忙中閑あるかな? 黄紺の日々


トルコのこと、キプロスのこと、こんなことを主に、日々思うこと。ときどき、韓国のこと、 日本のことも混じるかも? 仕事に忙しくっても、頭のなかは、トルコのこと、キプロスのこと考えてる。 頭のなかは、いたって長閑。それが、、、、、、
黄紺、なのさ。



2016年 1月 6日(金)午前 0時 15分

 今日は、今年初めて落語会に行く日。動楽亭昼席が、その落語会となりました。その番組は、次のようなものでした。団治郎「初天神」、佐ん吉「犬の目」、雀喜「ポイントカード」、千朝「胆つぶし」、(中入り)、豊来家幸輝「太神楽曲芸」、よね吉「蛸芝居」。随分と、鉄板ネタが並びました。団治郎の「初天神」は初めて。声が大きくて元気がいいのですが、聴いていて、それが進行を妨害しているという感じ。ほどほどということの肝心さを知りました。佐ん吉の「犬の目」は、前座の頃に、随分と聴いたネタ。その頃から障りにならないセンスのいい挿し込みを入れていましたが、それが進化。とってもおもしろい「犬の目」になっていました。その進化ぶりに、佐ん吉の今を知ることができました。 評価が高いのが、この「犬の目」一つででも判ります。「ポイントカード」は、雀喜の新作ものでは、一番出しているのではないかな。だけど、今日は、この雀喜の後半でだけ、居眠りが発生。雀喜のゆる〜い語り口が心地よかったのだと思います。千朝は、正月のサンケイ・ブリーゼで出したネタを、そのまま持ってきました。ようやく「鹿政談」から解放されて、ホッとしたのはいいのですが、「胆つぶし」は、その次に、よく遭遇するネタですから、喜びも束の間でした。太神楽の幸輝は初遭遇のはず。土瓶の使い手は、上方では、この人だけじゃないかな。あとで上がったよね吉が、「親戚を喚んだようなわき方をしていた」と、わけの解らないことを言ってましたが、レアな芸を見せられたのですから、わかないわけはありません。太神楽をする若い芸人さんが増えてきているのは嬉しい限りです。トリはよね吉。動楽亭昼席で、よね吉のトリを見るこは初めてだと思います。その美味しさが、今日、この昼席に向かわせたのですが、ネタは「蛸芝居」でした。吉朝の思い出をたっぶりめに喋ってくれ、中でも芝居好きが高じた上での悪戯話を紹介してから、「芝居噺をします」、、、これだけ振れば判るだろうに、わざわざ断ったのは、「胆つぶし」が出たあとだったからのよう。ただ、この間、よね吉の口演では、「七段目」ばかりを聴いていたもので、これまた良からぬ胸騒ぎを覚えたのですが、セーフでした。ただ、正月をぐうたらに過ごしたのでしょうか、えらく浮腫んだ顔で、高座に上がったよね吉、浮腫んでたのは顔だけじゃなかったんじゃないかな。動き全体が重く感じてしまったのは、顔の浮腫のせいだけではないと思います。台詞回しはさすがでした。50名くらいの程よい入り。開演前の行列に比べると、入りは少ないように思いますが、長閑な空間に程よい入りが、いい空気を出していました。正月の1発目落語会としては、上々のものに遭遇できたと思っています。帰りは、定番の淀屋橋駅までのミニウォーキングを楽しみました。


2016年 1月 4日(水)午後 11時 3分

 今日は文楽を観る日。新春公演の第2部を観る日でした。その番組は、「染模様妹背門松〜油店の段/生玉の段/質店の段/蔵前の段〜」ということで、お染&久松ものが出ました。お染&久松ものと言えば、「新版歌祭文」と、これが有名で、春団治の出囃子「野崎」の基になっている連れ弾きのあるのが「新版歌祭文」ということから判るように、「新版歌祭文」でよく出るのは、舞台が野崎になっているのに対し、「染模様妹背門松」の方は、お染の実家質屋が舞台。もう2人はできあがっており、なんとか2人の仲を裂こうと、周りの者たちが苦労する物語。そこへさして、質屋の番頭善六が横恋慕をして掻き回すというのが、今回上演された下り。「油店の段」がチャリ場で、善六は、お染にちょっかいを出すだけではなく、お染の兄多三郎をも落とし入れようとする。根っからの悪玉です。それを暴き懲らしめるのが、お染の結婚相手とされた清兵衛。この清兵衛という人がよくできた人物で、お染と久松の仲を知っていながら、2人に不利にならないように、また、お染の家を守るように動きます。文楽には、稀な博愛的な人物と言えばいいでしょうか。この描き方が功を奏し、お染と久松が、自分たちのことで一所懸命で、突き進むキャラが鮮明になってきますから、大成功の設定です。チャリ場では、エアギターではなく、エア三味線まで見せてくれます。なんと進取の気分に富んだ演出なのでしょう。今日は、この段の切り語りとして、咲太夫さんが登場。うまいのですが、迫力ががた落ちです。お顔も小さくなられたような印象を受けたため、体調が良くないのではと案じております。「生玉の段」は、文楽では珍しい夢の場面。夢の中で、久松は善六を殺してしまい、自らも死を選びます。お染も後を追います。怖い夢を、それぞれが別々に同時刻に見た、これはえらい不吉なことということから始まるのが「質店の段」。ここでは、野崎村から、久松の父親久作がやって来て、野崎へ連れ帰る算段が始まり、一時的に久松は蔵住まいを命じられます。連れ帰られると、もう会えないと、一層、燃え上がるとともに、窮地に立っていく2人。既に、お染のお腹には久松の子どもを宿していることが大きく、どんどんと追い詰められていきます。この段の太夫さんが千歳太夫さん。体調が悪かったのか、一時期、覇気が乏しかったのですが、最近では最上の出来栄え。かつての勢いが戻ってきました。そして、「蔵前の段」で、蔵住まいさせられている久松が、またまた出て来た善六に当て身を食らわせ、お染とともに逃げて行きます。ちょうど大晦日から新年にかけての話だということで、この新春公演に出たのですね。終演が、まだ8時前。開演が4時半ですから、えらくスリムな公演だったことになります。4月公演は、呂太夫襲名披露で、「寺子屋」が出るそうです。


2016年 1月 3日(火)午後 10時 46分

 今日から新年のお出かけを始めました。まず、テアトル梅田で映画を観ることにしました。「ヒトラーの忘れもの」というデンマーク&ドイツ合作映画が上映されています。正月早々、ナチスものというのは、ちょっと重いのですが、他に行こうというところもないということでのチョイスとなりました。この映画の英語の題名が「地雷畑」、ドイツ語の題名が「砂の下」ということを併せてみると、この映画のコンセプトが見えてきます。ナチス・ドイツ軍は、大陸への上陸を防ぐため、デンマーク西海岸の砂浜に、大量の地雷を埋めたため、戦後、その地雷処理の必要性が出てきた。その作業に使われたのが、拘束されたドイツ兵、中でも、この映画のように、少年兵が、多数使役されたということです。地雷処理の専門家でもない少年兵は、そのため、亡くなったり、負傷する者が多数出たそうなのですが、この映画でも、最初14人いた少年兵は、最後には4人になるという有り様でした。その少年兵たちの指揮を執るデンマークの軍曹は、戦後まもない時期のデンマーク人の反ドイツ感情を体現した人物として現れてきます。しかし、相手が少年であること、未熟な技術のため、命を落とす者が出て来ると、ドイツ兵というくくりではなく、故郷に帰りたがっている少年と、徐々に映り出していきます。差し込まれる挿話で、この軍曹が見せる振幅が大き過ぎるのが、ちょっと気にはなるのですが、軍の指令として、危険な作業が済んだ折りには、ドイツに帰してやろうという気持ちに傾いていく中で、一挙に、4人に減る事故が起き、更に、不寛容なデンマーク軍上層部の指令が出ることで、ラストに向かい、物語はスパートしていきます。とにかく、地雷処理作業が、この映画の多くの場面を占めていくものですから、観ているのが、ホントに辛く、そういった場面は、殆ど画面を観ないようにしていたほどです。デンマーク兵のドイツに対する怒り、勝ち組デンマーク軍の無軌道ぶりに納得したり、反感を覚えたり、でも、これが戦争の実相だということなのでしょう。暴力による支配、報復、こうした原初的な暴力が復活してきている昨今、人間は、何を学んできたのかと考えさせられてしまいます。


2016年 1月 2日(月)午後 9時 56分

 今日は、お誘いを受けての食事会。目指すレストランは、軒並み、まだ正月休みということで、鶴橋で、韓国料理を食べることになり、ならばと、話題の真田幸村縁の史跡を歩くことに。一心寺、安居天満宮、心眼寺、三光寺、産湯稲荷社を巡ってまいりました。韓国料理は、行き慣れたアリラン食堂が開いていたので、そちらにおじゃま致しました。サンゲタン、アリラン・チヂミ、豚の野菜炒め(なんちゃらポックム)、それを、マッコリを呑みながらいただきました。もう、おいしいものだから、はしたなくもがっつくように食べ、呑みました。気がつくと、すっかりできあがり、お腹ははちきれんばかり。やはり韓国料理はうまい。申し分のない食事会でした。


2016年 1月 1日(日)午後 9時 33分

 新珠の新年、今日は、昨年同様、弟の家でお酒を呑み、眠り、呆気なく1日が過ぎてしまいました。これではいけないと、黄昏どきに、近所をウォーキング。冬至から10日ほど過ぎるとえらいもので、日没が遅くなっています。おかげで、暗闇が支配する際どいところで、ウォーキングを打ち上げることができました。


2016年 12月 31日(土)午後 8時 35分

 今日は大晦日、でも、落語会に行く日。1年の締めは、動楽亭であった「第3回桂団朝落語会」でした。その番組は、次のようなものでした。団朝「年忘れ楽屋噺」、紅雀「親子酒」、団朝「高津の富」、(中入り)、そうば「必殺仕分人」、団朝「正月丁稚」。大晦日の落語会っていうので、どのくらい入るのかが気になっていたのですが、動楽亭のキャパちょうどというくらいの入りにびっくりさせられました。すき間狙いの日程設定かと思っていたのですが、団朝が言うには、ラジオ出演が決まったときに、何か手土産があった方がいいかということで、そのために設定したとか。ただ、黄紺の方が絶不調。昨夜は、睡眠時間を十分に取れたにも拘わらず、大阪に向かう電車の中からやたら眠たく、動楽亭に着いても、まだ眠い。これはダメと思っていたら、案の定、最初と最後の団朝の高座だけが、満足に聴くことができ、あとは、飛び飛びの記憶しか残ってない始末。今年最後の落語会が、惨憺たるものになってしまいました。自分のイビキで目が覚めること、数度。周りの方たちにも、ご迷惑をかけたかもしれません。冒頭の団朝のトークは、2月の米朝追善興行にまつわるボヤキが中心でした。そして、最後の「正月丁稚」が、絶妙のタイミングで聴けました。あと数時間で元旦というときに聴く「正月丁稚」は、格別なものがあります。昔の船場の風習を垣間見れるのが、黄紺は嬉しくてたまらないのです。団朝の丁稚は、ちょっと物足りなかったのですが、旦さんの落ち着きが絶妙。「降る(鶴)は千年、雨(亀)は万年」、、、いいお正月を迎えられそうです。


2016年 12月 31日(土)午前 7時 44分

 昨日は落語三昧の日。年末に来て、スパークしています。昼は八聖亭、夜はツギハギ荘というラインナップです。年末になり、仕事枯れになったのか、いい会が続きます。まず、八聖亭の方は、「第6回生寿の真っ向勝負」です。生寿が、先輩噺家を喚び、二人会の形式で行われる会ですが、うまくタイミングが合わず、6回目にして初めておじゃまをすることになりました。今日の先輩噺家は、師匠生喬の盟友南天ということで、楽しみも倍加するものという期待を持ち、出かけてまいりました。その番組は、次のようなものでした。瑞「金明竹」、生寿「二人癖」、南天「火焔太鼓」、(中入り)、生寿「くっしゃみ講釈」、全員「対談」。聴き鳴れた噺が並びました。前座で喚ばれると、瑞は「金明竹」に決めているのかな。「金明竹」にばかり当たります。でも、考えたら、瑞は前座として大人気。いろんな先輩から、声がかかっています。コアな落語ファン氏から伺ったのですが、瑞の師匠都は、最後の仲買の弥一は省いていたそうで、瑞の姉弟子紫が、このネタを下ろしたときにも、弥一を省いたものだったところ、どうやら不評をかこったようで、その後、紫は入れているのですが、端から、完全版でネタにしているのは、瑞が初めてだそうです。そないな背景を考えると、瑞の思い入れのようなものがあるのかもしれません。南天の口演は、2つかと思っていたら1つ。このクラスに、2つのネタを頼むのは難しいのかな。確かに、南天相手に二人会というのも変ですから、妥当な番組というところかもしれませんが。ネタは、この夏、2回聴く機会を得た「火焔太鼓」でした。主役の生寿は、「くっしゃみ」をネタ出し。「二人癖」の方が「お楽しみ」になっていました。「二人癖」は、大師匠松喬からもらった2つのネタの内の1つだとか。2人は、癖の治し合いの話をするところからスタート。フルヴァージョンだったことになります。「くっしゃみ」の方は初めて。生寿は、時々、子どもっぽい口ぶりになるのが、毎回気になるところなのですが、この「くっしゃみ」では、序盤に出かけたり引っ込んだり。後藤一三に対する恨みを言う場面や覗きからくりの場面ですが、出かけると引っ込むという感じでしたので、本人も意識してるのかなと思ってしまいました。あの物言いが出ると、急に生寿の口演が安っぽくなってしまうので、いつも気にしながら聴いているのです。それさえ気にしなければ、総体として、長閑な空気が流れ、感じのいい仕上がりと思いながら聴くことができました。「対談」は、生喬の大学時代を知る南天から、たっぷりと、大学生活での生喬の変貌ぶりが語られました。以前にも垣間聴いた話ではあったのですが、いじられキャラだった生喬が可笑しくて、おもしろ話を、より詳しく聴けて、バンザーイでした。
 福島の八聖亭から、天満のツギハギ荘まで歩いて移動。途中、ちょっと遠回りをしてしまい、食事をしてから行くと、かなり開場時刻を過ぎてから到着。ツギハギ荘では、「第1回 サクッと吉の丞〜」がありました。動楽亭で開いている会とは別に、吉の丞が始めた会。全くの一人会。こちらは、第1回に潜り込むことができました。その番組は、次のようなものでした。「転宅」「源平盛衰記」「除夜の雪」。「転宅」は、今年、ネタ下ろしをしたということで入れてみたそうです。吉の丞の「転宅」は、確か3度目になりますから、今年からとは思ってもいませんでした。小佐田センセのテキストを基に持ちネタにしている三喬からもらったそうです。そうかなとは思いつつ、吉の丞の口演からは、三喬テイストが滲み出していなかったもので、不明なままのことでした。だけど、そう考えると、自分のカラーにしてしまっている吉の丞の実力が判るというところです。「源平盛衰記」は珍しい、上方ではということですが。以前、南光がやってたのかなぁ、先代歌之助も、確かやってましたね。そのくらいしか、思い出せません。地噺だし、源平の合戦に関わる歴史的事件が、頭に正確に入ってないと、できない噺。そして、地噺であることを利用して、横道にそれながら進めることも、自在にできるということで、時事ネタや落語界裏話などを挿し込むなんてことも見せてくれました。おもしろいものを聴かせてくれました。そして、短い中入りののち、正に季節ネタ、「除夜の雪」を出してくれました。マクラで、吉の丞も言ってましたが、このネタをする噺家がえらく増えました。最近、若い噺家さんの中で、差別化を図るために、レアもの志向が出てきている一環と言えばいいのでしょうか、それが重なった結果、手がける人が増えたなどという現象になっているのだと思います。吉の丞からすると、そういった現象は望外のことなのでしょう。吉の丞は、前から持ちネタにしていましたし、ましてや、米朝から、このネタについて聞いているという自負もあるはずですからね。3つ出したネタは、各々彩りの異なるものでしたが、その各々に対応できるのが、この人の強みだと、3つ目に来て、つくづく思わせられました。庫裡から外に目を向けたとき、外の暗闇と雪の白さが見えました。となると、庫裡の暖かみ、外の寒さも感じます。なかなかの好演。終演後、会場の配置替えをして忘年会をするというのでしたが、そういった場にはなじめない黄紺は、そそくさと退散。しかし、まだ聴いてなかった吉の丞の持ちネタ2つを聴けて、満足、満足でした。


2016年 12月 30日(金)午前 7時 12分

 昨日は二部制の日。昼間は、動楽亭での落語会、夜は、無花果であった書生節の会と、年末にいい会が並びました。まず、昼の動楽亭では、「歌之助・しん吉二人会〜ふだん滅多に出来ないネタをする会〜」がありました。随分と以前、千朝らが開いていた「ネタの虫干しの会」の流れを引くものと考えています。その番組は、次のようなものでした。しん吉「眼鏡屋盗人」「鯉盗人」、歌之助「宗論」、しん吉「質屋蔵」、(中入り)、歌之助「帯久」。年末だからでしょうか、平日の昼間とは言え、結構な入り。トップに上がったしん吉が、この時期は、仕事もないので、2人の忘年会という感じで、歌之助が、早い時間帯から呑みたいと言っているので、こないな時期&時間帯に設定したと言っていました。米朝一門では、この2人って、最も近い時期に入門しているそうです。しん吉は、まずは、短いということで、ネタを2つ続けてやってくれました。「眼鏡屋盗人」は、米朝宅に修行に入っているとき、米朝が機嫌が良かったのか、昼すぎに、急に稽古をつけてやると言われ、もらったものだそうで、しん吉は、米朝が高座で演じるのを聴いていたので、既に覚えてしまっていたと言っていました。同じ時期に、住み込みの修行に入っていた吉坊に、米朝が銀行への用事をさせに行かせている間に、稽古は終わってしまったとそうで、ま、それだけ短い噺です。「鯉盗人」は、噺の存在は知っていたのですが、内容は、全く知らない噺。鯉と声をかけての下げを言いたいために作ったような噺でした。ともに頼りない盗人が出てくる噺ですが、とぼけた噺に、ちょっととぼけた登場人物を斜めから見ているしん吉が感じられ、客と一緒に噺を楽しんでいる風情が、なかなかいい感じ。それが、「質屋蔵」になると、一層鮮明になってきて、あまりない風味の「質屋蔵」になっていました。なかても、蔵の番に出かける番頭と熊はんの怖がりぶりの中で、そういった傾向を、強く感じることができました。一方の歌之助は、落語のネタにクレームをつけてくる人がいるようで、その対象になる噺として、「宗論」が上がったことがあったようです。名古屋の米朝独演会で、先代歌之助が出したところ、案の定、「宗論」にはクレーマーがきたようです。染雀なんかで聴くのと同じ流れ、テキストだったと見ました。この型を、上方で、誰が作り上げたのかが気になっていたのですが、先代の歌之助がやってたことに触れられ、そう言えばの気になってきています。当代の歌之助が持っていることも知らなかったのですが、全くイメージの異なる口演を聴けて、大正解でした。しん吉の前2つのネタといい、とっても目っけものをしたというところです。そして、トリとして、大ネタ中の大ネタ「帯久」でした。歌之助の「帯久」は、黄紺的に初ものとなります。十干十二支の説明を、マクラでしっかりとふってから、ネタへ。歌之助らしい実直な入り方。しっかりとした語り口、変化をつけないインテンポの語りに、アクセントを付けるようなキャラのちょっとしたデフォルメが入ります。濃くしないのが、極上のシェフの心得か。なんせ、語りこそが命と看ていることを、それで訴えているようです。その当たりの見極めにも、歌之助の良さが滲み出ていました。ただ、お奉行さんの品格に、ちょっと物足りなさは感じてしまった黄紺でしたが、小さなことかもしれません。年の瀬に、いいもの聴いたぞと、嬉しい気持ちにさせてもらいました。とってもたっぶり感のあるいい会に、火照った気持ちで外に出ると、外は、先日までの暖かさがウソのような師走の寒さが待っていました。
 動楽亭を出ると、時間があるということで、次なる会場まで歩いて移動。途中、時間調整を、心斎橋のネットカフェでしてから、頃合いの時間に到着。「茶論無花果散開記念特別興行 第壱拾八回"今甦る書生節"貧困を唄う ふたたび」と銘打たれた名残りの会に行ってまいりました。先週の木曜日、南海さんが出演された「上方講談を聞く会」で、初めて知った会、幸い、時間が空いていたので、この名残りの会におじゃますることができました。狭い会場に詰め合わせたり、また、開演時間が過ぎてからやって来る不届きな客を待ったりと、この会特有の時間の曖昧さののち、ようやく開演。次の12曲が披露されました。@コロッケの唄A東雲節Bインディアン・ソングC?D時代節E思い出したF紺屋高尾Gラッパ吹きH飛行機節IインターナショナルJ臆病風に吹かれて(ボブ・ディラン)K嗚呼、夢の夜や。オーソドックスな書生節から、お遊びのボブ・ディランまで、元唄よりか、替歌のおもしろさが蔓延した会。それも、この会の中毒症状を産む要因。ところが、最近、とんと新聞を読まなくなり、時事ネタに弱くなった黄紺には、時として厳しい会にもなりました。周りの人たちが笑っているのに、その意味が解らないってやつです。そんなのは折り込み済みなのですが、そのずれ、世間との乖離は求めるところでもあり、しかし、それを自覚するにつけ、一抹の寂しさを感じるところに、まだまだ世離れしていないと思い知ることになりました。書生節のホームグランドであった会場がなくなり、次は、どこでお二人の唄&ヴァイオリンを聴くことができるのでしょうか。これが、一番の不安です。


2016年 12月 28日(水)午後 10時 34分

 今日は、天神橋近くにあるツギハギ荘で落語を聴く日。「喬介のツギハギ荘落語会」がありました。ここ2回だったかな、都合で覗いていないのですが、コアな落語ファン氏が狙いにしている会。それだけで、喬介という噺家さんに対する期待の大きさを知ることができます。前座なし、助演なしの、全くの一人会。その番組は、次のようなものでした。「太鼓腹」「パネルで遊ぶ」「青菜」「佐々木裁き」。今日は、雀五郎の会、鯛蔵・二乗らの同期会と、コアな落語ファンが好む会が重なったためか、先日の八聖亭のときのような爆発的な集客力を見せなかった分、ラハトに喬介落語を楽しむことができました。この会では、ネオ下ろしをすると、自分に枷を貸している喬介ですが、今日は、「青菜」が、それに該当しました。真冬に夏の噺のネタ下ろし。来年の夏に備えてということでしょうか。「途中でえらいことになるかもしれません」と、予防線をはってからの口演。そういったときって、得てしてスムーズに行くものなのですが、正に、その通り。あとの「佐々木裁き」よりは、かなりスムーズ。むしろ、「青菜」に集中したためか、「佐々木裁き」の方が噛み気味でした。それに比べて、「太鼓腹」は、やはり一番、手の中に入っている姿を見せつけてくれました。となれば、喬介らしさ全開。何度も聴いているのに、次が楽しみになるってやつです。ネタ下ろしの「青菜」は、喬介テイストを入れている間もなく、本番を迎えてしまったってところで、確かにスムーズではあったのですが、喬介落語は、こんなものじゃない。教えられたままとは言いませんが、喬介カラーに染まって行くのはこれからといったところでした。師匠三喬も、「青菜」を持ってますから、師匠からもらったものでしょうね。「佐々木裁き」の方は、口演の中で、「師匠から教えられた」と言ってましたから、それは間違いのないこと。ただ、黄紺は、三喬の「佐々木裁き」を聴いてないので、どこまでが三喬風味なのかが解らないでいます。特に序盤のお奉行ごっこをする子どものキャラが目立つものですから、師弟のカラーの弁別をしてみたいのですが、現時点ではできないでいます。そないなことを知ってから、再度、喬介の口演を聴いてみたい気にさせるものがありました。やはり、喬介は強者です。自分の色を、はっきりと持っているのが、何よりも強みです。なお、パネルを使ったお遊びは、街で見かけたおもしろコピーを画像にして見せてくれました。


2016年 12月 27日(火)午後 10時 52分

 今日は、毎月おなじみの講談会に行く日。薬業年金会館5階和室であった「第233回旭堂南海の何回続く会?〜新読物開始」です。今日から、新読物「祐天吉松」が始まりました。講談の抜き読みや浪曲では、何度か遭遇経験のあるネタですが、全く話の全貌が判らず、抜かれた部分が全体の中で持つ意味合いが判らず、困っていたのを見透かしたかのような好企画です。その第1回は、そういった意味で、大切なところだったのですが、前段の立花金五郎という、侍上がりの悪についての物語の途中から居眠り。千葉周作門下の生真面目な侍立花金五郎が、平手造酒に連れられ吉原に行ったことをきっかけに崩れ出すあたりは、記憶にあるのですが、どうやら、その物語の中で、吉松と出逢っているようなのですが、それは、全く記憶には留まってはいない状態。で、話変わり、ある大店の娘の恋患いの物語に移ります。娘は、象の見世物を見に行き、そこで見かけたスリに恋したということ。一方で、その店は、表具類を扱う店のようで、その店で緊急を要する仕事に派遣されてきたのが、腕のある表具職人吉松というわけなのですが、一方で、娘が恋するスリでもあるというから、話が混乱してくる。そのことが、店の主人、娘の父親の耳に入ったものだから、患いつく娘を思うあまり、父親は、吉松の親方を喚び、素性を確かめることになり、スリに身を崩したこともあるが、腕だけは確か、しかも、成田山新勝寺の祐天上人に願をかけたことがきっかけで腕を上げたこと、そのため、背中に祐天上人の彫り物を入れていることが明かされていきます。父親は、それも承知のうえ、今は真面目な職人として、しかも、腕利きの職人としての生活を送る吉松を、娘の婿に迎え、身代も譲り、子どもも産まれ、順風満帆に進んでいるときに、突然、立花金五郎から1通の書面が舞い込んで来たところで、年を越すことになりました。絶好の切れ場となってしまいました。タイミングが良ければ良いほど、悲鳴は大きくなりますが、今日の悲鳴は、かなり大きいものがありました。


2016年 12月 26日(月)午後 11時 7分

 今日は映画を観る日。行ってみたい落語会があったのですが、混み合うことが予想されたため、映画を観る日に変えました。この間、2つほど、混み合う会に行き、息苦しい思いをしたものですから、端から混雑が想定されるところはやんぺです。で、映画というのは、シネマート心斎橋であった台湾映画「私の少女時代 -OUR TIMES-」。来年は、トルコ旅行は避けて、他所に行こうかと思っているのですが、その候補地の筆頭に考えているのが台湾なもので、台湾ものならなんでもいいやの気持ちからのチョイスでした。30代かなぁ、そのくらいの年齢になった女性が、高校時代の初恋を振り返る青春グラフィティものという、よくある設定のお話し。別段、何か想像を超えるような要素が盛り込まれているわけではなく、楽しくおもしろく見せることに長けたもので、退屈することなく、最後まで引っ張って行かれました。主役の2人が、うまく行き掛けて、でも、冒頭の現在の女性の物言いでは、うまく行かなかった、ま、初恋物語がうまくまとまってはおもしろくはありませんから、それが妥当なんでしょうが、ですから、うまく行き掛けては、結局はうまく行かなくなる辺りがもたついた感じがしたのですが、終盤のバラシで、そのもたつきもわけありで納得。相手の男は、留学をするということで、彼女のもとを去って行きます。そして、ラストに、憎らしい再会が待っています。キーワードはアンディ・ラウでした。青春グラフィティでは、随分とアンディ・ラウのキャラクター・グッズが、恋のアイテムとして活躍したのは、高校時代が80年代の設定で、且つ、この映画の製作に、アンディ・ラウがかんでいるからだろうくらいにしか思っていなかったところ、ご本人が、ラストの仕上げになるキーパーソンとして、本人役で出てくるわ、そして、物語の落ちにまで絡んでくれました。単純に口を開けてぽか〜んと楽しむ映画、また、それが可能の映画でした。1年ほど前に観たのかなぁ、同じ台湾青春映画「若葉のころ」よりは、楽しめる映画でした。この映画を楽しんでいると、ペーター・コンヴィチュニーのオペラを観たときとは違った脳の部分が働いたような気がしました。


2016年 12月 25日(日)午後 11時 10分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、チェロの上森祥平 さんのソロで、B.ブリテンの無伴奏チェロ組曲全3曲が演奏されました。ブリテンのこれらの曲が演奏されることは、あまりありませんし、ましてや全曲が、一挙に演奏されることも稀なこと。最後に、ちょっとだけお話しをされた上森さんに拠れば、それは、特に日本人演奏家の特徴だそうで、記憶にあるのは、10数年前に、堤剛さんが、サントリーホールで演奏されたくらいということですから、確かにレアな曲です。この3曲は、いずれもロストロポーヴィッチに捧げられたものだそうです。1960〜70年代に書かれたということで、正に現代の作品。でも、ブリテンのことですから、突拍子もない現代曲というわけではありません。3曲が、作曲順、即ち番号順に演奏されましたが、2番が、他の2曲に比べると、ちょっと異質な印象を与えるということで、これは妥当な構成と思っていたのですが、終わってみると、3曲とも、同じような曲想だったじゃないかというのが、上森さんの演奏スタイルでした。2番は、長い音符が多く、弦を弾ききるという感じになってしまうのに対し、他の2曲は、短い音符が続き、その特徴を掴まえて、更にスタッカート気味に演奏するスタイルにもお目にかかるというところなのですが、上森さんは、そこを、懸命に、テヌートをかけ、少々テンポを落とし弾かれたものですから、2番と似た曲想になっちゃいました。全曲、抒情性に満ちた音楽になりました。こないなことになるとは、、、やはり、生の音楽会は、これだから、おもしろい。1月には、今度は、フォーレを演奏されます。こちらも、俄然、楽しみになってきました。


2016年 12月 24日(土)午後 10時 53分

 今日は、繁昌亭に行く日。ドイツから帰ってきてからは、初めてとなりますが、同時に、今年最後となる繁昌亭に行く日でもありました。今夜は、「姉様キングス クリスマス夜会」のあった日でしたが、この会に行けるのは、何年ぶりになるのでしょうか。この時期には、ドイツにいましたから、行きたくても行けなかったのです。その番組は、次のようなものでした。あやめ・染雀・フランシー堺「オープニング☆クリスマスソング」、染雀「佐々木裁き」、あやめ「後妻業のお千代」、(中入り)、姉様キングス「音曲漫才」、金谷ヒデユキ「替え歌漫談」、あやめ・染雀・フランシー堺「フィナーレ☆シャンソンショー」。毎年、この会で、クリスマス・イヴを過ごすことにしているという方もおられるという人気の会。今日も、補助席の出る盛況でした。繁昌亭は、落語をしなければ使用許可が出ないということで、前半は、2人の落語。でも、染雀は釈ネタを、あやめは最新作をと、半端ではないネタが並びました。あやめ作品は、先日の動楽亭で聴いたところでしたが、染雀の「佐々木裁き」は初遭遇。お裁きごっこをする子どもたちのキャラ作りを濃くしたのと、問答の後半をカットしたのが、特徴と言えます。問答のカットは、確かに、言葉遊び的になりますから、合理性はあるかと思います。ひょっとしたら、時間のことを考えてだけのカットかもしれませんが。姉キンの漫才は、これがメーンという感じで、普段のパターンを決めた高座より、かなり自由度の高いもの。それだけ、ゆったりと2人の奔放なお喋りを楽しむことができました。今日の高座用に用意したのは、「せいや」の3文字を頭に使った短文製作で、今年を振り返ったくらいで、最後は、お約束のあほ陀羅経で締めくくりました。金谷ヒデユキは、東京からの来演。姉キンの東京公演のゲストに喚んだのが縁だそうです。そして、「デザート」という名のもとの本日のメーンディッシュが、ラストのシャンソンショー。今日歌われたのは、「ミルク32(染)」「Me&My Girl(あ)」「毛皮のマリー(染)」「老女優は去りゆく(あ)」「エクスタシーいくよくるよ(あ&染)」の5曲でした。「ミルク32」は、染雀の弾き語り、「Me&My Girl」と「毛皮のマリー」には、染八のドラムが入りました。7、8年ぶりくらいになる「クリスマス夜会」でしたが、午後9時に終わり、びっくり。これは、黄紺ら客席だけではなく、出演者もだったようです。


2016年 12月 23日(金)午後 11時 00分

 今日も講談を聴く日です。しかも、2日連続で、動楽亭で講談を聴くことになりました。今夜は、「南湖の会 〜探偵講談と太閤記」がありました。優先度の高い位置を、自分の中では占めている会です。というのも、講談会に足を運ぶきっかけになったのが、南湖さんの口演を聴いたのがきっかけでしたから、南湖さんが続けられている会は、優先度が高くなるのです。今夜の番組は、次のようなものでした。南湖&鱗林「対談」、南湖「太閤記:琵琶湖渡り」、鱗林「赤穂義士外伝:妙海尼」、南湖「三題噺:アンドロイド、最終回、お正月」、(中入り)、南湖「探偵講談コレクション:双子の犯罪」。今日も不調。「対談」は、さすがに目先が変わったものなので、大丈夫だったのですが、次の2つがいけません。ひょっとしたら、聴いたことのないネタだったかもしれないのに、情けない話です。やはり、睡眠が順調じゃないことが原因なのでしょうね。「琵琶湖渡り」は、明智の残党の話、「妙海尼」は、討ち入り後、父親と夫を亡くし、また、同時期に母親まで亡くした堀部安兵衛の妻幸(こう)が出家してからの動きを追ったもの。ま、今日は、そないなことを書けるので、昨日よりは、ましということでしょうか。「三題噺」が流行っているのか、真山隼人くんの会に次いで、南湖さんもやっちゃいました。冒頭の「対談」は、挨拶というよりは、このために置かれたものでした。要するに、お題取りとしてということでした。南湖さんは、九度山に蟄居する真田親子のほのぼの話に仕上げました。「探偵講談」は、初代快楽亭ブラック作品でした。長い話だということくらいしか覚えてなかったのですが、始まり出すと、わりかし蘇ってきました。ただ、1回で終わるわけではありませんので、あと2ヶ月くらい続くかもしれません。幸い、2月までは、「南湖の会」に行けますので、全部を聴けるかもしれないなと思っています。今日は、フランス革命から逃れ、イギリスに亡命した沢辺男爵が、ナポレオンの登場をきっかけにフランスに戻る際、イギリスで結婚した女をフランスに連れて帰らないため、残された女は困り、双子の子どもの1人を捨てるのだが、幸い、その子を拾った男が、夫婦で育てあげたある日、成長した子どもは、双子のもう一人に、偶然逢います。話が急展開しそうなところで、切り上げられました。講談の常套手段を使われてしまいました。幸い、「探偵講談」は、無事に聴くことができました。でも、2日連続で散々なことになりました。


2016年 12月 22日(木)午後 10時 21分

 今日は講談を聴く日。動楽亭であった「第459回上方講談を聞く会」に行ってまいりました。上方講談協会定例の会ですが、かぶるネタが多く、最近では、年2回くらいしか、覗いていないような気がしていますが、その番組は、次のようなものでした。南青「婿引出」、南舟「山本勘助と川中島」、南華「金森出雲守頼門」、南海「神崎の東下り」。今日は、昨夜の睡眠の影響が、まともに出てしまい、南海さんの口演以外、ほぼ沈没です。特に南華さんの口演は、ほぼ記憶にないというひどい状態でした。それで、南海さんの出番になり、よく立ち直れたなと思うほどです。ですから、書けるのは、南海さんのところだけ。12月でありながら、「赤穂義士」はこれだけという珍しい番組。他の3人のネタを見て、南海さんが、トリとして、敢えて「赤穂義士」ものを入れられたのかなと、勝手な想像を巡らしていました。「神崎の東下り」は、南湖さんが、よく出されるネタと、黄紺にはインプットされていて、南海さんでは、初めてかもと思っています。舞台は浜松の宿。赤穂での残務整理をしたあと、唯一人で江戸に向かう神崎。昼食を摂っているときに、酔っぱらいに絡まれ、土下座をさせられ、しかも、詫び状まで書かされる神崎。討ち入りを前に、余計な悶着を起こしたくない神崎は、なされるままになったというわけです。そして、討ち入り後、それに、神崎が加わっていたことを知った当のだだけ者が、自らの行為を恥じ、泉岳寺に行き、墓守になったというものでした。粋人とも言われている神崎に、酔っぱらいのだだけ者を対置するおもしろさを狙ったものでしょうから、赤穂義士の誰にでも、この物語が成立するわけではありません。ということで、久しぶりに行った「聞く会」が、散々なことになってしまいました。外に出ると、猛烈な雨風。新今宮駅まで歩いただけで、ズボンはぐっしょりなってしまってました。異様に気温は高いしと、今日は、変なお天気です。


2016年 12月 21日(水)午後 10時 37分

 今日も落語を聴く日。今夜は、薬業年金会館5階和室であった「笑いのタニマチ vol.128〜仁智の新作落語道場」に行ってまいりました。この会は、以前は、足しげく通ったのですが、最近は、スケジュールが合わず、とんとご無沙汰をしていました。今や上方落語の新作派の大御所仁智が、自作をお試しする会で、前座、ゲストも新作を出すという会ですが、その番組は、次のようなものでした。染八「蓮の池クリニック」、仁智「説得」、花丸「鉄宝勇助」、仁智「源太と兄貴ラーメン編(?)」。薬業年金会館の建て替えに伴い、この会も、21年続けたところから離れねばならないということで、今日が、こちらでできるラスト2ということで、開演前から、5階ロビーは、列を作る人で溢れていました。黄紺は、別にラスト2を意識していたわけではなかったのですが、程よい落語会がこれっくらいだったもので、久しぶりに寄せていただいたら、この騒ぎ。人混みが嫌いな黄紺は、一昨日の動楽亭に次いで、大変な後悔。おまけに、全館に暖房が効いているために、会場だけ、クーラーを入れても、大変な暑さ。これも、一昨日の動楽亭と同じ。いや〜、まいりました。3月にフェアウエルを兼ねて、記念の会を、遊方&たまという新作の豪華メンバーを迎えて、こちらで開催して、それ以後は、繁昌亭で開催するつもりと、仁智は言ってました。ま、集客力からして、妥当な選択でしょう。で、今日の1番手は、初登場の染八。繁昌亭の募集台本の入選作で、かなり福笑テイスト満載の「蓮の池クリニック」を聴かせてくれました。確か、染八で聴くのは3回目となるはずです。1回目は、まだまだ仕込みの時期なのにと、染八が、このネタをすることに否定的だったのですが、2回目には、自分のものにしてきていると、一転、肯定的になったのですが、今日は、また逆戻りです。第一、こないに福笑テイストのままでの口演だったっけと思うほどのものだったのが、気に食わない点です。先祖返りのようになってます。福笑の個性でおもしろくても、染八でおもしろいとは限らない見本のような口演になっていました。ゲスト枠は花丸。「鉄宝勇助」の「宝」は「宝塚」でした。千三つの男が、昔、宝塚にいたとホラを吹きまくる噺ですが、ここで、会場の暑さに負けてしまい、残念ながら居眠り。仁智の1つ目、「説得」は、聴いていて、以前に聴いたことがあることを思い出しました。序盤は、警官2人によるボケ合い、中盤からは、通報を受けて、その2人の警官が、飛び下り自殺をしようとしている男を説得に向かうというもの。ここでも、自殺志願者との間で、とんちんかんなやり取りが行われるというもの。中でも、テキストに合わせて、音楽を入れながら説得に当たるというのが、一番の山場でしょう。「ラーメン編」は、「?」を付けましたが、確か、こういった名を付けた作品が、仁智作品にあったので、これだろうと思っています。ちょっと貧乏な2人、お金の算段を、お約束のオムニバス形式で展開します。その1つに、ラーメン屋で、難くせをつけて、ラーメン代を踏み倒すつもりであったラーメン屋に入ったのですが、そこの店主が、兄貴の記憶に残る人。ここから、急展開で、このネタは人情噺になります。そこまでが、仁智お得意の展開だったため、黄紺も含めて、会場にピンと張りつめた空気が流れました。これは、仁智にしてやられました。いろいろと、変化をつけてくるものです。仁智作品にはなかった展開に、拍手ものでした。


2016年 12月 20日(火)午後 10時 56分

 今日は落語を聴く日。「直海屋 出丸の会 其の弐」という会に行ってきました。長堀橋駅の上という位置にあるビルの中での落語会、スペース的にはいい感じのところです。出丸主宰の落語会は、久しぶりとなりましたが、その番組は、次のようなものでした。二葉「つる」、桂出丸「酒の粕」、宗助「稲荷俥」、出丸「たちぎれ線香」。二葉は、前座として重宝されています。「つる」は、自身の会でネタ下ろししたとき以来の遭遇。天然系のアホがいい感じです。出丸の1つ目は「酒の粕」、でも短いので、延々とマクラが続きます。酒の話をし出したので、そのままネタに入るのかと思っていたら、それだけでは足りないということでしょう、今年の重大ニュースと言っても、春団治師の死とか、神戸繁昌亭についてとか、そないな話題ですが、それから、また酒の話題に戻って、ようやくネタに入りました。宗助は、最近、落語会で、なかなか会えなくなっている噺家さん。それだけ、偉くなったのかな、要するに、ゲストで喚びにくくなったのでしょうか。米朝テイストいっぱいの宗助の「稲荷俥」ということで、楽しみだったのですが、そういうときに限り、居眠りが出てしまいます。俥屋が、家に着いたあとがダメになっちゃいました。そして、お目当て「たちぎれ線香」、出丸では、随分前に1度聴いていますから、2度目となります。相変わらす、カミカミで、聴いていて歯がゆいほど、凸凹とした進み方をするのですが、終盤、結構、胸に来るものがありました。100日の蔵住まいから出てきた若旦那、もう、そこから小糸のもとへ馳せ参じるスタンバイ状態を感じさせたのが、大きな原因だったと思います。そういったときって、出丸の滑舌の悪さが、却って効果を発揮しました。出丸の口演ほど、紀の庄に駆け込んだ若旦那はいなかったと思いますし、戻らねばならないことを強調した口演もなかったかもしれません。そういったところから、若旦那の懸命さが、小糸の死と重なり、ぐっとくるものがあったのでしょう。そないな口演を聴け、この会に出かけて行ったことは、花○と自画自賛です。


2016年 12月 19日(月)午後 11時 36分

 今日は、ちょっとおもしろ企画の会があった動楽亭にお出かけ。「浪落男女〜女の事件簿〜」という、テーマを持って創られた落語と浪曲を聴く会が行われたのです。仕掛けは、あやめなんでしょうね。番組は、次のようなものになりました。あやめ「ちりとてちん」、春野恵子(一風亭初月)「阿部定〜恋の斬傷(桂あやめ作)」、(中入り)、あやめ&春野恵子「対談」、春野恵子(一風亭初月)「樽屋おせん」、あやめ「後妻業のお千代」。大変な入りに、まず、びっくり。「秘法館」のときに並ぶ入りで、開演前には、外に人が溢れていました。予約が多かったからか、追加公演も行われるとか。落語会で見かける人は、ほぼ見かけていませんから、一体、どういった人たちが、足を運んだのでしょうね。テーマは、ずばり「女」。中でも目玉は、あやめ作、恵子節付けで出された「阿部定」。「対談」も、その口演に集中。あやめに依ると、阿部定の供述調書が克明に残っていて、出版もされているようで、それを基にした創作だということで、実際聴いていて、丹念な資料集めに基づくものであることが、よく判りました。冒頭、事件後、投宿をしていた宿屋で逮捕されるところから始まり、そして、供述に移り、阿部定の半生、事件に繋がる経緯を愚直に追いかけるというもの。途中、花街を転々とする姿が、まるで道行を聴かせるように描かれていきます。様々な地名、廓の名前が出てくるため、恵子さんは、覚えるのが大変だったようですが、この流浪するが如く、各地を転々とする姿が、この阿部定という女性の哀しさが現れていて、この作品の白眉だと思いました。また、パトロンであった大宮先生の親身な説得、ようやく、それに応じる定、だが、その勤め先で、運命の男吉蔵と出逢う皮肉。真っ向から描いた阿部定物語だったと思います。あやめは、創作に当たり、かなり切り捨てる部分に手こずったようですが、柱がくっきりしていた作品になっていましたから、上出来でしょう。節付けも、変化を持たせるように努められていたことが、よく判りました。正に、2人の共同作業です。なかなか正攻法のもので、達成感を持たれていると思いますので、近い将来、第2弾を聴くことができるのじゃないかな。あやめの「後妻業」は、「できちゃった」で発表済みのものだそうです。黄紺は知らなかったのですが、「後妻業の女」という映画があるんだそうですね。その映画にインスパイアされた作品とか。後妻業の斡旋をする女にノウハウを教えてもらった女が、とんちんかんな解釈をするというもので、あやめ作品には、珍しい趣向の噺でした。お互いのもう1つは、「女」に焦点を合わせた持ちネタから。あやめは、思いがけない「ちりとてちん」でした。確かに、あやめの「ちりとてちん」は、女性ヴァージョンですものね。恵子さんは、もう、これしかないと思っていた予想が当たったのはいいのですが、黄紺は、毎度書きますが、「樽屋おせん」は嫌いなのです。社会生活が全うに送れるとは思えない女に振り回される話は、やはりウソだと思ってしまうからなのです。ですから、このネタに遭遇すると、黄紺は、じっと我慢の子を決めてかかるしか、手がないのです。今日も、そうでした。おまけに、恵子さんの口演は、前よりか、若干くさくなっていますから、余計に我慢の子でした。


2016年 12月 18日(日)午後 10時 34分

 今日は二部制の日。聴きたいものが揃ったものですから、二部制を採りました。昼間は、大阪で落語会、夜は、カフェモンタージュでのコンサートと、黄紺の日常が戻ってきました。まずら、昼の落語会ですが、八聖亭であった「第7回八聖亭で落語しま〜す」という、若手人気落語家笑福亭喬介の勉強会に行ってまいりました。ドイツに行く前に、この日から落語会に復帰できるからと、早々と予約を入れていたため、もうちょっとで失念してしまうところでした。急いては事をしそんじるの類いにはまりかけました。その番組は、次のようなものでした。八斗「子ほめ」、喬介「寄合酒」、右喬「平の陰」、喬介「竹の水仙」、(中入り)、喬介「皿屋敷」。喬介人気を反映してか、大変な入り。開演前に、前の道路まで、人が並んでたのは初めてでしたし、舞台にまで客席が必要かもというところまで、客が入りましたから、もう、八聖亭で続けるのは無理でしょう。ですから、前座役の八斗が、開演直前まで、場内整理に当たっていました。八斗は、喬介と仲良しのようで、喬介の方からも、八斗の方からも、一緒に遊びに行った話が出てきます。今日も、八斗が、その辺の話をしていると、マクラだけで、ネタに要すると同じくらい喋ってしまってました。最近の八斗は、自然体でのお喋りが板に付いてきて、聴く方にも、すんなりと入ってくるようになってきました。「子ほめ」も、いい感じで推移。時間の関係で、さすが伊勢屋の番頭は省きました。喬介の1席目は、前座ネタとして、よく出してきた鉄板ネタ「寄合酒」でした。今日の3席で、ともにアホを出しましたが、それぞれ色合いを変えているのが、喬介の見せどころ、聴かせどころだったろうと思うのですが、アホ度では、一番底が抜けていて、危ない領域に一番近いのが、「寄合酒」のアホ。鯛のさばきと鰹の出汁をとる、この2つの場面で登場してきます。三喬テイストをベースに、完全に喬介色に染まった「寄合酒」でした。ゲスト枠は、一門の先輩右喬。キャラが濃い分、ゲストに喚びにくい噺家さんだと思うのですが、そこは同門ということなのでしょう。当然のように、右喬は、マクラで喬介について触れる。同門同士で紹介するようなマクラって、おもしろみが増えるというものです。でも、ネタは定番の「平の陰」でした。ただ、この「平の陰」の後半から、場内が暑くて、、、かなり眠たさとの闘いとなりました。喬介の2席目は「竹の水仙」。梅団治からもらったことを、挿入で入れてました。今度は、ちょっとだけアホの入った宿屋の主人を出しました。嫁さんからガミガミ言われ、2階の客にはいなされと、長閑な亭主を描くのに、喬介は、得意のアホ声を使ってみました。これが、わりと新鮮なところがあり、なかなかいい感じ。序盤の夫婦喧嘩や、2階の客とのやり取りをあっさり流し、核心の後半を際立たせたのも、喬介オリジナルなんじゃないかな。同じく3席目が、なんと、夏の噺「皿屋敷」でした。「なんと」と言わねばならない点が、もう1つあります。喬介は、「寄合酒」のマクラでよもやま話をしているとき、現文枝から、会の2日前に鳴り物を頼まれたわけが、「皿屋敷」を出すためだったことを話したときに、「今ごろ夏の噺を」と言って、ネタふりをしていたのです。その「皿屋敷」でも、アホの入った男が出てきます。半ばの道行のところで、異様に怖がる男にアホ声を出させます。もう、道行に入るところから、喬介の目は虚ろになっていきます。完全に、その男に焦点が当たったぞのシグナルでした。いちびりの、わがままなアホです。アホ三態と言えばいいでしょうか、今日のネタ選びは。喬介らしいと言えば、喬介らしい会となりました。最後は、暑さに茫然となっていた黄紺でもあったのですが、期待を裏切らない会だったことは間違いありませんでした。
 落語会が終わると、大阪から京都までの大移動。今夜のカフェモンタージュでは、「最後のソナタ」と題し、(クラリネット)村井祐児、(ピアノ)佐藤卓史 で、J.ブラームス最晩年の傑作、2つのクラリネットソナタ 作品120 (1894)が演奏されました。演奏された順は、2番から。メロディ・ラインの有名度からして、とっておきとして、2番を後に聴きたかったのですが、4楽章を持ち、規模の大きさが、若干上かなと思える1番が、後に回されました。今年、これで4回、このカフェモンタージュで、村井さんの演奏を聴く機会を得たわけですが、総じて軽く、足早に進行していく演奏をされるという印象を持っていたのですが、今日も、やはりそうでした、2番の冒頭など、もっとテヌートを効かして、ゆったりめに弾けばと思うのですが、スタイルはそうではないのです。却って、そういった演奏スタイルは、1番に合っているかもしれませんね。なんてことで、学生時代には、既に、村井祐児というクラリネット奏者がいるということが、黄紺の頭にはインプットされていましたから、それから、随分と時間が経ったものです。そんなですから、大変な人というイメージが出来上がっていましたから、カフェモンタージュで、その晩年に演奏を聴けるなんてという気持ちで、4回ともに行かせていただきました。やはり、これも、カフェモンタージュのおかげです。京都に住んでいて良かったと思えるところですね。


2016年 12月 17日(土)午後 10時 54分

 昨日の朝8時半過ぎに、関空に帰着。帰りは、全く問題なくスムーズにことは運びました。そして、夜は、昔の同僚との楽しい飲み会。あっという間に、1日は過ぎていきました。そして、今日から日本にいるときの楽しみ、演芸を求めてのお出かけが再開です。で、今日は、百年長屋で行われた「真山隼人の浪曲の小部屋 その5〜忠臣蔵特集〜」に行ってまいりました。沢村さくらさんの協力のもと、歌謡浪曲以外の本格的な浪曲を始めた隼人くんの勉強会です。その番組は、「大石の東下り」「三題浪曲:スマートフォン、三味線、日露会談」「村上喜剣」。12月ということで、「忠臣蔵特集」が組まれましたが、1つ目の「大石の東下り」は、オーソドックスな浪曲で、隼人くんが最初に手がけたもの。梅中軒鶯童から先代の真山一郎に譲られたものをベースに、自分流にアレンジして発表したものを、今回の口演用に、更に改訂を加えたとか。大石内蔵助が江戸入りをするとき、公家(今日の口演では侍)の名を騙って行くのだが、途中、実物に会ってしまうというもの。その危難を、どのように乗り越えるかという物語で、黄紺は、「赤穂義士伝」の中で屈指の名作の1つと思っているのですが、隼人くんの口演で、話の運びに不満を感じる点がありました。隼人くんの判断なのか、浪曲界で採られてきた展開がそうなのかの判断はつかないのですが、内蔵助が、作戦を早々に打ち明けてしまうため、山場で緊張を誘えるところを、自ら放棄してしまってました。それだけではなく、内蔵助の品格が落ちたようにも感じましたから、わりかし大きなポイントかと思っています。2席目は、毎回用意される「お楽しみコーナー」。落語の「三題噺」を、浪曲でやっちゃおうという趣向。これが、めっちゃ上手い仕上がりぶり。「日露会談」を前に、隼人くんに、浪曲の余興が「電話(スマートフォン)」に入る。「三味線」の仕事を、さくらさんにお願いするということで、あっさりとクリア。序盤に、「乃木将軍」ものの一節を入れたり、富山で仕事をしているさくらさんを、自衛隊機が迎えに行ったりと、アイデア抜群なものがありました。「村上喜剣」は、講談でも聴いたことのない「外伝」からのもの。京山華千代の十八番だったそうで、その音源を基にした口演との前置きをしてから始めました。村上喜剣自体は、いかにも創作上のキャラのような展開。だから、講談では、くさすぎるのかもしれませんね。大石内蔵助に、仇討ちの気があるのか、面と向かって問い詰めるというだけと言ってしまえば、それだけ。そのあと、なぜか旅に出ます、奥州にです。その道行描写が長い。その後、江戸で討ち入りを知り、自分の行為を恥じ、ついには自害するというもの。確かにドラマ性が弱い。現在、口演頻度が低いはずですが、これを、隼人くんがやってみようとしたわけが気になります。合間のお喋りの中で、華千代についての話が出てきますから、華千代ものを追っかけているような気がします。黄紺には、区別をつけることができないのですが、節がいいのかなぁ、なんてことを考えています。来年も5回の会を開くつもりをしていると宣言。新しいネタに、どんどんと挑んでいく姿を追いかけるのって、ホント、嬉しいことです。


2016年 11月 22日(火)午後 10時 49分

 明日からのオペラ紀行を前に、最後のお出かけは、毎月の嗜みとなっている「第232回旭堂南海の何回続く会?〜増補難波戦記22」でした。薬業年金会館に足を運ぶのは、もう決まりきったこととなっています。今夜は、「大久保政談(後)〜川勝丹波裁き〜」と題しての講談でした。前回には登場せず、今回から登場したのが、大久保彦左衛門と言えば、おなじみの一心太助。その太助と彦左との出逢いから始まりました。三河の百姓をしていた太助に、国廻りをしていた彦左がやり込められ、骨のある男と見込まれ、江戸へ連れて行かれます。その2人がタッグを組んで、隣家に屋敷を構える川勝丹波を懲らしめるのが、今日の本筋なのですが、最初は、落語の「筍」を思わせるやり取り、次いで、川勝丹波が、2人姉妹を妾にしているということを聞き付けた彦左が探索に行く話と、ここまでは、チャリ系の乗りの話が続いたのですが、ある日、太助が魚市場で、顔見知りの女が、乞食に身を落としているのを見かけたところから、川勝丹波についての話がシビアになっていきます。乞食女が、養い育てた姉妹の父親と川勝丹波は、ともに、徳川方として、夏の陣を戦っているとの来歴が読まれた辺りから、それまでのチャリっぽい空気が一掃されそうになってきたところで、今日はダウン。やっぱ、今日も居眠りが出てしまいました。体力がなくなってきているのかなぁ。明日からのオペラ紀行が心配になってきました。来月からは「祐天吉松」がスタートします。待望の続き読みです。この話の全体像を知りたかったのです。部分的には、浪曲や抜き読み講談にはなっているのですが、全体像を知りたいのです。これで、日本に帰って来る楽しみができました。


2016年 11月 21日(月)午後 11時 23分

 今日も二部制の日。オペラ紀行を前にして、詰め込み態勢に入っています。昼間は繁昌亭の昼席、夜は、昨日に続いてカフェモンタージュに行ってまいりました。まず、繁昌亭の昼席ですが、これが、オペラ紀行を前にした最後の落語会となります。今日は、東京から、浪曲の玉川奈々福、柳家小満んが出るというので、よくぞ日本を離れる前に間に合ってくれたとばかりに行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。愛染「千早ふる」、壱之輔「ぜんざい公社」、三風「引出物」、伏見龍水「曲独楽」、扇平「秘伝書」、小春団治「職業病」、(中入り)、玉川奈々福(沢村さくら)「浪曲百人一首」、小満ん「宮戸川」、雀喜「老老稽古」、塩鯛「試し酒」。今日は、黄紺同様、奈々福観たさ聴きたさで、コアな演芸ファンが足を運んでおられました。噂に聞き、実際目の当たりにして、奈々福人気は上がるばかり。今週の土曜日までの6日間、繁昌亭に出演です。黄紺などは、明後日の出発を前に、今日か明日にしか行けないということで、小満んの出演もあるということで、自ずと今日を選ぶことになりました。奈々福のネタは、恋の歌に焦点を絞り、「百人一首」の中からピックアップした歌を、まず、奈々福風現代語訳をしたあと、浪曲の節で唸るというもの。今回の繁昌亭のために、特別ヴァージョンを作っての大阪入りと、ツイッターに書かれていました。歌により節を変える手際は、やはり見事なものです。繁昌亭登場の6日間の内、1日だけ、さくらさんが出られないということで、一人で三味線を持ち、漫談をされる日があるようです。滅多に遭遇できないものと思われますので、行きたいのですが、、、。一方の小満んは、繁昌亭登場は初めてとか。ちょっと心臓を押さえながら、そのようなことを言い、すぐにネタに入りました。何と「宮戸川」でした。はりこんでくれたなの印象。奈々福の明の舞台から、一挙に渋くなりました。こういった色変わりが、寄席では嬉しいところです。雷から二人が体を寄せ合うところで、お約束の「お時間のようで」で終わりました。この東京からの来演の2番を含めて、中入り明けが、ホントにお楽しみが詰まった内容。雀喜は、この位置なら、まして大家2人に挟まれた位置取りから、新作ものを出すのだろうと思っていたところ、ドンぴしゃ。しかし、この「老老稽古」は初遭遇。どこかで、題名だけは見た記憶があったところが、コアな落語ファン氏から、先日の独演会の最後に出したネタだそうです。道理で、どこかで見かけたはずです。これが、なかなかおもしろい作品。雀喜作品の中でも、最上位に入れていいのじゃないかな。80歳になった雀喜を思わせる楽喜という噺家が、雀三郎を思わせる師匠楽三郎の元に稽古に通うというのが、噺の本筋なのですが、最後にどんでん返しが用意されていて、それは、介護施設で、2人の老人による「師弟ごっこ」だと判るというもの。聴かせどころは、2人に呆けが進んでおり、1回目の稽古は師匠がちぐはぐを、2回目の稽古では、2人ともがちぐはぐを言い出すところ。特に、2人ともが呆けてしまっているところの会話が素晴らしい仕上がり。噛み合わない会話を作る難しさが克服されていると看ました。表彰状ものです。トリの塩鯛は、繁昌亭で聴くと、当たる確率ナンバーワンのネタ。この口演は、上方落語界で、現在聴ける最高の酒のネタの口演に入ると思っているものです。後半にばかり目が行ってしまう今日の昼席でしたが、前半のこともメモっておきたいと思います。前座役の愛染のちょっとした工夫が記憶に残りました。千早太夫、神代太夫の台詞のところで、長煙管を持った花魁の格好をしたことと、竜田川の台詞になると、相撲取りの喋り声を使ったことです。やられてみれば、さほど驚くようなことではないのですが、する人がいない分、記憶に残りました。壱之輔は、後ろに新作を出す噺家さんが控えているのに、なんで「ぜんざい公社」を出したのでしょうね。そういった意味での驚きがありました。三風の新作も初遭遇。引出物にもらった鰹節が放り込まれた戸棚の中の物語。ものを擬人化した噺ですから、あとで出た小春団治の持つ「冷蔵庫哀詩」に似た発想の噺。最近、できちゃったに行けてないものですから、三風の新作を追えてないもので、こういった機会に、新しそうな新作に遭遇できることはありがたい限りです。扇平は、久しぶりの遭遇。自分的には、繁昌亭でしか遭遇できない噺家さん。さすが、喋りのキャリアの違いを見せつけます。マクラで見せた、程よい客席との距離感が、とってもいい感じ。その雰囲気を持ち込んだまま、あっさりと「秘伝書」。このあっさり味が、存在感を感じさせました。小春団治も、久しぶりの遭遇。今日は、トリの塩鯛とともに、立命館コンビが重責を担いました。小春団治の傑作「職業病」に、久しぶりの遭遇で喜んでいたところ、半ばで居眠り。また、いいところで居眠りです。どうも、最近、こんなのが続き過ぎています。こうやって振り返ってみると、前半は前半で楽しませてもらっていたのが、よく解ったのですが、後半にいい印象が残っているのは、やはり奈々福で、一挙にテンションが上がっちゃったってことなんでしょう。そこに、雀喜作品が加わったために、そないな印象を持ってしまったというところでしょう。
 繁昌亭が終わると、今日も、大阪から京都への大移動。今夜のカフェモンタージュは、「関西弦楽四重奏団〜 ベートーヴェン・ツィクルス vol.7 〜」があった日でした。日本にいるときには、最優先にしている1つです。関西弦楽四重奏団は、(ヴァイオリン)林七奈 、田村安祐美、(ヴィオラ)小峰航一、(チェロ)上森祥平の4人のユニット。今日演奏されたベートーヴェンは、「弦楽四重奏曲 第6番 変ロ長調 作品18-6 ≪憂鬱≫(1800)」「弦楽四重奏曲 第12番 変ホ長調 作品127 (1825)」の2曲でした。6番(第1ヴァイオリンは林さん)に、名前が付いているとは知らなかったのですが、第4楽章の序奏部を指してのことだそうで、ベートーベン自身が楽譜に書き込んでいるそうで、その書き込みから取られた表題とかで、全体を見渡せるものではないようです。12番に比べると、いかにも若いときの作品らしく、快活で明るさを持つ曲なのですが、わりとバランスの難しい曲だなとの印象のある曲で、且つ総体としてのプラスαがオーラを生むような曲とインプットされていたのですが、今日の演奏では、第2楽章以後には、不満がないのですが、第1楽章のバランスが悪く、チェロの位置取りのようなところで、共通認識ができてなかったのではと思わせられるものでした。12番は、厚いうねりのような音の流れが、延々と続く曲というイメージがあり、へたすると睡魔との闘いとなるのですが、今日は、ちょっと、その傾向に嵌まってしまったキライ出てしまいました。昼間の小春団治の口演のときのようなことはなかったのですが、かなりアブナイ場面を経験してしまいました。ま、それだけ気持ち良くさせてもらったということでしょうが。第1楽章は、この曲の中では、主題が、判りやすいメロディで現れるところに、ちょっと不満。もう少し頑張ってもらいたかったな、第1ヴァイオリン(田村さん)に。でも、第2楽章以後は、全然気になりませんでした。音のうねりに吸い込まれそうになる内に、睡魔が迫ってきたのでした。次回は、もう年明けになります。幸い、日本にいるので聴くことができるのですが、演奏曲目は、ラズモフスキーの1番とセリオーソです。


2016年 11月 21日(月)午前 7時 11分

 昨日は二部制の日。昼間に落語を聴いて、夜はカフェモンタージュというスケジュールでした。まず、昼間は、ホントに何年ぶりかで「第769回田辺寄席」に行ってまいりました。幾つかいい落語会があったのですが、迷いに迷った挙げ句に、足は桃ケ池公園市民活動センターに向かいました。昨日は、<新じっくりたっぷりの会〜笑福亭三喬の段>と題して、三喬を、1度に2席聴けるというのが、魅力の番組。ネタ的にも、三喬で聴いてみたいものが並びました。その番組は、次のようなものでした。大智「看板の一」、三喬「テレスコ」、文太「五両残し」、(中入り)、三歩「世界不思議探検!?」、三喬「質屋蔵」。昨日も、居眠りに悩まされた日。どうしたのか、狙いのところで居眠りに移行という癖が出ています。昨日の番組でしたら、文太の「五両残し」、三喬の「質屋蔵」で発生してしまいました。「質屋蔵」の跳び方は、まだ可愛らしいものでしたが、文太の口演のときが散々でした。でも、このネタが、「星野屋」の移植ものだということは、きっちりと把握できています。「星野屋」を持ちネタにする噺家さんが、上方に増えましたが、「星野屋」を使ってないのは文太だけじゃないかな。三喬は、黄紺が聴けてる範囲では、狙いだった「質屋蔵」では、オリジナルなくすぐりは、極力抑えているなという印象。そもそも、このネタをかけるということは、来年の松喬襲名を意識してのことと思えますから、それに相応しい口演を心がけてるんじゃないでしょうか。下げに関して、おもしろいことをしました。マクラで、質屋についての説明をしている中で、「質屋蔵」の下げを言ってしまってから、但し、「質屋蔵」の下げとは言わないで言うという手法を執り、ネタに入りました。逆に、今や珍品中の珍品、「テレスコ」は、従来の三喬テイストの詰まった、自由闊達な口演でした。ま、ネタの骨格だけをお喋りするのなら、短いネタですから、お遊びを入れないと、今どき持たないと看たのでしょう。お奉行さんの「仕掛けの負け」という言い方は、このネタの前半を括る適切な言い方、でも、三喬は、そこから、身の回りにある「仕掛けの負け」の例へと発展させてくれます。最後などは、講談の切れ場よろしく、結末へ持って行かなかったりと、いろいろと楽しませてくれました。奔放な発想力は、やっぱ抜けたものがあります。三歩との遭遇は、ホントに久しぶり。限られたところでしか遭遇できないにせよ、久しぶりでしたが、「世界不思議探検!?」を聴いたのが、前回の遭遇時でしたから、不思議の廻り合わせなんですが、このネタの印象が、あまり良くなくて、却って、三歩遭遇体験を覚えているから不思議なものです。葬式の生前体験を扱ったものですが、ちょっとベタで、発展性のない展開に、途中から退屈になってしまった印象が残っていたのですが、昨日も、同様の感想を持ってしまいました。前座役の大智は、繁昌亭では、その姿を見かけていたのですが、その高座に接するのは初めてとなりました。なかなかいい素材です。表現力が豊かで、それを自然に出すことができるのが強みと看ました。また、新たなお楽しみが増えました。最近の田辺寄席の様子は、行ってなかったもので、何とも言えないのですが、入りは上々。日曜日に、そして、三喬ということがあったのかもしれませんが、その健在ぶりに触れることができた思いがしました。
 田辺寄席が終わると、大阪から京都までの大移動。時間に余裕があったこと、懸念された雨も降らずということで、淀屋橋駅までのウォーキングを敢行。天王寺駅&文楽劇場経由で、正味1時間40分と言えばいいでしょう。気温が高かったこともあり、汗をかきながらのウォーキングとなりました。田辺寄席が、自分的には、射程範囲に入れている落語会の最南端地になりますから、移動では最大規模になるうえ、このウォーキング、我ながら頑張りました。で、今夜のカフェモンタージュは、「無伴奏ヴァイオリン」と題して、 千々岩英一さんの演奏を聴くことができました。パリ管の日本ツアーの途中のコンサートということで、早々に「予約満席」の出たこのコンサート、プログラムは、「18世紀から21世紀まで、7人の作曲家による11の短編」ということで、プログラム配付は、コンサート後とされた異例のコンサートでしたが、演奏されたのは、次の曲目でした。「J.S.バッハ:無伴奏パルティータ第3番より"プレリュード"(1720)」「エネスク:子どもの印象より"メネトゥリエ"(1940)」「イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番第1楽章(1924)」「サリアオ:ノクターン(1994)」「イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番第2楽章(1924)」「ラッヘンマン:トッカティーナ(1986)」「シベリウス:水の滴(1875)」「イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番第3楽章(1924)」「クルターク:Signs,Games and Messages...feerie d'automne...(2004) 」「クルターク:The Carenza(1997)」「イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番第4楽章(1924)」。イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタの持つ4つの楽章を解体し、その間に、主として現代曲が挟み込まれるというプログラム構成。イザイだけを固めてしまうと、あとの曲は小品ばかりですから、まとめて弾くには弾きにくいという、そういった単純なことなのでしょうか、こういった並べ方自体に、何か意味があるのでしょうか、そのあたりについては、演奏者の方からも、オーナー氏の方からも、お話しはありませんでした。弱音器を使った曲、普通は使わない弦の各所を使いながら、ピチカートが繰り返されたりなど、おもしろい曲が並びました。演奏は、冒頭、左手と右手のタイミングが合いにくく、結果的にタッチミスと聴こえたところが、何度かありました。しかし、全体として、音の勢いだの、パワーアップは素晴らしく、かなり聴き惚れてしまいました。パリ管の副コンサートマスターという肩書に偽りなしを思わせるもの。3年前には、フォーレを弾かれたそうで、聴き逃していることを、至極残念でならない気持ちにさせられました。パリ管が京都入りした機会を捉えた束の間のミニコンサート、十分に、黄紺の記憶に留まるであろうものとなりました。


2016年 11月 20日(日)午前 7時 00分

 昨日も講談を聴く日。今週は、これで3回目の講談会となりました。昨夜は、初めて行く、そして、最後になる「噺カフェ」で、「喫茶南斗〜噺カフェ講談会」がありました。南斗くんが、1人で「2席+α」という会です。読まれたのは、「グレート東郷物語」「大阪の秘境・南海汐見橋線をゆく」「岡野金右衛門、恋の絵図面」でした。「噺カフェ」は、全部で15人ほど入れば満席というスペース。そこに、それ以上の人が入りました。講談会としては、上々の入り。南斗くん自身、またカフェの方も驚いておられました。チラシには予約について、また、前売りについては、何も書かれていなかったものですから、飛び込みで行くと、「予約は?」と聞かれ、びっくり。どうやら予約をしながらも、まだ来てない人がいて、黄紺が行ったのは、開演10分前でしたから、あとから入れることができるか心配されたようでした。どうも、そんなのは珍しいことのようですね。今年末に閉店されることと、関係があるかもしれません。南斗くんのネタ2つは、新鮮味はなかったのですが、「特別企画」と銘打たれた「汐見橋線」が、期待の演目。まず、南斗くんが、この秘境とも言える電車をベースに、新作を作ったのか、それとも、講談ではなく、なんかの企画ものなのかも判らないまま、「汐見橋線」を取り上げるという、その目の着けどころが気に入り、期待を持ってしまったのでした。結局は、自分で撮ってきた写真を見せながら、「汐見橋線」のレポートをするというものでした。せっかくするのなら、もうちょっと肉付けをすればいいのになとは、南斗くんの新作を聴くたびに思うことなのですが、この企画にも、同様のことを感じてしまいました。新作と言えば、「グレード東郷」は、これで3回目となるはずですが、3回とも、テキスト面では、大きく変わってないんじゃないかな。成長させなきゃと思うのですが、その辺に物足りなさを感じてしまいます。新作は、育てていってこそ、値打ちが出てくるはずと思っているものですから。「岡野金右衛門」は、東京の貞心さんにもらったと言ってました。吉良邸の絵図面を入れることに、色恋沙汰が絡む話です。確か2回目の口演を聴く日となりました。


2016年 11月 18日(金)午後 10時 58分

 今日は、昼間に、所用があり息子に会ってから、大阪市内へ。夜は、今日も動楽亭。今夜は「南湖の会 〜探偵講談と太閤記」がありました。金曜日ということもあり、なかなかいい落語会が揃っていたのですが、この会を抜かしてない限りは優先している会です。その番組は、「太閤記:天王山の戦い」「西行鼓ヶ滝」「探偵講談:ハブ娘」というものでした。今日も、昨日に続き、変調。南湖さんが、マクラで話した近況報告、「太閤記」の序盤で横道に逸れた囲碁の話は、よ〜く記憶に残っているのですが、前の2つについては、あとはさっぱり。「西行」なんて、辛うじてネタが判る程度。昨夜などは、稀なる熟睡ができたにも拘わらず、この様です。変調もいいところです。ですから、「探偵講談」だけが救い。以前に聴いてはいるのですが、すっかり筋立てなどは忘れていました。噺の終盤になり、毒婦の物語だったことが判ってから、聴いた記憶が蘇ってきました。ハブの毒が、誤って飲まれ、仮死状態の男が出てくるという部分があるということから、舞台設定は琉球からスタート。鹿児島から裁判の仕事で来ていた男に危ういところを救われた薄幸の女性というところから、噺が始まるのですが、それが、女の仕掛けだと判るのが、男に付いて鹿児島に行き、その男の愛人となったあと、昔のワルの仲間に会ったあと。そのワルの男と示し会わせて、囲ってくれている男をどうかするのかと思っていたら、噺は、全然違った方向に。間男っぽいことをしているところへ、男がやって来たというので、押し入れにワルの男を隠したところ、そのワルの男が、押し入れにあったハブ酒を飲み、昏倒してしまい、死んだと思い込んだ女は、その「遺体」の処理に奔走する噺へと展開していってしまいます。なんか、大きな物語の導入部っていうところで、「探偵」ものに入る前に終わってしまいました。ちょっと看板に偽りあり的な講談でした。これだけの物語なのか、本当に触りだけなのかは、検証のしようもありません。


2016年 11月 17日(木)午後 11時 35分

 今日は、動楽亭での落語会に行く日。今夜は「鶴笑・三金の古典落語会」がありました。パペット落語の鶴笑と、新作派の三金が、古典落語に挑むというだけで、わくわくしてきます。その番組は、次のようなものでした。鶴笑&三金「挨拶」、笑利「看板のピン」、鶴笑「親子酒」、三金「尻餅」、(中入り)、三金「崇徳院」、鶴笑「池田の猪買い」。ようやく笑利に遭遇できました。既に年季は明けているそうで、今日は、普通の落語を披露してくれたのですが、なかなかしっかりした語り口にびっくり。鶴笑の弟子として、どの辺を目指していくつもりなのかは判りませんが、このしっかりした語り口は財産ですね。鶴笑は、まずネタ下ろしの「親子酒」から。もう出からして鶴笑スペシャル。落語に入っているのです。酔っぱらった父親の体での出、更に、舞台を降り、右手の障子を開けて出てきました。伜のところからは、座布団に座っての口演。父親のところも伜のところも、常よりは刈り取ったエッセンス落語というところが、あとの「猪買い」とは違いました。ここまでは、まだ良かったのですが、このあとの三金の1席目から最後まで、ずっと半寝の状態。飛び抜けて寝不足とまではいってないのに、どうしたことでしょう。食欲不振はいつものことながら、今日は、一層ひどかったものですから、総体として不調です。オペラ紀行を前に憂鬱な話です。ということで、ここからは、僅かに印象に残っていることをメモる程度に認めておきます。三金の2席が、いつもの古典の口演に比べて良かったんじゃないかなぁ。三金は古典を口演するときも、現代語的なテキストが入り、違和感が出るときがある(全てが違和感があるというわけではありません)のですが、今日は、そういった言葉使いすら、黄紺の意識が明確なときにはなかったように思います。「崇徳院」はネタ下ろしだそうでしたが、そちらでもそうだったということは、かなり時間をかけて、ネタ繰り、稽古をしたことの証左ということでしょうか。なお、「尻餅」は染丸からもらったと言っていました。そちらは、そういった事情が、かっちりしたテキストが入っている要因なのかもしれません。鶴笑の2つ目「猪買い」も、普通の落語でした。先日、動楽亭昼席に出たときに出したと言ってましたから、その可能性があるぞと思っていたところ、黄紺の意識が明確なときには、そうでした。サービス精神旺盛な2人が本格的な古典をするかと思うと、時として飛び道具を思いつき、びっくりする演出を見せてくれる会は魅力満天。だからでしょうか、客席には、通常の落語会では少ない若い人たちの姿を見かけました。早くから開場を待っていたのは、おっさんたちと、普通の落語会と変わりはなかったのですが、あとから若い人たちの声が耳に入るようになり、何度か客席を眺めてしまいました。入りも良かったですしね。そして、期間限定ではなく、来年も続ける意志を、2人が明らかにしてくれたことが、何よりも嬉しいことでした。


2016年 11月 17日(木)午前 0時 15分

 今日は二部制の日。日本を離れる日が近づくと、お出かけが盛んになってしまっています。今日は、午後に演芸を、そして、夜は、講談を楽しむ一日。まず、午後は、文楽劇場の「第86回 上方演芸特選会」に行ってまいりました。なかなか好メンバーが揃った会の番組は、次のようなものでした。石松「商売根問」、真山隼人(沢村さくら)「伊勢の恋塚(袈裟と盛遠)」、ナオユキ「漫談」、文昇「代脉」、(中入り)、伏見龍水「曲独楽」、京山小圓嬢(沢村さくら)「改心亭」、二葉由紀子・羽田たか志「漫才」。今席の前座は石松と吉の丞、ちょっと贅沢編成。石松は、マクラを振りすぎたのか、ネタに入ってから変調気味。徐々に上下が不安定になり、目がうつろに。どうやら、時間がなくなって来ているのに気づくのが遅れたと看ました。「商売根問」のさわりで終わってしまいました。隼人くんは、先日の百年長屋で聴いた「袈裟と盛遠」。従って、三味線が着きました。今席では、最初の3日間がさくらさんが、お二人の相手をされ、残りの1日だけを、初雪さんがお二人の相手をされます。相変わらず、さくらさん、獅子奮迅の活躍です。でも、このネタ、聴くのがしんどいです、こちらも相変わらずです。今席のおいしいのは、浪曲に好メンバーが揃ったばかりか、ナオユキ、伏見龍水に当たったところ。ナオユキは、程よい間を置いて、この演芸会、繁昌亭で遭遇できていますが、その度にネタが変わっているのには、敬服するばかりです。落語の2人目は文昇。いつものように飄々とした高座に好感を持って聴いていたところ、気持ちよくなりすぎたのか、居眠りをしてしまいました。浪曲の2人目が、今日の最大のお目当てであった小圓嬢。頻繁には出ない「改心亭」に遭遇できました。山県有朋邸に侵入した3人の強盗、それを諭す山県夫人、逮捕後も、寛大な措置を求める夫人の心に打たれた3人は、心からの改心をし、出所後いの一番に、山県邸に礼に行くのだが、そこで、彼らを待っていたのは非情な知らせだったという、なかなかよくできた物語。有名人が実名で出てきますから、実録ものかもしれません。明治の政治家&軍人を偉人として扱うジャンルが、講談や浪曲にありますが、これも、その1つです。二葉由紀子・羽田たか志のコンビは初遭遇のはず。この演芸会の嬉しいところは、こういった古手の漫才さんに出会えること。今日も、その満足を味わうことができました。なかなかの好メンバーが揃い、満足度の高い会だったと思うのですが、ナオユキの出番が終わるまで、漫談だとは思ってなかった客がいたり、客席との距離を縮めようと、芸人さんが努めると、声をかけようとする客がいたり、頭に「?」が点るなんて会でもありました。
 文楽劇場を出ると、久しぶりに千日前のネットカフェを使い、時間調整。そして、夜は天満橋へ。双馬ビルの一室を使った旭堂南華さんの会に行ってまいりました。2ヶ月に1回のペースで続けられているこの会に、今年に入ってから1度も行けてなかったため、いい落語会があったにも拘わらず、この南華さんの会を最優先しました。今日は、「錢形平次」「忠臣蔵12段目」の2本が読まれました。いつもの近況報告的なマクラが、えらく短かったので、あれれと思っていると、判りました、今日の読み物が、2つとも長かったのです。「錢形平次」は、この1年、南華さんが手がけてこられた新ネタ。今日まで、「錢形平次」を手がけられたわけを考えたこともなかったのですが、そのわけが重要なことが判りました。野村胡堂の著作権が切れ、今年から、著作権を気にせずに口演できるのだそうです。そう言われてみると、旭堂だけではなく、東京の講釈師さんも手がけてなかったことに気がつきました。野村胡堂と並んで、今年からは、江戸川乱歩も切れたそうです。ということは、南湖さんの探偵講談には、大変な追い風となるはずです。黄紺的には、初の「錢形平次」になったわけですが、これが、なかなかの労作。ご自分で台本書きから始められたはずですが、これが、とても解りやすく、うまくまとめておられました。登場人物も多く、また、説明が難しいトリックを、コンパクトにまとめおられました。ここまで、この会での「錢形平次」ものを聴けてなかったのを、ホントに後悔です。もう1つのネタが傑作。東京の噺家さんが創られた新作ものだそうで、南左衛門さんから回ってきたネタだそうで、黄紺などは、その存在すら知らなかった代物です。「忠臣蔵」の登場人物は、いずれも死ぬわけですから、彼らが冥土で出逢うはずだから、出逢うと、どうなるかという着想で書かれたもので、「地獄八景」のテイストが覗く作品。クライマックスは2度目の討ち入り。ただ、結末は違います。ここでは、両者の和解へと、噺は進んでいきます。でも、このネタは、講談というよりは落語の雰囲気。「地獄八景」を想起させるということが、大きなポイント、そのパロディっていう印象が残ってしまううえ、下げまで付いていました。ということで、随分と珍しいものを聴かせてもらえ、嬉しい限り。終わってから、コアな講談ファン氏が、「今日のん、面白かったなぁ」、、、黄紺も、それに、全く異存はありません。


2016年 11月 15日(火)午後 9時 19分

 今日は動楽亭昼席に行く日。値上がりしてからは、行こうとしてなかった動楽亭昼席、今日が今年に入ってから、言い換えると値上げをしてからは、2回目のことになりました。オペラ紀行を、約1週間後に控え、今の間に落語の聴き溜めをしておこうとの魂胆でのチョイスです。その番組は、次のようなものでした。団治郎「狸塞」、ひろば「兵庫船」、文鹿「祝いの壺」、遊方「オオサカ・シネマロッケンロール」、(中入り)、吉弥「お玉牛」、新治「井戸の茶碗」。団治郎は久しぶりの遭遇。この人、あまり前座に使われることがないというか、使われる落語会に行かないというか、そんなで遭遇機会が多くありません。久しぶりだったわりには、動楽亭昼席でよく出す「狸塞」でした。ひろばは、なぜか動楽亭昼席での出番に遭遇します。今日は「兵庫船」が出ればいいなと思っていたら、その通りになりました。時間の関係でしょうね、謎かけまででしたが、今日のひろばは、この謎かけの冒頭で、逆さまに言ってしまい大慌て。「一の字」で逆を言い慌て、なのに「二の字」でも、全く同じ間違いをしてしまい、会場は大笑い。ひろばの言い訳は、「りょうば年季明けの会のあと飲み過ぎました」。今日だけ使える言い訳を聴けて、黄紺などは、逆に嬉しくなってしまいました。ここで、テンションが上がり、今日は、ずーっと最後まで右肩上がりの、とってもいいというか、グレードの高い会になっていきます。文鹿の口演を聴くのは久しぶりだったのですが、じゃまくさそうに、しかもため口のマクラが、自分の呆けを話したのですが、客席に受け入れられていく空気が蔓延すると、その空気を持続したまま、ネタへ入っていったのですが、そのネタがきちゃないネタなもので、すっかり文鹿の空気に包み込まれたまま進行していきました。「祝いの壺」の口演に出逢ったのは、いつ以来でしょうか。確か宗助で聴いたのが、この前だったような記憶があります。また、今日の下げが、えげつなく汚ない。婆さん芸者が出てきて、ハイテンションで浮かれるものですから、「ババも浮くはずや、あの水壺、雪隠に使てたんやから」というもの。ひょっとしたら、原型かもしれません。米朝が、「下げが汚ないから変えてる」と言ってたのを聴いた記憶がありますから。但し、どのように変えたかは覚えてないのですが。中トリの遊方が、また、テンションが高かった。遊方は、この動楽亭昼席で聴いたことがなかったので、何を出すのかを楽しみにしていたのですが、鉄板の1つを出してくれました。ただ、黄紺は、このネタのマクラは、しっかりと記憶に留まっているのですが、本体を覚えてないのです。多分、マクラだけ聴いて、居眠りをしてしまったのでしょう。このネタで、このテンションで居眠りとは、かなり不調だったのでしょう。映画のロケ原場になった大阪のたこ焼屋の主人夫婦がボケたおし、撮影にならないという筋立てです。吉弥の落語を聴くのは、もう最近では、動楽亭の昼席ぐらいになってきています。しばらく見ない内に、一層丸々としてきました。そして、ネタは、予想通り、「お玉牛」でした。どうも、動楽亭では「お玉牛」ばかりに当たっているように思います。トリの新治は、期待を込めて、「井戸の茶碗」を予想していたところ、こちらも当たり。今、上方落語の生で聴ける、じっくり系の口演では最高のものの1つでしょう。主要3人が、くっきりと描かれ、同じ正直者でも、色合いの異なる正直さが伝わってきます。ただ、聴く度に、細かいくすぐりが増えていっているように思えます。ちょっと増え過ぎたのかなぁ、中には噺を下支え、または飛躍させる効果のあるものばかりでなく、噺の障りになるものも出てきています。ですから、もうちょっと整理して欲しいなぁと、今日の口演を聴いていて思いました。いずれにせよ、期待を裏切らない高品質の落語会に感嘆符付きで、記憶に留めておきたいと思います。もう、満喫です。


