2025年 3月 26日(水)午前 8時 26分
昨日は、3日ぶりのお出かけ。朝から出かけて、大阪でハシゴをした。平日の午後に、動楽亭で落語会があるということで、それに合わせて、そういったときのためにキープしてある美術展に行ったのだ。朝から行っても、混む心配のない美術展は、こういったことのためにキープしてあるのだ。その行き先は、国立国際美術館。ここから動楽亭に回るときは、福島駅から環状線に乗るので、駅までの間にある、おなじみのタイ屋さんで昼食。奥さんお一人できりもりされています。昨日は、ガッパオにした。今まで、こちらのお店でガッパオを食べたのは、まだ、ご主人が存命中で、そのご主人の作られたものしか食べたことがなかった。ごく僅かだけど、ご主人の味付けと違った。エスニック度が和らいだ、ホント、ごく僅かだけど。日本人とタイ人の味覚かと思ってしまった。どちらも、美味いけどね。
国立国際美術館では、コレクション展の方だけ行った。企画展は、まだ、会期が長いから、また、動楽亭に行くときに行くことにします。今回のコレクション展には「Undo, Redo わたしは解く、やり直す」という副題が付いていた。今回の展示の章立てには、「絡む」「縫う」「編む」という、針や糸といった素材と関連するタームが使われていた。それらは、仕事として、女性の属性のように扱われていた、そういった仕事しか、女性が仕事をする場合、関わることができなかったということに繋がるということが、冒頭のキャプションに書かれていた。そのため、女性作家の作品が多く、また、糸やファーバーを使ったアート系の作品をピックアップして展示されているようだった。そういった中に、タイガー立石や横尾忠則の作品が、最終の章立て「歴史を編みなおす」に入っていた。タイガー立石はともかくも、横尾忠則は健在なんだけど、で、展示のコンセプトと、どのように繋がるのか、これは解らなかった。タイガー立石は「荒野の用心棒」、グランドキャニオンにすっくと立つ侍(用心棒)。横尾忠則は「A. W. misses M. D」でニューヨーク(1969)という年号入り)、「De Chirico misses Böcklin and Nietzsche」でヴェネツィア・ビエンナーレ(1993)と、地名と年号入り。前者は、現代の無機的な社会を相対化しようとの試みかなと思ったが、後者は、お題からしてお手上げ、どこにニーチェが、、、とお手上げ。これら以外では、先に書いた展示のコンセプト、方針といったものに沿ったものと看た。冒頭に戻る。ここの展示室前の広いスペースには、「ルイーズ・ブルジョワ、ルース・アサワ、レオノール・アントゥネス」という章立てとなっており、3人の作家の作品が1点ずつ展示されていた。アート界で著名な作家のようだが、もちろん、知らない。キャプションの支援を受けても、不明なままのものもあったが、この文字による支援て、自分には大事。作品の背景を知ることも大事だしね。ルース・アサワは日系アメリカ人で、収容所生活の経験を持つ、そういった時代の作家。そのためワイヤー彫刻を制作した作家。鉄柵を連想させる。「無題(S.317、壁掛け式、中央部は開いた五芒星と枝が重なりあう形にワイヤーを縛ったもの)」という作品だが、「五芒星」って、陰陽師のあれ? 形的にはそう見えたけど、呪術的役割なの? レオノール・アントゥネス「道子#6」のお題に出てくる「道子」は山脇道子を指すそうで、バウハウスで研鑽を積み、帰国後、制作に励むも、結婚後、その習俗の拘束を受けたということで、決して、満足な作家活動をしたわけではなかったということで、その「道子」が作ろうとしていたもの、そのデザインに基づく作品だそうだ。ちょっと、物語、背景が長すぎる。ルイーズ・ブルジョワは、布素材を使い、首のない、2人の人間が、重なり合っている姿を表す「カップル」という作品。素材となっている布に意味が込められていたようなんだけど、だとすると、これも物語が長い。展示室に入る。「絡み合う素材と関係」というお題のコーナー。冒頭に、塩田千春ものが3点、内2点は写真「眠っている間に」という同じお題。「記憶の独立」という現物が3つ目。写真であろうがなかろうが、赤い糸に包み込まれている人、人、人、、、。これが共通している。単純に生きにくさだろうか? 糸と繋げて、女の生きにくさ? 寺内曜子「Hot-Line89」は、電話ケーブルが素材。確かにファイバー系だが、外側を強固に包まれた、内なるケーブルを露出させての造形。この包むと露にする、それが、造形の趣旨のようだ。それができる素材として電話ケーブルを選んでる。というようなことが、キャプションに書かれていた。まだ、この辺は納得がいったが、工藤哲巳の作品群になると、キャプションを読んでもイマジネーションが働かない。ヴィジュアル的には興味は行く。糸巻きでぐるぐるに巻いている、糸の色彩も、何かの要素みたい。鳥かごに入った糸巻きの造形、
