忙中閑あるかな? 黄紺の日々


トルコのこと、キプロスのこと、こんなことを主に、日々思うこと。ときどき、韓国のこと、 日本のことも混じるかも? 仕事に忙しくっても、頭のなかは、トルコのこと、キプロスのこと考えてる。 頭のなかは、いたって長閑。それが、、、、、、
黄紺、なのさ。



2016年 4月 13日(水)午後 11時 16分

 今日も落語を聴く日。今週は、繁昌亭と動楽亭とに交互に出かけるという日程になっています。今日は動楽亭の日です。今夜は、こちらで「生喬百席 第三十夜」がありました。生喬が、こちらで毎月続けている会。毎月必ず行けているというわけではありませんが、黄紺的には、優先度の高い落語会の一つであることには変わりありません。その番組は、次のようなものでした。生喬「天狗刺し」、ぽんぽ娘「引き出しの多い女」、(中入り)、生喬「親子酒」。今日の生喬の2席は、いずれも、さほど長くはないもの。今日は、マクラでの近況報告的な話はなく、むしろネタを見越したものという正攻法。でも、これが珍しいと感じさせるのが、この会ですね。「天狗刺し」は、松枝からもらったものとかで、それにまつわる話が、プログラムに書かれてありました。「天狗刺し」と言えば、松枝が米朝からもらった数少ないネタの1つのはず。その原型は、二乗の口演なんかで、現在聴くことができますが、それから見ると、本筋は外さず、細かな言葉使いは生喬風味になっていました。最後は簡潔にということからでしょうか、山から降りてきて、最初に出会った人に坊さんと指摘され、下げに向かうというものでした。「親子酒」は松喬からだそうなのですが、最近、よく聴く雀三郎版に比べて、かなりクラシックな印象。父親が、酔って帰って来て、呆気なく寝てしまうのは、さほど変わらないのですが、伜の部分は、この噺の聴かせどころとばかりに、随分と肥大化していってることが、今日の生喬の口演を聴いて判りました。ケンカを売るような感じになるのと、注文をするときのやり取り、そして七味をかけるところで、もう引き上げたものですから、ちょっと拍子抜けしてしまいました。一方で、この部分が長いと、せっかくいい下げが待ってんだから、さっさと行けよと思ってしまいますから、いずれにしても、一長一短ってところでしょうか。ゲスト枠は、喚ばれた本人が、一番そうだったように、意外な人選。緊張しまくりのぽんぽ娘でした。この会は、全3席で、ゲストにも、たっぷり系のネタをしてもらおうとの趣向。おまけに、生喬の会に集う客というのは、オッサン中心で、且つコアなファンが集まるというのが通り相場になっているというのは、かねてから言われ続けてきたこと。当然、そのような話は演者さんにも知れ渡っていますから、ぽんぽ娘は、生喬に声をかけられた時点から、驚きと緊張だったようです。内容は、昨日、繁昌亭でメイド漫談で聴いたこと、文福一座の村回り公演でやってるベタな小咄、そして、自作のネタというものでした。濃〜いキャラのため、なかなか普通の落語会に声をかけてもらえないぽんぽ娘、それを、2日連続で聴けたことで、黄紺は大喜びだったのですが、ぽんぽ娘の緊張が半端じゃないことは、客席から観ていて、とってもよく判りました。



2016年 4月 12日(火)午後 11時 37分

 今日は、落語会と講談会の二部制の日。ちょっとした贅沢です。昼間は繁昌亭の昼席。雀三郎のトリ、新治の中トリということでのチョイス。その番組は、次のようなものでした。瓶生「牛ほめ」、三幸「How to playboy」、米左「豊竹屋」、ぽんぽ娘「メイド漫談」、恭瓶「転失気」、新治「紙入れ」、(中入り)、伏見龍水「曲独楽」、米輔「子ほめ」、文昇「紀州」、雀三郎「天神山」。瓶生は、多分初遭遇のはずです。さほど抑揚を付けずに、でも喋り口は悪くない噺家さん。程よくカットしながら、最後まで持って行ってくれました。三幸は、師匠に付いて行った外国話で、しっかりと客席との関係を作ってからネタへ。マクラと同じようなテンションでネタに入るのに成功。こうしたことに、三枝作品というものは、おしなべて貢献しますね。そして、三幸の口演が、頗るテンポが良く、前半の秀逸。三幸が、うまく暖めたからですね、ぽんぽ娘も、出からスムーズに受け入れられた模様。出番のある噺家さんを使っての言葉遊びは、毎回楽しいものがあります。恭瓶と米輔、キャリアから考えたら、もうちょっと洒落たネタを出して欲しいものです。新治の入り方は、「転失気」を受けての軽い小咄から。実にうまく、客席を味方につけてくれます。「紙入れ」もよく出しますね。今日の客は、単純なだじゃれに喜ぶような感じだったため、こうした艶笑系は家賃が高かったのか、後半の展開に、あまり沸かないという感じで、ちょっと尻すぼみ。新治には気の毒な雰囲気で終わりました。文昇の「紀州」も、繁昌亭では何度目か。地噺ですから、なかなか難しい。それを、文昇の持ち味なんでしょうね、飄々たる語り口が冴えました。近所のおもろいおっちゃんが、またおもろい話やってるって雰囲気。そして、雀三郎は「天神山」。マクラで変な人の話をやり出したので、ガッツポーズ。変な人の話では、春輔の話をいつもより多めにしてくれました。外の桜は、葉が目立つようになりましたが、雀三郎の噺では、桜が咲き乱れていました。春の陽気が、へんちきのような男を出してしまいそうな雰囲気。特に一心寺の一人酒宴が、黄紺は気に入ってます。
 繁昌亭を出ると、扇町のネットカフェなどで時間調整。そして、夜は、北区民センターであった「天満講談席」へ行ってまいりました。久しぶりに左の師匠を聴ける楽しみで行ってまいりました。但し、名古屋から来られるかの不安もあったのですが、、、。その番組は、次のようなものでした。南斗「鈴木久三郎、鯉のご意見」、南青「生首碁盤」、左南陵「隅田川、誉れの乗り切り」、南海「藤十郎の恋」。今日は、なかなかおもしろい番組となりました。そして、左の師匠も来られ、黄紺的には、久しぶりの遭遇になったしと、もうそれだけで満ち足りた気分。南斗くんのネタは家康もの。禁令を犯して鴨を食べた家臣を処刑しようとする家康に、誰も、それはやり過ぎと言わない家臣ばかりのなか、これまた、禁令の出ている鯉を食べることで、家康を諌める鈴木久三郎。また、その諌言を受け入れる懐の深さを見せる家康の大きさを描くもの。内容的には、上方ものとは思えないので、東西交流でもらったんじゃないかな。南青くんの「生首碁盤」も、ここまで遭遇できなかったネタ。ネタの少ない南鱗師が持っているのに、遭遇できてなかったんだなぁ。「鍋島猫騒動」の発端になる話です。どうやら、鍋島藩で、主家と従家が、何らの原因で覆ったことが伏線にあるようなのですが、それは、このネタでは語られず、碁仇の待った待てないから、刀が抜かれ生首が碁盤に並ぶということが、2世代に渡り行われたということが発端となっていました。南青くんによると、この騒動の発端には、あと1つあるそうですが、当然ながら、そないなところに踏み込んで行くわけには行かず、生首ができる経緯が読まれ、殺された検校が猫を可愛がっていたところから、猫の役割が明らかになってきた辺りで読み上げとなりました。確か、以前、南湖さんが、この鍋島騒動については、続き読みをされたはずなのですが、すっかり跳んでしまっているので、どなたか通しにチャレンジしてくれないかなぁ。左南陵師のネタは、以前にも1度聴いているのですが、家光ものなため、今日の口演の中で、左南陵師から、「二代目南陵の速記から起こした」ということを聴くまでは、左南陵師の東京時代のネタと思っていました。内容は、南斗くんのネタに、完全についたもので、諌言もので、こちらは、諌言されるのが家光だから、南斗くんの家康のように勘がいいわけではないのが、よくできたところ。諌める側には大久保彦左衛門も加勢するのだが、なかなか和解できない家光というのも、よくできています。そういった意味でも、天下治まったあとの雰囲気を活写していると言えるネタです。久しぶりに聴いた左の師匠、やっぱ、この人のリズムと畳み掛ける勢いは、他のどなたにもないものがあります。講談界で格好いいという言葉が当てはまる唯一の講釈師さんですね。トリの南海さんも、当然の如くお目当て。「藤十郎の恋」は、以前、1度、南海さんで聴いた記憶があります。マクラで、菊池寛の話が入り、その菊池寛の元ネタ的な話にまで及びましたから、南海さん自身の脚色じゃないかな。ましてや、あと、どなたもやられるのは聴いたことがありませんからね。「芸のためなら」で、筋立ては、芥川の「地獄変」に連なるものです。沢村藤十郎が、江戸から京に来演していた役者に対抗すべく、近松に新しい芝居の発注をすると、届いたのが「おさん茂兵衛」。他人の嫁さんと逃避行をしたうえ、心中をする話です。そこで、藤十郎が試みたのが、他人の嫁さんに言い寄るというもの。今日は、南斗くんの口演が、まだ口に馴染んでないなの印象を与えた以外は、それぞれ素晴らしい口演。あまり聴かないネタ、おもしろいネタというだけではない、めっちゃグレードの高いもの。2つの上方講談協会の定席でも、これほど充実したものに遭遇できはしないだろうという出来栄えだったんじゃないかな。いやぁ〜、聴きごたえがありました。



2016年 4月 11日(月)午後 8時 2分

 今日は文楽鑑賞の日。今月の文楽公演は、「妹背山婦女庭訓」の通しが出ています。今日は第1部を観る日。(初段)小松原の段、蝦夷子館の段、(二段目)猿沢池の段、(三段目)太宰館の段、妹山背山の段までが、前半の公演です。時間の関係なんでしょうが、二段目の多くは後半回しに。その結果、後半が、9時を回ることになり、猿沢池の段だけが、前半に繰り込まれるという変則編成。ここだけ、後半の主役になる藤原鎌足の息子淡海が出てきますが、天智天皇が追われたために、身を隠した釆女の行方話が出てくるということで、この段が前に持って来られたものと思われます。従って、前半は、蘇我入鹿の権力奪取話と、久我之助と雛鳥の出会いから、政争に巻き込まれた2人の死に至る物語、この2つに特化されていくという趣向の編成になり、却ってすっきりするという判断が働いたものと看られます。この「妹背山婦女庭訓」は、この前と言っても、もう6年前だそうですが、そのときに2回と、公演記録鑑賞会で歌舞伎の公演で妹山背山の段だけを観たことが、今までにありました。妹山背山の段は、久我之助と雛鳥が亡くなるところなわけですが、確かに名場面であることは、よく解ります。満開の桜に抱かれた吉野山、吉野山川に裂かれた妹山と背山、その川が久我之助と雛鳥を分かつ境界にもなっています。ましてや、2人は、ロミオとジュリエットの仲。両家は長年の仇敵同士。久我之助の父親大判事清澄と雛鳥の母親定高は、ライバル心剥き出しで対峙しますが、それを逆手に取り、入鹿に利用されたり、疑惑をかけられ、とどのつまりは、久我之助を自害に追い込み、雛鳥は、母親に首をはねられます。ただ、単なる意地の張り合いという子どものケンカにしてないところが、よくできたところ。自らのプライドを守るための意地、清澄は、天皇、自らの家を守るという大義のための意地というのが見えてきますし、久我之助を入鹿の下で苦しませないためという親心が見えてきます。定高も、入鹿の下に行くなら死を選ぶのが見えている雛鳥ならば、自分の手でという親心も見えてきます。そして、何より救いは、このいがみ合っている2人は、久我之助と雛鳥を、本心では添わせてやりたいという心を持っていることも見え隠れするという点です。文楽らしいむごい展開と、単純には括れないものを持っているように思えました。妹山背山の段は、前回は、住太夫さんと綱太夫さんという2人の人間国宝が、妹山と背山に分かれて、全段1人ずつで語られたのですが、現在は、切語りですら、咲太夫さん1人だということで、それぞれの山を、2人の太夫さんが、役割を決めて語られるということになりました。妹山の方は(定高)呂勢太夫(雛鳥)咲甫太夫、背山の方は(清澄)千歳太夫(久我之助)文字栄太夫でした。三味線も前後半で交代ということになっていました。この段は人形の方もすごい顔触れ。(定高)和生(雛鳥)簑助(清澄)玉男(久我之助)勘十郎といった組み合わせでした。



2016年 4月 10日(日)午後 5時 56分

 今日は浪曲を聴く日。毎月恒例の「第262回一心寺門前浪曲寄席4月公演」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。春野ココ(藤初雪)「谷風と佐野山」、春野一(沢村さくら)「梶川大力の粗忽」、京山小圓嬢(沢村さくら)「サイコロ夫婦旅」、真山一郎(真山幸美)「涙の花嫁姿」。ココさんは、美恵子さんの代演のようです。ここしばらく美恵子の姿を見かけていないものですから、気になるところです。元漫才さんらしく、滑稽浪曲を得意にされているココさん、今日は普通のネタかと思っていると、きっちりココテイストにアレンジされていました。しかし、高齢者の多い客席には、K1と言っても無理なようで、そういったくすぐりには、ほぼ無反応。ネタは、有名な谷風の人情相撲。佐野山は、親孝行な男には変わりはないのですが、あまりそれは強調されず、金に困る男として登場し、その金欠の1つの要因として、親の病気、熱心な看病が出てきた程度でした。曲師の初雪さんとは、ひょっとすると、初の手合わせかもしれませんが、初雪さん、もうちょっと積極的に語りに絡まないと困るなと思いながら聴いておりました。「梶川大力」は、有名な刃傷松の廊下で、浅野内匠頭を羽交い締めにして止めた男。この功により加増を受けた梶川は、老中だったかな、その礼に赴くと、逆に曽我兄弟の物語を聴かされ、その行為を諌められたばかりか、犬侍呼ばわりされ、裏口から放り出されるというもの。いかに、赤穂義士に同情が集まったかが判ります。このネタは、春野百合子の17番のネタの1つ。同門の方が増えると、百合子師の芸を継承される方が増えるということで嬉しいことなのですが、なんせ浪曲はネタが限られているものですから、どうしてもかぶってしまいます。一さんは、久しぶりの遭遇。高音にすごく磨きがかかりました。小圓嬢師は「サイコロ夫婦旅」、よく出されるネタですが、このネタって、元ネタがあるのでしょうか。黄紺が、つまみ食いネタと呼んでいるものなのかなと思ったのです。博奕打ちが身投げ女を助け、まもなく夫婦になる前半と、話の形をつけるために作られてたかのような後半の物わかりのいい侠客との博奕の場面が跳びすぎていると感じられ、強制終了のような感じで、後半が出てくるものですから、まだ、つまみ食いの仕方がいいと考えた方がましかなと思ったのでした。小圓嬢師は、相変わらずお元気でチャーミングでした。今月は、今日だけ、真山一郎師がトリ。「ここ3〜4年やってないのです」「女の人ばかりしか出てこないもんで」と言ってから始められました。黄紺は、その3〜4年前に聴いて、なんて古くさくて、くさいネタが残っているのだと思った記憶が残っています。産みの親と育ての親の再会で判った子どもの今、2人はどうするのかというものと言いながらも、別に悩むということなく過ぎていきました。最後に、ちょっとだけ捻りが入りましたが、聴いていて、恥ずかしくなるようなネタでした。早い話が、黄紺的にはどん引きだったということです。今月は、沢村さくらさんが、日に3番も受け持たれる日があります。初月さんは、恵子さん付きになっているようで、最近、本席で見かけることが稀れとなっています。その分、さくらさんへの比重が増しているということでしょう。



2016年 4月 9日(土)午後 6時 57分

 今日はマーラーの9番のシンフォニーを聴く日。飯森範親指揮の日本センチュリー交響楽団の定期演奏会に行ってまいりました。お出かけの40分ほど前まで、会場をフェスティバルホールだと思い込み、それで時程を組んでいたため、ちょっと慌てました。昨日が兵庫の芸文だから、今日はフェスティバルだと、今から考えるとわけの解らない理由で、フェスティバルだと思っていたのですから、もう惚けているとしか思えないですね。はっと、気がついたのは、今日は、大フィルの演奏会じゃないのに、なんでフェスティバルなのとの疑問がわき気づいたというわけです。マーラーの9番は、若い頃、マーラーのシンフォニーで、一番頻繁に聴いたもの。でも、なかなか実演で接する機会はなく、ひょっとすると、サイモン・ラトルがバーミンガム時代に、シンフォニーホールで演奏したのを聴いて以来かもしれません。センチュリーの編成規模からすると、以前は、出なかった、ないしはエキストラを抑えて演奏していた曲が、飯森が就任してから増えたような気がします。果たして、それがアンサンブルに影響しないかと、余計な心配をしながら会場へ。開演時間が迫っても、見回したところ、かなりの空席。マーラーの9番なんて聴こうとする人が少ないのか、月2公演が産んだ結果なのか、公演回数を増やしてからは、初めてセンチュリーの定期に行ったものですから把握することはできなかったのですが、かなりの不入りであったことは間違いありません。久しぶりに聴いたセンチュリーは、かなりレベルが下がったなの印象でした。特に弦が厳しい。飯森が、力の限り振りかざして、祈るようにパワーを求める場面が印象的でした。1楽章と4楽章の冒頭、4楽章の終盤、弦だけが突き抜けるクライマックスで、そのような光景が見られたのですが、特に1楽章では、同時に音が濁りました。音が淀んだり、歌うような抒情性が求められても、呼応してなかったのじゃないかな。2楽章のレントラーも、長閑さ、明るさまでには至らず、ようやく3楽章の終盤、飯森がフル回転でオケを疾走させたところで、ようやく4楽章の死の音楽へと入って行く期待を抱かせてはくれましたが、弦楽合奏曲的4楽章を乗り切るには、弦のパワー不足、音のきれいさには欠けました。ですから、だいぶと物足りなさを感じる結果となり、久しぶりの9番に水がさされたってところです。シンフォニーホールを出ると、まだ、午後3時半を、ほんの僅か過ぎたところだったものですから、梅田界隈のアーバン・ウォーキングを、1時間ほどしてから家路に着きました。



2016年 4月 9日(土)午前 0時 19分

 今日は二部制の日。昼間は、文楽劇場で毎月行われている公演記録鑑賞会。夜は、兵庫県立芸文センターでのコンサートというものでした。まずは、昼間の記録からです。今日の公演記録鑑賞会は歌舞伎で、「摂秀合邦辻〜合邦庵室の場〜」が上映されました。(玉手御前)7代尾上梅幸(合邦)中村羽左衛門(俊徳丸)中村時蔵(浅香姫)中村芝雀《現雀右衛門》(奴入平)坂東簑助《9代三津五郎》(合邦女房おとく)尾上菊蔵という顔ぶれです。しかし、文楽にせよ、歌舞伎にせよ、「摂秀合邦辻」は、文楽が源でしょうが、えげつない物語です。黄紺はどん引きだったのですが、会場の各所ではすすり泣きが聞こえていたという出し物。いわゆる年の揃った人間の生き肝の血を飲めば、難病が癒えるというやつ。落語の「肝つぶし」のような緊張と緩和があればいいのですが、こちらはそうはならないどころか、自らが悪行を重ね、自身の父親に致命傷となる刺し傷を受けて、ネタをばらしますから、どうしようもない。死ぬのが判ったとき、「さ、私の肝を取り出せ」と言われて、誰ができます? 全てのバラシが終わったあと、しかも、まだ生きている者にできるわけがないことが求められます。凄まじい展開です。ここで断念すれば、全てが水の泡ですから、自分ですることになります。黄紺は、気が弱いのか、思わず目をつむりました。周りでは、すすり泣きが最高潮。それを耳にして、どん引きになった黄紺でした。その凄まじい主人公玉手御前を演じたのが梅幸。黄紺は、この死に際の長台詞よりかは、登場してきたときの若々しい声、仕種にど肝を抜かれました。でも、こういった心性のかけ離れた世界を観ることができる楽しみが、文楽や歌舞伎にあるのです。だから、止められないというところでしょうか。
 文楽劇場を出ると、夜までの時間調整として、心斎橋のネットカフェへ。そして、西宮北口まで移動。早めに行って、元同僚夫婦と会食をしてから芸文センターへ。今日のコンサートは、元同僚に誘っていただいたものでした。芸文センターでは、 「芸術文化センター管弦楽団特別演奏会:メンデルスゾーン 劇音楽《夏の夜の夢》」があったのです。この演奏会は、夏の恒例佐渡オペラ関連企画の1つ。この7月には、ブリテンの「真夏の夜の夢」公演があるということでの企画。今日は、この劇音楽を、ナレーションを務める檀ふみのオリジナル台本付きで演奏しようという試みでした。もちろん、指揮は佐渡裕。そして、前半は、ヒンデミットの室内音楽第5番《ビオラ協奏曲》(ビオラ:東条慧)が演奏されました。ヒンデミットは、どうも耳になじんでないのか、しっかりと聴けない内に終わってしまいました。一つには、これだけ大きなホールで、ビオラのソロを聴くには、ソリストのパワー不足を感じてしまいました。アンコール曲のハード・テクニックには、びっくりさせられましたが。お目当ての「真夏の夜の夢」を、組曲形式ではなく、ナレーションを入れて演奏されたのを聴くのは、実は2度目。数年前に、センチュリーが出したとき、2度目はないかもと思い、聴きに行ったのですが、こないに早く再会できるとは思ってはいませんでした。確か、あのときも檀ふみがナレーションを務めたと思うのですが、あのときは、単なるナレーションだけだったのが、大変な進化。パックの衣装を身に付け、佐渡をオベロンに見立て、王冠を被せたり、意味のない言葉を喋らせたり、舞台左上にバルコニーを、また、舞台正面壁に窓を作り、それらから台詞を言ったり、もちろん振り付けありの動きを見せながらというものですから、大きな大きな変化。原典からのスリム化は、ブリテンの場合と同じと言っていいかと思いますから、佐渡オペラの予習としては、いい材料になりました。但し、メンデルスゾーンの音楽とブリテンの音楽は、全然違いますが。そんなで、主役は、やはり原典同様、パックでした。ソロで花を添えたのは、ソプラノの幸田浩子とメゾの林美智子、 京都市少年合唱団でした。林美智子を聴けたのは久しぶりだったのですが、あまりに出番が少なく、大変悲しかったです。ズボン役が似合ういいメゾなもので。



2016年 4月 7日(木)午後 11時 23分

 今日は、メト・ライブビューイングで、今季の新プロダクション(リチャード・エア演出)となる「マノン・レスコー」を観る日。タイトル・ロールにクリスティーヌ ・オポライス、相手役のデ・グリューには、当初予定されていたヨナス・カウフマンのピンチヒッターとして、ロベルト・アラーニャが歌うというもの。指揮もファビオ・ルイージとくると、もう役者が揃い過ぎていました。今季の新プロダクションだということで、よくぞ、ロベルト・アラーニャが空いていたこともさるながら、ロベルト・アラーニャにとっては、初役ということでしたので、カウフマンの降板は、余裕を看てのものだったのかと思ったのですが、MCを務めたデボラ・ヴォイトとのやり取りで明らかになったのは、覚え込むための練習に2週間、誇張かもしれませんが、日に12時間の練習で2週間と言ってました。それからメトに合流しての練習に入ったそうで、その合流後の練習に、どれだけの日数があったかは明らかにされませんでした。客席は、そのことを知っているのでしょうね、ロベルト・アラーニャが、カーテン・コールで出てくると、大変な拍手で迎えていました。しかし、冷静に観てみると、動きの少ない4幕はまだしも、それ以前では、DVDになっているカウフマンとの組み合わせと比べて、呼吸というか、ちょっとしたタイミングとか、気持ちの乗せ方なんてところで、物足りないものを感じてしまいました。ロベルト・アラーニャは、元来、歌う役者系の歌手ですから、やはり時間不足が原因と言わざるをえないでしょう。それにつけても、ロベルト・アラーニャのメタボ腹だけは、デ・グリューに合っていませんでした。ですから、せっかくレパートリーに無理矢理入れたからと言って、使い勝手のある役柄とは思えませんでした。リチャード・エアは、この物語を、1940年代、即ち、ドイツによる占領下のフランスとしました。その理由を、本人が、質問に答えて、善悪の曖昧な物語なので、同様の時代と言える1940年代に持ってきたというわけです。この年代の映画のコンセプトを引き合いに出して説明をしていましたが、黄紺には、その内容を把握できませんでした。テキストの変更はなかったと思っていますので、その時代設定を把握できるのは、衣装中心でと言えばいいでしょうか。ただ、3幕のルーアン港から放逐される先は、通常ならばアメリカなのですが、テキストの中にはアメリカは出てきてなかったと思いますので、いじったとすれば、ここじゃないかな。装置は、1幕では、駅から下る大階段が目を引き、2幕は、ジェロント(ブリンドリー・シェラット)があてがった贅沢なマノンの居室。入口からは、また階段を下らねばならないというもの。3幕のルーアン港は、牢屋の上が、螺旋状通路になっており、 その先が客船に繋がっていました。これも、階段は見えないようにはなっているのですが、螺旋状に船に上がっていくとなっていました。ここまで、三方は壁に囲まれているといったもの。そして、その壁には、2幕では、教会のステンドグラス状の窓が付けられており、リチャード・エアのプロダクションの「椿姫」の最終場面で、印象的な光を入れる窓と同じような窓が刻まれていました。そして、4幕が唖然とする装置。そこは、アメリカの砂漠ではなく、窓のガラスが割れた廃墟の中に、2人がたたずむというものでした。最初に使われた大階段の使い回しで、各幕の装置が形作られてはいたようなのですが、バックステージの映像を観ていても、それが、どのような操作の結果なのかが解らないまま。4幕で、 初めて大階段の除去作業は行われていたのは判ったのですが。替わりに、4幕の廃墟では、崩れた階段が搬入されていました。善悪の混乱、愛による勝利にならない結末を、こないな装置で表そうとしたのでしょうか。今季のライブビューイングの表紙を飾ったオポライスの美しい姿態、正に今季の売りのプロダクションだったはずの「マノン・レスコー」が終わりました。カウフマンの降板が、ちょっと陰りを付けてしまいましたが、プロダクションとしては、上々の出発じゃないでしょうか。ただ、聴いていて、生でオポライスを聴いた場合、中低音と高音の落差が気になるかもとか、果たして高音がきれいなんだろうかとか、そないな不安を感じながら聴いていました。それにしても、最近のライブビューイングの映像、アップばかりで、舞台全体を写す引いたカメラ・アングルが少ないのが 気に入りません。確かに、アップで歌手を見ることができるというのは、ライブビューイングの特権ですが、それに特化した映像は、逆にオペラの流れを観る身からはつまらなくしているってことが忘れられているように思えるのです。なお、次回のライブビューイングも、主役2人の組み合わせが同じという「蝶々夫人」です。



2016年 4月 6日(水)午後 11時 17分

 今日も落語を聴く日。このあと、しばらく落語はお休みとなります。今日は、「高津落語研究会」のあった日。もちろん高津神社でありました。その番組は、次のようなものでした。雀五郎「七度狐」、たま「みかん屋」、ひろば「書割盗人」、南天「桜の宮」、全員「大喜利」。雀五郎は、吉弥との噛み合わない会話を、マクラで使い、客席を暖めてからネタへ。「煮売屋」の最後の部分からスタート。28分かけての口演となりました。ちょっと前のめり風の喋り方に特徴のある雀五郎の口演ですが、軽快なリズムが身上。いいテンポで突っ走ってくれました。たまは、明日から始まる繁昌亭でのコンペをマクラで喋ってくれました。コンペへエントリーした噺家さんでは、最もキャリアがあるそうで、それがプレッシャーになっているそうですが、大胆にも、「地獄」を7分半にまとめたそうです。これには、会場、びっくりの大爆笑でした。たまの「みかん屋」は、ネタの刈り込みで最も成功した例に数えていいと思っているもの。今日も、それを確認させてもらえました。始まった途端、もうみかんを担いで出かけかけていますし、みかん屋は、手持ちの紙を持っていますし、商いの口上もはしょてあるしと、それに、たまオリジナルなくすぐりが入るため、笑いが連続して起こるようになっています。これ、鉄板やから、この「みかん屋」をコンペにかけてればいいのにと思いながら聴いていました。ひろばの「書割盗人」は、黄紺的には、初めての遭遇のはずです。今日のひろばは、3時には高津神社に来ていたと言ってましたから、待ちくたびれたのか、いつもよりは、かなりとろんとした語り口。真っ盛りの高津さんの桜に酔ってしまったようでした。いよいよ盗人とアホとの掛け合いとなるクライマックスが、逆に盛り下がったという印象を持ってしまいました。そのひろばに対し、終始ハイテンションで、マクラからネタの最後まで疾走したのが南天。「桜の宮」の中では、黄紺は、南天の口演が一番好きで、それは、この疾走感にあったのだということを確認させてもらえました。このネタは、六部に扮した男が、耳の不自由な叔父に拉致されるなんて、想定外のことが起こり、筋立てが予期しない展開を見せますから、そこの客席の興味をぐいぐい引っ張りながら疾走していくわけで、決して客席を置き去りにしない疾走なものですから、南天の「桜の宮」はおもしろい上に、心地好さがあると思えるのです。季節は、万端、「桜の宮」をするには揃い過ぎていました。その環境も身に引き付けた南天の快演、狙い通り、期待通りのスーパーな高座でした。終わって外に出ると、高津さんの境内では、花見の宴も真っ盛りでした。この桜も、明日の雨で散ってしまうのでしょうか。



2016年 4月 5日(火)午後 11時 37分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「染吉っとんの会〜林家染吉落語勉強会〜」がありました。染吉の会を選んで聴きに行くというのは、初めてのことです。最近、黄紺のストライク・ゾーンが拡がったのか、聴きに行ってみたいと思うようになった噺家さんの1人なのです。その番組は、次のようなものでした。染吉「御公家女房」、小梅「犬の目」、染吉「三枚起請」、(中入り)、染吉「隣の桜」。いつもの入りを知らないものですから、比較はできないのですが、今日は、残念なことに、つ離れをしませんでした。キャリアは短いですが、レッスンルームがあった時代から勉強会を続けていましたから、もうそっと固定客の人たちがいるものと思っていましたから、ちょっと驚きましたが、たまたまのことかもしれませんが。ま、次回も行こうかと思っていますので、様子が判ってくるのかと思っています。主役の染吉は3席。その中で、「隣の桜」が、群を抜いた素晴らしい出来栄え。テンポの揺らし、キャラ作り、全体のリズム、いずれをとってもいい出来。そして、何よりもいいのは、素の染吉が顔を出し、それが、この噺を楽しみ、笑顔を見せてくれていたこと。先代の染丸の「隣の桜(「鼻ねじ」を使っていた)」を彷彿とさせる見事なものでした。これぞ、林家のお家芸です。それに対し、あとの2つの口演には、やたらと緊張が目立ちました。実は、「お公家女房」で緊張していたのは、繁昌亭で行われるコンペ用に編集した8分ヴァージョンの「お公家女房」だったのです。染吉としては、刈り込みがうまくいってるのか、その不安があったからか、えらく緊張しているなの雰囲気がありました。本番でも、この緊張の仕方では、刈り込み方云々を言う以前の問題で、はねられてしまうと思います。なお、カットの中で目立ったのは、名前のところでした。「お公家女房」で出す以上は、ここのカットが正解なんでしょうね。ぼてふりの八百屋をカットするかどうかの選択の問題でしょうから、そないに気にしなくてもと、黄紺は思うのですが。一方の「三枚起請」は、千朝からもらったそうですが、どうしても大ネタ意識が勝ってしまっていました。ですから、力いっぱい、肩にも、顔にも、体にも、力が入っていて、新鮮味があったと言えば言えるのですが、ちょっと疲れはました。染吉は、気がつくと、たまばりに上下を振らない派になっていってます。となれば、キャラ設定に、かなり力を割かねばなりません。喜六は掴み易いのですが、清八と源兵衛の色分けが、なかなかきつい。この2人のカラーをクリアにするために、喜六は、これでいいのかと、再度、喜六の点検が必要でしょう。まだまだ、これからです。何度も何度もかけていくことで、時間をかけて練り上げていって欲しいものです。なんせ、大ネタで難しいネタであることは、誰しもが認めるわけですから。まずは、何度も繰り返すことで、余計な緊張を解くことじゃないかな。ゲスト枠の小梅。前座役だと思ってか「犬の目」。この人の場合は、入門直後の口演と、ほぼ変化を看ることができないというのが、しんどいところです。染吉の同期には、生寿、福丸、小鯛と俊英が、顔を揃えています。「隣の桜」的口演だと、彼らに引けをとるどころではありません。引き続き、マークを付けておきたい噺家さんです。



2016年 4月 4日(月)午後 11時 37分

 今日は、繁昌亭に復帰するとともに、ドイツに行っている間に発売された前売り券を買う日。いつもよりは、ちょっと多めに小遣いを持ってのお出かけになりました。今夜の繁昌亭は、「繁昌亭大賞各賞受賞者の会〜上方落語台本発掘落語会〜」がありました。「できちゃった」の噺家さん、講釈師さんの会ですが、「できちゃった」よりか集客力を発揮するネーミングをしての会というわけなのですが、今回は、繁昌亭の台本募集応募作品の中から、埋もれていた作品を掘り起こし発表しようとの試み。その番組は、次のようなものとなりました。全員「前説」、遊方「浪華幽霊騒動記」(伊藤利志子・作)、たま 「恋の処方箋」(桑島敦子・作)、三風「謝罪」(水野亮・作)、南湖「いいね!パパ友」(すみのけいし・作)、(中入り)、あやめ「家系不動産」(鈴木策三・作)、三金「男の世界」(中井涼平・作)。今回も、いつもの「できちゃった」のように、出番決めのじゃいけんが行われました。偶然ですが、成り済まし形の噺が、後半に2つ続いてしまうということが起こってしまいました。「浪華幽霊騒動記」は、なかなかの佳品。ホテルに蟹を買い込み、蟹みそに足を滑らせ死んでしまい、あまりにも失笑をかう死に方をしたため成仏できず、供養を求めて、その亡くなったホテルの部屋に幽霊となって現れるため、客から文句をもらっていたホテルが、満室のためやむなく部屋に入れた大阪のおばちゃんたちのお構いなしの行動が、偶然、その幽霊の成仏を誘うというもの。大阪のおばちゃんネタは新鮮味はないのですが、幽霊となった男の死に方、偶然の成仏に至るクライマックスが、あまりにアホげで聴かせるものがありました。「恋の処方箋」も、なかなかの佳品。後輩に、恋の指南を授ける先輩は、有名映画やドラマをヒントにして教えていきます。が、ヒントのようでヒントになってないものもあり、それが、かえって工夫に看えるところに惹かれました。そして、実践面では、よく似た結果、毎回、違った形だけど、お婆さんと仲良くなってしまう繰り返しが、笑いを誘い、且つ、そのお婆さんがらみが下げにまで持っていった力技に拍手です。6作品の内で、黄紺的ベスト候補は、この2つ。「謝罪」は、突っ込む人が、次の場面では謝罪側に回っていくという繰り返しネタ。その構造はいいのですが、個々は話題が真っ正直過ぎました。南湖さんは、ちょっとした言い訳から。台本募集の応募作品は、上方落語協会に著作権が帰属しているので、あとの噺家さんは、自由に演じることができるのですが、南湖さんは協会員じゃないどころから、個人的な知り合いが応募した台本が使いやすい、許可を得やすいということで、その中からチョイス。となると、どうしても作品の質では、分母が少ない分、見劣りしてしまいました。ましてや、落語台本を講談風にしなければなりませんから、南湖さんには、ちょっと気の毒な企画。ママともがあるなら、パパとももいてもいいはずという発想の作品。話題が少なかったかな。でも、どうしても仕事の話になって行ってしまうと運びでした。「家系不動産」は、ラーメン屋の修業を積んだ男が、家の事情で不動産屋を継ぐとどうなるかというもの。同じ成りきりものでも、あとの三金口演の作品に比べると、明らかにスムーズさに欠けます。そないな作品でありながら、あやめには合いそうもないにも拘わらず、あやめが口演したってことは、あやめが目を着けたのかと思うのですが、それだったらそれで、あやめが、この作品のどこに目を着けたのかが知りたい気分です。「男の世界」は、元力士が、おかまバーのホステスになったらという成りきりもの。相撲尽くしのダジャレの連発はお見事に尽きます。それはそれで、おもしろいのですが、噺になっているのかというと、そうはなっていません。ちょっとした色もの的噺なら解るのですが。今日は、演者が、マクラに替えて、自身の創作の仕方を披露。遊方の素材となるものとならないものは、もはや創作落語原論のような話。めっちゃ格調の高さを感じました。たまは、予想していた通り、古典落語や新作の大家の作品分析からのアプローチを披露。三風とあやめは、実践的な方法論を、南湖は、大学院で落語の創作法を研究しただけあり、文献の紹介にまで話が至り、三金は、でぶネタ中心の創作するためには、身をはってネタを掴まえていると話してくれました。これらの話はおもしろかったですね。上方落語屈指の新作派の皆さんのこないな話をまとめて聴けた貴重な時間となりました。また、三風の話に文枝、たまの話に福笑や仁智の顔がちらついたのも嬉しいところでした。



2016年 4月 3日(日)午後 8時 42分

 今日も落語会に行く日。ちょっとご無沙汰の「文太・噺の世界in高津の富亭〜文太の『贋作いろは』」に行ってまいりました。もちろん高津神社です。その番組は、次のようなものでした。文太「前説」「青菜」「無妙沢」、雅「あくびの稽古」、文太「鰻の幇間」。今日は、時差ボケが復活したため、寝足りない状態で行ったため、前半が完全にアウト。「青菜」が最悪で、「無妙沢」は、ちょっとましっていう演者には失礼なことをしてしまいました。「無妙沢」については、ちょっとだけメモを書いておきますが、これは、東京の「鰍沢」を、文太が移植したもの。最後、沢に飛び込み、材木に掴まり助かるというのが、本来の筋立てですが、文太は、沢に追いつめられたところに来ると、客席に問いかけました。「助かる方がいいですか、助からない方がいいですか」と。これにはびっくり。前にも、文太の「無妙沢」を聴いているのですが、こないなことしてたっけと、記憶をたどったのですが、思い出せないまま。客席から、通常の終わり方じゃない方を求めようとしたのでしょうか、「助からない方」と声が上がり、文太は、それに沿って口演。でも、結局は、夢の話になり、ほっとさせて終わりました。アイデアマンです。この会のゲスト枠は、毎回、前座役を務めてもいいような噺家さんが起用されますが、この位置では前座噺をするわけにはいきませんから、黄紺的には、何を出すか楽しみにしているところ。雅は「あくびの稽古」を出しましたが、なかなか厳しい。短くて、落語らしくて、でも、一定自力を溜め込んでいないと、難しい噺だということを再認識しました。雅の使ったテキストには、「伝統」の技なんてのが出てきましたが、あくびなんてものを格式ばって教授するところに可笑しさがあるのですから、南天やたまのような変化技が使えないのなら、きっちりとあくび指南をして見せないとダメですね。噺家の修業話を入れたのには大笑いでしたが。文太の3つ目も東京ネタの移植噺。但し、こちらは冬のネタではなく、「青菜」に次いで、夏のネタになりました。野太鼓と言われる特定の旦那を持たない幇間が主人公。昼飯にありつこうとすり寄った旦那に、逆にはめられるだけと言えばだけの噺。その幇間が、出された食べ物に、しょうもないコメントを入れるのが聴かせどころ。も一つの聴かせどころは、今までべんちゃらで誉めていた鰻屋に対し、逆切れした主人公が悪態をつくところ。バカバカしくも哀愁を感じさせるもの。文太ベストに数えてもいいかと思える好演でした。帰りしな、息子と待ち合わせて、久しぶりに呑みました。もう、お腹いっぱいで帰途に着くことになりました。



2016年 4月 2日(土)午後 11時 33分

 時差ボケがほとんどなく、昨夜は熟睡。早速、今日から落語会通いを再会です。今日は、「第13回松喬一門がホリエでアルテ」に、久しぶりに行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。喬介「延陽伯」、右喬「みかん屋」、三喬「鴻池の犬」、(中入り)、生喬「墓供養」、喬楽「首提灯」。この会に、初めて行ったとき、松喬の発病が明らかにされて日が経っていないときで、その松喬自身が飛び入りで出て、自身の病気について語った思い出のある会。一門の噺家さんが、年3回、こちらで会を開かれています。喬介は、高座に上がるだけで、会場が明るくなった感じ。無神経な自販機のマクラもおかしく、ネタはおなじみのもの。テンションのレベルが、のべつハイなアホが、いつ聴いても楽しくさせてくれます。一門の飛び道具と言われる右喬も、おなじみネタ。あとから出た三喬が、「右喬さんは、住宅展示場に展示された縦穴式住居、その展示場に行った子どもたちは大喜び」と言い、「あとから出るのは嫌」と言ってました。うまい表現に、会場大爆笑。その三喬は「鴻池の犬」、自分的には初めてだったもので、次の生喬の高座とともに、本日の狙いとしていたのです。進行は崩さず、三喬テイストの詰まったくすぐりで、三喬カラーを出していました。諺のマクラからネタに繋げる技は秀逸でした。生喬が「墓供養」を持っているとは、黄紺は知りませんでした。松喬と三喬とだけのスペシャルなネタだと思っていたところへ、生喬が出すということで、楽しみにしていました。後半、うまく喋れない人が出てくるので、かなり注意を要するということで、噺家さんには敬遠されるのでしょうし、また内容的にも、墓供養に来た人たちの名を記帳するときに見られる可笑しな光景を描写するだけのものですから、気を使うわりには頼りないってところがあるのでしょう。黄紺的にも、松喬や三喬の口演では、後半がしつこく引いてしまっていましたが、生喬の口演は、ぎりぎりセーフかなの実感。生喬は、このネタを、動楽亭昼席で出して、ドン引きを経験しているそうです。ま、その日のノリや客席の反応で変わってくるのかもしれません。トリは喬楽。ちょっと緊張気味だったのか、長めのマクラで、雰囲気を自分に引き付ける努力。「首提灯」の前半、上燗屋を屋台の店と設定していたわりには、居酒屋の雰囲気。店の人の応対が、屋台のそれという雰囲気が出てなかったもので。黄紺は、ずっと前半の舞台は居酒屋だと思っていました。テキスト的には判らないかもしれませんが、口演の問題なのでしょうね、そのように捉えながら聴いておりました。喬楽の口演では、この前半の内容がワンパターンで、テンポも同様だなと思ったら、瞼が重たくなり、後半がよく思い出せないのです。ということで、まだ日本での生活になじんでないようです。でも、とにかく落語会に復帰しました。