2016年 11月 14日(月)午後 6時 49分

 今日は浪曲を聴く日。毎月行われている「第269回一心寺門前浪曲寄席 11月公演」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。春野一(沢村さくら)「高田馬場」、京山幸太(藤初雪)「安珍清姫」、真山一郎(真山幸美)「南部坂雪の別れ」、三原佐知子(虹友美・鵜川せつ子)「異国の母」。「高田馬場」は、言うまでもなく中山安兵衛の仇討ち物語。春野一門お得意の持ちネタ。一さんは、今日がネタ下ろしとか。「長〜く育てていきたい」と言われていましたが、黄紺は、早々に居眠り。初っぱなでの居眠りは珍しいと、変なことで感心をしています。幸太くんの「安珍清姫」も、ネタ下ろしか、それに近いことを言ってました。確かに、今まで聴いたこともありませんし、幸太くんがネタ出しをしているのを見た記憶もありません。もちろん道成寺の物語ですが、時代設定は奈良時代になっていました。横恋慕をされた安珍は、地方の寺に出されるのだが、預けられたところで、女に見初められ追いかけられてしまうとなっていました。幸太くんは、いつも初月さんが三味線を務めるのですが、察するところ、初月さんが付きっきりの恵子さんの仕事が入ったのでしょう。珍しく、藤初雪さんが三味線を務めました。真山一郎師は、今席は3日ともに、「赤穂義士」で通されたようです。それも、時系列的に並べるという洒落たことをされたとか。今日の「南部坂」は、「赤穂義士」の中でも、名作中の名作。講談ネタですが、講談でも、また、浪曲でも、いろんな脚色があるようです。今日の口演では、討ち入り当日に、内蔵助が陽成院に暇請いにやってきて、陽成院も酒をふるまい、しかも人払いをして、討ち入りについての真意を確かめるのですが、内蔵助はシラを切り通すという、ただそれだけのネタになっていました。「南部坂」は、それが本筋とは言え、これだけでは、頼りなさ過ぎます。やっぱ、浪曲は、テキストがしっかりしてないと、面白みが出てこないですね。ましてや、「南部坂」ほど、筋立てにヴァリエーションの多いものは、そうはないのですから。トリの佐知子師匠は、なんか、今日は変。こないなことってなかったのにと言いたくなるほど、言葉が出てこなかったり、跳んでしまったり、言い間違いがあったりで、びっくりでした。そうであっても、筋立ては、しっかりと追うことに間違いはなく、むしろ、不調が却っての緊張を生み、情感に溢れる口演になったものですから、すごいものです。最後、三味線の音が低くなっていたので、三味線もと思ったら、虹友美さんが、涙、涙で弾かれていたのでした。筋立ては、子どもを亡くした在日のオモニと、常磐炭坑(こんなのがあった時代)の落盤事故で親を亡くした三郎との、擬似親子関係から来る歓びと哀しみの物語と言えばいいでしょうか。黄紺的には、作り過ぎた作品は引いてしまうので、あまり好きにはなれないネタですが、会場は万雷の拍手に包まれていました。


2016年 11月 14日(月)午前 7時 36分

 昨日は、音楽で二部制の日。まず、午前中より午後にかけて、新シーズンのメトロポリタン歌劇場のライブ・ビューイング。そして、夜は、昨日もカフェモンタージュという1日でした。メトのライブ・ビューイングは、一昨日から新シーズンものがスタート。まず幕開けは、ニーナ・シュテンメがイゾルデを歌う「トリスタンとイゾルデ」。しかも、新しいプロダクション(マリウシュ・トレリンスキ)、指揮が、今季よりオペラの指揮が目立ち出したサイモン・ラトルということで、福井から高校時代の友人も駆けつけました。時代設定は現代、巨大な船体が装置。船がモチーフになるのは、このオペラの筋立てからすると避けられないこと。舞台向かって左には、ビルの外側に設置されているような階段が配置され、ここを移動することで、場面転換が可能となっていました。階段での移動の際は、照明は階段だけに当てることで、場面転換ができるということです。3幕だけは、背後に、スクリーン、照明を当てないと大黒の背景ともなり、照明の落ちた中では、暗闇からの歌手の出入りが可能となるようになってました。左手に壁があり、そこには扉が付けてあり、外界との出入り口となり、また、舞台右手には洗面所が配置されていました。この3幕に限らず、背後には、いつでも映像が映せるようにスクリーンが、舞台正面と舞台上部に設えられていたのが大きな特徴でもあり、再三再四、波の立つ海が映し出されていました。映像多用というのは、ある意味では、現代の要請でしょうが、それを多用したければ、映像を映すスクリーンの工夫だけはきっちりやっておけば、何でも可であり、何でもありのようになってしまい、3次元の世界の持つ写実世界が崩れ、物語からリアリティを奪うような印象を持ち、あまり好きではありません。最後まで映像だということを騙し通せるならまだしも、そうでないときの落胆は、必要以上に大きく感じてしまいます。このオペラで、海をモチーフに使うというのは常套手段なのは判ってはいますが、その必要性の内実までクリアになるプロダクションであって欲しいとは思うのですが、このプロダクションではどうだったでしょうか。海は、隔てにもなるし、また、渡る、越えることで繋がりうるものとして、両義性を持つ存在なわけで、この物語を成立させる、重要なエレメントとなっているということから、そのモチーフを使いたくなる気持ちは理解できます。海を渡ることで、この物語は新たな段階へと進むわけですから、海を、常に意識させることの重要性は言うまでもないところですから、大きなポイントを掴み出していると言えるかなとは思います。このプロダクション、歌手陣の充実が秀でていたように思います。イゾルデのニーナ・シュテンメは言うまでもなく、トリスタンのスチュアート・スケルトンは、バーデン・バーデンで、サイモン・ラトルが、このプロダクションを振ったときにも、トリスタンに起用されているようで、その期待を裏切らない素晴らしい出来でした。マルケ王のルネ・パーペは貫禄の歌唱、来春に2回、ベルリンで聴くことになっていますので、再会が一層楽しみになりました。エカテリーナ・グバノヴァはブランゲーネのスペシャリストだと、MC担当のデヴォラ・ヴォイトから紹介されていましたが、正に期待にそぐわないもの。イゾルデへの献身的なキャラを演じ切っていたと思います。さほど出番が多いわけではないのですが、3幕では重要な役回りを演じるクルヴェナールのエフゲニー・ニキティンの歌唱はもとより、この人の風貌がいいですね。体格も加えて、正に風貌も能力の内を再確認させられました。最後になりましたが、サイモン・ラトルの振るオペラは、映像になっている「ワルキューレ」で観ただけでしたが、ダイナミックな音楽作りが素晴らしく、これまた、来春のベルリンで生サイモン・ラトルを聴く機会がありますので、今からわくわくしている黄紺であります。
 「トリスタンとイゾルデ」が終わると、福井から観に来ていた高校時代の友人と、軽くサンドイッチをつまみながらのお茶。仕事のある友人は、頃よい時間に福井に戻り、黄紺は、時間調整ののち、カフェモンタージュへ。今夜は、「秋のソナタ〜 シューベルト ピアノ作品全曲シリーズvol.8〜」と題して、佐藤卓史さんのピアノ演奏会がありました。そのプログラムは、次のようなものでした。「F.シューベルト:ピアノソナタ 第8番 変ホ長調 D568」「同:ピアノソナタ 第11番 ヘ短調 D625」。普段聴く機会の少ないピアノソナタだったもので、このコンサートも予習をしてから臨みました。でも、D625の方は、親しみが湧きにくいもの。そのわけが、コンサート前のオーナー氏の解説、及び2つのソナタの間にお話しをされた佐藤さんから明らかにされました。この曲、未完だそうで、第2楽章は、20世紀になり発見されたり、残っている楽譜も自筆ものはなく、また、片手だけ書かれて放置されていたりと、かなり曖昧度の高い作品だということで、ようやく納得。未完の作品だということで、実際の演奏に供するためには、加筆をしなければならないということで、このコンサートでは、佐藤さん自身が加筆されたものを使って演奏されましたが、演奏を終わられたあと、佐藤さんが「変わった曲でしょ」と言われるもので、部分部分を掴まえると、らしさはないことはないのですが、総体としてみると、全曲演奏会ですから、「こないなものも作っている」という枠内で聴いておくに留めるのが賢明かと思いました。ですから、シューベルトを楽しんだという印象が残ったのは、D568の方。こちらも、由緒由縁のある曲ということで、解説が付きました。黄紺は、日本にいなかったのでしょう、行けていない前回のコンサートで演奏されたD567の焼き直し曲だそうです。シューベルトは、自作をヴァージョンアップをする作業をやってるんですね。D567は、20歳のときの作品だそうで、その曲に、いつ加筆補筆をしたのかは定かにはなっていないようですが、元の作品の若々しさ、19世紀というよりか、18世紀のテイストをも保ち持っているという印象を残す作品。コケティッシュなメロディ・ラインに、ドキッとする装飾音を入れたりする遊び心に、聴く者の心が和みます。佐藤さんご自身が、この演奏を楽しんでられる、そういったオーラが出ている演奏に、満足。ただ、やたら高音が硬く、金属音とまで言っていい音は、かなりイエテル状態ではありました。演奏の範囲内か、それともピアノ自体の問題かが気になりましたので、終わったあと、オーナー氏に確認したところ、「演奏者によるんでしょう」とのことでした。ひょっとしたら、黄紺の席との関連があるかもしれません。いつも、左サイドに座るのですが、ど真ん中に座った関係かもしれないものですから、次回の佐藤さんの演奏会では、いつもの左サイドに座ることにして、自分なりの確認をとってみたいと思いました。


2016年 11月 13日(日)午前 5時 18分

 昨日も、カフェモンタージュに行く日。この間、カフェモンタージュで、そそられるプログラムが目白押しなもので、足しげく通うことになっています。昨夜は、「ソナタと変奏曲〜ベートーヴェン ピアノとチェロのための作品 vol.2〜」と題して、(チェロ) 金子鈴太郎と(ピアノ)奈良田朋子のお二人によるデュオのコンサートがありました。そのプログラムは、次のようなものでした。「L.v.ベートーヴェン:『見よ勇者は帰る』の主題による12の変奏曲 ト長調 WoO 45」「同:チェロソナタ 第2番 ト短調 作品5-2」「同:チェロソナタ 第5番 二長調 作品102−2」」。このシリーズは全3回が予定され、昨日は、その2回目。1回目は、確か日本にいなくて聴けていません。昨日も、開演前に、オーナー氏より解説がありました。2番と5番のソナタの間には、楽器に、具体的にはピアノですが、大きな変化があったので、それに対応した作曲法を、ベートーベンは採っているというお話しでした。ピアノという楽器の進化の大きさは認識してはいますが、ベートーベンの作品と対応させては考えたことはなかったもので、とっても新鮮なお話しでした。金子さんに言わせると、ベートーベンは「新しもの好き」だったとなるわけですが、それだけ楽器の進化に即応した作曲をしていたことになります。低い音が出なかったピアノ、その音域が拡がるとともに、強い音が出るようになり、また、ペダルが付き、そして、その進化に伴い、響きを持続することが可能になったいきます。その変化前に2番が当たり、後に5番が当たるということです。普段、ベートーベンのチェロ・ソナタと言えば、3番と4番ということになるもので、2番と5番を聴く機会が少ないということで、ちょっとばかり予習をしてから、昨日のコンサートに臨んだのですが、聴いていて、2つには相違があることに、また、5番の方が、曲としての骨格がかっちりしていると、そのわけも考えずに、インプットされてしまっていました。ですから、オーナー氏や金子さんのお話しで、そのわけというものの理解ができたというわけです。2番では、まだチェロには、低音に弱点を持つピアノに対する通奏低音的な役割を担わされていたということから来る音楽だったというわけで、ピアノの目立ち方が著しいということになっていたのでした。2番では、ピアノがぐいぐいと引っ張る感じが与えられているとは言え、楽器自体が進化した今、楽譜の表記通りの演奏をしていいものか、そないなことをすると、バランスが崩れやしないか、いや崩れたという印象を持ってしまいました。「はぐれないよう、付いて来なさいよ」と、子どもに小うるさく言いながら歩く母親の雰囲気でした。金子さんは、ガット弦を使っていることを明らかにして、その講釈をお話しされたのも、このコンサートのおいしいところ。金子さんがガット弦を使われる奏者だということは聞き知ってはいたのですが、このコンサートがそうだと宣言されてから、その演奏を聴くのは初めてのこと。こんな言い方をされていました。「ガット弦の使える季節になりました」、要するに、気温、湿気に敏感に反応し、チューニングにばかり時間が取られる季節には使いにくいということなのです。ガット弦だと聞いて、その音を聴いてみると、明らかに音が違うのを感じとることができました。細かな雑音が入るのが難なのですが、みずみずしいいい音がしました。金子さんのお話しによると、パワーに難があるということで、広い会場での演奏には向いていないということで、そういった意味では、カフェモンタージュは、絶好の場だったということになります。第3回目は、お正月早々になります。幸い、日本にいますので、名曲3番を聴くことができ、しかも季節がら、ガット弦で聴けることができるということでしょうから、今から楽しみにしております。


2016年 11月 12日(土)午前 5時 53分

 昨日は京都で落語会に行く日。「第41回 ちおん舎・新 染屋町寄席」という京都では長い歴史を持つ落語会です。模様替えして、場所をちおん舎に移してからは、3度目のおじゃまになるはずです。二乗とちょうばがブッキング担当として再開しているこの会。昨夜は、ちょうばの担当で、一門の兄弟子塩鯛をゲストに招いての番組となりました。その番組は、次のようなものでした。塩鯛・ちょうば「対談」、ちょうば「読書の時間」、塩鯛「おごろもち盗人」、ちょうば「代書屋」。今日は、前座を置かないで、「対談」という形でスタート。2人が兄弟弟子ということもありますが、そもそも「染屋町寄席」自体が、当時の都丸、現塩鯛を中心にして始まったということもあったからでしょう。従って、「対談」の中味も、その旧「染屋町寄席」の来歴から始まり、お約束のざこばネタへと向かいました。落語の方は、主役のちょうばが2席ということで、まずは、三枝作品から。聴くのが何度目かになる「読書の時間」は、若干のいじりに気がつきました。生徒が持って来る本の題名で遊ぶ箇所に少々、そして、本読みの中味、大きいのはラスト。先生から、父親に本のプレゼントが、息子から届きます。それが「人間失格」だったというもの。聴いた途端、黄紺的にはいい感じがしませんでした。本の題名で落としたいという狙いは、よく理解できるのですが、「人間失格」は、言葉が強すぎる。何か、他の適当なものはないものでしょうか。それがあれば、三枝自体が、そうしてたかとも思いますが。塩鯛は、軽めの噺できました。今日の茨木の会で、塩鯛は「おごろもち盗人」と「小間物屋政談」をネタ出しをしていたので、「小間物屋」は大ネタ過ぎるということで、「おごろもち盗人」の可能性大と考えていたところ、予想がドンぴしゃ。全体を通じて、塩鯛も、年齢のせいでしょうか、ちょっと滑舌が気になり出してきています。ちょっと間を置いて聴くことになったので、その変化を大きく感じてしまいました。塩鯛の「おごろもち盗人」っていうのは、ありそうでなさそうなネタ。以前には聴いてない可能性のある噺です。そう思って聴いていると、両手を縛り上げられる盗人って、聴いたことはありません。実際には、あの態勢って可能なんだろうかと考えながら聴いておりました。そして、トリで、ちょうばは、ネタ下ろしの「代書屋」を出しました。これが、なかなか凝ったもの。代書を依頼する男の変さを印象づけるための工夫が、ちょうばスペシャルというところ。履歴書がないと言い、泣き、名前を聞かれ、判らないと言い、泣き、生年月日を問われ、判らないと言い、泣く。これを、序盤で繰り返します。この陽気な「泣き」を入れて、この男の変さを、強く印象づける手に出ました。名前が判らないというのも、最終的には下げに繋がる伏線。取りあえずは、「治」の字が判らないと言うところで、件の男に「薬屋で見かける」と言わせます。聴いている者の頭には、思わず「痔」の字が浮かぶ仕掛けになっています。名前、苗字の方ですが、これの仕掛けは、判とリンクしています。「判を貸しなはれ」という有名な下りがありますが、その判は、掃除がされていないため、朱肉をつけて押すと「赤丸」になってしまいます。ですから、代書屋が判を返すときに、「ちゃんと掃除をしときなはれ」とぼやきます。これが、2度繰り返され、3度目に判が渡されるときには、判が掃除された状態で渡されるのですが、その判を見た代書屋は、既に書いた苗字と違う苗字を見つけるというのが下げになるというものでした。基本的には、従来の「代書屋」の形を踏襲しながら、かなりちょうばスペシャルの印象が濃いものに仕上がっていました。このいじりはなかなかのものと、黄紺は看ました。創造性に富んでいて、基本形にきれいにはまっているのが、何よりも優れものと思えたからです。落語が終わると抽選会。こちらの景品はいいものが揃えられるものですから、楽しみだったのですが、今日も、外れでした。京の町屋に、ぎっしりと100人ほどが集まる大盛況の会でした。


2016年 11月 11日(金)午前 4時 57分

 昨日も、カフェモンタージュで音楽を聴く日。昨夜は、「バロックギター〜イギリスのギター音楽 〜」と題して、竹内太郎さんのバロックギターの演奏会(使用楽器:バスティアン作:5コースギター(Paris c.1760)&トンプソン作:イングリッシュギター(London c.1770))がありました。演奏されたのは、「クロムウェル:ギター手稿帳(1670年頃)より3つの小品」「マテイス:エアー」「H.パーセル:ギター・グラウンド」「G.F.ヘンデル:ミヌエット」「シュトラウベ:インギリッシュ・ギターのためのラルゴ」でした。このコンサートでは、2本のギターが使われましたが、2つとも、楽器博物館のようなところでは見ているのでしょうが、実演に接するのは、全く初めて。リュートとは違い、ギターなのです。1つは、パッと見でもギター、我々の時代のギターの小型版と言えばいいでしょうか、ポルトガル・ギターよりも、まだ小型だったと思います。ガット弦を使用し、ピックは使わず指先だけの演奏。全ての弦を、上から、また下からも、ジャラーンと1度に弾く手法が多用されます。その瞬間だけは、スパニッシュ・ギターを聴いているような感じになります。一方のギターは、イングリッシュ・ギターという名を持つようで、パッと見はギターとは言えず、マンドリンの仲間のように見え、実際の演奏を聴いて見ると、共鳴しやすいように作られているとは言い難いため、とっても小ぶりの音しか出ないというもの。とっても繊細で、人に聴かせるというものではないと断定しても許されそうなパワーしか持っていないもの。竹内さんの解説によれば、個人で楽しむか、内輪で聴かせる程度の使われ方をしていたということです。ですから、カフェモンタージュという空間で聴くのが、精一杯という音量です。繊細な音というのが魅力ですが、逆に慣れてくると、表現の幅が狭く、物足りなさを感じ出す可能性があるのではと思わせられました。ガット弦が使われていますから、常にチューニングが必要なため、曲と曲の間に、チューニングをしながら、竹内さんの軽妙なお喋りが入ります。ときには、楽器や曲目の説明であったり、また、ときには、拠点にされているロンドンでの活動の紹介だったりと、実にためになり、且つ楽しいもので、コンサート自体を盛り上げていた素敵なお喋りでした。今回は、イギリスのギター音楽ばかりを集めてのコンサートでした。チャールズ2世が、亡命先のフランスから戻ってくる際に、このギターを持ち込んだそうですから、イギリスでのギターの流行、それ用の作曲も、それからあとのことになるようですから、時系列的な言い方をすれば、17世紀後半以後ということになります。宮廷の各所から、ギターを掻き鳴らす音が聴こえ、同種のリュートが傍らに追いやってしまったようです。パーセルとヘンデル以外は、知らない作曲家ばかりが並んだ演奏会でしたが、そうは聴く機会のないバロックギターの音色、また演奏スタイルの新鮮さが素敵なコンサートでした。


2016年 11月 9日(水)午後 10時 58分

 今日は予定の立つ二部制の日。昼間は講演会、夜はコンサートという組み合わせでした。まず、講演会は、同志社女子大学の日本語日本文学科の公開講座で、「講談の魅力について〜歴史を文学にして物語る芸能〜」と題して、南海さんがお話しになるということで、同志社女子大学の今出川キャンパスに行ってまいりました。ところが、今日は、外は真冬の寒さ、そこから、程よく暖房の効いた屋内に入ったものですから、すっかりいい気持ちになり、居眠り三昧の時間を過ごしてしまいました。後半は、南海さんの講談を聴けたのですが、真田家が2つに分かれた経緯と、先日も聴いた真田の出丸の攻防戦が、どういった繋がりで出てきたのかが判らないまま、読まれていたのは記憶に残っている程度です。情けない話です。寝不足でもないのですがね。
 講演会が終わると、夜のコンサートまでは、たっぷりと時間があったものですから、目の前にある御所内で読書の時間に当てたり(寒かった〜)して、時間待ちをしておりました。そして、夜は、カフェモンタージュでのコンサートでした。同志社からカフェモンタージュまでは、わりかし近いのですが、真っ直ぐに行けないのが辛いところでした。今夜のカフェモンタージュは、「ハープ三重奏」と題して、(ハープ)津野田圭、(ヴァイオリン)西江辰郎、(チェロ)上森祥平の3人で、次の曲目が演奏されました。「C.サン・サーンス: 幻想曲 イ長調 作品124」「H.ルニエ: ヴァイオリン、チェロ、ハープのためのトリオ」。2曲の内、サン・サーンスは、ハープとヴァイオリンのための曲。ハープは、聴く機会が、ホントに少ないものですから、身近で聴けるだけで、嬉しい限り。カフェモンタージュは、半地下にありますから、ここに入れるだけで、大変なことだろうなと、どうでもいいことを考えながら聴いていました。ヴァイオリンの西江さんは、初めての遭遇。黄紺が、まだ、カフェモンタージュの存在を知らない頃に、出演経験をお持ちのようで、新日フィルのコンマスという地位にある方。今日の最大の収穫は、このヴァイオリニストを知ったことと断定します。使用楽器がいいということもあるのでしょうが、音の伸び、甘い音色に驚きでした。運指というか、右手と左手のタイミングに、ちょっと気になるところが、何ヵ所かありましたが、とっても個性的な音色に感服です。ルニエの曲は、この3つの楽器の組み合わせでは、初めての曲じゃないかと、前説でオーナー氏が言われていました。ですが、黄紺的にはおもしろいとは思えませんでした。出版するときには、最初、ハープ・パートをピアノ・パートとして売り出されたそうで、ハープは、細かく弦を弾く奏法が圧倒的に多く、ハープらしさが生きてそうじゃないと聴いてしまいました。やたら、ヴァイオリンとチェロのユニゾンが多いのも、気になってしまいました。ということで、楽しめたとは言い難いのです。ただ、やたら長い。徒に長いと書けば、顰蹙ものでしょうか。カフェモンタージュでは、基本的にはアンコールはなしなんですが、今日は用意されていました。津野田さんが、曲名を言われたのですが、アーンの曲だということだけは聞き取れて、曲目はダメでした。


2016年 11月 9日(水)午前 7時 18分

 昨日は、二部制の日にできればいいなという気持ちでのお出かけ。「乙夜寄席」に行けたらということでのお出かけということでした。というのも、夜に1つ落語会を予定していて、その会の終演時間に左右されてしまうため、行けるかどうかが判らないままのお出かけなったということです。結果はばっちり、行くことができました。電車で余裕を持って移動することができました。まず、午後7時から雀のおやどであった落語会「第11回かわりべんたん〜呂好・華紋 落語研鑽会〜」に行ってまいりました。若手で有望視されている2人の会、黄紺は、なかなかスケジュールが合わなくて、今回が2度目になったはずです。3度目かなという気もしないのでもないのですが、どちらとも断定しにくい曖昧な記憶です。その番組は、次のようなものでした。呂好&華紋「前説」、呂好「へっつい盗人」、華紋「ふぐ鍋」、(中入り)、華紋「子ほめ」、呂好「太鼓腹」。今回から三味線を入れて「グレードアップ」(呂好談)したのはいいのですが、2人ともハメもの入りのネタを、あまり持ってないそうで、そのため、出囃子を長めに、出を少し遅らせていたとか。呂好は、ネタ下ろしの「へっつい盗人」を、まず出しました。鶴志からもらったそうです。そうだからでしょうか、ごっつい声が、幾度となく出てきました。鶴志からもらったということを聞いてなくとも、それだけで鶴志テイストに気づいていたことと思います。呂好は、端正な語り口を持つ噺家さんとインプットされていたものですから、この変貌ぶりは大拍手で、芸域を広めるには、まことにもって好都合な師匠を選んだものです。昨日の口演では、ちょっと長めに間を取るときのタイミングと顔の表情の取り方が、いかにも作っているという印象があり、今後の改善を期待したのと、下げに至る場面は盛り上がりを、逆に盛り下げたわけが解らなかったのが気になりました。華紋も、ネタ下ろしの予定だったそうですが、教えてもらう師匠とのスケジュール調整がはかばかしくなく、今回は断念したそうです。そう言われると、どのネタに手を出そうとしているかが気になってしまいます。 華紋の口演は、いずれをとっても、テンポが良く、素晴らしい出来栄え。「ふぐ鍋」の方は、黄紺の嫌うしつこめの演出、要するに、笑いを取れると思うと、過剰に同じプロットを繰り返す手口ですが、華紋は、それを採ったのですが、これだけテンポが良いと、それも気にならなくなるものですから、不思議なものです。そのいいテンポの中に、更に細かく間を変えていくものですから、最早演じてできるものではなかろうとまで思わせられてしまいます。臨場感があり、ドラマがある、そないな華紋の口演でした。呂好の2つ目は「太鼓腹」。これにも驚かされました。「へっつい盗人」とは趣の違った過剰な表現を、呂好が取るものですから、一層の新鮮さを感じてしまいました。趣の違ったネタに、また、趣の違った表現にチャレンジをして、一定の成果を手繰り寄せている姿は頼もしい限りです。やはり語り口がしっかりしているため、変化にも対応しやすいのかもしれません。2人の質の高い口演に、大満足の会でした。
 雀のおやどを出たのが午後9時ジャスト。おかげで、繁昌亭の深夜寄席「乙夜寄席」に行くことができました。昨夜の番組は、次のようなものでした。二葉「つる」、三語「寝床」、喬介「寄合酒」。若手人気ナンバーワンと言っていいかもしれない二葉に、授章が続く喬介がトリ、その間に挟まった三語も、新人グランプリのファイナリストと、今回予定されている「乙夜寄席」の番組の中でも際立つもの。むしろ、この日に「乙夜寄席」に行けたのをラッキーと思える番組でした。会場に着くと、前回以上に、コアな落語ファンの顔が多く、黄紺のように、雀のおやどから回って来た人、また、昨日の落語会で、もう1つ狙い目と言える船場寄席から回って来られた方などもおられました。一に喬介が出るなら、この機会に「乙夜寄席」を覗いておこうという方が多かったのじゃないかなと、勝手に想像しています。入りも、前回よりも多かったんじゃないかな(繁昌亭発表で91名)。この分だと、この深夜寄席は続いていくかもしれません。二葉は、まだ手がけてから時間がさほど経ってない「つる」。3人しか出ないということから、いかにもという前座ネタを避けるのではと考えていたのですが、そこは、分をわきまえた二葉は、堅実に「つる」を持ってきました。二葉の描くアホって、いいですね。教えを請おうと、ちょっと懸命になるときの言葉遣い、自然な間抜け顔が魅力です。テキストの理解が上手いのでしょうね。でも、意識してデフォルメなんかをやり出すとヤバいかなとも思ってしまいます。三語は、まさかのネタの選択。あとになって判ったのは、トリの喬介が、一捻りをしたネタの選択をしていたからなんでしょうが、マクラを聴いている内に「寝床」に入りそうと判ったときは、びっくりするしかありませんでした。ただ、この「寝床」はいただけなかったなぁ。浄瑠璃の流行った時代のおもしろ噺に入っているにも拘わらず、現代語の挿し込みを入れられると、黄紺は不快になります。ここまで、三語に対して持っていたいいイメージ、噺が崩れないように気遣いながら、うまく挿し込みを入れる、語り口が堅実、そないなイメージとは真逆の出来だったんじゃないかな。喬介は、学校公演話をマクラでしたあと、やおらネタに入ったかと思うと、「寄合酒」に入りました。「寝床」とは逆で、トリネタとしては軽すぎるのです。ただ、個性的な「寄合酒」だったことは間違いなく、喬介テイストいっぱいに詰まったもの。噺を聴いている間、喬介は、「乙夜寄席」のトリを任され、きっと勝負ネタを持って来たのだと思っていました。それはそれで間違ってなかったと思うのですが、喬介の意図は、黄紺などより遥かに大きく、そして素敵なことを考えていました。噺を切り上げたあと、喬介は、軽く頭を下げただけで、高座に座ったままです。緞帳も下りようとしませんし、バラしの太鼓も鳴りません。要するに、噺は終わっているのに終演にならないのです。すると、喬介が喋り出しました。「乙夜寄席は、何か違ったことがあってもいいと思うのです」「時間はまだ10分あります」「6分ほどで終わりますから、これから四天王と寄合酒をやります」。これには、びっくり。ホント、びっくり。喬介は、パソコン操作に長けているのは、周知の事実。四天王のデジタル音源から抜き出したものと、喬介が会話をしながら「寄合酒」をしようという試みだったのです。発想自体がおもしろいうえに、思い通りに抜き出してきていますから、傑作な噺の展開を創り出すことができます。これには、会場、大ウケ。喬介、やってくれます。こんなのが出ると、12月のトリに予定されている笑丸なんかは、ウズウズしてくるんじゃないかな。相乗効果で、「乙夜寄席」がおもしろくなり、この深夜寄席が定着してくれたら、いいですのにね、そないなこと考えてしまいました。


2016年 11月 7日(月)午後 11時 44分

 今日は繁昌亭に行く日。落語会自体、2日に繁昌亭に行って以来となります。今夜は、「お囃子落語会〜小林政子三十三回忌追善落語会」があった日です。主宰者は、お弟子に当たる三味線方の入谷和女さんです。ですから、出演者も、和女さんコネクションの人たちが集まりました。その番組は、次のようなものでした。染八「動物園」、たま「軽業講釈」、鶴二「紙屑屋」、あやめ「アタック!ナンバ一番」、(中入り)、入谷和女&はやしや律子「お囃子聞きくらべ〜お流儀の違い〜」、福笑「お囃子さん」。開演前に、前説として、鶴二とたまが登場。今日の会について、また出演者の紹介&出囃子などを喋っていました。染八は和女さんの実子。学校公演のマクラを振ってからネタへ。かなり自己流にアレンジした「動物園」でした。たまは、マクラで、繁昌亭開場時の和女さんの多忙さを紹介。ここからは、鳴り物が活躍する噺が続きました。お囃子さん主宰の会だけあります。たまの「軽業講釈」は、ただでも喧しい噺が、余計に喧しくなります。それがだけ、この噺らしさが盛り上がるというものです。鶴二は、和女さんのリクエストということで「紙屑屋」。ただ、このネタ選びは、次のあやめの「アタック!ナンバ一番」とワンセットになったもの。ネタの大きさ、派手さ華やかさでは、「紙屑屋」があとに入るべきところを、そうしてないところがミソ。「立ち切れ線香」のあとに、たまの「三味線アリ」を持って来る発想と同じです。鶴二の「紙屑屋」は、初めてだったのですが、このネタの定番、先代文枝や現染丸の高座に比べると、動きの大きさや切れに物足りなさを感じてしまいました。ちょっと時間を気にしてましたから、コンパクトにまとめることに、気が削がれていたかもしれませんから、今日の高座が、鶴二の姿と速断するのは危険なことかもしれません。あやめの「アタック!ナンバ一番」は、久しぶりの遭遇です。かつて流行ったスポ根ものドラマを落語化したもの。舞台上で回転レシーブを見せたり、「京鹿子娘道成寺」のパロディ、いや、この場合は「紙屑屋」のパロディと言った方が適切でしょうが、そういった動きの多いネタなもので、遭遇機会はどんどん減ってきています。でも、今日の回転レシーブは、まだまだ行けるところを見せてくれたんじゃないかな。中入り後は、ちょっと企画が難しかったり、企画倒れだったりで、せっかくの落語会が、盛り下がり傾向になってしまいました。「お囃子聞きくらべ」は、時間をかけて、じっくりと解説を加えながらのセミナーのワークショップなんかで伺ってみたいお話。限られた時間では、小林政子流と染丸流の違いを認識するのは、極めて難物なことでした。このコーナーで演奏されたのは、「吉野」「鯉」「米上がり」「韋駄天」「踊り木」「野崎」でした。「野崎」は、出囃子リクエストで演奏されたものでした。和女さんのお相手を務められた吉崎律子さんが、染丸門下では、一番のキャリアだそうで、そう言われるまで、全然気づいてない黄紺でした。そして、トリの福笑は、手持ちのネタを出してくれればいいのに、「お囃子さん」などと言う新作を出すと公表したのですが、結局はできなかったということのようです。お囃子さんの替え歌を歌ったり、三味線方(和女さんと律子さんばかりか、和女さんと同門の勝正子さんも)を舞台に上げて、三味線演奏をさせたりでした。これには、かなり失望。噺家さんが、マクラで話したり、和女さんがエピソードに触れたりした話に、かなり耳がダンボになってましたから、「トーク」の時間を入れてもらえば、かつての落語界の話なども聞けたのにと思うと残念ですが、こういった会を開くことができるのも、繁昌亭効果の1つでしょうから、つくずくありがたい時代になったなと思います。


2016年 11月 6日(日)午後 7時 10分

 今日は法事のあった日。毎年11月の第1日曜は、これのために空けています。去年は、うっかりでトルコにいましたが、今年は、間違いなく空けてありました。


2016年 11月 6日(日)午前 4時 53分

 昨日は、京都でコンサートに行った日。「京都府立府民ホール/アルティ」であった「京都アルティ弦楽四重奏団 第20回記念演奏会」に行ってまいりました。このホールのレジデンツ・カルテットの1年に1度のコンサートがあったのです。20回記念ということで、コアメンバーの豊嶋泰嗣(Vn)、矢部達哉(Vn)、川本嘉子(Va)、上村昇(Vc)に加えて、原田禎夫(Vc)がゲストとして加わりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「モーツァルト:弦楽四重奏曲第18番 イ長調 W.464」「シューベルト:弦楽五重奏曲 ハ長調 D.956 op.163」。モーツァルトは、ハイドン・セットの5つ目の曲。溌剌としていて、このシリーズの中では、一番気に入っていると言えるかもしれません。こちらは、矢部さんが第1ヴァイオリンを担当。この場合は、協調性志向の音楽が、特にいい感じになるというのが、このカルテットの特徴かと思っているのですが、チェロが通奏低音的と言えば、格好がいいのか悪いのか、この場合解りかねますが、他の3つの弦楽器の引き立て役的と言えば、ちょっといい言い方かもしれない演奏でした。逆に言えば、3つの楽器が、とっても精緻なアンサンブルで、頗る上等なアンサンブルを聴かせていたってことです。ただ、シューベルトに比べると、少しパワーに欠けるのが、欲求不満を生み出すかもしれないですね。シューベルトは、弦楽四重奏に、チェロが1本加わるという編成。モーツァルトなんかは、ヴィオラを加えた弦楽五重奏曲を書いているわけですから、弦楽五重奏の型があるわけではないようです。黄紺的には、シューベルトの五重奏はお気に入り曲の1つ。ただ、楽器編成が特異だということで、生で聴いたことはなかったはずと思っています。確かに、室内楽曲多々あるなかで、1度聴いてみたい、だけど聴く機会に恵まれないといった曲の1つかと思います。こちらは、豊嶋さんが第1ヴァイオリン。このシューベルトのように、第1ヴァイオリンが引っ張っていく曲の場合には、豊嶋さんの第1ヴァイオリンがいいというのが、今まで、このアンサンブルを聴いてきた経験知。それが、この演奏にも生きていました。第1楽章が、少々アクセントに欠けるきらいがあったのですが、第2楽章以後は、その不満も解消。モーツァルトに比べると、かなりのパワーアップ。これは、原田さんが加わったからというだけのものではありませんでした。従って万全の演奏。今度は、上村さんのチェロも、きっちりと枠内に収まっていたと言えると思います。このアンサンブルの演奏会も、これで20回目だそうで、ようやく認知度が固まったのか、3年ぶりくらいで、このアンサンブルの演奏会に行けたのですが、それまでには見たことのなかった満席。会場は、大きな拍手に包まれていました。黄紺も大満足。


2016年 11月 4日(金)午後 10時 23分

 今日は、南海さんの講談と講演を聴く日。2代目南陵の関係者がお世話をされている「講談セミナー」に行ってまいりました。。今日は、「難波戦記(大坂の陣)ベストセレクション!!」と題して、南海さんが、主として「難波戦記」より抜き読みを3席披露されたのですが、それは「幸村の大坂城入城」「真田丸の攻防」「重成の血判見届け」でした。なお、今回は、これまでの「ドーンセンター」から、「大阪市中央公会堂地下1階大会議室」に、場所を移して開催されました。3つの抜き読みは、それぞれ有名なもの。今日は、「難波戦記」の最終回として、実史との見比べは、南海さんの口演の間に、1回だけ、主宰者の石津さんが行われただけでした。「幸村の大坂城入城」は、この3つの中でも、更に口演頻度が高く、いろんな講釈師さんが持ちネタにされているもの。今日は、九度山に蟄居している幸村のもとへ、片桐且元が訪れ、軍師になることを求めるところからスタート。この部分が入るのが、南海さんらしいところ。そして、乞食の姿をした使者が来る、幸村は阿呆を装いながらのカモフラージュ作戦、旗揚げと進んで行きました。修羅場読み風になる入城の場面は、時間の関係でしょうね、カットされました。「真田丸の攻防」は、冬の陣で、幸村の作戦が冴え渡るところ、抜け駆けをして、まんまと幸村の計略に掛かった徳川方が、新たな戦略を立て、その陣容についての家臣団の駆け引きが後半といった構成。南海さんの講談で、らしさが一番出るのが、こういった合戦の推移と描写だと、黄紺は思っているのですが、今日の3つでは、このネタが、それに該当します。先陣争いをする武将たち、二重の壁の計略、極めつけは糞尿撒き散らし、もう南海さんの独壇場です。今日の3つの中で、一番格好良くて、感動を残す話が、「木村重成」です。南海さんは、冒頭で「史実ではないですよ」とバラしておいてから、口演に入られましたが、史実であってもなくても、どっちでもいい、格好いいのです。冬の陣のあとの和睦の正使に抜擢された重成に、幸村が策を授けます。成功すると、重成の命が脅かされるという代物。道々、傍らに控える徳川方の武将を罵倒していくというもの。腹を立て、重成に手出しをしたなら、徳川に非が生まれ、その後の展開を有利に進めることができるとの読みです。また、対等な立場での和睦ですから、重成は、若いながらも秀頼の代理という品格を貫き通します。20歳過ぎの武者が、老練な家康、それに味方する武将相手に、頗る付きの品格を見せるところが痛快な話です。これで、「難波戦記」のシリーズは終わり、次回は、もう来年になりますが、「太閤記」に入るそうです。これも楽しみと、黄紺は楽しませてもらってるだけですが、主宰者の2代目南陵の孫に当たる皆さんの活動に、いつもながら敬服の気持ちは忘れないで持っております。


2016年 11月 4日(金)午前 5時 29分

 昨日は文楽を観る日。この前の第1部に対し、昨日は第2部を観る日でした。その番組は、次のようなものでした。「増補忠臣蔵〜本蔵下屋敷の段〜」「艶容女舞衣〜酒屋の段〜」「勧進帳」。前の晩の寝不足で、結構うつらうつらと来てしまった昨日の文楽。気になった点だけを、メモっておきましょう。「増補忠臣蔵」は、「忠臣蔵」に「増補」という語句が付いている。どうやら、この「増補」という言葉はスピンオフものということらしいのです。「仮名手本忠臣蔵」が大ヒットしたものだから、そのスピンオフものが出たというわけでなのです。スピンオフものの常として、本家の話を崩すようなことをすると、最早スピンオフにならないので、本家の物語を補完して、面白味を増したりしないと話にならない。今回、上演されたものは、塩谷判官が刃傷に及んだとき、後ろから抱き止め刃傷を未遂に終わらせた男加古川本蔵に焦点を当てています。本蔵の主君若狭之助は、塩谷判官に先んじて刃傷に及んだかもしれない人物として描かれ、気を利かした本蔵が、若狭之助に隠れて、高師直に賄賂を贈ったために大事に至らなかった物語としても描かれていることを用いて、1つの物語を描くというものです。主君に恥をかかしたとの謗りを受けるとともに、塩冶判官を止めたということでも謗りを受けたりで、後悔の日々を過ごしている本蔵に対し、若狭之助が成敗をするのではなく、大石の元に命を差し出す覚悟の本蔵を、気持ちよく送り出して行くというもの。途中、若狭之助の命を狙う家臣が出てきて、若狭之助が預かる塩冶判官の弟の許嫁をも狙うなんて話を絡ませて、上の物語が進行します。スピンオフものですから、本家の物語を、しっかりと押さえておかないと、その面白味を理解できないということがあるというのが、黄紺には痛いところ。きっちりと、この狂言の面白味を把握できてないのではという不安があります。「艶容女舞衣」は、ホントよく出ます。それも、「酒屋の段」だけですが。それもそのはずで、クドキと言われるお園の言うフレーズが、とっても有名だからです。昨日、文楽劇場でお会いしたコアな落語ファン氏とも喋ってたのですが、「我々って、あのフレーズ知ってますよね」「意味解らないで、聞いてましたよね」という具合で、浄瑠璃の中の言葉だとか、また、前後関係がどんなだかは知らなくても知っている台詞の一部があるのですが、これも代表的な1つです。「今ごろ、半七様は」「去年の夏の患いで、、、」ってやつです。いかに、かつては、浄瑠璃ってものがポピュラーな芸能だったかが判ろうというものです。遊女三勝との間に、お通という子どもまで作ってしまった半七は、嫌な奴善右衛門を殺めてしまいます。半七のいない家では、半七を勘当しながらも、父親が、半七の身代りになろうとしたり、また、半七の女房お園を、一旦家に連れ帰った父親が、半七の父親に詫びを入れにやってきています。親同士の子どもに対する情愛、また、半七の家とお園の家が、お互いの家のことを思う情愛に長けた場面です。半七と三勝は死ぬつもりで、お通を両親の手元に、策を弄して渡るように計らい、落ちて行きます。戻らぬ半七に思いを馳せるお園の姿が哀れを誘います。ここが有名なくどき。津駒太夫さんの泣きの入った浄瑠璃が身に滲みます。「勧進帳」は、能や歌舞伎でお馴染みの演目。今回は、花道が用意され、最後、義経主従一行が、この花道を歩きながら、奥州まで逃げて行くという特別な型が披露されました。黄紺も初遭遇のもの。弁慶<が玉男、富樫が和生、義経が清十郎と、役者が揃いました。


2016年 11月 3日(木)午前 0時 3分

 今日は繁昌亭に行く日。夜席で「桂吉坊・春風亭一之輔二人会」があったのです。なかなか得難い組み合わせに、触手が動いてしまいました。その番組は、次のようなものでした。八斗「代書屋」、吉坊「七段目」、一之輔「子はかすがい」、(中入り)、一之輔「睨み返し」、吉坊「不動坊」。八斗の「代書屋」は、春団治からもらったものとか。型はそうだと思ったのですが、まさかと思っていたら、あとから上がった吉坊から紹介がありました。八斗のキャリアからすると、正に最晩年の春団治からです。その怖いもの知らずに呆れるのですが、でも、もらった以上は、一生をかけて育て上げて欲しいものです。吉坊の1つ目は芝居噺。ネタ出しの「不動坊」が鳴り物入りということもあり、こちらでは芝居噺は避けるのではと、勝手に予想をしていたのですが、見事に外れました。歌舞伎座で、玉三郎&吉右衛門の芝居を観たときの客席風景をマクラで話してから、ネタに入りました。2つ目の「不動坊」が人に合ってないという感じで、聴いていて居心地が悪かったのに対し、こちらはその真逆で、安心、いや信頼の気持ちで聴くことができます。若旦那が、階段を上がるときに見せる人形ぶりを省き、定吉と七段目の芝居に入るときに、若旦那の口を借りての場面説明を入れるのが、吉坊オリジナルになっていました。下げを言ったあと、寄席の踊り「ずぼら」も、踊ってみせてくれました。一方の「不動坊」は、丁寧にテキストを追う、その喋りぶりには、何ら不満はないのですが、じゃ、この「不動坊」がおもしろかったか、聴いて楽しめたかというと、腹8分目のものでしかないのです。演じている吉坊が見えすぎるのかなぁ、噺の世界にのめり込ませない、なんか、それをジャマするものがあるのです。利吉って、利発なんだけど、不動坊の嫁さんと結婚できるっていうことで、舞い上がってしまうと考えなきゃ、キャラが分裂してしまいます。「延陽伯」と似た下りがあるからと言って、「延陽伯」の主役と同じキャラではないはずで、はっきり言えば、利吉の方が、だいぶと賢いはずです。吉坊は、それを意識しているのが見えてしまうのです。噺を楽しむというよりか、それを意識している吉坊が見えて、噺のジャマをしてくれると言えばいいかな。それは、テキストでは押さえていても、冬の寒さ、雪の白さ、夜の暗さ、そないなものがクリアにならないのとも関係があるかもしれません。その辺がクリアになるかならないかで、この噺の「アホらしさ=可笑しさ」が違ってくるのだと思っています。一方の一之輔は、「子はかすがい」がネタ出しで、「睨み返し」は、「不動坊」とともに、2人で冬の噺を入れようとの申し合わせからのチョイスと言ってました。「子はかすがい」は、こちらの聴き方からかもしれませんが、東京の噺家さんらしく、前段を意識しての導入部を入れてからのスタート。子どもは母親と一緒にいる型で、噺の核は、父親と子どもの再会場面。家に帰って来てから、更に鰻屋の場面になると、一層のスピードアップをしていくというもの。父親と子どもとの間の情愛の交流が、しっかりと描かれていること、及び、子どもの口を通して、母親の心情は、既に描かれているということなのでしょう。鰻屋の場面など、いきなり母親が鰻屋に入ってきました。これ以上、もったいぶらない演出はないと言えるもの。そして、それに、何の違和感はありませんでした。そして、おもしろかったのは、再び一緒に住むことの提案の口火を切るのが子どもとなっていました。父親は、頭を下げ詫びるところまでで、それ以上は、言葉が続かないという体か、はたまた、父親のやってきたこと考えると、それ言わせると厚かましい男になるのではという疑念に配慮したのか、その辺は判りませんが、確かに、父親の真摯な態度がクリアになったように思えました。一之輔のちょっとけだるそうな喋り方が、やけにリアリティを生む、格好のネタですね。「睨み返し」は、「掛取り」から派生したネタ。ネタ自体、大晦日の掛取りを撃退する姿を描くという点で、「掛取り」と同じ着想のもの。前半は、「掛取り」の喧嘩マニアの掛取りを撃退する部分を借用。後半が、題名になっている睨み返す男が登場し、睨み返しで、掛取りを撃退するというもの。芸尽くし的な「掛取り」と違い、あっさりとしていて、解りやすく、ありえないバカバカしさに溢れた異様なネタです。だって、追い返す方は、単に睨んでいるだけなんですもの。ですから、落語的と言えば落語的なネタです。一之輔は、既に「子はかすがい」を出したあとだっただけに、「掛取り」系の噺だと判ったときは、持っているかどうかも知らないのですが、軽く「加賀の千代」をするのかと思っていると、嬉しい方に外れてくれました。


2016年 11月 1日(火)午後 9時 24分

 今日は文楽を観る日。今、国立文楽劇場では、「錦秋文楽公演」が行われています。今日は、その第1部を観てまいりました。その番組は、次のようなものでした。「花上野誉碑〜志度寺の段〜」「恋娘昔八丈〜城木屋の段/鈴ヶ森の段〜」「日高川入相花王〜渡し場の段〜」。「花上野誉碑」は、文楽劇場では19年ぶりの上演だそうで、黄紺には、初めての演目だったのですが、実はなじみのある物語でした。浪曲のわりかしポピュラーなネタ「田宮坊太郎」の基になるものです。浪曲の前半、父親の仇(吉田玉男)に茶を勧める役を仰せつかりながら、実際、その前に来ると、その務めをしないため、大変な叱責を受ける場面が扱われていますが、それが、正に「志度寺の段」がそれ。浪曲はええとこ取りですから、物語全体が見えて来ないという欠陥を内蔵しているという典型だということの確認のような作業になりました。文楽では、父親の仇が誰かということが判らない段階の出来事となっていますが、仇の男の人となり、えげつない悪役だということを印象づける場面として考えればいいのかなと思います。「志度寺の段」の主役は坊太郎の乳母(吉田和生)。仇討ちの意志を悟られないようにと、坊太郎の父親の副臣だった侍は、坊太郎に「唖」になることを求めます。何があっても「唖」であることを守る坊太郎に対し、それを気にかけ、その「平癒」を求めて、金比羅大権現に願をかけると、本当の「唖」ではありませんから、「唖」の「平癒」はないのですが、他のところで霊験が現れるという霊験ものなのです。恐らく浪曲がらみの物語だからでしょうね、会場には、真山隼人くんと沢村さくらさんが、観に来られてもいました。それに対して、「恋娘昔八丈」は、黄紺的には退屈で、途中居眠りが出てしまいました。恋のさや当てと、お家大事の品の盗難、その探索が絡む物語。それに、親の勧める結婚、それを嫌がる娘、それにつけ込む男。ちょっとステレオタイプな物語と思っていたら、元となる事件があったとか。そういったごちゃごちゃは、「城木屋の段」でのことで、「鈴ヶ森の段」では、ことが済んでしまい、親の意に叶った夫を、娘は既に殺していました。ですから、「鈴ヶ森」となっているのです。ところが、この物語、最後にどんでん返しがあり、ハッピーエンドとなるのですが、黄紺的には、上に書いた通りでした。「日高川入相花王」は、「日高川」で判るように「道成寺」。その中で、安珍を追いかけてきた清姫が蛇体となり、日高川を越えるというだけの上演。文楽で、この有名な物語の、この段以外って上演されることはあるのでしょうか。黄紺は、寡聞にして、この場面の上演しか知りません。鐘巻の場面が、文楽にあるのかすら知りませんが、その挿話の方がインパクトは強いと思うのですが。そう言えば、長い間、能の「道成寺」を観てないなと思いながら観ておりました。今日は、文楽劇場で、知り合いに会うことが多くて、びっくりの日でした。今までも、思わぬ再会を、何度か経験してきた、黄紺には嬉しい場となっていましたが、今日の再会にも驚かされました。そういった意味でも、文楽劇場は、黄紺にはありがたい場所なのです。


2016年 10月 31日(月)午後 7時 49分

 今日は繁昌亭の昼席に行く日。東京の春風亭一朝が出るということで、狙いを定めておりました。その番組は、次のようなものでした。呂好「寿限無」、二乗「写真の仇討」、伯枝「平の陰」、笑丸「羽織の幇間」、うさぎ「ふぐ鍋」、春若「三十石」、(中入り)、しん吉「金明竹」、一朝「芝居の喧嘩」、ラッキー舞「太神楽」、仁智「スタディベースボール」。呂好の喋り口はベテラン噺家のそれ。元から自然体で、噺家口調が身に付いてしまっているうえに、ますます落ち着きが出てきてますから、前座さんとは思えない雰囲気を醸し出していました。名前の教え手は坊さんではなく、横町の物知りとなっていました。二乗が、繁昌亭の前座を卒業してから繁昌亭で遭遇するのは、初めてじゃないかなぁ。そしたら、いきなり珍品を出してくれました。繁昌亭のロビーに、繁昌亭で出たネタのランキング表が架かっていたので眺めていると、繁昌亭約10年の歴史で、「写真の仇討」は、実に2回だけでしたから、この二乗の口演が3度目となります。「寿限無」のようなポピュラーなネタから、いきなり知らない、しかも序盤に、何やしら重みを感じさせられるネタに入ったものですから、場内では聞き耳がピンと立っているといった空気が流れ、寄席というよりは落語会の雰囲気に入りました。なかなか締まった空気が新鮮で、寄席も、こういった持って行き方ってあるのを認識させられました。下げを聴くと、根を詰めて聴く噺ではないことが判るのも、落語らしくっていいので、おもしろいネタのチョイスです。伯枝は、ちょっと違う空気を感じたのかもしれませんが、マクラで自分の顔をネタに、力技で、我が身に客席を引き付けようとしたのですが、もう一つうまく行かないまま、ネタに突入。ところが、ネタの威力というか、ネタの力を引き出す伯枝の口演に魅せられたのか、徐々に客席の反応が生き生きとしていきました。アホらしいネタのアホらしさを引き出すのって、難しいのだけれど、今日は、客席の皆さんは体感されていたということでしょう。マクラで乗せられなくとも、ネタの威力を引き出す力を見せつけた絶好の例だったと思います。笑丸は色物枠。元の噺を知らないので、芸尽くしになるコンテキストが判らないままに終わりました。放り込まれた演芸は、紙切りとウクレレ漫談でした。うさぎの淡々と進める、平板なと言ってもいい「ふぐ鍋」に対する客席の反応も良く、これまた、ネタの持つ威力を感じました。「ふぐ鍋」はポピュラーなネタだし、また演じ手も多いということからでしょうか、デフォルメに走る傾向が、昨今看られますが、客席の質を見極めて、色合いの付け方に変化を持たせることの肝要さを認識されられました。春若に、繁昌亭昼席で、よく遭遇します。「天狗裁き」を避けれたかと思ったら、今度は「三十石」が続きました。マクラで、お得意の「ジョーク」を入れるものですから、自ずと時間に余裕がなくなります。今日は、帳面付けが済むと、舟が出ました。そして、舟唄の間に、橋の上から声をかける遊女が出てきて、あとは舟唄で終わるのかと思いきや、枚方の仕事唄を入れてから切り上げました。時計を見ながらの 調整なのでしょう。しん吉の「金明竹」も、繁昌亭では定番ネタかもしれません。時間の関係でしょうね、店番を頼まれた定吉の前に、いきなり道具屋が飛び込んで来ました。しん吉の「金明竹」を聴くとき、いつも思うのは、もう少し定吉が子どもにならないかなということ。今日もそうでした。そして、お待ちかね一朝。繁昌亭は、初めてだそうです。そうだったんですね。そういうときって、時間に合った自身の勝負ネタを持ってきてくれるものですから、繁昌亭に出る東京の噺家さんは外せないのです。ネタは、芝居小屋で、幡随院長兵衛一家の者と水野の配下の者との、たわいのないことから喧嘩に発展するだけの噺ですが、途中に小咄を放り込んだりと、小技の冴え渡る噺。ホント、狙って行って、お釣りまでもらってきたというお得感満載の高座でした。明後日は、今度は、弟子の一之輔が、繁昌亭を賑わしてくれることになっています。トリの仁智は、今日も「スタディベースボール」を出しちゃいました。ですが、今日だけは、ネタを、予定していたものから変えたのじゃないかと思われるアクシデントがありました。今日は、口演途中で席を立つ人の目立つ日だったのですが、特に仁智の高座のとき、最悪のタイミングで、そんなタイミングなど考えられないご仁でしょうね、マクラのクレッシェンドする正に登り口で、席を立つわからんが出たために、仁智が絶句。しばし、動揺が収まらない様子を見せていました。出れば帰って来るわけで、それも、お構い無しのタイミングで戻って来ることが予想されることから、仁智の口から、思わず愚痴がこぼれました。どこで、ネタに入っていいのか、そのタイミングに見通しが効かなくなったのです。これで、ネタを変えたんじゃないかなと思うのです。「スタディベースボール」は、ネタの序盤というタイミングで、テレビ局のスポーツ番組の導入音楽いじりをしますから、このタイミングに戻って来られても、大した障りにはならないと判断したのじゃないかな。そして、「スタディベースボール」にシフトを切って間なしに、件のご仁が戻って来ました。そのときの空気が妙なことにすら、その方は気づいてないのじゃないかな。繁昌亭昼席は年寄り天国ですから、わけの解らないことを、まま目にしますが、このシーンは、ベスト3には入るものでしょう。


2016年 10月 30日(日)午後 7時 24分

 今日は、西京極でサッカーを観る日。J2の「京都vs岡山」の試合観戦です。今年初めてとなるサッカー観戦、もちろん日本での話です。トルコでは、こないだの旅行期間中、4試合観ていますから、サッカー観戦は、それ以来となります。ファナティックなトルコのスタジアムと違い、日本のスタジアムはどっとも長閑。特に西京極の長閑さは、トルコのそれと真逆の感じがするものですから、わりかしその雰囲気がおもしろくて、同じサッカーを観るなら西京極に、足が向いてしまいます。すごく礼儀ただしい応援リーダーの人たちが来て、選手入場のときだけ、統率のとれた応援を求めていました。黄紺以外は、皆さん、律儀にというか、サンガのサポーターの方たちが、黄紺の周りにいたからでしょう、それを楽しんでいるのかまでは判らなかったのですが、素直に指示に従ってました。日本では、ビールを呑みながらの観戦ができるというのが、実に長閑です。ドイツでは、首か手にグッズ、空いた手に瓶(缶ではない)ビールを持ち、うろうろしてからスタジアムにくり込む姿を目にします。トルコでもいないわけではないのですが、さすがに手にビールは少ない。酒も呑まないで熱くなれる人たちなんでしょう。最近のトルコ人サポーターの姿で目につくのが、手にポシェットを持ち、スタジアム入りする人たち。ポシェットの中に応援グッズが入っており、スタジアムに来てから、グッズを身につけ、試合が終わると、またグッズはポシェットにしまい、普通の姿に戻るのです。ですから、以前だと、スタジアムの位置が判らないときは、グッズを着けた人に着いて行けば良かったのですが、今や手にポシェットを持った男が複数歩いておれば、その方角にスタジアムがある証となります。先日も、初めて行ったバシャックシェヒルで、これを実践させてもらいました。そないなことは、どうでもいいことで、肝心の試合は、「2:0」でサンガの勝ち。開始5分も経たない内にサンガが先制。右サイドからのセンタリングにニアで合わせると、きれいなゴールが生まれました。ニアでは、ボールに触れ方向変えればゴールが決まるというお手本のようなゴールでした。それから、サンガは、何度かゴールチャンスがありながら入らない。シュートが悪かったり、ダイレクトで打てなかったり、バー直撃もあったりで、こういったときって、相手に点が入るのが相場。確かに、岡山もボール支配では拮抗した戦いをするどころか、いい縦パスが入るものですから、いつ同点になってもおかしくない展開。でも、勝利の女神はサンガのサイドにいたようです。なんとか凌いでいる内に、京都に追加点が入りました。後半40分くらいじゃないかな。途中投入された選手の感性がゴールを生みました。下がった選手が、同じパターンのパスをもらっても、決してシュートを打とうとしなかったのに対し、今度はシュートを打つと、狭い角度ながらもゴールが決まりました。ここまでと看た黄紺は、試合終了を待たずに席を立ちました。カドゥキョイでだけはしませんが、定番の行動です。そうそう、スタジアムの周りは、屋台が随分と出ていたのですが、その中にトルコ人とおぼしきケバプチが出ていたので、夕食替わりにするつもりで、屋台の前に行くと、ドネルは残っているのに、売り人は行方不明で、結局は買えないまま帰ることになりました。もう1軒、チキン・ケバブの看板を掲げて、日本人が売り子の屋台がありました。ドネルは飾りに置いて、鉄板でチキンを焼いていたのには、びっくりさせられました。考えてみれば、カドゥキョイなんかは、試合が終わったら、周辺のお店にくり込む人もいるということで、それを待ち構える店がありますし、オリンピック・スタジアムなんかでは、マンガルの屋台が並んだりしますから、似たようなものなんでしょうね。スケジュールを見てみたら、もう、今年は、サッカーを観る時間を取れそうもありません。1度行くと、また次もとなってしまったのですが、時間的に難しいことが判り、諦めるしかありません。


2016年 10月 29日(土)午後 11時 34分

 今日は二部制の日。昼間に、枚方市内で講演を聴き、夜は、昨日に続いて、びわ湖ホールでのコンサートに行ってまいりました。まず、枚方市内での講演というのは、先日に続き2回目となる枚方市文化国際財団主催の「フランス文化理解講座 」で、今日は、「【文化の違い】フランス人の日本人への先入観等」というテーマでした。お話しは、この講座を担当されているフランスのエセック経済商科大学院大学生のテオ・マレショーさんでした。この方、どうも大学内でのゼミの発表のような学際的なお話しをされ、ほぼ身近な観点を失したままなものですから、このテーマならきっと出てくるはずと期待していた、来日後、目にした耳にした日本社会の課題や、今や世界的な関心事になっているフランス社会のイスラームについてのお話しなどは、一切ないまま講演が終わってしまいました。お話しの中心は、「先入観」の存在を意識させること、それを批判する啓蒙主義時代の哲学者の言葉(この援用も×に近いと思いましたが)、「クールジャパン」という番組の紹介(ここから発展があれば良かったのですが、、、)、「文明の衝突」の紹介と批判、そして、共存の提起というもので、やっぱりまとめてみても、市民相手の講座というものではないことが確認できました。時間がかなり余ったということで質疑応答に入ったのですが、得てして出てくる自己顕示的な意見(主催者側の人も含まれていました、、、あかんやろ)にうんざりする一方で、講演者が答えやすいような質問、言葉選びをされる方もおられ、世の中、様々でした。申し訳ないのですが、2回参加して、イエテルです。3回目は辞退する旨、係の方に言って、枚方市民会館をあとにしました。
 そして、夜はびわ湖ホール。大阪府から京都府を抜けて滋賀県への大移動でした。ま、さほど時間はかからないのですが。今夜は、こちらでザクセン声楽アンサンブルのコンサートがありました。ア・カペラの合唱団のコンサートって行ったことってあったっけと、しばし考えこんだのですが、なかなか思いつきません。ひょっとしたら、初めてのことかもしれません。なお、プログラムは、次のようなものでした。「J.S.バッハ:モテット『主に向かって新しき歌をうたえ』BWV.225」「J.G.ハラー:モテット『わたしの心は定まりました』」「C.L.フェーレ:モテット『思い煩いで満ちるとき』」「J.S.バッハ:モテット『恐れることなかれ、われ汝とともにあり』BWV.228」「J.S.バッハ:モテット『御霊はわれらの弱きを助けたもう』BWV.226」「J.A.ヒラー:モテット『人はみな草のごとく』「G.A.ホミリウス:モテット『見よ、主の目は』」「T.C.ラインホルト:モテット『すべての思い煩いを神にゆだねるがよい』」 「J.S.バッハ:モテット『来たれ、イエスよ、来たれ』BWV.229」。バッハのモテットの演奏会と思っていたところ、プログラムを見ると、バッハは4曲だけで、あとは、知らない作曲家の名前が並んでいました。プログラムに拠ると、それらの作曲家は、バッハの周辺にいた人たち。ですから、がらりと雰囲気が曲目で変わるというものではなく、休憩時間も含めて2時間弱の間は、正に18世紀の雰囲気に浸れたということです。このアンサンブルは、男女各12人の編成ですが、1人カウンターテノールが含まれていましたから、男声部11人、女声部が13人と、数の上ではバランスを欠いた編成になっていましま。それらのメンバーが、バッハのときと、それ以外の作曲家のときとでは、立ち位置が男声&女声ともに変わり、バッハが8声部、それ以外が6声部で歌われていたようでした。総じて6声部の方が、厚みを感じたのは何故なんでしょうか。モテットは、小ぶりの宗教曲、機能的には機会音楽と言えばいいのかな。大仰なミサ曲やレクイエムのような曲ではなく、実用的で、演奏頻度は高かったのかもしれません。教会のような残響の長いところで聴くと、もっとスケールが大きなものとして聴くことができるのでしょうね。アンサンブルとしては、若干、男声低声部が弱いかなというところでしたが、それは、敢えて言えばの範囲でしょう。なかなか聴く機会のないア・カペラでバッハ&同時代の作曲家、黄紺が、中高生の時代、まずのめり込んだのは、こういった音楽でした。今に至る全ての始まりだった思い出のジャンル。なかなか感慨深いものを感じながら、楽しむことができました。


2016年 10月 29日(土)午前 6時 40分

 今日は、びわ湖ホールでのコンサートに行く日。マチネーのコンサートで、大物オペラ歌手ディミトラ・テオドッシュウのリサイタルがありました。わりかし多くのDVDが出ているので、随分と彼女の歌声を聴いてはいるのですが、ライヴは初めて。そのプログラムは、次のようなものでしたが、いずれ劣らぬ名曲が並びました。「ヴェルディ『運命の力』より "神よ、平和を与えたまえ"」「ヴェルディ『仮面舞踏会』より "死にましょう、しかしその前にお願い"」「ヴェルディ『イル・トロヴァトーレ』より "静かな夜は"」「プッチーニ『ラ・ボエーム』より"あなたの愛の声に呼ばれて出た家に"」「プッチーニ『マノン・レスコー』より第3幕への間奏曲」「プッチーニ『マノン・レスコー』より"一人淋しく"」「プッチーニ『トスカ』より "歌に生き、愛に生き"」「マスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』より "ママも知る通り"」「マスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』より間奏曲」「ポンキェルリ『ラ・ジョコンダ』より"自殺"」「ヴェルディ『マクベス』より前奏曲」「ヴェルディ『マクベス』より "光は萎えて"」。見事にオペラの名曲が並びました。最初の印象は、えらく硬い声質、不安定な音程、低音が弱い、パワー抜群といったところ。まず、硬い声質と言えば、先日の「ドン・パスクワーレ」でも似た印象を持ったことを思い出しました。殊にソプラノには厳しいホールの印象が残っていたものですから、本来の声質とは即断できないとの認識。その猶予したことが活きたのが、サントゥッツァが母親に語るようなアリアのところで、テオドッシュウが、客席を回りながら歌うという演歌歌手ばりの大サービスをしてくれたおかげで判明しました。舞台には、背後がボードで仕切られてしまっているのが業をしていると看ました。客席中央で歌うテオドッシュウの声は、全く違った声に聴こたのです。パワーがあるだけではなく、伸びやかで、懸念された低音も、サントゥッツァの歌うアリアだったからでしょうか、低音にシフトしての発声は、しっかりとしたもので、不安は一掃され、正に本日の秀逸と言える出来栄えだったと思います。そんなですから、それ以後のプログラムでは、気になる声質も、割り引いて聴かねばならないと思いながら聴くことにしておりました。不安定な音程は、冒頭のヴェルディで、最も著しく、3曲目からは、随分と落ち着いていきましたが、音が跳ぶところは相変わらずで、それは、低音から高音の場合も、その逆の場合も、同じように不安定なのは、かなり気になりました。2曲目の「仮面舞踏会」で、ピアノ伴奏が途切れ、歌唱だけで進行するところで高音に跳ぶ際、なんとピアノが小さく音を入れていました。これは、予め打ち合わせがあったのか、伴奏者(浅野菜生子)が、そこまでの不安定な歌唱に気をきかせてのことかは、黄紺には判りませんが、初めての経験でした。プログラム的には、ベルカントがなく、ベルリーニを期待していただけに残念で、ひょっとしたら、もう歌ってないのかもしれませんね。でも軽めの声の人が歌うミミが良かったものですから、その辺は調べてみないとダメですね。アンコールは、次の3曲でした。「プッチーニ『ボエーム』より"みんな行ってしまったのね"」「マスカーニ『友人フリッツ』"わずかの花を"」「プッチーニ:サルヴェ・レジーナ」。テオドッシュウのパワーのある声は、確かにびわ湖ホールの大ホールで聴くに相応しいものですが、器が大きすぎ、入りが、かなり寂しいものでした。テオドッシュウを聴きたくてなんて人種が、さほどいるとは思えませんから、致し方のないことかもしれませんが、やはり周りを見渡すと、、、寂しいでしたね。終わって外に出ると、かなりの強い雨。幸いなことに、このコンサートは、元同僚ご夫妻と一緒だったため、車に便乗させてもらえ、楽勝。おまけに高速バスの停留所で降ろしてもらえば、瞬く間に帰宅が可能でした。


2016年 10月 27日(木)午後 10時 42分

 今日は講談を聴く日。動楽亭であった「第457回上方講談を聞く会」に行ってまいりました。最近、ご無沙汰している会ですが、ネタを見ながら行くことにしています。ということは、最近は、新鮮なネタに欠けるということで、足が向いてなかったというわけです。今日は、南華さんと南湖さんを狙いに、行ってみたというわけです。その番組は、次のようなものでした。南舟「杉野はいずこへ行った」、南湖「探偵講談蝿男」、南左衛門「荒大名の茶の湯」、南華「報恩出世俥」。南舟くんは、案内葉書とは違うネタを出しました。彼は、明治ものが好きならしく、幾つか持っているものの内の1つになります。黄紺でも、辛うじて名前くらいは解る広瀬中佐ものです。ロシアの押さえる旅順港を閉鎖するために、沖合いに船を沈める作戦でのこと、その作戦で、部下の杉野を助けるために、時間をかけて探し回り、逃げるのが遅れて戦死したため、美談だとして、軍神に祭り上げられた広瀬と杉野の物語。でも、この話には落ちがあり、杉野は生きていたというもの。どうも、帝国主義時代の戦争美談は、聴いていて居心地が悪いですね。南湖さんの「探偵講談」は、今日の狙いの1つ。でも、そういったときに、今日も、途中で居眠り。話が解らなくなってしまいました。ただ、どういったコンテキストで言われたのか思い出せないのですが、春野百合子師が亡くなったことに触れられ、黄紺は、このニュースを初めて知りました。第一感、「これで、浪曲界からは、人間国宝は出ない」ということでした。南左衛門さんは、またしても「荒茶」。マクラで、学校公演では、「荒茶」が大受けとのお話し。確かに、解りやすいネタって、そうはないでしょうから、そうなのかなぁと思ってしまいました。「長短槍試合」なんてのは、どうかなと、これを書いていて思いつきましたが。ただ、南左衛門さんの口演、前にもまして、一層くさくなってました。学校公演をしたあとだということが納得できました。南華さんの「報恩出世俥」も、今日の狙いの1つでした。なんか聴いたことがあるようなのだが、内容は判らないということからだったのですが、ほんのさわりを聴いただけで、「な〜んだ」でした。正直俥夫の話です。親切にされた巡査に恩返しする話が、このネタの両脇を飾ります。その間に挟まれたエピソードというわけでは、俥に置き忘れた財布を、主人公が持ち主に返すという話。それをきっかけに、信頼を受けた俥夫は、店を任され、成功していきます。俥夫ものの中に、よく似たものがありました、南舟くんが東京でもらってきたものの中に。ということは、パターンなんでしょうか。落語の俥夫もので、似た噺に「稲荷俥」がありますが、持って行き方が違うのが可笑しいところです。「上方講談を聞く会」は、久しぶりにおじゃまをしたのですが、今日はつばなれをしませんでした。最近は、そんなのでしょうか。以前は、少なくとも、つばなれはしていたのですがね。我田引水的に言うと、「荒茶」なんかが出ると、またかの気分になるのじゃないかな。


2016年 10月 26日(水)午後 10時 34分

 今日は、元の同僚との食事 会。今までは、イスタンブール・コナックでするのが慣例になっていたのですが、残念なことに、コナックが閉店されたので、今回は、場所を改め、福島のタイ料理店を使うことになりました。黄紺は、この7月にタイに行ってきたところですが、あとの2人も、タイに行ったことがあるということでのチョイスとなりました。5月以来の再会。3人とも無事でした。そして、今回も、別れるときの決まり文句は「死んだらあかんでぇ」でした。


2016年 10月 26日(水)午前 1時 1分

 今日は二部制の日。しかも、夜の二部制。1つ目は、毎月通う「第231回旭堂南海の何回続く会?〜増補難波戦記21」、2つ目は、繁昌亭の深夜寄席「乙夜寄席」。まず、南海さんの講談会では、今日は「大久保彦左衛門」と題しての読み物。大久保彦左衛門は、大阪方贔屓の「難波戦記」には、よく出てきます。家康が危難に遭うと、救い出しに来るのは、決まって大久保彦左衛門。ですから、大阪方贔屓の「難波戦記」スペシャルのような存在で、史実とはかなり違う人物像のようだということなんかに触れることができるのが、南海さんらしいところ。今日の話は、大久保彦左衛門が登城して、木村重成の名前を付けた梅の木をもらうというもの。家康伝来の梅の木を大事にしすぎて育てようとするあまり、人の命を軽々しく扱う家光に意見しようというもの。その間に、大久保彦左衛門が、大阪合戦の昔話などを入れるということで、今続けられているシリーズに入ってくるというわけです。今日は、それだけではなく、江戸城に仕える茶坊主が出てきたことから、茶坊主の話になり、挙げ句の果てには、茶坊主としての有名人河内山宗俊の一席まで披露してもらえました。旭堂にはない話ですから、東京で琴梅師からもらったそうです。
 講談会が終わると、徒歩で繁昌亭まで移動。乙夜寄席は、今日が第二夜。前回は、セルビアにいたものですから行けてないのです。ただ、帰りが遅くなるのが判っていますから、様子見のつもりで、何回かは行ってみようかなと思っています。ただ、新宿末廣亭と違い、土曜日の夜ではないということ、ロケーションは末廣亭に劣るということなんかで、集客に課題を残さないかとか、また、東京の場合は、2つの協会が、二つ目の噺家さんを順送りで出番を決めているので、若手育成との看板が成り立つのですが、繁昌亭の場合は、今回発表されている公演は、お試し期間という色合いがあるため、受賞歴のある噺家さんを中心に据え、前座役となる噺家さんも、いろんな意味で選りすぐった噺家さんを起用し、まず乙夜寄席の認知度を上げることに腐心しているのが丸見え的な出番表になっていて、逆に長続きするのかと不安を覚えます。そないな意味でも、何回かは覗いてみたいと考えている黄紺なのです。で、今日の選ばれた噺家さんによる番組は、次のようなものでした。瑞「道具屋」、三四郎「MOMO」、吉の丞「餅屋問答」。瑞は、今日も元気いっぱいの声。でも、ほぼ同じテンポでの進行。土曜日に聴きに行ったときよりは、まだ、客が去って行くときには、間をとっていたのですが、残念ながら、そこだけに変化を見ただけでした。ですから、瑞の口演は、なんとなくせわしなく感じました。その口演をまぜかえすような三四郎の口調が大受け。自在に話す内容、喋り方に、一挙に緊張が緩み、落語を楽しむ空気が生まれました。ということは、瑞の口演は、頑張って演じようというのが伝わってくるものですから、聴く方がリラックスできてなかったということになります。三四郎の新作は、外国人に日本昔ばなしを教えるというもの。その外国人が、日本のことを教えてもらいながらも、突如として、小咄を知っていたりと、地位が逆転するかと思うと、また元に戻ったり、また逆転したりと、2人だけの会話で進む噺だけど、主客がころころと入れ替わる可笑しさを追求していました。一方で、「桃太郎」のパロディ、「お伽噺小咄」のパロディがふんだんに使われており、ちょっとずるいなぁと思わせられもしました。吉の丞の「餅屋問答」は、初遭遇かもしれません。冒頭に、坊主になるに至る経緯が、ちょっと詳しめに入る口演は聴いたことがないはずですので、恐らく初遭遇だと思います。今日の吉の丞は、どうしたのか、えらく滑舌が悪く、永平寺の僧の言う口上がうまく言えず、途中で詰まるなんてことがあったり、問答の台詞も、危ない場面続きで、聴いていて冷や汗もの。でも、やはり選ばれたトリだけあります。ドラマになっているんだなぁ、噺が。気が乗り移った台詞回し、目の使い方などが、それを可能にしているのでしょうね。今日の入りは60人くらいかな(協会発表では70人)。開場時は、さほど多くの人が並んでいたというわけではないのですが、じわじわと増えてくる姿は、繁昌亭の昼席や夜席では見られないもの。客層も、どう捉えていいものか、把握しきれませんでした。そして、何よりも嬉しかったのは、竹林が呼び込みを、米二が受け付けをしている姿。2人は、上方落語協会の若手育成委員だと聞いていますが、このキャリアの噺家さんに、裏方仕事をしてもらったら、出番をもらった若い噺家さんは、緊張もするだろうし、張り切らざるを得ないはず。こないな風景を見るにつけ、この試みが成功して欲しいことを願わざるを得ませんでした。


2016年 10月 24日(月)午後 7時 38分

 今日は、民族学博物館の特別展「見世物大博覧会」に行く日。こちらの特別展は、欠かさず観に行くことにしているのですが、よく抜かすことも多く、実際には毎回行けてないんじゃないかなぁ。会場に入ると、左側に、見覚えのある見世物小屋の怪しげな看板が架かっているものですから、右側を見ずに直行。あとで判ったのですが、右側に行けば、軽業がらみのの展示があり、そこには「早竹虎吉」の勇姿も、絵図で見ることができたのですが、それに気づくのは、1階の最後。とにかく見世物小屋に入ると、更に、怪しげな看板が数多く展示されている上に、タンカと呼ばれる木戸の呼び声が流されています。小沢昭一を紹介する展示もありましたから、彼の収集した音源かもしれません。その見世物小屋の中央には、懐かしい人間ポンプの公演が流されていました。お腹に金魚を入れて釣り上げたり、お約束の火吹きを見せてくれていました。それを出ると、すぐに覗きからくりと、黄紺には、たまらない布陣。実際に使われたパネルがモニターから流れ、それに合わせて独特の節回しが流されていました。ネタは俊徳丸でした。軽業コーナーでは、角兵衛獅子、祭礼に取り入れられている軽業芸、太神楽の実演映像を観ることができました。そないなものを、じっくり観ていたものですから、1階だけで所要1時間。2階は、見世物に使われたものの展示が中心。生人形などという言い方がおかしい実物そっくり人形、ありえないものでありえないものを作るという発想で作られた人形(魚で作った仏像にはひっくり返りました)、菊人形、動物などで、これは、このコーナーだけではありませんが、それらが見世物になっている姿を描いた絵図も、当然に展示されているというわけです。動物園ができるまでに、らくだを知っていたわけですからね。最後には寺山修司のコーナーが用意をされていました。「身毒丸」の映像も映されていました。というわけで、落語に出てくる世界だけではなく、仄かに残る記憶の中には、黄紺も共有できるものが見え隠れしたものですから、とっても楽しい思いをさせてもらった展示でした。特別展のチケットで、通常展も入れますので、リニューアルされた展示、そして、毎度のお楽しみの映像資料を観る時間が、すっかり少なくなってしまったほどでした。


2016年 10月 24日(月)午前 3時 40分

 昨日は、びわ湖ホールで、「沼尻竜典オペラセレクション」として行われたドニゼッティの「ドン・パスクワーレ」を観る日。これで、3週間連続、週末はオペラを観ることになります。まことに結構なことです。昨日の公演は、(指揮)沼尻竜典、(演出)フランチェスコ・ベッロット、また、歌手陣は、(ドン・パスクワーレ)牧野正人、 (マラテスタ)須藤慎吾、 (エルネスト)アントニーノ・シラグーザ、(ノリーナ)砂川涼子、更に、(合唱)びわ湖ホール声楽アンサンブル、藤原歌劇団合唱部、オケは日本センチュリー交響楽団という組み合わせでした。まずは、歌手陣の充実が素晴らしい公演。なかでも、エルネストを歌ったアントニーノ・シラグーザが、破格の声を披露したのには驚かされました。寡聞にして、その名前を知らなかった黄紺に、観に来ていた高校時代の友人によりますと、大変な実力者だとか。「この人を聴きに来たくらい」だとまで言ってました。ちょっと声が硬質かと思ったのですが、それは、敢えて言えばのこと。残りの主役3人も、これだけ揃えてもらえると、文句は出てきようがありません。ただ、ノリーナの砂川涼子は、正に日本の歌手ではトップをはる一人だとは承知しているのですが、この人の声質は、はっきりと硬いものですから、馴染みにくい声であることは馴染みにくいですね。一方、フランチェスコ・ベッロットのプロダクションですが、舞台装置は、遠近法を使い、舞台を斜めに切った壁(天井付き)に、壁模様を映写するというもの。この映写が巧みで、3幕になり、バロック調のインテリアが、壁から消えるまで、それが映写だとは気づかなかったほどの優れもの。あとは、1〜2幕は、仕切られた壁の中に、ソファーなどが置かれているだけというシンプルなもの。1〜2幕を、全て、この装置のまま進行しますから、ノリーナの登場場面や、エルネストが、トランペットのオブリガードに乗せて歌う惜別の歌も、全て、同じ装置を使うとなります。このプロダクションの問題点は、ブッフォなのに、人の動きが少ないという点。特に1幕が、そういった意味では、寂しいものがありました。ようやく2幕のドタバタ場面になり、人が動くようになりましたが、ここが静かだと話になりませんからね。逆に興味を惹いたのは、ノリーナが贅沢を始めると、ものが溜まり、その混沌の中で物語が進行した方がおもしろかろうとされるプロダクションが横行する中で、このプロダクションでは、ものが増えることを、逆にものがなくなるということで表そうとしていました。ですから、壁への映写が消え、黄紺などは、それまでの壁の装飾が映写だったのだと、初めて気づくことになったというわけなのですが、ノリーナが買い物をして、ものに溢れている姿を、何もない姿で表す、調度品まで下げられてしまいますからね、これって、ドン・パスクワーレの側から、彼の心象風景を描いていると捉えれば、お見事な秀でた表現と看ることができました。ですから、舞台には、何もない壁だけが残っているわけですから、そのままエルネストがセレナードを歌う場面にも使えますし、製作側からすると、まことにありがたい着想じゃないかな。一石二鳥どころではありません。歌手陣、演出に加えて、このプロダクションを楽しませてくれた要因の1つに、沼尻の指揮の巧みさを忘れてはいけません。テンポの動かし方が、このブッフォを盛り上げるのに大貢献。巧みさとは、正にこれですね。また、センチュリーが、その指揮に応える演奏を見せてくれたのにも拍手。高校時代の友人と一致したのは、定期で見せる演奏より、ずっとびわ湖での演奏がいいということ。このオペラにも、もう一人、高校時代の友人が、またまた福井からやって来ていましたので、終演後は、膳所の街で食事をしながらのオペラ談義。いや〜、満ち足りた日曜日となりました。


