忙中閑あるかな? 黄紺の日々


トルコのこと、キプロスのこと、こんなことを主に、日々思うこと。ときどき、韓国のこと 日本のことも混じるかも? 仕事に忙しくっても、頭のなかは、トルコのこと、キプロスのこと考えてる。 頭のなかは、いたって長閑。それが、、、、、、

黄紺、なのさ。


2019年 7月 11日(木)午前 3時 38分

 昨日は、久しぶりに二部制の日。午前中に、東福寺で行われている「アラ・ギュレル展」に行き、夜は、大阪での講談会に行く日でした。まず、午前中、東福寺に行こうと電車待ちで、スマホを見ると、ありがたいことに、既に行っているトルコ友だちから、地図を送っていただきました。東福寺では、恐らく普段は入れないようなところでの展示。受付で渡されたパンフレットには、主催がトルコ共和国大統領府と記されているのが目を引き、巻頭にはエルドーアン大統領の言葉が掲載。スポンサー欄には、トルコの大手銀行2つ、トルコ航空、サバハ紙と、これを見ただけで、得も知れぬ重量感を感じてしまいました。そう言えば、G20に参会した同大統領は、この展示を訪問したり、その前日には、G20参加国の婦人連が東福寺を訪問したり、京都国立近代美術館では「トルコ至宝展」が開かれていたりと、完全にG20に合わせて、日本ばかりか世界にトルコをアピールしているかのような雰囲気です。しかし、それに活用されたからと言っても、この写真展は観る価値のあるものです。確か、ドイツで、アラ・ギュレルの作品を観た記憶はあるのですが、東福寺で展示された作品にも、どこぞで観たぞの記憶を刺激するものが並びました。1950年代のイスタンブルを写したものと、世界の著名人のポートレイトが展示されていました。ハリッチ辺りの作品を観ると、その辺りの喧騒が聞こえてきそうだったり、ボーっというヴァプールの汽笛、海の潮の匂い、頬を撫でる風さえも感じさせてくれました。その一方で、地道に船が曳き上げられているカラキョイ、焼ける前のガラタ橋、荒野に立つかのようなイエディクレの廃墟、なんとレトロな風景なのでしょう。写真を撮ってもいいということでしたので、思わず、それらの写真を撮ってしまいました。数は少ないですが、素敵な環境での素敵な写真、多くの人に観てもらいたいと思う反面、こっそりしまっておきたい気持ちが半ばしました。東福寺境内にやって来ていた修学旅行生に教えようかとも思ったのですが、やっぱり止めました。猫には小判は見せない、その気持ちが勝ってしまいました。
 写真展を出ると、夕方までは自宅待機。そして、夜は、なみはや講談会の定例会「第9回光照寺講談会」でした。その番組は、次のようなものでした。南湖「平野の地雷火」、鱗林「雷電の初土俵」、南海「小政の生い立ち」、南北「鼓ヶ滝」。いつもは、鱗林さんがトップなのですが、昨日は、撮影が入ったのと、朝日新聞の取材が入ったということで、先に済ませてしまおうということだったのでしょうね、南湖さんがトップで上がられました。ネタは、久しぶりの「平野の地雷火」。「難波戦記」では、家康が困るところがおもしろく作られていますが、その最たる抜き読みが、これ。平野から軍を、わざと逃げ惑うようにして、軍を撤退させた大野の軍勢。実は、そこを、家康が接収するだろうことを見越して、地雷が設置されていた。案の定、地雷は爆発するのだが、家康は厠に入ってたために、難を逃れた。糞まみれで逃げ惑う家康、その家康の逃げ道には、幸村が配置した伏せ勢が待ち構えているものだから、みっともなく逃げ惑う家康といった話なのです。終盤の民家に逃げ込むくだりまでは入らずに終了。撮影や取材が入ってたためか、いつも以上のテンションでの口演。見台を叩く勢いも、普段より、かなり力が入っていました。鱗林さんは、5月にあった大須での「なみはや講談会」の報告から。大盛況の立役者鱗林さんの裏話ですから、耳がダンボにならざるをえませんでした。ネタは、おなじみのもの。「寛政力士伝」の中では、早い内に取り組むネタのようですね。鱗林さんでは聴いたことあったかな。耳のせいか、今日の鱗林さんは、普段の滑らかさに欠けたように思えてしまいました。なぜでしょう? 南海さんは、東京ネタの「清水次郎長」もの。東西交流でもらったものとの紹介がありました。子ども同士で博打をするのに絡む酔っぱらい。それを、六尺棒でなぐりかかろうとする小政。思わず、石松に命じて止めに入った次郎長。事情を聴いた次郎長は、小政に面倒を見る約束をして、病身の母親を安心させてやるという流れです。「清水次郎長伝」を聴く機会は、上方ではそうはないため、つまみ食いにならざるをえません。ですから、この抜き読みだけではなく、ネタの仕入れをして欲しいものです。南北さんは「鼓ヶ滝」。マクラで、その位置を、電車で教えて下さいました。能勢電にあるそうですが、滝はなくなっているとか。隣の駅多田は、源満仲所縁の土地なんてことも触れられたのですが、こちらも、ほぼ何も残ってないようですね。ネタはおなじみのもの。最近は、落語でも頻繁に出るようになっています。西行の和歌に対する慢心の気持ちを諌めるものとなっています。相変わらず、飄逸なお喋りに魅力のある南北さんの口演に満足。馴染みのあるネタが並びましたが、それはそれで定例会らしいということにもなります。最近、この講談会、客足が伸びています。開場後間なしに、会場に着いたのですが、もうかなりの人が入ってましたものですから、すっかり驚いてしまいました。前回も、そうでしたから、根付いてきたということになります。結構なことです。


2019年 7月 10日(水)午前 6時 57分

 昨日は、シネヌーヴォで映画を観る日。ポーランド・デンマーク映画「イーダ」が出ているということで行ってまいりました。パヴェウ・パヴリコフスキ監督の新作公開に合わせて、アカデミー賞外国語映画賞受賞の本作品が、アンコール上映されているのを捉えて、観に行くことができました。イーダは、女子修道院で育った女性。修道誓願を立てる前に、唯一の身内となる叔母を訪ねることを勧める女子修道院長とイーダが対面するシーンから始まります。叔母を訪ねたイーダは、自らの出自を教えられ、その叔母とともに、両親の行方を探すことになります。この途中、兵役逃れのために放浪しているサキソフォン吹きと会うという挿話が入ります。一方、叔母と探すなか、元自宅だったところに住む人が、ユダヤ人であった両親を、最初は森に匿っていたのですが、匿いきれずに殺してしまったことが判っていきます。そのとき、叔母が、イーダの母親に預けた男の子までが殺されていました。男の子は殺され、イーダだけが生き残ったのでした。男の子は割礼をしているのでユダヤ人だと判るからということでした。それを知り、衝撃を受けた叔母は、遺骨を墓に埋葬したあと、自死をしてしまいます。一方、修道院に戻ったイーダは、時期が来ても、修道誓願を立てられないでいる、そういった時に叔母の自死が起こります。叔母の家で、叔母の遺品を整理しながら、イーダは、叔母の服を着て、叔母がしていたように、煙草を吸い、ウォッカを煽ります。そして、クラブに出かけ、恋心を抱いていたサキソフォン吹きと再会し、2人の仲は接近していきます。サキソフォン吹きは、グダンスクに行き結婚をしようと言いますが、男が寝ていると、起き上がったイーダは、再び修道服を身に付け、その部屋を去って行きます。田舎道を急ぎ足で歩くイーダの姿で、この映画は終わります。普通に考えれば、修道院に向かうのでしょうね。ま、修道女用の服を身に付けてということですので、それで妥当なのでしょう。その先に考えられるのは、修道誓願を立てる姿。であるならば、何が、イーダに決意を生ませたかということになります。人生の機微に触れたイーダが、積極的に修道誓願を立てることを決意。両親や叔母の人生に触れることから生まれた絶望を、男とともになぞりそうに思えたことから来る絶望が、神の御前に導かれた。なかなか難しい問いかけになってしまいます。いや、絶望ではなく、鎮魂の気持ちから来る能動的な行動だというのかなという問いかけが生まれてきても、当然いいのかと、いや、ベースにあるのは当然だから、それが、男との一連は行動があったから、より強まったとすれば、自己犠牲からくる家族への愛? ちょっとは、イーダが急ぎ足で歩くときの表情に説明がつくかもしれません。これを採っても、難解です。あの厳しさを持つ表情は、絶望なんだろうか、強い決意なんだろうか、はたまた、他の感情を内に秘めていたのでしょうか。全編、白黒で撮られた作品です。現代のいいカメラで撮った白黒映像は、とってもクリアで、今まで観たことのある白黒映像とは違うものを感じさせました。社会主義政権下のポーランドを、その白黒映像に込めたような印象を持ちました。それとともに、独特のカメラアングルに惹かれます。上からのアングルで、画面の下の方に人の顔を集める手法に、独特の緊張感を生む、素敵な映像でした。これは、頑張って、現在公開中の最新作を観に行かないわけにはいかないですね。


2019年 7月 9日(火)午前 4時 55分

 昨日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。昨夜は、「デュエット」と題して、(ヴァイオリン)漆原啓子、漆原朝子、(ピアノ)岩田瑠奈の皆さんのコンサートがありました。漆原姉妹と言えば、日本を代表するヴァイオリニスト。お姉さんの啓子さんの方は、何度か出演されていますが、妹さんで、東京芸大教授という要職にある朝子さんの方は、カフェモンタージュ初登場のはずです。このコンサートが発表されるや、瞬く間に完売となったのも首肯できるところです。そのプログラムは、次のようなものでした。「D.ショスタコーヴィチ:5つの小品」「B.マルティヌー:2つのヴァイオリンとピアノの為のソナタ」「M.モシュコフスキ:2つのヴァイオリンとピアノの為の組曲」。なかなか面白いプログラム。いつものように、前説に立ったオーナー氏、ショスタコーヴィチの作品に、何やら意味深な発言。始まってみて、その意味が判りました。およそ、ショスタコーヴィチらしさのない音楽、掛け値なしに、これはカールマンだと叫びたくなりました。特に、第4曲目などは、情緒たっぷりのワルツですから、ますますカールマン気分上昇となりました。どういうきっかけで、ショスタコーヴィチが、こういった曲を書いたのか、黄紺的には興味津々です。その逆をついたのが、こちらは、正真正銘のマルティヌー。野性味たっぷりの音楽を堪能させてくれました。なお、この曲だけを、朝子さんが、第1ヴァイオリンを担当されました。今日のプログラムは、このマルティヌーが、サンドイッチの具といった感じ。最後のモシュコフスキは、名前ぐらいは、どこかで耳にしてるかもしれませんが、その音楽となると、全く思い浮かべることのできない作曲家。世紀の替り目当たりが活動時期だという説明を、オーナー氏がされたのですが、多様な音楽が出現した時代ですから、どのタイプに入る作曲家だろうかと思っていると、ロマン派の音楽を追い求めた作曲家という雰囲気を持つ音楽でした。ですから、リリックな音楽が、ここでも続くということで、サンドイッチに例えたのでした。特徴の明確な3曲、なかでも、マルティヌーは、高度な技能を求められる難曲。このマルティヌーと、アンコールで演奏されたサラサーテ(「ナヴァラ」という曲だそうです)が、とってもハードな技能求める作品。お二人の確かな技能もさることながら、このコンサートに、十二分に華を添えたのが、ピアノの快活、且つ、ヴァイオリンをノセる、素晴らしいエネルギーを感じさせる好演に支えられところ多しの演奏でした。実に楽しいプログラム、安定、安心の演奏、もう、申し分ありませんでした。


2019年 7月 7日(日)午後 10時 54分

 今日も公開講座を聴く日。この時期、大学、博物館、地方公共団体らの公開講座が目白押しです。今日は、京都市学校歴史博物館での講座です。今、こちらでは、「番組小学校創設150周年記念 特別展」が行われており、それを記念して、「番組小学校の軌跡―京都の復興と教育・学区―」リレー講座 「明治2年の京都」が開かれています。黄紺は、スケジュールの都合、及び、テーマに即して、その内の2回申し込んでいますが、その1回目が、今日に当たりました。今日は、京都府京都文化博物館の橋本章さんが、「山鉾」と題してお話をされました。「山鉾」は、京都ですから、当然、祇園祭の鉾や山を指します。それが、番組小学校と関係がある? それが、今日の講演のミソとなりました。番組小学校とは、京都に最初期に創られた小学校だろうということは想像がついていたのですが、なぜ、そのような呼称が付いたのかは、講演に先駆けて、少し観て回った展示で判りました。番組は、町内、ないしは、その規模の区割り組織の名称で、明治2年に、その番組単位で小学校が創られたことで、そのような呼称が生まれたそうです。明治2年に先立ち、幕末の政治情勢が、祇園祭にも大きな影響を与えてしまいました。蛤御門の変後の大火が、京の街を焼きつくし、当然、鉾町の持つ鉾や山を初めとしたお宝を焼いてしまったということが起こってしまいます。当然、再建をしようとするわけですが、資金の問題が出てきます。でも、大政奉還が起こり、天皇や公家が京都を離れてしまうと、そういった人たちで潤っていた町衆も、京都を離れてしまい、急激な人口減、経済の落ち込みが看られのですが、再建に勤しむ町衆の姿は、順行に加わる鉾や山が増えてくることから、明白な事実でもありました。そういった状況下で、番組小学校建設が始まるというわけです。明治2年という時期は、そういった環境下にあったわけで、では、町衆は、どちらもに、資金を調達できればいいのでしょうが、それが叶わないときは、どちらにシフトした資金繰りをしたかというと、それは、番組小学校建設のためであったと言います。結果的に、鉾や山の再建が遅れ、いや、直後には無理な鉾町も出てきたわけです。それが、戦後、復活していく鉾や山の背景だそうで、近々では、鷹山が復活に向けているように、100年以上を経ても、その記憶を留め、意欲を持ち続ける礎になっているようです。菊水鉾、四条傘鉾、大船鉾、蟷螂山など、戦後復活した鉾や山の名が、黄紺も、容易く思い出されます。そういったことで、山鉾と番組小学校が、明治2年で、結節点を持っているとなるわけです。要するに、明治2年、京の町衆は、人材育成を第一に採ったということになります。これが、京都を過去の町にしなかった大きな要素になったのだろうと、講師の方は仰ってました。構成がしっかりして、且つ、京都市民に親しまれ易いテーマを掲げたお話は、見事に聴衆の心を掴んだかのようなお話。会場いっぱいに詰めかけた人たちは、きっと満足されて、お帰りになってろうなという、素敵なお話を聴く機会を得たことに感謝です。会場を出ると、そのまま、息子の家へ。所用があったためですが、所用自体は、呆気なく済ませることができるもの。あとは、Dと遊びまくりました。Sにも会いたかったのですが、もうちょっとの辛抱。今度、Dに会うときは、DがSを見る眼差しを見ることができることを楽しみにとっておくことになりました。


2019年 7月 7日(日)午前 6時 19分

 昨日は、キャンパスプラザ京都で行われたシンポジウムに行く日。京都橘大学主催の女性歴史文化研究所シンポジウム 「近代ヨーロッパにおける女性の社会進出―イギリスとフランスの事例から―」に行ってまいりました。これも、市民公開というスタイルを採っていましたので、応募したところ、参加証まで送っていただけました。黄紺的には、一連の講演&講座群の中では、最も関心を刺激されたものでした。と言いますのも、関心を惹くものは多いのですが、ヨーロッパをフィールドとした講演&講座は、ほぼないと言ってもいいくらいですからね。このシンポジウムでの報告者&司会者は、次の皆さんでした。松田祐子(女性史研究家)、松浦京子(京都橘大学文学部歴史学科教授)、渡邊和行(司会:京都橘大学文学部歴史学科教授)。まず、お二人による講演があったのですが、そのテーマは、次のようなものでした。(松田)「近代ヨーロッパにおける女性進出~フランスの事例、教職を中心に~」、(松浦)「アマチュア・ヴォランティアからプロフェッションへ~前世紀転換期イギリスの女性福祉活動~」。お二人のお話の共通項は、時代(19世紀後半~20世紀初頭)と女性の進出、ただ、そのフィールドが、フランスとイギリスと異なるのと、サンプルとして検討の対象とされた職業が異なるのというものでした。ただ、お二人とも異口同音に言われていたのは、何も、女性の社会進出が劣っていたのではない。農業分野には進出していたのだから、「女性の社会進出」と言った場合は、「進出ができなかった領域に働き始めた」ことを指しているのだという押さえが、講演の冒頭で行われていました。では、進出できなかった領域というのは、、、医師、弁護士、公務員、教員、販売職などとなります。松田さんの方は、19世紀の政治史や社会史に関わらないで、結果だけを引き出し、ご自分のフィールドに持ってくるという話ぶりに、ちょっと抵抗を感じましたが、結果だけを辿れば、19世紀の公教育の進展につき、教員不足が生じてしまうという流れになっていきます。そういったなか、女性教員は、当初は修道女が担っていたのですが、結婚のために持参金を用意できない中小ブルジョアジーの娘が職業を持つことを選択するようになった時期に重なり、女性の社会進出のパイオニアとして教職が登場するということでした。その初期の女性教員のイメージや実態では、かなり厳しいものが待ち構えていた様子がお話されていました。一方の松浦さんの保健衛生面の職業に就く女性を知るために必要な前提として、知っておかねばならないことがあります。イギリスが階級社会であること、そこに、ニューウーマンと呼ばれる女性が登場してくるということ。これは、アガサ・クリスティの小説を読んでいると、いやというほど出てくるプロット。クリスティの扱う社会は、いわゆる上流社会の人たちですものね。家事を扱う女中がいて、執事がいて、主婦としての女性はヴォランティア活動に勤しみ、ニューウーマンに顔をしかめています。ヴィクトリア時代を懐かしむ、ま、そういったのを読んできていた効果が、こないなところで役立ってしまいました。次なる前提は、扱われた時代というのが、金融資本が決定的な役割を果たす帝国主義時代。世界の工場的役割を終えてはいても、この金融資本の膨らみは、まだまだイギリスを老いさせはしなかったため、そこに、事務職の需要が急伸するというわけで、更に、フェミニズムの台頭の働く領域の拡大を求めていく動きが、正に呼応していくというわけになります。一方、いち早く産業革命を実現させたイギリスでは、劣悪な都市環境のために伝染病の流行から、公衆保健衛生の展開が看られる時代でもあったということから、女性が、この分野で登場してくるという展開になりました。Sanitary Inspector(保健官)とHealth Visitor(保健師)といった2つの職業が生まれてくるのですが、そして、その2つの職業が統合されていく経緯が、最終的には話されていったのですが、かなりはしょられたため、主旨が理解できなかったため、それはそれでいいとして、問題なのは、そういった職業へ、女性が入っていく、その入り方がポイントだと思いますので、そこだけメモっておきます。女性の進出のきっかけは、女性のチャリティ・ヴォランタリ活動であったということでした。上流社会の伝統を持つニューウーマンが、それに当たり、全ての階級に衛生知識の普及、話し込みを行うわけなのですが、その保健師としての仕事を、労働者階級の女性にさせるということが起こってきます。プライベートな空間に入り込み、具体的な衛生指導を行うには、同じ階級の女性がする方が、よりスムーズだろうという考え方だったようで、ここで、1つ、階級の枠を超えてしまいます。あとは、専門的な公衆衛生教育機関、指導ではなく、査察の権限を持っていた保健官への女性の任用、保健師の官職化などの、女性の進出の拡大へと、お話は展開されていくなかで、最終的に、2つの仕事の統合へと進んで行ったのでしょう。でしょうというのは、はしょられたので、理解が厳しかったからとなります。時間の関係もあるから致し方ないのですが、あまり詳細には語られませんでしたが、画像資料も見せていただけました。絵画、雑誌など、もう、この時代になると、豊富に残っているでしょうから、こうした社会史を扱われる場合の必需品ですものね。後半のパネルディスカッションでは、配布された質問用紙を回収して、質問に答えるという形式で進行されました。イギリスにおける教職、フランスにおける保健衛生職といった、分野を交換してのお話、そういった専門的なことのお話の一方、ブルジョアの定義を求める質問もあったのですが、お二人とも、他者認識からの定義を用いられていたことに、黄紺は関心を持ってしまいました。社会史をご専門にされている方らしいです。かなり、頭がパンパンになりました。大学主催のパネルディスカッション、先日の京都府立大学のときと、同じようなスタンスを感じましたので、今後、この手の催しに参加をするときの、メルクマールにできるかなと思いました。会場には学生さんから、爺婆まで、正に老若男女様々な人たちが参会。扱われた時代の特徴なるもの、全員が解ったところでの参会とは、到底思えないような雰囲気でした。


2019年 7月 6日(土)午前 5時 38分

 昨日は、紫陽花を観に行こうと、友人に誘ってもらった日。そのお出かけ先となったのが、生駒にある長弓寺。そこで、ついでに、チェックを入れながら、一人では、なかなか行こうとしてなかった生野新地歩きを加えてもらいました。まず、近鉄生野駅に集合して、ケーブルを使って宝山寺に向かうとありました。時が止まったかのようなレトロな空間。連れは、「正に聖と俗」と言い、ブラタモリで学習したままの表現を使っていました。ホントに、そのままですよね。宝山寺に入ると、生駒断層崖にへばりついた伽藍に、自然崇拝と合体した趣を感じてしまいました。下山をして、生駒駅近くで昼食。今度は、けいはんな線で北生駒駅へ。この路線、初めて乗りましたが、生駒山地を縦貫するような走りっぷり。長いトンネルを抜けると、もう駅に到着。新興住宅地の縁を歩いて行くと、長弓寺はありました。けいはんな線もなく、開発も進んでない頃は、全くの山中の地。そこに咲き乱れる紫陽花に囲まれた古刹。ロマンがあります。でも、その紫陽花は、もう時期を失していました。日当たりのかげんでしょうか、一部、本来の色を残した紫陽花に盛期を想像するに留まりました。紫陽花自体も、参道に沿って群生するというもので、どうしても、三室戸寺などの光景を思い浮かべる者には、物足りなさを感じさせますが、奥地っぽいロケーションがいいところです。帰りは、学園前に出ました。こちらはこちらで、一挙に趣が変わりますね。その昔、四条畷から生駒山地を越えてやって来たときも、同じ感想を持ったことを思い出しておりました。雨に振り回され、紫陽花探訪の時期を外してしまった感がありましたが、人とお話する機会が稀れになっている黄紺には、とっても楽しいひとときでした。声をかけてくれた友人に感謝です。