2016年 3月 8日(火)午後 11時 26分

 明日からオペラ紀行に出発です。荷造りは、既に昨日済ませてありますが、今日になっても、ホテルからメールが入ったりしており、今更ながらスマホを手に入れたことの大きさを感じています。もう、今月は帰って来ませんが、出発直前になり、異様な暖かさに驚いています。夜半になってから、ようやくこの季節らしくなってきて、ちょっと安心です。そして、今日も、落語を聴く日。動楽亭であった「生喬百席 第二十九夜」に行ってまいりました。ちょっと無沙汰をしていた会と言っても、3ヶ月ほど、浮気をしていたってところでしょうか。毎月開催されると、そないな気持ちが、ときとして出てきます。今日の番組は、次のようなものでした。生喬「おごろもち盗人」、しん吉「みどりの窓口」、(中入り)、生喬「隣の桜」。全部で3席という会ですので、いつものように、マクラは長め。今日は、自宅の長屋が取材を受けた話や、ネタの「おごろもち盗人」の思い出なんかが話されました。いちびりの盗人が、やけに可愛らしくて、間抜けなキャラが際立っていました。この間抜けな盗人が、これまた頼りない男に「盗人〜」って叫ぶのですから、可笑しさ倍増です。ごっつさが消え去った生喬は、却って柔和にすら見えてきました。しん吉は、生喬からのリクエストで志の輔落語を出しました。あとから出た生喬は、このネタを聴いたことがなかったのと、しん吉が、よく出しているということでのリクエストだったと言っていました。しん吉は、志の輔から稽古をつけてもらったそうで、志の輔が、新作ネタの稽古をつけたのはしん吉が初めてだそうです。東西の違い、しん吉が鉄ちゃんだということからかもと、しん吉自身が言っていました。もちろん、内容は鉄道ネタなわけですから、東京でするとき、大阪でするときで、路線とかも変わってくるはずですから、そこんところには、いっぱいしん吉スペシャルが入っていました。黄紺も、しん吉による口演はもちろん、「みどりの窓口」のさわりしか聴いたことがなかったもので、フルヴァージョンは、初めて聴いたことになります。無茶を言う客に対応するときのテンポと、今度は、呑み屋で無茶を言うときのテンポを変えるのが技なんですね。生喬の2つ目は、初めて笑福亭以外から稽古をつけてもらったという「隣の桜」。最近は、ネタの名称も、これが定着したようですね。黄紺は、以前は「花ねじ」にこだわっていた時期があったのですが、これだけ「隣の桜」が定着すると、もういいやの気分です。このネタほど、林家の家の芸という色合いの濃い噺はないのは、誰しも異存はないはずです。黄紺などは、ついに生で聴くことのなかった先代染丸が、戎顔でやってるこのネタをテレビで観た記憶が残っており、それは「花ねじ」でやられていたため、こだわってしまってたのです。このネタほど、春の陽気、明るさを醸し出すネタはないかもしれません。今日の柔和な生喬の口演は、正に、それを見せてくれたのじゃないかな。その雰囲気を出すのは、終盤の花見の宴だけでは出ないはずです。冒頭の旦さんと丁稚のやりとりにほのぼのとした雰囲気が出てないとダメでしょうし、漢学の先生と旦さんが、心の底からいがみ合う仲だと、無理だと思います。これについては、生喬は卓見で、「二人はホントは仲がいいのでしょうに」というテキストを入れていました。実際に入れるのがいいのか、その心で喋るのがいいのかは、意見の分かれるところかもしれないのですが、二人の間柄の捉え方の基本は、それでいくと、春の情緒が高まるように思えます。とにかく柔和で、可愛い生喬の口演、この「隣の桜」、めっちゃ気に入りました。



2016年 3月 7日(月)午後 11時 43分

 今日は、オペラ紀行前最後の繁昌亭。日本を離れたとき、最も禁断症状が出るのが落語。それも、明日1日を残して、断たれてしまいます。そないことで、早くも今日から、ちょっと感傷的になっています。それを癒すのに、この上ない落語会が、今宵の繁昌亭でありました。「千夜九夜物語・第三夜」という落語会です。繁昌亭に出る機会のない千朝に、その機会を与えるために、九雀が用意したものと考えていたのですが、そういった点もあるのでしょうが、2人で、LPで出た「米朝全集」の再現の試みだということが、今日明かされました。その番組は、次のようなものでした。瑞「動物園」、九雀「阿弥陀池」、千朝 「地獄八景亡者戯」、(中入り)、九雀 「次の御用日」。「地獄」は、どちらかが、いずれはやらねばならないということで、千朝が引き受け、替わりに、2人とも持ちネタにしていない「次の御用日」は、九雀が引き受けたという番組構成。しかも、千朝は協会員じゃないということで、トリはとれないそうで、そうなると、出番は自ずと決まってきます。「阿弥陀池」は、九雀がすれば、まともにしないでいじるだろうなという予想通りの展開。でも、西宮に連れて行ったり、心ネコは残してくれていました。一方で、新聞に関するギャグは削減傾向。最近は、いずれもが、そのようにしていますが。ベテランにより聴く前座噺は、やはりおもしろいものがあります。やはり、いいテンポ、いいリズム、身に具わった噺家さんは、作らなくてもいいですもんね。千朝の「地獄」は聴いてなかったもので、今日、繁昌亭に足を運んだ最大の理由が、この高座目的。いつものようにゆっくりテンポの導入部。三途の川まではいじりようがないからか、平坦に進んで行ったのが、葬頭河の婆の話題になると、一挙に雰囲気が変わり、いよいよギャグのオンパレードが始まります。基本的には、米朝の口演を踏み外さず、ギャグの差し替えをやったり、膨らましたりというスタンスでの進行。ただ、千朝らしさが出るのが、定番のレトロなギャグ。千朝の「地獄」ではなく、単に「地獄」だけを目当てに来ていると、その千朝らしさに戸惑いが出てくるかもしれないなと思うと、千朝らしさに喜ぶ客に対しても違和感を持ってるかもと、思わず声を立てて笑うと、瞬時に周りには目を配ってた黄紺なのです。形態模写や物真似をやってくれるのかと期待していると、漫才編を寄席小屋の描写で、噺家の形態模写(春団治・談志・枝雀・米朝)は「一芸」のところでやってくれました。これは、「一芸」のところで、どっちかが出ればラッキーと思っていただけに、極上のディナーの趣となりました。総時間1時間13分の完全版でした。そして、最後は、九雀の「次の御用日」。旧い大阪の夏の風景が描かれていて、黄紺のとっても好きなネタ。噺の本筋も落語らしさがありますからね。物売りの声の紹介も、噺半ばに入り、一層、雰囲気を盛り上げます。「あっ」と、喉を詰めて言うキーワードを、九雀は「うわっ」と言い、喉を詰めることなく発声していたのには、抵抗を感じてしまいました。噺の中では、喉を傷めるとなるわけですから、そこのリアリティを奪ってしまってはいけません。九雀は、このネタを、ほとんど喋ってないはずですから、力の入れ具合などのお試し中かもしれません。ところで、前座役の瑞の「動物園」は、雀々テイスト満載で、鈴々時代につけてもらったものとしか見えませんでした。しかも、同門の九雀の会で出したわけですから、分かった上でのお喋りだったのでしょう。これって、どのように理解すれば、いいのでしょうかね。一旦廃業から再入門に至る事情を知らないものですから、このような高座に遭遇すると、どうしても気になってしまいます。



2016年 3月 6日(日)午後 10時 17分

 今日は、びわ湖ホールプロデュースオペラ「さまよえるオランダ人」を観る日。春のオペラ紀行が、うまい具合にずれてくれたため、観に行くことができました。来年からは、ワーグナーの「指環」を始める(指揮)沼尻竜典、(演出)ミヒャエル・ハンペのコンビで、このプロダクションも制作されています。主なキャストは、次のようなものでした。(オランダ人)ロバート・ボーク、(ダーラント)斉木健詞、(ゼンタ)横山恵子、(エリック)樋口達哉。ハンペが、どのような演出を見せてくれるのかが、まず注目点。序曲が終わり、幕が上がると、そこは船の船首部分。舞台後方全面がスクリーンになっており、しかも、黄紺の位置からは、よく判らなかったのですが、平土間席に座っていた高校時代の友人に拠ると、そのスクリーンが湾曲していたようにも見えたと言ってましたが、そこに、CGが写し出され、大海原が写ります。船が、波をかきわけ進む大迫力の映像です。波しぶきが船上に撒き上がる様子まであります。今の時代ですから、CGが使われることは、ままありますが、今日のプロダクションのような大画面は初めてですし、CGの出来栄えは群を抜いてます。しかも、このCG、初めから終わりまで、ずっと使われます。幽霊船が現れ、こちらの船に横付けする姿も、最後、幽霊船が沈むのもそうですし、2幕の屋内場面も、このCG画面での表現となります。船の装置はそのままで、照明の技術で、船の特徴を消す努力がされるというわけです。まず、これが、圧倒的にいけているいいところ。2幕の冒頭では、紡ぎ唄を歌う女たちは、紡ぎ機を持っての登場となりますが、この有名な紡ぎ唄が冒頭にあるのが幸いで、ちょっと無理のある(どうしても船型が残るという意味で)場面転換に違和感を減じる役割を果たすことを読んだ手法と看ました。船、波、幽霊船、紡ぎ機と、このオペラを解りやすくするアイテムは、全部取り揃えて、客席に向かい示してくれます。丸で誰にでも解る「オランダ人」を作ってくれていると思っていたら、実はそうではありませんでした。ミヒャエル・ハンペという人、大変な栄光に包まれたキャリアを誇る大演出家なことは、誰しもが認めるところ。しかし、それは、過去の栄光だけではありませんでした。御年80にして、なんと柔軟な頭をされていることでしょう。この物語を、舵手の夢物語にしてしまったのです。幽霊船が出てくる少し前からずっと、舵手は、舞台半ばで、大の字になって眠り続けています。幽霊船からオランダ人が乗り移って来ても、場面がダーラントの家に変わろうと、オランダ人がゼンダに求婚しようが、港で水夫が集まってこようがです。最後になり、要するに、ゼンダが船から海中に身を投じ、幽霊船が沈んだ(オランダ人は救われた)あとに、ようやく目を覚まし起き上がります。周りには、ダーラントを初めとした水夫が取り囲んでいます。海は凪ぎ、明るい陽がそそぐなか目覚めます。一人の男が手を叩きます、ゆっくりと。舵手の長い夢物語を聞かされたという風情で幕となりました。大の字に眠る舵手を見ていても、その意味が解らないかもしれない人向けに、ハンペは、バカ丁寧に、2つのシーンを用意してました。1つは、オランダ人の求婚シーンで、ダーラントの家でなのでしょうが、背後の全画面は海原に、また、3幕冒頭の水夫の合唱シーンでは、しこたまたくさんの幽霊を出しました。現実にはありえない場面を挿入することで、夢の中にいることを見せてくれていました。でも、水夫の合唱で幽霊を出されたときには、結末を変えることを企図しているかもと、一瞬色めき立ちました。でも、そのあとは、エリックが、ゼンダを説得する場面と、普通に流れて行ったため、黄紺の読みは間違ってないとの確信を持ちましたが、一時は、何か、黄紺の想像を超えることが起こるのではと、前のめりになり舞台を観てしまいました。誰かの夢物語にするという着想は、今や、さして斬新な手法と言えるわけではありませんが、「オランダ人」で出る予感がなかったのと、演出面での変化技というものが、なかなか遭遇できない日本での遭遇ということで、終わった瞬間、「オーッ」との歓声を上げてしまいました。同じような思いを持った人もいたようで、最後の音が鳴り終わらない内から、拍手と歓声が上がっていました。歌手的にも、黄紺は、客席の反応と同じ感想を持ちました。一番の拍手と歓声を浴びたのはエリックじゃないかな。日本人歌手の声で、初めてワーグナーを歌える声質を聴いた気がしました。この人がいれば、来年から始まる「指環」は大丈夫でしょう。逆にゼンダは、ワーグナーを歌うには、しんどい声質。もっと強い声が欲しいですね。良かったもう一人はオランダ人。ふくよかで、しっかりとした声、おまけにパワフルではないのだけれど、パワーは十分っていうのがいいですね。ハンペが喚んできた方と聞いています。そのふくよかさに欠けたのがダーラント。どうも、ダーラントは、マルティ・サルミネンのイメージが強くて困りますが、よりバスっぽい人の方がいいのじゃないかな。日本で観たプロダクションでは最上の部類。このびわ湖での公演は2日間だけ。日本のオペラ公演って、新国立劇場を除くと、口コミで、評判が広まるってことがないのが惜しいくらいの楽しめるプロダクションなのに、ここで、いくら呟いてもダメなのですね。客席に空席が目立ち、何とももったいない話です。なおオケは、この公演の定番になっている京都市交響楽団でした。



2016年 3月 5日(土)午後 6時 23分

 この5日間は、落語会をお休みして、オペラ3本を含め、他のジャンル(講談と狂言)を楽しむ日々。まもなくオペラ紀行に出かけるにも拘わらず、生オペラ1本を含め、オペラを3本観るというのは、単なる偶然の産物。今日は「椿姫」を観る日。ロンドンのロイヤル・オペラのライブビューイングを観に行ってまいりました。メトロポリタンのライブビューイングは、人気が高まり、規模を拡張していっているのに対し、こちらは、明らかなる広報活動の不足が祟り、規模を縮小していっています。昨年までは、1回限定、しかもほとんどライブ(時差のため仕方なくと言ったところ)での上映というのが売りだったのですが、逆に、じり貧になってしまった要因かもしれません。今年などは、「フィガロ」と「椿姫」だけの有名なオペラ、そして、有名な演出家のプロダクションだけになりました。発信されているのは、もっと多いはずですが、日本では、そないな状況になってしまっています。しかも、上映館は京都からは撤退。関西は大阪ステーションシネマでだけ。しかも、上映開始時間が午前9時15分という非常識さ。広報活動がなってないのと、スタンスは、全く同じです。客のことなど考えていない姿勢が丸判りです。せっかくのコベントガーデンのプロダクションというコンテンツとしては最高のものを持ちながら、日本で放映権を買ったところのやる気のなさが、露骨に見えてきます。1つだけ救いは、今年から1週間の上映となったことです。日を選べるのはありがたいことで、ましてやオペラ紀行を控えている身としては、ホント助かりました。それでも、上映開始時間の早さに、行くかどうかを迷った挙げ句、リチャード・エアーのプロダクションだということで、頑張って行ってまいりました。幸い、夜中に目が覚めないという日となり、運から見放されてはいないようです。まず、指揮とキャストをメモっておきます。(指揮)イヴ・アベル、(ヴィオレッタ・ヴァレリー)ヴェネラ・ギマディエワ、(アルフレード・ジェルモン)セミール・ピルギュ、(ジョルジョ・ジェルモン)ルカ・サルシ。ところが、上映開始後まもなく、MCの人が喋り出すと、自分の失敗に気がつきました。こう言ったのです。「1994年に初演を迎え人気を博しているリチード・エアの演出」。何がびっくりしたのかと言うと、リチード・エアが、そないに早くからオペラの演出を手がけていたこと、その時期から続くプロダクションならば、アンジェラ・ゲオルキューがタイトルロールを歌い、DVDにもなってるはずということでした。もう間違いないと思いながら、緞帳が上がるのを待っていると、黄紺の予想はどんぴしゃの大当たり。一応念のために、休憩中にスマホを駆使して、リチード・エアのキャリアを調べてみると、2000年以前に手がけたオペラの演出は、このコベントガーデンの「椿姫」だけがひっかかってくるだけで、あとのオペラの演出は、ここ10年にも満たないことが判明、あくまでも黄紺調べですが。ですから、黄紺の勘は間違ってはいなかったのですが、この「椿姫」を、きっちり調べていなかったということでした。このプロダクションは、とにかく装置が、シックで気に入っています。そして、芝居や映画で名を馳せた演出家だけに、スペースの使い方の上手さが際立っています。例えば、登場人物の少ない第2幕第1場は、歌手が動き回るスペースを狭くしながら、2人の愛の巣が贅を尽くした(ヴィオレッタの資産が3ヶ月で底をつく)屋敷に見えるように、次の間が見えるようにしてあります。第1幕も同様の発想ですが、多くの人たちが集まるスペースを、更に広く見せるための次の間が、ゴージャスな感じで用意されています。壁の色合い、衣装の色合いも、このプロダクションでは、お気に入りの点です。とまあ、今更ながらの有名なプロダクションを、今また、このようなライブビューイングで流す場合って、歌手での人気取りが考えられるのですが、そのわりには、昨シーズンには、ディアナ・ダムラウがヴィオレッタを歌っているはずですが、それは流さず(替わりにパリのプロダクションが流れた)、今シーズンとなると、自ずと期待してしまいます。主役3人に対する客席の反応は、まあ互角と言える大変な歓呼が起こっていました。正直言って、1幕では、外しっぱなしと思いながら観ておりました。2幕から登場のパパ・ジェルモンを含めて、黄紺的には、この親子は平気点。ヴィオレッタが、かなり芝居のできる人だということから、歌唱にも説得力を感じたものですから、このロシアの若いソプラノに○を出したいと思います。1週間上映となりましたが、休憩時間は、ライブ時のままですから、やたらと長いのが、ちょっとした欠点。発信元からは、ソースは、今までのように流しているようです。次回は、ブリュン・ターフェルがタイトルロールを歌う「ボリス・ゴドノフ」と宣伝をしていましたが、この呼び物のプロダクションは、日本では流れる予定はないようです。何、考えてんでしょうかね。



2016年 3月 4日(金)午後 11時 32分

 今日は狂言を観る日。伝統の京都市民狂言会に行ってまいりました。場所は京都観世会館です。その番組は、次のようなものでした。「三本柱」(茂山千三郎)、「布施無経」(丸石やすし)、「花争」(茂山七五三)、「栗隅神明」(茂山正邦)。昔は、千之丞師のお話しが冒頭にあり、そのあと狂言が3番というのが、市民狂言会の形でしたが、最近は、千之丞師も亡くなられたこともあり、狂言が、実に4番、しかも、お囃子入りの曲も出ると、随分と内容的に変化を見せています。その結果、お馴染みの狂言でも、いろんな狂言師さんの組み合わせで観ることができたり、茂山家以外の狂言師さんがシテをされたりするようになっています。そういった変化が、今日の番組には見事に反映されていました。「三本柱」では、忠三郎家のお二人が、太郎冠者と三郎冠者に入られ、あとは千五郎家のお二人。千三郎さんが、この曲のシテを務められる年齢になられたんですね。そう言えば、三郎冠者の山口耕道さんの髪が、かなり白くなってました。お父さんの髪が真っ白だったのを思い出しました。茂山家以外でシテを務められたのが、「布施無経」の丸石さん。なかなかお家の方でないと、狂言のシテを務められるということは少ないのですが、丸石さんの「布施無経」のシテは、記憶に残っている限りでは3回目となります。それはそれで、凄いことになります。それだけ、丸石さんが得意とされている役なのでしょう。この曲で、アドを務めたのが、最も向いてないかもと思える宗彦くん。静かに、シテの僧侶の言うことに合わせ続けねばならないのですから。でも、そういった向いてなさそうな役柄に遭遇できるのが、市民狂言会かもしれません。お囃子が入ったのが「栗隅神明」です。かなりの狂言を観てきていますが、この曲に遭遇するのは初めてです。宇治の神明社の祭礼に集う人たちを活写した曲と言えばいいでしょうか。かなり、能の形式をパロっています。短いヒシギに次ぐ能の次第に相当する囃子で、シテの松の太郎とオモアドと言えばいいのでしょうか、太郎の妻が出てきて、次第を謡い、名乗りをしたあと、道行があり、着台詞となりますと書けば、この流れは、通常の能の型では、ワキとワキツレの常套的な流れです。この曲は、れっきとした能掛かり狂言ではないのですが、能の形式を巧みに借用しています。神明社の前で茶を商いする松の太郎のところへ、参詣人(立衆)が現れ、茶を所望するばかりか、神明社の謂れを尋ねます。参詣人が集団でもって、能のワキの役割をしているようで、また、松の太郎は、能の間語のようにと言うか、形式は、全く同じで語って聞かせます。それが終わると、今度は、松囃子と松の舞を所望するという流れです。所望された松の太郎は、羯鼓を着けて松囃子、そして松の舞を披露します。芸尽くしっぽい展開になるときには、羯鼓を着けます。羯鼓を叩くときの形も、能にそっくり。松尽くしになり、舞になると、地謡は出ず、替わりを務めるのが妻。ですから、一人地謡と言えばいいでしょうか。ここだけ、笛が入ります。神明社縁起を語り、松囃子、松尽くし、松の舞とくれば、祝言色一色です。通常、祝言曲というのは、最初に出るものですが、今日は、冒頭に「三本柱」が出ているため、ラストでの登場となったようです。そのため、全ての番組が終わったあとにある付祝言がありませんでした。祝言ものが重なるのを避けたということです。珍しい系の曲が続いた番組、「花争」もその類に入るでしょう。最短時間狂言かもしれません。10分ほどです。あまりにも短いので、普段は出ないという代物です。シテの七五三さんも、アドの網谷さんも、もう齢70に近いのじゃないでしょうか。そう言えば、会でいただいたチラシに、千五郎の家督が正邦くんに移る記念の会のものが入っていました。ロビーで見かけた千五郎師も、少々身体が縮こまった印象を持ってしまいました。一方の新千五郎になる正邦くんの恰幅は良く、もういいおっさんです。



2016年 3月 3日(木)午後 8時 31分

 今日は、メトロポリタンのライブビューイングを観る日。今週は、有名なフランコ・ゼフィレッリのプロダクションの「トゥーランドット」が上映されています。黄紺の知る限りでも、違うキャストで、DVDが2つも出ている有名なプロダクションです。今回も、今を旬のキャストでの上演。これが、オペラの魅力。同じプロダクションでも違うキャストで、また、同じ歌手でも、違うプロダクションで聴いてみたい、観てみたいと思ってしまうのです。今回の目玉は、ワーグナー歌手のニーナ・ステンメがトゥーランドットを歌うこと。確かに力強い声の持ち主です。今シリーズでは、「エレクトラ」のタイトルロールも歌うことになっていますから、そちらも楽しみになってきました。「トゥーランドット」では、1幕は顔を見せるだけで、2幕の前半も、ピン・ポン・パンの場面ですから、主役でありながら、なかなか出てこないのに対し、「エレクトラ」の方は、出ずっぱりですから、更に堪能できそうです。カラフは、イタリア人テノールのマルコ・ベルティ。どこかで遭遇しているのかもしれないのですが、記憶としては、初めての遭遇となります。豊かな響きを持ったテノールと看ましたが、テノールには甘いはずの客席の反応は、若干、女性陣に喰われたというところでした。リューが問題のアニータ・ハーティッグ。「問題の」と書いたのは、黄紺は、実際にドレスデンで、彼女のミミを聴いているのですが、期待外れだったと、はっきりと言い切れるがためです。但し、別嬪さんであることは太鼓判を押せるのですが。ところが、今日の上映を観ていると、黄紺がドレスデンで聴いた声質と全然違ううえ、客席の反応は凄まじいものがありました。なんか、おかしいのです。黄紺が聴いたときは、調子が悪かったということなんでしょうか。ドレスデンって、よく響く歌劇場なのですがね。ティムールと皇帝役の歌手が若いのまで判るカメラ・ワークもそうなのですが、今まで聴いてきたメトロポリタンのライブビューイングの音質とも違うようで、これも、黄紺の感じ方に変調があるからなのですしょうか。しかし、それにつけても、贅を尽くした舞台装置です。メトロポリタンの「アイーダ」と、この「トゥーランドット」だけは、半永久的に存続していきそうなプロダクションです。



2016年 3月 2日(水)午後 11時 27分

 今日は二部制の日。こういった日は、概ね午前中のウォーキングができないのが常。今日もダメでした。ちょっとストレスがたまります。まず午後は、文楽劇場であった公演記録鑑賞会に。今日は歌舞伎の日で、「恋飛脚大和往来〜序幕・新町井筒屋の番(封印切)、2幕目・新口村の場〜」を観ることができました。文楽では、再三再四観ている演目なのですが、歌舞伎では初めて。でも、文楽で観ているかげんで、ストーリーはばっちり。文楽と歌舞伎を比較するという点では、黄紺的には、とってもいい教材になると喜んだまではいいのですが、今日も、昼間は居眠りが出てしまいました。そこで、そういった中でも、書ける範囲内のことだけメモっておきたいと思います。「封印切」は、やはり図体が大きい方が、解りやすくていいですね。図体が大きい分、とっても繊細な動きを、歌舞伎は求めようとしていると思いました。そして、歌舞伎の方が、梅川と忠兵衛のキャラが濃いように思えました。梅川は忠兵衛命度が高く、忠兵衛の頼りなさ、ダメさのような部分が強く感じさせるようになっていると思えました。「新口村」は、文楽のリアリティに対し、歌舞伎は完全なる様式美と看えました。文楽は、場面全体で、空気感からして作り出そうとしているのに対し、歌舞伎は完全に人物に焦点が当たっていたように思えました。黄紺は、「新口村」に関しては、圧倒的に文楽に乗ります。ここまで断定的に書けるかと、ちょっと不安もあるのですが、居眠りをしていても、ここまでは書けると思い書いてみました。この記録は1983年のもの。今から32年も前のものです。忠兵衛が孝夫、現仁左衛門、なんとも優男が似合います。八右衛門が、その兄の我當、映像を観ているだけでは、誰だか判りませんでした。梅川が4代目雀右衛門。そして、孫右衛門が先代仁左衛門。目も悪くなく、歩様もしっかりとした姿を見ることができました。
 文楽劇場を出ると千日前のネットカフェで時間調整。そして、夜は、昨日の夕方までは、動楽亭に行くつもりをしていたのですが、急に気が変わり、千日亭に行くことにしました。最近、雀五郎や南天ばかりを聴いている気がしてしまったからかなと、自分でもよく判らない気の変わりようです。今夜の千日亭では、「第54回TORII講談席〜オモテ・ウラ『難波戦記』特集〜『真田丸』よりオモシロイ!」がありました。毎年恒例の大河ドラマ便乗企画です。その番組は、次のようなものでした。紋四郎「千早ふる」、南海「オモテ・ウラ『難波戦記』レクチャー」、南北「ウラ歴史・平野の地雷火」、(中入り)、南華「オモテ歴史・天王寺の合戦〜幸村討死!」、南海「ウラ歴史・天王寺の合戦〜幸村不死身!」。講釈師の若い衆に空きがなかったのか、噺家の紋四郎が前座。慣れない講談の会だからでしょうか、声が、かなり上ずり傾向。実際のネタに入る前に、南海さんから、上方版難波戦記が出来上がるまでのレクチャーがありました。この会の最大の魅力と感じていたのがこれ。今日は、ネタ的には、よく聴いているネタが並んでいましたからね。難波戦記は、徳川政権を讃えるために、江戸で誕生したのだが、西に伝わってくるにつれ、豊臣贔屓に変わっていったとか。殊に名古屋に伝わってからあとの変化が著しいそうです。実際に写本や、国会図書館にしかない資料については、コピーを持ち込んでのレクチャー。もう講釈師は学者でもあります。南北さんのネタは、家康が、最も惨めな敗走をするということで、抜き読みとして、講談会ではしばしば出るネタ。なんせ、家康が雪隠で用を足しているときに、地雷が爆発し、家康はそのまま逃げまくるというものですから、豊臣贔屓の話の最たるものでしょう。南華さんは、幸村の最後の戦を描く流れで、幸村の死に至るまでを史実に則った読みものを出されると、その同じ場面を、南海さんは、豊臣贔屓の難波戦記に描かれているところを読まれました。ストーリーは、南北さんからの続きで、敗走中の家康は、後藤又兵衛に、堺で殺されます。そのあとは、家康の替え玉の指揮のもと、大坂城は落城、幸村らも替え玉が首を取られたり、自害したりするのですが、生き残った本物の秀頼、幸村、後藤又兵衛らは、薩摩に逃れていくという展開になります。いつも、ここで切られます。あまりに荒唐無稽になるということで、再度の豊臣の旗揚げは読まれたことはないようです。今日は、この会の常連南湖さんは、繁昌亭で出番があるとかで、お休みでした。



2016年 3月 1日(火)午後 11時 32分

 今日は、昼前には雪もちらつく寒い一日。今日も、昨日に続き、小ぶりの落語会に行った日でした。中津と中崎町の間にある提法寺というお寺であった「第31回ひろば・そうばの提法寺寄席」という落語会に行ってまいりました。年4回開かれる落語会なのですが、少なくとも2回は、日本にいなかったか何かで飛んでいます。時間的に空いていると、足しげく通っている落語会の1つです。その番組は、次のようなものでした。ひろば&そうば「トーク」、ひろば「替り目」、そうば「天狗裁き」、ひろば「竹の水仙」。「トーク」は、毎回、前回からの3ヶ月にあったことをお喋りするというのが定番。今回の話題の主要なものは、ひろばの結婚というか結婚費用に関するものと米朝追善を銘打った米朝一門による芝居から派生したひろばの芝居小屋体験というところでした。前者の結婚費用の件は、息子の結婚時を思い出し、至極納得しながら聞いておりました。芝居には、そうばの方は、ちょうばとのダブル・キャストで出たそうですが、ひろばの方は、稽古期間が新婚旅行と重なりパスしたそうです。そこで、ひろばが修行中に師匠に付いて松竹座に通ったときの苦労話となったわけでした。ほぼ30分の「トーク」のあとは、落語3席となりましたが、ひろばのネタは定番のもの。ちょっと長めのネタのため、あまりキャリアからして、出す場がないのかな、そんなで、この定番ネタ2つをやりたかったのかなと、勝手に考えておりました。「替り目」は、嫁さんに聞かれてしまう例のところで切り上げました。そうばは、ひょっとしたら、動楽亭の会でネタ下ろしをした「田楽食い」を出すのかと懸念はしていたのですが、外れてくれてバンザイ。そうばの「天狗裁き」は初の遭遇となります。しかし、「天狗裁き」は、噺家さんに異常人気です。で、この「天狗裁き」が良かった。そうばベストかもしれません。もちろん、黄紺が聴いたそうばの口演の中ででの話ですが。インテンポで、とってもリズムがあり、登場人物が変わると、微妙にテンポを揺らします。これが絶妙。こういった口演を聴かせてもらうと、ホント心地の良いものですね。変にキャラ作りをする前に、そうばの、今日のテンポのいじりがあれば、まずは「天狗裁き」は楽しみながら聴くことができます。ちょっと、今日は、客足が伸びず、残念な感じがしましたが、いい噺が聴けて良かったと思っていたら、外に出た途端、あまりの寒さに、暖まった気分が、瞬く間に冷えてしまいました。



2016年 2月 29日(月)午後 11時 00分

 今日は雨模様のなか二部制を採った日。午後に映画、夜は落語会というスケジュールでした。まず、午後は、シネマート心斎橋で、韓国映画「探偵なふたり」を観てまいりました。久しぶりに、クォン・サンウの出る映画を観ようじゃないかと思ったら、オペラ紀行に出かける前では、今日くらいしか時間が取れそうもないということで、二部制を採ったというわけです。クォン・サンウ、4年ぶりの映画出演だそうです。しかも、コミカルな役柄という、あまり観た記憶のないもの。子持ちの若いパパという役ですが、大変な恐妻家。漫画喫茶兼本屋の主人でありながら、警察官になり損ねたため、未だに警察の捜査に関心を持ち、友だちの警察官に係わり、警察の捜査に絡んでいこうという人物。もう一人の主人公が、うだつの上がらない年配の刑事。こちらの方は、ソン・ドンイルが演じます。様々な映画で、チンピラ役やだらしのない親父役を務めてきた俳優さんです。この2人が、コンビを組むようになるのは、クォン・サンウ演じる男の友人であり警察官である男が、殺人容疑で逮捕起訴されたから。この映画、推理劇としては、なかなかおもしろいもの。ところが、一方で、主役2人が、いずれもパットしないキャラになっているため、そちらに比重が移り、結果的に、やたらと怒鳴り、ワメくシーンが多い。クォン・サンウは、ソン・ドンイルに怒鳴られる、嫁さんに怒鳴られる、ソン・ドンイルも、結局は恐妻家で、こちらも家で怒鳴られる、職場では、上司に怒鳴られるという具合で、そのシーンがやたら多い。それが、事件解決に向けてのシーンを完全に喰っているため、せっかくのおもしろい推理劇が、ちっぽけな扱いを受け、捜査のポイントとなる新たな推理、それところか証拠が出てきても、あまりに扱いが小さいため、理解できないままに、次へと進んでしまう。だからと言って、推理劇がどこまで進んでいるかが解らないわけではない、となると、これが、映画のトラップかと思えてきました。丹念に推理を楽しませる映画としてではなく、主役2人のコミカルな演技を楽しませることが、映画の目標であり、それに推理劇が着いてくれば良い、だけど、推理劇としての質は落としたくない、あとから考えると、犯人捜しも、なかなか手が込んでいたと思えるような映画、そないな思惑が見え隠れする映画でした。黄紺的には、比重を逆にして欲しがったなと思ってしまうのですが。がなってばかりのソン・ドンイルが、最後は、「機械仕掛けの神」的な役割を果たして、物語は終息していきました。クレジットが流れ終わっても、場内には照明が点らないので戸惑っていると、クォン・サンウが画面に出てきて、挨拶なんかしちゃいました。韓国映画の上映が、そないなところまで来ているのを知り、改めて韓国映画が日本市場に根づいている様を確認することになりました。怒鳴る場面を我慢できる方なら、推理劇としては、よくできていると思いますので、クォン・サンウのファンの方にはお薦めします。
 映画が終わると、珍しく心斎橋のネットカフェで時間調整。そして、夜はツギハギ荘であった「喬介のツギハギ荘落語会」に行ってまいりました。南天の会が動楽亭であったのですが、猛烈な混雑が予想されることから、今回も避け、喬介を聴くことにしました。おかげで、ツギハギ荘を再訪することができました。その番組は、次のようなものでした。「子ほめ」「一人大喜利」「太鼓腹」。助演もお手伝いもなしの完全な一人会。受付も喬介、出囃子は客が操作というもの。また、客席に集った顔ぶれは、いろんな落語会で見かけるもの。ま、それだけ喬介落語は、コアな落語ファンの楽しみを誘うものがあります。喬介の作り出すいちびりキャラが、楽しい落語を生み出してくれるからでしょう。「子ほめ」はネタ下ろし。喬介曰く、「上方落語家の200人はできるでしょう」、だから、自分もやってみたかったと言っていました。もちろん、自分なりのキャラでと言っていました。確かに、喬介くらいのキャリアだと、持っているか、持ってないなら今さらながらと思うネタです。ですから、人からやりなさいと言われて手がけるネタではないわけですから、やりたいと思うモチベーションが要るネタなわけですから、喬介も、客席に向かい、動機を説明したのでしょう。ですから、喬介テイストを効かせた点が、幾つか出てきました。仕込みのところで、年齢を増やして行き尋ねるときの繋ぎに、間合いを取りながら決まり文句を入れたり、聞かれた方が、気を利かして先回りをして言ったりしたり、伊勢屋の番頭は家に閉じこもっていたり、竹やんの家では、お爺さんだけではなくお婆さんも横になっていたりしていました。通常のテキストの中に、喬介スペシャルがいつ飛び込んで来るか判らないものですから、「子ほめ」といえども、ぼんやりと聴いているわけにはいきませんでした。本人からすると、「わりかし練習してきたのに」、噛むことの多かった「子ほめ」となりましたが、楽しみの多い口演でもありました。「一人大喜利」と書いたものは、下げもない世間話をしたあと、フリップを使いながら、「噺家が運動会をしたら」ということで、ありそうもない、でもあったら楽しいだろうと思えることのお喋りでした。そして、もう1つは、お馴染みの「太鼓腹」。お馴染みのというのは、喬介で、わりと聴いてきたネタだということです。「子ほめ」の主人公よりも、かなりはしゃぎぶりが著しいのが、「太鼓腹」の若旦那。これは、今までに何度か聴いているので、免疫はできているのですが、今日は、針を抜かれるときの茂八の痛がりようが可愛くて、茂八に同情してしまいました。時間にして、1時間15分ほどの会でしたが、その間は、完全無欠の喬介ワールドに浸った濃密な時間。捨てがたい会です。



2016年 2月 28日(日)午後 6時 55分

 今日も落語を聴く日。今日は、昼間に動楽亭であった「第4回 おばま染寿丸〜大阪公演〜」に行ってまいりました。「ちりとてちん」をきっかけに生まれた小浜での落語会ユニットの大阪公演ですが、主宰の3人の噺家さんに、最近、やたら遭遇機会が多いのです。染吉なんか、2日連続となっちゃいました。その番組は、次のようなものでした。弥太郎「向う付け」、生寿「七段目」、染吉「質屋蔵」、(中入り)、全員「座談会」、福丸「七度狐」。今日は、2つの失敗をしてしまいました。1つは、全ての噺家さんの口演のどこかで、居眠りをしてしまったこと。どうも、昼間の公演が鬼門になってしまっています。2つ目は、同期会的な落語会に行く場合は、ネタに要注意なのですが、今日は、見事、その野ツボにはまってしまいました。近くに、各自のかんだ会がある場合は、ネタがかぶる恐れが大きい心配があるということです。特にネタ下ろしをした場合には、続けて高座にかけたいと考えるのは当然ですから、その可能性が高まります。主役の3人は、いずれも2月に自身の会を開いており、それに加えて、各自がネタ下ろしをしていたのを承知で行ってしまい、その野ツボにはまってしまったというわけです。生寿のネタ下ろしはタカラヅカ落語だったために、3人ともということにはならなかったのが、せめてもの救い。「七段目」だったのでセーフと思っただけではなく、黄紺は、生寿の「七段目」を聴いたことがなかったので、逆にガッツポーズだったのに、居眠りをしてしまいました。コメントを書けないほどの居眠りでした。福丸の「七度狐」は、元々安定したお喋りだったという印象が残っていますが、満足感を持てなかった染吉の「質屋蔵」が、かなり上向きに。まず、一番の基本である大きな声ではっきりと、こわごわのお喋りではなく、嘘でも堂々と喋る、これができると、こうも変わるのですね。冒頭の長口舌が、旦さんの喋りになってきました。はっきりと、自信を持ったお喋りが、旦さんに位を付けたのだと思いました。昨日の「町内の若い衆」に続き、黄紺の中での染吉株は急上昇です。オペラ紀行から帰ってきたら、染吉自身の会にも足を運んでみようかと思い出しています。3人の中で1番早く上がった生寿が、「今日のネタの並びはおもしろいことになりますよ」と言っていましたが、染吉の「質屋蔵」で、その意味が判明するとともに、黄紺は野ツボにはまったことに気がついたわけですが、今日のはネタは「七並べ」なのです。最後の「七度狐」は、「野辺」と「煮売屋」を、はしょりながら入れてから、「七度狐」に入りました。自身の会で出したときには、フルヴァージョンでの口演でしたが、今日は、おさよ後家を運んでくる場面はカットしてました。そして、前回は伊勢音頭ではなかったような気がするのですが、記憶違いかもしれません。いずれにせよ、今日は、通常の伊勢音頭が唄われました。それ以外に、変化があったかもしれませんが、居眠りの彼方のこととなります。開演が午後1時だったこともあり、終演は3時半。時間が早かったので、淀屋橋駅まで、1時間10分ほどのミニウォーキングをして帰ることにしましたが、暖かないい日和でした。昨日の雨上がり以後の冷え込みがウソのような暖かさでした。