2016年 10月 22日(土)午後 11時 32分

 今日は二部制の日。昼間は、動楽亭で落語会、夜は、カフェモンタージュでのコンサートという一日でした。まず、お昼は「第3回みずほのホッ。〜露の瑞勉強会〜」という落語会でした。露の都の弟子瑞の勉強会です。その番組は、次のような ものでした。新幸「ちりとてちん」、瑞「つる」、由瓶「じゅうじゅう亭弁当」、(中入り)、瑞「犬の目」「天狗さし」。新幸の前座は、師匠の新治の会以外では初めて。でも、考えてみると、瑞とは同門となるわけですから、この辺からのスタートは自然なこと。新治テイストいっぱいの「ちりとてちん」。その師匠の指導がいいのでしょうね、メリハリの効いた噺ぶりに、また一人、有望な噺家さんが現れたの雰囲気です。瑞は、この会では、2席をかけるようにしているそうですが、今日のネタ下ろし「天狗さし」が短いということで、3席出すことにしたとか。ただ、黄紺は、「つる」「犬の目」は、瑞の口演で聴いているので、新鮮味がなく、ちょっと残念。「つる」は1席目だということで、マクラは長め。中味は、ゲストの由瓶のことばかり。おもしろいお兄さんだということです。それを切り上げたかと思うと、いきなりネタに入りました。この2つの瑞の演ずる前座ネタは、テキストが良くないですね。あとの「天狗さし」が、よく言葉が精選されているのと違い、簡潔に言えば、少々下品。瑞と言えば、上方落語界で秀でた可愛さのある噺家さんですから、余計に、瑞が使うテキストとしては考えもの。誰かからもらったわけでしょうから、瑞のキャリアからして修正しにくいのか、そのまま使ってるのでしょうね。こういった前座ネタをしなくなるような年数になる前に、自身の手で修正を試みて欲しいものです。由瓶は、散々いじってもらっての登場で、ほくほく顔。マクラで、瑞の話を引き継いでのお喋り。男性客が多いことで遊んでみたり、都一門の新しい弟子の話で遊んでみたり、余裕綽々の高座。こういったところで、由瓶って、どんな噺をするのかなと思っていたら、自作の「じゅうじゅう亭弁当」を持ってきました。瑞の軽めのネタ3連発に、古典で大きく目立つことを避けたのでしょうか、瑞のいじりに応えるには、私落語的なネタがいいと判断したのでしょうか。今日の由瓶は、マクラより、ネタの方で、濃〜いキャラを発揮してくれました。やっぱ、「じゅうじゅう亭弁当」に出てくる上司は由瓶ですよね。瑞の3席目は、雀太からもらったと本人の口から紹介がありました。雀太は、後輩の会に喚ばれたりとかで、こないなところで、彼の人望が知れます。ちょっと後半、睡魔に襲われてしまったのですが、米朝より伝わるからでしょうね、テキストが整理されているのは、そういうことなのでしょう。瑞は、由瓶も言ってましたが、お腹の底から元気な、大きな声が出るといういいところがありますが、残念ながら、その元気な声をコントロールしきっているかと言えば、まだまだ時間が要ると看ています。いろんなネタにチャレンジして、頃加減の力の入れ具合を身につけていって欲しいものです。今日は、乙夜寄席の取材ということで、出番の決まっている中では、一番の若手になる瑞を取材するということで、ずっとNHKのカメラが入っていました。わりかし目立つ席に座っていた黄紺が映っているかもしれないなと思っております。
 動楽亭を出ると、淀屋橋駅までのミニウォーキング。そして、京都への大移動。今夜のカフェモンタージュでは、「牧神の時代- C.ドビュッシー」と題してリートのコンサートがありました。出演は、(ソプラノ)谷村由美子(ピアノ)塩見亮のお二人で、次のフランス歌曲&ピアノ曲が出ました。「ドビュッシー: 歌曲集『ビリティスの歌』 (1898)」「ラヴェル:鐘の谷 (1905)、暗く果てしない眠り (1895)、聖女 (1896)、絞首台 (1908)」「ドビュッシー:照らされた夜 (1917)、歌曲集『雅な宴 第1集』 (1892)」。フランス歌曲のコンサートと言えば、デュパルクあたりを連想してしまうのですが、逆に、ドビュッシーやラヴェルを聴く機会が少ないということで、黄紺は、乗り気になったコンサート。でも、なじみがなく、また聴いていても、あまりなじめずという感じのまま、終わってしまったという感じでした。ドビュッシーも、歌の方では、あまりドビュッシーらしさというものが感じられず、ことわられなければ、ドビュッシーと判らなかったと思いますが、歌曲集『ビリティスの歌』の方は、作曲が遅い分、ピアノは、やはりドビュッシーでした。それに、19世紀後半のフランス歌曲が乗っかってるという感じ。ですが、作曲年代の早い歌曲集『雅な宴 第1集』の方は、どこにも、黄紺の知るドビュッシーを見つけることができませんでした。ラヴェルとなると、ますます判らないまま、あっさりと終わってしまいました。用意された2人の歌曲だけでは短いということで、ドビュッシーから1曲、ラヴェルからは2曲、塩見さんのピアノだけの演奏が入りました。ほとんど、カフェモンタージュでのリートのコンサートは行ってなかったのですが、オペラと違い、また、カフェモンタージュのスペースからしても、パワーの有無などという点は、演奏に関係があると思えません。今日の谷村さんは、びわ湖声楽アンサンブルの経験もお持ちなので、オペラも歌える方です。こういった狭い空間こそは、表現力が求められ、チェックが可能なのではと思えました。そういった意味では、いい勉強になったコンサートだと思っています。


2016年 10月 22日(土)午前 5時 1分

 昨日は、フェニックスホールで室内楽を聴く日。「交響的室内楽〜ルートヴィヒ・チェンバー・プレイヤーズ」と題し、ドイツのシュトゥットガルト放送響のメンバーと日本人演奏家による室内楽のコンサートがあったのです。そのメンバーは、次の通りです。白井 圭(ヴァイオリン)、ヤニス・リールバルディス(ヴィオラ)、横坂源(チェロ)、幣隆太朗(コントラバス)、ディルク・アルトマン(クラリネット)、ハンノ・ドネヴェーグ(ファゴット)、ヴォルフガング・ヴィプフラー(ホルン)。そのプログラムは、次のようなものでした。「J・シュトラウス:喜歌劇『こうもり』序曲 」、「ブラン:七重奏曲 作品40」「R・シュトラウス(ハーゼンエール編):もうひとりのティル・オイレンシュピーゲル」「ベートーヴェン:七重奏曲 作品20」。このアンサンブルは、こういった日本での公演用に、臨時的に結成されたのかと思っていたのですが、CDの販売をされていたこともあり、機会を見つけては、演奏活動をされているような印象を持ってきています。アンサンブルのドイツ人メンバーと、コントラバスの弊さんが、シュトゥットガルト放送響のメンバー、その人たちが核になった構成ですが、黄紺的には、白井さんは、神戸室内合奏団のコンマスとして、しっかりと記憶に留まっている方。おまけに、カフェモンタージュのおかげで、その演奏にも接する機会を得ています。しかし、今日、会場で会った知人ご夫妻は、白井さんをお目当てはもとより、いや、それ以上に、お目当てにされていたのは、一にチェロの横坂さん、二にコントラバスの弊さんでした。コントラバスという楽器の性格上、弊さんの演奏者としての特徴は、黄紺には把握できなかったのですが、チェロの横坂さんは、近来なかったほどの新鮮な出逢いを持つことができました。黄紺の座席の横に座っていた女性も、横坂さん贔屓らしく、盛んに、お連れの方に「チェロが巧い」と聞こえよがしに言われていましたが、黄紺も、それに同意せざるをえない腕前と看ました。一つには、コンピューターが仕込まれているのかと思える部類のリズム感、ただ、それが正確なだけではなく、強い意志を感じさせるリズムにびっくり。それに、ボーイングが素晴らしく、豊かな感性に裏打ちされた弓の使い方が、素敵な音楽を奏でていました。一言で言えば「巧い」、でも、テクニックだけではないオーラがあるのです。大変な発見でした。知人ご夫妻が、この人を目当てに来られたのは、正にここだったのでしょうね。七重奏曲というもの、編成からして、ベートーベン以外には思いつきませんから、必然的に、プログラム的には、知らない作曲家が並んだり、知っていたら、それは編曲ものというのが通り相場。フランという作曲家が、その内の知らないパターン。19世紀半ばから後半に活躍したらしいのですが、これが、なかなかいい感じの曲。耽美的なメロディ・ラインもあり〜の、深刻でもなし〜ので、ぼんやりと聴くのには、取っておきたいような逸品でした。「ティル」は、ヴィオラとチェロが外れての五重奏での演奏。管楽器活躍の曲ですから、このアンサンブルでは、いいチョイス。この曲までが前半。そして、後半がベートーベンという仕組み。ちょっとした機会音楽として捉えるといいのかな、この曲は。長閑な、ゆったり気分で、くつろぐには、とってもいい雰囲気、、、そういった演奏に満ち足りていました。平日の昼間に、こういった素敵な演奏に出逢える幸せ、これも、高齢化社会のおかげです。コンサートが終わると、当のご夫妻と、お茶をしながら、しばしの音楽談義。更に、夜は、息子と呑むことに。たまたま息子に電話を入れると、あっさりと呑んで、お喋りをすることに。ここに、Dくんが加わるまで生きてるのは、さすがに欲どおしいですね。


2016年 10月 20日(木)午後 10時 34分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「染吉っとんの会〜林家染吉落語勉強会〜」がありました。今日は、いつもと違い、この度、年季明けとなったりょうばとの二人会という形式が採られました。修業期間中、動楽亭に住み、こちらで行われる会全般のお世話をしていたりょうばに対するお礼の意味があるのかなと、この企画を聞いたときは思いました。特に、染吉の会では、りょうばが受け付けまでしていましたからね。ただ、「トーク」の中では、「りょうばの噺を聴いてみたかったから」と言ってましたが。その二人会の番組は、次のようなものとなりました。染吉&りょうば「トーク」、りょうば「鷺とり」、染吉「蔵丁稚」、りょうば「胴斬り」、染吉「雪の旅笠」。「トーク」では、枝雀家の話なんかも出てきたり、師弟関係のおもしろ話などが聴けて、30分という時間が短すぎるほどのもの。ここでも、りょうばの明るさがいいですね。ところが、りょうばの1席目「鷺とり」は、まだ聴いてなかったにも拘わらず、そういったときのお約束の居眠り。急に睡魔に襲われ、どうしようもありませんでした。「蔵丁稚」からは快復、染吉の芝居噺は、黄紺的には、確か初めてのはず。序盤の定吉と旦さんのやり取りが、米朝一門のそれと、微妙に違うのが、おもしろくて。定吉の父親が年始の挨拶に来るという話は出なかったりという程度のことですが。全体を通じて、染吉の口演はデコボコという感じで、もう少しのスムーズさがあれば、より楽しめるのにと思いながら聴いていました。それに対して、りょうばの「胴斬り」は、流れる流れる。とってもいい調子。前に聴いたときは、流れるのだけれど、ずーっと同じリズムの繰り返しって感じで、ちょっと一本調子に感じたのですが、今日は違いました。噺の調子に変化が入ってきていたので、聴いているのが楽しくて。ブラックさを楽しめる噺になってました。できれば、終盤、も一つ変化を付けて欲しいところです。染吉の2つ目は、五郎兵衛ネタを持ってきました。黄紺も、ほとんど聴いたことのないネタ。確か新作怪談物ですよね。ただ、下げが、あまりにも人を喰ったもの。しかし、染吉を含めて、最近の若手の噺家さんって、差別化を図るため、こういった珍品ネタを、競って持ちネタにしようとしています。聴く者には、ネタの拡がりは嬉しい限りなのですが、その選び方が、 果たして当たりかどうかは、ちょっと気になっています。貯めることの大切さは言うまでもないのですが、まずは貯めておいた方がいいネタってのもあるのではとも思ってしまうのです。実際、染吉が、この怪談噺を持ちネタにして、どこで出すことができるのかと気になってしまうのです。それとも、ネタ下ろし予定の「腕喰い」の下準備としてなら、大きな度量に感服をするのですが。


2016年 10月 19日(水)午後 11時 00分

 今日は二部制の日。昼間は、枚方で国際理解の講座を聴いて、夜は、千日亭で、落語&講談を聴いてまいりました。枚方の講座というのは、枚方市文化国際財団の主催する「フランス文化理解講座 」です。 フランスのエセック経済商科大学院大学生のテオ・マレショーさんが、5回に渡り行われる講座の第3回目以後を聴くつもりをしています。前2回は、トルコ&セルビア旅行に行っていたために行けなかったというわけです。今日は、「シネマ」をテーマに、「フランスシネマの改革がフランス社会に及ぼした影響」と題してのお話しでした。テーマから、まさかフランス映画の略史の話になるとは思ってなく、ルミエールやエジソンが出てきて、びっくり。また、テオ・マレショーさんの日本語が万全ではないため、話のテンポが悪く、きっちり寝てしまいました。あと2回あるのですが、どうしましょう。申し込んでしまっているので、困っています。
 枚方での講座が終わると、大阪市内への移動。途中、ちょっと買い物などをして、千日亭に到着。今夜は、「やまとなでしこ〜落語と講談」と称した、露の紫と旭堂小二三の二人会が、こちらであったのです。この二人会は、この間、千日亭で続けられていたのですが、おじゃまをしたのは、これが初めてとなりました。紫の勉強会が、黄紺のスケジュールと合わなくて、全然行けてないのが1つ、小二三は、もう10年以上は聴いてなく、その間にごたごたもあり〜の、受賞や襲名発表もあり〜のということで、どこかで聴くことの必要性を感じていたこともあり、この会に足が向いたというわけです。その番組は、次のようなものでした。小二三・紫「トーク」、真「あなたも痩せられる」、小二三「黒雲のお辰」、(中入り)、紫「金明竹」。この会は初めてなもので、どのような進行をするのかは知らなかったのですが、どうやら冒頭にテーマを決めて、「トーク」をすることになっているようです。会の名前を「やまとなでしこ」にしたことから、美に関することを話題にしようということで、今日は、着物デザイナー&コーディネーターの池田重子さんが取り上げられました。黄紺の知らない人ですが、着物を着る人にとっては、とっても有名な方だそうで、着物関連のグッズのコレクターとしても知られた方だそうです。紫が資料を用意し、小二三が突っ込むという進行。紫がトーク慣れしているのは予想通りだったのですが、小二三のセンスのある言葉選びや突っ込むタイミングの良さは見っけものでした。実際の高座は、主役2人が後に回り、ゲストがトップに上がるという珍しい番組。しかも、紫の姉弟子の真が先に出るという出番になりました。その真が珍しい噺を出しました。今日のテーマに合わせて、紫がリクエストを出したそうで、しかも大師匠の五郎兵衛作品ということで、内容は、激ヤセする薬をもらうと、夢を見て、目が覚めると激ヤセしているというだけの噺。真が手を入れ、師匠の都に見てもらったと言ってましたから、元の噺は、夢の内容が、五郎兵衛のことですから、艶笑系のものだったのではと、黄紺は想像してしまいました。でも、全く存在すら知らなかった噺を聴けて、もう、この段階で元を取った気分になりました。小二三の高座は、ホントに久しぶり。南陽と2人で、ワッハで開いていた会に、何度か足を運んだことがあるので、もちろん何度も聴いてはいるのですが、今日聴いてみて、受賞はほんまものだと納得しました。以前聴いたことのある小二三とは違い、人物描写はきれいにできているうえ、ドラマになっているのです。小南陵襲名は、いろいろと物議を醸し出してはいますが、その襲名まで、あと1ヶ月余りだとか。ま、その前に聴けたのは、何かの縁かもしれません。紫は、何度か聴いている「金明竹」だったので、がっくり。この間、紫を聴けてない間に増やしているはずのネタを聴きたかったのですが、そうは、黄紺の思惑通りには事は運ばないということです。ただ、この「金明竹」、ちょっといじってたのですが、そのいじりは疑問。猫が傍らにいるのに、猫の断りを、定吉が言ったり、仲買いの佐七の相手を、最初からご寮人がしたり、ちょっと黄紺には解せないところがあったり、不自然な間を取ったりしていました。ちょっと噺が崩れたというほど、大きなことではありませんが、慣れから来るいじりが、ときとしては不適切なことって、わりかしあることで、今日の紫もそうかなと思いました。


2016年 10月 18日(火)午後 10時 39分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今週は、一転して落語を軸に過ごしていくことになっています。今夜は、「第16回ショウゴイズム〜やる気の松五〜」という笑福亭松五という地味系噺家さんの勉強会がありました。地味ですが、熱心な勉強家という顔をかっている噺家さんです。その番組は、次のようなものでした。松五「勘定板」、二乗「くっしゃみ講釈」、松五「商売根問」、(中入り)、松五「応挙の幽霊」。今日の入りはつばなれをしませんでした。せっかく、前回入りが良かったのが、元の木阿弥になってしまいました。今日は、米朝一門の噺家さんの会が、各地で開催されていましたから、そちらの方に、落語ファンは分散したのでしょうか。黄紺は、雀のおやどの雀五郎の会と迷ったくらいだったのですが。この会は、主宰者の松五が3席、そして、ゲストが1席という番組構成。松五の1席目は、ししばばネタの代表格の「勘定板」。「繁昌亭でやると副会長から呼び出される」と言ってからスタート。この噺を、初めて聴いたのは、京橋ダイエー時代の島之内寄席、鶴三時代の松喬の口演によるものでした。臭うがごときてんこ盛りのうんこに、びっくりしたものです。今日の松五は、淡々と、ソフトに演じてはくれましたが、やはり臭ってきました。2席目は、前座ネタの「商売根問」。通常は省いてしまう柿と栗と云々を売る部分を入れてから、うぐいす、がたろと進めました。ま、こういった会で、このネタを出すのですから、そういった付加価値が付かないと許せません。こういった根問ものは、もうちょっとテンポアップして欲しいな。「応挙の幽霊」と似たテンポやノリでやると、どうしてもだらけてしまいますからね。中入り後に、目玉ネタ「応挙の幽霊」を持ってきました。「人のやらないネタに手を出すわけ」を話してから、「染丸師匠にいただきました」と言って、ネタに入りました。幽霊と酒を呑み交わすというネタですから、松五の語り口が、とっても自然に聴こえてしまいます。ただ、この幽霊、現世では出ていた女ですから、それとはなしに色気も要るという、なかなか難しいキャラです。そういった意味で、松五の口演が万全だったとは、残念ながら言えなかったんじゃないかな。ゲスト枠は、ここ3回連続で、仲がいいと評判の同期の噺家さんを招いています。その3人目となった二乗は、やたら口に出して、客の少なさから来る戸惑いを言うものですから、逆に本人にプレッシャーがかかっていきました。「あまり出さない長めのネタをします」と、松五は3席しても、さほど長くないことを意識した物言いをしてから、ネタに入りました。ただ、ここで、今日は居眠り。会場が暑くて、ずっとボーッとしてたので、どこかでやるぞと思っていたら、二乗のところで、やっちゃいました。序盤の政やんとのやり取りが、えらく自然体でいいなと思っていたので、残念なことになってしまいました。会場が暑いのは、外も暑いせい。今日は、夏の暑さがぶり返しました。こないな時期に、もう一度、 夜まで半袖で街を歩くとは、セルビアでは考えもしなかったことです。


2016年 10月 17日(月)午後 11時 10分

 今日は、久しぶりに繁昌亭に行った日。トルコ&セルビア旅行から帰ってきて、初めての繁昌亭です。今夜は、「桂三幸落語会 17」がありました。三幸の落語に、最近、あまり遭遇する機会がないので行ってみたきなったのですが、幸い、頭を抱えるほどのバッティングもなく、快く行ってくることができました。その番組は、次のようなものでした。三実「真田小僧」、三幸「竹の水仙」、八方「住吉駕籠」、(中入り)、三幸「ゴルゴ13(?)」、喬介「刻うどん」、三幸「空みなよ」。開演前に、三幸が登場して、自分の会の前説をしてから開演。「新婚さん」の前説を4年間やったそうで、そのときに使った衣裳での登場でした。三実の古典は初めて。新作を出しても古典を出しても、不思議なテンポとリズム、学生の余興っぽいノリに、徐々に個性を看れるようになってきたかなってところですが、長い噺は、ちょっと聴きずらいんじゃないかな。三幸の1つ目は、今日がネタ下ろしの「竹の水仙」。意表を突かれた感じがしました。というのは、後ろに八方が控えていましたから、大きめの噺は後ろに残しておくものと思い込んでいましたから。ただ、三幸のことですから、軽く軽くが信条で、この「竹の水仙」も、そのポリシーは守られていたかと思います。その味わいを期待して行っていますから、そういった噺を聴けて、満足な黄紺なのです。八方は、タクシーのネタでマクラをふったので、「住吉駕籠」は想定通り。可朝も持ちネタにしているものですから、当然でしょう。序盤、「相棒」の連想から「水谷豊」を口走ってしまい、逆に慌てる八方が可笑しくって。それで懲りたのか、その後は、通常の流れで、酔っぱらいまで。酔っぱらいが、あまりぐでんぐでんでないのが正解かと思わしてくれた八方の口演。だって、酔っぱらいは、酔い冷ましに駕籠屋にちょっかいを出しに来ているのですからね。いい目の着けどころです。三幸の「ゴルゴ13(?)」は、以前に聴いたことのあるもの。殺し屋稼業の広告を出した妻とのやり取りで進む噺。その広告の内容についての、バカバカしいやり取りに終始する短めの三幸作品です。喬介が2人目のゲスト。開演時間も遅めで、6席ということで、長い噺はできない、また、落語初めてという客も、結構混じっているということからの、ネタのチョイスと看ました。かなりヒートアップしてきていまず、喬介の「刻うどん」。福笑&たま系の欲どおしいうどんの食べ方が入ってきたりしたり、アホのいちびり方もグレードアップしたりで、過熱気味と言ってもいいレベルに来てしまってます。なので、ちょっと不安を覚えてしまいました。最後の「空みなよ」は、冒頭、喬介作の映像が入り、物語の出発を示してくれました。喬介が、こういった映像製作で貢献している姿を、繁昌亭で観る機会が、これからも増えていきそうです。ケンカして飛び出した男を、その恋人と友人が探すというだけの作品と言えば言えるのですが、三幸的スパイスがはっきりと効いていたのは、その追っかけを、携帯に入る留守電と、電話でのやり取りで、ほぼ進めるという趣向がおもしろい。なかでも、留守電は、スピーカーから流し、留守電を聴きながら突っ込むのは、舞台上の三幸の役割となっていて、落語としての様式を守っていました。また、留守電の喋り声に、電車の発車音、通過音、駅で流す効果音で、居場所を特定させる工夫など、三幸テイストはいっぱい。下げ、題名の付け方、これが、三幸テイストの本日の秀逸でした。やっぱ、三幸は独特の感性を持っています。ですから、足が向いてしまうのです。


2016年 10月 16日(日)午後 6時 39分

 今日は浪曲を聴く日。百年長屋であった「真山隼人の浪曲の小部屋 その4」に行ってまいりました。前回は行けなかったので、これで、この会は、2度目のおじゃまをしたことになります。曲師は、いつもサポートをされている沢村さくらさんということで、番組は、「石田三成」「お楽しみコーナー」「袈裟と盛遠」でした。今回は、「お家芸のルーツを探るという」ことで企画されたということで、黄紺には欠けている浪曲界の人的な繋がりについて解説をしながら、ネタの選択に至ったわけに触れてくれました。先代の真山一郎は、歌謡(演歌)浪曲で、一世を風靡した人だということぐらいは、黄紺も知っており、その映像も観たことがあるのですが、それ以前となると、さっぱり分かりません。隼人くんの解説によると、真山一郎の師は華井新で、この人は、大衆演劇に身を投じた経験から、非常に派手な演出を好みというか、くさい芸風で売ったそうで、それが歌謡浪曲に道を開いたようです。更に、華井新の師が京山華千代で、「石田三成」が、この京山華千代の持ちネタで、その節を用いながら語ったのが、本日の1席目。石田三成が囚われの身となり、人前に晒されている前を、かつての盟友たちが通り過ぎるという、いかにも作ったという設定。当然、裏切者小早川も出てきます。それに対して、市中引き回しの最中に、今度は、 領内の婆さんが出てきて、三成に親切な声をかけます。身分の貴賤による人の対応の違いを表し、貴のもどかしさを出そうとしている作品。最近は、出ないネタのようですが、以前は、前座ネタとして、よくかかったものだと、先輩から聞いたと、隼人くんは言ってました。隼人くんは、それを聞くまでは、前座ネタだと知らなかったそうです。そして、京山華千代の姉が、先代の春野百合子ということで、真山家と春野家は親戚同士の家となるという、驚きの事実を知ることになりました。となると、ネタ的にも重なってくるはずです。現在、真山を名のる浪曲師さんの持ちネタからは考えられないことです。2つ目のネタ「袈裟と盛遠」は、春野百合子の持ちネタとして知られ、恵子さんの口演で、何度も聴いているネタですが、そのネタを、「ルーツをたどる」とした今日の会で出す意味が、ここにあるとのことでした。隼人くんは、華井新の節を基に作ってみたと言ってました。浪曲のおもしろいところってここなんですよね、新ネタに挑むとき、お手本とする節を基にアレンジすることで、自分らしさを出していく、そして、また、それが伝承され、その時代の新たな感性でもって再生していく、正に伝承芸の真髄ってところです。華井新の芸風は、かなりくさいという括り方ができるという隼人くんの解説通りの口演を聴けて、こちらも満足。ただ、この話はえげつない。有無を言わさず人の女房に手を出す侍に対し、夫や母親の身を思い、むちゃもんの侍に命を投げ打つ女。凄まじい話です。2つの浪曲に挟まれたところでは、隼人くんが、何か余芸を見せるコーナーになっています。前回は、得意の三味線を披露したようですが、残念ながら行けてないのですが、今日は落語。しかも、江戸前の落語。「将軍様のおなら」という一席、小咄集って感じの噺でしたが、隼人くんの口ぶりがいいのです。浪曲の語りの部分で鍛えられているとはいえ、うまいのです。やはり多才なんですね、才能ってやつです。羨ましい限りです。


2016年 10月 16日(日)午前 0時 6分

 今日はオペラを観る日。そして、毎日続いたコンサート・シリーズが、ひとまず終わる日でした。今日行ったのは尼崎のアルカイック・ホール。今日明日と、こちらで、関西二期会の公演「ファウスト」があるのです。このグノーの名作オペラを、日本で観るのは、黄紺にとっては、初めての経験となります。ドイツでも、来年には2回観る機会があるとは思っているのですが、ここまで、ワイマールで1度観たきりというもの。やはり、主役3人(ファウスト、メフィストフェレス、マルガレーテ)&2人(ヴァレンティン、シーベル)を揃えるのが大変なのかなと、勝手な想像を巡らしております。で、今回の公演では、今日明日とのダブルキャストなわけなのですが、この5役の中から3人を、藤原歌劇団から迎えてました。なるほどと、合点のいくやり方で、確かに、今日のキャストで、客演で迎えられたファウスト役の中井亮一の声が美しく、ちょっと頭抜けた存在。それに続くのは、マルガレーテ役の尾崎比佐子か。ただ、声にムラがあるので、なかなか押しにくい。メフィストフェレスの片桐直樹は、休憩時間、隣に座ってられた方が「悪魔の声じゃない」と言われていましたが、黄紺も同感。ヴァレンティン、シーベルは、ともにパワー不足は否めませんでした。ただ、歌手の水準が、平均して、ここ何回かの関西二期会の公演よりは高く、作品自体に障りを起こすなんてことは考えられず、グノーの名作に浸ることができました。園田隆一郎指揮の大阪交響楽団も好演、このオペラが好きなんだろうなと思わせるツボを心得た指揮ぶりも、楽しく観ることができた大きな要素だと思えました。演出は、イタリア人のパオロ・バニッツァ。プログラムに演出ノートが掲載されているのですが、黄紺の理解力を超えているというか、書いてあることは理解はできても、実際に観てきた舞台との照合ができないのです。上演に先立ち読んではみたのですが、実際の上演と照合できず、また終演後、読み返してみても、さっぱり解らずということです。まず、このプロダクションは、マルガレーテの視点で描いているというところから理解不能でした。舞台には、箱型小舞台(屋根なし)が3つ設えてありました。それを、進行に応じて回転させたり(裏向けたり)、位置を変えたりしていくのですが、その小舞台は、左から、(精神)病院に入院しているマルガレーテの部屋、診察室、同じく入院しているファウストの部屋となっています。病院が精神病院なのは、演出ノートにそのように書いてあるからです。書いてなければ、精神病院と判るアイテムや、らしい動き(それがどんなだかは解りませんが)があるわけではありませんから、プログラムに書いてなければ、判らずじまいだと思います。当然、冒頭は、その病院のシーンから始まり、メフィストフェレスは、精神病院の医者(演出ノートでは医院長)として登場して、ファウストと契約するとなります。あと、その小舞台が病院だとして使われるのは、最後を除くと、どこだったかを覚えてないのですが、2回ほどで、途中は、ほぼ病院のことは忘れていたほどでした。ただ、演出ノートに書いてあるマルガレーテの妄想とか、ファウストを、同じ病院に入っている自殺志願の男とは、どこを叩いても出てきそうにはないのですが。ただ、メフィストフェレスを医者にしているということは、悪の肯定という流れがあるのは判るのですが、それを、どのような意味合いで使おうとしているのかも不明なままというか、黄紺には把握の糸口は、残念ながら見えてきませんでした。ただ、この小舞台の使用は、進行には、とっても吉に出た感じで、スムーズな舞台転換に役立ち、本来の筋立てを追うのには貢献していたと思います。あと幾つかメモっておきたいことを書いておきます。サバトの場面で、バレエが入りました。DVDも含めて、初めての経験です。なかなか素敵な曲が並ぶので、カットするのは勿体ないですね。ですから、バレエの人たちが出るということで、出征の場面や、ファウストとマルガレーテの逢い引きの場面でも、バレエを入れてましたが、考えてみれば贅沢な話です。千円のチケットで行った黄紺は張り倒されそうです。場面的には、出征の場面が頼りなかったですね。群衆がいても、出征兵士を送り出すとは見えない代物でした。マルガレーテが牢獄に繋がれている場面は病院のなかということで、マルガレーテの状態は、テキストからだけ判るというのは、このプロダクションならではのこと。最後は、マルガレーテが昇天する姿で幕。ファウストは出てきませんでした。老いたファウストの再登場なんてのは、端からなしのプロダクションですから、出てこなくて、逆にホッとしました。ということで、不完全燃焼なところもあるわけですが、やはりグノーの音楽の持つ力は半端じゃなく、興奮気味に終演を迎えることになりました。開演が午後4時、終演は午後8時でした。なんせ、休憩を15分ずつでしたが、3回もとるという例をみないものでした。


2016年 10月 14日(金)午後 10時 31分

 今日もコンサートに行く日。今夜は、青山音楽記念館(バロックザール)であった「小峰航一 無伴奏ヴィオラリサイタル Soliloque〜独白」に行ってまいりました。珍しいヴィオラ・ソロのコンサートです。小峰さんは、京都市交響楽団員で、この間、随分とカフェモンタージュでのコンサートで、その演奏に接してきました。その小峰さんがリサイタルをされると聞いては、行かないわけにはいきません。そのプログラムは、次のようなものでした。 「ヒンデミット:無伴奏ヴィオラソナタ Op.31-4」「J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲 第5番 ハ短調 BWV1011(ヴィオラ版) 」「レーガー:無伴奏ヴィオラ組曲 第1番 ト短調 Op.131d」「ビーバー:パッサカリア(ヴィオラ版) 」「ヒンデミット:無伴奏ヴィオラソナタ Op.11-5より “パッサカリア” 」。この間の寝不足が、ここにきて、かなりきつくなってきていたのですが、今日のコンサートの前半に、運悪く出てしまいました。どこかで、こういったことが出るはずと思っていたのですが、いきなりダメという感じの入り方をしてしまったのですが、そこはヒンデミット、寝かしはしませんでした。野性味のある音楽は、爽やかさというものからは縁遠い分、まだ、小峰さんの音楽に繋ぎとめてくれました。おかげで、そういった意味では危険なバッハも繋ぎとめられ、うつらうつらの状態が続いてくれました。ま、ヒンデミットだからというだけではなく、こちらのホールが、いい響きを伝えてくれるという点が、そういった状態に留めてくれた要因の一つであることも事実でしょう。去年、辻本玲のコンサートでは判らなかったことですが、日頃から、小峰さんの演奏は、随分と聴いてきましたから、明らかに響きやパワーが、段違いにいいのです。音の拡がりというものを感じさせてくれました。東京文化会館小ホールは、更に、音が抜けるという感じのするホールですが、そこまではいかない、拡がりに留まる感じがします。それだけ、残響があるということなのでしょうが、残響過多というところまで行ってるかもなというところです。とにかく、普段聴いているカフェモンタージュでの音とは違うことだけは間違いなく、その音の良さが、最も発揮されたのは、後半の冒頭に演奏されたレーガーだったと思います。小峰さんが書かれたと思えるプログラムの解説で知ったのですが、レーガーが、この曲を作ったことで、ヴィオラの独奏楽器としての認知度を定着させた貴重な作品。そういった作品だけに、3つのパートは、ヴィオラの特性を引き出すに足る曲想となっています。そして、その演奏には、このホールがフィットしていることを、聴く者に解らせてくれた今日の小峰さんの演奏でした。レーガーにせよ、ヒンデミットにせよ、今日、取り上げられた作曲家は、各自、バッハに対するリスペクトの気持ちを持ち、その曲から学びながら、作曲していった人たちということで、アンコールは、正にバッハその人の曲が選ばれました。それは「J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番より “ラルゴ” 」でした。


2016年 10月 13日(木)午後 11時 49分

 今日は、フェニックス・ホールでのコンサートに行った日。「辻本玲 チェロ・リサイタル」があったのです。演奏スタイルは若いなぁとは思うのですが、ストラディヴァリウスの圧倒的な音色に惹かれて、昨年の京都でのリサイタルに次いで、2度目となります。ピアノ伴奏に永野光太郎を迎えたコンサートのプログラムは、次のようなものでした。「ベートーヴェン:チェロソナタ第1番ヘ長調op.5-1」「リスト:愛の夢 第3番 変イ長調S541」「ショパン:ノクターン第20番嬰ハ短調 遺作」「ポッパー:ハンガリー狂詩曲」「ラフマニノフ:チェロソナタ ト短調op.19 」。ラフマニノフだけが、休憩後の演奏。その休憩前の演奏で、黄紺の耳には、ちょっとした異変と思えることがありました。ベートーベンの開始から、やはり、辻本玲の楽器は、よく鳴るだけではなく、いい音が出ると、今日、このコンサートに来た満足感が満開。ただ、オーラというか、名人芸には足りないものを、今年も感じていたことも事実で、ちょっと音を抜きさえすれば、雰囲気が変わるのにと、ノリの部分で物足りなさを感じていたのですが、ベートーベンの後半あたりから、音が変わり出しているのに気づき出しました。ベートーベンが終わり、小品が並ぶ頃になると、その変化は決定的になってしまいました。乾燥した音に変わっていっていたのです。ですから、ムーディーな「愛の夢」が、すっかり覚めてしまっていました。その音が、休憩明けには復活。休憩中に、控え室に戻ったときに、何かしたのかなぁっていうのが、黄紺の想像。今度は、最後まで大丈夫でした。ラフマニノフは、ピアノが、分厚くガンガンといきますから、それに負けじと勢いで突き進むことができますから、若さ溢れる辻本玲のチェロにはうってつけ。本日最高の演奏と看ました。音の件を、このコンサートに来られていた知人ご夫妻にお話しすると、お二人とも「気づかなかった」とのお応えだったので、単なる黄紺の空耳だったのかもしれないのですが、奥様の方が、黄紺が忘れていたことを思い出させて下さいました。何げなく言われた一言、「休憩前は暑かったですね」、そうなんです。この言葉を聞いて、空耳説も、存外当たってないぞと、ちょっと胸を張ってみました。辻本玲は、高校時代を大阪で過ごしたという経歴があるからか、会場はほぼ満席。少なくとも、今日のラフマニノフには、皆さん、お得感に満ち満ちて、お帰りになったことでしょう。なお、アンコールは、「フォーレ:3つの歌より“夢のあとに”op.7-1」「ピアソラ:オブリビオン」の2曲が演奏されました。


2016年 10月 12日(水)午後 11時 6分

 今日もカフェモンタージュに行く日。今日は、クラリネットの村井祐児さんを迎え、「コントラスツ」 と題されたコンサートが行われました。演奏者は、村井さん以外では、こちらでのコンサートのきっかけになったヴァイオリンの石上真由子さん、それに、ピアノの船橋美穂さんが加わって、次のような曲目が演奏されました。「F.プーランク:クラリネットソナタ FP 184」「F.プーランク:ヴァイオリンソナタ FP 119」「B.バルトーク:コントラスツ Sz.111」。今日は、出演者3人が登場されるのは、最後のバルトークだけ。ですから、今日のお題として、「コントラスツ」が採用されたようです。それに先立ち、村井さんと石上さんの弾くソナタが1曲ずつ演奏されました。プーランクのソナタというのは、黄紺的にはなじみが薄いなと思っていたのですが、意外なことに、クラリネット・ソナタの方は聴き覚えがありました。オーナー氏の解説で、ベニー・グッドマンとバーンスタインが初演者と聞いて、何やら気になったのですが、始まってみると、このクラリネットのサウンドは聴いたことを思い出しました。様々な色合いを求められるクラリネットは大変です。それは、バルトークも同じこと。このバルトークは、ヨゼフ・シゲティが、ベニー・グッドマンとの共演のために、バルトークに委嘱した作品とか。2人の名手に相応しいものを求めるということは、ピアノも同水準のものを求められます。ピアノの船橋さんは、クリアな音の掴みをされていましたから、プーランクともども、大殊勲の演奏だったと思います。主賓の村井さんは、バルトークが終わったあと、疲れる曲だとの呟きを漏らされましたが、この間、ブラームス、モーツァルトを含めて、また、今日のプーランクもそうでしたが、やはり年齢から来る体力の問題を感じざるを得ませんでした。ロングトーンで音が乱れたりしていたのは、その例でしょう。一方の石上さんに迫力満点の力強い演奏は、若さいっぱいと看ました。ただ、この人、ピチカートに難を感じてしまいました。オーナー氏のお話しでは、村井さんのシリーズは、一応ここまでとなっているそうですが、まだ、ブラームスのソナタの方を聴いていませんから、プッシュされる由。成立するようでしたら、黄紺が日本にいる間に設定して欲しいものです。


2016年 10月 11日(火)午後 11時 23分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「ピアノ三重奏」 と題して、(ヴァイオリン) 上里はな子、(チェロ) 向井航、(ピアノ)松本和将の3人のアンサンブルを聴くことができました。そのプログラムは、次のようなものでした。「L.v.ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲 第5番 ニ長調 Op.70-1『幽霊』」「D.ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲 第2番 ホ短調 Op.67」。今まで、松本さんが、藤木大地さんと、また、今回も組まれている奥様の上里さんとのデュエットでと、2回のコンサートで、カフェモンタージュに出演されていますが、東京などで組まれているこの3人で出演されるのは、初めてのこと。特に、向井さんはいいよとの噂を聞きながらも、実際に聴くのは初めてということで、期待の大きかったコンサート。昨日も、倉敷で、同じプログラムで演奏されたそうで、その流れで、入洛してコンサートを持たれたそうです。東京を本拠にされている演奏者の方のコンサートを聴けるのは、そういった機会を掴むということなのでしょう。会場に詰めかけた皆さんもそうだったようで、黄紺も、その一人だったのですが、期待は、やはりショスタコーヴィチ。20世紀の音楽が、よく出るカフェモンタージュですが、何故か、ひょっとしたら、オーナー氏の意志が働いているのかもしれないのですが、このショスタコーヴィッチが出ないのです。行き詰まった後期ロマン派を、様々に相対化する試みがなされるなか、イデオロギーに基づく超克は論外ということなのでしょうか。倉敷でのコンサートのプログラムを、そのまま持って来たというお話しを聞いて、またぞろ、そのような考えが、頭を持ち上げてきました。1944年という凄まじい時期に作曲されたということで、ファシズムに立ち向かう共産主義が7峠を越えたかという時期に作曲されたこの曲の無機質ぶりは、正に、時代を明確に表しているかのように思えました。それを、ど迫力のパワーと、強い意志で持って引き上げられた演奏は、このカフェモンタージュで、黄紺が聴いたベスト演奏にノミネートできそうな素晴らしい出来栄えでした。一方の「幽霊」も、よく音の出る3人の演奏。前回聴いたときの上里さんのイメージが、随分と変わりました。加速度的にぐいぐいと前にのめるようにひっぱるパワーは、前回には看られなかったもの。向井さんという体格的にもパワー満点の方が入ると、スパークするのでしょうね、こちらも、いいものを聴かせていただいた気分でした。向井さんの奔放さ、松本さんの澄み渡った音の清潔さに加え、指先に意志を感じてしまうクリアなタッチといい、このベートーベンにも染み込んでいました。


2016年 10月 10日(月)午後 7時 24分

 この10日間ほどは、音楽三昧の続く期間。今日は、京都コンサートホールで、「京都 ラ ビッシュ アンサンブル Vol.13」のコンサートに行ってまいりました。このアンサンブルは、田村安祐美さんや小峰航一さんといったお馴染みの顔を含めた京都市交響楽団のピックアップ・メンバーで構成されているもの。噂は聞いてはいたのですが、実際の公演に行くのは初めて。そのプログラムは、次のようなものでした。ファーガソン「八重奏曲」、モーツァルト「歌劇『フィガロの結婚』序曲」、J.シュトラウス2世「喜歌劇『こうもり』序曲」、グリンカ『歌劇『「ルスランとリュミドラ』序曲」、オッフェンバッハ「喜歌劇『天国と地獄』序曲」、ベルリオーズ「序曲『ローマの謝肉祭』」。前半が、ファーガソン1曲、後半は、前田肇氏に編曲を委嘱した序曲集というプログラム構成。弦5本に、クラリネット、ファゴット、ホルンという構成のアンサンブルでのプログラミングは、苦労が要ります。このアンサンブルのリーダー役の神吉さん(コントラバス)のお話によると、ファーガソンはホルストと同時代のイギリスの作曲家で、この八重奏曲は、恐らく日本初演だろうとのこと。黄紺も、ファーガソンという名の作曲家を聞くのは初めて。4部構成の曲で、その3番目の部分は、正にコルンゴードばりの耽美的なメロディ。他の部分は、どちらかというと野性的なもので、20世紀の作曲家らしい雰囲気がいっぱいで、なかなかいい曲です。後半は、お馴染みの曲を、このアンサンブルの楽器編成に合わせて編曲したものを聴かせてもらえたのですが、コントラバスが入り、厚みは十分なものがあるのですが、管にフルートが入ってないのが惜しまれますね。彩りが、あるかないかで、かなり変わってくるのじゃないかな。この構成だと、管の中で、メロディ楽器の役割ができるのがクラリネットだけですから、どうしても彩りに制約がかかってしまいます。でも、クラリネットの鈴木祐子さんの丁寧な演奏に、聴いていてリラックス感を味わうことができました。ソロ演奏の度合いが増えたのは、そのクラリネットとチェロ(渡邊正和)、そして何よりも、田村安祐美さんの第1ヴァイオリンが大活躍。曲想の違いにより、見事に使い分ける彩りの多彩さを見せてもらえました。アンコールは、同じく前田さんの編曲で「シューベルト:ロザムンデ」。マイクを持たれた神吉さんは、「ここまで早いテンポの曲が続いたので」と説明されていました。既に何回ものコンサートを積み重ねられてきたからでしょうか、中には身内の方も呼び込んだりされてはいたようですが、ホールに満員近い人たちが詰めかけました。こういった地元のオケの人たちが、小編成のアンサンブルを組み、また、そのコンサートに多数が詰めかけるという姿っていいですね。カフェモンタージュの功績も大なことは確かですが、黄紺も、地元でコンサートに行く機会が、随分と増えてきました。


2016年 10月 9日(日)午後 6時 14分

 今日は浪曲を聴く日。毎月定例の「第268回一心寺門前浪曲寄席 10月公演」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。天中軒涼月(沢村さくら)「東男に京女」、松浦四郎若(虹友美)「相馬大作 手紙読み」、五月一秀(沢村さくら)「富島松五郎」、天光軒満月(虹友美)「空海一代記」。まだ、時差ボケが解消していないため、不安定な睡眠が続くなか、不安な気持ちを持ちながらのお出かけ。予想通り、四郎若師のところでダウン、涼月さんの後半からおかしくなり、四郎若師で落ちてしまいました。涼月さんは、「落語のたらちねを浪曲にしたもの」と言ってから始めました。嬶をもらう八五郎だが、その嬶というのは、公家奉公が長く、お公家言葉で解らない言葉を使うというもの。八五郎が東男でしょうから、東京落語の翻案でしょう。1年後には、すっかり市井の言葉を身につけているようになっているというのが、最後の部分でしたが、その間が跳んでしまってます。一秀さんは、お得意の無法松もの。世話になった方が亡くなったあと、その奥さんと息子さんのために尽くす松五郎。初めはなついていた子どもが、学校で勉強を修めていくと、松五郎を遠ざけていく。その2人の関係の後始末には、浪曲は関心を示さず、そのやるせない気持ちを、博多太鼓に籠めるという味のある終わり方をします。一秀さんによると、沢村さくらさんは今日からで、昨日は名古屋に行ってらしたとか。そのため、昨日は、一秀さんのところは藤初雪さんが、満月さんのところは隼人くんになっていました。満月さんがトリを取られると、これかなという定番の「空海」。最後に歌になるということで盛り上がるのです。でも浪曲の部分は、空海が入唐して、真言密教を手に入れに行った道の経緯、要するに、前半は道行なのです。そして、後半は、真言密教の経文をゲットしたことが触れられ、浪曲はおしまい。たいそうなタイトルに合わないテキストに、やるせない気になるのは、このネタに遭遇した不幸せです。歌が終わって、ようやく20分経過でした。


2016年 10月 9日(日)午前 2時 48分

 今日は音楽漬けの一日。昼はオペラ、夜は室内楽というラインナップでした。昼のオペラは、京都のロームシアターであったマリンスキー歌劇場の引っ越し公演「エウゲニー・オネーギン」でした。指揮は、もちろんワレリー・ゲルギエフということで、本年一番のと言っても、自分的にですが、ビッグな公演に行ってまいりました。「オネーギン」となると、がくっと知名度が落ちるのでしょうか、客の入りは芳しくないもの。黄紺は、これで、当分、京都では、外国の歌劇場の引っ越し公演はダメかなの思いになってしまいました。アレクセイ・ステパニュクが、2014年に制作したプロダクションと、プログラムに出ているのはいいとして、その初演場所が中国と出ていることから、何やしら胸騒ぎ。で、結論めいたことを、先に書くことにしますと、このプロダクションは、外国公演用のものじゃないかなということです。福井からやって来た高校時代の友人も、その考え方に同意してくれました。というのも、装置が簡素過ぎる、幕前をやたら使いたがる、背後のスクリーンを使いたがる、2つの舞踏会に変化があまりついていないといった点が気になり、そのような結論に至りました。地元で、こないなスタンスで、公演に臨めば、ちょっと不信を持たれるかもしれません。特に、オネーギンが、手紙に応えて歌う場面までという、最初の休憩が入るまでが、がらーんとした舞台に、リンゴに模した球が転がり、大きなブランコが吊るされ、あとはテーブルに椅子だけの場面はつまらないもので、いくら歌手が動き回ろうとしても、あくびの1つくらいじゃないものが出てしまったほどです。たいまいをはたくほどははたいてはいませんが、外国からの引っ越し公演にのめりこむのは、かなり危険なことであることを、ちょっと悟ったかな。歌手陣は、若干でこぼこがありました。大きな拍手を集めていたのは、主役級では、タイトルロールのオネーギン(アレクセイ・マルコフ)、タチアナ(マリア・バヤンキナ)、オルガ(エカテリーナ・セルゲイエワ)、それに加えて、トリケ(アレクサンドル・トロイモフ)も人気。逆に外れは、まずはレンスキー(エフゲニー・アフメドフ)が最大。平土間席に座っていた友人は、上の階だった黄紺に聴こえていたか尋ねたほどのパワー不足。せっかく決闘シーン前に素晴らしいアリアがあるのにと、早々に諦め気分になっていました。いいアリアを持つグレーミン(エドワルド・ツァンガ)は、声質に問題あり。おおらかさやふくよかさの欲しいのに反し、戦にでも出ようかという声で歌われるとダメですわね。同様に、序盤のおいしい役乳母(エレーナ・ヴィトマン)も、声質に抵抗を感じてしまいました。ウエブ・サイトで、歌手陣のキャリアを調べてみると、それぞれが、マリンスキーで多くのキャリアを積まれてきている方ばかりでした。そないなことを調べているなか、マリンスキーが、来年のバーデンバーデンに遠征することが判ってきたのですが、そのスタッフは、今回の日本公演と同じ顔ぶれ、ということは、京都にやって来たプロダクションが行くってことを意味していると了解していいかと思わざるをえなくなってきました。これを、バーデンバーデンに持って行く? ボリショイのパリ公演のプロダクション(チェルニアコフもので素晴らしい出来栄え)がDVDになっていますが、あまりにも質に違いを感じます。主役級の歌手陣はともかく、、、ちょっと絶句。逆に言えば、それほど黄紺は、このマリンスキーのプロダクションを評価できないというか、安上がりなのでした。
 元職場の同僚ご夫妻とはお別れして、高校時代の友人に合流、2人目の高校時代の友人にも、簡単に遭遇できたのですが、その友人は、それ以後は合流せずに、結局2人で食事に。小じゃれたアジア・キッチンのお店で、タッパイを食べて、その友人とも、10月末のオペラ公演での再会を約して、黄紺は一人で久しぶりのカフェモンタージュへ。今夜は、「F.ブゾー二 - 生誕150年」と題されたコンサートがありました。演奏されたのは「ヴァイオリンソナタ 第2番 ホ短調 Op.36a (1900)」。なかなか聴く機会の少ない曲を演奏されたのは、このカフェモンタージュではお馴染みになっている(ヴァイオリン)谷本華子、(ピアノ)奈良田朋子のお二人でした。黄紺も、普段、全く聴かない曲なものですから、セルビアから帰って来てから、少しは事前学習をして臨むことに。すると、重厚な渋い曲だという認識を持てるようになり、ゆったり気分で、演奏に親しむことができました。ただ、この曲は、30分を少し超える程度の演奏時間ということで、オーナー氏の解説は25分に渡りました。それを、演奏に入る前に、谷本さんが突っ込みを入れるということで、一挙に空気は和らいだのですが、ブゾーニの曲は、その空気を、容易く一変させる力があります。ピアノも、かなり力の要る曲。30分は、呆気なく過ぎていきました。


2016年 10月 7日(金)午後 10時 37分

 今日も落語を聴く日。今夜は、雀のおやどであった「第37回米紫の会」に行ってまいりました。この会は、ネタを眺めながら行くことにしているというのも、米紫は、思いの外、ネタを増やそうとしているわけではないというのが原因で、そのような接し方をしている会なのです。今日は、そういったなか、「足上がり」が目新しいということでのチョイスとなりました。その番組は、次のようなものでした。文五郎「阿弥陀池」、米紫「首提灯」、吉の丞「転宅」、米紫「足上り」。昨日、生寿の会で話題になっていた文五郎は、今日は大丈夫だったようです。九州から、急いで帰ってきた姿が、目に浮かびます。その文五郎は、彼の前座ネタは、これしか聴いていないという「阿弥陀池」。リズムに乗ってテンポ良く進めればいいのに、彼は、大ネタを演じるかのように、力をこめて演じていきます。その姿勢が、じわじわと客席に伝わり、可笑しみを生んでいくという不思議なキャラを持っています。今日は、フルヴァージョンを聴かせてくれました。ゲスト枠は吉の丞、そういった地位に上がってきて、またまた堂々とした高座を見せてくれる吉の丞は、やはり大物です。今年の十大ニュースを喋りながら、不倫ネタに入り、自然とネタへと、とってもスムーズな移行という見事さ。ただ、この「転宅」は聴いたことのないヴージョン。吉の丞は、「伝承芸能ですから」と、いじりを入れてない口ぶり。となると、誰にもらったのでしょうかね。盗人を見つけた女が、予め計算ずくで動いているかのような振る舞い、こういった進め方って、聴いたことはありません。細かなくすぐりも、目新しいものばかりでしたしね。キャラ的には、盗人に、もっととぼけた味が欲しいところでした。主役の米紫は、まずは、ざこば組の定番ネタ「首提灯」をフルヴァージョンで。前半と後半で、ガラリと雰囲気が変わることを、しつこくマクラで強調。シュールなネタと評し、マクラでは、シュールな小咄を振り、後半に備えるように、頭の体操を求めていましたが、実際の口演では、そないな必要があったのかと思えるものになってしまいました。上燗屋の場面の雰囲気を、できるだけ引っ張ろう、いや、後半の猟奇的な展開も、上燗屋の笑いの多い調子で引っ張ってみよう、ですから、黄紺的には、後半の雰囲気作りに重要な中盤の道具屋の場面は、完全に上燗屋での軽い笑いの場面継続中にしてしまっていました。後半の雰囲気を変えるため、人混みで跳ばされた首は上燗屋に戻ってくるというものにして、前半の雰囲気に並ばせるという趣向。ま、一貫した姿勢を貫いたという意味では、米紫の口演は評価しなければならないのかもしれませんが、でも、どうしても、フルヴァージョンを演じた場合、首を斬り落とすという場面は残りますから、米紫的着想というのは、端から破綻をしているのじゃないかと思ってしまいます。もう1つの「足上がり」は、オーソドックスな口演。力いっぱいで、聴いていて肩のこる口演というのが、米紫の特徴のように思っていたのですが、今日は、この「足上がり」の芝居がかりになり、お岩さんが出てくるところまでは感じずに、わりかし素直に聴くことができました。そうなると、米紫の登場人物の色分けを楽しむことができたと言えそうです。久しぶりの雀のおやどでしたが、今日は満員の客席。毎月開催も考えているようです。


2016年 10月 6日(木)午後 10時 26分

 朝一番の南海電車に乗り、ようやく関空を離れることができました。関空のベンチは、寝心地が頗る良く、爆睡をすることができました。帰ってきた途端、早速、落語会詣での再開です。今日は動楽亭に復帰。「第19回生寿成熟の会」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。華紋「寄合酒」、生寿「代脈」、南湖「神埼の詫び状文」、(中入り)、生寿「高津の富」。さすがに、今日は眠くて、主役の生寿の口演の一部が跳んでしまいましたが、日本にいないときに、一番飢えを感じる落語を聴けたことで、十分満足感に浸れました。華紋は文五郎の代演。ネット上で有名になっていることもあり、そのわけを笑いに変えながら、華紋も生寿も報告。文五郎自身も腰の低い噺家さんだと知れていますから、その対応が、生真面目なだけに、可笑しさが滲み出る話を、2人がしてくれました。早速、次回の会の前座が文五郎に当てられていました。まだ、この代演騒ぎを肴にしようというイタズラ心も可笑しいですね。華紋は、現時点では最高の前座でしょう。間合いの取り方、テンポは、前座さんのそれではありません。特に、今日は、文五郎ネタのマクラがヒットしましたから、余計にいい調子になったのじゃないかな。ゲスト枠は、わりと意外な印象を持ってしまった南湖さん。生寿は、名前をもらう前の見習い時代に、茶臼山舞台で南湖さんに会い、そこでもらった言葉を大切にしているとか。生喬・たまという繋がりからの縁のようです。ネタは、お馴染みの神埼与五郎の東下りの途中のエピソードでした。主役の生寿の2つのネタは、ともに以前に聴いているもの。7〜9月の時期には、師匠方の下には、お稽古に行きにくい自分的事情があるとの言い訳めいたことを言ってました。また、10年を過ぎるまでは、稽古をつけてもらうようにとの指導を、生喬から受けているそうで、だから師匠方のところへ行く時間が取りにくいときには、ネタ下ろしが難しくなるようです。今日のネタで、それも共通して、黄紺が気がついたことがあります。「代脈」では大先生、「高津の富」のからっけつの親父がホラを吹くところ、ともに位の要るところに納得できるようになってきていた点です。以前聴いたときには、意識が強く働いていたのでしょうね、逆に作り過ぎて、位を喪失していた記憶があります。それが、どういった工夫をしたのでしょうか、いや、意識を軽くしたからなのか、その辺は判らないのですが、うまく流れたように思えました。これ以上書くと、居眠りに引っ掛かってくるので慎んでおくことにします。今日は、いつものこの会に比べて、客の入りは上々、しかも、コアな落語ファンが多数詰めかけていました。生寿が、何かを仕掛けたとも思えないのですが、、、。


2016年 9月 11日(日)午後 7時 9分

 明日からのトルコ&セルビア旅行前最後のお出かけです。今日は、久しぶりに太融寺で落語を聴く日。「梅田太融寺 南天の会」がありました。今日は、随分と迷った挙げ句、南天のネタ下ろしがあるということで、太融寺をチョイス。その番組は、次のようなものでした。恩狸「手水廻し」、南天「ちしゃ医者」、雀太「天災」、南天「仔猫」。今日は、幾つもの落語会が連なる日、にも拘わらず、安定した入りを確保。南天の人気は、やはり相当なもの。今日は、冒頭に、私服で前説をやりました。というのも、客寄せにツイッターに、自身で色塗りをした半ズボンのことをつぶやきながら、それをはくのを止めると書き足したため、その申し開きも兼ねての登場となりました。ついでに、マクラでする近況報告や、最近見たおもしろい話もしてくれました。助演陣は、なかなかユニークな人材が揃いました。恩狸が、こういった落語会の前座で出てきたのを見たのは初めてです。落語は聴いてはいるのですが。南天は、高座を観たことはないのだがというコメントを付けて紹介していました。声も大きく、動きも大きく、でも、同じパターンで噺は進行していました。ゲスト枠の雀太は、どんどんと腕を上げています。ざこば流の、グーで殴り、鼻血を出させる男が出てきましたが、その粗っぽさに相応しい物言いの一方で垣間見せる弱さというか脆さというか、そういったもののブレンドが絶妙だったんじゃないかな。人に合ったネタっていう感じで、いいものを持ちネタにしたものです。主役の南天は、「ちしゃ医者」がネタ下ろしで、こちらだけネタ出しをしていました。高津で、たまの「ちしゃ医者」を指して、「笑福亭は汚ない」と言い放ったわけですから、汚ない噺を、更に汚なくするわけにはいきません。その辺の加減を知りたいのが、今日の狙いだったのですが、こういったときに出た居眠り。前半が跳んでしまいました。迎えの人が帰ったあたりから、我に返ったのですが、そのあとの感じでは、雀三郎テイストの「ちしゃ医者」になっていました。久助が星を見ながらつぶやくシーンもありましたしね。汚ない噺だけど、あっさりとという進行と言えばいいでしょうか。もう1つの「仔猫」が良かったなぁ。この噺の中心人物おなべは、実は、冒頭のシーンと最後の独白以外には喋らないという噺で、おなべの人となりは、ですから、お店の人たちの言葉、それも、旦さんから使用人までの言葉で表されます。そして、その物言いがぶれないということから、聴く者に、おなべ像が、しっかりと根付くという構造になっている噺と思っています。冒頭のおなべの台詞に純朴さが、店の人たちの言葉に温かさが、不思議な行いを知っても、おなべの味方的な親近感、これは、旦さんや番頭まで、同じような態度でなければなりません。そういった辺りが、よく出ていたなと思えるのです。ラストの番頭の作り笑いのような言い方での対応も、その延長線上にあるように思えました。30分を少し超える南天の口演、なかなかないいいものを聴いたぞの満足感に浸ることができました。


2016年 9月 11日(日)午前 7時 57分

 昨日も講談を聴く日。但し、昨日は普通の講談会ではなく、ドーンセンター5階大会議室であった「講談セミナー〜難波戦記VS.真田丸(人物編)」に行ってまいりました。このセミナーは、第1回目だけ参加ができたのですが、それ以後は、黄紺のスケジュールに合わず、5回目にして2度目のおじゃまをすることができました。この会を主宰されているのは、「上方講談★私設応援隊」を名乗っておられますが、実は、2代目南陵のお孫さんご夫婦。そして、旭堂の持つ中心的なネタを、南海さんの協力を得て、音源として残し、且つ、上方講談の普及を旨として、ラジオで定期的に講談を流していこうとされています。このセミナー自体も、同様の趣旨で行われているものです。もちろん、こういった活動をするのには、誰が見ても、最適任者は南海さんなわけで、南海さんの口演で放送を流し、それを収録して後世に残そうという試みをされています。ホント、頭の下がる思いですが、上方落語では、米朝及びその協力者が出て、定本とも呼ぶべきものが残りましたが、講談界では、1世代遅れましたが、同様の活動が進行しているというわけです。まことにもって頭の下がる活動です。黄紺は、せめて、その活動を見続けていくことだけはやっていかねばと思っています。会の参加者は、なんと65名。驚くべき数字です。終わったあと、顔馴染みの講談ファン氏や主宰者の方とお話ししていたのですが、これだけの人が、普段の講談会に来てくれればいいのですが、、、。で、昨日のセミナーの内容は、南海さんの講談をまじえながらのお話しとなったわけですが、ピックアップされたのは片桐且元。彼の経歴から微妙な立ち位置、史実と講談の中の且元などのお話しの合間に、2つの抜き読みが読まれました。「片桐且元 大坂城退場」と「片桐且元 最後の忠節」がそれです。前者は、家康側と豊臣方との対立が決定的となったとき、且元が家康側への使者に立ったのだが、その際の対応から裏切り者とされ、大坂城を追われるとっても有名な物語。ここの核心部分は把握できているのですが、その前後、また、且元が裏切り者とされていく伏線などの話になると、いつも眠ってしまう黄紺ですから、今日こそはと思ったのですが、昨日も居眠りが出てしまいました。でも、昨日は、前夜のえぐい睡眠不足という原因がはっきりしていますから、諦めが、まだつきます。まだ、もう1つの物語についての口演、講釈は、しっかりと聴けただけ、ましかもしれません。後者の読み物は、大坂城を出たあと、且元は豊臣に恨みを持っているはずと、家康側からアプローチが入ります。大野兄弟との合戦で、家康側が手に入れた大筒の使い方を且元から教えてもらおうというアプローチです。それを、且元は受け入れます。でも、それは、あくまで策略であり、豊臣側に有利に働くようにとの行動だったという、よくできたフィクションとしての読み物です。南海さんの解説によると、大筒を、多く抱えていたのは、むしろ家康側だったそうで、その史実のままに、豊臣贔屓の「難波戦記」は作りにくい、要するに、大坂合戦は、軍事的に言って、戦う前から徳川方有利な戦いだったということらしいのです。講談の中では、片桐且元は、命をかけて、豊臣方へ忠節を示し、家康を出し抜きます。出し抜かれた家康も、忠義の上でのこと故として、且元の命を救い、且元も高野山に向かい出家をするとなっています。忠義、忠節の美学に貫かれた見事な読み物に仕上げられています。この読み物を終えた南海さん、即座に「嘘ですよ」と一括。嘘を承知で美学にはまる、ま、これが講談のおもしろいところかもしれません。終演後、ディープな講談ファン氏、主宰者の方と、ちょっとだけ立ち話、そして、講談ファン氏ともお別れして、夜は、息子とタイ料理を肴に呑みました。美味かったぁ、またぞろ、タイに行きたくなりました。でも、それはお預け、明日からは、これもお楽しみのトルコ&セルビア旅行に出かけてまいります。


2016年 9月 10日(土)午前 1時 19分

 今日は二部制の日。午後に繁昌亭の昼席に行き、夜は、動楽亭で講談を聴く日でした。繁昌亭昼席は、たまが、受賞記念のとき以外では、初めて中トリをとる(はず)ということでのチョイス。その番組は、次のようなものでした。染吉「牛ほめ」、三弥「桃太郎」、岐代松「ん廻し」、豊来家大治朗「太神楽」、きん太郎「鯛」、たま「ちしゃ医者」、(中入り)、喬楽「上燗屋」、米輔「始末の極意」、喜味家たまご「三味線漫談」、春之輔「鰻の幇間」。今日の昼席は、今まで行ったなかで、入りが一番悪かったのじゃないかな。顔見知りの繁昌亭の職員さんも、「びっくりするほど」と言われていましたから、まあ、いつもということではないでしょうから、ちょっと安心。染吉の「牛ほめ」は聴き慣れたもの。彼は、こういった大きなところで喋る方が、落ち着いて喋れますね。客席が身近に見えたり、奔放に喋ることを求められるマクラになると、落ち着きをなくすようです。ただ、染吉の口演を聴いていて、客席が強烈に重い。もう、それは、それ以後の出番の噺家さんの話っぷりを見ていると判るというもの。三弥は、ほぐそうと努めているのが明らかな喋りっぷりだったうえ、子どもの話っぷりを持っていこうとしていたので、得意の「真田小僧」をするのだなと思っていたら、「桃太郎」で、あれれれ、、、。岐代松は、重いのを、落語初心者が多いと看たのでしょうか、噛んで含めるような喋り方。ま、それも、1つの手かもしれません。それなのに、「鯛」には、わりかし反応する客席。やっぱ、岐代松的判断が正しかったのでしょうか。きん太郎が「鯛」を出したので、たまは古典で行くのだろうなと思っていると、それは当たり。たまも、かなり重いと思っていたのでしょうね、「ちしゃ医者」でしたから。ま、時間のこともあるのでしょうが、ショート落語をしたあとに、べた系のマクラを振ってからの「ちしゃ医者」でした。黄紺的には、高津で「ちしゃ医者」が出たときには聴いてないもので、有り難かったことは有り難かったのですが。誰もしなかったくすぐりが2つありました。高津で、南天が「笑福亭は汚ない」と言ってたわけが、それで判りました。終盤、婆さんが手を突っ込むところで、肥え樽をひっくり返し、赤壁先生が、糞尿を頭からかぶってしまうことを言ってたのですね。もう1つの傑作なアイデアは、久助も互い違いの履き物だったというところです。たま曰く、「黒紋付きを着て、こんな汚ない噺やってる」に、黄紺は大笑いでした。喬楽は文鹿の替わり、今日だけの出番。やたら、ただのものが増えている「上燗屋」でした。米輔は定番ネタ、落語らしいネタなんだけど、繁昌亭では、これか、「悋気の独楽」、でなかったら「子ほめ」。トリの春之輔は、「楽」の額について一くさり、10年前と同じマクラやないかと思っていたら、ちょっとヴァージョンアップしていました。このアップ分が秀逸、思わず、声を上げて笑ってしまいました。そして、ネタは、夏の終わりかけに、まだ間に合う「鰻の幇間」、これは嬉しい。なんせ、東京からの移植ネタですから、上方では持ちネタにしている噺家さんは、ほぼいませんからね。色物では、豊来家大治朗を繁昌亭昼席では、初めて観ることができました。今週は今日だけの出番だったのですが、バランス芸で大技を見せてくれました。今まで観たことのないもの。今日の昼席で、会場が、一番揺れた瞬間だったかもしれません。必見の大技ですので、観てない人は狙い撃ちしましょう。
 繁昌亭を出ると、動楽亭まで、ウォーキングを兼ねて、歩いて移動。途中、時間調整のため、道頓堀のネットカフェを利用。今夜の動楽亭では、「南湖の会 〜探偵講談と太閤記」がありました。時間が許せば、第一に行くことにしている会の1つです。その番組は、次のようなものです。鱗林「出世の白餅」、南湖「太閤記:本能寺の変」、りょうば「稲荷俥」、南湖「探偵講談コレクション」、(中入り)、南湖「さじ加減」。毎月、行われている会なのですが、今月から「探偵講談」が復活。もう、「探偵講談」の会が消えてから久しくなります。福島で続けられていた「探偵講談」の会は、講談ファンらしくない人たちが集っていたという不思議な雰囲気があったのが懐かしく思い出されます。そないな記念すべき会だったのですが、その「探偵講談」ばかりか、「太閤記」でも居眠り。かつての「探偵講談」の筋立ては、随分と時間も経っていますから覚えているわけではないところへ、この居眠りですから、タイトルも定かではありません。但し、江戸川乱歩ものです。ひょっとしたら、「魔術師」と題名が付いていたものかもしれません。そんなですから、まともに聴けたのは「さじ加減」だけ。大岡裁きものですから、旭堂にはないネタで、南湖さんが琴調師からもらわれたものです。大岡裁きものと言っても、このネタ、大岡さんが出てくるのは、終盤の僅かな部分。琴調師のシャープな語りに対し、南湖さんは、大阪弁らしく、下世話な噂話風なテイストに親近感が湧きます。前座役は鱗林さん。最近、大阪での出番が多いので、もしやと思い調べてみると、旭堂を名乗ることになったのを契機に、師匠の南鱗師の元で修業に入られているようです。名古屋からの単身赴任というところのようです。りょうばは、逆に年季が明け、今はどうしているのでしょうか。まだ、動楽亭に住んでいるということでの出番なのでしょうか。これまでは、そうだったはずですが、、、。相変わらず、明るいキャラが得なところで、「稲荷俥」でも活きていました。俥に乗った男は、ちょっと悪さをしますが、根は悪そうな男ではありませんから、こうした噺でも、明るいキャラが合います。テキストに入れなくても、りょうばの口演というだけで、この噺の登場人物の人柄が判ります。ホント、得な性分です。


2016年 9月 9日(金)午前 0時 7分

 今日も落語を聴く日。でも、ちょっと変わった落語会に行って来ました。八聖亭であった「劣勢の上方落語家がNHK予選ネタで勝負する会」に行ってまいりました。週刊「ダイヤモンド」が、無責任に記した「劣勢の上方落語」を冠した落語会というのがおもしろくて、出演する噺家さんが、この表現に、どのような物言いをするかを聴きたくて行ってまいりました。落語会の形式は、東西の噺家さんが覇を競うNHKコンテストの予選の形式をとって行われました。その番組は、次のようなものとなりました。天使「初天神」、文五郎「普請ほめ」、三実「あやかる日(仮題)」、嬌太「崇徳院」、小留「ん廻し」、咲之輔「紙入れ」、紋四郎「皿屋敷」、(中入り)、全員「トーク」。予選の持ち時間は11分ということで、それにならって口演をしようという試み。発案者は天使ということで、時間の計測や「トーク」の司会を務めていました。「トーク」のときに発表された計測の結果では、小留と天使が超過、でも、10分台の後半の噺家さんは、予選のときの客席の反応に要注意だということでは、皆さん一致。超過すると減点され、事実上、ファイナル進出は難しいようです。ただ、時間制限があると、その枠内に納める作業をしなければなりません。その正否も、採点に影響してきますから、コンテスト用のネタ選びが大切になってきます。必ずしも得意ネタで、勝負ができるとは限らないわけです。そないなことも考えながら、出演者の口演を振り替えってみたいと思います。なお、出番は、予めくじ引きで決めたものだそうです。「初天神」は刈り込みがしやすいネタ。序盤の家でのやり取り、向かいのおっさんをからませるやり取りのところを刈り込めば済みますからね。それに加えて、天使はおもしろい工夫を入れました。本来の下げ、「こんなんやったらお父ちゃん、連れてくるんとちごた」を、みたらしのところで切り上げるにも使えるように変えたのです。更に、テキストの改変も決まり、これは、常の高座でも無理なく使えるものに仕上げました。ただ、飴を食べているはずなのに、みたらしを食べるというのは、無理がありますね。文五郎は、常の出番でも「牛ほめ」の軽い刈り込みをした口演をしていますから、更に、手を加えればなんとかなると思ったのかもしれませんが、ちょっと厳しかったですね。本来の仕込みとバラシが機能しなくなってしまったような感じでした。普請ほめの言葉が不十分に、更に、仕込んでもバラシが不十分にという具合でした。おまけに、一つ一つの物言いに対する反応に、大きく体を動かすものですから、緩急が効かなくなってしまってました。普段から、その傾向が見られますから、経験不足というところかな。三実は、相変わらず独特の雰囲気。学生仲間の仲間内でのおもしろい噺って感じからは、少しは抜け出したというところかな。ネタも不思議な噺で、「なんとかの日」というものを、生涯守り続ける夫婦という設定で、最初から最後まで通す噺でした。嬌太は、なんと「崇徳院」を11分以内にまとめました。若旦那の病気のわけは、親旦さんから聞き、熊五郎は探しだすだけの仕事となります。探し方も、いきなり崇徳院の歌を使ってのものに。時間のことを考えると仕方ありませんが、噺のいいところは台無しです。ということは、「崇徳院」なんてのを選ぶこと自体が無茶ということなのでしょうね。嬌太は初遭遇。落ち着いた語り口なのですが、えらく緊張した口演のため、視点が定まらなかったり、上下の振り方が不自然だったりで、ちょっとマイナス点がつきそうです。小留は、伸縮自在と言えるネタ選びで、その点はいいのですが、異様なハイテンション。更に、客席に笑い屋のような変な客が、大きな声で笑うものですから、それにつられて、更に、テンションが上がってしまいました。しかも、小留の口演は、意図的にNHKに挑みかかるようなテキストを幾つも用意。CMを入れたり、要綱で禁じられている事件挿入と思えるくすぐりを入れたりで、敢えて目立つことをモットーにした口演となりました。さて、そのスタンスが吉と出るのでしょうか。その小留の逆手を執ったかのように静かに語り出す咲之輔、この辺は抜け目がなく、大拍手を送りたい気分。ネタも、雰囲気を一変させる艶笑ものと、ここまでは良かったのですが、、、。フルヴァージョンの口演も聴いているのですが、しつこくならないで、わりといい感じだったという記憶があるのですが、そのスタンスで、短縮ヴァージョンも行けば良かったと思うのですが、欲が出たのか、ちょっと肩肘はって、笑いを取りにいったというところがあり、噺が、ちょっと崩れかけ。もうちょっと、筋立ての持つ強さを信頼すれば良かったのにというところです。そして、最後は、久しぶりに遭遇の紋四郎。マクラも何もなしで、いきなりネタへ。しかも、始まると同時にお囃子(録音されたもの)が入る。「皿屋敷」の中盤、道行の場面から入ったのです。怖がる話で進むところに、更に、皿屋敷の謂れ話まで入れてしまいました。時間短縮の方策なのですが、そないなことをすると、何で道行に加わってるのか、説明がつかなくなってしまいます。紋四郎、策に溺れたと言われても仕方ありません。全員の口演が終わり、黄紺的評価を書くと、1人だけが抜け出していたと思いました。それは天使です。不必要な体の上下運動は止めてもらわねばなりませんが、時間内に納め易い噺とは言え、テキストの工夫、噺の大枠のいじり、それに、今までの天使には見られなかった落ち着いた口演が気に入りました。あとの6人は、帯になんとかというところで、小留の口演がどのような評価を受けるかを除けば、大きく脱落する噺家さんもいないってところかな。でも、大阪の予選参加者が48人と聞きました。今日の7人以外に、本命と目されそうな噺家さんは、ざっと顔ぶれを想像するだけで、いそうな気がしますから、なかなか大変なコンペだと思います。その辺のことを思い浮かべながら、「トーク」での皆さんのお話しを聴いておりました。本選はオンエアされますから、その様子は判っていますが、予選については、あることだけしか知りませんでしたから、聴くこと全てが目新しいことばかりでした。この会の企画者天使に拍手です。


2016年 9月 7日(水)午後 9時 33分

 今日は動楽亭昼席に行く日。今年に入り2回目となるはずです。値上げをされてからは、日に1回のお出かけノルマを達成するほとんど最後の手段と使うようにしています。但し、番組を選びますし、昼席公演のない月の下旬用に、最後の最後の手段を用意していますが、まだ、それは使わずに済んでいます。今日も、それも考えました。今日の昼席のトリが南光だったからです。南光に出番があるときは、混み合うことが予想され、それが嫌なためなのです。が、今日は、久しぶりに動楽亭昼席が有力候補になったということで、多少のことは我慢承知で行くことにしたのでした。その番組は、次のようなものでした。弥太郎「動物園」、ちょうば「平の陰」、歌之助「蛇含草」、米左「へっつい幽霊」、(中入り)、しん吉「地下鉄」、南光「子は鎹」。南光が出るからということで、15分前に動楽亭に着くと、結構な人の列。今日は混むぞと思っていたのですが、そのあとの足は、あまり伸びなかったですね。ですから、ゆったり気分で聴くことができました。このくらいの混み具合でしたら、これからも南光の出番のある日でも、行ってみようかの気になりますね。前座役は弥太郎、あまり普通の落語会では、前座の声がかからないのか、久しぶりの遭遇。アホに仕事を世話をする男や、園長の前田一郎さんが、とってもにこやか。こないな人たちに囲まれていると、のびのびとアホをやれます。その辺が弥太郎スペシャルです。今日は、とっても暑い日だったものですから、皆さん、マクラで暑い話をしていましたが、その中で、抜けた笑いを取ったのがちょうば。マクラで掴んでしまうと大きいぞのお手本のような高座になりました。「平の陰」のやり取りが、あまりにもアホげに聴こえてきたから、おもしろいものです。6代目で、よく聴いた「平の陰」のテキストが懐かしくなることが多いのですが、そのテキストを現代語訳にでもすれば、ちょうばのような口演になるのでしょうね。帰り際のネタ発表では、テキストの中に、1度も「行平」「大平」という言葉が使われていないのにも拘わらず、「平の陰」になっていました。歌之助は、残念ながら、先日の福丸の会で聴いたばかりの「蛇含草」。よく当たる「花筏」は、この位置では出ないと読んでいたのですが、「蛇含草」の方に当たってしまいました。今日は、米左の高座で居眠り。最近、遭遇機会のなかった「へっつい幽霊」だったのに、惜しい話です。ただ、断片的に記憶に留まる米左の口演、やはり声を引きずる癖は相変わらず、聴き苦しいものがありました。しん吉の鉄道ネタのマクラが傑作。関係者としてある鉄道会社の試乗運転乗車の話から、自宅に造ったレール付き車庫の話と、今まで聴いた話も含まれていましたが、興に乗ったしん吉の鉄ちゃんぶりは、留まるところ知らずでした。あとから出た南光が、「マクラ20分、落語5分はあんまり」と言ってましたが、「地下鉄」という2代目林家染語楼作品が短いのですから、仕方がありません。南光の「子は鎹」は初めて聴くことになりました。そういった意味で、今日はついています。夫婦別れをするところから始まり、虎ちゃんは、母親に付いて出ていくヴァージョン。南光の口演の最大の特徴は、その虎ちゃんが、よく喋ること。10歳にしては、ませたことまで話し、噺の流れを引っ張るほどの役割を与えているというところです。次に、別れながらも、夫婦は、ストレートに復縁したい気持ちを出しているところでしょうか。黄紺的には、喋り過ぎる虎ちゃんが気にはなったのですが、というのは、喋り過ぎさせないで、同じような感情表現ができないものかと思ってしまうものですから。でも、会場の反応というか、空気は、喋り過ぎる虎ちゃんに納得という雰囲気、大人の温かい眼差しを感じさせるような空気が流れていました。いずれにせよ、ほとんど40分という長講に圧倒されました。南光の空気が、動楽亭を包んでいたことは間違いありません。


2016年 9月 6日(火)午後 11時 34分

 今日は、久しぶりに八聖亭で落語を聴く日。「染吉の挑戦〜鶴笑・染吉二人会」という会があったのです。染吉が、先輩と会をするという試み、確か、今回で2回目だそうですが、今回は、大物鶴笑を迎えての会、染吉に言わせると、「とてもじゃないけど、日曜日には頼めない」鶴笑との二人会、その番組は、次のようなものでした。染吉「つる」、方正「宮戸川」、鶴笑「夏の医者」、(中入り)、鶴笑「パペット落語:あたま山」、染吉「三枚起請」。方正は特別出演。染吉に頼んで、出番をもらった由。口演の機会が欲しかったものと思われます。その電話がかかってきたときのことを、染吉が、「つる」のマクラで、おもしろ可笑しく話してくれました。有名人から電話をもらったときのどぎまぎが出ていて、とってもおもしろく聴くことができました。最終的には鶴笑に助言をもらったようです。その染吉の本日の大ネタ「三枚起請」で居眠り。昨夜、睡眠時間をたっぷりと取れているのに、どうしたことでしょう。「つる」でもそうだったのですが、「三枚起請」の序盤で、どうも流れの悪い、滑舌が悪いとまではいかないのだけれど、なんか引っ掛かる感じの口演をしていた染吉の口演が全開という感じで、居眠り前と、全く変わっていたため、残念感大です、今日の居眠りは。一方の鶴笑はさすがとしか言いようがありません。「夏の医者」は、既に三金との古典のネタ下ろしの会で聴いていますが、やはり座蒲団の使い方が秀逸。今日は、うわばみに飲み込まれた様子を、座蒲団を上にかぶって表していましたし、うわばみに向かって、医者が話すときには、座蒲団を二つ折りにして、うわばみの口を作っていました。パペットは出さないが、通常の高座にあるものは、何でも活用するという戦略は見事です。パペット落語の方は、染吉のリクエストで「あたま山」。この展開が、また秀逸。まず、落語「あたま山」の筋立てを解説します。下げまで全部、何も使わないで流します。そして、「今の噺を覚えておいて下さいよ」と、2〜3度、念を押します。それから、パペットを取り出し、「あたま山」のストーリーをパントマイムで、もちろんパペットを使い、下げまで演じるというものでした。ここまで来ると、もうパペット落語は、それだけで、1つの芸術だとすら思いました。このネタをリクエストした染吉のセンスにも拍手です。方正の落語は、今回の特別出演で、黄紺は、初めて聴く機会を得ました。「宮戸川」の前半、叔父さんの家に泊めてもらうことになり、雷が落ちて、ごじゃごじゃとなるところまでと、よく演じられるところの口演だったのですが、やはり世間に売れる人って、ツボを心得ているなと感心させられました。この「宮戸川」の前半というのは、幼なじみの2人が、男女の関係に、何かに操られたかのように向かっていくというところですから、それがツボと看たなら、そこを攻めに攻めてくる、2人には、幼なじみとしての言動が、端から見ると、違った方向に向かう、そこを攻めに攻めてくる、そういうのがセンスってやつなのでしょうね。染吉は、2人の高座を見て、ホント、いい勉強になったんじゃないかな。会場は、辛うじてつばなれをする程度の入りだったのですが、濃密な2時間であったことは間違いありませんでした。


