2024年 9月 18日(水)午後 9時 48分
今日は、朝から出かけて、京都と大津で市民向け公開講演会に行った。今日は水曜日ということで、朝の部はアスニー山科、午後は滋賀県の文化財講座「花湖さんの打出のコヅチ」。山科から大津への移動だから、とっても効率がいい。お昼は、琵琶湖畔で買って行ったパンをかじった。近くのサラリーマン氏も、弁当を食べてる、いい場所。食後は、しばし読書。そして、びわ湖ホールに寄ってから、会場のコラボしが21へ。でも、この間、しばし屋外にいたのがまずかったようで、始まるまで、椅子に座ってぐったり。始まってもぐったりで、冒頭の1/3が吹っ飛んでしまった。2日程前も、外から自宅へ戻ってくると、1時間程、椅子に腰かけたまま寝込んでしまってた。身体が、椅子に吸い込まれそうになったのだけは覚えてたので、これも、今日と同じようです。気を付けてるはずの熱中症らしきこと、発生しています。
アスニー山科では、「京都の風流踊り再考」というお題で、八木透(佛教大学教授・京都民俗学会会長)さんのお話を聴くことができた。全国で41件、「風流踊」として、ユネスコ無形文化遺産に指定されたものがあり、その内3件が、京都市内で行われている。それを中心に、指定はされてないが有名なものとして2件、それを具体的に辿って行こうという流れのお話。冒頭、「風流踊」の定義づけのようなお話があった。中世に起源を持つ民俗芸能、「風流=music and dance」とされ、エンターテインメント性の高いものとされた。「風流能」というタームがあるが、それに使われている「風流」の意ですね。取り上げられた「3(①②③)+2」の「風流踊」は、次の通り。①やすらい祭②六斎念仏③久多花笠踊④はねず踊り⑤八瀬赦免地踊り。①は、アスニー京都での祇園祭だったかの講演か、京都学講座の何かで、これを紹介されたことがあった。他の講演会でだったかもしれないが、これについては、聴いたことがあった、また、花笠の画像、その祭りの様子の映像を観たことがあった。だから、エンターテインメント性が強いというのは、よ~く判っている。剣を持った若い男の激しい踊りが見せる、正に、エンタメ感の強い祭りだけど、これは、「念仏踊り」が基にあったのだろうとの指摘。この祭り、疫病退散を祈願するもの。春、桜の花が散るとともに、それに乗ってやって来る疫病の退散が眼目。花笠の下に入り、疫病から身を守る(これは今も続く!)、また、亡くなった人の鎮魂を願い、念仏踊りをする。根本はそれで、エンタメ的要素が加わって行ったのだろうとのこと。この祭り、今宮神社の摂社である疫神社の祭り、紫野界隈となると、近くに船岡山があるということで、船岡山の御霊会だったことが想定されると言われていた。「疫病」「死」「葬送」「船岡山」という流れですね。②「六斎」は仏教で言う「六斎日」から来ており、悪鬼が出て人命を奪う日だから精進潔斎をして念仏を唱える日。だから、元来、念仏を唱えるだけだったようだ。そういった伝統的な「念仏六斎」の流れと、空也の踊り念仏(芸能六斎)の流れが合流したのが、今に伝わるもののルーツのようだと言われていた。要するに、ルーツが2つ考えられるとのことです。前者を「光福寺系」、後者を「空也堂系」という言い方をされていた。芸能六斎は進化する。伊勢の太神楽(獅子舞)を取り入れたり、流行りの芸能を取り入れていく。その1つに、祇園祭の「棒振り」(祓いの業)が入ったのが、現在の六斎念仏の名物になっている。八木さんも触れられていたが、綾傘鉾が復活したとき、棒振りも復活させようと、その棒振りを六斎念仏に学んだということを聴いたことがあったが、これって、元に戻ったってことだよね。③は、これは、アスニー京都で、これ自体をお題にしての講演会を聴いたことがある。実は、そのとき、初めて久多という地名も知った。そして、花笠踊なるものを知った。映像も見せてもらった。最も、中世を感じさせるもの。ただ、久多は、行政的には京都市左京区だが、文化的には、滋賀県の朽木村のそれだということだった。似た芸能が存在しているのは朽木村だけだそうで、どうやら、この辺りの木材を伐り出し、川を伝って流していたそうだ。その筏の安全を祈願するというのが出発点だろうということだ。最も、中世的なのは宮座組織が残っており、それが機能して、祭りが行われている点だそうだ。