2016年 2月 28日(日)午前 0時 7分

 今日は落語を聴く日。久しぶりに、雀喜の会「ジャッキー7」に行ってきました。会場が、正雀市民ルームから摂津市民文化ホール大会議室に移ってから初めてとなりますから、1年は行ってなかったのではないかな。できれば、聴きに行きたい噺家さんなわけなので、巡り合わせが悪かったのが、最大の要因だと思います。場所が変わったおかげで、阪急の新しい駅摂津市駅で、下車することができました。但し、駅から近いのにも拘わらず、勝手が分からなくて迷ってしまいましたが。で、番組は、次のようなものでした。染吉「町内の若い衆」、雀喜「くまのプータロー」、雀五郎「肝つぶし」、(中入り)、雀喜「地獄八景亡者戯」。最近、染吉との遭遇機会が増えています。「町内の若い衆」は、染吉がよく出しているネタにも拘わらず、黄紺は初遭遇。元々、東京ネタなもんで、あと、手がけている噺家さんを思いつきません。その「町内の若い衆」が、とっても楽しいものでした。おかみさんを、あまりにもアホげにむちゃもんにしたのが大成功。むちゃもんぶりに、亭主の喜六は泣きながら街を歩いてたり、その友だちの清八にもひるませたりと、おかみさんの描写だけではなく、周りの人間をも通じても描写させるのがおかしくって。雀喜の1つ目は、あとから上がった雀五郎に、「私はまともな落語をします」と言わせた雀喜作品。熊のぷーさんを文字っていじられる男は、いたって頼りなく、定職にも就いてないことから、様々な就職活動をするが失敗ばかりという噺を、オムニバス形式にしたもの。噺の繋ぎは携帯から流れる同じ音楽ってところが、まともじゃないという雰囲気を高めてました。雀五郎の「肝つぶし」は2回目。雀喜の新作の寸評を入れたあと、「今日はジャッキー7に中トリが入ります」「こないだの地獄のときは1時間20分かかりました」と、ジャッキー7の広報官の役割をしていました。こないな話を聞いて、雀五郎と雀喜は兄弟弟子だという当たり前のことを思い出していました。ネタの方は通常の流れ。1つだけ目立ったのは、夢の話を聴く男の大仰な反応は、他の噺家さんでも見たことのないもの。やられてみると、理屈が通っていて、決して過剰表現でないことが判り、雀五郎のセンスの良さに感服しました。今日の呼び物の「地獄」、雀五郎が言ったように、1時間20分まではかかりませんでしたが、1時間10分ほどかかりました。昨夜の寝不足が祟り。途中、2回ほどうとうとしたため、どこがどうなり、そのような長講になったかの判断が出来かねるのが、残念なところです。全体として言えば、とにかく雀喜が楽しげに演じているのが印象に残ります。雀喜テイストの学芸会的な手品が一芸だったりと、本人が楽しげだから、聴いている方も楽しくなってくるという「地獄」。会場は、正雀の部屋をかなり上回る広さの大会議室。まだまだ、客の入る余地はあります。でも地の利の悪い(悪さでは群を抜きます)中でも、コアな落語ファンは湧いてきますね。



2016年 2月 26日(金)午後 11時 48分

 今日は、久しぶりに芝居を観る日。最近、芝居を観る機会が減っていますが、今年に入ってからは、2度目となる観劇の日となりましたが、今日も、前回と同じAIホールでのものとなりました。更に、同じことが続くのですが、今回も、名古屋の劇団の芝居です。随分と昔、新宿の小さな劇場で観て以来、逃してはならないと思いながら、関西での公演があると、黄紺が日本にいないことが多く、今日で、まだ3回目となる遭遇となった「少年王者舘」の公演「思い出し未来」を観てまいりました。のっけから小刻みな台詞に合わせて、サスがすばやく対応していき、まず度肝を抜きます。台詞は、部分的に聞き取れるだけで、全ては、黄紺の耳には入ってきません。天野の芝居って、そうだったよなと思い出すと、風を浴びるように台詞を受けることに切り替え。この切り替えが、素早くできないと、こうした芝居は、最後まで解らないというのが、黄紺の経験知。その内に解ってくるのだからという横柄な態度が、理解へと導いてくれます。台詞は、全く聞き取れないのではなく、部分的に入ってきますし、芝居は、何も台詞だけで進行するものではないからです。案の定、徐々に芝居の仕掛け、ストーリーらしきものが見えてきました。天野の芝居で、ストーリーらしいものが、容易く見えてきたということ自体、黄紺的には珍しいこと。一人の男の人生振り返りの話だということ、しかも、終わりが来てしまった男の人生振り返りの芝居だということが判ってきました。その男を複数の役者が、また、その男の娘も、複数の役者が演じるという仕掛けが施されていました。それを、役者の台詞を重ねさせるという手法を用いて解らせようという手が取られているということが理解できていきました。ストーリー的には、さほどおもしろいというものではなく、その目眩ましのような演劇手法には圧倒されましたが、繰り返しの効かない自らの人生を振り返り、悔いの感情から生まれる幸福ってという問いかけの芝居だと看ました。もちろん、天野ですから、陳腐な印象を残さないためでしょうね、「しあわせ」を擬人化し、且つ、逆接的に主人公の男には、「しあわせ」という言葉すら知らない設定にはしていましたが。更に、天野の芝居にはお馴染みの、同じ台詞や動きの繰り返しを、芝居の枠組みが判ってきたようなところに嵌め込んでいました。そのタイミングは鮮やかなものだと感心させられました。天野の6年ぶりの新作だそうです。特徴のレトロなテイストは、かなり影を潜め、また、芝居の構造が、黄紺にも見えたなんてことを考えると、黄紺が遭遇できていなかった間に、ちょっと作風が変わったのかもしれませんね。会場に詰めかけた人たちの会話が、客席にいる黄紺の耳に入ってきたところによると、どうやら、かなり関西の演劇関係者がいたようですね。それだけ、プロにも少年王者館の公演って、注目されているってことなのでしょう。



2016年 2月 25日(木)午後 11時 40分

 今日は落語会に行く日に戻りました。5日連続で落語会に行き、5日連続で落語会に行かない日が続くという、かなり片寄った生活。今夜の落語会は「べにてん〜桂南天と桂紅雀の落語会〜」でした。場所は鶴橋の雀のおやど。2人の落語に2人のトークで構成されている落語会。後半のトークが長すぎる場合がままあることから、行ったり行かなかったりの会です。2人の落語だけの会でしたら、足しげく通うんだけどね。今日の番組は、次のようなものでした。紅雀「鷺捕り」、南天「へっつい盗人」、(中入り)、南天・紅雀「トーク」。紅雀は、最近、遭遇機会のなかった「鷺捕り」。枝雀のイメージの強いネタを、枝雀最後の弟子が聴かせてくれました。客席にいる人たちは、一度ならず聴いたことがあるだろうということを前提にしたようなお喋り。軽くはしょったり、ちょっとデフォルメ系のくすぐりが入ったりしたもの。ただ、客席の会話を聴いていると、落語通の方が落語初心者を連れて来られている方も散見でき、喋る立場の難しさを痛感しました。お囃子の入るえらいこっちゃの部分は、当然スルー。下げは、四隅の坊さんが亡くなるのではなく、もう一度、トランポリンの要領で五輪搭に戻るというもの。初めて聴いたものでした。ひょっとしたら、人が死ぬ下げが気になったのかもしれませんね。南天の「へっつい盗人」を聴いたのは久しぶりになります。昔から鉄板ネタにしているもの。盗みを誘われるアホのはしゃぎぶりが売りとなります。はしゃぎすぎが過剰になることを避けるためか、以前はやっていたへっついに縄を通す部分はやらなくなっています。今日も、その前で切り上げることになりました。後半のトークは、お題を2つ出して、そのアンケート結果をネタに、2人が喋るというもの。今日のお題は、「最大のピンチだと思ったこと」「どんな散財をしたことがあるか」の2つでした。今日のトークは、皆さんの人生が出ていて、とってもおもしろいものでした。様々な人生をお持ちの方たちが、いろんな思いを持ち落語会に来ておられることが判り、ちょっとした人生勉強をさせていただきました。



2016年 2月 24日(水)午後 11時 30分

 今日は、ラクゴリラの記念の落語会を捨てて、ワーグナーを聴きに行く日。大阪交響楽団の定期演奏会で、ワーグナー親子の曲が並べて演奏されるというプログラムに惹かれてしまいました。おまけに、父親のワーグナーの曲目は、「指環」の抜粋(児玉宏編)だということで、あっさりと落語会を切り捨ててしまいました。そのプログラムは、次のようなものでした。ジークフリート・ワーグナー : 交響詩「憧れ」、リヒャルト・ワーグナー: 楽劇「ニーベルングの指環」より“抜粋”(児玉宏編)。ジークフリートは、「指環」の主人公の名前を取られたコジマとの間にできた子ども。その息子が、バイロイトで手腕を発揮したという話は聞いたことがあったような、ちょっと曖昧な記憶があるのですが、作曲家でもあったって話は、今回初めて知りました。ですから、その曲を聴くなんてのは初めてのことです。オペラも幾つか以上の数の作品を残しているそうです。大阪交響楽団は、知られざる作曲家の作品を、定期演奏会のプログラムに加えるということで人気のオケですが、このジークフリートの作品もそういうことなのでしょう。おまけに、今日は、偉大な父親の偉大な作品の前座役にもなるということでのプログラミングといったことにもなります。序盤にイングリッシュホルンのきれいなソロが入り、ちょっと興味を掻き立てましたが、あとは凡庸な印象。オーケストレーションもさほど複雑なという印象は受けませんでした。「指環」の抜粋は、歌唱の入る部分も多く含む本格的な抜粋。ですから、歌なし「指環」のええとこ取り集、しかも、「指環」の筋立てをきっちり追いかけ、動機の必要以上の重複は避けるように構成されていました。10年ほど前に、児玉宏が東京フィルを振ったときに、自ら編集したものを、更に、今回の演奏のために加筆したようで、プログラムには「第2版」と記されていました。珍しいワーグナーが聴けるということからでしょうか、これ狙いで来ていた客、要するに黄紺と同じような人種とおぼしき人たちの姿が目についていました。ただ、演奏は、どうも乗れなくて、、、。ホルンを除く金管以外は、ちょっとワーグナーの音になっていなかったなという印象です。弦楽器は、深くて厚い響きというのにはほど遠かったし、木管ものっぺら棒のように感じてしまいましたし、ジークフリートの動機の1つである角笛の音って、ネイチャーボーイを表すには残念な響きでした。おもしろいものを聴かせてもらえた、でも完璧ではなかったというところです。「指環」は、正味75分の演奏、「ワルキューレ」までが30分、後半の「ジークフリート」からが35分という配分でした。もちろん、75分間切れ目なしですから、この時間配分は、あくまでも黄紺の測定です。



2016年 2月 23日(火)午後 11時 15分

 今日は講談を聴く日。谷六の薬業年金会館であった「第223回旭堂南海の何回続く会?〜増補難波戦記13」に行ってまいりました。「猿飛佐助大暴れ」と題して、いつものように1時間半にわたる南海さんの読みものを聴くことができました。講談に入る前に、先日亡くなられた東京の講釈師神田陽司さんの思い出をお話しになりました。黄紺も、2〜3回聴いたことがあり、個性的な活動をされている方との印象が残っています。南海さんのお話しは、かなり熱いものがあり、悔しい気持ちに溢れたものでした。今日の主人公猿飛佐助は実在の人物ではないところから、いつ、どんな風にして、猿飛佐助というキャラが誕生に及んだのかあたりから話されるのは、南海さんらしいところ。話は、まず猿飛佐助の少年時代、著名な忍術使いから5年にわたり修行を受けるところから。次いで、猿飛佐助は、真田十勇士の1人なわけですから、若き幸村との出逢い、そして家臣になる話へと進んで行きました。穴山小助や三好兄弟を翻弄する話が荒唐無稽で痛快です。それもそのはず、忍術を使い、姿を消したり、火遁の術を使いこなすわけですから、どうしてもそうなります。まだ、真田が武田の家来だった時期ということで、「三物見」の話が入りました。佐助が家臣になると、物語は、どーんと時代が下りました。講釈の常として、佐助のような人気者が現れると、できるだけ話を引っ張るということをしますが、その引っ張り方の最たる方法は、その人気者に諸国漫遊をさせるというものがありますが、ご多分に漏れず、猿飛佐助の諸国漫遊話が延々と続くそうで、しかもパターンが決まっているので、割愛をするのだけれど、ちょっとだけやっときますと入っていかれたのは、石川五右衛門の出てくる話。ただ、こちらは、途中で時間切れ。黄紺は、悲しいかな、来月はオペラ紀行中に開かれるということで、その続きを聴くことができないのです。



2016年 2月 23日(火)午前 7時 31分

 昨日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。春のオペラ紀行前最後のカフェモンタージュになります。昨夜は、「フォーレ室内楽全集第1回」として、「ピアノ四重奏曲第2番 ト短調 Op.45 (1886)」が演奏されました。少し演奏時間が、1時間には足りないということで、フォーレが演奏される前に「ルクー 弦楽三重奏曲作品58(1937)より第2楽章アダージョ」の演奏がありました。演奏者は、ピアノ:岸本雅美、ヴァイオリン:佐藤一紀、ヴィオラ:小峰航一、チェロ:上森祥平の4人の方々でした。もうルクーのときから重厚な響きがカフェに充満。フォーレになると、端からピアノも加わり畳み掛けてくる雰囲気。それが、ほとんど途絶えることなく、最後まで突っ走ってしまおうなんて着想は。どこから生まれたものなんでしょうか。ビオラとチェロのユニゾンが、わりかし多く、どうしても重厚な響きが充満してしまいます。ピアノはピアノで、のっけから飛ばしまくる。となると、はみごのようになってしまうのがバイオリン。そんなで、はみごのバイオリンは、えらく線の細い響きを求められているよう。ただでも押されがちなバイオリンの佐藤さん、線が細い分、この曲のアクセントになっていました。普段、この曲をかけていると、流されて流されてしまい、いつの間にか終わっているという印象だったのですが、ライブで聴いてみると、随分ともったいないことをしてきたというのが実感。フォーレもまた、ロマン派の音楽を、行き着くところまで引っぱって行っていたなと再認識させてもらえました。昨日で、カフェモンタージュでのコンサートは300回目を迎えたそうです。新しい試みとして、マスコミなども注目したカフェ、こんなに続いたのは、やはり、プログラムの魅力、演奏者の魅力、そういったものを紡ぎ出されるオーナー氏カップルの魅力があったからだと思います。そして、京都には、京響があり、長岡京室内アンサンブル、堀音、京芸があるからこそできるのでしょうね。いずれにせよオーナー氏に敬意を表さねばと思っています。



2016年 2月 21日(日)午後 9時 14分

 今日は、当初二部制を考えていたのですが、最近、二部制が続いたため、今日は倹約の気持ちが出て断念。落語会は止めて、映画だけにしました。シネヌーヴォであったセルビア映画「バーバリアンズ セルビアの若きまなざし」を観に行ってまいりました。黄紺は、この秋にはセルビアに行くことを考えていますので、グッドタイミングとばかりに、落語会を外してまでも観に行ってまいりました。ところが、これが大正解で、なかなか素敵な映画で、黄紺好みの映画だったのです。舞台は、工場などが目につくベオグラードの片隅。主人公及びそれを取り巻く男女は、その辺りにたむろし、エネルギーを持て余している不良グループ。その中の1人で、暴力事件を起こしたあと、仮釈放で要観察中の19歳の男ルカ。家庭は、父親が女と逃げたことを隠し、紛争中に失踪したとして、その手当てで生活しており、母親は、ケースワーカーの勧めに耳を貸さず、全く仕事をする気を見せず、しかも、ルカに対して文句ばかりをたれている。ルカには居場所のない家庭。地元のクラブの黒人のサッカー選手の送迎を、兄貴と呼ぶ男に託されるのだが、一方で、遊び仲間のフラッシュなどと遊び歩いている内に、女のことで腹を立てたルカは、有望なサッカー選手を骨折させ、クラブ関係者から追われる身に。そんなで、女にも相手にされずと、どんどんと行き場がなくなっていきます。そういったタイミングで、父親が生きていることを知ったルカは、ケースワーカーを脅し、所在を知り会いに行くのですが、父親は顔も覚えていない。行き場を失ったルカは、どうするのかというところで、映画の終盤に入っていくというわけです。若い連中に仕事も少ないのでしょう、ルカに代表されるように、まともな大人を見て育ったという経験を持ち合わせていないのでしょう、その彼らの持つエネルギーは、ときとして、酒、暴力、ドラッグ、セックスなどに走り、社会の枠を飛び越えていきます。コソボ紛争を背景に、経済的に厳しい状況下のセルビアでは、社会の歪みが、こういった若い連中に顕著に現れていたのでしょう。その持っていきようのないエネルギーの受け皿になっているのがサッカーだと、かつてのトルコを歩いていて思ったものですが、正に、この映画に描かれたセルビアの風景はそれ。ドイツのルール地方に、有名クラブが集まっているのも、そういうことだと思っています。その受け皿に加えて、政治参加が受け皿に描かれていたのが、この映画の素晴らしいところ。デモに参加し身体をはって、警察や軍と対峙したり、またシャッターを閉めた店舗を襲い略奪を謀ること、これらが、全て同じ水面上に置かれて、この映画は描いていました。それこそ、ドラッグをやって女とセックスするのと、サッカー場に行き大きな声を張り上げ贔屓クラブに声援を送るのは同じことだし、コソボ独立反対を唱える声を張り上げることは同じ、ショーウィンドーを叩き壊し商品を略奪するのも同じってのが、とってもリアリティを感じてしまいました。30歳を少し過ぎたばかりの監督さんだそうです。楽しみな方が出てきたものです。



2016年 2月 20日(土)午後 10時 41分

 今日は、珍しい組み合わせの二部制の日。昼間が、民博でのゼミナール、夜は、京都芸術センターでの講演&ミニコンサートという組み合わせでした。まず、民博ゼミナールですが、今日は、「みんぱくにタイ寺院ができるまで」というテーマで、同博物館教授の平井京之介さんがお話しをされました。黄紺は、この7月にタイに行く予定にしていますので、とってもタイミングのいい企画と、楽しみにしていたゼミナールでした。講師は、ラオスやタイでの仏教をフィールドにされている方。ラオスでは、実際に出家をして、寺院で3ヶ月間の僧侶経験も積まれているとか。そのときの写真も写しておられました。お話しの掴みは、民博の展示のリニューアルでいじったところから。その話から、タイの仏教寺院にも、一般家屋にも、トポスによる価値の変化があるということが判り、なかなかそそられるところからスタートしました。でも、お話しの中心は、大陸部東南アジアに拡がる上座部仏教について、仏教寺院内部の特徴についてのものでした。ただ、今回も、寺院の構造のお話しの途中から熟睡。幸い、しっかりとしたレジュメをいただいたおかげで、内容の方向性は把握できるのですが、それではダメですね。もう、じっくりと人のお話しを聴けないようになってきたのかもしれません。
 夜の部までは、十分に時間があったので、民博の映像資料をゆっくりと視聴したうえ、強めの雨が降っていたのですが、いつものように阪急茨木市駅までのウォーキングをしてから、四条烏丸近くにある京都芸術センターに移動です。今夜は、こちらで「カフェ・モンタージュの高田伸也による、明倫茶会 特別編〜《失われた時間》〜」というイベントがあったのです。日頃は、短い時間でしかお話しを伺えない高田さんのお話しを、ゆっくりとお聴きできるということで寄せていただきました。お昼の部では、「シェークスピア」を切り口に、エリザベス朝演劇の音楽を語られることになっていましたが、民博に行く関係で断念。夜の部だけに寄せていただいたのですが、夜の企画はシークレットということで、何があるのか判らないまま出かけて行くことになりました。「失われた時間」とはプルーストでした。と言っても、プルーストが解るわけでもないのですが、高田さんは、プルーストの文章を基にして、30分ほどお話しになりましたが、音楽を聴いて、感動を覚えたら、それは過去になり、そこから現在が生まれ未来につながるなんてことを言われていたと、言葉通りに書くと、そのようになりそうなんですが、言葉の解釈としては、よく解らなかったのですが、言わんとされていることは、何となく伝わってきている気がしてました。感動を覚えたなら、その感動を対象化し、それを分析、言葉化すると、新たな感動に出逢う連鎖が生まれていくということなのかなと思って聴いていたところ、作曲家の具体例として、やたらモーツァルトの名前が、高田さんの口から出てくるものですから、このコンテキストで行くと、後半のミニコンサートでは、バルトークあたりを出すつもりかもと、そういったうっすらとした予感を、黄紺は持ち始めていました。確かにカフェモンタージュの常連さんのお顔も目にしましたが、やはり、こういった場では、そういった人を相手ではなく、カフェモンタージュなど知らないという人たちを対象にお話しされるだろうから、思わぬ感動を持ってもらうなんてことを企図されるのなら、バルトークじゃないかと思ってしまったのでした。旧明倫小学校の和室の大広間の向かいは元体育館と思われます。昔の体育館ですから、さしてコンサートをするのに違和感はありませんでした。後半のミニコンサートの演奏者と曲目は、全くのシークレットでした。カジュアルな姿で、バイオリンを片手に持ち現れられたのは、京響のコンマス泉原隆志さんでした。そして、演奏されたのは、なんとバルトークの無伴奏バイオリンのためのソナタでした。黄紺は、泉原さんのソロ演奏を聴くのは初めてだったものですから、この明倫茶会は、黄紺にとっては、大変なプレミアが着いてしまいました。ただ、元体育館ということで、音響的には、決して芳しいという状態ではなかったのですが、もうバルトークを聴ければ御の字ってやつでした。終わって外に出ると、まさかまさかで雨は止んでいました。せっかくでしたので、五条京阪まで歩くことにしました。



2016年 2月 19日(金)午後 11時 2分

 5日連続の落語会通い最終日となりました。今日は繁昌亭です。今夜は、人気の会「笑福亭福笑一門会〜たった二人の一門会 VOL.10」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。たま「地獄八景亡者戯」、福笑「インテリ強盗」、(中入り)、たま「らくだ」、福笑「ちしゃ医者」。今日のたまのネタがすごい。初っぱなに「地獄」、もう1つが「らくだ」。そのことも、マクラのネタにしてました。「地獄」は、米朝の専売じゃなくなってきてから、後半があまりおもしろくないということで、短縮版をする人が増えてきた、旅ネタだから伸縮自在など。一方の「らくだ」では、6代目の出囃子で登場して、第一声は、6代目の声色で始めたりと、米朝&松鶴で、随分と遊んでくれました。それを、師匠福笑との2人だけの一門会でするのですから、師匠ともども、楽しんでいた風情が伺いしれました。初っぱなですから、当然「地獄」は短縮版。かなりのてこ入れです。三途の川を渡る前に、地獄銀座の風景(寄席小屋や芝居小屋など)や念仏屋を持ってきて、三途の川の渡船賃で遊んだあと、閻魔の庁を抜けたところで切り上げるというもの。なかなかいい構成。たま得意の古典の刈り込みを含む見直し作業では大成功じゃないかな。マクラを入れて、ジャスト30分。時間から考えて、国立演芸場で出したときも、このヴァージョンだったのだろうと、黄紺は推察してしまったのですが、いかがなものでしょうか。「らくだ」は、「微笑落語会」でのネタ下ろしのときに聴いていますから2度目となります。基本的には、そのときと同じだったと看ました。紙屑屋の酔い方を、新たにいじったのが大きな変化か。ゆっくり酔うのではなく、急に酔いが回るとしてましたが、時間の関係だったのかもしれませんが、、、。らくだの髪を剃る辺りからもはしょり気味だったのも、その関係かと了解しました。。でも、千日前の火屋での下げまで持っていきました。「隱亡」という語句も入れてました。賛否両論、分かれるところでしょう。これで40分でした。一方の福笑は、黄紺的には初物の盗人ものと、古典の十八番とを組み合わせるということで、ネタの並べ方は従来型だったと言えるでしょう。「インテリ強盗」は展開がいいですね。冒頭、題名にもなっているように、とってもクレバーな犯罪計画を述べる男が出てきますから、その2人の強盗始末記になるのかと思っていると、第3の盗人が出てきたり、首吊り死体と遭遇するものですから、全く序盤からは想像できない展開になっていきます。ちょっとサスペンス・タッチのお笑いなんて書くと、カッコよく聞こえるかもしれませんが、決して誇張にならないのが、福笑の非凡なところでしょう。「ちしゃ医者」は、落語の中では最低にきちゃないシシババネタ。それを、更にきちゃなくしてしまったのが福笑ってことで、正に福笑十八番です。もう客席、ヒーヒーのボルテージは上がるばかりでした。



2016年 2月 18日(木)午後 11時 32分

 今日も落語を聴く日。これで、4日連続となります。今日は、月曜日と同じ動楽亭でした。今夜は、こちらで「そうばと染吉と米輝とwith雀太」という会がありました。いろんな経緯をもったこの会、黄紺的には初めてのおじゃまとなりました。その番組は、次のようなものでした。全員「挨拶」、そうば「田楽食い」、染吉「質屋蔵」、米輝「饅頭借金」、雀太「胴乱の幸助」。この会、今日が最終回だそうです。2人ずつの組み合わせで始まった会が、雀太の一時離脱で統合、更に雀太の復帰で4人になり終了ということらしいです。必ず1席はネタ下ろしということでスタートしたようで、今後は、それらを育てようということらしいです。ということで、今日は、全員がネタ下ろしとなりました。大ネタが2つも並ぶ、えらく重たい番組になりました。そうばは、このキャリアになり、わざわざネタ下ろしと銘打つ会に出すものかなという「田楽食い」。でも聴いてみると、「ん廻し」のところに、わんさかオリジナルなものが用意されていましたから、これがやりたかったんだと、勝手に納得。そして、最後の〆は神泉苑の薬店で飾りました。染吉って、今まであまり聴いてこなかったと思います。ですから、こないな大ネタを聴くのは初めて。ただ、聴いてこなかったのは、語り口になじめなかったからだと、変な納得。「質屋蔵」は、冒頭の旦さんの長口舌が、噺全体を制してしまうというのは、誰が言ってもそうでしょう。その語りの中に出てくる登場人物の会話として成り立っても、あくまでも、その登場人物たちは、旦さんの言葉の中に出てくるものだから、始末が悪い。旦さんの品格を保ちつつ、語りの中の人物に命を吹き込まないといけないはずです。ですから、そこには、簡単に満足できる口演ってのには、そうは容易く遭遇できるものではありません。染吉の口演を聴いていて、やっぱりムズいよなと思っていると、知らぬ間に睡魔に攻め立てられてしまいました。米輝のネタは、擬古典的新作というか、改作というか、そういった噺でした。まさか古典じゃないでしょうね。改作というのは、「掛取り」「加賀の千代」からということです。大晦日、借金に追われる夫婦が、気のいい人に借金をすることを考える。既に借金もあり、金額を考えると言いにくいと思いつつ借りに行くと、予想外にあっさりと貸してくれるために慌てる様が可笑しいという噺でした。古典っぽく演じるのなら、言葉遣いにアヤシイものがあったのが、ちょっと気がかりでしたが、米輝は、口舌爽やかですね。だから、テキスト面で不揃いがあると、目立ってしまいます。トリは雀太となりましたが、これは、そうばのネタとつくということで、2人は離した方がいいということでの措置と、「挨拶」のところで話があったものですから、「寄合酒」だったらトリには持ってこないだろうしと呑気なことを考えていたら、びっくりの「胴乱の幸助」。確かに、人を騙してただ酒を呑むわけですから、ついていることには違いありません。そして、この雀太の口演が、今日一番の出来栄え。とにかく噺が流れることに気を配ったナイスな口演。デフォルメを避けます。ポイントの箇所にだけ、ちょっとだけアクセントを加えます。でも、あくまでもアクセント。おいしいからと言ってテキストしない。この姿勢が徹底されていました。この噺は、それ自体に強さを持っています。こんなに意外な展開をする噺はないわけですから。噺の聴き手は、展開が気になって仕方がないわけですから、余計なじゃまをされたくないのです。ときにはデフォルメすることに懸命になる雀太が、よく我慢しました。願わくはとして書きたいことが2つあります。虎石町の西側まできて、さすが我慢ができなくて、ちょっと引っ張ってしまいました。我慢の限界を超えたようでしたが、あとちょっとの辛抱が更なる成功を生んだのにと、黄紺は思いました。もう1つは、浄瑠璃の稽古をしようということです。でも、いいもの聴かせてもらえて感謝です。



2016年 2月 18日(木)午前 4時 53分

 昨日も落語を聴く日。2日連続で雀のおやどに行くつもりをしていたのですが、昨日出るネタが、一昨日出てしまったことから、急遽変更することになりました。同じネタでも、一門が違えばいいのですが、出所が同じでは、さすがに考えてしまいました。結局、昨日は、「ツギハギ荘」であった「第34回たけくらべの会」に行くことにしました。生寿が「親子茶屋」を出すということで、わりかしそそられていたこともあり、あっさりと進路変更をしてしまったということです。その番組は、次のようなものでした。松五「寄合酒」、喬介「近日息子」、(中入り)、呂好「みかん屋」、生寿「親子茶屋」。ツキバギ荘は、実は初めて行くことになりました。新しい落語会の会場として、時々使われているのですが、今までご縁がなかったってことです。普通の家屋の2階を改築して、落語会ができるスペースを造ったって感じで、キャパは35名くらいかなってところです。こじんまりとした会には、まことに贅沢な空間です。「たけくらべ」は、八聖亭から移ってきてから、昨日で3回目とか。智六が離脱をしたのをきっかけに移ったと、生寿がマクラで言ってましたが、どうも、よく判らない説明と聞いてしまいました。高座の方は、生寿以外は、おなじみのネタが並びました。そのおなじみネタの中では、呂好の「みかん屋」が、黄紺的には一のお気に入りです。初めて聴いたときから、とっても安定感のあった呂好ですが、この「みかん屋」が、ここまでのベストと思っています。主人公のアホが、周りの人たちを楽しい気分にされる素敵なアホなんです、呂好の描くアホが。そういった人柄まで描ききっていると看えてしまいます。そういったアホの陽気な部分を、思いっきり肥大化させて、且つ腹の立たないアホが、喬介のアホです。ヌケ作、アホ作と言われる落語界のスター選手を、思いっきり明るく、陽気にしていきます。その上、テキストは、師匠三喬テイストに満ち満ちているのが、いいですね。逆に、明るさを抜いてしまったアホが集うのが、松五の「寄合酒」。とってもしっかりとしたお喋りですが、わんさか町内の若い衆が集まり、がやがやとアホをやり合っているにしては、松五の喋りは地味なため、雰囲気を盛り下げてしまってました。そして、時間的には、他のネタに比べて長いとは言えないのですが、大ネタという風格のある「親子茶屋」を、生寿が出しました。自身の会で出したときに聴いてはいるのですが、居眠りをしてしまった記憶があるもので、リベンジを果たしたかったネタなんですが、昨日は、居眠りはしなかったのですが、ちょっと睡魔と闘うことになってしまいました。黄紺の体調のこともあるのでしょうが、それは、敢えて棚上げして書かしてもらうと、旦さんと若旦那を描き分けねばならないというのは、「親子茶屋」を持ちネタにするときには必須事項ですが、生寿は、それをしっかりと意識してやればやるほど、若旦那が、必要以上に若くというレベルを突き抜けてしまい、子どものようになってしまうのです。お茶屋遊びの道楽を続ける男にしては、子どもなのです。芸者も、旦さんとの年齢差を出すために作られる声やキャラが、必要以上に子どもになってしまうのです。こうしたことは、この噺自体をするにつけては、かなり厳しい状況を作ってしまってました。色街の華やかさなんてところには届きそうもない雰囲気が退屈さを呼び、睡魔を呼び起こしてしまってるかもしれません。あまりに責任転嫁が過ぎる書き方かもしれませんが。もう少し、年齢が嵩むことが必要なのかもしれませんね。



2016年 2月 17日(水)午前 0時 1分

 今週は5日間連続で、落語を聴くことにしているのですが、今日はその2日目。今夜は、鶴橋の雀のおやどであった「雀五郎体力強化の会 その76」に行ってまいりました。この会を避けているわけではないのですが、よく他の会とバッティングをするため、行きたくても、なかなか行けてない会の1つです。今日は、うまく行くことができたのですが、その番組は、次のようなものでした。雅「延陽伯」、雀五郎「風邪うどん」、三幸「遺産相続」、雀五郎「くっしゃみ講釈」。雅との遭遇って、いつ以来でしょうか、思い出せないほど前のことだと思います。ということは、黄紺の行く落語会の前座として、めったに喚ばれてないことになります。いろいろと人間関係もあるでしょうから、黄紺には、そのわけは判りません。入門9年目になっていると言ってましたから、昨日行った生寿と同期になるのですね。去年の「新人グランプリ」では、ファイナル進出を果たしてますから、腕を上げたのだろうなと思っていたのですが、確かに口調は、随分としっかりしたなの印象ですが、前後に身体を揺するという変な癖が着いてしまってました。それが気になって、噺のじゃまになってしまってました。雀五郎の1つ目はネタ出しをしてなかった「風邪うどん」。ネタ下ろしだそうです。ただ、上がるなり、雀五郎は反省の弁。明日、同じ雀のおやどで予定されている師匠雀三郎の会に、既に「風邪うどん」がネタ出しをされているのに、その前日に出してしまったことの反省でした。「間違うかもしれないので、明日、完全版を聴いてください」と、苦しい言い訳をしていたのですが、実際、黄紺は、明日の予定を変更する気になっているところですから、ことは重大です。「風邪うどん」は3つのパートから成っています。酔っぱらい、博打場、風邪引き男です。今日の雀五郎の口演では、1つ目の酔っぱらいが抜けていたと看ました。枝雀が残した「お家芸」を、きっちり受け継いでいるだけではなく、酔い方がうまいですね。酔っぱらいが上手いと評判の弟弟子の雀太は、枝雀似と評されてしまってますし、確かにかなりのデフォルメで成果を上げていると思っているのですが、雀五郎の場合はそうではないのです。何かにつけ、この人、表現力が豊かだということでしょう。それだけイマジネーションが豊かだということだろうと思います。それを考えると、小声で喋るあと2つのパートが平凡だったと思ってしまうのです。恐らく師匠から、小声を使わないで、しわがれ声で対応するようにとの指示があると看たのですが、それはそれでいいと思うのですが、声の表情なんかに一工夫を求めてしまいます。酔っぱらいが良かった分、過剰な期待をかけてしまいます。ゲスト枠は、これまた久しぶりの三幸。以前は、前座として、随分と重宝がられていた時期がありましたが、ご多分にもれず、年期がかさみ前座として使いにくくなると出番が減ったってことでしょう。一風変わった発想の持ち主なので、この人の創る新作は、ずっと気になっていたのですが、そんなで、最近は、ほとんど聴けていませんでした。雀五郎の方が先輩になるのですね。だけど、この2人の接点って、どこにあるのでしょうかね。そちらの方が気になってしまいます。今日はネタは、亡くなった父親が残した遺言書を、兄弟で読むというだけのものですが、その遺言書の中におもしろ可笑しいことが書かれているというもので、ネタ的には突飛な印象を持たなかったのですが、マクラを含めて、三幸の場合は、急に話が跳ぶというわけのわからなさから来る変さは、相変わらず健在でした。この変さが、もっとネタに入ればおもしろくなるのでしょうね。雀五郎の2つ目の「くっしゃみ」はネタ出しがされていたもの。これが、なかなか素晴らしい出来栄え。雀三郎の「くっしゃみ」を思い出せないので比較ができないのですが、幾つか目新しい箇所を見つけました。冒頭、「お化けがぞろぞろ」のやりとりはなく、いきなり犬糞話からスタート。講釈場に着くと、幾つかボケが入りました。アホが、唐辛子をくすべるのを忘れて、講釈に一所懸命になっている姿のデフォルメもありましたなどですが、どれもかれもが、雀三郎直伝とは思えず、雀五郎オリジナルが炸裂した可能性もあります。雀五郎のテンポの良さは保証付きのようなものですから、合うネタなんでしょうね。それに加えて、こういった仕掛けが決まっていくと、ホント、鬼は金棒ってやつですね。会場は、コアな落語ファンが詰めかけていました。そういった人たちだけの楽しみにするには、あまりにもったいないと思わせる雀五郎の口演でした。



2016年 2月 15日(月)午後 11時 32分

 今日は落語を聴く日。先週の火曜日に、福丸の落語会に行って以来ですから、黄紺的には、随分と久しぶりの落語会になります。ずっと日本にいて、1週間近く空いてしまうなんてことは、そうはないことです。別に避けていたわけではなく、落語会以外で、そそられるものが続いたってことです。福丸の会から帰ってから、大阪に行ったのも、南海さんが弁士をしていた活動写真を観に行ったときだけですから、これも珍事としか言いようがありません。で、今夜の落語会は、動楽亭であった「笑福亭生寿 入門日落語会〜SEIJU NINE YEARS OLD!!」。その番組は、次のようなものでした。生寿「色事根問」、天使「元猫」、生寿「タカラヅカ詣り〜野崎版〜」、(中入り)、生寿「幽霊の辻」。今日で、入門丸9年目になるのを記念しての落語会、まず、トップで上がり、マクラで入門志願に行ったときのことを喋ってくれました。初めて聴く話、師匠の生喬が驚いたって話は、やけにリアリティがありました。黄紺は、生喬のところに見習いがいるというのは、松喬一門の広報紙で、初めて知った記憶があります。「らくご道」という落語会の舞台上で、生寿という名をもらったって話は、そのすぐあとに、噂で耳にしたのですが、直接は見てないのが惜しまれます。生寿の「色事根問」は、随分と以前に聴いた記憶はあるのですが、全く中身は覚えてないので、初めて聴くのと同じでしたが、恐らく今日のために入れたのだろうというくすぐりが、なかなかおもしろいものがありました。「一見栄」は「一三重」だというだけで、この会では大受けです。師匠の生喬が三重出身ということを、皆さんは知ってますからね。「三金」は、「さんかね」ではなく「さんきん」と、わざと間違うくすぐりも、同様の受けを狙ったもの。通常の噺の流れに、そういったくすぐりを挿入するので、どこで、何が飛び出してくるか、それが楽しいのです。ゲスト枠の天使は、生寿と同じく、今日が入門記念日。丸6年だと言ってました。従って、天使も、入門に至る過程を、マクラで話してくれました。こういった話は、落語ファンにとってはお宝話。耳がダンボになっちゃいました。「元猫」は、「猫の日落語会」に合わせて、米紫が「元犬」を改作したもの。同じく「猫の日落語会」のメンバーである天使がもらったようです。これが、なかなかいい改作。「元犬」に匹敵するグレードの高いものでした。猫の習性などを、巧みに噺に差し込む技が冴えていました。天使は、いい噺をもらったものです。生寿の2つ目は、この会の売り物、タカラヅカ落語のネタ下ろしでした。「野崎詣り」のパロディということで、「野崎版」と付いています。既に、「天王寺詣り」のパロディを創っているため、それと区別するための措置です。武庫川に船を浮かべて、宝塚大劇場に行く人の中に、喜六と清八が乗っていて、宝塚大橋を渡って宝塚大劇場に行く人とが喧嘩をするという趣向。でも、喧嘩の中身は、全然と言っていいくらい、黄紺には解りませんでした。なんせ、宝塚のスターに関することばかりでしたからね。でも、それでいいのです。宝塚のわからない話を続けている生寿の姿がおかしいのですから。中入り明けの3つ目は「幽霊の辻」でした。この枝雀噺を、枝雀の弟子である文我から褒められたことがあるとの「自慢話(本人談)」をしてからネタへ。やり始めの頃に聴いているのですが、佐ん吉が、よく出していた頃で、その口演の印象が濃くて、生寿の口演には、あまりそそられなかった印象だけが残っているのですが、今日聴いてみて、随分と印象が変わりました。道の聞き手の反応が、慌てず騒がず、でも腹の中は穏やかならずっていう持って行き方が、頗るいいのです。そないな持って行き方ですから、総体的には、とってもさらりとした薄味、それが、却って、陽が落ちていく黄昏時の雰囲気を醸し出し、この噺のおもしろ怖い味が出ていると思えました。生寿ベスト候補に入る口演かもしれません。1つ目の「色事根問」も聴かせましたし、生寿の落語会で、一番粒揃いの会だったかもしれません。