2016年 9月 5日(月)午後 10時 49分

 今日は繁昌亭に行く日。今夜は、恒例の「第26回彦八まつり あとのまつり」がありました。その番組は、次のようなものでした。遊方・生喬「ご挨拶」、二葉「子ほめ」、鯉朝「街角のあの娘」、三喬・あやめ・三金・鯉朝・遊方・生喬「彦八スライドショー」、(中入り)、素人演芸バトル優勝者「音曲漫才」、三喬「道具屋」、遊方・生喬ら「残り福抽選会」。毎年、楽しみにしている会、年ごとに集客力も右肩上がり。本番の彦八まつりが終わっても、この「あとのまつり」が終わらないと、全てが終わった気にはならないようになっています。今年は、三喬が実行委員長、機を同じくして、7代目松喬襲名が発表されました。この「あとのまつり」のメーンイベントは、2日間の様子をスライドショーで紹介すること。落語は、むしろ露払いであったり、添えもの的に演じられるという傾向が、より鮮明になってきました。「あとのまつり」担当の実行委員は遊方と生喬ということで、この会の仕切り役。実行委員長は、トリを務めるのが定番ということで、三喬がトリを務めましたが、ネタは、彦八まつりの屋台にちなみ「道具屋」、でも、今や、三喬の口演で「道具屋」などという軽いネタが聴ける機会は珍しいため、かえってラッキーだったかもしれません。あと落語の出番をもらったのは、Tシャツ(完売したそうです)のデザイン担当ばかりか、ガールズバンドのボーカルも担当し、功績大の二葉。Tシャツの評判がいいということで、同じデザインの浴衣を作る話が出ているとか出てないとか。二葉ブランド立ち上げになりそうです。鯉朝は、東京からお手伝いに来て、今年で14年目になるそうです。その功績を愛でての出番。もう大阪でも、すっかりおなじみになった南千住のペコちゃんの物語でした。そして、最後は、恒例の残り福の抽選。「生玉の富」として発売されたくじ引きの当たりくじながら、引き取り手のなかった景品が、残り福となり抽選が行われるのですが、今年も外れでした。この催しが済むと、黄紺の頭の中は、すっかりトルコとセルビアに切り替わる予定です。そうなんです、今年は、東南部に行きにくくなっているため、替わりにセルビアを回ってくることにしています。


2016年 9月 4日(日)午後 11時 2分

 今日は、彦八まつりはスルーして、動楽亭で落語を聴く日。上方落語協会に入ってない噺家さんが4人出るという落語会で、彦八まつり最中らしい落語会です。それは「モーレツ落語会」。3日連続公演の初日を覗いてみました。その番組は、次のようなものでした。紅雀「いらちの愛宕詣り」、宗助「矢橋船」、雀五郎「蔵丁稚」、(中入り)、南天「青菜」、まん我「ねずみ穴」。「モーレツ落語会」は、今まで、何度か行われてきたのですが、スケジュールが合わなくて、おじゃまをするのは初めてとなりましたが、動楽亭に着くと、えらく疲労が溜まっている。2週間ほど前にも、よく似たことがありました。いよいよ狙いの会場に着くと、疲労でぐったり状態で、開演前の僅かの時間、座席に身を沈めて、なんとか疲労を取ろうとするのだけれど、ままならず、開演後も朦朧としているのが続き、、やがて居眠ってしまう。今日も、正に同じことが起こってしまいました。紅雀の高座の後半から居眠りに入り、最悪時が宗助の高座。雀五郎で、若干快復をしたのはしたのですが、それでも、スイッチがオンになったりオフがなったりの繰り返しでした。紅雀の「いらちの愛宕詣り」は、以前、随分と聴いたもの。でも、年数分、グレードアップしていたようだな程度が、意識に残っています。「矢橋船」は、ネタ自体が珍品に入ってしまいそうなほど、持ちネタにする噺家さんが少ないネタということは、遭遇機会がレアなものなのに、この低汰落。問答の部分が全滅だったというのが、一番悲しいです。雀五郎の「蔵丁稚」は、今日のネタでは、一番の狙いにしていたもの。雀五郎は、芝居噺を持ちネタにしてませんでしたからね。ですが、芝居がかりになったところは、ほぼ記憶になし。定吉の表情や物言いに、らしいテキストの読み込みの深さが、印象に残っています。ようやく中入りで覚醒。南天の「青菜」は、何度か聴いて、特に冒頭の情景描写の卓抜さに感動していたのですが、今日は、そこで仕事をする植木屋さんが、口笛を吹きながらというのに度肝を抜かれ、ただならぬ雰囲気を感じました。差し込みがいたるところで炸裂し、ヴァージョンアップしてました。これは、とんでもない「青菜」が登場したものです。そしてトリは、まん我自慢の「ねずみ穴」。この3日間、まん我に次いで、雀五郎と紅雀がトリをとりますが、それが、いずれ劣らぬ大ネタが用意されています。雀五郎が「口入屋」、紅雀が「三枚起請」です。その2日間に行けないのが悔やまれます。まん我の「ねずみ穴」は、手がけ出した頃に聴いて以来ですから、随分と久しぶりになります。ハイライトは、10年ぶりに再会する兄弟の対面。ふてくされた弟、慈しみのある兄の言葉、ほぐれていく弟の心、まん我の口演の中でも、自慢して然るべきいいところです。願わくは、夢だと判るラスト手前の緊張と緩和に一工夫が欲しいところ。ちょっと緊張したまま、下げに入ってしまったなと思えてしまいました。南天が、マクラの中で、この会について紹介していました。会の固定メンバーは、南天と雀五郎の2人で、発会当時、仕事があまりなかった雀五郎に落語をさせるために考えた会なので、まず、2人のスケジュールを調整したあと、その日に空いている人に、米朝事務所のスケジュール表を見ながら声をかけているそうです。よく似た顔ぶれですが、5人が固定されていないわけが、それで判りました。


2016年 9月 4日(日)午前 5時 26分

 昨日は、国立国際美術館で「始皇帝と大兵馬俑展」に行ってから、彦八まつりに行くことにしました。「始皇帝と大兵馬俑展」は、兵馬俑が10体ほどが来日&展示ということをメーンに、小ぶりの発掘された遺物を展示するということで、春秋時代の秦から中国統一後の秦までを炙り出せるようにしてありました。西周の時代から春秋時代と言えば、周の王室の権威を認めている時代ですから、封建された証となる祭祀道具が、しかも技術的にも、西周の影響を受けていることが明白な様式を持って製作されていました。が、西周の王室の権威が落ち、戦国時代に入ると、同じような祭祀の道具も、西周時代の様式を離れ、南部の楚の様式が支配的になっていってました。そして、秦が統一すると、統一事業を表す分銅(度量衡の統一)や半両銭(貨幣の統一)といったものを見ることができました。半両銭の実物を見たのは初めてだと思います。といった具合に、統一前の秦から統一後の秦の歴史といったものが判るような仕掛けにしてある解りやすい展示でした。そういった展示品の中で、黄紺の目を曳いたのが、西戎の遺物。西周を倒した西戎の由緒やその後などについて、寡聞ながら読んだこともなく聞いたこともなく、ましてや、その遺物の存在など、考えてもいなかったものを見ることができました。これは、大変な収穫。そして、最後の広い展示場に、皆さんお待ちかねの俑の小さいのやら大きいのやらを見ることが叶いました。土曜日だったからでしょうか、会場は大変な賑わい。腰に膝にと弱点を持つ黄紺は、混み合う美術館は避け気味だったのですが、無事、なんとか見て回ることができました。
 空模様が怪しくなりつつあるなかを、ウォーキングがてら、歩いて生國魂神社を会場とする彦八まつりに移動。到着すると、既に屋外ステージでの演奏が始まっており、「桂文枝の上方落語プルメリアボーイズ(KPB)」に、ぎりぎり間に合いました。それ以後は、染八くんから買ったチヂミで空腹を癒したあとは、ゆっくりと、ビール(文太師の店を手伝う南斗くんから購入)片手に、塩鯛焼き(塩鯛一門)を食べなから、「クロ―ド・ビギナーズ」「ヒロポンズ・ハイ」「元祖お囃子カントリー ぐんきち」「桂雀三郎withまんぷくブラザーズ」の演奏を聴きました。無事に、去年聴けなかったガールズバンドもばっちり。衣裳探しをしていると、自身のツイッターに呟いていた二葉が、どないな姿で現れるかと思っていたら、自身でデザインした彦八特製のシャツを着ていたので、びっくり、がっくり。時間荒らしの文福一座が、混み合う土曜日のステージから排除するという英断、いや賢明な決断のおかげで、とっても進行はスムーズ。時間が余り、まんぷくブラザースは、頑張って延ばしていたくらいでした。やっぱ、ステージも落語同様、トリをとったまんぷくブラザースのステージは違います。曲数は僅かながらも、きっちりと「我が青春の上方落語」を入れてくれました。黄紺は、この歌を聴くと、どうしようもなく胸が熱くなります。雀さんの個人的な体験が、見事に自分の個人的な体験と重なってしまいます。エンディングの阿波おどりとの間に、実行委員の生喬を伴い、その兄弟子で、今年の彦八の実行委員長を務めた三喬が登場。「挨拶」ということだったのですが、ちょうど鶴瓶が来ているということで、鶴瓶も登場。笑福亭の3人で、ちょっとしたトークを繰り広げてくれました。幸い、時たま降った雨も本降りにはならず、今年も、彦八を楽しむことができました。


2016年 9月 3日(土)午前 0時 2分

 今日は、講談を聴きにトリイホールに行ってまいりました。3ヶ月に1度開催される「第56回TORII講談席」があったのです。今回は「世話と滑稽」という副題が付いておりましたが、その番組は、次のようなものでした。鱗林「無筆の出世」、南海「正調・荒茶の湯」、南北「怒り地蔵」、(中入り)、南湖「尻花火」、南華「報恩出世俥」。「無筆の出世」に、相次いで当たっています。やるせない話です。試し斬りにされるとも知らず、その旨を記した書状を持って、試し斬りにする侍の元に出かける下男。幸か不幸か、いや幸だったのでしょう、その書状を水中に落としたことが、この男の命を救います。鱗林さんは、このやるせない話に、ちょっとした工夫をされました。あくまでも酒の酔いの上での話とし、試し斬りに送り出す侍は、涙ながらに下男を送り出すとしたり、試し斬りの提案を受けた侍は、困った奴と、何やら腹に思いながら、その提案を受けるとされたことです。現代の感性からすると、その方がスムーズなのは分かりきっているのですが、今日の感性を入れるのが適切なのかは、議論の要するところかもしれません。「正調・荒茶の湯」が本日のお目当て。南海さんらしいネタの出し方です。南海さんも言われていましたが、昨今、落語家さんが、やたらと手がけたがるネタになっていますが、元を正せば、南鱗さん(南海さんは「兄弟子」と言われていましたが)が鶴光師に伝えたのが発端で、落語界に広まり、いろいろと味付けがされたものが流布しています。伝わっ時点で、滑稽度が上がっていたろうと思われるのは、現在、南鱗さんの口演などを聴けば判ります。が、その原型はどんなか、また、どのような歴史的な流れの中での出来事なのか、それが、今日の南海さんの口演のテーマでした。後者は、マクラの中で、家康と三成の対立が芽生えてきていた頃の、豊臣傘下の大名の瀬踏みをしている時期というところで了解したところまでは大丈夫だったのですが、あろうことかネタに入られると、強烈な睡魔にダウン。たっぷり目の睡眠時間を取れながら、まだ眠たいと、自分で呆れる状態でした。南北さんで快復。珍しいネタを出されました。マクラで、広島カープの話をされるものですから、広島出身の南北さんの軽いお話しかと思っていたら、とんでもありませんでした。ネタを意識した立派なマクラでした。石の地蔵をモチーフにした原爆投下の日、その後の日々の様子を描いたものでした。絵本の読み聞かせをするような暖かな眼差しを感じさせる素晴らしい口演、こうした語りのような口演は、南北さんはピカ一の実力を発揮されます。南湖さんが「尻花火」という変な題を付けた新作を出されているという情報は掴んでいたのですが、遭遇は初めて。題名同様、掴みどころのない変な内容でした。伝統的な職業を継いでいる家に生まれた若者が、それを継いでいこうと決意するだけの話に、意味不明と言っていいような「尻花火」なんてものを入れたのが、変なのです。なんか、変さだけを狙ったって感じすらしました。「報恩出世俥」は、世話もの好きの南華さんが、持ちネタにされていながら、なかなか高座にかけられないネタと言えるのじゃないかな。それだけ、特別な思い入れをお持ちなのかもしれません。正直な俥夫が、助けられ、また人助けをしていく物語と言えば、簡単にまとめ過ぎでしょうか。旭堂では、乃木将軍ものを除けば珍しい明治期のお話しです。ところで、今日の入りが悪く、ディープな講談ファン氏と、トリイホールから千日亭に移ってから集客力が落ちたのが事実なもので、そのわけが判らなくて首をひねっていました。この会に付いていた人も見かけなくなってきていますしね。ちょっとピンチです。


2016年 9月 1日(木)午後 10時 59分

 今日は、カフェモンタージュでモーツァルトを聴く日。W.A.モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」が演奏されたのです。これは、クラリネットに村井祐児さんをお呼びして、ブラームスの「クラリネット五重奏曲」が演奏されたコンサートの続編と言えばいいでしょう。ブラームスのときと同じ顔ぶれ、即ち、(ヴァイオリン:石上真由子・西川茉利奈)(ヴィオラ)小峰航一(チェロ)上森祥平が加わり、五重奏曲が演奏されたのでした。クラリネット五重奏曲だけでは短いということで、それに先だって、同じくのモーツァルト「弦楽四重奏曲第18番 K.464」の第3楽章が演奏されました。、ブラームスもそうでしたが、今日のモーツァルトも、あまりにも有名な曲でありながら、楽器編成の関係でしょうね、実際の演奏に接するのが稀な曲。それを、日本を代表するクラリネット奏者を迎えて、生で聴けるというのは、ホントにありがたい企画。ブラームスのときもそうですが、今日のモーツァルトも、村井さんのクラリネットは軽い、ときには滑るような印象すら与える薄くて軽い音色。終了後、挨拶をされた村井さん、年齢とともに、日によってまちまちだが、指の動きが気になり、今日はこの指と、右の薬指を細かく動かして、示しておられました。序盤、ちょっとクラリネットが走りかげんだったのは、そのあたりが影響しているのかもしれませんし、音色を軽く感じたのも、その辺が影響していたのかもしれません、むしろ、そういった感じのクラリネットを、しっかりと下支えをしたチェロとヴィオラの果たした役割は大きく、総体として看た場合のバランスがうまい具合に出来上がっていた功労者だと言えると思います。演奏終了後、クラリネット五重奏曲のラストの部分が、アンコールという形で演奏されるというおまけが付いた演奏会でした。


2016年 9月 1日(木)午前 3時 11分

 昨日も落語を聴く日だったのですが、大阪に向かうのが大変。京阪電車で人身事故があり、そのため、約1時間、電車はストップ。いつも、かなり余裕を持って、大阪に向かっていますので、落語会に間に合わないということはなかったのですが、運転再開がなっても、電車はスムーズに動かず、なかなか大阪に着くことができず、電車の中で、かなりストレスが溜まってしまいました。黄紺の場合は、腰に不安があるため、混み合う特急電車に乗れないため、余計にストレスが溜まりました。ところで、落語会ですが、いよいよ「高津おもいっきり落語研究会〜8月全10日間興行」の最終日となりました。ま、最後だということで、めげずに時間をかけて、大阪に向かう意欲だけはなくさずにおれたのだと思います。その番組は、次のようなものでした。雀五郎「初天神」、南天「ちりとてちん」、ひろば「上燗屋」、たま「ふたなり」。会場に着いたのは、電車の事故のおかげで、いつもより若干早めになったのですが、開場待ちに並ぶ人の出足が早く、やはり千秋楽だけのことはあると思わせられたのですが、そのあとの出足が悪く、これまでかと思っていると、出足は悪いのですが、やって来る人が多く、1回の目標人数90人を上回る95人の入りとなりました。メンバー4人は、この結果を予想していた人はいなかったらしく、それぞれが上気したなかでの高座が続きました。90人を超えた感動の生々しい状態で、出番のあった前2人の高座に、特に、その高揚が見られたのではなかったでしょうか。雀五郎の「初天神」は最後まで行きましたが、テンポよく進むものですから、長く感じさせなかったですね。これは凄いことです。南天も、高揚感のある高座。ちょっと過剰かなと思えるくすぐりが入るのですが、それは「×」とさせないのが、南天の口演。やはり、差し込みのタイミング、精選されたテキストのセンスが、他の噺家さんを寄せ付けないほど、魅力的だからでしょうね。前の2人が、鉄板と言っていいネタを出したからというわけではないでしょうが、ひろばも、ざこば組定番の「上燗屋」を持ってきました。出番が3番手で、このネタを出したものですから、道具屋も、猟奇的場面も外すことはないと思い込んでいると、あっさりと、「上燗屋」で止めてしまいました。肩肘張らないいい呑みっぷりで、顔の表情一つで、酔いの変化や感情を出してみせるなど、随分と進況のあとが見られただけに残念なことでした。たまは、トリのときは古典というパターンのようで、まだ、たまの口演では聴いてなかった「ふたなり」を出してくれました。「微笑落語会」というたまのネタ下ろしの会で出ていたのは知っていたのですが、遭遇は初めてのことです。たまの古典では、珍しく大きくはいじられてなかったのじゃないかな。2人の男が訪ねてきているところからスタート。その語りで、「おやっさん」という言葉を使いすぎるというくすぐりが入るくらいで、通常の進行と言っていいのじゃないかな。栴壇の森に入ってからの暗さは、もう一つかな。それは、噺の入口から、田舎の土着の空気が支配している空間での物語という雰囲気が不充分だったからじゃないでしょうか。たま自身は、そないなところには重点を置かずに演じているというところがあるのかもしれません。コントのような噺と言ってから始めましたから。確かに、「ふたなり」なんて見方が出てくる核心の部分って、その通りなのですが、都会じゃなくて、田舎の噺にしていること自体が、ありえなさを前提にしているのではと思っちゃうものですから、田舎らしく、森の暗さを出して欲しいなと思っちゃいます。大トリにしては、珍しい噺になりました。古典だろうから、「高津の富」なんてのを予想していたのですが、今日は外してしまいました。これで、今年の8月は終わりました。黄紺的には、これで、いよいよトルコが近づいて来たぞと思うきっかけを与えてくれています。最後に「大喜利&抽選会」がありました。毎日貼り出してある番組表が当たるじゃいけんのラスト2まで残れたのですが、最後の最後で負けてしまいました。お宝グッズにしたかったので、悔やまれますが、じゃいけんばかりは、どうしようもありませんね。


2016年 8月 30日(火)午後 11時 55分

 今日も落語を聴く日。8月の名物「高津おもいっきり落語研究会〜8月全10日間興行」が、ラスト2日となりました。終わりに近づくと、一抹の寂しさが出てきます。で、今日の番組は、次のようなものでした。南天「へっつい盗人」、ひろば「兵庫船」、たま「マイセルヴズ」、雀五郎「抜け雀」、全員「大喜利」。この会の約束ごととして、トリをとるときのネタは、事前にメンバーに言うことはいいのだけど、それ以外の人は、前に出たネタにかぶらないようにネタ選びをしているそうです。ところが、10日間の興行で、ラスト近くになるにつれ、ネタ選びに苦労しているにも拘わらず、今日集まったとき、2番手のひろばが「兵庫船をする」と宣言するという掟破りをしてしまったため、今日のトップの出番に当たっていた南天は、旅ネタができなくなってしまったそうです。このぼやきが南天のマクラ。南天は、「煮売屋」か「兵庫船」をするつもりでネタをくってきたそうです。先に出番があるわけですから、場合によっては、「兵庫船」で強行突破することも可能だった南天は、後輩のために旅ネタを諦めることに。となれば、黄紺の頭をかすめたのが、このネタでした。南天十八番のネタがでました。一瞬、受け狙いで「動物園」かもと思ったのですが、「へっつい盗人」でした。この南天の高座を受けて、ひろばは上がるなり、「兵庫船をやります」と言いかけてかんでしまい、会場は大爆笑。問答の部分を省いたショートカット版。言っちゃいけない忌み言葉を、大声で連呼したり、ひろばが、いつになく弾けていました。たまは、トリのとき以外は、自作のネタの総ざらいをしているのですが、こちらも底をつきかけているということで、最近ご無沙汰の「マイセルヴズ」を出しました。初期の新作で、今も高座にかける一番古いネタだそうです。10歳ずつ違う自分自身が出てきて、人生を振り返るというもの。以前聴いたときは、いろいろな世代の自分自身が一堂に会する矛盾を、無理やりながら説明しなければと躍起になっていた印象があるのですが、そないなことにこだわる余計なエネルギーが削がれて、解りやすい噺になっていたのじゃないかな。今日は抵抗感を持たないで聴くことができました。今日のトリは雀五郎。「抜け雀」を持ってきました。自分的には、雀五郎の「抜け雀」は初物。宿の主人のおおらかさというか、能天気な感じいいですね。おかげで、総体として、大人の童話って雰囲気。それを、テンポよく、前へ前へと、心地よく引っ張って行ってくれました。今日は、明日の最終日に備えてか、客の入りも少なめ。平均入場者数、1日の最高入場者数で、ピンチを迎えています。


2016年 8月 29日(月)午後 11時 18分

 今日も落語を聴く日。他に、いい落語会もあったのですが、黄紺が選らんだは「春風亭ぴっかり2016サマーツアー ぴっかり夏祭り!」。昨年に続き、トリイホールで行われました。その番組は、次のようなものでした。ぴっかり「桃太郎」「湯屋番」、(中入り)、鞠輔「遊山船」、ぴっかり「ねずみ」。前座を置かず、いきなりぴっかりが登場。従って、長めのマクラ。ツアーの説明から、学校公演、2代目噺家の話へと入り、徐々に子どもの話へと引っ張って行き、現代版の「桃太郎」へ。構成は、古典の「桃太郎」のままで、子ども側からの突っ込みを、ぴっかりテイストにしたもの。環境問題が入ってきたり、アメリカの軍事介入が入ってきたりなんて書くと、たいそうな改作になりますが、ごく軽〜いもの。なかなかよくできていました。「湯屋番」は、全く、男性の噺家が演じるままの口演。これが、ぴっかりの凄いところと、黄紺は思っています。笑いの種もテキストも男社会のそれを、そのまま演じ切ってしまうのが、ぴっかりの凄いところだと思っている標本のような高座です。初めて、この「湯屋番」を、鈴本で聴いて以来、いっぺんにぴっかり好きになってしまった記念碑的なネタです。トリネタは古典の大ネタからというのが、この会の定番ですが、今年は「ねずみ」でした。この人、演劇の経験があるようですから、声がいい、よく通り、声質も安定しているので、じっくりと語って聴かせる噺にはうってつけ。ましてや、男社会の噺にも対応できる強みを持っていますから、ますます、こうした噺で、成果を残すことが期待できるのじゃないかな。いいもの、聴かせてもらえました。今日のぴっかりの口演は、近年、上方で流布している「ねずみ」と、テキストは同じ。ま、東京から入ってきたネタですから、そうなのでしょうが、同系統のものが上方に入ったと言えばいいでしょうか。但し、場所は仙台藩ですが。ゲストは鞠輔。第1回の大阪公演に、二葉とともに、勉強に来たのが縁。二葉と違い、鞠輔のキャラが、あまりにもぴっかりとは遠いところにあるので心配をしたのですが、今日の鞠輔は、今まで聴いた中で頭抜けた出来。鳴り物なしの「遊山船」というものを、初めて聴きましたが、喜ぃ公の無邪気さが、何ものにも替えがたい良さがありました。更に、3回入れたかなぁ、喜ぃ公がアホなことを言ったときに、清やんに、「周りの人が笑てるやないか」と言わせ、周りの賑わいを意識させたことです。このテキストが入るのは聴いたことはなかったはず。鞠輔が、このネタをもらった先輩噺家が入れたのかもしれませんし、でなかったら、鞠輔スペシャルです。ちょっと検証の値打ちがある差し込みです。「遊山船」ってネタ、こうした東京の噺家さんの会で聴くと、めちゃくちゃ大阪ですね。ですから、とってもいい色変わりになった鞠輔の高座でした。鞠輔にも拍手です。


2016年 8月 29日(月)午前 7時 1分

 昨日は落語三昧の日。昼間に繁昌亭の昼席に、夜は高津落語研究会にと、かなり濃密な一日を過ごすことになりました。まず、繁昌亭昼席は、かなりの大物が揃うということでのチョイス。その番組は、次のようなものでした。三語「狸賽」、三ノ助「忘れ物承り所」、仁扇「青菜」、藤本健太郎「津軽三味線」、よね吉「芝居道楽」、きん枝「一文笛」、(中入り)、旭堂南海「犬伏の別れ」、遊雀「熊の皮」、文昇「大安売り」、文枝「ハルの小川」。最大の狙いは遊雀、それに、滅多にないと考えられる文枝&きん枝兄弟弟子の同時出場、それに、南海さんが色物で出るという布陣。前座は三語、昨日だけの出演。今週は紫の出番だったようです。三語が、ますます腕を上げています。気がこもる高座と言えばいいでしょうか、アホな博打打ちに乗り移っていました。うまく喋る人はいても、こういった高座を務めることのできる人は得がたいものがあります。同門の三の助が二番手。三語の逆をいく噺家さん。しかも、喋れるわけではないという噺家さん。でも、昨日は、いつもの神経質そうな高座でなかったのが良かったんじゃなかったかな。前に聴いたことのあるネタが、随分と生き生きとしていました。仁扇は、呂鶴が出ない日ということで、「青菜」を出した、いや出せたのかななんて思いながら、仁扇の高座を聴いていました。言葉使いがはっきりしていたのがいいのか、客席には、えらく受けていました。小細工をしないで、素直にネタの強さを引き出していたってところでしょうか。それが、難しいことなのでしょうが。よね吉ときん枝は、予想通りのネタ。芝居噺って、繁昌亭の客層には、いいこけおどしの役割を果たしますね。きん枝がマクラを喋りながら、にやけ出した。何事かと思うと、「会長がそこで聴いてますねん」、文枝が舞台袖で聴いていてやりにくいということでした。思わず、きん枝がパンダ時代に兄弟子に叱られた逸話を喋り出すと、私服の文枝が、舞台袖から姿を現し、「はよ、落語せぇや」に、会場は大喜び。こういった楽しみが、この2人が顔を揃えるとあるのですね。中入り明けの高座は値打ちもの。南海さんは、秀吉没後、家康と三成が対峙していくなかで、真田は、どのように動いたかを、手短に、大河ドラマの進行を睨みながらのお喋り。中身は講談、お喋りは噺家さんというのが、繁昌亭での南海さんの高座です。そして、期待の遊雀、噂通りの逸物です。テイスト的には、兼好に天どんをブレンドして煮詰めたって感じで、言葉選びに長けるというセンスも併せ持っています。素晴らしい噺家さんの高座に遭遇できました。遊雀と文枝に挟まれた位置って大変でしょう、その辺を心得た文昇は、負け方に独自の工夫を加えた「大安売り」。賢明なチョイスです。文枝は、自身の年齢に重ねたネタを書き続けてくれています。私生活の延長のような落語を披露してくれました。老人たちが集うカフェ、そこに来る婆さんがケガをして入院します。支えあう老人コミュニティ、でも、認知症は、お構いなく進んでいきます。ハートウォーミングでもあり、現実の厳しさ、寂しさが滲みます。いい作品ですね。
 繁昌亭を出ると、ウォーキングを兼ねて、歩いて道頓堀へ移動。ネットカフェで時間待ちをしたあと、高津落語研究会へ。一昨日は、西淀川で出張落語会(181人入ったそうです、凄い)を開いたメンバーが、本拠地に戻ってきました。昨日の番組は、次のようなものでした。ひろば「道具屋」、たま「豪華客船」、雀五郎「鹿政談」、南天「火焔太鼓」、全員「大喜利&抽選会」。前座噺も流行りがあるようで、最近は、ホント、「道具屋」ばやり。それが、この会にも入ってしまいました。「小便」話が出てこない構成、ですから、パッチを買いに来る客は出てきませんでした。たまは、マクラで朝太郎のおもしろい逸話を紹介。噺家さんというのは、何やらしらおかしなエピソードを残す人種です。ネタは、最近出しているのを見かけなくなっていた「豪華客船」。旅物語かと思うと、途中からミステリーに。そういった構成をつまらないと思ったのか、黄紺の頭の中では、このネタは「×」となっていたのですが、昨日、聴き直して見ると、やっぱり「×」のまま。ミステリーの展開は、急いで終息させようとしているみたいで、バタバタ感があって、じゃ、なんで、ミステリーにしたのって感じになっちゃいました。雀五郎の「鹿政談」は、確か初めてだったはずなのですが、マクラから序盤にかけて、使い古されたフレーズが続いたということもあり、居眠りに入ってしまってました。南天の「火焔太鼓」は、3席を、一度にネタ下ろしをしたときの1席。でも、なかなか遭遇できなかったのですが、ようやく捕まえました。通常の「火焔太鼓」よりは長めの口演。そのわけは、南天のこだわりと言えばいいかな? かみさんが、旦那に口うるさい、いや、口うるさ過ぎると感じたのかもしれません、そのわけを入れたのです。旦那は、元奉公人。かみさんは、そこのお嬢さんで、婿養子に入ったとしたのです。ですから、それに関わるテキストが入ってきたために長くなったと言えばいいでしょう。もう一つ工夫がありました。場所を大阪に移さねばなりませんから、侍を直で出しにくいという気づかいで、太鼓を買い上げるのを住友さんにして、住友さんくらいだと、御用の侍と付き合いがある、ちょうど太鼓を持参したときも、用の向きで、そういった侍がやってきているといった具合で侍を出すことで、びびる話を持ってくるというものでした。ちょっと回りくどいのですが、やられてみると、合理的ではあるのです。通常の「火焔太鼓」に慣れているため、回りくどいとは感じますが、通常の展開は骨だけという感じがしますから、それに肉付けをした場合には、こないになると考えてもいいのかもしれません。ですから、南天の工夫はさりながら、削ぎ落としたものを回復してくれたともとれるなと、黄紺には思え、好感の持てるテキストに仕上げたなと思えました。これで、今年の高津は、あと2回となりました。終わりに近づくと、黄紺のトルコ行きが近づいてまいりました。


2016年 8月 27日(土)午後 10時 54分

 今日は落語を聴く日。幾つか落語会があるなか、黄紺が選んだのは「第97回 ジャッキー7〜桂雀喜の落語会」でした。場所は摂津市民文化ホール大会議室。こちらに移ってからは2度目となります。その番組は、次のようなものでした。文五郎「牛ほめ」、雀喜「腕喰い」、千朝「佐々木裁き」、雀喜「花筏」。文五郎が、前座として、よく使われるようになってきました。黄紺的にも、相次いで2度の遭遇です。いかにも落研出身らしい達者なしゃべり方。ただ、ちょっとおもねるような姿勢も、その影響かと思うのですが、黄紺的には、好感度は下がります。師匠文珍の「牛ほめ」は聴いたことがないので、何とも言えないのですが、今日聴いた「牛ほめ」は、普請ほめの部分で刈り込みを入れ、新しいくすぐりを、刈り込みに見合うほどではないのですが入れたもので、まとまりを感じました。主役の雀喜の1つ目は、米朝一門ではレアーな「腕喰い」とは言え、師匠の雀三郎の持ちネタですから、その流れで伝わっているのでしょう。あとの「花筏」が、落ち着いた口調なのにも拘わらず、こちらは不安定。いつまでも「こじき」口調を残す若旦那とのバランスをとれなくて、徳兵衛の口調も中途半端なものとなってしまいました。若旦那は、改心したのが見えたればこそ、徳兵衛が動くということでなければならないはずですから、チャラチャラしていてはダメなはずですよね。そんなで、夏の噺ながら、今夏は、ここまで1度も遭遇できていなかったのが、せっかく遭遇できたにも拘わらず、不満足な出来でした。残念。そんなでだったため、「花筏」は、不安な気分で迎えたのですが、こちらは安心して聴くことができました。マクラは千代の富士の思い出でした。ゲスト枠は、こういった形で聴ける機会が減った千朝。大物過ぎるってことでしょうね。アニメなどの思い出を語るレトロなマクラは千朝らしくて、もう、それだけ聴けただけでも満足。自身の子ども期の思い出を語ることで、子どもの活躍する噺に入るという趣向。千朝ワールドが、マクラで植え付けられると、ちょっと大仰な話ぶりのおかしさが増しますね。ちょっと久しぶりに聴けた千朝の「佐々木裁き」でした。


2016年 8月 26日(金)午後 11時 22分

 今日もコンサートに行く日。今夜は、フェスティバルホールであった大阪フィルハーモニーの「第501回定期演奏会」に行ってまいりました。狙いはブルックナーのシンフォニー。指揮も、前の常任だった大植英次だということも、大きな要因。そのプログラムは、次のようなものでした。「小倉朗/管弦楽のための舞踊組曲」「ブルックナー/交響曲第9番 ニ短調 (ノヴァーク版)」。ブルックナーの9番は、2年ほど前にも、大阪フィルは、定期で取り上げた曲。あのときは、大植さんが指揮する予定だったのかなぁ、予定していた指揮者が振れなくなり、急遽、外国から指揮者を喚んできて、定期を迎えたのですが、その演奏が評判が悪かった記憶があります。黄紺も、その定期を聴きに行っていて、全く同感だったと記憶しています。僅か2年ほどで、ブルックナーの9番が、定期演奏会で出るっていうことは、通常考えられませんから、そのときのリベンジの意味があるのか、ひょっしたら、予定されていた指揮者が大植さんだった可能性が高くなったなと思ったりしています。ブルックナーの大曲を演奏する前に、小倉朗作品は、とってもいいウォーミングアップになる曲。おもしろいリズム構成に満ちたノリが勝負といった曲って、そういった雰囲気が満ち満ちています。肝心のブルックナーは、一貫して程よい緊張感に包まれた演奏だったことで、あっさりと前回を上回る出来だったと言えると思います。特に2楽章のスケルツォの緊張感が記憶に残ります。ブルックナーの前にノリのいい小倉作品を演奏しながら、1楽章の序盤、大植さんの求めるダイナミズムにオケがついていかず、いち早く気がついたコンマスのチェ・ムンスさんが、大きな身ぶりで引っ張って行こうとされていたのが、目につきました。問題のブルックナー休止ですが、前回は、皆目効いていなくて、黄紺も惨澹たる演奏と思ったのですが、今回は、まだましだったとしても、黄紺の満足度を高めるには、残念ながら至りませんでした。休止を境にして、接ぎ木のような音楽の流れを期待されるべきだと思いますし、古今の名演奏って、そうだよな、それが、長大なブルックナーのシンフォニーを楽しめるポイントだと思うのですが、、、。今日は、わけあって、黄紺自身が買った席には、黄紺の元同僚が座り、黄紺自身は、譲っていただいた高価な座席で聴くことができました。お隣は、講談会でおなじみの方。休み時間は音楽談義と、いろいろと思い出に残るコンサートとなりました。


2016年 8月 26日(金)午前 6時 27分

 昨日は、久しぶりにカフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「ヴァイオリンソナタ」と題して、(ヴァイオリン)石上真由子、(ピアノ)若林千春というおふたりによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタが2曲演奏されました。演奏されたのは、「ヴァイオリンソナタ 第6番 イ長調 作品30の1」「ヴァイオリンソナタ 第10番 ト長調 作品96」でした。ベートーベンって、楽譜上は、さほど難しそうには思えないのですが、ピアノとの微妙なバランス、ヴァイオリンがはっきりと伴奏楽器てあるかのように、オブリガードを付けているかと思うと、今度は、ピアノの方がアルペジオで伴奏している。主客がはっきりとしていて、それが交代しながら進行していく。主客が明確でない音楽というのが、後発の作曲家から、どんどん生まれていきますが、そうでもない時代に書かれたということから来ることらしいようです。オーナー氏のお話によると、10番で、中期の終わりかげんに作曲された時期になるそうですから、そんなところなのかなぁと思い、演奏を聴いていたのですが、昨日のお二人の演奏は、楽しかったとは、ちょっと言い難かったですね。お二人のバランスが満足できないのと、石上さんが、のびのびと弾かれていたとは言えず、丁寧に弾こうとされればされるほど、音楽がつまらなくなっていたように思いました。特に6番がきつかった。今まで聴いてきた演奏ではなかったこと。ベートーベンは難しいということなのでしょうね。


2016年 8月 25日(木)午前 6時 3分

 昨日は落語を聴く日。常盤漢方薬局ビルであった「第25回 かつらふくまる研鑽会」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。瑞「つる」、福丸「薬屋俥」、歌之助「蛇含草」、(中入り)、福丸「三題噺」「寝床」。助演陣におもしろい顔ぶれが揃ったこの会、福丸のネタを見て、どうやら「寝床」 は歌之助からもらったということで、お礼の意味を込めてのゲスト出演かという推測。先代からの伝承の「寝床」、福丸はなかなか目のつけどころがいいですね。ただ、実際の福丸の口演では、2人の歌之助の口演のファナティックな味わいを見ることはありませんでした。今まで、丹精というキャラじゃない方に、成果を出してきたと思っている福丸ですから、旦さんの傍若無人ぶりを演じてくれるのか、それには、歌之助からもらうというのは、まことに的を得た戦略と思えたのですが、ちょっと肩透かしを喰らった感じです。序盤の近所の人たちの報告の仕方から、腹に何も持ってない風情では、歌之助流に反します。用意周到に報告する内容を検討し、何とか旦さんを困らせる戦略家の顔を持つ歌之助流と違うのです。一言で言えば、福丸の口演が平板で、歌之助からもらったとしても、そのテイストはもらったとは言えない印象を持ちました。冒頭の展開は、噺全体の掴みにもなっている噺ですから、全体の流れが、なかなか高みに上がらない結果となってしまいました。浄瑠璃が始まる前、そのあとの客席のおしゃべりは間引き気味。歌之助、そうだったかなぁ、、、。これは、どこかで確認したい気持ちです。「寝床」が、そないなことで、ちょっと頼りなかったのですが、もう一つの新作がいい出来栄え。擬古典ものです。「田辺三菱製薬」を会場にした落語会で、この作品を口演するという案内を見たことがあるので、その落語会のために、福丸が書いたものかもしれないなと、勝手に考えている作品です。サリチル酸が日本に入るに、田辺製薬が果たした役割を知らしめるということに、結果としてはなる噺ですが、噺は、その導入競争に参入しようとして、途中で断念していく薬屋本牧屋の丁稚と若旦那のスローライフ志向に焦点を当てていきます。「生駒のオーロラ」にも見せた福丸作品のテイストに似たものを感じました。ということで、福丸作品を、2つ相次いで聴くことになりました。当たらないときは当たらないけれど、ツボにはまると、あっさりと2つを続けて聴けることになりました。なかなかいい腕を持っています。新たな作品が登場するのを期待することにしましょう。歌之助は、後輩たちに喚ばれることが多いようですね。確か、以前にも聴いた記憶のある「蛇含草」、いいリズムと、身体表現としての落語という歌之助の良さが詰まっています。血液型の差し込みが入ったりして、ちょっと驚かされました。前座は瑞、あまり前座として当たらない人。あの顔で、男社会の中で伝承されてきた落語の言葉を聴くと、やっぱ抵抗を考えるてしまいますね。会場自体は狭いところですが、結構な入り。但し、コアな落語ファンは、雀五郎の会に行ったようで、こちらに回られた方は僅かでしたがね。


2016年 8月 23日(火)午後 11時 6分

 今日は講談を聴く日。毎月、足を運んでいる薬業年金会館に行ってまいりました。従って、今日は、高津落語研究会はお休みしました。先月は、タイから帰って来た日に、谷六に行ったのですが、あれから、もう1ヶ月が経ちました。日の経つのが、とっても早く感じます。もちろん講談会というのは「第229回旭堂南海の何回続く会?〜増補難波戦記19」だったのですが、今日は、「旧福島家老浪士の決起〜難波戦記後日談より」と題した読み物でした。この間、読まれてきた秀頼主従の薩摩落ち以後、それに気づいた江戸幕府(秀忠の時代)が懐柔に乗りだし、その交渉役として真田大助が江戸入りする。その結果を持って薩摩に戻る大助なのだが、その通り道、広島を通るのだが、広島は、黒田から浅野に変わっていたため、身分を明らかにして通るわけにはいかず、国替えに同行しなかった旧黒田藩の家臣団の協力を得なければならないというのが、今日の読み物の大枠のはずです。はずというのは、肝心の半ばで、またまた居眠り。前後の展開から、そうだろうということです。どうも、落語会にせよ、講談会にせよ、聴く姿勢というか、黄紺の態勢に問題が発生しています。体調不良、睡眠不足というよりか、早い話が夏バテというのが、最も的を得ているようです。ちょっと腰に痛みが出たり、左脚に突っ張る感じが出てきたりもしていますので、総体としてバテてしまっているのでしょうね。暑いなか動きすぎなのだと思います。だけど、動かないと、簡単に太ってしまいます。代謝が悪くなっているからだと思うので、動こうとすると、動きすぎてしまってるってことですね。自分で、程よく加減をしなければならないのでしょうが、それが下手くそなのでしょう。
 ところで、今日、ようやく冬のオペラ紀行の準備に入れるようになりました。去年から7月後半から手を着けるようになっていたのですが、今年は、それができなかったのです。原因は、この冬のオペラ紀行では6回行こうとしている歌劇場のチケットが買えなくなっていたためです。新しいシーズンから、ちょっとだけシステムがいじられたのが原因で買えなくなってしまってたのです。おおどころの歌劇場だったため、そこへ行けるか行けないかで、スケジュールを組み直さねばなりません。ホントに買えないのか、それを見届けるまで、航空券の手配すらできなかったのですが、今日、再度(もう何回目だったのでしょうか)チャレンジすると、呆気なく買えちゃいました。向こうの夏休みも終わり、システムの異常に気づいたのではと、勝手に考えていますが、8月のこの時期になり、問題が解決したということは、黄紺は推測は、かなり当たっていそうです。で、早速、航空券も手配。この冬のオペラ紀行は、実に久しぶりに、日本の航空会社を利用することになりました。初めてヨーロッパに行ったとき以来ですから、とんでもない久しぶりです。それが、今日一番の黄紺的ニュースとなりました。


2016年 8月 22日(月)午後 11時 26分

 今日も「高津おもいっきり落語研究会〜8月全10日間興行」に行く日。6日目になります。今夜の番組は、次のようなものでした。雀五郎「みかん屋」、南天「くやみ」、ひろば「さからいよし」、たま「船弁慶」、全員「大喜利」。今日は、繁昌亭で文三の会、動楽亭では染八の会と、そそられる落語会に囲まれていたのですが、結局、明日は高津には行けないということもあり、高津に足が向いてしまいました。雀五郎の「みかん屋」は、何度も聴いているのですが、今日の口演を聴いて、アホを見る目に技ありで、進化を確認することができました。アホは、アホの言うことだけで判るのではなく、周りの人間の反応でもって、更に充実したアホができ上がるということを示してくれました。また、その頃加減を心得ているのが、雀五郎のセンスと言えると思います。最近は、雀五郎の落語を聴くのが楽しすぎです。南天は、結婚披露宴の司会をした経験を、マクラで披露。緊張すると、脳の理解と違う口の動きが起こる実例をたっぷりと。もう、会場は大受け。そこから十八番の「くやみ」へ。申し分のない展開でした。ひろばのネタは初物。帰り際、幾人かの方が題名を聞かれていました。小耳に挟んだ「さからいよし」という題名で、ネット検索をしてみると、くまざわあかね作品だと判明。内容からして、そないな第一感がありましたが、ドンピシャでした。へそ曲がりというか、天の邪鬼というか、人に逆らうことに生き甲斐を感じているかのような男に対し愚痴ることが、噺の大半。そして最後、その問題の男が亡くなり、ブラックな下げが付いているというもの。京都文芸会館で出た作品なのでしょうか、演じ手のキャラに見合う作品が提供されるのが、そちらの特徴なのですが、内容からして、ひろばに提供されたのが不可解な内容でした。それとも、全く違うきっかけで、ひろばが演じるようになったのでしょうか。今日のたまは古典でした。この高津の8月の会では、ネタがかぶらないようにという配慮か、たまは新作ばかりを出してきているので、古典は、ホント、珍しい。「船弁慶」を出されてみて気がついたのですが、あとの3人は「船弁慶」をしないですね。だから出したということかと納得。今年の夏は、「皿屋敷」ばやりで、逆に「船弁慶」には遭遇機会が少なかった、いや、なかったかもしれませんが、ここで、濃〜い「船弁慶」に出会うことができました。通い舟に乗りながら、手拭いを川につけ、その手拭いで汗をふくなんて、細かな心配りを見せてくれたり、鳴り物入りの噺では、たまは、お囃子に細かな変化を要求していますが、この「船弁慶」でも、その色合いが濃くなりましたね。でも、やっぱり、祈りのパロディ場面を省いてしまうのには抵抗を感じてしまいます。だって、このネタ自体が、能から歌舞伎に入った「船弁慶」のパロディに持っていくというネタなんだし、「船弁慶」って題名自体がおかしくなっちゃいます。そないなことで、最後に拍子抜けしてしまった黄紺でした。


2016年 8月 21日(日)午後 11時 20分

 今日は落語三昧の日。昼も夜も落語会に行ってまいりました。最近は、そういった欲張りなことをしないように心掛けていたのですが、今日の落語会は2つとも優先度が高く、外すわけにはいかなかったのです。昼間に行ったのは、「染左百席 千日快方」でした。その番組は、次のようなものでしたです。染左「猫と金魚」「皿屋敷」、雀太「粗忽長屋」、(中入り)、染左「五段目」。昨日、今日と、同じ時間帯に、天満橋駅から歩いて千日亭に入ったのですが、昨日は、何とか持ちこたえたのですが、今日はダメでしたねぇ。所要時間は45分、外は35度くらいの気温、クーラーがたっぷりと効いた千日亭に入ると、もうぐったり。特に体が冷えてきてからあと感じる疲労感はけだる過ぎます。それが、居眠りを誘うことを百も承知なため、歩くとネットカフェで休憩するようにしているのですが、昨日、今日と、その時間が取れなかったため、ついに今日になって、ダウン。中入り前までの口演は、かなり吹っ飛んでいます。特に「猫と金魚」は珍品なのに、このざまとなり、残念なんてものではありません。染左は、もう一つ、珍品を出しました。「五段目」なわけですが、素人芝居のドタバタを描いたもので、たいそうな名前が付いているものですから、しっかりした芝居噺と勘違いしてしまってました。そういった珍品と、この夏のブームと言ってもいい「皿屋敷」に、ここでも当たってしまいました。でも、居眠りでスルーです。
 千日亭を出ると、近くのネットカフェで時間調整。そして、食事をとってから高津神社へ。「高津おもいっきり落語研究会〜8月全10日間興行」の5日目に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。南天「江戸荒物」、ひろば「禁酒関所」、たま「ホスピタル」、雀五郎「植木屋娘」、全員「大喜利&抽選会」。南天の「江戸荒物」は、太融寺の会で出たところ。序盤に、江戸っ子指南が入り、3人の客を迎えるというもの。3人目の客は、田舎から出てきたばかりという女中さんではなく、東京弁に憧れる男だったっけ、下げは同じでした。太融寺でも感じたのですが、ちょっと下から目線の東京弁で遊ぶのが、自分的にはおもしろくないのです。東京ばやりを使うしたたかな男というコンセプトはダメなんだろうかと思ってしまいます。ひろばの「禁酒関所」で、夜はダウン。昼間とは、居眠り時間は短いにせよ、昼夜ともに居眠りが出るというのは、体調が万全ではない証拠ですね。確かに暑さに負けかけていますからね。たまの「ホスピタル」は久しぶり。すっかり筋立てを忘れてしまってました。ま、それほど久しぶりということになります。ネタ出しをしているのを、時々見かけますから、当たりが悪いだけでしょう。たまも新作が増えたので、時間を経過した作品への当たりが減ったということなのでしょう。黄紺の頭が退化しているからなのでしょうか、論理的矛盾をついて笑いに変えるところなど、時として、頭がついて行かないところが出てきています。たま作品らしいところでもあります。トリの雀五郎が抜群の出来栄え。幸右衛門の登場のところで、もう笑いがとれるほど、「きょとで慌てもの」と表される幸右衛門を見せてくれました。前のめりに前のめりに喋る技は、ホントに見事。もう冒頭の幸右衛門の登場だけで、客席のハートを掴んでしまったものですから、客席の反応も抜群。正に呼応しあいながら、噺は進んでいきました。伝吉の話を持ち出されたとき、おかみさんが「お光がのの字を書いてるやないか」と言うと、「わしゃ、字はわからへん」とした応対は、素晴らしいくすぐり、抜群のセンスです。雀五郎ベストと言っていい口演だと思いました。なお「大喜利」での謎かけのお題は「かき氷」「前売券」でした。


2016年 8月 21日(日)午前 0時 26分

 今日は二部制の日。昼間に落語を聴いて、夜は、大移動をして、映画を観る日にしました。まず、落語会は、千日亭であった「隅田川馬石を聴く会」です。東京の噺家さんで、とっても有望視されている馬石が、大阪で聴けるということで行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。馬石「出来心」「元犬」「品川心中」。馬石は西脇市出身で、一時、大阪府内に就職していたこともあったようで、羽衣とか深江橋なんて地名が、自然に口をついて出てきていました。その大阪での初の独演会ということで、「凱旋」になるなんて言い方をしていました。石坂浩二の劇団にいたことは知っていたのですが、大阪で働いていたのは、その劇団に入る前のことだそうです。1人で3席ということで、しかも、「品川心中」だけはネタ出しされていましたから、前の2席が軽いネタになるのは致し方ないところ。「出来心」は、上方の「花色木綿」が東京に行って改作されたもの。序盤に、新米盗人が、先輩から盗人指南を受ける部分が入り、空き巣だと「ほんの出来心でした」で言い訳がたつなんてことを教わりますが、これが、下げの伏線になるというわけです。従って、花色木綿での言い訳は、さほど多くないというのが特徴。「元犬」を、東京の噺家さんで聴いた記憶があるようでないようで、もう一つはっきりしません。軽いネタですから、東京の定席で聴いているような気がするのですが、逆にないような気もしてしまってます。よく似た流れですが、裸の男を拾い上げる人物に違いがあります。上方は、いつも可愛がってくれた男ですが、東京では、「変わったことの好きな男」という、いかにもというわざとらしいものでした。中入りを入れ、着物を変えての「品川心中」、馬石が、廓のしきたりなどを、マクラで話すと、この人、廓のあった時代に成人だったのじゃという物知り顔を見せます。風格をあるというか、時代を感じさせますから、もうマクラから「品川心中」モードに入っていたのには、びっくりさせられました。役者出身だからかなぁ、とっても身体の使い方が上手いし、顔の表情も豊か。上下をふるときに、台詞を言わないままで、上下をふる場面が何度もありました。台詞なしでも台詞を言っているのと同じにしてしまってました。素晴らしいテクニックを見せてくれました。噺は、金さんが海から上がり、親方の元に戻ったときに起こるドタバタの中で切り上げました。土曜日の昼間ということもあったからでしょうか、千日亭が満員の盛況。馬石で、そないになるのですから、大阪の東京落語に対する関心度も半端ではないですね。
 千日亭を出ると、京都への大移動。夜は、京都シネマで、ドイツ映画「生きうつしのプリマ」を観てまいりました。大阪での上映も続いているのですが、時間的には京都でないと合わないということで、京都に向かったというわけです。日本で公開されるドイツ映画は良質なものが多いということで、観に行くことにした映画でしたが、全編謎解き映画で、その謎が明らかになったところで、足早にエンディングに向かうというものでした。ウェブニュースで見たメトロポリタンで歌うプリマドンナが亡くなった妻にそっくりということに気がついた男が、娘に、その謎解きのために、ニューヨークに行くように求めることから、物語がスタートします。プリマドンナの名前はカタリーナ、探査に出かける娘の名前がゾフィー。最初は、カタリーナによる全面否定から始まります。事実、何も知らないのですが、カタリーナの認知症の母親が、ゾフィーの見せた母親の写真を見せると、カタリーナではない名前を呼んだことから、何かあるということで、次第に、カタリーナもゾフィーに歩みより、探索に関心を示し始め、謎解きへと邁進していきます。カタリーナの飲んだくれの夫、カタリーナのマネージャーとゾフィーの恋といった本筋とは関係のないエピソードを入れ、目眩まし的役割をさせたり、ゾフィーも歌手を生業にしているということで、彼女の歌が入れられ彩りが添えられますが、本筋はぶれることなく進みます。ただ、徐々にゾフィーの父親が、濃いキャラに描かれるにつれ、謎解きの結末が、社会問題に絡まれていたりするのではなく、夫婦間に関わる秘密なり何なりが隠されているような予感はしだすのですが、また、謎解きのエサも撒かれているにも拘わらず、黄紺には解らずじまい。そして、プロセスを楽しむのが、この映画の持ち味とばかりに、ばらしはあっさりと出されてしまいます。ま、一つの感性かなというところでした。終わって、わざわざ大阪から大移動してまでも観る映画ではないなというのが第一感というところですね。一つ気に入ったのは、ゾフィー役のカッチャ・リーマン。キャリアのある女性にしっくりくる雰囲気があり、気に入ってしまいました。黄紺的には大変な名作「バンディッツ」の1人なんですね。全然気づいてなくて、あとで調べて判明しました。歌えるはずです。


2016年 8月 19日(金)午後 11時 7分

 今日も落語を聴く日。今夜は、動楽亭であった「第11回ご近所落語会」に行ってまいりました。動楽亭の近くに住む生寿と小鯛の会です。その番組は、次のようなものでした。生寿&小鯛「挨拶」、小鯛「青菜」、生寿「秋刀魚芝居」、福丸「生駒のオーロラ」、(中入り)、全員「井戸端会議」。いつもは、主宰者の生寿と小鯛だけで切り回す会なのですが、ゲストを迎えるという特別な会になりました。それは、2人にとっての同期の福丸と、「最近話してない」と、小鯛が言い出したのがきっかけで、それ以外の理由はないとのことでした。そんなことを、「挨拶」で披露。出番は、同期なんだけど入門順にしたそうで、ゲストの福丸が最後に出ることになりました。小鯛の「青菜」は初めてですが、いい感じですね。従来の形を守ったオーソドックスなものながら、植木屋にいちびりさせすぎずに演じてくれました。このノリで、歳かさが嵩んでいくと、いい感じの旦さんになっていくのじゃないかな。生寿は、前座から、そのあとの出番をもらったときに、あまり出ないネタを仕入れて差別化を図っていったときにやり出した、「でも、やり過ぎておなじみネタ化してしまった」ネタの1つをしますなんて断ってから始めたのは、文我からもらった「秋刀魚芝居」。田舎女の口調が、文我そっくりになるのが可笑しいネタです。生寿にとっては、芝居がかりになるところが入るので、やってみたかったのでしょうね。そして、福丸。なんと、ネタは、存在は知りつつ、ましてやわりかし出しているのにも拘わらず、遭遇できていなかった福丸作の「生駒のオーロラ」。オーロラを見たいと言う息子に、父親が、怪しげなオーロラ屋に、オーロラを依頼するのだが、お約束通り、オーロラを出すのに不具合が生じ、ドタバタでオーロラもどきを出すことになります。オーロラについての蘊蓄が入ったり、父子の情愛が入る人情噺風になったりと、わりかし完成度の高いものでした。中入り明けのトークは、主宰者の2人が打ち合わせなしで上がるものだから、噛み合わないことがおびただしいもの。同期の噺家がたくさんいるなかで、この3人は優れものであることは、自他ともに認める3人なのですから、真っ正面から落語について語ればいいのにと思うのですが、それができない幼さのようなものを見てしまいました。


2016年 8月 19日(金)午前 6時 34分

 昨日も落語を聴く日。昨日は、「高津おもいっきり落語研究会〜8月全10日間興行」に行ってまいりました。改修工事が入るとかで、ちょっと間があいての開催。黄紺は、今年2回目となりました。その番組は、次のようなものでした。ひろば「真田小僧」、たま「クイズ」、雀五郎「野崎詣り」、南天「くっしゃみ講釈」、全員「大喜利」。どうも、ここ数日、睡眠が不充分にしかとれない日々が続いており、それが、この間の落語会の最中の居眠りに繋がっているのですが、昨日も、家を出かける頃には、今日もダメかと思わせられる瞼の重さがあったのですが、昨日は、なぜか大丈夫でした。ホント、なぜかなのです。毎日、天満橋駅から会場まで歩いて行っているのですが、昨日は、高津神社であったため、距離的には半分ですから、疲労が小さかったからか、動楽亭の楽な座椅子ではなかったからかなど、いろいろとは考えてはみるのですが、結論は出ないまま。とにかく、昨日は、最初から最後まで、全てを楽しむことができました。ひろばは、この間のインターバルを利用して行ってきた富士登山の報告。75歳の女性を連れて行ってきたと言ってましたが、元気な方もおられるものと、感心させられました。ネタは、おなじみのもの。ひろばの「真田小僧」って、聴く度に、ちょっとだけ物足りなさを感じてしまうのですが、父親と伜の描き分けの不充分さかもしれないと、昨日は思いました。伜が大人びた言葉づかいをすると、父親と、あまり変わらなくなってしまうと書けば、書きすぎになりますが、そういった雰囲気になるのが、物足りなさの基のようです。たまの「クイズ」は、初遭遇のはずです。クイズ大会に出るために、大学生がクイズ王と呼ばれる男に教えを受けるところから始まり、結局、クイズ大会には、その2人がペアを組み出場。クイズ王の神がかりの解答ぶりが、勝利を生むというものです。おもしろさの山は、前半のクイズの定番を教えてもらうところと、後半の神がかり的解答。これも、なかなか小技が冴え、たまの財産の1つに入りそうな予感がする出来栄えです。雀五郎は、「季節外れですが、、」と断ってから、「野崎詣り」へ。この噺に出てくるアホも、結構アブナイ系のアホと言っていいと思いますが、雀五郎の描くアホは、うまくものが言えず、傍らの男に頼ってばかりの男ですが、ぎりぎりのところで、アブナイ領域には入らないで踏みとどまっているというのが、雀五郎の描き方。なかなか難しいことなのですが、立派な見識と看ました。その辺の描き方が、雀五郎の真骨頂と言えます。雀五郎の「野崎詣り」には、屋形船を設えた連中も出てきます。一挙に、お詣りする人たちの賑わいが拡がります。俯瞰したカメラで、参詣の人々を眺めている雰囲気を与えてくれます。雀五郎ベストと言ってもいいかもと思うグレートな出来でした。南天の「くっしゃみ」って、聴いたことあったっけと考え込んでしまいました。聴いていても、ずっと前のことです。昨日の口演のような演出ではなかったと思いますから、たとえ聴いていても初めてと変わらないと思いながら聴いておりました。こちらのアホは、かなりアブナイ系。前半の聴かせどころである「覗きからくり」に入るまでが、とっても濃厚。嫌というほど、そのキャラが埋め込まれてしまうという趣向。そう言えば、南天の「向う付け」も似た趣向でしたね。ただ、南天の良心は、このアホを、アブナイが、可愛いというか愛される人柄には描きますが、どう言ってもアブナさは気になるのは避けられませんでした。歯がゆさが残りました。久しぶりの高津落語研究会、間が空いた分、4人が4人とも、マックスに近いテンションを発揮。10回行われる今年の高津の中でも、最上の部類に属する日だったと思います。なお、「大喜利」の謎かけのお題は、「すいか」と「縁台将棋」でした。


2016年 8月 17日(水)午後 10時 32分

 今日も、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「生喬百席 第三十四夜」のあった日でした。うまく日にちが合わず、5ヶ月ほど無沙汰をしていたベーシックな会。今夜の番組は、次のようなものでした。生喬「書割盗人」、とんでん平「芝浜改」、(中入り)、生喬「尿瓶の花活」。生喬は、いつものように、長めのマクラで近況報告。話の中心は、お盆の3日間を使い、天蝶・和女・あやめが借りた店の話。生喬は、3日目の板長を引き受けたそうです。今日の生喬の2席は小ぶりのものが並びました。終演後、「大ネタが残っています」と言ってましたから、今日などは、大ネタと組み合わせるチャンスでしたのに、鳴り物の関係とか、季節とかを考えると、今日は持ってきにくかったのかもしれません。今日の2席は、ともに先代の歌之助からもらったという共通点があるそうです。「尿瓶の花活」は、それしかないと思っていましたが、「書割盗人」は、可能性はあると看てましたが、今日のプログラムで、その旨、確認できました。「書割盗人」は、大阪芸大ネタをマクラでふってからネタへ。また、絵画についての蘊蓄を差し込んだりと、自身の美術系出身ということを、最大限に活かしての口演となりました。生喬スペシャルです。ただ、この口演では、珍しく声を絞った口演、ちょっと聴き苦しく感じました。下げは、最後まで「つもり」で行くのではなく、盗人が逃げて行くので「鍵を描いておいてもろたら良かった」としてました。もう、先代歌之助の口演がどうだったかは覚えていませんから、生喬オリジナルか、歌之助から受け継いだものなのかは判定できないのが辛いところです。「尿瓶の花活」は、現歌之助が受け継いでいるくらいで、あとの噺家さんで持ちネタにしている人が、思いつかない珍品の1つ。先代歌之助は、よく高座にかけていたのですがね。単に、尿瓶というものを知らない侍が騙され、また、それがばれるだけの噺なのですが、ちょっとした色変わりになるネタなので、持っていると重宝するとは思うのですが。ましてや、侍の出てくる噺なので、ネタがつくのを避けるのにも、お役立ちのネタだと思うのですが。生喬は、こちらでは絞り出すような発声はしてなかったので、ゆったりと聴くことができました。とんでん平は、生喬が北海道で会を開くようになってから知り合うようになったとか。ちょうど、今、とんでん平が、全国ツアー中だということで、この会に出演。普段は、北海道在住ということですので、黄紺も、名前は知っていても遭遇は初めて。先代三平の最後のお弟子さんだそうです。マクラで、先代三平ばりの展開を見せたので、この人の高座も、師匠を受け継いだものなのかと思っていると、やおらネタに突入。それが、なんと、北海道の炭鉱に住む人たちの生活から、「宿屋の富(高津の富)」となり、更に「芝浜」になるという展開に、びっくりさせられました。


2016年 8月 16日(火)午後 10時 53分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「染吉っとんの会〜林家染吉落語勉強会」がありました。その番組は、次のようなものでした。染吉「牛ほめ」「遊山船」、雀太「千両みかん」、染吉「幽霊の辻」。今日も居眠りが出てしまいました。昨日までと同じ状態で、動楽亭に着くまでは異状なし、到着後、席に着くと、ふーっと疲労感を感じ出すというもの。そんな感じだったもので、今日は、開演前7〜8分ほどの間、座椅子に座り、ぐったりと身体を沈めていたのですが、染吉の前2席の半ばが跳んでいます。あとから上がった雀太が、「えらいあっさりした遊山船でした」と言っても、その意味が理解できないほど、跳ばしてしまってたようです。ただ、冒頭で、染吉の「オリンピック漫談」(雀太の言)は、しっかりと聴けていたのですが、わりかし長かったもので、そこで力尽きたのでしょう。鯛蔵の会でも言っていたように、染吉は、体操と柔道、バスケの経験があるようなので、その辺の話になると熱が入ります。オリンピックを観てない黄紺が、その関係の話を聴けるほとんど唯一の機会だったかもしれません。そんなわけで、ちょっとした感想を書けるのは、3席目の雀太の高座から。雀太の「千両みかん」は初めてですし、最近、なぜか雀太の高座と縁遠かったため、ありがたいゲスト枠での遭遇。そして、この「千両みかん」が、抜群に良かった。今まで聴いた「千両みかん」で、この口演ほど、先の展開を楽しみにして聴けたものってなかったと思います。番頭の緩急を混ぜた対応が、やたらとリアリティがあるのと、そのリアリズムに整合する細かないじりが的を得ていて、とってもおもしろいと感じました。大師匠の枝雀コピー的いじりも入れながらっていうのも、微笑ましくていいですね。染吉の「幽霊の辻」は、前回のこの会で、「上がった」と言っていましたから、ひょっとしたら、今日がネタ下ろしかもしれません。でなくても、ネタ下ろしに近いものと言えるものです。それにしても、「幽霊の辻」は、噺家さんの間では異常人気です。小佐田作品で、これほど持ちネタにする噺家さんの裾野が広まった作品はないかもしれません。怖いおもしろいという作品の典型ですが、染吉の口演では、不気味さからくる「怖さ」とか「陽の暮れていく暗さ」はありませんと言ってもいいような特徴があります。その原因は、茶店の婆さんのお喋りが、あまりにもにこやかで、しゃべり方に陰の要素を、全く見いだせないからだと思います。ま、その辺は、これから幾度となく、口演を繰り返していく内に備わってくるのでしょうね。それを期待することにしたいと思います。いつもなら、ゲストの高座のあとに中入りを入れていたのですが、雀太のたっぷりめの口演、長めの「オリンピック漫談」のため、今日は4席連続。ちょっといつもと違った「染吉っとんの会」でした。


2016年 8月 15日(月)午後 11時 17分

 今日は二部制にした日。元々、繁昌亭の昼席に行くことは決まっていたのですが、それに加えて、ぜひ観たい映画が出てきたため、夜が空いていた今日、映画も行くことにした日となりました。繁昌亭昼席は、文三が、初めてトリをとるということでのチョイス。繁昌亭も、ようやく大御所以外にもトリを取らせることを考えるようになったようで、先日はかい枝にもトリを取らせていましたから、今後は、番組編成に新味が加わっていくものと期待しています。9月には、たまに中トリを取らせるという番組も発表されてますからね。で、今日の昼席の番組は、次のようなものとなりました。文五郎「阿弥陀池」、竹丸「動物園」、団朝「秘伝書」、マグナム小林「バイオリン漫談」、遊喬「上燗屋」、呂鶴「青菜」、(中入り)、菊地まどか(沢村さくら)「浪曲:阿波の踊り子」、米左「七段目」、吉次「さよなら動物園」、文三「堪忍袋」。文五郎は初遭遇。落研出身者じゃないかなぁ。もっちゃり言葉が板に付きすぎているのが、ちょっと付いていけないというのが第一印象。トップで「阿弥陀池」は、時間が気になってしまったのですが、他の家を訪ねるのを1回にして、通常の1回目と2回目をミックスさせる作戦。それで、うまく時間内に収めていました。竹丸は、「鶴の恩返し」小咄の変形を、次から次へと繰り出し、掴みはばっちり。でも、ネタは「動物園」でがっかり。団朝は、繁昌亭では「秘伝書」しか当たってないんじゃないかな。マグナム小林は東京の芸人さん。その上、珍しい芸なので、ネタは同じでも、毎回、惹き付けられてしまいます。今日は、遊喬と呂鶴のところで居眠り。呂鶴は、今日だけということなので、今日を選んだのに、大失敗です。ただ、「お酒」のネタが2つ続きました。これには、びっくりです。ただ、今日は、「動物園」ネタも2つ出るという変な日でもありましたが。菊地まどかは久しぶりです。曲師は虹友美さんではなく、さくらさんでした。ディープな演芸ファン氏の解説では、虹友美さんは、「今、盆踊りシーズンだから、繁昌亭への出演は難しいだろう」と言われていました。黄紺も納得。おかげで、あまりない組み合わせを観ることができました。芝居噺が出てなかったもので、米左の「七段目」には必然性を感じました。ただ、この人、相変わらず言葉を引っ張るので、聴きずらくていけません。吉次は、聴いたことのない新作。ゴリラとチンパンジーの会話という形での進行が新鮮。一方、大きめの眼鏡は、口演のじゃまになっていると思ったのは、黄紺だけでしょうか。そして、狙いのトリをとる文三。トリの初日だったので、「堪忍袋」の可能性大とふんでいたら、どんびしゃ。前半の夫婦による罵り合いが白眉。さすが、初トリは、文三の気分を高揚させていたようで、ただでも響く高音に力が入り込んでいました。客席の反応も良く、初トリは、上々のスタートでした。
 繁昌亭を出ると、夜の映画までの時間調整が必要。多めに時間があったため、ミニウォーキングも入れての時間調整。ウォーキングをしたあとは、ネットカフェで身体を休めるのは、いつものこと。そして、テアトル梅田で上映されているフランス映画「奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ」を観てまいりました。先日のイタリア映画に次いで観る学校もの、教育ものの映画を観ることになりました。原題は「Les Heritiers」だそうですから、「継承者」ってところでしょうか、邦題にも、そういった趣旨の語句が入っているわけは、それで判明です。筋立ては、極めて解りやすいもの。学力的に低く、また、荒れた雰囲気で、多様な人種、民族を抱えたある高校のあるクラスが主人公。そのクラスの担任であり、且つ地理と歴史を担当する教師(女性)の提案で、第2次大戦中のナチスの犠牲になったユダヤ人&ロマの若者と子どもたちを調べることになった生徒たちが、その学習を通じて、個人として、集団として、成長する姿を追う、中でも、語り部として活動されている生存者の体験談を聴いてからの変貌が著しいのですが、そういった姿を追いかけた映画でした。学力で選別され、そのため、どうせ俺たちは、私たちはと、端から疑いもしない劣等感を持つ生徒たちが、自分で、ネットや本で調べだし、それが伝染していく姿がいいですね。何やしら心の中にさざ波がたつ、その瞬間が、自らを取り巻いている劣等感を払拭する瞬間でもあると言えます。そして、同時に、人間性を取り戻していく端緒なんでしょうね。人を労る気持ち、共感したり追体験をしようとしたり、協力する気持ちも、そういったところから芽生えていくという視点も、きっちりと押さえていた映画でした。それもそのはずです。事実に基づく物語であり、台本の執筆に、かつての生徒が関わっているからこそ、書くことができた素晴らしいプロットが入っています。日本の人権教育も、その辺りを目指していただろうし、今も、その伝統は、正に「継承」されていることと思いますから、この映画を観ていて、感心も得心もしましたが、全く、他所の国のお話しという感じがしない映画でした。もちろん、フランスほど多様な人種&民族はいないでしょうが、日本には日本ならではの課題がある訳ですから、類比的に捉えようとする姿勢さえ失わなければ、遠いフランスのお話しとは、とてもじゃないですが思えないですね。先日のイタリア映画も、そのような実感を持ったことを記憶しています。日本もヨーロッパも、学校、教育という地平では、わりと似通ったところにいるのだなというのが、この2本を観て思っているところです。


2016年 8月 14日(日)午後 9時 59分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。南湖さんの会から、ちょっと動楽亭づきになりそうな雰囲気になっています。今夜は、「鯛安吉日〜桂鯛蔵落語会 vol.23」がありました。評価の高い若手噺家鯛蔵の勉強会です。その番組は、次のようなものでした。染吉「兵庫船」、鯛蔵「ろくろ首」、喬介「借家怪談」、鯛蔵「壺算」。今日も、金曜日の南湖さんの会のときと同様、始まる前から不調を感じ出していました。動楽亭に到着するまでは、そないな感じはないにも拘わらず、開演を待っていると、ぐったりとしてきます。暑いなか歩くので、ネットカフェで身体を休めたつもりが、休めてないのでしょうね。南湖さんの会のときは、開演前に、既に、かなりぐったりとしていましたから、冒頭の2席で完全ダウン状態、今日は、開演前は、金曜日ほどではなかった分、時間が経つにつれ、辛くなっていくということで、喬介の半ば以後、及び「壺算」の買い物に出かけてからは沈没してしまっていました。根本的にはしっかりとした睡眠が取れていないことがあるのだと思いますが、これは、今さら言っても始まらないことなもので、こないな状態が、これからも続いていくのでしょうね。その中で、落語にせよ、音楽にせよ、何にせよ、楽しんでいくことになるのだと思うようにしています。そういった中で、まだ、マクラは聴けています。ネタに入ると、どうしても、リズム感が出てくる関係で、ダメになっていくのかもしれません。鯛蔵は、今日は、「ろくろ首」だけがネタ出し。「ろくろ首」は、ざこば一門では、修行時代に修得する定番ネタですから、それだけをネタ出しするということは、「お楽しみ」と記されていたものは、それ相応の大ネタのネタ下ろしを期待していたのですが、間に合わなかったとか。次回回しになってしまったようです。でも、鯛蔵の「ろくろ首」は、久しぶりに聴きましたが、いいですね。養子の話を聞いてのわくわく感を、身体を弾ませて聞いたりと、とっても気持ちの乗ったお喋りは素晴らしいものでした。「ろくろ首」のマクラでは、仲が良いと評判の同期の噺家さんとの旅行話をしてくれました。あとの3人からも、同じ話を聴きましたが、鯛蔵の話が一番長かった分、一番楽しめたかな。ゲスト枠は、2年先輩に当たる喬介。痴漢退治ネタをマクラでふってからというのは、「借家怪談」をするときの定番か。「退治」繋がりという意識なのかもしれません。「借家怪談」は、喬介自身の会で、比較的最近に聴いているはずです。前座役は、さほど年期の変わらないはずの染吉。この染吉の口演も、問答の途中から記憶が跳んでいますから、結局、フルで聴けた口演はなかったことになります。染吉は、柔道と体操をやっていたことがあると言ってたことくらいは覚えています。染吉は、それでオリンピック話を、ちょろっとしてくれましたが、オリンピックのニュースなんて、ぎりぎり結果だけしか入れない黄紺には、明後日の方角の話のように聴こえてしまいました。


2016年 8月 14日(日)午前 5時 52分

 昨日はカンボジア映画を観て、そのあとは、西九条に回り食事にお誘いをいただいた日。まず、シネリーヴル梅田で観た初めてのカンボジア映画は、「シアター・プノンペン」という映画でした。カンボジア映画ってのは初めて観るという経験だったので、台詞の持って行き方などに戸惑うということもあったのですが、映画の内容は、とても重たく、映画のテイストにも慣れていくにつれ、かなりの感動を覚えることになりました。主人公は、父親が軍人、母親が元女優という家庭に生まれた女子大学生。自由闊達な考え方の持ち主で、そういった考え方を否定する父親に反発するところなどは、監督(女性)の期待が込められたキャラと看ました。その主人公が、ある街の映画館に入ったとき、そこに母親の若い頃に出た映画のポスターを発見し、また、その映画館を守り、母親の出た映画のフィルム(最後の場面が欠ける)を守る1人の年配の男に出逢い、また、その映画についての話を聞いたことで、主人公は、大学で映画製作の講義をする教授らの協力を得て、その欠けた最後の場面の製作を試みていく中で、徐々に映画の出演者について、中でも気になる母親の隠された過去、父親との出逢いが明らかになっていくという仕掛けになっていきます。そこには、クメール・ルージュによる大虐殺が色濃く反映していることが明らかになってくるというわけです。映画を守っていた男の素性に関わる意外な展開、父親の素性も明らかになってくるにつれ、どんどんと重たくなっていきます。この映画のテーマは「赦し」と看ました。それにより、家族が家族になっていく姿を、我々は、この映画に看たと思います。国民の1/4が亡くなったという大虐殺のあとを生きる人たち、「赦し」がなければ成り立たないとすら思わせられました。それを導き出した1人の自由闊達な女性に希望を託する映画だったと思います。知識人は反革命とされたため、映画人は、その知識人とされ、その大虐殺の犠牲になったようです。また、それまで300本以上は製作されていた映画も、現存しているのは、30本ほどだそうです。クレジットで、そういった映画人の画像が現れていきます。そういった映画人に対する追悼の意味も込められた映画でもあり、とっても心に響くものでした。クレジットが終わったところで、一つ深呼吸の要る映画でしたが、これはお薦めできる逸品です。まだ観ぬカンボジア映画の大阪での公開初日ということもあり、とっても多くの人たちが詰めかけていました。


2016年 8月 12日(金)午後 10時 44分

 今日は講談を聴く日。ちょっとご無沙汰の「南湖の会〜太閤記と力士伝」に行ってまいりました。場所は動楽亭。この会は、日にちさえ合えば行くようにしているものの、この3ヶ月ほどは、全然行けてなかったもの。現在、南湖さんが、定期的に開いている講談会はこれだけですので、できるだけ外したくない会なのですが、現実は、なかなか難しいのです。で、今日は、「太閤記 初陣」「?」「夫婦相撲」「無筆の出世」が読まれました。これに加えて、動楽亭の楽屋番を務めているりょうばさんに、この間、出番を出されているようで、今日は、「無筆の出世」の前に「胴斬り」が入りました。「?」と書いたのは、おなじみのネタだったはずなのですが、終わってから思い出せないのです。実は、最初の2席が、えらく疲労を感じてしまっていて、動楽亭に入る前までは、そないなことはなかったのですが、座椅子に座ると、おかしかったですね、そんなで座椅子に吸い込まれるようにダウンしていたこともあり、思い出せないのだと思います。「夫婦相撲」からは快復、あとは普通に聴くことでき、ちょっと安心でした。「夫婦相撲」という題名すら見た記憶がなかったのですが、話の流れから、南鱗さんが「お坊主稲川」という題名で出されているのと同じものだと判りました。但し、黄紺的には初遭遇のネタです。「稲川」という名は、主役の大坂相撲の大関の引退後の名前です。その大関が引退間際に、江戸の大関不知火に、妻の父親が行司であるために得た情報を基に、あしとりという手で不知火を破る話です。ちょっと姑息な内容だからでしょうね、あまり出ないわけが判りました。「無筆の出世」は、あらゆる無筆ネタの中で、最もえげつないもの。自分を試し斬りにして良いと認めた書状を持たされ、試し斬りを所望する侍のもとに送られる中元、幸い、その書状を川に落とし、乾かしていると、一人の出家が、その書状に気がつき内容を知ることになります。ここからが、この男の逆襲の人生です。文字で出世をしていくというもの。よくできた話です。りょうばは、この会のおかげで、初めて前座ネタを越えるネタを聴くことができました。こういったまことに落語的なネタが、天性の明るさにぴったりですね。


2016年 8月 12日(金)午前 4時 22分

 昨日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。昨夜は、「無伴奏」と題して、武澤秀平さんのヴィオラ・ダ・ガンバの演奏を聴くことができました。前回、武澤さんのコンサートが開かれたときは、運悪く、日程が合わず断念しただけに、期待のコンサートでした。そのプログラムは、次のようなものでした。「ヒューム:生、死」「シンプソン:グラウンド」「マシ:組曲 ニ長調」「サン・コロンブ:シャコンヌ」「シェンク:ソナタ 第5番」「テレマン:ファンタジー」。テレマン以外は、辛うじてヒュームを聴いたことがあるかもしれないと思うほど、知らない作曲家が並びました。ヴィオラ・ダ・ガンバでは知られた作曲家のようだと、オーナー氏は言われていましたが、まぁ、ヴィオラ・ダ・ガンバのソロの演奏会なんて、聴きたくても聴けるものではありませんから、そうは遭遇する名前ではないはずです。そのように考えてみると、通奏低音として起用されたヴィオラ・ダ・ガンバは聴いたことはあっても、そのソロの演奏を生で聴くのは、記憶を辿っても思い浮かばないものですから、初めての経験だと思います。形はチェロよりは小ぶりなうえに、弦が6本もありますから、高音を出すことが可能な楽器です。そして、弓の持ち方がチェロの場合とは逆ですから、ボーイングの仕方も、弦との接点も異なってきます。それが、おもしろい音を生んでいきます。チェロと、はっきり違うところですね。中でも、ふーっと音を抜くような感じで弓を緩めると、おもしろい音の変化が出ます。ヴィオラ・ダ・ガンバの奥深さ、優雅さと言ってもいいかもしれないものがあります。そないな音の変化を聴いていると、貴族の館の典雅な晩餐会などを想像してしまってました。プログラムは、作曲年代順に並んでいるというお話を、予めオーナー氏が話されていたのですが、曲が進むにつれて、繊細な音の変化を楽しむことを忌避するような何かを感じることができたのですが、それについては、もうちょっと情報が要るのだろうということはわかったようでした。


2016年 8月 11日(木)午前 7時 54分

 昨日は二部制の日。昼間に繁昌亭昼席に行き、夜は、イタリア映画を観ようというもの。繁昌亭は、行きだすと続くというジンクス通り、一昨日に続いてとなりました。但し、昨日は昼席。この1週間は、「夏休み親子ウィーク」と称して、いつもとは、若干異なった番組が組まれるということでのチョイスです。去年、同じ企画のときに行き、それがクセになっちゃいました。その番組は、次のようなものでした。文華「落語解説」、雀五郎「手水廻し」、染雀「平林」、あずみ「三味線漫談」、喬若「へっつい盗人」、鶴二「御神酒徳利」、(中入り)、三四郎「お葬式(仮題)」、春蝶「山内一豊とその妻」、歌之助「道具屋」、鶴笑「パペット落語:西遊記」。冒頭に文華が出てきての「落語解説」は、今年初めての試み。昨日は、子どもさんが22人来場だったそうで、去年に比べて、こういった企画も実が上がってるなの印象。「落語解説」のようなものが入ると、来年につながるかもしれませんね。雀五郎や染雀のネタ選びは、このウィークを意識したもの。おかげで、普段は聴けそうもない染雀の「平林」なんてのを聴くことができました。あずみは、京都出身ですが、東京からの来演。たい平独演会を、にぎわい座に聴きに行ったときに、一度聴いたことのあった方です。三味線はいまいちですが、いい声をしています。喬若と鶴二の口演が、子どもたちには解りにくかったかな。喬若の場合は、「へっつい」、更に言い替えた「かまど」すら解らないでしょうから、盗みに出かけるときのやりとりは難しいでしょうね。そして、このネタは、喬若の口につきすぎていて、聞き取れないほどの早口があり、黄紺も困ったほどでしたから、子どもさんは、大変だったでしょう。鶴二の場合は、「御神酒徳利」自体が解らないうえに、いきなり徳利が、水壺に沈むところからだったから、大変だったでしょう。冒頭にそれですからね。噺の刈り込みも著しく、失せ物現れるという部分を取り出してまとめたものになっていました。三四郎は、東京に行って、もう6年になるそうです。隣のお兄ちゃん的口調はそのまま。お葬式で、場をわきまえない子どもの振舞いを描いてくれました。春蝶は、南海さんからもりった講釈ネタを、自分の口調で喋るというものでしたが、テキストは、かなり南海さんのものを踏襲したもの。冒頭の千代の危難を描く場面や馬が喋るという演出は、南海テイストそのままといった風情でした。歌之助のネタ選びは、雀五郎や染雀のそれと同じ。時間の関係か、笛までは行かないで終わることになりました。そして、トリは、「親子ウィーク」恒例の鶴笑。年輩の方たちの中からも、明らかに鶴笑狙いで来られていた方たちもお見受けするほどの歓迎ぶりが見られました。前半で、6代目の話をしすぎたからでしょうね、紙切りは見本を1つ切っただけで終わったのが残念。似顔絵を見たかったのですが。そして、いよいよパペット、何度観ても楽しい「西遊記」。悟空が登場となるとき、客席からのボルテージが上がるのを聴くだけで嬉しい高座。鶴笑、なんと35分の高座。完全にお盆の風物詩化しています。
 繁昌亭を出ると、心斎橋まで歩いて移動。ウォーキングを兼ねてのものでした。そして、心斎橋のネットカフェで、時間調整をしてからシネマート心斎橋に移動。先日もお世話になった「映画で旅するイタリア2016」に行ってまいりました。昨日の映画は「ローマの教室で〜我らの佳き日々〜」でした。移民問題を含んだ映画ということで覗いてみたくなったのでしたが、中味は、教育とは、教師とは、なんてことを描いたもので、味付けこそ違えど、根本的には、日本とも共通する課題を描いた真っ正直な映画と看ました。映画としては、ローマの高校に勤務する異なるタイプの3人の教師と、生徒たちとの交流を描いたものと、簡単にまとめることができることはできます。3人の個性的な教師に、それぞれ、主として1人ずつの生徒が関わっていきます。そして、その周りにいるあるクラスの生徒たちと言えばいいでしょうか。校長(女)は、母親に捨てられ、しかも体調を崩し、誰も保護する者がいない生徒の面倒を見ていきます。まるで、母親と息子といった疑似関係のようなものが芽生えていく過程を追いかけているようです。国語の補助教員の男は、人一倍、生徒の興味関心を引き出すことに懸命になる人物。不登校の続く女子生徒が学校に来れるように努めます。しかし、その生徒が言うことが信じられるものか、懐疑的になっていきます。その辺の真実が気になるところです。もう一人は、かなりの年配で美術史を教えている。かなりの勉強家なことは間違いないのだけれど、生徒は解るわけはないと決めてかかり、やるきのなさばかりが目につきます。その男に、かつての教え子から連絡が入ります。ここに、卒業生との交流が語られていくことになります。生徒との交流は、校内に留めておくべきと主張する校長も、母親替わりかのように、生徒が入院する病院に通っていきます。ぎりぎりの境界線のようなものを越えるのですが、暴走はしません。これが、この映画の特徴であるとともに、この映画にリアリティを持たせ、心に残る何かをもたらしてくれます。国語の補助教員の男は、エモーシャルな揺れを見せるかのようで冷静です。美術史の教師は、かつての教え子に出逢うことで、教師であることを、初めて自覚したのじゃないかな。この男、自分は学問を修めたことを自慢し、生徒なんてのはと小バカにする雰囲気がありました。でも、彼の修めた学問は、人を惹き付けるに足るホンマものの持つ重みがあったことが判ります。終盤、芸術が人間にもたらす価値を授業で話します。この内容が、実に素晴らしい。かつての教え子も、そっと教室に入ってきて授業を聴きます。生徒たちの穏やかな顔つきが、なんとも素敵でした。この3人の生徒とは別に、ルーマニア人移民の子どもで、勉強のできる男子生徒がいます。彼の行動が、別枠で描かれています。優等生であるとともに、その裏の危うさも併せて持つ男で、父親が説く移民の子どもがイタリア社会で生き抜くための勉強という言い方に耐え難い、が、それに反発する力量もなく、女友だちとの危うさのある関係を持っています。その2人が、1つの事件を起こすことで、父親の想定外の愛情の深さ、息子やその女の友だちに向ける奥の深い見守りに触れます。映画では、それ以後を語られていません。黄紺的想像では、この息子、この危うさが、あのあと消えていき、父親との会話が生まれていくのではないかと思えました。国語の補助教員は、留年した、いやさせた女子生徒がアルバイトをしているところに、偶然遭遇するのですが、そのときの彼女の顔からは、かつての厳しい顔つきは消えていました。その彼女から父親を紹介された教師は、不登校を続けていた当時の彼女の姿を、初めて知ることになります。この補助教員の男も、それで成長したように感じさせられました。こうして、振り払ってみると、あまりにも正攻法の学校映画です。劇場化された形で映画化されたものではない直球の教育を考える映画です。それぞれの関係で、気持ちの通い合いを感じさせられるものです。まさか、こないな映画を、イタリア映画で観ることになるとは、映画館に行く前には想像もしていませんでした。役者も、イタリアを代表する方々が、顔を揃えられているようで、骨太の素敵な作品と言えます。「モスクでピッツァ」と並び、黄紺的お薦め作品です。