2019年 7月 4日(木)午後 9時 8分

 今日も講演を聴く日。トルコ友だちから教えてもらったイベントに行ってまいりました。但し、教えた本人は行かなかったのですが。ま、遠いから無理もありません。そのイベントとは、「2019年滋賀県国際交流推進セミナー」として行われた「隣人としてのイスラム~外国人労働者受け入れ拡大にあたって」という講演会でした。同志社大学グローバルスタディーズ研究科教授の内藤正典さんのお話を伺うことができました。受付で、参加者一覧表が配られたため、この講演会の趣旨が判りました。滋賀県内で、国際交流活動を担当されている責任者と思われる方々の集まり、研修会だったのです。それを、一般に公開するというもので、昨日の講演会とは、若干、対象こそ違え、よく似た性格の講演会に紛れ込んだということになります。一覧表に並んだお名前の横に設けられていた団体名&役職名で、それが判ったのですが、黄紺だけは空欄。ちょっと緊張、質問したいこともあったのですが、止めてしまいました。まずは、いきなり、外国人労働者の受け入れ拡大を目的とした法改正のお話。世界に類を看ない受け入れとのお話。外国人の労働力だけが欲しいという、見え透いたものだそうです。家族での移入をさせないため、また、人材確保という用語を使い、外国人労働者としてないのも、そのためで、年金や子どもの教育には派生しないような防御を張ってあるそうで、果たして、実の上がる労働力の確保になるだろうかというものだそうです。また、外国人労働力の確保の仕方を、かつてのドイツとトルコの場合と比較してのお話もあり、そういった意味で、類を看ないものと言えるという話になっていきました。新聞を読まない黄紺は、政治に関し疎いものですから、とても新鮮なお話だったのですが、それも、ドイツとトルコの二国間協定を知っているから理解できたことで、地位のある方々が集まられているとは言え、普段、頭の片隅にもないお話だったでしょうから、えらくハードルが上がったお話を、いきなりされるのだと思ったのですが、その後は、一気にハードルが下がり(あくまでも黄紺基準ですが)、イスラーム入門的なお話になりました。ムスリムの分布や教義の特徴といったもので、高校生になった気分。でも、シリアやトルコでの生活経験をお持ちですから、同じ話題を聴いても、内藤さんのお話は濃~いもの。今後、日本に入ってくるであろうムスリムに対して知っておいて欲しいことを、解りやすく強調されました。まるで、噛んでふくめるが如くの言い方だったのですが、ムスリムに対して欧米基準を持ち込むな、欧米で発生した歴史的な事件で、キリスト教徒がとならないのに、テロが起こるとムスリムがとなることの問題点を考えよ、ムスリムに裸を見せるな(懐かしい江頭の事件が出ました)、裸になるようなことを求めるな(温泉に気軽に誘うな)なんてことを言われていました。ハウツー的なお話までされたり、イスラーム入門に時間を割かれたり、これは、おそらく、今までになされてきた講演の経験なのでしょうね。確かに、講演後の質疑応答で出た質問は、お話のスタンスに呼応するもの。若干、煽り気味の講演口調も、計算ずくのことだったのだと思います。それだけ、日本でのイスラーム認識が低いということなんだというところで、納得でした。


2019年 7月 4日(木)午前 7時 4分

 昨日は講演を聴く日。様々な大学で、公開講座、講演会を行っており、テーマを選び足を運ぶと、なかなか有意義だという話は、以前から聞いてはいたのですが、今まで、あまり熱心に探していなかったのですが、最近、その探査に目覚め、いろいろと探している内に、実に多くの講座、講演が公開されていることを知り、しかも、黄紺の興味を引くものがあるということで、最近、その手の催しに出かけることが増えています。昨夜も、大谷大学が、「2019年度第1回“人権問題を共に考えよう”全学学習会」を公開していることを知り、出かけてまいりました。テーマにそそられたのです。そのテーマは「性の多様性と社会」。講師は西田彩(音楽家・デザイナー/京都精華大学・甲南女子大学・阪南大学非常勤講師)さんでした。この講演会は、大谷大学が、学内の職員&学生を対象にした研修会、それを、一般市民に公開するということで、テーマが、とっても話題のものということもあり、行ってまいりました。学生さんの単位習得にも関わるようで、出席を取られている姿やレポート提出を念押しされる姿があり、ちょっと居心地のいいとは言えなかった講演会。でも、講師の方が、とっても緻密な論理、それは、お人柄を忍ばせると思えましたが、言葉を大事にされながらのお話で、とっても解りやすく、納得のいくお話だったと思います。お話は、3つの部分に分かれていました。①自己紹介②用語について③ライフヒストリー、という3つの部分です。まず、①では、ご自身が、「男」として生まれ、それに違和感を感じ、現在は、戸籍上でも「女」として生きているトランスジェンダーであること、そして、③のお話に関わってくる職業などについての紹介があり、講演の前提となる押さえをされました。西田さんのお話を聴いていて、感心も得心もしたのは、これから話すことの前提、枠組みのようなものを、まず押さえられるお話ぶりです。言葉に誠実で、より正確に把握してもらいたいというお気持ちが伝わり、とっても好感を持ったところです。同時に、性的マイノリティを生きてこられた厳しさを感じたところでもありました。②では、セクシュアリティについて語るときに出てくる用語解説をお話されました。ここでも、本題に入る前に押さえが入りました。用語の向こうにある現実を観るために、用語は必要であるが、用語を知ったからと言って、人のカテゴライズに走ることは止めて欲しいという押さえです。性的マイノリティの理解には、必要不可欠だが、「あいつはあれ」といった分類に走るのはいかがなものかという指摘でした。で、この②では、黄紺も、認識の低さを知るほど、セクシュアリティの多様性に驚くお話だったと言えます。①②が、③のお話の前提でもありましたが、更に、③に入る際に、前提をお話になりました。ご自分のお立場についてでした。音楽家であり、大学の教員という立場から出てくる自由度、年齢からくる自由度などです。会社勤めをしていたりしたら、カミングアウトができたろうかとかいうことですね。また、若くないので、将来についての制約がないから、何でも話せると言っておられました。実は、③の中では、ライフヒストリーを、性的マイノリティに対する社会的な動きと重ねてお話される(性的マイノリティに対する認識が変わる激動期と重なる)のですが、性的マイノリティに対する理解が進むと、それに対するアンチが出てくるもので、確かに、そういった動きが増すのを、我々も知るところなわけで、中でも、昨年でしたか、ヘイト文を載せた新潮45の話題も俎上に上がったのですが、あの水田水脈議員と同い歳だそうで、同議員に対しては、「同じ年数生きてきて、あの人は性的マイノリティに出会ったことがないと思ってるのでしょうね」といった趣旨の物言いをされていました。その年齢からして、法的整備が動き出す前を生き、世界的にも動き出す時期を生きることで希望が芽生えてくる人生、そういった人生を生きることを強いられたこと自体が、性的マイノリティの人たちの現実なのでしょうね。ヘテロも、セクシュアリティの一部分だという認識が進むと、更に変わって行くだろうと言われていたこと、水田議員の発した言葉と、同性婚を認める法整備が成ったときにツイートされた台湾の蔡英文総統の言葉を並べた紹介されたお話が、黄紺的には、まとめに替わる素敵な言葉だったと思います。ここまで論理的で、ハートの籠った講演って、そうは聴く機会はないぞと思った、素敵なお話でした。大谷大学に感謝です。


2019年 7月 3日(水)午前 6時 34分

 昨日は、京都コンサートホール小で、ノトス・カルテットの演奏を聴く日。珍しい常設のピアノ四重奏団。その珍しさに惹かれて行ってまいりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「マーラー:ピアノ四重奏曲(断章) イ短調」「バルトーク:ピアノ四重奏曲 ハ短調op.20」「ブラームス:ピアノ四重奏曲第1番 ト短調op.25」。最後のブラームスはともかくも、珍しい曲が並びました。マーラーの珍しさもさることながら、バルトークに至っては、日本初演のおまけが付くレアさとなりました。だからでしょうか、会場には、NHKのカメラが入っていました。冒頭、室内楽を聴く機会が、最近、とみに増えていますが、こちらのホールよりは、より狭い空間で聴くことが多いためか、黄紺の耳が、なかなか慣れなくて、、、。どうしても、音が拡散してしまうのでしょうね、広い分だけ。慣れてくると、徐々に、このアンサンブルのハーモニーの精緻さや、色合いの濃淡がクリアになっていきます。葵トリオを聴いたときもそうでしたが、今どきの若い演奏家は、いとも容易く、1本の糸で操られているかのような伸縮性抜群で、絶妙のバランスを見せてくれます。マーラーの若気のいたりのような音楽に次いで、野性味溢れると言っても、弦楽四重奏曲に看るシリアス度は控えめのバルトーク、ここまでが前半。そして、後半がお約束のブラームス。常設のピアノ四重奏団としては、定番中の定番でしょう。バルトークで聴かせてくれた高揚感の再現、弦3本とピアノの見事な調和。また、この曲のフィナーレは、1つのコンサートの終演を告げる、見事さを持っています。更に、突っ掛けるようなテンポアップで終わる演出に、大満足。スマッシュヒットと言えるほど、爽快に駆け抜けてくれました。残りのブラームスも聴いてみたいですね。そんな気持ちにさせられました。会場では、音楽好きの元同僚に会いました。先月、実に、1ヶ月に13回のコンサートに行ったと言っておりました。ベルリンでお会いしたコアな音楽ファン然り、「上には上がいる」「ここにもえぐいのがいた」ということで、ちょっとホッとした黄紺でした。また、この人に会うと、わけがあって、最近、シュトゥットガルト話で盛り上がるのも、嬉しいところ。近々、カフェモンタージュででもお会いしそうです。


2019年 7月 1日(月)午後 9時 1分

 今日は、久しぶりに、お出かけなしの一日。旅行から帰ってきて、初めてじゃないかな。というのも、実は、今日も予定はあったことはあったのですが、雨だろうということで、早々にキャンセルになっていたのでした。ここにきて、急に梅雨っぽくなったもので、その天気に惑わされてしまってます。休日となれば、日に2回のウォーキングは、ばっちり。今、万歩計を見ると、1万6千歩を超えていました。正味のウォーキングの歩数ですから、まあまあってところです。その合間に、コンピューターのファイルの整理をしていたら、時間ばかりが過ぎていきました。さて、また、明日は雨でしょうか。こないなことを考えるってことは、やっぱ、今は、梅雨真っ只中です。


2019年 6月 30日(日)午後 10時 4分

 今頃になり、梅雨らしくなってきています。ただ、最近の雨は、頻繁に豪雨になるため、お出かけに気を使ってしまいます。今日も、昼前に豪雨の気配。こういった雨が続くようだと、今日のお出かけ予定は潰そうと考えていたのですが、豪雨は、短時間で終わり、これならの気にさせられてしまいました。そのお出かけ先はシネヌーヴォ。今日は、こちらで中国映画「芳華 Youth」を観てまいりました。1970年代の青春群像を描いた映画ということで、くすぐられるものがあり、以前から狙っていたものでした。主役の2人、シャオピンとリウ・フォンは、軍隊の鼓舞などを目的に結成されていた文芸工作団のメンバー。この2人を始めとした団員たちの青春グラフィティと言える作品。ただ、主役の2人が、この団を離れ、リウ・フォンが軍に入り、シャオピンが野戦病院の従軍看護師になるところまでは、話が流れていたのですが、ここからが変調。2人は、知らない間に、中越戦争に関わります。観ている者には、この前線基地で、2人が再会し、物語は、新たな展開に進むと期待したのですが、そうはならないのです。苛烈な戦闘場面が終わります。シャオピンは心を病んでます。生死の狭間を経験したからのようです。リウ・フォンは、戦争で右腕をなくしてました。そのリウ・フォンが入院中のシャオピンを訪ねます。戦地で会ったのか、それが不明なままの再会です。で、ここで、2人の間に、新たな展開が生まれるのかと期待したのですが、何も起こらず、2人の物語は、ラストまで出てきません。あとは、投げ込み的に、文芸工作団内部での、他は団員の恋ばな、失恋ばなが投げ込まれたり、工作団そのものが、中国の体制の変化で解散になったり、解散前最後の公演に、負傷兵らが招待されてると、その中に心を病んだシャオピンがいたり、解散後10年経ったところで、リウ・フォンが、元団員と再会して、団員のその後が語られたり、、、全てが、投げ込みで、冒頭で、主役だと言った2人の行く末が、ようやく、ラストで触れられて、おしまいでした。この映画、原作があるようで、戦争以後は、どうやら、挿話がピックアップされて投げ込まれたって印象でした。そんなで、物語としては肩透かしだったのですが、工作団の解散までの姿の再現に、そそられました。見事な建前と、青春を生きる男女の対比が描かれ、そういった映画が、今の中国で作られている姿に、何やらホッとした感じになってました。こういった映画が作られ、公開される中国に、同じ現代社会を生きているという共生感のようなものを感じたからだと思います。ま、それだけ、自分が中国を知らないということにもなっちゃいますが。


2019年 6月 30日(日)午前 4時 19分

 今日は、午前中に京都府立大学の公開講座を聴き、午後はコンサートに行くという二部制の日でした。まず、公開講座ですが、京都府立大学が桜楓講座と名付けて開いているもの。今日は、「『方丈記』を読んで日本語の歴史を考える」と題して、同大学文学部准教授の鳴海伸一さんのお話を伺うことができました。 テーマは日本語だと言っても、扱う素材が古文、これは、想定外の取っつきの悪さを感じたお話。方丈記自体からの引用は、さほど多くはなかったのですが、他の古文から、使用例が、どんどんと引用されていくと、普段、そうした文章に慣れてない黄紺には、絵空事に思えてきて、食いつきが悪くなっていきました。おまけに、講師の方が、やたら早口で、日本語を聴き取れない辛さを感じてしまいました。でも、お話の筋道は外してないつもり。その中で印象に残ったのは、相反する意味を持つ漢字の組み合わせで作られた二字熟語の意味合いの変化。「賞罰」「多少」「与奪」なんて語句が例示されていましたが、その意味合いが、後者の文字の意味合いが消えて、独自の意味合いを持って行くというお話。それでどうなんだということなんですが、これだけだと、そうなりますね。ということは、お話の全体像を掴めてなかったってこと。これは、やはりお手上げぽっかったかな。音声学、文法、そないなお話かと思ったら、語句の用法の変化ということがテーマだったようで、こんなのは、結果、結論だけ教えてくれれば十分という気になってしまいました。
 京都府立大学を出ると、午後の部まで、2時間半という頃合いの時間があったということで、途中、昼食時間も入れてのアーバン・ウォーキング。阪急烏丸駅まで歩いてみました。そして、上桂駅まで移動。バロック・ザールであった「小谷口直子&塩見亮 デュオリサイタル vol.2」に行ってまいりました。京都市響の首席クラリネット奏者の小谷口さんのリサイタルに行くのは、これで3回目3年連続となります。そのプログラムは、次のようなものでした。「R.シューマン:3つのロマンス op. 94」「C.シューマン:3つのロマンス op. 22」「ライネッケ:序奏とアレグロ・アパッショナート op. 256」「ベルク:4つの小品 op. 5」「ブラームス:ソナタ 第2番 変ホ長調 op. 120-2」。いよいよブラームスが登場ということで、3回目にして、最もオーソドックスなプログラムになったようです。前半は、シューマン夫妻に、ライネッケをあしらったもの。ロベルトの作品は、全般的に暗く、才ばしった姿を見せずじまい、むしろ、ピアノの名手クララの作品の方が、ピアノがきらびやかで好感を持っちゃいました。ライネッケのアパッショナートは、ちょっと看板通りでないという風情。アルバン・ベルクも、 十二音技法にシフトしてるとは思えないまま、呆気なくめで終わり、眼目のブラームスへ。小谷口さんの演奏、全体的に丁寧に吹くという気合いが先行してるようで、時として、うとっと来ること、再三再四。昨年までの気負いが消えた代わりに、大事なく吹こうの意識が先行してたかなと思えるコンサートでした。毎年、小谷口さんのコンサートは、中高生が多く、普段味わえない雰囲気での演奏会。皆さん、クラリネットを吹くのかな、ちょっと、そないなことを考えてしまいました。なお、アンコールは、シューマンの歌曲集「ミルテの花」より、「睡蓮の花」でした。


2019年 6月 28日(金)午後 10時 55分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「弦楽五重奏- F.メンデルスゾーン 生誕210年 -」と題して、(ヴァイオリン)島田真千子、杉江洋子、(ヴィオラ)小峰航一、金本洋子、(チェロ)城甲実子の5人の方たちのアンサンブルを聴くことができました。演奏されたのは、「F.メンデルスゾーン:弦楽五重奏曲 第2番 変ロ長調 op.87」「同:弦楽五重奏曲 第1番 イ長調 op.18」の2曲でした。今年は、メンデルスゾーン生誕210周年を記念して、カフェモンタージュでは、メンデルスゾーンの作品が、よく出ますが、210周年は、ちょっと中途半端。でも、ほとんどメンデルスゾーンの作品は、こちらでは出てこなかった罪滅ぼしと思えば、この中途半端さも許されるかもしれません。おかげで、まあ聴く機会がないと言ってもいいくらいの弦楽五重奏曲を2つとも聴くことができました。実は、黄紺は、珍しいだけで、あまり期待してなかったコンサートでした。メンデルスゾーンの曲が、ただ珍しいだけで、あまり関心をそそられないものだったからです。実際、生で聴いてみて、優れた曲とは言いがたい、これは想定通りでした。ベートーベンやシューベルトの後の世代ですから、ちょっと物足りない。2番に顕著ですが、何やしら、独奏ヴァイオリンを備えたミニ協奏曲の風情。1番は、ミニアンサンブルに、独奏ヴァイオリンが埋没してしまったかのような風情。なのに、今日のコンサート、気に入ってしまったのです。独奏ヴァイオリン担当の第1ヴァイオリンを弾かれた島田さんの演奏が素敵なところへ、現&元京都市響の4人の方たちのアンサンブルが精緻を極めました。躍動するヴァイオリン、生命の息吹きを感じるヴァイオリン、それに、きれいに寄り添う弦4本に魅せられました。そうは言っても、1番は、ついつい退屈が顔を出してしまいました。黄紺が、良さを理解だけないんでしょうが、黄紺的には2番を先に演奏して正解でした。どちらが、先に作られたか、本当のところが判ってないと、オーナー氏は言われていましたから、この順番が生まれたようでした。ただ、島田さんのブログを見ると、両者の作曲年代に、かなり開きがありますが。メンデルスゾーンは、このあと、弦楽八重奏曲まで計画されているようで、あのスペースに8人はどうなるのか、思わず目分量で計ってしまいました。かなり厳しいと思うのですが、、、。


2019年 6月 27日(木)午後 6時 52分

 今日は、大津で講演を聴く日。「コラボしが21」で行われた滋賀県立琵琶湖文化館主催の「滋賀文化財講座」の「花湖さんの打出のコヅチ」の第2回講座「文化財を守れ」に行ってまいりました。講師は県教育委員会文化財保護課兼滋賀県立琵琶湖文化館の古川史隆さんでした。この講座、びわ湖ホールに行ったとき、近くの路上掲示板で見つけたもの。連続講座になっていますので、今後も活用させていただく予定にしているものです。今日のお話は、失われていく文化財について。マスコミの報道では知っていた文化財の盗難、また、「ブラタモリ」の「高野山編」で観た火事対策。こうしたことから判るように、国や県の指定を受けた文化財をも含めて、貴重な文化財が失われていっている現況に立ち向かおうとされている現場からのお話を伺う講座でした。黄紺は、腰に問題を抱えるため、日本では、ほとんど博物館に行く機会を持たないことにしていますが、外国に行くと、2度と観る機会はないかもと、頑張って行こうとしているところから、少なくとも、文化財保護の恩恵を受けている身として、看過できないテーマだったのです。盗難の原因としては、文化財の所有者の多くが宗教法人であり、その管理に、時代の流れを感じさせる止むに止まれない要因が見えてきます。住職のいない寺院があったり、過疎と少子高齢化の進行で、文化財の管理に緩みが出てきているのが大きいようです。そんなですから、知らない間になくなり、一旦なくなると、戻ることは絶望的、また、出てきた場合も確認ができるほど、文化財自体に対する認識が薄い、、、かなり厳しい現実です。火事対策として、スプリンクラーの設置、確かに、「ブラタモリ」で観た高野山の機器は素晴らしいものがありましたが、費用を考えると真っ暗になってしまいますわね。黄紺などは、ヨーロッパの博物館で看てきたように、博物館での集中管理、元の場所にはレプリカ、これ、ダメなのかなぁと思ってしまいますが、レプリカ作成費用や博物館の収納能力なんかが、問題となってくるのかなと想像してしまいました。対策も、お話されていましたが、ちょっと暖簾に腕押しというところでしょう。現場に立つ立場としても、有効との確信を持てない方法だからでしょうか、会場を向かいアイデアを募っておられました。帰り際に、係の方から、滋賀県立近代美術館の開かれている市民講座のチラシをいただき、また、視野を拡げられそうな内容にワクワクしています。早速、帰りの電車の中から、そそられた講座2つに申込みを完了させました。ビヴァ・シガ!


2019年 6月 26日(水)午後 11時 33分

 今日は、昼間、家の用事で四条までお出かけ。その流れで、軽くアーバンウォーキング。おかげで、今まで知らなかったスペイン料理店を1軒見つけました。自宅待機後、夕方からは落語会へ。今夜は、ツギハギ荘であった「サクッと吉の丞 14サクッ」に行ってまいりました。全く吉の丞の一人会。お喋りのあったネタは「青菜」「胴斬り」「夏の医者」でした。明日が、米朝夫人の命日ということで、その思い出話を、マクラで、たっぷりとしてくれました。さすが、米朝家で内弟子修行経験のある吉の丞ならではの話。吉朝一門の噺家さんは、特に米朝の晩年に内弟子に入っていますので、その時期の思い出を語れる特権を持っています。ネタは、夏物の定番ものから。でも、聴いている内に、吉の丞の「青菜」っての気持ちになってきていたところ、噺が終わってから、「10年ぶりくらいで2度目」とのこと。今年の夏は、やってみようの気になっているのだそうです。南光からもらったネタだそうです。「仏師屋盗人」「鬼薊」が、南光からもらったネタとして浮かびますね。「青菜」にせよ、「胴斬り」にせよ、ちょっと早口になるところで、最近の吉の丞は、滑舌が悪くなるのが気になったのですが、あまりかけたことのない「青菜」が気に入りました。旦さんとの対比で、植木屋はんを、過剰に下品に扱う口演に、ときとして遭遇しますが、吉の丞の植木屋はんは、可愛くはしゃいでいるという風情があり、下品さを感じさせないのがいいですね。でも、長屋に戻ってくると、一気に日常の植木屋はんの生活、ちょっとぶっきらぼうな口ぶりが執られ、なかなか計算してるって感じが残りました。真ん中を歩いて、成果を残した、そんな口演だったのじゃないでしょうか。「胴斬り」は、NHKでのオンエア仕様の口演。ちょっと短縮形と言い換えることができます。以前に聴いたときにも感じたことですが、普通に流した口演をすればいいのに、異様な展開を、「ついてきて下さいよ」「気を確かに持って下さい」といった類いの茶々を入れながら進めるのが、蛇足的印象で聴いてしまいます。落語特有のありえない世界を描くネタなのだから、せっかくのネタのおもしろさを壊しかねないなと思ってしまうのです。「夏の医者」だけが、今日のネタとして告知されていました。あまり演じ手が多いとは言えないネタ。吉の丞は、以前から手がけてたのかな。寡聞にして知りません。今日の口演は、序盤を省いたもの。父さまが倒れるところはカット。伜が医者を喚びに行くところから、噺は始まりました。行く行かないの問答、いよいよ出かけると、うわばみが寝そべっておりと、噺の核心は、それで十分なのですが、呆気なさが際立ってしまったという印象。噺って、やっぱりよくできていて、ちょっとした遊びが入ることで、その倍くらいの拡がりが生まれてしまいます。このネタを聴くと、現在、活動をしていない小米が思い出されます。もう1度、楽しいマクラと「夏の医者」聴きたいですね。今日で、この会は、今年はおしまい。秋に、動楽亭の連続的な落語会を企画しているからだそうです。そう言われてみると、今年は、もう半分終わってるんですね。早いわぁ。


2019年 6月 25日(火)午後 11時 19分

 今日は、1年で一番嫌な朝。胃カメラ検査を受ける日だったのです。エコー検査も併せて受けましたが、幸い異常なし。その直後には飲食ができないので、毎年、検査後はウォーキングをするのが常。逆に、1年で一番爽やかなウォーキングです。そんなで、昼間は自宅待機。そして、夜は、カフェモンタージュで音楽を聴く日でした。今夜は、「ピアノ四重奏- W.ウォルトン-」と題して、(ヴァイオリン)佐藤一紀、(ヴィオラ)丸山緑、(チェロ)上森祥平、(ピアノ)武知朋子という4人の方の演奏を聴くことができました。そのプログラムは、次の2曲でした。「G.マーラー:ピアノ四重奏断章 イ短調」「W.ウォルトン:ピアノ四重奏曲 ニ短調」。オーナー氏のお話によると、いずれも16歳のときの作品です。マーラー好きの黄紺も、今日のマーラー作品を聴くのは初めて。ましてや、ウォルトンの作品などは、普段聴いたことがありません。この作品どころかの話ですが。マーラーの作品は、1楽章しか残ってないという未完の作品だったということもあるうえ、作品としての完成度という観点でも、ウォルトンの作品のインパクトは、ただ者ではありませんでした。ストラビンスキーが入ってるかと思うと、ラヴェルが顔を出し、びっくりさせられたのは、コルンゴールド風なんてのもある。3楽章、4楽章には、フーガまで用意されていました。これは、おもしろかった。次に何が出てくるかという、ワクワク感って、音楽を聴いていて、そうはないよなと思うと、聴く立場として興奮気味。この曲をやろうとの言い出しっぺは、佐藤さんだとか。変化が激しい、この曲を演奏するのは大変だったと思います。弦3本と対抗するようなピアノの目立つ場面で、いまいち自己主張がピアノに欲しかったなと思いはしましたが、迫力満点の好演でした。カフェモンタージュでは珍しく、終演直後にブラボーの声が上がりました。それを考えると、マーラーは、ちょっとおまけ感が強かったかな。でも、貴重な作品、聴けたことは、自分の財産になるはずです。