2016年 2月 14日(日)午後 8時 36分

 今日は、今年初めての観能の日。最近は、春に1回、秋に1回なんてペースで、観能の時間を割いている勘定になっています。それだけ観ようという能の会が減っているのと、入場料が高騰しているのです。今日は、京都観世会館であった「片山定期能」に行ってまいりました。お目当ては、新九郎右衛門の「江口」です。その番組は、次のようなものでした。能「江口〜甲之掛〜」(片山九郎右衛門)、狂言「宝の笠」(野村又三郎)、能「鵜飼」(橋本忠樹) 。江口の里は、今の大阪市東淀川区の井高野近くにあるのですが、能の舞台になるような時代では、京と大坂を往き来する舟人が立ち寄る遊里があったと言われています。どうやら、淀川の支流には、そういった里が、各所にあったようです。単に舟人が舟を駆って立ち寄るばかりではなく、この能の後場に幽玄の極みと言われる舟に乗った遊女が現れることからも判るように、出張サービスなんてのもあったようです。うまくいけば、川霧の中から舟に乗った遊女たちが浮かび上がってくるかのような情緒が生まれるのでしょうね、それが幽玄の極みなのかもしれませんが、黄紺は、1度、それに近い演能に遭遇したことがあるため、かなり思い入れがあり、これはと思うシテの演能を狙っているのですが、今日も、その期待を持って選んだ会だったのですが、残念ながら、期待通りにはいかなかったと言えばいいでしょうね。初っぱなからきついと思わせられたのが地謡。息が続かないから途切れ途切れになるので、情緒は減退です。コーラスなんかで、ブレスの位置をずらしながらとることで対応することがあるようですが、せめて試みて欲しいな。それに、シテの動きに満足できなくて、、、。序ノ舞を単独で取り出してみると申し分ないでしょうが、あとの動きが、体のところどころに金属棒が埋め込まれているようでなじめませんでした。終盤、仏教臭満載になっていきますが、遊女が普賢菩薩になぞらえられていく至高の場面、地謡、もうそっと変化をつけられないものでしょうかね。狂言「宝の笠」は大蔵流の「隠笠」。騙す方が、見えないフリをするところが、とっても斬新な動き。思わず、声を出して笑っちゃいました。又三郎も、代替わりをして、若い又三郎。この人、なかなかの役者。又三郎家は名古屋在住だというのが惜しい気にさせる巧者です。「江口」に次いで、「鵜飼」も13年ぶりの観能。3碑賎の1つで、一番よく出る曲。殺生を生業とする鳥討ち(善知鳥)、海の魚を捕る漁師(阿漕)と並び、賎民とされていた鵜飼が主人公がこの曲。女性も賎民も救いの対象とした鎌倉仏教では、時代の変化を表すかのように、彼らが主人公に据えられ、一曲の能が作られていきます。後場では、ご丁寧に地獄の鬼が出て来て、殺された鵜飼が、法華経の功徳で成仏したことを伝えに現れます。価値観の変化が、こうした世に残る作品を残す礎になったということです。シテの橋本忠樹さんは、まだ若い世代の貴重なシテ方。謡も動きもしっかりしている頼もしい方。背が高い分、何か工夫を加えないと、ずぼーっと立っているという印象を与えかねないなと思い観ていると、能って、体格に許容範囲ってものを持った芸能だと思います。女性の能楽師が、なかなか目に馴染まないってのは、その辺から来るのでしょうね。もう1つ注文を書くとするのなら、大小の鼓に負けないパワーアップが要りますね。橋がかりでの謡がかなり弱かったもので。去年の8月以来の観能だったことが、手持ちのメモから判りました。ちょっと間が空きすぎました。だからでしょうか、今日半日の観能では、なかなか充たされてないのです。もう一度くらい、夏前に観能の機会を作りたくなっちゃいました。



2016年 2月 13日(土)午後 11時 6分

 今日は、春先のような暖かさ、そして、今日も、室内楽を聴く日。今日は、カフェモンタージュでのコンサートでした。「弦楽三重奏」と銘打たれたコンサートでは、「E.ドホナーニ:弦楽三重奏のためのセレナード ハ長調 Op.10 (1902)」「L.ヴァイネル:弦楽三重奏曲 ト短調 Op.6 (1909)」の2曲が演奏されましたが、演奏者が新鮮で、とっても魅力的な顔合わせとなりました。その3人とは、ヴァイオリンが石上真由子、ヴィオラが小峰航一、そして、チェロが 辻本玲という3人でした。今日取り上げられた作曲家は、ともに20世紀初頭には知られるようになっていたハンガリーの作曲家。先日、コダーイの弦楽四重奏曲が演奏されたことから、それとのつながりで、この2人がチョイスされたとは、毎度のオーナー氏からの説明。黄紺は、孫が指揮者として著名なことからドホナーニは知っていましたが、もう1人のヴァイネルは、寡聞にして知りませんでした。演奏は、作曲された時系列の順で行われましたが、作風は、随分と違うものがありました。ドホナーニは、とっても民族音楽が多く取り入れられているようで、エキゾチックな雰囲気の満ちた曲。それに対し、ヴァイネルの方は、名前を聞かないで聴くと、誰かドイツのロマン派の作曲家を思い浮かべたことと思います。今日の演奏者の組み合わせは、かなり異色なものだったため、何がきっかけであったのかが気になっていたのですが、それを見透かしたように、これも、オーナー氏から説明がありました。辻本さんは、毎年、この時期に、京都市交響楽団のゲストプレーヤーとして招請を受けられるので、その機会を使い、小峰さんを含んだ室内楽の演奏会を、カフェモンタージュで企画しているそうで、今年は、弦楽三重奏で行こうとなったとき、お二人で石上さんに依頼されることにされたとか。確かに、辻本さんに石上さんがかむというのは、どう見ても新鮮ですものね。演奏者のお立場からしても、同様の感覚を持たれていたのでしょう。キャリアの一番浅い石上さんからしても、お二人と共演することは極上のオファーだったことと思います。



2016年 2月 13日(土)午前 7時 55分

 今日は二部制の日。おもしろいもの2つに行くことにしました。1つ目は、以前から行きたくても行けなかった無声映画の上映会「精華千日前キネマ映画祭」です。場所はトリイホールで、幾人かの弁士さんが出られるのですが、黄紺は、南海さんがされるときをチョイスしてみました。多才な南海さんが、どのような弁士ぶりを見せてくれるのかを楽しみにして行ってまいりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「キートンの鍛冶屋」「空の桃太郎」/千日前裏筋樂団の演奏/「チャールストン」。「千日前裏筋樂団」というのは、次の皆さん、楽器で構成されていました。南海さんの相棒宮村群時くんの名前が見えることから、この2人のラインから、この企画に向けて編成されたものと想像しています。バンジョー/バィオリン:宮村群時/ギター:川瀬眞司/トランペット:内藤咲重/コントラバス:廣田昌世。「キートン」ものは、無声映画時代を代表するもの。部分的に、作品を観たことはありましたが、1本丸々観るのは、恐らく初めてのことと思っています。鍛冶屋の下働きとして働くキートン、親方を怒らせるような失敗、客の馬や車を汚したり、こわしてという失敗の続くもの。「桃太郎」は和製アニメ。桃太郎が、ペンギンら海の生き物の要請に応えて、海の悪者荒鷲を退治しに行くというもの。飛行機に乗って行くのですが、途中2度の給油が必要ということで、ここでも荒鷲との戦いが待っているという趣向。「チャールストン」は、ルノワールの息子が監督をした作品なのですが、わけの判らない作品。人が死に絶えたヨーロッパに、アフリカの黒人が飛行物体に乗り降り立ちます。そこで、唯一生き残ったヨーロッパの若い女性1人と1匹の猿と出逢います。ところが、文明人ではない女は、不思議な動きを、ときには踊っているようにも見える動きを繰り返すばかり。で、あきらめて文明人の黒人男性は、飛行物体に乗り、また帰って行くというわけのわからなさでした。ただ、当時珍しかった早回しとスローモーションが使われています。それを見せたいだけの映画かもしれません。千日前裏筋樂団は、群時くんの口ぶりからすると、ジャズの世界では名を知られた人たちのように感じました。南海さんが弁士をされている間には演奏を入れ、また映画の間の演奏では、1920年代から30年代に流行った曲を聴かせてくれました。
 そして、夜は京都への大移動。夜は、初めて行った「音楽空間ネイヴ」(天王町)であった「京都ミュージック・クロスロード」と銘打たれたコンサートに行ってまいりました。このコンサートは、一昨日のカフェモンタージュで知ったもの。一昨日出演されていた第2バイオリンの長谷川さん、ビオラの金本さんが出演されているということで、このコンサートの宣伝をされていたのです。出演者を見ると、第1バイオリンは杉江さんだとなると、これは、枚方市で行われていた室内楽のコンサートのメンバーです。この3人は京響のメンバーですが、それに、更に京響メンバーなどが加わり、今日のコンサートが実現したようですが、黄紺が、このコンサートに惹かれた最大の要因は、モーツァルトのホルン五重奏曲が聴けるということ。組み合わせが、あまり例がないということもあり、めったに生では聴けないもの。そういった稀曲を含めたプログラムは、次のようなものでした。「モーツァルト ディベルティメントK.138@」「モーツァルト ホルン五重奏曲K.407A」「モーツァルト 弦楽四重奏曲第17番K.458《狩》B」「ベートーベン 六重奏曲op.81bC」。演奏者は、次の方々でした。(Hr.水無瀬一成AC、木川博史C)(Vn.杉江洋子@ABC、長谷川真弓@BC)(Va.金本洋子AB、多井千洋@A、永松有子C)(Vc.ドナルド・リッチャー@ABC)。この内で、木川さんがN響、永松さんがセンチュリー所属の方だそうです。ホルンが、今日のキーワードのような楽器に据えられたコンサートだったもので、ホルンがらみの珍しい室内楽を聴くことができました。モーツァルトは言うに及ばず、ベートーベンの六重奏曲なんてのも、その存在を知らなかったほどでした。ベートーベンの場合は、ホルン2本に加えて、通常の弦楽四重奏が加わります。同じくホルン(1本)の入るモーツァルトのホルン五重奏曲は、びっくりの楽器構成でした。通常の弦楽四重奏だと思い込んでましたから、正直驚きました。バイオリンが2本ではなく、ビオラが2本という構成。そして、この2曲に共通して言えることは、プチ・コンチェルトってところでしょうか。その辺が、モーツァルトで言えば、フルート四重奏曲やオーボエ四重奏曲なんかと、趣を異にするかなという印象を持ってしまいました。両方とも3楽章構成なんてところも、コンチェルトを連想させます。モーツァルトの3楽章の終盤では、弦楽器が一斉に演奏を止める場面があります。ほんの僅かでしたが、ホルンだけの音が鳴り響くなんて場面です。一瞬、カデンツァが始まるのではと思ってしまいました。でも、そういった趣を持った瞬間的な場面でした。ベートーベンで言えば、2楽章の冒頭では、ホルン2本が主メロディを奏でるなか、弦楽器の中からチェロだけが、それにかんでいくなんて場面があります。アンサンブルというよりは、主楽器に対するオブリガードです。能楽では、これを「アシライ」と言いますが、その「アシライ」って言葉の雰囲気で、チェロが「お付きあい」するっていう風情で、それはそれで、なかなか素敵な場面を、ベートーベンは用意をしていました。ホルン2本に、単独で、他の楽器が絡んでいくという場面は、他にはなかったのですが、第1バイオリンとチェロだけが絡んでいくなんてのもあり〜ので、こちらも、やはりプチ・コンチェルトの風情が漂っていました。2つを比べてみると、ベートーベンの方が、より機会音楽的な風情。ひょっとしたら、そういった目的で作られた曲かもしれませんね。ホルンが入らない2曲は、もうモーツァルトの定番中の定番の名曲。黄紺の座った位置とも関係があるのでしょうが、杉江さんのパワーアップを感じることができ、枚方で聴いたときよりも、グレードアップかなってところ。それに加えて、初めての遭遇となったドナルド・リッチャーさんのチェロが、なんとも長閑で、いい彩りを沿えていました。会場は、広〜〜いオフィスって感じのところだったのですが、コンサートがよく行われているようで、京都に、また新たなスポット発見なんてことにもなりました。そして、集客力もすごく、MCも担当されていた杉江さんの言葉では、ホルン関係者も、かなり詰めかけられていたようです。やっぱ、京都は堀音があることが強味ですね。



2016年 2月 11日(木)午後 8時 39分

 今日は、Movix京都でメトロポリタンのライブビューイングを観る日。当初は、昨日観る予定にしていたのですが、福井市在住の高校時代の友人が、そのために入洛するとの連絡が入ったため、今日に変更。あまり休日に、ライブビューイングに行ったことはなかったのですが、客の入りの多さにびっくりしました。同じようなライブビューイングは、規模を縮小したり、消滅したりして行くなか、メトロポリタンだけは健在です。今日は、ビゼーの珍しい「真珠とり」の上映ということもあったのでしょうか。だけど、このオペラの存在を知っていること自体が、そこそこのオペラファンであることの証明かもと思うと、オペラファンってのは多いということでしょう。黄紺も、DVDでしか観たことのないオペラでした。今日は、しかも歌手陣に人気者を揃えたことも、客足を伸ばした大きな要因なのでしょう。レイラにディアナ・ダムラウ、ナディールにポレンザーニ、ズルガにクヴィチェティンと、なんとも贅沢な歌手陣。筋立ては三角関係の話です。それに加えて、南アジアから東南アジアが舞台という一風変わった設定。ブラーフマンなんて名称が、神の名に使われています。ですから、衣装もそちら系のモチーフが使われていますが、このプロダクションでは、インドネシア風という感じがしました。そういったエキゾチズムと、主役3人の歌唱が売りのオペラと言えばいいでしょうか。言うまでもなく、3人の歌唱は申し分なく、会場も3人の誰がというような形で、歓声が上がっていたわけではなく、等しく、大きな歓声でもって、拍手をしていたと看ました。メトロポリタン100年ぶりの上演だそうです。



2016年 2月 10日(水)午後 11時 34分

 今日は、カフェモンタージュのコンサートに行く日。今夜は、こちらでバルトークの弦楽四重奏曲全曲演奏を行われたことのある京都市交響楽団のピックアップ・メンバー(vn.泉原隆志・長谷川真由美、va.金本洋子、vc.城甲実子)によるコダーイの弦楽四重奏曲の1番と2番が演奏されました。バルトークの全曲演奏をやり終えたということで、同じハンガリーのコダーイという趣向だったようですが、毎度のオーナー氏の解説で判ったことですが、2人は、ドビュッシーにインスパイアされ、弦楽四重奏曲を作ることになり、同時に発表したそうで、それほど2人は近しい関係だった証左にもなるお話しを伺うことができました。行きつきところまで行ってしまったロマン派音楽を前にして、そこを、どのようにして切り開くかという20世紀初頭には、綺羅星の如き才能が集いますが、正に、この2人は、その才能群に入ります。今日は、演奏時間の長さということで、2番が先に演奏されたのですが、その2番は、明らかにアバンギャルドな雰囲気の曲。バルトーク風の激しく、暴れるようなリズム使いがあるかと思うと、音色への指定もあるのでしょうか、くすんだ不気味な雰囲気が支配する、その一方で、民族的なメロディの断片が挿入される。未来志向のおもしろい曲でした。それに対し、1番は、まだロマン派の端くれに引っ掛かっている雰囲気があります。その中で、2番を予感させるようなものも用意されています。3楽章までは、そないな感じで、とってもわくわく気分で聴くことができます。この曲、もっと演奏会で取り上げられてもいいのになと思いながら聴いていたところ、ちょっと、そのわけが判ったように思えたのが4楽章に入ってから。形式的には変奏曲形式で進むのですが、コダーイは、何を思って、こないな楽章を、ここに用意したのでしょうか。それまでと比べると、えらくへたれの音楽に聴こえてしまいました。最後にきてへこんでしまうとなると、実際のコンサートでは取り上げにくいということなのでしょうね。この1番、チェロにビオラが大活躍です。更に第2バイオリンまでが、第1バイオリンを食うかという役割を与えられています。その役割に相応しいエネルギッシュな演奏を、小柄な体で見せておられた長谷川さんに、今日は、花◎を捧げたいと思います。



2016年 2月 9日(火)午後 11時 44分

 今日は、昨日に続き二部制の日。まず、昼間は繁昌亭の昼席に行ってまいりました。今日は、東京から夜の「デブサミット」のためにやって来る歌武蔵が出るのと、トリが鶴笑だということでのチョイスです。今年初めての昼席となりました。その番組は、次のようなものでした。咲之輔「いらち俥」、三ノ助「ふぐ鍋」、米平「桃太郎」、豊来家玉之助「太神楽」、文鹿「くろしお1号」、桂春若「三十石」、(中入り)、文福「私はエンカイテイナー」、歌武蔵「支度部屋外伝」、染左「やかん」、鶴笑「立体西遊記」。咲之輔が「いらち俥」を得意にしているらしいという話は耳にしていたのですが、今日初めて遭遇し、そのわけが判りました。蒲団の上を飛び上がって回転するという荒技を使うのです。純瓶と言い、べ瓶と言い、このネタではアイデアがいろいろと披露されるものです。三之助は季節ネタの「ふぐ鍋」。この人の噺、いつ聴いてもリアリティを感じないんだなぁ。人物描写なんかが甘いってことなんでしょうね。米平の「桃太郎」には唖然。ベテラン噺家による前座噺特集じゃないんだから、、、。そう思うと、あっさりと居眠りが出てしまいました。文鹿の高座には、久しぶりの遭遇。今日は、とってもいいお客と、幕内は見ていたようで、文鹿は、舞台と客席の距離を縮めてしまおうとし、あっさりとやってのけました。「くろしお1号」は自作の噺。電車の乗務員と客との会話で進む噺。マクラを長く喋りすぎ、ネタでは酔っぱらいが絡む場面だけで下りてしまいました。春若は、あまりにもいい反応を示す客席に、思わず笑顔になりました。おなじみのショートジョークが、毎回違うのを聴かせてくれます。ネタは、前回、繁昌亭で遭遇したときと同じ「三十石」でしたが、きっちり舟唄を入れてくれますので、空気が引き締まります。最後は、枚方から聞こえてくる唄2つを入れて、「三十石は夢の通い路」で下りましたが、やっぱり風情がありますね。後半はがらりと雰囲気が変わり、宴会の雰囲気。文福は色物枠で登場。と言っても、噺家枠で出たときと一緒。相撲甚句は外せないでしょうが、あとの歌武蔵に完全にかぶってしまいました。でも、文福から相撲甚句は外せないし、歌武蔵だって、相撲キャラは外せないし、これは、2人が並んだってことで仕方ありません。歌武蔵は、今夜の「デブサミット」のために大阪入りしたわけですからね。歌武蔵は、東京の噺家さんの中で、最も客席との距離を短くすることができる噺家さんだと思っています。ですから、大阪入りをすると、聴きに行くようにしています。たまには、ゆっくりとネタを聴いてみたいと思う一方で、相撲噺のぐだぐだも聴いてみたい黄紺なのです。そして鶴笑がトリ。初トリは、去年の夏の「夏休み特集」だったのですが、今回は、何の冠も付かないトリ。ほんまもののトリです。これで、鶴笑の位置が固まったと看ていいのかと、勝手に考えています。今日の高座は、紙切りとパペット落語の二本立て。これは夏と同じ。但し、今日は、似顔絵紙切りは省きました。パペット落語の方は、「西遊記」で通しているのでしょうか。夏も「西遊記」だったもので、そのように考えたのですが、これは偶然かもしれません。
 繁昌亭を出ると扇町のネットカフェで時間調整。そして、夜は、天満橋近くにある常磐漢方薬局で行われた「第23回かつらふくまる研鑽会」に行ってまいりました。今日明日といい落語会が並び、またカフェモンタージュでのコンサートもあり、相当悩んだのですが、デブサミット、紅雀、生喬、呂好&華紋を捨て、福丸をチョイスしました。判断基準は、最近一番聴いてない噺家さんを選ぼうということでした。その番組は、次のようなものでした。治門「田楽食い」、福丸「米揚げいかき」、福矢「笠碁」、(中入り)、福丸「東の旅〜煮売屋・七度狐〜」。珍しく春団治一門だけで組まれた番組。最近遭遇機会の減っていた治門が前座。「田楽食い」って聴いたことあったっけと思いながら聴いていると、聴いたことのない「ん廻し」が入り、初遭遇だと確認。この「ん廻し」のところに入り、治門にしては、ちょっと間延びした感じがしてしまいました。あまりやってないのかななんて思いながら聴いておりました。福丸の1つ目は「米揚げいかき」、これがとってもいい出来。福丸ベストにも数えたいスーパーなものと看ました。アホが天然系で、憎めないキャラだけどもこんなのがいると、やかましくて煩わしいだろなと、思わず感情移入をしてしまいました。中でも光ったのが、道を尋ねる場面。福丸の見せたクレッシェンドの加減は、意図してやろうとしても無理な代物。豊かなイマジネーションに身を投じることから涌き出てくるものとしか思えない自然体でした。ゲスト枠の福矢は、親しい鶴志をこきおろすおなじみのマクラ。聴くたびに同じものなんで、徐々に感激度が薄くなってきています。そして、ネタは、当の鶴志からもらったことが間違いない「笠碁」。福矢では3度目くらいの遭遇です。ところが、今日は、この「笠碁」の終盤、アクシデントが発生。客の1人が、椅子から崩れ落ちられ、直ちに落語は中断。救急車が駆けつけることになりました。福丸の話に因りますと、この会では、以前にも同様のこれがあったとか。黄紺は、これだけ落語会通いをしながら、初めての経験でした。皆さんの協力で、無事、落語会は継続することができましたが、さすが福矢の高座だけは続けることはできず、救急車への搬出が終わった段階で中入りとなりました。福丸の2つ目は「東の旅」なんて、プログラムに書いてあったものですから、すっかり「叩き」と言われる冒頭部分からするのかと思ってしまったのですが、それは、黄紺の早とちりでした。実際は、「野辺」の一部、はしょった「煮売屋」、「七度狐」はフルヴァージョンでというものでした。福丸が「七度狐」をネタ出しをしているのを、黄紺は見た記憶がないものですから、ひょっとしたらネタ下ろしかもしれないなと思っています。「米揚げいかき」でもそうだったですが、福丸、アホを描くのがうまくなったなの印象です。アホでも、「米揚げいかき」のちょっとアブナイ系にシフトしかけているアホとは、「七度狐」の喜六は違うだろうと、黄紺は思っています。長閑なアホですが、危機感とかは備わっています。そういった描き分けを意識しているのでしょうか、同じではないのです。それを発見できただけで十分でしょう。丁寧な語り口が、このネタの持つ力を引き出していました。おもろい恐い、ホントにできた噺です。迂闊に刈り込まないで、オーソドックスな形で、どんどんとやって欲しいですね。福丸の口演は、そないなことを教えてくれました。



2016年 2月 9日(火)午前 0時 5分

 今日と明日は、2日連続で二部制の日。それなりの事情があります。今日は、「一心寺門前浪曲寄席」を、この土日に行けなかったために、どうしても入れなければならなかったところへ、「できちゃった」が夜に入ってしまいました。明日と明後日は、いい落語会に、カフェモンタージュでのコンサートが重なり、水曜日は二部制を回避したのですが、明日は二部制をとり、過密な日程をしのぐことにしたというわけです。まず、今日の昼間の一心寺からです。その番組は、次のようなものでした。春野惠子(一風亭初月)「お夏清十郎」、天中軒涼月(沢村さくら)「観世の宝肉付きの面」、京山幸枝司(岡本貞子)「小緑長吉」、三原佐知子(虹友美・鵜川せつ子)「じょんがら流転」。惠子さん自身も「2年ぶり」と言われていましたが、確かに遭遇は久しぶりのネタ。文楽でお染久松を観たところですが、あれと同じパターンです。だけど、こちらの方は、男が処刑されるというえぐいもの。だから、お夏狂乱なんてのが狂言になるのでしょうね。なお、惠子さんは、昨日の番組ではトリをとられています。一心寺では、初めてじゃないでしょうか。涼月さんは、今日がネタ下ろしと言われていました。このネタを勉強してるなんてことを、どこかで聞いていたこと、また「観世」なんてことで能面作りに係わるもののようということで、期待の一番だったのですが、そういったときに限り、途中から居眠り。恐い面の注文が入り、般若のような面が2つ出来上がったので、どちらが、より恐いかを知るため、店の陳列品として置いておくと、あまりに恐いということで文句が入ってくる、、、なんてところまでは判っているのですが。「小緑長吉」は、前回幸枝司師と遭遇したときも、このネタでした。ネタ数が少ない浪曲席では、よくあることですが、2回連続は哀しいですね。物語は阿武松の入門にまつわる話です。太るのが商売のはずの相撲とりが、大飯喰らいが故に破門となったのが阿武松。でも捨てる者がいれば拾う者ありで、米付き入門を世話してくれる人に出逢い、他の部屋に入門した阿武松。出世して、最初破門に処した関取と対戦。でも、お約束の結末を伝えない切り上げとなりました。「じょんがら流転」は、はっきり言って頼りないネタ。門付け芸をする母親と子ども、飲んだくれの亭主、見かねた僧侶が母親と息子をかくまうが、やがて母親は病気を得て亡くなってしまう。時を経て改心をして、子どもの前に現れる父親といった流れで、筋立てには何ら捻りがない。替わりに津軽三味線が入ります。門付け芸というのが、それのようで、息子が母親の芸を継いでいくという趣向になっており、2度、津軽三味線の演奏が入りました。ということで、三味線は虹友美さんということになりました。虹友美さんは、三味線を2本用意されて舞台に臨んでおられました。彼女は、三味線の曲弾きで寄席にも登場する方。見事な三味線を聴かせてもらえました。
 そして、夜は動楽亭での「できちゃった落語」へ行ってまいりました。浪曲席がはねてから、ちょっとした時間がありましたが、今日は、ミニウォーキングと天王寺のネットカフェで過ごしておりました。「できちゃった」は久しぶりになります。どうも、黄紺が日本を離れているときに開かれることが多いためです。で、今夜の出番は、次のようなものとなりました。遊方「臨時スタントマン」、三風「給食室から」、福笑「欲ぼけ保険金」、あやめ「ゆずの里水尾」、(中入り)、南湖「おっぱい豆腐」、たま「どんと祭」、三金「悪の打ち上げ」。今日は、新作が出来上がったということで、福笑が特別参加。今までも、何度も見ている光景なのですが、今日は、出番を決める冒頭のジャンケンから参加。まったく初めての口演ではなかった遊方、三風、あやめも混ぜてのジャンケン。でも、勝った遊方と三風は、早い出番を選択しました。遊方のネタは、先日の「上演台本発表会」で、遊方が口演したもの。ですから、遊方作品ではありません。本人は、「発表会」のときから手を入れたと言っていましたが、黄紺には同じとしか見えませんでした。三風は、16年前に作った作品のリニューアルと言ってました。学校給食を残す児童が多いということから、自分で量を調節しながら、食べたいものを食べられる「回転給食」を考案するというもの。もちろん回転寿司からのアイディア拝借というわけです。福笑作品は、保険金を騙し取ろうとする男たちの知恵の絞り合いから、終盤に入り、ちょっと様子が変わりました。死んだはずの男が生きていたり、新たな保険金詐取に動き出したりと、噺の構造が複雑化したのですが、複雑になりきらないで終わっしまいました。福笑作品としては、あまり歓迎しようというものではありませんでした。あやめ作品が本日の秀作その1でした。京都の水尾の広報活動の一つとして作られたものだそうです。ご当地ものとして、なかなかインパクトの強いものに出逢わなかったので、広報活動の会議そのものを落語化したと言っていました。アホげなアイディアばかりが出て、会議はまとまらずに終わるのですが、その様子を、YouToubeにアップしたら、それがヒットするという展開。この最後の展開を思いつくということが、あやめのすごいところだと思います。南湖作品が秀作その2。以前「青春エロ講談」を作っていたときの発想だそうです。梶井基次郎の「檸檬」に、「おっぱいは豆腐のようなもの」と書いてあるのを読んだ中学生が豆腐にアプローチする噺。最後は、豆腐を机の中に入れっぱなしにして腐らせるという「ちりとてちん」のパロディまで出てきました。たま作品は、ある神社に捨てられた女性が、実父と再会する噺と言えば、それだけの噺なのですが、そこに、節分やどんと祭を絡めていきます。再会譚も含めて、もっと膨らませていくと、ちょっといい噺になりそうな印象を持ちましたが、どうも、そういったことに関心を持ってくれませんね、たまは。三金作品は、ヒーローショーなんかで活躍する悪役側の控え室での語らいを描きましたが、噺の内実は、怪獣映画やドラマなどの内幕暴露的な噺に終始するもの。黄紺などは、マニアっぽい話に着いていくだけで、大変でした。



2016年 2月 7日(日)午後 6時 44分

 今日はびわ湖ホールに行く日。3月に行われる同ホールのプロデュース公演「さまよえるオランダ人」を前にしてのトーク・イベントがあったのです。前半はパネルディスカッション、休憩後は名場面を、びわ湖ホール声楽アンサンブルのお二人(sp.岩川亮子、br.津國直木、pf.岡本佐紀子)による歌唱、そして、最後に質問に答えるという形で、3人のパネラーが再度登場してまいりました。3人のパネラーは、司会を兼ねた藤野一夫氏(神戸大学大学院教授)に加えて、岡田暁生氏(京都大学人文研教授)、沼尻竜典氏(びわ湖ホール芸術監督)の方たちでした。お話しの中で注意が要った点を書き留めておきたいと思います。近代市民社会という枠というかパラダイムで、このオペラを捉えようとされていたこと。オランダ人というポイントから、大航海時代のオランダ人を導きだし、荒れた海を乗り越えるために、魂を悪魔に売ったのが、呪われたオランダ人なのだというわけです。ゼンタは、そういった近代市民社会の枠になじまず、その枠を抜けようとすることを、呪われたオランダ人にかけようとする存在だというわけです。近代市民社会、資本主義により殺された神に替わり、オランダ人にかけようとするということなのでしょう。救済というのは、この場合、死ねることだと言っていました。ただ、そう言ってしまった場合、オランダ人はそれで説明がつくというものですが、ゼンタは、どうなんだと思ってしまったのですが、それについては、お話がありませんでした。ゼンタは、呪われたオランダ人に嫁ぐことを、歌詞の中で義務だと言っています。この言葉がある中で、齟齬をきたすようなお話しだなと思いながら聴いておりました。そんなですので、キリスト教的なアプローチから来るお話しは、お聞きすることはできませんでした。休憩明けに歌われたのは、次の3曲でした。「オランダ人のモノローグ」「ゼンタのバラード」「二重唱:はるか遠い昔の世から」。なお、びわ湖ホールでは、来年の3月から、年1作のペースで「指環」を発表していくそうです。しかも、共同製作を止めて、独自のプロダクションだそうで、そのために、このホールの4面舞台を駆使したプロダクションを発表できると言ってました。演出は、今回の「オランダ人」同様ミヒャエル・ハンペ、舞台装置と衣裳デザイナーがヘニング・フォン・ギールケだそうです。既にマスコミ発表はされていたようですが、今日、会場で知った方も多かったようで、この話題に、冒頭の挨拶に立った館長氏が触れられると、期せずして会場から拍手がわき上がりました。



2016年 2月 6日(土)午後 11時 39分

 今日は二部制の日。まず、昼間は、文楽劇場であった「公演記録鑑賞会」に行ってまいりました。今日は文楽の日で、「勢州阿漕浦〜阿漕浦の段、平治住家の段〜」と「絵本太閤記〜六月六日の段妙心寺」の記録フィルムを上映してくれました。「阿漕浦」は、生では上演に出逢ったことのない出し物。ましてや、能「阿漕」にインスパイアされた作品だということは、容易に察しがつくものですから、以前から楽しみにしていた上映会だったのですが、そういったときの定番、見事に居眠りが出てしまいました。ただ、解ったのは、当然、「阿漕」ですから殺生禁断の漁がプロットになることは確認しました。が、この物語、魚と一緒に釣り上げた剣が大きな鍵を握っているようでした。ようでしたというのは、もうこの辺りで居眠りに入ってしまってたということです。太夫さんは津太夫さん、津国太夫さんのお二人、人形の方は先代と現勘十郎さんが共演されてました。「絵本太閤記」は、頻繁に出る出し物。本能寺の変以後の光秀とその周辺を描いたもの。光秀は、不忠ものとして扱われ、光秀も、その謗りを受けることに悩むとなっています。中でも光秀の母親の反発が凄まじい。このあと、自らが命を捨てて、不忠ものの息子の罪を償っていきますが、この段は、その伏線となる段と言えばいいのでしょうね。今日は、土曜日ということもあり、大変な人数が詰めかけました。ホールに入れない人多数ということで、そういった方々は、ロビーのモニターを観ておられましたが、端っこの人などは、見える角度とは言えない場所に座っておられたほどでした。
 夜は、十三の七芸に行き、ハンガリー映画「リザとキツネと恋する死者たち」を観てきました。大阪アジア映画祭で上映されたことがあるようで、その記憶は、黄紺の頭にも少しは残っていました。ハンガリー映画であって、なぜアジア映画祭に係わるのか、そこが記憶の糸口でした。日本絡みの映画なのです。30歳のリサは看護師の資格を持つ独身女性。日本大使夫人のお世話をしていたことで、日本語が解り、日本文化に関心を示す女性。彼女には不思議な能力があり、昭和歌謡を口ずさむトミー谷の幻が見えます。それと、彼女の周りでは、次から次へと、様々な人たちが亡くなっていきます。警察は彼女に容疑をかけ、ひたすら追求を続けていくのですが、死者は増えるばかり。新たな死者となる人物が登場するたびに、画面には漢字で「死者」と出ます。かなり日本かぶれをした監督だと思えることが、この他にも、幾つも出てきます。リサは、図書館でみた東洋の妖怪に関する本を見て、自分には狐が憑いていて、その狐が業をしていると思うようになっていきます。一方で、憑いていた狐が去るためには 、自分に「無死の愛」を捧げる男が現れたときと、本には書いてあるので、それに一縷の望みをかけていきます。妖狐伝説の地として那須が出てくるということは、玉藻前(殺生石)伝説を踏まえています。ずーっと、新たな死者がどのように亡くなっていくのかが描かれていきます。再三再四、昭和歌謡が流れるうえ、トミー谷というパッチものの男が出てきて、ツイストを踊りながら、日本語の歌を歌います。その変な雰囲気に呼応するかのように、わざとぎこちない動きをしたり、くさい、羽の浮くような台詞が使われていきますから、益々、変さはつのっていきます。しかし、この映画、素敵なファンタジーロマンの映画でした。トミー谷の役割も明かされ、多くの死者が出るわけも、きっちりと納得のできる説明がなされます。ですから、後味がいい映画です。そして、洒落がいっぱい詰まった映画でした。土曜の夜ということもあったのでしょうが、七芸がほぼ満席となっていました。口コミで広まってるんでしょうか。十分ありえることです。黄紺も、薦めてしまいますもんね。



2016年 2月 6日(土)午前 0時 3分

 今日は、「道頓堀 ZAZA HOUSE」で、東京の落語芸術協会に所属する噺家さんや講釈師さんの高座に接する日。お目当ては松之丞。間違いなく、東京講談界に生まれた大物の予感がいっぱいの若手講釈師さん。今まで東京で、5回は、その高座に遭遇しているので、間違いはありません。それが、大阪で聴けるということで行ってまいりました。「『旅成金』〜小痴楽・鯉八・松之丞三人会〜」という会です。その番組は、次のようなものでした。小痴楽「?」、鯉八「前世(仮題) 」、松之丞「天保水滸伝〜笹川の花会〜」、(中入り)、小痴楽「明烏」、鯉八「じっさまとばっさま(仮題)」。この3人の大阪でのお世話係をしている天使が前説。小痴楽は、5代目痴楽の実子。とっても軽い話し方、また、内容もそうで、天性のものを感じさせられた噺家さん。芸協の噺家さんは、まるっきり知らないに等しいため、ネットで調べてみると、NHKのコンクールでファイナリストに名を連ねていました。評価されていることを知り納得できる噺家さん。1つ目は盗人の噺。聴いたことのないもので、調べても、それらしき噺を見つけるのでができませんでした。素人の盗人が、ベテランの盗人に教えてもらうというものでした。「明烏」に入る前に、今できるネタを選ぶことを、歌丸の示唆を引用し説明していました。正に、人に合った噺ってことで、己を知っていることの大切さを、自ら示してくれました。ただ、調子に乗ってしまうところがあるようで、笑いが取れると看ると、過剰表現になることは、厳に慎まねばなりません。このネタでは、坊っちゃんが、廓で駄々をこねるところからの終盤が、これに該当。せっかくいい感じで進んでいたのが、もったいないですね。鯉八も、NHKのファイナリストなんですね。黄紺は、まず、この人をファイナリストにまで押し上げた審査員に敬意を表したいと思います。とっても個性的な噺家さんです。2つとも新作だったのですが、ともにテイストが「日本昔ばなし」のそれ。また喋り方も熊倉一雄の顔が浮かんでこようかというもの。1つ目は、暴れ牛の襲来に対して生け贄を差し出す噺、2つ目は、四季を通じて働き者のじっさまを見守るばっさまというシテュエーションで、全編通される夫婦愛の噺と、ヴァナキュラーな世界を素材にしたものでした。狙いの松之丞は1席だけ。時開を考え5席にしたため、大阪へ来て喋り過ぎている松之丞が手を上げたそうです。「宮本武蔵」を期待していたのですが、「天保水滸伝」と言ったので、「これで十分」と思ったまでは良かったのですが、またしても「笹川の花会」に当たってしまいました。これを出す人は、今日の松之丞もそうでしたが、このネタを「名作」と言います。黄紺などは、これで名作と言われれば、あとの「天保水滸伝」はどうなんだと突っ込みたくなっちゃいます。確かに「天保水滸伝」は、旭堂にはなく、東京の講談を聴いているという雰囲気にさせてくれますが、こう「笹川の花会」にばかり当たると、つい愚痴が出て来しまいます。松之丞の口演の研ぎ澄まされた言葉の勢い、久しぶりに聴けました。絞り出すような声って、師匠の松鯉師というよりか、愛山師に似てきました。配布されたチラシによると、松之丞は、紀伊国屋ホールで「天保水滸伝」の一気読みをするとか。大変なことになっています。もう東京では、ブレイクしちゃってるんですね。講談界にスターが、既に誕生してました。俺は、そうなる前から見つけてたんだぞと、ちょっと自慢したい気分です。



2016年 2月 5日(金)午前 0時 36分

 今日も落語を聴く日。今夜は、高津神社であった「高津落語研究会」に行ってまいりました。最近、毎月のように行っています。その番組は、次のようなものでした。ひろば「大安売り」、南天「水屋の富」、雀五郎「厄払い」、たま「愛宕山」、全員「大喜利」。ひろばは、久しぶりに落語をすると言い出したら、客席でくすくす笑いが起こりました。要するに新婚旅行に行ってたということで、この会が仕事始めだそうです。メキシコ、ハイチ、ジャマイカに行ってきたそうです。カリブ海豪華客船の旅だったようです。「大安売り」は前座ネタですから、よく若手が出しますが、そういった口演とは、全然質が違いました。「ベテラン前座噺の会」なんてのが、繁昌亭の夜席で、時々企画されていますが、今日のひろばのような口演を聴けるということなのでしょう。前半は繰り返しネタですから、同じペースでやっては退屈とばかりに、前の1/3をスピーディーに喋り、中盤の1/3を山にして、ゆったりめに喋り、後半の1/3は内容まではしょってしまう。こういった山と谷を持つ構成って、もう感嘆するしかありませんでした。もちろん、それに呼吸を計ったかのような喋りができるものですから、花◎もいいところです。南天は、先日の「南天をしごく会」における3席ネタ下ろしについてのレポートが、マクラで話されました。客席も聴きたかった話。朝日放送の収録も入ってたわけですから、大変な緊張があったことは、容易に推察できますから、それを、当人の口から聴けるというので、客席は大喜び。ネタの「水屋の富」は、千両の富籖が当たった水屋が、水屋を辞めて他の仕事をしたいのだけど、水屋だけに、代わりを見つけるまで辞められない。でも、手に入れた金を置いて仕事に出るのが怖くて仕方がない。その怯える姿を描くだけの噺です。東京では、わりと普通のネタですが、上方では、演じ手がごく少ないネタ。黄紺も、このネタは、先代歌之助、文我、それと、南天しか聴いたことがありませんし、また、ネタ出しをしている噺家さんを知りません。それにしても、南天は表情が豊かです。もう、それに尽きます。雀五郎は、厄払いを、実際にしてもらっているたまをいじって、マクラにして大受け。たまは後厄で、雀五郎が前厄という年齢になるようです。黄紺は、こういった民俗資料的ネタが大好きです。節分の噺ですから絶妙のタイミングでの口演となりました。たまたま、数日前、米朝の音源で「厄払い」を聴いたところだったのですが、テキストはそのまま使っていました。相変わらずいいテンポの雀五郎、いろんなところで、アホをやって、人にアホと言われ、でも、それを屁とも思わない野放図さと明るさのある男、最後まで、そのキャラは一貫していました。たまの「愛宕山」は久しぶり。随分と間が空いているので、正確さを欠いているかもしれないのですが、結構、手入れをしたみたいというのが印象。麓に着くまでを増やしたんじゃないかな。黄紺は、とっても大切な部分だと思っているのですが、というのは、野がけに出る春の雰囲気に満ち溢れた箇所を手入れ。ちょっと浮かれた気分にさせる(登場人物にも客席にも)大切な、噺の大枠を決める箇所だからと思うのです。坂を登る部分もマイナーチェンジがあったと看ました。茂八に荷物を持たせてしまう下りです。前から、弁当を食べる場面を省いてましたっけ。かわらけ投げの箇所は、新たに作り直したかもしれません。曲投げ、一八を後ろから押すところ、下まで飛び下りるところ、下で小判を集めるところなどが見直されたと思ったのですが、当たっているでしょうか。以前の「愛宕山」は、とにかく序盤の刈り込みに賛同できなかったことは、よく覚えているのですが、中盤以後は、かなりあやふやです。でも、今日聴いた方がついていけるぞの実感が残ったことは間違いありません。的にぶつかるなんてスーパーなギャグも入りましたしね。「大喜利」の司会&出題は、トップに出たひろば。誰かから、出題がひろばのときは難しいという悲鳴のような声も上がっていましたが、そのまま突入。謎かけのお題は「新婚旅行」「ネタ下ろし」。今日は、皆さん、困り気味。もう一つのお題は、文字を並べ替えて、新しい文なり単語を作るというもの。雀五郎にスーパーな回答が現れると、あとの2人も、それを超える回答を考えヒートアップしておりました。やっぱ、この会はグレードが高い。だから、また、次も行こうって思ってしまうのですね。