2016年 8月 9日(火)午後 11時 17分

 今日は、久しぶりに繁昌亭で落語を聴く日。今夜は、「佐ん吉夏まつり2016」がありました。期待の若手佐ん吉の独演会です。その番組は、次のようなものでした。米輝「道具屋」、鯛蔵「うちがえ盗人」、佐ん吉「猫のさいころ」、(中入り)、佐ん吉・鯛蔵・米輝「音曲漫才」、佐ん吉「二階借り」。この落語会に対する黄紺的狙いは、佐ん吉の口演もさることながら、3人の音曲漫才がいかなるものかと観ることにありました。昨年、3人が主宰する落語会で披露したのは知ってはいたのですが、見逃しているということで、見届けておきたいということだったのです。「音曲」と銘打っているということは、楽器を持っていなければなりません。米輝がアコーディオンを持つだろうということは予想通りだったのですが、あと一人、佐ん吉が笛を持っていました。そして、何も持たない鯛蔵が、メーンの喋りをするというもの。彼女をドライブに誘った鯛蔵を、音楽で盛り上げようというネタ、様になっていたので、今後の新ネタが楽しみになりました。落語の方は、米輝と鯛蔵は、定番のネタでお付き合い。開口一番で出た米輝が、どうしたのでしょう、マクラでしどろもどろになり、慌ててネタに入るなんて、ご愛嬌がありました。主役佐ん吉は、中入り前に大ネタを持ってきました。「猫のさいころ」というネタを、佐ん吉が出しているのを、何度も目にはしていたのですが、実際の遭遇は初めて。なんてことはない、東京の「猫定」の移植でした。「猫定」は、さん喬の口演で聴いたことがありますが、陰気な、重たい噺という印象を得ていたのですが、佐ん吉の場合は、そういった雰囲気は払拭されていました。ただ、猫を可愛がる男が惨殺をされても、また、猫が復讐に動いても、その払拭されたままの雰囲気には、さすがに抵抗を感じてしまいました。やはり、惨殺の場面辺りから、噺の空気を変えてもらわないと、とっても薄っぺらい噺になってしまうのじゃないかな。そもそも、「さいころ」なんて、平仮名表記をするような手合いの噺じゃないように思うのですが。「二階借り」は、ネタ出しなしでしたので、今日、プログラムを見て、初めて知ったのですが、このネタを手がける噺家さんが増えているなか、それが、佐ん吉にまで伝染したのかと、愕然としました。あなたは、そないな噺に手を着けないで、まずは、正攻法の噺をやらなきゃ誰がすると思うほど、噺のできる超有望な噺家さんなんだからと言いたいのです。3席出すなら、3席目に出す噺です。それとも、ネタとして持ってはいても、もっと歳を重ねてから高座にかけるようにして欲しいですね。6時半に開演、終演が8時25分では、ちょっともの足りなさを感じてしまった落語会でした。


2016年 8月 8日(月)午後 10時 36分

 今日は浪曲三昧の日。午後は「一心寺門前浪曲寄席8月席」に、夜は、沢村さくらさんのプロデュースで、「曲師の会」に行ってまいりました。まず、定例の一心寺の番組を記しておきます。春野ココ(藤初雪)「間違い婚礼」、真山隼人(沢村さくら・内田薫)「新撰組沖田総司哀史」、京山小圓嬢(沢村さくら)「壺阪霊験記」、京山幸枝若(岡本貞子・京山幸光)「千人坊主」。ココさん、小圓嬢師、幸枝若師のネタは、聴いたことがあると思ったことがいけなかったのか、暑すぎる外からクーラーの効いた会場に入って、ホッとしたのがいけなかったのか、単純に寝不足だったのがいけなかったのかは、よく判らないのですが、完全崩壊の時間となりました。隼人くんが、冒頭に、「ネタ下ろしです」「東家浦太郎師からお許しをいただきました」と言ったのを聴いて、これは、居眠りをしている場合ではないとは思ったのですが、ダメでした。しかも、隼人くんが、歌謡浪曲じゃない普通の浪曲をしたにも拘わらず、これですから、もうどうしようもありません。
 一心寺南会所を出ると、おなじみの千日前のネットカフェに移動。原則として、本日の移動は、ウォーキングのつもりで、歩いてのもの。ですから、着替えを2枚入れてのお出かけとなりました。従って、夜の会場となる百年長屋までも歩いてということになりました。今夜、こちらで、沢村さくらさんが続けられている「曲師の会」がありました。もちろん、盟友五月一秀さんの助演は言うまでもありません。一心寺の会に、一秀さんが来られるのに合わせて、この会を持たれたと言った方が適切でしょう。今日の番組は、前半は、素人の方たちに舞台に上がってもらい、さくらさんの三味線で、実際の浪曲の一節をうなるというもの。最初、この企画を聞いたとき、正直、外したかと思ったのですが、それは、聴きたくもない下手な浪曲を聴かねばならないというのは耐えられないなと思ったからなのですが、進行につれて、浪曲について知らなかった基本事項を学べて、大正解という結果を生みました。 浪曲って、浪曲師さんによって、三味線との音の調整、要するにキーが高いか低いかを細かく判定し、その判定に基づいて、三味線の調子を変えるということをされていたのです。黄紺は、三味線のポジションを変えることで対応されているものと思っていたのですが、とんでもない誤った把握をしていたものです。プロの指導を受けている素人さんは、自分の調子を知っていますから、それを三味線方に伝えれば、すぐに合わせることができるのですが、そうではない人には、自分が高く出せる音を出してもらい、それを聴いて、さくらさんや一秀さんが、三味線の調子を判定されていました。一番楽に出せる音ではないのが、このときのポイントらしく、そうでないと、どれほどの声域を持っているかに見誤りが生まれるようで、その実例も見ることができました。後半は、一秀さんのネタ下ろしと予告されていたのですが、それが、なかなか凝ったネタ下ろしで、この会では恒例となっていた過去の名人上手の節真似を、一曲全部で、しかも三味線までもが真似をしようという試みでした。真似されたのは浪花家辰造と、その二丁三味線の一人だった浪花家りつ子で、ネタは「稲川、東へ下る」でした。黄紺的には、真似されても、真似される名人上手を知らないものですから、聴いていてもばつが悪いのですが、さくらさんの手の中に、幾つか、普段聴いたことのないものが入っていた気がしました。節の方は、黄紺には解らないですね、残念ですが。「稲川」は、存在は知っていたのですが、遭遇は初めてとなるネタです。大坂相撲の稲川が、江戸の土俵に上がるのですが、勝ちすぎて、逆に人気がないというところで、ある夜、酔っ払いに絡まれ、その酔っ払いを振り払ったときに、近くにいた乞食に傷を負わせてしまうのですが、その二人に対する対応が、稲川の心優しい姿を表すものだっただけに、陰から一部始終を見ていた男が贔屓にしていくというもの。谷風の逸話にしてもそうですが、「気は優しくて力持ち」に、日本人は心惹かれるようですね。


2016年 8月 8日(月)午前 4時 3分

 昨日はびわ湖ホール三昧の日。午前中は、「沼尻竜典オペラセレクション 歌劇『ドン・パスクワーレ』プレトーク・マチネ」に、午後は、びわ湖ホール声楽アンサンブルのオペラ公演と、オペラ三昧の日でもありました。プレトークのお話しは、井上建夫さん(びわ湖ホール総括アドバイザー)の司会のもと、沼尻竜典さん(びわ湖ホール芸術監督)と岡田暁生さん(京都大学教授)という、このホールのプレイベントではおなじみの顔ぶれが揃いました。更に、オペラのアリアなどは、同ホール声楽アンサンブルの坂口裕子さん、(ノリーナ役・ソプラノ)、二塚直紀さん(エルネスト役・テノール)、迎肇聡さん(マラテスタ役・バリトン)が歌っていただけました。なお、ピアノは岡本佐紀子さんでした。演奏されたのは、当然、「ドン・パスクワーレ」より、@アリア"その眼差しに彼の騎士は"、〜"その眼差しに魔力を"、A二重唱"私何でもするわよ"、〜"急いで仕事に取り掛かりましょう"、Bセレナータ"4月の宵はなんと甘美なことだろう"、C二重唱"戻ってきて私を愛してるといってください" 、Dフィナーレ"この物語の教訓を見つけることは簡単よ"でした。この「ドン・パスクワーレ」の公演は10月のもの。そのプレトークを、ちょうど午後にあるオペラ公演の前に持ってきて、両公演の集客を上げようとの企画。お話しの中で出てきたものをピックアップをして、幾つかメモっておくことにします。一連のびわ湖ホールのオペラ公演では、ベルカント・オペラを取り上げるのは初めてということで、日本で、実はドイツでもそうなんですが、その取り上げ方の少ないわけが話されました。技術的な問題が話されていたかと思います。18世紀には全盛を迎えていた喜劇、ブッフォ系のオペラを、このように呼ばれていましたが、その喜劇の最後を飾るのが、ドニゼッティの作品だという位置づけ、それ以後は、ヴェルディ作品のような悲劇作品の時代に入っていくとのお話し。オペレッタは、庶民の楽しみのもので、上演される場所も違うなどと、今ではたぶんごく一部の都市にしか当てはまらないことを、相変わらず物知り顔で、岡田さんは話しておられ、黄紺は失笑するしかありませんでした。沼尻さんのドイツ人奏者のピットの中での様子が可笑しかったな。ドイツ人特有の弾き方っていうのがあるのですね。それが、ドニゼッティのような作品を演奏するときには邪魔になるので、指示を与えねばならないのだけれども、オケのメンバーが、ローテーション・システムを採っているため、なかなか定着しない話などは傑作。後半のええとこどりコンサートは、とっても贅沢なものでした。なかでも、ノリーナ役をされた坂口さんは、先日、日生劇場で、この役を歌われたところということで、とってもいいノリをされていました。この公演は、藤原歌劇団との提携公演ということで、既に藤原歌劇団側の公演が終わっているということだったのです。たっぷり2時間余、朝が苦手になっているなか、頑張って行ったかいのある素敵な時間でした。
 プレトークが終わると、午後のオペラ公演までの1時間余の時間、昼食を摂れば、もうオペラ公演の開場間近でした。そして、午後は、上演機会の少ないマスネのオペラ「ドン・キショット」でした。言い換えると「ドン・キホーテ」。フランス・オペラの上演と言えば、「カルメン」以外は、まあないという現状で、マスネの、しかも「ドン・キショット」とはということで、オペラ好きの高校時代の友人も、福井から駆け付けました。そないな人もいるからでしょうか、大盛況の入りにびっくり。びわ湖ホールが、長年培われてきた成果が、このような形で表れてきたのかと思うと、ちょっと感無量。だって、「ドン・キショット」で、こないに入るなんて、ホントに信じられないことですから。この公演は、びわ湖ホールのレジデンツの声楽アンサンブルのメンバーの方々が、ソリストとして役に着かれるというもの。同アンサンブルは、在籍年数が決まっていますから、その時おりのメンバーが舞台に立たれますから、公演により、出来栄えに浮沈があるのは致し方ないものという前提で、このオペラ公演には行ってますが、今回の公演は、間違いなく上の部類。タイトルロール(松森 治)と、そのお付きのサンチョ・パンザ(五島真澄)は、ともにバス、バリトンが受け持つお役なわけですから、ここに自信があればこその公演でしょうし、その期待に応えた公演だったと思います。それに、マスネお得意の女性ヒロインとなるドゥルシネ(鈴木望)も、お姫さま役に重きがいったかなとは思いますが、この公演の水準を維持ということでしたので、歌手陣は、従来の公演を上回るもの。それに加えてというか、そうした歌手陣を、更に引き上げたのが、菅尾友の目を見張る演出。まるでドイツでオペラを観ているかのようなプロダクションでした。時と場所を跳ばすという手法は、ドイツでは日常茶飯事、そりゃ、その方が、物語に普遍性が出てきますから、おいしいことは間違いないのですが、日本では、まだ、それに慣れてないと考えられているのか、なかなか遭遇することはできないのですが、このプロダクションでは、それをやってくれました。そのためか、開演前に、菅尾さんと振付師の方が登場され、公演についての前説をされていました。ま、それが、悲しいかな、日本の、いや関西の現実ですね。前説の中で、菅尾さんは、振付の依頼も、「スペイン風のものじゃないものをお願いした」と言われていましたし、装置に関しても、「夢を追いかけるドン・キショットに相応しいファンタジーを製作するスタジオにしました」と言われていた通り、装置は、4組の鉄骨に音響装置が設えられたもの。その鉄骨を、場面により動かすことでの場面転換、ということで、観る者のイマジネーションに委ねられたものだったのですが、黄紺は成功だったと思います。それを可能にしたのは、ホントに上手に計画された照明の技だったと思います。あないな見事な照明って、そんなに遭遇することはできないかもしれないと思うほどのもの。中でも、最後の場面に用意された光のカーテンには感服。ドン・キショットの昇天が、とっても神秘性を帯びていました。そのドン・キショットの死の場面も、なかなか考えさせるもの。サンチョ・パンザに抱き抱えられていたドン・キショットが、鎧から抜け出してさ迷います。もう抜け出した時点で、死を見たと言ってもいいのかという風情。じゃ、なんの死なんだろうと考えさせられてしまいました。また、サンチョ・パンザの目を通して看ていたドン・キショットが亡くなったともとれました。夢を追いかけ、時としては困ったちゃんであったドン・キショットの死であり、彼の夢は死なずという見方ともとれるなと、黄紺には思えました。そういった考え事を残すプロダクションって、黄紺は大好きですね。オペラを観た余韻が残るからなのですが、そういった黄紺的楽しみ方のど真ん中を射るようなプロダクションでもあったなと思うと、ますます余韻が残っていきます。オペラの醍醐味ってやつです。そう考えると、余計に優れものに出逢えた悦びを感じます。終演後、友人と、膳所の街で会食。お腹いっぱいで、帰途に着くことになりました。


2016年 8月 7日(日)午前 5時 23分

 昨日は、イタリア映画を観る日。昼間に、所用があって息子と会ってから、心斎橋へ。今、シネマート心斎橋で「映画で旅するイタリア2016」というものが行われており、毎日、イタリア映画が上映されているのです。昨日は、その中から「モスクでピッツァ!?」という映画を観ることにしました。原題は「棗椰子付きピッツァ」ということらしいです。棗椰子で、中東方向を指すことで、イスラームを表し、ピッツァは、もちろんイタリアを表すわけですから、要するにイタリアのイスラームというのが、この映画のテーマなのです。今、ヨーロッパの社会問題の1つ、移民問題を、このような切り口で、しかもコメディで迫った映画なのです。映画は、モスクを追い出されたヴェネチアのイスラム教コミュニティーの人たちが狼狽えるところから始まります。そして、モスクのあった場所は、派手な美容室に変わります。但し、美容室を経営し、また、その美容室に集う人たちは、イスラームの女性たち。イスラーム・コミュニティーの中の女性たちの反乱とも看ることのできる事件が冒頭に持って来られていますから、モスクを失った人たちが、モスクを求めて奔走する物語かと思うと、確かに、それはそれで、物語の進行の1つの要素ではあるのですが、本筋は他のところにあることが、じわりと見えてきます。冒頭の騒動のあと、行き場のなくなった男たちは、アフガニスタンからやって来たイマーム(イタリア語でもイマーム、日本語字幕では導師)を迎えます。単にイタリア語が解るというだけで選ばれたため、とっても若い男です。この映画のポイントは、この男が若いということだと、黄紺は思いました。そして、山から取れ取れという感じがするピュアさを持っています。これは、両刃の剣で、コーランに書かれた言葉通りのことを言い出す困ったちゃんであると同時に、様々なものごとを、素直に吸収する能力を、最大限に発揮できる、余計なしがらみのような躊躇させる材料を持たないなど、若さの特権と言えるものを持っているという良さがあります。しかも、この映画では、この男は、ぶれない、イスラームの神を尊重し続けるという大事な柱というぶれないものを持たせているという特徴があります。この映画の、とっても素敵なところだと看ました。そういった男の成長を描くのが、この映画のポイントだと思いました。西洋の文化を目にすることすら恐れ、目隠しをして現れた男が、西洋の文化を見つめ、自分なりの吸収を試みます、イスラーム・コミュニティー内部のごちゃごちゃに和解を導きます、モスクを追い出し美容室にした女に、心の平安をもたらします。そして、コミュニティーの中のクルド人の男が、「俺たちには帰る国もない」言ったのを聴いて、自分の居場所をアフガニスタンに見出だします。そして、去って行きます。まるで、マレビトとして、預言者が通りすぎたかのようでした。一陣の風が、ヴェネチアのイスラーム・コミュニティーを吹き抜けたような爽やかさを感じました。その男に対峙するようにヴェネチア生まれのイスラーム改宗者が、そのコミュニティーの中にいます。この映画の登場人物の中で、滑稽さを一人占めしている男です。コミュニティーの他のイスラームの人たちの穏やかな信仰に対し、結局は、信仰は一つの方便としてでしかないという描き方をしています。最後は、女のことで自爆テロを試みて失敗してしまい、裁判では、ヒンドゥーの神々を讃える言葉を吐いていました。クルド人監督のファリボルツ・カムカリの作品です。実は、イタリア語映画を、クルド人の監督が撮るという特異さにも惹かれて、観に行ったというわけでした。かなりお薦めできる作品です。ただ、上映機会が少ないのが惜しまれます。上映後、この企画を推進された団体の方のトークショーがありました。イタリアにおけるイスラーム・コミュニティーのお話しを聴けるのではとの期待から居残ったのですが、残念ながら、このイタリア映画週間についてだけお話しになりました。イタリア映画推進を図られている方たちの団体ということでしたから、やむを得ません。イタリアってところ、存外、ドネルジなんかが多くて、イスラーム・コミュニティーなんてのがある予感を持っていたので、その辺のお話しを聴きたかったのですが、仕方ありませんでした。


2016年 8月 6日(土)午前 7時 3分

 昨日は文楽三昧の一日。まず、「親子劇場」と銘打たれた第1部から。 その番組は、次のようなものでした。「五条橋(ごじょうばし)」「解説 ぶんらくってなあに」「新編西遊記GO WEST!(しんぺんさいゆうき ごーうぇすと)〜玉うさぎの涙〜」。今回の目玉の1つ「新編西遊記」は、脚本を壌晴彦に委嘱した新作。それに加えて、監修を桐竹勘十郎、作曲を鶴澤清介、美術を大田創が担当するという布陣で上演されたものでした。ですから、今までの「親子劇場」で上演されていた「西遊記」とは違った趣向のものでしたし、他のところでも聴いたことのない、また観たことのない物語でした。月の神に仕えていたウサギが悪さをして、地上の王女に化けて悪戯をするというもの。それが本線なのですが、それを彩るおもしろいプロットも盛り込まれていました。猪八戒っていうのは、月からやって来たときにブタに身を借りてしまったとか、「天婚」なんて風習が、実際にあったかどうかは知る由もないのですが、一種の高貴な女性の婿選びの方法が出て来たりしてました。また、この物語が、天竺に近いところ、即ち、中国ではなくインドでの出来事ということで、文楽という枠では、インドの衣装はないということで、中国の衣装を使っていましたが、装置に工夫が看られ、大きな象をモチーフにした装置が使われていたのが、今までの文楽にはないもので、とっても目を惹いていました。この新作は良かったのですが、「解説」のトーンダウンには唖然としました。小学生3人を舞台に上げて、人形の操作をさせるだけ。人形についてのあらたまった解説なし、ましてや浄瑠璃には、全く触れられないというひどいものでした。「文楽鑑賞教室」と同レベルの解説をしていたのが、ここに来て、なんて手抜きをしてくれたのでしょう。びっくりでした。
 第1部が終わると、軽〜く食事とアイスで時間待ち。そして、引き続き「名作劇場」と銘打たれた第2部です。その番組は、次のようなものでした。 「薫樹累物語(めいぼくかさねものがたり)〜豆腐屋の段/埴生村の段/土橋の段〜」「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)〜古市油屋の段/奥庭十人斬りの段〜」。「伊勢音頭」の方は、夏になると頻繁に出るのに対し、「塁物語」は珍しい。それだけではなく、「土橋の段」のインパクトは、かなりグレードの高いものでしたので、なぜ、これが出ないのか、黄紺の頭は混乱してしまいました。これは、忠義な男の物語と言えばいいでしょう。但し、この男は、忠義なあまり、主君のためならずと、主君が入れ込む女(名前がなんと高尾)を殺してしまいます。そして、殺してしまったあと、身を隠そうとした場所が、なんと殺した女の実家。この辺が、あまりにも芝居くさいのですが、そこから起こる悲劇が描かれるのですが、こないな設定なら、悲劇が起こらない方が変です。殺された女の兄は、殺した相手と判っても、忠義のためということを理解して(これも凄い!)、仇討ちを待ってくれますが、もっとびっくりなのは、妹(名前が塁)は、かつてこの男に助けられたことがあるということで、結婚すると言い出して、兄も認めます。泥沼のように深入りする凄い設定なのですが、考えてみれば、こういったありえないことが、相次いで起こるということ自体が、高尾の呪いとも考えることができます。そして、いよいよ、高尾の呪いが具体化していくというわけです。哀れなのが、塁という女。この女は、男に、ホントに惚れたのでしょう。でも、それが、高尾の呪いにはまっていき、狂気の嫉妬、それが、男の忠義に障るようになると、惨殺されてしまいます。男を玉男さん、塁を和生さん、太夫さんは呂勢太夫さん。咲太夫さん不調のなか、この呂勢太夫さんと千歳太夫さん(見事な復調ぶりです)の頑張りが目立ちました。ですから、「土橋の段」のど迫力は、長く記憶に残るものかと思います。一方の「伊勢音頭」も忠義もの。忠義な祢宜福岡貢、この人、忠義なうえに、女にもうるさい。古市の遊女お紺をなじみにしている。お紺も、貢に惚れ、貢の探す刀の折紙(鑑定書なんでしょう)を手に入れるために、身を差し出す覚悟ときているので、かなり濃密な関係。この男女関係と刀&折紙の行方を巡って、遊郭油屋で起こる悲劇へと突っ走っていきます。貢の持つ青江下坂の刀、それを狙い、折紙を持つ一味&加担をする者たちとの駆け引きが、この遊郭で繰り広げられ、ついに貢が、多くの人たちを斬り殺していくという展開になります。落語の「大丸屋騒動」ではありませんが、人が、どんどんと死んでいきます。それも、何かに取り憑かれたように斬り、血が流れていきます。ひょっとしてと思い、調べてみると、「大丸屋騒動」って、この「伊勢音頭恋寝刃」のパロディらしいですね。但し、それぞれ、ネタになる事件は違うようですが。この斬る場面のテイストが、あまりに似ているので、ひょっとしてと思って調べてみたら、大当たりでした。「伊勢音頭恋寝刃」の続きの段では、貢の切腹という場面が用意されているようです。そらそうです、多くの人を斬ったうえ、貢自身は、折紙を手に入れたが、青江下坂の刀は取り違えられたままと思い込んでますからね。そして、今回のような上演はええとこどりなわけですから、テキストをいじり簡略化してあるようですね、解りやすいように。そないなことも、ちょっと調べてみると判ってきました。ま、機会があれば、全体像を掴めるような上演に遭遇してみたいものです。


2016年 8月 5日(金)午前 1時 48分

 今日は文楽を観る日。今日は、第3部 の「サマーレイトショー」だけを観て、残りの第1部と第2部は、明日観ることにしています。今日の第3部は、井上ひさし作 、野澤松之輔作曲の「金壺親父恋達引(かなつぼおやじこいのたてひき)」でしたが、これは、モリエール「守銭奴」を翻案したもの。初めて観る機会を得ました。この作品は、ラジオとテレビのために製作されたことはあるそうですが、舞台での上演は初めてだそうです。「守銭奴」は、昔、読んではいるのですが、筋立ては、すっかり忘れてしまってましたので、ネットで調べてみると、モリエールの創ったものを、上手になぞるものになっていることが判りました。強欲な金壺親父が、金だけではなく、女にまで手を拡げようかということから生まれるドタバタ騒ぎ。モリエールものであるなら、新たに成り上がってきたブルジョアジーの品性、感性、道徳観などが、話題となってくるのでしょうが、江戸時代の江戸に移植してしまうと、ドタバタ劇にしかならないですね。ま、それだけを楽しむことを求めるということで、それで十分なのでしょう。そのドタバタが、一瞬にして終息します。デウスではないのですが、機械仕掛けの神の役割をする男が用意されています。これも原作通り。それにより、意外な人間関係が明らかになり、終息へと向かうのですが、この終わり方って、文楽で、よく執られるものとの突っ込みを入れてしまいました。ですから、文楽への翻案ができるのでしょうね。テキストは、口語に文語が混じったっていうところで、字幕なしだったのですが、ほぼ内容は掌握できていました。人形遣いの方々は、エース級勢揃いしました。太夫さんは、呂太夫襲名間近の英太夫さんらでした。


2016年 8月 3日(水)午後 11時 21分

 今日は二部制の日。午後に、文楽劇場であった「公演記録鑑賞会」に、夜は、高津神社での落語会に行ってまいりました。まず、「公演記録鑑賞会」ですが、今日は歌舞伎で、「梅雨小袖昔八丈〜髪結新三〜」より「(序幕)白子屋見世先の場・永代橋川端の場(2幕目)富吉町新三内の場・家主長兵衛内の場・元の新三内の場(大喜利)深川閻魔堂の場」の上映がありました。落語にもなっている「髪結新三」の歌舞伎版です。円朝作品などを聴いていると、およそ現代の感性では考えられないことが起こり、身の危険が迫る噺などがありますが、この物語も、そういったカテゴリーに入るものと看ました。家督を守るために、意に添わぬ結婚話に乗らされるという話は、よくあるものですし、また、それから逃げ出そうということで、惚れた男と駆け落ちを企てるという話も、よくある物語。だけど、この髪結新三って悪党は、駆け落ちを助ける顔をして、女を誘拐し、あわよくば、その女を我が物とすることを企図したり、それが、うまくいかずとも、金を手に入れることを、当たり前のように進めていきます。また、その女の取り戻しには、土地の顔役、大家が出てきて、大家などは、露骨にパワハラで金まで手に入れてしまいます。なんか、この世界の出来事を追いかけるのが、観ていて、やるせなくて。文楽の鉄面皮のような展開もさることながら、歌舞伎や落語の世界に現れる前近代の救いようのない感性に、ちょっと胸が悪くなるのを感じると同時に、時を跳ばすことにより知ることができる異文化体験の興味を掻き立てる作品でした。1971年の公演の記録で、黄紺も知る名優と言われた役者が並びました。中でも、新三の2代目松緑、源七の17代目羽左衛門、家主長兵衛の3代目長十郎、お熊の菊之助(現菊五郎)が、強く印象に残りました。
 文楽劇場を出ると、千日前のネットカフェで時間調整。そして、夜は、高津神社であった「高津おもいっきり落語研究会〜8月全10日間興行」に行ってまいりました。これで、3年目になるはずです。毎月行われている「高津落語研究会」のスペシャル版の季節が、今年もやってきました。メンバー4人全員のスケジュールの空いている日に、落語会をするというもの。8月は、なかなか仕事がないというのを逆手に取った企画、好事家のハートを掴み、黄紺のように、時間さえ合えば足を運ぶマニア的ファンを作り出している会です。今日は、今年の2回目に当たります。その番組は、次のようなものでした。雀五郎「牛ほめ」、南天「蘭法医者」、 ひろば「天災」、たま「学校の怪談」、全員「大喜利」。今年は、会場の補修があるとかで、最も集客力を発揮するお盆の時期に開催できないとかで、目標の、1日平均65名、1日最高90名を、目標値にしているそうですが、そういった事情で厳しいかもという予想で、発進しているというのは、南天の言。今日も、昨年とは、ちょっと雰囲気が違うなという印象で、毎回大騒ぎをしていた女子の集団が、ごっそりと抜けていたりと、目で見ても、簡単に判る変わり様。たま理論の、落語ファン周期説が実証されることになるのか、その辺りも気になる落語会です。この2年間は、ネタが、一つもかぶらないということを、結果として実現していましたが、年も変わり、その呪縛から解放されたような番組となりました。「牛ほめ」は、きっちりと型通りにと言っていい進行。相変わらす、雀五郎はいいテンポ。昨日は、トリで「三十石」を出したとか。行けなかったので、仕方がないにせよ、ちょっと残念。南天は、マクラで、医者の話をし出したので、ネタ下ろしをするらしい「ちしゃ医者」の先取りかとイロメキたったのですが、宗助曰く「卑怯なネタ」の「蘭法医者」でした。その宗助が後に出た動楽亭昼席で聴いて以来となりました。蛙、蛇、雉が憑くという以外は、ほぼ新作の雰囲気のネタになってます。ひろばは、またまた「天災」で来ちゃいました。まさかの「天災」を、「提法寺寄席」で遭遇したとき同様、完全に引いてしまうと、居眠りに入ってしまいました。たまは、今年のスペシャルでは、10の新作を出すと、ツイッターに書いていたので、未遭遇ネタを聴けるのかと楽しみにしていたところ、1回聴いただけで、内容を忘れている「学校の怪談」に当たり、ラッキー。マザコンの教師が出てきますが、「崇禅寺馬場」のたま風改作が、このパターン。こちらは、マザコンの盗人が出てくるというもの。マザコン教師が勤めようとする学校に、幽霊が出るというものなのですが、幽霊の出にBGMを挿入するのですが、仁智の「ハードラック」の死刑執行場面同様のナンセンスな繰り返しが使われます。いろんなプロットを組み合わせることから、創作に入ってるのかなと思わせられた作品でした。


2016年 8月 2日(火)午後 9時 57分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「E.W.コルンゴルト― 弦楽六重奏 ―」と題した演奏会がありました。もちろん、演奏機会のとっても少ない「E.W.コルンゴルト:弦楽六重奏曲 ニ長調 作品10」が演奏されたのですが、その演奏者6人の方は、次の方々でした。(ヴァイオリン)白井圭、西尾恵子、(ヴィオラ)須藤三千代、金本洋子、(チェロ)北口大輔、城甲実子。当初の予定では、京響のコンサートマスターの泉原隆志さんがヴァイオリンを担当される予定だったのですが、体調不良ということで、ちょうど帰国されていた白井圭さんに替わって、このコンサートが行われました。コルンゴルドの弦楽六重奏なんて曲、このコンサートがあるまで、知りもしませんでした。カフェモンタージュのおかげで、コルンゴルドのヴァイオリン・ソナタやピアノ・トリオに接することができ、ならば、この六重奏もと、ちょっと気負いがあったのですが、いざ、予習にとYouTubeで聴いてみると、外れとしか言いようがないなという結論。ですから、今日は、珍品に遭遇できることに価値を見いだす気分で、カフェモンタージュに向かったのですが、退屈は退屈な曲で、わりかし半寝で聴いてしまったところもあるのですが、予習段階に比べると、まだ聴けるぞの印象を持つことができました。原因は、演奏が良かったからでしょうね。6本の楽器のバランスを、緻密に計算し、ポイントとなる楽器に、常に注意が行っていたため、さほど山あり谷ありとも思えない曲に、いいアクセントを付けてくれたからだと思いました。個別的には、北口さんのチェロ、須藤さんのヴィオラに、関心がいったってところでした。


2016年 8月 2日(火)午前 7時 18分

 昨日は音楽を聴く日。京都市北文化会館であった「Musica14.8 concert 2016」のコンサート「モーツァルティアンへのコラージュ」に行ってまいりました。このグループは、世界の名だたるオケで活躍されている主として女性演奏家、それに加えて、地元の関西のオケなどで活躍されている演奏家が合流して、年に1度集まり開かれているコンサートです。男性演奏家は、奥さんが、このアンサンブルのメンバーらしいということが、何となく判りました。そのプログラムは、次のようなものでした。「ルーセル シンフォニエッタ Op.52」「アンゲラー ベルヒテスガーデン・ムジーク(おもちゃの交響曲)」「シュニトケ モーツァルト・ア・ラ・ハイドン (独奏:木村悦子 、高坂絵里)」「チャイコフスキー 弦楽セレナーデ ハ長調 Op.48 」。モーツァルトが切り口なのですが、ルーセルとチャイコフスキーが、なぜ、それに該当するかが、よく判らないままだったのですが、「おもちゃの交響曲」は、一時は、レオポルドの作品とされていたどころか、ヴォルフガングの作品とされたこともあるので、こちらは納得。この曲は、ヴィオラ・パートがないため、おもちゃ担当に回られていました。シュニトケの作品は、 レーゲンスブルクのニューイヤー・コンサートで、阪さんが取り上げたという思い出のある作品。なんか、シュニトケの作品と聞いただけで、引いてしまうか、無視してしまう人もいるようですが、この曲は、ニューイヤー・コンサートで取り上げられるほどの冗談音楽の範疇に入るのでしょうね。モーツァルトどころか、ハイドン・パロディにもなっている代物、それを、シュニトケのテイストでやっちゃうものですから、黄紺的にはそそられる作品。レーゲンスブルクでは、フル・オーケストラの弦楽パートで演奏したものですから、音楽ではないところでの変化というのは、オケのメンバーが消えていく(ハイドンの「告別」のパロディ)のと、指揮者の阪さんが、指揮台を降りかけたりしたくらいしか、記憶に残ってないのですが、昨日の演奏では、指揮者を置かないものですから、指揮者の不思議な動きは見ることはできなかったのですが、メンバーの方の舞台への登場も、終盤とは逆で、個別に、時間差で、演奏しながら現れ、全員揃ったところで、舞台照明も付けられるという演出が行われました。また、途中に、パート替えと言ったらいいのでしょうか、少なくとも、ヴァイオリン・パートは増えたのではないかな。このアンサンブルは、人数が少ないものですから、席替えのような感じの動きがあったので、そうじゃないかなと思うのです。シュニトケ特有と言っていいのか、その判断もつかないのですが、同じようなリズムを、厚めに弾き続ける野性味たっぷりの音楽は、この曲においても健在でした。「おもちゃの交響曲」を間に挟んで、ルーセルとシュニトケというプログラミングは、なかなかユニークなもの。正味30分余りの演奏時間でしたが、黄紺的には、かなり気に入ったプログラミングでした。後半は、弦楽合奏の定番曲、チャイコフスキーが演奏されました。この曲も含め、総体的に軽やかな演奏を求められていたようで、チャイコフスキーなどに、重厚で、情熱的な音を求められていた場合には、ちょっと乗りが悪かったかもしれないなと思い、聴いておりました。会場には、年1回の里帰り公演、また、京響関係の演奏者が出ておられた関係か、関係者の方が大勢詰めかけられていたのか、大変な賑わい。京都市北文化会館って、初めて行きましたが、ホールの規模としては、こういった室内オケなどが演奏するのに、まことにもっていい規模のもの。もっと、こういった演奏会があれば、なんて考えながら、会場をあとにしました。


2016年 7月 31日(日)午後 10時 38分

 今日は、昼間に韓国映画を観て、夜は、イスタンブル・コナックで、大学時代の友人と会食をする日。昼間の映画は、「猟奇的な彼女」「イルマーレ」「デイジー」らのチョン・ジヒョンが出ている「暗殺」。更に、舞台が、1933年 日本統治下の朝鮮と、日本で公開される韓国映画では、稀な設定というのが気に入り、観に行ってまいりました。場所はシネマート心斎橋。役者では、「イルマーレ」で、チョン・ジヒョンと共演したイ・ジョンジェ(「黒水仙」「タイフーン」なども)や「プラハの恋人」「マドレーヌ」などのハ・ジョンウも出ているという豪華もの。物語は、一本の柱として、独立軍の指令で、朝鮮総督府要人とその朝鮮人協力者の暗殺に向かう3人のスナイパー(隊長がチョン・ジヒョン)、その正否が、一つの焦点なのですが、一つ目の捻りとして、指令を与える側に裏切り者(イ・ジョンジェ)がいて、朝鮮総督府などに通じ、指令を受けた3人の命が狙われるとして展開。更に、もう一捻りがあります。スナイパーの一人チョン・ジヒョンが、狙われている要人の婚約者の双子の妹という設定。この二つ目の設定は、物語が、かなり進んだところに出てくる隠し玉的プロット。そういった本筋を、もう一つの絡め手が用意されています。ハ・ジョンウ演じる殺し屋です。秘密狙撃兵崩れから殺し屋へ移った男と言えばいいでしょうか。総督府の将校という顔をしながら、殺し屋稼業をする男ながら、チョン・ジヒョンをサポートする側に回っていきます。その辺が、この男の中で、どのように合理化がているのかは、語られていないのが、この映画の弱点かもしれません。1933年の上海租界、京城の街の風景が、巧みに再現されていて、それだけでも、観る楽しみのある映画です。チョン・ジヒョンのシリアスな役柄も、いいものです。またぞろ、ファン度が上昇です。


2016年 7月 30日(土)午後 7時 27分

 今日はコンサートに行く日。京都コンサートホールであった「京都市交響楽団第603回定期演奏会」に行ってまいりました。マーラーの大曲が出るということでのチョイス。そのプログラムは、次のようなものでした。「シューベルト:交響曲第7(8)番ロ短調『未完成』D.759」「マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調」。指揮はユージン・ツィガーンという、まだ30歳台のアメリカ人の指揮者。京響が、隔月で月2回の定演をするようになってから、初めて定演に行ってまいりました。今月は、その2回公演の月だったのですが、満席ではなかったのですが、噂通りの入り。夏とは言え、短パンで来られている人もおり、入りがいいということは、こないなことも意味するのかと思いながら、1階の一番後ろの席に。開演20分前からプレトーク、今や、どのオケの定演に行っても、定番になっている風景。外国人指揮者も、例外なく、こうしたトークにおつきあいされてるのかな。今日は、楽曲の解説を、丁寧にしていただけました。「未完成」は、生で聴いたのは、いつ以来でしょうか。「未完成」を目当てに、コンサートに行くことはありませんから、今日のようなヘビーなプログラムが組まれたときにだけ遭遇できます。お目当てではないため、まどろみながら聴いていたのですが、えらく真面目な演奏、意外性がなく、退屈なと言い換えることができるかもしれません。その雰囲気のまま、マーラーにも入っていったってところでしょうか。引きずるようなリズムが、黄紺的には歓迎できないなと思い聴いていたので、ちょっと外れ感が、正直高まってきていました。でも、救いがありました。トランペットのソロに味わいってなものを感じたのと、3楽章冒頭の、ホルン・ソロのロング・トーンが、何ともおおらか。今日の目っけものは、もう、この2つがあるからいいやと思っていると、3楽章から、楽曲の雰囲気全体にエネルギーを感じるようになってきました。16本も揃えたならば、もっとパワーが、第1ヴァイオリンに備わって欲しいとは思いましたが、内部からのほとばしりらしきものを感じ出し、ようやく、俯瞰的に聴いていた自分が下りてきたというところかな。マーラーの5番は、黄紺にとっては、落語で「天神山」を聴いたときに匹敵する思い出深き曲です。その思い出は、時間が経つにつれ美化され、立ち寄りがたいイメージが形作られてしまってますから、そうは容易く、5番に納得することはないのが解っていながら、いつも5番を聴いています。少なくとも、若かりし頃の思い出に浸るきっかけを与えてもらえるから、今日のように、マーラーが出ると、中でも、5番に吸い寄せられてしまうのでしょう。自分的には、そう言った意味で、いいひとときを持つことができたと思っいます。


2016年 7月 29日(金)午後 11時 26分

 今日も落語を聴く日。今日は、1年ぶりとなる「第127回 玉造 猫間川寄席」に行ってまいりました。毎月、玉造 さんくすホールで行われている会で、文我のブッキングで行われている会です。避けているわけではないのですが、バッティングが続いたのでしょうね。今日は、東京から林家正雀師が来演、そう言えば、前回、この会に行ったのも、正雀が出演していましたから、丸々1年のご無沙汰となっていたことを確認しました。その番組は、次のようなものでした。呂好「長短」、文我「焼物取り」、正雀「男の花道」、正雀&文我「東西対談」、(中入り)、文我「ほうじの茶」。1年ぶりに行くと、木戸銭が値上がりしていました。時の流れを感じます。前座役は呂好、ネタが短いということで、長めのマクラ。初舞台の失敗談でした。「長短」は、鶴志からもらったものとか、あまり呂好向きのネタという感じがしないのですが、そういったネタを手がけることで、芸域が拡がっていくのかもしれません。次の文我の珍品、存在さえ切らなかったのですが、ここで、完璧に居眠り。昨夜は眠れなかったもので、どこかで出ると思っていたのですが、幸い、ここだけ。今日は、それで、良しとしましょう。そして、狙いの「男の花道」。去年のこの会で、文我がリクエストしたのですが、あとの対談で明らかになったところでは、正雀は覚えていて、文我は忘れていたとか。黄紺は覚えていましたよ。「男の花道」は釈ネタ。講談では、何度か聴いているのですが、落語では初めて。3代目歌右衛門と、医師半井某の交流を描くもの。講談からきれいに落語風脚色が成功していて、聴きごたえのある噺、正雀の口演に出逢うことができました。歌右衛門が、半井のもとに馳せ参じることを、芝居見物に来た客に伝えるところを、芝居掛かりにして、きれいな山が作られていました。東京の落語には、珍しく、ハメものが入り、芝居掛かりを強化、成功の要因だと思います。ただ、この噺、講談を聴くときも思うのですが、前半の冷静な半井某に対して、後半の動揺が大きく、キャラの統一に疑問を感じることが多いのですが、今日は、特にキャラの不統一を感じてしまいました。文我のもう一つの「ほうじの茶」も珍品、最近、繁昌亭で、笑丸が演芸落語と称して出しているものの原型というところでしょう。芸なしと言われた幇間が、茶を焙じることで、芸のできる者を呼び出すという魔法のランプの如き噺。趣向で「芸」を見せるというお遊び的要素が入ります。文我は、踊り、太棹三味線を弾きながらの浄瑠璃、ヴァイオリンの3種類の「芸」を見せてくれました。正雀と文我の「対談」がおもしろかったですね。正雀の師匠彦六、文我の師匠枝雀にとどまらず、円生と彦六の微妙な関係、その間に立ったときの若き正雀、彦六による枝雀のもてなし、先代円蔵の小言、脱いだ羽織の始末の仕方などなど、実に興味の尽きない話題に溢れていました。


2016年 7月 28日(木)午後 10時 57分

 今日も落語を聴く日。今日は、久しぶりに太融寺での落語会。かつての落語会のメッカであった太融寺も、今は、集客力のある噺家さんでないと、会を開けなくなったようですね。今夜は、「梅田太融寺 南天の会」がありました。やはり、人気の南天だからこそ、太融寺で会を開くことができるのでしょう。その番組は、次のようなものでした。米輝「ちはやふる」、南天「江戸荒物」、吉の丞「稲荷俥」、南天「だんじり狸」。今日は、ダメな日でした。やたらと眠たく、まともに聴けたのは、冒頭の米輝だけ。主役の南天、ゲスト枠の吉の丞の口演は、ずっと半寝状態でした。タイ疲れは、もう取れているはずですし、落語会に来る前にするミニウォーキングも、さほど堪えてなく、1時間ほど、体を休めてからだったのですが、心地好いクーラーに負けてしまいました。ですので、記憶に残っていることだけメモっておくことにします。米輝の「ちはやふる」は、初遭遇なのですが、これが、なかなか楽しませてくれるもの。細かなカット、変化を入れたオリジナリティが高いというのも、買い材料。やっぱ、米輝は大物と再認識です。カットの中でも、さっさと、ネタの本筋に入り、本筋のバカバカしさがクリアになる間合いなんかで、勝負する姿勢が、なお嬉しく感じました。「江戸荒物」で、南天は、ネタ解題的なことを、少しマクラで喋ってくれました。通常のテキストでは、冒頭、おかしな江戸弁を喋りながら、男が入って来るところからスタートします。所謂掴みとなるものなわけですが、南天に言わせると、そこで、3つのくすぐりが入っているが、現在では、受けたためしがない。冒頭の3すべりは大きく、15分のネタの中で取り戻せない、そこで、南天は、そこをカット。普通に入って来て、相談にのってもらうというノリで展開するというもの。ここで、まともな江戸弁を習い、実践に入るわけですが、そのあとがぼやけてしまっています。吉の丞は上がるなり、「今の江戸荒物を米朝師匠が聴いたら怒りますよ」「そやけどおもしろかった」と言いましたから、荒物屋の接客の場面も、かなりいじったのでしょうね。吉の丞の「稲荷俥」は、修業明けすぐの頃に聴いて以来になるはずです。ですから、米朝直伝の「稲荷俥」です。吉の丞の口演では、前座噺以外で初めて聴いたネタで、これを聴いて、吉の丞の大物ぶり、本格派という印象を持った記念となるネタだけに、半寝とは情けなさ過ぎてです。今日は、事前に、ネタが判っていなかったのが「だんじり狸」のみだったのですが、ま、天神祭直後のことですから、とっても自然。小佐田作品ですが、南天の口演でしか聴いたことのないネタです。南天用に書かれたものかどうかも知りません。だんじり囃子が入るということで、初めて聴いたときは、南天は、米左を喚んで口演したという記憶があります。2度目に聴いたのは、懐かしい「らくご道」でのこと。だんじり囃子は、盟友生喬が打ちました。今日は、誰が打ったのでしょうか。お手伝いが、結構来ていたので判らないのですが、出番で言えば米輝なのでしょうが、いまいち上手くなかったもので、米輝ではない可能性があるなと、こないなことだけ、記憶に残っています。でも、噺の方はさっぱりなもので、この辺で止めておきます。


2016年 7月 27日(水)午後 11時 18分

 今日は落語を聴く日。常盤漢方薬局ビルであった「第42回客寄席熊猫」に行ってまいりました。桂雀喜が、自作の落語を発表、再演する落語会です。その番組は、次のようなものでした。雀喜「髪の毛の記憶」、以西正明「日本史講師の戯れ言」、雀喜「長柄橋」。雀喜&以西正明「対談」。雀喜は、今、なぜだか髪を伸ばしています。前に見たときに、既に伸びていましたが、後ろで括っていたのですが、1つ目のネタが、その髪の毛をモチーフにしたものだったため、括らないで出てきました。私落語のような新作で、これだけ伸ばした髪の毛で、床屋に行ったらという設定の噺になっていました。床屋の親父が、噺家の髪の毛を切っていると知ると、落語ネタでからんでくるというもの。なかなかおもしろい仕上がり具合。以西正明さんというのは、幻の雀喜の兄弟子、元又三郎さん。修業時代に廃業したあと、大学に進学。現在は、予備校の売れっ子講師として活躍されている方。そもそも、この会を後押しをした方で、以前は、毎回、この会に来て、木戸を担当されていたのですが、最近、顔を見ないなと思っていたら、今日、出番が組まれたということもあり、楽しみにしていたのは、黄紺だけではなかったようで、ディープな落語ファンが詰めかけ、この会としては、上々の入りの要因になっていました。前にも、一度出番が組まれたときは、「日本史の虚と実」のようなお話をされたということを記憶しているのですが、今日は、「通史」の内から「人類の誕生」の講義を聴かせていただけました。予備校での講義の実際を話されたということで、さすが、落語を仕事にされようかという方、弁が立ちます。話のツボの押さえ方が違います。その以西さんの作品が「長柄橋」。もちろん聴いたことはあるのですが、あまり印象に残ってなかったのですが、今日、聴いて、長閑で、バカバカしく、ほのぼのともしており、今になって気に入ってしまいました。この噺でお開きのはずだったところ、「せっかくだから」と、幻の兄弟子を、雀喜が高座に呼び込みました。一昨日の天神祭の話、お二人とも、船に乗られていたそうですが、そのときの話、以西さんが廃業されてからの経歴、中学時代の同級生米左も出てくる、落語の好きな中学生の話など、なかなか貴重なお話を伺うことができました。中でも、落語好きの中学生の話は、おかしくもあり、懐かしくもありで、聴いていて、ちょっと胸が熱くなりました。いい話を聴けて、感謝です。


2016年 7月 27日(水)午前 7時 56分

 昨日の朝、7時15分着のベトナム航空機で、バンコクから帰って来ました。そして、一旦、家に帰り、早速オペラに向かいました。昨日は、兵庫県立芸文センターで行われている佐渡オペラのチケットを買ってあった日だったのです。藤木大地が歌う日のチケットを取るため、最初は、この日曜日のチケットを押さえようとしたのですが、うまくいかず、帰国するという日になってしまったのでした。今回は、とってもレアーな作品が取り上げられました。ポピュラーな作品ばかりが並んできていたのですが、今年が、シェークスピア・イヤーだからでしょうね、ブリテンの「真夏の夜の夢」でした。シェークスピア作品なら、「マクベス」も「ファルスタッフ」「オテロ」もあるだろうにと思ってしまうのですが、どうもヴェルディには、佐渡裕は関心がないようですので、こないなチョイスになったのでしょう。事前学習をしようと、ロバート・カーセンの優れたプロダクションがDVDになっていますので、かなり以前から観ていたのですが、最初は、なかなかなじめない音楽だったのが、慣れというものは、よくしたもので、昨日などは、うまく作ってあるうえ、パロディめいた音楽などにも目が行くようになり、ブリテンの音楽を楽しむようになってきていました。妖精の世界と人間界という2つの異なった世界がクロスオーバーしながら、妖精たちの、ちょっとした思いつき、お遊び、悪戯が、人間界を混乱に陥れていきます。そのドタバタぶり、妖精たちの不思議な力、それらを、見事に表現してしまっていると思えるようになってきました。妖精たちの不思議な力を表すかのように、オベロン(藤木大地)はカウンターテノール、その妻ティターニア(森谷真理)は、コロラトゥーラ・ソプラノ、古典的な歌唱が求められています。パックは台詞だけの役、このプロダクションでは、若い役者(男:塩谷南)さんが演じていました。他の妖精たちは、子どものコーラス、歌唱もいいし、かなりの動きを求められる難役。こうした妖精界の歌手は日本語で歌います。そして、人間界の歌手たちは、原作通り、英語の歌詞を歌うというもの。それらで、異なった世界を表そうとするのが、このプロダクション(アントニー・マクドナルド演出)の大きな特徴。ですから、人間界の主要な役柄となる4人の恋人たちと、田舎芝居を演じることになる職人たちは、全て外国人歌手が、英語で歌っていました。装置の最大の特徴は、回転舞台を採用した点。芸文センターの舞台には、回転舞台が設えてありませんから、舞台上に、わざわざと器具を設置したようです。回転舞台は、3面に仕切られていました。森の中、ティーニアスの眠る大きなベッドが設えられているスペース、職人たちが打合せをする家、この3ヶ所に分かれてはいるのですが、職人たちの家は1回だけ使われるだけですので、なんかもったいない感じがしてしまいました。最後の職人の芝居が行われるのは、ティーニアスのベッドを取り去り、上から舞台の枠が下りてくるというもの。演出上では、進行上の変化というものは、終盤までは見かけるということもなく進行。ただ、ハーミア役のクレア・プレスランドが足を捻挫しており、場面によっては車椅子で登場(ジョイス・ディドナートみたい)するという場面があり、演出の変更があるなんてことがありました。コミカルな動きを求められる職人たちを演じる外国人歌手の動きが良く、何ら不満を感じるということはなく進行。大きな変化技はラスト。芝居が終わると、全てのセットが取り払われます。その中を、悠然と引き上げるオベロンら妖精ご一行様、そして、パックだけが残り、最後の口上となります。正に、夏至の夜の「夢」だったこと、ちょっとした妖精の仕掛けた座興ってなところでしょう。この場面が用意されていて、ちょっと締まったって印象ですね。佐渡裕の指揮は、もう少し陰影を濃くして欲しかったな。特に妖精たちの音楽。でも、霧に包まれた幻想的な雰囲気なんてのをイメージしていたのかな、それだったらそれも、一つの見識と言わねばならないですね。今回の公演のおかげで、おもしろいオペラの存在を教えてもらえました。まだまだ、オペラの世界は深いものがありますね。来年は、かなり予想が的中し、「フィガロ」です。しかも、「コジ・ファン・トゥッテ」で好演出を見せてくれたデヴィッド・ニースのプロダクションです。1年先の楽しみができてしまいました。
 オペラが終わると、西北で、そそくさと夕飯。ちょっと急ぎ足で、梅田経由で谷六に移動。今日は、薬業年金会館で、「第228回旭堂南海の何回続く会?〜増補難波戦記18」のあった日だったのです。タイからの帰国日に、ここまでやるかという貪欲な動き。幸い、雨模様で、気温が低めなのが、黄紺に味方しました。今日は、「真田大助東下り〜難波戦記後日談より〜」と副題が付いておりました。ただ、オペラの時間は、辛うじて持ちこたえていた黄紺の体力も、ほぼ臨界点に達しておりました。予想されたこととは言え、かなり睡魔に負けてしまいました。「難波戦記後日談」というのは、大坂方の「難波戦記」の最大の特徴です。秀頼ご一行様は、薩摩に落ち延びるとなるわけです。軍師真田幸村&大助親子、後藤又兵衛らとともにとなっているわけなのですが、通常は、荒唐無稽ということで、落ち延びたあとの物語が読まれるということはないのですが、それにチャレンジしたのが、この会。南海さんしかできない、しない試みです。読み物の中には、薩摩に落ち延びたあと、あっさりと秀頼が亡くなってしまうものもあるそうですが、それは、あまりにもくだらないということで、その後の画策というか、徳川方の薩摩の島津藩に対する圧力が読まれていたのは、しっかりと記憶にあるのですが、大助がかんでいたのか、その当たりになると、さっぱりなもので、やっぱ行っただけになってしまったようです。まだ、緊張が続いているためか、疲労感は、あまり感じないのですが、睡魔が、サイクルをもって押し寄せる1日でした。


2016年 7月 15日(金)午後 10時 24分

 今日は、昔の同僚と、年に1回、集う日。7月のこの時期に行っているので、「七夕の会」と称しています。普段、なくしてしまった外の世界に触れることができました。そして、明日からタイに行ってきます。下調べが不十分なままの、見切り出発です。


2016年 7月 14日(木)午後 10時 42分

 今日も、動楽亭で落語を聴く日。今日は、「第3回 鶴笑・三金の古典落語会」がありました。普段は、普通の落語をしない鶴笑が、まともに古典落語を演じるということで行ってみたかった会だったのですが、うまく日取りが合わず、ようやく第3回目にして、おじゃますることができました。どうやら仕掛け人はこちらの方だと思われる三金との二人会で行われました。鶴笑と三金は、アフガン訪問を行った盟友関係にあるということで、この二人のタッグは実現が可能になったのだろうと、黄紺は考えています。その番組は、次のようなものでした。鶴笑&三金「挨拶」、りょうば「子ほめ」、鶴笑「動物園」、三金「千両みかん」、(中入り)、三金「お菊の皿」、鶴笑「夏の医者」。冒頭の「挨拶」で、ここまでの2回の様子が垣間見えました。鶴笑は、古典落語をするのだが、何か飛び道具を使うということがあったようです。ですから、「挨拶」の中で、三金からダメ出しをされていたのですが、やはり、鶴笑って男はすごい人です。「動物園」の方は、テキストのいじりや鶴笑的くすぐり、工夫が入っただけだったのですが、「夏の医者」では、なんとパペットや被り物はダメと、三金に念押しされたのが仕込みだったかもしれませんが、今日は座布団を使い、うわばみの腹の中にいる様子を表したり、座布団を二つ折りにして、うわばみの喋るところを表していました。こんなのを見ていると、ホント、古典落語の新たな可能性を感じます。「10回は続ける」と、鶴笑自身も言ってましたが、10回も続くようでしたら、鶴笑の新たな財産になるかもしれないなんて考えたりします。一方の三金は、夏のネタを2つ。「千両みかん」は、全くのネタ下ろしということのようで、米二に稽古をつけてもらったというから、本格的ですが、こういった噺をするのには、ちょっと三金の声質や語り口が陽ですね。ちょうど、「お菊の皿」のマクラで、昔からある「陰陽」のマクラを使ったのを聞いて、その表現がフィットすることに気がつきました。「お菊の皿」は、「皿屋敷」の変型版ですから、幽霊の噺でありながら、怖いおもしろい噺なんで、陽の語り口が必要だと思います。序盤のおやっさんの話も、今日の三金の口演を聴いて、ここのところって、半ばの道行の怖い怖いではしゃぐ陽の声、終盤のお菊が出てくるのだけど、怖い怖い、だけど楽しみたいという陽の声、これの裏っ返しと考えると、陽の声だと、ちょっと芝居がかってくるから、それはそれでおもしろいなと思うようになりました。もちろん、三金の語り口が素晴らしく、そういったことを教えてくれたのだと思います。「お菊の皿」は、最近、三金は、いろんな落語会で出しているということもあり、かなり練られた語り口になってるなの印象でしたから、余計に、そのようなことを感じることができたのだと思います。特に道行が良かったなぁ。で、なぜ、「皿屋敷」でないのかが、お菊の登場で明らかになりました。お菊は、通常の別嬪キャラではなく、三金得意のデブキャラだったのです。冒頭の「挨拶」で、何度も、「くれぐれも春団治師匠の皿屋敷は忘れて下さい」と言ってたわけ、「皿屋敷」とは言いにくいわけが判りました。しかし、この三金のやり方も、古典の持つ新たな道筋かもしれません。あやめが、「立ち切り」のアンサー落語を創ったり、たまが、「はてなの茶碗」「立ち切り」の後日談落語を創ったりと、古典を踏まえた様々な試みがあって然るべきなわけですから、この「お菊の皿」路線も追求していって欲しいものですね。次回は9月に予定されていますが、黄紺はトルコに入っているため、またまた行くことができません。どうも、この会とは相性が悪いようです。


2016年 7月 13日(水)午後 10時 33分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「第2回桂二葉落語勉強会 によによチャンネル」という会がありました。米二の2番弟子二葉の勉強会です。その番組は、次のようなものでした。弥っこ「狸賽」、二葉「道具屋」、たま「胎児」、だぶる・まっしゅ(二葉&豊田公美子)「漫才」、(中入り)、二葉「つる」。とにかく、びっくりさせられた集客力です。動楽亭の客席サイドの障子を外し、そこに席を作るというのは、とっておきの方法ですが、それが、開場時から用意されていたほどです。今回が、2回目となる会ですが、1回目も、そうだったそうですから、びっくりの二葉人気です。キャピキャピ系の数少ない女性噺家だけではなく、独特の個性的な声、天然系のちょっと抜けたように見えるキャラ、喋り方は個性的だけど、構造としての落語はしっかりしていると、上方落語界には、今までいなかったタイプということで、関心を惹き付ける力を持っているのです。今日は、「道具屋」と「つる」と、いずれも前座ネタながら、二葉の口演ではどうなるかという興味が湧いてくるものがあるというのが強みです。アホのぶっきらぼう的な喋り方、声が新鮮なものがありますね。野放図さなんてものを感じさせるからなんでしょうね。それでいて、決して生意気な印象を与えません。あまり頭の中の回路を通さずに喋っているという印象と言えばいいかな。この2つのネタは、ちょっと付く感じがしますね。教え手がいて、仕込みがあり、バラシがあるのは同じですものね。二葉は、楽屋で、たまから指摘されて、気がついた由、「つる」のマクラで言っていました。でも、「つる」は、今日のネタ下ろしだったために、下げるわけにはいかないでしょうから、当初の予定通りに進みました。二葉のツイッターを見てみると、師匠の米二に稽古をつけてもらい、先日あがったところだそうで、上下が定まらない箇所が出てきたりしていたのに対し、「道具屋」の方は、自信満々の口演。いずれにせよ、この人、イマジネーションが豊かなんでしょうね、そして、ストレートに感じたことを出せる強みを持っているのでしょうね。でないと、声も、身体の動きも併せて、有機的に動かないでしょう。「道具屋」のマクラで言ってましたが、噺家になりヴォキャブラリーが増えたと。それだけ表現力が豊かになっていっているということでしょうから、今後ますます楽しみになっていくのじゃないかな。中入り前に、三味線の豊田さんと、「漫才」もしました。ちょっとした余興ですが、話題が落語になるのが可笑しいですね。豊田さんが、表舞台に登場されたことは、黄紺の記憶では、過去にはなかったのではないかな。そういった意味でも、貴重な場面に遭遇できたものです。ゲスト枠はたま。ゲストとして、先輩後輩の噺家の呼び方をマクラで。たまは、呼ばれる頻度の高い噺家さんです。ネタは、二葉が女性噺家だということで、女性が出てくる噺をということで、なんと「胎児」が出ました。これを聴けた今日のお客はラッキーです。落語の殻を破る落語ですものね。胎内と胎外とでジェスチャー・ゲームもどきのことがあったり、古典落語のパロディが入っていたり、たまのアイデア満載の落語です。前座は弥っこ、まだ、修行を空けてないようです。久しぶりの遭遇でした。


2016年 7月 12日(火)午後 11時 4分

 今日は映画を観る日。まずテアトル梅田であったフランス・トルコ・ドイツ映画「裸足の季節」を観てまいりました。基本的には、カンヌ映画祭で評判となった映画は観ないことにしているのですが、フランスで評判になった全編トルコ語映画というのにそそられて行ってまいりました。場所はトラブゾン近郊の海岸沿いの村というから、黒海沿岸ということになるのでしょうが、ちょっと黒海沿岸という雰囲気のしない海岸線でしたが、映画の中で、トラブゾン・スポルとガラタサライ(ブラク・ユルマズの黄赤ユニフォームが大映しになります)の試合を観に行く場面がありますので、そう考えざるをえません。そこで、両親を亡くし、祖母、叔父に引き取られ暮らしている5人姉妹が主人公。ある日、学校の男友だちと、祖母や叔父に言わせると、「ふしだらな」遊びをしたからと、家に軟禁生活を強いられるようになっていきます。そして、上の姉から順に、見知らぬ男と結婚させられていきます。家に閉じ込められて、因習に背かない生活を強いられていくわけで、これに対する反発、抵抗、挫折、そして、脱出の物語です。個々の女の子の対応や運命には、それぞれ仕掛けは、用意されてはいるものの、大枠を変えるほどのものが用意されているものではなく、最後は逃げるしかない、それがうまくいくかどうかということに絞られるだけの映画だと、黄紺の頭には整理されてしまいました。ですので、あまりにも陳腐なのです。今更ながらの映画で、因習的な習慣として、民俗学的な見地から聴いたような事象も出てきたりで、確かに、まだあるだろうけどな、家に閉じ込めるなんて直接的な表現を取らなくても、もっとイマジネーションを働かせろよと、突っ込んでしまってました。年代的にも、正に現代ですからね。その証拠はサッカーです。1つは、既に書いたように、ブラク・ユルマズがガラタサライに所属している時期のお話ですし、無観客試合に、女性と子どもには開放というシステムが導入されて以後のお話というのが、2つ目の証拠です。その一方で、この映画の評価を高めているのが、主役5人の素晴らしさだと言われているようですが、この点は、黄紺も、全く異議はありません。ホント、自然で、10代の女の子が、その辺で、喋り、笑い転げて、キャーキャー言ってるって雰囲気が出ていて、これには、ホントにびっくりさせられます。よくも、5人も集めたものです。なんとも言えないキラキラ感があります。「私たちのハァハァ」って映画を、去年観ましたが、その雰囲気を思い出してしまってましたが、今日の映画の方が無邪気さでは勝っており、そんなのが、トルコらしいって感じであるとともに、この映画のしんどいところかもしれませんね。
 テアトル梅田を出ると、ネットカフェなどで時間調整をしてから、シネヌーヴォに移動。夜も映画で、ポルトガル映画「ホース・マネー」でした。が、これが大失敗。ほとんど居眠りをしてしまい、筋立ての欠片も解ってないのです。一応、ポルトガルの旧植民地カーボベルデからやってきた一人の男の生涯を辿るというセミ・ドキュメンタリーの映画であるということで、狙いをつけて行ったのですが、全然、ダメでした。タイに行く前だからということで、普段は避けている映画のはしごが、完全に裏目となってしまいました。哀しい。


2016年 7月 12日(火)午前 7時 20分

 昨日は浪曲を聴く日。毎月通う「一心寺門前浪曲寄席」に行く日でした。その番組は、次のようなものでした。春野冨美代(沢村さくら)「両国夫婦花火」、真山一郎(真山幸美)「涙の関西鉄道」、浪花亭友歌(沢村さくら)「太閤記初陣の巻」、三原佐知子(岡本貞子)「お夏清十郎」。「両国夫婦花火」は、春野百合子一門の定番となっているネタ。だけど、今日は、冨美代さんは変調。節が、いつもと違い不安定だなと思っていたら、絶句されてしまいました。幸い、思い出されたので、大事には至りませんでしたが、かなりのマイナスイメージとなりました。「涙の関西鉄道」は亀甲組ものの1つ。関西鉄道って、今の関西本線かなと思うのですが、それを建設するとき、商売仇の土建屋から横槍が入り、前に進まなくなってしまった亀甲組の仕事。それに立ち向かうために涙ながらの話となるわけですが、黄紺的には博物館行き的なネタと思ってしまうのですが、時々、こういった古臭い感性のネタに遭遇できるのが浪曲の世界。真山隼人くんが、亀甲組のネタの掘り起こしをやっていますので、但し、「今の時代に合わない」とも言ってましたから、このネタ同様の感性がベースにあると思われますから、そういったレトロな空気を吸うために、機会があれば聴いてみたいものです。友歌さんは「太閤記」もの。「太閤記」ものの他のネタは聴いているのですが、「初陣」は初めてと思います。講談では知られたネタですから、そこからの転用ネタ。ま、「太閤記」ものは、全部そうでしょうが。元服、木下姓の拝領話に次いで、初陣話へと移っていきました。コンパクトなまとめが、うまくいっているのでしょう、それだけのプロットが放り込まれていて無理を感じなかったってことは。小生意気な空気を出す藤吉郎の声、友歌さんのいいところです。トリの佐知子師匠は、前に一心寺で出たとき、居眠りをしてしまったという良くない思い出のあるもの。佐知子師匠の持ちネタの中では異質だと思っていたら、芙蓉軒麗花師からもらったと言われていました。節は、自分流にいじっていると言われていましたが、黄紺には、どこがどうなのかは、さっぱり解りません。ただ、テキストが、めっちゃいいですね。冒頭と終結部が、お夏が物狂いになり徘徊するとなっており、その節も独特のもので聴かせます。そして、そうなったわけが、その間で語られるという構成。清十郎の処刑、でも、それが冤罪であったことも、終結部で明かされ、お夏の狂いが一層高まるという流れです。いやぁ〜、これは、足を運んで、佐知子師匠がもらいに行かれるはずと、至極納得をしました。終わると、佐知子師匠が「暑いので、皆さん、無事にたどり着いて下さい」に、会場内は大爆笑に包まれました。高齢者の多い客席に向かい、ギャグっぽい気づかいに、大爆笑となったというわけでした。確かに外は猛暑、その中を、時間調整を兼ねて、フェニックスホールまでのウォーキング。夜は、京橋で息子と落ち合い居酒屋へ。ほろ酔い気分で、二人でお茶をしていると、なんと、外を通りかかる息子の嫁さん。なんたる偶然。ちょっと早めから呑み始めていたため、仕事帰りの嫁さんが通りかかったってわけでした。


2016年 7月 10日(日)午後 10時 39分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「セザール・フランク―ピアノ五重奏」と題して、京都市交響楽団のメンバーを中心にしたアンサンブルによる演奏がありました。その顔ぶれは、次の方々です。(ヴァイオリン)田村安祐美、相本朋子(ヴィオラ)多井千洋(チェロ)佐藤禎(ピアノ)佐竹裕介。もちろん演奏されたのは、C.フランクの「ピアノ五重奏曲 ヘ短調 (1879)」でした。とってもいい曲、だけど、ピアノ五重奏曲なんて、実際の演奏では、なかなか聴けるものではありません。あっても、ブラームスが関の山。なかなかフランクまで、出番が回ってくるものではありません。それが聴けるということで、わくわくしながら行ってまいりました。開場前に到着したものですから、しばらくの間、表で待っていると、直前までリハーサルをやっておられました。2日前に、既に1回目のコンサートをされたあとだったのですが、今日もリハーサルをされていました。外に漏れやすいのか、佐竹さんのピアノがよく聴こえてきたのですが、やたらきらびやかで、ますます、今日のコンサートにそそられていきました。日頃、一緒にオケで活動されているからでしょうか、音のバランスが、実に良かったというのが、今日の演奏の最上のポイント。この曲は、同じリズムで、複数の楽器が弾かれることが多いというか、音楽的に目立つ部分で多いので、バランスの良いというのは、この曲を楽しむのに、大きな武器となっていました。このメンバーでは、やはり田村さんのヴァイオリンを聴く機会が一番多いのですが、こないにパワフルな音を出されていたのは初めてじゃないのかなぁ。その第1ヴァイオリンとヴィオラ、第2ヴァイオリンとチェロが何度か開けて、同じリズムで平行して弾く箇所も、わりと目立ち、それがきれいに合うものですから、ちょっと興奮気味。田村さんのヴァイオリンのソロも、なかなかのもの。音のきれいさなんてものよりか、憂い、不安、焦燥のような気分が、全体の構造にマッチするようで、そのあたりの音色を求めようとされているのが伝わってくるものがありました。いやぁ、このアンサンブルはヒットです。オーナー氏は、この5人の方々に、新たなリクエストを出したい口ぶりでしたので、期待を大にして、待っておきたいと思います。次は、直球だったら、ブラームスでしょうが、、、。何が出てくるか考えるだけで、楽しくなっちゃいます。


2016年 7月 10日(日)午前 5時 35分

 あと、もう少しでタイに行くということで、2、3日前からホテルの予約をしていました。タイは、バンコク以外は、アユタヤとロップリーしか行ったことがないにも拘わらず、調べもしないで、ぶらりと行くつもりだったのですが、ドイツでホテルの予約癖がついてしまい、あまり行ったことのないところへ、いざ出発間近となると、ホテルを押さえてないと、段々と不安になってきて、手を着けてしまいました。バンコクは、前に行ったときに比べると、ホテル代の値上がりははっきりしてますね。バンコク以外は、ほぼ前に行ったときの感覚でいいのですがね。そして、その作業も完了間近。印刷をしておいた方が大きくなるということで、地図を仕上げればおしまいです。あと、もう少しです。
 そして、今日は、繁昌亭で落語を聴く日。今夜は「桂ちょうば独演会2016」がありました。その番組は、次のようなものでした。りょうば「米揚げいかき」、ちょうば「地獄八景亡者戯」、(中入り)、ちょうば「皿屋敷」。ちょうばは、入門15年を記念して、「地獄」を取り上げたそうです。ネタのお稽古は、兄弟子の塩鯛にしてもらったそうです。そう言えば、塩鯛も、大津でしたか、近々「地獄」を出しますから、ちょうば効果かもしれません。中入り明けに出てきたときに、「地獄」は、正味80分かかったと言ってました。確かに長めかなとは思いつつも、そのわけが判らないのです。どこかを肥大させたわけでもないですからね。唯一はっきりしているのは、「特技」を2つ(ノコギリ音楽&日本舞踊)出したことぐらい。それで、時間が長かったというのは、ちょうばの喋り方かもしれないと思ってしまいました。ゆったりめのテンポに説得力があるのが、ちょうばの口演の特徴かと思っているのですが、それが、この「地獄」では、だらだらと続いたような印象に、若干すりかわったように思えたのが原因かもしれません。黄紺などは、六道の辻からのあとのお遊びが物足りなく感じたほどでした。流れは、基本的に原型のまま。渡船賃のやり取りは、船上ではなく、乗場でのこととしたのが珍しいくらいでした。もう1つは、またもや「皿屋敷」に遭遇です。冒頭に、皿屋敷の謂れを聴くわけについては、全面的にカット。車屋敷という言い方すらカットしていました。教え手のおやっさんは、単に物知りとだけの登場。道行の恐がり男が、周りを囲ませるところはカット、替わりに、終盤の2度目のお菊の登場の前に入るお菊人気の解説が肥大化していました。秋元康の名前まで登場してくるというサービスぶり。土俗的な雰囲気を、ほぼ消すという趣向の口演でした。この間聴いたなかで、冒頭部分をノーカットで口演したのは松五だけですが、このテキストに、一番リアリティを感じます。その対極点にあるのが、今日のちょうばだったと思います。筋立てのおもしろさを追いかけるとともに、怖いおもしろいを求めるという点では、才長けた口演だったのですが、現代的な感性による彩りが支配しており、噺に出てくる時代の空気を求めるのはきついなって感じがしたのです。前座役はりょうば、繁昌亭で初めてのりょうばです。この人の「米揚げいかき」も初めて。陽気で憎めないアホがいいですね。そう思うと、なんか天性のものを感じてしまいます。笑顔といい、明るい声質といい、こないなアホをするためのキャラを持って生まれてきたような、そないな天性のものをです。立ち見まで出て、大盛況の会、一方でコアな落語ファンの姿を見かけなかったので、どこから、こないに大勢さんが来られたのか考えてしまいました。結論は出ずなんですが、1つだけ考えたのは、「地獄」の威力かなというくらいでした。


2016年 7月 9日(土)午前 5時 52分

 昨日は、京都で落語を聴く日。衣棚通三条上るにあるちおん舎であった「第39回ちおん舎・新染屋町寄席」に行ってまいりました。「染屋町寄席」が、こちらに移ってからは、2度目のおじゃまとなりました。京都在住のちょうばと二乗がブッキング担当で、「新染屋町寄席」は続けられていますが、昨日は二乗の担当の回。小鯛との二人会というそそられる番組を作りました。その番組は、次のようなものでした。小鯛「ちりとてちん」、二乗「四人癖」、小鯛「竹の水仙」、(中入り)、二乗「景清」。二乗の当番のときは、二人会形式にしているようで、ここ3回は、仲の良い同期の噺家さんが入れ替わり相手を務めたそうですが、昨日は金曜日ということで、岡山から小鯛が戻ってきているので、小鯛が相手役に選ばれたそうです。その小鯛の高座が、2つとも元気いっぱい。弾け過ぎてやらしくならないかというギリギリのところまで、特に「ちりとてちん」では行ってたように思いました。今までも過剰な表現をとることはあっても、局部的だった小鯛が、そういった部分を拡大していっているように思えました。そもそも、小鯛が「ちりとてちん」を持ちネタにしていることが判った時点で、黄紺は違和感を持ってしまったのですが。あまりにも解りやすく、従って、猫も杓子もという感じで手が着けられているネタに、小鯛までやらなくてもいいのにと思ってしまうのです。「竹の水仙」までもが、テンションが高くて驚きました。確か動楽亭の自身の会で出したような記憶があるのですが、あのとき、こないにテンション上げてたかなぁと思ってしまうのです。いや、あれ以後の成果が、こういった手法ということになるのでしょう。ただ、小鯛の場合は、間の取り方やリズムがいいものですから、テンションを上げても、噺が崩れるということは、まあないでしょうから、叫んだりするような過剰さを見せることができるのでしょうね。手の動きなんかも、ホント、有機的なんだなぁ、やっぱ、小鯛は巧者だということを認めないわけにはいきませんね。一方の二乗は、小鯛の迫力に押されてしまった感じでした。そういったなかで、ネタ選び正解の二乗。「四人癖」は、いかにも落語的な設定が可笑しく、今日のお客には大受け。一方の「景清」は聴かせてくれました。なかなか二乗の「景清」に遭遇できなかったのですが、ようやく出逢えたのですが、さすが安定した語り口は、この噺の重しになります。ぶっきら坊に思える定次郎の脆さも、しっかり描けていたと思いますし、あくまでも人のいい甚兵衛さんの優しさも、十二分に伝わってました。1つだけ注文を書けば、歌が、もうちょっと良ければなというところです。この会では、ここまでの足跡を紹介しようということなんだろうと思うのですが、第1回からのネタ一覧が配られました。それを見て驚いたのは、二乗の「景清」が2年に1度の頻度で出てきます。察するに、二乗の持ちネタ、少ないという ことなんでしょうから、こういった会を任された者として、ネタ数を増やす責任って大きいと思うんだけどなぁ。


2016年 7月 8日(金)午前 5時 52分

 昨日は、京都コンサートホール(小)で音楽を聴く日。「La Meli Melo Ensemble Vol.2」というコンサートがあった日なのです。このアンサンブルは、京都市交響楽団のコンサート・マスターである泉原隆志を中心に、京響のメンバーにはこだわらずに集まった演奏者によるコンサート。昨年は、黄紺自身の日程と合わずに悔しい思いをしたため、今年は、チケット発売日に、チケットを買っておいたというもの。このアンサンブルのメンバーは、次のような方々です。[Vn]泉原隆志、直江智沙子、中野志麻、山本美帆、[Va]鈴木康浩、金本洋子、[Vc]上森祥平、石田聖子、[Cb]神吉正。そして、プログラムは、次のようなものでした。「バルトーク:ルーマニア民俗舞曲」「ホルスト:セントポール組曲」「チャイコフスキー:フィレンツェの思い出」。ホルストまでが、前半に演奏されたのですが、2つとも、民族的な色彩を持つおもしろい曲なのですが、なんと2曲併せて30分。実際の演奏時間は、もっと少ないでしょうから、それぞれの曲を楽しもうという気分になってきたところで、どんどんと終わっていくという展開。2つとも、組曲形式の曲ですから、1つずつのパートが短いのです。かなり消化不良で、呆気なく休憩に入ってしまったのですが、後半のチャイコフスキーが良かった。こま切れではなく、音楽が続いていくだけではなく、各楽器のバランス、パスカルの原理の実験に使うゴム球のように、1ヶ所を押すと、あらゆる角度に向け、水が吹き出すかのように、音が有機的な繋がりを持ち、とっても心地よい緊張感に包まれた演奏に引き寄せられました。こういった演奏に触れると、前半で演奏されていたスペースより広いスペースで演奏されているように感じるから不思議なことですね。2楽章は、ヴァイオリンの泉原さん、ヴィオラの鈴木さん、チェロの上森さんのソロ合戦。鈴木さんは読響の方ですから、聴く機会の少ない方ですが、表情が豊かなため、表現の幅が広がってるって感じで、本日の最優秀選手賞と思いました。上森さんも、普段から聴き慣れてはいますが、力の入った基礎構造の上に、泣きなんてものまで入ったんじゃないかと思うほど、豊かな感情表現に魅せられました。泉原さんのヴァイオリン・ソロに被っていくチェロのオブリガード、めっちゃ良かったです。曲もいいし、演奏もいい。終わった瞬間、弾かれたように歓呼の拍手が上がりました。それに応えて、アンコールは2曲。「ブリテン:シンプル・シンフォニー第2楽章」「チャイコフスキー:弦楽セレナード第4楽章」でした。


2016年 7月 6日(水)午後 11時 13分

 今日は二部制の日。午後に韓国映画を観て、移動時間がきわどいながら、夜は講談会に行ってまいりました。まず、午後は、心斎橋シネマートで、<反逆の韓国ノワール2016> の1つとして上映されている「殺人の輪廻」を観ることにしました。ただただ、ソン・ホジュンが出ているということで、一連の韓国映画上映の中で外すわけにはいかなかったのです。ソン・ホジュンは、韓国のヴァラエティ番組「三食ごはん」で知った役者さん。何かの映画で、以前に観ているはずなのですが、名前も何も知らないなかで観たというだけですが、今回は、彼をめざして観に行くことになりました。まじめで、ナイーブな人柄が、韓国でも人気なようで、「花より青春」も含めて、彼の出演場面は、正に癒し系なために、ついついだらだらと惹き付けられてしまっています。1人の女性が、冒頭で殺されます。その女性の婚約者がホジュン。刑事がソン・ドンイル、その刑事が育てる殺人犯の娘をキム・ユジョンという布陣ですが、物語の大半は、その殺人事件の10年後、ホジュンは、胸に傷を持った教師として、刑事の娘の学校に赴任してくるところから、隠されていた過去が明らかになっていきます。映画のポイントは、1つ目は、そのホジュンの抱える傷の具合、2つ目は、事実を知らない娘が、それを知るようになっていくことにより起こる波紋、3つ目は、この事件には、もう1つの死、即ち、犯人の妻の死があるのですが、その真相が明らかになることによる波紋です。ただ、この3つ目については、倒叙の手法が用いられるのですが、それが、明らかなるルール違反。倒叙というものは、映画だったら、見せないことにより、間違った方向に客を導いたり、勝手に信じ込ませる手法のはずですが、この映画は、事実と異なる映像を見せて、それは違うと言いはるところがあります。それと、もう1つ、気に入らないことがあります。題名です。原題は「秘密」です。英語名に「輪廻」を表していると思える「Circle」が出てきていますが、この類いの語句は、筋立てを予知させるもので、映画を観る楽しみを損なってしまってました。「秘密」で十分ではないでしょうか。となれば、あとは、結末の持って行き方だけですね。結末は、どないにしてもしんどいもの。その中で、一番納得できるものなんでしょうか。狙いのホジュンは、ヴァラエティで知った人柄に、最も無理のないもの。ホジュンを観に行った者としては、合格点です。
 映画が終わると、速攻でJOY船場50へ移動。この間の時間が最大40分しかなかったのですが、幸い、会場が近かったためにチャレンジしてみました。さすが、夕飯は無理で、講談会が終わってから摂るハメにはなりましたが、これは致し方ありません。その講談会は「南斗講談拳」。こつこつと自身の会を持ち、研鑽を積む南斗くんの会には、新しいネタが入っていれば、時間の許す限りで行くようにしています。その番組は、次のようなものでした。南斗「本能寺の変」、咲之輔「紙入れ」、南斗&咲之輔「対談」、南斗「曽呂利新左衛門」。「本能寺の変」は、もちろん明智光秀による謀反を描くものですが、接待役の仕事に文句をつけられ、森蘭丸に打擲される話を冒頭にして、もう謀反に動くという慌ただしい展開、あとは、攻める明智軍に為す術のない信長ということで、あっさりと自害。マクラが長く、この高座は25分強ありましたが、実質上ネタは15分もなかったかもしれません。ちょっと勉強不足かなってところです。2つ目の「曽呂利新左衛門」は、東西交流で、琴梅師からもらったものとか。太閤秀吉に、曽呂利新左衛門が、自身の初夢を語り、ご機嫌を伺うもの。おめでたい要素が散りばめられていますから、ヨイショ話だなと思い聴いていると、富士山に口ができて喋り出しました。残念ながら、その辺で居眠り。初めて聴くネタなんてという肝心なときに居眠りとは。ゲスト枠は、ちょっと先輩の咲之輔、噺家さんに人気の「紙入れ」でした。時事ネタを、随分と放り込むんですね。新治にもらったんじゃないかなという進行でしたが、全編山にしようという欲張った感じのする「紙入れ」でした。今日の南斗くんは、普段、あまり見ないのですが、2つとも噛むことが多い1日でした。どうしたのでしょうね。