2019年 6月 24日(月)午後 11時 52分

 今日は、千日亭で講談を聴く日。毎月恒例となっている「第263回旭堂南海の何回続く会?」に行ってまいりました。今日読まれたのは、「近世相撲傳(参)『風流横綱・稲妻雷五郎』」でした。今日は、行く前から、ダメだろうなの予測通りになってしまいました。昨晩の睡眠がひどく、寝つきが悪い、簡単に目が覚める、また目が覚めるで、むっちゃ不安定な睡眠。これでは、ダメだわぁ。せっかくの南海さんの口演なのに、不調すぎます。


2019年 6月 24日(月)午前 0時 17分

 今日は、元同僚と呑んだ日。というのも、先日のポーランド旅行中、ちょっとした用件で連絡をいただいたとき、「今、カトヴィツェ(ポーランド)にいます」と添えてレスを送ると、折り返し「私も、今月末からポーランド行きます」、しかも、行き先に「カトヴィツェ」が入ってたから、びっくり。最初の黄紺のレスを見た元同僚も、さぞや驚いたろうことは、想像に難くありません。ということで、黄紺の帰国後早々に、ポーランド話をすることになったわけです。早々でないと、もう出ちゃいますからね。黄紺の行ったポーランド南部ツアーをなぞるようなコースだそうで、また、その元同僚にも、帰国後、お話を伺いたいものです。会ったのは、いつぞや行った梅田シティのマレーシア料理店。マレーシア再訪したくても、なかなか行けてない黄紺は、こちらで鬱憤晴らしにもなるかということでの選択でした。


2019年 6月 22日(土)午後 11時 43分

 今日は、京都で二部制の日。午後に市民対象の講座を聴き、夜は音楽を聴く日でした。まず、午後は、仏教大学主催の「2019年度 歴史学部提供講座 歴史を学ぶ 歴史に学ぶ」に行ってまいりました。今日は、 同大学歴史学部教授の鈴木文子さんの「ライフストーリーにみる普通の人々の日常と植民地朝鮮」というテーマのお話を伺うことができました。講師の方は、専門が文化人類学で、そのフィールドはアンミンド(安眠島)ということで、文化人類学の手法を植民地支配の分析に応用しようという試みの報告となりました。アンミンドは、黄紺が行こうとして行けなかった思い出のあるところ。その行こうとした 港がテチョン(大川)港、その後背地にある町がポリョン(保寧)と、そのアンミンドに行こうとしたときに訪れたところ、それらが、やはり、お話の中に、時々現れてきたものですから、今日は、目はしゃっきりしておりました。いやいや、単に、昨晩、まともな睡眠を確保できただけですが。植民地支配の最近の研究動向、世間の傾向にも触れてからのスタートとなりました。黄紺に時間があれば、追いかけたくなるテーマです。もちろん、前提としての、明治以後の海外侵攻と移民の歴史は抜かすわけにはいきません。そういった前提となる情報をもらうというか、再確認を受けて、本題となる口述資料&史料の紹介が始まりました。実際に植民地時代を経験した日本人、韓国人に対する聞き取りされたものの紹介となりました。考えてみれば、急がねばならない作業です。時間が経ちすぎてしまってますからね。浮かび上がってきたのは、日本人と朝鮮人の二重社会。個々の交流の少なさ、混住もあったが、そうでないところもあった。両者の乖離が印象的な報告だなと思いました。日本に帰ってきた在朝日本人が、日本の社会を見て、「日本人がこんな仕事をしてるなんて」の証言は、かなりインパクトがありました。そういった口述資料と、統計資料を重ねると、状況が、一層にクリアになっていきます。日本人と朝鮮人の職業分類の資料を眺めて、先ほどの証言に納得がいってしまいます。なかなか興味の尽きないお話でした。
 夜は、ご無沙汰のカフェモンタージュでのコンサート。「ヴィオラ・ダ・ガンバ - G.P.テレマン」と題して、武澤秀平さんの演奏を聴くことができました。演奏されたのは、「G.P.テレマン:ヴィオラ・ダ・ガンバのためのファンタジア全12曲 TWV.40:26-37」でした。このテレマンの曲、2015年に発見されたものとか。ヴィオラ・ダ・ガンバにとっては、大変な財産が手に入ったものです。ヴィオラ・ダ・ガンバは、くすんだ音色で古色蒼然たるもの。展開によっては、スピーディーな場面や、力強い場面も出てはくるのですが、それは、あくまでもヴィオラ・ダ・ガンバ仕様。黄紺の耳には、常に穏やかでたおやかな顔を向けてくれるものですから、うかっと目をつむって聴いてしまうと、うとっと来てしまいます。実は、それの繰り返しでした。これって、聴き損ねたと考えねばならないこと? それとも、心から音楽を楽しだこと? 今晩だけは、その判定に困ってしまいます。


2019年 6月 21日(金)午後 11時 34分

 今日は講談を聴く日。千日亭で、毎月続けられている.「南湖の会 ~鼠小僧連続講談~」に行ってまいりました。今日読まれたのは、次の講談でした。「扇の的(抜粋)」「山内一豊と妻千代」「鼠小僧次朗吉」「男の花道」。今日は不調。不安定で、短い睡眠が原因です。会場に着いたところで、予想がついてしまいました。中の2つが、その影響を受けてしまいました。狙いの「鼠小僧」が、その被害を受け続けており、まだ1回も、まともに聴いてないような気がします。その他では、「扇の的」は、この間続けられている「修羅場読み」の一環ということで、そういった場面だけを読まれました。残りの2つは、なみはや講談協会の兄弟子の十八番ネタの口演。「山内一豊」は南海さんの、「男の花道」は南北さんの、それぞれお得意にされているものです。「山内一豊」は、中盤から居眠りをしてしまいましたから、序盤の一豊と千代の出逢いの場は、南海さん特有の言い回しが使われていましたが、南湖さんは、そのままではなく、南海さんカラーを弱めての口演となっていました。後半、馬が喋る場面が、南海さんは用意されていますが、南湖さんはいかがされたのでしょうね。「男の花道」の方は、南北さんの口演を、よく覚えてないもので、どの程度、南北色を削り、南湖カラーに染めたのかは判別できないのが、残念なところ。このネタ、いつ、誰で聴いても、不思議に思うところがあります。前半の冷静な半井先生が、無頼漢のような酒席に列席するキャラ、無頼漢に対抗するが如く、歌右衞門の呼びつけまでに至ってしまうキャラが合わないのです。ま、そうしないと、このネタは成立しないところではあるのですが、毎度、気になってしまいます。近々に南鱗さんお得意の大ネタ「善悪二筋道」も出す準備をされているそうです。これは、かなり楽しみなことです。それと、もう1つ、楽しみを聴かせてもらえました。9月に、「南海・南湖二人会」を、連続的に開くそうです。早く、開催日を知りたいところです。


2019年 6月 20日(木)午後 11時 42分

 今日は落語を聴く日。久しぶりの落語会ということで、高揚した気分で、ツギハギ荘であった「桂小鯛ひとり会~フラッと小鯛 7フラッと」に行ってまいりました。ネタは、次の3席でした。「花色木綿」「錦の袈裟」「二日酔い」。この会の設定は、噺家新人グランプリのファイナリストになった小鯛が、そのファイナルで披露するネタのお稽古にするためのものでした。そのファイナルでのネタが「二日酔い」。小鯛の新作です。ファイナルでは、新作の方が、受けが良いと言われていることからのチョイスじゃないかな。「二日酔い」というネタ自体は、以前聴いたことはあるのですが、出来栄えとして、いかがなものでしょうか。酔っぱらいの噺はたくさんあるが、二日酔いの噺はないという、ちょっと隙間狙いの新作。それに、彼女とのデートでの失敗談を重ねたのですが。このネタと、最初の「花色木綿」の後半が、実はダウン。ですから、黄紺の書く感想は、あまり当てにはなりません。ダウンまでの感想です。いつもよりはひどくはないのですが、時差の調整と疲労の蓄積からは解放されてませんからね、まだ。でも、「錦の袈裟」は、バッチリでした。小鯛自身も言ってましたが、今やレアな噺。しん吉からもらったそうで、円三が高座に出てくれれば聴ける噺ですが、小鯛の言うように、しん吉以外で出しているのは、確かに見たことのないレアさになっています。吉朝の音源が残っているそうで、それを渡され、稽古をつけてもらったと言ってました。円三の超名演が、黄紺の耳の底に残っていますが、やはり、このネタは、いいテンポ、いいリズムが身上の噺ですから、全くもって小鯛向きの噺。正に、己の良さを最大限に引き出してくれるネタに出逢えたのではないでしょうか。そして、それを、見事に成し遂げている好演に接することができて、大満足でした。以前、この口演に遭遇したとき、途中でダウンしてしまった記憶があるので、今日は、しっかりとリベンジできました。書くのが、後先になりましたが、冒頭のマクラで話してくれた、大須演芸場での経験談がおもしろかったですね。若手の噺家さんが、大須で出番をもらい、大阪に戻ってきてから、その経験談を聴くと、外れはないですね。大須は大須で、昔とは変わってるはずですが、変わってもおもしろ話が尽きないので、大須が、噺家さんの口の端に上ると、毎度、耳がダンボになってしまいます。


2019年 6月 20日(木)午前 3時 7分

 帰国翌日から、行動開始です。今日は、福井からやって来た高校時代の友人と、ロイヤルオペラ・ライブビューイングとして上映された歌劇「ファウスト」(デイビット・マクヴィカー演出)を観てまいりました。場所は、初めて行くことになったイオンシネマ桂川。東南アジアかのようなモールが建ち、すっかり様相が変わった久世になります。夕方からの上映だったのですが、やはり疲労が残っていて、序盤は睡魔との闘い。でも、その合間に気になり出したのは、既に、アンジェラ・ゲオルギュー、ロベルト・アラーニャ、ブリュン・ターフェルという名歌手でDVD化されているプロダクションと同じだということ。そう言えば、デイビット・マクヴィカーのプロダクションだったかと、進行につれて確信へと変わっていきました。休憩時間に、友人とも確認。な~んだではなく、プロダクション自体が優れものですから、違ったキャストで観ることで、余計に映えるプロダクションでしょうし、その歌手陣が、また粒揃いの好キャスト。ファウストのマイケル・ファビアーノは、2週間程前に、ベルリンで聴いたところ。時系列的に言えば、このロンドンでの公演のあと、ベルリンでの稽古に入ったと考えると、いいのじゃないかな。ベルリンで聴いたときも、声が前に出て、実に心地好い。こりゃ、35歳にもなってない段階で、世界を股にかけるだけのことはあると感心も得心もした歌手。今日も、いい声を聴かせていただきました。あとの主役2人については、友人が教えてくれました。メフィストフェレスを歌ったアーウィン・シュロットは、ネトレプコの元旦那。黄紺も、そう言われると解る歌手ですが、今日の歌唱&動きを観ていると、「ネトレプコの」で呼ばれるのは、甚だ失礼と言える、堂々としたもの。友人は、かつてのライモンディ、ギャウロフのような悪魔悪魔しているよりか、より人間臭さを感じさせる悪魔として、秀逸と言っておりました。確かに、いい得て妙です。マルグリートを歌ったイリーナ・ルングは、黄紺的には、どのような言い方をされても知らない歌手だったのですが、著名な方だそうで、友人は、この人の歌ったミカエラにしびれたそうで、歌唱の上手さはさておき、ルックスがドンピシャ。なるほど、そう考えると、このマルガリータも適役かもしれませんね。そんなで、主役3人の力量はなかなかのもの。確かに、アンジェラ・ゲオルギュー、ロベルト・アラーニャのコンビと比べてしまうと、華やかさというか、そういった面でのオーラでは、さすがにかないませんが、それは、求めすぎってやつです。デイビット・マクヴィカーのプロダクションは、既に書いたように、DVD化されていますので、各場面の様子をメモるのは割愛しますが、彼の最近のプロダクションで看られる、丁寧な時代考証を施したうえ、コピーをそのまま舞台上に出現させるというより、時代考証の上に、芝居的効果を考えた技が冴えるという流れに入るものと、基本的に言えるとは思いますが、それは、逆に、具象性を伴わず、イメージの膨らまし方が問われるワルプルギュスの夜の場面となったり、マルガリータの救いの場面になると、彼のイメージの豊かさ、抑制するタイミングとかの妙などを観ることができたような気がします。イエスを出すのは過剰、タイミングを失したとも言える場面かもしれないのですが、あのグノーの音楽に対して、そうせざるを得なかったのかなとも思います。マルガリータの高揚した歌唱が、終盤繰り返されます。転調をしたところが救済のときなんですよね、ファウストとメフィストフェレスは、違う調子で歌い続けているにも拘わらず、マルガリータだけを転調させるという、グノーの技に同調しちゃったのでしょう。だから、観る者に、更に一層の感動を喚起するのでしょう。黄紺は、あすこのマルガリータの歌唱となると、カウフマンがファウストを、ルネ・パーペがメフィストフェレスを歌ったメトロポリタンのプロダクションで、マルガリータを歌ったポポロフスカヤの熱唱を思い出すのが常ですが、今日は、終わってからポポロフスカヤが出てきましたから、それだけ、ルングの歌唱が素晴らしかったということじゃないかと思っています。友人の話だと、マルガリータは、最初、ディアナ・ダムラウの予定だったところ、彼女が降りたための、ルングは代役だったそうで、そのルングも、のちに降板してしまったマルガリータがネックになった公演だったようです。ですから、あまり本調子じゃなかったということになります。で、あの歌唱、、、調子のいいときに聴いてみたいものですね。


2019年 5月 25日(土)午後 8時 33分

 今日は、キャンパスプラザ京都であった公開講座を聴く日。今日は、「京カレッジ“大学リレー講座“」という公開講座があり、大谷大学文学部仏教学科教授の山本和彦さんのお話を伺うことができました。お題は「古代インドの人生を終える生活期」というもので、仏教教義に疎い黄紺は、いい機会とばかりに飛び付いてしまいました。まず、冒頭で、仏陀が活動したインドの風景紹介ということで、講師自身が撮ってこられた画像を見せていただけました。これは、インドからネパールまでに渡る、なかなか素敵なもので、自然、なかでも空にスペースの多くを与えていて、すっかり見とれてしまいました。ここまでは、黄紺的には良かったのですが、肝心のお話に入ると、見事に半寝。その中でも、人生を4つに区切り、それぞれの時期に、中でも演題の時期には、何を求められているか、具体的にお話があったのですが、その典拠にされていたのがマヌ法典。ここで、黄紺の頭は混乱。講師の方も言われていましたが、アンベドカールは目の敵にしたヒンドゥーの法典が典拠にされたものですから、混乱してしまったのです。半寝で聴いていたものですから、仏教のお話ではないものだったら、了解なのですが、、、。講師の専門が仏教だとの先入観であるならば、黄紺の講座に対する臨み方が間違ってただけなのですがね。そんなで、明日から日本を離れます。向かう先は、1年前と同じポーランド。一昨年の同じ時期のドイツは気温が低く、昨年は、初めの5日間ほどが低く、あとは気温上昇ということで、荷物に困っていますが、両様対応にせざるをえず、出る前から、かなり荷物がきつくなっています。


2019年 5月 25日(土)午前 5時 32分

 昨日は講談を聴く日。毎月恒例の「『南湖の会』~鼠小僧連続講談~」に行ってまいりました。数日前まで、この日は、他に出かけることができるかもしれないというので、今月は、ほぼ諦めていたのですが、それがキャンセルとなり、無事に行くことができました。で、南湖さんが読まれたのは、「赤穂義士銘々伝:矢頭右衛門七」「修羅場読み:三方原戦記」「鼠小僧次郎吉 その一 小仏峠」「大岡政談:さじ加減」でした。今回から、新たに「鼠小僧」が始まったからでしょうか、いつもと違い、開場直後に会場入りをすると、もう結構な人が着席していて、びっくり。確かに、「鼠小僧」を、上方で読む講釈師さんを、他に知りませんから、ネタ自体が珍しく、にも拘らず、知られたネタであるという強みがあるのでしょう。黄紺も、東京で、愛山師の口演で「しじみ売り」を聴いたことがあるくらいです。ただ、そういったネタになると出るのが、居眠り。「鼠小僧」だけが、すっぽりと抜け落ちています。特に、昨日は、聴いたことのないパーツだったもので、後から後悔しても始まりません。あとの聴き慣れたネタは、居眠りなんて欠片もなかったのですから、呆気にとられるしかありません。「矢頭右衛門七」は、貧窮生活の部分だけではなく、仇討ちメンバーに入れてもらう場面も入ったもの。借金をしに大家に会いに行く右衛門七は、ティーンエイジャーよりか子どもに見えました。全体的には、さほどデフォルメが進んではいないのに、ここだけは別物でした。「さじ加減」は、琴調師からもらわれてきたもの。東西交流の成果として、南湖さんも、琴梅師、貞山師、琴桜師と、名だたる東京の講釈師さんからネタをもらってられますが、このネタほど、教え手のカラーを引き継いられるネタはないのかと思っています。というか、このネタの口演を、今まで何度か聴いているのですが、ここまで、さほどそのように感じたことはなかったのですが、今回は違ったという感じです。なぜなのでしょうね。幾度か、そういったシーンがありました。居眠りをしなかった読み物では、いつもにも増して、落語家さんのノリ的なくすぐりが冴え渡りました。旭堂は、これでなくっちゃってところです。そんなですから、かえすがえす「鼠小僧」での居眠りが悲しいのです。終わって外に出ると、道頓堀界隈は、いつも以上の賑わい。昨日は、珍しく日本語が多く耳に飛び込んできたのと、白人系観光客の割合が多めかといった印象。その中を、ホント、掻き分けながら歩かねばならないのですから、凄まじい光景でした。


2019年 5月 24日(金)午前 6時 11分

 昨日は、旅行前最後の落語会。そそられるコンサートもあったのですが、日本から離れると、一番落語が恋しくなるので、迷わず落語会を選択。ツギハギ荘であった「パンチョウ一門会~芽吹きの季節、収穫のパンチョウ~」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。全員「トーク」、笑金「煮売屋」、三金「デブ漫談」、天使「繁昌亭仮面」、治門「フォットけない写真」、鶴笑「いもむしくん」、三金「三題噺」、天使「三題噺」、全員「トーク」。普通の落語は、前座役の笑金だけで、あとは「三題噺」と一芸的な高座という番組。そういった会だということを知ってのおじゃまでしたが、前回行ったときは、天使は自作の噺を聴かせてくれてましたが、昨日は、その時間が「三題噺」に化けました。ただ、「三題」の1つに「パン」を入れると言っておきながら、3つのお題を取ったあとに「パン」が入ってないことに気づき、「パン」のお題を追加したため、実際は「四題噺」になりました。お題は「航空整備士」「猛暑日」「令和」「焼きそばパン」でした。結果というか、黄紺的好みで言えば、天使に軍配。初「三題噺」ながら、いい出来。ひょっとしたら、噺の用意がされてあり、お題を嵌めるという手法を取ったのかなとすら思ったほどでした。筋立てはハイジャックでのやり取りというもの。三金は、野球の監督の無茶ぶり的な采配をネタにしたと言えばいいかな。この会での最大の収穫は、鶴笑の「いも虫君」。どこかで出したという情報を持っていたので、気になっていたもの。喋りはなく、BGMをかけて、割り箸状の棒2本の先っぽに着けたパペットを使い、木の柄に止まる蝶に恋するいも虫を描くもの。ほのぼの系のパフォーマンスです。ただ、ものが小さいので、ツギハギ荘なんかでは、もってこいのパフォーマンスですが、、、。「デブ漫談」は、フリップを使い、有名な諺を、デブ風アレンジをするというもの。かなり以前、どこかで観た記憶があるのですが、いつ、どこで、どんな機会にか、さっぱり思い出せません。「繁昌亭仮面」は、繁昌亭の元職員でもある天使から見た繁昌亭裏話。この人の中途半端感は、ここでも出て、こんなで高座上がるんだったら、もうちょい用意しろやとか、適当に話を盛れやと思わせるもの、でも、きっちりやられると、天使らしさが消えていきます。この人の中途半端さが、とってもお気に入りなのですから。こんなのを高座にかけようという思いつきは、相変わらず秀でていますから。「フォットけない写真」は、フリップを使い、おもしろ写真に気の効いたコメントを付けるというもの。短いものですが、ネタ集めに感心。小田和正の音楽の使い方も秀でたもの。こういったことに対する才能ってあるんやと、そないな自分にないものを観た気がしました。皆さんの高座が、それぞれ短いものだったため、最後に長めの「トーク」。その中で知った新情報。鶴笑が、また「日本の話芸」に出るそうです。凄い! こないに短期間で2回もって、凄すぎる。収録自体6月だということで、放映日は未定とのこと。鶴笑のマネージャー的な三金からの披露から話が始まりました。ネタは「夏の医者」。納得。「パペットは使いません」「替わりに座布団を使います」と言ってました。先日、鶴笑のツイッターに、「このネタを欲しいと言って来た噺家がいます」「だけど、これすると、失うものも大きいよ」と呟いているのを見つけました。誰がもらいに行ったのだろうかと、やたら、それが気になっています。


2019年 5月 22日(水)午後 10時 26分

 今日は、お出かけなしの一日。1日2回のウォーキングは予定通り。それ以外では、旅行に必要な印刷物のプリントアウト作業を完成させました。黄紺は、スマホが故障したらという場合のことを考え、また、シムガードを買うと余計な費用が嵩む(日にちが長いことが大きい)ことも考え、必要な資料などをプリントアウトして持って行くにしています。歌劇場や交通機関のチケットから、ホテルの予約票、ホテルや歌劇場の地図、オペラの梗概、観光情報など、大部の量になるため、今回は、プリントアウト作業だけで2日空けました。もちろん、その前には、それらの資料作りに、大変な時間を割いています。これが楽しいと思えるからできる作業で、それにかける時間は気の遠くなるほどという表現を使ってもいいかな。だいたいコースを決めるためには、ドイツのほとんどの歌劇場のプログラム、演出家、そして、大歌劇場では歌手陣を調べ上げるという作業をしているわけですから、オペラ紀行を主たる目的とする旅行には、膨大な時間がかかっています。その成果のプリントアウトですから、神経質になります。不足はないか、最後のチェックをも兼ねているからです。その作業が終わりました。明日は、荷物の準備に手を着けるつもり。ゆっくり時間がある気でいても、直近になると、どうしてもバタバタ感が出てしまいます。


2019年 5月 21日(火)午後 9時 12分

 今日は公開講座を聴く日。仏教大学四条センターで行われた「京都新聞総合研究所 提携講座 伝えるもの、 伝えること」に行ってまいりました。テーマは、「京都と天皇」というもので、元宮内庁編修課長の米田雄介さんのお話を伺うことができました。天皇の代替わりに際しては、様々な議論が出るかと思いきや、先代のときとは違い、肩透かしを食らっていたときに見つけた公開講座、率先して行ってまいりました。ところが、あっさりと居眠りをしてしまいました。講師が、結構な年配の方で、ご自分でお話されるのではなく、京都新聞の方との対談形式であったこと、進め方も、予め用意された天皇家のスナップ写真を映して、その写真の思い出話なんかから始まったものですから、拍子抜けをしてしまったのがいけなかったですね。黄紺の居眠りの間に、宮中の知られざるエピソードのようなものが流されたのかもしれないのですが、とにかく、ほぼ記憶に残るものなしの、情けない有り様でした。ということで、今日のお出かけは、大失敗の巻でした。午後1時開演というのは、日頃の黄紺の生活リズムからすると、若干中途半端だったのが、業をしたのでしょう。会場を出てから、昔、日本トルコ文化協会事務局のあった辺りを徘徊。すっかり変わってしまってますね。仏教大学四条センターが烏丸四条にあるものですから、ふらりと歩いてみたのですが、変わるはずです、もう相当数の年が経ったのですから。


