2024年 2月 3日(土)午前 6時 43分
昨日は、京都でハシゴをした日。午前8時40分に自宅を出て、帰宅したのは、午後5時を僅かに過ぎていた。こういった日が、まばらだけど増えています。数年前までは、わざわざ分けていた。1日1回のお出かけを考えてたときは、そのようにしていたが、最近は、効率を優先。余った時間は、自宅で気ままに過ごそうとしているが、それが難しいというのが、最近の傾向。美術展巡りが増えているのが原因。腰のことを考え、何年もの間、日本ではミュージアムの類は行かないとしていた時期があった。最近は、腰の不安を抱えながらも、うまく回ることで、腰に負担をかけないようにすると大丈夫となっている。日本画や現代アートといった、かつては見向きもしなかったジャンルに関心が出てくると、どうしても行きたいところが増えてしまう。週末は、空いていることが判ってる美術展しか行かないから、自ずと平日が窮屈になるという傾向だ。今週のお出かけは、昨日で終わり。来週も、空いているのは火曜日くらいじゃないかな。
昨日のハシゴは、2つとも市民向け公開講演会だったのだが、まずは、金曜日ということで、アスニー京都へ。昨日は大谷大学との連携講座ということで、同大学文学部歴史学科講師の大艸啓さんのお話で、お題は「五条大橋が語る京都の歴史」というものだった。このお題では混むだろうと予想しながら、座布団を忘れた。座席の半分が堅い椅子なものだから、そういった予想が立つときは、用意して行くようにしているが、昨日は忘れた。辛うじて、最後尾の端っこが空いていた。端も重要なポイント。トイレを考えてのことだ。ただ、昨日のお話は、さほどおもしろいものではなかった。ネタが、存外、少なかった。緻密さの欠ける部分もあり、ちょっと引き気味だったが、こういったときって、寝ないんだね、不思議だ。現在の五条大橋から、お話はスタート。「擬宝珠」「おうぎ塚」「みそそぎ川」「弁慶と牛若像」、それに、「説明版」が、現在の景観を作っているということで、それを具体的に追われた。史料的におもしろいのは「擬宝珠」。その一部に文字が刻まれているのだ。それを、全文紹介していただけたが、予想が立つように改修の記録のようなもの。なかには、流された故の改修もあった。それら、記録があるはずなのに、それをまとめないというラフなお話。この手のことが、他にもあったな。そういった意味で緻密さの欠けるお話と書いたのだ。「おうぎ塚」も石碑があるなら、その記録もあるだろうに、推測で終わっている。確かに、あの辺、扇屋が多かったようだ。中高の同級生の家が、あの辺の扇屋だったことを、ん十年ぶりに思い出したから、妥当だとは思うけどね。「みそそぎ川」は、「ブラタモリ」で紹介され、その誕生のわけを知ったが、それの繰り返しだけど、五条大橋と関係ないやん! 橋のところで、この川は終わってるということだけが、取り上げた理由。この辺りで、ネタが少ないことに、自分的には気づき出していた。「弁慶と牛若像」はあるのだけど、その話は、誰でも知っている。あの話が、なんで、五条大橋になってるのか、説話なんかで、どうなってるか、専門家なんだから、おせてよ! 「話が本当でも、この橋ではありません」とフライング。「歴史概観」というパートで、そのフライング話が出てきた。いろいろと名称は変わってるそうだ。この辺は、実証的にお話をしていただけた。「都への入口」としての重要性、そういった人寄り場所だったからか、「施餓鬼会」の行われた場所だったとか。そして、秀吉の登場。付け替えの張本人です。大仏造営、アクセスとして、この付け替えが行われた。「洛中洛外図」でも、その様子が、よく判る。大仏の位置と橋の位置の確認ができた。最後のセクションが「付近に残る昔の痕跡」。1つは「天正の石柱」。扇塚の近くに立っている。あんなところに立てかけてあるってことは、地震で崩壊したまんまにしてあるわけがない、記録があるだろうに、追いかけてない。あかんやろ、それ! 2つ目も、自分で実証されるようになったけど、付け替えの責任者は誰かは知らないが、公的な組織が付け替えやってるはずだから、記録があるだろうにと思うのに使ってくれなかった。住宅疎開だったっけ、五条通の拡張。そこで拡げられた五条通に合わせるように橋ができた。そのときに、それまで使っていた板橋を残したまま工事をして、新たな橋が完成したときに、板橋を取り外したため、その橋脚跡の木が、川の中に残っているというトピック。このトピック自体は初耳で、とっても、おもしろく聴いたけど、実証的に、緻密に話して欲しかったな。とまあ、突っ込みどころ満載のお話。ただ、大艸さんの生家は五条通沿いだったそうで、おばあさんから、疎開での取り壊し前の様子を聴いておられた。そのお話の紹介はおもしろいものがあったことは事実。この講演会、弟が、久しぶりに現れた。午後も、同じ会場で講演会を聴くことになっているというので、昼食を一緒にしようということになったが、狙いの店が混んでいたので、結局、中止になった。
