに留めておきたいと思います。1つ目が「ケンカ」、次が「歌舞伎」、最後が「鉄道尽くし」ということで、最後に鉄分が含まれていました。今日は、それぞれの2つ目のネタが、ネタ出しをされていました。歌之助は「除夜の雪」。この時期ならではのネタです。先日の吉坊に次いで、今年は2つも聴くことができました。そうなると、嫌が応にも比較してしまいます。黄紺的には、吉坊に軍配が上がります。大晦日の庫裡の寒さ、外の雪、その静けさ(これがあって除夜の鐘が聴こえる)、そういった環境を作り上げるには、歌之助の口演は濃いのです。もっと、力を抜いて、お喋りして欲しかったなと思いました。しん吉のネタ出しは「二番煎じ」。「除夜の雪」に次いで、このネタって、歌之助も言ってましたが、いいですね。いかにも、真冬の落語会、しかも、寒い年末に聴いてみたくなるネタ並びですものね。ただ、しん吉の口演で気になった点がありました。「宗助はんいじり」についてです。この噺の可笑しいところですものね。その「宗助はんいじり」が、前半の夜回りで、ふんだんに出てきます。これが、後半の伏線になるはずですが、番屋に戻ってからは、宗助はんを、あまり登場させませんでした。侍が来てから、ちょろっと出したくらいでという感じ。番屋で、ものを取ってもらうのは、他の人を使ってました。何か、梯子をかけて外されたという感じを持ってしまいました。侍の出番も、少なかったですしね。全体的には、ほんわりと和やかな雰囲気が出ていて、いい感じだったもので、なんか惜しい感じを持ってしまいました。さすが、この2人の会となると、ツギハギ荘では厳しいと言える超満員。このすし詰め感がいいとか、演者さんは言ってましたが、聴いている方は、かなり厳しいものがありました。辺なところに、前のベンチの突起物や柱があるものですから、正直、きつかった。グレードの高い会だっただけに、もうちょっとラハトに聴きたかったなぁ。
 そして、夜は枚方に移動。東南アジア系料理店で、昔の同僚と呑みました。この2月に呑んでからの再会です。まずは、大病を経験した元同僚の姿を見て、ホッとしたのが、一番嬉しかったな。またの再会を期して、お別れしました。昼夜とも、いい時間、過ごせた一日でした。


2017年 12月 28日(木)午後 11時 14分

 今日は、繁昌亭で落語を聴く日。今夜は、福笑主宰の「年末伝説演芸会~デスパレードな芸人たち~Vol.3」がありました。その番組は、次のようなものでした。ぽんぽ娘「桃色ジャーニー」、ナオユキ「愚か者列伝」、たま「千客万来」、(中入り)、染雀「幽霊コスプレ」、福笑「金策幽霊」。個性豊かな出演者を揃えたこの会のトップに、ピンク落語でぽんぽ娘が出番をもらいました。繁昌亭で、初めて聴くピンク落語です。以前にも聴いたことのあるもの。やはり、現代の人情噺だという感想は変わりませんた。ナオユキは、久しぶりの遭遇。冒頭、季節柄、サンタクロースのネタから入ったので、そっちに向かうのかと思ったら、それは掴み。本体は、ナオユキらしい場末の飲み屋で見かける人たちでした。たまの「千客万来」は、福笑作品だそうです。落語には珍しい特定多数の人々が出てくる噺作りを目指した作品。「師匠が、落語のシステムから考えた作品です」と言ってました。ごく普通の家庭に、盗人が入ったり、やくざがやってきたり、宗教の勧誘がやってきたりと、様々な人たちが、1軒の家に集ってくる混乱の可笑しさを描いたもの。中に、シェークスピア尽くしを口にばかりしている演劇青年が異彩。これ家の妻に恋の告白までしてしまってました。たまが手入れをしたようなのですが、どこまでが福笑もので、どこからが、たまの手入れなのかが、明確にならないというのも、今日の口演の特徴かもしれません。どこかで、たまがネタ出しをしているのを見かけた記憶がありますから、持ちネタにはしているようですね。染雀の出番は、元々は、亡くなったテントに用意されていたものだそうです。代演となった染雀は、あとの福笑のネタが幽霊ものですから、元々から染雀にオファーが出てたようです。幽霊役として、です。そこで、染雀は、幽霊用の化粧をするところを、お喋りしながらみせようという趣向となったってことです。それで、染雀の出番が、「幽霊コスプレ」となっているというわけでした。従って、福笑は、夏に福笑主宰で行われている幽霊落語会を、自分のネタで、真冬に見せようとの魂胆だったのでしょう。そのために、福笑は、怪談ネタを書いていますが、今日のネタも、恐らく、その中から生まれたのじゃないかな。妻に恨み、未練を持って現れた幽霊、妻に出ないで、見知らぬ男のところに出たことから、2人でイリュージョンのショーを始めるという荒唐無稽すぎる噺。そして、終盤に、客席後方から染雀が現れるのは、お約束。幽霊姿で、染雀は、芸術祭優秀賞受賞報告をしておりました。黄紺は、年度内に、もう1度だけ、繁昌亭に行く予定にしています。


2017年 12月 27日(水)午後 11時 32分

 今日は、千日亭で講談を聴く日。今夜は、こちらで、「第245回旭堂南海の何回続く会?~年末特番・読切再演第二弾」がありました。先月は、もうドイツに向け出発してましたから、お休みしている間に、「特番」が組まれていました。今日は、「吉良の義士・小林平八郎」なんてものが読まれました。ところが、今日は、冒頭のマクラを聴いたあと、ほぼ間なしに居眠り。昨日といい、今日といい、どうしたのでしょうか。睡眠時間を十分に確保できていると言えないまでも、無茶苦茶なひどさでもないにも拘わらず、ダメになっちゃってます。今日は、とろろが、暖房が効いてなかったものですから、途中から、猛烈に寒くなってきた。居眠りなんてしてる場合じゃなくなったのです。おかげで、南海さんの口演を聴くことができたのですが、最初は、話の流れが解らなかったのですが、幸い、話の切れ目があったため、そこから後半部分は理解できました。小林平八郎は、元は三原の郷士の出なんですが、居眠りしている間は、越後か、その辺りでの物語であったようで、それすらも、あまり自信があるわけではありませんが、とにかく戸田能登守の下で、道場を開き、配下の武士の剣術指南をしていたらしいのですが、そこで、何か問題を起こしたのかなぁ、そのため、江戸に行くように命じられ、戸田能登守の江戸屋敷管轄下で、剣術指南をしていたところ、その腕が立つものですから、戸田能登守が、小林平八郎の出身地三原を抱える松平安芸守に、小林平八郎の自慢をしたところ、松平安芸守が、そんなに腕があるのなら、直に見たい、配下の武士との手合わせを見たい、そして、小林平八郎が、それらを全て打ち破るなら、直参として迎えたい、三原は安芸藩管轄だからと言い出した。思わぬ展開にうろたえる能登守だが、言い出したのが自分だから応じないわけにはいかない。一方の安芸守の方は、配下の武士を出して、皆が負けると恥だということで、たまたま遊びに来ていた(この辺がウソくさい)分家の浅野内匠頭に、配下の武士を出せと求めるということをする。ここで、討ち入りのときの伏線を引くという、あまりにも見え透いたことになっているのですが、、、。で、出てきた武士が、次から次へと負けていく中で、最後に出てきた堀部安兵衛とは、同体、引き分けとなったことで、一応は、小林平八郎は、戸田能登守の下に留まるのですが、腕前を見た安芸守が、手を尽くして小林平八郎を取りに来ることが予想されたおりに、吉良から申し入れが入り、それに乗ることになり、ここで、ようやく吉良が出てきました。吉良は、息子が上杉に婿入りするときに連れて行かせる強の者を求めていたということで、小林平八郎にオファーを出したというわけでした。その上杉から、吉良警備のために逆送されたのが、小林平八郎を、運命の討ち入りに遭遇させるというわけです。もちろん、最後は、堀部安兵衛と出逢い、自らすきを作り、安兵衛に討たれます。安兵衛も、それが解り、あの世での再会を誓い、別れます。小林平八郎は、最後が判っているだけに、それに合ういい物語が作られたのが、この「外伝」の物語なのでしょう。覚醒してからは、なかなかいい話だったものですから、今日も、前半ダウンが惜しまれました。だけど、寒かった。せっかく治りかけている風邪が戻りしそうです。


2017年 12月 26日(火)午後 10時 47分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「ピアノ三重奏」と題して、「ヴァイオリン」上里はな子、(チェロ)マルモ・ササキ、(ピアノ)松本和将の3人の方で、「L.v.ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 変ロ長調 op.97"大公"」が演奏されました。当初は、向井航さんがチェロを弾く、シューマン&ブラームスのシリーズが予定されていたのですが、都合により、チェロがマルモ・ササキさんに替わり、曲目も「大公」に替わったという流れのあるコンサート。上里さんと松本さんは、カフェモンタージュではなじみの深いお二人ですが、マルモ・ササキさんは、今回、こちらへの出演が決まって、初めて知ったお名前。キャリアを見ると、華麗なもので、中でも、ベルリン・シュターツカペレのメンバーだったというのが、燦然と輝いているという方だと知り、これは外せないの気持ちになりました。そんななのに、また、ここ1ヶ月ほどの悩まされた睡眠障害が、昨晩、一段落をしたかという状態だったにも拘わらず、演奏の途中、何度か、首ががくりと落ちてしまいました。本人は眠っているつもりはない、だけど崩れている。但し、ずっとぼんやりしていることは確か。前半が、ずっと、そないな状態で推移。無念やるかたなし、でした。後半、見事なアンサンブルが展開。上里さんとマルモ・ササキさんの2人の音が重なりあう間隙を駆け抜ける松本さんのピアノの素敵なこと。やはり、これは、端からきっちり聴けてないとダメだったと思っても、時、既に遅しでした。2日続けての開催の2日目というのも、良かったのかもしれませんね。一期一会のアンサンブル、事実、組み合わせから考えると、正にそうかもしれませんね。だいたい、そういうときに、こないなことが起こるというのは、黄紺的にはジンクスめいてきています。


2017年 12月 26日(火)午前 0時 16分

 今日は、落語は落語でも、ちょっと変わった会に行ってきました。ツギハギ荘であった「喋ってみた。弾いてみた。福田さんちの湯豆腐たべてみた。 」という月亭天使の主宰する会です。その内容は、次のようなものでした。 和女&天使「楽屋ニュース」、おとめ「寿限無」、天使「宿屋町」「真冬のタイムマシン倉庫」、(中入り)、「湯豆腐のふるまい」、和女&天使「三味線コーナー」。受付に、どこかで見かけた女性が。思い出せなかったら、準備中の高座前に、本日の予定がぶら下がっていた。そこに、おとめの名前があり、納得。2回目の遭遇でした。「楽屋ニュース」の中で話題になっていたことから判ったのは、おとめはNGK出身だとか。同じような人たちが、増殖しているというのが、楽屋ニュースの話題の1つでした。その他の楽屋ニュースは、その場にいる者だけが知れる特権ですね。というほどの話題は出なかったのですが、ベストワンだけは、会場、どん引き。黄紺も、引いちゃいました。天使の落語は2席。「宿屋町」を、若手と言われる噺家さんで聴いたのは、久しぶりじゃないかなぁ。改めて聴いてみて、それほど敬遠される噺ではないと、再確認しました。天使の口演は、オーソドックスなもの。師匠からもらったのかな。「真冬の、、、」は、妻に逃げられた男が、タイムマシンを使い、自分の行状を振り返っている内に、今のあり方が変わるというSFタッチのネタ。もの書きとしての力も持つ天使ならではの噺で、上方ではいなさそうな発想、展開をする新作テラーになるかもしれません。この新作の口演に入るあたりで、ワーズカフェから助っ人が到来。おとめも加わって、中入りに配られる「湯豆腐」作りが、天使の口演と同時並行で進みました。「湯豆腐」は、とろろ昆布が振りかけられ、ポン酢をかけていただきました。美味しかったぁ。その余韻の中で「三味線コーナー」。天使の「唄入りさわぎ」で開幕したコーナーですが、和女さんの出囃子のデモンストレーション、長唄の合奏などを経て、最後は、「クリスマスソング」のメドレーを、2人で弾かれて終わりとなりました。天使の企画がもたらすおもしろイベントと言えばいいでしょうか。軽やかな気分にさせてもらえた楽しい会でした。


2017年 12月 24日(日)午後 9時 6分

 今日は落語を聴く日。八聖亭であった「第62回 生喬まるかじりの会 年末スペシャル」に行ってまいりました。落語だけではなく踊りも見せるということで、「スペシャル」と銘打たれた会、その番組は、次のようなものでした。弥っこ 「代脈」、天使「元猫」、吉坊「除夜の雪」、生喬「網船」、(中入り)、天使「門松」、生喬・香穂「桜見よとて」、吉坊「歌右衛門狂乱」、弥っこ「吉三節分」。旅行中から睡眠障害のひどかった黄紺ですが、帰って来てから、更にひどくなっており、もう大阪に行く電車の中から、ボーッとしており、落語会が始まると、弥っこの高座の後半に、早くももたなくなってしまいました。天使の「元猫」は「元犬」のアレンジものですが、なかなか出逢えなかったものだけに、気合いが入るはずにも拘わらず、今日の最悪の状態。ようやく吉坊だけでした。珍しいことに、ウルトラマンのマクラをふるものですから、何をするのだろうと思っていたら、全く関係のないネタでした。僧坊で、戯れながら除夜の鐘を打つのを待つ小坊主たちの軽い会話が楽しく、後半のミステリめいた展開のいい露払い。ここの軽さが、後半を引き立たせるのを、よく解った吉坊の好演でした。主宰者生喬は、ネタ下ろしの「網船」。師匠松喬が、ガンが判明してから手がけた復活もの。台本は小佐田センセによるものだそうです。松喬の「日本の話芸」最後の出演となったもので、黄紺は、それを観てはいるのですが、内容は、すっかり忘れており、でも、生喬の口演を聴いて、徐々に思い出してはきていたのですが、終盤で失速。結局、判らなくなってしまいました。情けない。ここで中入りが入り助かりました。今日の呼び物は、しっかりと観ることができました。落語から踊りに転身したらなどと言われている弥っこが、吉坊をさしおいてトリ。以前観たときに踊った女性の踊りではなく、男性もの。女性もので見せた、素人目にも解る巧みさには届かなかったのじゃないかな。その辺を見越して、梅十三師匠は、男ものを勧められたのでしょうね。やはり、圧巻は吉坊。吉坊だけが山村流。あとの4人は、梅十三師匠についていますから西川流になります。吉坊の踊った「歌右衛門狂乱」は、「稽古屋」のハメものに使われているということで、今回踊られたようですが、これが、大変なものを観たぞの印象。今回のための総稽古を行ったときには、山村流宗家までが、吉坊の踊りを観にこられたとか。踊りを観ていて、使われる足踏みのタイミングや、腕や足の動きの型を観ていると、明らかに能楽の影響下にある流儀と看ました。更に、扇のアクロバチックな技は見せてくれます。吉坊は、扇を一度も落とさずに踊りきりました。ええもん、見せてもらいました。この公演が、とりあえずの八聖亭での最終公演だそうです。ということで、最後は、大阪締めでお開きになりました。


2017年 12月 24日(日)午前 1時 46分

 今日は、京都で二部制の日。帰りの飛行機内で、風邪を発症したため、痛いのど、だるい体を引きずり、2箇所を回ることになりました。昼間は、京都文化博物館6階和室であった「京都文博噺の会 vol. 7~笑福亭たま独演会」に行ってまいりました。東京の噺家さん、上方の噺家さんを取り混ぜるだけではなく、次回は、講談の松之丞の独演会まで用意している会。和室の大広間に、200人ほどが詰めかけたのですが、こんなに入る会だとは思っていなかったため、ただただ驚くばかりでした。その番組は、次のようなものでした。二葉「つる」、たま「源平盛衰記」「蛙茶番」、(中入り)、たま「猫の忠信」。二葉は、出てきただけで、軽いどよめきめいたものが起こります。マクラで、その声を聴いただけで、笑いがおきます。たまは、型通り、1席目のマクラで、たまモードに持って行くために、長めのマクラ。襲名問題、日馬富士問題など、タイムリーな話が続きました。ネタは、「最近、覚えた」という「源平盛衰記」。たまでは、初めて聴くものです。元々、地噺なので、いじり放題にいじれるのでしょうが、たまのスタンスは、ショート落語の積み重ねといった趣向。節目になると、「平家物語」の冒頭のフレーズを出して、噺と噺の間をつないでいました。後白河院、木曽義仲、義経の平家追討と進み、扇の的まででした。次の「蛙茶番」は、昨日の「微笑落語会」で、ネタ下ろしをしたところですから「昨日覚えました」と言い、「こちらでは誰もやらないはず」などと付け加えて、ネタに突入。舞台番に当たり、すねる男を、もうちょい丁寧にして欲しかったのと、なので、すねる男が出かけて行くわけも、はっきりしなかったのじゃないかな。そして、いよいよふんどしなしで着物をまくり上げるクライマックス。ただふんどしなしで、丸見えを可笑しくする展開だったので、あれれと思っていると、「青大将」で落とさないで、よく判らなかったのですが、「蛙茶番」で落とすものでした。中入り明けに、また、たまは、おもしろ話のマクラを振りました。最近はまっている大智ネタです。かなり聴いてなかった話もあり、耳がダンボになりました。今日のネタ出しが、ここで口演された「猫の忠信」。たまでは、これも聴いてなかったネタです。そして、これを聴いて、古典の長講ネタで、たまの傑作選に入れなきゃならないと思ってしまいました。「宿屋仇」「不動坊」に並ぶと看ました。冒頭を刈り込んで、いきなり稽古屋の内部で起こっている話から入りました。かなり、煮詰まった台詞のやり取りの展開する噺だけに、刈り込むなら、ここしかないでしょう。たまも、出来上がった台詞のやり取りが続くといった意識があったのでしょうね、構造は崩さず、しかも、僅かの隙間を見つけて、オリジナルなくすぐりを入れる貪欲さに脱帽。少なくとも、横入りをしても、違和感なく噺が進むようにできるのは、噺の構造を知っているからでしょう、また、隙間を見つける嗅覚はさすがのものがありました。そして、全体の印象として、今まで聴いた「猫忠」の、登場人物に下卑た印象を与えようとしていたことにも、拍手でした。どういった人たちが主人公なのかが、よく見えていたのでしょう。たまは、3席の内、どれかで新作をやるのではと想像していたのですが、すべてが古典でした。これも、興味ある現象。いずれにせよ、たまの奮闘が傑出した会でした。
 文化博物館を出て、五条通まで歩いて移動。あまり歩いてないですからね。昼食を抜いていたので、この時間帯を利用しての食事。まだ、時間があったので、弟の家へ行くと、久しぶりにHに会うことができ、バンザーイでした。それからカフェモンタージュに向かおうと、御池通の地下街を歩いていると、何とグリューヴァインを売っていました。300円で紙コップ1杯です。つい3日前まで呑んでいたグリューヴァインと、日本で再会できるとは、いやぁ~、びっくりさせられました。ところが、この1杯がまずかった。昨夜のウルトラ寝不足がありましたから、呆気なく眠気に襲われ、オーナー氏の前説すら、よく覚えてない始末。そのコンサートの概要は、次のようなものでした。「L.v.ベートーヴェン」 と題したコンサートで、ピアノの佐藤卓史の演奏会でした。演奏されたのは、中期の初期の作品群の中から、「ピアノソナタ第12番 変イ長調 op.26"葬送"」「ピアノソナタ第15番 ニ長調 op.28"田園"」。「葬送」の方が、かなりの沈没状態だったというわけです。この演奏のあと、佐藤さん自身から、曲目解題と言っていいお話があったのが、黄紺を救ってくれました。そのお話がおもしろかったなぁ。「葬送」の方は、ベートーヴェンの試みの作品と位置付ければいいようで、全楽章を通じて、ソナタ形式が使われていないと言われていました。そこに対し、「田園」は、古典回帰が看られる作品で、ベートーヴェンの彷徨を伺うことを知れるのだとも言われていました。確かに、後期の作品が書かれたときに比べると、ピアノ自身が発展途上にあったはずで、その変わりつつある可能性の大きな楽器を使い、作曲の方向性を、ピアノソナタを書きながら、進化していったのが、ベートーヴェンかもしれません。ベートーヴェンは、ピアノで試したことを、シンフォニーの作曲など大がかりな曲目に活かそうとしていた、これは、佐藤さんの言葉でした。相変わらず、実に美しい音を出す高音に、今日も満足度の高い演奏。家に帰ってからも、ベートーヴェンのピアノソナタをかけたくなる気分にさせてもらえました。


2017年 12月 23日(土)午前 0時 28分

 今朝、ドイツから帰って来ました。飛行機の中で爆睡してしまったため、あまりにも呆気ないフライトになりました。むしろ、搭乗までに時間を要したというのが、正直なところ。乗り継ぎに4時間、更に、ルフトハンザの大阪便が、すっかり過去のものになっていたかと思った「オーバーブッキング」状態だったということで、座席の確保に時間を要し、なかなか機内に入れなかったのです。病気の人を乗せるための座席確保が、「オーバーブッキング」に繋がったと、乗務員の方に伺いました。ということで、最後まで、移動手段にやきもきのオペラ紀行でした。そして、夜から、早速、行動開始です。今夜は、カフェモンタージュのコンサートに行ってきました。「J.ブラームス― 没後120年 ―」と題し、(ヴィオラ)鈴木康浩、(ピアノ)桑生美千佳のコンサートでした。鈴木さんが、読売日響の大阪公演に来られたのに合わせての開催でしたが、そのプログラムは、次のようなものでした。「J.ブラームス:ヴィオラ・ソナタ ヘ短調 op.120-1」「ヒンデミット:ヴィオラ・ソナタ ヘ長調 op.11-4」「J.ブラームス:ヴィオラ・ソナタ 変ホ長調 op.120-2」。2曲目が終わったところで、短い休憩が入ったのですが、その時点で、午後9時5分前。たっぷり感のあったコンサート。ブラームスの2曲は、元来はクラリネット・ソナタとして書かれたもの。その2つについては、昨年でしたっけ、村井さんの演奏で出ていたのですが、今日は、そのヴィオラ版。重音が入ったりしていることから、クラリネット・ソナタと、全く同じだというわけではないようです。しかしながら、鈴木さんの演奏は素晴らしい。今まで2度、その演奏を聴いたと言っても、アンサンブルの一員としてのもの。確かに、その実力の片鱗は看た思いがしていましたが、ソロ演奏は、そんなものではありませんでした。音の持つ力強さ、総量としてのパワー、歌わせる音楽性、いずれをとっても、圧倒されっぱなしの1時間余りでした。帰国早々、とってもいいコンサートに行けました。オペラもいいけど、室内楽もいいですね。