2016年 7月 5日(火)午後 10時 54分

 今日も、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、こちらで「染吉っとんの会〜林家染吉落語勉強会〜」がありました。決して器用とは言えないのですが、こつこつと積み上げを図っている染吉の姿勢が気に入り、長い目で見ていきたいと思っている噺家さんの勉強会。最近、時間さえ遇えば、聴きに行っております。その番組は、次のようなものでした。染吉「商売根問」「淀の鯉」、華紋「打飼盗人」、(中入り)、染吉「皿屋敷」。まず、染吉の2席連続口演でスタート。そのためか、1席目は長めのマクラ。今までしてきた仕事いろいろ、中でも厳しい仕事の話をしてくれました。若手の噺家さんのこうした話は、よく耳にしますが、皆さん、いろいろと苦労されています。「商売根問」は、雀獲り、鴬獲り、がたろ獲りという流れでした。噺の調子は、次の「淀の鯉」が、「商売根問」よりは、かなりいい感じでした。今日の3つの噺とも、染吉の口演は、位の高い人物に満足できなかったのが、共通のポイントだったのですが、「淀の鯉」の場合は、幇間や料理人の喜助といった登場人物のキャラ付けが、うまくはまったため、旦さんに感ずる不満が軽減されたのが、「商売根問」より「淀の鯉」に1票ということになろうかと思います。これは、染吉自身も認めていたので書くのですが、ゲスト枠の華紋の「商売根問」がいいのは、噺が流れ躓かない。テンポが、頗る付きでいいからだと思っています。ところが、染吉の「商売根問」は、聞き手に躓いてしまうんだなぁ。それと、この2つを比べると、何よりも、染吉自身が、「淀の鯉」を楽しんで口演しているのが伝わってくるのが、聴き手を楽しい気分にさせている最大の要因のように思えました。なお、周知の如く、「淀の鯉」は米朝作品。米朝一門以外で、これを持ちネタにしているのは染吉だけだそうです。そう言えば、米朝一門ですら、手がける噺家さんは少ないですが。染吉のもう1つは、今日がネタ下ろしの「皿屋敷」。昨日の松五も、ネタ下ろしが「皿屋敷」でしたから、ちょっとした「皿屋敷」ブームです。春団治を失った年だからでしょうか。松五のオーソドックスなスタイルと違い、冒頭のおやっさんを、かなり強烈にデフォルメしたもの。このデフォルメの仕方、誰だったかなぁ、聴いたことがあるのですが、思い出せないのです。で、それが、染吉には合ってないのです。冒頭から、いきなりテンションを上げて入るというのは、「淀の鯉」の場合は、テンションが高いのが幇間だったから違和感がなかったのですが、こちらは、キャラ設定のためにテンションを上げるというものですから、なかなか噺家さんの個性に合ってないと厳しいこと。その合ってないことをやってしまおうとしたものですから、違和感が出てしまいました。そして、物知りなおやっさんですから、位の高い人物描写に躓く染吉には、余計に厳しくなっちゃいました。中盤の道行も、アホを制する、アホに比べると位の高い男が躓き気味、でもくさくなったお菊さんは、どうしたことか、めっちゃはじけていて、大収穫。染吉は、何かにつけ照れがあるのかなぁ。真面目なんでしょうね。きっちりと描かないと思っていそうなところで躓いてしまっているようです。「皿屋敷」の終盤のようなはじけ方ができるのですから、一方で期待も膨らみます。染吉に言わせると、ゲスト枠の華紋は前座にはできない、だから中トリで出てもらったんだけど、それが正解だった。なるほどと思うとともに、幕内でも華紋の評価が高いということを教えてくれました。今日の高座も、正に、それを証明するもの。マクラは東淀川区ネタ。多少なりとも知っているだけに、余計に可笑しさが込み上げて来ました。そして、ネタは、師匠文華譲りの「打飼盗人」。リズミカルで、心地よいテンポ、空威張りをするが根は良さげな盗人、のんびりしてそうで、でもちゃっかり男の家人。いい感じです。時として上滑りをしないか、それが心配したこともある華紋の口演でしたが、今日は、そないな懸念など思い出す暇もありませんでした。


2016年 7月 4日(月)午後 10時 50分

 今日は、ちょっとご無沙汰の動楽亭で、落語を聴く日。「ショウゴイズム〜やる気の松五〜」という笑福亭松五の勉強会に行ってまいりました。地味な噺家さんですが、勉強家でじっくりと力をつけてきている松五の落語会、できるだけ行こうとしている落語会の1つになっています。その番組は、次のようなものでした。松五「秘伝書」、石松「堀川」、松五「千早ふる」、(中入り)、松五「皿屋敷」。マクラなんてものを喋るのが苦手な松五は、「秘伝書」では、小咄を2つだったかな、それをして、いきなりネタへ。こういったのが、ショウゴイズムです。せっかく、松五では初めての「秘伝書」で居眠り。動楽亭に着くまでは元気だったのですが、炎天下のウォーキングは、想像以上に疲労が溜まったようでした。午前中も、1時間のウォーキングをやっちゃいましたからね。ゲスト枠は石松、前回が鯛蔵、「次は二乗くんに来てもらおうかと思ってます」ということで、仲が良いとの評判の同期の噺家さんシリーズが続きます。その石松ですが、「堀川」を持ちネタにしたということを知ってから、狙っていたもの。石松は、松之助からネタをもらうことが、今までも多かったため、その松之助ベストが「堀川」だと、黄紺は思っているものですからね。確かに古風なテキストは、松之助からもらったことを連想させますが、やはりキャラの違いは大きく、その分、石松テイストが詰まった「堀川」になっていたと思います。石松の見せる喧嘩極道は、むちゃもんぶりが先に立たず、逆に可愛いげのある男の顔が先に立ってしまいます。テキストはむちゃもんなんですが、石松の仕種、いえいえ、石松が喧嘩極道を演じる時点で、そういった顔を見せてしまってました。これは、幸なんでしょうか、不幸なことなんでしょうか。そして、予想してはいたのですが、猿回しの出てくる前で切り上げました。「千早ふる」が、今日の松五の口演で、唯一まともに聴いたものとなりました。それが、なかなかのいい出来。まず、テンポがいいのです。その裏付けは、自信に満ちた語り口です。しかも、松五には、珍しく挿し込みなんて技を見せてくれました。口演の機会が、ここまで多かったんじゃないかな。それから来る自信と看ました。中入り明けの「皿屋敷」は、本日がネタ下ろし。ネタ出しもしていませんでした。ネタの大きさに関係なく、ネタ下ろしの場合、その日の最初の口演に持ってくる噺家さんが多いなか、松五は、他の2つのネタとの軽重を重視しました。噺家の心意気ってやつです。この口演の半ばでも、また居眠りが出てしまったのですが、序盤のおやっさんから話を聴く場面が良かったなぁ。怪談噺だぁ、シリアスな噺だぁって雰囲気を作るに足る重い口調、しかも暗い口調がいいですね。ネタ下ろしということで、ちょっと噛むところも、ご愛敬です。ただ、怖いということをネタにばか騒ぎに入る中盤以降の方が、松五には苦手なところかもしれませんが、居眠りのため、書くことができません。やはり、体力の消耗が大きかったってことなんでしょう。


2016年 7月 4日(月)午前 1時 29分

 今日は書生節を聴く日。昨日と同じ千日亭で、上方書生節協會(旭堂南海&宮村群時)の公演があったのです。今日は、「今甦る書生節の會〜道頓堀ジャズと書生節〜」というタイトルで行われたのですが、当然、ジャズとのコラボになるということで、千日前裏筋楽団と称する、この会のためのバンドも登場しました。こちらのメンバーは、南海さんが活動写真の弁士を務められる際に、お馴染みの方々なのですが、次のような方々でした。川瀬眞司(ギター)、廣田昌世(コントラバス)、内藤咲重(トランペット)。今日のお題となったのは鳥取春陽。道頓堀にカフェが生まれ、ジャズが盛んになってきた頃、具体的には大正末期あたりだそうなのですが、その頃に、書生節で活動していた人たちが、新しい流行に吸い寄せられて、道頓堀にやって来て、その時勢に合った音楽を提供していったようで、その一人が、本日のお題となった鳥取春陽だとなるわけです。そこで、まず、幕開けは、雰囲気作りということで、千日前裏筋楽団の皆さんによるジャズのスタンダード・ナンバーの演奏からスタート。「セントルイス・ブルース」など3曲、群時くんが加わり、「君をしたいて」が歌われてから、南海さんが登場。裏筋楽団をバックに、自身らもバイオリンを弾きながらの演奏へと入りつつ、今日のコンサートのコンセプトのお話が入りました。「望郷の唄」「道頓堀の夜の川」「復興節」などが歌われ、中入り休憩に入りました。1つずつの唄には、必ず替え唄が、南海さん、群時くんから入るのが、この会のお楽しみ。テレビを観ない、新聞を読まない黄紺には、どんどんとハードルが高くなってきました。中入り後は、まず、南海&群時のお二人での演奏。おなじみの3曲(「コロッケの唄」「民衆の煙草」「東京節」)が演奏されたあと、再び裏筋楽団の演奏をバックにしたものとなりました。「ボルガ河の綱引き男」「深川くずし」「かごの鳥」「大阪夜曲」などが歌われました。このコンサートは、毎回、お題があり、それに基づく新曲を発表していただけます。書生節協會のお二人は、書生節の発掘に努められ、そればかりか、今日でしたら、道頓堀ジャズについてもサーチを続け、背景なども、きっちりと把握された上で、会に臨んでいただいています。南海さんの講談よろしく、この分野でも、学究的なスタンスを発揮していただいています。群時くんの探究心は、南海さん同様、かなり旺盛なようで、とっても頼もしく見えるのです。そういったスタンスを、お二人がお持ちなので、まだまだ、この会が続くことを期待してしまいます。


2016年 7月 3日(日)午前 5時 15分

 今日は二部制の日。昼間は、トリイホールであった講談会、夜は、カフェモンタージュでのコンサートに行ってまいりました。昼間の講談会は、「第55回TORII講談席〜先取納涼大会〜怪談と滑稽」です。夜にカフェモンタージュに行くときは、昼間は出かけないように、特に大阪までは行かないようにしているのですが、「トリイ講談席」に休みが続くのに抵抗があり、真夏の暑さのなか出向いてまいりました。その番組は、次のようなものでした。鱗林「鼓ケ滝」、南湖「新作・おっぱい豆腐」、南北「怪談・江島屋騒動」、(中入り)、南海「新作・講釈息子」、南華「復讐奇談・安積沼」。とにかく真夏の暑さのなか、会場に入ると、ホッとするクーラーの涼しさを堪能できたのですが、最後は冷えすぎて震えていました。つくずくクーラーに弱くなったことを実感しています。鱗林さんは名古屋からの来演。これで、2度目の遭遇になります。もう少しテキストをはしょった方が、テンポアップするのですが、逆に言えば、丁寧な口演、東京の女性講釈師さんに通じる語り口が新鮮です。今日の副題の内、怪談ネタは定番ものが並んだのですが、新作ものは目新しく、また、おもしろいもので、なかなかの聴き応え。南湖さんの「おっぱい豆腐」は、「できちゃった」で発表されたときに聴いて以来の遭遇。わりといろんなところで出されているので、評判がいいのじゃないかな。黄紺的には、「ダッチワイフ」と双璧の南湖ベスト作品に推したいと思っているもの。梶井基次郎の引用があったりで、ノスタルジックな空気も併せていただくことのできる秀作です。南北さんの「江島屋」は、怪談ネタの少ない旭堂にあって、貴重な怪談ネタですから、旭堂の多くの講釈師さんが持ちネタにされているのじゃないでしょうか? 婚礼衣装にイカもの(安物)を掴まされ、恥をかいた花嫁は命を絶ちます。その幽霊が、イカものを掴ませた江島屋を呪います。南北さん、気合いのこもった高座に感服。南海さんのネタは、川柳川柳師作品らしいです。舞台は中学校、3年生の進路相談に現れる真田十勇士、生徒の名前は大助と、大阪合戦を想起する顔ぶれと、難波戦記の登場人物を埋め込んだ進路相談が続くだけに留まらず、ニュース・ネタも盛り込まれたものでした。「おっぱい豆腐」にひけを取らないおもしろネタでした。南華さんの「安積沼」は、続きものとして読まれたときから聴いているのですが、筋立ては、すっかり忘れているうえ、ここで居眠り。とっても冷えた会場にも拘わらずに居眠りとは、気合いが入っています。ということで、久しぶりの遭遇なのに、ほとんど残ってないのです。
 講談会がはねると、講談会では顔見知りの方とお茶をしてから、京都への大移動。今夜のカフェモンタージュは、「ラヴェル&フォーレ」と題し、(ヴァイオリン)谷本華子、(ピアノ)奈良田朋子のお二人のコンサートがありました。そのプログラムは、次のようなものでした。」M. ラヴェル: ヴァイオリンソナタ 第1番 イ短調 遺作 (1897)」「ヴァイオリンソナタ 第2番ト長調 (1927)」「G. フォーレ:ヴァイオリンソナタ 第1番 イ長調 作品13 (1876)」。フォーレのヴァイオリンソナタは、演奏機会の多い曲ですが、ラヴェルはそうではありません。そのような曲に焦点が当たるというのも、こちらでのコンサートの魅力になっています。ラヴェルの1番が「遺作」と表記されるわけが、開演前恒例のオーナー氏による解説で明らかにされました。まだ有名でなかったラヴェルが、曲を仕上げたが、公表をしなかったためとのこと。殊に1番は、19世紀末の作品にしては、20世紀を先取りするようなところがありますから、世間には受け入れられないだろうの読みが働いたことが想像されます。オーナー氏によると「暗い」と表された1番、不安げなヴァイオリンに対し、ピアノは雄弁過ぎるくらいに、派手に、そして、きらびやかに流れます。1番のソナタを決定するかのような冒頭の数楽章の牽引役は、奈良田さんの彩り鮮やかなピアノ、それに対し、音楽が不安げなだけではなく、谷本さんの演奏が不安げなのが気になってしまいました。空気感に物足りなさ、その後の鳴らない楽器って感じの演奏に、ちょっと不満を持ってしまったのですが、今日は、その後が良かったですね。すっかりいい感じが、ラヴェルの2曲目を越えて、フォーレにまで達しました。伸びとか音の艶なんてものが、今まで聴いた谷本さんのヴァイオリンではピカ一の印象を持ちました。そのヴァイオリンに隠れてしまったのが、フォーレのピアノ。あれだけいっぱいに音情報を提供するのですから、隠れ気味になっては物足りなさが出てきてしまいます。ラヴェルのときの音の美しさが後退してしまってたのですが、フォーレって、それでいいのではとの声が聞こえてきそうですが、音の多彩さの必要性という視点での物足りなさなのです。


2016年 7月 1日(金)午後 9時 34分

 今日は、インドネシア映画を観る日。昨日に続き、東南アジアの映画を観る機会に恵まれました。やはり、一度、映画を観ると、数珠繋ぎで、気になる映画が湧いて来ます。シネリーヴル梅田で、インドネシア映画「鏡は嘘をつかない」を観ることになりました。この映画も、昨日のタイ映画と同じく水上生活者が出てきます。いや、こちらは、全面、水上生活者の物語です。この映画の情報を集めて、初めて、この映画が、ワカトビという地域に住むバジョ族の人たちの物語だということを知りました。出演者も、主人公パキスの母親と、この映画の唯一の都会人トゥド、彼は、ジャカルタからイルカの生態を調査にやって来ますが、この2人だけが、本物の役者で、あとの出演者は、皆さん、バジョ族の人たちだそうで、パキスや、その近所の友だちらの演技は、まことに見事なものがありました。物語は、ホントに美しいワカトビの海の風景、そこにある高床式の木組みのバジョ族の水上家屋が映える光景のなかで展開します。物語は、パキスの父親が漁に出かけて、遭難をしたようで戻って来ないところから亡くなったのだろうと思われているところから始まり、その遭難を示す、要するに死を認めざるをえない証拠が見つかるまでの間が描かれます。パキスは、父親が帰って来るものと思っており、その気持ちを、自分の鏡に託します。鏡に呪術的なアイテムという位置が、バジョ族にはあるようだということは、観たあとに調べてみて判りました。その鏡を持ち、父親から聴いた話を思い出す日々が続いていきます。母親は、ずっと顔を白塗りにしています。その意味が判然としないままなのですが、他にも1人だけ、そういった姿の女性が映るだけですので、母親のような立場の女性がする習わしであることは判るのですが、ネットを見ていると、夫の死を受け入れていないことを表しているなどと書いているものを見つけはしたのですが、それにしても、寡婦となったことが、社会的に認知されるされないことを表しているのか、また、自分の気持ちとして夫の死を受け入れていないことの意思表示なのか、そこいらあたりは不明朗なままです。この映画唯一のマレビトがトゥドなわけで、そのマレビトのトゥドの存在が、母親の心を少し動かしているという場面が、幾つか用意されています。そのなかで、横になっている母親の顔にタオルを当て、トゥドが、その白塗りを剥がすところがあります。但し、半分ほどしか取らないので、それが、母親の心のなかを表しているのかもしれません。夫の死を受け入れきれていない心を表しているのかもしれません。終盤、トゥドが、その母親を叱ります。父親に替わり話をしてやれよと。ここで、黄紺などは、自分が鈍いことを思い知るのですが、母親も、パキスと、同じような精神状態だったことを、遅ればせながら知ることになります。表現の仕方のずれは、当然ながら人それぞれで生まれてくるもので、ましてや母親と娘となると、違って当たり前なんてことを、こないな時間の経過を待たねば解らない、、、その辺が、この映画の目指すところだったかもしれません。この映画、進行が凝っているというか、ちょっと分散気味なのが、不思議な魅力になっています。物語があるわけではなく、一人の男の死を受け入れる人たちの時間のかかる心象風景を描く映画なのですが、現実世界では、その同じ時間に、それはそれで、日常が動き、想定外の事って起こるもので、そういった時間を描こうとしたのかなというのが、黄紺の今の地点です、この映画を観ての。この映画、難解ですが、その一方で、そないなことを忘れさせれ自然の美しさがあります。そんなのが、人間の本性だったのだろうと思わせられる映画でした。


2016年 6月 30日(木)午後 10時 8分

 今日は、タイ映画を観る日。あと半月ほどで、タイに出発するかげんで、黄紺的には事前学習のつもりで行ってまいりました。場所は心斎橋シネマート、映画は「すれ違いのダイアリーズ」というものでした。タイの田舎の雰囲気が伝わるとともに、韓流映画っぽいテイストが、とっても心地好い映画というのが、終わった直後の率直な感想。キーワードは、題名にもなっているダイアリーズと学校。日記は1冊しか出てこないのですが、題名は複数形を取っているというのが、なかなか凝ったところで、拍手もの。英語の題名を調べてみると、「先生の日記」で、日記は単数形になっていますから、ますます邦題の命名がでかしています。田舎の水上学校(この風景が素晴らしい)に赴任した若い先生ソーンは、教室の黒板の上に残されていた前任者(女性)のエーンの日記を見つけ、それを読む内に、教師として励まされ、また、その人柄に惹かれていきます。エーンは、恋人から都会に戻ってきての要請を受け入れ、水上学校を去ったのでしたが、都会の学校に馴染めないばかりか、恋人の裏切りを知り、再び水上学校に戻ってきます。1年契約だったソーンが去ったあとという「スレ違い」が、この映画の妙で、ここで、2人の立場が逆転します。今度は、エーンが、自分の日記に、ソーンが加筆した日記を読む番で、今度は、恋人から裏切られたこともあり、エーンが、ソーンの人柄、教師としての姿勢に惹かれ出します。ソーンの居場所を探したりもしますが、2人は、ここでも会えないのですが、ある日、ソーンが生徒に宛てた手紙から、ソーンが、春休みに入ったら、水上学校に遊びに来ることを知り、待っていると現れたのは、エーンを、一旦は裏切った元恋人。反省の心に打たれたエーンは、翌日にソーンが来るのを知りながら、水上学校を去ります。また、「スレ違い」です。あと、もう1度「スレ違い」が用意されるということは、、、。この映画、作り方の妙も見せてくれます。本線は、ソーンとエーンが、1冊の日記に、それぞれが認めた(だから複数形が正解なのです)ものを読み、顔も知らない相手に、ほのかなときめきを感じるところが1つ。も1つは、そうであっても、2人は「スレ違い」、なかなか会えないところです。その会えなくなるエピソードや、エーンと結婚まで考える恋人とのエピソード、また、水上学校での生徒たちとのエピソードは、本線を傍らから支える、本線を導く材料の提供のためにあるのだとばかりに、かなり漫画チックに描いているところです。完全に引き立て役に徹する作りになっているところです。その構造が見えてくると、自ずと本線に感情移入が働き、胸キュン度が上がるという仕掛けになっていますし、正に、そのトラップに、黄紺などは、見事にはまってしまいました。とっても良質な作品です。そして、タイの自然いっぱいの風景がたまりません。お薦め作品、太鼓判です。


2016年 6月 29日(水)午後 10時 26分

 今日は、高校時代の友人と食事会。前を通るばかりで、一度入ってみたいと思っていたスペイン料理屋さんでの会食。そう言えば、同じ顔ぶれ+αで、かつてスペイン料理を食べたことがあったのを思い出していました。イカ墨パエーリャに手を焼いたことを思い出していたので、今日は、予め海鮮パエーリャを予約してあったのですが、加齢の影響か、こちらも食べきれませんでした。「花よりお爺さん〜スペイン編〜」で覚えたサングリアでほろ酔い気分。食べ過ぎたのでしょうか、呑み過ぎたのでしょうか、ちょっとお高いへサップに、目が三角になってしまいました。今度集まるのは、お盆の時期になるのかなぁ、それまでに、黄紺は、タイをクリアしなければなりませぬ。


2016年 6月 28日(火)午後 10時 21分

 今日は講談を聴く日。月一で行われている「第227回旭堂南海の何回続く会?〜増補難波戦記17〜」に行ってまいりました。場所は、谷六の薬業年金会館です。今日のテーマは「大阪城の女たち」。大阪合戦に備える時期から落城に至るまで、豊臣方で名を馳せた女性たちのオムニバス物語ですが、それに、「難波戦記」の異本で、どのような異なった描き方がされているか、この間、南海さんが、この会で試みてこられたことが付け加えられていきました。そういった意味でとってもスペシャルな会なわけですが、今日は、昼間からやたら眠たい一日。睡眠時間は足りているはずなのに、やたらと眠いのですが、それが、まともに出てしまいました。序盤の片桐且元に絡む3人の女性までは大丈夫だったのですが、あとが全滅でした。当然、淀殿の話などがあったはずですが、ほぼ記憶には残っていない低汰落でした。昼間の居眠りはあっても、夜の居眠りは、あっても薄いものでしたが、今日は、そないな生易しいものではありませんでした。あぁ、情けない、もったいない。


2016年 6月 27日(月)午後 7時 52分

 今日も落語を聴く日。「角座日中(ひなか)はなしの会」へ行ってまいりました。先月、この会に行ったところ、割引券をもらったものですから、行かねばの気持ちにさせられてしまいました。ということは、ちょっと落語会が枯渇気味だということになります。でも、この会に行くことで、普段は聴く機会を求めない由瓶や鉄瓶といった噺家さんの高座に接することができました。その番組は、次のようなものでした。治門「道具屋」、福丸「始末の極意」、由瓶「うなぎ屋」、喬若「初天神」、(中入り)、鉄瓶「紙入れ」、喬介「借家怪談」。治門は、先月と同じ「道具屋」。安定感のある「道具屋」は気に入っていますなんてことを、先月書いた記憶があります。福丸の「始末の極意」は初遭遇。扇子、梅干と来て、その流れで極意を尋ねると、裏へ回れとの指示で、下げに向かっていきました。とっても無難なカットの仕方。福丸のネタ選びの基準ってあるのかなと思うほど、色合いの違う噺を手がけていますね。この出番では、キャリアが一番上と思える由瓶が3番手で登場。この寄席には、今日で3回目ですから、番組作りのコンセプトが把握できてないのですが、この分だとキャリアとは関係なく、出番は組まれているようですね。由瓶は、子どもの頃と大人になってからでは、口が変わる、食べ物の好みが変わる話を、マクラで振ってから、最後にうなぎを持ってきてから、ネタへと入っていきました。うなぎを掴めないところでは大暴れ、高座から立ち上がったり、転がり落ちたり、見ない間に、芸風がえらく変わっていました。中トリは、本日のお目当ての喬若。随分と久しぶりです、間が空いたから聴いてみたくなっていた噺家さんの一人です。なかなか小ぶりの落語会では、喬若に遭遇できないですからね。もう、かなり仕込みに仕込んで、手塩にかけた「初天神」ってところで、確実にツボを押さえきった高座に、やっぱり狙いをつけて、今日、この落語会を選んで満足しました。向かいの暇なおっさんが秀逸です。鉄瓶も久しぶりですが、知らぬ間に「紙入れ」なんてネタを手がけるようになっているのですね。でも、「紙入れ」も、噺家さんには人気なようで、需要が増えています。色っぽい女から入り、掴みはOK、これが過ぎると、それを続けないのが、鉄瓶のポリシーのよう。最後までしつこくするのと、性格描写が定着すると薄めるという2つの方法があると思いますが、黄紺的には、鉄瓶支持ですね。ま、好みの問題でしかないでしょうが。逃げ出した新吉の苦悩あたりからも薄味でしたが、それは、時間を気にしたからかもしれませんので、判断は控えたいと思います。そして、トリが想定外の喬介。これが判っていたのならば、もっとわくわく感があったでしょうが、鉄瓶が膝替わりで出てきて、初めて判りました。昨日、自身の会で3席も口演したところなので、ひょっとしたら、ネタがかぶるかもと懸念したのですが、きっちりとネタを変えてくれました。しかも、喬介が持っていることを知りながら、未遭遇の「借家怪談」とは、なんか、ここで、ここしばらくの運を使いきった気がしてしまったほどでした。ただ、この「借家怪談」は、あまりにも師匠三喬テイストが強く、頑張って、喬介の得意にするアホ声高らかな男を演じるのですが、2つのテイストがミスマッチに聴こえてしまいました。理由は簡単です。明るく、アホ声を出す男は、朗かなアホではないからです。そして、普段聴き慣れない河内弁の強面男が、ちょっと喬介に合ってそうもないと思えました。昨日の「火焔太鼓」と言い、ネタ選びに気を付けるか、今までの喬介テイストを複線化するなりしないと、対応に苦労するものに遭遇していきそうですね。それと格闘する喬介も見てみたいという衝動が、一方で黄紺には湧いて来ています。ということで、随分と実りの多い会となりました。この分じゃ、時々、覗かねばなりません。


2016年 6月 27日(月)午前 4時 44分

 昨日は久しぶりの落語会。先週の日曜日に行って以来となります。「第6回八聖亭で落語しま〜す」という笑福亭喬介主宰の落語会に行ってまいりました。先週の月曜日に、喬介の落語会を逃しましたから、待つ楽しみが大きくなっていた会でしたが、その番組は、次のようなものでした。八斗「ちりとてちん」、喬介「花色木綿」、遊喬「上燗屋」、喬介「火焔太鼓」、(中入り)、喬介「七度狐」。八斗は上がるなり、「今日は、実質新人グランプリの優勝者の会です」「たま兄さんはOA枠」に、一挙に、会場のヴォルテージは上がりました。「うまいこと言った」「その通り」ということでしょう。考えてみれば、喬介は、去年のなにわ芸術祭新人賞に次ぐ受賞ですから、上方落語界の押しも押されぬホープの地位を得たわけで、認知度が、ここに来て、一気に開花したというところでしょう。喬介の会の集客力はまだまだでしょうが、コアな落語ファンが足を運ぶ会であることは、毎回確認できることです。「花色木綿」は、松喬一門定番のネタですが、喬介は、日持ちがあやしくなった挿し込みをしました。時事問題をマクラでふることは、ほとんどない喬介ですが、舛添要一ネタをふり、「あれで野々村元議員似が使いにくくなった」なんてことを、マクラで言ってたのですが、「花色木綿」の終盤を聴いて、納得。泥棒に詰め寄られたやもめが弁明するところで、野々村元議員の形態模写をして見せたのです。「YouTubeを30回見て稽古しました」に、また、会場は大爆笑。そないなスペシャルが入ってるとは、、、。黄紺が、前に聴いたときは入ってなかったんだけどなぁ。「火焔太鼓」は、先日、黄紺が時間を間違い行けなかったツギハギ荘の会で出したもの。黄紺にとってはラッキー、2つとも追いかけた落語ファンにはアンラッキー。冒頭の夫婦喧嘩から、喬介の高音がびんびん響く展開。まあ、元来、ハイテンションの続く噺ですから、致し方なきことなのですが、金を見たヨメさんのところで、息切れしてしまってはいけません。今日の口演は、ちょっと、その傾向が看られましたね。それと、侍が出てきます、その位に、もうちょっと色付けして欲しいものと思いました。3つ目の「七度狐」は、2ヶ月前のツギハギ荘の会で出され、大爆笑を喚んだもの。今日は、3席目だったため、あのときの切れ味があったとは言えなかったものの、喬介テイストが、とっても利いたネタだと思っています。ずっと、べちょたれ雑炊を食べ続ける喜ぃ公は、おもしろ過ぎですし、あほ声張り上げ、無邪気に大井川渡りをするのも、声を出して笑っちゃいます。そんなで、喬介3席、それぞれ色合いの違う噺ですが、喬介らしさの詰まった口演を楽しませてくれました。ゲスト枠は、一門の先輩遊喬、こういった落語会では、ほぼ遭遇経験のない噺家さん。出丸&文華との3人会ぐらいですからね。「首提灯」を、最後までやってくれるのかと期待したのですが、控えめの時間を選んだのか、前半部分だけで切り上げました。八斗は、「YouTube師匠に教えてもらったネタをします」と言って、「ちりとてちん」を始めました。この口演、噺の構成に緩急を心得た味付けに、センスの良さを感じる一方、ちりとてちんを口にしたあとのしつこさが鼻につきました。せっかく、緩急の良さが気に入っていたのに、ここまでしつこくするとはと、びっくりしました。でも、以前に比べて、ずっと落ち着いたお喋りになってきて、黄紺の中では、八斗の好感度は上昇中です。終演は4時を回っていましたが、まだまだ早い時間ということで、1時間ほど、アーバン・ウォーキングを楽しんで、帰路に着きました。


2016年 6月 26日(日)午前 4時 38分

 昨日はオペラを観る日。フェスティバル・ホールであった「ローマ・イタリア歌劇団」の「ラ・ボエーム」(ジョルジョ・ボンジョヴァンニ演出)を観てまいりました。「ローマ・イタリア歌劇団」と、聞いたことのない名前の歌劇団ですが、スポレートの歌劇場の公演らしいのです。ま、日本でのオペラ公演の少なさに忍び込んだ公演ということを承知の上で観に行ってきました。「ボエーム」というオペラは、2幕がカルチェ・ラタンですから、人通りの激しいところですから、多人数を要し、しかも子どもが大勢要るという作品です。プロダクションによっては、大道芸人を出したり、贅を尽くそうとすれば、限りなしという特徴を持つものですから、それは、割り引いて観なければならないというのが、この公演を観るときの心得その1です。その2は、このオペラは4幕構成で、第1幕と第4幕は同じ場面ですから、都合3つの異なった場面を用意しなければならないという特徴を持つのですが、引っ越し公演で、且つ全国巡演をすることを考えると、装置に多大の期待をすると酷ということです。人数の問題は致し方ありません。オケも連れて来ていますから、コーラスの人数は抑え気味、エキストラを入れると、金と時間が要るでしょうから、期待すること自体が無茶と決めて観ることに。ただ、子どもは出さないと、テキストも音楽も潰すことになりますから、これは現地調達ということで、芦屋少年少女合唱団が出演していました。そのようななか、4人の男たちの集まる部屋は、お金がないと言ってるにしては、いい部屋でした。広いフェスティバル・ホールの舞台の両端を隠しての仕切りは納得のもの、いい具合のスペースを使っての舞台作りでした。2幕のカルチェ・ラタンは、中庭に設えられたチャイ・バフチェシの雰囲気。前方にテーブル、そこに、中心人物たちが座り、背後のテーブル席にコーラスの人たち。パレードは、客席方向に向かい手を振ることで表していました。オスナブリュックで「アイーダ」を観たときのやり方です。3幕は大黒、向かって右に酒場の入口。ま、2組のカップルの別れを表せばいいのですから、我慢の装置。そないな感じで、元々、寛容の気持ちで観ることにしていましたから、許容の範囲内はクリアってところでしょうか。歌手陣は、期待を上回るもの。特にミミを歌ったカルメラ・レミージョが可愛い声質で、役柄に合っており、絶好のミミでした。ルックスも能力の一つという時代ながら、黄紺のお席は、3階最後列だったため判定不能。ロドルフォ(ジュゼッペ・ディステファノ)は、いかにもという声ながら、ちょっとムラがあったのが欠点。余計な抜いた歌い方、中低音域の不満が残りました。一方、高音に自信がありそうだったため、1幕最後のユニゾンのハイCは、当然出すだろうと思っていたところ、裏切られました。ムゼッタ(サブリナ・コルテーゼ)は、パワー、発声、声質など、全ての点で不満。主役級歌手の中では見劣りでした。マルチェルロ(ロドリゴ・エステヴェス)は、声の張りというか、色彩なんてものに豊かさが足りなかったのが不満とまあ、書けばいろいろと書いてしまいますが、総じてと書けば、期待を上回るというレベルの中での不満なり何なりを書いたつもりです。逆に、文句を言いたいのがオケ、歌手陣のレベルからすると、かなり落ちます。いったい、どういった人たちを連れてきたのだろうと、終始、訝しい気持ちで聴いておりました。プッチーニの美しい音楽を、なんと心得おるかと言いたいレベルだったと思いました。指揮者カルロ・パッレスキの腕前にも問題があったのでしょうが、黄紺的には、それ以前の問題だったと思いました。そないな感じで、不満を持ちつつ、やっぱ「ボエーム」ってオペラ、きれいな音楽に包まれてるよなって、生で観る「ボエーム」に、いい心持ちになって帰路に着いた黄紺でした。


2016年 6月 25日(土)午前 0時 18分

 今日は芝居を観る日。芝居を観るのは、実に久しぶりです。「in→dependent theatre 2nd」であった「片岡自動車工業」の公演「ゼクシーナンシーモーニングララバイ」に行ってまいりました。「片岡自動車工業」という劇団は、役者にして演出家の片岡百萬両の個人商店的な劇団。理由は知らないのですが、解散をしてしまった「ミジンコターボ」という劇団の顔の一人であった片岡百萬両が、解散後初の公演を行うということでのチョイスです。もう一人の顔だった竜崎だいちの解散後初の旗揚げ公演には行けなかったので、こちらは、ぜひにということで落語会には目をつむり、とにかく行ってまいりました。「ミジンコターボ」時代は、主として竜崎だいちが書き、片岡百萬両が演出をするというパターン。片岡百萬両が書いた作品を、1度だけ観た記憶がありますが、当時の劇団の方向性を維持したファンタシー作品だったのですが、新たな劇団のテイストはどうかというところに注目していたのですが、今日の芝居は、ファンタシーでもなんでもない、ただの一組のカップルの一生ものでした。小学校時代の同級生が、生涯を共にするという話で、幾つかの節目を切り取り、それも、どこにでもありそうなプロットを使い展開するというもの。言い方は悪いかもしれませんが、安っぽい商業演劇ってところで、今日びの商業演劇も、もうそっと捻りを盛り込み楽しませるだろうというもので、完全なる外れ。やっぱ竜崎だいちと離れたのはマイナスに作用したと言われても、仕方ないのじゃないかな。役者陣は、黄紺も知っている関西小劇場界で知られた人たちが出ていました。そのためか、女性主人公を6〜7人の役者が交替で演じるというもの。宮川サキの名前が、プログラムに書かれていたので、いつ出てくるのかと待っていたら、やっと最後に出てきて安心。一時は、ちらっと出てきて気づかなかったのかと思ってしまってたものですから。


2016年 6月 22日(水)午後 11時 3分

 今日は二部制の日。昼間は、枚方で映画を観て、夜は、カフェモンタージュで音楽を聴くというものでした。昼の映画は、枚方市民会館であった「ベトナムの風に吹かれて」上映会。息子が枚方市内に住んでいるため、会いに行ったとき、たまたまこの上映会を知ったというもの。また、この映画自体も、映画館で上映されたときは、黄紺自身、さほど惹かれるものはなかったのですが、この7月にタイ旅行を計画しているもので、タイではないのですが、同じ東南アジアに、ちょっとでも親しみたくなったのが、この映画に行くきっかけとなりました。ですから、筋立てとか、そういったものではなく、ベトナムの風景を楽しみに行ったようなものでした。そもそも、最近流行りの高齢者問題を扱ったりする映画は、基本的に観ないものですから、この映画の、そういった点はスルーするつもりで臨みました。もちろん、それで正解だったにせよ、目に飛び込むのには耐えられなかったことは事実です。ま、この映画自体に原作があるわけで、その原作を映画化するということが発想で生まれた映画ですから、我慢しなければならないということで観に行ったわけです。話は、認知症の進行した母親を連れて、ベトナムに渡り過ごしたという話です。のんびりとした空気の中で過ごす、でも、そこは外国ということがポイントの映画というのは、観る前から判っていること。誰しもが想像することなわけですから、それに色を付け加えようとします。ベトナム残留日本兵と、インドネシアでは知られた話とインプットされてはいたのですが、ベトナムでも似た状況だったわけですから、同様の問題が起こっていたということで、その問題が盛り込まれたり、認知症の問題を普遍化するということなんでしょうね、ベトナムの高名な女優の認知症を、えらく芝居化して登場させたり、主人公(松坂慶子)を昔の友人(奥田瑛二)と再会させ、人生の彷徨を語らせ、その一駒と、介護の問題を想像させるような作り方になっていたりと、大森一樹監督頑張っていましたが、頑張りが見えれば見えるほど、ごちゃ混ぜ感も出てきていました。期待のベトナムの風景と言っても、同じようなカット割りが多く、期待していたほどではなかったなかで、残留日本兵の残した女性を訪ねる列車の窓からの風景は良かったな。総じて、シネコンで上映されたときの判断に留めておけば良かったと思った次第でした。
 枚方市民会館を出ると、まだ夜のコンサートまでは時間があったので、一旦、帰宅。自宅待機をしてから、カフェモンタージュに向かいました。今日は、「クラリネット五重奏」と題して、(クラリネット)村井祐児、(ヴァイオリン)石上真由子、西川茉利奈、(ヴィオラ)小峰航一、(チェロ)上森祥平の皆さんで、「J.ブラームス:クラリネット五重奏曲 ロ短調 Op.115 (1891)」が演奏されました。村井さんは、黄紺も、随分と昔から、そのお名前を伺っていたクラリネット奏者、日本を代表すると付け加えなければならない方。カフェモンタージュに出演された方の中では、随一と言ってもいいくらいの有名人。ましてや、ブラームスの五重奏曲ですから、これ以上のプログラムはありません。ただ、このコンサートが、どのようなことで成立したのかが、このコンサートを知ってから気になっていたところ、今日、そのわけが、オーナー氏から明らかにされました。それは、カフェモンタージュで、リハーサルをされていた石上さんの演奏を、偶然、カフェの客として来られた村井さんがお聴きになったことからだそうです。一緒に、ブラームスをやろうとなったとき、東京芸大所縁の方々で、今日のメンバーを組み(但し石上さんを除く)、このコンサートが実現したということでした。5人の座り方がどのようになるか、椅子の配置を見ても判らず、ちょっと期待を持って、向かって右端の前の座席に着席。でも、そこは小峰さんのお席。村井さんは、まん真ん中に座られました。おかげで、中低声部が耳に響く展開に。石上さんは、相変わらず伸びやかな音を出されますから、クラリネットが沈みがちに聴こえる席となってしまったからでしょうか、村井さんのクラリネットが、えらく枯れた味わいと、耳に入ってきました。その音が、村井さんの風貌を反映しているものですから、黄紺の耳になじんでいるのとは違った雰囲気を持つブラームスになっていました。楽曲全体が、すーっと音が切れ上がるようにして終わるからでしょうか、村井さんが、「これでおしまいです」と言われて終わりました。狭い空間ならではの和やかさです。オーナー氏が、最後に、もう一度出てきて、「モーツァルトもお願いしたいのですが」と言われると、万雷の拍手が上がりました。もう、それだけで、今日は、ブラームスをというよりは、村井さんお目当てで来られていることが多数であることが判りました。


2016年 6月 21日(火)午後 7時 12分

 今日は、再び兵庫芸文センターに行く日。今日は、 「佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ関連企画★ワンコイン・プレ・レクチャー『夏の夜の夢』第3回〜英国人歌手はなぜブリテンがお好き?〜」に行ってまいりました。この7月に予定されているオペラ公演のプレ企画の1つです。ドイツでも、プレミアを迎える時は、こういった企画がありますし、公演日には、毎回、開演に先立ち30分ほどの解説が、ロビーを使って行われています。それの日本版ですが、この兵庫の場合は、そのプレ企画の数も、随分と多くなり、それのチケットを押さえるのも大変になってきています。ならば、いっそのこと、オペラの演目を増やしてくれればいいのですが、そうはなりそうもありません。なお、今日の出演者の皆さんは、次のような方々でした。講師のフィリップ・シェフィールド(「夏の夜の夢」スナウト役/テノール)氏のほか、藤木大地(「夏の夜の夢」オーベロン役/カウンターテナー)、青木宏朗(兵庫芸術文化センター管弦楽団 コアメンバー/ホルン)、梁川夏子(ピアノ) の皆さんでした。1時間半に渡るフィリップさんの講演は、3つの部分に、大きく分かれていました。まず、ご自分の紹介です。名刺替わりには、ブリテンの歌曲でした。そして、ちょっとでも、ブリテンの音楽になじんでもらってから、ブリテンの紹介へと移り、ここでは、珍しいホルンのオブリガード付きの歌曲も2つ披露されました。現代の作曲家でありながり、とっつきにくい現代音楽の作曲家ではなく、情景や心情を、独特の発想で曲作りをしたブリテンの特徴が強調されたかと思います。そういったブリテン音楽の定着を図ってから、いよいよ「真夏の夜の夢」の筋立てを紹介しながら、ブリテン音楽の妙を語っていただいたかと思われます。黄紺的におもしろかった点をメモ書きしておきたいと思います。オベロンらの妖精は、カウンターテノールらを使い、クラシックな作曲法を復活させている。パックは、演出により、おっさん俳優がやったり、子役、果てはダンサーがやったりする。今回は、日本人の役者がするそうですが、明かされたのはそこまで。名前からして男性だろうくらいは判りました。そして、今回のプロダクションは、妖精の世界の者は日本語で、人間界の者は英語で歌うそうで、二つの世界の者たちは、お互いにコミュニケーションが取れないということを、そのように表現したそうで、これは、なかなかのアイデアです。職人たちの素人芝居のときの音楽は、男性はヴェルディの、女性(但し歌うのは男)はドニゼッティの「ルチア」のパロディになっているそうです。確かに、映像を使っての説明で、それははっきりとしました。「ルチア」は、有名な「狂乱の場」のフルートとの掛け合いのところでした。そのアリアを歌う職人の名前はフルートと、まあ、この作品らしい遊び心が溢れています。そのようなことを、映像では、グラインドボーンと、黄紺も持っているロバート・カーセンのプロダクションを使っていました。当然、オベロンの話が出てくると、お待ちかね藤木大地さんが登場し、歌唱を聴かせていただけました。ホント、真っ正面からのプレ企画、西北まで足を運んだ値打ちが、十二分にありました。


2016年 6月 20日(月)午後 8時 57分

 今日は落語を聴く日として、「喬介のツギハギ荘落語会」に行く手筈で家を出たのですが、なぜか、時間を1時間遅く出てしまい、それも、時計を何度も見ながら、気がつかないというわけの解らないことが起こってしまいました。ようやく気づいたのが、ツギハギ荘まで、あと5、6分というところ。開演時間をとっくに過ぎていました。家を出てから、既に4時間近く経っていました。ボケるのにも、度が過ぎていて、腹さえ立ちませんでした。おかげで、この会を、2回連続でパスしてしまいました。


2016年 6月 19日(日)午後 7時 44分

 今日は繁昌亭昼席に行く日。福笑がトリをとるときには、少なくとも繁昌亭の昼席には行こうということにしています。程よい間隔で、少なくとも繁昌亭の昼席を、そうしておれば覗くことができるメリットがあります。今日の番組は、次のようなものでした。治門「動物園」、福丸「書割り盗人」、春若「京の茶漬」、ミヤ蝶美・蝶子「漫才」、瓶吾「皿屋敷」、花丸「三十石」、(中入り)、タージン「漫談」、枝光「色事根問」、しん吉「金明竹」、福笑「葬儀屋さん」。トップの治門は、禁令が出たのじゃなかったのかという「動物園」。この人、虎の動きが小さいのが難点。福丸は、今日だけ雀太の代演。雀太も聴いてみたいし、福丸も聴いてみたいしというところですね。福丸の「書割り盗人」は初めて。福丸は、こういったすかたんが出てくる噺の方が合ってますね。自分とは違ったキャラを演じる方がやりやすいみたいです。いい感じだなと思う噺って、そないな噺に偏っています。如才なく、時間枠に刈り込んでの口演でした。この1週間、中トリをとっていた春若が、今日は3番手。となると、予想通り、「京の茶漬」でした。マクラの「ジョーク」が、今日も客席には評判がいいようでした。瓶吾のちょっとした噺を聴くのは、これが初めてだと思います。自分的には、繁昌亭でしか遭遇しない噺家さんなので、短めのネタしか聴いたことがなかったのです。時間の関係でしょうが、いきなり皿屋敷の因縁噺からスタート。暗い重い雰囲気が出ていて、なかなかしっかりとしたもの。ただ、申し訳ないことに、道行の途中から居眠りが出てしまいました。原因不明の居眠りです。中トリは、春若とのチェンジで、今日だけ花丸が務めました。袴をはいて出てきたので、ひょっとしたらと思ったら、その予感が、見事に的中。花丸の「三十石」は、ホント久しぶりです。今日は、伏見街道から始めてくれました。中書島の浜で船中の妄想男に入る直前辺りで、再び居眠りに突入。気がつくと、もう舟は動き出していました。舟唄は枚方が出てきたあと、かなり長い間をとってから、八軒屋まで持っていってから、「夢の通い路」で下りました。花丸の口演は、いずれの噺を聴いても、噺全体が明るいのがいいですね。今日は、色ものが、なかなか濃〜い2組が登場したのですが、タージンは初遭遇です。繁昌亭以外でも、生タージンを観たことがなかったもので、これは、本日のプレミア。ゼンジー北京の弟子だと言ってました。全くの初耳でした。枝光は、古典の「色事根問」の改作ものを披露。元ネタの1から10までの言い種を残し、あとは、全て現代風にアレンジ。なかなかいい仕上がり具合。時事っぽいネタも入ってました。かなり、客席を沸かせたものですから、しん吉はどうするか、これが、俄然気になったのですが、「金明竹」だと判り、納得。テンションが維持できるネタ選びができるのが、やはりプロの感覚だなと、いたく感心。ただ、時間を気にしていたのかな、先をかなり急いでいたという印象。流れ過ぎて、おもしろみが、少し減らしてしまってました。そして、福笑は「葬儀屋さん」でした。ここ2回、繁昌亭の昼席で、福笑は「葬儀屋さん」に当たっているはずです。当たって欲しいときには、なかなか当たらず、一旦当たると連続とは、ちょっと酷い。でも、この噺のバカバカしさは類を見ないものがありますから、不満を言うものではありません。ただ、ちょっと福笑のパワーが落ちてきているのが気になっています。さすがの福笑も、年齢には逆らえないということなのでしょう。


2016年 6月 19日(日)午前 4時 31分

 昨日は講演を聴く日。京都府国際センターで行われた「国際理解講座と写真パネル展示会」に行ってまいりました。こちらの講演会は2回目となりますが、今日は、「心の故郷、京都へ〜5年間を振り返り、京都と日本の国際化を考える〜」と題して、フランス出身の京都府国際交流員のアリス・ボナミさんのお話しを聴くことができました。お話しは、出身地のボルドーの紹介から始まり、国際交流員の仕事内容、この5年間で個人的にはまったことといったアウトラインから、本題の国際交流のポイントのお話へと入っていきました。その中から見えてくる日本的なもの、もちろん良い点悪い点について触れられていたなかで、日本のポジションについて話されたことが印象に残りました。フランスの多民族共生経験は、歩きながら考えざるをえなかったが、日本は、そこでの経験を学ぶことができるということです。これは、言い換えれば、日本は、まだ、そのような経験に未熟だということでもあるわけで、それは、確かにそうであり、今のフランスを歩いていて周りを見たときの印象から、容易く理解できることなのです。そういった社会で、フランスは成熟してきたとの認識を示されていました。特に若い世代に対する認識では、とても楽観的な見方をされていたのは、黄紺的には新鮮なものがありました。一方の日本に対しても、黄紺などは、国際化という点では、日本の若い世代の保守化に懸念を持っているため、いくらフランスのようなモデルがあったとしても、多民族共生に対応できる強さのようなものを感じないだけに、楽観的過ぎやしないかとは思ってしまいました。講演後の意見交換が、黄紺の想像を超えるもので、参加者からの発言に魅力的なものがあり、また、それに応答される講演者の回答も素早く、こういった一般の方々対象の講演会では、なかなか看られないものがあり、黄紺の興味を掻き立てました。それは、やはり、このような講演会に足を運ぼうかという人っていうのは、国際経験をお持ちの方、ないしは少なくとも国際交流に深い関心を寄せられている方たちばかりだったからでしょうね。そういった意味で、とっても濃密な2時間を過ごさせていただけて、嬉しくもあり感謝の気持ちを持つことができました。


2016年 6月 17日(金)午後 9時 5分

 音楽会3連続の最終日は、兵庫芸文センターへと、足を伸ばしました。今日は、こちらで「兵庫芸術文化センター管弦楽団第89回定期演奏会」がありました。全く、こちらのスケジュールを押さえてなくて、気づいてなかったところ、いつぞや芸文センターでのコンサートに行き、今日のコンサートで、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲が出ることを知り、慌ててチケットを手に入れたのが、今日のコンサートでした。ですから、高くて良くない席で聴くことになりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「ロッシーニ:歌劇『泥棒かささぎ』序曲」「コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.35」「ドヴォルザーク:交響曲 第8番 ト長調 op.88」。、指揮はダニエーレ・ルスティオーニ、ヴァイオリンは川久保賜紀でした。川久保賜紀を聴くのが初めてだということもあり、狙いとしては、上々のコンサートとなりました。ロッシーニが始まると、指揮のダニエーレ・ルスティオーニのオーバーアクションに目が行ってしまいました。若い指揮者ですから、オーバーアクションもきびきびしており、気持ちいいとともに、何を求めているかが判り、それはそれで、見ていて、紡がれる音楽が判り、却って楽しくもありでしたが、肝心のオケが言うことを聴いてくれていない。ロッシーニのブッフォによくある、同じ旋律を繰り返しながら、徐々にクレッシェンドしていくフレーズ、指揮者の求めている振幅に比べ、なんてせせこましいのでしょうか。これって、結局はパワー不足なんですよね。だから、振幅を持たせようにも、カワイイものしか持たせることができないということでしょう。そういった力量面で言うと、木管もオーボエ以外は素っ気ないもので、総体として、ブッフォの楽しく盛り上げるわくわく感に乏しいもの。その流れは、コルンゴルトから、ドボルザークの第2楽章まで続きました。コルンゴルトのソロ川久保賜紀にも伝染したのでしょうか、運指などというテクニカルな面はいいのでしょうが、こうなっちゃコルンゴルトのこの曲は願い下げというツボにはまってしまいました。線が細い、それだからか、オケが怖ものになって弾いているってところでしょうか、第1楽章は惨憺たるものと言わせていただきます。コルンゴルトの美しいメロディが最大に発揮される、第2楽章は、この線の細さが、最大の敵と思っています。繊細なメロディだけど、音色は厚く、これが、黄紺の描く美しいコルンゴルトのメロディ。そのツボを外されると、困るしかありません。ドボルザークの8番って、生で聴くのって、ホント久しぶり。まぁ、この曲を目指して、コンサートには行きませんからね。民族音楽の香りを漂わすドボルザークの曲の中でも、1、2を争う人気曲でしょう。1楽章を聴いていて、指揮者の求める細かなマルカートにも対応しきれていないし、音楽自体に伸びやかさがないしと、考えれば、演奏の頭から似た状態で来てしまっているのに気づきました。おもしろくないと思っていたのが、ようやく3楽章に入り解放された感じ。但し、指揮者のアクションが、一段と大きくなっていたのが、その間の事情を表しているかのようでした。今日は、元同僚ご夫妻と一緒になりました。偶然、同じコンサートに行くことが判り、僅かでしたが、ロビーでお話しすることができました。久しぶりに外の空気を吸った気分でした。


2016年 6月 16日(木)午後 10時 41分

 今日は二部制の予定にしていたところ、急に家の用事が入り、昼間の予定が潰れかと思ったのですが、これが、思いの外、あっさりと片付き、予定していた京都シネマに滑り込むことができました。今週、日に1回だけ、グァテマラ・フランス映画「火の山のマリア」が上映されているのです。随分と前に、大阪で上映されたとき、うまく日程が合わなくて逃していたのですが、今になって観られるとは思っていなかったもの、それが、際どく間に合ったということになります。火山地域に住むグァテマラの先住民家族の物語です。ストーリーは、さほど複雑ではありません。マリアの家族は貧しいため、住む場所、仕事を確保するために、親が勝手に、マリアと地主との結婚を決めてしまう。だけど、マリアには心を寄せるペペという男がいたが、ペペはアメリカへと一人で行ってしまうのだが、そのあと、マリアは妊娠に気づく。母親も気づくことになり、最初は、なんとか堕胎を試みるが、うまくいかず、それを産めということの印ととり、父親にも知らせることになるのですが、一方で、それでも、退去だけは避けようとして、蛇の発生で農地が使えなくなっているのを何とかできれば、残してもらえるのではと、迷信に従い、妊婦のマリアを蛇の蔓延る農地を歩かせると、、、。そういったストーリーが、まるで民俗学の記録フィルムを観るように展開されていきます。それに、先住民族差別、嬰児売買といった社会問題を潜めていきます。ゆったりとした時間の流れる映画なもので、僅かでしたが居眠りを、またまたしてしまうほどのもの。ちょっと珍しいものを観たぞという程度かな、映画としては。
 映画が終わり街に出ると、えらく強い雨降りに、びっくり。ウォーキングをしようかと思っていたのですが、とんでもありませんでした。家に戻ることに。夜までは、完全なる自宅待機。そして、夜は、昨日に次いでカフェモンタージュへ。今日は、昨日の続きで「シューマン&ブラームス− ヴァイオリンソナタ全曲 後篇 −」でした。演奏は、昨日と同じ、ヴァイオリンの上里はな子とピアノの松本和将ご夫妻。このお二人が夫婦だということは、昨日初めて知りました。で、今日のプログラムは、「J.ブラームス:ヴァイオリンソナタ 第2番 イ長調 Op.100」「R.シューマン:ヴァイオリンソナタ 第1番 イ短調 Op.105 」「ヴァイオリンソナタ 第3番 ニ短調 Op.108」でした。シューマンを間に挟んで、ブラームスを2曲というプログラム。昨日のシューマンの2番に比べると、規模は半分ほどの曲ですから、こういったプログラムもありかなところもの。今日は、オーナー氏の前説的な解説だけではなく、1曲目のブラームスが終わったあとに、松本さんによるお喋りが入りました。それに依りますと、上里さんはシューマン、松本さんはブラームスに馴染みやすいとのこと。昨日も書いたのですが、松本さんの方は違和感がなかったのですが、上里さんのブラームスには、そうではないものを感じていましたし、1曲目のブラームスでも、やはり、それを確認していましたから、至極納得の黄紺でした。上里さんのブラームスは、昨日、行間が物足りないなんて書き方をしましたが、今日は、3番は、そないな印象を持たなかったのですが、2番では、明らかに曲の図体の大きさを測りかねている、ないしは測り損ねているという印象を持ちました。懐が深いとか、余裕があるとかとして、表現に置き換わるものに、満足していない自分があるのです。一方の松本さんは、以前聴いたときの印象は、とても確固たる自分を出されるところに魅力を感じて、狙いを付けたピアニストになっていたのですが、昨日は、やたらと音色の美しさが際立ち、合わせ上手という印象だけが残り、肩透かしと言っていいのか、ソロじゃないから、無い物ねだりになるかと思いながら聴いていたのですが、今日は、合わせ上手の顔ばかりが目立ってしまいました。ということで、ロマン派真っ正面企画と、勝手に名付けていたコンサートが終わりましたが、明日は、真っ正面どころか、行きつくしても行きつくしても、奥の奥に潜むロマン派コルンゴルトを聴きに行ってまいります。


2016年 6月 15日(水)午後 10時 53分

 今日から3日間は、毎日音楽会を予定しています。今日は、まずカフェモンタージュ。今夜は、「シューマン&ブラームス− ヴァイオリンソナタ全曲 前篇 −」と題したコンサートがありました。ヴァイオリンを上里はな子、ピアノを松本和将というお二人による演奏会でした。そのプログラムは、「J.ブラームス:ヴァイオリンソナタ 第1番 ト長調 Op.78『雨の歌』」「R.シューマン:ヴァイオリンソナタ 第2番 ニ短調 Op.121 」でした。作曲された順の逆での演奏、ま、曲想からすると、妥当な選択かと思いますが、聴いている立場からすると、出来不出来という尺度で言うと、かなりシューマンが上回った、言い換えると、ブラームスが下回ったために、この調子で、明日も含めて聴かねばならないのかと、一時は、少々悲壮な覚悟を持ったほどだったため、演奏順が作曲順ならば、そこまでの落胆はなかったかと思うと、それはそれで残念なことだったと思います。シューマンは、この2番のソナタだけは、狂ったんじゃないかと思わせられるほどのハイテンションの音楽を提示します。殊にヴァイオリンの中低音域に勢いが出ないと潰れ感が出てくる、かなり異様な音楽です。それが、全部が全部とまでは言いませんが、かなりの部分がぶっ飛ばし傾向で、他のシューマン作品では類例の看ないもの。それが、上里さんに合っていたようで、ぐいぐいと引っ張る力は、半端ではありません。それに対して、なんと味気のないブラームスだったことでしょう。行間に情緒の欠片を見出だそうとしても、無理だったなぁ。黄紺の耳には、虚しく音だけが流れていきました。こういったときにこそ、居眠りが出ても許せるのですが、その気配すら、今日は出ないのです。頃合いの昼寝ができたもので、さすが、居眠りの心配はなかったのです。ということで、明日への楽しみが残りました。明日は、シューマン1曲に、ブラームス2曲です。なお、今日は、アンコールとして、シューマンの「ロマンス第2番」が演奏されました。


2016年 6月 14日(火)午後 10時 9分

 今日は落語を聴く日。今週は落語を聴く機会が少ないのですが、せっかく落語を聴ける日に、いい会がバッティングします。今日も、「生喬百席」を捨てることになりました。替わりに行ったのは、「第53回とびっきり寄席」。守口文化センター地下1階和室で、定期的に行われている会で、最近聴いてなかった佐ん吉を利きたくなってのチョイスです。その番組は、次のようなものでした。佐ん吉&ちょうば「前説」、二葉「寄合酒」、雀五郎「遊山舟」、佐ん吉「蔵丁稚」、ちょうば「皿屋敷」。今日は、部分的居眠り。但し、雀五郎以後、全員のどこかで居眠りと、相変わらず不調が続いています。この会は、地域FM放送に流れるということからでしょうか、冒頭に、会場の暖め役として「前説」が置かれています。その替わり、マクラは簡潔に済ませて、すぐネタに入ってしまうという特徴があります。この「前説」で沸いたのは、今日の大入りの原因は、二葉にありと言い出したとき。不思議と納得する客席に、言い出した2人も、それをネタにし出しました。雀五郎も、そうでしたから、そうかもと思っているからかもしれないなと思ってしまいました。何ヵ月か前に、米二一門会に行ったとき、二葉が、団朝のところへ、「寄合酒」の稽古に行っていると言ってましたから、どこかで遭遇できるだろうと思ってましたが、遭遇するまで、随分と時間が経ちましたが、ようやく遭遇できました。「登場人物の多いネタです」「私は声が高いので、皆が丁稚になります」と言ってから始めました。確かに声質は言う通りですが、混沌とするなんてことはありませんでした。ちょっとした間の取り方や、抑揚が巧みですから、違和感なく聴くことができました。その辺の特徴を把握して、修業時代に、米二が、きっちりと仕込んだのでしょうね。雀五郎は、お囃子のない会にも拘わらず、大胆に「遊山舟」を出しました。さすがに、冒頭の舟行き、橋の上の賑わいは、お囃子なしでは無理と看たようでカット、喜六・清八のゴールデンコンビが、橋の上で語り合っているところからのスタートとなりました。但し、揃いの浴衣を着た稽古屋の連中が乗る舟の通過は省くと、噺が潰れますから、それはそのままでした。相変わらず、雀五郎はテキストの読み込みが良く、細かな挿し込みが、小気味よく決まってました。佐ん吉の「蔵丁稚」は、初めての遭遇。旦さんの苦みばしった表情などは、今までの佐ん吉にはなかった風格のようなものを看ることができたのですが、残念ながら、この噺のハイライト部分の定吉による四段目の一人芝居は、ほぼ居眠りの中となってしまいました。ちょうばも鳴り物の入る「皿屋敷」。序盤の皿屋敷の由来話をするおやっさんは、これなんかは、ちょうばのお手のもの、こういったキャラの男、暗いキャラの男は、うまく表しますね。でも、その途中から居眠りに突入。半ばの道行きで、怖いと言ってはしゃいでいる様子は、半寝の状態なもので、周りの暗さなどはいかがなものか、それを測定する能力を、黄紺は失してしまってました。終盤の後半は、ちょうばが、えらくいじってしまいました。お菊さんがショーアップしていく姿を、現代の芸能ネタを絡ませ、えらく膨らませてしまいました。かなりしつこい印象が残るほどのもの。賛否の分かれるところでしょう。今日の居眠りの原因を、自分以外の責任に帰するならば、会場の蒸し暑さ。会場単独で、6月段階ではクーラーを入れられないためで、とにかく、黄紺は、終演後逃げるように会場をあとにしたほどだったのが1つ。それと、つい数日前から、夜のお出かけの際は、食事をしてから会場入りするようにしたため、ちょっと身体のリズムを崩しているのが、2つ目の原因と考えています。元々は、体調が良くないため、夜遅くなってから、お酒を呑みながら食事をすることを見合わせているからなのですが、それが、リズムを崩しているかもしれないと思っています。加齢とともに、融通が効かなくなってます。


2016年 6月 13日(月)午後 11時 00分

 今日は映画を観る日。最近、映画を観る機会が増えています。1度行くと、いろいろと映画情報が入るものですから、また、新たな映画に足を運ぶというやつです。その逆が芝居で、こないだなどは、南河内の公演をも逃してしまいました。気がついたことは気がついたのですが、もう融通が効かすことができる範囲は過ぎていました。で、今日は、京都シネマで、イギリス映画「ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出」を観てまいりました。映画館での「ローマの休日、、、」のコピーにはまってしまったってところですね。曰く「『ローマの休日』誕生秘話ともいわれる史実に基づく感動の一夜」というのに引きずられて行ってしまいました。第2次世界大戦のヨーロッパ戦線の終了に沸き立つロンドンで、1晩だけの約束で、バッキンガム宮殿を、お忍びで抜け出るエリザベスとマーガレット姉妹。警護の隙を狙い、2人は、バラバラになり夜の街に出ていく冒険譚。行きつくところは、娼婦館だったりアヘン窟まで出てくる過激さ、危なさ、そんななかで、マーガレットは、ハチャメチャに騒ぐキャラとして描かれ、エリザベスは、お約束の男との出逢いが待っています。男は、空軍の兵士で、脱走兵っぽい。その男と、マーガレットの行方を探す内に、戦争の実際、社会的不平等などを知っていくというところは、言わずもがなのお約束。逆シンデレラは、時間が来ると戻らねばならないのも、お約束。このお約束のラインを外すことなく、最後の大団円に導いてくれる映画です。物足りないと思うむきも、当然の如く出てくるでしょうが、実在の人物を、ましてや 健在な人物を描くわけですから、エリザベスは宮殿に戻らなかったとはできない相談です。ですから、外枠は、当初から見えすぎるくらい見えているわけですから、黄紺は、それらのお約束事を楽しみに出かけ、また、それを楽しんできました。その上で言うのですが、もっともっと楽しませて、心ほんわかにさせて欲しかったなというのが、正直なところでした。でも、スイングする音楽に乗った目っけもののいいテンポは、なかなかのものがありました。


2016年 6月 12日(日)午後 8時 2分

 今日は文楽鑑賞の日。「Discover BUNRAKU」に行ってまいりました。要するに、「文楽鑑賞教室」の外国人向け公演です。「文楽鑑賞教室」は、何度も行っているので、今年は、気分を変えてと思ったことが1つ、もう1つは、MCを春野恵子さんが務められるということで、その気になってしまったのはいいのですが、今日になって、「字幕も英語だろう」と思うと、一挙に失敗感が出てきてしまいました。なお、本公演のプログラムは、次のようなものでした。「NININ SAMBASO (二人三番叟)」「The ABC of BUNRAKU (英語での解説)」「NATSU MATSURI NANIWA KAGAMI (夏祭浪花鑑)〜Tsurifune Sabu Uchi (釣船三婦内の段)、Nagamachi Ura (長町裏の段)」。恵子さんは、英語だけではなく、日本語を並行して使ってくれたので、解説が解らないのではないかという懸念は、あえなく突破。むしろ英語解説が入る方がおもしろいところもありで、通常の鑑賞教室よりおもしろいかもしれません。2つ目の心配だった字幕ですが、これは、現代日本語への翻訳と考えれば、耳からは生のテキストが入ってきますから、通常より中味を把握しやすいと、これまた、通常の鑑賞教室を凌ぐものと感じました。もう決めました、来年からも、鑑賞教室は外国人向けに限ると。それを知ってか、会場の日本人率が、思いの外高いのも、安心して鑑賞することができた、大きな要因となりました。しかし、恵子さんの英語は、ネイティブのそれです。日本に帰って来られたのが、確か5歳くらいだったはずですから、そこで習得されてきた英語力を維持する手を執られていたのでしょうね。MCの恵子さんを活用する構成の方も、今までなかった手法。開演前に、既に恵子さんが登場し、「二人三番叟」の解説、同時に、字幕の方にも、その内容ないしは補充説明が出てくるので、黄紺などにはありがたかったのですが、日本人がわりかし入っているという演出なので、英語も、ちょっと解るという日本人が、一番喜べるもの。日本語の解らない人は、日本語で喋られている時間帯が、間延びをしてしまってました。「文楽解説」も、まず、「夏祭浪花鑑」の「釣船三婦内の段」の前の段を、少し見せながらの解説となってました。しかも、始まりかけると、恵子さんが出てきてストップをかけ、「口上」の人に話しかけていったり、この狂言に出た人形、人形遣い、床のお二人と話ながら解説に入るというもので、今までにはなかったものでした。肝心の「夏祭浪花鑑」ですが、「釣船三婦内の段」の、しかも重要な場面、お辰が、自身の顔を焼くところが、黄紺の記憶からは吹っ飛んでいます。この場面の太夫さんは咲甫太夫さんだったのですが、そこんところが、かなり跳んでしまってます。また、居眠りです。今日は、昨日のような半寝という可愛らしいものではないですね、記憶の度合いが違いますからね。でも、一度覚醒すると、さすがに二度寝はなし。ですから「長町裏の段」は、幸い、大丈夫でした。この段も、文楽らしい、えぐい場面ですね。これでもか、これでもかと、刀を突き刺していますからね。この場面を観ると、勘三郎のニューヨーク公演の映像を思い出します。また、だんじり囃子を聴くと、「だんじり狸」を、こごろう時代の南天が口演するときに、お囃子の名手米左を喚んできたことを思い出します。様々なことが去来する狂言です。そう言えば、「土橋万歳」を、米朝の口演で2度聴いてますが、まだ、その頃は、土橋の場面が、この段のパロディだと知りませんでした。こないなことも思い出させてくれます。


2016年 6月 11日(土)午後 10時 12分

 今日は二部制の日。昼間は、珍しく高槻市内で落語を聴く日。夜はカフェモンタージュで音楽を聴く日でした。昼間の落語会は、高槻現代劇場レセプションルームであった「第15回レセプション亭落語会」でした。他にも、多くの落語会のあった日だったのですが、早々とチケットを押さえてあったために修正が効かなくなってしまいました。別に、この会に不満があるわけではないのですが、決め打ち的にチケットを押さえ、迷う余地をなくしてしまったことを後悔したのでした。落語会の番組は、次のようなものでした。慶治朗「七度狐」、紅雀「隣の桜」、千朝「肝つぶし」、(中入り)、塩鯛「三十石」。今日は、寝不足の影響でダメな日ですね。4時半過ぎに目が覚めたままでのお出かけはきついものがあります。紅雀の高座の途中でダウンしたあと、千朝の高座も続いてしまいました。今日のメンバーで、若いとは言えない年令になってはいますが、中堅のパワフルな元気を出せるのは紅雀しかいませんでしたから、ここでの居眠りは、この落語会の印象を下げるように作用してしまいました。身から出た錆ですね。「隣の桜」は、丁稚が出てくるからということで、奉公繋がりで、噺家の修行についてのマクラが、異様なテンションを高めていたのを受けての口演だっただけに、余計に残念な気がしてしまっています。この「隣の桜」は、春真っ盛りの噺ですが、これが入ったのは、今日の4つのネタが、いずれも鳴り物入りということで、揃えられたものだったからです。慶治朗は連日の遭遇。彼の「七度狐」は初めて。口舌爽やかなもので、きれいに流れてしまうのですが、なんかおもしろみが足りない感じがして、、、。流れるだけでは、物足りなさが残るということでしょうか。時間の関係か、べちょたれ雑炊の部分が出てきませんでした。塩鯛の「三十石」は、随分と以前に聴いたことがありますが、というのも、舟唄を聴いたところで、その確信を持ったのですが、今日は、ちょっとおもしろい展開の仕方を採りました。マクラで、史実も含めた三十石話をしたあと、ネタに入らないで、「京見物」「伏見街道」の部分を、地噺をするかのように説明していきました。実際やられてみると、この手ありやぞの気持ちになりました。ま、塩鯛の噺の進め方が上手いからかもしれませんが。そして、寺田屋としてましたが、宿での帳面付けから落語に入りました。そこからは、通常の流れ。船頭が川にはまるのや、幕内の舟唄はカット、枚方が出てくる舟唄を最後にして、「三十石は夢の通い路」で下り、枚方の仕事唄もなしでした。となると、帳面付けの掛け合い、お女中に妄想を膨らます男の一人語りがメーンになりますが、こういった滑稽噺は、塩鯛のとぼけた喋りがフィットします。この会は、実に久しぶりに行ったのですが、とっても素敵な会場に、びっくり。元々、集客力のある会でしたが、今日も、多くの人が詰めかけましたが、やはり年配の方中心でした。
 落語会がはねると、その足で京都に移動。一旦、自宅に戻っての時間待ちをしてからカフェモンタージュへ。今夜は、「E.イザイ」と題されたヴァイオリン2本の演奏会。ヴァイオリンは、泉原隆志さんと中野志麻さんのお二人でした。お二人とも、京都市交響楽団のメンバー。なかでも、泉原さんは、コンサート・マスターを務められています。そのプログラムは、「B.バルトーク:7つの二重奏曲 Sz.98」「E.イザイ: 2台のヴァイオリンのためのソナタ 遺作」というものでした。このカフェモンタージュでの1時間も、昼間の繰り返しとなってしまいました。明け方の4時半過ぎから起きたままだと、もう開演時間というのは、完全に就寝時間を過ぎていました。全編、半寝で聴くことになってしまいました。そないななか書けることと言えば、バルトークは、採取した民族音楽が取り込まれていたこと、イザイは、2つのヴァイオリンが2つとも、重音を多用するため、響きは弦楽四重奏を聴いている雰囲気だったことくらいです、曲に関しては。そんなで、がっくりと肩を落としたまま、帰路に着くことになりました。随分と哀しい1日となりました。


2016年 6月 10日(金)午後 11時 57分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。「小鯛の落語漬け〜桂小鯛落語勉強会」という塩鯛門下の小鯛の会です。その番組は、次のようなものでした。慶治朗「子ほめ」、小鯛「口入屋」、まん我「寝床」、(中入り)、小鯛「道具屋」「噺家志望(仮題)」。慶治朗は、小鯛から「何を喋ってもいいと言われてきた」と言って、いきなり仮面ライダーの話をしだしました。慶治朗が、こういったお喋りをするのを、マクラでするのを聴いたのは、初めてだったので、とにかく新鮮だったのですが、世間話でもない蘊蓄話は、通常はマクラになじまないものです。ネタは、先日聴いたばかりの「子ほめ」でしたが、今日は、伊勢屋の番頭を多めに聴くことができました。小鯛は上がるなり、「何喋ってもいいと言って、真に受けたの、あいつが初めてです」と言い、大爆笑を取り、完全に先輩の風格を見せつけてくれました。小鯛の「口入屋」は、初めての遭遇ですが、「既に、この勉強会で出したことがある」と言っていました。小鯛は、とっても口舌爽やかですから、このネタは合ってますね。丁稚、番頭、おなごしと、喋る主体は替わっていきますが、それぞれが集中的に喋りますから、各人の特徴をはっきりと示しておかないとだれていきますが、そこは、小鯛は抜かりありません。おなごしは、立て弁のところだけですから、立て弁に集中してればいいという判断も妥当と看ました。残念だったのは、終始インテンポで突っ走ったこと。テンポは、とっても心地好かったのですが、夜這いの場面は、夜という時間帯が現れるように、ちょっとテンポをいじって欲しかったな。と、ちょっとおねだりのようなことを書いてしまいましたが、今日の口演は、小鯛の大きな可能性を看た思いがしたものでした。ゲスト枠はまん我、先日の兄弟子鯛蔵の会に次いで、ゲストに喚ばれました。鯛蔵と小鯛は兄弟弟子だから、まん我曰く「差をつけてはいけない」「だから、同じネタをするつもりで来た」と言いながら、客に挙手を求めました。鯛蔵の会にも来ていた客の数を知ろうとしたのですが、かなりの手が上がり、まん我は、あえなくネタの変更。「寝床」でした。まん我の「寝床」は、ホントに久しぶりですから、前に聴いた口演の様子など覚えてはいないのですが、今日聴いていて、これはなかったよなと思えるものがありました。それが、とっても素晴らしい口演を作り出していました。1つは、旦さんが、常に発声の稽古をしていること、2つ目は、前半のやり取りで見せる2人の豊かな表情です。この2つは、正に積み上げてきた年期の成せる技でしょう。今日は、かなり時間が押してしまったからか、常に刈り込んでいるのかは判らないままなのですが、長屋の人たちがやって来る場面はカット、浄瑠璃が始まったあとの客人たちの描写は短縮した形になっていました。鯛蔵の会で出し、今日、出すつもりにしていた「胴乱の幸助」よりは、かなり上をいく水準の口演と看ました。最後の小鯛は、「短いものを2つやります」と言い、いきなり「道具屋」に入りました。最近、なぜか「道具屋」に当たることが多くなっているのですが、小鯛のそれは、なんかけた違いの出来栄えと看ました。噺に余裕があります。これが、さぼどキャリアの変わらない噺家さんの「道具屋」と、決定的に違います。だからでしょうね、噺の流れを邪魔するようなケチなくすぐりじゃなくて、噺にきれいに納まりきるくすぐりを入れることができるのでしょう。小刀に名前を着けるというくすぐりは、ホント、秀逸。2つ目は新作。短いマクラは、同じように、落研出身で、落研マクラをふる喬太郎を思い出してしまいましたが、ネタの内容は、だいぶと中途半端な印象は拭えなかったな。落語家になるという男に呆気にとられてしまう女、この辺は自虐ネタが続くのだけど、自分の高座姿を見てもらい、関係を修復していくというものと書けば、あまりも簡略化した書き方でしょうか。でも簡略化したら、こういった書き方になってしまうので、なんか煮え切らない気になったんだと思います。ま、こんなんもありというところですね。


2016年 6月 9日(木)午後 8時 14分

 今日は映画を観る日。2日続けての映画館通いとなりました。今日は、京都シネマで日本映画「団地」を観てまいりました。あの名作「顔」を作った阪本順治監督、主演藤山直美のコンビの映画ですから、観ないわけにはいきません。この映画、途中から、がらりと雰囲気が変わります。「団地」というネーミング、そして、この映画の半ば過ぎまで、完全に本体の偽装となっています。本体は、とってもハートウォーミングな物語となっています。その仕込みに、客はかつがれ、そのかつがれたことが、本体の物語の外濠を作っていました。まさかの展開に、正直、びっくりしました。藤山直美と堀部一徳の夫婦に、「ありがとう、浜村淳です」が、バックに流れると、べたべたの大阪ものとなってしまいますが、本体の物語とは、何ら関係がないというのも、仕込みの1つなのでしょう。京都シネマですから、広い会場ではありませんが、当然、中高年ばかりで、満席近い入り。藤山直美で引っ張られる人たちなのか、「顔」を評価しているでしょうか、賞を総なめするに足る名作と、黄紺は思っていますが、覚えている人はというか、「顔」に打たれたから来たって人って、どれだけいたのでしょうかね。でも、「顔」を知らなくても、この「団地」って映画、子どもを持つ親であるなら、それだけで、熱くなっちゃいそうな映画だったと思います。お薦めしたい逸品です。


2016年 6月 8日(水)午後 7時 56分

 今日は、メトロポリタンのライブビューイングを観る日。今週上映されている「エレクトラ」が、今シーズン最後の演目となります。パトリス・シェローのプロダクションというのが、何よりもそそられる上に、タイトル・ロールを、今や大人気のニーナ・ステンメ、そして、クリテムネストラを、なんとヴァルトラウト・マイヤーが歌うという、メトロポリタンならではの贅沢なキャスト。クリソテミスはエイドリアン・ピエチョンカ、オレストはエリック・オーウェンズという歌手陣に加え、指揮がエサ・ペッカ・サロネンというのも魅力のプロダクションでした。舞台は、壁に囲まれた大きな広間にも見えれば、中庭とも見える空間。何とはなしに観ていると、ザルツブルクのプロダクションと、雰囲気的に似ているという印象。ほぼモノトーンということからかもしれません。衣装が、パトリック・シェローのプロダクションで度肝を抜かされた「死者の家から」を思い出させるもの。女性は、現代の市井の女たち。エレクトラだけが、パンタロンを履いていました。黄紺の記憶に留まった特徴が幾つか残りました。2つの殺人を、2つとも、舞台で見せたことが1つ、強く印象に残りました。次にオレステスの死を告げにやって来るの は、オレステス自身というのは、テキストからそうなんだろうなと思っていたことですが、それを、舞台上で見せたこと。一応、大ニュースを伝えに来た人として、オレステスは、城内に入れられ、エレクトラと言葉をかわすまで、舞台に待機しているとしていたのは合理的と思えた一方、2人の殺害が済み、エレクトラが歓喜に浸っているなか、オレステスは城から出ていきます。これじゃ、まるで「客人」です、オレステスが。漂白の人間が、共同体の外部から、その共同体のバランスを破り(この場合は2人の殺害、秩序の混乱)、また去っていく「客人」の理念型のようなふるまいですが、パトリック・シェローは、そのように、「崩壊した家族」という近代的な概念で捉えるのではなく、ヴァナキュラーな世界の論理で、このオペラを捉えようとしていたようです。この黄紺の捉え方が的を得ているかどうかは、知る由もありませんが、パトリック・シェローなら考えそうなことかなとも思うのです。歌手陣は、ホントに申し分ない、贅沢としか言いようがありません。日程的に言うと、ヴァルトラウト・マイヤーは、黄紺がベルリンで聴いたあと、ニューヨークに向かったと思われます。カーテンコールで、ヴァルトラウト・マイヤーとニーナ・ステンメが並んでいました。ヴァルトラウト・マイヤーより、僅かですが、ニーナ・ステンメの方が、背は低いですね。ヴァルトラウト・マイヤーの実際の舞台を観て、とにかく小柄なのに驚かされたのですが、ニーナ・ステンメも、体躯的に、さほど変わらないとなると、強くて、パワフルな声を出すに、体格って、発声にとって何なんだろうと思ってしまいました。前回のライブビューイングの際、予告で、「エレクトラ」では、98人のオケ(総譜上では108人)だと言ってました。パートも、随分と増えるようです。第2チェロや第3チェロなんてのがあるそうですが、そういったパートが増えるということは、イコール、アンサンブルが大変ということ。エサ・ペッカ・サロネン指揮するオケも大変だったでしょうが、この音の洪水のような作品を、素晴らしいエネルギーのある音楽にしていました。