やはり「かご」となると、「拘束」「制約」といったことから、「内」「外」を考えてしまう。内なる造形が判らない。大きめの変形糸巻きの造形は、何なんだろうね? カンボジア人作家ソピアップ・ピッチは、竹を使ってのかなぁ、格子状に組み、それを、キャプションによると「グリッド線」とし、「西洋」を表すとしていたが、解らない。それと、アジア的素材の「竹」との接合。カンボジアという個を、そういった形で表していると考えればいいのだろうか? ヴィジュアル的には映える作品。「縫うこと」が、次なる章立てだが、前の章と混じりながらの展示。中央部にある大きめの作品が目立つ。加藤泉「無題」は、異形の女性が。天井から吊り下げられてある。しかし、手足の先には重しが付けられてあり、これも、「拘束」を連想させる。そもそも、天井から吊られているというのが怪しい。「拷問」を受けているようにすら観えるからだ。石原友明「I.S.M.(スカート)」は、形状からして、また、お題からして、「女性」を連想させる。それと、パンパンにはち切れそうな物体の集合体で全体の形状をなしているのが気になる。それに意味づけをした書き方をしてあったキャプションを読んでも、理解不能。「はち切れる」は、「はち切れた」を連想するように仕向けてるのかな? で、「内」と「外」を連想するということなのかもしれない。その辺のことを指摘していたのかな、キャプションは? 刺繍作品が2人の作家から出ていた。伊藤存「草の骨」は、自分の中の刺繍の概念のままだが、竹村京の一連の作品は難解。下絵(肖像画だったり)やグラスなんかの物体だったりにレースが被せてあり、そのレースの一部に刺繍が施されているというのが一貫している。肖像画だと、下絵の顔の部分に刺繍があり、下絵の顔を観えないようにしてるんだが、瓶状のものの、何でという部分に刺繍がある。誰か、その意味を教えて欲しい。内藤礼「死者のための枕」2点は、同じ題名で、ほぼ同じ形状の小さな作品。レースで編んだ枕、内部は空洞。「死」と「空洞」を結び付ければいいのか、、、? 草間彌生も出ていた。「銀色の希死」という大部な作品。「彫刻」という表現が、キャプションに使われていたが、水玉模様ではなく、それに類似した玉入れの玉のようなものの組み合わせのような作品。中央に棺を連想させる物体が置かれてある。周りは、靴やサンダルと玉の組み合わせたもので囲まれてある。最大の特徴は、それらが、全て「銀色」だということ。お題の「希」は、何を指しているのか? 石内都の作品群は、人の身体にできた「傷跡」を撮った写真の作品。その「傷」、全て「手術痕」だった。これも、「内」と「外」を連想させ、「境界」をテーマにしている。人が感じる「両義性」「畏怖」といったものを、この作品は、強く印象付けますね。片山真理の作品が2点、義足のアーティストだということを思い出すのに、さほど時間は要らなかった。デコラティブな部屋、自分自身を被写体にする、これが、この人のモットーですからね。青木綾子は、パッチワーク作品。布によるコラージュだなと見ていたら、それをパッチワークだと言うこと、言葉が後から出てきてしまいました。ブブ・ド・ラ・マドレーヌ「人魚の領土―旗と内臓」は、2度目の遭遇。これも、「内」と「外」だ。体内が見え、内臓が、身体を越境して、外にこぼれ落ちている。それを幻想的に見せてくれます。「産む」性を連想させるものがありますね。「歴史を編みなおす」という最後の章立てで、まだ、メモってなかったのがある。芥川(間所)紗織「‶神々の誕生‶神話より」、福田美蘭「緑の巨人」、この2人の作品は、名古屋市美術館、しっかりと堪能しています。清水晃「作品集『目沼』」は、ここの連なりに入ってるわけが、判らなかった。写真だけど、それを加工してある。お遊びなのか、それとも、メッセージ性があるのかも、解らないままだった。スターリング・ルビー「BC(4964)」は、アニメーション作品。過去の死者を登場させる、しかも、虐殺の犠牲者らを。緑溢れる世界に、彼ら彼女らを蘇えらせている、深い鎮魂の思いに溢れた作品と思えた。そして、ラストを飾ったのが、手塚愛子「織り直し #04」「Ghost I met」。前者は、岡崎で、この作家の展覧会を観たときに、同様の作品は観たけれど、後者は、全くの初体験作品。織り方を変えながら織り、且つ、絵を重ねている。黒っぽい影が「Ghost」に観える。キャプションに書かれてある、そういった技術的なことを知れば、想像を絶する織り方をしていることが判った。岡崎で観た感動が蘇りました。めっちゃ、楽しめる展覧会、企画展を観に行ったときに、もう一度、入ってみましょう。
動楽亭での落語会は、「出没!ラクゴリラ〜お昼寄席〜」。大変な人が詰めかけた。少し早く到着したので、寄り道をしてから会場へ。それでも、コンビニへの角で並ばねばならなかった。開場時間20分前でそれだった。人気のほどが判ります。番組は、次のようなものだった。花丸「鉄砲勇助」、生喬「初天神」、(中入り)、南天「強情灸」、文三「高津の富」。前座なしの公演。出番も、当日のお楽しみだった。花丸は、客の多さでひとしきりマクラをふり、ネタへ。花丸流の、オリジナルな、それも、本来のテキストに沿ったいじりが冴えわたる。なのに、後半に寝落ち。美術館で、体力を使ってしまった模様。生喬の高座なんて、ネタが何か、覚醒したとき判らなかったほど。最後まできっちりやってくれた「初天神」。他の方のTwitterを見ると、かなりマクラ&前半でスパークした模様。残念! 南天は、ブリーゼの独演会用のマクラのお試し。枚方での米朝一門会終了後のお話。お試しは成功だと言ってました。ネタをするのだろうかと思うほど、長いマクラ。久しぶりに聴く「強情灸」は、極上の出来。文三も、負けじと長いマクラ。完全に、前の3人に反応したんじゃないかな、長い、おもろい、だから、ここでも、ネタするんかいと思ったら、「マクラとは関係ないですが、、、」「皆さん、ご存知でしょうが、、、」と前置きをして、「高津の富、やります」と言って、ネタに入りました。この文三の「高津の富」も久しぶりだったけど、これまた極上! めっちゃ、文三の人柄が入った口演が、なお嬉しい。やっぱ、この4人は、凄い! 5月にも平日昼公演あるけど、どうしましょう、人が多いの嫌だけど、あまりにもいい落語会だしと、悩んでいます。 |