2017年 11月 27日(月)午後 11時 1分

 今日は、フェニックスホールでのコンサートに行く日。今夜は、関西弦楽四重奏団 の「ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 全曲ツィクルス 第1回」がありました。既に、関西弦楽四重奏団(林 七奈、田村安祐、小峰航一、上森祥平)は、カフェモンタージュで、この全曲演奏会を完了しているのですが、今回、新たにフェニックスホールに会場を移し、再度、全曲演奏会を行おうというもの。黄紺は、カフェモンタージュでは、日程の都合で全曲を聴けていないということで、今回も、スケジュールが合う限り、足を運ぼうと考えています。今日のプログラムは、次のようなものでした。「弦楽四重奏曲 第1番 ヘ長調 op.18-1」「弦楽四重奏曲 第10番 変ホ長調 "ハープ"op.74」「弦楽四重奏曲 第12番 変ホ長調 op.127」。 最後に挨拶に立たれた小峰さんのお話しだと、今日は、第1回なので、長調の曲ばかりを集めたとか。次回は逆で、短調ばかりと言われていました。また、初回だということで、第1番を冒頭に置いたということは、プログラムの挨拶の中に書かれていましたが、これは、時系列な1番ではなく、発表する際に、ベートーヴェン自身が1番に置いたとか。自信作だったのかもしれません。確かに、作品18の中では、取り上げられる頻度の高い曲で、メロディ・ラインも、耳に残りやすいものとなっています。ただ、黄紺の耳のせいが1つ、次いで会場が替わったことが1つで、1番の1楽章が、黄紺的にはきつかった。カフェモンタージュで聴き慣れた音と随分と違うものですから、えらくひ弱く聴こえてしまっただけではなく、バランスもイマイチのように、黄紺の耳には届いてしまいました。また、ホールが大きいだけではなく、残響が、こないになかったっけと、ホールに問題を感じたり、頭の中は、かなり騒動になっていたのですが、あとから考えると、慣れの一言で解決できたようです。そんなで、1番は助走期間と言えばいいかもしれません。もう、10番「ハープ」が、頗る付きのお気に入り演奏になっちゃいました。元々、10番好きの黄紺にとり、カフェモンタージュでは聴けなかったのが聴けたという感激の上に、パスカルの原理の水の入った球を見ているような素敵なアンサンブル。今日は、1番だけ林さんが第1ヴァイオリンを弾かれ、あとの2曲を、田村さんが第1ヴァイオリンを弾かれたのですが、この10番の田村さんが大正解。切れとか鋭さでは林さんでしょうが、繊細さや柔らかさでは田村さんと思っているのですが、正に当たりでした。ベートーヴェン円熟の後期弦楽四重奏曲群の第1曲目となる12番は、いろんな顔を持つ名曲であると同時に難曲。でも、弦楽四重奏団としての統一性を、しっかりと感じさせる素敵な演奏。1楽章を、カンタービレを効かさず、アクセントを効かすスタイルに、へぇ~~と感嘆。ここは、林さんに第1ヴァイオリンを弾いて欲しかったなと思っていたら、ロマン派を先どりしたかのような2楽章のアダージョの田村さんのヴァイオリンがコケティッシュで、聴いていて、思わず笑みがもれてしまいました。3楽章のオブリガード風の第1ヴァイオリンにもしびれました。いやぁ、冒頭での不安など、終わってみれば、全くの取り越し苦労。次回は、何と、ラズモフスキーの2番と、名曲中の名曲15番が、一緒にプログラミングされています。楽しみです、ホント。もう、日本を離れるまで、僅かの時間が残っているところとなっていますが、その前にいいもの聴けました。オペラ紀行の前祝いの気分です。


2017年 11月 26日(日)午後 10時 27分

 今日は、まだ観てなかった文楽11月公演の第2部を観る日。その番組は、次のようなものでした。「心中宵庚申~上田村の段、八百屋の段、道行思ひの短夜~」「紅葉狩」。「心中宵庚申」は、夫婦ものの心中という特異な設定。その心中のわけが、「上田村の段」では、姑による嫁いじめの結果のことであろうというのが、はっきりとはしないのが気持ち悪いところ。なんせ、夫半兵衛が、旅の帰りに、嫁の実家に寄ると、嫁が離縁されて、そこにいるという状態で、半兵衛の養母に追い出されたということから、そうではないかと推測されるのですが、実態は、よく判らないまま推移。その気持ち悪さは、ですが、「八百屋の段」で、あっさりと判明。ありえないほどのいじわる婆さんとなっていました。かなり、デフォルメされていますから、心中を決意する悲惨な場面ながら、ちょっとチャリ場の雰囲気さえあります。半兵衛は、実の甥がありながら、養子である自分に、家督を譲ろうとしているので、孝行しなければならない、嫁いじめの結果、離縁をしたという評判が立たないように配慮します。妻の実家への配慮とともに、結論は心中となるという物語。この物語、どういうかげんでなのかが判らないままなのですが、半兵衛は武士の出となっています。「道行思ひの短夜」で、自害をするのですが、半兵衛は武士の出らしく、妻を刺したあと、辞世の歌を読み、腹を切って自害をするというひねりが加えられています。ひょっとしたら、近松が、この自害の演出効果を考えて、このような設定にしたのかなと思ったりしました。そして、以前から気になっていたことですが、なぜ、この心中が、庚申参りの日に設定されたのか、そのわけが判りました。「申」=「去る」(この世から去る=死)のダジャレ、それと、庚申参りの賑わいに紛れる、こうした2つなのでしょう。あくまでも、前者が先にありきでしょうが。太夫さんは、「上田村の段」が文字久太夫、「八百屋の段」が千歳太夫でした。千歳太夫さんが、元気を取り戻されたようで、かつての気合いの入った声で、長丁場を務められたのが印象に残りました。人形の方は、当代の3エース揃い踏みでした。半兵衛を玉男、その妻お千代を勘十郎、お千代の父島田平右衛門を和生でした。お千代の姉おかるを務められた簑助さんは、「上田村の段」の途中まで遣われ、その後を簑二郎に託すという変則的な形で出演されましたが、ちょっとだけでもお付き合いいただけるのは、嬉しいところでした。「紅葉狩」は、能が基になった作品。文楽の場合は、歌舞伎を経ての移入だそうで、そのために、能がかりにはなっていませんでした。ただ、冒頭に、維茂の名乗りのようなシーンがあったのが、僅かな名残りかもしれません。この作品は重い扱いなのかなぁ、人形遣いの方たちは、上下装着で、更科姫を使う3人は、皆さん顔出しでした。ですから、更科姫が、特に重い扱いということなのでしょう。維茂の前で見せる舞では、特殊な手が入り、あっさりと納得。維茂に危険を知らせるのは山の神とグレードアップ。能の末社の神に比べると、それだけでスペクタカルです。そして、鬼女の登場。鬼女を遣われた豊松清十郎さんは紅葉模様の着物に直衣のようなものを着けて出てこられました。着替えをされていたということでしたが、今度は、左手と足遣いの2人は、本来の黒子装束でした。斬り組の途中、なんと鬼女は、口から煙を吹きました。いっそのこと、グレートカブキのように、カラフルな霧を吹けば良かったのにとは思いましたが、一瞬、びっくりでした。前に「紅葉狩」を観たときの演出を、全然覚えてないものですから、とっても新鮮。華やかさのある舞台だと感じれたのは、やはり歌舞伎経由だからでしょうが、一方で、能の持つ緊迫感は、とこかに行ってしまってました。ま、仕方ありませんね。方向性の違いということだと思います。今日は千秋楽。終わって外に出ると、公演用に、入り口にあった看板などが、全て撤去されていて、ちょっと寂しかったな。今度、文楽劇場に来るのは、もう年が替わっているはずです。そう思うと、時間の経つのは、あまりにも早いです。あんまりというほど、、、。


2017年 11月 25日(土)午後 10時 58分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は「無伴奏ヴァイオリン」 と題した、川田知子さんのソロコンサートがありました。演奏されたのは、全て、J.S.バッハの曲で、そのプログラムは、次のようなものでした。「無伴奏ヴァイオリンソナタ 第1番 ト短調 BWV1001」「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006」「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004」。どうも、最近、バッハの曲が苦手になってきています。以前は、同じリズムの繰り返しのなかに、演奏者の込める様々な想い、感性などを感じ取るのが楽しみで、そういったことを可能ならしめるバッハの曲の奥深さに魅いられたものだったはずですが、 それを、最近はかったるく感じてしまうのです。ですから、今日も同様で、川田さんの厚みのある素敵な音を奏でていただいていても、なんとなく空々しく映ってしまってました。声楽を伴うような場合はそんな印象を持たないのですが、ちょっと変な病にかかってしまったみたいです。


2017年 11月 25日(土)午前 6時 2分

 今日は二部制の日。と言っても、午後に「第92回 上方演芸特選会」に行き、夜は、昔の同僚との食事会があった日でした。まずは、「上方演芸特選会」の記録からです。今回は、チケット購入は無理かと思っていたところ、最後の1枚のチケットを手に入れることができました。その番組は、次のようなものでした。小留「普請ほめ」、京山幸太(一風亭初月)「安珍清姫」、地獄の遺伝子「漫才」、南北「男の花道」、(中入り)、帰天斎正紅「奇術」、真山一郎(真山幸美)「雪の南部坂」、福郎「太閤の白猿」。今月は、小留と染八が、前座と鳴り物を交替でとなっていたのですが、小留の鳴り物は1日だけで、もう1日は、三実となっていました。小留の口演は久しぶり。この人の落語を聴くと、どうしても落研上がりと、未だ思ってしまいます。達者なお喋りだけど、ちょっと自己満足的なくすぐりが入ってしまいます。時間の都合でしょうね、誉め言葉も割愛しながら、牛は出てきませんでした。幸太くんの「安珍清姫」は初めてのはず。安珍が道成寺に、身を隠すまでを語りで、そこから、息の長~い節になります。要するに、クライマックスが、延々と節で形を作るという趣向。いろんな形のネタにチャレンジして、また、そのクォリテイが高いものですから、聴き惚れてしまいます。そして、最高の山場で切り上げるのは、お約束でした。今日は、漫才を聴いている終盤に居眠りが発生。そのため、南北さんの口演が吹っ飛んでしまいました。口演の最中で、気がついたら、なんと「男の花道」でした。でも、中入りまで覚醒できなかった。勿体ない。真山一郎師、先日の一心寺で、この4日間は「忠臣蔵」で通すと宣言されていました。その一心寺で、黄紺は「南部坂」に当たったのですが、まさか、ここで再会はしないだろうとたかをくくっていたのですが、大当たりでした。時系列で「忠臣蔵」をかけているなと判ったとき、覚悟を決めた黄紺でした。トリの福郎は、入門時期や新世界花月での思い出話をしてくれました。これが、おもしろかった。客席には、同期の文福が陣取り、この話に、我々と一緒に声を上げて笑ってました。鶴瓶と仁福は同期だと知っていたのですが、それに加えて、福郎&文福だそうです。新世界花月で、客に歌わされた話をしてから、歌で始まるネタへ。その歌が、下げの伏線になるという絶妙の入り方に感服。このネタ、あまりに、具体的な武将の名が出てくるものですから、釈ネタかと調べてみたのですが、判らないままです。変な噺です。秀吉が、秀吉似の白猿を飼い出して、その白猿に悪戯を仕込み、名だたる武将に悪戯をさせて遊ぶのですが、伊達政宗が逆襲に転じたところで、忘れていた冒頭の歌に戻り、下げとなるというものでした。先代の福郎から伝わる噺のようで、べ瓶が出したときに聴いた記憶のあるものですが、本家の方で聴いたのは初めてとなりました。福郎、いいトリでした。
 そして、夜までは、少し時間があったので、ちょっと買い物などをしてから、集合場所へ。半年ぶりの再会の方から、2年ぶりくらいの再会の方まで、旧交を暖めることができました。


2017年 11月 24日(金)午前 7時 8分

 昨日は、高津神社で落語を聴く日。恐らく、これが、オペラ紀行前最後の落語会になりそうです。昨夜は、こちらで、「初心者お断り落語会・微笑落語会~たま主催の会に10回以上お越しの方に~」がありました。笑福亭たまが、古典のネタ下ろしをする会、久しぶりにおじゃまをしてみました。その番組は、次のようなものでした。大智「道具屋」、たま「稲荷俥」、喬介「天狗刺し」、たま「鶴満寺」、(中入り)、たま「黄金餅」。大智は、たまの前座によく使われます。おもしろいキャリアを持ち、それが、たまの世界とは、随分異なることからくるおもしろさがあるのと、やはり落語が上手いからかなと思っています。「道具屋」に出てくる長閑なアホも、大智の手にかかると、とっても愛嬌が出てきますものね。聞き及ぶキャリアなどは、大智の語る落語のキャラから想像できませんからね。ですから、余計におもしろさが増している感じがしてしまいます。ゲスト枠は喬介。「天狗刺し」でした。まず、冒頭のやり取りを、「道具屋」風で入って笑いを取っていました。こういった臨機応変さに脱帽です。ネタは、喬介の口演で、何度か聴いているもの。昨日も、明るく爽やかな喬介でした。主役のたまは、3席ともにネタ下ろし。ま、これが、「微笑落語会」の方針ですからと言え、毎回ですから、すごいとしか言いようがありません。「稲荷俥」は、米朝による復活噺なもので、たまが手がけただけで違和感が出てきてしまいますが、さほど演じ手が多いとは言えない噺だけに、歓迎しなければならないところでしょう。この噺って、全体的に暗闇の支配する噺って印象を持っています。序盤の産湯楼までの道のりだけではなく、俥夫が自宅に帰ってくるところ、騙した男が、俥夫の家を訪ねるところ、全て暗闇で、俥夫の家の中だけが明るい。でも、ボーッとした明るさ。そして、フェードアウトをしてみると、全体がセピア色の写真になり残っているというイメージがあります。写真になって残っている、ですから、明治の文明開化の時代なのです。そう、この噺は、どことなく明治の香りが欲しい噺なのです。旧弊な俥夫とハイカラな客、このコントラストを強く感じさせる噺です。新旧のコントラストを意識させる噺と思うのですが、そういった意味では、たまの口演は、流れと、挟まれたくすぐりを確認するような発展途上的な口演と看ました。「鶴満寺」も珍しい。林家の噺と思っていますが、今や雀々としん吉くらいしか演じ手を思い出せないネタ。春爛漫の桜散る風景を見せて欲しい噺。と同時に酒の噺でもあります。鶴満寺に着くまでをカットして、寺男との交渉から噺はスタート。そのために、花見を楽しもうという者たちのワイワイがやがやが刈り込まれてしまったのではないかな。たまの刈り込みは、筋立ての骨子は外さないで、残してはいくものの、噺の枠をもたらす空気のようなものをもカットしてしまうことが、ままありますが、「鶴満寺」という花の噺でも出てしまったのかと思いました。溢れんばかりの桜があってこそ成り立つ噺なわけですから、筋立てだけが際立てばいいとは思えないのです。その傾向が、更に顕著に現れたのが、最後の「黄金餅」でした。東京ネタで、上方への移植は文太くらいしかやってなかったかもしれませんが、噺の中味、流れから考えると、移植をしても、全く無理のあるものではありません。この噺は、かなり陰湿、いや陰湿の極の噺かもしれません。強欲の極みのような破戒僧、その男が腹に呑み込んだ金を狙う男、形だけの葬礼(たまはカット)、隠亡(たまはこの語句は使わず)とのやり取り、骨からの金の取り出しと、陰湿な流れこそが、この噺の真骨頂となっていると思っています。確かに、道行を省いても、これは障りはないでしょうが、破戒僧の金への執着は濃く描いて欲しいな、少なくとも。序盤で、この決めを、しっかり入っていたら、激しい刈り込みを入れても、かなり陰湿さが出たのかもしれないなと思いました。「黄金餅」が、あまりにもあっさり流れ、終わってしまったものですから、家に帰ってから、YouTubeを使い、東京の噺家さんの口演を聴いて、確かめたほどでした。それで、黄紺の記憶は、やはり確認でき、「あっさり」のわけも確認できたのでした。たまの3席のネタ下ろしは、必ずしも成功だとは思えなかった内容でした。たまは、出したらおしまいという人ではないため、これらの噺との次なる遭遇を楽しみにしておきましょう。


2017年 11月 23日(木)午前 5時 56分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は「弦楽五重奏」と題し、(ヴァイオリン)長原幸太・直江智沙子、(ヴィオラ)鈴木康浩・金本洋子、(チェロ)上森祥平の5人による演奏がありました。そのプログラムは、次のようなものでした。「J.ブラームス:弦楽五重奏曲第2番 ト長調 op.111」「J.ブラームス:クラリネット五重奏曲 ロ短調 op.115 (ヴィオラ版)」。今日は、曲目に人気曲が並び、名の通った演奏者が並んだということもあったからでしょうか、大変な入り。演奏者の方も、京都及びその近郊在住の上森さん、金本さん以外は、明日のコンサートのために、京都や大津入りされている東京方面から来られた方たち。正に、一期一会のコンサートになりました。まず、冒頭の溌剌とした音の響き、流れに圧倒されました。2人のヴァイオリンにダイナミズムを感じました。上森さんのチェロの軽やかで、且つ、音に重みを感じたことってあったろうかと考えていると、鈴木さんの歌心があるかのようなヴィオラにしびれと、これは、極上のアンサンブル。内から沸き上がるオーラを感じる演奏、カフェモンタージュで、これだけのオーラを感じたのは、松本&向井&上里の3人によるショスタコのピアノ・トリオ以来じゃないかな。一方の「クラリネット五重奏曲」の「ヴィオラ版」は、その存在すら知らなかったもの。どうしても、同じ曲とは言え、クラリネット版は耳に焼き付いているため、視線に偏りができてしまうのは致し方ないことなのですが、どうしても、クラリネット版に軍配を上げたくなりました。弦楽四重奏にソロ楽器のヴィオラとなると、ソロ楽器としての色合いが薄れ、どんどんと、弦楽四重奏に取り込まれていくという感じになっていきます。クラリネット・パートを、そのままヴィオラに置き換えて弾くだけで、今まで気づかなかったことが現れてきました。存外、独奏楽器が、弦のいずれかのパートと同じメロディを演奏しているということ。となれば、ますます独奏楽器としての色合いが薄れて行ってしまってました。そんなで、こちらが目玉かと思ってはいたのです、なんせ、珍しいということは、それだけで、大きな価値を持っているものですが、この置き換えは、黄紺には馴染みがたいものになってしまいました。ただ、鈴木さんのクォリテイは、噂では聴いていたのですが、ソロという役割を得て、その噂通り、傑出したものであることは、十分、確認できたと思っています。以前、何かのアンサンブルを聴いたときは、そこまでは思わなかったのですが、弦楽五重奏を聴いていたときに、既にただならぬものを感じることができていました。客席には、著名な音楽家の姿もあったとか。終演後、知り合いから聴いて、びっくり。覗いてみようかと思う顔ぶれだったのでしょう、また、それに相応しい演奏を披露していただけ、とっても満足度の高いコンサートでした。


2017年 11月 21日(火)午後 8時 57分

 今日は、シネマート心斎橋で、韓国映画を観る日。ソン・ガンホやコン・ユの出る「密偵」を観てきました。ソン・ガンホの役は、朝鮮人であり、且つ、日本警察組織に入り、特高の任務を遂行している男。捜査対象は、朝鮮独立を掲げ、武力闘争も辞さない義烈団。その義烈団の中でも、リーダー格の男(コン・ユ)に接近をしていくのですが、逆に、義烈団(団長役がイ・ビョンホン)に逆スパイ(=密偵)を持ちかけられるのですが、義烈団内部にも密偵がおり、ソン・ガンホも、どこまで、本心で動いているのが判らないというサスペンス・タッチの進行でした。ソン・ガンホの心底が見えてきたところで、一旦、ストーリーの山を越えて、このあと、どのような展開が待っているのかと思っていると、ソン・ガンホの心底の深さが判るラストへと繋がっていきます。ちょっとした二重構造のストーリーが、後味を良くしていますね。黄紺も知る3人の著名俳優以外では、義烈団の女性密偵にキム・ジウン、憎まれ役の総督府役人を鶴見辰吾、その部下でソン・ガンホと張り合う男をオム・テグというキャストでした。観る前は、もっとワイルドで、苛烈な映画かと思っていたのですが、そう思って臨んだからでしょうか、コン・ユのおぼっちゃん顔が、癒しになったからでしょうか、思いの外、ゆるやかに観たなという映画でした。それにつけても、植民地時代の厳しい映画が、次から次へと日本でも公開されるようになってきたのは歓迎気分です。「アウシュビッツの灰は金に変わった」、これは、欧米の映画産業で言われる言葉ですが、韓国の映画産業には、「植民地統治下の血が金になった」というところでしょうか。それを、韓国国民だけではなく、日本国民も楽しんでいるように思います。えらい時代に入って来ていますが、長閑な世の中になったというところですかな。