2016年 6月 7日(火)午後 11時 33分

 今日は、朝から雨。天気予報が、よく当たります。そして、今日も落語を聴く日。今日は、「第32回堤法寺寄席」に行ってまいりました。地下鉄の「中崎町」か「中津」が最寄駅になる堤法寺で、年4回行われている、ざこば門下のひろばとそうばという兄弟弟子の勉強会です。昨日、「高津落語研究会」で、ひろばを聴いたところなのですが、そう頻繁に、こないなことがあるわけではありませんから、この会にも行ってみることにしました。その番組は、次のようなものでした。ひろば・そうば「トーク」、そうば「おごろもち盗人」、ひろば「天災」、そうば「餅屋問答」。今日から、新しい照明機材を、ひろばが仕入れてきたところから、落語会に必要な道具の管理の話から、「トーク」はスタート。管理の上手い下手で、仕事を依頼する後輩も変わってくるそうで、具体例を聞いてしまうと、黄紺も納得せざるをえませんでした。最近の話題に移ると、どうしても、ひろばには話したい話題があるもので、昨日のマクラと重複してしまいましたが、これは覚悟のうえ。そして、そうばの故郷博多に行ってきた話が締めになりましたが、中洲の屋台や天神の飲み屋が道頓堀状態になっているそうです。何も大阪だけではないことを知り、急に博多に親近感を覚えてしまいました。落語に入ると、今日は外れ。聴き慣れたネタを並べ過ぎてくれました。この会のネタ帳を作ってないのと突っ込みたくなりました。もちろんで「天災」と「餅屋問答」です。「トーク」の中で、どこから話が跳んだかは忘れてしまいましたが、急に、師匠ざこばのある日の動楽亭昼席で出した「天災」の口演の話になったもので、今日は「天災」はないだろうと決めてかかったのですが、あとから考えてみれば、ざこばの話題を持ち出したのがひろばでしたから、ネタでする「天災」が、頭から離れなかったようですね。唯一の救いは、初遭遇のはずのそうばの「おごろもち盗人」。軽くて、おっちょこちょいの盗人は、そうばの人に合っていますね、えらく可愛く見えたのです。その一方で、夜なべ仕事をしてる家の中の夫婦の会話からは、あまり夜が更けた、そういった時間帯の雰囲気が感じられなかったのは、残念なことでした。落語会がはねて、堤法寺を出たのが、ちょうど8時半。幸い、雨もほぼ上がり、気持ちよく夜の梅田の街を通り抜けるミニウォーキングがてら、淀屋橋まで歩いて帰りました。


2016年 6月 6日(月)午後 11時 44分

 今日は二部制の日。昼間に、文楽劇場である「公演記録鑑賞会」に、夜は、高津神社での落語会「高津落語研究会」に行ってまいりました。まず、昼間の「公演記録鑑賞会」、今日は歌舞伎「玉藻前曦袂〜(3幕目)大内建春門前の場、大内奥殿廊下の場、清涼殿の場、(大切)那須野原殺生石の場・景事-化粧殺生石-」が上映されました。文楽公演で、同じ演目が出たということで、この上映会が実現したものと思われます。玉藻の前(中村歌右衛門)が宮中に入るところから始まり、その玉藻前が、正体を明かして帝位の簒奪を目論む薄雲皇子(中村吉右衛門)と結託をするのだが、釆女之助(中村福助、現梅玉)らにより成敗されるまでが、3幕目。大切の場は、殺生石と化した狐が七変化するのを、舞踊で見せるという試み。それまでの緊張した場面が、一挙に華やかになります。おまけに、文楽の太夫さん(南部太夫、嶋太夫ら)、三味線さん(4代錦糸ら)の演奏に乗っての舞踊という趣向まで付いているという贅を尽くした演出。歌舞伎に慣れていない黄紺には、ただただ珍しいものを観ることができ、嬉しくなってしまいました。でも、今日も、半寝の状態で観ることになってしまいました。これで、3日連続のこと。睡眠は、十分に取れてはいるのですが、文楽劇場に行くまで、かなりの汗をかいて歩いて行ったからかもしれません。夜の公演の場合は、必ずネットカフェで休憩を取ってから、会場に向かうようにしているのですが、昼間の公演に行くときは、そこまでのゆとりがないものですから、こないなことになってしまうのでしょうか、よく判りませんが、一つの可能性かもしれません。
 文楽劇場を出ると、千日前のネットカフェで時間待ち。それから、高津神社に向かうことになりました。今夜の「高津落語研究会」の番組は、次のようなものでした。ひろば「狸賽」、南天「幽霊の辻」、雀五郎「くっしゃみ講釈」、たま「ペッパーラッパー」、出演者全員「大喜利」。今日は、今までの中で、最多の入りとか。その人数を、最高度にヒートアップさせた素晴らしい会となりました。トップの出番となったひろばは、この1ヶ月の間は、何もなかったと言いながら、喋り出すと、皆が興味津々となる話を披露してくれました。もう、それだけで、前座役の仕事はしつくしたかと思えるマクラに次いで、また、この「狸賽」が良かった。テキストに見合う細かな演出が、とっても自然。ベテラン噺家による前座噺という風情。南天の「幽霊の辻」って、今日が初めてみたいなことを、開場前に並んでいたときにお喋りしていた方が言われていたのですが、そうでしたっけ? 実際、口演を聴いてみて、黄紺自身は聴いてなかったことが確認できたのですが、初演ではないと思っているのですが、、、。最近、このネタを持ちネタにする噺家さんが、急に増えた感じがして驚いているのですが、南天は、やはり自分のネタにしていました。やっぱ、その辺は、他の噺家さんの追随を許さないものを持っています。堀越村に行く男に道を教える婆さんの頼りなげな言い方がいいですね。言い方は、頼りなげだけど、きっちり怖いこと言ってますものね。この演出が、同時に暮れ行く時間帯をも表す要因にもなっていますから、目の着けどころが違います。そして、「幽霊の辻」なのに、そういった名前の辻を出さないという趣向。辻だとオープンな情景になるということなのでしょうね、最後の女は、松の木陰から姿を見せるとなっていました。狙いが、痛いほど解る解釈に拍手です。作者の小佐田センセに逆らう趣向にはなりますが、こちらの方が合理的かもしれません。雀五郎は上がるなり、「今日はたま兄さんへの繋ぎです」「送りバンドをするようなものです」と消極的な発言。でも、たまのネタ「ペッパーラッパー」が「くっしゃみ」のパロディだと予告をしてくれました。この2つを並べるのは、誰の思いつきなんでしょうね。でも、雀五郎の「くっしゃみ」が良かった。この人、頭いいなぁって思うのは、よくテキストを読み込んでいること。そして、行間を埋める作業をしてくれます。それが、おもしろいように決まったんじゃないかなぁ。ここでのヒートアップは、次のたまの口演で、更にヒートアップ。「大喜利」の司会で出てきたひろばが、「これぞ、笑福亭たまでした」と言いましたが、小気味よく、細かなくすぐりが、次から次へと炸裂していくうえ、やおら舞台の下から紙を取り出し、レディ・ガガの歌う歌に合わせて、歌いながら日本語歌詞をめくっていきます。初めて、このネタを聴いたときは、もう呆気に取られるしかなかったものです。単なる「くっしゃみ」のパロディに終わらないのが、たまの頭のぶっ飛んだところでしょう。もう客席は、ヒーヒーというしかありませんでした。


2016年 6月 5日(日)午後 7時 26分

 昨晩からの雨が、予報より長引き、お出かけ時間にずれこむかもと心配した朝、無事に雨はあがってくれました。今日は落語を聴く日。ちょっとご無沙汰の八聖亭であった「染吉の挑戦 講談VS落語」に行ってまいりました。不器用だけど、こつこつと積み上げている林家染吉の落語会に、最近よく出かけるようになっています。その染吉が、新しく始めた会ですが、企画内容は、同期の生寿の「真っ向勝負」と名づけた落語会の二番煎じというのが、その不器用さを感じ、自ずと足が向いてしまうのです。今日のお相手は南青くん。南青くんを、「兄さん」と呼ぶ世代に、染吉は属します。その番組は、次のようなものでした。染吉・南青「対談」、八斗「十徳」、染吉「あくびの稽古」、南青「出世の大盃」、(中入り)、南青「山内一豊とその妻」、染吉「質屋蔵」。今日も、昨日ほどではなかったのですが、途中居眠り。それも、主役2人の重い方のネタで居眠りが出てしまいました。今日は、昨日と違い、睡眠時間はたっぷりと取れていたのですが、やたら瞼が重くて、せっかくの時間をおじゃんにしてしまいました。冒頭の「対談」はシークレット。その場に居合わせた者だけのお楽しみでした。そして、チラシにはなかった八斗が、前座として登場。落語会で姿を見かけても、その高座に接するのは久しぶりです。随分と、そこいらのお兄ちゃんから噺家の雰囲気を漂わすようになり、お喋りも、大きな振幅を敢えて着けなくても、場の空気が出てきました。ちょっとした間なんかが身に付いたからなのでしょうね。「十徳」も、古い言い種なんかを残した口演に好感を持ちました。崩すのはいつでもできる、まず基本から、その気持ちを感じました。主役の染吉は、大ネタ「質屋蔵」だけネタ出し。こちらで居眠りをするという低汰落だったため、感想を書くのは生意気過ぎます。「あくびの稽古」は、今までの稽古事、このあくび指南の稽古屋が教える様々なあくびで遊ぶのが流行っているようです。ま、南天が、その遊びで、大成功を収めてますから、それに追いつき追い越せということなのかもしれません。染吉の工夫の中で、目を惹いたのが「寄席のあくび」。着眼点がおもしろいのに、なんで、もっとわかないのだろうと考えていました。染吉って、やっぱ一本調子のきらいがあるのかなぁっていうのが、今のところの結論。明らかに「受け」を狙いに行ってるんだったら、客席を味方に付ける「何か」を入れればいいのにと思ってしまいました。「にこっと笑う」だけでも、「何か」になって、いいアクセントになるのになぁっていうのは、黄紺の勝手な感想です。南青くんの講談を聴く機会が、以前に比べて、圧倒的に減っているというのも、この会にそそられた大きな要因。聴いてなかった間に、南青くんの顔つき、万年青年のような南青くんにも、おっさんの顔つきが忍び寄っているのを発見してしまいました。ネタでは、「大盃」で居眠り。夏の陣のあとの話だというくらいしか、記憶を呼び戻せません。返す返すも情けない。「山内一豊」は、南海さんの鉄板ネタ。前に南青くんで聴いたときにも思ったのですが、それは、馬のあおが喋ったり、冒頭の2人の出逢いの描写から思ったのですが、やっぱ、このネタは、南海さんからもらったのかなと思いました。山内一豊と千代のなれ初めと夫婦の絆を描いたものです。


2016年 6月 4日(土)午後 7時 11分

★データを完全復旧することができました。

 今日は浪曲を聴く日。毎月。一心寺南会所で開かれている「一心寺門前浪曲寄席6月公演」に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。天中軒涼月(沢村さくら)「若き日の小村寿太郎」、京山幸太(一風亭初月)「夕立勘五郎、眉間割り」、春野恵子(一風亭初月)「番町皿屋敷」、松浦四郎若(藤初雪)「禁酒百石」。今日は不調。開演前から眠たくて眠たくて。久しぶりに、二度寝ができなかった後遺症が出ました。最近、睡眠時間を確保できるようになったのはいいのですが、その多くなった睡眠時間を、体が覚えてしまい、それに達していないと、体調不良になります。早い話が、ずっと眠くて仕方なく、行動力が落ちてしまうのです。ドイツのときが、その典型で、世間的には規則正しい生活と見えても、黄紺には負荷がかかってしまいます。ということで、冒頭から居眠り。徐々に覚醒はしてはいきましたが、幸太くんまでは、ほぼ全滅。既に半寝の状態で、開演時間を迎えてしまいましたからね。恵子さんくらいからは、記憶に残ってはいるのですが、最後まで曖昧模糊としたなかで聴いておりました。ただ、四郎若師のネタは、初遭遇だったため、筋立てが曖昧にしか、頭に残っていません。秀吉ものでした。その点、「番町皿屋敷」は、幾度となく聴いているネタですので、わりかし頭に残っています。恵子さんは、このネタを日本語でするのは久しぶりと言われていました。ニューヨーク公演では、このネタを英語でされたという話は、黄紺の記憶にも入っているところです。ただ、以前に聴いたときとは、随分と印象が変わりました。以前は、百合子師のような芸風を踏襲しようということで、気品のある口演を目指されていたような印象が、今日の口演では、より激しく感情移入をされており、ちょっと悪い表現を使えば、クサクなったと言えばいいでしょうか。という印象を持ったために、他のネタではどうなってるのか、ちょっと興味が湧いてきた黄紺です。


2016年 6月 3日(金)午後 11時 25分

 今日は映画を観る日。今週は、これで2回目となります。それだけ観たい映画があるというよりは、それだけそそられる落語会がないということです。ということで、今日は、MOVIX京都で、日本映画「太陽」を観てまいりました。この映画は、劇団「イキウメ」の舞台劇を映画化したもの。従って、座付作家で演出家の前川知大作品ということになります。最近、大阪に姿を見せても、人気が高いのを反映してか、チケット代が高騰して、黄紺的には手が届かなくなっていたところに、こうした映画ができると、正直助かります。と思って出かけて行ったわけですが、今まで、舞台で観ていたイキウメの芝居のテンポとは似ても似つかないものとなっていたのには、唖然、茫然でした。原作は、もちろん前川知大でしょうが、また、脚本にも、前川の名前は入っていましたが、およそ前川の作る芝居のテンポとはかけ離れていますし、演出はタッチしてないようですので、間の悪い掛け合いや、変てこりんな台詞回しなど、観ていていらついて来てしまいました。物語は、近未来に、人類が、特定の抗体を持つ者と持たざる者に分化し、その分化したそれぞれの人類に、異なった属性が付くことで、社会的な階層における進化が看られたらという、なかなか前川らしい設定が目に付くものです。様々な属性が付いていく中で、大きな切り口になってくる対比が、自然に対する距離で表されます。「太陽」の題名も、この対比から採られたものでしょう。ただ、こういった二項対立的設定は目新しいわけではありませんから、原作では、そないな単純じゃなかろうと、今まで、幾つかイキウメの芝居を観てきた経験から思ってしまいました。二項対立を、どのように収め、物語の終息に繋げるのかが、当然ながら、関心の対象となってくるのですが、原作はどうだか知りませんが、この映画では、2筋が提示されていました。両者の融和というか調和という流れと、自然派による内部闘争による淘汰の2本と見受けました。ただ、あんちょこな印象は拭えないままの終息でした。この映画は、残念ながら、人様にはお薦めできるものではなかったのですが、1つだけめっけものがありました。門脇麦って、感じのいい女優さんだなぁと思い、帰りの電車の中で検索をしてみると、黄紺の目に着くはず、今、注目の女優さんなんですね。いい女優さん、見っけです。


2016年 6月 2日(木)午後 11時 32分

 今日は繁昌亭に行く日。今夜は、「笑福亭福笑・仁智二人会〜仁義なき戦い・繁昌亭篇〜」というビッグな会が開かれました。繁昌亭でしか遭遇できないものですので、楽しみにしていた会でした。その番組は、次のようなものでした。たま「伝説の組長」、仁智「兄貴の頭」、福笑「浪曲やくざ」、(中入り)、福笑「狼の挽歌」、仁智「いくじい」。今日は「やくざ」をテーマにした新作ばかりを集めるという主旨の会。普通だと、ネタがつくと言って避けるのを、その逆を行ったもの。珍しく、福笑が仁智にトリを譲った会でもありました。トップのたまの「伝説の組長」も、たまの新作では鉄板化しているもの。前半の、組長が肝心なところを透かして、武勇伝を語るところに、1つのツボがあり、後半の繰り返される夢に、もう1つのツボが用意されている優れものの作品。やくざ特集のおかげで、この佳作を久しぶりに聴くことができました。福笑のネタ2つは、以前から繰り返し演じられてきたネタ。特に「狼の挽歌」は、福笑のアウトロー的な持ち味が、ぎっしりと詰まっている代表作品の1つ。組事務所に殴り込みをかけてきた2人組のやくざが、逃亡のためにタクシーに乗っているところから始まるという、もう取っ掛かりから半端ではない設定。ちょっと「らくだ」に似た展開も入り〜ので、映画さながらのカーチェイスもあり〜のという、落語の常識を破るスピード感溢れる佳作です。「浪曲やくざ」の方は、抗争をしている組の親分宅に殴り込みをかけるのだけれど、その組員の中に浪曲好きの男が入っているという、まことにもって落語的な設定。また、その浪曲が名調子で、なかなかの優れもの。文枝作品にも、噺に浪曲を入れているものがあり、実際に噺の中で節を入れるというのがありますが、それも巧かった。この世代にとっては、浪曲が日常の中に入ってたということですよね。仁智作品も傑作揃い。黄紺的には「兄貴の頭」は初遭遇ネタ。頼りない兄貴と、ぼんやりとした弟分との会話というパターンは、もう、その形自体で、仁智の鉄板になっています。「兄貴と頭」は、2人のやくざの兄貴分の男が禿げ頭だということで、2人の弟分が気を使い、いろんな禁句集を考えるのが前半。後半になると、その兄貴がヅラを着けて現れたため、その対応に四苦八苦するという全編禿げ頭ネタ。ここまで徹底した禿げ尽くしのネタは、今後も出てこないでしょう。また、仁智の頭も、随分と薄くなってきていますから、その辺の受けも当て込んだ作品でしょう。「いくじい」は、老いた源太と兄貴が出てきますが、噺の中心は、兄貴がいくじいとして育てた子どもの成長ぶりと、兄貴の教育の仕方となっています。デフォルメされてはいるのですが、ちょっとした現代子ども教育論的な噺となっています。確かにトリネタに相応しい内容かと思いました。ライト感覚の仁智落語に、ライト感覚の教育論が入ったってところでしょうか。しかし、濃〜い落語会でした。こないな落語会に遭遇できるのは、正に繁昌亭があるからだと、今更ながら、繁昌亭効果に感謝しきりでした。


2016年 6月 2日(木)午前 5時 2分

★「GUNLUK」のデータがクラッシュです。一部だけ復旧しましたが、完全復旧は厳しいかも? まだ、希望は持っているのですが、、、。

 昨日は、今年初めて「動楽亭昼席」に行く日。でも、出がけに哀しい出来事が発生。黄紺ほ、脊髄の手術をしている関係で、平衡感覚に異常があるために、バランスを崩してしまい、その瞬間、パソコンとハードディスクを繋いでいるコードに足を引っ掛け、結果的にハードディスクを破損してしまいました。ハードディスクって、一点だけ弱いところがあるのに、それで気づきました。接続口です。中にめり込んでしまい、どうしようもない。愕然でした。落語会どころではないと思ったのですが、ラッキーなことに、1週間ほど前に、もう1箇所に、バックアップをしたところであったのと、HP関係は、FTTPで逆転送することで、最新のデータを確保することができたもので、胸を撫で下ろしはしたのですが、ここ1週間ほど、根を詰めていたオペラのスケジュール作りの最新データだけは無くしてしまいました。これは痛い! 結構な量を積み上げていたのがぽしゃりました。また、今夜からやり直しですが、それだけで済んだかと思うと、落語会に行く気になり、そそくさと動楽亭に向かいました。その番組は、次のようなものでした。慶治朗「子ほめ」、ひろば「狸の化け寺」、米紫「遊山舟」、雀喜「親子酒」、(中入り)、紅雀「向う付け」、千朝「鹿政談」。値上げになってから初めての昼席。入りは変わったって感じはしませんでした。慶治朗は久しぶりの遭遇。えらく太ったように見えました。一回り大きくなったって感じがしました。今日の客席はハイレベルなようで、「子ほめ」はにこにこと眺めてるってところでした。その雰囲気を変えようなんて意気込みで、ひろばは登場。時々、ひろばがする文我ブッキングの落語ツアーのホテル事件。あとから上がった紅雀が、「あの話は、文我に対する不満」と意地悪を言いましたが、文我ブッキングのホテル話は、他の噺家さんも、マクラで使ってる逸話なんだけどなぁ。「狸の化け寺」を頻繁に出すのは、ざこばかひろばかに、現在なってますね。米朝のネタなのに、一門の他の噺家さんが出されることが稀有になっています。田舎の古臭い噺だからでしょうか、下げが解りにくい、お下品だからでしょうか。落語って、いろんな噺があって、お互いに補完しあいながら、落語という世界を作り上げていると思うのですが、、、。そういった意味では、貴重な田舎の噺だと思うのです、このネタは。ひろばは、この下げが解りにくいと看ているのは間違いなく、いつも、下げを言ってから、「終わりです」とか言ってから下りますが、今日もそうでした。米紫の「遊山舟」は、恐らく初めての遭遇だと思います。黄紺は、米紫の会には、あまり行ってないものですから、そういったネタが出てくるはずと思っています。米紫の会でネタ出しをされるものが、いつも、あまりそそられないことが多く、足が遠のいてしまうのです。米紫を避けているということがないのに、あまり聴きに行ってない噺家さんの代表格なものですから、「遊山舟」のようなポピュラーなものまで聴いてないということが起こってしまってます。ただ、この「遊山舟」がいいですね。少しずつテキストを切り貼りしながらの口演、米紫らしい力こぶを作ってのものですが、それが、きれいに吉と出たもの。2人だけの会話で推移する橋の上の賑わいを、その会話で感じさせる優れものでした。残念だったのは、稽古屋の舟が通過しようかという前で切り上げてしまいました。さほど長い噺じゃないのですから、最後までやって欲しいですね。雀喜は、今日も髪を後ろで括って登場。紅雀によると、師匠を真似ているのではなく、南左衛門を真似てのことと、意地悪を言ってました。雀喜に言わせると、師匠を真似たら、頭の前を剃らないとダメとなります。ネタは、枝雀一門伝統の「親子酒」。額を床にどんとつける「お家芸」も見せてはくれましたが、雀三郎や雀五郎のように「お家芸」との注釈は入れませんでした。雀三郎のようなずるずるの酔い方でないのが、雀喜らしいですね。テンションがいつものように高めの紅雀は、鉄板の「向う付け」でした。紅雀のテンションの高さは、このアブナイ系のネタを一層アブナくする威力を持っていますが、今日は、ちょっといつもと違う雰囲気を見せてくれました。 放送コードに引っかかるアブナさを売りにするような紅雀でしたが、今日のアホは、ご隠居の遺体の白布をめくったときだけは、うなずけるだけの態度を見せ、神妙そうな言葉を吐いていました。ご寮人が、「なんでか、あんたを可愛がったはった」わけが判ったような気がしました。今まで誰の口演を聴いても、このご寮人の台詞に見合うアホの言動を呈示されたものを聴いたことがなかったのですが、今日の紅雀の口演にはあったように思えました。一段上のステージに持って行ってくれた口演でした。千朝は、またしても「鹿政談」。この頃、動楽亭で千朝を観ると、「鹿政談」にしか遭遇していないのです。マクラで、動物の話をしたので、「鴻池の犬」と思ったのは、早とちりもいいところ。時代劇の悪漢風の悪役スタイルで鹿奉行を演ずる千朝は素敵なんだけど、こうも「鹿政談」ばかりだとムッとします。


2016年 5月 31日(火)午後 7時 6分

 今日は映画を観る日。台湾映画「若葉のころ」を、シネマート心斎橋で観てきました。台湾映画を観るのは久しぶりのこと。終わってみると、台湾青春ラヴストーリーの佳品を観たぞの気持ちになることができました。高校生のバイの青春グラフィティと、バイの母親の青春グラフィティが交差しながらの進行。ともに、高校生活での恋物語。バイの物語は現在進行形。母親は、コンサートで、かつて思いを寄せた男子が女性連れで来ていたのを見かけたため、メールを書いたのだが、それを未送信のまま留めておいたところで交通事故に遭い、意識を回復しない生活を続けるようになっていきます。そういった中で、バイが、偶然、未送信メールを見つけたことで、また、バイ自身が友人関係などで不安定になっていたこともあり、そのメールを、実際に送信してしまいます。実は、その送信してしまうのは、ラストに入るきっかけになっており、物語の進行としては、バイも、また、母親の恋の行方も先行きが、ほぼ明らかになってきた、また、母親の相手の男の今も煮詰まってきた中での、メールの送信となる仕掛けです。二人が会っても、母親の意識はそのままなわけですから、何らの新しい展開が待っているわけではないのですが、母親の恋の行方が、突然の強制終了だったための、気持ちの落ち着かせどころとして、再会が要ることが判りますから、何か、ホッとする感じと、バイ自身が、母親と自分を重ねることで、不安定な気持ちに安らぎを得たこと、それにより、高校生のバイが一皮剥けたと言えばいいでしょうか、成長したぞという雰囲気が漂うこと、そして、母親の恋した男が、かつての恋物語に、大切な発見をすることが用意されており、とっても爽やかな気持ちにさせてくれました。そして、画面がきれいで、今の台湾映画の空気のようなものを感じることができ、黄紺的には、この映画は正解だったと言えます。



2016年 5月 30日(月)午後 11時 28分

 今日は浪曲を聴く日。百年長屋であった「曲師の会」に行ってまいりました。この会は、曲師の沢村さくらさんが主宰されるもの。今回は、東京から、東家一太郎、東家美のご夫婦が出演されるのが目玉の会となりました。その内容は、次のようなものとなりました。東家一太郎(東家美)「中山安兵衛の道場破り」、全員「トーク&三味線コーナー」、東家一太郎(沢村さくら)「神田松五郎」。浪曲師が一太郎さん1人ということで、1時間半の間、一太郎さんは出ずっぱりという、一太郎さんにとっては、大変ハードな会になりましたが、内容も、たっぷり感のある充実した会。浪曲の方は、奥さまの三味線だけではなく、会の主宰者でもあるさくらさんとのコンビでも披露していただけました。一太郎さんは、東京の若手の中では、はる乃ちゃんが出てくるまでは、頭が完全に抜けた存在という印象を持っていた浪曲師さんで、その方が、奥さまと一緒に大阪で聴けるというありがたい企画。毎度ながら、さくらさんの企画力に敬服です。「中山安兵衛」は、「高田馬場」や「婿入り」なとと比べると、なじみの薄いもの。上方では、「道場破り」をされる浪曲師さんはおられるのでしょうか、黄紺は聴いた記憶はありません。話は講釈ネタですから、講談では、確か聴いたはずと、「確か」が入ってしまいました。ただ、ネタの内容は目新しいものではなく、酔いどれ安兵衛のプロットで、酒の金目当てに道場破りをするというものです。が、そのままやっちゃうと、剣の実力は抜群なわけですから、単なる物取りの話になり、やらしくなるということで、ちょっとした捻りが加わっています。その捻りが、チャリっぽいものですから、このネタ全体を、そないな雰囲気での口演。そういった口演をする一太郎さんを観たこと聴いたことがなかった黄紺は、かなり戸惑ってしまいました。木馬亭なんかで聴いた一太郎さんは、まだ修行時代だったからでしょうか、チャリっぽいネタはやってなかったですね。その中で、安兵衛のいる長屋の大家の感じが、気さくでお人好しな人柄が伝わってきました。「神田松五郎」は、上方でもお馴染み。特に同門の浪花亭友歌さんも持ちネタにされているので、出所の同じネタを聴いたわけですが、友歌さんの口演とは、随分と雰囲気が違いました。友歌さんが、大まじめに真っ正面から見据えた感じという口演に対して、一太郎さんの場合は、微笑ましい親子の雰囲気を楽しんで演じられてるって感じで、ときとしては、チャリっぽいものにもなっていました。この方がリアリティがあっていいなと思いながら聴いておりました。「トーク&三味線コーナー」は、ゲストのお二人についての紹介から、物まねというか節まねと言えばいいのでしょうか、次の浪曲の一節を聴かせていただきました。「野狐三次〜木っ端売り〜」「壺阪霊験記」「安中章三郎〜島抜け〜」他でした。浪曲界の先人の話は知りたいのですが、なかなか着いていけないのが、悲しいところです。



2016年 5月 30日(月)午前 4時 13分

 一昨日は、丸1日、家の用事で、どこへも行けず。せっかく染左の会か、喬介の会か、迷っていたのがウソみたいに、両方ともつぶれでした。そして、昨日は、動楽亭で落語を聴く日。様々な会があるなか、若手の噺家さんの会をチョイスです。「花の女子学園〜桂鞠輔と露の瑞の落語お勉強会 その4」がそれで、鞠輔というよりか、完全に瑞狙いで行ってまいりました。オペラ同様、噺家さんも、ルックスは能力の1つですから、瑞が、その能力をどのように活かすかに興味関心のある黄紺なのです。その番組は、次のようなものでした。瑞「犬の目」、鞠輔「道具屋」「踊り:子守り(清元)」、三金「奥野くんの幽霊」、(中入り)、出演者全員「トーク」、瑞「金明竹」、鞠輔「蛸芝居」。日曜日ということもあり、結構な入りに、正直びっくり。トップで瑞が上がると、おっさんを中心に、カメラを構える姿が起こります。これは、京都の瑞の会でも起こった現象。瑞も、ポーズをとりサービス精神を発揮。一段落してからマクラに入るというのは、他の落語会にはない現象。鞠輔には悪いですが、鞠輔登場のときには、起こらない現象なのです。瑞は「犬の目」をネタ出し。ま、キャリアのある噺家さんでは考えられないことですが、まだまだ瑞のキャリアでは許されるでしょうが、実は、ネタ出しをしていないネタを、黄紺は「くっしゃみ講釈」と、勝手に考えていたのですが、きれいに外されました。既に、この会では出しているのかもしれません。「トーク」の中で、瑞は、好きなネタとして、「くっしゃみ」と、なんと「禁酒関所」を上げ、三金から「まみれるのが好きなんや」と突っ込まれていましたが、どうも、落語ファンとして観たり聴いたりして好きなネタと、自分の口演としてインパクトのある噺ができるかを混同している雰囲気を感じてしまいます。この人、とっても口舌爽やかなわけですから、その上手な喋りを活かす「金明竹」のようなネタを、余計な、落研では受けるかもしれないくすぐりなんかは、さっさと捨て、間合いとか、テンポの緩急とかに精を出して欲しいものです。くれぐれも、好きだからと言って、「禁酒関所」には手を着けないで、ネタを選ぶ選球眼を身に付けて欲しいものです。一方の鞠輔、この人の生の声を、初めて聴いたのじゃないかな。もちろん、ネタをしている声、ネタに入るためのマクラを喋る声は聴いていますよ。じゃなくて、彼女の人柄を伺わせるお喋りを、初めて聴いたということです。30歳の普通の女性の顔が見えた思いで、なんかホッとした気分になりました。あまりにも、教わったことをお喋りするというイメージが強かったからですね。1つ目の「道具屋」は、繁昌亭で聴いたところ。今日は、自分たちの会ですから、下げまで行くことができました。2つ目は、なんとなんと「蛸芝居」。ネタ出しをしていましたから、この会に間に合わせるということではなかったはずです。しかし、二葉も、「蛸芝居」をネタ下ろししましたし、若手の女性噺家は怖いもの知らずって感じがしてしまいます。かなり、しっかり台詞や所作が入ってましたから、駆け込み的なネタの仕上げではない雰囲気がありました。ただ、鞠輔の体型もあるでしょうが、所作が小さいうえ、切れ味は、ちょっと寂しいなというところですが、自分自身の大切なネタにしたければ、ダイエットが肝心なところです。動きが小さくなった原因の1つは、着物にも問題があるかと思います。いつもと同じ着物で現れたものですから、着物の乱れはどうするのか、気になり動きに影響しないだろうかと思ってしまいました。二葉は、確か袴を着け、まるで姿三四郎ばりの出で立ちで現れたことは、そう遠くない記憶として残っているため、余計に落語に影響しないかが、気になったわけです。いよいよ、口演が始まり、黄紺が気づいたのは、女性の着物は、帯が、わりかし胴体の上の位置にあり、且つ女性の帯は幅広ですから、かなりしっかりと着物を固定できるってこと。がために、裾の乱れが、思いのほか大きくないということでした。ですから、イメージだけの問題かもしれませんね。人物の描き分けなども、まだまだだと思いますが、様々なネタにチャレンジするなかで、何度も積み上げていって欲しいなと思いました。



2016年 5月 27日(金)午後 11時 4分

 今日も二部制の日。但し、今日は外せないものが、同じ日に並んだものですから致し方ないありません。まず昼間は繁昌亭の昼席。喬太郎が出るということで、ピンポイントでの狙いの昼席です。夜は、京都観世会館での市民狂言会ということで、かなりの重厚な布陣となりました。まず、繁昌亭昼席ですが、その番組は、次のようなものでした。鞠輔「道具屋」、阿か枝「延陽伯」、岐代松「田楽食い」、幸助・福助「漫才」、林家そめすけ「えっ5」、桂枝女太「持参金」、(中入り)、朝太郎「マジカル落語」、喬太郎「紙入れ」、文鹿「くろしお1号」、きん枝「一文笛」。鞠輔は、繁昌亭昼席では初遭遇。15分という時間制限にも拘わらず、教わった通りをしようとして、実は跳ばしてしまったのが出てきていましたが、それでも下げまでは行かず、「半ばです」で下りることになりました。おかげで、最近は省かれることの多い「鯉の滝登り」のくだりを聴くことができました。「道具屋」を持ち時間に納めることをしようとして、それができるようになったら、鞠輔も変わるように思うのですが。2番手は、どうやらこけ枝の出番のようですが、代演が多いようですが、今日だけ、阿か枝が務めました。「延陽伯」は、阿か枝の鉄板と言っていいネタ。喋りの男のいちびり方や、お公家言葉をゆったりめに言ったりと、阿か枝らしさの出る口演が光ります。岐代松は、いつものように、住まいのある十三ネタで掴み、ネタへ。ほぼ「ん廻し」のところだけのお喋り。このネタをする様々な噺家さんが、競うようにして、新しいフレーズを入れていくため、元の形が忘れられてしまいそうですが、もちろん、岐代松もオリジナルなフレーズを入れますが、さほど多くなかったために、古風なフレーズに遭遇でき、黄紺的には嬉しい口演となりました。そめすけは三風作品。このネタをもらったことは知っていたのですが、遭遇は初めて。三風が創ったときに聴いて以来なので、筋立ては忘れていましたが、今日の口演では、癖の直し合いの噺になっていました。そうだったっけと思っても、前に聴いた内容が思い出せませんから、どうしようもありません。今日の口演でしたら、「二人癖」「四人癖」の完全な亜流作品です。枝女太のところで、今日は居眠りが出てしまいました。「持参金」と判ってすぐでしたから、ほぼ全滅でした。お目当ての喬太郎は「紙入れ」。序盤の間男しているところが、もう喬太郎テイストが炸裂。着物を脱ぐ動作を活用しながらの艶かしい所作は、喬太郎にしかできないもの。それに対して、後半の翌日の場面は平凡だったかな。文鹿は、喬太郎のあとでやりにくかったのか、それともネタが短いのか、繁昌亭の客席点描的なマクラを長めに。繁昌亭で、以前に聴いたときも、「くろしお1号」は、酔っ払った常客が車掌に絡んだだけでしたが、今日も、それだけで切り上げました。久しぶりのきん枝落語。きん枝自身が、随分と老けた雰囲気。きん枝も、「一文笛」をするようになっているのですね。相変わらずしっかりとした語り口。ただ、その語り口の中でのテンポは、大きくは変わらない。小さなフレーズ内ではゆらすのですが、小さな山や谷の繰り返しに止まっているのが、もったいない感じ。ドラマが、常に小ぶりなものになってしまいそうで。でも、喬太郎のおかげで、長い間聴いてなかったきん枝を聴くことができました。
 繁昌亭を出ると、直ちに京都への大移動。夕飯を、好きな五条のラーメン屋で済ませてから京都観世会館へ。ちょっとしたミニミニウォーキングのつもり。いい時間調整にもなりました。で、今日の市民狂言会の番組は、次のようなものでした。「末広かり」(網谷正美)、「皸」(茂山茂)、「八句連歌」(松本薫)、「犬山伏」(茂山千五郎)。「末広がり」と「犬山伏」は、お囃子が入るのですが、今日は割愛。ですから、双方で、名ノリのときが、ちょっと不自然なのですが、狂言慣れしていない人は、かえってあのようなものと受け取り、不自然さを感じないかもしれませんね。「犬山伏」では、お囃子はそこだけですが、「末広がり」では、終盤、太郎冠者の謡に乗り舞が入るときに、お囃子が入ります。今日の上演曲は、「末広がり」以外は、上演頻度が高いとは言えないもの。「八句連歌」は、能の会でも、時々出ますが、あとの2つは出ないですね。「犬山伏」は、大蔵流では現行曲にも入ってないと、あきらさんが、プログラムに書かれていました。「末広がり」は、取り違えもの。扇を、末広がりと言って買わせに行かせたために起こる間違い。太郎冠者は、すっぱに傘を買わされて戻ってくることから、主の怒りを買ってしまいます。主が網谷さん、元々声のきれいな方ではありませんが、今日は喉を傷められていたのでしょうか、ちょっと声が気になりました。出ずっぱりの太郎冠者を千三郎さん、彼も60歳くらいにはなられてるのでしょうね。すっぱは、お似合いと書くと叱られそうですが丸石さんでした。「皸」は、あかぎれのこと。あかぎれができているので、主を背負って川瀬を渡ることを拒んだ太郎冠者に、主は歌を詠めと言う。いい歌なら背負って行ってやろうと言うので、太郎冠者はいい歌を即興で作った。約束通り、主は太郎冠者を背負って川瀬を渡ろうとするが、半ばで裏切るという他愛のない小品です。主が逸平、太郎冠者が茂と、「末広がり」よりは、世代が1つ下の従兄弟同士が演じてくれました。「八句連歌」が、本日の秀逸。借金があるため、貸し手のもとへ顔出ししない借り手のところへ、貸し手が現れ、ようやく借り手を見つけて、自分の家へ連れてきて、借金の督促をしようとする内に、互いに好きな連歌は、話題に。歌のやりとりをしている間に、借金の話はどこかへ、そして、書状は反故にしてしまうというもの。借り手が松本薫、貸し手が茂山童司。この2人の組み合わせって珍しいので、どないな感じになるのかと、不安半分興味半分で観ていると、これが、実にいい感じ。負い目のある借り手の松本さんの落ち着かない態度と、冷静で、心の広い雰囲気が伝わる童司くんが好演、現代にも通じる人間関係が、ホントにくっきりと、しかし、歌のもたらす粋な計らいも感じさせるもの。いいもの観たぞの満足感で、いっぱいです。「犬山伏」は、威張りくさる山伏、それに挑発された出家が、法力を競い合わさせられるというだけの話。法力が働くかどうかを、犬で確かめようとの趣向が変わっています。威張るだけをしていれば良さそうな山伏を千五郎、弱々しい出家を、また痩身に磨きがかかったあきらさん。間に入る茶店の主人を宗彦くん、犬を鈴木実さんが、被り物を着ての出演となりました。



2016年 5月 27日(金)午前 0時 27分

 今日は二部制の日。午前中からのメトロポリタンのライブビューイングと、夜のカフェモンタージュのコンサートです。通常は、夜、カフェモンタージュに行くときは、昼間に予定を入れないのを原則にしているのですが、今日は、オペラ好きの高校時代の友人も、福井からライブビューイングを観に来るというので、それに合流すると、結果的に二部制となってしまいました。今日のライブビューイングは、ドニゼッティの「ロベルト・デベリュー」。テューダー朝三部作の1つとして知られていながら、実際には上演頻度の低い作品。メトロポリタンの歴史の中でも初めての上演だとか。そのわけが判りました。DVDやCDで聴きながら、黄紺が注意力がなかったのでしょうね、主役のエリザベス1世の音域が、あまりにも広すぎるのです。コントラルトの領域から、上はハイDisかハイEまであったんじゃないかな。ですから、通常のソプラノでは無理というわけです。今回は、ラドヴァノフスキーを得て、この上演が可能となったということです。このラドヴァノフスキーは、今までに観ているオペラの映像で遭遇しているはずですのに、友人ともども印象に残っていなかったのですが、今回のプロダクションでは、強烈なインパクトを残しましたから、決して忘れることのない名前となってしまいました。確かに歌唱もそうなのですが、老齢に達したエリザベスを、化粧、動きなどで、見事に表現していました。もちろん、三部作の演出全てを担当したデヴィド・マクヴィカーの功績を忘れるわけにはいきません。基本的に、伝統の枠を踏み外さないプロダクションというのが、デヴィド・マクヴィカーものだとインプットされていますが、このプロダクションも、基本はそうだったのですが、1つだけ大きな特徴を持ったところがありました。それは、全編、劇中劇として演じられたということです。テューダー朝期の宮廷の一室は、さもこのようであったかと思えるような広間には2階があり、そこが、常時観客席となっていましたし、1階の両脇も立ち見席用スペースとして使われ、コーラスの人たちは、出番が終わっても引っ込まずに、そのスペースに残り、観客の役を務めていました。ウィーンの「アルチーナ」が似たような特徴を持ったプロダクションですが、このプロダクションは、2階の観客は進行にはかまないというものでした。その意味は何だったのか、終わってから友人と話して一致したのは、場面転換の必要性をなくすためだったのだろうということで、物語の進行に意味があったとか、何やら哲学的な意味があったとは思えませんでした。MCだったデヴォラ・ヴォイトが、このことを開演前に予告をしたものですから、緊張が、自分の中に高まった、つまり、意図を探ろうという緊張が生まれたのでしたが、ちょっと肩透かしとはなりました。そんなですから、心理描写に重きを置いた演出、歌唱、演技となりましたが、そのいずれをとっても甲乙つけ難い歌手4人が揃いました。エリザベス1世のラドヴァノフスキーに続き、主役ではないタイトル・ロールとなるロベルト・デベリューにはマシュー・ポレンザーニ、エリザベスの恋敵となるサラをエリーナ・ガランチャ、その夫ノッティンガム公爵をマリウシュ・クヴィエチェンと、よくもまあ、これだけスター歌手を集めたものと思える布陣。さすが、メトロポリタンです。この中で、一番変化がないのが、ロベルト・デベリュー。サラ恋しい恋しいと言ってれば、いいわけですからね。一途と言っていいなら、そうとしか言いようがありませんが、これは、ポレンザーニに合っていますね。あとの3人は大変。ガランチャの演じたサラは、エリザベスが気をゆるす人物であり、夫が、恋しいロベルト・デベリューの親友ときている。また、そんなだから、表に、露骨に感情を表しがたいとまあ、なんとも難しい役柄。その辺を、ガランチャは、サラに気品を持たせることで処理しようとしていました。そのため、少ない動きで内面を表さねばならず、表に出すことも自在なエリザベスと好対象の役柄に見えました。このあたりについては、デヴィド・マクヴィカーと入念な打ち合わせを行った旨、ガランチャはインタビューで答えていました。逆にあっさりと人物像を変えることができるのがノッティンガム公爵。妻の裏切りを知った途端、ロベルト・デベリューに対する態度を、180度転換をするという、まことに解りやすいキャラ。クヴィエチェンは、いい人を演じるよりは、憎悪を込めた演技なり歌唱に、魅力が増しますね。とにもかくにも、この4人を集めることができたのが、貴重な「ロベルト・デベリュー」の上演を、更に意義のあるものにしてくれました。1日も早いDVD化を心待ちにすることにしましょう。
 ライブビューイングが終わり、友人が福井へ帰るまで食事をしたりしていても、夜の部までは時間がありすぎるということで、自宅待機に切り替え。雨が降りそうで降り出さないなか、カフェモンタージュへ。今夜は、「ガブリエル・フォーレ― 室内楽全集 vol.2 ―」がありました。演奏は、(ピアノ)岸本雅美(ヴァイオリン)佐藤一紀(ヴィオラ)小峰航一(チェロ)上森祥平の4人の方でした。G.フォーレの曲としては、「ピアノ四重奏曲第1番 ハ短調 Op.15 (1879)」だけが予定されていたのですが、30分ほどの曲なので、プログラムはどうなるのか心配をしていたのですが、カフェモンタージュに着いて、フォーレの前に「モーツァルト:ピアノ四重奏曲 変ホ長調 K.493 第2楽章」が演奏されることを知りました。演奏は、モーツァルトが終わったあと、譜面をめくって、直ちにフォーレに入るというもの。曲想が違うため、このような方法を執られても、全くスムーズに移行。ま、それたけ、モーツァルトとフォーレは、異質な音楽ということなのでしょう。緩抒楽章だけが演奏さたモーツァルト、ピアノは、既にフォーレ・モードに入っていたのでしょうか。コケティッシュな色合いを求めると、ちょっときつかったかな。続いてのフォーレ、3本の弦楽器が一体となって、うねりのように動き回る音の妙味が魅力と思っている作品。逆に個々の楽器の動きに捕らわれてしまうと、せっかくのフォーレがフォーレじゃなくなってしまうと思っている黄紺にとっては、1楽章と2楽章よりは、後半の2つの楽章に軍配を上げたくなる演奏。これで、2つのピアノ四重奏曲が終わったことになりというか、まだ、それたけしか終わってないわけですが、残りは、もう今年は開かれることはななく、来年になってから、第3回目が用意されているそうです。メトロポリタンの来シーズンのラインナップも明らかになってきていますが、こういったものが、目に触れる度に思うのは、日本にいるだろうかです。外国に行き、得るものは多いのですが、一方で悲しい別れもあります。



2016年 5月 25日(水)午後 11時 14分

 今日は、繁昌亭の夜席に行く日。今夜は、「天神寄席5月席〜化けて演じて芝居して〜」がありました。その番組は、次のようなものでした。雀喜「野崎詣り」、吉坊「狐芝居」、春之輔「まめだ」、(中入り)、<鼎談「落語を演出する」わかぎゑふ(劇作家・演出家)、高島幸次、桂春之輔>、生喬「ヅカタツ!」、文之助「桜の宮」。久しぶりの「天神寄席」、毎月25日に、繁昌亭の自主公演として開催されています。なかなかおもしろいメンバー、ネタに引き寄せられて行ってまいりました。雀喜が、前座なしでトップで登場という贅沢な番組。「野崎詣り」が、今日のテーマに合うのか、だいぶと考えました。一応、運定めのためにウソの喧嘩をするからなんでしょうね。かなり無理筋のチョイスですが、他になかったのでしょうかね。雀喜が、今日は、師匠の雀三郎同様、後ろで髪を束ねて出てきて、ちょっとびっくり。あないな姿は、初めて見たものですから。それに、風邪気味だったのでしょうか、わりかしハスキーな声での口演。ちょっと無理して声出してるなってところまで見受けられました。マクラで、「小粒」についての解説をしてからネタに突入。実直な雀喜らしい配慮。春団治版と違い、刈り込みのない形でしたが、春の陽気、明るさが、今いち足りなかったかな。吉坊の「狐芝居」は、ホントに久しぶり。「忠臣蔵」の四段目が入る小佐田作品ですが、芝居の真似事が、実にうまいものだなぁと感心させられたため、以前聴いた会場、そして、誰の会で聴いたかまで覚えている逸品。今日の口演では、芝居に磨きがかかり、更に、年齢とともに、吉坊といえども、おっさんの声の芽生えがあり、口演に重しが着いたように感じました。春之輔の「まめだ」に、よく当たります。春之輔が出る落語会には行く機会が少ないのですが、遭遇すると、「まめだ」を聴いているという印象。秋の噺が、初夏に入ろうかという時期に、2本続きました。「化かす」がテーマになれば、狐狸が出てくるのは致し方ないにせよ、狸が2本続いてしまいました。わかぎえふ登場の鼎談を挟んで、本日の最大のお目当て生喬によるタカラヅカ落語でした。タカラヅカ落語を、既に4本創ったと言ってましたが、この「ヅカタツ」を、一番聴いているはずです。ホントに限られた会でしか聴けないものですから、もちろん本人が、率先して出さないネタなものですから、やたら稀少性が出てしまっています。今日は、オファーを受けてのネタ出しと、わざわざマクラで断りを入れるのが、生喬らしいところです。でも、膝かくしが、タカラヅカ的装飾になっており、小道具類から、着物の下には金ラメの衣裳を着こむなど、見所いっぱいの口演となりました。「お見苦しいものをお見せしました」とだけ言って、ネタに突入したのが文之助。あまりに異次元な世界に絡まない方が得策と判断したのでしょうか。そして、春の爽やかさを包み込んだ風が吹いたが如く、文之助は疾走しました。素晴らしい疾走感でした。身体表現をも包摂してしまった軽やかな口演が、春の空気を感じさせてくれました。この会のプロデュース力には感服しきりです。この顔ぶれで会を持てること自体が、繁昌亭スペシャルでしょうし、いいネタを集めたものです。



2016年 5月 24日(火)午後 11時 20分

 今日は講談を聴く日。毎月、薬業年金会館で行われている「第225回旭堂南海の何回続く会?〜増補難波戦記16」に行ってまいりました。今日は、「『喰らわんか舟の由来』の由来」と題して、南海さんが、いつものように1時間半お喋りされました。前回同様、今回も、学術研究発表的講談会となりました。「難波戦記」の中でも、わりかしポピュラーな抜き読みの1つ「喰らわんか舟の由来」、その話が、旭堂の今の形になるまでを、「難波戦記」の変化に応じて、どのように変化していったかを、変化の解説、及び、各種本に基づく講談を聴かせていただけました。内容は、秀忠が必死の状態になったところを救われ、それに尽力したことから、喰らわんか舟が誕生したというコンテクストなため、当然ながら、豊臣贔屓の「難波戦記」が出てきてから、この物語が入ってくるそうです。初期の徳川礼讚の「難波戦記」には、その欠片もないとか。場面設定も2種類あるようで、現在の旭堂の型のように冬の陣に置くものと、夏の陣で、秀頼一行が、薩摩に逃れるのを隠すための陽動作戦として、三好兄弟が、枚方に出ばって来たときに起こった秀忠危うし事件に伴うものということで、薩摩落ちに伴う話ですから、この話の方が新しくなるわけです。秀忠の危難と行動を共にする家臣も、1人ヴァージョンと2人ヴァージョンの2種類があるようで、家臣1人で始まったのが、1人による補佐は、あまりにウソっぽいということで、2人ヴァージョンにしたのだろうというのは、南海さんの所見。家臣の1人は、常に安藤治衛門で、もう1人増えると大久保彦左衛門となると聴いて、南海さんの所見に、あっさりと納得。だって、そこいら中に、彦左が現れる講談があるのですからね。秀忠からもらうものにも変化があるそうです。三十石舟への飲食販売権の前提になるのが、淀川の航行権、これが、実際では最大関心事だったようで、そこから脚色が進んで行ったようで、現在の旭堂では、「喰らわんか」と口汚く客に接することを許されたとなっていますが、これって、最もウソ臭くもあり、エンターテイメント的なまとめ方と思ってしまいます。そもそも、三十石舟相手に物売りをしていたのは、枚方の人たちではなく、対岸の柱本や唐崎の人だったようで、でも、監督官庁が枚方にあったため、徐々に枚方中心に動き出したようで、鍵屋あたりが、この業界に算入してくるのは、もっとあとからだそうで、物売りの差別化が看られ出してからだそうで、舟唄などは、様々な時代の風景がないまぜになっているようですね。などなど、黄紺の記憶に残っているものを、徒然に認めてみましたが、実際は、もっと内容が豊かだったはずです。しかし、前回の「般若寺」ともども、まことにもって凄い口演です。書いたものとして残して欲しいものです。南海さんこそ、講談界の桂米朝になれる人だし、将来のことを考えると、なってもらわなければならない人ですものね。



2016年 5月 23日(月)午後 5時 17分

 昨日は、久しぶりにイスタンブル・コナックでの会食。昔の同僚との数ヶ月ぶりの再会。腹十二分目くらいに、トルコ料理を堪能しました。
 そして、今日は、久しぶりに道頓堀の角座で、落語を聴く日。「角座日中(ひなか)はなしの会」に行ってまいりました。動楽亭の昼席のすき間に組まれている会、松竹所属の若手の噺家さんで、出番が組まれていますが、その番組は、次のようなものでした。治門「道具屋」、生寿「延陽伯」、福丸「稽古屋」、壱之輔「竹の水仙」、(中入り)、喬介「寄合酒」、右喬「二人癖」。以前に1度行ったときの経験や、ネットに書かれているこの会の番組表を見て、この会では、軽めのネタが並ぶものと思って行ってみると、なんと、今日は、福丸と壱之輔が、えらくしっかりとしたネタを出してくれて、正直びっくり。こうした番組が定番になるのなら、もっと足を運ぶのにと思ってしまいました。この会に出る噺家さんの最古参は、今日のトリをとった右喬や由瓶クラスなので、それこそ、福丸や生寿クラスが、しっかりとしたネタを出しやすいと思うのですがね。なかなか口演の機会に恵まれないネタってあるはずですので、この会を活用するのも手だなと思いながら聴いておりました。と思いながらも、今日は、生寿と壱之輔のところで居眠り。昼間の会の上に、ミニミニウォーキングをして、ダイレクトに会場入りしたのが響いたみたいです。今日の番組で、やっぱ秀逸は、最早鉄板と言っていい喬介の「寄合酒」、秀逸その2は、福丸の「稽古屋」、+αが、治門の「道具屋」といったところでした。喬介のいちびりキャラは、ホントに何度聴いても、こちらを楽しくさせてくれます。どのネタを聴いても、出てくるキャラは相似形なんだけど、そのようなキャラは、喬介にしかできないものですから、何度聴いても鮮度が落ちにくいんですよね。福丸の「稽古屋」は、記憶に間違いがなければ、ネタ下ろし、でなければ、ネタ下ろし早々に聴いていますが、そのときの印象に比べると、えらくさばけたというか、板についたというか、そのような印象が残りました。丹精なイメージが、福丸にはあるものですから、このネタに出てくる喜六よりも、甚平衛や稽古屋の師範のようなキャラの描き方が合うように思うのですが、存外、そういったキャラの人物が生き生きしているとは思えてこないというのが、福丸の口演を聴いての印象として残ってきました。逆に「八五郎坊主」なんかの方が、生身の人間が出ていると思ってきたのですが、今日の「稽古屋」は、喜六だけではなく、皆が生き生きしていたように思えました。稽古屋のお師匠はんの落ち着きが、とても自然体で気に入りました。あとは、仄かな色気が欲しいところですが、時間をかけて醸成していって欲しいものです。治門の「道具屋」は、先日聴いた小梅と同じテキストと思われます。治門は、「初天神」でもそうですが、派手なことはしないで、ネタの尺の中で、そのネタの持っている強さを的確に引き出しているように思えるのです。穏やかな、ほのぼの系の空気感のある治門落語を、わりと気に入っている黄紺なのです。右喬の「二人癖」は、松喬直伝のものでしょう。メトロノームを横に置いているかのようなリズムで喋り続ける右喬。こちらの体調により、噺の印象に変化が出てきそうなほど、似たリズムで進めていました。今日は、居眠りが出たりしていたので、あまり体調芳しからずということで、黄紺にとっては、右喬落語は退屈になってしまってました。午後1時に始まり、終わったのが午後3時10分を少し過ぎたあたり。外は、5月なのに、30度の陽射しが待ってました。



2016年 5月 21日(土)午後 11時 10分

 今日は、久しぶりに二部制の日。午後に民博のゼミナールに行き、夜は、カフェモンタージュで音楽を聴く日でした。まず、民博ゼミナールですが、今日は、「ヒンドゥー聖地と巡礼の現在」と題して、松尾瑞穂(国立民族学博物館准教授)さんのお話を聴くことができました。ヒンドゥー教って、インド映画を観るか、マレーシアやシンガポールに行ったときにぶらつくインド人街でしか触れることのないもの。ただ、映画にせよ、実際に見たヒンドゥー教寺院にせよ、とっても原色の、特に黄色の花びらに彩られているとの印象が強く残っているのと、神々については、神話の物語を知らないと、全くついていけそうもないとの印象がある一方、映画なんかを観ていると、神秘的な反面、えらい現世利益的な神々との印象があるくらい。ですから、聖地とか、巡礼と言われても、どこに何があるかも解らないなかで、この講演に臨みました。ただ、お話を伺っていると、聖地という用語には、ヒンドゥー教の特別な定義付けがあるわけではなく、ヒンドゥー教に比べれば、まだ少しは知識のあるイスラーム教、キリスト教の定義とは変わりはないようで、まだ頭は着いていきました。具体的な聖地の名前になると、これは、ヒンドゥー教の物語と関連してくるため、ただただ知識を仕入れるだけになっていくのですが、おもしろかったのは、全インドに知れ渡っている聖地と、ローカルな聖地があるということ。広いインドのことですから、全インドに知れ渡った聖地というのは、インド各地に散在していますから、巡礼に赴くのは容易なことではありませんが、ローカルな聖地は、そのような心配から解放されます。ガンジスが聖なる川だというのは有名な話ですが、ヒンドゥー教の儀礼沐浴に通ずる水、川が、聖地を生む大切なキーワードだそうで、ローカルな聖地も、水に拘わるものが多いようです。インターネットの時代ですから、聖地巡りツアーをネット募集をする旅行業者、ヒンドゥー教の儀礼を祭司に申し込むのも、ネット予約の時代に入っているとか。そういった具体的な現代の聖地&巡礼事情を、講演者のフィールドを紹介しながら、お話をしていただけました。もちろん、この具体例はローカルな聖地のお話となりました。また、カーバ神殿の周囲には、巡礼者用の高級そうなホテルが林立しているようですが、そういった経済効果も出ているようで、人が集まれば、ものも、また、様々な思惑を持った人も集まってくるようで、宗教的地点が、また異なった趣の眼差しを向けられる対象となっているようで、世界各地の聖地と言われている地点と似た現象が、ヒンドゥー教聖地でも起こっているようですね。ルルドしかり、エアーズロックしかり、とまあ、他の例を思い起こせば、至極納得できる現象ということですね。ガンジスの水が商品価値を持つってことです。
 講演が終わると、時間調整も兼ね、民博の映像資料を視聴、また、阪急茨木市駅までのミニウォーキングは、通常通り行い、京都への大移動。今夜のカフェモンタージュでは、塩見亮さんのピアノで、ベートーベンのピアノ・ソナタが演奏されました。そのプログラムは、次のようなものでした。「ピアノソナタ 第26番 変ホ長調 作品81a《告別》」「L.v.ベートーヴェン:ピアノソナタ 第15番 ニ長調 作品28《田園》」。カフェモンタージュでは、あまり多いとは言えないピアノのリサイタルで、しかもベートーベンのピアノ・ソナタだけを演奏するということで、しかも、こちらでは聴き慣れている塩見さんの演奏会ということで行ってまいりました。この企画は、来月に予定されている田村安祐美されとのベートーベンのバイオリン・ソナタ連続演奏会のトレーニングを兼ねて生まれたものとか。ベートーベンのピアノ・ソナタがプログラムにあがるというときには、「3大ソナタ」なんて銘打ってない限りは、どうしても最後期の作品が入ってくるのが常と言ってもいいところへ、そうじゃない名前付きの作品を持ってきたプログラムがおもしろいですね。「告別」は、塩見さんのレパートリーにあった曲だそうですが、「田園」は、オーナー氏のリクエストだそうで、塩見さんは、このコンサートに向けて暗譜までされて臨まれました。オーナー氏によると、「田園」は、「ハンマークラヴィーア」に通じるものを感じるそうで、いずれは、塩見さんに「ハンマークラヴィーア」を弾いて欲しいとの意味を込めてのリクエストだったそうです。たしかに、「告別」は、通常の演奏会で看ることは珍しくはありませんが、「田園」は名前付きにも拘わらず、看る機会って、ほぼないと言ってもいいですものね。演奏は、黄紺的感想を書くならば、「田園」に軍配かな。但し、「田園」も、1楽章の冒頭のテンポが、黄紺のツボから外れていましたが、後半の疾走感が気に入りました。一方の「告別」は、音の切り方が気になって仕方ありませんでした。手首の柔らかさとペダルの使い方のタイミングが気になって、、、。そんなで、ライブでベートーベンのソナタを聴くなんて、実に久しぶりの体験。でも、残念ながら、黄紺は、田村さんとのジョイントの会は行けないのです。



2016年 5月 20日(金)午後 10時 25分

 今日も落語を聴く日。今日は、天満橋の常磐漢方薬局ビルであった「第132回 常盤寄席」に行ってまいりました。林家染太と笑福亭智之介が、二人で長年続けている落語会です。なかなか、智之介落語を聴く機会がないもので、時間が合えば、覗くようにしている会です。その番組は、次のようなものでした。染太「つる」、智之介「二階借り」、染太「堪忍袋」。長いネタが出ないということで、2席務める染太が、頑張って小咄を入れたり、定番の営業用マクラに世間話を入れたりして、時間稼ぎをしてくれました。智之介の方は、ネタがネタだけに、艶笑系の小咄をマクラに入れるくらいでした。染太の高座というのは、身体に合わせているわけでもないのでしょうが、ちょっとマンガチックにデフォルメして、噺を進めるのが定番。結果として、身体が生きてくるという落語ですが、「つる」は、前座のときに覚えたのでしょうね、そういったらしさをカットしたまま演じてくれました。ある意味では、あまり観ることのできない高座だったと言えばいいかもしれません。それに対して、「堪忍袋」の方は、染太テイストがたっぷりと詰まった口演。ただ、前半の喧嘩のわけを、お互いに言い合う場面って、やっぱテンションが同じでは、おもしろみがイマイチになります。クレッシェンドするなりして、変化を付けて欲しいところでした。もう、染太は、堪忍袋の話が出てくる辺りでは、汗だくになっての口演。かなり冷房が効いていたにも拘わらずですから、染太にとっては、厳しい季節に入ったことを示していました。堪忍袋に悪口を入れるところでは、ノンフィクションであることを断りながら、私生活の愚痴をこぼすというもの。ならば、もっと時間的に膨らましてもいいかもと思ってしまいましたが、さほど引きずらずに、外から人がやってきました。染太の話によると、この「堪忍袋」を上方に持ち込んだのは鶴瓶とか。そうかもしれませんね。最近は、上方でも手がける噺家さんが増え、昔から伝わっているという錯覚に陥るほどですね。智之介の「二階借り」は、別名「茶漬間男」。また出ちゃったと思うほど、このネタを手がける噺家さんが増えました。艶笑噺だけど、あまりに落語的な展開が、噺家さんに人気なのですかね、黄紺には解らないところです。さりげなく可笑しなことを言ってくれる智之介落語ってのを、わりかし心地よいと思っている黄紺なのですが、遭遇機会が少なく、持ちネタ自体を、よく把握できてないのですが、「二階借り」を持ちネタにしていることは、わりと意外な印象を持ってしまいました。艶笑系小咄に次いで、盆屋の説明をしてからネタに入るという、とってもオーソドックスな進行。全体的に、噺が噺だけに、ねっちょりとやらない方がいいとばかりに、淡々と進めることをポリシーにしたなというのが、とっても、よく判る口演でした。変化を着けるなら、やはり旦那なんでしょうね。小うるさいオヤジにするというのが、よく採られる手ですが、、、。長講がなかった上に、3席ということで、終演は8時10分。慌ててエレベーターに乗ろうとしたら、お土産を手渡されました。中味を見て、びっくり。早速、頂いております。おかげで、まともなビールにチューハイなんて呑むのは、ホントに久しぶりとなりました。



2016年 5月 19日(木)午後 11時 24分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「鯛安吉日〜桂鯛蔵落語会vol.22」がありました。その番組は、次のようなものでした。小梅「道具屋」、鯛蔵「火焔太鼓」、まん我「胴乱の幸助」、鯛蔵「厩火事」。小梅は、一昨日に次いでの遭遇。今まで、遭遇頻度は高くはなかったのですが。「道具屋」は、鯛蔵のリクエストだそうです。その理由が、小梅の口演について的を得ています。小梅の「道具屋」に出てくるアホは、放送コードすれすれだからというわけです。それだけ、個性的な口演だということですしょうが、黄紺的にはアウトだと思いながら聴いていたところに、鯛蔵のコメントがあったものですから、可笑しくって。ここまでアブナイ系に、「道具屋」のアホを描いた噺家さんはいませんでした。上方落語にはいない与太郎になっていました。また、普段聴く「道具屋」とは、微妙に違うところも見かけました。荷を担ぎながら、金魚屋に寄り、善さんを尋ねながら、金魚の取り方をコーチしたり、善さんが、店を出す場所まで案内し、ものの並べ方まで教えていました。鯛蔵の1つ目は「火焔太鼓」。鯛蔵が、早い時期から持っていることは知ってはいたのですが、遭遇は初めてとなります。そういった意味でラッキーな話です。冒頭の夫婦喧嘩が秀逸。噺の枠を決めてしまいますから、大切なところですが、テンポのいい掛け合いは、さすが鯛蔵というところです。その秀逸さに比べると、あくまでも比べるとですが、侍が、ちょっと物足りなさを感じました。位の欲しいところです。位が出ると、道具屋の慌てぶりの可笑しさが、よけい高まるのじゃないかな。終盤の小判をもらうところから、いわゆるおいしいところを、しつこくならないようにしていたなの印象を持ちました。小判を100両単位で渡すというのが1つ、もう1つは、おかみさんの毒づき方が薄いという点です。でも、これは、もうちょっと延ばしてもいいんじゃないかなぁ。ゲスト枠はまん我。鯛蔵とは5年くらいの違いだと言ってましたが、イメージ的には、もう少し開きがあるように、黄紺は思ってしまいます。マクラで、1つのセレモニーのようにして、鯛蔵の逸話を紹介してくれました。これは大受け。そして、「胴乱の幸助」へ。ひょっとしたらと、期待半分、予想していたのが当たりました。まん我の「胴乱の幸助」も、まだ聴いてなかったのです。ところが、途中から、なんか違うぞの印象を持ち出し、退屈になっていってしまいました。冒頭のくだらない会話、「立ってなにしてんねん」「立って、立ってんねん」、これって、秀逸の入り方だと、かねてから思っています。この噺のありえない展開があっても不思議じゃないと言いはれる空気感が生まれるスイッチの役目をしていると思っています。ですから、そのあとの2人のわけのわからない会話、わけのわからない内に喧嘩が本当になって行くバカバカしさ、そのバカバカしさを生む空気が出来上がっていくように思うのですが、まん我はカットしちゃいました。胴乱の幸助の紹介に走りました。その胴乱の幸助も、冒頭の2人も、現代に生きる人たちと聴こえてしまいました。原因の1つは、言葉づかいなのでしょうね。「古風な」オヤジであるはずの胴乱の幸助に感じてしまうと、ずっと出ずっぱりですから、その空気感が止まるところはなく、最後まで行っちゃいました。テキストのカットは、稽古屋の場面でもありました。胴乱の幸助は、最後まで稽古屋の中には入らず、外に集まる野次馬連中からお半長の子細を聞きメモリ、京都に駆けつけるとなっていました。鯛蔵の2つ目の「厩火事」が本日のネタおろし。ただ、聴いていて、「火焔太鼓」の方が、ノリが良かったなぁ。1つは、兄貴のところに駆け込んで来るヨメはんの振幅が小さかったことにあると思います。駆け込んで来るときの怒りが小さかったから、のろけに見える旦那の擁護に入っても、軽く流れてしまいがち。そもそも、この振幅が、この噺の真骨頂なのですからね。終盤、家に戻り、皿を割らんとするときの躊躇いも、全て、この振幅が効いてくると思うのですが。その辺のかげんの持って行き方を理解することが、この噺の正否に係わるかもしれません。その判断をするには、鯛蔵は若すぎるのかもしれません。そう考えると、このネタを、もっと時間が経ってから手がけるべきだったかもしれないと、申し添えるものとします。



2016年 5月 19日(木)午前 0時 8分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、関西弦楽四重奏団(ヴァイオリン:林七奈、田村安祐美、ヴィオラ:小峰航一、チェロ:上森祥平)の「ベートーヴェン・ツィクルス vol.5 」のあった日でした。今夜演奏されたのは、「第4番 ハ短調 作品18-4 (1800)」と「第9番 ハ長調 作品59-3 ≪ラズモフスキー第3番≫ (1806)」でした。今日は、全8回続くこのシリーズの半ば、後半の第1回目に当たります。作品18の中でも、わりかしよく聴く4番、よく聴くはずです、関西弦楽四重奏団のカフェモンタージュのコンサートでも出たことがあるそうです。そうですというのは、黄紺は、すっかり失念していたからなのです。ベートーベンの初期の作品、要するに作品18の6曲の内どれかを聴いた記憶まではあったのですが、、、。もう1曲は、中期の名品中の名品、ラズモフスキーの3番という組み合わせということで、この組み合わせだったら、全曲シリーズでなくとも、普通のカルテットのコンサートでもありそうな組み合わせです。もう4番の冒頭から、厚い、そして柔らかな音色が、会場を包みます。もう、それだけで、今日聴きに行ったカイというものを感じてしまいました。もう少し音の拡がりがいいと、スケールが大きくなるのにと思うのですが、会場の広さとも関係があるのかもしれませんから、突っ込むのも考えなければなりませんね。ラズモフスキーでも同様だったので、致し方ないことかもしれません。サッカーで言う球際の強さは、音楽に通じるものを感じてしまいました。近寄って来ると、足がグーンと伸びるが如き音の切れとか伸びといった点での今一感は置いておいて、暖かなアンサンブルに満足。いい気持ちになり、ラズモフスキーの後半では、心地好くなりすぎたのでしょうか、うつらうつらしていたようです。なお、4番は田村さんが、9番は林さんが、それぞれ第1バイオリンを務められました。



2016年 5月 17日(火)午後 11時 29分

 今日も落語を聴く日。初めて行く法善寺庫裡で行われた「法善寺寄席〜春団治一門若手特集〜」に行ってまいりました。毎月1回開かれている関西芸術協会絡みの会です。会長を福団治がしている関係か、福丸絡みの会が多いので、一度は覗いてみたいと思っていた寄席です。今日の番組は、次のようなものでした。福丸「しの字丁稚」、小梅「黄金の大黒」、福丸「代書屋」、咲之輔「片棒」。ネタの重みにより、出番を決めたのでしょうか。福丸が2席出すにも拘わらず、トリは咲之輔が務めました。初めて行った会なので、他の月なんかと比較のしようがないのですが、座席自体が20ほどの狭い空間で、今日はつばなれしませんでした。冒頭に、出演者3人が出て、挨拶替わりの軽いお喋り。2席を務めた福丸の知らない持ちネタを聴けるかもという期待を持っていたのですが、残念ながら、自身の勉強会で披露したことのあるネタが並んでしまいました。「しの字丁稚」は、演じ手が稀少なレア物。最近では、福丸以外では聴いたことのない代物。旦さんと、小まっしゃくれた丁稚との知恵比べだけの噺です。福丸の口演では、旦さんが、丁稚と同じ位置で喋っているように聴こえてしまいます。もうちょっと、旦さんの格を上げた方が、丁稚との対比が鮮明になり、可笑しさが増すのではと思ってしまいました。「代書屋」は、当然、春団治一門なわけですから、春団治系の「代書屋」なわけですが、アホな男の言うことがわざとらしく聴こえてしまいました。福丸の顔が見え隠れしてしまうのでしょうね。一方の代書屋さんもおもしろくなかった。バカバカし過ぎて、呆れるというスタンスがないと、落語にならないような気がするのですが、今日の福丸の口演では、まじ切れずしそうなきつい男に見えてしまい、聴いていながら、ちょっと引き気味となってしまいました。同期の咲之輔を聴くのは、実に久しぶり。そのネタは、よりによってというものに手を着けたものです。冒頭のお喋りで、既に「文之助にもらった片棒をする」と言っていたので、黄紺は、先輩の得意ネタをもらいたい、自分もやってみたいと思うのにも、程ってのがあるやろと、一人で突っ込んでしまっていました。同じ得意ネタでも、文之助から、「へっつい幽霊」をもらうのとはわけが違うと思うのです。この「片棒」や「太鼓腹」というネタは、あまりにも文之助色が濃すぎて、なかなか自分らしさを出せないものだと思うのです。文之助流のライトで流れるようなお喋りを目指そうとした部分については、咲之輔自身も満足しているかもしれないという快調さに感心しきりでした。が、文之助特有のフレーズ、言い回しとなると、真似るだけでも四苦八苦しながらも成果に繋がったかというと、それは、なかなか難しかったと言わざるをえません。そんなですから、この「片棒」を、自分のものにするには、これから推敲に推敲を重ねて、自分のものにしていくことになるのでしょうね。それの覚悟がなければ、文之助から「片棒」をもらうなんて、もっての外じゃないかと思います。本日の最若手が小梅。冒頭のお喋りでは、顔つきばかりか、身体自体のおっさん度を、2人の先輩からいじられていましたが、冗談ではなく、きっちり医者に診察をしてもらわないと、なんか聴いているだけで恐くなりました。噺の方は、残念ながら、師匠の喋りを、更におっとりとしたものですから、やはりおっさん扱いされても仕方ありません。今日、咲之輔が見せたテンポを、少しでも目指して欲しいものです。



2016年 5月 16日(月)午後 11時 18分

 今日は繁昌亭に行く日。第30回満腹全席」と言って桂文三主宰の落語会があったのです。年に4回開催されている会ですが、特に迷ったりする会がないときは、足を運ぶようにしている会の1つです。その番組は、次のようなものでした。染八「寄合酒」、文三「祝い熨斗」、風喬「寝床」、(中入り)、文三「井戸の茶碗」。いつものように、開演前に、文三が登場し、挨拶替わりの前設で暖めてから、前座役の染八にバトンタッチ。ところが、今日の染八はいただけませんでした。感性が大人になりきれてないところを感じたのが1つ。自分なりの物言いを入れても、ちょっと子どもっぽすぎるのです。そう思うと、語り口がとっても良くなっているのに、声は子どもっぽく聴こえてきました。それと、終盤、すり鉢のところがダメだったですね。すり鉢とすりこぎの混同があるばかりか、リズム、テンポがガタガタになってました。体調不良なのか、ネタを繰るのを怠ったのか、いずれかでしょうね。文三の1つ目は「祝い熨斗」。兄弟弟子では、阿か枝が持っていますが、あまり目立たない先代文枝ネタ。その辺に、ちょっとだけ触れて、ネタに入りました。黄紺の好まないアブナイ男ネタなのですが、今日の文三の口演を聴いていて、熨斗の根本の受け売りをする下りでは、その男を応援したい気分になりました。それは、ひとえに文三が程を心得ているからでしょうね。特に、文三の声はハイトーンですから、大きめの声が下手するとアホ声に聴こえかねません。テキストは、かなりアブナイ内容ですから、その辺も込みでの程というものを心得ていたということになるでしょう。その上、やはり文三の口演ってのは、文三の人柄を反映しているというのが味方しているのですしょうね。ま、それが文三スペシャルというところで、文三の最大の魅力になっていると思っています。この会は、ゲスト枠の噺家さんに、中トリをとらせるというシステム。風喬とは親交が厚いのでしょうね、この会で、既に1度ゲストで出たのを聴いています。「高津の富」を出したはずです、そのときは。今日は「寝床」。ですが、この「寝床」は、残念ながら盛り上がりの欠けるものとなりました。久七が伝令役で、町内回りの報告をするところで、その口演がおもしろいものになるかどうかが決まってくるというものでしょう。ここで下手を打っちゃうと、取り返すのは容易ではない、いや無理と言っていいかもしれません。ということで、今日の風喬は、ここが、ずっと平板で、同じように展開して行ってしまってました。繰り返しネタであるわけですから、また、旦さんも、同じ調子で聴いているわけではないはずですから、平板な繰り返しであるわけではありません。町内回りの報告に次いで、更にお店の人たちのレポートが次いでいくわけですから、かなり長時間に渡り、これが続くわけですから、なんか工夫が要るはずですよね。文三の2席目は、なんと「井戸の茶碗」への久しぶりの遭遇。もちろん、文三の口演ではということです。文三が、繁昌亭大賞の奨励賞を、同期の中からいち早くもらったりしたのは、黄紺的には、この「井戸の茶碗」の成功があったからだと思っています。噺の流れとしては、腹ごもりの金が出てきたため、屑屋の面体改めが行われたため、そのわけを噂しあう屑屋さんのワイワイがカットされたもの。愛想のいい屑屋さんは、文三のキャラが成せる技、その一方で、侍2人の描写が、どうしても弱くなってしまいます。なかでも、年配の千代田墨斎が弱くなってしまいますが、これは、文三の加齢を待つしかないかもしれません。そこいら辺に重みが効くと、最後の事態収拾に親の情愛や、武骨な武士道に説得力が、より出てくるように思いました。一方で、屑屋さんの人の良さそうなところがいい感じで、このネタの持つ強さを引き出していたと思います。終盤に入り、フーッと肩の力が抜け、ホッとする空気を共有できて幸せ気分になるました。



2016年 5月 15日(日)午後 6時 27分

 昨夜、午後9時前に、関空に到着しました。もう家に着くと、日が変わろうかという時間帯となっていました。そして、今日から、早速に日常に復活です。落語会に向かう途中に息子に会い、その足で太融寺に向かいました。「梅田太融寺 南天の会」があったからなのですが、太融寺での落語会に行くのは、かなり久しぶりです。最近、千朝の会にも行ってないし、ラクゴリラは、もう10年は行ってませんからね。南天の集客力は大きいもので、もう動楽亭の会は、端から除外をしているのですが、太融寺は広いから大丈夫かと思い行ってみることにしました。その番組は、次のようなものでした。あおば「宿屋町」、南天「たちぎれ線香」、(中入り)、しん吉「長尾さん」、南天「千両みかん」。息子と会ったときに、軽くビールを呑んだため、案の定、落語会で居眠り。それが、肝心の「立ち切り」で出てしまいました。ちょっと「立ち切り」にしては、せわしなさそうな喋りっぷりだったという印象だけが残っていますが、当たっていますでしょうか。もう1つは、ネタ出しなしで、「千両みかん」だったのでびっくり。大ネタが2つ並んでしまいました。この「千両みかん」は、南天らしい明るくて騒々しいもので、こんなにオリジナリティーのある「千両みかん」は、初めてじゃないでしょうか。まず、繰り返しを避けるということで、番頭が、若旦那から悩みを聞き出す部分はカット。ここの番頭は、事の重大さの認識がありませんから、聞き出せたことに得意になっています。だから、明るいキャラでスタートと、全くもって合理的。次いで、事の重大さを教えられた挙げ句、張り付け刑で脅されぼやきまくり、やたらと騒々しい。序盤の明るさから考えると、この状況だと、こうなるわなと、ここにも合理性が垣間見えました。その嘆きに合わせて、夏の風景描写を語らせるという欲張りなことを、南天は考えました。ま、夏がテーマですから、これがないと、噺は成立しないとの判断は妥当なので、テキストを整理した方がいいのかと思いました。これで、この噺の方向性が出来上がったわけですから、あとは、流れに身を任せればいいという構造になっているかと思います。他の人には真似ができない南天落語の形なんでしょうね。番組は、「立ち切り」を先に置きました。これは、明るい気持ちで帰ってもらおうという配慮と言っていましたが、それを聞いたときは、「千両みかん」を聴いて、そうなるかなぁとは思ったのですが、南天の口演を聴いたあとには、それに納得。但し、「立ち切り」のあとに上がる人のことを考え、短い中入りが挿入されました。しん吉も、上がるなり「立ち切りのあとに上がるのは、そうあることではないのですが、、、」と言ってから始めました。最近は、しん吉の新作と言えば、鉄道落語ばかりでしたので、そうでない作品は久しぶり。「長尾さん」は、久しぶりに聴いたもの。同窓会の打ち合わせをしていると、そこへ、やたらと携帯に電話が入り、肝心の打ち合わせが進まないことで起こるトラブルを描きます。考えたら、「長尾さん」という題名自体が、噺の内容からして、可笑しいですね。しん吉の新作での喋りって、すごく平板な喋り方なんだけど、それが、却って日常的な雰囲気を出してるな、だから可笑しいのだと、毎度思ってしまいます。前座は、久しぶりの遭遇のあおば。米朝事務所を出てから、確かに遭遇機会が減りましたというか、ほぼなくなっていました。黄紺などの行動エリアなどとは違うところを動いているのでしょうが、ツイッターを見ていると、落語家として活動している姿が垣間見え、ちょっと嬉しかったのですが、久しぶりに口演を聴いてみると、随分と腕を上げてきたなの印象を持ちました。とっても、喜ばしいことですね。リズムが良く、テンポも心地よい、旅の噺は、こうこなくっちゃのお手本のような口演に感嘆しきりでした。それに、いい身体バランスをしています。かなり稽古に時間かけてるなって感じがしたのが、更に嬉しいところでした。ぼちぼち前座ネタ以外にも、手を着けて欲しいものです。



2016年 5月 9日(月)午前 0時 34分

 今日は、明日からの韓国旅行を前に、慌ただし二部制の日となりました。昼間は、一心寺南会所でのお馴染みの「一心寺門前浪曲寄席」、そして、夜は繁昌亭といったものでした。まず、浪曲席の番組は、次のようなものでした。天光軒新月(虹友美)「乃木将軍 信州墓参」、真山誠太郎(真山裕子)「落城の舞」、五月一秀(沢村さくら)「富島松五郎伝」、天中軒雲月(沢村さくら)「忠僕直助」。あとから上がった雲月さんのお話によると、雲月さん、新月さん、一秀さんが、ほぼ似た時期の入門だとか。途中のキャリアからして、雲月さんが、この3日間はトリを取られているようです。新月さんは、講談でもお馴染みのネタ。今どき乃木将軍ネタが生きているのは、この浪曲の世界と講談の世界だけでしょう。幾つか講談で乃木将軍ネタを聴いていますが、乃木将軍の扱いはよく似ています。民衆のことまで広く目を行き届かせる暖かな指揮官。そのために、偉ぶらない爺さんキャラとして現れます。このネタも、そのパターン。講談の元ネタのクライマックスだけを取り出したええとこ取りパターンという浪曲の常套手段が採られています。先祖の墓に現れるところからスタートし、それを知らない婆さんが、息子を戦争で亡くした愚痴を乃木に言い、乃木を批判するのを甘受する。しかし、バラシがあとに控えていて、乃木も、同じ戦争で2人の子どもを亡くしていることが明かされるとなるわけですが、浪曲では、婆さんの孫が出てきて、学校で教わったと、その話を持ち出すという形になっています。もちろん、このええとこ取りで、話は十分に出来上がっており、この刈り込みは成功ですが、今さら乃木将軍のネタを聴いてもなというのが、正直なところですね。「落城の舞」は、真山一門では定番のネタ。落城は、賤ヶ岳の戦での柴田勝家側の敗戦を意味しています。勝家が、お市の方と浅井の3人の娘を逃がそうとするのだけれど、お市の方は勝家と運命をともにするというもの。戦国時代の有名な出来事ですから、よく取り上げられるものです。「富島松五郎伝」は、よく「無法松の一生」と言われるもの。これも、日露戦争後の物語ですから、「乃木将軍」のネタと、時代的にはついてしまいました。物語は、陸軍大尉吉岡某、及び彼が亡くなったあとの遺族との交流を描くもの。この基になった小説や、制作された映画などを知らないため、いまいち浪曲の素材になっている部分を、どのように把握していいのかが解りませんでした。ウエイトが、大尉没後の、中でも大尉の息子との交流が描かれ、その息子が成長してのち、松五郎から離れていくというところで終わったからです。あとがあるのかないのか、あれば、どのようになるのか、やはりつまみ食いの悪弊が出た展開かと思うと同時に、この物語を誰しもが知っていた時代には、黄紺のように戸惑う者はいなかったのかもとも思いはするのですが、、、。「忠僕直助」は、講談でもよく出る、なかなかの名作。「赤穂義士外伝」に入るかと思います。城中で恥をかかされた主人思いの直助が、刀鍛冶の名匠となり、主人に復讐の機会を用意するというもの。この浪曲は、つまみ食いが成功した例と、黄紺は思います。直助が名匠となり、主人のもとに帰ってくるところからスタートし、そのわけや直助が10年間にしてきたことを、タイミング良く挿入しながら、恥をかかせた相手に、逆に恥をかかせる場面を作っていきます。直助が、鍛冶職人のもとに修行に入り苦労を重ねる話など、なかなかいい話もあるのですが、それは勿体ないと思いつつも、カットはやむを得ないでしょう。戻ってきた直助の重厚な雰囲気が、今の位とともに、かつての悔しい思いを表していて、雲月さん、さすがと思わせられた好演でした。
 一心寺南会所を出ると、ミニウォーキング、ネットカフェで、時間待ちをしておりました。夜の繁昌亭は、お楽しみの「第5回 はなしか宝塚ファン倶楽部(本公演」がありました。ドイツに行っていたため、チケットを押さえることができていないところ、繁昌亭の職員の方が、辛うじて1枚残っていたチケットを見つけていただき、この会に滑り込むことができました。まず、前半の落語3席は、次のようなものでした。生寿「タカラヅカ詣り〜野崎編〜」、三金「奥野さんのタカラヅカ(仮題)」、あやめ「ダチョウが憑いた(仮題)」。そして、後半が呼び物の成りきりタカラヅカ、今年は「ME AND MY GIRL」が上演されました。出演者は、次の皆さんでした。あやめ、春雨、生喬、花丸(ビル役)、染雀、三金、松五、生寿、天使、入谷和女、中田まなみ はやしや香穂、めぐまりこ、こっこ、松旭斎天蝶、揚野バンリ、(伴奏)れ・みぜらぶるず&ホーン隊など。落語は、いずれもタカラヅカにちなんだもの。タカラヅカ通の生寿は、スターの名前をふんだんに盛り込みながら、落語「野崎詣り」を、巧みにタカラヅカに置き換えました。橋の上を歩く人と川を渡る人との喧嘩という設定。この噺は、「生寿入門記念日落語会」で披露したものを、更に精選したものとか。三金は、逆にタカラヅカ通ではない噺家さん。その三金が、無謀にも自分のような体型の本科生がいたらという設定で作った新作。誰しもがありえないと知っている無謀な設定が、却って可笑しさを生んでいました。今日のような特別な会だからこそ、この設定が受けるのかもしれません。あやめも、かなり無謀な設定で臨みました。スターたちが着ける大きな羽飾りからヒントを得て、あれだけダチョウの羽を使ったら、それを身に着けるスターには、ダチョウが憑いているはずと、こちらも、かなり無謀な設定。スターたちが「トリ」ということばを口にするたびに、鳥の鳴き声が出てしまうというところが傑作。さすが、あやめは、思いもつかないアイデアを呼び起こします。もう、そのアイデアだけを聴けただけで、大満足の高座でした。で、本番の「ME AND MY GIRL」となりました。タカラヅカには足を運んだことのない黄紺には、何ら予備知識もなく臨んだのですが、物語は「マイ・フェア・レディ」を思わせるもの。調べてみると、イギリス生まれのミュージカルだということです。身分違いの人たちが、その間をうめる話って、ヨーロッパの人たちは好きなテーマですから、このミュージカルも、そういったことからヒットしたのでしょう。おかげで、タカラヅカで観ることができるようになったということなのでしょう。今年は、本公演と称する夜公演を2日、新人公演と称する朝公演が1回と、つごう3公演が行われました。主役のビルらは日替りで変わるようですが、今日は、ビルを花丸、サリーを生寿が務めました。生寿の大役は、昨年の好演が評価されたということでしょう。女役の主役を、ここまで毎年務めてきた染雀は、ジャッキーという重要な役柄を受け持ちつつ、ヒロインではないことをネタにアドリブを飛ばしていました。三味線のはやしや香穂さんは、新人公演ではビルを務められたそうですが、今夜の公演ではジェラルド。スタイルといい、第一本物の女性だしということで、最もタカラヅカっぽい雰囲気を出されていました。出演者が、適当にアドリブを飛ばしたり、どうやら舞台監督を置いてないようなので、場面転換に時間を要したり、出番のはずの人がいなかったりということで、大幅に時間を超過。用意されていたアンコールもカットで、終演は9時40分を回っていました。明日は、5時起きで韓国に向かう黄紺には、拷問のような時間超過となってしまいました。