2019年 5月 20日(月)午後 10時 58分

 今日は落語を聴く日。動楽亭であった「 第35回 染吉っとんの会~林家染吉落語勉強会」に行ってまいりました。京都で、そそられる落語会があったのですが、先月のこの会で、ネタ出しはしてないが、大ネタを用意していると、染吉本人が高座で言ってたものですから、覗きに行く気にさせられました。その番組は、次のようなものでした。染吉「井戸の茶碗」、吉好「ツンデレ指南」、(中入り)、吉好「アンケート(仮)」、染吉「幸助餅」。今回は、東京から迎えたゲストと二人会形式。年に1回は、こうした会を持ちたいと、染吉は言ってました。そう言えば、昨年は、昇々との二人会だったことを思い出しました。吉好とは、喜楽館で出逢い、染吉のツボにはまったようです。黄紺的には好きにはなれない噺家さんですが、確かに独特の雰囲気があり、オタク落語と称する新作を手がけているそうで、その中で、最も「大衆受け」するネタを出したと、吉好自身が言ったのが「ツンデレ指南」。古典の「あくび指南」のパロディ。春夏秋冬のツンデレを見せると言っても同じパターンであったり、そのあとの妹の見せるツンデレと言っても、変化を感じることができなかったりで、なんか無理を感じてしまいました。もう1つのネタも新作で、「ある師匠にもらった」と言ってましたが、誰かは言ってくれませんでした。父親の会社のアンケートと小学生の子どもの学校のアンケートが逆になるだけの可笑しさを追った噺ですが、この噺を聴いていて、同じような間違いの噺である「読書の時間」の出来栄えの秀逸さを確認することになってしまいました。吉好のタイプの噺家さんは、上方では見当たらないですね。特異なタイプだけに、好き嫌いが、大きく分かれてしまうのじゃないかな。主宰者の染吉は、大作2つを口演。ネタ出しなしは「井戸の茶碗」でした。黄紺の耳には、圧倒的に「幸助餅」に軍配が上がりました。以前にも書いているのですが、黄紺は、「幸助餅」を、講談で聴こうが、落語で聴こうが、噺自体を好きになれないのです。幸助が、あまりにもダメ人間に思えてしまうからです。単に、アホな男に振り回されているだけで、どこが人情噺やと思ってしまうのです。ところが、今日聴いた染吉の口演では、この噺の嫌いさ加減が、かなり緩和されたのです。それは、ただただ幸助のダメさ加減を大きく描こうとしなかったことにつきます。兄弟子の花丸の「幸助餅」の評判は頗る高いのですが、黄紺は好きになれなかったわけが、今日の口演を聴いて、よく判りました。幸助の描き方が、根本的に違うからなのですね。染吉の口演を聴いて、このネタが人情噺になったと言っても過言ではありません。雷などの幸助の周りにいる人たちの人情がクリアになったように思いました。染吉ベストに入ります、間違いなく。気合い十分の口演にも好感が持てました。一方の「井戸の茶碗」は、登場人物のテンションとか、なんか、皆、同じレベルに感じてしまうというのが、全てでしたね。当然、千代田卜斎と紙屑屋のテンションが、同じように聴こえてしまうとまずいはずが、さほど変わらないテンションに聴こえてしまいましたから、名前が出て来ませんが、佐賀藩(でやってました)の侍とのテンションは、もっと変化を感じないですよね。そして、気になった点があります。千代田卜斎から仏像を渡された紙屑屋が、腹籠りであることを認識するのはいただけないですよね。やはり売られてからあと、噺の新たな展開を示唆するものとしておかないと、、、。フライングは、噺のクォリティを落とします。更に、千代田卜斎が、腹籠りや茶碗の由来を聴いたあと、零落した身の上を語る部分をカットしたのじゃなかったかな。そんなのがなかったから、登場人物のレベルが同じように感じてしまったのかもしれません。この「井戸の茶碗」を、秋の独演会で出すようですが、早々に「幸助餅」に変えることを薦めたいな。アンケートに書けば良かったかな。


2019年 5月 19日(日)午後 8時 55分

 今日は映画を観る日。京都シネマであったドイツ映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」を観てまいりました。ハンガリー動乱時の東独が舞台と、これも、今までに観た映画では経験してこなかった設定に魅力を感じ、以前からチェックを入れていた映画でした。舞台は、東独の高校、しかも進学クラス。そのクラスの生徒が、RIAS(自由ベルリン放送)から聞こえてきたハンガリー情勢に共感して、2分間の黙祷をしたことで、「反革命」「ファシズム」というレッテルを貼られ、学校、地区委員会から、果ては教育担当の大臣までが登場して、狙いの解明、首謀者の特定が行われていきます。その過程で、生徒たちの家族の過去及び現在が浮かび上がってきます。取り調べ側が、その辺りに揺さぶりをかけて、調査を行っていきます。この過程が、なかなか観るのが辛いところではあるのですが、50年代半ばの東独の様子が、よく判るところでもあります。実話に基づいた物語から、迫力は半端ではないものがあり、裏返せば、観るのが辛いとなるわけです。どのように、ラストに向かい、物語が終息していくのか、終息があるのかと、かなり気にはなっていったのですが、ポイントは、50年代半ばの物語だということで、了解できました。もちろん、その終息も実話通りだったことが、最後のクレジットで判りました。これは、多くの人に観て欲しい映画です。社会的背景抜きにはありえない物語でしょうが、困難に直面した生徒たちの真摯な生き方が共感を生む、素敵な映画でもあります。原題は「Das schweigende Klassenzimmer」、「物言わぬ教室」というところでしょうか。邦題が、あまりにも日本的なと思ったので書いておきます。ところで、Sバーンかな、列車が停まる駅のシーンがあります。越境する人をチェックするシーンですから、第一、大屋根付きですから、フリードリヒ・シュトゥラーセ駅ですよね。どこの駅で撮影したのでしょうか、その駅に古風な車両を走らせていました。まだ、当駅に、東西ベルリンの検問所ができる前の物語でした。


2019年 5月 18日(土)午後 8時 16分

 今日は、京都アスニーで行われた「アスニー京都学講座」に行ってまいりました。定期的に開催されている公開講座ですが、初めて行くことにしました。行き帰りは、三条駅からのウォーキング、片道50分ほどの距離ですから、1日のウォーキングとしては、この往復だけで、十分にニーズを満たすのも、この講座に出向く好材料ですから、今後も、この講座におじゃますることになると思います。で、今日は、「京都の剣鉾と鉾差し」と題して、京都市文化財保護課の今中崇文さんのお話がありました。「剣鉾」という語句を正確に理解しないで、参加。そういった名の鉾が、祇園祭にはかつてあり、その資料なりの解説があるのかと、勝手な推量で参加したのですが、それは、全くの間違い。よく祭礼や武者行列の先頭。ないしは先頭近くで、大きな剣状のものを押しいただくようにして歩いていますが、あの剣状のものを「剣鉾」と言うそうで、元は「鉾」、即ち両刃で柄の付いた武器だったものが、祭礼に用いられるようになり、形状に変化が生まれていったとか。祇園祭の鉾も、その形状の変化の1つであるから、鉾と呼ばれているそうです。肝心の武器としての鉾、要するに「矛盾」の故事になった「矛=鉾」は、長刀、槍の出現で、武器としての役割を終えたのですが、祭礼には、立派に残っていったのが「剣鉾」だというわけです。社寺では、これについて、様々な呼び名があるそうですが、統一した呼び名として、そのようにまとめられているようです。役割は2つ言ってられました。1つに、清めや祓い。民俗学の本を読んでいて、棺桶の上に刃物を置いて埋葬する習慣が、伝統的社会で行われていたところがあったなんてのを読んだ記憶がありますから、同じ発想なのでしょう。2つ目は、疫神の依代とするためで、音楽好きの疫神は、賑やかな音楽につられて依代に集まってくるようで、集めに集めて退散を願うとなるそうです。祇園祭で、賑やかにお囃子が付くのは、疫神を鉾に集めているためだそうです。目から鱗です。ここ3年ほどで、京都市内に残る「剣鉾」の調査が行われ、報告書にまとめるという作業が行われたそうで、実は、その作業に関わられたのが、今日の講師の方だったのですが、そのため、最新の映像資料も見せていただくことができ、目にも楽しい講座でした。「剣鉾」の分類、また祭礼の中で見ることのできる「剣鉾」の扱い方(鉾差し)など、もう映像を見せていただくと、とっても良く解るもの。全くの思い違いで参加した黄紺でしたが、終わってみると大満足。今日は、弟も自転車に乗りやって来ておりました。ここの講座には、毎回のように来ているようで、クォリティの高さを強調しておりました。確かに、今日の内容で納得。これから、頑張って足を運ぶことにしましょう。


2019年 5月 17日(金)午後 9時 12分

 今日は、お出かけなしの一日。ちょうど、この時期は、ドイツの歌劇場が、来季のスケジュールをHPに、続々と発表していくので、そのチェックに時間を使っています。毎年、公表する時期が早いゼンパーやライプチヒなどでは、3月ぐらいから判るのですが、まだまだシーズン真っ只中ということで、本格的に揃い出すのが、この時期ですね。シーズンが終わっていても、まだというところも、中にはありますが、、、。歌劇場には、新シーズンの概要をまとめた冊子が山積みになっていきます。その時期から、かなり遅れてHPに載せる歌劇場も、わりかしあるようで、それは、明らかな怠慢だと、黄紺は思っています。新シーズンのラインナップを見ていると、2年ほど前からのハンブルク歌劇場の充実が、目を見張ります。停滞気味かなと思っていた歌劇場だったのですが、ケント・ナガノを音楽監督に迎えてからと断定していいかは、ちょっと自信はないのですが、確かに、歌手陣が良くなったことはまちがいありません。目の前に旅行が迫っているので、この作業は、旅行を挟んでのものになります。ただ、来季は暮れにはオペラ紀行を組むつもりはなく、年が明けてからの計画になるので、全然、急ぐ必要はないのですが、そこはそれ、どこで何が出るのかが気になるもので、例年と同じ時期から、作業を始めています。


2019年 5月 16日(木)午後 10時 24分

 今日は映画を観る日。シネヌーヴォで、ベトナム映画「ベトナムを懐う」を観てまいりました。祖国を離れ、アメリカで生活するベトナム人を描いたものとしては、黄紺が遭遇機会を得た初めての映画ということで、公開を待っていた映画でした。うまく日本を離れる前に公開がされましたので、ちょっと気負い込んで行って来ました。物語は、1つの家族の3世代のギャップを描いたもの。僅か半日ほどの物語です。冒頭、施設に入っていた祖父が、その施設を抜け出して、息子の家にやって来るところから始まります。祖父は、亡くなった連れ合いの命日ということで、息子の家にやって来たのですが、息子は、職場の都合で、半休を取り帰宅するはずだったのですが、丸1日働かねばならなくなります。ですから、たまたま家にいた孫娘と、その孫娘が引っ張り込んだ恋人と鉢合わせするところから始まります。孫娘は、アメリカで生まれ、ベトナムを知る由もないのですが、ベトナム語は喋れるのですが、ベトナムの伝統なるものは身に付いていない上に、自らのアイデンティティーなどとは微塵も感じていません。ましてや、その恋人はベトナム人ですが、全くベトナム語を喋れないとなっていました。息子の世代を飛ばした両者の会話が成り立たず、思いっ切り世代間ギャップが現れる展開です。特に、この日は、連れ合いの命日ということで、ベトナムの伝統に則り、祭祀を行いたい祖父と、それを理解できない孫娘の対比が、ちょっとステレオタイプ的に描かれていきます。祖父は、仕方なく、子どもの頃からの友人、この男もニューヨークに移住をしているのですが、その幼なじみを喚び、2人で祭祀を行います。ここで、この2人の幼なじみのプチヒストリー、それは、この日に命日を迎えている連れ合いを通じた2人の男の物語でもあるのですが、それが語られていきます。ベトナムの見事な田園風景の映像にしびれるところでもあります。そういった語らい、祭祀が行われているところへ、先ほどの孫娘が戻ってくると、孫娘が恋人の誕生日祝いとして作ったケーキが使われていたため、雰囲気は険悪に、どんどんとエスカレートしていきます。その中で、孫娘が本音を打ち明けていきます。父親の気苦労の欠片も知らないと言う孫娘。祖父は、息子の日記を孫娘に渡して、家を友人とともに出ていきます。そこへ、父親が帰ってきて、事情を察知。自らが、自身の日記を読み始めると、孫娘が、全く知らなかった祖父、亡くなった祖母、父親の過去が明らかになり、今、こうして、ここに生きている根本を知るに至り、そして、ラストへと繋がっていきます。この父親の読む日記というのが、この映画の最大のポイント。ここまで、父親は、ほとんど現れては来ないように作られていました。一世代飛ばすことで、ギャップがクリアになります。と同時に、ここに、ベトナムを出て行った人たちの、最も強烈な物語が隠されていました。ここまで、全く触れられず、しかし、誰しもが、ベトナムからの脱出と言えば思い浮かべる壮烈な物語が出てきました。祖父の世代は、戦争の時代のはずですが、この映画では封印されており、それを臭わすエピソードを入れないで作られています。半日の物語に詰めてしまうのは重すぎます。だから、ステレオタイプ的な印象を与えてしまう箇所が出てくるのかもしれません。ニューヨークの雪景色とベトナムの青々とした田園風景の対比が、物語全体を暗示しているかのようでした。「あの時代」を知る人は、観ておいて欲しいなと思う作品でした。
 なお、入場に当たり、映画1本につきサイゴン・ビールが1本いただけるサービス付きです。現在、もう1本、ベトナム映画が上映されていますから、2本とも観る人は、サイゴン・ビールを2本抱えて、ロビーに入って来られていました。


2019年 5月 15日(水)午後 10時 55分

 今日は講談を聴く日。隔月で開かれている「南華の会」(天満橋双馬ビル)に行ってまいりました。本日のネタは「野口英世の母」「浜野矩随」でした。今日は、「母の日特集」ということで、持ちネタの中から母親の活躍するものを2つ読まれました。ところが、会場に到着しただけで、ぐったり。椅子に沈み込んで開演を待ったのですが、実際始まると、体が、全く持ちませんでした。会場に入る前に、1時間半近く、ウォーキングをしたのが、裏目に出たのだと思います。次回から、会場が、同じビル内の違うフロアになります。長年親しんだ慣れた会場のラストがこれでは、かなり落胆です。


2019年 5月 14日(火)午後 8時 20分

 今日は、お出かけなしの一日。そういった日の定番、2回のウォーキングで、あっさりと時間は過ぎていきました。ただ、ウォーキングが多いのか、またぞろ、足に豆ができたばかりか、足の指が圧迫され、靴を脱いでいても痛みがある。先週、洛西散策に行く前日にも同じことが起こり、その後、快復していたのに、またしても、先週よりひどい状態に。でも、歩かないで、家にいるだけだと、とっても鬱屈とした気分になるので、外に出る、となると歩く、足の痛みがひどくなると、悪循環。同じ靴を履いていて、そないなことが起こっていなかったにも拘わらず、痛み出すことが、ままあるのです。そんなで、気分は優れないままでもあった一日でしたが、暑さが、少しおさまったので、ウォーキングにはいい季節なんですがね。


2019年 5月 13日(月)午後 11時 36分

 今日は、フェニックスホールで音楽を聴く日。関西弦楽四重奏団の「ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 全曲ツィクルス 第6回」に行ってまいりました。今回が最終回だったのですが、今回のツィクルスは、無事、完走することができました。頑張って行こうとする気持ちだけではなく、運がないと、他の予定とバッティングしてしまいますから、完走できたということは、黄紺にも運が回ってきたということでしょう。関西弦楽四重奏団の顔ぶれを記しておきます。(ヴァイオリン)林七奈、田村安祐美、(ヴィオラ)小峰航一、(チェロ)上森祥平。そして、今日演奏されたのは「弦楽四重奏曲 第16番 へ長調 op.135」「第14番 嬰ハ短調 op.131」でした。カフェモンタージュのツィクルスの際は、大トリは15番だったのですが、今回は14番。その前に、16番という布陣。最後の16番が長大な曲ではなく、また、哲学的な意味が込められている曲らしいのですが、聴いた感じでは、重くはない、ま、そんなところで、大トリには持ってきにくいというのは、全く同感。黄紺は、15番を篤く支持をするのですが、ダメなら13番に大フーガというのが、大トリらしいと思ってしまうのですが。その14番は、いきなりフーガで始まります。四声かと思うと、二声Ⅹ2なんて局面が用意されていたり、ベートーヴェンも、勝負手のようにして、フーガを使ってきます。ただ、今日は、上森さんと、あとの3つの楽器とのバランスは如何ものかと思ってしまいました。もう少し、あとの3つの楽器にパワーがあった方が、しっくり来るのにと思ったことが、今日は、しばしばあったからです。どうしても、チェロは図体が大きいものですから、また、低音は響くものですから、バランスが難しい。前回と、全く同じ席で聴いたものですから、どうしても、前回と比較してしまいます。前回は、緩急、濃淡のバランスが心地よく、ダイナミズムが感じられ、溌剌とした演奏が際立っていましたからね。ま、そんなで、最終回は、ちょっと満ち足りないものがあったのですが、ベートーヴェンを、こうして定期的に聴けたことは、嬉しい限り。この年末には、林さんのご主人、豊嶋泰嗣さんをヴィオラに迎えて、ブラームスの弦楽五重奏曲を、同じフェニックスホールで演奏されるということで、先行発売が会場であったものですから、早速。購入しました。ですが、カフェモンタージュでだけではなく、確実に、以前に比べて、室内楽のコンサートが増えていることは、黄紺的には、ホントに嬉しいんだなぁ。


2019年 5月 12日(日)午後 7時 36分

 今日は落語を聴く日。午後に、千日亭であった「染左つれづれ噺の会 Vol.5」に行ってまいりました。都合がつけば、欠かさず行っている会の1つです。その番組は、次のようなものでした。弥っこ「つる」、染左「世帯念仏」、雀五郎「蔵丁稚」、染左「地獄八景亡者戯」。弥っこの前座は安定感があり、引く手数多なのかな。今日も出逢った、というところです。ゲスト枠は雀五郎。なぜか、「蔵丁稚」が出そうな気がしたのですが、染左の会に出て、芝居噺はないだろうと否定していたら、何と当たってしまいました。噺の長さとか、しっかりとした噺、芝居噺なのに、鳴り物が入らないと、ゲスト枠としては出しやすいと思えたのかもしれません。マクラが可笑しかったですね。米二の会のゲストで出て、「蔵丁稚」を出したときのエピソードでしたが、いかにも米二らしさが出ていたものだったからです。雀五郎の口演は、いつものように、リズムがあり、心地よいテンポ。ついついいい気分で、後半にうとっと来てしまいました。主宰者染左は、大ネタをネタ出しで、「世帯念仏」の方がネタ出しをしてませんでした。若い頃に聴いていますので、ネタ出しをしても差し支えないはずですから、選択を日延べしたかったのでしょうね。この「世帯念仏」が、なかなか聴かせてくれました。結構、下卑た雰囲気が出ていたのです。念仏を唱えながら、不しだらなことを言ったりする噺ですから、上品な噺であるはずはないのですから、周りの空気感に醸し出す何かがないと、テキストに見合いませんからね。若い頃の染左には考えられない口演が生まれてきています。そんな昔の雰囲気と比較しながら聴くのも、落語を聴く楽しみなのかもしれませんね。「地獄」は、米団治からもらったとか。米団治の「地獄」は、覚えているだけで2回聴いています。2回とも繁昌亭でのことですが、1回が襲名披露のときです、もう1回が、米朝追善落語会(だったはず?)が「彦八まつり」であった週の繁昌亭でのことです。後者は、繁昌亭が沸き返った口演で、強く印象に残っているのですが、そのときのテキストをもらったのじゃないかな。ですから、かなり米団治テイストのする口演となりました。先日の繁昌亭での林家の会で出した(半分の口演)ようですが、長さを考えると、口演機会が少ないですから、通しでの口演は初めてかもしれません。マツコ・デラックスのくすぐりなんかは、さわりだけ入れたり、地獄の落語会などはいじったりと、米団治版を、自分の寸法に合うように調節をしていたようです。何年かして、また聴く機会があれば、お色直しが進んでるのでしょうね。また、そういったネタでもありますからね。くすぐりのヒットの度合いは様々でしたが、受けがイマイチだと、それをネタにしてくすぐりを入れるといった具合で、楽しい口演でした。日曜日の昼間に「地獄」が出たからでしょうか、大変な盛況。いい昼下がりでした。


2019年 5月 11日(土)午後 10時 10分

 今日は二部制の日。旅行が近づいてきて、京阪電車の定期券もなくなったため、近場である2つのお出かけ先を、1日にまとめたために生まれた二部制です。昼間に公開講座を聴きに行き、夕方からは映画を観てまいりました。まず、昼間は、烏丸四条角のビル内にある「仏教大学四条センター」へ。久しぶりに行ったので、ちょっと入口を間違いはしたのですが、程よい時間帯に到着。今日は、こちらで、「浄土宗総本山知恩院提供講座 おてつぎ文化講座」と題した公開講座がありました。アーバンウォーキングをしていて、偶然に見つけたもの。回数が第626回という半端ではない数字でしたから、気づくのが遅すぎますね。今日は、「京都洛中のお酒造りと食文化」と題して、佐々木酒造株式会社代表取締役の佐々木晃さんのお話を伺うことができました。佐々木さんは、俳優の佐々木蔵之介さんの実弟に当たられる方です。導入では、三男でありながら、家業を継ぐに至った事情を話されていました。次兄の蔵之介さんが継ぐはずのところが、ご自身に回ってきたお話は、掴みとしては抜群。黄紺ですら知っている著名な俳優さんが出てくるわけですから、知ってはいた話でしたが、完全に耳がダンボになってしまいました。京都の酒蔵と言えば、伏見が有名ですが、佐々木家は洛中で酒造りをされており、秀吉が作ったお土居内では、現存する唯一の酒蔵だそうです。現在伏見の酒蔵として有名なところの内でも、招徳のように、元は洛中の酒蔵もあるそうで、確かに、北野天満宮の歴史をテーマにしたシンポジウムでも、それに関連した話が出ていたのを覚えています。京都の底は、大変な水瓶だそうで、水系も幾つかあるようで、水がたっぷりとある上に、肝心の米が、全国から集まる土地であったことから、選り取りで、いい米を得られたことが、酒造りを促したようです。ただ、1972年をピークに、日本酒の消費量は下降線を辿った上に、米造りは寒の仕事。ちょうど今頃を最後に、酒の生産をしない季節に入っていく季節労働。そのため、酒造りから撤退されていく酒蔵は後を絶たず、今日の事態になっていったようで、これは、早くから想定されていたこと。大学時代の友人に、地方の酒蔵の息子がいたので、もう、その時分から深刻な問題として、随分と聞いてきたものでした。労働力を年間通じて確保することで、酒造りに支障をきたさないようにすると、夏場は仕事がないことになってしまうのを活用して、新商品の開発に向かうのが、酒蔵の方向性なようで、地ビールなどの商品開発がなされていった背景が、その点にあるようです。佐々木さんのところでは、どのような対策がなされたのか、そのあたりは、新商品の紹介にもなりましたが、その背景を考えると、大変な課題を抱える業界だということが、よく判りました。お話のお上手な方で、また、穏やかそうなお人柄が出た、とっても楽しい講演でした。1つだけ困ったのは、知恩院の主催ということで、開演前に、お経を唱えさせられること。信仰心のない黄紺には、なかなか辛いことでしたが、そのあとのお話が素晴らしく、いつしか、そないなことが冒頭にあったことも忘れることができました。主催者には申し訳ないのですが、これだけは仕方ありません。
 会場を出るとすぐに、夕方から行く京都シネマがあるので、映画のチケットだけを購入。30度にもなろうかという気温だったからでしょうね、年配の方たちだけではなく、若い人たちも、京都シネマの入っているビルに、避暑に入っている人たちが多数。映画まで時間があるので、黄紺も、それならばと、その避難組に合流させていただきました。だって、映画まで3時間もあったのですから、ウォーキングだけでは体が持ちません。小1時間、避暑をしてから、買い物を兼ねてウォーキング。でも暑すぎるので、カフェモンタージュ近くまで来て、さる公園で、しばし佇んでいることにしました。そして、再び、京都シネマへ。こちらで、今日は、ドイツ映画「希望の灯り」を観てまいりました。ベルリンの壁崩壊後の東ドイツを舞台にした映画だという、その設定にそそられて行くことに決めたのでした。ただ、そういった設定だということが、なかなか語られない。何やらわけありそうな雰囲気は、十分すぎるほど滲み出てはいるのですが、はっきりさせずに進行。舞台は、巨大マーケット。インテリアを廃し、ものだけが詰まれているマーケット。そこに商品を補充する仕事に携わる従業員たちが登場人物。ドイツ統一後の東独地域の物語ということが、ようやく終盤に明らかになり、この巨大マーケットが、統一後、なだれのように押し寄せた資本主義の象徴のように、黄紺の目には映りました。それを下支えする労働者、それを象徴するのが登場人物たち。何やら翳りを持つ寡黙なクリスティアン、統一により職を失い、恐らく収入の落ち込みから妻との別れもあったのかもしれません、最後まで、自らの生活を語らないまま逝ってしまうブルーノ。でも、ブルーノの眼差しには温もりがあり、謂れのありそうなクリスティアンを見守っています。その最後の言葉は、クリスティアンの未来の、間違いない希望の灯りになるはずです。そのクリスティアンが仄かな恋心を抱く既婚者マリオンは、DVに悩まされている。この二人には、お互いの傷をなめ合うように、お互いの存在が、生きる糧になっていきそうです。巨大社会の巨大なうねりの中で、置き去りにされた人たちの、生きる懸命さに偽りのないところに、強く惹かれてしまう映画です。欲望の塊を象徴するかのような巨大マーケットには見えてこない、打ち捨てられたかのような人たちの、鬱屈とはしていても、仄かな希望のある、素敵な映画です。多くの人に観てもらいたい映画に入る、優れものです。