2017年 11月 20日(月)午後 8時 59分

 今日は、メトロポリタンのライブビューイングを観る日。今シーズンの最初のプログラムになります。今日は「ノルマ」(デイヴィッド・マクヴィカー演出)でした。つい先日、びわ湖で「ノルマ」を観たところ。こないに短期間で、「ノルマ」を続けて観れることは、なかなかないこと。ましてや日本でですから、とってもありがたいこと。配役は、次のようなものでした。(ノルマ)ソンドラ・ラドヴァノフスキー、(アダルジーザ)ジョイス・ディドナート、(ポリオーネ)ジョセフ・カレーヤ、(オロヴェーゾ)マシュー・ローズ。デイヴィッド・マクヴィカーのプロダクションは、毎度ながら、具体的、そして、理に叶った装置に衣裳。この「ノルマ」は、メトロポリタンの舞台をフル回転させての転換が、圧倒的迫力を持っていました。自然崇拝から生まれたドゥルドゥイ教を奉ずるケルト人社会を表すのに、巨大な樫の木が据えられます。冒頭の場面から、ノルマの館に場面転換するときには、次なる装置が、下からせり上がってきました。そして、樫の木の根が張った家が、ノルマの館になっているという具合で、舞台装置には、自然と生きる社会が舞台であることを意識させるもので作られていました。舞台転換には、このような上下移動に加えて、左右の移動、前後の移動と、併せて5つの異なった舞台が用意されており、それらがスライド、リフトによる移動と、正に贅を尽くしたもので、メトロポリタンならではの豪華さを誇るものでした。歌手陣では、やはり女声2人が圧倒的迫力。ソンドラ・ラドヴァノフスキーは、手慣れた役だということがあるのですが、意外と、ジョイス・ディドナートは初役だとか。現在では、メゾが歌うことが慣例となっていますが、ベルリーニの指定ではソプラノでしたから、ハイCなんてのが入っていることから、メゾなら誰しもが歌える役ではありません。ジョイス・ディドナートならではの配役だと言えます。この2人の歌唱を聴いて、これほどまでも、2人の心情を掘り下げたものって、そうはなかろうと思える、シリアスな歌唱に圧倒されました。アダルジーザという役を、したたかな女として捉えることも可能かとは思うのですが、ジョイス・ディドナートのインタビューでは、デイヴィッド・マクヴィカーとも話し合い、献身的、ピュアで強い女として歌っていると言ってましたが、正に真摯な人柄が現れる歌唱で、迫力満点でした。一方のノルマも、揺れはありながらも、ピュアさを失わない真摯な人柄を、あくまでも追求したもの。高音のピアノッシモが、とっても美しい、力の入った歌唱は、魅力満点。プロダクションの方向性に、見事な一致を看たものだったと思います。それに対して、不満が残ったのはジョセフ・カレーヤ。現在最高のテノールの1人と言っていいジョセフ・カレーヤですが、殊に前半、音程が不安定で、ちょっと困ったちゃん。終盤では持ち直したとはいえ、前半の不安定さを拭い去るものだったかというと、必ずしもそうとは言えなかったのかと思います。黄紺は、1度、ジョセフ・カレーヤには、ベルリンでドタキャンをされていますから、どうもいいイメージが残らなくて困っています。評判はいいものですから、この乖離に戸惑っているところです。そして、このプロダクションのもう1人の功労者は、指揮のカルロ・リッツィ。いわゆるツボを心得た指揮というやつで、華やかな歌手陣の活躍に、見事に華を添えていたと思います。今日も、福井から、高校時代の友人が、この「ノルマ」を観るだけのために入洛。終映後は、しばしオペラ談義。中学生時代、2人で、家を行き来して遊んでいたような気分です。あの頃と変わらず、音楽の話をしているのって、やっぱ嬉しいことですよね。


2017年 11月 20日(月)午前 5時 26分

 昨日はバレエを観る日。びわ湖ホールであった新国立劇場バレエ団 による「くるみ割り人形」(ウエイン・イーグリング演出・振付)を観てまいりました。毎年、年末のオペラ紀行では、「くるみ割り人形」を、どこかで観れるように努力をするのですが、今年は、際どく外してしまったものですから、こうやって観る機会があることは、とっても嬉しいこと。おまけに、新国立劇場バレエ団のスタンスや実力も、目の当たりで知ることができると、一石二鳥というわけです。日本でのバレエ公演では、さほど読み替えなどの捻りはなかろうと思い出かけたわけですが、ま、当たらずも遠からずという具合だったのですが、若干、捻りが加えられていました。1つは、現実の世界のクララは、子どもだということで、子どものダンサーが演じ、夢の中のクララは、成長しているとし、それは、通常のダンサーが演じたという点、2つ目は、夢の仕掛け人をドロッセルマイヤーとし、夢の中で案内人を務め、くるみ割り人形が王子に変身するのですが、それは、ドロッセルマイヤーの甥(プログラムの記述より)の姿をしている。要するに、クララにとっては、その甥が憧れの人で、だから、夢の中では、大きくなりカップルになっているということにしてあったということでしょう。あと、おもしろかったところを幾つかメモっておきます。クララの部屋から始まり、次には、パーティ会場となるかと思いきや、クララの家の前から始まりました。行き交う人たちは、全てローラースケート着用。バレエに相応しいスピード感があり、なかなかしゃれた演出。夢の中に入るのを表すのが、クララが、ネズミと大きさが同じになるというところで、それを表すのに、クルスマス・ツリーを巨大化する演出があると聞いてはいたのですが、黄紺が、今まで観たプロダクションでは、そないなものを観たことがなかったのですが、ついに、それを観ることができました。クルスマス・ツリーの下に置かれた贈り物と変わらない背丈への変身を見せてくれました。ドイツで、バレエを観ると、ダンサーは、体操の選手のような体つきをしていて、鍛えられた体からは、とっても敏捷な動きに、目をみはるアクロバチックな動きが常態化しているように思えますが、このプロダクションが古風なのでしょうか、ほぼ、そういったものを観ることができないでいたのですが、後半の様々の振り付けの中に、それらしきものを、僅かですが、散見できたかなと思いました。でも、まだまだ体力消耗度が低いかなという印象。主要3役を記し、記憶に留めるようにしたいと思います。(クララ)池田理沙子、(王子)奥村康祐、(ドロッセルマイヤー)菅野英男。なお、ピットには、冨田実里指揮の大阪交響楽団が入りましたが、音楽の大きさに、物足りなさが残りました。でも、「くるみ割り人形」は楽しくさせてくれるバレエです。今まで観た舞台が、この公演を観ることで蘇ってきました。客席を見渡して、年輩のおっさんが、意外と多いのにびっくり。黄紺も、その1人だったのですが、、。そして、どういうことで来ているのかなとは思いましたが、子どもたちの多いのが「くるみ割り人形」。これも、嬉しくなります。そういった光景ながら、客席に空席が目立つのは悲しい現実。いろんな意味で、バレエの日本の現実を見た思いがしました。


2017年 11月 18日(土)午後 11時 25分

 今日は、落語会が絡まない二部制の日。午後に民博に行き、夜にカフェモンタージュに行くという日でした。まず、民博はみんぱくゼミナール。今日は、「仮面の世界をさぐる―アフリカ、そしてミュージアム」と題し、国立民族学博物館長の吉田憲司さんのお話を聴くことができました。まず、館長という立場から、民博開館40周年を振り返ったお話から始まりました。民博の開館は、万博の跡地利用だったのですね。同じ時期に開館したものと、ずっと思い込んでいました。そして、この方、アフリカをフィールドとされてはいるのですが、仮面が先に関心事としてあったそうで、最初に調査に入ったのは日本だったそうです。で、その仮面繋がりで、アフリカに入られたということだそうです。民博のアフリカ・コーナーに行くと、木や葉っぱを使い作った大きな動物のオブジェのようなものが展示されてありますが、あれについてのお話を、そのあと伺うことができたのです。あれは、モーリタニア国境近くにあるザンビアのある村で行われている葬送儀礼に使われている被りものだとか。中に人間が入っていること、ましてや誰が入っているかなどということは、秘中の秘で、この儀礼について公開の席で話すのも、この儀礼を行っている人たちには解らない日本語で行っているからこそ許されていることと言われていました。研究調査に行っていたときも、1年以上は、毎日、あてがわれた畑を耕す日々を過ごし、ようやく認められたあと、村の男たちの組む講のようなものに加えられて初めて、秘儀の実態、作業などを教えられたそうです。その辺りの話は、正に現地調査に行かれた方だけに体験できる具体的なお話だけに、耳はダンボになりました。講のようなものに入るのは、なんか若者組に入るような感じで、ただ閉鎖性が強く、死に関わる秘儀に携わるということなのですが、それは、初潮を迎えた女性に、年配の女性から出産などに関わる情報を、女性組に入れることで伝達、そして共助していくという習慣に対抗する意味で、このような若者組らしき組織が生まれていったのかと想像されていました。「出産(=生)」に対する「死」という相対する構造になっているようでした。肝心の被りもの(=仮面)ですが、このケースでは、人間が動物の被りものを使うわけで、総じてと、一般化されましたが、仮面の姿形、ないしは表そうとするものが異形を取り、ないしは異形そのものであることから、その異形の持つ外部性を強調し、と同時に、不可視の存在を可視化することで、神秘的な力を示そうとしている、そないな、文化人類学で、語り尽くされた結論に導かれていかれました。もちろん、妥当な導き方だと思いますし、解りやすくするために、鞍馬天狗、月光仮面、ウルトラマンまで出しておられました。一般人相手の講演として、丁寧なものと言えるでしょう。ま、その結論なら聴かなくても判っていると言いたいところですが、それを導くフィールドワークのお話が、実に興味惹かれるもので、久しぶりに居眠りを、ほぼしないで聴くことができました。
 みんぱくゼミナール終了後は、閉館時間まで、同館の映像資料の視聴を楽しみ、その後、ウォーキングのつもりで、阪急茨木市駅まで歩いたのを含めて、カフェモンタージュへ移動。今夜は、こちらで、「J.S.バッハ」と題したコンサートがありました。演奏は、バロックヴァイオリンの齋藤佳代さんと、昨日に続く出演のチェンバロの三橋桜子さんでした。プログラムは、次のようなものでした。「前奏曲 ト長調 BWV902 (チェンバロ・ソロ)」「ヴァイオリンと通奏低音の為のソナタ ホ短調 BWV1023」「トッカータとフーガ ト短調 BWV565 (ヴァイオリン・ソロ)」「ヴァイオリンとチェンバロの為のソナタ ホ長調 BWV1016」。バロックヴァイオリンと称した演奏会は、何度か経験しているはずなのですが、今日の齋藤さんの演奏からは、かなり違った音というか、楽器そのものに、耳慣れないものを感じてしまいました。黄紺的には、モダンとの違いとしては、弓にあり、その違いによる音の変化を味わえる程度の違いを、両者の違いとインプットされていたのですが、今日の演奏を聴いていると、ボウイングにより、音の安定さに変化が出てくるのです。しっかりと安定した音が出るのかと思うと、そうじゃないときがある。そして、バロックヴァイオリンの音というのは、そないなものと、かつては思っていたところ、弓の違いだけと言われているのを聴いたとき頃から、両者の違いを意識することが、かなり難しくなってきていたのですが、今日は、昔に戻った感じがしてしまったのです。ヴァイオリン本体の構造に違いがないのでしたら、それは、単に奏者に原因ありとなるのでしょうが、そうとも即断できないのではとの不安が過ります。そんなで、ヴァイオリンの入る曲では、始終、不安な心地がして、その疑問を抱えたままに、演奏は進んでいきました。


2017年 11月 17日(金)午後 11時 30分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「H.パーセル」と題し、(カウンターテナー)中嶋俊晴&(チェンバロ)三橋桜子のコンサートがありました。一時、パーセルのアンセムに凝ったことのある黄紺にとり、パーセルに特化したコンサートは外せないのです。しかも、聴く機会の少ないカウンターテノールの歌手のコンサートだという付加価値が付きました。そのプログラムは、次のようなものでした。「もし音楽が恋の糧となるのであれば、続けたまえ!」「束の間の音楽」「ヴァイオルをかき鳴らせ」「もし音楽が恋の糧になるのであれば、続けたまえ!」「トッカータ イ長調 (チェンバロ・ソロ)」「美しき島」「ここに神々の承認あり」「愛しいアストレアより」「聞き給え、この世の全てが一つの音となって」「ロンド (チェンバロ・ソロ)」「ある魅力的な夜が私に喜びを」「ホーンパイプ (チェンバロ・ソロ)」「恋が甘い情熱であるのなら、なぜ…」「組曲 ニ長調 (チェンバロ・ソロ)」「嘆きの歌」。パーセルだけに限らず、バロック・リートはいいですね。その昔、エマ・カークビーの歌声にはまっていたのを思い出しながら聴いておりました。いきなり中嶋さんのソロで始まるという意外性のある始まり方。ノンビブラートで伸びやかに伸びるカウンターテノールというものは、神秘的ですらありますね。それを三橋さんのチェンバロの細やかに動く分散和音が支えるという展開。ただ、中嶋さんの歌声は、短いパッセージとなると、微妙にノンビブラートが崩れるのが、ちょっと痛いというのは、細かなこととして、中嶋さんのいいのは、魅力ある低音。カウンターテノールの低音って、聴くからに難しそうなのですが、たっぶりと響かせる余裕すらお持ちのテクニックに、今日一番の驚嘆。あまりに気分がよく、先日の弦楽版ゴールドベルクよろしくまどろみかけました。極上のまどろみです。バッハはよく出るカフェモンタージュですが、パーセルって、なかなかどころか、初めてじゃなかったかな。テレマンは、寺神戸さんのときに出てるのですが、、、。ま、そういった意味でも、記念すべきコンサートだったかも。そして、三橋さんのチェンバロとの組み合わせで、コラボのコンサートが、今後企画されていることが、オーナー氏からお話がありました。内容は、あとのお楽しみなようですが、どんなプログラムが出てくるかを見るだけでも、楽しくなっちゃうカフェモンタージュです。


2017年 11月 17日(金)午前 7時 21分

 昨日は落語を聴く日。昨夜は、いい落語会が並ぶなか、地下鉄「四天王寺前夕陽ヶ丘」駅近くであった「第3回笑福亭仁智一門 光照寺落語会」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。大智「看板のピン」、八斗「野ざらし」、智丸「禁酒関所」、(中入り)、智之介「おごろもち盗人」、仁智「出前持ち」。第1回はご祝儀として、超満員の客席だったのは別格として、第2回とは、ほぼ変わらない入り。徐々に定着しつつあるのが嬉しいですね。何よりも、大黒柱仁智という絶対的な存在がいることが強みで、このまま持続するのではと看ています。お弟子さんたちにとっては、まことにありがたい会だと思うのですが、智六はどうしたのでしょうか。八斗が代演に出ましたが、何やら気になります。大智は魅力的な若手(年齢はいってますが)です。渋味ばしったおやっさんと、能天気な若者の対比がくっきり出ていて、とっても光景が浮かびやすくなっています。八斗は、マクラで「マッハ刻うどん」を披露。これは、おもしろい。アイデアだけでも傑作なのに、それを、実際にやってみせるというので、更におもしろい。久しぶりに八斗の高座に遭遇しましたが、格段に噺が流れるようになっています。昨日は、「マッハ」のノリでネタに入ってしまったのか、噺が流れすぎてしまい、噺に付いているはずのアクセントが薄まってしまったのじゃないかな。もっと、他のネタも聴いてみたくなりました。中トリは、弟子たちで回していくとなっているそうで、本来なら智六の番のはずが、昨日は智丸に。智丸は、遭遇のたびごとに、違ったネタを聴かせてくれます。これは、智丸くらいのキャリアでは、なかなかできないこと。今までは、こじんまりとまとまってはいたが、特徴が出てこない、印象の薄い口演を聴いてきたように思いますが、昨日の口演は、なかなか弾けていて、存在感がぐ~んと上がったように思いました。わりかし酔いっぷりが見せてくれる、聴かせてくれるのです。素の内気そうな喋り方からは見えない一面を見せてくれました。ですから、だだけ者が出てくる噺にチャレンジしていくと、何かキャラを突き破る落語をしていける人じゃないかなと思いました。中トリに相応しい口演でした。智之介は、普段の落語会では、あまり遭遇できないものですから、「おごろもち盗人」も初遭遇のはずです。嬉しかったのは、盗人が地面を掘り、手を家中に突っ込むところで、見台の下から出を出してくれました。6代目は、そのような所作を使ってましたが、最近は、見台の上でやっちゃいますから、この型を観たのは久しぶりでした。更に、智之介オリジナルを、幾つか見ることができました。空いている左手で、小刀を出し、地面を掘り、括っている紐を切ろうとして、両手ともに縛られる盗人なんてのを入れていました。片手が空いていたら、懐中の小刀を出せるというところから来ている新解釈になるはずです。智之介の口演では、両手が縛られているから、懐中のものを出せないとなるわけです。また、両手を縛られた途端、背中が痒くなるなんてのも入れ、替わりに犬は出さないとし、過剰なくすぐりにならないようにしたりと、なかなか考えています。その一方で、夫婦の会話で、「はよ、寝まひょ」がおいしいくすぐりだということで、ちょっと使い過ぎていました。でも、総じてちょっとしたさじ加減が入ったいい口演だったのじゃなかったかな。仁智のネタは初もの。仁智のHPに出されてある「100のネタ」の最後に上がっているものでしょうから、新しい作品と思われます。前半は、間違って入ってきた出前持ちが、間違った家の者に、へ理屈を繰り返して、その幾つかはダジャレの連発になってましたが、持って来た天ぷらそばを引き取らそうというもの。その話を、酒を呑みながら、上司に話すサラリーマン同士の会話となるのが、後半。そこで、思わぬ展開が待っているというものですが、この展開が、客に読まれることを想定して、仕掛けが施されているのが、憎い仕立てでした。特に、前半の訳のわからない会話が、仁智お得意の繰り返しで、もう仁智ワールド全開となっていました。定期的に、こうやって仁智の落語を聴けるのは、ホントにありがたい。一門会効果でもあります。


2017年 11月 15日(水)午後 11時 15分

 今日は講談を聴く日。天満橋の双馬ビルであった「南華の会」に行ってまいりました。前回は行けなかったものですから、7月以来となります。その番組は、次のようなものでした。「西郷さんの東下り」「寺坂吉右衛門」。以前は、長めの近況報告を、マクラでされていた南華さんですが、最近は短めなのが、ちょっと不満なのですが、あまり目新しいネタがないのかもしれません。今日は、来年1月のお誕生日独演会の宣伝も兼ねて、その会のゲストに喚ばれる神田陽子さんのお話が、中心を占めていました。大阪でも、一緒に会をされている神田陽子さんにお稽古もつけてもらわれているそうで(東西交流の一環と思われます)、そないな関係で、東京での会にも、南華さんは出てこられたようです。南北さんと、あまりお歳は変わらないなんて、ちょろっと口を滑らされ、びっくりさせられました。で、ネタですが、「西郷さん」は、師匠直伝のもののようでした。というのも、口演の途中で、師匠の話が、2~3度出てきましたからね。尊皇ということで、つけ狙われる時期、正確には時期は特定されませんでしたが、そういった時期に、江戸に向かう西郷さんを狙う者たちによる追っかけ、また、それから逃れようとする西郷隆盛の作戦のやり取りというネタです。最後は、見ず知らずの女性と夫婦姿で成功するというもの。以前にも、どなたかで聴いた記憶はあるのですが、あまり細部には記憶が残っていませんでした。早くも、来年の大河ドラマにシフトされているということでしょう。次の「寺坂吉右衛門」は、びっくりの内容。通常、「寺坂吉右衛門」と言えば、討ち入り後、身分の低さから、切腹させるには忍びないとして、替わりに特別任務を与えられ、義士の中で1人生き残る物語が読まれるので、今日も、その辺りだろうという予想は、端からくつがえされました。幼少期から、吉田忠左衛門の元を、法度を破ったということで追放される話が、今日の読み物の中心で、蛇足のようにして、追放された吉右衛門の、江戸での成功と挫折、吉田家の浅野家からの離反、復縁の努力が付け加えられたのですが、吉右衛門自身の赤穂への帰参、ましてや刃傷、討ち入りなんてのは、欠片も出てきませんでした。これは珍品。おもしろいものを聴かせていただけれました。感謝です。


2017年 11月 14日(火)午後 11時 9分

 今日は、2回、ロームシアターに足を運ぶことになりました。昼間に、こちらのミュージックサロンで開かれているミニ展示「オペラの扉 2017~KNOCKING ON THE DOOR , OPERA EXHIBITION~」に行き、夜は、サウスホールであった「第338回 市民寄席」に行ってまいりました。「オペラの扉」は、新国立劇場の公演を知らせるもの。おかげで、公演の一部を、大きなスクリーンで観ることができました。そして、夜の「市民寄席」は、かつての京都会館の場所に戻ってきてから、初めて行ってまいりました。実に30年ぶりと言っても、決して大げさではない出来事です。大体、「市民寄席」自体が、20年ぶりくらいですから、そういった数字が出ても不思議ではありません。で、今日の番組は、次のようなものでした。天使「鉄砲勇助」、たま「軽業講釈」、三風「目指せ!ちょっと岳」、塩鯛「小間物屋政談」。天使の「鉄砲勇助」は初めて。ほとんど、オーソドックスなテキストで推移。猪の倒し方も、そのまま。ただ、聴き手の反応がワンパターンだったため、後半の北海道に入ると、ちょっと緊張感がなくなっていったのは残念。その北海道では、トイレのシーンはカットして、時間調整? それとも、女性噺家ということでの措置? どちらだったのでしょうか。たまは、KBS京都での失敗談から入りました。そして、ショート落語という流れ。「軽業講釈」は通常の流れ。但し、広い会場を意識してか、いつも以上に大きな身ぶり。流れにしても、たまの細やかな配慮です。軽業の部分でも、所作についての解説も入れていました。下げは、軽業の方が「講釈がやかましくて」という、逆手にとった物言いとなっていました。三風も、いきなり京都市民であることをアピール。たまと同様、京都での口演を意識しているのは、三風らしい心づかい。でも、ネタはべたべたの大阪もの。三風は、このネタを気に入っているのか、慣れた会以外では、よく出していますし、実際、いい反応が返ってきます。やっぱ、大阪のおばちゃんをうまく取り込んでいますから、鉄板化してきていることは確かです。「小間物屋政談」は、東京ネタということもあり、上方で持ちネタにしているのは、塩鯛と文我の2人だけじゃなかったかな。由瓶が持っていたかもしれませんが、いずれにしても珍しい。好メンバーが揃ったのと、このネタを目当てにしてのチョイスだったのです、今日は。塩鯛の口演を聴いたのは、確か、繁昌亭ができて間もない時期にあった「都丸独演会」以来のはずです。小間物屋小四郎が、追い剥ぎに遭った男に着物、金子、所書きを渡したのが、事の始まり。死んだと思われた小四郎が生きていたことから、かみさんは重婚状態に。佐々木さんのお裁きに回されるという、終盤はお裁きものとなります。それが、「政談」と名が付いている由来。ただ、この結末って、名裁きなんだろうかと、このネタを聴く度に考え込んでしまいます。大家もいいかげんです。そういったこともあり、塩鯛は、大家を揶揄するってことなんでしょうね、大家を滑稽な存在というニュアンスを入れての口演は好判断。ただ、三五郎については、地でいい男だと言い、大家の口からもいい男だと言われるだけで、小四郎に対抗するにしては、影が薄いのが気がかり。ま、余計なお喋りを入れていくと、ただでも長い噺が、更に長くなるという困ったことも起こってくるので、なかなか難しいところかも。今日の口演でも、正味のネタだけで、40分かかっていましたから。広い会場を埋めた客席を見ていると、あの落語ブームの時代とオーバーラップしてしまった懐かしい場所で、再び「市民寄席」に会えるだけで、黄紺には至福の時間となりました。