2016年 2月 3日(水)午後 11時 30分

 今日も繁昌亭に行く日。今夜は「第8回上方落語台本入選作発表落語会」があった日。この会は、できるだけ欠かさず毎年行くようにしています。その番組は、次のようなものでした。<表彰式・選評 福笑・あやめ>、三度「実在生物」(山田薫作、桂文枝特別賞)、遊方「臨時スタントマン」(高錦隼人作、佳作)、鶴二「さん付け」(神崎京一作、佳作)、九雀「移植屋さん」(久家義之作、優秀賞)、(中入り)、あやめ「ぜいきん」(青山知弘作、優秀賞)、文枝「おかん」(松本愛郎作、大賞)。授賞作品が多いということで、平日にも拘わらず6時開演。それを失念していたあやめは、喫茶店でネタをくってたところ、実姉の和女さんに呼び戻され、表彰式が始まってから合流するというアクシデント。今回は、文枝ではなく、福笑が賞状授与まで担当。簡単な選評の中で異彩を放ったのが「実在生物」という作品。おもしろいのだが、この発表会で演じ手がいそうもないと言われたこと。ま、だいたい、そういうときって覚えにくい名前や展開があると相場は決まっているものです。師匠命令で三度に白羽の矢が立ったそうです。「文枝特別賞」にしたということは、かなり特異なネタという予感もしてきたりして、何もかも型破り的なものという雰囲気が醸し出されてきました。そして、実際聴いてみると、予感は的中。これは、皆さん、避けたいと思うでしょう、納得です。でも、従来なかった色のある噺で、間違いなくおもしろい。実在する生物の中から変わった名前を持つ生物ばかりが登場してきて、その変さを競うという荒唐無稽な噺。よく似た名前、長い名前が出てきて、もう大変。よく最後まで行きつきました。三度に拍手です。なお、作者は芸名が「はやしや福」さんです。三味線の方です。「スタントマン」は、斜陽の映画会社で、代替のスタントマンを雇うことができないため、経理の男が臨時でスタントを務めるハチャメチャを描いたもの。カーチェイス、猛獣との格闘、空中ダイビングなど、不思議と大きなケガをしなかったり、マグロ船にヒグマが乗っていたり、遊び上手の作者さんです。月亭方正に台本を提供したりしている方が作者です。今回は、こういったプロ的な人たちの入選が多いというのが特徴だそうです。鶴二に台本を提供することになった神崎さんに至っては、黄紺も、そのお名前を知っている落語台本作者。この人の台本が、一番プロ的な馴れた感じがすると共に、すれた印象を持ってしまいました。大阪出身の大学生と地方出身の大学生との大阪弁談義という展開。ものに「さん」付けをしたり、「い」行と「え」行の交替が起こったりすることを、具体例を上げながら喋り合うというもので、ちょっと根問ものの雰囲気。ただ、新作ものに慣れていない鶴二に混乱があったようで、噺に繋がりがあるようで消えていたりで、ちょっと解りにくかったな。「移植屋さん」の作者は、医者にして、医療小説の作家の方。「天神寄席」の中の春之輔の対談相手に2度の出演経験を持つ方。噺は、「首の仕替え」風。移植屋さんには、「奥の手」のような言葉遊びからくる臓器がいっぱい置いてある。前半は、そういったおもしろ臓器の利点と副作用を尋ねる展開。そこで、買い手は「心の眼」、「心眼」を買い求めます。もちろん円朝作品をパチッてます。その心眼を手に入れた男が夫婦円満に役立てるというのが後半。終盤は人情噺になっていきます。前半が、アイデアがどんどん湧いてきたのでしょうね、全部、噺の中に入れちゃった感じでした。精選の要を感じました。そして、「心眼」では平凡すぎました。正直言って、買い物が心眼と判ったときは、せっかくのいい着想に水をさしたぞと思ってしまいました。「ぜいきん」はトイレのことを、そのように言い合うことを決めたカフェで起こる混乱を描いたもの。客の手前、従業員がトイレで抜けるときに使う用語として「ぜいきん」と決めたのだけれど、アホげな従業員で、「税金」の話を聞いてトイレと勘違いして騒動になるというもの。思いつき一発で、最後まで持たせた力技の作品と看ました。「おかん」は、オレオレ詐欺が切り口になった作品。詐欺だと見破った年寄りが、徐々に電話をかけてきた男を諌めにかかっていき、遂にその男に罪を悔いる気持ちにまでさせていきます。そのことが、オレオレ詐欺防止に役立つということで、終盤では、警察の啓発活動に、2人で協力しているとなります。落語らしい落ちがついて、ちゃんちゃんとなりますが、本筋はここまで。それこそ、警察の啓発活動に使えそうな噺でした。今回で、一旦、この台本募集は終わるそうです。文枝や福笑の話では、このコンペにスポンサーをつけて、会の規模を大きくしたいように思えました。



2016年 2月 2日(火)午後 11時 47分

 今日明日は繁昌亭に行く日。繁昌亭に行くときって続くというジンクスが、またしても生きていました。今夜は「あらあらかしこの会」という会がありました。会主はあやめ。あやめの娘なごみちゃんが中学生になっており、その家庭教師を、京大出のたまと阪大出の染雀が務めていることから生まれた会です。「あらあらかしこ」の「かしこ」は、大阪弁で「賢い人」を意味する言葉です。従って、たまと染雀は落語をするだけではなく、国語と数学の授業をするというのが売りとなる番組が生まれました。その番組は、次のようなものでした。紋四郎「千早ふる」、染雀「金明竹」、<授業1「国語」〜金明竹の立て弁のすべてを徹底解説=染雀、桂あやめ>、(中入り)、たま「おとぎ噺殺人事件」、<授業2「数学〜おとぎ噺殺人事件における時間と速さ=たま、あやめ>、あやめ「3年2組の高田くん」。前座役の紋四郎も阪大出の噺家ということでの出番。同じような時期に精鋭が揃っていますが、紋四郎もその一人。キャリア年数からは考えられない落ち着いた喋りっぷりは、今日も申し分なしでした。講師一人目の染雀は、夜行便でインドネシア出発を前にした出番。お乳母どんと、幕内では呼ばれているそうですが、あやめとの親交が深い染雀は優しい家庭教師だそうです。「金明竹」は東京ネタと言ってました。但し、昔は知らないがとの注釈付きでしたが。黄紺は、円生の口演を聴いていると、大阪弁の男が出てくるので、元来は上方の噺で、上方的雰囲気を、「掛取り」のように残そうとしたのかと思っていました。確かに、昔は「金明竹」をする人はいなかったので、確かなことを知りたいという気はあったのですが。染丸が、現在、上方で広まっている「金明竹」の出どころだそうで、花丸も、最近始めたそうですので、これは要チェックです。染雀の講義は看板に偽りなく、「金明竹」の立て弁の部分の解読でした。今も形を変えて続いている「中川兄弟(弟が染左)」の会を彷彿とさせる内容。「金明竹」は、その部分の理解がなくても楽しめるようにできてますが、知れば一層興趣の上がるもの。たまは、ネタに入る前、染雀との違いを分析、家庭教師としてのスタンスについてのことです。最後に行きついたことは、教育の難しさを思い知ったということ。たまらしく、どうしたら、なごみちゃんが勉強する気になるかを追求した数ヶ月間だったようです。で、ネタですが、おとぎ噺の主人公の特徴を捉えたギャグ連発が聴かせどころ。いろんなキャラが出てくるところにおもしろみがありますから、ストーリー展開に凝らないというのも、たまらしい賢明な判断だと思います。ところで「火曜サスペンス劇場」のオープニングのパロディって、以前やってましたっけ。そして、たま先生の講義は、発表とは異なり、マクラの続きで教育論、そして、たま自身の落語家への道などが話され、たまの半生が浮き出てくる貴重な講演となりました。トリは会主のあやめ。今日は、トリの高座でネタに入るまで、ほとんど母親の顔。普段は、威勢が良く、先端を鋭い感性で読み解いてくれるあやめが、その辺にいそうなおばさんの顔、母親の顔を見せてくれました。もう、ネタは付け足しで、そういった顔を、自分自身の企画で引っ張り出されてしまったという感じで、この会の値打ちを看た思いがしました。



2016年 2月 1日(月)午後 11時 46分

 今日は、トリイホールで落語を聴く日。毎月1日に行われている「トリイ寄席」に、ホントに久しぶりにおじゃまをしてきました。と言いますのも、今日は、「福笑・米団治二人会」として行われましたが、正に異種格闘技戦のような企画に、心を動かされてしまいました。最近の「トリイ寄席」の入りを知らないので、比較はできないのですが、もう入りは大変なもので、ひょっとしたら、企画の勝利であったかもしれません。その番組は、次のようなものでした。優々「田楽喰い」、米団治「淀の鯉」、福笑「便利屋さん」、(中入り)、福笑「二人ぐせ」、米団治「不動坊」。米団治は、マクラで春団治の思い出を語ってからネタへ。「淀の鯉」は、21歳のときの米朝作品。米団治しか、持ちネタにしてないはずです。自分的には2度目の遭遇。川の中の鯉が出てきたりして、なかなか変化のあるネタです。米朝が、落語会で出さなかったのは、何故なんでしょうね。以前に聴いたときに比べて、酒を呑まされた料理人の酔いっぷりが大きくなり、それが、噺の基軸になるところから、聴きごたえのある口演でした。福笑の1つ目は「便利屋さん」でしたが、比較的新しい作品。前半が健康オタクの噺、後半が、健康が気になるなら、まず身体を動かせ、働けとなり、便利屋になるという流れ。健康オタクのやり取りも可笑しいのですが、福笑的着想の大胆不敵さが出るのが後半。便利屋としてする仕事がすごい。不発手流弾の処理というもの。助手に付くこてこての大阪弁を喋るロボットとのやり取りは、最早、近寄りがたいものすら感じさせました。中入り明けの福笑の2つ目は、初めて聴く「二人ぐせ」。ひょっとしたら、福笑が前座を務めていた頃に聴いている可能性はありますが、全く記憶にはないですね。いきなり甚兵衛さんに相談するところからスタート。手を出した糠だらけにするところはカット。親戚は沖縄県で、そこから横道に逸れるところが傑作、将棋の方も、やたら早くから待つ箇所はカット、しかも、ここでも見破られるという展開、そして、3つ目の試みが用意されていましたが、下げはブラックなものでした。この改変ネタも値打ちもの。お薦め作品です。そして、「トリイ寄席」のブッキング担当に敬意を表してのことなんでしょうね、米団治がトリを務めました。黄紺的には、この口演も初めての遭遇。気に入った部分と、そうじゃない部分が拮抗してしまったなというのが、一言で書いた場合の感想です。気に入ったのは、序盤、家主と話す利吉のキャラ。家主の話からしっかり者とのイメージが植え付けられるので、落ち着いた、物わかりのいい男のように演じられることが、とっても多いと思うのですが、そのような描き方をすると、あとの風呂屋でのはしゃぎ方とは矛盾してしまうと、米団治は、えらく陽の、腰の軽そうな男として描きました。これは、やられてみると、確かな見識と思わせられ、かなり感銘。そういった描き方をすると、アルコールとあんころを間違う男は、もっと軽く描かねばなりません。そこんところも抜かりがなかったのはいいのですが、黄紺の嫌うアブナイ男という領域に入ってしまっていたのは惜しまれます。一方、気に入らなかった方は、いよいよ幽霊を出しに出かけるようになってからです。別に早口になったわけではないのですが、なんか手っ取り早く片付けてしまったなの印象を持ってしまいました。テキストとしては、太鼓に紐をかけるとき、太鼓の周りに紐を回すのを省いただけだったのに、前へ進んだだけだったのです。寒いと台詞には入っても、寒さや夜の暗さを感じさせるものも乏しかったのです。ムダがなかったからなのでしょうか。そんなで、後半につんのめった感じを持ってしまったので、ちょっと冷めた終わり方になってしまったのです、もちろん自分的にの話ですが。しかし、混みあうことが予想される会ってのは避けないとダメですね。中入り時に、トイレに立つのも一苦労ですものね。来月は、「米朝追善」を掲げて開催されますが、パスですね、行きたいのですがね。



2016年 1月 31日(日)午後 8時 5分

 今日は浪曲を聴く日。大丸心斎橋劇場であった「沢村豊子・さくら 曲師の親子会」に行ってまいりました。東京から大阪に移り、最近、その企画力を生かし、とみに活発な活動を見せているさくらさんが、自身の師匠豊子師匠を迎えての親子会。正に、さくらさんの晴れ舞台、これを逃す手はありません。ただ、一つ残念なことがあります。この会に招請が決まっていた国本武春さんが、昨年の暮れに急逝されたことです。さくらさんは、その代演に浦太郎師を招請されました。その番組は、次のようなものでした。玉川奈々福(沢村豊子)「豊子・奈々福浪花節さらさ」、五月一秀(沢村さくら)「神戸の長吉」、沢村豊子・さくら(進行:玉川奈々福・五月一秀)「三味線コーナー」、(中入り)、京山小圓嬢(沢村さくら)「東雲座」、東家浦太郎(沢村豊子)「野狐三次〜彫物の由来〜」。開演に先立ち、奈々福さんと一緒に幕前に現れたさくらさんが挨拶。一番手の奈々福さんは、豊子師匠との出会いから同居に至るノンフィクション・ネタを披露。その中には曲師について語る場面があり、今日の会には申し分ないものとなりました。一秀さんは現れるなり、「一秀・さくらの、、、」と言いかけて笑いを取るなど、この人、すっかり大阪になじんでしまっています。さくらさんの「曲師の会」を手伝うようになってから、ホント、大阪になじんでしまいました。ネタの方はシリアスなもの。半年程前の「一心寺」で出されたものです。世に言う「荒神山の喧嘩」で亡くなった吉良の仁吉を見捨てたなどと臆病だとの風評が立ったため、侠客どころか、実の母親にも意気地無し呼ばわりされる神戸の長吉。彼が、最後に母親に明かしたのは、仁吉との約束を守るために、刀に触れなかったわけ。ようやく、それで了解する母親、そこまでの苦しい息子の心情に同情を示すのでしたということなのですが、清水次郎長の物語、中でも「荒神山の喧嘩(血闘)」を知らない黄紺には、このネタの底に流れるエモーシャルなものを理解できませんでした。ただ、「荒神山の喧嘩」というタームは、黄紺でも聞いたことはありますから、それが当たり前のように知られていた時代の産物なのでしょう。「三味線コーナー」は、普段の「曲師の会」で行ってきたことのダイジェスト版に、豊子師匠と奈々福さんが加わったというもの。やはり、MCに奈々福さんが加わると、雰囲気が一段と高まります。中入り後は、いよいよ大御所2人の登場。小圓嬢師は「東雲座」でした。やくざの親分の女に手を出した役者は、顔に刀傷を受け、熊本出入り禁止で女とともに放逐。女の子が産まれるが、女房は病を得て亡くなってしまう。死に際に、女房は、子どもの父親はやくざの親分だということ、子どもに、義父となった亭主の役者としての跡目を継がせて欲しいと言い残します。亭主は、その遺言を守り芸を伝えるとともに、川上音次郎の劇団に加わり旅回りをする中で、ついに熊本に立ち寄り、役者となった娘を実父に会わせることで、そのやくざの親分と和解するというもので、浪曲にしては、ストーリー展開が変化に富んでいます。その替わり、川上音次郎が突如出てきたりして、面喰らうようなところもありますし、なぜ熊本に着いて行く気になったのかが、うまく描けてない感じがします。ただただ小圓嬢師の口演を聴いているとそうなんだと思わせられてしまう力があるから恐ろしい。東京からの来演ということで、小圓嬢師からトリを譲られた浦太郎師は、お得意の「野狐三次」もの。ひょっとしたら、さくらさんががリクエストしたかもしれませんね。ただ、南華さんのおかげで、「野狐三次」の展開を知る黄紺にとって、今日、浦太郎師が出された箇所というのは、野狐三次についてのベーシック情報、要するに仕込みの部分です。ですから、正直言って「な〜んだ」の気分で弛緩してしまうと、軽く居眠りをしてしまったようで、このネタでは山場になる「なぜ、彫物は野狐なのか」という肝心の由来話のところが吹っ飛んでいました。中入り休憩を入れて、3時間を超える会となりました。たっぷり感のある素敵な会でした。



2016年 1月 31日(日)午前 0時 19分

 今日も落語会に行く日。但し、今日は、東京の噺家さん滝川鯉朝の会に行ってまいりました。題して「鯉朝さん西に行く〜瀧川鯉朝独演会」というもので、八方の持ち小屋「八聖亭」で行われました。鯉朝は、東京の噺家さんの中で、特に大阪で馴染みのある噺家さんの一人。毎年、彦八まつりにお手伝いに来ているため、上方の噺家さんだけではなく、落語ファンの間にも知られるようになり、また、その独創性のある噺が認知されるようになった噺家さんです。その鯉朝が満を持しての初独演会だったということで、黄紺もおじゃまをすることにしました。その番組は、次のようなものでした。遊真「犬の目」、鯉朝「街角のあの娘」、遊方「クレイマークレイマー」、(中入り)、鯉朝「死神・・・」。遊方が鯉朝と親交が深いということで、その弟子の遊真が前座。入門してまだ1年経っていないようです。黄紺も、高座を見るのも初めてです。しかし、また一人、有望な若手を発見というところです。口調は、落研っぽくはないのですが、兄弟子の太遊のように、何か芸能界に籍を置いていた人なんでしょうか。とっても芝居心があるというか、顔の表情、声の抑揚、何をとってもいいのです。全てが有機的に繋がっているのです。今日は、古典を出しましたが、この先の方向性はどうなんでしょうか、気になる存在が現れました。師匠の遊方は、鯉朝との親交をマクラで話してからおなじみのネタへ。この「クレイマークレイマー」は、自分の体験をデフォルメしたものだそうです。主役の鯉朝は、古典と新作を一つずつ。新作の「街角のあの娘」は、チラシには「リリカル新作落語」と書かれていました。この噺は、以前、大阪で出したときに聴いているのですが、そのときの終わり方とは異なるグッドエンディング。噺は、南千住の不二家の店に立つペコちゃんの目に映る風景の点描と言えばいいでしょうか。着想の勝利と言えばいいでしょうね。「死神」の方は、チラシには「名作古典落語の発展形」と書かれていた通り、「教えられた通りにはやらない」古典と言えばいいでしょう。ただ、聴いていて、その「発展形」とやらが、なかなか出てこない。出てきたのは下げのところ。ろうそくの火が消えたら、通常の下げに入るのですが、火が消えないとして、噺のその後を考えたというのが、「発展形」でした。噺が「発展形」であろうがなかろうが、際立ったのは、鯉朝が作った死神が、噺を引き締めました。随分とシリアスな雰囲気を作り出していて、緊張感を高めていました。新たに挿入した部分にも、それが持続されたのですが、そのままで終わらないのが鯉朝です。うまい緊張と緩和で、噺をまとめました。さすが、東京の定席でトリを取るだけのことはあります。今後も大阪での会を続けていく意向のようでしたので、黄紺に、一つ楽しみが増えたことになりました。



2016年 1月 29日(金)午後 11時 38分

 昨夜から降りだした雨が、今日一日中降っていました。昼間に、1時間だけ傘をさしてのウォーキングをした以外は、夜のお出かけまで、ずっと家の中で待機状態。ようやく夕方の6時前に、外に出かけられるようになりました。今夜は、京都の三条衣棚近くにある町家を利用した「ちおん舎」であった「第36回ちおん舎・新染屋町寄席」に行ってまいりました。「旧」の「染屋町寄席」には、随分と通ったものですが、「新」になってからは初めてだと思います。「旧」は、米二と都丸(現塩鯛)が交互に担当していたのですが、北座を最後の会場にお休みに入っていました。「新」の方は、京都在住のちょうばと二乗が交互に担当して再開されています。会場もちおん舎に移っています。いみじくも、米二の弟子と塩鯛の弟弟子の担当となったわけです。今日はちょうばの担当の日でした。最近、自分の会をあまり開いてないちょうばを聴けるというばかりで行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。恩狸「牛ほめ」、ちょうば「米揚げいかき」、晃瓶「天狗裁き」、ちょうば「蜆売り」。「ちおん舎」は1914年建築の町家、その座敷での落語会。最初、この落語会で使われていた二条辺りの会場を思い出してしまいました。ちょうばがブッキングをしているのかなと思ってしまった珍しい顔ぶれが集まった番組。恩狸は、2回目の遭遇になりました。前回は新作でしたので、初めての古典との遭遇となりました。冒頭に家見舞いのしくじり話、座敷の掛軸を誉める下りなどを削った、それとも抜かした、そういった口演となりました。喋りそのものは、前回聴いて、特に気にはならなかったのですが、今日の恩狸の口演こそ、間合いに慣れてない証拠のような口演になってしまいました。慣れることで、自然と修正していくのか、その間合いを個性にして、おもしろい発展をしていくのか、まだまだこれからっていうところでしょうか。ちょうばの1つ目は、プログラムにも「お楽しみ」になっていたもの。ちょうばの「米揚げいかき」って聴いたことあったかなぁと、思わず考え込んでしまいました。でも、この「米揚げいかき」が秀逸。決して勢いではもって行こうとしてない骨格が、「ベテラン前座噺」の雰囲気。単に間がいいとかって問題ではなくて、その僅かの時間を使い、表情を使い、感情の機微に触れる心憎い口演。中でも一のお気に入りは、急いでいる男を掴まえて道を尋ねる下り。尋ねながら、間を保ち笑顔を見せてくれました。右のアホは、わいわい言ってもらえることを楽しんでいました。序盤のこの技は効きました。憎めない長閑なアホがいとおしくなっちゃいました。ゲスト枠は晃瓶。京都在住で、KBS京都で、長い間、レギュラーを持っているそうです。全然知りませんでした。もう50台半ばになっているそうです。これも知りませんでした。第一、晃瓶のこないな長い噺って聴いたことありませんでした。それだけで高座を降りてもいいくらい長いマクラを降ってからネタへ。お奉行さんまで、とっても丁寧に、だからと言って、嫌みになるようなしつこさもなく、また人物も生きていました。問題は天狗です。どうして、急にしつこくなったのでしょうかね。繰り返しネタですから、繰り返すことのおかしさが、まず一番尊重しなければならないはずですのに、引っ張るわ引っ張るわ。早く下げに入って、シューっと下がれば、実に気持ちのいいところなのにと思っても、過剰に天狗が男に迫っていました。ちょうばの2席目が、お目当ての「蜆売り」。講釈からのつまみ食いネタです。若手では、まん我の口演の評価が高いネタです。ちょうばは、こういった人情噺系のネタに関心が高く、実際に、咲くやこの花賞をもらったのも、その辺の成果に対するものと思っています。この会で「蜆売り」を出すことを知ったとき、ここまでのちょうばの姿勢の延長線上にあるなと思ったものでした。ところが、ちょっと肩透かしを食らった気分になりました。チャリっぽい雰囲気になってしまっていて、黄紺の持つイメージとの齟齬を感じてしまいました。笑いも含まれる噺が、笑いの含まれる噺になってしまってました。まん我の口演と比べて、テキスト面ではさほど違ったところが看られたわけではなかったと思うのですが、だったら、どうしてそのように感じてしまったのか考え込んでしまいました。考え至ったのは、親方の度量の大きさの描き方が弱かったのと、子どものみじめったらしさが足りなかったのかと思いました。家の土間でのやり取りが噺になっていると思うのですが、時間帯はどの辺を想定して、ちょうばはやっていたのでしょうか。テキストとしては、もう暗くなっているはずですが、そのあたりの時間帯が口演の中で感じさせられたかというと、そうでなかったと思えました。明らかに、まん我の口演に比べると陽の雰囲気だったものですから。これも、噺の全体像に大きく関わっているのかなと思います。こないに考えてみると、実に難しい噺ですね。



2016年 1月 28日(木)午後 11時 20分

 今日は講談を聴く日。動楽亭であった「第448回上方講談を聞く会」に行ってまいりました。「天満講談席」もそうでしたが、こちらの上方講談協会の定席に行くのも久しぶりのこと。理由は同じで、ネタの問題です。ということは、今日は、ネタ的に黄紺の関心を惹いたということになります。その番組は、次のようなものでした。南斗「村越茂助誉の使者」、南湖「杉野十平次」、南鱗「般若寺の焼き討ち」、南海「太閤記〜信長との出会い〜」。南斗くんのネタは、旭堂の講釈師さんでは、どなたでも聴いたことがないものですから、恐らく東西交流でもらったものと想像されます。第一、家康ネタですからね。秀吉に従い鎌倉鶴岡八幡宮に赴いた家康に、秀吉が、思いつきで莫大な寄進を考え、それを家康に押し付けた。ところが、財政の苦しい家康は、秀吉の指定した1/10しか寄進しなかったため、秀吉の逆鱗に触れ呼び出しを食らってしまった。その代理として派遣されたのが村越茂助。落語の「粗忽の使者」のような男ですが、「粗忽の使者」と違い、臨機応変な機転が効き、最後には、秀吉の気に入られて戻るという家康ファンの喜ぶ筋立てでした。村越茂助が弁明をするところが、ちょっとした修羅場になっており、そういった意味でも、東西交流の中でもらったのだろうと思わせられました。今日の南斗くん、珍しく危ない箇所がありました。ま、こないなことも、たまにはあるのでしょう。南湖さんの「杉野十平次」は、初遭遇かもと思っていたのですが、単に、黄紺が忘れていただけでした。半ばから俵星玄藩が出てきて、主役が交代していきました。ですから、半ばまでは、杉野十平次が担ぎの蕎麦屋になり、吉良邸を探る話、そして、杉野が、蕎麦を玄藩に買ってもらい、主役が移っていったというところです。もちろん最終的には、討ち入り当日、俵星玄藩が助太刀を申し出たが、大石から断られ、今度は、吉良側助っ人を防ぐという形で側面援助するという話で終わりました。南鱗さんはネタが少ないので、最早新ネタはに出会うことはないと思っています。ですから、今日の「般若寺」も、ネタ的にはやむを得ないのですが、南鱗さんの高座の楽しみは、ネタよりもマクラにあります。今日もおもしろい話を聴かせてくれました。先代南陵が主宰していた「徳川家康をののしる会」にまつわる話です。世の中にはシャレの通じない人がいるようで、まともにクレームをつけてくる人、また支援を真面目に感謝してくる人、いずれにしても、不思議な人が世間にはいるものです。もちろん、こうした話も、また、それから派生した話も、全てネタのマクラになっているわけだから、余計におもしろいのです。ネタは、家康が最もみじめな姿を晒す物語。冬の陣で、家康が逃げ惑うものです。当初の予定では、南鱗さんがトリだったのですが、どうやら南鱗さんの都合で、トリは南海さんになったよう。南海さんのネタは、秀吉の生い立ちから信長に仕官が叶うまでの「太閤記」の冒頭部分。聴かせどころは2ヶ所。今川義元を見限り、故郷中村村に帰り、顔なじみの村人の喜べない迎えを受けるところ。チャリ場に仕上げてありました。脚色南海というところでしょうか。もう1つは、柴田勝家をとっかかりに使い、信長の前に召され知恵を働かせるところ。ここも、南海さんテイストのキャラ作りが冴え渡っていました。45分の長講。でも南海さんの口演では、もうそれが当たり前になっています。今日は、黄紺同様、案内をもらっている方は、ネタに惹かれたのか、客の入りがなかなかのものでした。



2016年 1月 28日(木)午前 0時 21分

 今日は二部制の日。しかも、2つとも京都でというもの。まず昼間に、京都シネマに行き、映画「消えた声が、その名を呼ぶ」を観てまいりました。ファーティフ・アクン監督作品です。グルベッチでドイツ在住の同監督は、これまでも幾つか刺激的な作品を発表してきましたが、今回の映画は、一層刺激的な素材を選びました。トルコによるアルメニア人虐殺を取り上げたのです。ストーリー的には、至極解りやすく単純なものです。オスマン帝国末期マルディンで徴発されたナザレットという男が、危うく虐殺から逃れ、アレッポに逃げおおせたところ、旧知の男から双子の娘が生きていることを知らされ、また、第1次世界大戦の終了とともに、トルコからの軛から逃れることができたこともあり、その娘探しの旅に出かけ、ここからが、ロードムービーとなって行きます。行く先々で、娘が移動したあとだったということで、また新たな旅が始まるというお約束の展開で、アレッポからレバノン、キューバ、アメリカのミネアポリスからノースダコタへと続くというものでした。レバノンは隣接地、アメリカは多くの亡命アルメニア人がいることが知られていますが、キューバが解らない。この主人公のように、キューバ経由でアメリカに入ったアルメニア人を多かったのでしょうか。各寄流地のエピソードは、さしておもしろくなく、アメリカでのエピソードって、別にどうでもいいものまで入っていました。最後は、娘と出会うか、それとも、何らの事情で探すことを諦めるかしかないわけでと思いつつ、この監督のことだから、黄紺の及ばない何かをやらかすのかなんて希望は、あえなく水泡に帰し、想定内の終わり方をしました。映画として、正直言って、おもしろいとは思えませんでした。トルコ人監督がアルメニア人虐殺を、映画にしたというエポックメイキングな意味を除くと、誰にも薦めないと思います。クレジットを観ていると、撮影地は、ヨルダン、キューバ、カナダ、ドイツと出ていました。
 夜は、カフェモンタージュに行く日でした。今日は、「opus.1」と題して、2つの作品1のピアノ三重奏曲が演奏されました。演奏は、ヴァイオリン:石上真由子、チェロ:上森祥平、ピアノ:佐竹裕介の3人の方でした。そして、2つのピアノ三重奏曲とは、「L.v.ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第1番変ホ長調 Op.1-1」「E.W.コルンゴルト:ピアノ三重奏曲第1番 ニ長調 Op.1」でした。このコンサート、石上さんをお目当てに来られた方も、多数おられたのでしょうが、一方で、コルンゴールドの曲を聴きたいがために来られた方も多かったと思いましす。コルンゴールドは、「死の都」というオペラで知られていますが、ここカフェモンタージュでは、コルンゴールドの室内楽を提供してもらえています。ちょうど、今日出演された石上さんが、前回、こちらで演奏されたのが、コルンゴールドのバイオリン・ソナタ。オーナー氏によると、そのコンサート終了後、ピアノの佐竹さんも加わって、コルンゴールドにピアノ三重奏曲があるんだけどということで、今回のコンサートの企画が始まったとか。チェロには、石上さんも、佐竹さんも、上森さんを推されたとかで、今日のコンサートが実現したそうです。さすが黄紺も、コルンゴールドの室内楽は、カフェモンタージュ以外では聴いたことがなかったものですから、ましてや、オーナー氏の説明によると、コルンゴールドは13歳のときに作曲したそうですから、期待が高まるばかりでした。そしたら、13歳が書いたとは思えないメロディ・ラインから始まったものですから、ましてや、コルンゴールドでないと出てこない耽美的なメロディから始まったものですから、ただただ驚くしかありませんでした。ピアノもおもしろいですね、まるで利かん坊のように、弦2本とかけ離れた音を出し、ドキリとさせられました。もっと演奏機会が多くても、いいんじゃないかな、この曲。それに対し、ベートーベンは、コルンゴールドだけでお腹いっぱいという中で演奏されました。こちらは、アンサンブルを楽しませてもらうもの。全く色合いの異なる2曲を「opus.1」ということで並べたプログラミング。カフェモンタージュのコンサートにしては長い1時間20分ほどのコンサートでしたが、もう満腹状態でした。



2016年 1月 26日(火)午後 10時 47分

 今日は、実に久しぶりに豊中市立伝統芸能館で行われる落語会に行く日。黄紺が行く落語会の北の果てと決めている会場です。ですから、石橋や池田で、どんなに気になる落語会があっても諦めることにしています。要するに自宅から、行き帰りに時間がかかりすぎてしまうのです。今日は、こちらで、「いきなり!(^^)!九雀の日 vol.140」がありました。従って、この会に行くのも、随分と久しぶりになってしまいました。その番組は、次のようなものでした。天使「兵庫船」、九雀「堀川」、ちきん「鹿政談」、九雀「僕は廃品回収業」。会場の暖房の効き方が悪く、終演まで、体を冷やしながら聴くことになってしまいました。開場された段階では、全く暖房は入ってなかったのが、最大の原因だったと思います。他の人たちは大丈夫だったのかもしれませんが。黄紺は、ホント、寒さに弱くなりましたから。今日は、どうやら、三味線の高橋まきさん(九雀の奥さん)のお弟子岡野鏡さんのお勉強という趣旨で開催された落語会のようです。トップの天使の出した「兵庫船」を、正月の2、3日、九雀と米二の主宰した会に出そうとしたところ、岡野さんができなかったということで、そのリベンジとして、天使が出し、岡野さんが三味線を弾いたようです。ただ、その「兵庫船」ですが、天使は噛んだり、間違ってないのに間違ったと思い、止まりかけたりと、聴いている者を、随分と不安にさせるものでした。出だしは、よく声が出るようになり、先日聴いた「がまの油」のような難物ネタでなかったら行けそうと思っていたのですが。そこへさして、鳴り物を担当したちきんが慣れてないものですから、まともに太鼓を打てないということで、散々なことになってしまいました。そのちきんですが、初めての遭遇かと思っていたのですが、喋り出すと、遭遇経験のあることを思い出したのですが、何のネタを聴いたかは思い出せませんでした。ただ出したネタが「鹿政談」、これにはびっくり。大師匠の音源を聴いて覚えたのでしょうか、らしき口調がありましたが、総じて、まだまだこれからというところでしょうか。九雀はネタ下ろしなしということだったのですが、「堀川」は、持ちネタにしていることすら知りませんでした。この会で、九雀はネタ下ろしをしていますから、ひょっとしたら、この「堀川」はネタ下ろしじゃないかの気持ちで、実は、今日、この会をチョイスしたのでしたが、黄紺の知識不足でした。松之助とか、先代の小染の好演が耳に残っているからでしょうか、九雀の口演が、えらく上品に聴こえてしまいました。粗野な、荒っぽい雰囲気が、あまり出てこないのです。この噺は、酒極道はともかく、喧嘩極道に手を焼くのが聴かせどころなわけですから、むちゃもんぶりが幅を効かせているところにたっぷり感を味わわせて欲しいのですが、あっさり味だったのです。そして、浄瑠璃が入ると、喧嘩極道の男、猿の真似をしなかったのですが。 なんか、流れてしまったなの印象なのです。「廃品回収業」は、九雀スペシャルのネタですが、黄紺は、今日初めて聴くことになりました。「紙屑屋」の改変ネタだということは、題名から容易に察することができていましたが、内実は、今日初めて知ることになりました。「紙屑屋」の筋立てをそのまま受け継ぎ、中身を、全く現代的なものにしてしまったものでした。紙屑の中からは、小学生の日記、カセットテープ、CDラジカセなどが出てきました。そういった新作として聴くと、「紙屑屋」同様、三味線が入り〜の、歌謡曲を歌い〜ので、楽しめる噺に仕上がっているなと思いました。一方で、音曲噺にも精通している九雀なわけですから、正調「紙屑屋」も観てみたいものだと思いました。なお、「堀川」だけは、高橋さんの三味線でしたが、太竿は使われませんでした。



2016年 1月 25日(月)午後 11時 33分

 今日は、文楽1月公演の第2部を観る日。この第2部では、「国性爺合戦〜大明御殿の段/大明御殿奥殿の段/芦辺の段/平戸浜伝いより唐土船の段/千里が竹虎狩りの段/楼門の段/甘輝館の段/紅流しより獅子が城の段」が出ました。歴史上の人物鄭成功を脚色して、日明両国に渡るスケールの大きな話に、近松が仕上げた作品です。数年前に出てはいるのですが、今回は、そのときに比べ、段数も多く、より本格的な上演が試みられました。大序からの上演は32年ぶりと、プログラムに書かれていましま。確かに、「平戸浜伝いより唐土船の段」から、舞台が日本になりますから、そこの前と後で切りやすくなっています。そこまでは、明滅亡の状況が描かれ、いわゆる仕込みになっているわけです。明が滅び、逃げ延びた明の皇女が船出をする。その船が流れ着く先が平戸浜で、そこに、後の鄭成功親子が住んでおり、父親が明の臣であったことから、明の再興のために、その皇女を立てることを目標に行動が開始されるというわけです。ここまでで、おもしろいことを拾うと、明を滅ぼすのは女真ですが、この作品ではダッタンとなっています。通常、韃靼と言えばモンゴルを指しますが、北方の胡族は、すべからく韃靼と言ったのかなぁなんて考えながら観ておりました。明の重臣の名前が呉三桂というのもおもしろいところ。宮廷内に呉三桂がいたことになっています。ま、有名人だから、重臣と言えばって感じで使われているのでしょう。そして、明の宮廷が南京になってました。北京より一文字多いので、調子がいいのかもしれませんが。てな感じで、重箱の隅をつついて楽しんでる黄紺です。中国に渡ってからの主役は誰と言えばいいのでしょうかね。人形の役割分担からすると、勘十郎さんが錦祥女、玉男さんが甘輝だし、その辺なのでしょうか。後の鄭成功になる和藤内ではないですね、少なくとも。人形の分担ではダブルキャストになってるくらいです。和藤内がタイトルロールなのにも拘わらず、そういった扱いになっているのが、この作品の特徴ですね。韃靼を討つための協力者を、人的縁故で得るための物語だったのです。「紅流しより獅子が城の段」のあとの展開があるのか、あれば、どのようなものなのか、それを知らないので、勝手なことを書いてますが、和藤内が主役になれない物語だから、消化不良になるのかもしれません。前回観たときは、正直言って、近松の有名作品のわりには、つまらんと思ってしまいました。今回は、つまらんとまでは思わなかったのですが、何やら頼りないのです。でも、史実では、鄭成功は敗軍の将ですから、こないな展開しか仕方がないのですかね。なんか、近松に竿をさすようなことを書いていますが、、、。



2016年 1月 24日(日)午後 7時 53分

 今日は、奈良で落語会に行く日。年に1回、ならまちセンターで「生喬一門会」が開かれているのです。今年で3回目になります。黄紺は、去年は行くことができなかったのですが、一昨年と比べ、かなり集客力が上がっていたので、それに、まずびっくり。その番組は、次のようなものでした。米輝「看板のピン」、生喬・生寿・米輝・はやしや律子「お囃子紹介」、生寿「蛸芝居」、(中入り)、生寿「鹿政談」、生喬「百年目」。今日も、睡眠はそこそこ取れていたにも拘わらず、また居眠りが出てしまいました。それも、「蛸芝居」の終盤に、また「百年目」が数ヶ所飛んでしまいました。わりかし今日の落語会の目玉だったはずのところでの居眠りに、愕然とするしかありませんでした。どうも、最近は、昼間がダメですね。米輝も奈良の出身とか。米団治に入門直後の話など、長めのマクラをふってからネタへ。「お囃子紹介」は、生喬がMCで、他の3人が実演部隊。生喬が米輝の笛をべた褒めしてました。あさ吉も言ってましたから、これはホンマものでしょう。実演は、四天王、吉朝、松喬、五郎兵衛の出囃子を演奏するというものでした。そして、生喬と生寿が交替でして、お囃子組は舞台に残ったまま、「蛸芝居」の実演に移りました。このパターンだと、どうしてもお囃子組に目が行ってしまいますね。鳴り物担当の生喬が、実演の生寿の動きを、目でしっかりと捉え、タイミングを量っている姿が微笑ましくて。そんななのに、終盤に居眠りが出るとは、尋常ではありません。中入り明けで出てきた生寿は、開口一番「疲れました」。やはり動きの多い「蛸芝居」は疲れるようです。ましてや、中入りを挟んで出ずっぱりですもんね。去年、奈良観光大使の仕事をしたとかで、ならまちセンター近くにある、言い換えると猿沢池周辺の名所を紹介してくれました。それをすると、立派な「鹿政談」のマクラになってました。生寿の「鹿政談」を聴いていて、千朝の口演を思い出してしまいました。鹿奉行の塚原出雲の台詞になると、時代劇口調を連想させたからです。千朝のようには、悪代官口調まではなりませんでしたが、一点デフォルメで、噺にいいアクセントがつき、このアイデア、なかなか成功なんじゃないかな。生喬の「百年目」は、自身の会「まるかじり」でネタ下ろししたのですが、黄紺は、その口演に行くことができなかったものですから、今日の目玉中の目玉だったのですが、残念なことになり、満足な感想を書けないのですが、一つだけはメモっておきたいと思います。旦さんの口調には、いたく神経を使ってるなという印象を持ったのですが、それでもなお、キャラに不安定なものを感じてしまいました。この旦さん、幾つくらいなんだろうと思ってしまったものですから。