2019年 5月 10日(金)午後 9時 27分

 今日は休日。2回のウォーキングついでに、飛行機内で着る薄手の長袖上着を買った日。今まで重宝していたものが、重宝過ぎて、使い過ぎで、チャックに異変が出てしまい、旅行中に使えなくなっては困るということで、購入したというわけです。手頃なものが簡単に見つかり、旅行前に気になっていたことが、あっさりと解決しました。これでいいかと思った途端、ユーロの補充をしていないことに、気がつきました。まだ、時間があるので、忘れないようにしなければなりません。旅行情報の収集も、ほぼ終わっているので、あとは出発を待つだけという感じですね。


2019年 5月 9日(木)午後 8時 38分

 今日は、友人に誘われて、洛西竹林公園と大原野神社に行ってまいりました。お天気は曇りがちで、気温が上がらなかったのは助かりましたが、太陽に輝く新緑の風景を見ることは、残念ながら無理でした。竹林公園は、竹林の山を宅地造成のために削り取った山頂部といった位置にありました。入口に向かう小路は、住宅を抜けて行くもの。さほど広いスペースではないのですが、たまたま、職員の方に、竹についての講釈を伺うことができたため、目に入る竹が、黄紺の目には違って見えました。自然の力って、なかなかのものがあり、思いもよらない不思議な竹を産み出してくれます。大原野神社は、勝持寺の近く。勝持寺は、確か2回ほど行ったはずですが、こちらは、いつもスルーをしていたものですから、散策地に入り、にっこりの黄紺。以前は、勝持寺まで行くバスがあったので、大原野神社横付けで行くことができたのですが、今日は、手前の春日町というバス停から歩いて行くことになりました。神社内にあった説明板から、「春日」という呼称は、この神社を、藤原氏が勧請したからだということを知りました。勉強になりました。境内は、思いの外広く、紅葉がいっぱい。「緑の紅葉」というキャッチコピーを見かけたことがありますが、正にそれ。陽の光があれば、一層、映えた景色を見ることができたのでしょうね。今日は、この2ヶ所で切り上げました。かつては、京都の果ての果てだったはずの大原野神社界隈は、古い落ち着いた風景が残りますが、帰りのバスに乗ると、あっさりとニュータウンに取り込まれてしまいました。これは、やっぱ、悲しい。あっという間に、日常空間に立ち戻りですものね。そんなで半日の郊外散策は暮れていきました。


2019年 5月 8日(水)午後 7時 44分

 今日は、家の用事でお出かけをしただけの日。その用事というのが、ど真ん中もど真ん中の四条河原町であったため、お出かけついでに、ウォーキングがてら、京都府立文化芸術会館に、さるチケットを買いに行くことに。真っ昼間だったため、気温が急上昇。ここ3日間は、昼夜の気温の上下が半端ではありません。昨夜などは、炬燵ばかりかストーブまで点けてしまいました。20年程前にオルドゥに、夏に行ったときが半端でない上下があったのを、ホテルジが、「1日に四季全部がある」と言ってたのを思い出したほどの極端さです。その暑い昼間に、ウォーキングがてらの歩いての移動。暑いからかなのかなぁ、真っ昼間は外国人観光客も少な目なような気がしました。文化芸術会館まで来たのだからと、久しぶりに御所の中を、かするように歩いてみたのですが、御所は砂利が敷き詰めてあるものだから歩きにくい。昨日から、ウォーキングのやり過ぎなのか、足の裏に豆ができていて、歩きにくいったらありゃしませんでした。明日、郊外散策に誘われているのですが、豆は、結果的に大きくなってしまい、えらいこってす。足に優しい古い靴を履いて出てくるべきだったと思っても、手遅れでした。アーバンウォーキングをしていると、最近、貼り紙を気にしながら歩く癖がついています。市の掲示板などに、様々な催しの貼り紙があるからです。ドイツは、コンサート情報などを、やたら多い貼り紙から仕入れることができますが、日本的感覚からは、「街の美化」なんて言葉で、そんなのがない替わりに、ということは数は少ないのですが、市の掲示板や自宅の表に貼ってあり、それが、なかなか有り難い。今日も、同志社大学構内で、一般向けの映画会があるというのを見つけ、早速、画像に残しておきました。京都は、百万都市だけあり、黄紺の住んでる辺りと違った情報が、地域ごとに流れているので、こうしたアーバンウォーキングをしているときっていうのが、格好の情報収集となってしまってます。良さげなお店も覚えますしね。今日も、1軒、タイの街角風味たっぷりのレストランを見つけてしまいました。最後は、いつもカフェモンタージュからの帰途に利用する道筋を通り、ウォーキングを切り上げることになりました。


2019年 5月 7日(火)午後 11時 5分

 今日は落語を聴く日。ツギハギ荘で行われている「南天 雀喜の奉祝!令和落語会」の最終日に行ってまいりました。黄紺は、この7日連続の会を2回行くことにしたのですが、今日は、その2回目になります。予約を入れると、折り返し、整理番号をいただけるのですが、前回分と同時に申込みを送ったのですが、いただいた整理番号は、今日の方が、結構遅いものになっていました。その番組は、次のようなものでした。二葉 「近日息子」、南天 「夢八」、雀喜 「特撮ヒーロー大戦」、(中入り)、ねこまんま(南天&雀喜)「桂雀喜バースデー漫才」。この7日間の前座役の噺家さんは、それこそ選んだなという顔ぶれ。その中でも、一番聴いてみたかったのが、二葉の「近日息子」。最近ネタ下ろしをしたという情報を得ていたため、この機会にとの思惑もあり、2/7の1つに入れたのでした。「近日息子」のハイライトは、言うまでもなく、しょうもないこと言いの男にぶち切れていくところ。ただ、テンションのクレッシェンドの調整が、なかなか難しい。特に二葉は、声に特徴がある分、なかなか大変だろうと思っていたのですが、乗り越えていくものですね。声のクレッシェンドで、そのかげんを着けにくいとみたのか、勢い、それに目力を効かしていました。目がすわっていくから、凄いわぁ。この人、状況把握に動物的な勘を発揮するのでしょうね。今日の南天は「夢八」、ネタに入った途端、高津で聴いたときの展開、思い出しました。八兵衛の夢見の事例に山羊が出てくるのを。まわりくどい話は省き、これだけで、八兵衛のらしさが判りますものね。夢見の失敗だけではなく、八兵衛の人柄が、あっという間に聴く者の頭に出来上がります。こういった見極め、ホント、南天はうまい。ここで掴めば、ありそうではないけれど、落語的にはあるある展開が、すんなり入ってきます。雀喜の方は、この前聴いたとき同様、弾けまくっていました。子ども番組として、かつて流れていたヒーローものに関する蘊蓄を語ったあと、今日のテーマとなる戦隊ものへ、蘊蓄もシフト。そして、ゴレンジャーものを模した噺に突入。そして、お約束の大型ロボットが出てくると合体技が登場という段取り。いや~、気合いの入った高座。雀喜の新作ものが一皮向けたなの印象がしました。中入りを挟み、二人の漫才。久しぶりのねこまんま。今日が、雀喜の誕生日だということで、それをネタに。漫才が終わると、サプライズで、二葉がケーキを持って登場。会場全体で、雀喜50歳をお祝いしました。連休明けの今日まで、この連続落語会があったのは、今日が雀喜の誕生日だったからだそうです。南天の心づかいです。


2019年 5月 6日(月)午後 7時 57分

 今日は博物館に行く日。かねてから狙いの民族学博物館で行われている特別展「子ども/おもちゃの博覧会」に行ってまいりました。かなりアクセスが悪いため、せめて京阪電車の定期券がある内にということで、今日行くことにしたのでした。特別展は、「おもちゃ」という括りでしたが、日本限定、しかも、ほとんどが明治以降のものが展示されていました。大阪府所蔵品が、数年前に民博に移管されたものを中心に展示すると、冒頭に出てましたから、その縛りがあったのかなと考えてしまいました。ただ、おもちゃも、時代を反映するものであるには変わりなく、同じおもちゃでも、デザインや材質、そうしたものに如実に反映されていました。展示をされた方の聡明さを感じたのは、カルタ、メンコ、双六といったおもちゃを繰り返し、展示されていたことです。一見、代わり映えがしないように見えますが、時系列に観るには、同じものを通して展示してもらうと、時代時代の特徴を認識しやすくなります。1階が戦時中のものまで、2階に移ると、一挙に華やかさが増す戦後のおもちゃ。マスメディアの発達、高度経済成長に伴う消費の拡大が、おもちゃの世界に多彩さをもたらしたことなんでしょうね。そんなで、日本では、あまり行かない博物館に、GW期間中に2回も行くという、黄紺的には画期的なことをしてしまいましたが、民博の特別展に行く楽しみは、1つのチケットで常設展も観ることができること。この間にリニューアルされたコーナーを入口で尋ねて、そのときおりの企画展とともに楽しみます。アイヌ関係が最新と伺ったので、そちらと企画展「南アジアの楽器」が、それらに該当したのですが、特別展を観たあとは、やはり腰が悲鳴をあげていましたから、ちょっと流し気味に観て、あとは視聴覚資料を観ることにしました。これは、入場料を払わなくても観ることができるのですが、腰の状態に鑑みると、こちらを回るのが賢明。西インド関係の映像がほとんどと、あとは、1つだけ、中国の客家関係のものを観ただけで、閉館のお知らせ放送が入ってしまいました。時間は1時間半もあったのに、僅かしか観れないのです、毎回。民博の外に出ると、えらく気温は下がってる上に雨。モノレールの「摂津」駅まで、今日はウォーキングをするつもりだったのが、あっさりと撤回。民博に来ると、傘の持ち合わせのないときに、雨に遭うことが多いような、、、。えぐい思い出があるから、そう思っているだけかもしれませんが。


2019年 5月 5日(日)午後 9時 26分

 今日は、息子の家へ行く心づもりをしていたところ、朝になり、息子の方が出かけて来ることになったため、事実上、休日が続きました。何かの用事が、京都であるのだろうと思っていたところ、電車大好きのDとともに現れて、びっくり。久しぶりにDと会ったのですが、お話ができるようになっていて、これにもびっくり。誰かに教えこまれたことを言っているのではなく、自分の言葉になっているものですから、対話になります。ベルリンの熊を渡してなかったので、渡す際に、「これ、何か判る」って尋ねると「熊さん」、、、これが、黄紺の聞いた記念すべき最初の言葉になりました。手先の不自由な黄紺に替わって、息子が、Dのリュックにつないでくれました。ごく小さな熊のぬいぐるみですが、Dのリュックに繋がると、えらく大きく見えました。ちょうど、近くを祭の神輿が通るので見に行きましたが、Dの目には、どのように映ったのでしょうか。そんなことよりか、大好きな電車に、Dの頭の中は占領されているものと思われます。今日の変化はそれだけ。あとは、日に2回のウォーキング。この夕方の部が心地良くて。おそらく1年で1番いい気候の日だったんじゃないかな、今日は。


2019年 5月 4日(土)午後 7時 48分

 黄紺には、ほぼ関係ありませんが、世間はGW終盤。GW中に、息子に会わねばならないのに、その息子と連絡がつかない。GW明けにしなければならないことの準備をする手はずなのに、連絡が来ない。おかしいと思ってたら、ノロウイルスでダウンをしてました。GW終盤に入って来ていたので、気をもんでいたことが解決して、胸をなで下ろしているところ。そんなこともありましたが、今日は休日。気がつくと、1日2回のウォーキングで、計2万2千歩以上歩いてました。


2019年 5月 3日(金)午後 7時 24分

 今日は博物館に行く日。ピースおおさかで、特別展「カティンの森事件~22,000人のポーランド人将校の行方~」が行われていることを、たまたま知り、このGW期間中の楽しみにしてあったものです。ピースおおさかの展示には、政治的な意向が反映しているとかの議論があるようですが、この特別展の企画は、これはこれで大事なものかと思い、政治的な議論には、わりかしルーズな黄紺は、あっさりと行くことを決めた次第です。常設展も観ることができるという案内を受けたため、入口階にある常設展から観ることに。この常設展が、特別展「大阪と戦争」というものなら、ある程度、楽しめる、もちろん優れものという意味ですが、そうじゃないですから、やはり巷間言われているように、一定、政治的な判断が入ったとしか言えないものでした。黄紺の横では、外国の方(欧米系の方かな?)が展示を観ておられたから、余計に、そのように感じたのかもしれません。元々、展示スペースが広いとは言えませんから、特別展をしてる場合じゃないだろ、もっと展示することってあるだろとも思ってしまったのですが、特別展は特別展で、大事なテーマであることには変わりがあるはずではありません。何で、この時期にという疑問は、あっさりと解決しました。日本とポーランド修好のアニヴァーサリーの年に当たるからのようでした。ただ、この関係の展示品を、当博物館が持っているわけではありませんから、展示は、この虐殺事件の概要を、パネルで示すに留まるものでした。博物館のあるスペースには、小学校の平和学習で、この博物館を訪れた生徒さんが残した壁新聞が残されていましたが、はてさて、そうした生徒さんに、これだけの展示で、カチンの森事件が理解できるのか、いや、難しいやろというのが、黄紺の率直な感想でした。でも、カチンの森をテーマにした展示があるというだけでも、意味はあるのでしょうね。


2019年 5月 2日(木)午後 11時 50分

 今日は落語を聴く日。ツギハギ荘で、昨日から7日連続で行われている「南天 雀喜の奉祝!令和落語会」の2日目に行ってまいりました。黄紺は、1週間の内、今日を含めて2回おじゃますることになっています。で、今日の番組は、次のようなものでした。治門「書割盗人」、雀喜 「仮面ライダーなにわ 道頓堀編」、南天「たいこ医者」、南天&雀喜「新型大喜利 バ行で表せ!」。満員の盛況、ま、この2人が、ツギハギ荘で会を持つと、そうなりますわね。やはり、ツギハギ荘が満杯というのは息苦しく、予約を入れたのは間違いかと、開演前は、正直、不安な気持ちになりました。2/7の予約ですから、我慢しなきゃ、です。治門は、マクラでGWの思い出。可笑しくもあり、怖くもありの経験談でした。治門の高座って、考えてみれば、久しぶり。相変わらず、安定した口演。もっと評価されていい噺家さんですよね。下げの直前からオリジナルなものに。槍を、盗人が奪い取り、家人を突き刺すドタバタにして、すると隣人でもある甚平衛さんが飛び込んで来て、「静めたつもり」という、ちょっとひねった下げになっていました。雀喜 の「仮面ライダーなにわ」は、「客寄席熊猫」で聴いているもの。マクラで、「仮面ライダー」についての蘊蓄が語られたのも聴いた記憶が蘇ってきました。そのときは「道頓堀編」だったかどうかの記憶は曖昧。でも、雀喜のテンションの高さは、何倍にもなっていました。凄まじいばかりと言っていいもの。スマホとミニスピーカーを使い、効果音が入ります。そのタイミングが絶妙なため、あとから上がった南天曰く、「家で稽古したんでしょうね」「あれで、女子大生の子どもがいます」と、茶々を入れることを忘れませんでしたが、雀喜の新作ものの進化を目の当たりして、正直、びっくりさせられました。南天の「たいこ医者」は、確か高津で遭遇したのですが、早々に居眠りをしたため、このネタが「死神」だということを、すっかり失念していました。東京ものと違い、主人公は幇間という設定。噺の流れは、東京ものと同じです。最後は、死神自身が、蝋燭の火を吹き消すというのが下げになっていました。また、主人公が幇間ですから、その男が失職し金に困るようになる経緯が、おもしろく描かれていました。南天のらしさが出てくる格好の設定ではないでしょうか。最後は、2人が、前に出てのお遊びコーナー。母音は変えずに、子音部だけをバ行に変えた言葉や文を当てるお遊びでしたが、黄紺には、さっぱり分かりませんでした。でも、勘のいい方、多いですね。


2019年 5月 1日(水)午後 10時 16分

 今日は、友人に誘ってもらい食事に出かけた日。たまたま見つけていたマレーシア料理を看板に出すレストランに行ってまいりました。そもそも、マレーシアでは、屋台系の店かインド料理店くらいにしか入らないため、こういったまともなレストランで出てくる料理が、正統マレーシア料理なのかが判定つかない黄紺。でも、それはそれとして、出てきたお品はおいしくいただけました。ニョニャ料理って、こういうのを言うのかなと思えるものにも遭遇。最後は、黄紺的マレーシアの最たるものとして、コピアイスで締めることができ、大満足。いい時間を持つことができました。


2019年 4月 30日(火)午後 9時 47分

 今日は、お出かけ予定が、急遽中止。普通の休日になりました。そのため、午前中は、今度、ポーランドで観るミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」の予習。1回目観たときは、アメリカものの香りが強すぎて、馴染みにくかった作品だったのですが、2回目となる今回の視聴は、作品に入り込むことができました。ウクライナの物語ですから、その隣で観る、ましてや、ポーランド国籍を持つユダヤ人が多かったことから、一入、大きな問題になりますから、そこで観ることに価値があると思っていますので、何か発見があるかもしれないという、そないな気持ちで観てこようかと思ってます。あとは、普通の休日同様、昼間と夕方のウォーキングは、いつも通り。今日で、GW4日目になりますが、この4日間で、最もGWを肌で感じたのは、昨日、ジャンジャン横丁を歩いたときだけ。この分だと、ほぼGWを体感しない内に過ぎていく模様です。


2019年 4月 29日(月)午後 11時 4分

 今日は落語を聴く日。動楽亭であった「染吉っとんの会~林家染吉落語勉強会 vol.34」に行ってまいりました。なかなか、黄紺のスケジュールと合わなくて行けてなかった会。ちょっと間が空いたお出かけとなりました。その番組は、次のようなものでした。染吉「三人旅~浮かれの尼買い」、三実「メニエール」、染吉「粗忽長屋」、(中入り)、染吉「立ち切れ線香」。GWからでしょうか、いつもより多めの入り。周囲のジャンジャン横丁は、半端でない人出ですから、こちらへのおこぼれがあったかもしれません。ゲスト枠の三実を前座に置こうかと考えたけれど、三実の新作の質が高いから前座にするには勿体ない、これは、三実のあとに上がったときの染吉の弁。確かに、三実の着想は、今までにない材料や展開を持ちます。今日のネタも、難病患者ばかりが集う病棟。でも、その内の3人の仲間は、難病とは関係ない亡くなり方をして、主人公だけが生き残っていき、、、という展開。素材の斬新さが際立ってました。染吉は、今日も頑張りました。毎回、ネタ下ろしをしていますが、今日は、「粗忽長屋」がそれに該当。雀太にもらったそうです。マクラで、その雀太の「粗忽長屋」の素晴らしいところを一くさり喋ってくれました。東京からの移入ネタですが、東京ネタに入ってるくすぐりを、一切カットして、筋立ての可笑しさだけを追及したものだそうです。雀太の口演は、その筋立てと雀太の個性が加味されて、爆笑ネタに仕上がっているわけですが、それは言い換えると、人に合ったネタだから、そして、雀太の技量があったればこそ可能となったと言えます。となると、少なくとも、このネタが染吉の人に合ってるかというと、どう贔屓目に見ても、合ってるとは思えないのです。「難しいネタです」と呟いてから、ネタに入りましたが、自己解体からして臨まないとダメでしょうから、染吉には半端じゃない難物ネタだと思います。同じく「三人旅」も人に合ってるとは言い難いもの。典型的な笑福亭のネタです。粗っぽさ、豪快さ、野放図さこそが、ネタを活性化させようかというものへのチャレンジ精神は買いますが、また、人に合ったネタを活かす訓練のような感じでのチャレンジなら、買いたいと思います。でも、まだ、「三人旅」の方が、染吉にはソフトでしょう。なお、今日の「三人旅」は、現在、生喬でしか聴いたことのない後半部も入れたものでした。そういった長い口演になるからでしょうか、前半部で刈り込みが行われました。今日のネタで、一番染吉向きのネタが「立ち切れ」。序盤の定吉の喋りで、正に証明できていたと思うのですが、ただ、ここで、台詞飛ばしが出てしまいました。親戚は3人いて、その3人が、各自、若旦那の扱いを出すのですが、それを1つ飛ばしてしまったために、今度は、若旦那が座敷に踏み込んだときには、親戚に文句が言えず、更に変調。乞食の衣装やアイテムの準備なども吹っ飛び、あっという間に座敷牢に入ってしまった若旦那でした。ここの重さが曖昧になったことは、噺のしまりが悪くなった雰囲気。噺全体に影響しちゃったんじゃないかな。染吉のことですから、稽古につぐ稽古をしたことでしょうから、やはり場数なんでしょうね。「立ち切れ」なんて、自分の勉強会でしか、染吉のキャリアではできないでしょうし、これも、染吉自身が言っていたことですが、「三人旅」は、場所を選んでしまいますから、稽古は積んでも場数が踏めないもどかしさがあります。持ちネタにしても、練り上げるのが大変なネタっていうやつでしょう。でも、染吉の果敢な挑戦は爽やかさがあります。だから、足を運ぶのでしょうね。