2017年 11月 13日(月)午後 7時 8分

 今日は浪曲を聴く日。今年最後となる「第281回一心寺門前浪曲寄席 11月公演」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。京山幸太(一風亭初月)「鬼若三次」、真山一郎(真山幸美)「南部坂 雪の別れ」、天光軒満月(虹友美)「空海一代記」、春野恵子(一風亭初月)「高田の馬場」。幸太くんの「鬼若三次」は、全くの初もの。幸太くんのマクラでの説明によると、「会津の小鉄の少年時代」に出てくるキャラだそうですが、全然記憶にありません。そういったお断りがあったものですから、「会津の小鉄」ものかと思っていたら、そうではなく独立した物語で、しかも、かなり長めのものの一部分のようです。となると、釈ネタってことになるのでしょうが、講談では、その欠片も聴いたことはありません。ネットで調べてみると、映画にもなっており、京山幸枝の音源が、幾つかの抜き読みとして残っていることが判明。気になるネタを知ってしまったのですが、幸太くんからすれば、家の芸となるわけですから、今後、このシリーズを持ちネタにするのではとの期待が膨らんでしまいました。今日の口演では、タイトルに名が出ている鬼若三次は、終盤に現れてくるだけで、その兄の牛五郎が、人のいいことを突かれ、堅気の女性との結婚を反古にされ、しかも、その話を無理矢理つけたのが、ライバルの親分だったことから、その復讐に鬼若三次が立ち上がったという、お約束のいいところで切られました。口演が終わると、近くにいた年配の女性らが、「上手いなぁ」と囁きあっておられました。そのあとからは、聴き慣れたネタが並びました。11月だということだからでしょうか、義士月ではないのですが、「赤穂義士」ものが2つ出ました。名作「南部坂 雪の別れ」は、元ネタの講談を含めて、いろんなヴァージョンがあるようですが、真山の「南部坂」は、始まって間なしに、大石と陽成院は会って話をしており、このネタのほとんどが2人の対話で進みます。ま、浪曲はええとこどりをしますから、そうなるのでしょう。そして、大石は、町人になると言い、武士であることが嫌になり、ましてや仇討ちなどはと言いますから、陽成院が怒るというお定まりの展開になるのですが、このテキストは、含みも何もなく、大石はウソを通し、陽成院は怒るという、しかも、かなり感情的になって怒るとなっているため、かなり単調と感じてしまいます。真山一郎師、前回聴いたときも、このネタだったように思います。こういった巡り合わせが、浪曲の会に行くと、よくあります。満月さんの「空海」までが、そうでした。かといって、さんざんパラ聴いた「父帰る」は避けたいと思うと、日曜日に行っておれば良かったということになるのですが、ネタ出しがされていないため、こういった悩みは続いてしまいそうです。しかも、満月さん、「空海」が短いネタだからと言って、歌のサービスをしてくれたのはいいのですが、歌ったのが「俵星玄蕃」、これ、長いのです。「空海」の半分近くの時間、歌ったのじゃないかな。まいったなぁ。トリは春野恵子さん。恵子さん、立派に、一心寺でトリを務めるようになっています。もちろん、出番は日替わりですから、恵子さんのトリは今日だけですが、、、。今回は、「高田馬場」の他では、「神田松五郎」「両国夫婦花火」を出していました。「高田馬場」は、もちろん中山安兵衛の駆けつけから仇討ち本懐達成までです。安兵衛が知らせを読むところから始まりますが、ここでもたつかないのが、いいですね。腹ごしらえをしてから出かけるなんてテキストがありますからね。途中、堀部母娘と会うエピソードを入れるのはいいでしょう。ちょっとしたアクセントがつき、他のエピソードへの繋がりにもなるという点も見逃せませんから。でも、今日の恵子さんの口演は、ちょっとしつこかったな。いかにも、このあとに、違う物語が控えているのが、これ見よがしに喋る堀部の母親は、ちょっと嫌みな印象を持ちました。そんなことよりか、目の前で叔父さんが亡くなってるのだからと、突っ込みたくなりました。いよいよ、18人斬りでしたっけ、仇討ちの場面、聴かせどころに入ると、ノリのいいリズムに乗りたたみかける節、それに三味線がすごかった、それらに圧倒された終盤でした。見事なトリでした。しかも、3日間の大トリに相応しい口演だったと思いました。


2017年 11月 12日(日)午後 7時 1分

 今日は、千日亭で落語を聴く日。今日の午後、こちらで「染左百席 千日快方」がありました。他にもそそられる落語会があったのですが、自分的には優先度の高い落語会なものですから、迷うことなく即決でした。その番組は、次のようなものでした。染左「就職活動」、紫「風呂敷」、染左「世帯念仏」、(中入り)、染左「景清」 。「就職活動」って何かと思っていると、何てことはない、「代書屋」の改作ものでした。よく出されるアホの出てくる部分を、台湾人に置き換えて、不十分にしか喋れない日本語の可笑しさと、強情な人柄の可笑しさを追求したものになっていました。これだったら、原型にある渡航証明書を書いてもらいに来る朝鮮人を、そのままやっても大差ないように思いました。染左作品なのか、ライターさんがいるのかは不明です。ゲストの紫は、相変わらずマクラが上手い。一気に、自分の空気に持っていってしまいますものね。ネタは、東京ネタの「風呂敷」。紫では初めてですし、上方では「紙入れ」は、随分と広まったのですが、似た噺ながら、持ちネタにする噺家さんは、ぐんと減ってしまいます。その関係で、黄紺も「風呂敷」を聴いたのは久しぶりとなりました。元来は、間男もののはずですが、紫の口演では、間男と誤解されるのが嫌さで、亭主の留守に訪れた男を逃す算段として風呂敷が使われるとなっていました。女性噺家だからの改変かと思い、念のために、ネット上で調べると、存外そうではなく、どうやら戦時中に艶笑落語が禁止されたことによる改変ものが、そのまま演じられている可能性を感じました。「厩火事」などと違い、風呂敷を使っての逃がし方などというありえない、いかにも落語的発想が息ずいている噺ですから、紫のように、大仰に演じるのが的を得ているかなと思わせられました。それと、風呂敷を持ち出したところからは、もうちょっとテンポを上げた方が、可笑しさが増すと思いました。染左の2つ目は「世帯念仏」。定番の陰陽の話から入ったのですが、いつものように、このマクラが、噺に役立っているとは思えないのですが、、、。ま、南無阿弥陀仏という「陰」の念仏を唱えながら、「陽」となるようなエピソードが挟まれていくことの可笑しさを説いたのでしょうが、そこのところを意識して、今や誰も聴かないと思うのですが、ね。前半の終わり辺りで蜘蛛を殺し、最後は、ドジョウが苦しみながら死ぬのを喜ぶ、やはり、念仏を唱えながら、殺生をするというのが、一番笑えますね。おかげで、ドジョウが出てくるところまでを、久しぶりに聴くことができました。中入りを挟んで、染左の3つ目は大ネタが出ました。しかも、フルヴァージョンの「景清」とは、ありがたい限り。この噺の一番いいところ、それは、観音に悪たれをついた定次郎を、甚兵衛が連れて帰るところ。清水坂を、2人が連れだって、足どり重く帰る図が、目の前に浮かべば正解だと思っています。そこに、黒雲が現れとなったときに、その図は、一挙にフェードアウトをします。小さくなった2人連れの哀れと同時に、温もりを感じる瞬間です。今日は、正に言葉にしたような図が見えたと思いました。そこに至るまでの、染左の話し込みが良かった、仕込みがしっかりと行われていたことの証左だと思いました。雷雨が、一瞬にして、超現実の世界へと流し込みます。温もりを感じさせる甚兵衛は、ここで噺からは消えます。最早、現実を超えた世界に入ってしまいましたからね。ですから、目を与えられておしまいじゃなくて、「景清」の終盤を省いて欲しくないのです。超現実世界に入ったら、何かパフォーマンスをしなくっちゃ。そないなことを、フルヴァージョンを聴いて、再確認させてもらえたかなと思っています。鳴り物も紫が担当したのでしょうか、えらくぴしりと決まっていたものですから、紫って、鳴り物もいけるんだと思ってしまいました。なお、三味線ははやしや京子さんでした。


2017年 11月 11日(土)午後 7時 20分

 今日は講談を聴く日。天満橋のドーンセンターであった「第10回 講談セミナー 旭堂南海の太閤記『木下藤吉郎・後編』」に行ってまいりました。今日は、桶狭間の戦を制した織田信長が、美濃に狙いを定める「太閤記」の解説、及び、その部分に関する抜き読み(墨俣一夜城)が行われました。今日は、その本題に入る前に、南海さんの講釈師になるきっかけに繋がるお話がありました。足繁く講談会に通う黄紺などにも知らないことが多い内容で、これは儲けものとなった企画。なかでも、学生時代、小沢昭一の放浪芸集成に取りつかれたところから、バナナの叩き売り芸の実演をしていただけたことは、最大のめっけもの。バナナの叩き売りは、南北さんの専売特許だと思っていただけに、驚きでもありました。で、本題ですが、信長の美濃攻めは、まず西美濃に狙いを定めたそうで、これは、うまくいかなかったということもあり、「太閤記」と言えども、藤吉郎の出る幕ではなく、むしろ、相手の美濃の斎藤道三の成り上がり物語、そして、その軍師竹中半兵衛に重点が移っていることから、抜き読みでも、あまり取り上げられないそうで、東美濃攻めになると、藤吉郎の知略が冴え、要するに美濃攻略に貢献する姿が出てくるようになるということでした。東美濃、ここは濃尾三川が集う、特徴ある地形を基にした知略が生まれるというわけです。その代表例として読まれたのが「墨俣一夜城」でした。この抜き読みって、聴いたことはあったっけと思いながら聴いていたのですが、美濃攻めは、何度か、南海さんの口演で聴いている記憶はあるものですから、またぞろ居眠りをしていたかもと、自分に自信のない黄紺です。次回は、もう年が替わり、2月の開催です。運悪く、開催日を失念してしまっていた黄紺は、他の予定を入れてしまっていました。


2017年 11月 10日(金)午後 7時 59分

 今日は文楽を観る日。第1部を観る日でした。その番組は、次のようなものでした。「八陣守護城~浪花入江の段、主計之介早討の段、正清本城の段~」「鑓の権三重帷子~浜の宮馬場の段、浅香市之進留守宅の段、数寄屋の段、伏見京橋妻敵討の段~」。「八陣守護城」は、加藤清正が、家康に毒殺されたという俗説を基に作られた作品。毒を盛られた清正が、体調不良を隠し通そうとする姿、及び、その体調の実態を知る息子の許嫁と、息子主計之介の行方が絡んで行きます。ただ、午前中の公演は、最近慣れてないものですから、かなりの部分で居眠り。清正の乗る船が90度回転する大がかりな装置の動きすら見逃しているほどでは、ダメですね。「鑓の権三重帷子」の方は、完璧ではなかったのですが、ほぼ大丈夫な状態に回復。こちらは、不義密通ものです。でも、ホントには不義密通をしてないにも拘わらず、そういった状況を示してしまう証拠が揃ってしまうという物語。主役2人のキャラは、観ていて、何となく変です。権三は、名誉欲が強いばかりに、恋仲の女がいるにも拘わらず、一子相伝の茶の湯の極意を得るために、他の女との婚約を承諾してしまいます。そして、夜に、その極意を尋ねに、元カノからもらった2人の紋の入った帯をして出かけます。その極意を教える役割に当たるのがおさゐで、この女は37歳で子どもまであるというのですが、何となく落ち着かない雰囲気を持つ女です。娘の相手として、権三を選んではいながら、若ければ権三を追いかけそうな物言いが、平気にできる女です。いざ、極意を教える段になり、権三が、元カノからもらった帯をしているのを見ての逆上ぶりも、ただ者ではありません。腹が立つと言って、男の帯をほどきに行く女です。権三が困ると、自分の帯を渡す、これもありえない?! ちょっと、先に筋立てがありきで、強引な印象を持ってしまいました。権三とおさゐの最期は、なぜか伏見の京橋。トポスとしての意味とか、何かがあるのでしょうか、このところに。今日は、「数寄屋の段」を咲太夫さんで、長さが、その倍ある「正清本城の段」を呂太夫さん。この割りふりでも判るように、咲太夫さんの声に張りがありません。呂太夫さんは元々です。太夫さんに、大胆な起用がないと、退屈だと感じ続けねばならないので、文楽協会の英断を期待したいものです。


2017年 11月 9日(木)午後 11時 23分

 今日も、動楽亭で落語を聴く日。スケジュールが合わなくて行けてなかった落語会に、ようやく行くことができました。それは、「第3回森乃石松落語会~ イシマツイシテム2017」。古風な話しぶりを、松之助からもらったりしている石松落語、自身の会を、今年は年初から計画していました。その番組は、次のようなものでした。遊真「鉄砲勇助」、石松「商売根問」、ぽんぽ娘「ブスの品格(?)」、(中入り)、石松「土橋物語」。遊真は、最近、前座として起用される頻度が上がってるのか、遭遇機会が増えています。が、今日の高座はアウェー感丸だしという感じになってしまいました。なんか、楽屋の空気感のまま出て来たら、そこは、全然違った空気が流れていたというところです。「鉄砲勇助」の中身は、木曾と北海道を、若干はしょりながらというものでした。主役の石松は、1つ目で高座に上がったときに、たっぷりと、自身の過去を披露してくれました。きっかけは、ゲストで喚んだぽんぽ娘。大須演芸場で出会いがあったようで、おさなぎ色時代からの知り合いだとか。そのぽんぽ娘が、ピンク落語で売っているということで、噺家になる前、そして、噺家になってからもアルバイトで働いていた風俗業界での苦労話を話してくれました。ネタは、古風な物売り体験の入る「商売根問」。「チャックリカキフ(茶栗柿麩)」「味(鯵)ない鯖」なんてフレーズの入る「商売根問」って、石松以外では、なかなか聴けるものではありません。ぽんぽ娘のネタは、内容と、ピンク落語一覧を見比べて、これなのかなと思う題名を、上に記しておきました。ぽんぽ娘のピンク落語の会に来る客の多くは、若い女性客だと言われていることを考えると、噺の内容に共有感を持てる、もちろんデフォルメするタイミング、ポイントが長けてるということが、それに輪をかけていくのだと思います。そういった意味でも、今回も、ぽんぽ娘の一連の作品は、現代の人情噺と言えるのかなと思いました。石松の2つ目の「土橋物語」は、「土橋萬歳」の改変。まず、「萬歳」ではなく「物語」ですから、先日のたま版同様、萬歳部分はカットとなってました。そのため、下げは、二重の夢にするという、ちょっと洒落たことになってました。若旦那と番頭が同じ夢を見て、2人の和解となるのも「夢」だったとしたのでした。但し、番頭の夢とだけで終わることになってました。次に、歌舞伎のパロディ、及び芝居掛かりになることも避けていました。ですから、土橋でのやり取りに盛り上がりが欠けるのは致し方なく、また、夢から覚める、このことの意外性が薄れてしまいました。要するに、噺の持つ起伏が、かなり薄れてしまったことになります。そう考えると、よく似たスタンスを採りながら、土橋での出来事を芝居掛かりで演じたたまのセンスの良さが、結果的に際立ってしまいました。でも、1週間で2回も、いずれもいじられはしましたが、「土橋萬歳」を聴けるという夢の時間に立ち会えました。何よりも、まずは、2人の噺家さんに感謝です。


2017年 11月 8日(水)午後 11時 20分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「第4回新世界で桂阿か枝の落語会」がありました。第1回におじゃまして以来となります。その番組は、次のようなものでした。小鯛「強情灸」、阿か枝「軽業講釈」、(中入り)、喬介「祝いの壺」、阿か枝「猫の忠信」。今日は、助演陣が豪華。こういった会では、もう小鯛の前座姿などというものは、似合わないと言っていいほど。それほどの優れものを、前座で聴けるありがたい会でもあったのですが、また、小鯛も、前座に徹してネタをチョイス。快調なテンポ、解りやすい表情と、申し分なしの口演でした。主役の阿か枝は、「軽業講釈」だけがネタ出し。師匠の先代文枝譲りのネタでしたが、講釈師の方のテンポが、なかなか上がらず、ちょっと苦戦。最後、講釈師が怒るところでは、急な大声になりましたが、あまりにも急な感じで、やはり、ここは、声の調子、テンポ、その双方でのクレッシェンドにした方が、リアルだと思います。1つ、収穫がありました。本来の下げ、「好事門を出でず」を使ってくれたことです。その前の、逃げ足の早い男を捉えて、「悪事千里を走る」の後に、更に、今日の下げが入るというわけです。この下げのあと、中入りに入ったのですが、客席の幾つかのところで、今日の下げについて、意見が交わされていました。好事家の多い会でしたからね。2人目の助演者は、正に旬の中の旬の噺家になった喬介。13年目で、繁昌亭大賞奨励賞は画期的なことです。喬介に、輝き賞を出さなかった罪滅ぼしかもしれませんが。それは余事として、喬介の「祝いの壺」は初めてのはずです。あまりに汚ないネタなので、持ちネタにする噺家さんも少ない珍品と言えますが、その汚なさを、やはり汚なく、でも明るい笑いにしてました。正に、笑福亭です。後半の繰り返しは、ワンパターンなのですが、喬介がすると、むせるのがいいのかなぁ、好事家の多い客席が、むせかえるような笑いに包まれていました。喬介、すごい。トリの「猫の忠信」は、一転して、落ち着いた雰囲気。また、この口演が、頗る付きで良かった。「軽業講釈」と違い、阿か枝の体内時計が、この噺の展開に即応しているのでしょう。別段、テキストをいじってるわけではありませんから、「猫の忠信」ではおなじみのフレーズが出てくるわけなのですが、阿か枝の口演にかかると、それらのフレーズで笑ってしまうのです。なかでも狂言回し役の次郎吉の頼りなげな物言いが的を得てるのが、大きな柱を作ってるのかなと思いました。昔、阿か枝が、紅雀とやっていた二人会で聴いたような記憶はあるのですが、こないに良かったような記憶は残ってなかったもので、めちゃめちゃお得感を持っちゃいました。


2017年 11月 8日(水)午前 8時 4分

 昨日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。昨夜は、「ゴルトベルク変奏曲」と称して、通常のハープシコード演奏ではなく、珍しい弦楽三重奏版(J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988 ~D.シトコヴェツキー編~)が演奏されました。演奏は、次の3人の方たちでした。(ヴァイオリン)白井圭、(ヴィオラ:)小峰航一、(チェロ)辻本玲。この弦楽三重奏版というのが、なかなかいいのです。実は、このプログラムが発表されるまでは、こうしたヴァージョンがあることすら知らなかったのですが、今どきは便利なもので、ネット上には、音源は、いくらでも流れているため、それらを聴いてみると、実にいい編曲なのです。感覚的なものだったのですが、ライブで聴いてみると、カノンは、うまく3つの楽器に割りふられ、同じメロディが移っていく様子が、よく判り、ハープシコードで聴いているよりは、とっても、同じ音楽なのに、ダイナミックに聴こえるのです。しかも、カフェモンタージュの狭いスペースで聴くと、きれいに3つの楽器にメロディが分割され、また、追いかけたりするのが、クリアすぎて、どぎつい感じすらしてしまいました。見てはいけないものを見てしまった生々しさってところでしょうか。その調子が、延々と続くわけですから、いいかげん慣れてくると、これが、もう快適、完全に、自分の身体の各部が、弛緩しきっていくのが意識されると、なんか朦朧としてまいりました。昨日は、こういった感じで、まどろむが如く眠りにつきかけてしまいました。これは、気持ち良かった。黄紺の持っているルジチコーヴァ(この9月末に亡くなりました)の音源は、限りなく1時間に近い演奏時間でしたが、昨日の演奏は、繰り返しを入れたのか、1時間20分を要しました。今回のコンサートは、小峰さんが言い出しっぺで、2人の演奏者も、その小峰さんによるピックアップだそうで、要するに、「この曲を演奏したいと思う人」ピックアップで、そういったこともあったのでしょうか、小峰さんが東京まで出向いて、練習をなさったとか。もう少し、白井さんのヴァイオリンに、微妙な躊躇いがあり、デリケートなところがあったり、辻本さんのチェロから険しさのようなものが取れれば、より朦朧としてしまったかもしれません。いいもの聴いた感が残りました。バッハはええで感も、再確認。嬉しいコンサートでした。