2016年 1月 23日(土)午後 10時 32分

 今日も二部制の日。頑張ってます。まず、午後は、伊丹のAIホールで、芝居を観てまいりました。芝居を観ること自体が久しぶりになります。何かのきっかけで、一度足が遠のくと、情報が入らなくなり、自ずと足が遠のくいてしまうのです。今日は、名古屋の劇団「オイスターズ」の公演「この声」を観てまいりました。以前、京都で、この劇団を観たとき、近来稀なる刺激的な芝居だったもので、黄紺の頭に強くインプットされた劇団だったのです。ところが、今日の昼間は絶不調。先日の文楽のときもそうだったのですが、睡眠が十分なときほど、昼間に眠たくなってしまいます。特に、今日はひどかった。幸い、構造的にはムズくはなかったので、舞台で何が起こっているかは外さなかったのですが、細部については、全くダメでした。舞台には、高校の美術教室を想像させるキャンパスを前にして、美術教師が絵筆をとっているところから始まりまりました。そこへ、女子高生が友人がゾンビになりそうだと、次から次へと現れます。ありえない話なんで、女子高生と美術教師の会話が交わらない。そのギャップを描き続けたようです。途中で、あまりゾンビ話が続くので、美術教師が話を合わし出すところがあったように思えました。ただ、ゾンビ映画なんてものなど観たことのない黄紺には、台詞の端っこを掴まえて、芝居の流れを少しでも補うってのことができないので、お手上げでした。
 芝居が終わると、大移動で千日前に向かいました。夜は、「千日亭」で、毎月続けられている「染左百席 千日快方」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。染左「子ほめ」、治門「初天神」、染左「七段目」、(中入り)、染左「植木屋娘」。「子ほめ」は、年齢を重ねて問うところなし、伊勢屋の番頭も出てこずだったもので、今日はショートカットで行くのだと、勝手判断をしていると、「七段目」で出てきたときに弁明。「抜かしてしまいました」と。そのわけも説明してくれました。東住吉高校芸能文化科の講師をしている染左は、ちょうど「子ほめ」を教えているところなのだが、そこではショーマトカット版でやってるものですから、それがそのまま出てしまったということでした。全くもって、ありそうな話で納得でした。繁昌亭で、時々、「ベテランによる前座噺の会」なんてのをやってますが、染左の「子ほめ」は、もはやその領域です。身に付いた緩急に20年の重みを感じます。治門は久しぶりの遭遇。以前は、いろんな会で、前座として多用されていましたが、最近、全く遭遇機会がありませんでした。それだけ、若手の噺家さんが多いということなのでしょうね。遭遇してない間に仕入れた噺を披露してくれることを期待していたのですが、やはり先輩の会に喚ばれると、自信のあるネタを選ぶことになります。また、「初天神」を出すには、全くもってタイムリーでした。そして、確かに治門の「初天神」は、虎ちゃんの程よい生意気さがいいですもんね。凧上げのところまで、きっちりとやってくれました。染左の「七段目」は、チラシにはネタ出しされてなかったもの。十八番の芝居噺です。となると、米朝一門の「七段目」なんかとの違いを探したくなります。大きく2つ見つけました。定吉が上がり、芝居に加わるところで、その後半がありませんでした。右足を左斜め前に踏み出す型のところです。もう1つは、隣の稽古屋から三味線の音が入るというものがありました。そんなのを見つけて喜んでおりました。中入り明けの「植木屋娘」は、芝居噺を除いた中で、染左ベストの中に、絶対に入れたい素晴らしい出来栄えだったと思いました。終盤にかけて高揚感があり、聴いていてワクワクしてしまいました。呂鶴テイストが垣間見えたので、そのルートで入ったのかなと判断しましたが、「そうかな?」程度の判断です。ということは、染左カラーが全面に出てきていたということでしょう。幸右衛門のハイテンションも、キャラとしての安定性があるのが、何よりも素晴らしい。きょとで慌てもん、その上に、娘が可愛くてたまらない親バカぶりが、最高でした。和尚や伝吉の落ち着きも良かったなぁ。その和尚が、ぼてれん話を聞いて声を変えます。驚きぶりは、それで十分に判りました。一対の夫婦ができあがりましたと、下げを言わないで終わりました。



2016年 1月 23日(土)午前 8時 16分

 昨日は、昼夜二部制の日。まず、午後は、文楽劇場の小ホールであった「上方演芸特選会」に行ってまいりました。なかなかの好メンバーが揃ったということで外すわけにはいきません。その番組は、次のようなものでした。笑福亭飛梅「道具屋」、京山幸太(藤初雪)「小田原すもう」、バッチトゥース「漫才」、旭堂南鱗「無名の碑の由来」、(中入り)、露の新治「千早ふる」、豊来家幸輝「太神楽」、京山小圓嬢(沢村さくら)「改心亭」。今月は、飛梅と染吉が、交替で前座と鳴り物を担当。昨日は、飛梅が前座の番。おかげで、飛梅には、ホントに久しぶりに遭遇できました。そしたら、ソフトな語り口に加え、客席との距離感の取り方が上手くなっており、かなり腕を上げたなの印象を持ちました。丸っこい顔が、そういった高座姿勢にぴったりになってきています。ただ、前座として客席を暖めねばの義務感からか、営業ネタのような小咄を振りすぎです。どこかの師匠だと雷が落ちそうです。幸太くんは、おなじみの「小田原相撲」。あまりにもおなじみ過ぎて、半ばで居眠りをしてしまいました。漫才さんは、若手のしゃべくり漫才。不思議なネタをしますね。ちょっと消化不良でしたが。今回は講談が入りました。入るときと入らないときがあります。どういったルールになっているのでしょうか。そして、入っても、ベテラン陣しか出番が回ってこないのはいかがなものなんでしょうか。南鱗さんのネタは、久しぶりに聴く「無名の碑」。未必の故意により殺人を犯した男が、18年後、命を捨てる覚悟で懺悔の旅に出かけます。なんか、元になる話でもあるのでしょうか。落語の2人目は新治でしたが、もうちょっと重い出番だっていいのではないでしょうか。「狼講釈」「ちりとてちん」と来て、昨日は「千早ふる」でしたが、出番からすると、初日に「狼講釈」が、よく出たなとは思いますが、「千早ふる」で仕方ないでしょう。基本は、通常の形を維持し、細かい削除(神代太夫は千早太夫の妹ではなかった)や、アホげなくすぐりを入れていました。このネタは、くすぐりをちーとは多めに入れてもいいという読みはさすがです。豊来家幸輝は目っけもの。土瓶を使った曲芸をメーンとして披露してくれました。東京では観ることができるのですが、上方では、他にいないんじゃないかな。東京の人もやらない高度な技を見せてくれました。狙いの小圓嬢は、ここまでの2日間は「壷阪霊験記」「愛情渡り舟」。昨日の「改心亭」は明治もの。山県有朋邸に強盗に入った3人組が、山県有朋の妻に諭され、また、捕縛されたあと、その妻から寛大な措置を求める意見が出されていることを知ったのをきっかけに改心への道を歩き始めるというもの。黄紺は、初めて聴くネタ。それを聴けただけでも、昨日、この会に行ったネウってものがありました。
 文楽劇場を出ると、京都への大移動。夜は、カフェモンタージュで、「旅の歌」と題されたカウンター・テノールの藤木大地と、ピアノの松本和将のコンサートを聴いてまいりました。そのプログラムは、冒頭に、二人で「加藤昌則:旅のこころ」が演奏されたあと、松本さんのソロて、「ベートーヴェン:ピアノソナタ 第17番 ニ短調 Op.31-2 『テンペスト』 」が、次いで、二人によるヴォーン・ウィリアムズの歌曲集「旅の歌」 全曲が演奏されました。そして、アンコールは「西村 朗:木立をめぐる不思議」「福井文彦:かんぴょうの歌」でした。藤木さんは、カウンター・テノールとして、初めて日本音楽コンクールで1位を射止めた方、また、松本さんは、知らなかったのですが、エリザベート王妃国際音楽コンクールで入賞経験が持っておられる方。だからでしょう、藤木さんのピアノ伴奏というだけではなく、ピアノ・ソロの、しかも、ベートーベンの有名ソナタが、プログラムに用意されていたというわけです。黄紺は、ノンビブラートのバロック・アリア大好き人間です。ですから、古楽に、よく使われるカウンター・テノールの歌唱には、特別な思い入れがあります。世界的に見ても、カウンター・テノールなるものの存在が認知されていなかった時代からの古楽ファンにとり、カウンター・テノールで声楽コンクールを制したり、その藤木さんが、ウィーン国立歌劇場でカヴァーに入ったり、いえいえウィーン国立歌劇場なんてところでは、バロック・オペラなんてものは上演されませんでしたから、カウンター・テノールの需要なんてなかったわけですから、ホント、隔世の感がします。先日、ヘンデルの「アルチーナ」のDVDを観ていたところ、これが、ウィーン国立歌劇場のプロダクション。特典映像で関係者が言ってました。「少し前まで、ヘンデルのオペラなんて上演されなかった」と。この藤木さん、夏の兵庫芸文センターの佐渡オペラにも出演が決まってますから、ちょっとした瀬踏みの気分も持ちながら、カフェモンタージュに向かいました。カウンター・テノールは、女声に当てはめるとコントラルトに相当する高さとされていますが、男性が歌いますから、黄紺の耳には、もっと高い声のように感じてしまいますから、ホントに不思議な感覚に陥ります。元々、発声に無理があるでしょうから、声質にムラが出てくるのは致し方ないことかもしれません。カウンター・テノールに、どれほど精緻なものを求めていいのか計りかねていることはいるのですが、、、。昨日は、聴いたことどころか、そないな曲を残していることすら知らなかったヴォーン・ウィリアムズの曲に触れることができました。それに加えて、日本歌曲を聴くことができました。西村朗の曲がおもしろかったですね。虚を突くようなピアノに加え、引きずるように上昇したり下降する藤木さんの発声が、不思議な魅力を醸し出していました。一方の松本さんの「テンペスト」が、また、目を見張る快演。有名なゆったりとしたアルペジオで始まるこの曲、それを含めた序盤の演奏を聴いていて、手首の堅そうなピアニストだなぁの印象にも拘わらず音楽が生きている、てことは、とっても指先の器用な方だとインプットされてしまいました。そんなですから、荒削りな印象を与えるかと思うと、その一方で、細かな高音部が、やたら繊細と、何やらえらく新鮮なサウンドに聴こえてまいりました。総体として、発刺としたオーラのようなものが出てきているのを感じさせられたのは、なんだったのでしょうか。演奏している人を感じたのからでしょうか、一期一会の演奏に接することができたという気がした貴重な「テンペスト」でした。



2016年 1月 22日(金)午前 4時 50分

 昨日は、文楽の正月公演の第1部を観る日。その番組は、次のようなものでした。「新版歌祭文〜座摩社の段/野崎村の段〜」「関取千両幟〜猪名川内より相撲場の段〜」「釣女」。なお、この内「関取千両幟」は、「八代豊竹嶋大夫引退披露狂言」として出たのですが、嶋太夫さん、人間国宝になった途端の引退です。振り返ってみると、3年ほど前から、急速に衰えが見え出したり、休演もあったということで、やむを得ない引退かもしれません。お元気だった頃に聴いた「帯屋」は忘れることができませんね。これで、切語りは咲太夫さん一人になってしまいました。「新版歌祭文」は、お染久松の物語。本来は、仇討ち話に絡んでいるそうですが、その辺りに触れる段に遭遇したことはありません。お店の金をくすめた科で、お店から 暇を出される経緯、そして、家に戻ると用意されていた結婚話、その家でのお染との邂逅、父親久作の諌め、おみつの出家で一段落、最後は三味線のツレ弾きで、春団治を偲ばせていただきました。文楽にしてはと言っていいでしょう、黄紺の頭もついていく穏当な展開。いつしか、この演目の全体像に触れながら、このお染久松の物語を観てみたいものです。「関取千両幟」は、猪名川と鉄ヶ獄のつばぜり合いという形を取りつつ、背後に居る支援者同士のつばぜり合いがあり、それに義理を立てねばならない猪名川の苦悩が見せどころか。随分前に、南海さんが、「関取千両幟」と題する続き読み講談をされたことがありますが、もう内容を忘れているため、同じ話なのかが判らず、ちょっと悲しい気分。嶋太夫さんの引退ということで、どうやら一門の方々と一緒に語り、最後を飾ろうという趣向のようで、この演目が選ばれたっていう印象を受けました。また、この演目には、三味線(鶴澤寛太郎)の曲弾きが入ったり、「猪名川内」の場面では、組まれたのを観たことのない鶴澤寛治さんと組まれたりと、住太夫さんの引退興行のときとは、随分と違った趣向で、嶋太夫さんの引退興行は進行しました。そうそう、猪名川と鉄ヶ獄との相撲の場面は30年ぶりの上演とか、ころも、引退興行に華を添えた趣向かもしれません。「釣女」は狂言由来の演目。従って、舞台は能舞台が設えられ、狂言の語り口を多用しながら進行。筋立ても狂言のそれを踏み外すことのないものでした。最後に、「釣女」を持ってきて、ま、足取り軽く帰っていただこうというところでしょうか。
 夜は、久しぶりにコナックで、昔の同僚と食事会。その内の一人が入院をしていた期間があり、久しぶりの食事会となりました。普段の食事で量が進まないと言っていたのですが、いつに変わらぬ食欲に安堵しました。ヘサップをしているところに、突如としてK氏が現れ、お互いにびっくり。1年ぶりの再会に、思わずハグをしてしまいました。



2016年 1月 20日(水)午後 11時 30分

 今日は、この冬一番の寒い日と言っていいでしょう。午前3時に目が覚め、そのまま眠れなかったもので、明け方の凄まじい気温の低下に、身を晒すことになりました。ホント、寝つきはいいのですが、簡単に目が覚め、そして眠れない時間が訪れます。結局、午前中、若干うつらうつらとはしましたが、睡眠と言えるようなものは取れずじまいの一日。冷たい雨も降っていたこともあり、なかなか外に出る気にもなれず、ようやく雨が止みかけた昼過ぎに三条へ。京都観世会館にチケットを買いに行くという用事を自分に課し、ちょろっとでも身体を動かすことに。帰途、弟の家に寄り、パソコンをいじることに。春のオペラ紀行のための鉄道の切符が、突如として、黄紺のパソコンから買えなくなってしまったのです。試しに弟のパソコンで試みると、容易く切符はゲットできました。ということは、黄紺のパソコンに、何らの不具合が生じたということになってしまいました。
 夜は、千林の伝楽亭であった「第2回 神田陽子・林家染雀二人会 伝楽亭特別興行」に行ってまいりました。繁昌亭の出番に、神田陽子という名前を見つけたものですから、これは、大阪での口演が、他にもあるはずと、勝手に決めて探すと、この伝楽亭の公演を見つけることとなりました。しかも、染雀との二人会とはそそられる企画。でも、なぜ、この二人の組み合わせなのという謎の部分があるのも、魅力の一つになった会、その番組は、次のようなものでした。神田陽子「刀匠五郎正宗の孝子伝」、染雀「宗論」、(中入り)、神田陽子「カルメン」、染雀「御神酒徳利」。伝楽亭は、今日で2回目。前回は、確か南左衛門一門会だったはず。東京から、東西交流の一環で、南左衛門師の下にお稽古に来られていた貞寿さんも出演された記憶が残っています。それを考えると、2回とも伝楽亭では、東京の講釈師さんと出逢えるところとなってしまいました。陽子さんと染雀の結びつきというのでは、全く見当もつかないのですが、陽子さんの繁昌亭出演の紹介をしたのは染雀だったそうですから、何らの繋がりがあるということなのでしょう。 「五郎正宗」は、東京で聴いたことのあるネタで、そのときも、ひょっとしたら陽子さんで聴いたかもしれないのですが、誰で聴いたか思い出せないのです。主人公は、刀匠という設定になっていますが、別に、職業が変わっても成立する話。要するに義母による継子いじめの話で、子どもであった正宗が、そに耐えただけではなく、いじめる義母に尽くすというもの。五郎正宗を引き取るところまでは、実父は顔を出しますが、あとは、いじめられている倅には、全く気づいていないという、ちょっと父親としては頼りない。聴いていて、歯がゆくて腹の立つ展開です。だから、あまり東京で聴いた口演について覚えてないのでしょう。ま、ネタが、ちょっと今どきではないのは置いておいて、陽子さんのべらんめぇ口調が、とっても迫力があり圧倒されました。女性のべらんめぇ口調って新鮮で、今日は、それを聴けただけで、この会に行った値打ちってものを感じました。その上に、「カルメン」が加わったのですから、贅沢の極みです。存在は知っていたつもりですが、実演に遭遇するのは初めて。サービス精神旺盛、その上、ビゼーの描いたメロディまで、きっちり押さえているという只者ではないネタです。だって、「カルメン」第3幕冒頭のメロディって、普通の人、知らないでしょうってのも挿入されていたのには、びっくりさせられました。一方の染雀も、今日は、東京からの入り。筑波大学の留学生相手に落語をしてきたそうです。1つ目の「宗論」は、染雀が軽めのネタを出すときの定番ネタ。「金明竹」かもと思っていたのですが、「宗論」の方でした。もう1つがびっくりの大ネタ。師匠の染丸も持ちネタにしてますから、そちらから入ってきたのでしょう。黄紺は、上方の噺家さんで聴いたのは、その染丸からだけだったはずです、随分前のことですが。「この噺って、上方の噺家さんもするんや」と思った記憶があります。正確に計っていたわけではありませんが、45分くらいはあった長講で、最後までやってくれました。2つ目と3つ目の謎解きをする中で、1回ずつ鳴り物が入るのでしょうね。今日は、鳴り物なしでしたから、実際には入らなかったのですが、染雀の所作からすると、入るようになっていると看ました。染丸の口演に接したのは、随分と前のことですから、鳴り物のことまで記憶はありません。このネタは、展開がおもしろく、ネタの力というものを相当持っています。少なくとも、染雀の口演は、それをもて余すことなく、最後まで引っ張って行ってくれたと思います。「宗論」もそうでしたが、染雀は、部分的なおいしいところには、あまり頓着しないで、噺全体の流れ、おもしろさを、聴く者に訴えようとしていたと看ました。振り返ってみると、この会は、たっぷり感のある実にいい会だったなと思いました。となると、内輪の人たちだけではなく、もっと多くの人たちに聴いてもらいたいなと思ってしまいました。



2016年 1月 19日(火)午後 11時 23分

 今日は、月一で開かれている「第222回旭堂南海の何回続く会?〜増補難波戦記12〜」に行く日。普段の第4火曜日ではなく、特別に、今月は第3火曜日に設定されました。その煽りを食い、生寿くんの会に行けなくなってしまいました。でも、今度の日曜日の会で埋め合わせができますので、ちーとは我慢しましょう。で、今日の南海さんの高座は、荒川熊蔵の物語を仕上げ、そのあと、次なる読み物「猿飛佐助」に入って終わられました。荒川熊蔵は架空の人物。加藤清正の家臣として登場してきます。黄紺がドイツにいる間に読まれたのは、熊蔵が清正の家臣になったあと、関ヶ原の合戦に対する清正の態度に怒ったということにして、その実は、清正の命を受け、熊蔵が諸国を巡り、諸大名の動向を探るものだったということです。今日は、清正が、秀頼に替わり毒入りの食べ物を食べ、命を落としたあと、肥後藩を離れ、浪々の身となったところで、後藤又兵衛と出逢い、豊臣方に与していくというところから。特に、荒川熊蔵の大坂城入城はチャリ場として読まれました。浪々の身だったものですから、身仕度ができてなかった熊蔵が、迎えに出た織田有楽斎、大野主膳の馬を奪って入城するというもの。そして、いよいよ夏合戦で、豊臣方は敗北を喫して行くわけですが、熊蔵は薩摩落ちの警護として、生き長らえ、更に2度目の旗揚げにも参戦する話へと繋がっていくそうですが、もういいだろうということで、薩摩落ちのところで切り上げられました。「猿飛佐助」の方は、まだ少年時代に、謎の老人から剣術指南を受けている途中に、時間切れとなってしまいました。ですから、「猿飛佐助」は、まだ序の序というところです。



2016年 1月 18日(月)午後 7時 53分

 今日は、メトロポリタンのライブ・ビューイングを観る日。この1週間は、黄紺も、生では観たことのない「ルル」が上映されています。アルバン・ベルクの作品です。2、3年前に、このライブ・ビューイングに入ったショスタコービッチの「鼻」を演出したウィリアム・ケントリッジのプロダクションです。メトロポリタンと言えば、オーソドックスな演出と、相場は決まったものという心構えで、このプロダクションに臨むと大変なしっぺ返しを喰らいます。全編、画像と映像に操られ、しかも、それらが、全て新聞紙の上に描かれた墨画なものですから、いつものメトロポリタンと比べると、あまりにかけ離れたプロダクションなのです。「ルル」ってのは、初めて観るオペラでしたが、凄まじい内容を持つものでした。ルルと呼ばれる女の波乱万丈の半生を描いたと、簡単に表すことはできることはできますが、それでは、あまりに物足りない感じにしてしまいます。それだけ、その半生に盛り込まれた内容が盛りだくさんだからでしょうね。タイトル・ロールを演じたマルリース・ペーターセンは、同じくメトロポリタンのライブ・ビューイングで観た「フィガロ」で、スザンナで、お目にかかったことのある方。このルルの最高の歌い手とされ、この公演を持って、ルルを卒業するという記念行公演でもあったようですが、「歌う女優」とまで評されるその演技は、最早歌手のそれではありませんでした。医務官夫人から娼婦まで、その体当り的な演技が、このオペラに、一層のリアリティを与えます。シェーン博士役のヨハン・ロイターは、そつがない好演。スター歌手のスーザン・グラハムが、レズビアンのゲシュヴィッツ伯爵令嬢役だったのですが、あまりにせつない役ですね、この役ってのは。十二音技法で書かれたオペラということで、かなり構えた感じで臨んだのですが、とんでもありません。リヒャルト・シュトラウスを楽しめれば、充分に楽しむことができると確信しました。まだまだ把握できていないオペラに遭遇でき、この上ない幸せ気分になることができました。



2016年 1月 17日(日)午後 7時 44分

 今日は、落語会に行く日。初めておじゃまをする「じょうぞう一番搾り」という桂鯛蔵と桂二乗の主宰する落語会に行ってまいりました。場所は、地下鉄「松屋町」駅近くにあるサロンドありす「練」という古い家屋を使ったスペースでした。落語会などにいいスペースなのですが、ここを使うのは、あとは、南斗くんが会をするくらいのところです。松屋町駅という中途半端な位置が敬遠の理由なのでしょうか、黄紺には、よく解りませんが。その番組は、次のようなものでした。鯛蔵・二乗「楽屋風景」、鯛蔵「二人癖」、二乗「正月丁稚」、鯛蔵「猫の忠信」、(中入り)、二乗「質屋蔵」。 冒頭の「楽屋風景」は、前座を置かないからでしょうね、落語会の雰囲気作りってところでしょうか。トップの出番だった鯛蔵の生着替えに、二乗が横から喋りかけるというパターン。話題は、一昨日のコンペと春団治師の思い出。今日のネタ出しは、いずれも大ネタを掲げ、あとは「他一席」とされていました。それが、チラシだけではなく、入口で配られたプログラムにも、そうなっていました。鯛蔵の「二人癖」は、もう前座で出るときに、頻繁に遭遇するもの。一昨日のコンペで、これを出せば良かったのにと、黄紺は思っていたのですが、実際に、鯛蔵が、コンペに用意して行ったのは、「牛ほめ」「初天神」「鹿政談」。それを聞いた二乗は、「鹿政談にすれば良かったのに」、正にその通りと、黄紺も思ってしまいました。雀太の酒のネタのあとには、インパクトがあると思ったのですがね。「二人癖」は、素晴らしいテンポで、鉄板と言えますからね。もちろん、今日もそうでした。二乗の「他一席」は、季節ものの「正月丁稚」。このネタをする若手噺家が減りましたね。季節ものと言ってもスパンが小さすぎる、内容が旧弊すぎると看られているからでしょうか。黄紺は、民俗資料のようなネタで大好きです。なのに、途中から居眠り。昨日同様、睡眠障害に曝されたままです。それが、狙いの大ネタ「猫の忠信」にも出てしまいましたが、辛うじて残っている印象として、「二人癖」と同じようなテンポでいいんだろうかということと、この噺に出てくる人たちは幾つくらいなんだろうか、いや、鯛蔵は、幾つくらいと考えてやってんだろうかと思ったことを書き留めておきます。二乗の方の大ネタ「質屋蔵」は、ネタ下ろしをしてから、そこそこの時間が経っているはずですが、黄紺にどっしは、ようやく遭遇できたという感じです。単に巡り合わせの問題なのですが。まず、落ち着いた語り口が板に付いています。身体表現としての落語というものを感じさせます。身体の動きが有機的なのが、とっても板に付いています。それを、かなり意識してやってるなという印象を持ちました。となれば、演じ手として、40分はかかるという大ネタは、かなりの緊張を要することだと思います。でも、最後まで緩急自在の口演、大したものです。今日の二人の高座だけで言うと、二乗リードの様相です。



2016年 1月 16日(土)午後 7時 18分

 今日は民博ゼミナールに行く日。今日のテーマは「東南アジアの人形芝居」というもので、お話しは福岡正太(国立民族学博物館准教授)さんがされました。トルコのカラギョズにも繋がるテーマということで、楽しみにして行ってまいりました。講師のフィールドが西部ジャワということで、スンダ人社会のワヤン・ゴレクから、お話し及び映像による紹介から始まりました。ここの人形芝居は、棒を着けた人形を操るだけではなく、操る人間も表に登場してきます。カンボジアのスバエク・トムは、人形というよりも、登場人物を背景で囲んだ大型の板(それを人形と呼べばいいのでしょうが)を操るというもの。ベトナムでは、水を使い人形を操るという特徴があるというのは、黄紺も知っている話。地域により、異なった特色を持っているようです。扱う素材は、「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」というヒンドゥーの神話だということは、この地域が、かつてはヒンドゥー圏内だったということになりますが、ヒンドゥーの優勢が崩れたあとも、こういった人形芝居は残ったということなんでしょう。ちょっと寝不足が続いているため、残念ながら、途中で居眠り。大事な話を抜かしている可能性大ですが、どうしようもなくいい心持ちで眠ってしまってました。もったいない限りです。



2016年 1月 15日(金)午後 10時 28分

 今日も、落語会に行く日。今夜は、一昨日に次いで繁昌亭でした。繁昌亭は、一旦行くと、なぜか続いてしまいます。今日は「新進落語家競演会」のあった夜。産経新聞がスポンサーになり、毎年行われている若手噺家のコンペです。毎回、午後6時開演ということで行きにくかった会ですが、今や自在に行くことができるようになっています。コンペの場合、出番が大きなポイントを占めてしまいますが、この会の場合は、出番は抽選で決められ、その結果、次のようになりました。そうば「親子酒」、三四郎「過去のないワイン」、松五「松竹梅」、喬介「牛ほめ」、(中入り)、吉の丞「仏師屋盗人」、雀太「替り目」、鯛蔵「初天神」。出されたネタで言うと、これは、審査待ちをしているときに、司会の三之助が明らかにしたのですが、鯛蔵も「牛ほめ」を出すつもりをしていたとか。抽選で1番を引いた鯛蔵は、迷うことなくトリを取ったのですが、それが裏目にというか、思惑が外れたようですが、「初天神」で、充分に実力は出していたと思いました。もう一人、吉の丞は、酒のネタが出たということで、昨年の「新人グランプリ」ネタの「がまの油」を控えたのかなと思いました。が、ここで、吉の丞が「がまの油」を出していたら、あとの雀太は、どうしたのでしょうかね。それとも、吉の丞は、酒のネタが上手い雀太との衝突を避けたのでしょうか。その辺、ネタ的には、吉の丞がキーになったかもしれません。ネタ的に、全く読めなかったのが三四郎。活動場所を東京に移してしまっているので、最近の活動の様子が解らなかったからですが、自力は買っていますので、ネタでは、一番気になっていた存在でした。すると、唯一の新作。顔触れから見て新作が出る可能性がないということから来る好判断と看ました。新作というだけで、インパクトがある上に、内容が優れたものだっただけに、有力な最優秀賞候補になったかと、黄紺は考えていました。酒の噺は、結局、そうばと雀太だけとなると、それは、雀太に一日の長があります。そうばも、後ろに雀太が控えているのに、なぜ「親子酒」を出したのでしょうね。しかも、枝雀一門テイストのものを。ただ、そうばの口演ではベストに入れてもいい出来栄えだったのですがね。ただ、親父の酔い方はもの足りませんでしたが。喬介の「牛ほめ」は、正に鉄板ネタで、高音でいちびりながらリアクションをするアホが絶品の代物。ただ、正調古典落語ではありません。でも、おもしろいものはおもしろいということで、一押しの最優秀賞候補であることには変わりはなかったと思います。となると、前半が終わった段階で、黄紺の印象に一番残ったのは、実は松五だったのです。程度こそ違うのですが、それぞれがど真ん中直球でなかったため、また、その安定した語り口が秀でていたために、一躍、目立ってしまってました。後半に入り、同じように古典を真っ直ぐに喋った吉の丞、鯛蔵とは、別の味わいがあり、松五も残ったと思いました。吉の丞は、今日、古典を正面から喋った噺家さんでは、最も本格派の雰囲気が漂いました。仏師屋の家の広さや暗さが見えてくるんだなぁ。鯛蔵は、独特のリズムを持っています。達者な喋りに、ちょっと緩めるような独特のリズムが、噺に深みを与え、臨場感を高めます。となると、この2人も、最優秀賞候補に入ってきます。終わってみると、そうばを除いて、誰が選ばれても、それなりの理由が言えるぞという思いに捕らわれてしまいました。ですから、審査員の選び方一つで、受賞者が決まる事態になったぞと思いながら、発表を待つことにしました。黄紺的には、喬介に取らしてやりたいなという気持ちがあったことは事実です。というのは、ここまで、喬介は賞というものから見放されていたからです。彼にしかできないいちびる男が、どこかで評価されないとダメだろうと考えていたからです。でも、去年は二乗だったしと思うと、正攻法な噺家さんが選ばれるのだろうかとか考えていました。結果は、奨励賞が雀太、最優秀賞が喬介でした。ですから、今年の選考基準は、去年とは違ったということになります。ま、賞なんてものは、そういうものでしょう。



2016年 1月 14日(木)午後 10時 53分

 今日は、鶴橋の雀のおやどで落語会に行く日。久しぶりに「つるっぱし亭」に行ってまいりました。毎月、行われている雀三郎主宰の会ですが、今日は、その雀三郎が「土橋万歳」を出すということで、動楽亭の「生喬百席」を捨て、雀のおやどを選んだというわけです。その番組は、次のようなものでした。天使「がまの油」、雀三郎「土橋万歳」、文都「壷算」、雀三郎「夢の革財布」。天使が「がまの油」を手がけているという情報は持っていたのですが、同時に疑問符を付けてインプットされていたのですが、実際に聴いてみると、疑問が的中ってところでした。一つは、女の噺家さんで、酔態を出そうとすると、声質からして、かなり厳しいと思ったのです。若手の噺家さんが、あまり酒のネタに手を出さない傾向にあるなか、そのチャレンジ精神は買いたいのですが、、、。物売りのマクラの中で、今まで聴いたことのないフレーズがありました。天使は、誰にもらったのか気になってしまいました。ゲスト枠は、天使の師匠文都。流れとか、基本的なテキストは、通常のものとは変わりはないのですが、文都の高座を見ていて、いつも気になることが、今日も気になってしまい、終始、引き気味で聴くことになりました。どうしても演じている文都の顔が見えるというか、演じてやろうとしている文都の顔が、噺の中に出てきてしまうのが、聴いていると邪魔な感じがしてしまいます。特に「壷算」のように、頼りないアホが出てきたり、落語らしいありえないような展開を見せる噺がきつくて、引いてしまうんだなぁ。雀三郎は、それとはうって変わった高座を見せますから、なんか雀三郎の口演が、やたら際立ってしまいました。雀三郎が「土橋万歳」を出しているのを見た記憶がありませんから、また、一つ目のネタとして、「土橋万歳」を出したことから、ネタ下ろしじゃないかなと推察しています。そして、文都をゲストとして喚んだのも、ネタ下ろしシフトじょないかと、勝手に考えています。最近、宗助が手がけるよになりましたが、滅多に出ない大ネタ。土橋で、番頭が若旦那を手にかけるところが、「夏祭浪花鑑」のパロディーになっており、芝居がかりになるというだけではなく、土橋に至るまでの番頭の困りの描き方が難しく、そして、終盤のどんでん返しで、一挙に雰囲気を変えねばなりませんから、並大抵のことではできない代物。雀三郎のことですから、土橋までの番頭、それに対峙する我が儘三昧を見せるお茶屋の場面の若旦那は、腹が立つほど憎らしく、頗る付きの快演。だけど、芝居がかったとき、ちょっと切れ味に欠けたんじゃないかな。年齢的なものがあるならば、技でカバーして欲しかったなと思います。ところが、見栄を切った雀三郎の姿を見て、見栄を切った顔が可笑しかったのでしょうか、笑った不届きな客がいました。黄紺ですら、とっても不快になりましたから、当の雀三郎は、心穏やかじゃなかったのではと思います。夢から醒めるところが、ぞんざいになりました。急に間が変調をきたしたように見えました、黄紺には。とっても残念な気持ちがしました。「夢の革財布」は東京の「芝浜」。雀三郎の口演では、芝ではなく住吉になっています。それだけの変更で、移植は完了します。江戸っ子の意気がった部分を削ぎ落とし、かなり能天気な、世話のかかる男にして、噺の辻褄合わせが上手くいっていると感じさせるのは、やはり雀三郎の技量でしょう。下手したら、単なるアホ男になってしまう主人公を、寸止めの人のいい男に止めています。ホント、熟練の技です。「祝いのし」の夫婦にしてないのが、雀三郎の上手いところやと思います。かみさんも、「祝いのし」のそれじゃない。でも、危機感というアンテナはしっかりと持っている。だからこそ、二人で作り上げる夫婦って感じがして、終盤が生き生きしていきます。東京だと、江戸っ子だからなんて括りでいけそうなところが、そういった武器のない上方で生まれた傑作じゃないかな、雀三郎の口演ってのは。来月は、「立ち切れ」を出すそうです。えらく年頭からスパークしています。でも、それは、黄紺には、とっても嬉しいことなのです。



2016年 1月 13日(水)午後 11時 31分

 今日は、今年初めて繁昌亭に行く日。今夜は、「長寿の会」という歌之助のネタ下ろしの会がありました。毎回というわけではありませんが、ネタ出しをしている噺を目印に、行ってみようとしている会の一つです。ちょっと早めに着いたので、そうかなぁと思っていたのですが、客足が随分と鈍く、結局、最後まで伸びずじまい。歌之助の会も、えらく集客力をつけたとインプットされていたのですが、ちょっとトーンダウンが意外な印象。コアな演芸ファン氏は、毎回減ってきていると言われていました。どうしたのでしょうか。ところで、今日の番組は、次のようなものとなりました。呂好「みかん屋」、歌之助「噺家入門」、歌之助&呂好「楽屋風景」、歌之助「骨つり」、(中入り)、歌之助「帯久」。呂好が腕を上げています。元々口あたりのいいところへ、ポイントを押さえ、噺の山を作りました。「みかん」と叫ぶアホ声がいいですね。「上見て売れ」と言われ、天井を見てくるアホな男、そのキャラが一貫しました。その呂好、舞台上で、歌之助が生着替えをしながら話す「楽屋風景」で、冒頭にえらく緊張。ほぐれてくると、プログラムに書かれた歌之助の文章を、おもしろ可笑しく誉めだしました。まじに誉めていただけに、可笑しさが倍加しました。歌之助のネタ出しは「骨つり」。随分と若い頃から手がけており、骨を釣る幇間が、旦那と舟遊びをするところが、特に楽しさ満喫って感じで秀逸。ここが決まるものですから、落語らしい噺の展開が、聴いていて楽しさが増していきます。「噺家入門」は、かつて、歌之助が「あがき」と称する勉強会をしていたときの産物。客席と歌之助との共同作業と銘打ち、客席から得たアンケート結果(主人公を求めたりするアンケート)を見ながら、噺を創り上げていったもの。確か4回の区切りを設け、その度に、展開についてのアンケートを取り、一つの噺にしていきました。その作品が2つできたそうなのですが、今日、そのときに生まれた「噺家入門」を出したのは、また、同じ試みをしようというので、そのサンプルとして出したとか。従って、今日は、そのためのアンケートが取られましたが、黄紺は、次回の公演には行けないのです。本日のネタ下ろしは、なんと大ネタ「帯久」。聴き終わったあとの最初の印象は、発展途上やなぁというところでした。歌之助の口演を聴いていて、感じたことのないものでした。落語に対して実直な歌之助が、未完成を解りながら出してしまったという印象なのです。噛まない歌之助が噛みかけたり、ずーっと同じリズムで噺を流れるままに流したり、キャラ作りも不十分だったし、今まで見たことのない歌之助を観ているような気がしてしまいました。なので、発展途上、性急なネタ下ろしという印象を持ってしまったのだと思います。でも、ネタが巨人過ぎると言えば、そうなんであって、さしもの歌之助にも、もっと時間を与えねばならないということなのでしょう。



2016年 1月 12日(火)午後 11時 42分

 今日は、久しぶりに天満講談会に行く日。どうもおなじみのネタばかり並ぶ傾向が看られ、足が向いてなかった天満講談会。今日は、南海さんと南北さんのネタに惹かれ、そして、南舟くんのネタが気になったため、久しぶりに天満に向かいました。その番組は、次のようなものでした。南舟「大石の東下り」、南青「太閤記〜婿引出〜」、南海「高野長英」、南北「寛永三馬術」。開演前に、既にスタンバっていた南舟くんに確認したところ、やはり狙い通り、「東下り」はネタ下ろしでした。いよいよ討ち入りということで江戸入りする大石一行。公家の名を騙り下るのですが、途中で本物と出会うという苦難に遭遇するというもの。「赤穂義士伝」の中で、一二を競ういい話。公家と対峙する大石、両者に位が求められる難しいネタと思っています。ネタ下ろしの南舟くん、大ネタだけに、ちょっと前のめりになっていましたが、それはそれでいい緊張を生み、及第点じゃないかな。ちょっと抜かしたところがあったようでしたが。その南舟くんの緊張は、次の南青くんの落ち着きを見ると明らか。「婿引出」も、なかなかしっかりとしたネタ。主人公は池田輝政。かつて、徳川家康と敵味方に分かれて、戦をしたとき、輝政は、父親を失っている。そのわだかまりを解くために、家康は、自分の娘と輝政の結婚を実現するが、その嫁を近づけることすらしない輝政が、ある偶然から、そのわだかまりが氷解していくところが聴かせどころ。久しぶりに南青くんの口演で聴いたのですが、落ち着いた語り口に研きがかかり、ちょっとした軽いくすぐりもあしらわれ、見事な出来栄えに感服させられました。南海さんの「高野長英」は、オリジナルなんでしょうか。旭堂では聴いたことのない話です。有名な蘭学者が、その最期に突き進む姿を描いていきます。島津との交流、歯に衣を着せぬために、幕府から睨まれ投獄、そして火事を利用しての脱獄、がために、素性を隠しての生活、島津の保護を受ける直前に身柄の発覚、そしてその死と進んでいきましたが、高野長英の生涯を知らない黄紺にとって、正にハラハラドキドキものの展開。さすが、南海さん、本日一の秀逸でした。「寛永三馬術」は、時々、南左衛門師が出される程度で、それも、今日、南北さんが出された梅花の折り取りしか、旭堂では聴いたことがありません。南北さんもそうだろうとは思いつつ、南北さんで、このネタを聴いた記憶がなかったため、楽しみにしたというわけですが、聴いてみると、かなり長いネタになっていました。30分以上もかかるネタじゃないと、黄紺にはインプットされていましたが、今日の南北さんの口演は35分くらいかかったんじゃないかな。一つには、ゆったりとした南北さんの語り口調に原因があると思うのですが、間垣平九郎が出てくるまでのチャレンジャーの描写の長いこと! おまけに間垣平九郎が下りるときも長い。そんなわけで、35分もかかってしまったのでしょう。そもそも、この話って、将軍秀忠の無茶な気まぐれから生まれた話なものですから、あまりじっくりと聴いても仕方ないうえ、失敗する侍の姿が無残なため、そんなに時間をかけられると引いちゃうのです。「寛永三馬術」には、他にいろいろとネタがあるので、旭堂でも、新ネタを開発して欲しいものです。それこそ、東西交流で、誰かもらってくれないかなぁ。