2019年 4月 28日(日)午後 10時 12分

 今日は文楽を観る日。既に、第1部の「忠臣蔵」は観ていますから、今日は第2部の方でした。その番組は、次のようなものでした。「祇園祭礼信仰記~金閣寺の段、爪先鼠の段~」「近頃河原の達引~四条河原の段、堀川猿廻しの段~」。「祇園祭礼信仰記」は、知恵者秀吉を印象づける秀吉の活躍譚。足利将軍を廃嫡して天下を狙う松永大膳に対し、信長を見限ったとして、大膳の下に身を寄せ、そこに捕らわれている足利将軍所縁の人たちの救出に向かう秀吉。その所縁の人物の一人が雪姫。その雪姫も得て、権力と女も手に入れようというヒールとして松永大膳は描かれていきます。金閣寺の段では、大膳と秀吉が囲碁をすることで腹を探りあったり、爪先鼠の段では、雪姫が桜の花びらでネズミを描くと、そのネズミに生が吹き込まれ、雪姫を縛る縄を噛みきり助けるという名場面が用意されています。そして、何よりも目を惹き付けるのが、秀吉が桜の木を登り、金閣寺の上の階に上がったり下りたりする場面。金閣寺の作り物などを上下させることで、秀吉が木を登る姿、下りる姿を見せる大がかりな装置が、目を惹きます。筋立てでは、無理っぽいと思われるものですが、文楽では、この程度は軽いもの。次の「近頃河原の達引」は、落語「堀川」の基になった出し物ですから、落語ファン垂涎のもの。横恋慕をする悪人横淵官左衛門を斬ってしまった伝兵衛が、遊女おしゅんの実家を訪ねてきます。おしゅんが身を寄せる実家には、盲目の母親と猿回しで無筆の兄与次郎がいます。兄と母親は、伝兵衛が訪ねてきたらと、おしゅんに去り状を書かせますが、おしゅんは伝兵衛とともに死ぬ誓いを認めます。字の読めない母親と兄は安心して、実際に伝兵衛が訪ねて来たときに、それを見せますが、固い絆が認められていることが、逆に判り、母親は二人に祝言をさせ生き延びることを求めるというもので、その仮初めの祝唄として出てくるのが、落語「堀川」で使われている浄瑠璃です。兄が猿に芸をさせて祝うという形を取ります。落語でも唄われる通り、浄瑠璃としては、かなり異質のメロディですから、有名になったでしょうし、かなりの難物。落語「堀川」を下げまでやりきる噺家さんが少ないはずです。この文楽、筋立てはかなりシビア。でも、与次郎というチャリを入れる、この着想って、素晴らしいですね。それにより、兄の、そして、傍らの母親の、妹や娘に対する気持ちの純な感じが倍加しているように思えました。猿回しのかわいい猿2匹もいいですね。狂言「靱猿」に通じる癒しです。兄のチャリといい組み合わせです。第1部では「忠臣蔵」と、4月公演は、落語ファン必須の演目が並んだものです。昨秋の公演では、「蘆屋道満大内鑑」と「桂川連理柵」が並んで出したりと、落語ファンをターゲットにしているとしか思えない番組作りが続いています。


2019年 4月 27日(土)午後 8時 43分

 今日は、びわ湖ホールであった「びわ湖クラシック音楽祭」に行く日。1時間未満のコンサートが幾つも用意されているのですが、黄紺は、1日2つと決め、時間的に離れているときなどは、さっさと諦めることにしています。有名どころが数多く出演されていますから、目移りして仕方がないのですが、節操というものもあるだろうと考え、そういった方針を採っています。従って、明日もあるのですが、思い通りのピックアップは無理と判断し、あっさりと行かないという選択をしました。で、今日は、次の2つのコンサートをピックアップしました。①葵トリオ〈小川響子(ヴァイオリン),伊東 裕(チェロ),秋元孝介(ピアノ)〉②沼尻竜典オペラセレクション プーランク作曲 歌劇『声』 (全1幕/演奏会形式)。まず、①ですが、「第67回ミュンヘン国際音楽コンクール1位」という堂々たる肩書きを付けての登場です。プログラムは次の2曲。「ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第5番”幽霊“ ニ長調 op.70-1」「マルティヌー:ピアノ三重奏曲第3番ハ長調 H.332」。このトリオ、ミュンヘンの覇者の看板は偽りではありませんでした。「何という才能」、これは、先週、同じミュンヘンの覇者河村尚子の演奏を聴いたときに、自然と口をついて出てきた言葉でしたが、僅か1週間で、再び、この言葉を口にするとは、ホント、ミュンヘンの覇者は本物です。3人が3人、個性が爆発、変幻自在、音楽に合わせて、自らの音を紡ぎます。ピアノの秋元さんは3回目ですから、もう実力は判っていたのですが、この人の多彩な音、なかでも高音が素晴らしい。これは、初めて聴いたカフェモンタージュで驚かされたこと。あとの2人は初遭遇。始まった途端、伊藤さんの音は歌ってました。チェロは、本当に多才な奏者を、次から次へと輩出します。そして、小川さんのヴァイオリンは、マルテイマヌーで大爆発でした。この人の力強い音色は魅力的でした。三者三様、素晴らしい才能の持ち主の上に、このトリオのいいのは、他の奏者の音を、とってもよく聴いているところ。こんなに聴いているアンサンブルってなかったと思えるほど、精緻のアンサンブルに超脱帽でした。①が終わると、黄紺は、暫し休憩。外が寒すぎるため、ロビーで待機。次の②はオペラ。「沼尻竜典オペラセレクション」と副題が付いているのですが、これは、今年度中に、びわ湖ホールがリニューアル工事に入るために、夏や秋に、この名の公演が行えないということで、今回の音楽祭に組み込まれたもの。キャストなどは、次のようなものでした。(ソプラノ)石橋栄美、(舞台構成)中村敬一、沼尻竜典指揮京都市交響楽団。当初は、砂川涼子の出演でしたが、キャンセルということで、急遽、石橋さんの出演となったようです。黄紺には、このキャンセルが、日本まで付きまとうようですが、びわ湖ホールからチケットを買ったということで、同ホールから、事前にメールで連絡がありました。この辺は、いかにも日本らしいですね。肝心のプーランクのオペラは、今回の公演があるまで、存在すら知らなかった作品。1幕もので、登場人物1人、上演時間は1時間に満たないということで、この音楽祭の尺に合うということで選ばれたのでしょうが、実際聴いてみると、「カルメル会」で惚れ込んだ見事なプーランク・サウンド。「カルメル会」に似た和みのメロディも、度々流れますが、こちらも、ストーリーは重い。自分から去って行った男との最後の電話、今と違い、回線状況によっては切れてしまうということが起こったり、交換手が繋ぐ時代が舞台になっているため、繋ぎミスがあったりと、主人公の女にはイラつくことばかり。ただ、話は、それだけでも重いのですが、ラストが近づく、言い換えると、男との永遠の別れが迫ってくるという要素だけではなく、女は自死のために服毒してから、この電話をしているのだという、絶望的な空気が出てきて結末を迎えるというもの。プーランクの例の美しいメロディに乗せて、この重い物語が紡がれます。沼尻&京響の奏でる音楽に乗り、カヴァーだった石橋さんの歌唱がお見事。この人、既に知られた歌手ではあったと思いますが、この好演で名を上げるんじゃないかな。一人芝居のカヴァー、並大抵の人ができることではないはず。大拍手です。一応、演奏会形式の上演となってはいましたが、指揮台の傍らに、卓台とソファーを置き、その周囲のスペースを使い演技をしながらの上演となりました。背後の壁板の操作が入っていたのに、途中で気づき、その意味なるものを考察する機会を逸したのは、不徳の致すところでした。また、顔馴染みのない演目だったからでしょうね、せっかくの上演にも拘わらず、入りが良くなかったですね。周りには、人が溢れてたというのにと思うと、何とも言えないな、ホント。


2019年 4月 26日(金)午後 10時 39分

 今日は講談を聴く日。千日亭であった恒例の「南湖の会~赤穂義士外伝特集~」に行ってまいりました。今日読まれたのは、次のようなものでした。「空手家一代記」「大石の介錯人小田小衛門」「もしも犬糞なかりせば」「修羅場読み(太閤記)」。今日は、おもしろい試みが2つ。1つは、営業用の創作講談のお稽古。ネタ下ろしでもある「空手家一代」。具体的に名前まで入ってましたが、個人名になるので伏せておきます。もう1つは、来週だかに予定されている東京での田辺凌鶴さんとの二人会で試みる「リクエスト講談」を、大阪でもやってみたというもの。これは、予め提示された20の自作講談から、客席からのリクエストの最多得票ものを口演しようというもの。黄紺は、以前より南湖講談ベスト2と思っていた「おっぱい豆腐」と「荒波のダッチワイフ」を書いたのですが、外れてしまいました。でも、後藤一山のスピンオフものは、南海さんも書いておられますが、いずれもいい出来で、おもしろさを感じます。南湖さんの作品は、明治時代の三陸津波も取り入れたスケールの大きな読み物になっている上に、落語のパロディが盛り込まれており、落語から生まれたヒーロー講釈師を扱った読み物らしくなっています。もう1つは、この間続いてきた「赤穂義士外伝」からの抜き読み。今日のネタは、南海さんが「荒川十太夫」として、大石ではなく堀部安兵衛の介錯人の読み物とされているもの。そのことにも、読み終わったあと、南湖さんは触れられはしたのですが、同門でありながら、なぜ、こういった違いが生まれたのかは伺うことができませんでした。物語は、誰の介錯かは別にして、介錯人が、自らの身分の低さを、介錯直前に触れずに、切腹する義士の名誉を考え、嘘の身分を伝えたことの苦悩を描くもの。これも、よくできた話です。「赤穂義士」ものは、今でも、こうやって口演の機会を得る作品は、ホント、よくできています。名作揃いです。そして、最後は、いつものように、台本を見ながらの「修羅場読み」。今日は、もう1席用意されていたようですが、リクエストの対象になる新作講談20席の寸評をされたため、時間がなくなり、割愛となりました。


2019年 4月 25日(木)午後 7時 11分

 今日は、高槻現代劇場であった「茂山一族デラックス狂言会 プレイベント 新・千之丞さんが語る~襲名から見えること~」に行く予定にしていたのですが、黄紺の勘違いからボツになりました。というのは、チケットは、現地引き取りと勘違いしてしまい、既にコンビニで発券済みのチケットを持たずに出て、長岡天神駅まで来て、その勘違いに気づき、あえなく引き返さざるをえなくなったのです。最近、チケットの買い間違いを起こしてなかったと思っていたところに、このヘマです。しかも、数日前には、今日のチケットについて、メモを確認したにも拘わらず、そのメモを読み間違っていたのでした。今日、長岡天神駅の手前で、再度、確認をとったところ、すぐにミスに気づいたのですから、数日前の確認は何だったのでしょうかね。正に、自分が信じられない気持ちです。結局、京都市内へと戻り、街中ウォーキングをしたのが、今日やったことになりました。


2019年 4月 25日(木)午前 0時 48分

 今日は、一昨年の4月に亡くなった元同僚の遺作展を観に行く日。自分の時間を使い、描いた絵画を、生前にも見せてもらったことはあるのですが、この期間を通じて、亡くなったあと、奥さんらが遺品整理されるとともに、残された作品の展示を試みられたというわけです。今日は、元同僚と一緒に、3人連れで、西宮まで行ってまいりました。1度ならず、見せてもらった絵画に、こういった形で再会するというのは、まことに複雑な気持ちです。でも、その絵を観ながら、同じ時間、同じ空間を、かつてともにした人たちと共有できる有り難さを噛み締めました。これも、亡くなった人の功徳かなと思うと、自然と感謝の気持ちが沸いてきました。せっかくの機会とばかりに、帰途、梅田の居酒屋で語り合いました。完全に時間は止まっていたのではという錯覚に陥っていました。ですから、こうして、思い出の時間に生きるということって、わりかし悪くはないとの認識に至りました。


2019年 4月 23日(火)午後 11時 50分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、そのものずばり、「世の終わりのための四重奏」と題されたコンサート。このメシアンの代表作1曲が演奏されました。その演奏は、(ヴァイオリン)泉原隆志、(クラリネット)上田希、(チェロ)上森祥平、(ピアノ)岸本雅美といった顔ぶれでのものでした。アンサンブルの編成が編成だけに、あまり聴く機会のない曲ですが、運が良いのか、昨年、クラリネットの小谷口さんが、自らの演奏会で出されたのに次いで、遭遇機会を得ました。しかも、関西を代表するクラリネット奏者上田さんでも聴けたというのは、とっても運の強いことだと思っています。それ以外では、恐らく聴いてないはずと思いつつ、かすかに、大阪だったかで聴いた記憶があるのですが、定かではありません。作曲された経緯が、今日も、前説として、オーナー氏からお話がありました。気になる表題が付いていながら、黄紺は調べようとしてなかったことが、あっさりと判明。かなりの絶望的な環境での作曲。宗教的なメッセージを孕むのは、そういったことかと納得。でも、そこは20世紀の作品。変化に満ちた、旧来の音楽にはない響きを展開してくれます。それを、どのように消化すればいいのかが解らない黄紺。だから、音の持つ、不可思議な響きを享受するのに終始した小1時間でした。今日は、前の席が空いていたことから、そこに座り、大失敗。いくら室内楽だからと言って、楽器は4つもあります。直前過ぎて、楽器間のバランスとかなんてのは、全く解らずじまいということでの大失敗、反省です。


2019年 4月 22日(月)午後 11時 38分

 今日は、千日亭で講談を聴く日。毎月恒例の「第261回旭堂南海の何回続く会?」に行ってまいりました。今日は、この間読まれてきた「釈迦御一代記(結)」を切り上げ、新たに「桂川力蔵(成田利生記)」なる読み物が始まりました。「釈迦御一代記」は、後継の地位を狙う弟子、それを見抜き、高弟を遣わし阻止に動く仏陀の物語が1つの大きな柱、次いで、今日が最終回ということは、仏陀の入滅が入ってきました。それに先立ち、仏陀の高弟たちの死の物語がありました。後継の地位を狙い、マガダ国の新しい王と組んだ弟子の動きの阻止に動いた高弟たちの死についてのものです。やがて、死期を悟った仏陀が、祇園精舎を出て故郷に戻ろうとする途中に亡くなります。沙羅双樹の意味が、初めて判りました。沙羅の木2本だから、「双樹」となる、なんてことはありません。漢字には意味があるのですから、字を見て意味を捉えればいいだけですね。その入滅まで、20年余に渡り、仏陀の傍らで世話をした弟子(阿難)が、第1回の仏典結集に大きな役割を果たします。阿難が聞いたことを基にして作られたということで、仏典に「如是我聞」の語句が頻繁に出てくることも知ることができました。「我」は「阿難」を指すと考えられているようです。めっちゃ勉強になりました。下手な講座を聴きに行くよりか勉強のなる講談です。この第1回仏典結集をもち、読み終わりとなりました。次いで「成田利生記」。存在すら知らない読み物です。「成田」は、有名な「成田山新勝寺」。「利生」は「ご利益」のことだそうで、要するに、新勝寺のご利益物語だそうです。幾つか、新勝寺のプロパガンダとなる読み物があるそうですが、桂川力蔵は相撲とり。その相撲とりがご利益に預かる物語となるはずです。この読み物についての解説、そして、そもそもの新勝寺の起源から読み物は始まり、いよいよ桂川力蔵の物語に入った途端、それまで順調に元気だったのですが、急に居眠り発生。さわりすら覚えてない不覚でした。来月は、既に旅行に出かけていますから、桂川力蔵の物語は解らないまま、お別れです。


2019年 4月 21日(日)午後 10時 23分

 今日も、ロームシアター京都で音楽を聴く日。今日も、連続的にコンサートが用意されていましたが、黄紺は、「河村尚子ピアノ・リサイタル~偉大なるベートーヴェン~」をチョイス。まだ聴いたことのなかった河村尚子さんの演奏を、ようやく聴くことができました。そのプログラムは、次のようなものでした。「 L.v.ベートーヴェン : ピアノ・ソナタ 第26番 変ホ長調 Op.81a “告別”」「L.v.ベートーヴェン : ピアノ・ソナタ 第27番 ホ短調 Op.90」 「L.v.ベートーヴェン : ピアノ・ソナタ 第29番 変ロ長調 Op.106 “ハンマークラヴィーア”」。高校時代の友人からお薦めをもらっていた河村さんのピアノ、びっくりしました。ホント、半端ない才能がほとばしり出ていました。今日は、会場で、昔の同僚や、先ほど書いた高校時代の友人とは、また違う高校時代の友人夫婦にも会ったりと、さすが、評判の高い人には群がってきます。高校時代の友人夫婦とは、家が近いこともあり、帰り道、今日の演奏について語り合いながら帰ったのですが、「演奏が始まった途端、びっくりした」「そういったピアノを選ばれたのかもしれないけど、音がクリアできれい」と言っていました。奥さんの方はピアノの専門家でもあるのですが、楽器を含めた演奏の演出の話をされていました。また、こないなことも、、、。「席の関係か、音が切れるのでクリアに聴こえた」、実は、この「音の切れ」、黄紺の座っていた席(友人夫婦の席とは違う)でもそうでした。とにかく3曲を通じて、様々なタッチを見せてくれましたが、その使い分けもあるでしょうが、黄紺的には、ペダルの巧みな使い方が、音を濁らせない、言い換えると、きれいな「音の切れ」を生み、クリアできれいな音を生んでいたように思いました。まるでアスリートのような身体機能に、内に秘めたる激しい情熱、優しさなど、素晴らしいものを聴くことができました。3曲の中では、1曲目で度肝を抜かれたこともあり、「告別」の印象が、一番強く残りました。


2019年 4月 20日(土)午後 9時 43分

 今日は、ロームシアター京都で音楽を聴く日。今日明日の2日間、こちらで「ローム ミュージック フェスティバル2019」が開かれており、今日明日と、1つずつ、コンサートを選んだというわけです。今日の選択は、阪哲朗指揮京都市交響楽団のコンサート。「ベルリオーズ没後150年記念スペシャル」という副題の付いたコンサート。従って、オール・ベルリオーズのプログラムが組まれていました。それは、次のようなものでした。「劇的交響曲“ロメオとジュリエット” Op.17より(岩田守弘の振付によるバレエ演出付)」「幻想交響曲 Op.14」。朝岡聡が、今年もナビゲーターとして登場。音楽に造詣が深いと、知人に聞いたことがありますが、的を得た解説を、各曲が始まる前にしてくれました。「ロメジュリ」は、バレエ付きというサービス。清水健太、太田朱音という、2人の若い有望なダンサーさんが出演されました、ただ、バレエの舞台は、オケピットの上だけが使えるというもの。横幅は、たっぷりとあるのですが、前後が、バレエをするには狭い。振付も、現場に立つ方のものにしては、つまらない平凡なものでしたが、その辺りに原因があるのでしょう。音楽の方の狙いは、この10日足らずの間に3回目となる京都市交響楽団と、指揮の阪さん。阪さんは、レーゲンスブルクを引き上げ、活動の拠点を日本に移されるや、山形交響楽団に迎えられたため、遭遇機会が減るかと思っていたところ、このコンサートの主催者の奨学金を受けた経験を持っているということで、そういった音楽家が多数出演する、このコンサートの常連でもあることから、定期的に京都でも振る機会を確保されているおかげで、その演奏に接する機会が出てきているというところです。黄紺的には、演奏は、幻想交響曲が楽しめたかな。わりかしテンポを揺らしながら、曲のおもしろさを追求されていました。木管や金管の個々の力が揃っているのが、このオケの売り。そのことを感じさせる木管が、いい出来。幻想交響曲を、生で聴いた経験って、確か昔にあったような気がするのですが、阪さんを聴こうというモチベーションが、久しぶりの遭遇を実現してくれました。1週間前には「新世界」でしたから、ちょっと名曲の日々です。


2019年 4月 20日(土)午前 5時 3分

 この週末3日間は音楽を聴く日。まず昨日は、カフェモンタージュです。昨夜は、「魔法使い」と題して、(ヴァイオリン)瀧村依里、(ピアノ)杉本優のお二人のコンサートがありました。そのプログラムは、「G.マーラー:アダージェット - 交響曲第5番より」「M.ラヴェル:ヴァイオリンソナタ ト長調」「R.シュトラウス:ヴァイオリンソナタ 変ホ長調 op.18」というものでした。なかなかそそられるプログラム。マーラーのヴァイオリン&ピアノ版は、存在すら知らなかったもの。もちろん有名な部分のアレンジ。誰の手によるものかまでは、お話はなかったのですが、オーナー氏によると、最近のものではないらしい。瀧村さんのソロコンサートは初めてだったのですが、このマーラーの冒頭の音を聴いて、びっくり。よく鳴ります。音も素敵なもの。一挙に、ワクワク感が高まりました。中低音域が、特に素敵だったからです。中盤から高音域に入るのですが、この辺りから、黄紺の頭には「?」が点り始めてしまいました。細かな技術的なところでです。いや、ノリから来るところで、老獪な奏者なら、技術以前のノリで弾いてしまうような指の駆使に満足できなくなってしまいました。このマーラーの中盤からあと、ラヴェルも、R.シュトラウスも、何やらの物足りなさを感じていきます。ラヴェルのソナタは、濃厚にアメリカ音楽の影響を受けています。ノリの問題になってきます。R.シュトラウスでは、何が満足できないのかではなく、ピアノも含めて、音楽全体を、ワード上で画像を拡大するように大きくできたらなぁと思ってしまいました。音の伸び、美しさ、ピアノとの掛け合い、ピアノのタッチなど、全体をマウスを使い拡大したい気分になりました。どうも、これら3曲は、自分的に思い入れが強いせいか、好き勝手なイメージが出来上がってしまってるために、それが業をなしてしまい、それを基準化して、音楽を聴いてしまっているようです。こういうときって、同じ空間で同じ演奏を聴いた人の意見を聴いてみるべきなのでしょうね。うまい具合に、知り合いが来ていましたので、今度会ったときに、感想を尋ねてみることにしましょう。さすが、終わった直後、会場でどうのこうのとお話するのは憚れたものですから、そこではできなかったからです。その会場には、黄紺も知っている演奏家の方も詰めかけておられました。ちょっとした交友関係も知った気分になれました。


2019年 4月 19日(金)午前 5時 41分

 昨日もツギハギ荘に行く日。昨夜は、「第9回落語芸術大学」がありました。講談と落語と、畑は違うのですが、大阪芸術大学出身という共通項のある、南湖&智丸お二人の会です。南湖&智丸「トーク」、智丸「天狗刺し」、南湖「蘇生五兵衛」、智丸「牛ほめ」、(中入り)、南湖「怪談が止まらない」、智丸「尻花火」。新作テラーでもあるご両人、昨日は、お互いの作品を、自分なりに焼き直して口演をしてみようという試みがセールスポイント。番組としては、中入り明けに出された2番が、それに該当します。ですから、中入り前は、古典の持ちネタ披露となっています。しかし、智丸が、中入り前に2席出すことになりました。それは、繁昌亭で進行中のコンペに、来週の月曜日に出ることになっている智丸が、制限時間内に刈り込んだネタの反応が知りたくて、かけたものでした。客席のある方が時間を計っておられて、「丁度10分」と言われていました。聴いていて、超えたと思ったくらいでしたし、前半を長めにとり、いざ鞍馬に出かけるところは短くという刈り込みは、正直いかがなものかとは思いました。根問ものの可笑しさは秀逸だとは思うのですが、落語ワールドは後半なのですから、刈り込みは逆じゃないかな。次いで古典が2席というところで、2つとも後半を覚えてない。居眠りしてました。3時間しか睡眠とれてないから、これは納得です。それにしても、「蘇生五兵衛」とは相性が良くありません。南湖さん、あまり出されないのに、出ると居眠りばかり。そして、昨日のハイライト、持ちネタ交換。「怪談が止まらない」は、2、3回前のこの会で出たもの。それを聴いていて、引き受けられたそう。最初、提案を受けたう○こネタは、人に合わないということで、南湖さんから断ったと言われていました。でも、この口演が新鮮。いつにないスピーディーな展開。連続的にギャグのオンパレードの様相の噺だけに、このスピード感が正解。「尻花火」の方は、智丸側からの指名だったようで、だからと言って、南湖作品の傑作と考えている「おっぱい豆腐」や「ダッチワイフ」は、智丸の人に合わないでしょうから、リクエストも解らないわけではない。でも、噺自体が変なものですから、徐々に聴いていることに飽きがきてしまいました。南湖さんの口演でもそうだので、作品自体に、無理があるのじゃないかな?