2017年 11月 6日(月)午後 11時 46分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「笑福亭たまのパワーアップ落語会」がありました。その番組は、次のようなものでした。たま「5秒根問」、秀都「桃太郎」、瑞「ん廻し」、天使「七段目」、秀都・瑞・天使・たま「トーク①」、菊丸・たま「トーク②」、たま「永遠に美しく」、(中入り)、菊丸「掛け取り」、たま「土橋萬歳」。前の3人は、それぞれ、持ち時間は12分程度。そのため、皆さん、短縮形を用意。秀都は、年季明け効果で、相次ぐ出番。「桃太郎」は、仕込みを省いての口演。蘊蓄を散りばめる師匠文都テイストの詰まった口演となりました。瑞は、通常の「ん廻し」を、田楽からたこ焼きに変え、しかも、登場人物は、往年のスターなどの有名人の名前を文字ったもの。随分以前に、1度聴いたことがありましたが、すっかり忘れてしまってました。秀都に次いで、文都門下総出ということになってしまったのですが、3人目は天使。袴を付けて出てきたものですから、何をするつもりかと思っていたら、天使では、初遭遇となる芝居噺でした。短縮形なのに、実に久しぶりに、「5段目」を聴かせてくれました。ただ、芝居噺に慣れてないからでしょうね、台詞廻しや所作の切れは、まだまだ。時間をかけて育てていかねばなりません。たまの1つ目は、下ネタがわりと入る新作。ぽんぽ娘の「ピンク落語会」では、このネタを出したそうです。いろんな国の女性との関係、老婆に若返りの薬を投与したり、その薬の効果が、若くなったり老いたりを繰り返すところで、笑いが高まるネタですが、ちょっとエイジズム的な臭いがしてしまいました。ゲスト枠は、以前のようには、遭遇する機会のない菊丸。さすがに、「トーク」が上手く、たまとの「トーク」は聴き堪えがありました。ネタは、早くも暮のネタが出ました。今年初めてとなります。ただ、昨夜の極端な寝不足が、中入り明けに出てしまい、次のたまの口演も、それぞれが、半分ほどしか聴けてないものですから、メモ程度のことだけを認めるに留めておきます。「掛け取り」に使われた「得意技」は、狂歌、浄瑠璃、歌舞伎、喧嘩の4つでした。「土橋萬歳」の方は、本日のネタ下ろしなのですが、マクラで、「歌舞伎のパロディにはしない」宣言をしてから、ネタに入りました。ですから、土橋での出会いでは、斬り合いはあっても、芝居掛かりにはなりませんでした。また、「萬歳」も出しませんでした。ま、本来の下げにだけ出てくるわけですから、出さなくても、噺の軽重など、噺に影響はなく、下げも、夢から覚めるのは、若旦那と番頭だけではなく、丁稚の定吉まで居眠りをしており、こちらも土橋の夢を見ていたのかと尋ねると、単に食い物の夢を見ていただけということで落としました。「土橋萬歳」の口演時間は、ジャスト25分というところでした。


2017年 11月 5日(日)午後 7時 37分

 毎年、11月の第1日曜日は、法事のある日。今年は、息子と甥っ子の3人で、琵琶湖畔まで行ってまいりました。いい日和で、久しぶりに顔をそろえた3人、往復の車の中でおもしろ話で盛り上がりました。でも、これだけだと、呆気ないですね。


2017年 11月 4日(土)午後 7時 50分

 今日は、カフェ・モンタージュで音楽を聴く日。今日は、「カフェ・モンタージュ - 秋の特別企画」と称して、「バッハ×ブリテン~第1部 上森祥平×J.S.バッハ×B.ブリテン無伴奏チェロ組曲2017京都公演」に行ってまいりました。全部で3公演あり、それで、全曲を1日で演奏しようという上森祥平さんの試みだったのですが、黄紺は、諸般の事情から、第1部だけ聴きに行けたというわけです。そのプログラムは、次のようなものでした。「J.S.バッハ: 無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV1007」「B.ブリテン: 無伴奏チェロ組曲 第1番 作品72」「J.S.バッハ: 無伴奏チェロ組曲 第4番 変ホ長調 BWV1010」。ブリテンの曲を、バッハで挟み撃ちにするプログラムって、なかなかいいですね。同じようなメロディの、ブリテンに比べると、圧倒的に単調な繰り返しという、バッハの音のうねりにいい心持ちに。はっとすると、軽い居眠り。気持ちがいいから、仕方ありません。それに対し、ブリテンは、先日、いずみホールで聴いたパガニーニを彷彿とさせる超絶技巧が織り込まれているうえ、そこはそれ、20世紀の音楽という顔も見せてくれますから、変化、展開を楽しませてもらえました。それにつけても、今日の上森さんのチェロの音が違って聴こえたのは、どうしてなのでしょうか。上森さんのチェロだけは、カフェモンタージュの空間には合わないと思っていたものですから、びっくりの音色に、うっとりでした。今日は、チェロだけということで、普段使ってられてない楽器を用意されたのかと思ったほどでした。もっとも、確かめるなんてことをしていませんから、真偽のほどは判りませんが。3曲で1時間半近い公演、これを、あと2回繰り返されるわけですから、もう、体力勝負です。そないなことも考え、行くのなら1回目公演を選べるように取り計らったのでした。


2017年 11月 3日(金)午後 11時 15分

 今日は、シネヌーヴォで韓国映画を観る日。今、シネヌーヴォでは、「未来という過去 映画で知る歴史」と題し、韓国映画を含む作品が上映されています。その中に、心斎橋シネマートで上映された際に見逃した作品が入っていたため、一昨日に続き、シネヌーヴォまで行ってまいりました。その韓国映画は「空と風と星の詩人~尹東柱の生涯~」です。尹東柱の半生を、拘束され取り調べを受ける様子と、10代半ばから拘束されるまでの過程を、交互に描きつつ、その合間に、尹東柱の詩を流すという構成。金九の独立軍との関係を模索する宋夢奎(ソン・モンギュ)が初めから登場し、日本に留学して以後も、尹東柱が、立教大学から同志社大学に転学して以後は、日本でも行動をともにし、徐々に、軍事的な行動を立ち上げようとする宋夢奎に合流していき、最終的な拘束の契機になるとなっていました。政治的な活動に傾倒していく宋夢奎に対して、文学活動、詩作に傾倒する尹東柱と対称的に描かれていきますが、朝鮮人に対する徴兵令、詩集の出版が地下活動のようにして行わねばならない状況に直面し、宋夢奎の政治的な活動に傾いていくとなっていました。また、拘束後、拘束者に対する人体実験が行われ、宋夢奎の死は、その犠牲になったものとされ、尹東柱の死は、その実験が直接な原因というのではなく、結核を思わせるような病死とされていたと思います。終盤、2人が、それぞれ、取り調べ官から容疑事実を記された書類に署名を求められますが、これに対する2人の申し立てが、いずれもいい台詞になっています。よくぞ、こないなテキストが出てくる映画に、心斎橋シネマートでの上映で、客が溢れかえったものだと思いました。尹東柱って何者か、判った人たちが、あれだけ詰めかけたのなら、驚き以外の何ものでもないと、改めて感じた次第です。映画終映後、「未来という過去 映画で知る歴史」という企画を進めているゲーテ・インスティトゥートの主催で、四方田犬彦さんと李鳳宇さんの対談「在日韓国人みずからによる映像」がありました。李鳳宇さんは、「月はどっちに出ている」「パッチギ」のプロデューサーとして知られたお方。この対談のあとに、「月はどっちに出ている」の上映が予定されていたため、その関係の話が主だったのですが、質疑応答に入り、ここから四方田さんの深い見識が、俄然、顔を出してきて、この対談最高の収穫となりました。コメディーの難しさ、重い歴史をコメディーで描くことの可否から展開したものでした。映画が2時間、対談が2時間、まことに有意義な額面通りの文化の日となりました。


2017年 11月 2日(木)午後 8時 53分

 今日は「動楽亭昼席」に行く日。久しぶりとなりました。その番組は、次のようなものでした。団治郎「つる」、雀五郎「八五郎坊主」、団朝「月並丁稚」、雀三郎「胴乱の幸助」、(中入り)、しん吉「鯉盗人」、米二「風の神送り」。団治郎が、なかなか遭遇機会がないですね。なぜかは判りませんが、黄紺の行く落語会で、団治郎が前座を務めるということがありません。ですから、自身の会に出かけるか、こういった動楽亭昼席で見かけるだけです。「つる」に敏感に反応する客席、疲れることなく、明るい雰囲気が支配していました。次の雀五郎が、2番手で大きめのネタを出してくれたのは、嬉しい読み違い。マクラで、「無言の行をする僧」の小咄をふったものですから、「餅屋問答」をするのか、果たして持ちネタにしてたっけと考えていたら、「八五郎坊主」でした。確か、雀五郎の「八五郎坊主」は、以前にも1度聴いているのですが、「お家芸」が入るのを、すっかり失念してましたから、それが出たときにはびっくり、そして、大満足。この噺は、テンポのいいお喋りのできる雀五郎には、はまりネタですね。団朝は、こないなことを書くと失礼なのですが、ネタに入るまでのマクラが、とっても楽しみな噺家さんです。今日は、よもやと思われた米裕ネタが飛び出し、とっても新鮮で、腹を抱えて笑っちゃいました。それに加えて、お約束の師匠米朝の思い出話。更に、ネタが、団朝が持っていたなんて知らなかった「月並丁稚」とは。このネタ、小ぶりで、ありえそうもないネタですが、とっても落語らしいバカバカしさがあって、もっと、若手の噺家さんが手がけてもいいのにと思うネタ。団朝が、丁稚の尻をまくったとき、「汚いケツやなぁ」と言うと、えらく汚ならしく聴こえたのは、なぜなんでしょうかね。雀三郎は、中トリで「胴乱の幸助」を出してくれました。雀五郎のネタ、団朝のマクラとネタを聴いただけで、既にお得感が出ていたところへ、「胴乱の幸助」が出たものですから、お得感は最高レベルに。ところが、稽古屋の半ば辺りから、不覚にも居眠り。なんと、もったいないことをしてしまったのでしょうか。しん吉は上がるなり、子どもが産まれたことを報告。通常分娩ではなかったため、その苦労話を聴かせてくれました。ついついDのことを思い浮かべながら聴いてしまいます。客席の空気も、同じように感じてしまいました。先日のしん吉の独演会では、身重の奥さんがお手伝いに来られているのを、目にしているだけに、聴いている黄紺も嬉しくなっちゃいました。「鯉盗人」は珍しい。鯉料理人の家に盗みに入った盗人が、盗った金で鯉料理を食べさせてもらうという風変わりなネタ。しん吉の料理をして見せる手が、えらく手慣れたもののように見えちゃいました。そして、トリの米二が、まさかまさかの「風の神送り」。とにかく、米朝と米二でしか聴いたことのないネタ。噺自体が、民俗資料になりそうなネタなものですから、演じ手が出てこないのでしょうね。しかも、噺の大部分は、風の神送りをするために必要な経費集めのために、志をもらいに、近所の家々を、帳面を持って回るというものですから、繰り返しネタでもあり、ほとんど噺に山というものがあるわけではないということで、更に、触手を伸ばす美味しさがないときている噺です。ただ、黄紺は、民俗資料としての価値のあるネタなので、誰か継承者が、若手から出ないかなぁと思っています。そのためには、季節もののネタですから、限られた時期にしか出せないネタですが、米二には、この季節には、頑張って口演の機会を持って欲しいネタと考えています。米二の口演も、普段と違い、決してスムーズだと言えなかったのは、やはりレアものの雰囲気を醸し出していました。既に、中入りで、お得感を感じていたところへ、「鯉盗人」と「風の神送り」が出たものですから、もう大々満足ってやつでした。動楽亭の昼席って、こういうことがままありますから、常に射程に入れておかねばならないということを、再確認した日でした。


2017年 11月 1日(水)午後 8時 22分

 今日はシネヌーヴォで映画を観る日。午後のひととき、韓国映画「春の夢」を観てまいりました。今、シネヌーヴォで「ハート アンド ハーツ コリアン・フィルム・ウィーク」と称して、韓国映画が3本上映されているのですが、その内の1本を観ることにしたのでした。なかなか統一された独特の雰囲気を持つ映画。主役は4人、ポジャマチャを経営する延辺から韓国にやって来たイェリという女性、彼女は、父親が中国にやって来て、中国で生ませた子ども。母親が亡くなったので韓国に来たのだが、間なしに、父親が寝たきりになり、その介護を続けながら、店をやっている。街のチンピラであるイクチュンは、施設で育ち親を知らない。何で食っているのか判らないが、時々、兄貴の使いがやって来て、儲け話を働きかけられている。脱北者のチョンボムは、鬱病の薬を携帯し、いつも口数が少ないが、あとの2人とつるんでいる。大家の息子ジョンビンは、発作の持病を持ち、いつものように発作の兆候らしきものが現れている。この4人が、店で語る姿や、一緒に街をうろつく光景が、繰り返し描かれていきます。ちょっとした事件も、ときとしては起こり、チョンボムの雇い手が賃金の未払いを起こすと、4人で取りに談判に行ったり、道路向こうの開発された地域(元ゴミ処理場だったため開発が進む)に、映画を観に行ったり、カラオケに行ったりしている。チョンボムの元彼女(?)が、他の男とアメリカに行くと言って、別れにやって来た次のシーンで、イケメンの男が店にやって来て、その男が去ったあと、店を、イェリが飛び出して行きます。飛び出してとうなったのか、イマジネーションを働かす材料すら与えられないで、次に、あっと驚くシーンが待ってました。ここまで、この映画はモノカラーだったのですが、コーダのようにして出てきたラストシーンだけが、カラーでした。そのシーンは、変電所の金網前に佇むジョンビンに、イクチュンが近づいてきて、ジョンビンにからかい半分の言葉かけてから、一緒に歩いて行くというものでした。なかなか難解です。カラー、モノクロ、単純に、現実と非現実なのかと思ってしまいました。韓国語原題も「春夢」、中国語&英語題名いずれにも「夢」という言葉が使われています。非現実の世界は、誰かの「夢」「妄想」と言い換えてもいいのかもしれません。それだと、イェリは、まるで天使のような存在となってしまいますね、男3人にとって。そないな映画と考えていいのか、半信半疑の状態の黄紺です。イェリ役のハン・イェリは、個性的な顔立ちをしているので、間違うということはないのですが、いろいろと調べても、どの映画で観たことがあるかを特定できないでいます。男3人は、いずれも著名な映画監督だそうです。終わってから、資料集めをするまで、全く知らなかったことでした。いわくを抱えた人たちの寂しさ、そないな心の隙間を垣間見たかのような映画でした。不思議な魅力のある映画でした。


2017年 10月 31日(火)午後 11時 5分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「第43回 米紫の会」がありました。雀のおやどから動楽亭に移ってきてから、初めておじゃまをすることになりました。その番組は、次のようなものでした。秀都「鉄砲勇助」、米紫「猫の茶碗」、三金「赤とんぼ(桂三枝作)」、米紫「立ち切れ線香」。秀都は初遭遇。前座で、最近ではあまり出ない「鉄砲勇助」。北海道まで、きっちりやってくれたのですが、木曽山中で、早々に居眠り。元気ないい声を出していたのだけが、記憶に残りました。米紫の1つ目は、2つ目の大ネタを考えて、ごく短いネタ。猫好きで知られる米紫が、猫を嫌がる仕草が入る皮肉な部分が可笑しくて。ゲスト枠は、同期の三金。米紫が頼んだのでしょうか、三枝作品の中でも、人気が高いと言われている「赤トンボ」を出してくれました。たっぷり感のあるネタでもあるということから、米紫がお願いしたのかなと思ってしまいました。文枝がネタ下ろしをしてときは、「赤トンボ」に、もっと蘊蓄が入ったという記憶があるのですが、蘊蓄は、「どんぐりころころ」の方が多かったのじゃないかな。三金の編集かもしれません。そして、本日の目玉「立ち切れ線香」。米紫では、初めてとなります。人に合うのかなぁというのが、米紫がやり始めたときに、まず感じたことだったため、それを確かめたくて、この会に狙いを定めたってところでした。座敷牢に入れられるまでの若旦那の青白さがいいですねぇ。落語の枠を超えたかのような身体表現は、誰も見せたことのないものじゃないかな。落語は、基本的に話芸ですから、テキストに合う身体の有機的な表現というのは、肝要かと思うのですが、米紫の場合は、座布団の上からは動き出さない芝居をしているようだったと言えばいいでしょうか。そういったものを含めて、総合的に青白く見えるようにしていたと言えばいいのかと思います。これに対して、座敷牢から出たあとは、普通の落語に戻ったという印象。そして、木之庄に来てから、お喋りのテンポを上げたというわけではないのですが、なんとなくせわしなく感じてしまっていきます。ということは、もっとゆったりと間を取ればいいところで、取ってなかったのかなと思いました。ですから、前半で聴く者に気をもたせ、後半で挫けさせた、そないな進行だった言えると思います。で、人に合う合わないは、これは失礼なことを考えていたと、これだけは反省でした。


2017年 10月 30日(月)午後 11時 18分

 今日は、船場寄席で落語を聴く日。今夜は、こちらで「呂好一人勉強会」がありました。以前から狙いの会だったのですが、おじゃまをするのは、初めてとなります。その番組は、次のようなものでした。呂好「へっつい盗人」「稲荷俥」、鶴志「按摩炬燵」、(中入り)、呂好「代書屋」。「一人勉強会」ながらゲストが入るという番組。今日の呂好のネタの内、「へっつい盗人」「代書屋」の2つが、ゲストの鶴志からもらったネタだそうで、その関係からのゲストだけではなく、マクラの話を聴くと、かなり鶴志に師事しているようです。ま、近しい叔父・甥の関係になりますからね。ただ、あとから上がった鶴志が言うには、「そのときの気分で入れたようなものまで使ってる」と言っておりました。そのもらったという2つのネタは、ともに突き抜けたアホの出てくる滑稽ネタ。これは、どうなんでしょう。端整な語り口が持ち味の呂好には冒険と捉えていいのか、ほどほどにと言っていいのか、迷うところです。というのは、今まで聴いた呂好の口演の中では、かなりレベルが下がったなという印象が残ってしまったのですが。「へっつい盗人」では、アホがはしゃいでいるのですが、ずっとインテンポで進めるものですから、山ができそうでできないという感じでしたし、「代書屋」は、登場人物が、代書屋と同じレベルで喋っている感じが、半ば過ぎまで続くものですから、代書屋のキャラが見えてこないうえ、わざとらしい間を作るものですから、却って流れを損なってしまってたりと、かなり勉強の余地を残したのじゃないかな。こういった滑稽噺を自分のものにするためには、今まで培ってきた蓄えを、かなりいじらないと対応するのはきついのじゃないかと思うと同時に、その新しいところへのチャレンジを続けて、芸域を拡げて欲しいものです。色合いの違ったネタとなった「稲荷俥」ですが、俥が産湯楼に着いた辺りで、居眠りが発生。「へっつい盗人」「代書屋」とは、登場人物のキャラが違うので、一番安心して聴けるはずのところで、今日は、運悪く沈没してしまいました。ゲストの鶴志は、用意していたネタが、呂好の出したネタについてしまうということで、上がるなり「何しようかな」。そしたら、なんとなんと「按摩炬燵」。この前、いつ、誰で聴いたかなぁと考え込んでしまいました。一応の結論は、先代松喬なのですが、自信はありません。一時、「やりにくいネタ」として、ほぼ廃れたネタ化していたのが、少しは聴けるようにはなったものの、演じ手も少なく、そうは聴けるものではなく、ましてや笑福亭のネタって感じが強く、そういった制限もあり~ので、聴ける機会の少ない噺ですから、こういった風に、ばったりと遭遇できると、事の外、嬉しいのです。鶴志の口演も、以前に聴いているはずですが、全く中身の記憶がないのですが、酒を呑む箇所があっさり系だなの印象を持ってしまいました。船場寄席は、狭いスペースですが、ぎっしりと入りました。コアな落語ファンのお顔は、さほど見かけなかったのですが、定期的に続けていると、客がついてくるってことでしょうか。いやいや、感心しました。


2017年 10月 29日(日)午後 8時 32分

 今日もオペラを観る日。今日は、台風が接近するなか、兵庫県立芸文センターで、関西二期会第88回オペラ公演「魔弾の射手」(菅尾友演出)を観てまいりました。そのキャストは、次のようなものでした。(オットカー侯爵)黒田まさき、(クーノ)橘茂、(アガーテ)老田裕子、(エンヒェン)末廣亜矢子、(カスパー)西尾岳史、(マックス)竹内直紀、(悪魔ザミエル/隠者)片桐直樹、(キリアン)大谷圭介、(花嫁に付き添う乙女)岩本実奈子、粉川陽子、中野綾、沼田葉子、関西二期会合唱団、キンボー・イシイ指揮関西フィルハーモニー管弦楽団。菅尾友のプロダクションというのは初めてじゃないはずですが、全然、その特徴というものが出てこなかったのですが、どうやら、今日の「魔弾の射手」は記憶に残りそうです。開演前に、何もない舞台が開いた状態、序曲が始まると、緞帳が降り、このあと、序曲の間に緞帳が上がり降りしますが、役者紹介的に寸劇が舞台に出ます。この分だと、装置の組み立てから見せるのかと予想していたら、その予想は裏切れ、序曲が終わり、緞帳が上がると、床には木目が出るように作った大きな平台が敷かれ、両サイドには、これも、木目の入った壁、奥は大黒で進行していきます。そして、狼谷で、背後の大黒が開き、高い脚の付いた小部屋が出てきて、この中で、悪魔が実験道具をいじっている様子が続き、前の平台の先端部で魔弾を作るとなり、予想通り、ここで休憩の幕でした。そして、後半は、平台が2枚に分かれ、空中高く吊るされています。平土間席の人らには、吊るされているものの正体は判っていたのかもしれないのですが、3階サイド席にいた黄紺には、最後に下に降りてくるまでは、全く判りませんでした。この後半も、違った平台が敷かれているのですが、悪魔のいた小部屋の前辺りに、コーラスの人とかが、決して歩かない大きな三角形のスペースが作ってあります。隠者は、そのスペースを使い現れますから、異界、ないしは異界に通じるスペースとしてあったのかもしれません。ただ、ここまでは、普通に観ていたのですが、隠者が出てきてからが、わけが判らなくなりました。隠者の取りなしで大団円を迎えるのかと思いきや、そこから、コーラスの人らが装置のバラシを始めます。隠者が、だぶつく衣装を脱ぐと悪魔で、再びライトを受けた高い脚の付いた小部屋に入ると、すっかり片付いた舞台にいる人たちに対し、吊るされていた平台が下降を始め、正に、平台が人を押し潰そうかというところで、照明が消され、このオペラは終わりました。装置の設営&バラシを見せるという手法は、何ら珍しいことではなく、物語の中の人とは別に、物語を見守る目というものを意識させるときに、よく使われるものですが、このプロダクションの場合は、それを差配しているのが悪魔と見えそうな展開になっちゃってますから、その先を、どのように、自分の頭の中で展開していいのか、今のところ。完全にお手上げ状態です。こないなお手上げにさせられるプロダクションが、日本で観ることができたのは、まず喜ばないとダメなんでしょうね。でも、アイデアが浮かばないのは、とっても悔しいのです。一方、歌手は、大きく分けて、女声陣は○、男声陣は×、それも、かなりのひどい×です。期待をしたびわ湖ホール四大テノールの一角を担う竹内直紀が、最後に、ちょっとだけ実力を垣間見せたのが、せめてもの救いです。あとの男声陣は、オペラの歌唱になっていませんでした。女声陣は、エンヒェンの末廣亜矢子がいい感じのお声。スープレット向きの声で、役にも向いていましたね。アガーテの老田裕子を含めて、お二人の台詞の部分のドイツ語もきれいで、この点でも、大きく男声陣を上回っていました。指揮は、マグデブルク歌劇場の音楽監督の任にあるキンボー・イシイ。マグデブルクで遭遇できてなかったのですが、先に西宮で遭遇できたのはいいのですが、今日は、関西フィルの音がしょぼくて(オーボエを除く)、しっかりした音を引き出せなかった責任があったのじゃないかな。先日、同じホールで聴いた京都市交響楽団と、あまりにも違い過ぎました。
 オペラが終わり、窓から外を見ると、何と青空が出ていました。ちょうど、自宅から芸文センターに移動して、オペラを観ている間に、台風は通過したみたいでした。これで、芸文センターで、台風をやり過ごしたのは2回目となりました。