2016年 5月 8日(日)午前 2時 13分

 今日はメト・ライブビューイングを観る日。韓国旅行を控えているため、混み合うのを覚悟で、土曜日に観に行くことにしました。クリスティーヌ・オポライスがタイトル・ロールを歌うという「蝶々夫人」だったのですが、これは、アンソニー・ミンゲラのプロダクションで、メトロポリタンのプロダクションのなかでは、最優秀賞に値するかと思われるもの。パトリシタ・ラセットのタイトル・ロールで、既にDVD化もされているなか、わざわざ映画館にまで足を運び観に行ったわけは、話題のクリスティーヌ・オポライスが歌うということの一点に尽きます。このプロダクションの特徴は幾つかありますが、装置はいたって簡素だが、巧みな照明、障子を思わせる壁をスライドさせての迅速な場面の運び、障子でも明らかなように日本テイストを挿入し、それがいいアクセントになっている、そして、パペットを出す、これは決定的に、このプロダクションを強く印象付けています。黒子を出したり、3人遣いのパペットとなれば、当然、文楽を想定しているわけで、ここいら辺りにも、日本テイストが垣間見えるのです。提灯を巧みに動かし、幻想的なシーンを作っていたのも忘れがたいところ。提灯なんてものを見慣れている黄紺ですら、そういった空気に浸れたわけですから、知らない人たちにとっては、大変なエキゾティズムを感じたことでしょう。ただ、今回の人形遣いの方たちの考え方の違いもあるのでしょうか、DVD版に比べると、人形と歌手の関わりが薄かったように思えました。既に観ていたプロダクションだから、そのように感じてしまったのかもしれません。一方で違和感のある時もあるプロダクション。やはり衣装でしょうね。衣冠束帯姿のゴローや、宇宙服が如きとも和服もどきとも見えるヤマドリの衣装、中国服風の蝶々夫人の衣装も、なかなか笑わしてくれましたが、ま、目をつむることにしましょう。何も寸分違わぬ和服にする必要性はないわけですからね。歌唱面では、シャープレス、スズキを含めた主役4人(ピンカートンはロベルト・アラーニャ)の歌唱は素晴らしく、なかでも、やはり話題の人クリスティーヌ・オポライスの感情移入は素晴らしく、歌手は結末を知っているわけですから、過程のところで、結末を想定してしまわないかと心配するほどの蝶々夫人への同化がなされていたように思えました。飛び抜けた美人というだけではなく、その歌いっぷりまでもが、スーパーなものでした。今季に入り、気になっているのは、ライブ映像のカメラ・ワーク。常にズームインのカットばかりが流れてしまい、このヴイジュアル的に素晴らしい舞台を、引いて撮ってくれないため、ゆっくりと舞台全体をまとめて観ることができないままでした。土曜日のライブビューイングは、予想通り、大変な混雑ぶり。オポライスを、どのくらいの人がお目当てに来られたかは知る由もありませんが、プッチーニの3大オペラのなかでも特にきれいなメロディの詰まった曲を、きっと胆嚢されたことでしょう。



2016年 5月 6日(金)午後 11時 39分

 昨日は、伏見散策をすることに。いいお天気で、腰も大丈夫で快適な春の1日。そして、今日は、京都でコンサートに行く日。京都コンサートホールの小ホールにあたる アンサンブルホールムラタであった「小谷口直子 クラリネットリサイタル」に行ってまいりました。京響のクラリネット奏者小谷口さんのコンサートです。そもそも、クラリネットのソロのコンサートって、そうは聴けるものではありませんし、有望なクラリネット奏者のコンサートとなると、放ってはおけない気持ちになり行ってまいりました。そのプログラムは、次のようなものでした。「ドビュッシー:第一狂詩曲」「ヴィトマン:ファンタジー」「吉松隆:鳥の形をした4つの小品」「バーンスタイン:ソナタ」「ウェーバー:大協奏的二重奏曲op.48」「ことばと音楽で紡ぐ『葉っぱのフレディ』」。[Pf]塩見 亮、[語り]栗林さとしという布陣でのコンサートだったのですが、チケットを買ったときから、このコンサートについては、1つの不安がありました。主催が十字屋となっていたのが、不安を掻き立てる要因だったのですが、それが大当たり。要するに、音楽教室の生徒さんが、大量に来るのではという不安が当たったのです。たまたま開場前に行ってしまったので、目撃してしまったのですが、開場と同時に走って席を取りに行く中高生、開演前に、ロビーに車座になり食事をする中高生、およそ音楽を、これから聴こうかという雰囲気ではありませんでした。丸で部活で、対外試合に行った雰囲気が充満。ただ助かったのは、プログラムの内容にも拘わらず、開演後はおかしな空気にはならなかったことでした。プログラムの前半は、20世紀の音楽が並びました。だいたいクラリネットのソロって聴く機会は、ほぼありませんから、耳新しい曲ばかり。なかでも「ヴィトマン:ファンタジー」は、ピアノ伴奏なしの純粋のクラリネット・ソロ。作曲家自身もクラリネット奏者だそうで、クラリネットの演奏テクニックを知り尽くしたテクニック見せびらかしの曲。超絶技巧もいいところで、音をずらしたり、異常な音の跳びが繰り返されたり、特殊なタンギングで異様な音を出したり、同時に2つの音を出したり(丸でホーミーです)と、あらんかぎりの技巧が詰まっていたような感じがしました。先日のロームシアターで聴いたときのイメージと異なり、技巧を前面に出したコンサートって感じが、この曲だけではなってしまいました。ただ技術的に、先日聴いたときには、中音域のくすんだクラリネット特有の音色に魅力を感じたのも束の間、その中低音域が弱いのです。ですから、その音域が絡むフレーズになると、音楽が頼りなくなってしまってました。ですから、今日は演奏されなかったクラリネットの名曲ブラームスを、この人で聴いてみたいとは、残念ながら思う気持ちを持てませんでした。ドビュッシーも、結局、その音域が弱いために、ピアノの水面を煌めくが如き音楽を補完して、聴く者の想像力を掻き立てるということが難しかったと思いました。ドビュッシーが頼りなく推移したところに、技巧面を強調した曲が、吉松の曲まで続いたものですから、どうしても技巧の人のイメージができてしまいました。ですから、バーンスタインも、1楽章よりは2楽章が目立つという展開に、とっても納得でしたし、後半のウェーバーになると、20世紀の音楽と違い、耳に馴染みやすいということもあり、ブラームスはきついだろうなということを点検してしまいました。まだまだ若いのかなぁ、、、。クラリネットって、懐の深い音楽を期待してしまうものですから、そういった点では物足りなさを感じたコンサートでした。最後の「ことばと音楽で紡ぐ『葉っぱのフレディ』」は、小谷口さんがアウトリーチ活動をされているなかで出会った朗読家の栗林さとしさん(女性)とのコラボ企画。死を避けられない子どもに、自分の人生を、そして死を考えさせるとして描かれた絵本に、ピアノとクラリネットの音楽を付けたもので、使われた音楽は、ラフマニノフが1曲判ったのですが、あとは判りませんでしたが、全て既成の曲を使っていたようです。



2016年 5月 4日(水)午後 7時 53分

 今日は東京落語を聴く日。「TORII寄席特別企画 トリイホール5日間連続落語会〜志ん橋・志ん輔ふたり会」に行ってまいりました。トリイホールで、毎年行われているGW特別興行は、過去に1度くらいしか行ったことがなかったのですが、今日は、志ん輔の「らくだ」が聴けるということで、久しぶりに行ってみることにしました。その番組は、次のようなものでした。二乗「癪の合薬」、古今亭志ん橋「転宅」、(中入り)、正楽「紙切り」、 志ん輔「らくだ」。二乗の「癪の合薬」は、久しぶりに聴きました。どこだったか思い出せないのですが、以前に聴いたときにはなかったフレーズが2箇所ありました。志ん橋は久しぶりの遭遇でしたから、楽しみにしていたのですが、今日は、ミニウォーキングをして、そのまま会場に入ったため、この志ん橋のところで居眠り。流れ的には、上方の「転宅」と同じだったと思うのですが、あまり自信はありません。今日は、正楽のおまけが付いていました。お弟子さんの高座は、大阪でも観たことがありますが、正楽本人の高座は初めてかもしれません。忘れてしまってるだけかもしれませんが。狙いの「らくだ」は、ちょっと肩透かしっぽい口演。らくだの兄貴分の男は、途中から居丈高にはなってきましたが、序盤はそうじゃなく、人のいいおっさんに毛が生えたほどの威張り方に、まず肩透かし。ですから、紙屑屋目線で言うと、らくだが怖いから、この男も怖そうといったところでしょう。だけど、ホントに怖いやつやったと、途中から判ってくるのだったら、なぜ、最初からそうしないのと突っ込みたくなりました。紙屑屋の酔い方が、あっさりしすぎ。そないに人格が、容易く変わるのは、性急にすぎやしないかというわけです。ですから、紙屑屋が、徐々にヒートアップしながら喋る内容も短く、聴かせどころなのに勿体ない。立場が逆転し、紙屑屋に言われた件の男が、魚屋から刺身をせしめてきたところで、呆気なく下げに。納棺にも至らず切り上げたのには、ちょっと唖然としてしまいました。口演の所要時間30分の「らくだ」でした。終演後は抽選会。からっきし外れるばかりで、残念無念、いい景品が呆気にだけに、余計に残念無念でした。



2016年 5月 3日(火)午後 11時 27分

 世間はGW。この期間は、勉強会的な落語会が少ないなか、なぜか、今日に、同期の2人の会がバッティングしてしまいました。生寿と染吉の会だったのですが、生寿の出しているネタは、本人で聴いたばかりというほど直近ではないのですが、比較的最近聴いたネタでしたので、今日は染吉をチョイス。「染吉っとんの会〜林家染吉落語勉強会 」というやつで、動楽亭でありました。おかげで、この会に、2回連続で行くことができました。その番組は、次のようなものでした。染吉「前説」、智六「子ほめ」、染吉「代書屋」「京の茶漬」、(中入り)、三河「僕だけのアイドル」、染吉「佐々木裁き」。入門順だと、三河がトップにくるところ、染吉の同期の智六が前座と高座返しの仕事。その辺を含めて、挨拶替わりのおしゃべりが「前説」。出番については、わけを言わずに告知だけなので、黄紺的想像は書くのは止めておきます。智六は「子ほめ」。ネタ出しをしてあったので喋ったって感じで、ネタをくってこなかったような口演でした。主役の染吉は3席と頑張ります。その口演で気に入った順を書くと、番組とは逆の順となります。「代書屋」を始める前に、「春団治系と枝雀系という2つの大きな流れがあります。私はどちらでしょう」と言ってから始めたのですが、枝雀系でした。枝雀系と言っても、枝雀のようなオーバーアクションをするわけにもいかず、そないなことをして、たとえ成功しても、単なる模倣のそしりを受けるだけでしょうから、テキストや演出の方向性のようなものを取り入れたということかと思いますが、今日の口演を聴き出してすぐに感じ出したのですが、染吉には合ってないなということ。わりかし生真面目な、そして器用とは言えない噺家さんだと思うところがあるため、そのように感じたのだと思うのですが、染吉の場合、「代書屋」のオリジナル版をやって、全体の中に、ハチャメチャ男を位置付けるなんてことをやればいいのにと思ってしまいました。春団治系のしゅっとした代書屋も似合わないように思いましたので。この口演を聴いて不思議だったのは、上下を振らない福笑&たま師弟系の口演をする染吉が、この噺では上下を振っていました。なぜなんでしょうね。「京の茶漬」になると、だいぶと口慣れたネタという印象が出てきました。無理して作っているという印象が激減しました。このネタ、おいしいところは、客が、なんとか「お茶漬けでも」を言わせようとする、おかみさんは素知らぬフリを通そうとする、そこの静かな攻防戦なわけですが、おいしいからとデフォルメしすぎる人はいても、逆に薄味の人はいなかったと思っていたのですが、今日、発見してしまいました。テンポを落としたり、間を入れたりとしても、不必要なデフォルメにはならないと思いました。その辺は、客との呼吸なんでしょうね、染吉タイプの噺家さんは、口演を重ねることにより、その辺の呼吸を、時間をかけて身に付けていくのでしょう。決して器用ではないけど、その辺を積み上げていく確実性のある噺家さんだと思うので、こうして勉強会に足を運ぶのです。その辺の呼吸が、一番積み上げてあるなの印象を持ったのが、最後の「佐々木裁き」でした。望むべきは、大人の描き分けに磨きをかけて欲しいなということ。そしたら、自ずとテンポを揺らしたり、リズムも変わってきて、噺が大きくなっていくように思いました。それに対し、序盤の子どもたちのやり取り、めっちゃグーでした。今日出演の噺家さんの中では、一番の若手三河の落語を聴くのは、初めてかもしれません。1度聴いたような気もしますが、自信がありません。誰かの落語会に前座として喚ばれたというのも、ほとんど見たことがありませんから、遭遇機会が少ないのも当然かと思いますが、今日は、出番が後ろだということもあったのでしょうね、長いマクラを振ってくれたこともあり、かなり人物像が、黄紺の頭にインプットされました。イメージ的に書くと、和ものの中に洋ものが混じり込んだって感じかな。それが心地好いかと言うと、そうでもあり、そうでもなしってところ。ちょっと中途半端な印象を与えたのは、自作のネタ、及びマクラで、ネタ同様のおたくネタを喋ったからなのです。斬新と言えば斬新かもしれないのですが、あまりおちかづきにもなりたくないってところなのです。ユニークさは認めるとして、じゃいつも聴きたいかと言われると、引いちゃいますね。ま、その辺で、前座にお声がかからないのかもしれませんね。



2016年 5月 2日(月)午後 11時 49分

 今日は、カフェモンタージュで音楽を聴く日。今夜は、「大二重奏曲」と題して、(ヴァイオリン)渡邊穣と(ヴィオラ)小峰航一のお二人のデュエットの演奏会がありました。そのプログラムは、次のようなものでした。「ハルヴォルセン:ヘンデルの主題によるパッサカリア ト短調」と「ハルヴォルセン:ヘンデルの主題による変奏曲とサラバンド ニ短調」「ルイ・シュポア:大二重奏曲 ホ短調 Op.13」。ハルヴォルセンは、全く聞いたこともなかった作曲家。こないな作曲家に出逢えるのも、カフェモンタージュに行く楽しみの一つ。もう一人のシュポアもメジャーと言える作曲家ではないため、今日のオーナー氏のお話しは、この2人の作曲家についてが中心となりました。ハルヴォルセンは、リヒャルト・シュトラウスと同年に生まれたノルウェーの作曲家。バイオリニストとして、ライプチヒのゲバントハウスのオケにもいたことがあるようですが、主として故国で活躍したようで、となると、時代的には後期ロマン派で、国民楽派的な要素を持つ作曲家と分類できるのでしょう。ノルウェーにはグリーグがいますが、情報を集めてみると、ハルヴォルセンは、グリーグの姪と結婚しているという関係が、2人の間にあることが判りました。でも、今日演奏された2曲は、ヘンデルの主題に基づいたということもあってからでしょうか、そういった国民楽派的な様相を呈するものではありませんでした。だからと言って、後期ロマン派の濃〜い音楽でもなく、ちょっと特徴を掴まえにくいもの。この2つの曲おもしろかったのは、バイオリンに中低音域を、ビオラに高音域をあてがう部分が、やたらと多かったこと。ですから、そういった意味では、あまり聴けないサウンドを提供してくれていたかと思います。一方のシュポアは、時代は、1世紀ほどさかのぼる作曲家。この人の名前は、しっかりと頭にあるのだけれど、彼の作品表を調べてみても、どの曲を聴いて知っていると言えない程度の知名度のようです。演奏的には、全曲を通じて均質な演奏に好感が持てたため、こちらの演奏を取りたいのだけれど、均質な演奏がしやすい曲と言えば、そういった曲。ですから、変化も乏しいときているため、次第にいい気持ちにはなっていきます。じわぁ〜と睡魔に晒されても致し方ないと言えるほど、変化に乏しいかったのです。退屈と言えば退屈。演奏機会の少ない曲は、落語と同じで、何かしら、そういった傾向にあるのかもしれません。今月は、小峯月間と言えるほど、小峯さんの演奏会が、このカフェモンタージュで続きます。その第1弾が、今日のコンサートだったようです。黄紺は、韓国にいる間にあるコンサートを除いて、全部行くつもりをしています。一方の渡邊さんは、京響のコンサートマスター。もう一人のコンサートマスターの泉原さんは、時々、カフェモンタージュで演奏されているのですが、渡邊さんには、こちらでは初遭遇。シュポアで聴かせていただいた音の伸びやかさは、なかなかのもの。今後も、こうした機会に、その演奏を聴かせてもらいたいものです。



2016年 5月 1日(日)午後 9時 32分

 今日は映画を観る日。文太の会が高津神社であったのですが、ネタ出しされているものを見ると、ちょうど同じ会で聴いているということで断念。ということで、落語会を断念して映画を観ることにしました。ちょっとだけ迷った結果、黄紺が選んだのは、中国映画「見えない目撃者」。アジア映画の上映が多いシネマート心斎橋で観てまいりました。上映に先立ち、若い女の子が客層の中心をなしているなか、かなり気恥ずかしい心持ちで席に着くことになっちゃいました。どうやら、主役の一人を演じたルハンが、中韓混合のグレープのメンバーで、日本公演も行ったことがあるということが、あとから調べて判明しました。おっさん、おばちゃんの人口密度が低いときは、早く会場が暗くなってくれることです。映画は、韓国映画「ブラインド」のリメイク版だということです。主人公の女(ヤン・ミー)は、交通事故で弟を助けられなかったという負い目を持つということと、その事故で目が見えなくなったという、2つのプロットが絡み合いながら、物語は進行。目が見えないため、自分が喚んだのではないタクシーに乗ったのが、物語の発端で、そのタクシーが人をはね、しかもはねた女を拉致してしまう。しかも、その男は、連続女性失踪事件の容疑者。異変を感じ取った主人公の女は、辛うじて逃げることはできるのだが、犯人からつけ狙われるという展開。ルハン演じる男は、その出来事の目撃者として、犯人につけ狙われる。つけ狙われる2人が警察で出会い、助け助けられていくなかで、2人の間に姉弟的関係が生まれ上がり、また主人公の女は、亡くした弟をルハンに重ねていき、お互いの信頼度が高まるのですが、それはそれで、犯人からつけ狙われ、お互いが危難に遇い助け合うということが、一方で進行していきます。その展開の途中までは良かったのです。かなり中国テイストに違和感は感じつつも、スマホを使った逃走劇は、黄紺には新鮮で、この映画のチョイスは正解かと思い出したあたりから、明らかなる下り坂。犯人は、警察に呆気なく特定されるわ、この物語をまとめる役目をするのかと思っていた警察官は、たった2人で犯人追及に出かけ、1人が刺されてしまうため、動きはあえなく頓挫。となると、主役の2人で方をつけねばならなくなりますから、ちょっとねぇの雰囲気蔓延。ここからは、犯人と主役2人のバトルとなっていくのですが、スマホで驚かされたようなアイデアもなく、おまけに1人は目が見えないわけですから、何か飛び道具でも出てくるのかと期待しても、そんなのは出てこず、ルハンも刺されてしまうわ、でも、死にかけていたのが復活したりと、ちょっとなぁ、あんまりでした! ですから、途中までなら、どうして収めてくれるのかという期待を持たせてはくれます。でも、それは、あっさりと外されます。中国の娯楽映画って、観たことないことはないのですが、観るとB級ものと思ってしまいます。これも、見事なB級ものサスペンス映画でした。リメイクされる前の韓国版って、まさか、こないに大味じゃないと思うんだけどなぁ。



2016年 4月 30日(土)午後 7時 32分

 今日は浪曲を聴く日。「真山隼人の浪曲の小部屋」に行ってまいりました。場所は、以前、南天と紅雀の落語会で行ったことのある「百年長屋」でした。番組は、沢村さくらさんの三味線でオリジナル新作浪曲「ビデオ屋の暖簾」の初披露、「お楽しみコーナー」、「維新の唄」でした。「ビデオ屋の暖簾」が傑作。高校生2人が、レンタルビデオ屋のアダルト・コーナーに入り込もうと苦心惨憺するもので、「今しかできない青春もの」と断ってから始めたのですが、脚色がうまいですね。文才なんかを持ってる人なんだと思えました。2人の高校生のキャラ、誘われる方の高校生が、夜間、電車に乗ってしか行けないところに呼び出されたり、同じ試みを、既に隣町の相撲部員がやっていて、そのときに作ったビデオ屋の絵図面を譲り受けていたり、暖簾の奥に控えていた店員の対応とか、ホントにおもしろく聴くことができました。普段の隼人くんのキャラからして、思いがけない素材での新作ということもあり、会場は、とっても敏感に反応。もちろん黄紺も、その内の1人でした。三味線のさくらさんが呆気に取られつつ、お付き合いされていたのも印象的な高座でした。ただ、最後のオチは蛇足と、黄紺は看ました。「お楽しみコーナー」は、隼人くんのお父さんのお勧めだったとか。浪曲2席では物足りないのではということで、中学生のときに習われていた三味線の弾き語りをされました。小唄、端唄の類いですが、中学生のときに三味線教室に通うってのは、どういった了見なのでしょうね。そして、2つ目も、歌謡浪曲ではなく、三味線だけでの口演。このネタの作者室町京之介については、マクラで話してくれ、歌謡浪曲にということなのでしょうか、作家本人が、先代の真山一郎用に書き換えたそうですが、今日は、三味線伴奏での口演でしたから、原曲のテキストを使ったのだろうと考えています。明治維新の際、官軍の歌った「宮さん宮さん」の作詞家品川弥二郎に関わる恋物語。官軍の品川が恋した女は、公儀の十手を預かる男の娘。ロミオとジュリエットのような設定のなか、品川に斬られた父親への義理を果し、一方で追っ手のかかった品川の無事を待ち続けるという難しい立場のなか、品川の無事を確認ができた途端に執った行動とは? 文楽的設定が、ここにもありました。おかげで、2人が亡くなってしまいました。隼人くんが、大阪で初めて持つ会ということからでしょうか、結構な入りにびっくり。今日は、おじさんキャラから、ちょっとだけ年齢相応の顔を覗かせてくれましたので、また人気が上がるかもしれませんね。今後が楽しみです。



2016年 4月 29日(金)午後 10時 58分

 今日は落語を聴く日。雀喜の会に行くか、喬介の会に行くか迷った挙げ句、必要経費が安く済む喬介主宰の「喬介ツギハギ荘落語会」を選びました。場所は、天神橋近くにあるツギハギ荘でした。その番組は、喬介「相撲場風景」「フリップ」「七度狐」でした。今日は、祝日だからでしょうか、喬介に言わせると「普段の3倍」の入り。あと1人来られたら、立ち見になっていたかもしれません。それも、コアな落語ファンが集まっていましたから、雀喜の会が心配になったほどでした。その人柄が溢れた喬介落語の人気の高さが伺い知れるところです。「相撲場風景」はネタ下ろし。笑福亭定番のネタですが、喬介は、自分の個性でもって、わざわざ笑福亭らしさを求めなくてもやっていけるという先入観があるからか、意外な感じがしたのは黄紺だけじゃないかもしれません。喬介が「相撲場風景やります」と言ったときの「うぉ〜」という反応には、黄紺的感じ方が含まれていたかもしれません。基本的に流れは通常の通りですが、喬介風の驚きや唾の飛ばし方だけで、可笑しさが巻き上がっていきます。どんなネタでも、自分のものにしていく力、いや、その前に肝心な自分のものにしていこうという意欲が、らしさでしょう。ネタが終わったあとのトークで、喬介はいみじくも言ってました。「ねずみ」や「竹の水仙」のように物語がはっきりしているネタよりも、「道具屋」「寄合酒」「鉄砲勇助」「つる」といった前座噺をおもしろく聴かせる方が難しいと。「相撲場風景」は前座噺とは言い難いですが、ストーリーのない代表的な噺、点描だけですからね。そういった噺を、自分のキャラを乗せて、客席を楽しませようとしていることが、このネタ下ろしでも鮮明になっていました。今日の「フリップ」は、2時間のサスペンス・ドラマの「あるある」シリーズ。それを、落語の世界に当てはめるとが大当り。おもしろいことを考えてくれるものです。もう一つの「七度狐」も、自らのポリシーに基づき、喬介テイストがいっぱい。大井川のところで、毎回、「深いかぁ」と言って、喜六が棒を突き出したり、清八が、雑炊を辞退したのに、喜六は食べ続けたり、これは、灯油の継ぎ足しを清八が求めたときにまで続いていたり、おさよ婆さんは、幽霊スタイルではなく、ソンビの姿で現れてきたりと、ホントにアイデア満載。喬介の場合、そういったオリジナルなくすぐりを放り込んでも、肝心の喋りがしっかりしていますから、噺が崩れないのが強みです。くすぐりに留まるかげんをしているのでしょうが、黄紺には、ぞれがそうとは見えないままでした。今日は、ここまででは、時間が少ないということで、前説ならず、後説と言っていい「トーク」がありました。シークレットな話と、喬介の落語についての熱き思いが語られました。前半は可笑しくも哀しい話であり、後半は軽〜い喬介の姿が焼き付いているものですから、ちょっと感動しながら聴いてしまいました。この話を聴けたのは、今日、ツギハギ荘に集った者の特権でしょう。



2016年 4月 28日(木)午後 11時 47分

 今日は講談を聴く日。今週は、これで2回講談会に行くことになりました。今日は、動楽亭であった「上方講談を聞く会」でした。その番組は、次のようなものでした。南舟「壇団右衛門の狸退治」、南湖「堀部親子」、南北「東玉と伯円」、南華「秋色桜」。南湖さんのネタ以外の3つのネタを聴いた覚えはしっかりとあるのですが、その内容を思い出せないため、今日は、幾つか候補があるなかのチョイス。そしたら、最近、会の途中の居眠りがなくなっていたのですが、今日は、久しぶりに出てしまいました。南湖さんの半ばが飛び、南北さんの高座は、ほぼ全滅になってしまいました。体調が悪くないのに、この様とはと、ちょっと情けない。まだ、南湖さんの場合は、先日の「南湖の会」で聴いているという慰めがあるのですが、南北さんの方は、その慰めもありません。ただ、講談界の話だったということだけが残っています。確かに、その話は聴いていますが、それだけでは、筋立てが思い出せないのです。一番情けない話です。「壇団右衛門」は、無頼の性格ゆえ、抱える大名がいなくなった壇団右衛門が、うまく福島正則の広島藩にもぐり込んだあとの話。話の中心は「大名将棋」の流れ。碁に負けたわがまま大名福島正則が、壇団右衛門を開かずの厠に入れたときに、壇団右衛門が、その厠に巣くっていた古狸を退治するというもの。壇団右衛門の豪傑ぶりをアピールするだけの話と看ました。「秋色桜」の「秋色」は、13歳の女の子の俳名。町民の娘ながら、俳諧に才能を発揮するお秋が、上野の桜を見て詠んだ俳句が「宮様」の目に触れたことをきっかけに、その「宮様」邸に出入りをするようになる。そのお屋敷のお庭を見たいという父親を供の者と偽って連れて行った帰り道に起こる孝行話がクライマックスになっていました。確かに聴いていました。小さめの話とインプットされていたのですが、今日も、その印象を確認しました。



2016年 4月 27日(水)午後 11時 46分

 今日は、繁昌亭で落語を聴く日。夜席で、「月刊笑福亭たま〜第2章4月号」がありました。毎月行われている会に、黄紺は、間引きをしながら行くことにしています。たまの出すネタ、ゲストの顔ぶれなどを眺めながら、チョイスをしています。とりあえずは、今日は、東京から鯉朝を招いているということでのチョイスとなりました。その番組は、次のようなものでした。二葉「子ほめ」、呂竹「道具屋」、たま「近日息子」、たま「ふたなり」、(中入り)、鯉朝「ケンカ友だち(仮題)」、たま「新作ショート落語」「ニコニコクリーニング」。前座は二乗と思って出かけたら二葉。たまのツイッターで確かめると、たまの告知ミスだったようです。二葉の口調がスムーズでいいですね。似つかわしくないハイトーンに加え、二葉特有のキャピキャピ感が、いい個性になっています。ネタの増えない呂竹は「道具屋」で、やっぱり。でも、軽いネタいじりが入り、遅々としながらも、前進の跡を見せてくれました。善さんを教えてもらうのは金魚すくいの店。そこで、ずるの仕方を教えるのは、雀太なんかも入れていたと思うのですが、それとも違うテキストでした。そういった小ぶりのくすぐりに新しいものを聴けました。たまは、長〜いマクラに次いで、2つのネタを連続して口演。「近日息子」は、押し売りの話はカット。医者を喚んでくるのもカット。先ぐり機転を求めるだけで、いきなり作次郎は、棺桶を担いで帰って来ました。そこから、超ハイテンションで、しょうもないこと言いの男を責めるくだりに。クレッシェンドがほぼなしで、最初からハイテンションというやり方でした。前半は、たまオリジナルで進み、後半は、通常の型での進行。やっぱり「テンプラ食いたい」や「マルキの黒パン」は、絶対的な力を持ちますからね。悔やみの場面も1人の出入りで、下げに向かいました。「ふたなり」は、なかなか出ない噺。「算段の平兵衛」同様、土の匂いのする田舎の噺。たまは、まず「ふたなり」の説明から入りました。ネタの中で、ふたなりについての語句説明が入るので、マクラで触れない手も堂々としたものですが、ネタ出しをしている場合には、触れざるをえないのかもしれません。2人の男の使い込みの細かな経過は、噺の本筋ではないとカット。単に金が要る、隣村で頼母子が落ちた、その金を借りての穴埋め相談、親っさんが金を取りに行くことになる、その流れが、最低限解っていれば、噺の流れは外さないということなのでしょう。このポリシーは、「近日息子」でのカットにも看られた手法。「ふたなり」の序盤カットは、噺の本筋は外れなかったかもしれないのですが、この噺の陰鬱とした、暗〜い田舎の雰囲気には頓着しないという姿勢と看ました。筋立ての意外性を楽しめば十分なのかもしれませんが、黄紺は、ぞれだけでは物足りなく感じてしまうのです。だって、この噺を都市部に設定すると、あまりに嘘臭くなりますものですから、となれば、トポスの重要性を、このネタには感じてしまうものですから、効率優先では済まないと思ってしまうのですが。ゲストの鯉朝は、たまのリクエストに基づくネタだったそうです。おもしろいだけではなく、ちょっと人情噺風のネタということで、東京の噺っぽいから、リクエストをしたと、たまは言ってました。薬局の店頭に置かれているキャラクターの会話として、噺の主な部分は進んでいきます。不二家のペコちゃんを主人公にしたネタに次いで、キャラクターが主人公の噺2つ目です。今日は、この鯉朝目当ての方も多かったんじゃないかな。確かに、たま&鯉朝のタッグは強烈な濃さ、パワーがあります。今日も、そこから、持ち味が、十二分に発揮された会だったと言えるでしょう。



2016年 4月 26日(火)午後 11時 26分

 今日は講談を聴く日。毎月おじゃましている「第225回旭堂南海の何回続く会?〜増補難波戦記15」がありました。場所は、谷六の薬業年金会館です。先月はドイツにいましたから、2ヶ月ぶりとなります。今日は、「難波戦記」の中でも、抜き読みとしてよく出る「般若寺の焼き討ち」の検証が読まれたというよりか、研究講演を聴いたというのが適切な講談でなく、講釈を聴くことになりました。「般若寺」は、豊臣贔屓の旭堂の「難波戦記」の中でも、とりわけ贔屓の引き倒しにもなりかねない部分です。豊臣を贔屓する、それはイコール、家康をボロく描けば、その目的を達成できるということになるわけで、「般若寺」では、家康が般若寺に逗留しているおりに、幸村の謀に遇い、般若寺が爆破され、辛うじて般若寺を脱出はしたが、幸村の放った二の矢、三の矢で、大ピンチに陥りながらも命からがら脱出をするというもの。その過程では、家康のような高位のものが、およそ交わりそうもない人たちの世話を受けたとし、そういった点でも、家康を、惨めに情けなく描いていきます。そういった現在旭堂で通常読まれている形が、どのような経緯を経て、いつ、どのように変化を遂げてきたかを解読されたものを、我々にも解りやすく解説するというものでした。基より「般若寺」の読み物は、史実にはない作り話。家康贔屓の「難波戦記」にはなかった、要するに家康贔屓の「難波戦記」は、史実に忠実だったのが、江戸時代の中頃と言われていたかなぁ、豊臣贔屓の「難波戦記」から「般若寺」の原型が現れ、それが、時経ることで、家康を虚仮にする精度が高まっていったようです。般若寺からの脱出、幸村側の動きの変遷、逃亡中に家康を助ける人たちの変化、家康を助けに来る家康の家臣たち、そういった諸点のトポス的な変化と意味、そういったことをお話しいただいたかと思います。来月は、この範疇の講釈を、「くらわんか舟の由来」でされるそうです。正に、南海さんは、講談界の桂米朝に当たる方ですね。



2016年 4月 25日(月)午後 11時 56分

 今日は、動楽亭で落語を聴く日。「第14回ショウゴイズム〜やる気の松五〜」のあった日でした。とっても地味な噺家の松五ですが、ここまで地道に落語を追求してきたと思っていますが、この会は、その成果を披露する会です。その番組は、次のようなものでした。松五「松竹梅」、鯛蔵「鹿政談」、松五「写真の仇討」、(中入り)、松五「幽霊の片袖」。今日は、いつも以上に客が来たということで、椅子を開演間際に追加。こないな姿を、この会で見るのは初めての経験。黄紺的には、もうちょっと入ってもいいのにとは思うのですが、集客力に落ちる会なのですが、しかも、今日は、鯛蔵が言ったように、米紫が雀のおやどで会を開いているにも拘わらず、普段以上の入りとなりました。コアな落語ファンも、わりかし来ておられましたしね。一つには、高座にかかる頻度の低い噺を、松五が並べたってことにあったのでしょうか。確かに、松五が出した3つが3つとも、そういったカテゴリーに入るのですから。逆に言えば、おもしろさではイマイチというネタなのですが、、、。「松竹梅」は、東京では定番の前座ネタですが、上方で、松五以外に手がけたのは見たことがなかったのですが、今日、その出所が判りました。枝三郎からもらったと言っていました。先日のコンペでも、松五は、このネタで臨みましたので、本人さんは気に入っているのか、自信を持っているのだろと、勝手に想像しているネタです。ただ、松五の口演を聴くたびに思うのですが、この噺の一番おいしいところ、即ち、祝言の本番でボケるところを、もう少しデフォルメしてもいいのにと思ってしまうのです。でないと、全体的に単調になり、淡々と過ぎてしまったって感じがしてしまっています。「写真の仇討ち」って、他に誰がするのでしょうか。全く思いつきません。この噺、最近では、もちろん松五以外では聴いてないのですが、昔、誰かで聴いているのですが、誰で聴いたかすら思い出せないでいます。噺は単純で、聞き手と教え手の2人しか出てこない根問ものパターン。そして、聞き手が頼りなげなことを言うのも、根問ものと同じ。ただ、噺の内容が、遊女にフラれて死ぬだのという内容が、根問ものには馴染まないというだけ。教え手は、中国の故事を引用して諭すということになりますから、ちょっと根問ものの教え手よりは、格が上という空気が欲しいところかもしれませんね。「片袖」も珍しい。生では現文我でしか聴いたことがないはずです。ネタ数を誇るもう一人の噺家枝三郎が持っているかもしれませんが、こうしたネタ数自慢の噺家さん以外では、松五以外は持ってないのじゃないかな。陰気な噺です。墓暴きの盗人の噺ですからね。前半は、そないな男とは知らずに飛び込んで来た頼りない男と墓暴きを生業にしている男との会話、噛み合わない可笑しさを追っかけたと言えば、ちょっと格好いい言い方になりますが、果たして噛み合うものなのか疑問の残る設定です。松五の口演でも噛み合ってたとは思えませんでした。それで、ノーマルかもしれません。中盤が墓暴きの場面。そこで、「へっつい盗人」のようにボケるのかというと、そういったボケる噺にはなりませんし、またボケてしまうと、終盤の悪行が死んでしまいます。頼りない男は、ボケないまま、お役御免になり、終盤には出てきません。あの男は、いったい何だったのだろうと、すっきりしない気分で、盗人は、片袖を持って金をせびりに行きます。ですから、結局は陰気な噺なのです。だったら、あの頼りない男は何だっただと突っ込みたくなってしまいました。そういった噺としての一貫性に欠けるというところに、演じ手が出てこない原因があるのでしょうね。松五は、噺を聴かせる自力を持っていますから、結構、筋を追いかけるにはありがたい口演なのですが、ちょっとネタ自体に非力を感じざるをえませんでした。40分を少し切る長講でした。ゲストは同期の鯛蔵。仲の良い同期4人との噂を裏打ちするかのように、奔放な裏話を披露してからネタへ。主役の松五のネタにつかないように、ネタ選びをしたはずだったそうですが、忠臣蔵の六段目がついてしまいました。でも、2つのネタ(片袖とついた)ともに、ついた箇所は、ネタの本筋から離れたところにあるので、あまり気にしないでいいのじゃないかな。鯛蔵は松五と正反対に陽の高座だけに、余計に、その特徴がクリアになってしまいました。とってもテンポのいい鯛蔵が、今日は、えらくあ〜だのえ〜だのが入ってしまってました。ま、そないな日もあり〜のということでしょう。テンポのいい、且つ陽の口演を聴いていると、旧弊なマクラなんかを聴いていても、どこかしら新しい物言いに聴こえてくるから不思議です。正に鯛蔵の口演って、それなんだなぁ。先ほど、この会に行かれた方のツイッターのつぶやきを発見したのですが、その方は、やはり珍品聴きたさで行ったと書かれていましたから、黄紺の想像が当たったようです。松五って、わりかし珍品趣味的なところがあるって、自分で言ってたことがありますから、そのポリシーが当たった今日の入りだったようですね。



2016年 4月 24日(日)午後 10時 13分

 今日も、ロームシアターのコンサートに行ってまいりました。コンサートは、昨日と同じ「シリーズ・コンサート」の最後を飾るオーケストラのコンサート。オケは京都市役 交響楽団で、指揮は阪哲朗でしたが、この阪哲朗も、京響のコンマスの泉原隆志も、ともにローム奨学生の受給生としての出演です。阪哲朗の場合は、レーゲンスブルクでは、2度聴いてますが、日本のオケを指揮する姿に遭遇するのは、今日が初めてとなりました。そのプログラムは、次のようなものとなりました。「ワーグナー 『ニュルンベルクの名歌手』第1幕への前奏曲」、「ベートーベン バイオリン、チェロとピアノのための三重協奏曲 ハ長調 Op.56」(Vn.神谷未穂、Vc.古川展生、Pf.萩原麻未)、「チャイコフスキー バイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35」(Vn.神尾真由子)。このコンサートは、元奨学生をソリストに迎えるということが狙いなわけですから、阪哲朗の場合は、既に、昨日、指揮者としての姿を見せていましたから、今日は引き立て役。「マイスタージンガー」以外は、コンチェルトの伴奏役となりました。また、「三重協奏曲」などという、あまり通常のコンサートでは出ない曲が、プログラムに入ったのも、多くのソリストを紹介するためということでしょう。そういった中で、圧巻は神尾真由子。昨日今日と、このシリーズのコンサートに、2つ行き、様々な実績を残されている方ばかりがピックアップされている中で、なんか次元が違いました。一つ一つの音が有機的につながり、つながったまま、演奏者の意のままに動いているといった感じ。その音の作りに、オケの方が付いていくのが大変。直ちに修正はされましたが、瞬間的にずれることが、序盤では、再三再四看られました。前に聴いたときは、こないな奔放さを持った人とは思わなかったのですが、今日は、その演奏スタイルは、巨匠と呼ばれる人がやりそうな奔放さを感じました。正に、大物臭が、色濃くする演奏でした。一方の「三重奏曲」は、昨日もそうだったのですが、ソリストとしていくら優れた人を組み合わせたからと言って、そういった人たちを集めたアンサンブルが、同じような印象を与えるかというと、決してそうはならないという例になると言えると思いました。神尾真由子人気もあったからでしょうが、会場は、ほぼ満員の盛況。でも、人が入れば入るほど、トイレの心配をしなければならない困ったホールです。



2016年 4月 23日(土)午後 10時 49分

 今日は二部制の日。昼間は、京都のロームシアターでのコンサート、夜は、大阪へ大移動をして落語会と、奔放な一日でした。ロームシアターのコンサートは、このホールのオープニング・プログラムの一環として行われた「ローム・ミュージック・フェスティバル2016」の内「リレーコンサートA」。元ローム奨学生の音楽家が集い、室内楽の演奏を披露してくれました。そのプログラムは、次のようなものでした。「F.クロンマー 2つのクラリネットのための協奏曲 変ホ長調 Op.91」(Cl.吉田誠/小谷口直子、Pf.塩見亮)、「モーツァルト 2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448(375a)」(Pf.松本和将/三浦友理枝)、「ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 Op.110」(Vn.礒絵里子/中島麻、Va.吉田有紀子、Vc.長谷部一郎)、「ドボルザーク ピアノ三重奏曲第4番ホ短調 『ドゥムキー』 Op.90」(Pf.小林有沙、Vn.植村太郎、Vc.江口心一)。登場された演奏者の皆さんのキャリアを眺めると、ロームの奨学生になられるだけあって、大変なものが並んでいました。その中で、黄紺が、既にお名前を知っていて、また聴いたことのある方が2人おられました。松本和将と小谷口直子の2人です。そして、その2人の演奏が、今日の演奏の中で、黄紺的には際立っているように聴こえたのですから、不思議なものです。小谷口さんのクラリネットのくすぐもった音色が、とっても素敵で、この音色は、きっと表現に幅を持たせるものと思えました。間もなく、京都で小谷口さんの演奏会が予定されていますので、楽しみが倍増しました。唯一聴いたことがあったのが松本さん。カフェモンタージュに出演されたことがあることから、聴いたことがあったのですが、そのとき聴いたベートーベンに惹かれ、今日のチケットも、松本さんが出るということが、大きな魅力だったことで購入したのでした。この人の演奏は、簡単に言うと音楽になっている、いや、どの演奏者も伝えようとするものを持って演奏されているのでしょうが、ぞれが、なかなか伝わるというものではありません。それを、少なくとも、伝えるテクニックをお持ちで、それだけ強く、演奏曲に思いを込めて弾かれているということなのだと思います。今日の演奏でも、やはり、それを受けとることができました。前半の2つが、おかげで楽しむことができたのですが、後半はイマイチでした。曲目的には一番の期待をしていたショスタコーヴィチは、ホールに問題があるのじゃないかと思ったほど、音が出ていませんでした。特にチェロがきつかったなぁ。次の「ドゥムキー」のときに、ホールに問題があるということではないことが判ったのですが、この「ドゥムキー」は、初顔合わせなんでしょうね、なんか3つの楽器が、個々別個に弾いているようで。おまけに、バイオリンに奔放さ、音の伸びが十分とは言えませんでした。1楽章の序盤に現れるバイオリンの格好いいところが、逆に失望へと導いていくことになりました。逆にピアノは奔放、且つ、とっても綺麗で彩りが豊かそうな響にそそられたのですが、今度は、繊細な音の刻みとは言えず、しかも、ドボルザーク・サウンドには合っていたとは思えませんでした。この3人では、黄紺的にはチェロが気に入りました。ドボルザークが1人では、アンサンブルが成立したとは言えないんじゃないかな。新しくなったロームシアターのサザンホールには、このコンサートのおかげで、初めて入ることができました。京都会館の第2ホールの構造のまま、内装が変わったという雰囲気でした。1階に、中通路ができた分、客席が減ったってところでしょうか。市民寄席も、こちらに復帰しましたから、黄紺的には、これから、よくお世話になっていくのでしょうね。
 ロームシアターを出ると、京阪電車を使い、一挙に大阪に移動。雨が降りかけのなか、かろうじて大した降りにならずに、千日前に到着。ちょっとだけ、千日前のネットカフェで時間待ちをしたあと、千日亭へ。今夜は、こちらで「千日快方」と名付けている林家染左の落語会がありました。その番組は、次のようなものでした。染左「前説」、生寿「孝行糖」、染左「瘤弁慶」、(中入り)、染左「阿弥陀池」。染左は、当初は、「瘤弁慶」を分けて口演するつもりだったところが、やはり1つの噺ということで、まとめての口演に切り替えたため、毎回3席出しているのが、結果的に2席になることに責任を感じたのか、マクラで喋るようなことを固めて、「前説」と書いた冒頭部分で喋ってくれました。ですから、落語は生寿から。お喋り好きの生寿のマクラは、いつ聴いても楽しいのですが、今日は、切符節約の話だったのですが、この話は、どうも生寿のお気に入りマクラのようで、わりかし使い回しをしています。ネタは、あまり演じ手の少ない「孝行糖」。生寿では、まだ聴いてなかったはずですから、きん枝で、随分前に聴いて以来じゃないかな。あまり聴く機会がないため、「孝行糖」を聴くたびに、序盤ではネタが判らなくて、戸惑っている黄紺です。生寿の口演は、噺は軽く、声は重くで、しっかりとした語り口に聴こえ、とっても好感を持ったのですが、吉兵衛のキャラが定まりきらなかったなの印象が残ったのが残念なところです。大工の仕事はダメ、周りの人たちが、仕事の世話をしなければならない人物となれば、東京の与太郎キャラになります。だけど、上方には、それに相当するキャラはいません。むろん、「向う付け」の喜六などがいますが、生寿の言うテキストだと、そのようなキャラに聴こえたのですが、実際の口演に出てくる吉兵衛は、そないなキャラのようであり、そうでもないようで、かなり中途半端な感じがしてしまいました。でも、難しいですね、どうしたらいいかを考えたとき。生寿の口演の移り変わりを観ながら考えることにしましょう。染左の大ネタ「瘤弁慶」は、ネタ下ろしのときに聴いたという記憶が残っています。染左が手がけた大ネタでは、「猫の忠信」などとともに、わりかし早かったという記憶があります。長い上に、確かに、今日の口演でも40分かかりましたし、後半は、芝居がかりになりますから、なかなか高座にかからない、持ちネタにする噺家が少ないというものです。最近では、前半の「宿屋町」すら、若い噺家さんには敬遠されています。昔は、前座ネタの定番だったのですがね。ですから、黄紺も、「宿屋町」ですら、久しぶりの遭遇になりました。そないなこともあったかもしれませんが、キャリア20年の噺家さんの前座噺は、やっぱ練り上がっていますから、ホントにおもしろい。修業明けの染左の口演を聴いて、もっと弾けて欲しいなと思っていたのは、遠い昔話になりました。後半になり、弁慶が登場すると、いきなり大音声で呼ばわる弁慶、もう、これだけで、余計な気づかいなどは要らないというやつです。我々の持つ弁慶のイメージが、この一喝で、あっという間に喚び醒まされました。こうした呼吸ってのが、20年のキャリアってやつでしょう。そして、染左の2つ目は、染左の前座時代に、一番多く聴いた前座噺の「阿弥陀池」。染左の「阿弥陀池」は、ホントに久しぶりだったため、何が出てきても、初めて聴くような気がしてしまいました。和光寺に入った盗人の名前は大橋だったのですね。柔道と言わずに柔術と言うのは、牛乳(ぎゅうちち)を引き出す工夫、この辺は、もう林家テイストがいっぱい。首を掻き落とすのは、苦しんでもがいているときと、えらく残酷などなど、かつても聴いていたのでしょうか。これまた、ベテランによる前座噺の雰囲気。今日は、雨が降ったからでしょうか、入りは少なめ。この会は、予測不可能な客の出入りがあります。場所柄なのでしょうか。



2016年 4月 22日(金)午後 7時 16分

 今日は繁昌亭昼席に行く日。今週の繁昌亭昼席は、「桂米紫第10回繁昌亭奨励賞受賞記念ウィーク」として行われています。もちろん、それ狙いで行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。智六「動物園」、鯛蔵「子ほめ」、文三「転失気」、仁昇「目薬」、米紫・塩鯛・銀瓶・鯛蔵(司会)「記念口上」、米紫「はてなの茶碗」、(中入り)、めおと楽団ジキジキ「音曲漫才」、銀瓶「阿弥陀池」、三扇「シルバーウエディングベル」、塩鯛「試し酒」。智六は、繁昌亭の昼席で遭遇するのは、初めてとなります。晴れ舞台に智六が出てくると、しっかり務めるだろうかと、ついつい気になってしまいます。そういったキャラが、なんとも羨ましい。決して滑らかなとは言えない口調でしたが、無事に務めて一安心。園長さんは長谷川はんでした。智六のあとのため、鯛蔵のテンポの良さが際立ちました。身体表現も含めて、総合的にテンポがいいのです。伊勢屋の番頭の途中でカットして子ほめに向かいました。文三は、マクラで知ったかぶりをする人の話をしたものですから、「ちりとてちん」だと早とちり。文三って、「転失気」やってましたっけ。結構、丁寧な口演。繁昌亭だからいいのでしょうが、普段の落語会で出すと、クサイと言われるかもしれません。鼻をつまみながら、「どちらもつまむものです」という聴いたことのない下げで下りました。次の仁昇は、「転失気」とかぶる噺を承知で出し、目薬を処方する医者は、「転失気」で、和尚を見舞ったを医者にするというお遊びをしてくれました。艶笑系ネタだからか、繁昌亭はもとより、この「目薬」ってネタは、あまり出ませんね。また、覚える気にもなれないネタかもしれません。「口上」に並ぶ人数が減りました。師匠+ゲストだけになってしまいました。銀瓶は、どういう関係で、この口上に並んだのか、黄紺には、未だ解っていません。司会の鯛蔵は、過去の受章者と紹介していましたが。主役の米紫は、「毎日、ネタを変えるそう」と、コアな落語ファン氏に教えていただいたのですが、「はてな」が出るとは思っていませんでした。黄紺は、まだ、米紫の「はてな」を聴いてなかったので、ラッキーな日に行けたと、それだけで満足しているのですが、この口演が、めっちゃ優れもの。いつものように、力いっぱいの口演なことには変わりはないのですが、それが、100%と言ってもいいほど、いい方に出たのが、今日の口演だったと思います。油屋さんも、茶金さんも、それぞれが、自分のスタイルで、気持ちがこもっているのです。ですから、客席が噺の世界に吸い寄せられている空気が流れました。その中の1人であったことを幸せと思えた素晴らしい高座でした。今日、繁昌亭へ来て、初めて米紫の記念落語会だと知った方たちも、この口演には、受章を納得されて帰られたのじゃないかな。それだけの説得力のある口演だったと思います。今日は、「口上」があったため、色物は1つだけだったのですが、ジキジキに当たる運の強さ。繁昌亭に年2回出るようになって6年だそうです。銀瓶は「阿弥陀池」。「口上」で、銀瓶に慣れた客席は、やたら銀瓶にいい反応。慌てず騒がずの「阿弥陀池」が、受けまくっていました。この辺から、客席の感度が、とっても良くなっていきました。三扇のネタが高齢者をターゲットにしたものだけに、客席の年齢層に合い、こちらも受けまくり。三扇の口演が、こないに受けたのを見たことないと思うほど受けていました。ここまで、定席として、とってもいい連携プレーで流れてきた上に、的を絞ったいいネタ選びが、好結果をもたらしたと看ました。そして、締めは塩鯛、やはり、この人の酒の噺は、今、一番いいかもしれませんね。九蔵が、旦さん方の前で呑む5升の酒、もう3升呑んだ当たりで、塩鯛の顔色を変わってきたように思えますからね。塩鯛、米紫の師弟、今日の主役2人が見事に聴かせました。いい昼席だったと思いました。



2016年 4月 21日(木)午後 11時 40分

 今日は二部制の日。昼間は、民博の特別展「夷酋列像 ―蝦夷地イメージをめぐる 人・物・世界―」に行き、夜は、久しぶりのカフェモンタージュに行く日でした。民博の特別展は、蠣崎波響が描いたとされる「夷酋列像」の里帰り展示がメーン。「クナシリ・メナシの戦い」という事件を初めて知ったのですが、国後とメナシ地域(網走から根室に向かっての地域)のアイヌが、和人商人の非道な仕打ちに怒り、和人襲撃を起こした事件で、松前藩が、アイヌの首長の協力を得て鎮めたことから、松前藩主が、藩士であるとともに、絵師でもあった蠣崎波響に命じて、功績のあったアイヌの首長12人の姿を描かせたもので、その絵が大きな評判を生み、幾つもの摸写画が生まれていったりということで、今回、フランスのブザンソン博物館に所蔵されている蠣崎の原画とされているものが里帰り展示できるということで、関連絵画を含め、また、絵画に描かれているアイヌの民俗資料を展示しようという試みで行われた特別展だったのです。ただ、ブザンソン博物館所蔵の11枚の原画(1枚は行方不明)の展示は、一昨日までだったそうで、今日からは模写画が展示されていたようです。そんなの、どこかに告知があったっけと思っても、完全にあとの祭り。一昨日に行こうという計画もあったのにと、悔しさは倍増してしまいました。松前藩は、自らの力を示すべく、この「夷酋列像」を描かせたということですが、そのための脚色を、蠣崎はやってのけています。アイヌの首長に、あり得ない西洋風の装束を着せたり、とっても高価だった蝦夷錦に身を包ませたり、描かれているアイヌの首長が豪華であればあるほど、松前藩の権威発揚につながると考えていたようです。で、これが人気を博したってことは、珍しもの見たさ以上のものがあったのでしょうか。既に「夷酋」という表現自体に上から目線の意味合いが含まれていますから、そういった意味合いでの珍しいものというところかもしれませんね。
 民博を出ると、いつものように、阪急茨木市駅までのウォーキングに入りました。今日は、残念なことに雨中ウォーキング。そして、京都への移動。夜のカフェモンタージュのコンサートに臨みました。今夜は、「W.A.モーツァルト」と題し、モーツァルトの「ピアノ三重奏曲第3番 ト長調 K.496」「同第5番 ホ長調 K.542」の2曲が演奏されました。その演奏は、(ヴァイオリン)瀬ア明日香、(チェロ)上森祥平、(ピアノ)岸本雅美の方々でした。オーナー氏の説明によると、今回のコンサートの発端は、上森さんの「第14回齋藤秀雄メモリアル基金賞」受章記念の気持ちを込めての企画で、ちょうど瀬アさん(上森さんの同窓同期)が関西に来られるのに合わせてのコンサートとなったということです。曲目は、瀬アさんが、モーツァルトが好きと書かれていたのを見てのものということで、同じくモーツァルトを得意にされている岸本さんの参加を得てのコンサートが成立したそうですから、お三人の顔合わせは初めてということなのでしょう。しかし、上森さんの受章記念ということではおかしな企画、これは、オーナー氏も口にされ、笑いを取っていましたが、モーツァルトのピアノ三重奏曲って、チェロがバッソコンティオヌオ的な扱いで、ひどい言い方をすれば、バイオリン・ソナタなのです。まだ、モーツァルトの時代には、ベートーベン辺りから見られ出す、3つの楽器が取っ組み合いをするかのようなピアノ三重奏ってのがなかったのです。ですから、あまりコンサートでは演奏される機会の少ない曲なわけで、でも、モーツァルトのピアノ三重奏曲の好きな黄紺にとっては、とっても貴重なコンサートとなったのでした。黄紺の頭に渦巻くモーツァルトからすると、上森さんのチェロが申し分のない響。モーツァルトのチェロの分を心得た心憎い演奏と言えばいいでしょうか。5番の方はそうでもなかったのですが、逆に、一番モーツァルトからの距離を感じてしまったのが、岸本さんのピアノ。指使いの柔らかさに関係してくるのか、コケティッシュな音が出ないのです。トリルなんかも、かなり不満が残ったのと、共通しているかと思います。ただ、この人、ペダルの使い方がうまい。モーツァルトが得意というのを、ここで最も良く感じさせてもらいました。瀬崎さんのいいところって、その自在性なんでしょうね。そして、音がきれいで滑らかなことと看ました。ただ、モーツァルトの音なのとは思ってしまったのですが。ですが、この人の場合、同じ曲を聴いても、常に一期一会的な楽しみがあるのじゃないかと思えました。技術的には、ボーイングに、もうちょっと神経を集中して欲しいなとは思いました。オーナー氏の解説を入れて、ジャスト1時間のコンサートでした。



2016年 4月 20日(水)午後 11時 31分

 今日は、武庫川女子大のトルコ文化研究センター主催の講演会「越境するローカリズム アルメニア建築を機軸とした東アナトリアのキリスト教建築」を聴きに行ってまいりました。これは、アイシェ・ハヌムから連絡をもらい知ったもの。知らせてくれたご本人は、仕事で行けないということで、見知らぬところへ一人で行くことになりました。初めて甲子園会館ってところに行ったのですが、クラシック建築に、入る段階で圧倒されてしまいました。びびるってやつで、完全に位負けの黄紺、民博ゼミナールの気分で行くと、なんか大学の研究会の雰囲気。開始時間間際に、関係者らが多数入って来られて、単なるトルコ好き人間が居ていいのかの空気を感じてしまったのですが、入場時に渡されたレジュメには、イシュハンやドルト・キリセシの写真が資料として載っているのを見て、そういった人たちでも、ここへは行ってるやつ少なかろうと思ったら、ちょっと落ち着くことができました。講師は、東工大名誉教授の篠野志郎氏。講演の中では、たっぷりと、未だ見ぬトルコやアルメニア、ジョージアにある教会だけではなく、ISによる破壊が懸念されるスリアーニーの教会まで、とっても多くの教会の画像、ときには映像を見せていただくことができました。教会建築としてのアルメニア教会の特徴としては、グレコ・ローマン的影響を受けていることは、三廊式のバジリカ様式の教会が存していることから明らかであり、ま、これは、ビザンツの影響ということが、即時に連想されるところですが、イスタンブルのアヤ・ソフィアを初めとしたビザンツの教会群の様式が成立する以前に、アルメニア教会には、この様式での教会が現れていることから、流れは逆だろうと言われていました。円に内接する十字型の平面を持つあれです。となると、地中海から黒海という交易ルートは、文化の伝播ルートでもあるわけですから、そのルートで入ってきたものでしょう。アルメニア教会のもう一つの単廊式の教会は、スリアーニーのルートだと言われていました。その2つの型に、10世紀あたりには変化が出てくるようです。ドームを持つ教会が現れてきます。確かにアクダマルのそれも、イシュハンも、カルスのアルメニア教会も、ドームをいただいています。これは、一つにはビザンツ、もう一つには、イスラームの影響だと言われていました。その重いドームを支える構造について、お話しをされていたのですが、専門の建築学のテクニカル・タームが多用され、これには、黄紺はお手上げ、もう全くの。どうやら、壁面とドームとの繋ぎに、様々な仕掛けがあるようで、また、その技術も進化をしていったということで、どの仕掛けを使っているかで、年代も特定できるようです。更に興味を惹いたのは、お話しでは「変異性」というタームを使われていましたが、定番としての型に加えて、そのヴァリエーションの多さに特徴があると言われていました。個人的な祈りの場所、チャペルっぽい小室が、様々な形で生まれていったり、内部ではなく、壁面の外側に建て増しをしたかのように、小室が持つ教会が現れたりするかとおもうと、サファヴィー朝の影響だったようだと言われていましたが、ドームの外側が、タイル装飾を施された教会もあるそうです。ですから、こうした変異性を抱えた教会堂が多く存すること、これを、教会建築の歴史の中に包摂しようとする、そして、包摂しにくいとなると、歴史の中での亜流と片付けてしまう、我々の目が、西欧の教会建築史に浸った結果での分析に陥っていることを示しているのではと、ポストモダン的なまとめで終わられました。確かに、言われてみると、その通りですね。途中15分休憩を入れて、なんと2時間半を越えるお話し、こないに長く、人の話しをまともに聴けたの、ホント久しぶりです。ま、東方教会の話だったというのが大きかったのでしょう。



2016年 4月 19日(火)午後 11時 2分

 今日は、落語会に行くか、映画に行くか、はたまた他のところに行くか、迷った挙げ句、韓国映画「西部戦線1953」を観に行くことにしました。GW明けに韓国旅行を計画しているために、ぼちぼちドイツ・モードから脱しておこう、韓国モードに合わせねばということでの判断となりました。この映画は、「シルミド」「ペパーミント・キャンディー」「力道山」のソル・ギョングが主演ということもあり、行ってみようの気持ちが高まったということでもあります。その相手役は、「ファイ 悪魔に育てられた少年」のヨ・ジングだったのですが、ヨ・ジングは、黄紺的には初遭遇かと思っていたのですが、そのキャリアを調べてみると、彼は子役として秀でたものを持っており、「アンティーク 西洋骨董洋菓子店」や「ゲームの女王」といった映画やドラマに出ていたことが判り、初遭遇というわけではありませんでした。舞台は朝鮮戦争、場所は特定されていませんでした。筋立ては至って簡単。南の極秘文書を運ぶ任務に就いたのがソル・ギョング、北の戦車に乗っている新米兵士、彼は学生でもあるのですが、その若い兵士がヨ・ジング。お互いが、敵の攻撃を受けたため一人になってしまったところで出逢ってしまうというところから、本筋の物語が始まります。ヨ・ジングの方が、ソル・ギョングが運んでいたはずの極秘文書を、偶然拾ってしまっているというのが、話を進める大きなポイント。偶発的に南北の兵士が出逢い、一緒に行動を執らねばならないというシテュエーションは、ここに始まったプロットではないはず。黄紺は、さほど系統的に韓国映画を把握しているわけではないので、使い古されたとまでは言えませんが、有名なところでは、「トンマッコル」が、このカテゴリーに入りますよね。となると、味付けの仕方は多様でしょうが、もうお約束の展開が見え透いています。当初は、お互いの主張をぶつけ合いいがみ合っているが、徐々に心を通わせていく。ですから、どのようなスパイスを効かせるかが、ポイントとなっていくのでしょうが、この映画の場合は、主役2人が同世代ではなく、ソル・ギョングの場合は、結婚が遅く、子どもが生まれて間もなく、名前も付けないで出征してきているという人物。ヨ・ジングの方は、8人兄弟で、あとの7人は全員、この戦争で亡くなり、親の思いを一身に受けているとなっているところから、2人の接近が生まれていくとなっていました。最後は、どのように持って行くのか、それが、当然気になっていくわけですが、それを見終わって初めて、この映画の題名の意味が判りました。韓国人が好きそうなネーミングですね。朝鮮戦争に「西部戦線」ってと思いながら、この映画に臨んだのですが、一向に、そのわけが、映画が進んでいっても判らなかったのですが、、、要するに、「西部戦線異状なし」、あの有名な映画をパロってるってことなのですね。2人の主役を務める俳優さんのお好きな方はどうぞと言いますが、親しい人に、口コミで広めようとまでは思わない映画と言えばいいでしょうか。



2016年 4月 18日(月)午後 11時 35分

 今日も、動楽亭で落語を聴く日。今夜は、「第17回生寿成熟の会」がありました。その番組は、次のようなものでした。鞠輔「始末の極意」、生寿「蔵丁稚」、鯛蔵「桜の宮」、(中入り)、生寿「延陽伯」。鞠輔を、こういった落語会で見かける機会が少ないため、ホント久しぶりに聴くことになりました。その間に結婚したそうで、マクラに主婦ネタが入りました。ケチと始末の違いのマクラでしたが。口演は、前に聴いたときと同様、師匠米輔の口ぶりにそっくり、ですが、ボチボチ、そこから抜け出ないとダメですね。鞠輔の師匠似の話を、あとで出てきた生寿もしていましたが、その生寿も、師匠の生喬似なのは、自分自身で解っているものですから、そのような話をしたあと、自身に突っ込みを入れていました。その生寿の1つ目は「蔵丁稚」。「ヅカ丁稚」というパロディ落語をやり出してから、「蔵丁稚」を稽古しているときですら、「ヅカ丁稚」になってしまうため、最近は高座にかけてなかったので、本末転倒になるということで、十分に稽古をして、今日に臨んだとか。そのわりには、マクラは、5月に予定されている「はなしか宝塚ファン倶楽部」の稽古風景でしたが。以前聴いたときに比べて、全体的に重く運んでいこうという方針のように見受けました。確かにそうすると、主役となる丁稚の定吉のキャラが浮き立ちますし、前には入れてなかった定吉の父親をご陽気キャラに描いて、笑いを取れるようになっていました。終盤、1つの言い間違いが、生寿の張り詰めていた空気を抜いたようで、下げは、ちょっとお遊びしながら言っていました。ゲスト枠は鯛蔵。ネタは、ちょっとだけ時節がずれてしまった「桜の宮」。だけど、この「桜の宮」が、メチャメチャいいテンポ。珍しく何度も噛んでいましたが、テンポの良さにかき消される雰囲気。そして、侍が出てきたところで、そのテンポを落とします。もう、それだけで空気が変わりました。見事なものです。そして、仇討ちの場面では、テンポを落とさないのですね。それだけで、町民のお遊びの中に、侍が乱入してきた雰囲気が出ますからね。うまいものです。生寿は、こういったテンポの良さで勝負するタイプじゃないものですから、余計に鯛蔵の口演の特徴が際立ちました。今年は、南天の「桜の宮」も聴けましたし、「桜の宮」の当たり年です。生寿の2つ目は、意外な、想定外の噺が出ました。前座以外の出番が回ってくるようになってきたので、そういった位置でできる噺を増やさねばということで、ネタ下ろしではないが、最近覚えたネタだそうです。風呂屋には行かず、ぼてふりの八百屋が出てくることは出てくるのだけど、途中で切り上げたものですから、誰にもらったのかなぁと考えながら聴いていると、下げを言ったあとの挨拶で、阿か枝にもらったと言っていました。阿か枝の「延陽伯」は、最近聴いていなかったのですが、「延陽伯」をするなら、人気の九雀の「お公家女房」でないなら、確かに阿か枝からもらいたくなる気持ちに納得です。次回の日程が発表されたのですが、調べてみると、つい先日、コンサートのチケットを買ったところ。「ご近所落語会」は、ドイツから帰国の日だったしと、どうも生寿の会が逃げていきます。



2016年 4月 17日(日)午後 11時 4分

 今日は文楽の日。4月公演の「妹背山婦女庭訓」の通しの後半を観る日でした。その後半とは、「二段目 鹿殺しの段、掛乞の段、万歳の段、芝六忠義の段」「四段目 杉酒屋の段、道行恋苧環、鱶七上使の段、姫戻りの段、金殿の段」でした。今日主役は、藤原鎌足の伜淡海(求馬)。ということは、実権を握った蘇我入鹿討ちに向けての具体的な動きを追いかけようというものです。そのためには、入鹿に備わっている魔力を削ぎ落とさねばならない。そのためには、2つのアイテムが要るというわけで、もうこの辺は、完全に劇画の世界です。2つのアイテムとは、牡鹿の生き血と嫉妬に狂った女の生き血。鹿の方が二段目ですが、鹿殺しの段で、あっさりと禁制の鹿殺しをして、あっさりと芝六がゲットしてしまいますから、ことアイテム獲得は盛り上がらないということで、その芝六が鎌足の真なる忠臣かどうかをチェックする話が盛り込まれ、二段目の山となります。それが芝六忠義の段です。ここで、鎌足とともに出てくる伜の淡海が、四段目になると烏帽子屋の経営者となって出てきます。乞食は花魁にはなれないが、花魁は乞食になれるという「千早ふる」を思い出させる転身ぶりです。だから、時間的経過を見せるために、三段目で、前半の話に戻したのでしょう。烏帽子屋の隣に住むのがお三輪です。そこへ、入鹿の娘橘姫が通って来ているのを知ったお三輪が嫉妬に狂い、このお三輪の生き血が求められるという流れへとなっていきます。有名な「道行恋苧環」は、三味線も浄瑠璃も風情がありいいですね、だけど、お三輪が追い付くと、嫉妬を表す激しいものに、一転して変わります。とっても解りやすい展開ですが、いよいよ、お三輪が追い付き、入鹿の御殿で、散々なぶりものにされてから、鱶七に殺されることになります。お三輪が殺されないと、この物語は終わらないので、それは致し方ないのですが、その前のいたぶりに、文楽独特の美学を感じます。「杉酒屋の段」が、今回の公演では、咲太夫さんの割付でしたが、病気ということで、本公演は休まれるそうです。 一人しかいない切語りが休演ということで、切語りが一人もいないという、まことに寂しい公演となりました。切語りの代演は、この間、呂勢太夫さんが務められてきたと記憶しているのですが、今回は咲甫太夫さんでした。将来の大エースと考えている太夫の起用で、ちょっとはほっこり気分になることができました。



2016年 4月 16日(土)午後 11時 47分

 繁昌亭と動楽亭を交互に行く1週間、その繁昌亭の最後を飾る日となりました。今夜は、「第11回露の新治寄席 さん喬・新治二人会」がありました。この会は、「芸術祭賞優秀賞受賞」と銘打たれたもの。だからと言って、あらためてさん喬を喚んだというわけではなく、既に繁昌亭では、お二人の会は何度か開かれており、新治自身が、今回の受賞もさん喬のおかげがあるとまで言う親交が、お二人の間にはあるようです。新治が、鈴本の出番をもらったのも、さん喬の口添えがあったのだろうと、黄紺は、勝手に想像をしております。で、今日の番組は、次のようなものでした。新幸「東の旅〜野辺・煮売屋〜」、新治「皿屋敷」、さん喬「抜け雀」、(中入り)、伏見龍水「曲独楽」、さん喬「酢豆腐」、新治「鹿政談」。予想通り、大変な入り。新治が会を開くと、とにかく応援団の人たちが詰めかけるので、一時避けていたのですが、今回は、そないなことを気にかけず、さん喬との二人会だということもあり、チケットを買ったのですが、繁昌亭に着いてみて、やっぱりという思いになり、かなり反省。お二人が出したネタも、ちょっと会の客層を頭に入れてのものになったような気がして、ちょっと失敗感が出てきてしまいました。新治のネタから言うと、新治は、広く言えば春団治一門になりますから、「皿屋敷」は定番で解りやすいもの。でも、黄紺的には、新治では「皿屋敷」は、初めてなもので、ちょっと儲けた感じは持つことはできましたが。おやっさんが皿屋敷の謂れを語り出すところから始め、序盤は軽くカット。道行きの恐がりが勝手を言うところが秀逸で、ここで、大きく笑いを取ると、もう万全です。その辺は、よく心得たもので、新治の口演は見事に尽きます。「鹿政談」の方は、師匠五郎兵衛が、晩年よく出していた思い出の噺というだけではなく、奈良在住の新治にはご当地ネタということだからでしょうか、また長さも程よいということで、普段からよく出しているものです。米朝系とは、ごく微細なテキストが違いますが、大筋が変わるわけでもなかく、いつものように進行。「皿屋敷」のときに比べると、なぜだかちょっと急ぎ気味。3時間もかかった会だったもので、それを気にしていたのかなぁって思いながら聴いていました。普段の落ち着きにはないものを感じたものですから。一方のさん喬のネタにはがっくり。だって、「抜け雀」は、昨年、繁昌亭昼席に、さん喬が出たときに出したネタだったし、「酢豆腐」は、なんか営業用仕様にしたものだったからです。ネタに入る前に、わざわざ「上方から入ってきたネタ」「上方と東京の演じ方の違いも楽しんでいただければ」と言ってからネタに入ろうとしたものですから、「酢豆腐」でなければいいがと思うと、ドンピシャでした。知ったかぶりをする男が来る前に、先に来ていた男を隣の部屋に移動させますので、後半は、2人だけで、噺が展開するというもの。同じ柳家では、市馬の口演を、池袋で聴いているのですが、そうだったとは思えないのですが。名前を決めるやら、箱書きをどうするかというやり取りは、一切なし。酢豆腐の名前はちりとてちんになっていましたが、長崎名産ではなく台湾名物になっていました。後先になりましたが、「抜け雀」の絵師親子の描写は、相変わらず秀逸。でも、小ネタでもいいから、さん喬で、まだ聴いてなかった他の噺を聴いてみたいものでした。



2016年 4月 15日(金)午後 11時 45分

 今日は講談を聴く日。動楽亭であった「第34回南湖の会〜大忠臣蔵・赤穂義士伝〜」に行ってまいりました。日程が合わず、毎月行われている会ですが、今年に入り初めておじゃまをすることになりました。その番組は、次のようなものでした。南湖「高田馬場後日談〜堀部安兵衛の婿入り〜」「赤穂義士銘々伝 横川勘平」、りょうば「子ほめ」、南湖「赤穂義士外伝 忠僕直助」。この会、黄紺がお休みしている間に、この間読まれていた「赤穂義士伝」が最終回になってしまってました。「堀部安兵衛の婿入り」は、高田馬場に仇討ちに行く安兵衛に、弥兵衛の妻と娘が出会い、安兵衛にたすきとしてもらうために、娘のしごきを渡した話を、弥兵衛が聴くところからスタート。その話を聞いた弥兵衛が、安兵衛を気に入り、一方的に婿として迎えるべく動き出します。かなり強引に話をまとめるのが、この読み物の狙いですから、ここでは、安兵衛が、そうは簡単に婿入りなどできない身の上であることは、一切触れられないで進みました。おもしろい替わりに荒っぽさの残る読み物でした。「横川勘平」は、初めて聴く読み物だと思います。「勘平」と言っても、早野勘平ではありません。赤穂藩で火薬庫の番をするような下級武士と、南湖さんは言ってました。大石の指示により、江戸にいる叔母の元に身を寄せたのは良かったのだけれど、後継ぎがいなかったため、かなり強引に養子縁組話を進められ苦悩するのが、この読み物のポイントでした。南湖さんは、「横川勘平」を読んで降りしなに、「今日もりょうばさんに出てもらいます」、これにはびっくり。黄紺は、りょうばデビュー後、まだ聴いてなかったものですから、突如として、その出会いがやってきました。血なのかなぁ、普段の穏やかな喋りっぷり、笑顔、それだけではない豊かな表情、ホント、いいキャラですね。そういったキャラが、口演に活きているのが、何よりもいいと思いました。「子ほめ」が、なんでべんちゃらの噺へと展開していくのか、その合理性を示してくれた口演だったと思いました。そして、最後は「忠僕直助」。いい話が綺羅星の如く詰まっている「赤穂義士伝」の中でも、頗る付きのいい話がこれ。主人が豊かでないため、手持ちの刀を笑われたことを知った直助は、主人に立派な刀を買い与えたいと、主人の元を離れ、金儲けを目的に大坂に出るが、偶然刀鍛治の名匠に弟子入りを許されたことから、修行を積み、自らが刀を打ち主人に献上し、更に、主人に恥をかかせた者に、逆に恥をかかせるというもの。このネタは、南舟くんが東京でもらってきたものを聴いたことがありますが、南湖さんの口演と、微妙に重点の置き方が違い、東西の違いを、ちょっとだけ看た気がしました。東京のそれは、直助が、必死の思いで修行を積むところを、より詳しく描きます。師匠の迫り方も強く描きます。それに対し、旭堂のそれは、直助が、赤穂に戻ったあと、主人に煮え湯を飲ませた相手に対する復讐の場面を、より詳細に描いていました。溜飲を下げる、そういうキラキラするところが、大阪では好まれるのに対し、東京では、地道に努力する人情噺っぽいところが好まれるということなんでしょうね。今日、会場で、来月から4ヶ月間の「南湖の会」のチラシが配られ、この先4ヶ月間の開催日が判ったのですが、またまた、新たな4ヶ月間で1回しか行けないことが判明。先にコンサート行きが決まっているのはまだしも、日本にいないときに、よく開催されますし、びっくりしたのは、年に1回しか開かれない宴会とバッティングなんて、ありそうもないことで、結局、1回しか行けないのです。哀しい現実です。



2016年 4月 14日(木)午後 11時 14分

 繁昌亭と動楽亭に交互に行くことになっている今週ですが、今日は繁昌亭の日。今夜は、こちらでは「第2回上方落語若手噺家グランプリ2016〜予選第2夜」がありました。4回に分けて行われている予選の第2回目となるのが今日だったのですが、雰囲気だけ観ようと、今日だけ行ってみることにしました。大事な出演順は、開場時には、既に扉に貼り出されていました。その順及びネタは、次のようなものでした。三実「味噌豆」、喬介「牛ほめ」、 二葉「雑俳」、 染八「蓮の池クリニック」、愛染「ふぐ鍋」、智六「住吉駕籠」、(中入り)、治門「初天神」、三幸「冬のゴルゴ」、呂竹「米揚げ笊」、笑丸「居候講釈」。三実は初遭遇。ネタの中に、スポットCMを入れるというもの。なんか、大学生の宴会ネタのようでした。喬介は、このメンバーの中では、誰が見ても本命だったでしょう。マクラは30秒、持ち時間は8分という制限を、見事にクリアしたものですから、もう終わった時点で、ファイナル進出は確定と、黄紺は、勝手に太鼓判。「落語やりま〜す」という得意のフレーズで、即刻ネタに入り、仕込みもバラシも含めて、更に牛まで行ったのですからね。二葉の安定感も光りました。若い女の子キャラと古風な俳句とのギャップを埋めることができるのは、この二葉の口演以外はないぞと思うほど、黄紺的には花○の口演だと思いました。染八は、今日のコンペに力が入っているなと思わせるネタの刈り込みと、福笑ばりのアウトロー的な喋りに磨きをかけていました。ただ、おいしいところばかりを集め過ぎて、8分間の中に、噺の起伏を感じさせなかったのが、致命傷かなとは、黄紺は思ったのですが、、、。2〜4人目までの3人のテンションの高さ、気持ちが前面に出た高座の煽りを食ったのが愛染。迂闊に切り上げることのできないネタを選んでしまったために、筋を追うことに拘束され、笑いを取れるところをはしょらねばなりませんでした。だから、盛り下げたという印象を与えてしまってましたね。智六も「住吉駕籠」なんて、8分のコンペには選んじゃいけないネタを選んでしまいました。どこを取るか、そりゃ笑いを取れそうなところを取るでしょうから、となると、このネタなら酔っぱらいのところとなります。ところが、この酔っぱらい、同じことを繰り返すというものですから、8分だと、それだけになってしまうってことに、智六は抵抗を感じなかったのでしょうかね。その辺のセンスからして、智六らしいので、知っている者には、「住吉駕籠」を選んだだけで可笑しいのだけれど、それは、コンペには通じませんね。第一、酒の噺をすること自体、コンペでは、よほど自信がないとやっちゃいけないこと。あっさりと上手下手がバレますからね。治門の「初天神」は、虎ちゃんが、父親と出かけてからを口演しました。いきなり、入口で、虎ちゃんに、小まっしゃくれた言葉を履かさせ、キャラを印象付けさせる技に感嘆。そうなれば、あとの7分は、通常の型で大丈夫、万全との読みにも拍手。黄紺的には、あとの顔ぶれを考えて、もう決まったと思ったのですが、、、。三幸は、黄紺的には穴候補。新作で、オリジナリティ溢れる感性を持つ噺家さんと期待してから、早くも10年ほどが経ちましたが、なかなか爆発してくれない三幸ですが、今日は、黄紺の目からも不発。これも、ネタからのおいしいとこ取りをしたのでしょうが、噺にならない言葉遊び的なものに終始してしまいましたね。呂竹の「米揚げいかき」、堂島まで行けるのかと、途中で心配になったほど、ゆっくりと進行。案の定、堂島まで行けたのですが、そこから慌ててしまいました。ラストで、これやらかすと、審査には不利ですね。染八なんかの準備の仕方なんかと、明らかなる差が見えてしまいました。トリというラッキーな出番を射止めた笑丸は、自身で復活したという「居候講釈」ですが、他の噺家さんでは聴いたことはないことは確かなのですが、内容的には、単に放蕩の挙げ句、居候をしている男が仕事ということで、講釈師となったのはいいが、その講釈は、全くの出鱈目というもので、「狼講釈」を彷彿とさせるものですが、その聴かせどころとなる講釈が頼りない。導入部は「くっしゃみ講釈」のパクりだから、講釈らしいのだけれど、それが過ぎると、講釈になってない。ここが、笑丸の創作になるのでしょうが、笑丸自身が講釈を解ってないんじゃないかな。 文にならない、ましてや文語調にできないではダメですね。と思って聴いていた黄紺には、笑丸が、喬介と並んで1位にはびっくりというよりか、どん引き。このコンペに毎回来ることにしなかったことの賢明さを確認した次第。なお、2位(1位が2人のため3位扱い)には染八が入りました。黄紺的には、上位3名までに入っても許せるのは、喬介、二葉、染八、治門、三幸、呂竹までです。そして、黄紺的上位3名は、喬介、治門、二葉です。





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