2019年 4月 18日(木)午前 0時 16分

 今日は落語を聴く日。幾つかそそられる会が揃うなか、ツギハギ荘であった「喬介のツギハギ荘落語会」を選択。迷ったときは、アクセスのいいツギハギ荘を選ぶ傾向にあります。喬介の全く一人会ですが、今日は、次のような番組となりました。「米揚げ笊」「向う付け」「延陽伯」「フィリピン土産抽選会」。ヘアスタイルを変え、顔も日焼けしての登場だった喬介、セブ島へ1週間ほど行ってたとか。散髪も、一緒に行ったかい枝に促されて、セブでやってきたということ。そんなですから、噺1つに1回ずつは、フィリピンくすぐりが入りました。帰ってきて間がないのでしょうか、最初の「米揚げ笊」で、何度か立ち往生。ネタの冒頭すぐのところだったものですから、やっぱ、フィリピン呆けじゃないかな。そして、終わってから、「このネタ、わりと好きなんですが」と言ってました。あとのネタは、そないなこともなく進行。喬介の「向う付け」って、今まで聴いたことあったかなぁ。くやみに行ってこいと家から出た喜ぃさんが、隠居の家に着くまでに、たどん屋ら弔問客のエピソードが入ってました。その弔問客に続いて、喜ぃ公が現れるというもの。向う付けにしてからも弔問客があり、あとから来た人たちの記名を頼まれる弔問客のエピソードのあと、無筆の人が弔問に来たエピソードで下げにするというもの。弔問客のエピソードが2つに分けられたわけですが、前半の方に帳場がいるのは、何か噺の流れに逆らっているように思えてしまいました。師匠の現松喬からもらったのでしょうが、元来から、そうだったのかな? ちょっと気になっています。チラシには「2席」と書いてあるのですが、黄紺が行くときは、最近は、いつも3席聴いていますが、今日も3席でした。こちらも、師匠のネタですね。どのネタも、いちびる男のいちびり度が、随分と大きくなっていますが、このネタでは、嫁さんも、いちびるわけではないのですが、八百屋を呼び止めるときは、声を張り上げていました。そういった姿を見ると、喬介は、ツギハギ荘のような空間ではなく、繁昌亭のような空間での口演を想定してやってるのだろうと思っています。動きも大きくしてますからね。元来は長い噺なもので、刈り込みをされた上での口演が増えていますが、この喬介の口演もそうでしたが、一人喜びをして、なかなか火が点かないなんてところを残してくれているのが、嬉しいところです。喬介だったら、フルヴァージョンで聴いてみたいなと思ってしまいます。3席が終わると、フィリピン土産の抽選会。喬介は、遠出をしたあとは、いつも、この会でお土産を用意してくれます。中尊寺の写真は、今も栞として使わしてもらっています。今日は、大入りの日なのに、全員にお土産は当たりました。黄紺は、幾つか当たったらいいなと思っていたものの1つが当たり、ばんざーいでした。Vielen danke,Kyosuke.


2019年 4月 16日(火)午後 7時 57分

 今日は、メトロポリタンのライブビューイングを観る日。自分的には、今日が、今季最後の観賞になります。5月下旬からの旅行を控えているため、今季一部観たかった「カルメル会、、、」を観ることができないことで、これが最後になるというわけです。この1週間は、ベルカントの秀作「連隊の娘」(ロラン・ペリー演出)でした。このプロダクションは、実は、ロイヤル・オペラのプロダクションとして、既にDVD化されているもの。ロラン・ペリーものだということで気づかない方がおかしいのですが、実際、幕が上がり、装置を観て、ようやく記憶が蘇ってきました。今回上演されたのは、次のようなキャストでした。(マリー)プレティ・イェンデ、(トニオ)ハヴィエル・カマレナ、(シュルピス)マウリツィオ・ムラーロ、(ベルケンフィールド公爵夫人)ステファニー・ブライズ。そして、指揮はエンリケ・マッツォーラという布陣でした。黄紺が失念していたことに気づいたきっかけは、山を表す装置が、地図入りだったことから。その山は、マリーが、実母に引き取られたあとも、連隊との親密な関係が、マリーのアイデンティティーを表すかのように、館を表す装置の背後に置かれたまま。なかなかいい感じです。その前で繰り広げられる、ちょっと可笑しくて、明るい舞台を引き立たせたのは、抜群の歌唱と動きを見せた歌手陣。やはり、ベルカントは歌唱の技術が素晴らしいと、ホントに映えます。ハヴィエル・カマレナは、得意の高音が炸裂するハイC9連発を、2度歌ってくれました。これは凄い。ホアン・ディエーゴも凄いが、ホアン・ディエーゴより少し強めの声を持つハヴィエル・カマレナの高音にも痺れました。黄紺は、その高音を、ベルリンで聴いていますから、ホント、録音とか、そんなの小細工関係ないことが判っていますから、会場の沸き返る雰囲気を共感できました。このハヴィエル・カマレナのキャラっていうのが、正にトニオのキャラとダブるものですから、余計に感激してしまいました。このキャラがダブるというのは、プレティ・イェンデも同じ。連隊で働くマリーは、タンクトップ状の衣装ですが、プレティ・イェンデの体つきは、アスリートを思わせるうえに、引き取られたあとのお嬢様衣装になると、正に着痩せをして、かわいこちゃんになるところへさして、なんとも屈託なく、明るい。健康的な娘役として抜群。歌唱も十分とあれば、そりゃ引き立ちます。南アフリカのズールー族出身の彼女が、アドリブでズールー語を入れたと言ってましたが、それが判らなかったのは残念。他の歌手が、英語やドイツ語をフランス語に混じらせていたのは判ったのでしたが。更に、この2人を取り巻く脇役陣が素晴らしい。やっぱ、ブッフォは動けないとね。しかも、洒落たローラン・ペリーの演出も、要求度が高いですから、動けると、ホントに素晴らしい舞台になります。実際、なりました。指揮のエンリケ・マッツォーラも良かったなぁ。楽しい舞台をより楽しませる、ツボを心得たもの。メトロポリタンのライブビューイングは、幾多の名プロダクションを披露してくれましたが、この公演は、まぎれもなく最上位の一角を占めることでしょう。今日も、福井から来た高校時代の友人と観ておりました。休憩時間や終了後、このプロダクションのみならず、オペラ、落語と共通の話題があるものですから、話が弾みます。ですから、今日は、1日が経つのが速かったぁ。


2019年 4月 15日(月)午後 11時 21分

 今日は、「京都大学春秋講義(平成31年度 春季講義)」に行く日。たまたま、街を歩いていて見つけたもの。ウォーキングをしながら、気をつけていると、いろんなものが目に入ってきます。今日は、この春のテーマ「平成を振り返って-日本を取り巻く世界の変化」に則り、帯谷知可(東南アジア地域研究研究所准教授)さんが、「ソ連解体と中央ユーラシア研究-開かれたフィールド、資料、協働の可能性」というテーマで、お話を聴くことができました。帯谷さんは、ウズベキスタンをフィールドにされている研究者だということでしたので、勇んで行ってまいりました。本題に入られてからは、中央ユーラシアの定義付けから始められ、その中央ユーラシアが、ソ連解体で、どのように変わったか、それを、研究動向から焙り出そうという切り口でのお話だったと言えば、一番簡単にまとめることができるかなと思います。また、文化人類学の視点からは、伝統と近代という二項対立的な分析では把握しきれない現象があるというお話はおもしろく、社会主義が生活の根底に入り込んでおり、分析手法に新たな視点がいるということだったのですが、これなどは、ソ連解体、即、自由とか、社会主義からの離脱とはならない、これも、ソ連解体以後の中央ユーラシアだということになります。更に、ソ連解体以後の自由度と、それ以後の権威主義化が進むことで、解体直後とは異なった道筋を進んでいる国があるのも、事実ですしね。となると、自由度は後退してしまいます。しかし、ソ連の解体は、史資料の公開、開拓、現地調査などの面で、格段と進んだことは間違いなく、それによってこそ、分析の手法に多様性が生まれたことも事実でしょう。政治や経済から、もっと下世話なファッションやエンターテイメントに至るまで、変化の具体的な内容も聴かせてもらえたらとも思いつつ、それは、異なった切り口での期待ということになるので、今日は、その方面は我慢で了解。少しだけでしたが、ウズベキスタン各地の画像も見せていただけました。サマルカンド、タシケント、更に、ヒバのものまであり、ちょっと感激。街角でおっちゃんたちがお茶をしている画像のところで、「チャイハナ」とのコメントが入り、やっぱテュルク系の人たちと、にんまり。そうそう、文字のキリル文字からの脱却、即ち、ラテン文字の切り替えが、なかなかスムーズに行かないというお話がありました。ソ連の軛を感じさせる話なのですが、一時、トルコ語で使う文字への切り替えも検討されたこともあったそうですよ。音を表すのに利便性が高いというのが根拠だそうです。さすが、テュルク系の人たちでした。お話は平易で聴きやすいもの。但し、テュルク系だという心安さが、そのように感じさせたのでしょうか。黄紺的には、この手のお話を、久しぶりに耳に入れたからでしょうね。ちょっと浮き浮き気分で、帰りは、京阪三条駅までウォーキング。いいお話を聴くことができました。


2019年 4月 14日(日)午後 6時 12分

 今日は落語を聴くはずだった日。「第166回 吹田さんくす寄席」の会場(さんくすホール)まで、実際に行ってまいりました。開場5分前に着くと、長蛇の列。2年ぶりくらいで行ったのですが、その列を見て、まさかの予感。その予感が当たっちゃいました。以前では考えられないことで、前売り券を持っている人が多数で、ほんの若干枚数の当日券は、開場早々に完売。あっさりと入場を諦めるハメに。ですから、今日は、往きは、京阪「土居」駅から吹田駅まで、帰りは、吹田駅から京阪「守口市」駅間のウォーキングをしただけの1日となりました。しかも、雨中のウォーキングを、です。さんくすホール前に並び出し、当日券完売が判るまでの10分足らずを立ちんぼをした以外は、2時間半ほどの歩き続けは、腰に過度の負担がかかってないかが心配になってきています。


2019年 4月 13日(土)午後 7時 52分

 今日もコンサートに行く日。これで、1週間に4回のオケのコンサートが完了します。今日は、フェスティバル・ホールであった「大阪フィルハーモニー 第527回定期演奏会」でした。マーラーのシンフォニーが出るということでのチョイスです。つい最近、ガン治療に専念するということで、この先の一部のコンサートのキャンセルを発表したばかりの尾高忠明の指揮で、次のようなプログラムが組まれました。「藤倉大:レア・グラヴィティ」「マーラー:交響曲第9番 ニ長調」。藤倉作品は、プログラムに胎児を表したとか書いてあったので、そのつもりで聴くと、胎児が羊水内を浮遊しているかのような音楽。それを聴いていて、笑福亭たま作品の「胎児」を思い出してしまいました。浮遊から、ジェスチャーで体外にいる両親に「宇宙遊泳」をして見せる胎児が思い出されてしまい、音楽を聴きながらにやけることしきりでした。今日は、先日のブルックナーのときと違い、きっちりと休憩を取ってくれました。これだけで、ラハトな気分でコンサートに臨めます。マーラーの9番って、いつ以来でしょうか。ライモン・サトルがバーミンガム市響と来たときに聴いたのは覚えているのですが、そのときだけではないはずなのに、思い出せない黄紺ですが、翻って言うと、それだけバーミンガムの演奏が、強く印象に残っているということかもしれません。やはり、黄紺は、9番に臨むだけで緊張が走ります。学生時代頻繁に聴いた、若いときの思い出の曲だからでしょうね。ところが、今日の演奏、1楽章はいただけなかったなぁ。リズムが重い、木管楽器からは溌剌とした音がもらえない、ホルンに至っては、音の出にくい楽器だと判っていても、ちょっとやり過ぎだし、2本のホルンの合奏も合わなかったりと、ちょっと1楽章はいただけませんでした。トランペットが、変なタンギングを入れてドキッとしたりしていました。木管楽器のおもしろなさは、終始変わらなかったのですが、ホルンは、4楽章で1度やらかしましたが、あとは回復で一安心。そないななか、スーパーな演奏を聴かせてくれたのが弦楽器。2楽章のレントラーの繰り返しが進むにつれて、すっごくいい感じに。特にピアニシモが良かったぁ。あんなに美しい弦楽器のピアニシモって、そうは聴けないのじゃないかな。となると、4楽章の弦楽器の合奏はばっちり。いやぁ、一番聴きたい4楽章に度はまりでした。3楽章のスケルツォが、その露払いを、しっかりしてくれたものですから、効果抜群。尾高との相性がいいのでしょうね。就任記念に振ったブルックナーの8番も聴かせてもらえましたしね。マーラーを、しかも9番を聴きに行き、満足感たっぷりの演奏、おしまい良ければ、全て良しって感じでしたが、いいもの聴けました。大フィルを聴きに行き、ここまでの満足ってあったやろか、そないなことを考えながら帰途に着きました。


2019年 4月 13日(土)午前 5時 26分

 昨日は二部制の日。昼間に文楽を観て、夜は、高校時代の友人にもらったチケットで、コンサートに行くという、まことにタフな1日となりました。まず、文楽は第1部を観る日。この4月公演から、「仮名手本忠臣蔵」の通し公演が始まりました。この4月に出るのは、次のような段でした。「大序/鶴が岡兜改めの段、恋歌の段」「二段目/桃井館力弥使者の段、本蔵松切の段」「三段目/下馬先進物の段、腰元おかる文使いの段、殿中刃傷の段、裏門の段」「四段目/花籠の段、塩谷判官切腹の段、城明渡しの段」。この公演に行くためには、午前9時に家を出なければならないというのは、やはりかなりハード。普段だったら、二度寝をしようかというお時間なもので、毎度、文楽公演の第1部は、悲壮な覚悟で臨むもの。案の定、昨日も、断続的に居眠りが発生、筋立ては追えてるのだけど、はっきりと抜け落ちてるのが解るという状態でした。特に遭遇機会の少ない大序と二段目は、しっかりと目に焼き付けておきたかったのですがね。また、二段目は、八段目以後の伏線になってますから、そういった意味でも、きっちり観ておきたかったのですが、抜けてます。話の展開として、いきなり判官さんと師直の問題に行かず、若狭之助が師直に刃傷に及ぼうとする物語が展開され、その物語の傍らに師直が、顔世にちょっかいを出す話を流しておき、いよいよ若狭之助が刃傷にと勇んで出かけると、家老の加古川本蔵が、賄賂を師直に渡し、急に、こちらのいさかいが萎んだところに、横恋慕問題がクローズアップされてくるという趣向が、うまいですよね。そういった本筋の、更に傍らで、力弥と本蔵の娘小浪の挿話を入れ、八段目以後の伏線にするという巧妙なことをしているのです。しかも、本蔵は、刃傷の場で判官を背後から抱き止める役まで担わせるのですから、作者の頭の中に入りたい気分です。三段目が刃傷の場を含みます。それがハイライトなわけですが、またぞろ上手いのは、五段目から七段目の主役を勤めるお軽勘平を登場させ、大きく話が変わる五段目の伏線を張ります。「質屋芝居」に使われる三段目の返しが、お軽勘平の運命を決めて行きます。四段目は、ご存知、判官さん切腹の場です。四段目が始まる前に放送が入りました。「判官切腹の場は、演出の都合上、場内への出入りができません」、やってくれました、「通さん場」の再現です。場内放送で、そないな姑息な言い方をしないで、「伝統に則り、判官切腹の場は出入りできません」、それでいいんじゃないかなぁ。伝統芸能なんだし、能の「翁渡り」でも、やってることですから。段の数が多いということは、1つ1つの段は、さほど長くないということ。「判官切腹の場」が一番長かったかな、それでも、切り場にすると、さほど長いものではありませんでした。ここが、咲太夫さんと燕三さんのコンビ。昨日は、調子の良かった咲太夫さんは、さすがの貫禄。特殊なという位置付けされている三味線の燕三さんは、とっても緊張感をはらむもの。席が1つ空いたのだから、早く、この人を人間国宝にして欲しいな。太夫さんでは、文字久太夫から藤太夫に変えられた太夫さんが、とっても素晴らしい印象を残しました。いよいよ判官さんに沙汰が下る前の緊迫した雰囲気を静謐な語りで包んでくれました。その他、若い太夫さんに、一人語りの機会が生まれたのは大きかったんじゃないかな。希太夫さんとか、小住太夫さんなんか、これから、どんどんと出てくるのでしょうね。ちょうど太夫さんは、過渡期に入っているので、いい機会を与えられたなと思い聴いておりました。ところで、さすが「忠臣蔵」の通しです。満席まではいかなかったようですが、平日なのに、それに近い入り。「忠臣蔵」自体、やはりいい演目だし、それだけの値打ちがあるっていうのが、染み通っているのでしょう。おかげで、トイレが大変でした。
 文楽劇場を出ると、京都への大移動。夜は、「京都市交響楽団 第633回定期演奏会」のあった京都コンサートホールに向かいました。そのプログラムは、次のようなものでした。「プロコフィエフ:組曲“キージェ中尉” op.60」「プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番ハ長調 op.26」「プロコフィエフ:”ロメオとジュリエット“組曲から(井上道義セレクション)」。なお、指揮は、元京都市響の常任指揮者井上道義、ピアノはイリヤ・ラシュコフスキーでした。オール・プロコフィエフという、いかにも井上道義という意欲的なもの。その中でも、最も異彩を放つのがピアノ協奏曲。破壊的な感じのする野性味溢れる音楽。イリヤ・ラシュコフスキーのピアノも超絶技巧で、それに応えていました。「キージェ中尉」は、こういったコンサートで比較的出る曲じゃないかな。最後の「ロメジュリ」も含めて、いろんなことを試み、やり遂げてしまう、プロコフィエフの能力全開の曲目。遊び心があり、 豊かな表現力があり、色彩から素材まで、あらんかぎりの手を用いて、自分の音楽を紡ぎ出す代表曲と言っていいのでしょうね。ドイツでのバレエ公演で、「ロメジュリ」が、よく上がっています。今度こそは捕まえなくっちゃの気にさせられてしまいました。先日の「新世界」にしびれてから、京都市響の音楽を再確認しています。楽しくて、豊かな色彩を紡ぐ、そして、パワーを感じさせました。「ジークフリート」のときに、弦の低声部が、もっと頑張ってくれればと思ってたのですが、昨日は真逆で、これらのパートが頑張ってくれたればこその素晴らしい音楽でした。黄紺は、贔屓にしている作曲家を追いかけ、また、凝ったプログラミングに惹かれて、コンサートに足を運ぶ傾向にあります。ですが、そういった網に引っかからないコンサートにも、積極的に足を運ぶと得るものが大きいということを教えられた気がしました。このコンサート、おもしろいプログラム、だけど、プロコフィエフ尽くしは遠慮したのでしたが、友人のおかげで、素敵なコンサートに行くことができました。


2019年 4月 11日(木)午後 11時 21分

 今日は、シンフォニーホールで音楽を聴く日。今夜は、こちらで、日本センチュリー交響楽団の定期演奏会(飯森範親指揮)がありました。今夜も、ブルックナーが出るということで行ってまいりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「ワーグナー 交響曲 ホ長調」「ブルックナー 交響曲第9番 ニ短調 WAB 109(コールス校訂版)」。2曲がプログラムに並びはしたのですが、休憩なしというもの。珍しいワーグナーの交響曲が短いものかと思っていたら、20分はあったんじゃないかな。ダイナミズムも併せ持った曲で、たまには演奏されてもいいのじゃないでしょうか。全体としては、ロマン派前期の曲調でしたが。ま、予想されたことですが。ブルックナーは、10日ほど前に、関西フィルで聴いたばかり。大フィルが、この5年ほどの間に2回出していますから、ブルックナーの交響曲で遭遇機会が多いものになっています。関西フィルもそうでしたが、センチュリーも、よく鳴っていたのが、何よりも嬉しい点。2楽章の迫力、素敵でした。少しテンポを早めに設定してくれたのが、一番嬉しいところでした。概ね満足だったのですが、1楽章でのリズムの刻みが、丁寧に過ぎたという印象を与えたこと、3楽章で、いまいちのデリカシーがあればと思ったのが、ちょっとだけ気になりました。今週は、コンサートに4回も行くという、とっても過激な週ですが、これで、はや2回が終わってしまいました。


2019年 4月 10日(水)午後 11時 50分

 今日は講談を聴く日。なみはや講談協会の定例の「光照寺講談会」に行ってまいりました。寒々としたお天気のなか、四天王寺前夕陽ヶ丘駅近くにある光照寺まで行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。鱗林「芸どころ名古屋」、南海「明智光秀」、南華「高田馬場の決闘」、南鱗「出世の白餅」。会場に入ると、舞台両脇に兎と波形をデザイン化した法被と手拭いが展示されていました。支援者の方からのプレゼントだそうです。また、今日は、1年ほど前に録音されたCDの発売日。講談会終了後には、即売&サイン会も。急にド派手に進化したなみはや講談協会。今年は、名古屋の大須演芸場や東京の池袋演芸場でも、なみはや講談協会の講談会が予定されているそうですから、完全に攻めの姿勢に出てるなの印象。講談会の方は、いつもと同じく、鱗林さんがトップ。この方が、講談界に本格参入され、トップに出られるだけで、一挙に空気が明るくなりました。いいキャラされてます。「芸どころ」は、最初、裏話をたっぷり含んだ漫談になるのかなと思っていたところ、8代将軍吉宗の引き締め政策に対して、緩和策を採り、それが「芸どころ」を生んだという第7代尾張徳川家当主の宗春の物語が展開されました。話ぶりなんかから、鱗林さんが、大須での口演のために作ったものじゃないかなという印象を持ちました。南海さんは、来年の大河ドラマを、早々に先取りしたかのようなネタ選び。読み物の中心は、安土城建設に関わる光秀と、キャリアの全く違う秀吉の対比が描かれていきました。ただ、南海さんの口演の末尾辺りから居眠りが始まり、次の南華さんと南鱗さんの高座は多分ほとんど沈没。南華さんのネタは、先月の「南華の会」を初めとして、随分と聴いてきたものですから諦めがつくとして、南鱗さんの方は、わりかしポピュラーなネタながら、最近聴いてなかっただけに、ダメですね。この講談会は、年4回の公演だけに、これは悔しい限り。居眠りが、ちょっとましになってただけに、余計に残念、です。


2019年 4月 9日(火)午後 9時 13分

 今日は、友人に花見に誘われ、奈良県の榛原から大宇陀に行ってまいりました。ちょうど1ヶ月前に、大三輪神社界隈の巡検をしましたから、この春は奈良づいています。大和八木から三重県寄りは、昨年の巡検の際、耳成駅近くで食事をしたことくらいしかありませんから、黄紺的には、とっても目新しい遠足となりました。目指すは、大宇陀の「又兵衛桜」。有名な桜の名所は、幾つかは行ったことがありますが、こうやって、1本の桜の木に、名前まで付いているのは、テレビでしか経験のない黄紺ですから、こうやって、お誘いを受けない限り、そうは足を向けるものではありません。榛原駅前のダヌシュマで、資料をもらったり、食事処の位置を聞いたりしてから、バスで15分余り、そこから20分弱歩くとありました。お城の石垣を連想させるところの端っこに、大きく根をはっていました。垂れ桜です。石垣の上にありますから、枝が、大きく下まで垂れ下がっているものですから、何とも優雅に見えます。これは、行ったかいというものがありました。「又兵衛」とは、「後藤又兵衛」を指しているのだそうです。又兵衛は、大阪夏の陣で敗れたあと、当地に逃れて来たという言い伝えがあるそうです。 「難波戦記」では、後藤又兵衛は、秀頼の供として、薩摩に逃れて行きますから、後藤又兵衛大忙し、といったところです。花見ですから、酒と肴を持って行った黄紺は、花見の酒。ちょっと涼しめの風が吹いたりしていましたが、いい天気でしたから、とってもいい気分。又兵衛桜前には、多くの人たちがやって来ていましたが、平日だったからでしょうか、まだ許容範囲内の混み具合だったので、たっぷりとお喋りすることができました。又兵衛桜を引き上げると、今度は、大宇陀の街中のお散歩。「松山地区」という地域は、古い家屋の残る素敵なところ。江戸時代から続く家屋もあり、また、又兵衛桜に行った人たちは、ほぼ、この地域には寄らないものですから、とっても静かだったのも良かったですね。家の造りや生業を見ていると、かなり裕福な地域と、黄紺の目には映りました。所謂、映える風景二景、すっかり、この地域にはまってしまいました。いいところに誘ってくれた友人に感謝です。でも、京都からは遠い。往きも帰りも、大和八木へ、京都から直通の近鉄電車を利用できたのが、そういった中でもラッキーだったと思うことにしましょう。