2017年 10月 28日(土)午後 9時 41分

 今日は、びわ湖ホールでオペラを観る日。沼尻竜典オペラセレクションとして、今年は「ノルマ」(粟國淳演出)が上演されました。キャストは、次のようなものでした。(ノルマ)マリエッラ・デヴィーア、(アダルジーザ)ラウラ・ポルヴェレッリ、(ポッリオーネ)ステファン・ポップ、(オロヴェーゾ)伊藤貴之、(クロティルデ)松浦 麗、(フラーヴィオ)二塚直紀、びわ湖ホール声楽アンサンブル&藤原歌劇団合唱部、沼尻竜典指揮トウキョウ・ミタカ・フィルハーモニア。何と言っても売り物は、マリエッラ・デヴィーア。御歳70にもなろうかという方ですが、現役で、イタリアの著名な歌劇場で、今なお「ノルマ」などのベルカントものを歌い続けている大歌手。黄紺も、「連隊の娘」のDVDを持っていますが、軽い声質で、大変な技巧の持ち主として、頭に刻まれている歌手なもので、この公演を知ったときには、びっくりしたものでした。しかも、演目が、「ルチア」と並ぶベルカントの花形なものですから、期待は半端なものではありませんでした。そのうえ、先行しての日生劇場での公演を観てきた、昔の同僚の「良かったぁ」の言葉を聞いているものですから、更に期待は高まっていました。ただ、粟國淳のプロダクションは、あまりにオーソドックスでおもしろ味に欠けるのが通り相場なのがたまに傷というところでした。ま、それは想定内のことで、実際にも、回り舞台を使った平板なもので、しかも、歌手をロボットみたいに動かすということも、今さら目くじらを立てても致し方ないということで、歌手に集中。マリエッラ・デヴィーアは、なかなか調子が上がりませんでした。有名な「カスタ・ディーヴァ」は、登場して間もなくあるものですから、調子が上がらずじまい。この人の持ち味であるはずの高音もかすれながらという感じになり、また、テンポのずれが、際どく出てきたり、そのずれも遅れがちになるため、常に、沼尻は、ゆったりめのテンポで振るハメになっていたりで、やはり歳には勝てないのかと思わせられたものでした。後半は、徐々に調子は回復してはきましたが、お楽しみのアダルジーザとのデュエットは、残念なことになっちゃいました。腹筋力が落ちてるのかなぁ、スタッカートでの上昇音も物足りないものがあり、そのままなのかと思い始めていると、そこから、ぐんぐんと良くなっていったのは、驚異的としか言いようがありません。中高音の回復は見事でしたね。特にフィナーレとなるポッリオーネとのデュエットは、もう圧巻でした。この声で、「カスタ・ディーヴァ」を聴きたかったです。でも、かなりスタミナのいる大役で、最後の最後に向かい、調子が上がっていく、しかも、年齢を考えると、ただ事とは思えないものでした。逆に、スタミナ不足かと思われたのが、アダルジーザを歌ったラウラ・ポルヴェレッリ。前半に素敵な歌声を聴かせてもらえただけに、残念なところ。ポッリオーネを歌ったステファン・ポップは、大変な拍手を受けていました。声量は抜群、それが支持されたのだと思いますが、黄紺的には、もう少しきれいな声が欲しいところだと思いました。オロヴェーゾの伊藤貴之は、主役4人の内唯一の日本人歌手。パワーに不満はないのですが、長としての威厳、そのような堂々とした歌いぶりが求められずはずの歌唱としては、ちょっと違ったかなというところでした。休憩時間には、高校時代の友人3人で、オペラについて語るはずが、その内の1人が、この間、体調を崩していたため、必然的に、オペラ談義が健康談義に姿を変えてしまってました。体調を崩した男は、夏前に会ったときには、ザルツブルク音楽祭に行くのだと気負いこんでいたのですが、結局、それもキャンセルしたとか。やっぱり、行けるときに行っておかないとと、再確認。黄紺は、因果に達者ってことが取り柄かもしれませんね。


2017年 10月 27日(金)午後 9時 36分

 今日は、シネ・リーブル梅田で映画を観る日。韓国映画「あなた、そこにいてくれますか」を観てまいりました。時空間を超えて移動して、過去と現在を往き来しながら、よりよき人生を模索する物語とまとめてしまうと、当たってないようで当たっているかなと思える物語。ですから、ストーリーの構造は、よくありそうなものですが、この映画では、細かく時空間を移動するため、現在に不都合が出てくると、また移動して修正に回るということが、何度か起こるというところが、細かいところかな。ハラハラ感は、それで出てはくるのですが、、、。ただ、これを繰り返すと、矛盾が、果てしなく拡大していってしまうと思うのですが、この映画では、主人公の医者(キム・ユンソク/ピョン・ヨハン)は、いくら時空間を移動しても、物語のスタート時の記憶を持ち続けるものという設定というか、でっち上げで動くことで納得。もちろん、こういったSFタッチの物語というものは、いかにでっち上げ、客をまるめ込むかにかかっているわけですから、そのまるめ込み方がうまいかどうかということで、映画がおもしろいのか、そうでないのかが変わってくるものです。それで、うまくやったはずで、映画は、どういったエンディングに持っていくのかが楽しみになったのですが、ここで、挫けたなというのが、黄紺の見方です。ハッピーエンドにできたはずなのに、さほど必然性を感じない曖昧な終わり方をしちゃってました。ですから、終盤、なんでという言葉が出るしかなく、尻すぼみになってました。原作はフランスの小説だそうです。なんで、この翻案ものが生まれたのでしょうね。よく判らないですね。


2017年 10月 26日(木)午後 11時 7分

 今日は、「いずみホール音楽講座」なるものに行ってまいりました。つい10日ほど前に、この講座があることを知り、また、うまい具合に日が空いていたということで、残り僅かになっていたチケットを、慌ててゲットしたというもの。お目当ては、テレビでも和かなお喋りで、その存在を知られるようになった作曲家西村朗が案内役というところが1つ、それだけではなく、演奏陣に、高木和弘(ヴァイオリン)、小谷口直子(クラリネット)のお二人の名前が入っていたことが大きく、これが、黄紺を惹き付ける2つ目のポイントとなりました。で、今日のお題は「クラシック音楽の愉しみ方VIII"華麗なる変奏"」というものでしたが、お二人以外の演奏者としては、伊藤朱美子(マリンバ)、碇山典子(ピアノ)のお二方も登場されました。なお、演奏された曲目は、次のようなものでした。「ヴィターリ:シャコンヌ」「パガニーニ:≪うつろな心≫による序奏と変奏曲 op.38 (ジョヴァンニ・パイジェッロの歌劇≪水車小屋の娘≫の主題による)」「ベートーヴェン:トルコ・マーチによる変奏曲」「西村朗:アリラン幻想曲」「リスト:超絶技巧練習曲 第6番 イ短調"主題と変奏"」「ウェーバー:変奏曲 変ロ長調 op.33」「一柳慧:パガニーニ・パーソナル マリンバとピアノのための」。変奏曲とは何たるかという話はなく、こういった変奏だという話が、各曲にあったわけではなく、ま、それは、用意された曲だけで、演奏時間がかなり長いということに起因するのですが、おもしろい変奏曲、ちょっと艶やかな変奏曲集めをして披露したというコンサートでした。中でも、パガニーニとリストの超絶技巧の2曲が入っているのが、特大のセールスポイントのプログラムでした。高木和弘は、カフェモンタージュのコンサートでも、オール・パガニーニで通した強者。初めて弾くというパガニーニの難曲を暗譜で弾いてくれました。ピアノの碇山さんも、難曲のリストは暗譜。でも、この方は、ベートーヴェンのソロのときもそうでしたが、ソロになると、ちょっと力み気味になられるのか、リストでしたら、左右のバランスが気になったり、ベートーヴェンでしたら、主題を大きく弾こうというのが見え透いていたりで、ソロよりか伴奏の方で大活躍というところでした。一柳作品がピカ一だったな。その一柳作品のマリンバを弾かれた伊藤さんのリズム感には、びっくり。スリムな肢体が、全て有機的にリズムに合ってるって感じでした。そういった中で、黄紺的本日一番の演奏は、狙いの小谷口さん。今まで、2~3回聴いたときは、決して期待に見合う演奏だったとは思ってなかったのですが、今日は違いました。何てゆとりのある豊かな音色だったのでしょう。三連符にドキッとし、素敵なタンギングが出てくる度に、酔いしれておりました。クラリネットのレゾン・デートゥルを知らしめたウェーバー作品の核心を呈示してくれたのじゃないかな。講座という名称に、看板に偽りを感じてしまいましたが、西村さんの選曲がおもしろくて、とっても楽しんじゃいました。お値段のことを考えると、ありえないコンサートだったのじゃないかな。


2017年 10月 25日(水)午後 11時 4分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、動楽亭で、今、最も集客力があるという「第6回 によによチャンネル~桂二葉落語勉強会」がありました。その番組は、次のようなものでした。二豆「子ほめ」、二葉「ロボットしずかちゃん」、阿か枝「お血脈」、(中入り)、遊子「熊の皮」、二葉「二十四孝」。二豆の高座に、ようやく遭遇できました。アホが2人、3人という小咄をふったあと、早々にネタへ。伊勢屋の番頭と顔を会わしただけのショートカット版「子ほめ」。確かに、噂に違わないしっかりとした語り口。アホよりも教え手に、より魅力を感じてしまいました。まだ、ちょっと言葉が先に出てくるような感じですが、楽しみな人の出現であることには変わりはありません。二葉は、今日は、2つともネタ下ろし。二豆効果かもしれません。二葉は上がるなり、「二豆は5ヶ月で3つもネタを覚えた」「私は3年間で7つやった」「道具屋覚えるのに6ヶ月かかった」と言ってました。その1つ目が、びっくりの小佐田&枝雀ネタ。「ロボットしずかちゃん」を、枝雀以後に出した噺家さんているのかな。雀々がやったかなと、ちらっとは思いますが、自信はありません。でも、実際に口演を聴いて見ると、二葉向きのネタです。マクラで、身の回りにある「喋る電化製品」の話をしてましたから、どこからネタに入ったのかが判らないほど、二葉の生活から自然に入りました。そして、二葉の手にかかると、喋る電化製品が、やたら可愛く聴こえるから不思議な感じ。それに、文句をたれる主役の女の子は、正に二葉その人というところでした。ですから、リアルタイム・ネタという感じがしてしまうのです。そんなネタって、そんなにあるものではありませんから、よく見つけたものです。それとも、誰かのサゼッションがあったのかな。阿か枝のゲストというのは珍しい。二葉の作り出す軽い雰囲気に、いい重しをもたらしました。そして、ネタは鉄板の「お血脈」。風変わりな、そして短めのネタですから、格好のチョイスでした。遊子は、遊三の30年ぶりの弟子とのこと。二葉の知り合いの友人だそうで、その関係での出番です。大阪芸大出ということで、関西に知り合いがいるようです。ちょっと顔つきが紋四郎似。ノリは上方風ってところでしょうか。ネタは、去年8月に、遊雀が繁昌亭に出たときに出したもの。その遊雀のテイストを感じる口演だったもので、同門ですからもらったものかもしれないなと思いながら聴いておりました。二葉の2つ目も、意外性に富んだもの。冒頭が似ているので、最初は「天災」かなと思ったのですが違いました。「二十四孝」は、師匠の米二が持っていますから、弟子の二葉が出がけても不思議はないのですが、二葉のキャラからして、まさか孝行ものを出がけるとは、全くの想定外でした。でも、そういった噺だからこそ、器を拡げるには必要なのでしょう。そないな噺ですが、二葉はこなしますね。アホに定評のある二葉にとっては、だだけ者も、その延長線なのかもしれません。途中、二十四孝の徳を説くところの郭巨のところでつかえたのは、ネタ下ろしの際のご愛敬として、終盤のバラシにかかるところで、ちょっと息切れしたのかな。それまでの勢いが、若干へこんだのが惜しいところでした。でも、こないなネタが、いい感じでできるのなら、ますます楽しみな二葉と、あらためて確認できました。


2017年 10月 24日(火)午後 11時 58分

 今日は、千日亭で講談を聴く日。毎月恒例の「第243回旭堂南海の何回続く会?~太閤記」に行ってまいりました。今日は、この間読み続けられている「太閤記・姉川大合戦(四)」として「長篠の合戦」が読まれました。日本史に疎い黄紺は、長篠の合戦が、どの武将とどの武将との戦かということすら、すらすらと出てこない始末。そういった中で、読まれる内容が理解できるかというのが不安なのですが、それでも、おもしろく楽しく聴くことができるのが、南海さんの講談。武田軍と信長・家康連合軍の戦だったのですね。でも、この戦、後者の連合が形成されたら、今回の読み物は終わりでした。信長は、近江方向に戦を抱えているのと、信長からすると、甲斐の武田軍と容易に戦を構えると、ただでは済まないの意識があったようで、口実を使い、なかなか軍を動かそうとしない。家康からすると、当時、最強かもしれなかった武田軍を相手にするのは怖ものだったようで、正面衝突を避けようとしているといった具合で、両軍の正面衝突までが、詳しく読まれたというのが、今日の講談でした。序盤では、武田の事情が、まず読まれました。信玄の急死、四男の勝頼に家督が移る事情ですね。そして、お互いの切り崩しの中から、奥平貞昌の、武田から家康側への移行、その奥平貞昌を武田から奪った長篠城主を据えることで、長篠が、家康側からすると、武田への最前線化し、武田のターゲットになっていく過程、武田軍による長篠城の包囲、陥落寸前で家康に派遣される武士の活躍譚、それが間に合い、ようやく家康と信長が動き出し、両軍の対峙、両軍の作戦、読み物はここまでで、我慢しきれなかった勝頼、作戦が当たり、呆気なく勝つ連合軍については、最後に蛇足のようにして、南海さんが素でお話をされて終わりました。いや~、合戦ものを、居眠りもしないで聴けると、おもしろくて、聴き終わったあとが、実に爽快ですね。来月は、この秀吉の出てこない「太閤記」は、一旦、お休みされて、「赤穂義士伝」の特別読み物だそうです。黄紺は、オペラ紀行に出かけてしまいますから、パスすることになります。おかげで、「太閤記」は、抜けることなく聴けそうです。


2017年 10月 24日(火)午前 6時 23分

 昨日は、繁昌亭で落語を聴く日。今夜は、南海さんの会の日程が判らなかったために、際どいところでチケットをゲットして、繁昌亭に行けたという曰く付きの「染雀晴舞台 芝居噺の世界~25周年・その3」がありました。三味線方4名(和女、律子、絹代、京子)、鳴り物3名(染八、弥っこ、遊真)を雇い、落語をするのは、主役の染雀だけという、贅を尽くした会でした。その番組は、次のようなものでした。染雀「お囃子紹介」「復活芝居噺:柿ノ木金助」「天神山葛葉子別~曲書き、早替わり相勤め申し候~」、(中入り)、あやめ・遊方・生喬・文三・染雀「三曲万歳」。正に染雀一人舞台。最初から最後まで、染雀は出ずっぱり。まず、冒頭は、鳴り物3人に三味線2人(絹代・京子)を舞台に上げての「お囃子紹介」。彦八まつりで、染雀が担当し、好評を博したと言われたものの短縮版&ヴァージョンアップ版と言えばいいでしょうか。リクエストを取ったものを含めて出囃子(石段・三下がり羯鼓・じんじろ)、鳴り物入り噺を、「幽霊の出」だけを見本として示したあと、今度は、リクエストを取ったのが斬新。「立ち切れ線香」「明石飛脚」「蛸芝居」を、口演付きでの演奏となりました。鳴り物の分担は、(笛)遊真、(鉦など)弥っこ、(太鼓)染八でした。そして、そのままの態勢で、「柿ノ木金助」へ突入。「柿ノ木金助」は、「本能寺」のように、芝居を、まるまる流れに沿って、再現するもの。台本から、染雀が作ったようで、染雀だからこそできるものとは思いながら、地で語ったりする場面を持たなかったのと、同じような場面が続いてしまう構成になっていたため、成功だったと言っていいのか、迷ってしまいます。途中、誰が話しているのかと判らなくなってはと、染雀が取り出したのは、顔を抜いた人型。また、最後、柿ノ木金助が鯱に乗り逃げて行くところでは、見台に仕掛けがしてあり、鯱が現れました。その鯱に乗るという姿を作るために、見台の上に座り込むという荒業を見せてくれたものですから、黄紺が、思わず呟いたのは「鶴笑みたい」でした。「天神山」は、最初から舞台後方に、曲書用の大きな白紙が立てかけてある前での口演。曲書をしたあとは、その吊るしてある3枚の白紙の背後に回り込み、早変わり。白装束に変え、最後にもう1回変わっていました。でも、最後は、口上を述べるような物言いで、落語の下げは吹っ飛んでしまってました。ちょっと芝居にシフトしてしまってました。ケレンにこだわり過ぎたかな。噺の展開は、染雀の陽気なお喋りというのが、春の明るさに合っており、また、ちょっとテンポを高めているのも、明るさを出すのに効果的。狐獲りの男との対話シーンでは、ほとんどインテンポのまま行っちゃったのが、ちょっと惜しい。あすこで踏ん張れば、いいテンポが一層に生きてきたはずでしたのにね。でも、順応力は抜群、何でもできる達者さを見せてくれたように思えました。「三曲万歳」が、なかなかの趣向。三河・尾張万歳再現。前半は、「忠臣蔵」の三段目の返し、「質屋芝居」で有名なところ。特に、三味線方と掛け合いになるところを(鷺坂伴内の出てくるところ)、普段「質屋芝居」を持ちネタにしていない文三に任せたのも、一つの趣向か。後半は、軽口の応酬と言えばいいのかな。ベタな小咄でも、枠が異なれば笑えます。あやめ、文三の三味線、和女、京子の胡弓、和女は、持ち替えで太棹も、遊方、生喬の小鼓と、普段見ることのできないものも見られ、それに、吉崎さん、吉川さんの三味線、染雀の締め太鼓が入るというお賑やかなもの。いずれもの達者な芸を堪能させていただけました。


2017年 10月 22日(日)午後 7時 36分

 今日は、台風が接近するなか、動楽亭で落語を聴いた日。昨日、吉の丞の会が、早々と中止になったので、今日も、主宰者のツイッターを注視していたのですが、なかなか今日の会についての呟きが出なかったのですが、出たと思ったら、今日は決行。大阪に向かう電車も、乗客は、いつもの7割がたか。きっちりと、乗客の数にも、台風接近が現れていました。で、その決行された落語会は「第5回みずほのホッ。~露の瑞勉強会」でした。その番組は、次のようなものでした。弥っこ「ふぐ鍋」、瑞「片棒」、坊枝「ガマの油」、瑞「書き割り盗人」。台風だということで、ちょっとゆとりをみてのお出かけをしたのですが、電車に傘を忘れたため、その手続きをしていたら、結局、ゆとりの時間は、全て、そのためのものになってしまい、動楽亭に着くと、既に開場は済んでいましたが、入口にある靴箱に詰まった靴の多さに唖然。コアな落語ファンのお顔は、ほとんど見かけはしなかったものの、この台風接近のときに、40名ちょいを集めました。支援者が多いのかなとも思ったのですが、誰かの会のような露骨な雰囲気もなく、ちょっと黄紺の頭には「?」が点っています。いずれにせよ、客の入ることは喜ばしいことです。瑞は、開演10分前に舞台に上がり、会の進行についての説明をしていました。中入りを省いて、終演時間を早めたい。3時半と具体的に数字まで出していました。ネタ下ろしの「片棒」を、プログラムにはトリに置いているが、万が一の打ち切りを考えたのでしょうね、1つ目のネタとしてやりたい。この2点を押さえていました。開催する中では、妥当な判断なのでしょう。開演時間をいじることはできませんからね。前座は、今日も弥っこ。ホント、弥っこが前座バブルになりそうな勢いです。しかも、短期間の間に腕を上げてくるわけですから、当分、弥っこは引っ張りだこの前座でいそうですね。ネタも、弥っこで初めて聴く「ふぐ鍋」。師匠の吉弥テイストの詰まった口演。でも、師匠のカラーが強いネタほど、弟子ら、もらった方がこなすのに苦労している姿を、幾度となく見てきた黄紺の目にも、呆気なくスルーしている弥っこの高座姿にほれぼれしてしまいました。こういった柔らかな空気のネタって合ってるのかな、弥っこに。この口演で、弥っこに対する期待度が上がりました。瑞は、「片棒」を染二からもらったそうです。「片棒」と言えば、上方では文之助というイメージがありますが、それを、敢えて避けて染二のところへ行ったのは、なぜなんだろうと、今日のネタ下ろしが「片棒」だと知ったとき、思わず考えてしまいました。先ほどの弥っこのところで書いたことに関わるのかなというのが、黄紺的推論です。文之助の「片棒」は、あまりにも文之助カラーが強すぎると看たのじゃないかな、あのライトな、ちょっと甘ったるい文之助テイストから、自分のネタ化するのはきつい、まだ、染二テイストの方が追っかけ易いと看たのかなというのが、黄紺的推論です。役者の名前で、1箇所詰まったのはご愛敬として、ハイテンポ、小気味良いリズム、この辺を、きっちりと仕込まれてきたなと思われる口演。ある意味では、瑞の経験したことのない世界にチャレンジしたという印象を得ました。となると、染二にもらって、大正解ですよね。ゲスト枠は坊枝、意外性抜群の人選です。大体、瑞くらいのキャリアだと、頼みにくいほど上の師匠、よくぞ頼んだ、いや、なぜと尋ねてみたくなりました。他の落語会で、坊枝がゲスト枠で出たっていう落語会って、かなり前に、由瓶の会で喚ばれたのを覚えているくらいです。しかも、ネタが「ガマの油」とは、、、。このネタも、瑞からのおねだりだったら、ますます、なぜって尋ねたくなります。だって、「ガマの油」は、上方では、雀々と坊枝がビッグ2というオーラを発しているネタなんですから。一方、今日の急ぎ足の進行には、短めのネタとしてうってつけであることは事実なのですが。おかげで、久しぶりに坊枝の「ガマの油」を聴くことができました。瑞は、2つ目もネタ下ろしと、自身のツイッターに書いていたので、何をするのか、興味津々が2つもと思い出かけて行ったのですが、外されてしまいました。ひょっとしたら、終演時間を考慮して、引っ込めたのかもしれませんが、、、。肝心のバラシのところで居眠りをしてしまったのですが、仕込みのところに瑞カラーが出てるところがありました。水屋だったかな、「551の豚まん」が顔を出していたり、何か書いてくれと言われた描き手が、「そんなん描くくらいやったら、ダイソーで、なんか買うてこい」という、ともに、現代的な感性での挿し込み。でも、「豚まん」は「×」で、「ダイソー」は「○」です。だって、描いてもらっている家具類って、とっても趣味のいい高級なもの。そこに、「豚まん」はダメでしょう。逆に、「おまえには相応しい」という感じになる「ダイソー」は「○」となります、黄紺的にはですが。ですから、挿し込みって、何でもおもしろければいいのじゃなくて、噺にマッチする何かを探し出すというのが、噺家さんのセンスってことになると思うのですが、、、。終演は、予定時間を超え、3時40分というところだったでしょうか。幸い、京阪電車は、車内では、台風対策で「遅らせることも」「止めることも」などとアナウンスがありましたが、そないなこともなく、大過なく帰宅できました。置き忘れた傘も、無事に戻ってきたということで、満足の1日となりました。