お話の多くは、その宮座の活動を押さえながら、祭り当日へとの動き、そして、祭り当日の様子となっていた。風流踊の特徴としては「灯籠踊り」という点。灯籠に付ける造花製作が大変。その制作風景は、以前の映像を憶えている。実に精巧な造花を作るんだよね。それを、昔は被ってたようだとのこと。今は、それを持ち、実に緩~い踊りを続けるというものです。④は随心院に伝わるもの。深草少々の百夜通いがモチーフになっている。ここにも死が付いてくる。死者の供養を目的としたものだそうだ。「はねず」とは、薄紅色の梅花の色を表すのだそうだ。⑤は八瀬だから、八瀬童子を思い出す。天皇家との関りがあるということで、延暦寺との結界でもめたとき、八瀬側有利な裁定が下り、それを記念しての祭りごとだそうだ。そこで、「赦免地」という呼称が付いているとか。これも「灯籠踊り」だそうだ。④も⑤も知らなかったが、八木さんの口ぶりだと、かなり有名なものと看た。それなのに、ユネスコ無形文化遺産登録に入らないのは、まずは府の指定に入ってない。それは、長い歴史を持つというわけではなく、ないしは、それを証明できないで、近代以降、盛んになった、登場したということに原因があるそうだ。①②③は、たまたま、パフォーマンスの動きを知っていたので、お話の内容と、頭の中で結びついたが、画像だけでは、なかなか難しいよ。それが証拠に、④⑤のイメージって、全く湧かなかったもんね。いいお話が、勿体ない。でも、こういった民俗芸能の話は楽しいよね。歴史学の守備範囲はいっぱい出るが、民俗学は稀というのは、如何なものでしょうな。これも、市民向け公開講演会の偏りの1つですね。
「花湖さんの打出のコヅチ」は、今日が、今年度の第5回、お題は「建造物文化財修理の最前線~国宝延暦寺根本中堂①・重文不動寺本堂②を中心に~」。お話は、県文化財保護課の若き専門家3名の方が担当された。①長谷川聡子②福吉直樹③として「文化財建造物の耐震対策について」を坪田叡伴の皆さんでした。で、①でぐったりしてしまったのだった。だから、根本中堂関係は、ホント、全く聴けてない。②の不動寺、知らなかった。場所的には大津市内になるそうなんだけど、福吉さん、アクセスには山道1時間歩かねばならないと言われていた。ヴィジュアル的に、とっても見栄えがする。舞台という表現を使われていたけれど、岩の上に柱を立て、その上に本堂が造られている。しかも、構造が2重になってると言われてた。ということは、別々に建てたってことなの? 信じられない地形のところに、何をしてくれるのかと思うほど、気になる寺だ。念のために、ググってみると、確かにアクセスが厳しい。グーグルマップでは、アクセスを出すのを拒否されてしまった。重文だそうだ。かなり朽ちている。それの修復作業を紹介していただけた。檜皮葺って、耐用年数が35年と言われていた。それを、かなり上回ってるから、雨の影響なんでしょうね、木は雨に弱い。屋根の貼り換えどころじゃない。腐ったところを変えねばならないが、彫りのある箇所は、そこだけ剝ぎ取るかのようにして残す。新しい木材に剥ぎ取ったものを貼り付けるなんてことで、残さねばならないものは残すをいう姿勢を貫いていた。そういった箇所は、新たな木材と旧の素材の齟齬をきたしてしまうということで、柿渋を使って、似た色合いで合わせるということをしている。清水の舞台のような構造になっている支えの木が朽ちている。でも、その部分だけど、なんちゃら工法を使い、朽ちている部分だけ,取り出し、新たな木材に替えるということもやっていた。それに加えて耐震補強をする。その方法については③でまとめられていた。できるだけ、外観に齟齬をきたさないような補強。だけど、幾つか、同じ時期に補強を行わねばならない場合には、補強箇所の優先順位を考慮するので、外観優先とは限らないとのお話だった。梅小路公園の場合は、外観は次の次の順序になったとかで、補強のクロスした補強材は、外から丸見えであった。だが、他の箇所より優先順位が上がった場合を想定して、補強材の取り外しに配慮してあるんだって。その辺の着想、それを実現する技術的裏付けって、凄いね。そんな知らない話のオンパレード、いい勉強になりました。なかなかの好企画です。あまり聴く機会が多いとは言えない分、楽しませてもらったという実感が残りました。 |