2019年 4月 8日(月)午後 8時 43分

 今日は休日。午前中と午後のウォーキングを欠かさないのは、いつもと同じ。午後に入ると、まさかの雨で、びっくりしましたが、通り雨だったようで、ウォーキングに出かけようかという時間には、お天気は回復していましたが、風が強く、思いの外冷たいのには、びっくり。午前中の暖かさがウソのような変わりようでした。家では、5月下旬からのポーランド&ドイツ旅行の準備。ワルシャワとベルリンを結ぶECが、クトノに停まるので、ここを宿泊地に選んでみたのはいいのですが、あまりにも情報に乏しい。ユダヤ人のゲットーがあったという情報があったために、いい位置にあったので宿泊地に選んだのですが、肝心の詳しい情報がないので、頑張って探しました。頑張ったかいがあり見つけました。ワルシャワ・ゲットーのモデルになったゲットーがあったようで、その位置も特定できました。そんなことを調べている内に、クトノって、ナチスのポーランド侵攻の際、ポーランドの運命を決めた戦いのあった土地だということも判り、今となっては、えらく大事なところに目を付けたものと、偶然性が高いとは言え、ちょっと鼻が高くなってしまってます。そないなことをしてたら、なんで、そんなのに繋がったのか、あとから判らないのですが、韓国の戦後間もない時期の国家犯罪を書いたサイトに遭遇。一昨年だったか、黄紺は、コチャン(居昌)事件跡に作られた教育施設(事件を伝えるために設けられた博物館をこう呼ぶ)に行ったことがありますが、ヨンドン(永同)にも、同様の事件があり、それを伝える教育施設が作られているということを知ったために、またぞろ、関係の情報収集に励むことに。チェジュド(済州島)での出来事は、よく知られていますが、その他の地域でも、同様の事件があり、国家犯罪としての認定がされ、それを記憶に留めていこうとされていっているようです。やっぱ、民主主義には大事なことですね。そう思うもので、足を使い、その教育施設に行ってみたくなるものですから、ついつい目が行き、旅行のための情報収集を停滞させてしまってました。


2019年 4月 7日(日)午後 7時 14分

 今日は、京都コンサートホールで音楽を聴く日。今日は、マチネで「京都市交響楽団スプリング・コンサート」がありました。生では、なかなか聴けない曲が、プログラムに入っていたものですから、飛び付いた次第です。チケット代が、平常の定期演奏会に比べると、お安く設定されていたからでしょうか、完売の盛況でした。ま、京都市響の場合、定期演奏会も人気ですから、これは当たり前のことかもしれません。HP上で「完売」の文字を見たときは、このコンサートに、早々に気づいた自分に、ちょっと満足でした。そのプログラムは、次のようなものでした。「ヴィヴァルディ:2つのトランペットのための協奏曲」「ベートーヴェン:ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための三重協奏曲ハ長調 op.56」「ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調”新世界より“op.95」。そして、演奏は、次の方々でした。(ヴァイオリン)豊嶋泰嗣、(チェロ)上村昇、(ピアノ)上野真、(トランペット)ハラルド・ナエス、西馬 健史、(指揮)下野竜也。1曲目が終わったあと、舞台の設営替えに時間が要るため、下野さんがマイクを持ち、1曲目のソリストも喚び込んでのトーク。その際、いみじくも言われていたのですが、今日のソリスト、そして、下野さん自身もそうですが、皆さん、京都に縁のある人たちを集めてのコンサートという趣向。トランペットの2人は京都市響の団員ですし、あとの4人の著名な音楽家は、皆さん、京都市芸大で教鞭を執られている方ばかりという仕掛けになっていました。そんなで、このようなコンサートを持てる、これが判ると、ちょっと京都在住が嬉しくなっちゃいました。1曲目のヴィヴァルディは、正に春爛漫を思わせるもの。今日は、外は20度を越す陽気のうえ、桜は満開。時候にぴったりの曲が爽やかに吹き抜けてくれました。2曲目が狙いの「トリプル・コンチェルト」。遭遇機会の少ない曲。いい曲なのですが、3人の優れたソリストを集めるのがきついのでしょうね。それを、この顔ぶれで聴ける幸せよ、です。下野さんが言ってました。「ベートーヴェンはチェロ協奏曲は書いていません」「この曲はチェロが活躍します」、確かにそうですね。チェロにヴァイオリンが絡み、そのデュオに、違ったアングルからピアノが絡む、そないな曲想かな。いえいえ、それだけではなく、ピアノ協奏曲の一節を思わせるようなところまで、ベートーヴェンは用意をしてくれています。演奏は、頗る付きの美しさを持つ第2楽章の、チェロとヴァイオリンのデュオから、快活な第3楽章への移行に、もう少しの決めを付けて欲しかったな。特に、チェロの上村さんへの要望ってところです。ま、不満は、そのくらいで、総じて、いい曲にいい演奏で、このチョイス、大正解といったところでした。逆にメリハリがヒットしたのが、最後の「新世界」。リューベックで8年前、沼尻さんの指揮で聴いて以来の「新世界」。ちなみに、トランペット協奏曲を生で聴いたのは、ん十年前に、東京文化会館で聴いたモーリス・アンドレのウルトラ名演以来でした。「新世界」に戻ると、下野さんの指揮らしい、大きく、ツボを心得た演奏に加え、びわ湖の「ジークフリート」と先月のマーラーと、この間、決して満足してなかった京都市響が、スマッシュヒットでした。よく鳴る、しかも、厚い音を奏でてくれ、もう、大正解、大満足。「新世界」を聴いて、えらく高揚感を味わうことができるなんて、、、。やはり、素敵な演奏に接すると、耳にタコができるほど馴染んでいる音楽も、新鮮に聴こえてくるから、不思議ですね。いつものように、京都コンサートホールからの帰途は、三条までウォーキング。今日は、出町柳で鴨川に下りました。昨日に比べると、倍くらいの距離を、鴨川縁を歩いたことになります。やはり、昨日同様、若い人たちと外人さんの花見が目立つ、不思議の光景。家族連れやカップルも、若い人たちばかりだし、外人さんもそう。女子会って感じで、若い女性だけで車座になり、花見をしながら飲み食いするって、今まで見たことあったっけ? 外人さんのカップルが、桜の下に佇むのが普通というところです。ジョギングやサイクリングしてる外人さんも、えらく多い。やっぱ、京都って、そういう顔を持ってんだね。今更ながら、確認しました。


2019年 4月 6日(土)午後 8時 44分

 今日は二部制の日。近場の博物館と映画館を結びつけてみました。まず、博物館ですが、この間、開催の特別展に合わせて開かれていた講座におじゃまをしていた京都文化博物館の特別展「北野天満宮 信仰と名宝―天神さんの源流―」に行ってまいりました。スタートは「菅家文集」で、道真の残した歌などを認めたもの、そして、宇多天皇などによる道真の評価で、もう大宰府に流されていました。ま、道真が流され、異変が起こり、北野社の創建という流れで、主たる展示は北野社の持つ宝物ですから、この辺りは、あっさりと過ぎていきました。その創建になると、「北野天神絵巻」が登場してきますが、有名な国宝が頭にありますから、どうしても形式が国宝同様と思っているのですが、初期のものは、そうではないのです。これは、先日のシンポジウムでも強調されていたこと。ですから、書による記録ですから、はっきり言って見ていて、解らない、つまらない、、、でも、仕方ないですね。本地垂迹についても、かなりスペースが割かれていました。当然なことで、これも、先日のシンポジウムで、詳しくお聴きしていた分、理解が容易くできました。道真の肖像画の上に梵字が書かれたり、創建の趣旨とかはいずこへと言いたくもなりますが、時代なんでしょうね。考えてみれば、日本ってところは、この時期が圧倒的に長いわけですから、あまり突っ込まない方がいいのかもしれません。室町時代に入ると、当然、先日のシンポジウムで聴いた西京神人関連の史料ありましたし、それも含めて、室町幕府からの保護を表す史料と続きます。文献史料が多いのが、ちょっと悔しいところ。京都文化博物館での展示は、2つのフロアーを使い行われていましたが、1つ目の階のハイライトは、無論、国宝とその異本。異本がたくさんありますから、それぞれの絵巻を眺めることができるのが少ないのが惜しいですね。ちなみに国宝は、無間地獄図の場面。この絵巻は、天神となった道真の功徳というか奇跡譚を表す箇所が多いですね。そんなのは、異本の方で観ることができました。階が変わると、北野社の発展を支えた祭礼と神事から始まり、豊臣家との関わりが重要な展示。今の本殿は、この関わりで造営されたものですから、その重要性が解ります。それからあとは、江戸時代から北野社に残る宝物の展示が続き終わりになりました。あとに映画が控えていたこと、ぼちぼち腰が怪しくなってきましたので、後半は、展示に対する関心の落ちるところでもあったため、多少早足での観賞となりましたが、京都ならではの特別展、堪能させていただきました。
 博物館を出ると、5分ほどで到着のMovix京都に向かいました。今日の2つ目は、こちらで「シネマ歌舞伎 野田版 桜の森の満開の下」を観てまいりました。「夢の遊眠社」の公演では観たことがあるのですが、歌舞伎版ではなかったので、今回の上映を掴まえたというわけです。ところが、悲しいかな、居眠りでダメ。ただでも、台詞が捕まえにくい野田秀樹の芝居ですから、これは、決定的にダメ。でも、歌舞伎役者の御曹司って、皆さん、上手だわ。染五郎(現幸四郎)が、頗る付きに上手いのは、以前、これも、映画版でしたが、劇団新感線にゲスト出演したのを観たときに、衝撃を受けましたから判っていたのですが、勘九郎、七之助兄弟も、凄いわぁ。勘九郎は、大河ドラマに起用されていますから、その実力も評価されているのでしょうが、七之助は、恥ずかしいことに、女形の役者だとすら知らなかったのですが、この人、凄い、めっちゃきれいだし、芝居の迫力が半端でなかった。1つだけ、クレームをつけると、背丈かな。女形にしては高い、それだけ。えらいもの観てしまったと思いました。芝居自体は、国造りを通して、価値の取捨、その結果として、勝ち組となった価値が、パラダイムを形成していくということなのでしょう。居眠りをしながらも、遊眠社で観たときにも、そう捉えたことを思い出しました。映画が終わり、外に出ると、今日も市内ウォーキング。荒神口まで行き、鴨川縁を歩いてみました。桜が満開ですから、多くの人が行き交い、土手では花見をする人たちが多数。驚いたのは、年嵩の行った人たちはいなくて、若い人たちがグループでビニールシートを広げていました。皆さん、お行儀が良く、傍らを歩いていても、とってもいい感じ。それとびっくりしたのは、外人さんだけのグループが、幾つかいたなぁ。ビニールシートを敷いてのお花見。横で、子どもたちは、地面に線を引いて「けんぱ」(京都弁では「けんけん」)をしていたのを見て、二度びっくりでした。


2019年 4月 6日(土)午前 5時 56分

 昨日は落語を聴く日。動楽亭であった「第6回 動楽亭のりょうば」に、初めておじゃまをしてきました。今まで行こうとしたら行けたときもあったのですが、何か集客力が高そうなんで、二の足を踏んでたのですが、一度は行っておこうの気で行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。そうば×りょうば「対談“教えて!お兄さん”」、りょうば「稲荷俥」、そうば「必殺仕分人」、(中入り)、新幸&りょうば(テレスコ・ボーイズ)「音曲漫才」、りょうば「貧乏神」。まず、りょうば一人で、近況報告。4月から、りょうばの名を付けたラジオ番組がスタートしたので、やはり、その話から。入口には、その番組から、お花も届いていました。そして、そうばを呼び込んでトークに。そうばの落研時代の話、入門秘話、これは、初めて聴いたのですが、おもしろい。ちらっと、吉幾三絡みだとだけ、耳にしたことはあったのですが、、、。りょうばは、まず「稲荷俥」から。昨日が、ネタ下ろしじゃないかな。師匠のざこばも、父枝雀もしない、米朝ネタ。「稲荷俥」だと、始まるとすぐに判りますから、即座に、頭に浮かんだのは、りょうばの明るい声に合うかなということ。夕暮れから夜の暗さ、遠目にぼんやりと見える産湯楼の明かり、これが出せるかどうかが、前半の課題。怪談にする噺でもなし、でも暗さが要るという、なかなか難しい噺。やはり、客のキャラに足りないものを感じてしまいました。挨拶に上がったときに、早口だという話をしてましたが、1つは、それが原因なのかなと、もう1つは、俥屋と同じテンポになってしまったことじゃないかな。ということで、今日の2席では、「貧乏神」に軍配が上がりそうです。「貧乏神」は、確か、りょうばの年季明け落語会という記念の会で披露したと伝え聞いているネタ。枝雀ネタなので、それを突っ込むディープな落語ファンの言葉を聴いた記憶があるので、ネタ下ろしの時期を覚えています。黄紺的には、枝雀以後では、南天でしか聴いたことがないんじゃないかな。正直言って、あまりおもしろいとは思えない小佐田作品という記憶も残っていたのですが、りょうばの口演を聴いたあとも、やはりという印象。 なんか、貧乏神を持て余しているような印象を持ってしまうのです。貧乏神が、無頼の男に濃き使われたりして、イメージを崩す可笑しさのようなところを狙ったのかとは思うのですが、下げに至る終盤も、ちょっと無理筋な感じを受けてしまいます。皮肉な展開を描くといった点では、貧乏神の描き方が分かりやすいりょうばの口演に好感を持ちはしましたが。テレスコ・ボーイズは、前日、急に出演が決まったとか。ネタは、りょうばが書いているのですね。新幸の突っ込みもいいので、りょうばの夢という「繁昌亭への色物での出演」は、あながち夢ではないかもしれません。ゲスト枠のそうばは何をするのか興味があったのですが、出されてみて納得。結構、楽しめますものね、この新作。でも、このネタに遭遇すると、事業仕分けは、歴史的な出来事のように感じてしまいますね。黄紺が気にしていた集客力ですが、程よい入りに安心できました。これだったら、次も行こうのモチベーションが高まります。


2019年 4月 4日(木)午後 6時 25分

 連続の休日です。でも、今日は、その空いた時間を活用して、休暇を取っていた息子と、ちょっとした家の用事。ほんのちょっとした打ち合わせを、食事をしながらしたというわけです。最近、Movix京都で、メトロポリタンのライブビューイングを観たあと、高校時代の友人とよく行くタイめし屋さんで、軽くビールを飲みながらの打ち合わせでした。タイ系Youtubeを観たおかげで、「アローイ・アローイ」なんて言葉が、思わず口から出かかりました。


2019年 4月 3日(水)午後 6時 32分

 今日は休日、お出かけなしの日です。朝方は雨、寒々した雨。咲だしている桜には、どうなんでしょうか。寒さは、日持ちをさせるでしょうが、雨はいただけません。日に2回のウォーキングで、桜を、わりと目にすることができます。毎年1枚、「今年の桜」の写真を残すのですが、今年は、早々と、昨日撮りました。今年の1枚は「耳塚の桜」としました。


2019年 4月 2日(火)午後 10時 31分

 今日は、京都文化博物館の特別展「北野天満宮 信仰と名宝 ―天神さんの源流―」の関連イベントとして開かれたシンポジウム「北野天満宮の歴史と信仰」に行ってまいりました。このシンポジウムの登壇者は、竹居明男(同志社大学名誉教授①)さん、佐々木創(京都造形芸術大学非常勤講師②)さん、菅野扶美(共立女子短期大学教授③)さんの3人でした。まず、その3人の方から報告がありました。それぞれのテーマは、次のようなものでした。①天神信仰と藤原氏摂関家~平安・鎌倉時代を中心に~②文安の麹騒動~西京神人閉籠の歴史~③天満宮蔵「菅家文草」写本13巻の成立と享受。この報告、①は平安から鎌倉時代②室町時代③江戸時代の北野社に関するものとして、用意されたものでした。その報告のあと、主として、報告で足りなかった点の補足、質問に答えるという形で、パネルディスカッション「神宝が語る北野天満宮の信仰と歴史」が行われました。前回の講演でもそうだったのですが、日本史が苦手どころか、まるで解っていない黄紺には、かなりハードルの高いお話ばかり。ですから、②が歴史的に持つ意味だの、③の史料的価値を解かれても、完全にお手上げ。自分の器の小ささを自覚させられるばかりだったなか、個々のお話は難しいのは難しいのですが、黄紺の目にも見えてきたことが出てきました。怨霊を鎮めるとして建立された北野社、人を祭神とするばかりか、その人自身が、政界のとっても大物。誰しもが知る人が神と奉られている北野社も、仏教の優勢が固まるなか、本地垂迹が看られるようになると、天神信仰は、十一面観音が本地仏となぞらえられるようになってきて、北野社は、無病息災を祈るというように、新たな要素を吸い寄せてしまったようです。更に、菅原家というのが、土師の家柄だったことから、現代のような学問の神としての信仰が付いていったようで、それは江戸時代だったそうなんですが、その点が、えらく台頭してくるわけなどは、未解決の問題のようです。次に、北野社の力が強くなっていくのに、大きく貢献したのは、皮肉にも、大宰府追放に関わったと同じ藤原氏の一族だったことも、興味を引く事実。この辺のところが判ったのが成果と喜ぶのではなく、この辺を了解のうえ、今日のお話を聴けていたら、さぞや実りのあることだったと思う一面、でも、日本史の基礎の1つに気づいただけでも、今日、京都文化博物館へ出かけた値打ちというものがあったのではないかなと思っている黄紺です。


2019年 4月 2日(火)午前 6時 5分

 昨日は、久しぶり、繁昌亭に行く日。昨夜は「第5回上方落語若手噺家グランプリ2019<予選第一夜>」があった日でした。毎年、予選を1回観に行くと決めている会。今年は、ほとんど行くことを止めようかと考えていたところ、ほんの数日前に気が変わり、行くことにしました。久しぶりに繁昌亭に行きたくなったのでした。コンペととなった番組は、次の通りです。呂竹「寄合酒」、三実「六波羅探題」、新幸「厩火事」、ぽんぽ娘「ブスの品格」、咲之輔「いらち俥」、(中入り)、紋四郎「皿屋敷」、秀都「鉄砲勇助」、喬介「七度狐」、紫「手向け茶屋」。前説として、今日の審査に当たる米二、枝女太、あさ吉の3人が出て、趣旨説明、ルール説明とともに、審査についても説明。開演前、ロビーで竹林の姿を見かけていたので、昨年同様、若手育成委員会の噺家さんが審査に当たることは予想できていたので、その確認になりました。毎年、委員の中から、予選4回を全て審査する噺家を1人置き、3位からの繰り上げファイナリストを決める役割をするそうで、今年は米二が、その任に当たることも明らかにされました。去年までだと、あと梅団治や鶴二が入ってたのかな、なかなか適任と思える渋いメンバーなので、予選突破者の選考は信頼度の高いものと考えています。今日の出場者の顔ぶれを見たときに、ビックタイトル・ホルダーが1人、即ち喬介ですが、いるわけなので、正直、2位&3位争いになるだろうというのは、公平なところ。喬介以外でも、紫と咲之輔も、喬介ほどビックでなくとも、タイトルを手にしたことのある噺家さんですから、有力者であることは間違いなく、それに加えて、ぽんぽ娘の扱い、同様に三実の扱いも気になるところでした。新作派の中でも、ぽんぽ娘はピンク落語をネタ出ししてましたし、三実は、独特の感性が光る噺家さんですので、その取捨が注目に値すると思われたのです。年期の一番浅い新幸も有望な噺家さんですし、2位3位争いは伯仲するかもと思っていました。順を追って印象をメモっておきます。呂竹は、運悪くトップ。その緊張と時間の縛りを意識したからか、普段の口演を、90%ほどに圧縮したようなものになり、いつもの間ではなかったように思えました。三実は、やはり独特な感性での新作。ネタふりがうまく回り、好演。取捨の問題と看ました。新幸は達者な喋りであるのは、普段の実力通りの口演。ただ、黄紺的には、笑いを取りに行くあざとさが感じられ、好感は持てませんでした。ぽんぽ娘は、ピンク落語を繁昌亭仕様に仕立て、人情噺風味が前に出た作品になっていました。ピンク系くすぐりは1箇所だけで、それが却って、人情噺風味を出すのに貢献していると看ました。咲之輔にとっては、「いらち俥」は鉄板のはず。それの刈り込みがどうだったのでしょう。早足の男で、もうちょい遊んだらいいのにと思ってしまいました。もったいないことしたなの印象が残りました。紋四郎は、難しい刈り込みにチャレンジ。道行から始め、その道行の中で、皿屋敷についての説明がされましたが、長くできないということで、謂れの全貌をカバーできなかったのは痛い。そのわりには、ごちゃついた印象もあり~ので、ネタの選択の難しさを知ることになりました。秀都の口演は、毎度の如く、師匠文都の口調にそっくり。くすぐりまでもが、文都テイストなものだから、若い噺家さんなのに、空気はおっさん。その一方で、しっかりとした口調なものだから、この人も、どのように評価されるか、気になってしまいました。喬介は、らしさの詰まった「七度狐」を出しました。喜ぃ公のいちびりの冴える口演です。べちょたれ雑炊を食べ続け、この口演では、鍋ごと完食させてました。ラストは、構成を変えることで、時間内に収めました。ちょっと超過しないか気になり出したところでの切り替えでした。さすが、優勝候補の一角。断トツの高座と看ました。トリになった紫は「手向け茶屋」って、最初何をするか判りませんでした。自身の会でネタ下ろしをしたときを含め、この名のネタを持っていることは知っていたのですが、まだ聴けてなかったのですが、噺が進み出すと、「???」「お見立てやんか!」。江戸噺ということで、題名を変えたのでしょうね。上方で持っている噺家さんはいないわけではないのですが、「手向け茶屋」という名でやっている人、寡聞ながら知りません。で、口演ですが、紫のしっかりしたお喋りに、とぼけた味わい、グーな間と身体表現が、見事に炸裂しました。しかも、廓噺で、それをやってしまいました。最近、サービスのようにして入れるくすぐりなんかは、持ち味を消しかねないと思ってたのですが、この口演では違和感がなく、上々の仕上がりだったと思いました。全口演が終わり、全体的なクォリティの高さに、結果発表が待ち遠しくなってしまいました。1位はまだしもというか、予想通り、完全に抜けていましたから、2位3位は、誰を持って来るか、審査員を評価する気分で待つことに。まず、時間(8~10分)制限に抵触した2人の、事実上の落っこちが発表されました。新幸がオーバー、咲之輔が僅かに短かったということでした。このお二人、減点がなければ同点3位だったとか。そして、結果は、次のようになりました。①喬介②紫③ぽんぽ娘。タイトルホルダーが①②を占めましたが、納得の出来だと思いました。③のチョイスに、黄紺は「オーっ」と声を上げてしまいました。ぽんぽ娘にというより、審査員に拍手をしたかったのです。ついに、ぽんぽ娘が評価された、それをした審査員、お目が確か、広い視野に大拍手です。コンペって、審査に対する信頼っていうのが大切ですから、この広い視野のある審査に、その信頼度というやつが、ぐぐーんと上がりました。ファイナルの審査員は、どうだかは知りませんがね。





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