黄紺は、午後の部のために移動しなければならなかったので、ググると徒歩で45分かかるというので、できれば、歩き始めで食べたくなかったこともあり、別々でに、あっさりと同意したということ。中立売通にあるネパール屋さんに狙いを着けていたのだった。他の店に比べて、ナンが厚め。食感は、薄目の方に慣れてしまってるから、いまいちだったが、替りにボリュームがあり、満腹。昨日はチキンカレーだった。午後の行き先は同志社大学。到着が、少し早かったので、御所の無料休憩所で休憩。めっちゃ、きれいになっている。ん十年前のことしか知らないから、びっくりした。同志社大学では、こちらの人文科学研究所の連続講座「差別と抵抗からみた『日本近代』」(全3回)が始まったのだ。黄紺は、都合で、前2回だけの参加となる。昨日は、「19-20世紀転換期の日本社会と『救済』観の変容」というお題で、同大学人文科学研究所准教授の関口寛さんのお話を聴くことになりました。ただ、こちらは、序盤で寝落ちしてしまってる。丁寧なレジュメをいただいたので、それを基にメモを残すことにする。ポイントは、明治になり解放令が出され、施策も行われ、やがて水平社宣言へと至るわけだけど、そういった近代の新たな展開のなか、政府なりが、どのようなスタンスで、被差別の人たちに当たって行ったのか、それを「救済」というタームを使われているが、その具体的な施策ばかりか、その背後にある思想的根拠となるものを追いかけてみようとの試みです。研究というのは、ときとして、思わぬ問題を提示してくれるものですが、これも、その1つです。ヘイトが巷に溢れかえる一方、確実に、差別を支えてきたもの、それを抜け出そうという試みの根本を探究している。この乖離が、正直、恐ろしいというか、キモいものを感じてしまってます。冒頭で、マーク・マゾワーという歴史家の紹介があった。20世紀をフィールドにして、その分析が注目されている人物だそうだ。20世紀を、「民主主義国家」と「福祉国家」をリンクさせた時代だとの認識を示したそうで、社会的マイノリティに対する「包摂」と「排除」の政治を通じて「人種的福祉国家」が形成されたと説いているそうだ。この時期に登場した「救済」の政治性を追求するとして、具体的に紹介されたのが、この時期は、科学的新しい知識の登場で人間の生命のライフスタイルに政府が関わってきた時代で、「健康」や「社会的適応」に、政治は向かったという。確かに、「福祉」の名の下で、それは行われた。そこに潜む政治性、それが、やがては、被差別部落に対応する施策にも現れる、その類比的な探究をしようとの試みのようです。「近代以前の救済として、『非人』が取り上げられた、『非人』になるためには奉行所の許可が必要、認められると、物乞い(願人坊主もこれ!)や御救小屋での食事や医療が保障された、救済だ、障害者や病者は、今日の「病」「障害」概念では捉えられず、「祈祷」の対象に」「1871年、身分解放令=『非人』制度廃止、恤救規則(じゅっきゅうきそく)の設置、公的救済を目的として、日本で初めて統一的な基準をもって発布したもの」「井上友一、、、イギリスの救貧法を『施与主義』として批判、『授産主義』に基づく防貧授業を説く、この思想が戦前期社会事業論の原則になる」「科学的知見に基づいた欧米型社会事業の移入、留岡幸助、進化論から派生した『系統樹』が説かれ、人の成長の中で進化の過程を経験していくため、衛生や栄養などで劣悪な環境で生きてきて起こった器質性変性が遺伝的影響を子孫に及ぼしていくなどといった知見が拡がる、巣鴨周辺に社会事業施設」「救済の制度化、、、貧民研究会、感化救済事業(1908年以後、内務省が進めた社会改良事業)、施与主義が配され科学的知見に基づく救済と予防策を講じる」「遺伝と環境が人生を運命づける重要な課題とする知見、、、一方で、それで救済を受ける人々を『寄生虫』と呼ぶ」「こういった事業の展開、知見に基づき、部落改善政策が始まる、1908年特殊部落研究会(留岡幸助の呼びかけ)、1912年初めての全国的組織となる細民部落改善協議会発足、留岡の認識は、環境と遺伝の知見が生きている、犯罪者や非行少年の更生・矯正の技術の援用になる」「米騒動と被差別部落主導説も、こういったコンテクストで出て来る、それに対し、崇仁出身の明石民蔵の現状告発、抗議の言葉が出て来る、、、水平社へと繋がって行く(devam,,,,)」。しっかりとしたレジュメをいただいたので、メモを手繰って行くと、お話の内容が復習できました。なかなか、おもしろい、知的にも刺激を受けるお話。次回が楽しみです。
帰りは、三条まで徒歩移動。結局、アスニー京都から同志社大学経由で三条まで歩いたことになる。熟睡できたはずです。この同志社からの帰り道のハイライトは、御所の東沿いの道、京都で一番の道かもしれません。 |