2016年 1月 12日(火)午前 3時 10分

 今日は、京都ロームシアターに行く日。旧京都会館が新装なり、昨日オープンした新しいホールの様子見をしたく、ちょうど、今日、オープニング事業の一つとしてオペラ(演奏会形式)公演が行われたものですから、飛びついてしまったというわけです。ホールの外枠は残し、新しいホールがオープンしました。旧京都会館は、日本の代表的なモダン建築ですから、その記念の意味を込めて、こないな形にしたのかなというのは、黄紺の勝手な想像。ただ、そのためか、えらく窮屈な造りになってしまってます。横幅の舞台に、平戸間をたっぷりとり、シューボックス型にしたために、ロビーがえらく狭くなってしまいました。特に3階のロビーとトイレは大混雑。4階にはロビーがありませんから、当然、皆さん、3階に降りてきます。その3階は、それらの人数を収容なんてしきれるスペースがないときている。階段も狭いし、正直言って、4階は、火災でも起こったらと考えると気持ちが悪くなります。消防法を、よくぞ潜り抜けたものだと思いました。正面入口に入る2階へ上がる階段は、狭いものが1つと、快適な使用感とはかけ離れたもの。これだけ、突っ込みたくなるホールは、近来稀れじゃないでしょうか。オペラは、「フィデリオ」が上演されました。しかし、なんで「フィデリオ」なんでしょうか。オープニング事業としては、暗すぎます。政治犯フロレスタンは、実際には地下牢に繋がれているいるのですが、その生死も判らないなか、妻レオノーレは、身を隠すため、男装して、フロレスタンがいる刑務所で働いています。前半は、男装したレオノーレに恋したマルツェリーネを、レオノーレの妻にと、ロッコが親心を見せるため、レオノーレの困りが描かれます。そういった密な人間関係から、レオノーレは囚人と顔を合わせるきっかけを作ったり、ロッコの仕事を手伝う形で地下牢に入るきっかけを得ていきます。そういった中で、ヒール中のヒール、ピツァロがフロレスタンの殺害の準備に入り、ロッコとレオノーレは、殺害後の墓堀りに地下牢に入って行きます。いよいよというところで、レオノーレは正体を明きらかにして、体をはってフロレスタンを守りに入ります。でも、勝てる見込みのある踏み込みではなく、文字通りの捨て身の防御に過ぎません。黄紺は、正直言って、このオペラ、ここまでが退屈なのです。ここで、デウス・エクス・マキーネによる強制終了に入ります。ピツァロの悪事を調べる大臣の到着を知らせるラッパが鳴り、物語は、一挙に大団円に向かいます。このタイミングで、「レオノーレ序曲3番」が演奏されますが、この序曲の中でも、トランペットのソロが印象に残るように作曲されていますが、そのモチーフこそが、大臣の到着を知らせるラッパの奏でるメロディなのです。ここから、ピツァロの抑圧から解放された囚人たちの合唱が、音楽的に大きな役割を果たしていきます。黄紺は、ここにきて、ベートーベンらしい音楽に出逢えて、ほっとしていくのです。この劇場、かなり広い空間なため、声にパワーが備わるか、よく通る声でないと、空間全体を支配できるとは言えないところです。そういった意味では、今日の歌手陣には、なかなか手強い劇場だったと思います。その意味で、ピツァロ(小森輝彦、元アルテンブルク・ゲラ歌劇場所属)とロッコ(久保和範)は失格。ヒールがダメで、ヒールとの間の繋ぎ役がダメでは、かなりきつくなりました。レオノーレ(木下美穂子)は、かなり強い声の持ち主です、レオノーレには合っているのでしょうが、高音域がちょっと耳障りな音質、フロレスタン(小原啓楼)の絞り出すような発声は、聴いていて、決して心地よいものではありませんでした。冒頭のマルツェリーネ(石橋栄実)とヤキーノ(糸賀修平)の歌唱を聴いて、今日は大丈夫と思ったのですが、あとが続かなかったですね。この演奏会、「演奏会形式」と銘打ってあったのですが、舞台上後部に、昇降が交差するように組まれた舞台が、二段作られ、舞台上のオケの間にも、左右に一筋の通路が作られという具合だったので、そのスペースの範囲で芝居をしてくれるのかと期待したのですが、実際は衣装を着けた演奏会形式の範囲に留まるものでした。ただ、舞台への出や立ち位置のような点については、演出家(三浦基)の指示があったはずです。歌手陣の傍らを、囚人服を着た役者に歩かせる、また、オケピットを地下牢に見立て、そこで、囚人服を着た役者に作業をさせるなんてこともやってましたが、全体として見た場合、大きな役割を果たすというよりは、環境作り程度の控えめな演出でした。一番気になっていた台詞は、全編カット。替わりに、その場面は、全て男女一人ずつの役者が、舞台両サイドに陣取り、ときには役に入り込んだり、状況説明に入るなんて役割を果たしていました。オリジナル台本が用意され、最も演出家が腕をふるったところとなっていました。一の秀逸は、指揮の下野竜也。ときには、大仰なんて意見も出てきそうなことも含め、音楽をドラマチックに作ることを心がけているなと思える姿勢は買いたいと思います。その指示に、よく応えていたのが京都市交響楽団だったと思います。



2016年 1月 10日(日)午後 6時 45分

 今日と明日は、大津と京都で、コンサートに行く日。まず、今日は、びわ湖ホール(小)であった「清水徹太郎リサイタル」に行ってまいりました。清水徹太郎は、びわ湖ホールが持っている声楽アンサンブルのメンバーだった方というのが、一番いい言い方でしょうか。このアンサンブルに所属している方、所属していた方を、全て知っているわけではありませんが、黄紺が知っている中では、頭抜けたスターだと思っています。軽めのきれいな声の持ち主で、出演されたオペラ公演などを聴くにつれ、常に目立った存在だったために、記憶に残る歌手だったのが、それを見透かしたかのように、びわ湖ホールは、彼のリサイタルを企画したものですから、黄紺は飛びついてしまったのです。そのプログラムは、次のようなものでした。なお、ピアノ伴奏は長谷智子でした。R.シューマン:『ミルテの花』作品25より、献呈(君に捧ぐ)、はすの花、君は花のごとく。『詩人の恋』作品48。R.シュトラウス:『8つの歌』作品10より、万霊節、夜、なにも。『5つの歌』作品32より、ぼくは愛をいだいている。『はすの花びらよりの6つの歌』作品19より、お前の黒髪をぼくの頭上に。『6つの歌』作品17より、セレナーデ。『4つの歌』作品27より、心を鎮めるのだ安らかに、ツェツィーリエ、ひそやかな誘い、あした。『6つの歌』作品37より、春日さん。『8つの歌』作品10より、献呈。前半がシューマン、後半がリヒャルト・シュトラウスというプログラム。黄紺は、シューマンに軍配です。歌唱もピアノ伴奏も。アインザッツを聴いた途端、まずピアノに注目が行ってしまいました。これはイケると、瞬間、思ってしまいました。音に煌めきを感じ、優しさのようなものを感じてしまいました。清水徹太郎の声は、お約束通り、張りがあり、とってもきれい。何よりも若々しいのが、魅力。ただ、5度くらい跳んで下がるときに、ちょっと不安定な印象を持ったのと、テノールの苦手な低音部は、やはりきついのかなっていう印象を持ってしまいました。とにかく健康的な声質に魅力があるのはいいのですが、それは、逆に言うと、そうじゃない内容表現が目立たなかったということになっちゃいます。また、リヒャルト・シュトラウスのような後期ロマン派の作曲家の作る音楽には、なかなか近づきにくいということになろうかと思います。陶酔とかなんとかという言葉で表現される音楽になってくると、満足感を、なかなか味わわせてもらえなかったってことも事実でした。客席は、ほぼ満席。お知り合いの方たちも見えてたようですが、とても、それだけでは無理なほどの入りに、正直びっくりしました。びわ湖の声楽アンサンブルの生んだ間違いないヒーローですね。喜ばしい限りです。



2016年 1月 9日(土)午後 7時 00分

 今日は、「一心寺門前浪曲寄席」に行く日。旅行の関係で、昨年の後半は、あまり行けなかったため、ちょっと間が空きました。1月席の特別版はパスして、定席の方から復帰ですが、毎年、1月の門前寄席は、3日間の番組が日替わりという特徴があります。黄紺は、敢えて今日を選んだのではなく、この3日間では、今日しか行けないという事情があるのです。その番組は、次のようなものでした。浪花亭友歌(沢村さくら)「神田松」、真山一郎(真山幸美)「日本の母」、天中軒雲月(沢村さくら)「徳川家康、人質から成長まで」、松浦四郎若(藤初雪)「松阪城の月」。今日は、おなじみのネタが並び過ぎました。浪曲は、全体的にネタ数が少ないものですから、よくこうしたことが起こります。「神田松」は、子どものできない夫婦が、両親を亡くした松五郎を引き取り、そういった中でも親子の愛情が芽生えていくという、浪曲らしいオーソドックスな演目。ただ、神田松五郎という人物が何者なのかが判らない黄紺にとっては、なかなかなじみにくいネタです。調べてみると、神田に生きた男伊達のようなのですが、詳しくは判らずじまい。ひょっとしたら、長い物語のつまみ食いかもと思ったりしているのですが。こうした想像を巡らすのも、浪曲を聴いたあとによく起こります。「日本の母」も、浪曲っぽいネタです。お涙頂戴的と言えばいいでしょうか。元になる話、いや事実があるのかもしれないのですが、交通事故で子どもを失った母親が、息子を轢いた男を赦し、また男も、息子の替わりになることを求め、人生の終わりには、その女性は、自らの人生に満足しているというもの。聖書の物語のような筋立てです。それを、真山一郎のこってりとした歌謡浪曲でやられるものですから、ある意味では、上方らしい浪曲の世界に浸ったと言えるのかもしれないのですが、歌謡浪曲の過剰な表現に、ときとして付いて行けない黄紺には、いささかきつい時間となりました。雲月師のネタは、講談で、折りにつけ触れられる家康が、幼少期に2度人質になった出来事を描いたもの。これを、浪曲で、しかも雲月師で聴くのは、初めてだと思います。人質問題にだけ焦点を当てた、浪曲らしいおいしいとこ取りのネタ。今日は、敢えて押し殺したような節を多用して、雲月師は、軍記ものに挑んでおられ、それが緊張感を醸し出し、なかなかの好演。それと対照的な高座は四郎若師。何度目かになります、この「名月松阪城」とも言われるネタ。講談でも、複数の講釈師さんで聴いていますから、幕内でも人気があるのでしょう。我が儘な殿さん蒲生氏郷に、融通の効かない気骨の武士西村某の間の、ちょっと歪んだ、でも、とっても愛情溢れる主従物語です。四郎若師は、タイミングのいいくすぐりを入れながら、主役二人に慈愛の目を向け、最後には笑い飛ばせる朗らかさを持って演じてくれました。いいお開きです。帰途の足どりが軽くなりました。



2016年 1月 8日(金)午後 9時 49分

 まず、一昨日書いたことの訂正から書くことにします。たまの「夢八」についてなのですが、昨日、たまたま6代目の「夢八」の音源に接することができたのですが、それを聴いて、黄紺の浅はかさを思い知りました。たまの「夢八」は、この笑福亭の伝承に則った、要するに噺の構造を受け継ぎつつ、たまの感性で改変を行ったものだっ ということに気がつきました。たまがカットした部分などを聴いていると、以前にも聴いたことのある音源にも拘わらず、そういった伝承の上に立っていることに気づかず、全く恥ずかしい気持ちでいっぱいです。蒲鉾屋の家事の挿話で、気がつかなかったのではダメですね。ということは、最近流布している「夢八」は、この噺を得意にしていた五郎兵衛テイストのものなんでしょうね。
 昨日は、大変なアクシデントに見舞われた日。カフェモンタージュで、上森祥平のソロで、ブラームスのソナタを聴く予定にしていたところ、出がけに家の鍵が壊れてしまい、外出ができなくなってしまうというありえないことが起こり、呆気なく断念せざるをえませんでした。12月にドイツに行くときに次いで、またしても、カフェモンタージュにご迷惑をかけてしまいました。
 そして、 今日は、文楽劇場で「公演記録鑑賞会」のあった日。今日は歌舞伎で、「菅原伝授手習鑑〜寺子屋の段〜」がありました。歌舞伎も観たいのですが、これ以上、手を拡げると、お金がもたないので、この鑑賞会が、黄紺的にはとっても楽しみなものです。「菅原伝授手習鑑」は、文楽で、何度も接している出し物。ましてや「寺子屋」は、単独で出ることもあり、遭遇度の高いもの。毎度、これを観るたびに思うのは同じこと。この感性にはついていけないってこと。終演後、近くの客席から、「何度観ても泣いてしまうね」という声が上がってましたが、黄紺的には、呆気にとられて涙とは無縁の世界となります。文楽は、一直線に松王丸の忠誠心、ちょっとしたコンプレックスからくる悲劇へと進んで行きますが、歌舞伎は捻りが入りますね。序盤で、手習いをする子どもたちの中に、「涎くり」という役柄を放り込み、チャリ場を作っているところです。黄紺は、この一直線じゃない感性に惹かれてしまいました。いいコントラストにもなり、絶妙の脚色だと思いました。この記録フィルムは、昭和56年のもの。ですから、昭和の、戦後の名代の役者がきら星の如くに出ていました。松王丸が先々代の勘三郎、その妻千代が、現在の菊五郎のお父ちゃんになる梅幸、寺子屋の経営者武部源蔵は羽左衛門といった具合だったのですが、小太郎役が、幼い中村獅童が演じていたのに、目が移ってしまいました。そして、夜は、昨年の3月まで働いていた職場の歓送迎会に出席。なんか、ちょっと若返ったみたいな錯覚を味わうことができました。



2016年 1月 6日(水)午後 11時 3分

 今日は高津落語研究会のあった日。わりかし続けて行くように、最近なってきました。今年に入って、まだ2回目の落語会なのに、2回とも、南天がらみの会となってしまいました。ま、偶然ですが、南天がらみの落語会がおもしろいことは間違いありません。客席には、3日の会で見かけた顔が、今日も高津神社に詰めかけました。その番組は、次のようなものでした。南天「子ほめ」、雀五郎「替り目」、たま「夢八」、ひろば「崇徳院」、全員「大喜利」。南天は、初舞台のネタを、「師匠から教えてもらった通りやります」と言ってやりました。伊勢屋の番頭の入るもので、確かに言った通りの運びでの口演でしたが、たまに、こうした口演を聴くのも新鮮でいいですね。今日の目玉と考えていたのが、次の雀五郎の「替り目」。もちろん雀五郎で聴いてなかったどころか、酒のネタすら聴いたことがなかったものですからね。やっぱり酒の噺は慣れてないのかな、酔い方がこじんまりとしてました。別に大げさに、派手に酔えという意味ではなくてです。雀五郎のことですから、頃加減の酔い方を見つけてくれるでしょう。出番が二番手だったもので、途中で切り上げるのかなと思っていると、きっちり最後までやってくれました。ちょっと久しぶりに、「替り目」の下げを聴いたぞの印象です。たまの「夢八」は、噺の構造は変えないで、かなり手入れがなされていました。既に聴いたことはあったのですが、かなり前だったように思えるため、細部については新鮮に聴くことができました。八兵衛が夢見するわけを、序盤で説明する噺が創られています。元の噺ではない物語を創ったのが、大きなポイントです。番をするようになってから、あっさりと首吊り死体と対面するというのが、次なる特徴です。ある意味では、この部分は、演者にとってはおいしいところで、ちょっとした怪談調になるところですが、たまは、そういったところは、あっさりと切り捨て、全編滑稽噺で通そうとのコンセプトが見えてきました。よく、この噺は、どこからが夢なのか考えさせられるのですが、そないな詮索なんてのは考えてみようとは思えなかったのが、たまの口演でした。元の噺を知らないで聴くと、何も考えないで聴いていることができると思いますから、成功品なのだと思います。ひろばの「崇徳院」は、提法寺で聴いています。熊五郎と若旦那の場面がいいですね。熊五郎のご陽気で能天気なキャラが、ここで、きれいに決まりました。若旦那のか弱さが、うまく出ていて、いいコントラストを出せたからだと思います。提法寺のときに比べると、えらく腕を上げたものと感服しながら聴いていると、あとがいけませんでした。上下を間違ったり、噛んだりが出てしまい、緊張が途切れる場面が出てしまいました。最後は、下げを言わずに、一対の夫婦が出来上がり、めでたしめでたしで終わる型でした。ま、よくある型ですが、黄紺的には、通常の下げが好みです。だって、あまりにもきれいに決まる下げですもの。大喜利は、トップに上がった南天の司会。謎かけの決まり方がスーパーなもので、特に雀五郎に、演者さんたちも感心させられていました。



2016年 1月 5日(火)午後 11時 33分

 今日は、今年初めてカフェモンタージュに行った日。今日は、ブラームスのピアノ三重奏曲全曲の演奏会があったのです。通常の1回1時間の公演では、全曲演奏は不可能ですから、珍しく平日にも拘わらず、1回目を6時に始める2回公演となりました。当初は、1番だけを演奏する1回公演だったのですが、いい曲、いい演奏者ということで、呆気なく予約が満杯となり、追加公演の要請がされ、その結果、変則的な公演が実現したというわけです。演奏は、ピアノが奈良田朋子、バイオリンが谷本華子、チェロが金子倫太郎の3人でした。ブラームスの3曲のピアノ三重奏は、いずれもが名曲と言えますが、中でも1番が、最も認知度が高い名曲でしょう。今日、その1番について、興味ある話が、オーナー氏と金子さんより紹介がありました。実は、1番は改作されており、その改作の時期は3番の作曲のあとだとか。従って、今日演奏された順(2→3→1)が、3曲の完成順となるわけです。この演出は意図されたものではなく、追加公演の事情がそうさせたわけで、考えてみると、結果的におもしろい副産物を産んだということになりました。特に1番の冒頭、チェロのソロが長めに入りますが、原曲では、すぐにバイオリンがかぶさっていき、せっかくのいいところが台無しだとか。この3曲、総じて弦楽器では、チェロがバイオリンよりは目立つ構造になっています。金子さんが、いい曲だと言われる所以が、その辺にあるかもしれません。今日、演奏された3曲で、黄紺が、その演奏で気に入った順を書くと、これは、迷うことなく、1番→3番→2番となります。明らかに1番の出来が抜けていると思いました。その原因は、ひとえに金子さんのチェロの厚み、音色が作り出したものと看ました。1番の演奏が始まる直前、谷本さんが、 松脂を塗りに控えに戻られたときに閃いたのは、金子さんのチェロ、この松脂のせいで違ってしまったのじゃないかと思ってしまったほどです。ずっと安定していたのは谷本さんのバイオリン。特に2番では、谷本さんの出すバイオリンの高音が、どれだけ安らぎを与えたことでしょうか。奈良田さんのピアノはムラが気になりました。軽く弾いて欲しいところで、急に重く弾いてみたり、そうかと思うと、流して欲しいところで、とっても軽やかな音を出してくれ、喜んでいいのやら、困っていいのやら。そういったことを考えた場合、3人が最もフィットしたのは、間違いなく1番だったと思えました。多くの方が、通しで聴かれました。2つのコンサートの間、黄紺は、30分ほど、近辺を軽くウォーキング。カフェモンタージュの界隈は、こじゃれた店が多いですね。いい発見にもなりました。



2016年 1月 5日(火)午前 5時 48分

 今日は、京都で映画三昧の一日。元旦に見逃した映画も観ようということで、日に2本の映画を観る日に当てました。まず、1つ目は、MOVIX京都で「海難1890」を観てきました。日本とトルコ合作で、かなり政治主導で制作された映画と聞いています。トルコ語表題は「エルトゥールル1890」ですので判る通り、有名な串本沖でのエルトゥールル号の遭難を再現した映画です。先日、ドイツからの帰途、イスタンブルに立ち寄ったところ、タキシム。アタテュルク文化センター前に、この映画の巨大な看板があり、びっくりしたとともに、そこまでするのなら、観てやろうじゃないかの気分が生まれてしまったのです。上映が始まると、いきなりエルドーアンの挨拶。支援や協賛に回っている大企業の名を見るにつけ、この映画が、両国の国家プロジェクトという顔を持っているのが判ります。映画としては、脚本がいいのでしょうね、全編、緊張を持って、最後まで引っ張っていく力を感じました。前半が、エルトゥールル号の遭難に至るまでの過程、及び、事故後、救出者全員が帰還するまで。後半が、1985年のテヘラン邦人救出劇となっています。日本とトルコ、それぞれの救出が見合うように作られているわけです。そして、2つのシーンに主役2人を、日本・トルコ双方ともに同じ役者さんが演じるという映画らしい構成となっています。映画の展開として優れていたのは、前半、遭難に至るまでの間、換言すると、日本とトルコが出逢うまでの間、同じリズムで、同じような彩りで、問題の時間、場所に進むように作られていたどころですね。両者が出逢う場所、事件は、観る者全てが解っている映画で、そこに至るまでの過程を見せねばならない制作側として、何かの工夫がなければならない、でないと、結果は判っているわけですからね、その工夫の巧みさは、黄紺は、素直に讃えたいと思いました。逆に、事後の工夫の足りなさが、この映画の唯一の退屈なところです。事実に基づく映画というのを売りにしている以上、余計な脚色を控えたということでしょうか。そして、話が、一挙にイラン・イラク戦下のテヘランに跳びます。客席を埋め尽くした方々は、あの時期の情勢を、また、地理的な位置関係など、どの程度ご存知で観られているのか、黄紺的には興味津々でした。オザル大統領似の役者を起用し、グルルという言葉を使い、在テヘランの日本人救出劇が行われます。これを観た日本人は、この緊急の苦難に対して、自衛隊機派遣に国会の承認が要るなんて、なんとまどろっこしい話なんだと思うのかな、日航による航空機派遣見送りに理解を示した人も、そう思うかもしれないですね、あのシーンは。その辺を横目で睨みながら、黄紺は、この映画を、ソカク・インサンラルが観たら、トルコ人としての誇りを感じ、テヘラン空港に集ったトルコ人に共感するのだろうなと思ってしまいました。黄紺は、トルコ人は、誇り高い人たちと観ています。ほころひを知りつつも、そういった誇りを持っているのがトルコ人だと認識しています。黄紺がスリに遭ったとき、「トルコ語じゃない知らない言葉を喋ってた奴らにやられたみたい」と言うと、「そうだろう、そんなことをするのはトルコ人じゃない」と胸をはるレベルの話ですが、そういった誇りを恥ずかしがらずに言える人たちだと思っています。これは揶揄ではありません。黄紺はいいところだと考えて、肯定的に捉えています。そういった誇りを口にできる(案の定、オザル似の首相はグルルを口にしました)、そういった国民だと思っている黄紺からすると、芝居がかりながら、テヘラン空港のシーンに共感をしてしまいました。後半に引っ張られてしまったのは、ここですね。あの時期の日本の外交政策、アメリカ大使館監禁事件などを考えたり、サダムを悪者にしておけば間違いないなんてことに突っ込むのは簡単で、でも、そないなことに突っ込むと見えなくなるものを観ようとしてました。そう考えると、前半のエルトゥールル号の日本表敬訪問も、帝国主義時代の日本とトルコの思惑なんてコンテキストで観ると、特にロシアを視野に入れた両国の思惑なんてコンテキストで観てみると、何か新たなことが見えてくるでしょうね、でも、そないな見方をすると、一方で見えなくなるものもあるように感じてしまいます。この両者のバランスを取りつつ、且つ、今、両国政府が、政策的に、この映画を作るのに大きな支援をした意味を考えていかなければならないのでしょう。映画が、よくできてるだけに、外してはいけないことも頭に入れつつ、正確に評価することの大事さを再認識させられました。トルコ関係者は、一度は観ておかれたら、如何かと、黄紺は思いますね。
 今日2つ目の映画は、グルジア映画と言っていいのか、言い方が判らないのですが、全編グルジア語で通された映画「独裁者と小さな孫」を観てまいりました。「ギャベ」「カンダハル」を世に出したイラン人監督モフセン・マフマルバフの作品です。彼は、自由な制作のできないイランを離れ、ヨーロッパで亡命しながら、映画制作を続けているようです。この映画も、ひょっとしたら、全編ではないかもしれないのですが、ほぼ全編グルジアでロケが行われ、グルジア人の役者を使い制作されたものです。ストーリーは、とっても解りやすいもの。名を明かさないある国の大統領が失脚し、ひょんなことから、家族は外国に退避させるのですが、孫が残ることになり、その孫とともに逃避行を続け、最後は、外国へ逃れようかというところで見つかり、映画の宣伝では「衝撃の結末」を迎えることになるというもので、一種のロード・ムービーと言うことができます。逃避行というロード・ムービーですから、そこで出逢う人たち、そして彼らとのエピソードが、この映画の眼目となります。貧しい人たちの生活を知り、一方で、逃避行のためには、その人たちからすら、身を隠す服を盗まねばなりません。反政府軍といえども、少し前までは、自らに忠誠を誓った兵士たち、その兵士たちの規律の乱れの凄まじさを目の当たりにします。若かりし頃、親しくした娼婦を尋ねます。心を通わせた思い出があったことを伺わせます。今、困ったときに支援を求めますが、女は、大統領にあったあんたに、姉を救ってくれと、何度嘆願書を書いたか判らないと返され、「知らなかった」としか答えられず、身の我が儘を思い知っていきます。大統領として、権力の栄華を極めた己にもできなかったことを思い知る、何でもできたはずの独裁者である自分にできなかったことがあったことを知った瞬間と言えばいいでしょうか。いよいよ終盤に近づいてきたと実感させられるのが、解放された政治犯が故郷に帰る馬車に合流するエピソードのところ。政治犯ですから、当然、逃避行を続ける大統領に対する悪口、また、拷問が語られます。大統領は、拷問で足を傷めた男を背負って歩きながら、その話を聴きます。この構図って、芝居がかってますが、マフマルバフ監督、面目躍如のシーンです。大統領は、ここでだったかな、持っていた護身用の拳銃を捨てるのは。また、大統領は、拷問で傷めた足を洗ってやり、男が拷問に耐えられた支えにした女に会いに行くには、あまりにみすぼらしいと言うと、自らの服を与えます。独裁者としての恥ずべき行為に気づいていくシーンの一つです。また、大統領の後継者が、なぜ孫なのかが語られるのも、この場面ですね。この挿話も、この場面に深みを与えています。そして、あと少しという油断からと言えばいいでしょうか、いや、むしろ捕まるためのシーンが用意されたと言えばいいかもしれません。そして、「世界が心を震わせた衝撃の結末」となるわけですが、黄紺は、心を震わせましたが、衝撃ではありませんでした。「カンダハル」のラストでも、ハヤトくんは生き続けました。まさに、ハヤトが亡くなれば生きていけません。そないな作りをする監督ではありませんから、何か希望に繋がることを用意しているはずだと思い観ていると、、、黄紺にとっては希望でした。ちょっと跳んだかなと、一瞬は思ったのですが、含蓄のある、豊かな発想に、この監督の計り知れない能力に圧倒されました。現在の国際情勢に鑑み、また、故国イランに思いをはせながら、この映画を作ったと思われます。そのためのラストシーン、最後の台詞を言わせるための映画だったと言えば、究極の映画評になるかもしれませんが、それを言わせる助走が、そこまで語られていたことであり、その助走があり、初めて大統領に似合う台詞になったのかもしれません。なかなか見応えのある素晴らしい映画です。間違いなく、どなたにも推奨したい映画だったと言えます。



2016年 1月 3日(日)午後 11時 8分

 今年の本格的な落語会通い、スタートです。今日は、11月の日本トランジットのときに予約してあった南天・紅雀の百年長屋での落語会に行ってまいりました。百年長屋というところは、初めて行きましたが、森ノ宮と玉造の間にある昔ながらの長屋の内装をいじり、小さなスペースを作り、小規模の落語会なんかができるようになっています。黄紺の生家も、百年長屋のような土間のある立て付けになっていたので、ちょっと懐かしい気分に浸れるスペースでした。その番組は、次のようなものでした。紅雀「あくびの稽古」、南天「らくだ」、(中入り)、南天・紅雀「トーク」。昨夜、1時間半ほどしか睡眠がとれない中で、落語会に行くという、かなり無謀な日。「あくびの稽古」の終盤、「らくだ」の前半が、その影響を受けてしまいました。そういった中で書ける範囲内のことをメモっておきます。「あくびの稽古」の前半は、様々な稽古体験を言うところ。南天は、ここでぶっ飛んだ稽古を入れ、人気を得ていますが、紅雀もオリジナルな稽古を入れますが、端唄、浄瑠璃、柔道といったところだったために、一つ一つのエピソードは、それなりにおもしろくなってはいたのですが、南天のものを聴いているだけに、ちょっとインパクトに欠けてしまいました。南天の「らくだ」は2度目となるのですが、今日の口演よりは、前回、動楽亭で聴いたものに軍配を上げたいと思いました。今日の口演は、紙屑屋を酔わせて、脳天の熊五郎をどやしつけさせねばの意識が過剰で、ナチュラルさに問題ありと感じてしまいました。会場の広さや雰囲気、南天自身の気分、体調といったところから生まれる差異の範囲内なのでしょうが、こういった印象を持ってしまうということから、落語という芸は、ホント、一期一会の芸なんだということを再認識した次第です。ということで、ライブは止められないのです。中入り明けは、「べにてん」方式で、アンケートを基に、二人がトークをするというもの。かなりの間、「べにてん」から足が遠のいたのは、ここの長さ。今日は、ちょっと、それに近かったため、途中退出も考えました。でも、会場の狭さを考えると、あまりにも目立つために断念。どうも、紅雀のテンションが合わないみたいです。短ければ心地良いのですがね。



2016年 1月 2日(土)午後 9時 25分

 昨日の元旦は、お酒を呑み、あえなく昼間から沈没。呆気なく、一日が過ぎてしまいました。おかげで、予定していた映画を観ることができませんでした。今日から、再スタート。今日は、正月に日本にいれば、一度は覗いてみたかった「トリイ初夢寄席」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。酒井くにお・とおる「漫才」、旭堂南舟「太閤の風流」、露の紫「延陽伯」、豊来家玉之助「太神楽」、旭堂南青「荒大名の茶の湯」、(中入り)、KENGO×MINAKO「歌」、春野恵子(一風亭初月)「高田馬場」、ヤング「漫才」、内田實・池上涼子「津軽三味線&民謡」、インディ「歌」、(中入り)、MIYKY「歌」、キタノ大地「マジック」、笑福亭由瓶「鉄砲勇助」、旭堂南海「小政の生い立ち」。なかなか正月に日本にいなかったため、行けなかった催しの一つが、この初夢寄席。雑多な芸人さんが出演するということで、自分的には興味津々だった寄席に、ようやく行くことができました。客席には、落語会や講談会、浪曲の席で見かける顔が、存外に多く、それにもびっくりしました。開演が午後1時、終演がほぼ午後6時という長丁場。でも、飽きることなく最後まで楽しめたのは、変化に富むラインナップのおかげ。歌で出られる方も多いのも特徴だったのですが、そして、その歌もインディを除いて、とってもまともなもの。千日前界隈でステージを重ねられている歌手の方たちだったようです。津軽三味線を常時ライブで演奏している酒場なのかレストランなのかは忘れましたが、そういったスポットも、千日前にはあるのですね。インディは、チラシの写真を見て、何者か、ずっと気になっていた方、ようやく正体を掴めました。白塗りのおっさん歌手。コミックな歌を歌うかと思うと、ハートフルなメッセージ・ソングを歌うという方でした。いずれも、歌手の皆さん、喋りがめっちゃ上手。さすが、大阪で生きている方々と、つくづく感心致しました。漫才さんは、くにお・とおるが初っぱなに出たのには、びっくり。「とおるちゃん」を、さすがに初っぱなに聴くと、聴き手のヴォルテージは上がりますね。あれだけ聴いただけで、元を取ったぞの気分になれましたからね。こういった考え方自体が大阪っぽいかもしれませんが。噺家、講釈師、浪曲師の皆さんは、各自の定番のネタを披露してくれました。こういった寄席に、講釈師さんが3人とは、嬉しい限りでした。



2015年 12月 31日(木)午後 8時 56分

 今日は大晦日。大晦日に日本にいるって、何年ぶりになるのでしょうか。自分でも、簡単には思いつかない年数だと思います。で、今日も映画を観る日に当てました。今日は、心斎橋シネマートで、韓国映画「技術者たち」を観てまいりました。「友へ・チング2」のキム・ウビン出演の泥棒ものの映画です。泥棒と言っても、IT技術を操る金庫破りもの。「技術者たち」の「技術」というのは、そういった技術を指しています。ま、金庫破りものなんて、二番煎じどころではない映画の素材。ですから、どこで差別化していくということなんでしょうが、この映画では、掴みのための金庫破りも、狙いの仁川港税関に保管されている金庫破りも、いずれも手法は同じで、他の場所に注意をそらして、時間稼ぎをしながら、ダイヤルが合うところを探すでは、ちょっと陳腐。その部分でのおもしろさに欠けるとなると、要は筋立て。主人公3人の技術を使おうとするギャングとのやりとりに、この映画は活路を見いだしていたと思います。警察との三すくみの闘いが、うまく展開したのでしょうね。観ていて、飽きない展開となっていました。その上、倒叙的手法を使うことで、観る者を惑わす効果も上がっていたと思います。こういった手法を使われた場合、種明かしが痛快です。そういった痛快さを感じさせてもらえたことは間違いありません。派手なカーアクションも入り〜の、最後には、アブダビ・ロケのおまけまで着きました。この2日間、毛色は全く違いますが、いずれも満足度の高いもの。いい1年の終わりを迎えることができました。



2015年 12月 30日(水)午後 10時 18分

 今日は、生寿がたまを迎えて開催する落語会があったのですが、ドイツから帰って来てから、生寿のツイッターを見ると、予約予定者数を上回ったと書いてあり、呆気なく断念。替わりに映画を観に行くことにしました。スペイン映画「スリーピング・ボイス」を、七芸で観てまいりました。スペイン内戦後の弾圧、粛清を扱ったもの。そもそもスペイン内戦自体が、強烈に重い出来事であり、且つ、その傷痕は、未だ続いていると言われるもの。内戦が起こり、勝者がはっきりとしており、また、その勝ち組というのがファシストなわけですから、内戦後の粛清は苛烈を極めます。主人公は、夫が共和国派の闘士である姉(内戦後もゲリラ活動を続けている)を持つ女性。女は、姉が収監されたということで、コルドバからマドリードへ出てきたところから、映画は始まります。時系列的には、その姉が、妹に、監獄内部とゲリラ活動を続ける共和国派との連絡役を頼むことで、話が展開し、その姉が処刑されるまでの出来事が、その妹の動きに連動していくというものでした。その中に組み込まれていくプロットを拾っておきますと、収監されている姉は妊娠しており、処刑に至る過程で出産はどうなるのかという点、もし出産したあとに処刑となれば、産まれた子どもはどうなるのかという点が焦点になります。形だけの裁判は行われますが、一方的すぎるもののため、姉が解放されるかどうかの関心は湧いてこない作りになってました。この辺が、スペイン内戦のどうしようもない重い空気を感じさせられるわけで、映画としては、良い作りになっていると思わせられました。連絡役をしている主人公は、共和国派のお友達と恋仲になります。また、姉の夫も、妻に会いたく、危険を冒しマドリード市内に潜入し、結局は捕縛されてしまい、最終的には死につながったようです。また、主人公の恋する男も捕縛をされ拷問を受けます。そのようなシーンが続くと、姉の解放などというものは考えられないという空気が醸し出されていくわけです。ファシストのみを悪とばかり描いてないも、この映画の特徴です。主人公がお手伝いとして働く家の女主人は、兄弟を共和国派に殺されています。最後、子どもを預かる看守は、夫と子どもを殺されています。主人公は、それを聞いたとき、言います。「戦争を始めるべきじゃなかったのよ」と。看守は同意したかのように見えました。でなかったら、子どもを預からなかったでしょう。最後に、この看守は、子どもへの授乳を認めます。制止する同僚に、「子どもは関係ないのだから」と言います。スペイン内戦は、世界史の曲がり角だったことは事実でしょう。ソ連が与するものには冷淡で、結果的にファシストを頭に乗らせます。そないなことは予測不能だったとは、口が避けても言えないはずです。そういった中で、体制をかけたスペイン内戦は、世界の動向を背負ってたはずです。その中で、なんと、個人の命、恋だの、夫婦だのは、ちっぽけに扱われてしまうのでしょうか。この映画、女性の映画です。共産党員の女もいれば、男友だちと躍りに行っただけで処刑される女、女看守、シスター、、、。男でないと不自然な役柄を除くと、あとは女性の役柄ばかりというのが、目を惹く映画です。しかも、女性が女性たる所以となる出産が、この映画の山に設定されています。看守の見せる温もりは、母親としての共感でしょうし、処刑される直前に、子どもに幼児洗礼を受けさせることも、子どもの命を守る手だてだったのでしょう、母親としての。この映画、蛇足とも言えるコーダが用意されています。これも、映画を観る者に救いとなりました。通常なら、クサイと拒絶反応を示す黄紺ですが、スペイン内戦絡みでは、このくらいの蛇足がないと、見るに耐えかねますからね。スペイン内戦は1930年代の出来事、しかし、こういった弾圧、追求が続き、隣近所の者同士が敵味方に分かれ、殺しあい、しかも、内戦後は、隣近所で住み続ける地獄が続いたわけですから、未だに、その傷は、決して癒えたわけではないと言われます。だから、勇気をふるって観に行ったわけですが、やっぱきついものがありました。でも、観て欲しい映画ですね。



2015年 12月 29日(火)午後 11時 59分

 3日連続の動楽亭通い最終日です。今日は、「第5回ソメかハチか1?」のあった日。三味線の和女さんと小染の実子にして、あやめの甥にあたる染八の勉強会です。いつぞや、客が4人だったということを聞き、ちょっと応援の気持ちを込めて行ってみようと思っていたのが、今日となりました。前回はたま、今日はあやめと、知己のある大物ゲストを迎えて集客に努めているようですが(できちゃったのメンバーを順に喚んでいるようです)、要は本人の高座が問題なわけですから、その辺のお手並み拝見というところです。その番組は、次のようになりました。染八「前説」、智丸「色事根問」、染八「牛ほめ」、あやめ「ルンルン大奥絵巻」、(中入り)、染八・智丸・はやしや香穂「お囃子紹介」、染八「狼講釈」。あやめが、旧ワッハ上方の舞台に出ているということで、楽屋入りが遅れるということで、前説を入れたりして、序盤はかなり引っ張り気味。染八は、まだ、その辺は、慣れていないようで、我田引水的な、そして自信なさげに喋るものだから、かなり退屈。でも、染八クラスでは、絶対に喚べそうもないあやめが来るということで、退屈にお付き合い。そのときの喋りは、以前から知っている染八のそれだったのですが、いざネタに入ると、一転、この人、めっちゃ良くなりましたね。もう「牛ほめ」からして、とってもしっかりとした口調、いいリズムになっていたのには、ホント、驚きました。牛をほめにかかったところで、失敗談を持ち出され、ならば、口に秋葉さんのお札をで落としたのも新鮮でした。更に、びっくりしたのは「狼講釈」。これ、やっぱ、狼を前にしての講釈、それも、ただの講釈じゃありませんから、なかなか手を着けにくい代物。確かに演じ手の少ないなか、師匠の小染が持ちネタにしているとは言え、よくぞチャレンジする気持ちになったなと、まず、その意欲を買いたいと思います。難しい講釈が、ころころと変わっていくところも、客に、変わったぞと解らせる工夫も、バッチリ。もちろん、師匠の的確な指示があったからでしょうが、染八はやり遂げていました。あやめまで喚んで、家賃が高いぞと思っていましたが、とんでもございません。これで、完全に染八は、楽しみな若手噺家グループに仲間入りしたと言えるんじゃないかな。前座役は智丸は、初めての遭遇。本人も言ってましたが、とても実年齢の27歳とは見えない風貌。確かにメガネを着けると三谷幸紀似。落研出身なんかなぁ、風貌も助けるのか、落ち着いた口演。逆に彩りを出すのに苦心しなければならない噺家になるかもしれませんね。あやめは、染八と共演できるからということでのネタ選び。殿さんの喘ぎ声を、染八にやらせようということでした。怖い叔母さん。なお、「お囃子紹介」は、出演予定だったグリフォン國松が、声が出ないということで、出演取り止めになったための措置でした。



2015年 12月 28日(月)午後 11時 29分

 昨夜、思いの外、睡眠がとれ、びっくり。トルコから始まった2ヶ月のマジェラが終わり、緊張が解けたのかもしれません。明け方、一旦起き上がっていたのですが、そのあとの爆睡ぶりが、黄紺的にはなかったこと、12時間ほど眠ったかもしれません。そして、今日のお出かけも動楽亭。いい落語会が4つも重なった日ですが、黄紺は、最若手の華紋の会を選びました。その番組は、次のような気がするものでした。恩狸「応援屋(仮題)」、華紋「二人癖」、菊丸「掛取り」、(中入り)、華紋「粗忽長屋」。時計の見違えで、動楽亭に着くと、もう始まっていました。わざわざ天王寺で、時間待ちしていたほどなのに、この失態。ありえないことを起こしてしまいました。恩狸が、ネタに配るところでしたが、この恩狸の落語を聴くのは初めて。独特の風貌、文福の弟子ということで、何やら得たいの知れなさがあったのですが、喋りも、自作と思われる新作も、まともなものでした。外した感じと、ホッとした感じの複雑な気持ちです。冒頭が判らないのですが、マイペースで、駆り出された場所で応援をする男の可笑しさを表したもの。選挙応援と草野球の応援てのが使われていました。主役華紋の1つ目は「二人癖」。マクラで、一人住まいに変わったことから、気になり出したゴミの分別話で、かなり客席を暖め、その勢いを駆ってネタに突入。正に、その勢いを持続するどころか、更にヒートアップさせるに足るテンポの良さ、喋りの中に作る台詞の強弱の加減を感じました。聴き慣れたネタで笑かす力が、華紋にはあります。もちろん、その期待があるから、この会をチョイスしたということです。ゲスト枠は菊丸。なぜだかは判らないのですが、菊丸が、若手の勉強会のゲストに喚ばれるのに接したことは、ほとんどありませんね。ネタは「掛取り」、時節ものとは言え、同門の噺家さんで、3日間で3回目の遭遇です。狂歌、浄瑠璃、芝居、ケンカの順で進みました。ただ、浄瑠璃のところで、染雀、染左を聴いたあとでは、何で、この人が繁昌亭大賞をもらったのかと思ってしまいました。と思うと、半分、居眠りが出てしまいました。菊丸襲名後、果敢に林家のネタに挑む姿勢は買いますが、ネタ選びに注意して欲しいものです。華紋の2つ目は、「ナンセンスなネタを」と言って始めたのですが、一瞬、「殿集め」かもと思ったのですが、行き倒れが出てきて、「粗忽長屋」と判明。これは東京ネタなんなかぁ。東京の寄席では、頻繁にかかるネタですが、上方で手がけているのは雀太くらいしか、黄紺には思いつかないものですし、また、華紋が「お兄さん」と呼べる先輩からもらったようなので、やはり雀太からもらったのかと思いつつ、その一方で、華紋の口演を聴いていると、雀太テイストを感じなかったものですから、もっと他の噺家さんも、このネタを持ってたっけなんて考えながら聴いていました。出来は、「二人癖」の方が上と看ました。というのは、「二人癖」はテンポが命だと思いますが、「粗忽長屋」を同じようなテンポでやっちゃいけないと思うのです。ボーッとした、ナンセンスな噺なわけですから、それなりの空気を作って欲しかったな。雀太は、その辺、成功してますものね。今日がネタ下ろしだそうですので、また変化した「粗忽長屋」を聴かせて欲しいものです。年末の平日、そして、華紋のキャリアを考えると、集客力はなかなか。コアな落語ファンも詰めかける会の様子を見るにつけ、華紋に対する期待の高さを見た思いがしました。