2017年 10月 21日(土)午後 10時 21分

 今日は台風の接近した日。そのため、予定していた吉の丞の落語会が中止になってしまいました。夜半、吉の丞本人から、メールをいただきました。「延期」という内容でした。明日がまずいかなと思っていたため、ちょっと驚きました。手回しが良すぎると思ったのでした。でも、吉の丞のツイッターを見ると、既に、開催についての問い合わせメールが届いていたそうで、確かに、今日の昼前になり、雨足が強くなり、適切だったのだと感心も得心もしました。新聞やテレビを見ない黄紺は、完全に世間からずれてしまっています。でも、台風のために、家にじっとしていることが我慢のならない黄紺は、落語会や講談会は、吉の丞と似た判断をしているかもと、そちら方面を除外して、新たなお出かけ先を見つけました。映画館なら、台風にも負けないだろうと判断したのでした。シネ・リーブル梅田でいい映画が上映されていることを知り、即決しました。それは、ドイツ&オーストリア映画「ブルーム・オブ・イエスタディ」。以前、何かしらの映画を観に行ったときに情報を掴み、チェックを入れてあった映画でした。映画館に行って、ようやく、この映画が、東京国際映画祭のコンペを制したことを知り、土曜日の午後とは言え、この手の映画にしてはの入りの理由が判ったという、時流に乗れていない黄紺です。なかなかシビアで、且つ難解な映画と言っていいのでしょうね。2人の男女の恋物語ではあるのですが、その2人に、かなり大きな制約があるのです。男は、ナチスの親衛隊長を祖父に持ち、女はホロコーストの犠牲者を祖母に持つというもの。映画が進むにつれ、リガの学校で、祖父母は机を並べた関係であり、しかも、男の祖父は、女の祖母の死に責任を持っていたことまで明らかになってきいます。その2人が、ホロコーストの研究機関で出逢います。男は、祖父を告発する本を著し、その世界で知られたこともあり、女も、その本を読み、男を慕って男のもとに研修生として、フランスからやって来たのでした。これも、映画の進行につれ、女は、お互いの祖父母のことを調べた上で、男に関心を持ちドイツ(シュトゥットガルト空港が映ってました)にやってきたのです。この映画、主役の2人ばかりか、ホロコースト研究所の言葉づかいが荒く、しかも、性に関わる言葉が乱れ飛びますし、また、主役2人含めて、性に関して、とっても自由闊達な言動の映画でもあります。題材が題材だけに、しかも、主役2人の関係が異様な設定になっていますから、その性的な言葉が飛び交う姿というものに、なじむのに大変な映画でもあります。研究所が企画するイベントのスポンサー及び講演者として予定されていたとして登場する大女優の物言いもなじめるものではありません。研究所を代表して確認に赴いた男に尋ねるのは、ホロコーストと無縁なことばかり。男の私生活ばかりを話題にしていきます。研究所のイベントのスポンサー探しなどが形式的に流されているとかのような浅薄な問題の立て方ではない、生きる人間の属性のようなものを排除したときに、何が残るのかを問いかけ、生身の人間として、どのように生きようとしているのかを問いかけようとし、その最も原初的な言動として性を持ち出したのかなと思ったりしながら観ておりました。そういったなか、主役の2人の祖父母の関係が明らかになったところで、祖父母の土地リガに向かいます。そして、2人が並べた机を見つけ、それが、残されていた写真と一致したところで、祖父母の立ち位置が明確になったとき、では、自分たちはどうなのだという問いかけに向き合うことになります。出発は違っても同じ目的で、ここまできた自分たちは何かの問いかけにぶち当たる2人は、性生活を明らかにすることで、人間の原初的な遭遇を体験したようで、その夜、2人は結ばれ、男は解放を味わえたと言っていい体験をしていくので、ここで終わりかと思ったところで、この映画は終わりにはしてくれませんでした。女を寝取られたと思った女の付き合い相手が、男の秘められた過去を女に伝えます。また、主役の2人には、決して交わることのない、2人の経歴、広く言えば出自に関わるプロットが挿入され、結局、2人は別れることになるのですが、映画の最後で、その5年後の挿話がコーダとして入ります。場所は、ドイツでもフランスでもなく、ニューヨークにしてあったのかなぁ。ここに、僅かながらの救いのプロットが用意されていて、ホッとしたところで、画面はクレジットに変わりました。映画の題材からして、およそなかったテキストが用意され、目つぶしのようなものを観る者は受けてしまいますが、これが、とんでもない曲者で、なんともはや難解な映画でした。ウェブ上に、この映画を、しっかりと分析されている方がおられないか、じっくり探してみることにします。精神分析に関する言説を、しっかりと押さえれてないのが、黄紺の勉強不足丸出しのところかなと、今のところ、思っているところです。


2017年 10月 20日(金)午後 11時 15分

 今日は講談を聴く日。動楽亭であった「南湖の会~赤穂義士伝~」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。南湖「後藤一山、もし犬糞なかりせば」、鱗林「太閤記~藤吉郎の?~」、南湖「赤穂義士外伝~忠僕直助~」、(中入り)、南湖「名月松阪城」。南湖さんの「後藤一山」ものは、初めてかな? 「トリイ講談席」の企画もので聴いたような気もするのですが、思い出せません。とにかく、今日の「後藤一山」ものでは、「犬糞なかりせば」ですから、喜六は、犬糞を顔に塗りたくられることはない、ということは、後藤一山に恨みを抱くことはないということで、スタートするというものでした。そのため、あろうことか、喜六は、後藤一山に弟子入りをして、小一山を名乗るというもの。ただ、小一山の活動というよりも、小一山に、大阪へやって来たわけを語るというのが、噺の本筋でした。お手伝いに来ていた鱗林さんのネタが思い出せません。要するに、ここで居眠りをしてしまったということです。気がつくと、南湖さんの「忠僕直助」の序盤が過ぎかけていました。直助が、鍛冶屋に弟子入りするきっかけのところでした。この「忠僕直助」は、同じ旭堂でも、出所が幾つかあるようで、今日聴いた南湖版では、そのきっかけは、偶然耳にした「トッテンカーン」という鍛冶屋の音であったり、入門が許された直助の夜半の行動も、水浴びをして神仏祈願する姿を描き、技術的な稽古の逸話はありませんでした。一流の刀鍛冶として赤穂に戻った直助は、主人がされたと同じことをやり返し復讐を果たすというもので、抑制した形で見返し、貫禄まで示すというものに比べると、ちょっと品がない脚色と看ました。ですから、総じて、下世話な印象を持ってしまったテキストでした。この違いは、どこから来ているのでしょうか。南舟くんの「直助」は、東西交流でもらってきたものとインプットされてはいますが。南湖さんのもう1つは、常なら「鍋島騒動」なのですが、今回はお休み。替わりに「名月松阪城」とは、、、。南湖さん、この有名なネタ、確か、まだやってなかったですよね。何かの都合で、やってみる気持ちになったのか、やらざるをえなくなったのか、その辺は判りませんが、結果的に、今日は、「直助」と言い、著名なネタが並んでしまいました。このネタも、わりかしたくさんの講釈師さんで聴いてきましたが、今日の南湖さんの口演で、おやっと思ったのは、石塚究四郎が戻って来て、腹を切ろうとしますが、城には戻ることなく、城を望みながら、松林の中で、行為に及ぼうというもの。また、戻ってくるまで、かなり零落して、餓死するかのような体で戻ってくるというテキストも、どなたかの口演で聴いたことはあったのですが、そういった経済的な事柄は、一切なしでの帰還となっていました。微妙なニュアンスの違いが出てくるところですから、演者さんの感性で取捨が行われているのかもしれないところです。こういう風なベタなネタが並ぶと、南湖さんの会では、かつてのアヴァンギャルドさが消えてきたと思うから、不思議な感じがしてしまいます。今日も、ちょっとだけ、余談で、茶臼山舞台のことを触れておられたのですが、あの頃の危うさのようなものを懐かしく思うのは、もう帰らない昔を思うノスタルジアに過ぎないのでしょうか。


2017年 10月 19日(木)午後 10時 50分

 今日は浪曲を聴く日。天王寺のスペース9であった「第3回 浪曲いろは文庫」に行ってまいりました。沢村さくらコネクションの五月一秀&真山隼人のお二人が集った会に、初めておじゃまをしてきました。その番組は、次のようなものでした。五月一秀(沢村さくら)「乃木将軍伊勢参り」、真山隼人(沢村さくら)「水戸黄門散財競争」、(中入り)、五月一秀(沢村さくら)「月下の庵」 、全員「付録:浪曲Q&A」。一秀さん、「乃木将軍」は、2年ほどはかけてなかったとか。陸軍大演習のあと、伊勢神宮を参拝しようと、東京から妻に衣服を持ってきてもらおうとしたところまでは良かったのですが、田舎の婆さん風の格好で妻が来てしまったので、名古屋の旅館が失礼な扱いをして、大騒動というもの。講談や浪曲に残る乃木将軍ものの1つ。偉ぶることなく、庶民的感覚を持つ人物として描かれるのが常で、軍国主義を、こないな形で支えていたのかと思うと、このジャンルのネタを聴くと、背筋がぞくっとしてしまいます。隼人くんが、今日は1席の番で、彼には珍しい水戸黄門もの。ただ、この黄門ネタは、ちょっと風変わり。代官や大商人といった巨悪を懲らしめるのが、黄門さまの常かと思っていたら、これは、放蕩者のアホたんの若旦那を懲らしめる話。しかも、代官に書状を送り南の芸者を足止めさせるなんてのが出てきて、びっくり。かなり権力乱用気味。ちょっとおもしろければいいという荒っぽさを感じてしまいました。一秀さんの2つ目は、確か一心寺で出たときに、居眠りをしてしまい、内容が、さっぱりと判らなかった代物。ようやく、今日になり把握できたのですが、なかなかいいネタじゃないですか。源氏の世となり、平家狩りが行われているとき、ある村のちょっといわくありげな男が出家を匿います。出家は、源家の者と言ったため、訝しく思った男が、わけを尋ねると、その出家は、那須の与一を名乗り、一の矢で扇の的を射たあと、命令を受け、それを祝す平家の武者の喉を、二の矢で射たことを話します。源平双方が、与一の技を讃えるなか、命令を受けたとは言え、自分の執った行動を恥じ、出家をしたため、同じ源家より追われているというわけです。その懺悔が終わると、それを聴いていた男も懺悔を始めます。実は、その喉を射られたのは自分で、弓矢の心得のある身として、風を読むことで、二の矢を避けることはできたが、何のための二の矢かが判ったので、避けることをしなかったと言います。かつて、屋島の海で対峙した2人の邂逅が、お互いの胸のつかえを語り、そして、別れていきます。フィクションに過ぎるという見方も可能かと思いますが、黄紺的には、無常感が溢れており、こないな作品、よくぞ一秀さん、掘り起こしてくれたと、心より拍手です。ただ、この掘り起こしが難物なようで、それをあたりを、「付録」で伺うことができたのですが、、、。


2017年 10月 18日(水)午後 11時 30分

 今日は、カフェモンタージュでブルックナーを聴く日。なかなか演奏される機会の少ない「弦楽五重奏曲 ヘ長調 WAV112」が出るということで、心待ちにしていたコンサートでした。その演奏者は、次の皆さんでした。(ヴァイオリン)谷本華子、石上真由子、(ヴィオラ)小峰航一、大山平一郎、(チェロ)金子鈴太郎。このメンバーでは、キャリアが図抜けている大山さんが、アンサンブルのリーダー格。あとの4人は、カフェモンタージュではおなじみの顔ぶれですが、金子さんと谷本さんの組み合わせは、よく見かけるのですが、そこに、小峰さん、石上さんが入るというのは新鮮ですが、石上さんの場合は、金子さんや谷本さんと一緒に長岡京のメンバーだとすると、小峰さんが、一番新鮮ということになってしまいます。演奏後、トークの時間が取られ、そこで、大山さんが言われていたのは、ドイツ的な音とブルックナーのましめさとかピュアな心根。黄紺的には、この珍しい五重奏曲は、ブルックナーのシンフォニーと比べて、どうも違和感があります。作曲年代が、シンフォニーの4番や5番と重なる時期と、オーナー氏の前説で、お話があったのですが、それを聴くと、ますます違和感が募る黄紺なのです。ちょっと事前学習にと、幾つかの演奏を聴いてみたのですが、確かに、大山さんが言われるように、ドイツ的と呼べるものもあれば、そうでないものがあります。ということは、それだけの幅を持っている作品だということで、大山さんの強調される所以は、明確に存在しうると思っています。ということは、演奏は、なかなか根気のいるものなのでしょうか。黄紺も、そういった幅を気にしながら聴き出したのですが、冒頭、特に谷本さんの音色が、独特だなぁと思っていたら、チェロがしゃしゃり出ると、チェロも違うなぁの印象。その内、慣れてきて、耳がマヒしてくると、いい心持ちに。次第に、半寝で最後まで行ってしまいました。ですから、あまり勝手なことは書けないのです。


2017年 10月 17日(火)午後 11時 11分

 今日も落語を聴く日。今夜は、「喬介のツギハギ荘落語会」に行ってまいりました。全くの喬介による一人会。いろいろと、自分のやってみたいことを、この会で試しているようで、その成果が、今年も出たようで、NHKのコンペのファイナリストに入りました。で、今日の番組は、次のようなものでした。「牛ほめ」「天狗さし」「寝床」。「牛ほめ」を、ファイナルでのネタにするようで、11分に短縮したものを、お試しに出したようです。最高の調子を、ファイナル当日に持って行くための試運転といった口演でした。仕込みとバラシのあるネタですから、いかに時間内で、そのネタの良さを引き出すか、かなり、この刈り込みにかかっているかもしれません。喬介の描くアホが生きるかどうかも、そこにかかっているのでしょうね。「天狗さし」って、喬介で聴いたことあったかなと思いながら聴いていたのですが、かつては演じ手が稀れだったことを考えると、噺家さんの間で、人気が上がってきているということなのでしょう。およそあり得ない取り違えですから、くだらんと片付けるか、おもしろいと看るか、時代による変化かもしれません。喬介は、天すきを考えた男のアホ度を、かなり上げて描いていました。およそあり得ないことを考えついた男は、究極のアホだというところなのでしょう。一歩間違うと、アブナイ男になってしまいますから、きわきわ狙いっていうところでしたが、辛うじてセーフかな、これも際どいものがあります。ここで、お色直しを兼ねた中入り。それぞれの噺に入る前のマクラで、おもしろ噺をしてくれていたのですが、中入り明けは、皆が聴きたかった師匠の襲名披露興行の話。お弟子さんだからこその目線からの話を聴けたのは、今日、会場にいた者だけの特権です。そして、最後は、前回からのお約束だった「寝床」。4年目ですから、年季明け後すぐの頃に鶴二にもらったそうで、今まで1回しか出したことのないネタだそうです。また、出したくても出す機会というのは、簡単にはなかったと思われます。下げを言ったあと、喬介自ら、「寝床」の自分なりの演出ポイントを話してくれました。浄瑠璃好きの旦さんは、今まで、皆が喜んで聴いてくれていたと思い込んでいたところ、初めて、実は嫌がりながら聴いてくれていたことを知ったと捉えての口演にしたということでした。そのために、旦さんを、人の良さそうな、明るいキャラにして、そういった演出法に合うようにしていました。確かに一理あるなと思うと同時に、かなり融通性のない、付き合いにくい男と見えてしまいました。また、町内回りの男が戻って来て、旦さんに報告する言い方も、テンポアップをして、徐々に旦さんの興奮を誘うというよりも、仕組んだことを漏れることなく、報告しようというもので、かなり雰囲気の違う口演となり、喬介の個性が出たものでしたが、一方で、やはり2回目の口演というのはいかんともし難く、もっともっと喋る機会を持ってから聴いた場合に、このような演出が、どのように自分の耳に響くかを確かめてみたくなる口演でした。喬介は、ネタに関し、いろいろとアイデアが浮かんでくるのでしょうね。そのことを確認できた会だったと思いますし、今後も見守り続けねばならない噺家さんだと、あらためて思いました。


2017年 10月 16日(月)午後 10時 47分

 今日は落語を聴く日。今夜は、守口市文化センター(エナジーホール)地階和室であった「第61回とびっきり寄席」に行ってまいりました。初めて2回連続で、おじゃますることになりました。その番組は、次のようなものでした。米輝「千早ふる」、雀五郎「池田の猪飼い」、佐ん吉「胴斬り」、ちょうば「羽根つき丁稚」「義眼」。米輝以外が、この会の定例メンバー。米輝の「千早ふる」は、何度目かの遭遇になりますが、今日のテキストは初めて。遊女にふられる解釈を、若干はしょりながらの口演だったもので、刈り込みヴァージョンを持っているのかなと思って聴いていたところ、聴き手が、教えられたものはウソと見抜き、もう1人に聴きに行くというもの。それもデタラメと思い、最後、聴き手は「家に帰ってグーグルで調べます」が下げになってたのですが、グーグル使えるなら尋ねに来ないはずと突っ込んでしまいました。今日は、次の雀五郎のところで、居眠り発生。外は寒いほどだったのですが、会場は暑くて、それが影響したのかと思います。しかし、この冬は、「池田の猪飼い」の当たり年になりそうな予感がします。夏から二葉の口演を聴いてましたからね。佐ん吉の「胴斬り」は初めて。吉朝一門では、吉の丞に次いでじゃないかな。マクラで侍の噺をしていたのですが、「胴斬り」とは思いませんでした。ただ、佐ん吉の口演は、全体的に明るく、辻斬りの暗さはありませんでした。猟奇的とも言える内容ですから、努めて明るくするというのも手なのかもしれませんが、黄紺的には、アンバランスな印象を持ってしまいました。朝になり、街も明るくなり、仕事も見つかるといったところでの転換というのが、自然なような気がするのですが。ちょうばは上がるなり、「艶笑噺について話してみたいのですが、、」と、いきなり言い出したので、ちょっとびっくり。四天王が艶笑噺をよくしていた話を一くさりしたあと、3つほど、ライトな艶笑小咄をして、最後に「羽根つき丁稚」で、艶笑度が急上昇。でも、短い噺ですから、これで終わるわけではないと思ってたら、「義眼」が始まりました。びっくりです。だって、「義眼」をするために、長々と艶笑噺をするとは思いませんものね。ちょっと下卑た廓噺であっても、艶笑噺に入るのかなぁ。でも、「義眼」って、この方、南光でしか聴いてなかったもので、しかも、随分前に聴いたままだったもので、ありがたかったことはありがたかったのですが、、、。このネタも、廃れたネタの1つですね。昔は、わりかし聴く機会があったという記憶が残っています。次回からは、会場が広くなるそうですが、黄紺はオペラ紀行の最中。となると、次に、この会におじゃまできるのは、もう来年です。月日が経つのは、まことにもって早いものがあります。