2015年 12月 27日(日)午後 11時 2分

 今日は、昼間は息子に会ったり、弟夫婦と会ったりで、あっさりと年末の一日は過ぎ、気がつくと動楽亭へのお出かけの時間。今日は、期待の「上方らくご 秘宝館・続 艶ばなしの夕べ」があった日でした。贔屓筋からの期待も大きく、黄紺が申し込んだ2ヶ月前には、早くも40人の方が、申し込みをされていたほどの過熱ぶり。決して繁昌亭ではできないと、場所を動楽亭にして開催されていますが、前回も大変な人気を喚んだことが思い出されます。今日の番組は、次のようなものとなりました。笑福亭生喬「近所付き合い」、林家染雀「艶話忠臣蔵」、桂文三「茶漬間男」、(中入り)、お座敷踊り「しょがいな」「立山」、お座敷の唄「ちょんこ節」。中入り前の各自のネタは、それぞれ短いもの。ですから、生喬の場合は、長屋をモチーフにした艶笑小咄集を、染雀の場合は、五郎兵衛から聴いた長閑な艶笑噺、それに、噺の背景となる忠臣蔵の解説、文三は自身の性の目覚めからお奨めAVのマクラがふられました。生喬のネタも、小咄程度のもの。長屋で、気づかぬ内にスワップが行われていたというもの。自身でトップに出ることを求める程度の長さでした。染雀のネタも、結局は「雪の南部坂」のパロディ。文三のネタは、これは不倫もので、通常の落語会でも、最近では出るようになっています。中入り後の踊りも、ともに艶笑的な内容を持つもの。染雀監修で、あとの二人が踊るというもので、三味線と唄は、この会を観に来た長嶺さんが担当されました。「立山」を踊る前には、先代文枝が、この踊りを踊ったときのエピソードが語られました。唄の方は「ちょんこ節」だけでしたが、三人が知っている文句だけではなく、染雀が、姉キンで作った替唄を、大量に披露してくれました。高座に上がった三人は、三者三様に、音源を辿ったり、師匠たちから聴いたり、実際に実演に接した経験を触れながらの高座となりました。艶笑噺とは言え、伝承芸の枠の中で、今日の公演を意識している姿が垣間見えました。また、そうでなければ、動楽亭が満杯になるまでの客は集まらないと思います。まだまだ、掘り起こす必要に触れて、会は終わりました。会場は男性陣が多くを占めましたが、コアな女性落語ファンも詰めかけました。お互い、どこで笑っても恥ずかしくならないように、客電は落とすという配慮が、出演者から行われるという公演。ますます秘密倶楽部的雰囲気が高まりました。



2015年 12月 26日(土)午後 10時 46分

 昨夜、関空に到着しました。幸い、深刻な時差ぼけには至らず、若干の寝不足で、早くも落語会通いに復帰。日本を離れていても、スマホのおかげで、落語をネットでは聴けますので、以前ほどの禁断症状は出なくなったのですが、やはり落語はライブで聴かないとダメですから、落語会が、どうしても恋しくなってしまってました。今日は、そないなことで、落語会のはしごをすることになりました。まず、午後は繁昌亭昼席。今日は、福笑がトリをとり、その前に、新治と染雀が並ぶという、なかなか得難い番組。そして、恐らく初めてと思われる花団治が中トリを務めるという点にも惹かれて、今年最後の繁昌亭昼席に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。弥太郎「刻うどん」、瓶二「動物園」、団朝「秘伝書」、蝶美・蝶子「漫才」、喬楽「犬の目」、花団治「饅頭怖い」、(中入り)、団四郎「百面相」、新治「ちりとてちん」、染雀「掛取り」、福笑「宿屋ばばぁ」。喬楽までが、前座噺ないしは軽い噺が続き、かなり退屈な展開。「動物園」が出ているのに、更に「犬の目」をぶつけてきた喬楽は、何を考えているのでしょうか。ようやく花団治が、しっかりとしたネタを出してくれて、ホッとした空気で中入りへ。時間の関係でしょうね、おやっさんの怖い噺は省略でした。この人は、怖い噺の中で、狐に騙される噺を入れてくれます。安定した語り口は、中トリに相応しいものでした。ここで、グレードが上がり、中入り後は、更にヒートアップ。団四郎の余芸も貢献。その団四郎の弟弟子に当たる新治が、そのあとに出たのが好ラインナップ。マクラの冒頭で、団四郎をネタに一くさりが効きました。雰囲気が、ぐぐっと明るくなるマクラの空気のまま、ネタに突入。このあたりの技は、もう新治はお手のもの。新治の「ちりとてちん」を聴くのは、初めてのことです。表から入ってくる男が大橋さんだったものですか、「ふぐ鍋」かと思ってしまいました。知ったかぶりをする男は清八で、長崎旅行に行ってきた男ではなく、昔、長崎に住んでたと吹聴する男でした。ま、小さな変化はありましたが、全体の流れは、通常のものでした。新治の口演は、終盤の腐った豆腐を食べるところで、過剰な反応を見せるものでしたが、そこまでのべんちゃら、ちりとてちんを仕上げる過程では重たくなく、ポイントを心得た心憎いものでした。やはり巧者ですね、新治は。この流れだと、染雀は芝居噺をするぞと思っていたら、それ系の「掛取り」と、時節に合ったものを出してくれました。時間の関係で、狂歌好きと芝居好きの男だけが出てきました。ただ、それでも、時間が気になったようで、ちょっと急いでいるなとの印象を与える口演となりました。そして、トリの福笑、久しぶりの「宿屋ばばぁ」で、ガッツポーズでした。街起こしという明確なコンセプトを持ったネタですが、強烈な個性を持ったキャラの登場が度肝を抜きます。もう、その婆さんを創造しただけで、このネタの成功は約束されたと言えると思っています。今日の繁昌亭は、今まで行った昼席の中では、一番少ない入りじやなかったかな。この時期の昼席に行くのは初めてのことでしたので、年末って時期の特徴かもしれないのですが、それを判断できない黄紺は、正直、びっくりしました。
 繁昌亭を出ると、阪急電車の人身事故の影響で、堺筋線が、まともに動いてなかったもので、谷町線を使い文楽劇場へ。トルコにいたとき、ネットで文楽正月公演のチケットを買っておきながら、まだ引き取りに行ってなかったことを、ドイツで思い出したものですから、忘れない内にと文楽劇場に行き、それでも、まだ、時間があったものですから、千日前のネットカフェで時間待ち。そして、夜は、千日亭であった「染左百席 千日快方」に行ってまいりました。毎月続けられている会。優先的に行こうとしている会の一つです。その番組は、次のようなものでした。染左「道具屋」、喬介「天狗刺し」、染左「親子酒」、(中入り)、染左「掛取り」。染左のネタで、新鮮だったのは「親子酒」。染左の酒の噺って聴いたことあったっけ(もちろん黄紺的にですが)というところから来ているのですが、その意外性もあり、とっても楽しませてくれました。父親の方はともかくも、伜の方には、最初はデフォルメ気味に酔わせ、それが浸透すると、デフォルメを弱めるという呼吸がいいですね。この調子でいくと、ますますネタが増えていくぞの印象を与えてくれました。「道具屋」は、前座時代に、何度も聴いているもの。「偽物」が出てきませんでした。跳ばしたのか、入れてないのかは判断できません。「掛取り」は、昼間、染雀が出した関係で、いみじくも兄弟弟子の口演を、同じ日に聴くことができました。やはり染雀は、時間を気にしてたなということも確認できたように思いました。時間の心配のない染左の方は、狂歌、芝居、浄瑠璃、けんかと、4パターンを出してくれました。ただ、予想されたこととは言え、オリジナルなものはありませんでした。それよりか、萬歳に入ってくれないかと期待したのですが、ダメでした。ま、仕方ないですね。ゲストの喬介は、風邪で、かなり喉を痛めていたよう。染左から、そういった紹介があったのですが、実際の口演では、その話を聞いてなかったら判らないもの。師匠の話をマクラで入れて、ネタに入ってからも、その話題を挿入するというもの。それにつけても、「天狗刺し」なんて、かつては、滅多に出なかった噺を手がける噺家さんが、若手の中から徐々に出てきています。アホげで、ありそうもない落語的なところが、噺家さんに気に入られているのでしょうか。なかなか充実した会。まだまだ、百席に向けて、この会は続きます。



2015年 11月 30日(月)午後 11時 50分

 昨夜、降ってわいたオペラ紀行の飛行機問題、あっさりと解決しました。その替わり、1日増えてしまったために、ホテルの手配やら、新たにオペラを観ようなんてことを考えたものですから、チケットの手配など、かなりの時間を取られてしまいました。ようやく、明日、荷造りをすれば出られる状態にまで持っていくことができました。困ったのは、明日に予定していたカフェモンタージュのコンサートが行けなくなってしまい、急いでキャンセルのメールを入れ、ほんの僅かの希望を持ち、黄紺のようなケースで、今日の席が空いてないか問い合わせたところ、用意できるということでしたので、今夜は、関西弦楽四重奏団のベートーベン・シリーズを聴くことができました。この演奏会、今日明日と連続で開催されることになったいたのが幸いしたのです。今日演奏されたのは、第13番と、最初、その終楽章のために書かれた「大フーガ」が演奏されました。現在演奏される13番には、終楽章が加えられていますから、一旦13番が終わったところで、小休憩が入り、「大フーガ」に入ると思いきや、13番が終わり、拍手が入りかけたのですが、多数派は拍手をせずに、「大フーガ」を待ったからでしょうか、拍手は、すぐに立ち消えとなり、演奏者の皆さんも、調弦をしただけで、すぐに「大フーガ」に入られました。今日の演奏は、1楽章が、なんか危なっかしいとまで言わなければならない不安定な状態。1楽章は、ちょっと初期の作品を思わせる雰囲気があるがため、わりかしデリケートな演奏が求められるところですが、その辺りに気をつかい過ぎたのでしょうか、なんか不安定で居心地が悪かったのですが、徐々に回復。厚い音色が求められるようになると、上森さんのしっかりとした低音域の支えが効き、こういったのを聴きたかったと思わせるもの。となると、「大フーガ」が聴きものとなりました。結果的に、やはり行って正解。無理をお願いしたのだと思いますが、聴けた者にはありがたいことでした。これで、今年のカフェモンタージュはおしまいですが、年明け早々に、いい企画が待っています。ま、ドイツから帰ってからのことですが。



2015年 11月 30日(月)午前 0時 16分

  今日は、尼崎のアルカイック・ホールで、関西二期会のオペラ公演「ウインザーの陽気な女房たち」を観る日。このニコライの書いたオペラ、名前は知られているわりには、上演機会が稀なもの。ドイツでも、黄紺が調べた期間では、1度だけアルテンブルクで上演されたのを目にしたくらいです。ま、そないなこともあり、尼崎まで出かける気になりました。このオペラは、ヴェルディの「ファルスタッフ」と同工異曲。シェイクスピアの原作を基に、ヴェルディとニコライが創ったというわけです。ヴェルディの方は、実演にも複数回接したこともあるということで、通常は、事前にしていく予習もせずに、アルカイックホールに向かうことになりました。たとえ、予習をするにしても、「ウインザーの陽気な女房たち」のDVDは発売されていませんから、梗概をながめる程度のことなのですが、それすらしないで出かけたというわけです。よく言われるのは、「ファルスタッフ」は、ファルスタッフの視点から描いたもので、「ウインザー」の方は、女房たちの視点から描かれたものと言われますが、黄紺的には、「ファルスタッフ」の方が、いずれの立場に立っても、うまくできてるなという印象が残りました。ファルスタッフというキャラは、シェイクスピアが、ファルスタッフのアンコール登場のリクエストに応えて創った戯曲です。ですから、視点は、ファルスタッフにしないと、この基となった戯曲のアイデンティティが立たないのです。次に、女房たちを中心に据えるなら、もっと多くの女房たちを出して、筋立て、キャラ作りをしてもらわないと、ヴェルディものに敵いません。ヴェルディの「ファルスタッフ」の出す女房たちの多彩さは成功の基とも思っています。中でもクイックリー夫人の登場は、単にファルスタッフ視点とは言えないものを持っていると言えます。と考えてくると、同工異曲ながら、ニコライものが上演される機会が稀なのが解るような気がします。舞台は、薄めの平台を3枚敷いたように見え、舞台前の方が低くなっているというもの。サイドは、大黒にして、それを壁と見せていたということでいいのでしょうか。舞台前方両サイドには簡易入口を置き、出入りに使っていましまが、簡易すぎてちゃっちい感じは否めませんでしたが、経費のことを考えると、サイドの壁を作らないこと同様、致し方ないことかもしれません。場面転換は、中幕の上げ下ろしで行うという、これも経費節約型で、よく見られるもの。このプロダクションでは、この場面転換の仕方は、うまくいってたのではないでしょうか。日本のオペラ公演は、時代を飛ばすということを、なかなかやらないものですから、特別仕立ての衣装に、経費が嵩むんじゃないかな。歌手陣は、歌唱、動きのいずれをとっても、いまいちってところかな。黄紺的には、動きの方というよりは、歌唱が気になりました。ですから、声量はあっても、音程が不安定だったり(フェんトン)、声量があるのは認めても張り上げるような発声で、合わないなと思わせられたり(フルート夫人)、声質は合ってないわ、動けないわ、台詞になってないなどという三重苦の見本があったり(ファルスタッフ)、大阪弁の台詞はいいのに、東京弁になると台詞回しにならなかったり(フルート氏)など、それぞれ、問題を感じてしまいました。最近の二期会の公演を観ていると、確実に、数年前に比べると、歌唱も演技も落ちているように思うのですが、いかがなものでしょう。わりかしムラのある歌手陣に対し、これらをまとめた十束尚宏の指揮は誉められていいもの。オケは日本センチュリー。安定した、そして、ソフトな表情作りに貢献していました。
 帰りがけに、メールを見て、びっくり。最近、あまり使ってないメルアドに、旅行関係一式のメールが入るようにしていたのが、とんでもないことになっていました。12月2日出発の飛行機がキャンセルなんてことが入っていたのです。もう、心臓バクバク。スマホのおかげで、帰りの阪神電車の中で、旅行社の電話番号を調べて、早速、梅田の路上で電話。運の悪いことに日曜日だったために、航空会社の意向を確かめられなくて、翌日、回答待ちとなりました。運が良ければ、1日早めて明日の出発となります。でないと、オペラを観るのに支障をきたします。



2015年 11月 28日(土)午後 11時 31分

  今日は、一日中、京都で遊ぶことになりました。京都で二部制を組むなんて、なんとも久しぶりです。昼間は落語会、夜はコンサートという組み合わせでした。昼間の落語会は、京都市のど真ん中にある大善寺であった「おてらくご。」という会です。 露の都の弟子瑞の勉強会です。顔立ち、体格から都部屋と言われている都一門の中にあって、正に紅一点の瑞。彼女の勉強会に行くのは、これが初めてとなりました。京女の出身なようで、京都での勉強会開催となったようです。その番組は、次のようなものでした。瑞「初天神」、染八「しり餅」、弥太郎「ふぐ鍋」、(中入り) 、瑞「まめだ」。瑞のマクラを聴くというのは初めてのこと。都部屋だけではなく、上方落語界全体でも、一番可愛らしい噺家さんに「気がついたら前のチャックが開いてた」的な話を入れられると、どう反応していいのか困ります。やはり分を心得ての笑いを提供して欲しいものです。女子大ネタとかはおもしろかったのですが。「初天神」の方はネタ出しなしでした。弥太郎とは鈴々時代の同期にせよ、染八は、本来なら後輩になるはずが先輩になってしまったので、瑞自身が前座を務めたようです。そちらのネタが出てなかったのですが、「初天神」は、その冒頭から都カラーが強く出た口演となりました。ただ、それだけではないくすぐらが仕込まれていたのには拍手です。みたらしのところで切り上げましたが、前座でなら当然のところでしょう。染八と弥太郎のところで、この4〜5日続く寝不足の影響下に入ってしまい、半寝の状態で聴いてしまったのですが、そういった中での印象を書いておくと、染八に落ち着きが出てきており、化けるなんてことがありそうな予感がしたのと、弥太郎は、早口過ぎるという点が気になったってのが印象に残っています。いい景色も、ときには各停に乗せてくれないと、せっかくの吉朝テイストが薄れてしまいました。もったいないですね。そして、トリネタの「まめだ」はネタ出しがされていました。最「まめだ」を手がける噺家さんが増えました。年季が明けてから、さほど時間の経ってない瑞が手がけるのですから、時の移り変わりを感じます。その瑞の「まめだ」が、なかなかいい出来栄えというか、この人、芝居心を持つなの印象を得ました。今の三ッ寺筋、想像上の明治の三ッ寺筋、三ッ寺の境内を、頭の中で一幅の絵を描き、それを、台詞だけではなく、所作を使い表現のできる度合いの、かなり高い噺家さんだなと、「まめだ」の口演を聴いていて思いました。ですから、どれだけイメージ画像を描けるか、そして、自分の声質とか、身体表現に用いる部位を見極めてのネタ選びが肝要なのでしょうね。実際、今日の口演を聴いていて、三ッ寺の境内の広さとか、朝の陽射しも見えたような気がしました。ただ、瑞の声はソプラノ、同門の紫が落ち着いた印象を与えるのかは、彼女の声が、コントラルトに近いメゾだからです。この違いを意識して、ネタ選びをして欲しいものです。
 夜の部は、久しぶりのカフェモンタージュ。今日は、10月に、こちらで、ラベルとドビュッシーのピアノ・トリオを演奏した元谷町トリオの演奏会がありました。トーク役も兼ねるチェロの金子倫太郎、バイオリンの谷本華子、ピアノの奈良田朋子の3人のトリオです。カフェモンタージュのオーナー氏によると、新たなトリオの名前は、まだ決まってないそうです。このコンサートが決まったのは2週間前に、突如、金子さんから電話が入り決まったそうで、黄紺も、トルコにいたとき、何気なくカフェモンタージュのHPを見て、今日のコンサートがアップされているのに知り、トルコから申し込んだものでした。スマホ様々のことでした。演奏されたのは、なんと、チャイコフスキーの大曲。1曲しかないピアノ・トリオですが、50分ほどもある大曲です。「偉大なる芸術家の思い出に」という副題の付いているものです。偉大なる芸術家とは、ルービンシュタインのこと。そないなことを知らなくても、冒頭のメロディを聴くと、この曲に惹き付けられてしまいます。2楽章しかないその2楽章に入ると、様々な変奏で、曲が展開していきます。かなり音色の変化を求められる曲ですが、3人のバランスがとれてこそ、一曲としての体裁が整うというもの。一番楽器を鳴らしていた金子さんと、逆に楽器に問題があるんじゃと落ち着いたほど鳴ってなかった谷本さんのバイオリンとのバランスは、かなり隔たりを感じてしまってました。10月は、そないなことはなかったのにと思っても、目の前の現実は、そのようなものでした。出がけに、ちょっとだけワインを引っかけて行ったため、いい心持ち以上の状態で聴いてしまいました。その辺が影響したかもしれないですね。



2015年 11月 27日(金)午後 11時 39分

今日は、2週間のトランジット期間中、唯一の繁昌亭に行く日。今夜は「月刊笑福亭たま」がありました。毎月行われている会なのですが、たまのネタを見て、行くかどうかを決めています。今日の狙いは、ネタ下ろしのときに聴いたままになっている「茶屋迎え」でした。それを含めた番組は、次のようなものでした。米輝「看板のピン」、染太「クラシックはほんとにええ演歌」、たま「ちしゃ医者」「茶屋迎え」、(中入り)、米二「除夜の雪」、たま「新作ショート落語」「まぬけ泥」。米輝は、時間のことを考えてか、それとも通常の型にしているのか、黄紺には判断できませんが、細かくテキストのカットを施し、実にスピード感のある「看板のピン」を演じてくれました。スピード感がありすぎ、身体表現が後ろにずれたのは、愛嬌ってところでしょうか。染太は自作を出しました。演歌の一節、クラシックの名曲の一節に似ているということに触れながら、クラシック音楽に対するハードルを下げようとする噺です。以前に一度だけ聴いたことがあるのですが、そのときは、わざとらしいなとの印象しか残らなかったのですが、今日は、無理からに似ているのを聴かされるのが楽しめるようになりました。周りの環境が、そうさせたのでしょうか。ゲスト枠は米二。たまの会に招かれることは初めてでない米二。お二人の交流って、きっと落語好きの万年青年ってのが生み出してるのだろうなと、勝手に想像しています。また、ネタが嬉しかった。最近聴いてなかったもので、米二が、自身の会にでも出すようなら聴きに行こうかと思っていたほど。怪談めいた噺だと判るのが、噺の後半になってから。そういった噺の展開が読めないのがいいのと、大晦日の描写がいいですね。たまは、まず、自身が務める協会内部の委員会の活動報告。夏の高津落語研究会で、黄紺が聴き落としたのは、これかなと想像を巡らしていました。「ちしゃ医者」は、たまが、師匠のネタの中から頻繁に出す数少ないネタ。その件について、たまも触れていました。師匠の色が強く出てしまいやりにくいみたいですね。となれば、「ちしゃ医者」は、あまりにもネタの威力が凄まじいということなのでしょうね。「茶屋迎え」は、「木乃伊取り」のあとの部分を、大阪では手がける人がいない(少ない)ので、元々は上方の噺なのですが、東京の三三からもらったというもの。もちろん、もらったそのままではないはずです。「木乃伊取り」の部分も入れて、旦さんが権助の格好でお茶屋に乗り込むところに重点を置いたものだったはずとの記憶があったのですが、旦さんと梅乃の再会からの展開が早すぎて、もうそっと二人のいちゃつきを聴かせて欲しかったなの印象。そないに急いでどうするのの雰囲気でした。本日の新作は盗人もの。東京風に「〜泥」とネーミング。盗人稼業初心者が空き巣狙いをすると、そこには、もう一人の盗人が入っていたという着想は、たまの非凡なところ。そして、新米が盗人稼業のいろはを教わっていくというもの。今日も、米二のあと、たまはなかなか出てこず、三味線の吉川さんの「長崎さわぎ」の唄声を、何度も聴くことになっちゃいました。



2015年 11月 26日(木)午後 11時 50分

 今日は、「上方講談を聞く会」に焦点を当てていたのですが、番組が、あまりにベタなものが並んでいたため断念。ならば、韓国映画にと焦点を移したのですが、いまいち興趣をそそられず、結局、最近行かないことにしていた「べにてん」に行くことにしました。南天と紅雀のトークに重点を置いた会なのですが、以前、何度か行ったとき、終演が、とにかく遅い、一度は10時を回ったこともあり、もう行くことは止めようとした会です。ですが、この2週間、要するに日本トランジット期間中に落語を聴ける機会が少ないため、えいやぁ〜と、リスク覚悟で行ってみることにしました。すると、いいことがありました。正月早々に、2人でする落語会で、どこにも流れてなかった落語会の予約をやっていたのです。これはラッキーでした。で、今日の番組は、次のようなものでした。南天「あくびの稽古」、紅雀「天狗裁き」、(中入り)、南天・紅雀「トーク」。トークなあテーマは、@もうちょっとやったのにAこんな悪いトコ見てしまいましたというものでした。南天の「あくびの稽古」は、噺の枠を保ちながら、個々のくすぐりは大幅に改変。南天テイストいっぱいのものとなりました。特に、前半、新たに稽古を始めるという男に、今まで手がけてきた習い事を話すところが傑作。お菓子作り、女形の稽古が、一番受けていたかな。後半では、あくび指南の実践が行われていきます。ここにも、オリジナルなものが入りましたが、落語のあくびなんてものも出てきました。こういった素材撰びに、南天の感性が煌めきます。紅雀は、マクラで独演会のときの話。黄紺は行ってないのですが、どうやらネタ下ろしの大ネタ「たちきれ線香」で言い間違いを仕掛けたことが、客席にも伝わり、高座を下りるときに転がり落ちたようです。ネタが「立ち切れ」だけに、会場は大爆笑だったようです。で、ネタは「天狗裁き」。もちろん紅雀では初めて。最近、東京でも上方でも手がける噺家さんが多いですね。その中でも、特級の出来栄えと看ました。繰り返しネタは、変化をつけていなかいと、退屈になっていきます。また、よく遭遇するものですから、寝不足のときなどは、「天狗裁き」と判った時点で眠けを催すことがあるくらいです。紅雀の場合、まず、その場で起こっている臨場感が抜群なのです。対話の間合いがいいのと、主人公のぶれないキャラが、聴いている者をして、そのように感じさせるのだと思います。更に、そこに、一つのアクセントを加えました。繰り返しが3人目になる大家に、「わしが見たヤラシイ夢の話をするさかい、お前の見たヤラシイ夢を言え」と言わせたのが効きました。3人目という絶妙のタイミング、大家に独自のキャラ付けをしたがため、強欲なイメージができ、お白州に移る飛躍に合理性を与えたと思いました。奉行により木に吊るされた主人公は言います。「大家に作り話をしてヤラシイ夢の話をしといたら良かった」、抜群の台詞です。この噺の荒唐無稽さを晒し出す絶妙の台詞にもなりました。人物描写で、お奉行さんや天狗に、より位があればとは思いましたが、それは、むしろあとから振り返ったときに思いついたこと。そないなことは二の次と感じさせられた花◎の口演でした。「トーク」は、中入り時に集めたアンケートをネタにお喋りを加えて行くもの。以前と変わらない形でした。



2015年 11月 25日(水)午後 11時 31分

 今日は落語を聴く日。2週間の日本トランジットの中で、あまり落語会に恵まれてないものですから、貴重な落語を聴けるので日となりました。今日行ったのは、天満橋の常磐漢方薬局であった「客寄席熊猫」でした。雀喜が、自身の新作をかける会です。ゲストも新作を出すというもの。その番組は、次のようなものでした。雀喜「洋式トイレ物語」、南斗「グレートカブキ物語」、雀喜「「宗教万歳」。「洋式トイレ物語」のマクラで、雀喜は、自分の生い立ちを語り、その中で自宅にあったトイレの変遷、思い出を話し、ネタの準備にかかったうえ、直前には「完全な下ネタですから」「オブラートに包んでますが」と言ったものですから、どれほど際どい噺になるのか、ちょっと気にはなる一方、雀喜のことですから、無茶な噺になるわけがないとも思い、そのマクラを聴いていました。そしたら、その後者の予想が当たりました。噺の流れは、水戸黄門一行が、高野山に湧いた間欠温泉を訪ねるというもので、そこで、お約束の悪漢の攻撃を受けると、次から次へとテレビの時代劇のヒーローたちが、ご老公を助けに馳せ参じるというもので、その中に、トイレ・ギャグが挿入されるというものでした。噺の印象としては、時代劇のヒーローばかりが印象に残り、雀喜が気にしていた下ネタは、どこにあったのという感じでした。ひょっとしたら、オブラートが厚すぎて、黄紺の耳をスルーしてしまった可能性は大かなと思っています。かなり予防線を張ってましたからね。もう一つの「宗教万歳」は、同窓会で出会った懐かしい女性に誘われて出掛けて行くと、そこは、新興宗教の道場だったという解りやすい噺。その道場で、宗祖の男が語るアホげな神秘体験が聴かせどころとなっていました。黄紺は、単純に後者に軍配を上げる出来栄えだったと思います。南斗くんの「グレートカブキ」は、ネタおろしのときに聴いて以来の遭遇。南斗くん自身に伺ったときにも言ってましたが、基本的にはいじってない内容。今回聴き直してみて、これは、グレートカブキの物語の序と言えば云いすぎかもしれませんが、高千穂明久物語と言える物語です。グレートカブキになってからの活躍物語を膨らまして欲しいなーという黄紺の希望と言えばいいでしょうか。時間的にも、マクラを入れて、20分あったかというネタでしたから、今後、南斗くんが加筆していってくれることに期待しましょう。



2015年 11月 24日(火)午後 10時 8分

 今日は、朝から春のオペラ紀行の準備。日程は、以前に決まっていたため、トルコから戻りすぐに、飛行機は押さえてあったのですが、チケットはどうかと歌劇場のウエブサイトを覗くと、狙いのコンサートは、はや売り切れ。更に、外すと日程が組みにくくなる日のコンサートの売れ具合を見ると、9割以上が売れていたため、急に焦りだし、どうせ、暮れに日本に帰ってきたら買うのだからと、頑張って主だった歌劇場のチケットはゲットしておきました。あとは、売り出しのまだな歌劇場くらいしか残ってない状態にしておいたので、ひとまず安心です。そないななかで、既に来シーズンの予定をアップしている歌劇場があり、なんとなく眺めていて、大変なものを見つけてしまい、来年のオペラ紀行の日程の大枠が出来上がってしまいました。そんなで、午前中は、パソコンとにらめっこだったために、やたらと疲れてしまいました。そして、今日のお出掛けは講談会。谷六の薬業年金会館であった「旭堂南海の何回続く会?」に行ってまいりました。先月も来月も行けない谷間の今月、この間、読み続けられている「増補難波戦記」より、新たに「荒川熊蔵」が始まりました。荒川熊蔵は、加藤清正の家来ということですので、この物語は、清正の物語でもあるということを意味していると言えばいいでしょう。ですから、まず、清正が肥後熊本の城主となる大枠の話から読まれました。次いで、熊蔵が、清正の家臣に取り立てられる話へ。熊蔵の名に熊が入っている由縁が、ここで明らかになります。と同時に、清正の一の家来の木村又蔵、二の家来の井上大九郎と競い合う姿が読まれ、この物語の枠組みも示されました。が、ここで、眠いとも感じる間もなく居眠り。気がつくと、抜き読みでも読まれることのある木村又蔵が、金がないにも拘わらず、長浜の街で武具を揃えるチャリ場になっていました。鍋を兜替わりにしたりして戦場に出る話です。どうやら、これは、又蔵が、清正に取り立てられるときの話だということが判ってきました。同時に、この話は、井上大九郎との先陣争いの話だということも判ってはきたのですが、荒川熊蔵が出てくる前の話を、なぜ出されているのかが、そのあとに判りました。同じような先陣争いが、秀吉の小田原攻めの際、この2人に荒川熊蔵を含めた3人の間で起こったからでした。かつては、功名を競った2人が、このときに熊蔵の活躍を認め、熊蔵の実力を憚ることなく認めた話をするための、長〜いネタふりの最中に、黄紺は覚醒したのでした。どうやら、今回の読み物は、時系列的に並べた挿話集になっていました。次なる挿話は、関ヶ原の戦いの前段となります。清正が、徳川につくかどうか思案中の最中、家康が、清正はいない前で大名相手に、自陣に引き込もうとしたり、また、清正批判を口にしたことに対する、熊蔵の毅然たる非難を伏線に、清正と熊蔵が芝居をうち、諸大名の様子を探りに熊蔵を野に放つところで、今日は切られました。南海さんに言わせると、講談を長引かせる手である「主人公を諸国漫遊の旅に出す」ということが、このあと始まるそうです。残念ながら、来月はドイツですから聴けないのです。



2015年 11月 23日(月)午後 6時 55分

 今日は、トリイホールで松元ヒロのライブを聴く日。松元ヒロは、年に2回ほどしか、関西ではライブをやってないようなので、こちらの動きと噛み合わなければ、なかなか遭遇できないのですが、そないなわけで、黄紺的には、少なくとも2年は聴けてなかった、ひょっとしたら3年くらい間が空いているかもしれないということで、久しぶりのらくとなります。当世風に言えば、いわゆるスタンダップ・コメディというジャンルに入る芸人さんで、政治ネタを扱う、しかも、辛辣な政府批判をするということで、本人も言うように、マスコミは、おもしろくても敬遠するという芸人さんです。1時間半余りの舞台で、ネタは4つ披露してくれました。その各ネタの繋ぎは、舞台端に用意された「舞台上の楽屋」で、ごく短時間の休憩がてら、水分補給などをするという設定は、以前と変わらないスタイル。現在の政治状況に立った政府批判は名刺替わりのように冒頭のネタで扱われ、次いで、これも、定番の故郷の鹿児島ネタ。今回は、同郷の元文部官僚氏との対談を糸口にしたものでした。3つ目は、最近亡くなったフォーク歌手の話から始まり、京都で続いたピース9の話題、そして、ダウン症の人たちの話まで発展していきました。最後は、お得意のチャップリンのネタ。映画「独裁者」の再現、その中の有名な6分間の演説では、いつしかヒットラーが安倍に変わっていきました。アンコールは、久しぶりに見た「新聞記事を読んでもらってのパントマイム」でした。松元ヒロのスタンスからすると、現在の政治状況はネタがいっぱい。おまけに、大阪では、維新が勝ったところでしたから、尚更、ネタには困ることはありませんでした。今日は、大変な入り。毎度の如く、前説に立ったトリイの社長をよると、去年までは、そうじゃなかった由。黄紺の記憶も、社長の頭の中と一緒だったために、びっくりしました。どないな方々が来られていたのでしょうね。業界人が来られてたのでしょうか。検討もつかない大入りでした。



2015年 11月 22日(日)午後 11時 6分

 今日は、先日に続き、文楽を観る日。今日は、第2部「玉藻前曦袂」のほぼ通しを観に行ってまいりました。今回は、次の段が上演されました。「清水寺の段/道春館の段/神泉苑の段/廊下の段/訴訟の段/祈りの段/化粧殺生石」。プログラムを読んで判ったのですが、この演目、能「殺生石」と同じ素材を取り扱いながら、長い間、上演が絶えていて、昭和49年になり復活されたものだとか。だいたい、こういった復活ものというのは、落語でもよく言われることは、演目自体に問題を何かしらかかえているもの。それは、主役玉藻前が出てくるまでに時間がかかり、今回上演された部分に関して言うと、おもしろくないのです。省かれた1段目、2段目は、天竺と唐の話はいざ知らず、玉藻前が出てくる前というが、玉藻前を出すための導入部分というところは、確かに剣の件、鏡の件は出てきたとしても、本筋が傍系の挿話の域を出ず、異様な桂姫の安倍采女之助に対する執着だけが目立ってしまいます。その話の最後に、まことにもって唐突に、桂姫の妹初花姫が、宮中に召され、名を玉藻前と改めよとなります。あまりにも取って付けたかのような展開。しかも、神泉苑の段のほぼ冒頭近くで、初花姫は妖狐に取りつかれてしまい、あとで判るのですが、初花姫の体に取りついたのではなく、初花姫を殺し、狐が成り代わったことが明らかになりますから、ますます桂姫の物語は何だったのかとなっちゃいました。妖狐が玉藻前になってからも、迷走が続きます。ありきたりの宮中の女官のやきもちエピソードがあったかと思うと、剣と鏡の取り戻し挿話に、亀菊なる傾城を登場させます。ネタふりなしの突然の登場です。その奪還の動機も、妖狐と組み帝位を狙う薄曇皇子の考え方が異様だと、家臣に裏切られた結果が、亀菊の登場を促すというもので、文楽らしくない展開に唖然。ご都合主義的な展開に唖然です。妖狐と、退治役の安倍泰成との対決も、あまりにもあっさりとついてしまいました。呆気にとられるくらいにあっさりと。勘十郎さんの宙吊りは拍手を集めていましたが、目先を、ちょっといじっただけというところでしょう。化粧殺生は、これは蛇足です。殺生石となった妖狐が、様々な人間に化けて躍りまくるというもので、妖狐の魔力見せびらかしショーってところでした。そこで、最初に戻ります。なぜ、遠い演目になっていたか、答は簡単です。おもしろくない、筋立てのイマジネーションが乏しい。稚拙と言ってさえいい作品じゃないでしょうか。期待が大きかっただけに、虚しさも大きいです。ですから、早変わりとか、目先を楽しませてくれるものはありましたが、物語自体が、これではという思いです。



2015年 11月 21日(土)午後 7時 57分

今日は、民博でゼミナールのあった日。うまいタイミングで、日本にいたものだと思い行ってまいりました。今日のテーマは「シルクロードの古代都市遺跡と歴史空間」で、同館の助教である寺村裕史さんのお話しがありました。ただ、ご専門が情報考古学ということで、移籍をデジタル技術を使い、調査し記録化していく研究をされている方で、ちょっとどころか、かなり民博のイメージからは離れる内容となりました。フィールドが中央アジアということで、個人的には期待したのですが、思惑外れとなったと思った途端、居眠りに入ってしまい、実際には黄紺の期待することをお話しになっていたのかもしれないのですが、確認のしようがありません。覚えているのは、ウズベキスタンの地形的環境、それに伴うシルクロードで栄えたオアシス都市の位置、中でも「」遺跡(ウズベキスタン側は「城」と呼ぶ) のデジタル調査の具合、発掘物いろいろ辺りまでの記憶はあるのですが、、、。



2015年 11月 20日(金)午後 11時 37分

 今日は二部制の一日。昼間)「藤堂高虎、出世の白餅」、魔ほうの愛華「マジック」、三喬「延陽伯」、(中入り)、シンデレラ・エクスプレス「漫才」、三原佐知子(岡本貞子、鵜川せつ子)「海ゆかば」、平和ラッパ・梅野ハッパ「漫才」。今月の前座兼鳴り物は、治門と呂好。鳴り物だけで紋四郎の名前も入ってましたから、出番をある2人が、他所との掛け持ちかもしれません。治門は、前座らしく「動物園」。このネタの反応で、その日の客の落語に対する成熟度が判ります。今日は、初心者が多いかなというところでした。幸枝司さんのところで、唯一の居眠り。昨夜の不規則な睡眠が、こないなところで出てしまいました。魔ほうの愛華は、和づまを手掛ける若いマジシャン。初めての遭遇でした。三喬は貫禄の高座。ホント、安定しているうえに、笑いのツボを心得ているうえ、センスがあります。そないなことを考えると、風格すら漂ってきます。一言で書くと、貫禄があるとなります。後半に漫才が2つ。キャリアから、そうなったのでしょう。ラッパ・ハッパは、三吾・みゆるの代演。三吾の体調が悪いようです。貴重な親子漫才、三吾の具合が気になります。佐知子師匠は、最近やり出したと、確か言われていたはずの「海ゆかば」でした。反戦ものを、幾つも手掛けてこられた方ですが、体制側のネタをされるのは、寡聞ながら、黄紺は知りません。戦争に翻弄された庶民が主人公のものばかりだったと記憶しています。このネタは、戦艦陸奥に乗船していた、ちょっとエライ軍人さんの奥さんが主人公でした。そんなですからか、幕が上がる前に、「海ゆかば」が会場内に流れ、何とも言えない空気が、客席を支配しました。もちろん、そういった環境の中での悲劇が扱われてはいるのですが、今までの主人公と一緒にしていいのだろうかと、黄紺は思ってしまいました。
 文楽劇場を出ると、久しぶりに千日前のネットカフェで時間調整。それから動物園前へ移動して、南湖さんの会へ。その番組は、次のようなものでした。南斗「岡野金右衛門」、南湖「赤穂義士〜大石の東下り〜」「太閤記」。南斗くんは、久しぶりのお手伝いに来たところ、出番にもらったよう。あまり出ないネタを出しました。金右衛門に心を寄せる女を利用して、吉良邸の情報を集めようという試みがプロットになっているためでしょうかね。今日は、時間の制約を受けていたのでしょう、半ばで切り上げました。南湖さんは、開口一番、明日封切りの南湖さん主演の映画について。新宿の武蔵野館で、明日、舞台挨拶をされるそうです。大阪での封切り時には、日本にいないので、残念ながら、黄紺は観ることができません。大阪での公開はテアトル梅田でだそうです。吾の1つ目は、ハローウィンが過ぎたら義士月に入ったとしていると、わけのわからない理由づけをして、「大石の東下り」へ。「赤穂義士伝」の中でも、特にと付けねばならない佳品。討ち入りのために江戸に下る大石内蔵助。神奈川の宿で出会ったのが、自らが名前を隠すために名前を使っていた当の本人。ですが、そのお公家さんに助けられ、その危難を乗り越えるというもの。このネタ、既に、南湖さんは12月の「トリイ講談席」でネタ出しをされています。「トリイ」には行けない黄紺にとっては、なんともラッキーなことに、今日、聴くことができました。「太閤記」は、この間続き読みをされているもの。と言っても、オムニバスものですから、どこでも切れるというもの。中国遠征途中の秀吉を慰めるために開催された御前相撲。毛谷村六助に挑む男たちの経歴が読まれるというもの。同じパターンが続くということで、最後の一人を、次回読んで、次の読み物に入ると表明されていました。ま、その方が無難でしょうね。全体を通じて、山にかける読み物は、そうならざるをえないでしょうね。





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