2017年 10月 15日(日)午後 10時 56分

 今日は、兵庫芸文センターでのコンサートに行く日。今日の午後、京都市交響楽団(広上淳一指揮)のコンサートがあったのです。わけあって、京都で聴くのではなく、芸文で聴くことを選びました。そのプログラムは、次のようなものでした。「ウォルトン:"スピットファイア"前奏曲とフーガ」「ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番(ヴァイオリン:ボリス・ベルキン」「ブラームス:交響曲第1番」。今日の狙いはボリス・ベルキン。30年、いや、それ以上前かもしれません、どこで、何を、また、リサイタルだったのか、コンチェルトだったのかすら覚えてないのですが、「聴いた」「良かった」ということだけ覚えているヴァイオリニスト。加齢による衰えとかは大丈夫だろうかと、そないなことを考えてはいたのですが、昨日の白井さんの「ボリス・ベルキンが素晴らしいですよ」の言葉で、意を強くして西宮まで行ってまいりました。そして、これがすごい、すごすぎる、正に期待にそぐわないショスタコーヴィチでした。全般を通じて、社会主義リアリズムってのは、この曲のためにあるのじゃないかと思うような曲想と、黄紺の頭にはインプットされていました。冒頭の緩叙楽章の、何と無機質な音楽よ、何やら、その透徹した音楽にこそ、ショスタコーヴィチの魅力すら感じていたのですが、今日のボリス・ベルキンの演奏は、その緩叙楽章に、人の体温の温もりがあり、悩み、苦渋、不安のようなものを感じ出したものですから、とんでもない演奏を聴いている、正に、その真っ只中にいる実感に包まれてしまいました。一転した激しいリズム、スピード感が出てくると、凄まじいハイテクニック。加齢による云々を懸念していたことが、ホント、アホらしくなっちゃいました。強烈なインパクトを残した演奏、今年は、フィルハーモニア管弦楽団の演奏で経験しましたが、それに匹敵する、長く記憶に留まるであろう超名演だったと思います。このショスタコーヴィチでの演奏が、京響にとっても、本日のピーク。ウォルトンの分厚い、威風堂々たる音楽に次いで、広上らしい起伏に富んだ、また、ソリストのスタンスに見事に適合したニュアンスを見せた指揮ぶりに感服ものでした。それらが、頭に染み込んだ分、ブラームスは、そのわりを食ったのではないかな。えらく生真面目で、丁寧な演奏という感じで、ショスタコーヴィチで見せてくれたわくわく感は、どこへやら行ってしまってましたが、京響の弦楽部の厚い響き、管楽器の彩り(今日はオーボエが最高)は、とっても魅力的に耳に入り、この音で、来年のびわ湖でのワーグナーを聴いてみたくなりました。今日は、会場で知人夫妻にばったり。終演後は、近くのカフェで長話。おまけに、車で淀屋橋まで送っていただけ、感謝、感謝、、、そないなおまけが付きました。


2017年 10月 14日(土)午後 11時 33分

 今日は三部制の日。頑張りました。午前中に、京都市が開催している講座を聴講をして、夜のカフェモンタージュでのコンサートに行く前に、ある写真展に寄って行ったというわけです。まず、聖母女学院を会場にして行われた講座というのは、「伏見連続講座-ふれて、しって、みて伏見-」と名の付いたもの。初めて行ったため、勝手が判らなかったのですが、実に多くの人たちが詰めかけており、びっくりさせられました。今年が,大政奉還,鳥羽伏見の戦いから150年の節目だということで企画されたようですが、今日の講座は、3回連続ものの2回目。黄紺は、ほんの数日前に、この講座の存在を知ったものですから、1回目は、既に終わり、次回も、予定を入れているため、今日だけが参加できるというものでしたが、内容的に大丈夫だろうと楽観的な見方で行き、結果として正解でした。その講座というのは、「基礎講座:鳥羽・伏見の戦い150周年を迎えて、戦国時代から鳥羽・伏見の戦いまでを総復習」の「第2回目:文治政治のはじまりから開国」というもので、講師は京都聖母女学院短期大学講師の福井浩紀さんでした。講座について記されたパンフレットに、中・高校生程度と書かれていたのがありがたく、全く日本史に疎い黄紺には、基礎勉強にはもってこいとの判断でした。実際、講師の方は、聖母女学院の付属の高校でも教えられているそうで、恐らく授業でお使いになっていると思われるパワーポイントの画面を示しながらのお話となりました。ただ、内容が盛りだくさんなため、所定の時間に納まらず、延長をしてもなおかつ、田沼政治までで、本日は終了となったのですが、通史を固めて聴くことの大切さを、痛切に感じることとなりました。重農主義的な政策から重商主義的な政策への転換と、田沼政治を評されていましたが、従来型の政治の行き詰まりを意味し、また、貨幣改革の混乱が、広く経済の混乱を呼び起こしていく姿が見えてきます。外国との交易についても、政策的な転換が看られるということでしたが、黄紺的には、世界的な銀の流通との連関性がないのか気にはなったのですが、こういった変化を伺いながら、確実に江戸幕藩体制の軋みを感じるとともに、来る開国への道筋というものに必然性を感じることができました。これは、当たりでした。自分的には、とってもいい勉強になり、ありがたい講座でした。次回が行けないのが、ホント、残念です。
 そして夕方、カフェモンタージュに行くときよりは、30分は早く家を出て、河原町通に面してある「ギャラリー古都」へ。こちらで、今、「宮崎金次郎写真展(桂米朝展)」が行われています。ずっと、米朝師の高座姿、楽屋風景を撮り続けた写真家が宮崎金次郎。とにかく白黒の画像として残っている米朝師の写真は、全て、この方が撮られたものと聴いています。この展示会では、ほとんどが高座姿で、中には、珍しい「あくびの稽古」を演じる米朝師の高座写真があり、びっくり。楽屋風景では、今は亡き米八、吉朝、喜丸の姿があるかと思うと、晩年の米朝師の傍らには、まだ童顔の佐ん吉の姿を見つけることができました。見学者には記帳を求めるようになっていましたので、書こうとすると、僅か上に「岡野鏡」の記帳。微笑ましくもあり、ちょっと緊張を覚える記帳となりました。
 少し、御池通の地下で、時間調整がてら、休憩をしてから、カフェモンタージュへ。今夜は、「パガニーニアーナ」 と題して、ヴァイオリンの白井篤さんとピアノの塩見亮さんのコンサートがありました。NHK交響楽団の団員の白井さんが、京都市交響楽団のゲストプレーヤーとして、今日と明日、演奏される機会を捉え、正に「今日しかない」という日を捉えてのコンサート。塩見さんとは、アンサンブル・ドゥトラのメンバーとして活動されているという間柄。アンサンブル・ドゥトラのコンサートでは、黄紺も、白井さんの演奏に接してはいるのですが、ソロは初めて。そのプログラムは、次のようなものでした。「M.レーガー:前奏曲とフーガ ト短調 作品117-2」「N.ミルシテイン:パガニーニアーナ」「S.プロコフィエフ:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ヘ短調 作品80」。この内、お二人での演奏はプロコフィエフだけで、前の2曲は、白井さんのソロ。レーガーが始まった途端、正直びっくりしました。えらく音の出るヴァイオリンだったからです。ただ、レーガーは良かったのですが、「パガニーニアーナ」 になると、パワーに、ちょっと目つぶしを食らわせられたなの印象が湧いてきました。エモーショナルな演奏でもなく、そりとてストィックかというと、そうでもないのです。個性と呼べる特性に彩られたものを見つけにくかったな。プロコフィエフは、ストイックどころか、無機質な印象がインプットされていたところに、今日の演奏は、期待通りというわけにはいきませんでした。そうなると、このプロコフィエフを聴き通すのは、かなりきついものがあります。明日、似た色合いのショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲1番を聴くことになっていますので、記憶の新しいところで、聴き比べたいと思っています。そのコンサートこそが、白井さんがゲストプレーヤーとして出演されるあのコンサートなのです。


2017年 10月 13日(金)午後 11時 16分

 今日は繁昌亭に行く日。夜席で「ミステリーな落語会」というものがありました。企画もの落語会の1つになりますが、前回が開催されて1年も経ってないなかでの第2回の開催ということで、ちょっと気になったもので、覗きに行ってまいりました。幸い、他にそそられる落語会もないということで、あっさりと決断しました。その番組は、次のようなものでした。小鯛「動物園」、白鹿「煮売屋」、天使「雑俳」、米紫「大安売り」、(中入り)、しん吉「風邪うどん」。落語会とミステリーを組み合わせた趣向は、天使の企画。プロデュース能力に長ける天使は、この間、いろんな試みをしていますが、その中で、繁昌亭で開催されているものがこれで、思いの外、コアな落語ファン氏の顔を多く見て、それに、一番びっくり。中入り前の落語の合間と冒頭に小芝居が入り、ミステリーが展開されていくという趣向。そして、中入り前に出た米紫が、ネタが終わったところで、探偵役として、ミステリーの仕掛けが判ったことを表明。中入り明けに、全員が舞台に上がり、種明かしがされるというもの。オープニングと第1の殺人(小鯛が奈落に落ちてライオンに食われる)は、スクリーンが使われます。米紫の種明かしの論理の一部に、判りにくいところがあったのですが、出囃子にヒントが隠されているという、ちょっと落語らしく凝った点は、なかなかおもしろい台本だったのじゃないかな。黄紺的には、白鹿の出囃子で「ん?」と思いながら聴き流してしまい、次の天使が「猫じゃ」で出てきたときに、また「ん?」と思い、小芝居の最後に、米紫が「猫じゃ」を指示したのを、「んん?」と思いつつも、単なる何かの手違いとしか思わず、この会のミステリーの仕込みとは、全く考えもしませんでした。そんなで、わりかし楽しませてもらったという印象を持ちました。どうやら、台本が仕上がったのが昨日のようで、ちょっとバタバタ感があったのは惜しまれます。落語もそうだけど、大真面目におもしろいことを言ったりやったりするからおもしろいので、芝居のプロではないのですから、やはり時間をかけて、芝居の稽古、映像作り、音合わせ、舞台稽古をして欲しいなと思います。落語は、概ね軽いネタで推移。小鯛の出番とネタは、ミステリーの仕込みと関係がありますが、あとは、一切関係のないネタのチョイスです。そして、種明かしがされたあと、繁昌亭では、ラストが落語でなければならないというルールを作った人がいますから、そのルールに則り、しん吉がトリとして上がりました。先日の独演会に続き、しん吉は、師匠吉朝色の濃いネタを出してくれました。ちょうど、気候が、昨日までの夏の陽気から、一気に秋に戻っていますので、「風邪うどん」も許せるかな。今季初の「風邪うどん」でした。でも、今日も、吉朝の姿が、目の前でちらついて、、、やっぱ、吉朝はグレートです。


2017年 10月 13日(金)午前 6時 39分

 昨日は、京都シネマで映画を観る日。日本映画「カレーライスを一から作る」を観てきました。大阪での上映時に観てなかったものを、うまく京都で拾い上げることができました。カレーライスに必要な一切のものを、自身で作り、最後に、それらの材料を使い、カレーライスを作るというゼミの記録です。必要だとして作るのは、米、野菜、スパイス、肉(駝鳥の飼育に失敗後、烏骨鶏とほろほろ鳥)、塩、食器(陶器の皿、竹のスプーン)が、具体的には映像に現れてきていました。田おこしや畑作りから始まる食材作り、粘土に学内の土を入れて焼き上げた陶器、昔ながらの塩焼き、そして、何よりも時間が割かれていたのは、食肉とする家畜の飼育、屠殺、そこに至る葛藤、議論、屠殺の専門家を喚んでの特別講義でした。ハイライトも、やはり鳥を屠る場面。「食べるために育ててきた」ということで、皆さん、落ち着こうとしていたようでした。烏骨鶏については、学生自らが絞め、血抜きのために、首を切り落としていました。黄紺は、子どもの頃、自宅で飼っていた鷄が、目の前で屠られたときの様子を思い出していました。映画を観る前、一番気になっていたのは、この多摩美でのゼミを主宰されているのは、どういった方かを、調べれば良かったのですが、気になりながら調べもせずに、気にだけはなっていたのですが、映画が始まるや、呆気なく判りました。世間的には、テレビで放映された「グレート・ジャーニ」の主役として知られている関野吉晴さんでした。黄紺は、いつぞや、「グレート・ジャーニ」をテーマにした東京国立博物館の特別展で、その存在に出逢い、衝撃を受けた方で、この人なら、こうしたことを考えそうだと、あっさり納得できました。「ものごとは、根本を知ると、いろんなことが判る」と言われていました。「食肉を得る」ということで、「屠る」仕事に携わる屠場の方たちに対する「差別を知る」というのは、その一例になるのかと思います。授業が始まってから、一杯のカレーを食べるまで、1年近くかかる、その記録を収めた映画でした。


2017年 10月 11日(水)午後 11時 42分

 今日は講談を聴く日。なみはや講談会の定例会となっている「第2回光照寺講談会」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。鱗林「長短槍試合」、南湖「神崎の詫び証文」、南華「木津の勘助(神田版)」、南北「夜もすがら検校」。今日は、聴き慣れたネタが並びました。その中で異彩を放ったのは、南華さんのネタ。旭堂では、最もポピュラーなネタかもしれない「木津の勘助」を、敢えて神田陽子師からもらったものを出してくれました。南華さん自身は、今まで旭堂の「木津の勘助」を口演されたのは聴いたことがないのですが、果たして、それは持ってないということを意味するのかは、判断できかねているところなのですが、敢えて神田版をもらわれたのにはわけありだろうと思っていたところ、きっちりと、マクラで、その辺を触れていただけました。「大阪のオバチャンが出てくるのがおもしろい」と言われていました。ネタ自体は、「神田山陽師が30年前に書かれたもの」と言われていましたから、陽子師の師匠がテキストを作られたもののようです。話の運び、大まかな筋立てには齟齬はないのですが、細かな展開、構成に異なるところがありました。財布を見つけて、それを届け、お礼と出された金を断る、その話を聞いて淀屋の娘が恋煩いとなり、これらが、淡々と進みます。旭堂の濃い展開に慣れていると、あまりにも頼りない展開です。特に、娘の恋煩いが弱すぎます。この序盤では、南華さんのセンスは大丈夫だろうかと不安を感じてしまってたのですが、南華さんが気に入られたのは、そのあとでした。結婚話を持って、淀屋が木津に行き、勘助の家を尋ねに入った店の婆さんのお喋りと、嫁入りをしたあと、嫁が、近所のおかみさん連中と喋り、宴会まで開いてしまうところに、たっぷりと、大阪のオバチャンが出てまいりました。ようやく、この2つの場面を聴いて、納得できました。旭堂の「木津の勘助」は、一門の多くの方が手がけられるネタですから、いい色変わりになると思いますが、黄紺の耳には、旭堂の「木津の勘助」が住み着いていますから、どうしても、神田版は見劣りしてしまったのは、致し方ないところかもしれません。鱗林さんは、どんどんとネタを増やしていってられます。そういった新ネタに、必ず、おもしろい挿し込みをされ、いずれもヒットするものですから、やはり長年のタレントとしてのキャリアの凄さを思い知ってしまいます。南湖さんは、最近、よく出されている神崎与五郎もの。このネタを聴くたびに、神崎に詫び証文を書かせたダダケ者の変わりようが大きいものですから、納得するのに抵抗を感じてしまいます。南湖さんは、討ち入りのところで、四十七士の名前を全部入れてくれました。寺坂吉右衛門まで行くと、どうしても拍手したくなっちゃいます。そして、トリの南北さんは、久しぶりに聴く「夜もすがら検校」。女にそそのかされて、金を持ち逃げするという情けない男も、筋立てで大きな役割を果たしますが、どうしても借金のため夜逃げする男の武骨さが、印象に残る素敵な話。長谷川伸作品を脚色したものということです。このネタもいいのですが、もっといいのは、南北さんの口演。ためを作るかと思うと、気合いを乗せてくる、南北さんの真骨頂が出てくる作品でもあるのかもしれません。気がつくと、45分に渡る口演でした。なみはや講談会の定例会の第1回は、旗揚げということで、講談会としてはたくさんの人が詰めかけたのですが、第2回となると、続かない人が多いのか、ようやくつばなれをしたという入り。正直、ちょっと寂しい思いをしました。続かない人に対してですが、、、。


2017年 10月 10日(火)午後 11時 30分

 今日は狂言を観る日。京都府立文化芸術会館和室であった「五笑会」の公演に行ってまいりました。前回の公演に続き、日にちを空けることができたというわけです。その番組は、次のようなものでした。小舞「吉の葉」(鈴木実)「放下僧」(山下守之)「景清」(井口竜也)、解説①(山下守之)、狂言「鳴子遣子」(茶屋:島田洋海、男甲:増田浩紀、男乙:鈴木実)、解説②(島田洋海)、間狂言「養老」(鈴木実)、狂言「察化」(太郎冠者:井口竜也、主人:増田浩紀、察化:山下守之)。「鳴子遣子」は、秋の狂言。ものの呼び名を争い、結局、間に入った者が得をしようとするもの。季節ものながら、さほど頻繁には出ない曲との認識が頭にあります。同様の構造をしている「舟船」などと比べると、古歌遊びなどはせず、単に言葉が当たっているかどうかだけで、しかも、結末が、どっちでもいいなんてのでは、あまり格好がよろしくありません。ですから、筋立てに関わっては、さほど興趣をそそるものではないということなのでしょう。むしろ、言い争うものがものだけに、秋に相応しいということから、秋のいい感じの描写が入るという魅力だけは捨てがたく、その分だけ上演機会を持つっていうところでしょうか。茶屋は、通常、年配の方が演じ、若い者に対してドヤ顔を作る役柄みたいですね。間狂言も大事な狂言方の仕事ということで、この会に、毎回入れるようになっているということを、前回の解説で、お話がありましたが、前回が「竹生島」、今回が「養老」と、間狂言の中では、難度の高いとされている曲を選ばれています。恐らく、この路線で行かれるのだろうと、このような2つが、連続で出ると思ってしまいます。これらは、通常の居語や立チシャベリに加えて、舞が入るのです。脇能に多くありますから、今後も、そういった曲が続くのだと思います。2つ目の狂言は「察化」。今日は、山下さんと島田さんのお二人が、2回に分けて解説をされたのですが、2回目を担当された島田さんが、「察化」は、大蔵流では廃曲扱いの1つと言われていましたが、よく出る曲なもので、そないなことを、 すっかり失念していました。しかし、うつけた話です。叔父さんを迎えに行ったはずの太郎冠者が、スッパ、即ち詐欺師を連れて帰って来るのですから。叔父さんの顔も、特徴も把握してない男を迎えにやるなんて、主人の愚かさを感じてしまいます。後半は「口真似」と同じ展開になってしまいますが、スッパだと恐れていながら、ドタバタ劇を展開する主人と太郎冠者は、もうわけが解りません。このわけの解らなさが、ちょっと常軌を逸しているのと、「口真似」そっくりだということで、以前から、気になっている曲です。成立裏話のようなものがあるのかなんて、余計な勘ぐりをしたりしています。また、その辺と、廃曲に至ったことは関係ないのかなんて考えるのは、更に余計なことかもしれません。小舞も間狂言も、楽しいことには変わりはないのですが、5人の狂言師さんのユニットですから、狂言3番という番組でもいいのじゃないのかな。プログラムと重複する解説は、なんか無駄な感じがしてしまうものですから、その分、もう1番入れて欲しいなと思ってしまうのです。会場のスペースからして、大層な曲をするわけにはいかないのですから、短いのを付け加えるのは、容易いことだと思うもので。次回は、黄紺が、オペラ紀行からの帰りの飛行機に乗っている時間帯に開催ということですので、お休みになりますが、来年の3月には別会を予定されているそうなので、そちらは、しっかりと頭に入れておかねばなりません。


2017年 10月 9日(月)午後 11時 8分

 今日は、繁昌亭で落語を聴く日。多くのいい会があるなか、夜席の「第6回桂しん吉独演会」を選んだということです。その番組は、次のようなものでした。染吉「金明竹」、しん吉「蛇含草」「決戦・日本シリーズ」、(中入り)、鶴笑「西遊記」、しん吉「昆陽の御池」。染吉が前座とは、ちょっと意外な人選と思ってしまったのは、勝手な想像なのでしょうが、染吉の自由闊達な口演が感じ良くて、意外なと感じたのは、正に勝手な想像と思いました。「金明竹」の展開に沸き上がる笑いが新鮮で、コアな落語ファンが、多数詰めかけている一方、真逆の客も多そうな反応となっていました。しん吉の1席目と3席目は、師匠吉朝の13回忌に合わせて、吉朝がよく出していたネタをチョイスしたとか。吉朝の口演も、黄紺的には、この2つのネタは、耳に残っているものですから、どうしても比較してしまうのですが、一言で言ってしまうと、吉朝の持つ洒脱さというものが、決定的に違うように思えてしまいました。「蛇含草」で、腹の虫が上がってきて「食いたい、食いたい」と言うくすぐりがありますが、言ったあと、吉朝は、エラのはった頬が、軽く緩んだり、目がギョロリとしたりしたと記憶してるのですが、遊び心というか、自分も楽しみ、また、聴き手も楽しませたという、ちょっとした自負、満足感が出ていたようでした。残念ながら、しん吉の口演では、まだまだ、テキストをなぞる、そういった雰囲気を感じてしまいました。軽妙で、むしろ遊び心を持ち合わせる噺家だとインプットされているしん吉ですら、そのように思われてしまったということは、いかに吉朝の口演が長けていたかとの証左のように思えました。「昆陽の御池」で言えば、役人に見つかり狼狽え、唖のふりをするときのギョロっと剥いた目って、もちろん吉朝の口演でですが、写実を心がけていたとは別の、何やら、まじめに遊んでいるって具合なのが、強く印象に残っているものですから、どうしても比較してしまい、しん吉の口演が平板に映ってしまいました。ところで、「昆陽の御池」は、今や非常に珍しい噺になってしまってます。今日は、フルヴァージョンの口演でしたが、これは、滅多に聴けなくなってしまってます。黄紺も、20年ほど前に、吉朝の口演で聴いて以来だと思います。やはり「唖」の真似をするというのが不適切だということで、出しにくくなっていったネタの1つになっています。元々、演じ手の少なかったネタですから、淘汰されてしまうのかと、絶滅が懸念されているネタの1つかと思っています。かつては、持ちネタにしていた南光が、最近、これをかけたとの情報は掴んでいませんから、生き残るのは、吉朝一門に頼るしかないのかななんて考えています。しん吉の口演は、吉坊に次ぐものとの認識がありますから。黄紺の知らないところで、もっと、他の噺家さんがされているかもしれませんが、、、。もう1つの新作は、かんべむさし作品を落語化したもの。阪急ブレーブスと阪神タイガースが、日本シリーズで激突した場合を想定して、勝った方が、自分のところの車両を、相手方の線路上を走らせるという、とんでもないことを打ち上げるという設定。そこで、お互いの車両、路線、沿線の言い合いが始まるという仕掛け。設定がありうるとされたポイントが今津線で、かつては相互の線路が繋がっていたことをふまえてのフィクションだとの解説が、マクラで入りました。しん吉らしい、鉄分たっぷりの作品となっていました。ゲスト枠は鶴笑。しん吉がお願いしたということは、「あたま山」なんてのが出てくるかもと、淡い期待を抱いていたのですが、残念ながら外れました。





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